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ゲームプログラミング/バランス調整
0
27004
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2022-08-02T20:11:13Z
Honooo
14373
/* ゲームをプレイしていることで、プレイヤーは何を知って、何を身につけているか? */ コラム一本追加、6/9。
wikitext
text/x-wiki
{{substub}}
現在の版の著者達は、ゲーム戦闘の調整の経験はないので、現状では本ページの内容は調べ物としては役立ちません。経験があり、かつ人間性も良好な人の協力をお待ちしています。
==本ページの目的==
本科目『ゲームプログラミング』は、科目名に「プログラミング」とあるとおり、ゲームクリエイターのための教材ではなくプログラマーのための教材です。
従って、話題がプログラミング的な技術的な話題に片寄っています。一般のゲームクリエイターを目指す人には、本書のバランス調整の記述は到底、役立ちません。
プログラマーが、とりあえず何か趣味でゲームを作る際、バランス調整についての調べ物の手間を少なくするためだけの目的の教科書です。
……と、前編集者Suj. は書いたんだけど、その割にはこの人物の私欲を満たすためだけの駄文が結構くどくど書かれてる気がするんだけど…
気のせいか?まあまだちゃんと読んでないしね、熱でもあるのカナ? コロナか^^?
==バランス調整==
ゲームには難易度というものがあるが、そのゲームの面白さのため、あるいは商品としての購買力アップのため、調整し、最適値を見出す必要があるだろう。敵の強さや主人公の強さ、それらを調整し、最適値を見出すための調査、テストプレイなどが必要だ。
より普遍的に、バグ修正、操作性の改善、仕様実装の更新、そして今書いたバランス調整、ゲームを面白く、評価を高めるための様々な改善を、一般にチューニングと呼んでいる。
英語では、難易度の調整のことを「レベルデザイン」と言う。このレベルとは、高低差の意味で、欧米での昔の3Dゲームにおける、マップの高低差を意図しているらしい。このレベルを調整するツールをレベルエディタというが、このマップの高低差の調整で難易度が変わるので、しだいにレベルデザインが難易度の調整の意味になっていったという<ref>川上大典ほか著『ゲームプランとデザインの教科書』、秀和システム、2018年11月1日第1版第1刷、P.57</ref>。
難易度デザイン、という言葉も使われている<ref>川上大典 ほか著『ゲームプランとデザインの教科書』、秀和システム、2018年11月1日 第1版 第1刷、P.58</ref>。
そして、難易度の調整にはマップの処理もあるので、3Dゲームのレベルデザイン担当者は、MAYAなどの3Dグラフィックツールの技能を持っているスタッフが多いという<ref>吉冨賢介『ゲームプランナー入門』、P234</ref>。
===詰み、を避けたい===
製品として販売するゲーム、そしてそうでなくとも、プレイヤーがセーブした時点でクリア不能な状況、仕様になっている、つまり、プログラムの流れとして事実上そうなっている、これを「詰み」、と呼んでいますが、それは避ける必要がある。
これはプログラムの構造の問題ですが、ゲームは進行の仕様自体かなりの複雑さを持っていますから、制作者が気付かないうちにプレイヤーがそこに追い込まれる可能性があり、これは娯楽であるゲームとしては避けたい事態です<ref name="twogc78">蛭田健司『ゲームクリエイターの仕事 イマドキのゲーム制作現場を大解剖』、翔泳社、2016年4月14日初版第1刷発行、P78</ref>。
まず、ゲーム全体のバランスとして、平均的なプレイヤーなら、妥当な労力でクリアできる調整も必要でしょう。
ゲームプレイで詰みに追い込まれるのは、プログラムの構造の悪さでもありますが、それを見つけ出すためには、具体的にテストプレイにおいて、少なくとも誰か一人のテストプレイヤーが、そのゲーム内で想定できるクリア困難な状況から、実際に挽回してクリアしたという、事実、実績が必要です。
つまりコンピュータープログラムで常にセキュリティの問題が発生するのと同様に、ゲームプログラムでは構造が複雑になりすぎて、詰みがプログラマーの想定を超えて発生する可能性があるので、実際のプレイで、実際のプレイヤーの現実の巻き返しで確認して調整したい、という事ですね<ref name="twogc78" />。
そして一方難易度調整として、平均的プレイヤーが平均的な労力でクリアできるようにしておきたい。
ちなみに現編集者の昔のゲームプレイ経験ですが、初代ファミコン版のファイナルファンタジーですね、番号は幾つだったか……市販の攻略本を読みながらプレイしていたのですが、あるところまでいった時点で、攻略本を読んでも、どう考えても先に進めない状況に陥り、まあ私のプレイヤーとしての技量にも問題あったのかもしれませんが、結局にっちもさっちもいかなくなって、プレイを放棄してクリアしないまま積みゲーになってしまったことがあります。もちろんそれでそのゲームの仕様が悪かったと主張するつもりはありませんが、プレイヤーの私としてはその時点で完全に詰んでしまったわけです。
===実はゲームプレイヤーだけではなく、あらゆる人間が面倒くさい、俺も、あんたもね^^===
……しかしあんまり面倒くさがると、結局最後には偉い人に怒られてしまうのがこの社会の常です^^;;;。
一般にゲームプレイヤーがプレイ中に面倒くさがることは、覚えること、計算すること、配ること、だと言われています<ref>『ゲームプランとデザインの教科書』,P342</ref>。
ゲーム中に、Wolfram|Alpha が使えるような仕様にすると、案外よかったりしてね^^
===ゲーム制作者はいろいろ考えて作っているだろうけど、プレイヤーだってそれに負けずに考えてプレイしている===
プレーヤーも制作者も、時代の流れとともに、色々な変遷はありますよね。
時々指摘されるようですが、昔よりの最近の方が、ゲームの難しさに関する感受性が大きくて、割と簡単にこのゲームは難しいと指摘されることが多い、と、言われている。
たとえば携帯ゲームにおいて、平均的なゲームプレイヤーがクリアまでに5回ゲームオーバーになるように調整されたゲームは、今では「難しい」ゲームと判断される<ref>『ゲームプランナーの新しい教科書』、P210</ref>。つまり昔のプレイヤーの方が我慢強かったってこと??
一方平均的なプレイヤーならゲームオーバーにならない難易度のゲームは、やさしいゲームと呼ばれることが多い。
だからもはやゲームの難しい易しいという言葉さえ、相対的で、結構人によって判断が違う。
2011~2013年頃のテレビ番組で、ゲーム業界を取材した番組、夜中の番組で、こういうものがあったという。
「昔の子供は、難しいゲームをプレイしたとき、「このゲームは難しい」と答えていたが、今の子供は「このゲームはつまらない」 と答える」
しかし実はテレビというのはこの社会で一番いい加減なメディアで、常に制作者に都合のいい印象操作、不当なイメージ操作が行われている。
つまり昔の子供より今の子供の方が愚かだというイメージを作りたいだけで、インチキな企業のためのいんちきな広告としての意味以外何も持たないだろう。
===商業だろうとそうでなかろうとゲーム制作はプレイヤーの事を考える、難易度はどうする?===
『ナナのリテラシー』という漫画、作者はゲーム好きで、ゲーム雑誌でも描いていたことがあるようです。ビジネス系しかもノウハウ系かな?2巻がゲーム会社回。
ゲーム会社の隅の老人経営者曰く(この漫画内の話ですよ)、「誰もが飛び越せる絶妙な難易度の壁をクリアさせる」、これがゲーム作りのコツじゃ^^!!!
この漫画、前編集者が書くにはかなり、そこそこ取材されているという。
「PS」(プレステ)のロードは、「1回のロードで2WMが限界。どんなマップも2メガに入れなくちゃいけない。会話も音楽も全部ね。」なんて描写があるらしい。
この老人の主張は作品自体の主張でも作者の主張でもないというが、しかし前編集者は重要な事だと考えているようだ。
しかし誰もが飛び越せる絶妙な壁をクリアさせて、消費者に快楽を与えて、ガッポガッポも儲けるにしても、人間には個性があり、性格や性質にもばらつきがある。
全ての人に等しく、偉そうに試練を与えて、それを乗り越えたから気持ちいい、と自己満足に等しく浸らせることは難しい。
だから、インチキにガッポがっぽ儲けるためには(←しつこい^^;;;)、ターゲット層をある程度はしぼりこむ必要がある<ref>『ゲームプランとデザインの教科書』、P.97 </ref>。
「遊んだプレイヤー全員が満足するものを、目指さない」との記述がある書籍もある<ref>塩川洋介『ゲームデザイン プロフェッショナル』、技術評論社、2020年10月3日 第1刷発行、P.173</ref>。ただこれはテストプレイヤーの意見を重視しすぎて振り回されないように、という意図がある記述だという。
ターゲット層を絞りこむには、実在の人物をイメージするのが良いと言う。「20代社会人男性が」、ではなく、自分の知人・友人・家族、あの人を面白がらせたい!!、と、いうのがいいようだ<ref>『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P205</ref>。
{{コラム|カラケオは気持ちよく歌いたい^^|
80年代~90年代にカラオケが流行した。と、いっても今でも、盛んだけどね。俺も好き^^
カラオケの難易度は、利用者が楽しめるように易しめに作られているようですね。というか前の項目で書いた、絶妙な難易度らしいよ。そこそこ難しく、それを乗り越えると俺は偉いと自己満足にふけれるらしい。岡田斗司夫が90年代後半にその指摘をしていたというが、しかし本当に前編集者は岡田斗司夫が好きなのね^^;;;。
小室哲哉の曲が典型的にそれだという人もいるらしい。そういえば、NHKアニメーション「だぁ!だぁ!だぁ!」のエンディングは凄く良かったな^^。いや、もちろんこれは只の雑談ですが^^;;;。
エヴァンゲリオンの残酷な天使のテーゼは、監督やスポンサーのレコード会社プロデューサーが、子供でも歌いやすいように作曲してくれと作曲家に依頼している。
確かに凝った楽曲の割に、カラオケで歌いやすい^^
}}
{{コラム|作者の意図通りに視聴者が受け取るとは限らない。作者の意図とは全く別に受け手は作品を楽しむ。それが嫌ならそもそも創作するなよ。|
商業作品であるなら、最終的には売上によって作品の是非が決まる、なんて前編集者は書いてるけど、インチキ書くなよ、あくまでも金は商売としての是非、作品としての価値、意義は別の話だよ。
しかしこいつほんとにアフリマンなのね。金と物質以外何も見えないのか。
ゲームの話題としては、味の善し悪しはプレイヤーが決める、という言葉があるようですね<ref>『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P.167</ref>。ターゲット層が、美味い^^!!、と、いう作品を作りたい。
ジブリアニメの『となりのトトロ』は、子供たちにアニメばかり見ずに外で遊ぶように啓蒙するようなストーリーを作者・監督の宮崎駿は目指したと言われています。
ところでこれ↑前編集者の文章だけど、完全なる虚偽だよ、いいかがんにしろ。あのねー、宮崎さんという人は確かに少し偏屈な大人だから、その手の事は時々言うけど、映画を作る時は基本的に、見た人に楽しんでほしい、夢のような時間を過ごしてほしい、そしてこの社会に生まれてよかったと、子供も大人も思ってほしい、そういう思いで、常にそれが第一テーマで漫画映画を作ってるの。
すじ肉先輩さー、あんた俺や他の編集者を何度も知ったかぶりって書いたけど、結局あんたが人類史上、唯一最大の知ったかぶりだね。そもそもあんた、トトロ、観てないんじゃないの?
ほんとにあんたってなにも見えてないのね。「うちの子は、よく宮崎先生のアニメを見ています。面白いアニメを作ってくださり有難うございます」なんて感想は全く問題ないだろ。宮崎氏だってありがたく受け取ってるよ。それに対してアニメばかり観ずに外で遊べ!!なんて言うのはお前とお前の同類のキチガイだけだ。
あとガンダムやエヴァンゲリオンでも似たような逸話があるとのことだが、こっちはどうでもいい。そもそもこれを作っている連中は、宮崎氏ほど切迫した気持ちで作っているわけではなく、ただ金が欲しくて自分が偉いと思いたいだけだから、作った方がどう思おうが、そいつらに金を与えて養ってる連中がどう思おうが、大したことじゃあないだろ?
}}
===チュートリアル===
ゲームをプレイするための、操作方法をプレイヤーが知って覚えるための入門的なイベントをチュートリアルというようですね。実は現編集者はあまり、特に最近はほとんどコンピューターゲームはしないので、ここの執筆をしつつもゲームについてはあまり知らない。
ただここの主要執筆者で、ゲーム大好き、プログラム大好き、アニメ大好き、自分自身も一応絵描き、そしてハイルオタキングの E.Suj. かなりひどい内容の文章を大量に書き散らすので、このサイトの参加者として嫌々多少書き直しをせざるを得ない。
そこでチュートリアル、これはふつうゲーム自体に組み込まれ、初盤がそれになりますが、これは別モードにすると良いという指摘がある<ref>『ゲームプランとデザインの教科書』、P401</ref>。
『不思議のダンジョン2 風来のシレン』が、このスタイルを採用している。
とはいえプレイヤーが必ずチュートリアルをプレイしなければ、ゲームを楽しめない構成なら、あまり大きな意味があるとも思えないが、しかしそうでない場合も多いだろう。
ゲーム構成の選択手として考えてもいいだろう。
===技能の習得としてのゲーム===
====ゲームをプレイしていることで、プレイヤーは何を知って、何を身につけているか?====
まあゲームをしていることで、プレイヤーは何らかの行為、練習を繰り返して、技能様の物を身につけていく、と、考えても、いい? まあいいか、とりあえずはそう見なしましょう。
ですからそこでプレイヤーが身に着ける技能を想定しておくと、上手にバランス調整が出来るという。
すじにく大先生が愛読している文献では、「教育的難易度」という用語を使っています<ref>吉沢秀雄『ゲームプランナー入門講座』SBクリエイティブ、2015年12月29日 初版第1刷発行、225ページ</ref>。まあゲーム関係者で教育について分かってる奴なんて、ほとんどいないだろうけど…
ここでの教育難易度とは、むしろ大先生の意図とは逆で、ある敵を攻略するのにプレイヤーがなんらかの操作が必要な時、まず1個だけのその敵の撃破用の操作技能だけをプレイヤーが修得できれば攻略できるようにしろと、つまり、プレイヤーが技能を覚えやすいように、難易度を下げろという事でしょう。
前編集者は本質的キチガイなので、とにかく世の中で自分が偉いことが何より大事なので「教育」という言葉を使いたい。一方で割と似たようなことを語る時に、学習という言葉を使っている文献もある<ref>『ゲームプランとデザインの教科書』、P.61 </ref>。要するにこの本の筆者の方が、E.Suj. よりまともな人間だという事でしょう。
ただ、プレイヤーの技能の習得という視点は、バランス調整の時に一番重要になるという。確かにゲームは技能や知恵、解決のための何らかの手段、鍛錬も必要だが、一方では間違いなく娯楽で、面白いものであるはずだ。
そしてゲームをすることで、自分の思考力が磨かれて、成長したという感慨を持つプレイヤーも多いようで<ref>https://www.teu.ac.jp/ap_page/koukai/2019_03_3endo.pdf 66ページ</ref>、全くその気持ちを否定する意図はないが、でもねー、ゲームっていうのは結局遊びなんだよ?
ゲーミフィケーションなんて言葉を使っていい気になっている連中もいるようだけど、まあその概念や運動がまったく意味を持たないとは言わないが、でもやっぱりゲームは娯楽であり遊びであり、ある程度堕落した、ある程度常識的な硬い世界からは非難される要素があるもので、あまり理屈を並べて自分たちの世界が高級なものだと主張しない方がいいんじゃあない?
{{コラム|ゲーミフィケーション|
どうもゲーム業界の連中が、自分たちの仕事を美化して、正当化したいため、ゲーミフィケーションがどうの、なんて言いだしたようだよ<ref>https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/190731a</ref>。
2019年にゲーミフィケーション学会設立。もっともこの運動や概念がまったく意味がないものだとは、現編集者も言わない。確かにゲーム的な行為を、もう少し遊びから離れて、現実の有用な出来事に結び付けようというのは、それほど間違っていないし、意義はある。
2013年ごろからすでに、企業の新人研修で、ゲームの要素を取り入れた研修などがされていたようだ。
岸本好弘(ファミスタの父、と呼ばれているらしい)の言では、「ゲームの本質っていうのは、人間が頭で想像することの素晴らしさ」<ref>https://www.fantasy.co.jp/edutainment/article/interview16</ref>ってことらしいけど、なんか軽い言葉だね。想像には意義があるが、それってほんとに頭でするもの?
40年前(※1980頃?)、
:「そのころアーケードゲームのデザインで言われていたのは、初めてそのゲームに挑戦したプレイヤーでも3分間程度は遊べるようにすること。「もう一度チャレンジしたら、先に進めそうだ!」と、プレイヤーの気持ちが動くように制作すること」
ってことだけど、そうすれば子供が100円玉いっぱい入れて、お前らが儲かるってだけだろ?
:「これって、現在IT業界で言われるUX、ユーザーエクスペリエンスですよね。ゲーム業界では理論化、言語化していなかったけれど、40年前から現代に通じることをやっていたんだなと思いました。」
何かそれらしい言葉だけ踊ってかっこつけてるようにしか聞こえん^^;;;。
:「ゲームって全部「そそのかし」なんです。ゲームをプレイしていて、Aの洞窟に行きなさいとか、Bの洞窟には行くなとは言われないですよね。プレイヤーが2つの洞窟をぱっと見たときに「こっちの洞窟に宝があるかも!」って見えるように作っているんです。これを「そそのかし」って言うんです。」
まあそれはそれでいいけど、それってそんなに大したことかね?
: (抜粋)「先生は答えを教えるのではなく、生徒が自分で「わかった!」、「僕が一人で気が付いた!」と思わせることが大切。」
思わせるっていうのがすごいし、傲慢だよな。お前は神か?
: 「ゲームをデザインするのも授業をデザインするのも同じです。楽しいと思うことやワクワクすることは脳の働きを最大限にする。だから、つらいことを我慢するのはよくない。脳が楽しいと感じることがとても大切なんです。」
お前みたいな奴って、すぐ脳がどうのって言うよな。まあ楽しいことやワクワクするのが大事なのは認めるが、人生つらいことを我慢しなければいけない時なんてしょっちゅうだよ。後ゲームと授業は別物にしろ、一緒にするな。
しかし思うんだけど、ゲーム業界の奴らって、自分たちの仕事に少しやましさがあるから、教育と結び付けて、高級なものに仕立て上げたいんじゃあないの?
まあゲーム的な教育っていうのはありだが、やはりゲームの本質は遊びで娯楽で、しかも堕落だよ。
}}
{{コラム|すじ肉しちゅ~は今日も右手を上げて、「ハイル、オタキング!!!」と言った。|
1990年代後半に、オタキング岡田斗司夫は、著書『世紀の大怪獣!!オカダ―岡田斗司夫のお蔵出し 』(おそらく)で、マリオカートを例に、市販のゲームソフトの多くは達成感を味合わせるものだと指摘した。
岡田に言わせれば、ゲーム文化以前の人生の趣味の多くは、必ずしも努力の量と、上達とが比例しない。スポーツ、絵画、しかしこれほんと?もちろん厳密に量を考えて、グダグダ気色悪い比較をすれば、そう見えることはあるけど、少なくとも人間、何かをすれば必ず、それなりに得るものがあるはずなんだけどね。
しかしファミコン以降のコンピュータ式のゲームでは努力は無駄にならず、ほぼ必ずといっていいくらい、少なくとも初心者レベルの範囲でなら、プレイして練習すれば上達するように設計されていると、岡田の著書では述べられている。
ふーん、要するにゲームプレイヤーって、ゲーム制作者が作った達成感が欲しいから、金払うってわけね。
岡田が言うには、人生はゲームみたいに甘くないし、もしかしたらゲームは現実逃避で不健全かもしれないけど、でも大人だって親だって達成感をもっと感じたいんだぜ・・・だから今日も娘といっしょにマリオカートをプレイしている、と書いてたって言うけど、そもそも現実逃避や不健全から達成感って手に入る?
なんか頭のおかしい奴はやたら達成感って言うんだけど、それってほんとに欲しい?
いや、もちろんある程度は欲しいけど、でもそんな重要な事かね? もっと人生で必要なもの、いっぱいないかね?
}}
{{コラム|ガイナックスとはオタキング岡田斗司夫が創業した、アニメーションとコンピューターゲームの制作会社である。|
ガイナックスは、コンピューターゲームも作っていたね。確か、美少女18禁ソフトもあったよね。
1991年、『プリンセスメーカー』、育成シミュレーションゲーム。確かに赤井孝美さんのグラフィックは魅力的だった。
少女を光源氏的に育成するゲームだったか、キャラクター育成ゲームのはしりだね<ref>STUDIO SHIN『ゲームプランナーの新しい教科書』、翔泳社、2018年3月10日 初版 第2刷 発行、P182</ref>。
98年にはコナミ社『ときめきメモリアル』というのが出た。ただこれは育成というよりは、美少女との恋愛疑似体験ゲームみたいな、まあ俺はやったことないから詳細は知らないけど、まあ美少女と上手に付き合えるように、男性キャラクターを育成する要素はあったのかね。
「プリンセスメーカー」→「同級生」→「ときメモ」の流れがあるって、ある評論家は言う。
良くわからないけど、岡田斗司夫はゲーム制作会社の社長でもあるんだから、前のコラムの達成感がどうののたわごとに意義を認めろって、すじ肉は書くんだけど、なんなのこいつ。
岡田斗司夫の肩書に関する議論って意味ある?
別にアニメ評論家でも、会社社長でも、なんでも勝手に名乗って威張っていればいいけど、でもやっぱり岡田斗司夫の肩書は、オタキングだよね。
}}
{{コラム|プリンセスメーカーdeathpenalty|
少女育成ゲーム・プリンセスメーカーは全滅時の損失が軽いのが、割と画期的だったようです。戦闘で全滅すると、拠点に戻されたうえ、1か月経過する。
全滅時の損失のことを和製英語でデス ペナルティといいます。英語では dead damage と云うらしい(DDと略すようです)。英語の death penalty は「死刑」の意味だって。
つまりどうやら、デスペナルティが軽くても、面白いはRPG は作れるらしい。
;デスルーラ
全滅しても拠点に戻るだけのシステムだと、拠点に戻りたい場合にわざと全滅する方法を使える。これを和製英語で「デスルーラ」と言う。ルーラとはドラクエの移動魔法ルーラのこと。
全滅したときに拠点に戻るゲームでは、拠点に戻れなくするイベントは不可能。
全滅したら拠点に戻れるからね。ただ、戦いが起こらなければどうかな?
どちらにしろこの議論、意味ある?
ただ例外的に全滅したとき拠点以外に戻る、っていう事は仕様で作れるよね。
}}
{{コラム|Roblox,Among_Us|
現編集者は現在は基本的に、コンピューターゲームはしない生活、でもほんのちょっと前、思うところあって、MicrosoftStore,Xbox 経由で、すこしゲームをしていた時期があった。
そしてMicrosoftStore はなんだかんだでゲームを売り込んでくるよね。
その時思ったんだけど、Roblox って面白そうだよねー。プレイはしていないんだけど、広告や表示を見ると、これ絶対面白いなって直感的に思う。
だからこのゲームのユーザーやプレイヤー、あるいは関係者にこのページの執筆してほしいな^^
後、Among_Us っていうのも面白そう。何か皮肉がすごく効いてそうだね。
}}
{{コラム|デスペナ関連の話題|
<!-- この話題は、後述の商学書『メイド・イン・ジャパンは負けるのか』の話題と関連するので、残す必要がある。 -->
;帰り道の通せんぼイベントと詰みのリスク
そもそも、拠点への通せんぼ系のイベント自体、クリア保証の観点からは難しい点もあります。サガのようにどこでもセーブできるゲームの場合は、帰り道の通せんぼイベントを上手に設計しないと、クリア不能につながるおそれがあります(いわゆる「詰み」(つみ))。
だから実際、ファミコン~スーファミ時代のドラクエやファイナルファンタジーやGB版サガやロマサガなどでは、このような帰り道の通せんぼイベントを見かけないか、あったとしてもスグには思い出せません。
どこでもセーブできるロマサガ1の氷結城の帰り道で通せんぼするボス敵がいますが、しかし会話選択肢などによりボス戦を回避可能ですので、詰みにはなりません。
なお、古い時代のサガ系やロマサガなどでは、基本的に、ダンジョン奥まで探検したあとの帰り道には、帰り道の短縮のためにダンジョン最深部に出口への一方通行をマップ側で用意済みというダンジョン設計もよく見られました。このダンジョン設計は、テンポ感向上の基本手法である「プレイヤーが既に理解していることを再度要求しないこと」にもつながりますので、一石二鳥です。
ただし、一方通行出口がないダンジョンがあれば、「帰り道でボス戦があるんだな」とプレイヤーに予感させてしまい、プレイヤーへのネタバレになります。だから、ドラクエがそのような一方通行出口をまず用意しないのも一理あります。
このように、ゲームのルールの設計により、実装可能なイベントやマップなどがある程度は限定されてしまいます。
}}
さて上記のデスペナルティのコラムで説明したように、ゲームのシリーズ作品は、そのシリーズを通してルールがおおむね一緒です。
このことと、「ゲームのルールによって搭載されるイベントがある程度は決まる」という事を合わせて考えると、どうなるでしょうか。
そう、シリーズ作品によって、搭載されるイベントの傾向が決まってしまうのです。
問題は、これがマンネリ化につながるおそれがあること、少なくともビジネス書ではそう見られていることです。
これは別にwikiのオリジナル意見ではなく、文脈は違いますが、商学書『メイド・イン・ジャパンは負けるのか』という2010年ごろの書籍で、
シリーズ化とマンネリ化との相互関係が語られています。
さらにその書籍によれば、基本的に家庭用ゲーム機の作品群の多くはゲーム性の根幹が90年代あたりから以降の作品は変わっておらず、変わったのはグラフィックが細かくなっただけ、というふうに見られています。
ただし、書籍は2010年ごろの出版物なので、もしかしたらスマホゲームやソシャゲの流行している2020年代の現代なら、分析結果は違うのかもしれません。
もっともゲーム会社からすれば反論もあるかもしれませんし、たとえば、
「でも消費者が、新シリーズや新ジャンルを出してもロクに買わねえじゃねえか・・・」とか
「グラフィックよりゲーム性とか口先では消費者は言うけど、でもそういうグラ軽視のゲームを消費者は買ってくれないんだよね」とか
「素人はみなそう言うんだよね。でも自分じゃ作ってくんないし少しでも試作品の手本すら見せてくんない」とか思うかもしれませんが、
とりあえず、世間にはそういう意見があります。
けっしてゲームオタクだけがそういうマンネリ化の意見を言ってるのではなく、外部の商学あたりからもそう見られています。ただし書籍の商学者の分析が正しいかどうかは知りませんが。
1980年代のような家庭用ゲーム黎明期や1995年頃のソフト容量が飛躍的に伸びたプレステ1時代ならともかく、そうそう新しくて画期的かつリアリティと説得力ありそうなルールなんて、思いつくものではありません。難しい問題です。また、マンガ産業やアニメ産業は黎明期をとっくに過ぎてしまいましたが、それでもマンガもアニメも産業は続いています。2010年台のゲーム産業だって、もしかしたらスマホゲーム黎明期、ソシャゲ黎明期なのかもしれません。2010年以降の現代のゲーム産業については、当wikiは中立性の立場上、これ以上は解説しません。
{{コラム|岡田斗司夫のアノマリー理論|
古典的な理論を言うと、アニメ評論家の岡田斗司夫が「アノマリー」(「片寄り」という意味の用語)で言ってる例ですが(『東大オタク学講座』にある理論)、ゲームのバランス調整にはそもそも、岡田の理屈によると普遍性はなく、どうしても作者の世界観が反映されます。
たとえば、『シムシティ』というアメリカ人の作った都市運営シミュレーションのゲームでは、原発が効果的な投資であるのですが、そして火力発電所よりも原子力発電所が効果的なのですが、岡田はこれを作者のアメリカ的な都市政策観の反映だとしています。
そのほか、岡田は、ドラクエシリーズに対して、「なぜ作者の堀井さんは、作中で父親と子の関係に、どの作品でも、こだわりたがるんだろう? なにかあったんじゃねえの?」的なゲスい勘繰りもしています。
作家の「個性」というのは、一般人から見れば「異常性」でもあるわけです(ただし、法律を守る程度の最低限の一般性は作家だろうが必要ですが)。個性というのは長所ではなく、欠点の裏返しでもあるわけであり、その欠点すら大人はうまく自分で活用しなければならないのでしょう。
}}
==== 本文 ====
もちろん作品によっては例外もあるでしょうが、しかし上述で紹介したような様々な視点の異なる複数のゲームクリエイターなどゲーム業界人が、「教育」や「成長」などあたかも学習的な用語を使っている事は、念頭に置くと良いかと思います。
ゲームにおける教育的な要素はもちろん擬似的なものです(ゲームに限らず一般のアニメや漫画も同様です。もし本格的に世間一般で通用する意味での「学習」をしたいなら高校~大学レベルの国語・数学・英語・理科・社会科などの参考書などを読もう)。
さて調整の話題に戻ります。
たとえば、アクションゲームの調整なら、
もし敵が飛び道具を使ってくるなら、まずプレイヤーは物陰に隠れて移動して近づくとか、あるいはプレイヤーも飛び道具で応戦するとか、そういうプレイ技法が必要でしょう。
文献『ゲームプランナー集中講座』(吉沢秀雄 著)でも、飛び道具を使ってくる敵には、ゲーム序盤では、まず物陰にかくれて敵の攻撃を避けるなどのプレイ技法をプレイヤーに習得できればよいというくらいまで、(序盤の)難易度を簡単にすべきだと、その文献『ゲームプランナー集中講座』では主張されています<ref>吉沢秀雄『ゲームプランナー入門講座』SBクリエイティブ、2015年12月29日 初版 第1刷発行、226ページ</ref>。
まず、序盤の飛び道具つかいの敵なら、プレイヤーが上述のような物陰に隠れる技法を実践できていたら、その敵を簡単に倒せるように難易度を調整します。
このため、序盤ではけっして、敵の攻撃をさけるための物陰の部分には、ゲーム作者はワナなどを仕掛けないでおき、物影には敵も配置しないようにするくらいで、良いのです<ref>吉沢秀雄『ゲームプランナー集中講座』SBクリエイティブ、2015年12月29日 初版 第1刷発行、226ページ</ref>。
たとえば、飛び道具を使ってくる敵は、そいつに攻撃を当てるまでは難しいが、しかし敵の防御力を低くしておいて、もし敵が(プレイヤーからの)攻撃を受けたら、敵はすぐに倒されてしまう・・・のような強さの敵としてパラメータ調整しておくのが良いでしょう。
つまり、プレイヤーに教えたいスキルとして、そのアクションゲームを通して、飛び道具を使ってくる敵の対処法を教えるのです。
ゲーム後半で難易度を上げる場合は、けっして敵を単にやたらと頑丈にするのではなくて、
敵の強さはそこそこでいいので、
たとえば
ステージのギミックや敵の行動などを今までの敵と複合化させたりする等の設計により、過去にプレイヤーの習得したプレイ技法の組み合わせの練習・習得をプレイヤーに要求したりとかして、プレイヤーに今まで習得した単一のプレイ技法の複合の習得を要求するようにすると、プレイヤーも成長できますし、あきづらくなるし、いいことづくめです<ref>吉沢秀雄『ゲームプランナー集中講座』SBクリエイティブ、2015年12月29日 初版 第1刷発行、228ページ</ref>。
(ただし、あまりにも膨大なプレイ技法どうしを組み合わせるような過大な技法をプレイヤーに要求しないように、(作者がプレイヤーに)要求する技法の数にも限度は必要でしょう。)
なお、余談だが、「難易度」の「高い」「低い」の意味は、
:「むずかしい」=「難易度が高い」
:「やさしい」=「難易度が低い」
である。
ゲームを難しくする目的は、プレイヤーに創意工夫を呼び起こすためです。創意工夫を呼び起こさない難しさは不要かもしれません。
書籍『ゲームプランナー入門』によれば、ボス戦などの難しいエリアの目的は、プレイヤーが自らのプレイスキルの程度を試したり、あるいはRPGなどならキャラクターユニットの成長を試すためのものです<ref>吉冨賢介『ゲームプランナー入門』、P60</ref>。また、「歯ごたえ」などの表現の意味も、こういった意味であると書籍では述べています。
;制限の必要性
制限の必要性とは、たとえば、ゲーム中での主人公が丈夫で死にづらいのは構いませんが、しかしどんなに敵の攻撃を食らっても死なずに倒れずに不死身なのは駄目です。
また、主人公の所持金が多いのは構いませんが、しかし所持金が無限大なのは駄目なのです。
また、敵の動きが少し単純なのは構いませんが、しかし、プレイヤーが油断しすぎているのにプレイヤーが負けないのは駄目です(たとえばアクションゲームで一時停止ボタン(ポーズボタン)を押さずにトイレに行ってウンコを数分してきても、ウンコから戻ってきてもキャラが負けてないのは明らかに駄目)。
このような駄目な例のゲームのままでは、プレイヤーが創意工夫をしなくなってしまいます。
このため、そのゲームでのゲームオーバー条件を、作者は早めに決めておきます。ゲームオーバーが用意されていないと、スリルが出ないのです<ref>川上大典 ほか著『ゲームプランとデザインの教科書』、秀和システム、2018年11月1日 第1版 第1刷、P.254</ref>。
あまり気が乗らないでしょうが、しかし、ゲームにはゲームオーバーや敗北の条件が必要ですし、プレイヤーには敗北を回避するように努力してもらわなければなりません。
;解法を1つに限らない
書籍『ゲームプランナー入門』(吉冨賢介 著)によると、たとえばスーパーマリオ1のステージ1-1の最初の敵のクリボーの対処でも、クリボーを踏んでやっつけるか、それともジャンプして飛び越えて次に進んでしまうか、マリオがブロックの上に乗ってクリボーが通り過ぎるのをやりすごすか、などなど幾つもの選択肢があると、例を挙げています<ref>吉冨賢介『ゲームプランナー入門』、P55</ref>。けっして、「たった一つの正解」ではないと述べています<ref>吉冨賢介『ゲームプランナー入門』、P55</ref>。
このように解法を複数用意することで、プレイヤーに創意工夫を呼び起こしやすくなります。
==== 他メディアとの違い ====
===== マンガ・アニメのバランス調整との違い =====
マンガやアニメのバランス調整というか、物語での敵の強さの見せ方と、ゲームでの敵の強さのありかたは、少し差異があります。
マンガ・アニメだと、たいてい強敵は、主人公がなんとか苦戦しながら倒せるギリギリの強さになっています。たしか1982年『鳥山明のヘタッピマンガ研究所』(1982年『鳥山明のヘタッピマンガ研究所』)の時点で、すでに、マンガやアニメや特撮(ウルトラマン)などの敵の強さは、そういうふうに設計されていることが説明されています。
しかしゲームでは普通、このようなギリギリの強敵にしてないほうが安全です。
マンガやアニメの強敵よりも、やや弱めにしておく必要があります。そうしないと、プレイヤーに創意工夫が生まれません。
具体例を考えるなら、分かりやすい例が、先ほど漫画家の鳥山明さんを例にあげましたが、その鳥山さんのドラゴンボールの原作マンガとゲーム版でのボス敵の強さの違いです。ゲーム版『激神フリーザ』だと、たとえばクリリンでもちょっと鍛えて頑張ればザーボン(ナメック星編の中ボス敵)を倒せるようになっています(原作マンガだとクリリンはザーボンを倒せない)。別に鳥山さんの作品だけでなく、ほかの多くの作家のマンガやアニメのゲーム版も、大体、同様に、原作マンガや原作アニメでは倒せなかったボス強敵がゲーム版では頑張れば倒せるようになっています。
理論的に考察するなら、マンガやアニメでは、一回の戦闘での強敵の倒しかたが一通りしかなく、いちばん読者に魅力的に見える奇想天外・破天荒な倒しかたで、敵を倒します。なのでマンガやアニメでは、ギリギリ倒せる強さのほうが良いのしょう。
しかしゲームの強敵では、多くのプレイヤーの、それぞれ異なる色々なアイデアに対応した倒し方を何通りも準備する必要があるので、ゲームでの強敵の強さは、ギリギリ倒せる状態よりも少し弱めにする必要があります。
==== 「廃人」 ====
ゲーム用語で「廃人」(はいじん)という表現があります。「廃人」とは、たとえば通信機能のあるネトゲRPGなどで、普通の社会人だとレベル上げが引きこもりプレイヤー追いつかずに(社会人が)クリアできないようなゲームにおいて、高レベルプレイヤーである引きこもりプレイヤーや無職プレイヤーなどを揶揄する意味です。
2010年以降の近年は課金ゲームなどにも「廃人」という言葉が使われます。一般の市販ゲームは高くても1万円程度ですが、それと比較して多額すぎる数十万円や数百万円の金額をゲームに課金するプレイヤーのことです。
書籍『ゲームプランとデザインの教科書』でも、この問題をサラっとですが、きちんと紹介しています。書籍中では「廃課金ユーザー」という表現を使っています<ref>『ゲームプランとデザインの教科書』、P66</ref>。書籍『ゲームデザインとぼくらの教科書』でも、廃課金ユーザーが社会問題化したことに触れられています<ref>『ゲームプランとデザインの教科書』、P66</ref>。
アニメーターだってゲームをする暇があるなら絵を描いていたからアニメーターとして通用しているわけです。アニメーターの就職前の第一趣味はゲーマーではないでしょう(イラスト制作やアニメ制作のはずです)。
=== ゲーム作家の体感の難易度はズレやすい ===
プログラミングというよりゲームデザインの話題かもしれないが、そのゲームの簡単さ・難しさといった難易のバランス調整も、コツがいろいろとある。
==== 具体的な方法 ====
結論から言うと、多くのゲームデザインの文献で、やや簡単めに調整されたバランスでゲームを作るのが安全であると主張されている。
たとえば書籍『ゲームプランナーの新しい教科書』(STUDIO SHIN 著、翔泳社)でも、作者がやや簡単だと思うくらいに作ると良くなる場合が多いという経験則が語られている<ref>STUDIO SHIN 著『ゲームプランナーの新しい教科書』、翔泳社、2018年3月10日 初版第2刷発行、54ページ</ref>。
また、書籍『ゲームプランナー集中講座』(吉沢秀雄、SBクリエイティブ)でも同様に、調整で迷って、プレイヤーにとっては易しいほうの案Aと難しいほうの案Bとがあったら、ゲーム本編には、やさしいほうの案Aを採用するのが良い、と主張しています<ref>吉沢秀雄『ゲームプランナー入門講座』SBクリエイティブ、2015年12月29日 初版 第1刷発行、235ページ</ref>。
難しいほうの案Bは、クリアに不要なサブ・ステージとか、そういうステージに流用すればいいのです<ref>吉沢秀雄『ゲームプランナー集中講座』SBクリエイティブ、2015年12月29日 初版 第1刷発行、P207および235ページ</ref>。
ちなみに、文献『ゲームプランナーの新しい教科書』によれば、RPGにおいて、クリアに不要なイベントのことを「任意イベント」と言います。一方、クリアに絶対な必要なイベントのことは「強制イベント」といいます<ref>STUDIO SHIN著『ゲームプランナーの新しい教科書』、P198</ref>。
つまり、サブ・ステージや任意イベントの難易度については、本編の強制イベントの難易度よりも少し難しくしても構わないのです。文献『ゲームプランナー集中講座』によれば、むしろ、多様なプレイヤーに対応するためにサブ・ステージや任意イベントの難易度の設計は、本編強制イベントとは難易度を変えるほうが望ましいというか、そういう設計テクニックとしてサブ・ステージや任意イベントが用意されているような側面もあるようです<ref>吉沢秀雄『ゲームプランナー集中講座』SBクリエイティブ、2015年12月29日 初版 第1刷発行、P208</ref>。
書籍『ゲームプランナー入門』(吉冨賢介 著)でも、基本的に作り手は「簡単」だと思っていても、初めてプレイするプレイヤーには難しいという現象がよくあることを述べています<ref>吉冨賢介『ゲームプランナー入門』、P56</ref>。
==== 例外 ====
例外的なプレイヤーもいます。プレイヤーの中には、たとえばRPGなら、レベル上げそのものが好きな人もいます。
また、たとえばゲーマーでない一般人でも、たとえば電卓で「+1」を押しまくって計算結果をカウントアップしていく暇つぶしをしたことある人も多いでしょう。
ですが、レベル上げが好きなRPGゲーマーでも、彼らがプレイしたがるゲームの多くは、なぜか、レベル上げがそれほど好きでない種類のゲーマーも楽しめるゲームばかりです。
ドラクエ、ファイナルファンタジー、女神転生、テイルズ、・・・などなどのシリーズは、どれも商業の人気ゲームは、レベル上げがそれほど好きでなくても、ストーリーや戦術性などでも楽しめるようになっています。
本当にレベル上げだけが好きなら、ストーリー一切無しのレベル上げだけのゲームをプレイすれば充分ですし、フリーゲームなどでそれに近いゲームはあります。しかし、商業の世界では、そういうストーリー無し、あるいは戦術性が無しのゲームの話を聞きません。
これはどういうことでしょうか。
ゲームでなくマンガ業界の例で考えて見ましょう。
たとえば、少年ジャンプの読者には、メインの読者層は若い男の子ですが、
しかし実際には成人男性の読者もいますし、それどころか女性読者もいます。
しかし少年ジャンプは、あくまでも、メインの読者層が男の子であることを貫く編集姿勢であることが、
ジャンプ漫画の裏側を描いたマンガ『バクマン』では描かれています。
バクマンによると、たとえ少女の読者がいても、その少女は、
「男の子が読んでるマンガを自分も読んでみたい」と思うような女の子なので、
だからジャンプの取るべき編集姿勢としては、あくまで男の子向けを貫かないといけない、
といった内容が説かれています。
ゲームも同様でしょう。
==== 背景事情 ====
一般的にゲーム作家の側は、自作のゲームをプレイしたときの体感の難易度(なんいど)が、(他のプレイヤーよりも)自作ゲームを「やさしめ」に感じてしまいまちである。
つまり、本当は難しいゲームなのに、作家自身は「やさしい」と錯覚しやすい傾向がある。なお、この現象を俗に(ぞくに)「作者バイアス」と日本では言う。
;歴史
まず、1990年代のゲーム雑誌『ゲーム批評』にもある歴史的事実として、下記のような事例がすでに1990年代から知られています。
すでに1990年代の時点でゲーム評論雑誌『ゲーム批評』において、新人のゲームプランナーは企画提案の際に既存ゲームを難しくアレンジした提案をしがちだという報告がありました。
雑誌『ゲーム批評』によると、たしか、たとえばもし自社がスーパーマリオのようなゲームを作ろうとしている場合、新人はよく、「マリオのこの部分が簡単すぎるから、わが社はここを難しくしましょう」という提案をしがちだということです。
たとえば、スーパーファミコン版マリオ(スーパーマリオワールド)では、地上ステージでは多くのステージで、マリオに空を飛ばせれば、敵に遭遇せずにステージのゴールまで行けるように設計されています。
それを新人は「飛んでしまうと簡単なので、つまらない」と考えがちらしく、なので「空中に敵キャラを多く配置しましょう」という感じの案を提出しがちだということです。
たとえば
「空中に狼(オオカミ)を配置するのはどうでしょう? アメリカの昔のSFドラマに『超音速攻撃ヘリ エアーウルフ』という作品もありますので、パロディにもなって大人にもウケます」みたいな提案を出したりしがち、らしいです。(このほか、ゴルフゲームでウルフを空飛ばせる駄洒落(ゴルフでウルフ)アイデアなどの披露もあるとかゲーム批評では書かれていた気がするが(というか元々ゴルフゲームの提案で、上司役からのダメだしの根拠にマリオを例にする批評記事だったかもしれないが、本wiki本ページの文脈にあまり関係ないので、ゴルフの話は割愛させてもらう。)
ですが、マリオの地上ステージの空中に敵が少ないのは、ゲームが苦手なプレイヤーのための救済措置だったり、あるいは既に途中まで攻略したけどミスでステージ冒頭に戻されたあとの再チャレンジなどで興味ない体験済みステージ前半を無視するための工夫だったりするので、よって空中の安全性は必要な要素でしょう。
しかし、エアーウルフ的な提案では、そういう分析が抜け落ちています。
ともかく、このように、バランス調整では「予備知識が無いと、多くのゲーム製作者は、ゲームを難しく設計しがち」だというゲーム業界の経験則がもう1990年代からあります。私たちは、歴史にも学びましょう。
:※ ある編集者Aがなんとなく印象でゲームデザイン本などに「ゲーム作家はあまりネットの批評を参考にしない。ゲームを作った事のない人の批評なので、トンチンカンな批評も多いからだ」といったような情報があったような気がしたのですが、
:しかしあらためて書籍を確認してみると、少なくとも『ゲーム作りの発想法と企画書の作り方』や『ゲームプランとデザインの教科書』や『レベルデザイン指南書』では、そのような記述は確認されませんでした。
:下記のコラムは、その情報も背景にしています。
:どうやら、もしそういう記述の文献があっても、必ずしも商業ゲーム業界の多数意見とは限らないようです。
:あるいはその情報は、もしかしたら書籍による情報ではなく、ゲーム雑誌などのwebサイトの意見だったかもしれません(※ 読者に出典などをご存知の方がいたら、情報提供の編集をしていただけると、さいわいです)。よくゲーム雑誌の会社がwebサイトなどに商業ゲーム作家へのインタビュー文など掲載しています。
:一応、『ゲームデザイン プロフェッショナル』では、書籍後半のセクションの題名で大きく「一次情報以外、個性には役立たない」と銘打って、
:「インターネットやSNS」などについて、「そうした情報は知識として役に立つことはありますが、ゲームデザイナーが個性を発揮するうえではあまり役に立ちません」と説明している<ref>『ゲームデザイン プロフェショナル』、P314</ref>。
{{コラム|マリオメーカーのクリアチェック、ほか|
マリオついでに話すと、『マリオメーカー』という任天堂のつくった、マリオのゲームの素材を使って、
マリオメーカー購入者でも自分でマリオ風アクションゲームを作れるというゲームがあります。
このマリオメーカーというゲームでは、自作したゲームを任天堂のwebサイトに投稿・公開する際、クリアしてからでないと、投稿・保存できない仕組みになっています。
実は、マリオメーカーが発売される前、インターネット上には「改造マリオ」といって、マリオのROMを違法改造して、自作ステージをつくって無料公開などをする人たちがいました。
改造マリオはそもそも著作権侵害であり違法なのですが、その他にも問題点として、作成されたステージがやたらと難しすぎてクリア困難なステージばかりで溢れていた、という問題もありました。
しかしインターネット上では、そのようなクリア困難なゲームが、ネットのマニア達にはウケており、動画サイトなどではそのような超絶な高難度ステージが話題だったのです。
社会科学の格言で、「犬が人をかんでもニュースにならないが、人が犬をかむとニュースになる」という有名な格言があります。つまり、実際には統計的には少ない事例のほうがニュースとして話題になりやすいという、社会の法則があります。
また、アンケート調査などの心理学的ノウハウとして、「あなたは○○を買いますか?」と「あなたは○○を好きですか?」と聞いたときでは、
アンケート結果の傾向がかなり異なり、多くの人が、「○○を好きですか?」と質問されても決して実際に好きなものを答えるのではなく、
世間から賞賛されそうな趣味趣向の場合にだけ回答で「はい、好きです」と答えるようであるという、分析結果があります。
まさに改造マリオと本来の合法マリオの関係がそれです。
マリオメーカーでクリアチェックが必須なのは、せめて作者自身がクリアできるゲームをつくれ、常識的なプレイ時間で上達してクリアできるゲームをつくれ、というような任天堂の思いが伝わってきます。
おそらく任天堂の社内でも開発ゲームでは、各ステージのクリアチェックなどが行われているのでしょう。
}}
{{コラム|ネット民の感性は信用できるか?|
インターネット上には無料コンテンツがあふれておりますが、そのような無料コンテンツを楽しむ人たちのセンスは、一般の消費者のセンスとは異なりますし、もし仮に有料だとしても自分がカネを払うつもりもないものを平気で「面白い」と言える人たちも多く居ます。
それでも実際にプレイをした上での感想を言うならまだしも、しかしプレイヤーの人数よりも世界には無料動画の視聴だけをして感想を言うだけの人たちのほうが多いのです。
しかしそれすらも動画サイトでゲーム画面を長時間見ているので、まだしもマシなほうで、もっと酷いのになると、匿名掲示板で誰が言ったかも分からない批評や評論を真に受けて、あたかも実際にプレイしたかのように表面を装う人たちすらも多くいます。
マンガ業界も同じ問題に気づいてるようです。マンガ『ラーメン発見伝』(小学館ビッグコミックスペリオール )では、作中のライバル役のラーメン屋経営者(いわゆる「ラーメンハゲ」)が、ネットの情報をもとにラーメンの実際の食べたときの味を無視してラーメン評論をする自称ラーメンマニアに陰口で悪態をついています。これにリアリティを感じるマンガ出版社があるわけですから、つまりマンガ出版社の目からも、世間一般の人って多くがそういうネットの風評に左右される人達だよねと見られているわけです。
本wikiもネットの情報の一部なので、鵜呑みにしないでください。お金は掛かりますが、参考文献などとして記載されているゲーム関連に役立ちそうな書籍を、読者は実際に何冊か買って、書籍の実物を読むなどしてください。あるいは実際にゲーム制作やプログラミングをするなどして、確かめてください、
文献『ゲームデザイン プロフェッショナル』では、著者の塩川氏が言うには、口コミやレビュー、プレイ動画によって「知った気になる」ことを有害であると戒めています<ref>『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P.282</ref>。
だからゲーム作品を調査するなら、実際にクリアするまでプレイするか、あるいは十分なプレイ時間を投じてプレイしてみなければ、ゲームデザイナーにはあまり役立たないと、塩川氏は忠告しています。
たとえ短時間のプレイでは楽しく感じても、長時間のプレイや繰り返しの演出をされた場合には楽しくないような場合もあるので、だから長時間のプレイをして確認してみる必要があるとのことです。(以上、『ゲームデザイン プロフェッショナル』を参考にした。著作権の事情のため、言い回しや文体は多少は変えてある。)
ただ、これは一見するとゲーム作家には、「偏見なく自作を最後までプレイをしてもらえそう」とか思えそうですが、しかしプロの作家は暇人ではないので、同人ゲームまで含めて何でもかんでもプレイすることはできません。
塩川氏は、著作の別のページでは。若者に進めるゲームプレイとして、とりあえずゲーム業界志望なら、まずは人気作や、過去の人気作、自分が作っているゲームのジャンルに近いものを選ぶのが良いと言ってます<ref>『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P280</ref>。
これは裏を返すと、もし人気作や商業的な成功作でなければ、そもそもプレイすらしてもらえない、ということを意味します。塩川氏本人はそう言ってなくても、現実世界の時間は有限であるので、作品1つあたりのプレイ時間を延ばすことはつまり、1多くのプレイしてもらえない作品が生まれます。
つまり、塩川氏のプレイスタイルは、前提として、あるゲームについてプレイを開始するまでの条件が、めちゃくちゃ厳しいわけです。
イラスト業界でも類似の指南の事例があり、「アニメ私塾」といわれる有名イラストレーターは、YouTube動画などでプロのアニメ作品の模写の練習を進めていますが、しかし、おおむね発言内容「アニメ線画の模写ですら時間が何十分も掛かるので、練習に入る前にまず、その構図やデザインなどが自分にとって模写をする価値があるものかどうかを判定して、もし価値あると判定できた場合だけを模写しろ」と、判定にけっこう頭を使いなさい、と指南しています。
しかも「アニメ私塾」氏は、1枚の模写をどの程度まで模写すればいいかという質問に対しては「(模写先の手本に)似るまで模写しろ」とまで言っています。まるで、その1枚の手本を、模写のゲームクリアをするまで模写し続けるわけです。
さて、色々とゲームファンの問題点をいくつか前の段落で言いましたが、それでもゲームはアニメや漫画と比べるとまだしもマシであり、なぜならゲームではプレイヤーと、プレイしてない人たちの区別がしやすいからです。
これがアニメや漫画になると、もはや違法サイトで違法配布されたマンガを読んでるだけの人なのか、
実際に購入してプレイした人なのかの区別が困難になります。
実際、中国や韓国などでは、違法の無料配布されてしまったマンガがネットに溢れてしまった時期があり、
そのような事情もあり金融業界などはマンガ産業への投資を渋り、代わりに課金をしやすいオンラインゲームに投資をしたという経緯があります。
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文献『ゲームプランとデザインの教科書』によると、アナログゲーム(カードゲームやボードゲームなど)の設計の例ですが、ネット上の意見ではなく実際の目の前のテストプレイヤーの意見であっても、気を使ったりして本音を言わないことも多いので、意見や感想よりも実際のプレイを観察して、「プレイヤーがルールを勘違いしてないか?」など色々と観察するのが良いといわれています<ref>『ゲームプランとデザインの教科書』、P338</ref>。
{{コラム|イナズマイレブンの人気投票呼びかけ事件|
イナズマイレブンという、男子小中学生くらいの子供をターゲットにした、サッカーのゲームおよびそのアニメ化作品があります。実際、ゲームなどでも平仮名を多用しているし、アニメなどでも振り仮名が多いですので、常識的に小学生くらいの子供がターゲットでしょう。
さて、このイナヅマイレブンの公式サイトが、ネット上での登場キャラクターの人気投票を行いました。
作品中で、「五条」(ごじょう)というマイナーな中学生キャラで、おっさんぽい顔のメガネで目が隠れて何を考えて分からない不気味な雰囲気の悪役っぽいキャラがいるのですが、ある有名な匿名掲示板のスレッドで、このキャラクターへの組織票の投票を呼びかけました。
その掲示板は、どう考えても子供が見ないような掲示板なのですが、しかし投票の結果、五条が一位になりました。
もし「ターゲット層の小学生の子供達が実は五条が一番好きだった」という理由ならそれでも構わないのですが、しかし投票の前後で「五条が子供に一番人気」という現象は特に観測されませんでした。「五条も子供に人気」という現象はあるかもしれません。ですが、「五条が子供に人気」という現象は結局は起きていないでしょう。
ネットの投票では、このような不合理な亊がたびたび起きます。
まず、年齢制限などをすることが不可能な場合が多いです。
また、本来なら「一人一票」などとしたくても、技術的な理由で不可能な場合もあります。
例えば、一人一票のために例えばツイッターなど外部サイトのアカウントを要求しようにも、しかし子供だとネット上のアカウント持つこと自体が不可能な場合もあります。たとえばツイッターの場合、年齢制限として13歳以下は利用不可能ですので、結果的に、小学生むけのアニメの人気投票をツイッターからの投票を呼びかけようとしても、技術的に不可能です。
アイドルグループのAKBなどでは、発売するCDに投票券などをつけることで、本当にカネを出して商品を購入したターゲット層だけが投票できるように工夫する場合もあります。ただし、AKB方式はこれで別の問題があり、一人の熱心なマニアが何票も投票したくて一人で何枚も同じ曲のCDを買うなどする、一般人とはかけ離れた購入行動をする事例があります。
また、アカウントなどを要求しない投票の場合、一日ごとに追加投票できてしまう場合があります。だから暇な人ほど、多くの投票をしてしまいます。
;「美人投票」
経済学で、「ケインズの美人投票」という理論があります。これは、金融における株の購入行動では、人々は自分が良いと思っている株を買うのではなく、世間が「この株は上がるだろう」と思っているだろうと予想した株を買うというものです。
ですが、この五条の投票の場合はもはや美人投票ですらありません。ネットのある集団が、自分たちのコミュニティをアピールするために、意図的に、子供からは美男子・美形・好印象だと思われないであろうと予想したキャラに投票しているわけです。まるで逆美人投票です。
;ノイジー・マイノリティ
世の中には、「口数は多い割には、人数は少ない」という集団があるのです。そのような集団を称して ノイジー・マイノリティ と言い、「うるさい少数派」という意味です。
しかし、うるさいだけの人に限って、企業などからは嫌われるので仕事がなかったりして、ネット上では口数が多いのです。
よく仕事や学生でも学校や家の軽作業などで、「口ばっかり動かしてないで、手を動かせ」などと年上から注意される事があると思いますが、まるでその逆の集団です。手を動かさない人は、口数でしかアピールできないのです。投票とは、そういう人にすら投票権を与えるという意味でもあります。
アニメやマンガなどの投票に関わらず、現実の政治の国会議員などへの投票でも、ある政治家へのネット掲示板などでの賛同は多いが、しかし実際に選挙をしてみると支持票がそれほど多くないという事例もよくあります。
また、暴力団などでは「総会屋」と言って、企業の株を少数でいいので購入し、株主総会での意見をよそおって、難癖をつけるぞとおどすことで、金品を要求するという手口も平成初期までは、よくありました(現在は規制されており、総会屋しづらくなっています)。一株など少数の株でも発言できてしまうので、こういう悪事が出来てしまったのです。
}}
文献『レベルデザイン徹底指南書』では、現実世界で自分が新しいスキルを1つ覚えたら、古いスキル1つはどれか封印する必要があることを説いています。たとえば会社で自らの希望によってグラフィッカーからプランナーに役職が変わったら、グラフィッカー時代のスキルは封印する必要があります<ref>大久保磨『レベルデザイン徹底指南書』、2016年12月14日 初版 第1刷発行、P81</ref>。(参考文献では「デザイナー」と言ってますが、デザイナーは多義語でありイラストレーターの他にも開発リーダーなどの事を言う場合もあるので、本セクションでは「グラフィッカー」に言い換えた。)プランナーがグラフィッカーの仕事まで掛け持ちしたら、過労死してしまいます。
現実世界の仕事では時間が限られているので、そういうスキル封印が必要なのです。
{{コラム|一人で何でもできるか?|
「と学会」の人が2010年ごろにニコニコ生放送の番組に出演したときに言ってたのですが、どこかのマンガ出版社に対して、「と学会」のその人はマンガ原作者にネタ提供したことあるとの事です。
大衆は、漫画家を一人で何でもできる万能の人だと錯覚したいので、そういう大衆を喜ばせるために、アドバイザーが隠れて、漫画家の知らないネタでしかも読者にウケそうなネタのアイデアを提供をするのです。マンガ作品のクレジットには書かれませんが、そういうビジネスがあります。
もっとも、業界によってはアドバイザーがクレジットに記載される場合もあります。たとえばテレビドラマやアニメなどだと、「考証」や「監修」などで、関連するジャンルの専門家がアドバイスすることもあります。たとえばNHKの歴史大河ドラマなら、東大あたりの大学教授で歴史学教授といったプロの歴史学者が、監修についている場合もあります。
アニメではそこまで行かなくても、ミリタリー物のアニメなどで、実際に銃器を仕事であつかった経験のある人が監修をついていたり、軍事雑誌の記者などが監修についたりとか、そういうこともあります。
}}
{{コラム|可処分時間|
21世紀のビジネス用語で「可処分時間」という概念があります。
もともと「可処分所得」という経理などの用語があり、
「可処分所得」とは労働者が給料のうち、税金や社会保険料など支払いが義務付けられているものを差し引いた、
残りの(法的には)自由に使えるぶんの金額です。
実際には、水道光熱費といった公共料金など自由といえるかどうか分かりませんが、この議論では本質的ではないので深入りしないでおきます。
さて、可処分時間とは、可処分所得になぞらえて、可処分時間とは、おおむね、「1日のうちの自分の起きている時間のうち、労働時間などを差し引いた、残りの自由に使える時間」という意味です。
可処分所得に限りがあるように、可処分時間にも限りがあります。だから、商売の競争とは、消費者の可処分所得の奪い合いであると同時に、消費者の可処分時間の奪い合いでもあるのです。
1つの他人の作品に投じる可処分時間を増やしたら、当然ですが、他の作品への可処分時間の投入量が減ります。
こういう厳然たる事実があります。「可処分時間」という用語までクリエイターが覚える必要はないでしょうが、しかし消費者の時間に限りがあるという事実からは決して逃げることができないのです。しかもよく評論で「エンタメ界隈は、可処分時間の奪い合いの産業である」とも言われます。
クリエイターだって時間に限りがあります。たとえば、休日にもし自主制作の作品をつくっていたら、当然ですが、他人の作品を鑑賞する時間は減ります。
}}
=== クリア保証と戦術性のジレンマ ===
==== クリア保証 ====
ドラクエのレベル成長のシステムは画期的であり、どう画期的かを一言でいうと「クリア保証」である<ref>[https://news.denfaminicogamer.jp/column05/170905b 『「レベルを上げて物理で殴る」の素晴らしさをゲームデザイナー視点で語ろう。ドラクエで学ぶ「RPGメカニクス」の3大メリット【ゲームの話を言語化したい:第四回】』2017年9月5日 16:30 ] 2020年12月21日に閲覧して確認.</ref>。どういう事かというと、参考文献のリンク先の記事にも書いてあるが、ファミコン以前の1980年代のアーケードゲームではプレイヤーが上手い操作を学習しないとクリアできなかったが、しかしファミコン以降の家庭用RPGでは、プレイヤーの興味ないことは学習しないでも、代わりにレベル上げなどに多少の時間を掛ければゲームクリアできるようになったのである。
たとえば、プレイヤーが攻略法のわからないダンジョンでも、最悪の場合でも経験値かせぎに多少の時間を掛ければ、そのダンジョンのボスを倒せるなどして、かならず最後にはゲームクリアが出来る、というような事でもある。
その他の例では、たとえばゲーム終盤になってから未探検だった序盤の一部ダンジョンを冒険する際、プレイヤーには既にもっと難しいダンジョンを冒険してるのでその未探検ダンジョンから学習できることは少ないが、プレイヤーキャラのレベルが高いために未探検の序盤ダンジョンの敵はプレイヤーにはすでに弱くなっているので、その残っていた未探検ダンジョンにあまり苦労せずに時間を掛けなくてもダンジョンクリアできるように、難易度が上手い感じに自動調節<ref>[https://news.denfaminicogamer.jp/column05/170905b 『「レベルを上げて物理で殴る」の素晴らしさをゲームデザイナー視点で語ろう。ドラクエで学ぶ「RPGメカニクス」の3大メリット【ゲームの話を言語化したい:第四回】』2017年9月5日 16:30 ] 2020年12月21日に閲覧して確認.</ref>されるなど、RPGのレベルシステムおよび類似システムにはそういった側面もある。
要するに、
:* クリア保証、
:* 難易度の自動調整機能、
の2つが、ドラクエ的なレベルシステムの面白さの本質的・醍醐味であるとのことである。
リンク先の人の意見ではないが、このクリア保証のないデザインのRPGは(RPGでも古いゲームやフリーゲームなどで時々みかける)、表面的にはドラクエ的なインターフェースやステータス画面であっても、中身は似て非なるものであろう。
ファミコン時代の古いゲームなどのバランス調整の失敗(作者にとっては意図的かもしれないが)でよくある失敗として、レベルの上昇の上限を低いところに設定しすぎて、クリア困難になる事例があった(ドラクエ2がそれに近い)。なので、現代への教訓としては、そもそもレベル制限は十分にとるのが安全であろう。
RPGに限らず一般に、ゲームの後半に行くに従って、次ステージ攻略などのための事前準備の増加や、試行錯誤の時間の増加に時間のかかるようになっていく事が多い。そして、ステージクリアに必要な時間の増加が、ゲームを苦手とするプレイヤーに、そのゲームのクリアを諦めさせて挫折感を味あわせてしまう原因になる場合が、少なからずある<ref>[http://endohlab.org/paper/whydoplayersdrop.pdf 遠藤雅伸『ひとはなぜゲームを途中でやめるのか?-ゲームデザイン由来の理由-』6.まとめ] 2020年12月21日に閲覧して確認. </ref>。
=== 自由度 ===
文献『ゲームクリエイターの仕事』(翔泳社)によると、一本道のゲームではなく攻略ルートが複数あって自由度があるゲームの場合、それら複数のルートも考慮する必要があります。ゲームの自由度が多くなれば、その「場合の数」に応じて、調整の際に考慮する事項も増えます<ref>『ゲームクリエイターの仕事 イマドキのゲーム制作現場を大解剖!』、P78</ref>。
=== 勉強の方法論 ===
※ バランス調整に限った話題ではないが、他に適した単元が見つからないし、メインページに書くほどでもないので、間借り(まがり)的にバランス調整のページで書くことにする。
==== 共通言語 ====
ゲーム業界人たちは商売人なので、いろんなゲームをプレイするように推奨します。しかし現実には、それは費用的にも時間的にも不可能です。
商業ゲーム会社でゲームデザイナーになりたいのなら、人気作のゲーム知識は必要です。手本とするためという理由の他にも、スタッフなどに開発コンセプトなどを説明するためにも過去作のゲーム知識が必要になります」(いわゆる「共通言語」)<ref>『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P278</ref>。
とりあえずゲーム業界志望なら、まずは人気作や、過去の人気作、自分が作っているゲームのジャンルに近いものを選ぶのが良いといわれています<ref>『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P280</ref>。
==== 前後比較 ====
ゲーム制作において、人気作や人気シリーズを、手本の中心にすえる必要があるが、しかし、けっして人気ゲームだけをマネしようとしてはいけない。名作が名作である意義を確認するためには、同時代の他社の作品や、それ以前の過去の作家の作品に、どういう欠点があったを把握する必要がある。そうした前後関係の比較により、理解が深まる<ref>[https://news.denfaminicogamer.jp/interview/200615a/3 吉田寛・松永伸司『“ゲームらしさ”をもっと深く語りたい!そんなあなたのためのゲームスタディーズ入門』、電ファミニコゲーマー、2020年6月15日 12:02 ] 2020年11月27日に閲覧して確認.</ref>。
なお、同様のノウハウはアニメ研究の業界でも1990年代から語られており、たとえばアニメ評論家の岡田斗司夫や氷川竜介などが、絶版になってしまったが岡田らの共著『国際おたく大学―1998年 最前線からの研究報告』などの書籍の中で例を述べており<!-- 手元にその本が無いので、もしかしたら別の著作かもしれないが、岡田らの共著のどれかではある。 -->、たとえばアニメのガンダム初代がリアリティゆえに名作であることを評論したいならば、それ以前の時代のロボットアニメが如何にリアリティが欠けていたかを実際にビデオなどで視聴するなりして確認しなければならないと岡田・氷川らは述べていた。
ともかく、ゲームでも、名作ばかりプレイしていてもダメであり、つまり知名度だけでプレイするゲームを選んでいては、他のクリエイターに利用されて養分になるだけであろう。
岡田斗司夫と「と学会」の著作した『 岡田の国際おたく大学―1998年 最前線からの研究報告』では、書籍中で、ゲーム作家を経験した演劇作家の鴻上尚史(こうがみ しょうじ)の失敗例を東大生が取材したレポートを紹介しているのですが、岡田がそのレポートを評して言うには、おおむね「成功例から学ぶたがる人は多いが、しかし成功例だけから学ぶのは素人。プロは失敗例にこそ学ぶ。」というような感じのことを言っています。
工学の世界では、『失敗学』という概念が畑村洋太郎によって提唱されており、2002年の畑村の論文<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjlp1960/43/2/43_2_182/_pdf 『失敗学のすすめ』]</ref>や、2000年には畑村の著作『失敗学のすすめ』が出版されています。
(wikipedia日本語版には「2005年」に出版とあるが、間違いである。2002年の論文で、2000年の畑村の著作が参考文献とされている<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjlp1960/43/2/43_2_182/_pdf 『失敗学のすすめ』]</ref>。)
実は、2000年よりも前に、ゲーム産業限定ですが岡田が「失敗にこそ学ぶべき」といった内容のことを提唱しています。なお、畑村の論文の末尾の参考文献欄には、『 1) 畑村 洋太郎 編 著:続・続 実際の設計― 失敗に学ぶ .日刊工業新聞社,1996.』とあります。
{{コラム|失敗とスポーツの例え話|
ビジネス書で昔からよく言われるのですが、新しいことへのチャレンジには失敗はつきものです。
でも、新しいことにチャレンジして経験を蓄えることが、今後の成功につながるのです。もし失敗をおそれて新しいことにチャレンジしなくなったら、もはや次の成功にはつながりません。
失敗しないけれど成功もしないで市場から淘汰されることになるよりも、失敗してもいいのでそれ以上の大成功をおさめて市場で行き続けることができればいいのです。
よくビジネス評論ではスポーツに喩えられるのですが、スポーツのサッカーや野球などの試合にたとえれば、3点を奪われても、こちらが5点を得て結果的に勝てればいいのです。
逆に、1点しか奪われなくても、こちらの得点が0点なら、試合には負けます。
だから、「試合での負け」に相当するような致命的な失敗さえ、回避できればいいのです
「たとえ失敗しても、試合に負けなければいい」のです。「失点しても、試合に負けなければいい」のです。
塩川氏も、失点しても試合に勝てれば良いという内容のことを書籍で発言しています<ref>『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P.334</ref>。
さて塩川氏の著作では、失点でない単なる「ミス」を「不具合の発生」、「失点」をユーザーの不利益、「負け」を「売り上げの低下やユーザーの離脱」(長いので抜粋)などと定義しています。
塩川氏の意図は分かりませんが、少なくとも新しいことにチャレンジすれば、未知の失敗は起きますので、ITソフト業界なら、それによる不具合の発生が起きます。
その不具合の結果、ユーザーに不利益が一時的に生じることはあります。しかし、そういう一時的な不利益は、新分野の開拓では避けられません。
ユーザーで実験する前の、最低限の手元や仲間内での実験は必要でしょうが、しかし未然の実験で今後のすべてのミスを防止することは不可能です。
}}
=== 異業種の立場を想像しよう ===
ゲームにかぎらず、文芸でもイラスト趣味でも、、狭いコミュニティ内の内輪ウケばかりに特化していって衰退していっている文化は多い。そうならないように気をつけよう。
内輪受けのマニア化による初心者忌避による衰退をうまく表現できている言い回しとして、プロレス業界の格言ですが「マニアが業界を潰す」という格言があります。なお、この発言は2012年に新日本プロレスリングを買収したゲーム会社のブシロードが買収時に述べた発言「すべてのジャンルはマニアが潰す」が元になっているので、まさにゲーム業界の反省にもとづく考察でもあります<ref> [https://newspicks.com/news/4135958/body/ 『【最終話・木谷高明】すべてのジャンルはマニアが潰す』 2019/10/5 ] 2021年11月7日に確認</ref>。(ブシロードの文脈とは違うかもしれませんが(出展の外部リンク先が有料なので読んでいないので)、本wikiでもおそらく後述していますが、ゲーム業界では1990~2000年の一時期、ジャンルによってはゲームが高難易度化した作品が多くなって、そのため新規参入者が苦手と感じてプレイヤーが減って衰退縮小していったジャンルが幾つかありました。)
なので、ゲーム製作のこういった予備知識のないファンコミュニティの意見ばかりを鵜呑みにして聞いていると、初心者を遠ざけた高難易度ゲームと化してしまうおそれもあります。
特にゲームセンターにある対戦格闘ゲームでは、「初心者狩り」といって、初心者が筐体で練習したくても、熟練プレイヤーが参入して初心者を負かして初心者がゲームプレイヤーになるので、初心者は練習できない。・・・その結果、気がついたらそのゲームの新規参入層が減っていった・・・という事例がありました。
ゲームにかぎらず、スポーツなどの競技の人気でも、似たような現象が見られます。競技というジャンル自体が技巧などを競うものなので仕方ない面もありますが、なんとかして初心者を遠ざけない工夫はゲーム屋には必要でしょう。
ともかく、上述のような色々な理由で、作家側は、体感の難易度が、本当は難しめのゲームなのに「やさしめ」に感じがちである。
実際、日本のゲーム史でも、1990年代の前半ごろは、ゲームの難易度が「むずかしめ」に調整されがちであった。しかし、その結果、世間では「最近のゲームは難しい」と感じる人が増え、日本のゲーム人気は一時期、衰退し、アニメ産業などに人気を取られる事態になった。
{{コラム|作者は答えを知ってしまっている|
バランス調整とは少し違いますが、作者はネタバレを知ってるので、シナリオに感動できないわけです。
これは、ハドソン(ゲーム会社名)の『新桃太郎伝説』(スーファミ版)の攻略本『新桃太郎伝説 究極本』(KKベストセラーズ 刊)で、作者の さくま あきら が、読者インタビューに答える形でそう言っています。
ゲーム雑誌での読者からの「ゲーム中、もっとも印象に残ったシーンはどこですか?」という旨の質問に対し、さくま氏は「作者はシナリオの答えを知ってるので、もっとも印象に残るとかそういうのはありません」的な内容の返答をしています。
}}
;ティッシュテスター
さて、作者バイアスでバランスが分からなくなるのは作者だけではなく、テストプレイヤーやデバッガーも、そのゲームに慣れてゆくと、次第に感覚が一般プレイヤーとズレていき、テストプレイヤー達もゲームの適切なバランス側が分からなくなっていく。
このことを比喩した表現として、「ティッシュ テスター」(tissue tester)という用語がある。使い捨てティッシュが1枚あたり1度しか使えないように、そのゲームに予備知識の無いテスターも、一度しか使えないのである。「フレッシュミート」(新鮮な肉、fresh meat)とも言います。
かといって、テストプレイヤーの人数にも限りがあるので、ゲーム作者は、たとえ自作ゲームのバランス調整が不完全でも、最低限の調整をしたら、もう「えいやっ」と(フリーゲームや同人ゲームなら)ゲームのver1.00および以降バージョンを出さざるを得ない。
単にバグを探すだけのデバッグ用テストならティッシュテスターでなくても可能ですが、しかしバランス調整ではティッシュテスターがいたほうが効率的です。
=== 要素の相互関係 ===
==== 概要 ====
文献『ゲームデザイン プロフェッショナル』によると、調整は、関連あるものを、まとめて同時期に、ただし1個ずつ調整していきます<ref>『ゲームデザイン プロフェッショナル』、P.182</ref>。
このため、まだ関連ある要素を実装しきっていない段階では、調整しません。だから開発の最初から調整することは、まず無いでしょう。
しかし、場合によっては、要素の実装をそろうの待つと調整開始の時期が遅くなりすぎてしまい、計画に支障が出る場合があります。そういう場合、ある程度のまとまりのある実装ができた段階で、調整をするようです。
具体的な調整の判断基準については、参考文献『ゲームデザイン プロフェッショナル』を買ってお読みください。
もし読者が練習として、てっとり早くレベルデザイン・バランス調整の経験を積みたい場合、角川書店(現: KADOKAWA)の『RPGツクール』という制作ツールで実際にゲームを作ってみるのが良いでしょう。文献『レベルデザイン徹底指南書』(大久保磨 著)でも、RPGツクールによる練習・勉強を進めています<ref>大久保磨『レベルデザイン徹底指南書』、2016年12月14日 初版 第1刷発行、P81</ref>。
==== マップと敵の相互関係 ====
ゲームバランスを決めるのは、敵の強さだけでなく、マップの構成、さらにRPGのダンジョンなら宝箱の中にあるアイテムや装備品の強さ、などなどのさまざまな要素が加わります。
宝箱もマップの構成要素ですから、広い意味では宝箱もマップだとすると、つまり敵そのもののの強さだけでなく、マップもバランス調整に大きく影響します。だから、もし仮に時間が無限にあるのなら、理想的には、ダンジョンなど各ステージののマップが実装されてからバランス調整を行うのが理想でしょう。
しかし、実際には、マップの実装は、なかなか時間の掛かることです。特に、マップを考えることは、そのステージの世界観などを考えることでもあるので、そういった理系的ではない文系的なことも考えなければなりません。
マップに敵を組み込む方式で調整する場合だとマップの実装を待っている間にはバランス調整が出来ないのも、なかなか難しい問題です。
だからマップと敵の調整の順序は、おそらく人や会社によって色々な方式があると思います。たとえば、
:マップを作ってからそのマップに敵を組み込んでみてプレイしてみて、敵の強さを決めるのか、
:それとも敵の強さを決めてから、マップを決めるのか、
:あるいはマップと敵を別々に決めてから、最後に組み合わせて微調整するのか、
などなどです。
ご自身の作品にあった方式をお選びください。
===== 始めよければ全てよし =====
さて、ゲームが長編になる場合、まずはプロトタイプ的に、序盤をやや多めに通しプレイをして、とりあえず序盤のバランスがゲームとして面白くなるように調整すると良いでしょう。
書籍『ゲームプランナー集中講座』でも、ゲームの初めと終わりの印象がよければ、途中のバランスが少しくらい悪くても楽しんでもらえると述べています<ref>『ゲームプランナー集中講座』、P236</ref>。
:※ なお、アニメ産業でも、実はテレビアニメは、第1話と最終話だけ、他のエピソードよりも予算が多めに作られるのが普通です(特に公言はされてないが、多くの作品で明らかにクオリティが違う場合が多い)。
とはいえ、ゲーム制作当初は、そもそも終盤のストーリーがまだ未完成だったりするので、意図せずとも、こういったプロトタイプ的に序盤をやや多めに調整する方法が自然に行われる事になるでしょう。
商業作品でも、たとえば攻略本やファンブックなどに書いてあるゲーム開発裏話などを見ると、RPGでは、(プレイヤーからは数値の見えない)敵の強さのほうを動かすことで、バランスを調整するという事例などもよく紹介されています。よくある話が、最終ボスなどの能力値です。原理的には、敵側の能力値ではなく、味方の能力値で調整したり、あるいは装備品で調整したりしてもイイはずですが、しかしよく開発裏話に出てくるのは、なぜか敵側の能力値の話題ばかりです。
たとえば、スーファミRPG『新 桃太郎伝説』では、最終ボスのパラメータのほうを調整していることが、KKベストセラーズ(出版社名)から出た攻略本『新桃太郎伝説究極本』に書かれています。(調整前はボスはもっとHPが多かった。)
:※ただし、あくまでRPG限定の話題。アクションゲームなどでは、違うかもしれない。
また、こういった調整順序の前提として、調整はゲーム序盤から順番に、ゲーム後半に向かって調整していくしかありません。
そのため、古いゲームなどでは、よくゲーム後半で、調整不足のために、極端に難しかったり、あるいは逆にあっけなく簡単すぎる後半だったりなどの話題も、よく聞きます。ドラクエ2の後半ダンジョンであるロンダルキア洞窟とその次ステージが典型です。
さて、プレイヤーに目立つ部分(たとえば味方キャラの能力値や装備品の性能など)を基準にして調整するといって、けっして全く数値をイジラないというワケではないのです。あくまで、(調整による変動幅の大きい敵能力値と比べたら、)「比較的には、味方キャラ関連の数値は、調整による数値の変動の幅が小さめ。敵の能力値は、調整による変動の幅が大きい。」という事にすぎません。
{{コラム|ノイマン「ゲーム理論」で説明できないのがテレビゲーム|
日本の人類学者の中沢新一は、ノイマンのゲーム理論で説明できないのが昨今のコンピュータゲームの特徴だと言っています。その発言の出典は忘れたのですが、人類学者で有名な中沢新一は近年、ゲーム産業に関心を持ち、たとえばナムコ出身の遠藤雅信などとも対談しています<ref>https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/nakagawa-endo_bb/2 『ゼビウスからポケモンGOまで… 国内ゲーム史を遠藤雅伸氏と『現代ゲーム全史』著者が振り返る。中沢新一氏も壇上に登場!【イベントレポ】』 2017年4月12日 12:30 公開 ] 2022年1月18日に確認. </ref>。(なお、リンク先イベント記事の司会役の「中川」氏とゲストの「中沢」氏は別人なので、混同しないように)
ゲーム理論の用途としては、現代日本の学問では、政治的局面での外交戦略などを語る際によく政治学書で用いられたりします。ただし、そのゲーム理論でも、中沢新一によると、それでコンピュータゲームを語るのは不足だという事です。
中沢は特に言及していないですが、数学的にモデル化するなら、政策応用なら「国際情勢」など外交的な制約によって出力にとりうる値1個あたりの幅や個数が2~3個に限定されたりのような、値の個数が十分に小さくて有限の整数個の場合でないと、なかなかゲーム理論の応用は効果を発揮しません。
(20世紀の天才数学者 フォン・ノイマンの)『ゲーム理論』のような出力値に選べる個数が極端に少ない理論は、コンピュータゲームの調整では不足でしょう。本ページでも、ノイマンのゲーム理論については、版にもよりますが、このコラム以外では特に言及していないだろうと思います(2022年1月までの時点では、ノイマンのゲーム理論には言及していない)。
さて中沢の意見ではないですが、そもそもゲーム理論についてノイマンについての出典として、たしか数学者の森毅(もり つよし)のエッセイ本だったと思いますが、ゲーム理論はもともとノイマンが第二次大戦中の亡命中か何かにトランプのポーカーを参考に考えついたらしいです。
ネット上のゲーム評論では、経済由来の表現でよく使われる表現は、ゲーム理論ではなく「インフレ」「デフレ」などといった表現です。
経済学を知らなくてもゲームは製作できるでしょうが、どうしても経済学を参考にするなら、ゲーム理論よりも物価政策のほうを勉強したほうが良いかもしれません。
一応、書籍『ゲーム作りの発想法と企画書の作り方』ではゲーム理論も紹介されていますが、しかし具体的にどうゲーム作りにゲーム理論を応用するかは書かれていません<ref>『ゲーム作りの発想法と企画書の作り方』、P64</ref>。
}}
=== 各論(デザイン的なこと) ===
どの程度、レベル上昇でキャラクターを強くすればいいかについては、ハドソン社あたりでの有名な慣習があり、新しく訪れたダンジョンなどでは「レベルが3上がると、敵を1撃で倒せるようにすべし」という有名な基準があります<ref>『ゲームプランとデザインの教科書』、P.94、 ※ 著者のひとりの「平川らいあん」氏はハドソン出身</ref>。他社ゲームでは別かもしれませんが、だいたいスーファミ時代の桃太郎伝説シリーズはこんな感じに調整されているはずです。
== RPGのダメージ計算式 ==
=== 特化型が有利になりやすい ===
文献『ゲームプランとデザインの教科書』によると、ファミコン時代のゲームに限らず、21世紀の現代的なゲームでも、「なんでも平均的にできる」キャラクターよりも「○○だけなら自分が一番強い」といった感じの特化型のキャラクターが戦闘では強くなりやすい傾向があります<ref>川上大典 ほか著『ゲームプランとデザインの教科書』、秀和システム、2018年11月1日 第1版 第1刷、P.227</ref>。対して、バランス型は「器用貧乏」になりやすいのが現状です<ref>川上大典 ほか著『ゲームプランとデザインの教科書』、秀和システム、、2018年11月1日 第1版 第1刷、P.227</ref>。
なお文献『ゲーム作りの発想法と企画書の作り方』によると、ダメージ計算式を考えるのは(プログラマーの仕事ではなく)ゲームデザイナーの仕事です<ref>『ゲーム作りの発想法と企画書の作り方』、P145</ref>。
では、特化型が有利になりやすい原理を、これから説明していきます。
たとえば、キャラクターに能力をプレイヤーが自由に選んで振り分け配分できるシステムのゲームがあったとしましょう。(商業ゲームでも、いくつかの作品で、似たようなシステムのRPGがあります。)
説明の単純化のため、合計値が必ず100だとしましょう。
つまり、たとえば下記のようになります。
;作成キャラの能力例
:(※ 合計100)
ちから: 10
たいりょく: 30
しゅびりょく: 10
すばやさ: 40
きようさ: 10
さて、別の作成キャラ例を考えます。
;平均型キャラA
ちから: 20
たいりょく:20
しゅびりょく: 20
すばやさ: 20
きようさ: 20
:(※ 合計100)
のように、能力値を平均にふりわけたキャラクターと
合計値は同じですが、特定のパラメータに特化して能力値を振り分けした
;特化型キャラB
ちから: 40
たいりょく:20
しゅびりょく: 30
すばやさ: 5
きようさ: 5
:(※ 合計100)
のようなキャラクターを、
コンピュータ上でRPGの戦闘システムのアルゴリズム上で対戦させた場合、
ほとんどの20世紀のRPGのアルゴリズムでは、特化型のキャラBのほうが勝ち、つまり特化型のほうが強くなってしまいます。
さらに言うと、たいてい「攻撃力」のような、敵にダメージを与える意味のパラメーターに振り割ったほうが、キャラクターが強くなるゲームのほうが多いです。(ファミコン時代から、ウィザードリィ1の攻略本でそういわれていました。敵モンスター『ワイバーン』あたりの攻略法として「攻撃は最大の防御」という格言を出しています。表紙の黒かった攻略本なので、たぶんゲームアーツの本。『ウィザードリィ攻略の手引き』(MIA BOOKS)かと思われます。)
なぜこうなるかと言うと、なぜなら、もし攻撃力が上がると、敵を倒すのに要するターン数も減少するので、結果的に敵を倒すまでに自キャラの受けるダメージ量も減るからです。(なお、現実の軍事学でも、似たような事が言われており、戦術論ですが、クラウゼヴィッツ(近代ドイツの軍事学者の一人)は防御重視の作戦よりも攻撃重視の作戦のほうが有利だと述べています。防御だけで攻撃しなければ、現実でもゲ-ムでも戦闘では絶対に勝てません。)
裏を返せば、平均型能力のキャラは、多くのゲームシステムでは弱くなりがちです。
パラメータの振り分けは自由ではないですが、ドラクエ2(ファミコン版)でいう、サマルトリア王子が弱くなる現象です。ファイナルファンタジー3・5の赤魔導師も、似たような弱点を抱えています。
理由はいろいろとありますが、バランス側の弱くなりやすい理由のひとつとして、参考文献などは特には無いですが、
:・ウィザードリィやドラクエなどの古いRPGのアルゴリズムが、特化型に有利になっているという歴史的な経緯。
:・命中率などの確率に関わるパラメータ(「器用さ」)のある場合、パラメータ割り振り前から既にある程度の底上げ補正がされている場合が多いので、わざわざ命中率を上げると割り損になる。
:・「すばやさ」(素早さ)が攻撃の順番にしか影響しない場合、素早さが低くても1ターンに1度は攻撃できるので、素早さを上げると損。
などの理由があるでしょうか。
命中率に関しては、多くのRPGで、攻撃が外れるのは、プレイヤーに不満感を与えるので、たいていのゲームでは、ゲーム序盤のレベル1のキャラであっても、数値上での「命中率」や「器用さ」などの表向きの命中率が低くても、たとえば「命中率 40」と表示されていても、実際のゲーム内部での命中率はたとえば+20%されてて本当の命中率が60%だったりするような場合もあります。
このような底上げ命中率のあるシステムだと、20%底上げされる場合、命中率を80%以上に育てるのは損です。なぜなら100%以上には上がりようが無いからです。
命中率が101%以上の場合に特殊な追加スキルなどを獲得できるなら別ですが(たとえば、クリティカルヒットの確率がけっこう増えるとか)、たいていの古いゲームでは、そこまでの手入れをしていません。おそらく調整に時間が掛かるからでしょう。
=== ダメージ計算式 ===
さて、RPGの戦闘におけるダメージの計算式(「ダメージ計算式」といいます)に、アルテリオス計算式というのがあります。これは、昔のゲーム『アルテリオス』で採用された計算式なのですが、
攻撃側の攻撃力 - 守備側の守備力 = 守備側のダメージ
という計算式です。
ドラクエやファイナルファンタジーのシリーズの計算式はもっと複雑なのですが、どのRPGでもダメージ計算式の基本的な設計思想・方針はアルテリオス計算式と同じです。
アルテリオス以外のダメージ計算式でも、たとえば
:1.3×攻撃側の攻撃力 - 0.75 × 守備側の守備力 = 守備側のダメージ
というような感じの計算式である作品も多いです。
せいぜい、変数の前に定数係数が掛かっている程度です。
なぜ、どの会社のRPGでも、この程度の中学校レベルの単純な計算式なのかというと、バランス調整が簡単だからです。
バランス調整するのは人間なので、もし、ダメージ計算式があまりに複雑な方程式であると(たとえば量子物理のシュレーディンガー方程式みたいなのだったりすると)、そもそもバランス調整担当の社員が理解できません。
そして、このアルテリオス式を見ると分かるのですが、
:攻撃側の攻撃力 - 守備側の守備力 = 守備側のダメージ
もし自軍の攻撃力が0の場合、敵にダメージを与えられないので(ダメージが0)、絶対に負けてしまいます。つまり、攻撃力が敵の守備力を下回る場合も、絶対に負けるのです。
一方、「すばやさ」パラメータが戦闘の先攻/後攻の順番にしか影響しない場合、素早さが0であっても、勝つことは可能です。
また、守備力が0であっても、勝つことは可能です。
このように、パラメータの種類ごとに、そのゲームにおいて重視・軽視の差があり、不公平になっている事が多いのです。
また、バランス型の能力値のキャラクターの場合、せっかく「ちから」を上げて攻撃力を上げても、守備側の守備力を下回っていると、ダメージ0になってしまい、絶対に負けます。
つまり、
自分の攻撃力 > 敵の守備力
でないと、アルテリオス式では必ず負けるのです。
一方、
:1.3×攻撃側の攻撃力 - 0.75 × 守備側の守備力 = 守備側のダメージ
のように係数を掛けた計算式の場合、
守備力を1ポイント増やしても、その効果は25%減少されます。(たとえばレベルアップの際に上昇パラメータを一種類選べるシステムの場合、守備力を選ぶと損になる場合が多い。)
いっぽう、攻撃力を1ポイント増やすと、効果は30%増しです。
このように、計算式によって、有利/不利なパラメータという格差が生じます。
=== DPS (Damage Per Second) の概念 ===
:※ 出典は無いが、あまりに有名な概念なので、さすがに消さない。
最近のRPGゲームには攻撃コマンド選択時に「二段斬り」などのスキル選択ができます。
スキルを設計するとき、昔の初心者のやりがちなミスとして、最近は減ってきましたが、スキルの結果の見かけの数値にゴマかされて、実はスキルが強くなってない特技を設計してしまうミスが時々ありました。
たとえば典型的なのは特技『ためる』です。これは、次回ターン時のダメージを数倍に倍増し、次回ターンの1回だけ、ダメージを倍増させる特技です。
この『ためる』は必ず、次回ターン時のダメージが2倍を超えないと(たとえば2.5倍にならないと)、無意味です。
なぜなら、『ためる』コマンドを選択したターンは、攻撃をしてないからです。
つまり、スキルを使わずに普通に2ターン通常攻撃した場合、ダメージ量は単純計算で
:1+1=2
より、2ターンぶんのダメージです。
いっぽう、『ためる』コマンドを使えば、それがもし2倍しかダメージが倍増しない場合、
:0+2=2
で、結果は同じ通常攻撃2発ぶんのダメージのままです。
計算すれば子供でも分かる理屈ですが、しかしファミコン時代には市販の商業ゲームですら、こういうミスがありました。たとえばファイナルファンタジー3の職業『空手家』のスキル『ためる』です。
このようなミスを犯さないために必要な概念としては、'''DPS''' ('''D'''amage '''P'''er '''S'''econd) の概念が便利でしょう。DPS とは1秒あたりのダメージ量、という意味です。
もともと欧米のアクションゲームについての理論研究に由来する用語なので、単位が 秒 (second)になっていますが、RPGに応用する場合には単位をターンに変えるなどして工夫しましょう。
このDPSの概念を使って、上述の『ためる』コマンドの設計ミスを説明すれば、つまり、1ターンあたりのダメージ量(DPS)が上昇していないのが問題点です。
では、私たちが改善策を考えましょう。数学的に考えれば中学レベルで充分で、
: 0 + x > 2
を満たす変数xを設計するだけの問題です。
なので、たとえば、『ためる』後の攻撃ダメージ量を「2.5倍」とか「3倍」とかの数値に設計すればいいのです。
では、次に応用問題を考えましょう。
「『ためる』を2回続けると、さらにダメージ量がアップ」などのシステムを導入するときも、必ずDPSが増えるようにしましょう。
たとえば、この場合、ダメージを与えるのに最低3ターンが必要なので、不等式を考えれば、
変数xについての
:0 + 0 + x > 3
を満たさないといけません。
つまり、『ためる』2回後のダメージ量は、最低でも「3.5倍」のように3を超える数値、あるいは整数に限定すれば、たとえば「4倍」とか「5倍」とかになっている必要があります。
== KPI ==
Key Performance Indicator という経営的な指標があり、『レベルデザイン徹底指南書』P140 および 『ゲームプランとデザインの教科書』P70 によると、共通しているのは後述の内容です。なお、『ゲームプランとデザインの教科書』P67 によると、オンラインゲームの運営などで使われる用語ですが、別にゲーム業界限定の用語ではありません。
;DAU(Daily Active User)
:デイリー・アクティブ・ユーザー
DAUとは、その日に遊んでくれたユーザーの人数です。
;MAU(Mathly Active User)
:マンスリー・アクティブ・ユーザー
MAUとは、その月に遊んでくれたユーザーの人数です。
;WAU(Weekly Active User)
:ウィークリー・アクティブ・ユーザー
WAUとは、その週に遊んでくれたユーザーの人数です。
;PU(Paying User)
:ペイング・ユーザー
課金ユーザーの人数のことです。その日を課金ユーザー人数をDPU、その月の課金ユーザー人数をMPUと言います<ref>『レベルデザイン徹底指南書』、P140</ref>。
;課金率
たとえば、ある月のユーザ数のうちの課金ユーザーの割合など、
一定期間中の課金ユーザーの割合を言ったりしますす<ref>『レベルデザイン徹底指南書』、P140</ref>。
あるいは、全ユーザーのうちの課金ユーザーのことだったりしますす<ref>『ゲームプランとデザインの教科書』、P70</ref>。(書籍によって、内容が微妙に違う)
;継続率
前月と比べて今月はどんだけユーザーが残っているかとか、あるいは前週と比べて今週はどんだけユーザーが残っているかのことを、
継続率といいます。
(以上)
このほかにも、色々な指標があります。
== 参考文献・脚注など ==
ms6a6bxw1qellkg9eb689vy798fjn1s
Go/環境構築
0
28508
206169
206000
2022-08-03T00:09:18Z
Ef3
694
/* 動作確認 */ Bumpup. go version devel go1.20-29b9a32 Tue Aug 2 18:52:33 2022 +0000 android/arm64
wikitext
text/x-wiki
{{Nav}}
== 環境構築 ==
Goのプログラミングを学ぶには、なんらかのコンパイル・実行環境が必要です。
=== オンラインコンパイル実行環境 ===
Goのコンパイルと実行をウェブブラウザからオンラインで行えるサイトがあります。
* [https://go.dev/play/ go.dev/play/] {{---}} 公式のオンラインコンパイル実行環境です。ネットワークサービスは禁止され、時計はいつも同じ時刻を返し、乱数も同じ系列を返します。このため実行結果は基本的に同じになります。
** [https://gotipplay.golang.org/ gotipplay.golang.org] {{---}} リリース前の開発版のオンラインコンパイル実行環境です。
* [https://paiza.io/ja/projects/new?language=go paiza.io] {{---}} 多くのプログラミング言語のオンラインコンパイル実行環境です。
オンラインコンパイル実行環境を使えば、Goのコンパイル環境を構築しにくいスマートフォン・タブレット・ChromebookなどからもGoのプログラミングを学ぶことができます。
;[https://go.dev/play/p/X0_wfzwyj-E 例] ← クリックまたはタップしてみてください。:<syntaxhighlight lang=go>
package main
import "fmt"
func main() {
fmt.Println("Hello, World")
}
</syntaxhighlight>
=== Windowsの場合 ===
[https://golang.org/ Goの公式サイト]のダウンロードページからMSIインストーラーをダウンロードし、起動するとインストールを開始できます。
Goは言語仕様で、「ソースコードは UTF-8 でエンコードされた Unicode テキスト」(''Source code is Unicode text encoded in UTF-8.'')と決められています<ref name="Source_code_representation">{{cite book
| url = https://golang.org/ref/spec#Source_code_representation
| title = The Go Programming Language Specification
| chapter = Source code representation ¶
| date = Jul 26, 2021
| publisher = The Go website
}}
</ref>。
このため [[W:Microsoftコードページ932|Microsoftコードページ932]] に構成設定されている日本語Windowsの環境ではエンコーディングの違いによるトラブルに見舞われるケースがある点に注意が必要です。
=== FreeBSDの場合 ===
FreeBSD Ports/Packages Collection の、<code>ports/lang/go</code> にあるので、
:<syntaxhighlight lang="csh">
% sudo make -C /usr/ports/lang/go all install clean
</syntaxhighlight>
でビルドしインストールできます。
また
:<syntaxhighlight lang="shell">
% sudo pkg install go118-1.18.4_1
</syntaxhighlight>
でビルド済みパッケージをインストールできますが、Goのバージョンアップやportsのパッチレベルの更新で <code>go118-1.18.4_1</code>の部分は変わるので、
:<syntaxhighlight lang="shell">
% pkg search '^go[1-9]'
go117-1.17.12 Go programming language
go118-1.18.4_1 Go programming language
</syntaxhighlight>
の様に、最初に最新のパッケージ名を確認してください。
=== GNU/Linuxの場合 ===
GNU/Linuxではディストリビューションによってパッケージマネジャーとリポジトリーの構成によりコマンドは違いますが、ディストリビューションの配布しているGoをそのままインストールできます。
ディストリビューションごとにパッケージマネジャーの仕様や操作方法が異なるので、パッケージマネージャーの検索機能で go- あるいは golang- をキーワードに検索してパッケージの名前を調べてインストールしましょう。
また、これはGoのパッケージに限りませんが、パッケージマネジャーを操作してパッケージアーカイブが更新されていないか定期的に確認し、脆弱性の修正などが施される前のパッケージを使い続けないよう注意しましょう。
ディストリビューションによっては、それでもバージョンが古いこともあるので、最新版が必要な場合は[https://golang.org/dl/ 公式ウェブサイトのダウンロードページ]からバイナリーオプションの配布物をダウンロードするか、ソースコードを入手して、環境に合わせてビルドとインストールを行うと良いでしょう(Goは、セルフホスティング<ref>Goコンパイラーを始めとする、Goの言語処理系と支援環境は、Go自身で書かれています。</ref>なので、最初にバイナリーを入手してブートストラップするか、クロスコンパイルでターゲットでセルフコンパイル出来る状態を作る方法があります)。
== 動作確認 ==
インストール作業が完了したらバージョンの確認を行いましょう。
;コマンド:<syntaxhighlight lang="shell">
go version
</syntaxhighlight>
でバージョンを確認できます。
;Windowsでの表示結果の例:(Windows PowerShell)<syntaxhighlight lang="powershell">
PS C:\Users\myname> go version
go version go1.18.4 windows/amd64
</syntaxhighlight>
;FreeBSDでの表示結果の例 :<syntaxhighlight lang="shell">
% go version
go version go1.18.4 freebsd/amd64
</syntaxhighlight>
;GNU/Linuxのあるディストリビューションでの表示結果の例:<syntaxhighlight lang="shell">
$ go version
go version go1.14.3 linux/amd64
</syntaxhighlight>
;Android で開発バージョンをセルフビルドした例:<syntaxhighlight lang="shell">
$ go version
go version devel go1.20-29b9a32 Tue Aug 2 18:52:33 2022 +0000 android/arm64
</syntaxhighlight>
== Go言語の特徴 ==
; 動的ではなく静的
: どのような型が使われているかをコンピュータに推測させるのではなく、使用する型を定義する必要があります。
; インタプリタ型ではなくコンパイル型
: プログラムが実行される前にコンパイルされ、最初から直接機械語に変換されるのです。これは、コードを実行するための余分なステップがないため、いくつかの効率化につながる可能性があります。しかし、コードを動的に変更することができないということになります。
; 厳密なシーケンシャルではなくコンカレント
: Goでは、より簡単に同時処理を書いたり考えたりすることができます。これにより、ウェブやサーバーの開発などでよく見られる問題を、よりシンプルな設計で構築することができます。つまり、より複雑なタスクを、互いに通信することで調整される小さなタスクに分割するのです。さらに、この設計の利点は、これらの小さなタスクを並行して実行することができることです。
; メモリーセーフ
: Goがメモリの使用を処理して、境界を越えてプログラムがクラッシュするのを防ぐことを意味します。
; ガベージコレクション
: 使われなくなったメモリデータを再利用するために解放し、まだ使われているデータをより効率的に保存できることを意味しています。
{{Nav}}
== 脚註 ==
<references />
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小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代
0
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206003
2022-08-02T23:47:08Z
Mtodo
450
/* 日露戦争 */
wikitext
text/x-wiki
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{{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|6学年|歴史編|frame=1}}
{| class="wikitable" style="width:100%"
|+ この章の概要
|<!--1889年前後から「国際的地位が向上」(1920年国際連盟成立 常任理事国入り)まで--><!--(コ) 大日本帝国憲法の発布,日清・日露の戦争,条約改正,科学の発展などを手掛かりに,我が国の国力が充実し国際的地位が向上したことを理解すること。-->
★時代区分:明治時代後期、大正時代</br>
★取り扱う年代:1889年(大日本帝国憲法の発布)から1925年(昭和改元)まで
; 大日本帝国憲法の制定
: 明治維新の改革は、五箇条の御誓文の方針によりなされましたが、改革が進み近代文明国としての形がひととおり整ってきたところ、さらに政治の形を確かなものとし、人々の権利を明らかにするため、'''憲法'''の制定と選挙によって選ばれた議員による議会を開くことが求められました。'''板垣退助'''や'''大隈重信'''は国会の開設を求めて、政党をつくりました。'''伊藤博文'''を中心とした明治政府は欧米諸国の憲法を研究し、1885年に'''内閣制度'''が創設され、1889年に'''大日本帝国憲法'''が発布されました。翌年憲法の精神に基づいて、初めて総選挙が行われ'''帝国議会'''(国会)が召集されました。
; 日清戦争と日露戦争
: 急激な近代化に成功した日本は、国内で拡大した産業の新たな市場を求め大陸に進出しようとします。朝鮮は中国の帝国'''{{ruby|清|しん}}'''の属国でしたが、その影響で近代化が進んでおらず、朝鮮国内の近代化を求める人々は日本と協力して清の影響から逃れようとしました。朝鮮国内の清に従う保守派と改革派の争いに日本と清はそれぞれ兵を出すなどして緊張が高まり、1894年朝鮮半島西岸における両国海軍の接触をきっかけに'''日清戦争'''が始まりました。日本は清の北洋海軍を壊滅させ、遼東半島を占領するなど戦いを有利に進め、翌年、'''陸奥宗光'''外務大臣と清の提督である李鴻章が交渉し、清の日本への賠償や台湾・遼東半島の割譲などを定めた下関条約が締結され講和が結ばれました(日本の勝利)。
: 遼東半島はロシア、ドイツ、フランスが反対したので割譲は取りやめとなりましたが(三国干渉)、そこにロシアが進出し、それを警戒する日本と対立しました。1904年日本とロシアは開戦し('''日露戦争''')、日本とロシアは、ロシアが植民地としていた遼東半島や中国東北部(満州)で戦いました。日本は多くの犠牲者を出しましたが、'''東郷平八郎'''がロシアのバルチク艦隊をやぶるなどして有利な位置となり、翌年、'''小村寿太郎'''外務大臣とロシアのウィッテが交渉し、ロシアの中国からの撤退、南満州鉄道の譲渡、南樺太の割譲などを定めたポーツマス条約が締結され講和が結ばれました(日本の勝利)。
; 条約改正と国際社会での地位の向上
: 幕末に欧米各国と結ばれた通商条約(不平等条約)の改正は日本政府の悲願でした。まず、政府は、国内の法整備を進め、公正な裁判が行われることを示し、日清戦争終結後の1899年治外法権を撤廃しました。そして、日露戦争の勝利は、世界に驚きをもってむかえられ、国際的地位も上がったことをうけて、1911年関税自主権も回復しました。
: 1912年大正天皇が即位し、元号が「'''大正'''」となりました。
: 1914年にヨーロッパの国々を二分した'''第一次世界大戦'''が始まりました。日本は、イギリスやフランスの属する連合国に参加し、敵対する同盟国の一つであるドイツが租借する中国の{{ruby|青島|チンタオ}}や南太平洋の島々を占領しました。1919年戦争は連合国の勝利に終わり、翌年、平和を維持するための'''国際連盟'''が設立、日本は英仏などとともに常任理事国の一つとなりました。
: このころになると、日本の科学技術の水準も世界的なものになり、'''野口英世'''のように国際的な研究者がでてくるようになりました。
|}
=== 世界の変化2 - 市民革命 ===
:日本が鎖国をしている間、ヨーロッパやそれを受けたアメリカ大陸では、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#世界の変化1 - 産業革命|産業革命]]ともうひとつの大きな社会変革が起こっていました。
;市民革命以前のヨーロッパ
:ヨーロッパの国々も長い間、生まれながら身分によって職業などが決められ、多くの人々は農民や職人として土地(荘園)の領主(「{{ruby|封建|ほうけん}}領主」といいます)や都市の貴族などに服従する社会でした。また、この時代は、ローマ教皇を頂点とする'''カトリック教会'''が、強い影響力や荘園を持っていたというのは、[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#キリスト教|前にお話ししたとおり]]です。この時代を{{ruby|封建|ほうけん}}制<ref>土地(領地)を間に介して、主従関係を結ぶ制度を言います。日本でも、[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#封建制|鎌倉時代の「'''ご恩と奉公'''」の関係]]はこれにあたりますし、安土桃山時代から江戸時代にかけての[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#石高制|石高制]]も封建制の一種です。</ref>の時代と言います。
:14世紀くらいになると、都市を中心に商業が発展してきて、豊かな財産を持って、荘園領主よりも強い影響力を持つようになる者もでてきました。15世紀「[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#大航海時代|大航海時代]]」になると、さらに、貿易や植民地からの収益で都市の商人などは勢力を強くしました。また、繊維工業などを中心に、人を集めて工場などを経営する人たちもあらわれました。これらの、封建領主や貴族ではない階層の人たちを、「{{ruby|市民|しみん}}階級」といいます。これらの、市民階級の経済力を背景に、ヨーロッパの各地で強い力を持った国王が誕生し、伝統的な荘園領主などを圧倒しました。これを、{{ruby|絶対王政|ぜったいおうせい}}の時代といいます。絶対王政の王国は、政治を行う政府は専門の役人をおき、戦争に備えて軍隊を平時から常設するようになりました<ref>封建制の時代は、国王でも自分の荘園をおさめられる程度の役人がいればよく、戦争などでは、その都度、封建領主に命令して軍隊(騎士)を集めていました。</ref>。
;市民革命と近代国家
:市民階級が台頭してくると、封建制度以来の身分制度に対して、生まれながらの身分にかかわらず人間は'''平等'''であり、'''自由'''に発言や経済活動をする'''権利'''('''人権''')を持っているという考え方が広がってきました。また、封建制の時代はおさめている荘園の収穫から政治を行っていましたが、絶対王政の政府は、市民階級からの税金で成り立っていたのですが、税金を取られる市民たちは国王の都合だけで徴税されることに不満を持ち始めました。こうして、17世紀以降、市民階級は絶対王政と対立するようになります。市民階級は代表を出して、政治に参加するようになります。'''議会'''('''国会''')の始まりです。さらには、国王の圧政に対しては、市民階級が集まって武力をもって王政を倒したりしました。これを「'''{{ruby|市民革命|しみんかくめい}}'''」と言います。
:市民革命は、17世紀のイギリスに始まりました ('''清教徒革命'''など)。ひきつづいて、北アメリカ大陸のイギリス植民地が、独立を求めて戦争を起こしアメリカ合衆国が成立しました ('''アメリカ独立戦争''')。そして、1789年代表的市民革命である'''フランス革命'''が起こります。市民革命は、フランスの'''ナポレオン'''が、フランスの革命政府を打ち倒そうとする周辺の国々を逆にせめた戦争によってヨーロッパ各地に広がります。
:市民革命自体は、各国の状況によって様々な結果を生みました。革命後に王政が復活した国もあります。しかし、市民革命で国の政治に身分によらない一般の市民が参加できるようになって、広く国全体から資金を集める仕組みができたこと、また、兵隊に国民が動員されるようになったこと('''[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#徴兵制|徴兵制]]''')から、数が多く強力な軍隊を持つようになり、それまでの、封建的な国や絶対王政の国を圧倒するようになりました。これらの古い体制の国々も、市民階級を国の政治に参加させるように、国の仕組みを変えるようになりました。まず、国民の権利を保障し、国民の代表が参加する'''議会'''を設置して国の政治に参加できるようにしました。そして、そのことを'''憲法'''という、強い力を持った法律に定めるようになりました。
:国が、国王などの所有物ではなく、そこに住む国民によって成立するという近代国家('''国民国家''')の誕生です。
=== 大日本帝国憲法の制定 ===
[[File:Taisuke ITAGAKI.jpg|thumb|125px|板垣退助]]
[[File:OKUMA_Shigenobu.jpg|thumb|125px|大隈重信]]
[[file:Itō Hirobumi.jpg|thumb|125px|伊藤博文]]
:明治になって、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#四民平等|身分制度がなくなり]]<ref name="華族">実際は、公家や大名、明治政府に大きな貢献のあった人たちについては、{{ruby|公爵|こうしゃく}}・{{ruby|侯|こう}}爵・{{ruby|伯|はく}}爵・{{ruby|子|し}}爵・{{ruby|男|だん}}爵といった貴族の爵位が与えられ、その一族は「{{ruby|華族|かぞく}}」と呼ばれました。華族には、いくつかの特権が認められましたが、華族の数は比較的少ないうえ、江戸時代ほど極端に大きな差ではありませんでしたし、社会的な貢献をすることで、誰でも華族となる機会はありました。また、「士族」と「平民」の間で異なる取り扱いは一切ありませんでした。</ref>、人々は才覚や努力によって、どのような職業に就くこともできるようになりました。人々は、学業をはじめとしたさまざまな努力をして、いろいろな分野で活躍するようになりました。
:明治政府は、さまざまな改革を強引に進めたため民衆と対立することも少なくありませんでした。このような民衆の不満は、[[#士族の反乱|士族の反乱]]の後は、こうした近代思想を取り入れて政治参加を求める{{ruby|自由民権|じゆうみんけん}}運動につながります。自由民権運動は、憲法の制定と、民衆が政治に参加できる選挙を通じた国会の開設をもとめるようになります。自由民権運動は、征韓論で下野した'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#板垣退助|{{ruby|板垣退助|いたがきたいすけ}}]]'''と1881年(明治14年)に'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#伊藤博文|{{ruby|伊藤博文|いとうひろぶみ}}]]'''らと対立して政府を離れた'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#大隈重信|{{ruby|大隈重信|おおくましげのぶ}}]]'''らに主導されました。
:大隈や板垣が主導する自由民権運動の主張は、国民の自由と権利を保障する憲法の制定とそれに基づく国民の選挙による議会(民選議会)の開設及び議会による政府の統制でした。伊藤博文ら明治政府を主導する人たちは、自由民権運動の考えをそのまま受け入れると、政策を政府が思うとおりに進めることができず、富国強兵などの改革政策に差しさわりがあると考え、この運動を弾圧しました。一方で各地の有力者や、新たな産業の成功者が登場してきており、明治政府はこれらの人々の支持を受けたいと思っていました。また、欧米諸国から見ると、民選議会が政治を進めない国は遅れているとの意識があり、不平等条約改正にあたっても説得させることができない理由の一つとなっていました。
:1881年(明治14年)明治政府は、明治天皇名で「国会開設の勅諭」を下し、1889年(明治22年)に国会を開設することを国民に約束しました。これを受けて、自由民権運動の活動家は政党を結成し、同年には自由党が板垣退助を中心として、翌1882年(明治15年)立憲改進党が大隈重信らによって結成されました。
:一方、伊藤は、1882年(明治15年)、憲法制定・国会開設の模範を研究するためためにヨーロッパを視察しました。そこで、伊藤は議会が発達したイギリスや、人権思想が進んでいたフランスではなく、ドイツ帝国の憲法を模範にすることとしました<ref>この頃のドイツは、日本が藩に分かれていたのと同様に、多くの王国・貴族領に分かれていたものを、各地で統一の要望が上がり、その中で有力となったプロイセン国王を皇帝とするドイツ帝国が成立していました。ドイツ帝国は、イギリスやフランスよりも、皇帝(それを受けた行政機関)の権限が強く、議会の力はおさえられていました。ドイツは、英仏に比べ工業化などが遅れていたために、それを推進するために、強い行政の力が必要であったためです。また、各個人の人権についても制限がありました。伊藤が、英仏ではなく、ドイツを国の形の模範としたのは、このように、日本と状況が似ていたためです。</ref>。帰国した伊藤は憲法制定の準備をはじめ、1885年(明治18年)に内閣総理大臣を長とする'''内閣制度'''が創設され、1889年(明治22年)に'''大日本帝国憲法'''(明治憲法<span id="明治憲法"/>)が発布されました。翌1890年(明治23年)7月1日憲法の精神に基づいて<ref>明治憲法が、実際に有効となる(施行される)のは、1890年(明治23年)11月29日なので、まだ、憲法の下の選挙・国会の招集ではありませんでした。</ref>、初めて総選挙が行われ、11月25日'''帝国議会'''(国会)が召集されました。
:明治憲法は以下のことを定めています。
:#天皇は、日本の統治者とされます。
:#国会は、天皇に「協賛」して法律や予算を定める機関とされます。
:#*法律や予算を決めるのは天皇であって、国会は、その補助をしているに過ぎないという考えを表しています。
:#*緊急と認められる時には、天皇<ref>実際は、行政府である政府の仕事です。</ref>は国会の議決によらず、法律に代わる勅令を出すことができました。
:#国会は、貴族院と衆議院により成り立ち、衆議院は選挙によって選ばれた議員により構成され、貴族院は皇族・華族<ref name="華族"/>及び勅命<ref>天皇の命令。実際は、その時の行政府による指名。</ref>で任名された議員により構成されます<ref>ただし、このような議会の成り立ちは、世界的に見ても珍しいものではありませんでした。明治憲法の元になったドイツ帝国の議会が貴族院と衆議院で成り立っていましたし、そもそも、議会政治の模範とされるイギリスも世襲貴族による「貴族院」と選挙で選ばれた議員による「庶民院」で構成されていて、現在もその伝統が残ります。このことで、身分で選ばれた議員による議会を「上院」、選挙で選ばれた議員による議会を「下院」という習慣ができました。アメリカ合衆国には独立当時から貴族制度はありませんでしたが、上院は各州の代表(元々は州議会が選出していましたが、現在は州民の選挙によります)、下院は州にかかわらず選挙で選ばれた議員による議会と、上院と下院で性質を変えていたりします。時代が下るにつれ、選挙で選ばれた議員の決めることが優先されるという政治習慣(下院優先の原則)が有力になります。</ref>。
:#*衆議院の優位などの定めはなく、各議院で議決されなければ法律などは成立しませんでした。
:#*<span id="制限選挙"/>衆議院議員の選挙権は、憲法を定めた当時は、一定以上の税金を納めた者にのみ認められていました。
:#国務大臣は天皇を{{ruby|輔弼|ほひつ}}(助言し助ける)すると定められます。また、内閣総理大臣についての定めはありません。
:#*<span id="内閣総理大臣"/>内閣総理大臣は、天皇が指名する建前でしたが、実際には、元老といわれる人達<ref>元老には、最初は伊藤博文など維新の功臣が、後代には長期に首相を務めた者がなりました。</ref>が協議したり、後には首相経験者などで構成する重臣会議で決議して天皇に{{ruby|推薦|すいせん}}して決まるものでした。
:#軍隊(陸海軍)は天皇が直接まとめひきいるとされました。また、国民には徴兵に応じる義務がありました。
:#*軍隊は、国会や内閣の命令を聞く必要がないと解釈されるようになります。
:#様々な国民の人権が認められましたが、それは、法律の範囲内で認められるものとされました。
:#*例えば、女性には選挙権は認められることはありませんでした。また、民法で家族や相続は家制度によったため、女性は不利な取り扱いを受けました。
:#*後に制定される治安維持法は、政治思想(特に[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#社会主義と共産主義|社会主義思想・共産主義思想]])を取り締まる法律でした。
=== 日清戦争と日露戦争 ===
==== 日清戦争 ====
[[File:《马关条约》签字时的情景.jpg|thumb|right|200px|none|下関条約の調印の様子。 向かって左に着席するのが日本の伊藤全権、右が清国の李全権]]
: 急激な近代化に成功した日本は、国内で拡大した産業の新たな市場を求め大陸に進出しようとします<ref>「急激な近代化に成功した日本」と書きましたが、これは、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#世界の変化1 - 産業革命|前の章の『産業革命』の節]]に書いた「欧米各国は、産業革命で経済力が大きくなりましたが、さらにそれを大きくするため、国内で生産する工業製品の{{ruby|市場|しじょう}}と原材料となる農産物や鉱物資源を欧米諸国の外に求めるようになりました。」の部分を日本に当てはめたものです。しかし、この頃の日本の工業力はまだ近代化が始まったばかりで、外国に市場を求めるまで成長していません。</ref>。朝鮮は中国の帝国'''{{ruby|清|しん}}'''の属国でしたが、その影響で近代化が進んでおらず、朝鮮国内の近代化を求める人々は日本と協力して清の影響から逃れようとしました。朝鮮国内の清に従う保守派と改革派の争いに日本と清はそれぞれ兵を出すなどして緊張が高まり、1894年(明治27年)朝鮮半島西岸における両国海軍の接触をきっかけに'''日清戦争'''が始まりました。日本は清の北洋海軍を壊滅させ、黄海沿岸の軍事拠点を攻撃し、遼東半島を占領するなど戦いを有利に進め、翌1895年(明治28年)、'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#陸奥宗光|{{ruby|陸奥宗光|むつむねみつ}}]]<span id="陸奥宗光"/>'''外務大臣と清の提督である{{ruby|李鴻章|りこうしょう}}が交渉し、以下の事項などを定めた'''下関条約'''が締結され講和が結ばれました(日本の勝利)。
:#清は、朝鮮の独立を認める。
:#清は、日本へ台湾と{{ruby|遼東|<small>りょうとう/リャオトン</small>}}半島<ref name="中国地名">中国の地名については、日本語の音読みで読む方法と現代の中国語に近い音で読む方法があります。後者は、「音読みだと日本人にしか通じない」と言う配慮から現代の中国語に近い音を当てると言う意図なのかもしれませんが、実際の発音とは異なっているので中国人にも伝わらないでしょう。ですから、ここでは、原則として音読みで音をふりますが、{{ruby|北京|ペキン}}、{{ruby|上海|シャンハイ}}のように現代中国語音に似せた言い方が一般的になったものもありますので、それらは、よく使う言い方をカタカナで表記します。</ref>を割譲する。
:#清は、日本へ賠償金2億両<ref>1両は銀37.3gで、当時の日本円に換算して約3億円。これは、政府の年間予算の約3倍にあたります。</ref>を支払う。
:#*日本は、この賠償金を資金として大規模な製鉄所を福岡県に作りました('''{{ruby|八幡|やはた}}製鉄所''')。
:清はそれまでも、イギリスやフランスと争って負けてはいましたが、欧米諸国は、それでも清国は世界最大の人口をかかえる巨大な国<ref>当時、3億人を超える程度の人口があったものとされています。</ref>であって、実力を発揮すれば欧米諸国であっても勝てるものではないと思われていた<ref>これを、「清国は『眠れる獅子』だ」という言い方をします。</ref>ので中国本土への進出はおさえられていましたが、近代化後間もない日本に敗れたため、欧米諸国は清国への進出を強め、中国大陸の多くの地域で欧米諸国の半植民地と言ってよい状態になりました。
<div style="margin:0 2em 0 4em">
{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話&考えてみましょう】日本は、どうして清国に勝てたのでしょう<small>
:戦争の勝敗の原因は、様々な要素があって、簡単に決めることができるものではありませんが、その時代の当事国の違いを比較することで、国の体制などの特徴を理解することができます。ここでは、なぜ、清国はやぶれ、日本は勝つことができたのかを考えてみましょう。
:戦争の勝敗を決める要素の第一は双方の国の規模です。大きな国の方が当然有利です。このころ、日本の人口はようやく4千万人程度のところ、清国の人口は3億人を超えていました。農業に適した広大な国土を有しており、近代化が遅れていたとは言え、税収などは日本よりもはるかに大きかったと考えられます。日清戦争の前も、世界最大級の軍艦をドイツから購入していたりします。相手の政権を倒すまでの全面戦争と言われる戦争であれば、日本は、勝つことは難しかったでしょう。
:一方で、清国は皇帝の軍隊は{{ruby|八旗|はっき}}・{{ruby|緑営|りょくえい}}と言われる17世紀の軍隊のままで、これは、日本の武士同様将兵が生まれながらの家柄で決まっている軍隊でしたが、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#アヘン戦争|アヘン戦争]]以後の近代的戦争や民衆の反乱<ref>銃器などを欧米の商人から買っていました。</ref>では対応できなくなっていました。そこで、地方に派遣された高官は地元の有力者に呼びかけ、その地方の税を流用するなどして、地元の若者を集め、私的に軍隊を組織していました。一種の義勇兵ですが、実際は金を払って集めた{{ruby|傭兵|ようへい}}も少なくなかった言われています。
:また、清国は皇帝が独裁する事が建前であったため、外交と軍事がばらばらの動きをし、軍事も統一的な動きはできていませんでした。
:日本の場合、中央政府が全国民から国の制度として兵を集め、政府の予算で設備をそろえ、組織だった訓練を実施した軍隊を有していました。また、「天皇の軍隊」「日本国の軍隊」としての『国民』意識も高く、これが、士気につながりました。
:このような違いから、黄海およびその沿岸での戦闘という局地的な戦争では、国の規模の違いにかかわらず勝つことができたということです。
</small>
|}</div>
==== 日露戦争 ====
[[画像:Location-of-Liaodong-Peninsula.png|thumb|150px|left|遼東半島]]
[[ファイル:Kisaburō Ohara, Europe and Asia Octopus Map, 1904 Cornell CUL PJM 1145 01.jpg|thumb|300px|right|1904年当時、日本人がロシアにもったイメージを伝える風刺地図。]]
:下関条約で、日本は、台湾などとともに中国本土の遼東半島の割譲を受けましたが、ロシア、ドイツ、フランスが反対し('''{{ruby|三国干渉|さんごくかんしょう}}'''<ref>「干渉」とは、「他のものの動きに影響を与える」という元々の意味から、このような場合、「他国の政治に口を出す」という意味で使われています。</ref>)、遼東半島の割譲は取りやめとなりました。ところが、その遼東半島にはロシアが進出し、{{ruby|大連|だいれん}}、{{ruby|旅順|りょじゅん}}<ref name="中国地名"/>といった都市を建設し始めました。
:ロシアは、ユーラシア大陸を横断する鉄道('''シベリア鉄道''')を建築し、ヨーロッパとアジアの間の物流をおさえようとしていました<ref>日本からイギリスやフランスまで、船ならば45日〜50日かかったところを、シベリア鉄道を使えば15日程度で移動できました。</ref>。シベリア鉄道は、もともと、ロシア領内をウラジオストックまでのものですが、ロシアは遼東半島支配に伴って、大連まで{{ruby|東清|とうしん}}鉄道を建設し、その途中である{{ruby|満州|まんしゅう}}地域<ref>現在は、中国東北部と呼ばれる地域です。もともと、「満州(満洲)」とは清王朝をおこした民族(女真族)の名前で地名ではありませんが、「満洲族が起こった土地」と言うことで通称として用いられるようになりました。このころから、1945年頃まで、満州は日本にとって歴史上重要な土地となります。</ref>を実質的に植民地とするなど支配を強めます。そして、満州に接する朝鮮(日清戦争後、{{ruby|大韓帝国|だいかんていこく}})の政治にも介入するなどしはじめました<ref>ロシア進出の背景には、大韓帝国の王室のメンバーや{{ruby|両班|ヤンバン}}と呼ばれる高級官僚らが、朝鮮の政治・経済に段々影響を強めてくる日本を警戒して、それに対抗するため、ロシアと通じていたということもあります。</ref>。
:日本は、ロシアの動きに対して警戒しました。ロシアが満州地域でやっていることは、他のヨーロッパ諸国がアジアやアフリカでやっていて、日清戦争後に中国本土で進められている植民地化であって、そのままでは、満州地域だけでなく、朝鮮半島も、さらには日本までもが、植民地となってしまうのではないかと考えました<ref>これは、大げさな話ではなく、アフリカの植民地化はこの時期に進み、19世紀末には独立国は、エジプト周辺、エチオピア、リベリアだけになっていましたし、アジアも1887年にフランスがベトナムを植民地にするなどして、独立を保っていたのはシャム王国(現在のタイ王国)くらいになっていました。</ref>。
:日本政府では、伊藤博文に代表される日露の衝突を外交努力などで避けるべきとするグループがあった一方で、陸軍に対して大きな影響を持った'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#山県有朋|{{ruby|山県|やまがた}}(山縣){{ruby|有朋|ありとも}}]]'''や首相の{{ruby|桂太郎|かつらたろう}}、外交官出身の外務大臣'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#小村寿太郎|{{ruby|小村寿太郎|こむらじゅたろう}}]]<span id="小村寿太郎"/>'''らは、戦争は避けられないので、それに向けての準備をするという態度に出ました。日本国内では、戦争に向け軍艦を整備したり新たな兵器の開発を行う一方で、ロシアの中央アジアからインドへの南下などを警戒するイギリスと同盟を結び、ロシアとの戦争に備えました。
[[file:Nichirojp.png|thumb|300px|日露戦争の経過]]
:1904年(明治37年)日本とロシアは開戦し('''日露戦争''')、日本とロシアは、ロシアが植民地としていた遼東半島や満州で戦いました。ロシアは、モスクワなどから遠い極東に兵や兵器・軍馬・食料などを送るには、シベリア鉄道に頼るしかないので、すぐに戦場で攻撃の体制を作ることはできません。一方で、日本も、兵などを送るには日本海を渡らなければならないので、この地域の<span id="制海権"/>{{ruby|制海|せいかい}}権<ref>ある地域を自由に航行できるということ。</ref>を握る必要がありました。海軍はロシアの太平洋側の主力艦隊である旅順艦隊をせめ有利な立場になりますが、旅順艦隊は、援軍である世界最大級の艦隊バルチック艦隊<ref>「バルト海」で行動する艦隊なのでバルチック艦隊といいます。</ref>が到着するまで、旅順港に待機することになりました。日本陸軍は遼東半島南端から東進鉄道沿いに北上、朝鮮国境からの軍とあわせ、ロシア軍を満州地域北部までおしもどしました。また、旅順に引き込んだ艦隊がバルチック艦隊と合流すると制海権が危うくなるので、'''{{ruby|乃木希典|のぎまれすけ}}'''<ref>死後、乃木神社にまつられます。乃木坂などの地名にも残っています。</ref>が率いる陸軍の軍団が、要塞となった旅順を攻撃します。この旅順を囲む戦いは、日露戦争の中でも多くの日本兵の犠牲を出しましたが1905年(明治38年)1月に降伏し、バルチック艦隊のみを迎えうつことになりました。そうして、5月に'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#東郷平八郎|{{ruby|東郷平八郎|とうごうへいはちろう}}]]'''がひきいる日本海軍は日本海海戦でバルチック艦隊をやぶり、日本海の制海権を安定したものにしました。
:日本は、戦争を有利に進めたとことで、アメリカ合衆国大統領'''セオドア・ルーズベルト'''に講和の仲介を依頼し、日本からは'''[[#小村寿太郎|小村寿太郎]]'''が、ロシアからは'''ウィッテ'''(前蔵相、のちに初代首相)が、米国のポーツマスに出向き、講和会議が開かれました。1905年9月5日、以下の事項を決めた条約('''ポーツマス条約''')が結ばれ、ロシアは中国から撤退し、日露戦争は日本の勝利で終わりました。
:# ロシアは日本の朝鮮半島における優越権を認める。
:# 日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
:# ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
:# ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の{{ruby|租借|そしゃく}}<ref>土地などを、借り受けるという意味ですが、実質的な支配が行われ、「租借地」というのは、「植民地」とほぼ同義語になります。</ref>権を日本へ譲渡する。
:#*この路線は、「南満州鉄道」と改称され、日本の満洲進出の基礎となります。
:# ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
:# ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
:ポーツマス条約では下関条約と異なり賠償金の支払いはありませんでした。一部の日本国民はこれを不満に思って、暴動をおこすものもありました。しかし、国民には知らされていませんでしたが、戦争を有利に進めていたとはいえ、これ以上は財政上ほとんど無理な状態になっていて、すぐにでも戦争をやめなければならない状態になっていました。ロシアはそれを見越して、敗戦国でありながら、比較的有利な条件で講和条約を結んだといえます。
:しかし、この結果、満州や朝鮮半島に対するロシアの脅威は去りましたので、日本は、この地域への進出を高めます。特に、満州は石炭や鉄鉱石の地下資源が豊かな地域であったため鉱山開発を盛んに行いました。
:韓国については、政治的な不安定を理由に日本の属国化が進められ、1905年12月には統監府が設置され、伊藤博文が初代統監に就任しました。
:1909年 (明治42年)、伊藤博文はロシアとの外交交渉のため満州のハルビンに出向きましたが、そこで、朝鮮民族主義者に暗殺されます。それまで、韓国に対しては朝鮮民族に対し強硬的に望む人たちと、穏健に進めるべきという人たち(伊藤博文もその意見でした)が対立していたのですが、伊藤博文が暗殺されたことで、強硬派の勢いを増し、1910年(明治43年)8月に、日本は大韓帝国を併合しました('''{{ruby|韓国併合|かんこくへいごう}}''')。
:<span id="辛亥革命"/>日露戦争は、日本とロシアの戦争でしたが、その戦いは清国の領土でなされました。清国は、もはやそれを止める力を失っていました。中国の人々は、外国に国土を侵される不安が高まり、中国の人々が政治参加をする国をつくるため、1911年{{ruby|孫文|そんぶん}}が主導者となって革命を起こしました('''{{ruby|辛亥革命|しんがいかくめい}}''')。翌1912年清王朝は滅ぼされ、アジアにおいて史上初の独立した共和制国家である{{ruby|中華民国|ちゅうかみんこく}}が誕生しました。
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{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="南下政策"/>ロシアの南下政策<small>
:ロシアは、ヨーロッパの国の中では最も東にあって、17世紀にシベリアを征服し太平洋に達する領土を持つ大きな国ではあったのですが、ヨーロッパ中心部から離れていたので産業革命などはおくれてつたわりました。また、国土の多くが北にあったため、冬にほとんどの港が凍結するなどして、通商などにも支障が出るため、南へ勢力を伸ばす政策をとっていました。これを、「『{{ruby|不凍港|ふとうこう}}』を求めての南下」と言ったりします。19世紀、{{ruby|黒海|こっかい}}を勢力におさめようと、1853年トルコ(オスマン帝国)の領土であったバルカン半島などで戦争(クリミヤ戦争<ref>ロシアは、バルカン半島を南下しようとしたのですが、イギリス・フランスの参戦により押し戻され、クリミア半島が主要な戦場となりました。クリミヤ半島は、現在(2022年4月)、ロシアの侵攻で話題になっているウクライナの黒海地域です。</ref>)を起こしましたが、トルコをイギリスやフランスが支援し、この戦争ではロシアは敗北します<ref>クリミア戦争で、戦傷者の救護を組織的に行い、看護師による近代看護を確立したのが、フローレンス・'''ナイチンゲール'''です。</ref>。その後のバルカン半島の各民族の独立運動に合わせ、1877年オスマン帝国と戦争(露土戦争)をし、これに勝利しバルカン半島を経由したロシアの南下路が開けます。しかし、軍事的な勝利を収めたロシアの勢力拡大に対して欧州各国が警戒感が広がったため、ドイツ帝国の首相ビスマルクが主導し、1878年ベルリン会議を開き、ロシアの南下政策を止め、ロシアはバルカン半島方面の南下を一旦断念します。
:そこで、ロシアは、ヨーロッパ方面から世界へ出ることをあきらめ、東側のシベリアを経由して中央アジアや太平洋への進出をもくろみます。その結果のひとつが、三国干渉及びそれに続く遼東半島への進出です。
:しかし、日露戦争に敗れたため、ロシアは、ふたたび西へ目を向けます。そこで、バルカン半島から東に勢力を伸ばそうとしていたドイツとぶつかります。これが、第一次世界大戦の原因の一つとなります。
</small>
|}</div>
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{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話&考えてみましょう】日本は、どうしてロシアに勝てたのでしょう<small>
:ここでは、なぜ、ロシアはやぶれ、日本は勝つことができたのかを考えてみましょう。
:双方の国の規模ですが、日本とロシアでは、人口で3倍、国家予算で10倍、常備軍で5倍という、大きな差がありました。また、清国と違い、ロシアの軍隊はロシア皇帝の下に組織された近代的な軍隊でした。実際、戦没者はロシアが81千人程度のところ、日本は88千人と日本の方が被害が大きかったりしています<ref>当時は、戦場の衛生環境などが悪く、病気になって亡くなる兵士も少なくありませんでした。日露とも、戦没者の1/4が病没者で。特に日本の病没の原因としては、ビタミンB欠乏症の「{{ruby|脚気|かっけ}}」が目立っていて、これは、日本陸軍の医療関係者が、当時新興の栄養学を軽視したためとも言われています。この医療関係者には、小説家の森鴎外もいました。</ref>。
:このように、日本に大きな被害が出た戦争であっても、ロシアが強気に出られなかったのは、サンクトペテルブルクやモスクワなどがある本拠地であるヨーロッパから、鉄道で10日以上かかる遠隔の地で兵隊を送ろうとしても、1日に数千人程度が限界だったからでしょう<ref>戦争において装備に大きな差がなければ、数の違いは大きく影響します。</ref>。ロシアにとっては、バルチック艦隊が日本海の制海権をにぎって、日本が大陸に兵隊や物資を送れなくすることで逆転をもくろんだのですが、日本海海戦でその希望もなくなり、ロシアは戦争の継続をあきらめたのだと思われます。
:バルチック艦隊は強力な艦隊でしたが、日英同盟により、インドなどイギリス植民地への寄港<ref>当時の軍艦の動力は蒸気機関であっったため、石炭と真水を大量に積み込む必要がありました。</ref>が拒否されたため、大西洋から、アフリカの南を回ってインド洋経由で7ヶ月もの航海ののちの到着でした。また、ロシアは身分制が残っており、士官は貴族階級など上流階級の出身者が多く、それに対して、水兵などは農民出身の者や都市の労働者などが多く、航海での待遇の差もあり、航海中から対立も生じていました。
:この上流階級と庶民階級の対立は、海軍だけでなく、陸軍でも見られました。なにより、ロシア国内の一般的な生活でも見られたのです。いくら国の規模が大きいとはいえ、戦争は国民生活に商品不足・インフレーションの影響を与えます。もともと、民衆からの不満がみられ、革命運動もあったところ、日露戦争によるインフレーションと数々の戦いで敗戦したとの知らせで民衆の間に暴動が頻発し、1905年には革命と言っていい状態になっていました。このような国内の不安定さから、ロシア政府は講和を急ぐようになり、日本の勝利につながったといえます。
</small>
|}</div>
=== 条約改正と国際社会での地位の向上 ===
[[File:Chikamatsu Kiken buto no ryakuke.jpg|thumb|300px|鹿鳴館における舞踏会を描いた浮世絵]]
;不平等条約改正の歩み
:幕末に欧米各国と結ばれた通商条約(不平等条約)の改正は日本政府の悲願でした。
:明治政府は、文明開化が進んで欧米並みの文明国になったことを示すため、さまざまなアピールをします。たとえば、1883年(明治16年)に外務卿{{ruby|井上馨|いのうえかおる}}は、'''{{ruby|鹿鳴館|ろくめいかん}}'''という、外国からの重要な来訪者や外交官を接待するための社交場を建設し、舞踏会を開いたりしていました。鹿鳴館での舞踏会などには、政府高官の夫人や娘なども参加しましたが、当時はドレスなどの洋装、欧米風の応対のマナーやエチケット、また、ダンスなどは全く一般的ではなく、必死の訓練などがあったと言われています。しかし、このような取り組みは、欧米人には「{{ruby|滑稽|こっけい}}」と感じられたと言う記録も残っており、あまりうまくいきませんでした。
:一方で、政府は、まず[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#治外法権|治外法権]](領事裁判権)の撤廃のため、国内の法整備を進め、公正な裁判が行われることを諸外国に示そうとしました。領事裁判権の裁判は犯罪に関するものなので、法律に関するフランス人の[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#お雇い外国人|お雇い外国人]]ボアソナードが指導してフランスの法律をもとにして、1880年(明治13年)に犯罪とその刑罰に関する刑法<span id="刑法"/>と刑事手続と裁判を定めた治罪法<ref>後に、刑事訴訟法に改正されます。</ref>が制定され、1882年(明治15年)施行されました。1889年(明治22年)には、[[#明治憲法|明治憲法]]が発布され法制度が欧米並みに整理されたことが、国際的に示されました。外務大臣'''[[#陸奥宗光|陸奥宗光]]'''は、各国と粘り強く交渉し、まず、1897年(明治30年)イギリスとの間で治外法権を撤廃する条約を結び、日清戦争終結後の1899年(明治32年)すべての国との間で治外法権を撤廃しました。
:そして、日露戦争の勝利は、世界に驚きをもってむかえられ、国際的地位も上がったことをうけて、外務大臣'''[[#小村寿太郎|小村寿太郎]]'''が主導し、1911年(明治44年)関税自主権も回復しました。
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{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】大津事件<small>
:1891年(明治24年)、日本を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備中の警察官に突然サーベルで切りつけられケガを負うと言う事件がありました。
:驚いた日本政府は、すぐに明治天皇自身が見舞いに駆けつけるよう手配し、日本を離れる際も自身で見送りました。大国ロシアの皇太子に対して小国日本の国民しかも警察官が暗殺{{ruby|未遂|みすい}}<ref>殺そうとした相手が死ななかったことを言います。</ref>をおかしたということで、ロシアが攻めてくるかもしれない、そして、当時の日本ではロシアに勝てるはずがないということで、日本国内は、大騒ぎになりました。
:明治政府は、犯人を死刑に処してロシア政府に対して謝罪の意も示そうとしました。
:ところが、当時の[[#刑法|刑法]]では、殺人未遂の最高刑は無期{{ruby|徒刑|とけい}}<ref>現在の言い方では「無期{{ruby|懲役|ちょうえき}}」、一生、刑務所に入れられる刑です。</ref>で、死刑とすることはできません。そこで、政府は、天皇や皇室に暴行などを加え死傷させた場合に適用される{{ruby|大逆|たいぎゃく}}罪を適用するよう裁判所に要請しました。しかし、これは「法律に定められていること以外を罪としてはならない」という近代法の原則「{{ruby|罪刑|ざいけい}}{{ruby|法定|ほうてい}}主義」に反します。大審院院長<ref>現在の最高裁判所長官に相当します。</ref>{{ruby|児島惟謙|こじまいけん}}は、事件の裁判所に、法律に従って判決を下すよう指示し、その結果、死刑ではなく無期徒刑の判決となりました。
:このことは、ロシアとの外交関係を難しくさせるおそれがありましたが、欧米諸国に対しては、「日本は、法律を厳格に守る国である」ということが印象付けられ、条約改正に向けても信用を得ることができました。
</small>
|}</div>
;<span id="国際社会"/>国際社会での地位の向上
: 1912年(明治45年・大正元年)大正天皇が即位し、元号が「'''大正'''」となりました。
: 1914年(大正3年)にヨーロッパの国々を二分した'''[[#全世界を巻き込む戦争 - 第一次世界大戦|第一次世界大戦]]'''が始まりました。日本は、イギリスやフランスの属する[[#協商国|協商国]]に参加し、敵対する[[#同盟国|同盟国]]の一つであるドイツが租借する中国の{{ruby|青島|チンタオ}}<ref name="中国地名"/>や南太平洋の島々を占領しました。1919年戦争は協商国の勝利に終わり、翌年、平和を維持するための'''[[#国際連盟|国際連盟]]'''が設立、日本は英仏などとともに常任理事国の一つとなりました。
: 第一次世界大戦は、今までに見られなかったほどの大規模な戦争で、戦場が全国土に広がり多くの工場設備なども失われ、工業生産が止まってしまったりしました。しかし、主な戦場はヨーロッパで、日本への被害はほとんどなかったため、日本は、ヨーロッパの工業生産に代わって、綿糸や綿布といった繊維製品や化学肥料など、さまざまな工業製品を輸出しました。また、日本へのヨーロッパからの輸入が止まったため、それにかわる重工業などが起こるきっかけにもなり、国際取引においても機械など高度な工業製品を輸出できる国となりました。第一次世界大戦の影響で日本の経済は急速に成長しました。
;明治後期から大正にかけての人々の生活や文化と学問
:明治維新後、さまざまな[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#殖産興業|殖産興業]]の取り組みによって、経済的余裕ができ、国民生活は向上し、さまざまな近代文化の進展が見られました。また、欧米から伝わった工業的な製紙法と活版印刷は安価で大量の印刷を可能として、新聞や雑誌が広く普及します。これら新聞や出版業の発達したことと、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#学校|学校制度]]が定着し教育水準が上がったことで、国民の政治参加の意識も高まりました。
:さらに、日清戦争・日露戦争といった戦争で、納税額が多いかどうか、つまり財産が多いかどうかにかかわらず、国民として平等に生命を犠牲にするということが意識され、納税額による選挙権の制限([[#制限選挙|制限選挙]])をやめて、成人であれば誰にでも選挙権が与えられる「普通選挙」を求めた社会運動('''普選運動''')がおこり、1925年(大正14年)すべての男性が選挙権を有する普通選挙法が成立しました。このような、民主化の動きを「'''大正デモクラシー'''」と言います。しかし、まだ女性には選挙権は認められていませんでした。
:<span id="政党政治"/>このように、国民の政治への関心が高まると、選挙で選ばれた国会議員による衆議院の発言力が強まり、[[#内閣総理大臣|内閣総理大臣なども衆議院の意向を受けて選び出されることもありました]]。しかし、一方で議会での議論においては、政党同士の争いもあって、無駄な議論がなされるように見えることもありました。また、政策に関しての、議員の{{ruby|汚職|おしょく}}なども発生するようになりました。
:[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#文明開化|文明開化]]を受けて、日本には西洋風の文化が広く普及し、明治20年(1887年)代以降になると、それを受けた独自の文化が育ってきました。
:新聞や出版業の発達は上で述べたとおり人々の政治への意識を高めたところですが、そこには、政治的な考えなどだけではなく、人々の娯楽としての小説なども掲載されるようになりました。明治も初めのうちは、歌舞伎の演目などを題材としたものが多かったのですが、1885年(明治18年)、{{ruby|坪内逍遥|つぼうちしょうよう}}は、『{{ruby|小説神髄|しょうせつしんずい}}』をあらわし、人々の普段の生活に近い題材をとりあげる、いわゆる近代文学を提唱しました。またその中で、話し言葉と書き言葉の間の大きな違いから、もっと平易で話し言葉に近い言葉を使うよう進められました。これを{{ruby|言文一致|げんぶんいっち}}運動といいます<ref>ただし、今でも話し言葉と書き言葉は同じものではありません。</ref>。このような動きのなかで、多くの近代文学というものが生まれました。その中には、1895年(明治28年)に『たけくらべ』を書いた{{ruby|樋口一葉|ひぐちいちよう}}のような女性もいました。その後、{{ruby|森鴎外|もりおうがい}}や{{ruby|夏目漱石|なつめそうせき}}があらわれ、近代文学が確立します。特に、夏目漱石が1905年(明治38年)に初めて書いた小説『{{ruby|吾輩|わがはい}}は猫である』はユーモアに富んだ内容と落語にヒントを得たとされる平易な語り口調で広く普及し、日本語の書き言葉の元になったとも言われています。
:美術の分野では、写実的な西洋絵画や彫刻が日本でも制作されるようになりました。政府は1887年(明治20年)、「東京美術学校<ref name="芸大">「東京美術学校」と「東京音楽学校」は、のちに合併し「東京{{ruby|藝術|げいじゅつ}}大学」となります。</ref>」を設立し、西洋絵画の製作者や指導者を育てました。
:また、音楽の分野でも西洋音楽の受け入れが進み、1890年(明治23年)、演奏家・作曲家や指導者を育てる「東京音楽学校<ref name="芸大"/>」が開校しました。
:学問の分野では、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#学校|大学教育]]が定着し、日本の科学技術の水準も世界的なものになってきました。物理学では原子のモデルを提唱した{{ruby|長岡半太郎|ながおかはんたろう}}、数学の分野では{{ruby|高木貞治|たかぎていじ}}といった世界的に評価される研究者も登場するようになりました。
:特に、人々の生活に密着した医学の分野では、世界的に進みつつあった細菌学の分野で多くの成果が見られ、破傷風の治療法の研究やペスト菌の発見をおこなった'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#北里柴三郎|{{ruby|北里柴三郎|きたざとしばさぶろう}}]]'''、{{ruby|赤痢|せきり}}菌を発見した{{ruby|志賀潔|しがきよし}}、黄熱病や梅毒の研究で知られ、ノーベル生理学・医学賞の授賞候補ともなった'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#野口英世|{{ruby|野口英世|のぐちひでよ}}]]'''のように国際的な研究者がでてくるようになりました。
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{| class="wikitable" style="width:100%"
|[[ファイル:Noguchi Hideyo.jpg|thumb|120px|right]]
'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="野口英世"/>野口英世<small>
:本文に書いたとおり、野口英世は、国際的に活躍した細菌学者で、現在、その肖像が1000円札に使われている人です。子供の頃から大変苦労して勉強して、多くの業績を残した人で、皆さんの中で、野口英世の伝記を読んだことのある人も少なくないでしょう。ここでは、野口英世の生涯について簡単に紹介して、なぜ彼が偉人とされているかをお話ししたいと思います。
:1876年(明治9年)、英世<ref>元の名は「清作」で「英世」は22歳になって改名したものですが、ここでは、「英世」で統一します。</ref>は福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)に生まれます。貧しいというほどではありませんが、決して余裕のある家の生まれではありませんでした。英世は1歳の時に{{ruby|囲炉裏|いろり}}に落ち、左手に大{{ruby|火傷|やけど}}を負います。ただれた皮膚で指がくっついて開かなくなるというひどいものでした。英世は、学校に上がるようになると、このことでいじめられました。しかし、英世の学校の成績はとても素晴らしいものでした。英世の家計では、上級の学校に出すのは難しく、普通は小学校を出て働きに出るとことだったのですが、これを惜しんだ教師や地域の人がお金を出し合って、上の学校へ進ませました。また、火傷あとが不便であろうと、やはりお金を出し合って、まだ珍しかった西洋医術による手術を受けさせ、左手を使えるようにしました。英世はこの手術の成功に感激したことがきっかけで医師を目指すこととなりました。
:1896年(明治29年)英世は上京し、医学を学びます。1900年(明治33年)米国に渡り、研究を始めます。そして、アメリカを拠点として基礎医学の分野で数々の業績をあげ世界的な名声を得て、何回かノーベル生理学・医学賞の候補者ともなりました。
:1918年(大正7年)以降は{{ruby|黄熱|おうねつ}}病の研究に打ち込み、黄熱病の流行地域である南アメリカ各国やアフリカに渡って研究を続けます。しかし、黄熱病の研究中に自身もその病にかかり、1928年(昭和3年)アフリカのイギリス植民地ゴールド・コースト(現:ガーナ共和国) アクラで亡くなります。
:野口英世が偉人とされるのは、
:*庶民の出身であるにもかかわらず、高い能力で医者・研究者の地位についた<ref>大学以上の高等教育を受けさせることは当時の庶民にはめったにないことでした。また、英世の出身地会津は、戊辰戦争で官軍に抵抗し、政府などに関係者も少なく、薩長などの出身者より不利なところもありました。</ref>。
:*体に受けたハンディキャップにも負けず、努力して勉強した<ref>当時、家が貧しくても、軍隊に入って勉強するという方法もありましたが、英世の場合、このやり方は難しかったと考えられます。</ref>。
:*能力を世に出そうと、周囲の人が協力した。
:*日本ではなく、国外の研究所を拠点として国際的な活躍をした。
:というところにあると思います。野口英世の業績自体は、その後の医学の発展によって否定されたものも少なくはありませんが、目標に向けて努力する姿には見習うものがあると思います。
</small>
|}</div>
:日本の経済力が大きくなることにともなって、人々の暮らしもだんだん豊かなものになっていきましたが、この時期に、大きな災害に見舞われてもいます。
:まず、<span id="スペインかぜ"/>1918年(大正7年)から1920年(大正9年)にかけて世界中で流行した'''スペインかぜ'''といわれるインフルエンザの大流行です。当時は第一次世界大戦の交戦中であったため、軍人を中心に広く行き来し世界中で流行しました。全世界で30%にあたる5億人が感染し、少なくとも1700万人の死者がでたものと推定されています。日本においてもこの3年間で約40万人程度の死者が出ました<ref>最近のコロナ禍で、2020年から2022年7月現在の死者の累計数が約3万人であることと比較してみてください。</ref>。
:もう一つは、<span id="関東大震災"/>1923年(大正12年)9月1日、南関東一円を襲った'''関東大震災'''です。マグニチュード7.9〜8.3と推定される大地震<ref>1000年に1度と言われる2011年東日本大震災のマグニチュードは9.0で特別ですが、1995年阪神淡路大地震のマグニチュードは7.3くらいです。</ref>で、約1万人が倒れた建物の下敷きになって亡くなり、約9万人が、地震ののちに発生した火災で亡くなりました。
== 世界の変化3 ==
:'''この節は、小学校で学習する範囲を超えていますが、昭和以後の日本の歴史に大きく関わる第二次世界大戦がなぜ起きたのか、その後、「世界」はどうなったのかということを理解できていないと、昭和以降の日本の歴史を深く理解することはできません。'''
:'''この節では、「ナショナリズム」「社会主義・共産主義」「資本主義」とはなにかということについては理解しておいてください。ここでは細かいところを覚えるのではなく、大きな流れを頭のかたすみに置けるようにし、次の章を読み進めてください。'''
=== ナショナリズムと社会主義・共産主義 ===
==== 20世紀初めの世界 ====
:[[File:World 1898 empires colonies territory.png|thumb|650px|1898年の世界<br>国旗は上から、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、オランダ、ドイツ、トルコ、ベルギー、ロシア、日本、清、オーストリア、デンマーク、スウェーデン、アメリカ、イタリアの順です。]]
:18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパや北アメリカを中心に[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#世界の変化1_-_産業革命|'''産業革命'''が起こって経済を工業が大きく動かす社会になりました]]。また、[[#世界の変化2_-_市民革命|欧米の'''市民革命'''をきっかけに経済力を持った市民が国の政治に参加するようになり、国民全員が国の活動に参加する'''国民国家'''が誕生しました]]。日本も、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#明治維新と武士の社会の終わり|明治維新で一つの国民国家になり、富国強兵・殖産興業をスローガンとして、国内経済の近代工業化を進めました]]。
:一方、国民国家をつくりあげ、産業革命で大きな経済力を得た欧米の各国(ここでは、『{{ruby|先進国|せんしんこく}}』と呼んでおきましょう。)は、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#帝国主義|各国の工業製品の材料と{{ruby|市場|しじょう}}を求め、アフリカやアジアの、まだ、国民国家としてまとまっていない国や地域に進出し、ほとんどの地域を植民地にしていました]]。
==== ナショナリズム(民族運動) ====
:近代的な工業は、先進国を中心に進みましたが、やがて、製品を各地に売るため、また、原材料を輸送するため鉄道が各地に伸びて、近代社会は世界各地に広がり人々の生活を変えていきました。植民地となった地域でも近代的な教育が行われ、自由や平等といった人権の考え方が普及します。また、新聞などの出版物により人々のさまざまな考えが、広く伝わるようになります。
:植民地となっている地域で、このような知識の高まりが広がると、人々の中に、「どうして、私たちは、言葉や生活習慣の違う人たちに支配されなければならないのか」「私たちの作ったものは、安く買われて、先進国のものを高く買わないといけないのか」という考えが起こってきて、「独立して、自分たちの国を作ろう」という主張が芽生えます。この考えやこの考えに基づく運動を「'''ナショナリズム'''(民族主義・民族運動<ref>「ナショナリズム(Nationalism)」は、「ナショナル(National; ネイション(Nation; 国民・民族)の)」+「イズム(ism; 主義)」という意味です。国民主義とも訳されます。</ref>)」といいます。
:ナショナリズムは、最初、西ヨーロッパに隣接するオーストリア=ハンガリー帝国(「オーストリア帝国」と略します)やオスマン帝国の領土<ref>オーストリア帝国は、もともとヨーロッパの中でも最も強力な国の一つで、プロシアを中心としたドイツ帝国の成立まではドイツ民族の中心でした。この時代においても、中部ヨーロッパに広い領土を持つ国です。また、オスマン帝国は、15世紀に起こったトルコ民族が中心の国で、中東から北アフリカにかけてのイスラム世界を広くおさめ、ヨーロッパもバルカン半島まで領土としていた大国です。両国とも、19世紀にあっても広い領域を支配していましたが、近代化が遅れていました。</ref>であった中部ヨーロッパや東ヨーロッパ('''バルカン半島'''と呼ばれる地域を含みます)で盛んとなり、これが、第一次世界大戦の大きな原因となります。
:第一次世界大戦終結後は、アジア・アフリカの各地に広がり、世界各地で独立運動が展開されます。
<div style="margin:0 2em 0 4em">
{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="バルカン半島"/>バルカン半島<small>
[[File:Karte Suedosteuropa 03 01.png|thumb|200px|太線でかこまれた地域がバルカン半島です。色の濃い地域が民族や宗教が入り混じっている地域になります。]]
:バルカン半島は、ヨーロッパ中部、ドナウ川より南のアドリア海と黒海にはさまれた地域で、南は狭い海峡を隔ててアナトリア半島に面しています。歴史的には、古代ギリシア文明が栄えた地域であり、それに引き続いて古代ローマの文化が栄え、アナトリア半島との海峡のそばには、中世まで栄えた東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(ビザンティウム)が建設され、後にオスマン帝国の首都イスタンブールとなります。
:バルカン半島は、このように西にドイツやイタリアなどの西ヨーロッパ社会、東にロシアなどのスラブ社会、南にトルコなどのイスラム社会にかこまれ、東西ヨーロッパと西アジアを結ぶ交通の重要な地域であったため、それらの大きな勢力が波のように寄せたり引いたりする地域でした。また、この地域は山がちで、盆地が多く、各盆地ごとに生活する社会ができあがり、大変複雑な状態になっていました。スラブ系民族が多かったのですが、それに、ラテン系民族や、ギリシア系民族が混ざり、一部にはアジア系の民族もいました。また宗教もカトリックとギリシア正教にイスラム教の三大勢力が入り組んでいました。
:19世紀以降、人々がナショナリズムをとなえはじめ、各地で独立運動が起こります。この独立運動も運動の中での対立もあって、まとまることがなく、過激な行動も見られるようになりました。こうして、バルカン半島は『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれるようになりました。
</small>
|}</div>
==== 社会主義と共産主義 ====
:[[File:Marx7.jpg|thumb|150px|カール・マルクス]]
:<span id="労働運動"/>先進国国内にあっては、工業が発展するにつれて多くの{{ruby|労働者|ろうどうしゃ}}が生まれました。工場では工場労働者、石炭の炭鉱や鉄鉱石の鉱山では鉱山労働者、港で貨物の積み下ろしをする港湾労働者などです。産業革命前は、たとえば職人などは技術を長年にわたって習得する必要がある反面、技術を習得した職人は、代わりになる人を探すのが難しいという特徴がありましたが、産業革命以降の労働者の多くは単純な作業が多く、それができる人は数多いので経営者の都合で雇うこともクビにすることも簡単にできるようになりました。そのため、経営者など(労働者に対して{{ruby|資本家|しほんか}}という言い方をします)に比べて、多くの労働者は非常に貧しい生活となることが一般的でした。労働者は、自分たちの待遇(安定して雇われること、十分な賃金をもらえることや安全な労働環境など)を改善するために'''{{ruby|労働組合|ろうどうくみあい}}'''を結成し、集団で経営者と交渉したり、場合によっては'''ストライキ'''を起こすなどして資本家に対抗したりしました('''{{ruby|労働運動|ろうどううんどう}}''')。そのように、社会が変わっていくのを受けて、自由な経済活動を制限してでも、人々の平等な生活が送れる社会をめざすべきであるという'''{{ruby|社会主義|しゃかいしゅぎ}}'''の考えが生まれます。[[#世界の変化2 - 市民革命|市民革命]]は、国王や世襲の貴族といった身分社会から「自由」に活動できる権利を求める社会の変化でしたが、この自由には、工場を作ったり、物を取引する経済的な自由を含みます。自由な経済活動の結果、貧富の差が生じることについて、これをしかたがないことと認める考え方を、社会主義者は批判して、'''{{ruby|資本主義|しほんしゅぎ}}'''と名づけました。さらに、社会主義の中から、19世紀の半ばドイツ生まれの経済学者'''カール・マルクス'''は『{{ruby|資本論|しほんろん}}』を書いて、一層過激な'''{{ruby|共産主義|きょうさんしゅぎ}}'''をとなえました。
:<span id="共産主義"/>共産主義とは、簡単にいうと、農地や工場といった経済的な価値を生み出すものは、人々の共有にしてしまって、全ての人たちが働くことからのみ収入を得る<ref>この考えは、「働かざる者食うべからず」というスローガンに現れています。これは、働かないで怠けているものは食べるべきでない(=生きるべきでない)ととらえられがちですが、第一には、たとえば、地主が土地を小作人に貸したり、財産の利子や配当収入だけで生活できるような資本家を攻撃した言葉です。</ref>平等な社会を目指すという考え方です。それを実現するためには、資本家が持っている財産をうばって、分けあたえるということが必要になります。これは、革命であって、共産主義は、目指す社会を実現させるためには、革命が必要だと主張しました。この考え方は、世界中の多くの労働者の支持を得た一方で、ほとんどの資本家や、資本家が強く関わっている当時の各国の政府を強く警戒させました。また、社会主義や共産主義は、全ての人民が平等という考えが根本にありますから、君主制や民族主義とはあいいれないもので、<span id="反社会主義"/>王国や天皇制に親しみのある人たちや同じ民族だけで助け合おうとする人たちと敵対しましたし、また、平等な社会を作るためには、各個人の自由は多少制限されても仕方がないという考えであるため、人としての自由な行動を大事に思う人たちとも対立しました。
<div style="margin:0 2em 0 4em">
{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="イノベーション"/>新たな科学・技術の発展<small>
:[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#世界の変化1_-_産業革命|人々のくらしが「産業革命」で大きく変わったことは、前にお話ししたとおりですが]]、1860年頃から1910年くらいまでの間に、「産業革命」と同じくらい、またはそれ以上の科学技術上の大きな発展が見られ、さらに人々の生活を大きく変えます<ref>歴史学者の一部では、これを「'''第二次産業革命'''」と呼びます</ref>。
#'''新たな動力の発明''' - 「産業革命」において、中心となった動力は、主に石炭を使用した蒸気機関でしたが、19世紀半ば以降、これに、新たな動力源が加わります。
#;{{ruby|内燃機関|ないねんきかん}}
#:内燃機関とは、ガスまたは霧状にした燃料を爆発させ、それによって急激にふくらむ力を動力にする装置です。皆さんがよく知っているところでは、自動車のガソリンエンジンやディーゼルエンジンが代表的なものです。
#:蒸気機関の発明は主にイギリスでなされましたが、内燃機関はドイツで発展しました。1880年代、ゴットリープ・ダイムラーとカール・ベンツは各々で実用的なガソリンエンジンを発明し、それに少し遅れて、ルドルフ・ディーゼルがディーゼルエンジンを発明します。内燃機関は、蒸気機関に比べて小型化が容易なので、これを動力とした自動車が誕生しました<ref>ゴットリープ・ダイムラーとカール・ベンツは、各々で自動車の会社を作ります。1926年それらの会社が合併しダイムラー・ベンツができます。現在のメルセデス・ベンツ・グループ(「メルセデス」はダイムラー社製の車の愛称です)です。</ref>。蒸気機関は石炭に加え水が必要でしたが、内燃機関は燃料だけで足りるため、船舶などの動力は早期に内燃機関に切り替わりました。
#:<span id="飛行機"/>また、小型で高出力という特徴を活かして、1903年アメリカで'''ライト兄弟'''がガソリンエンジンを動力とした'''飛行機'''を飛ばすことに成功しました。
#:このように、内燃機関は小型にでき利用できる範囲も広いということで蒸気機関に取って代わっていきました。そのため、石油が資源としての重要性を大きく増すことになりました。
#;{{ruby|電動機|でんどうき}}(モーター)・発電機
#:[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#電気|電気が長い間研究されていたことは、前章に書いたとおりです]]。
#:電気を研究しているうちに、電気を通すことで磁石の力(磁力)が生じることが発見されました。すなわち、「電流」を通すと、「磁力」が発生し、鉄などが電磁石にくっつく(=「運動」する)ということです。1831年ファラデーは、これをまとめた、電気と磁気と運動の関係を発見します。この発見をもとに工夫して、電流を流して連続した回転運動を得る電動機(モーター)が発明されました。
#:逆に磁力のあるところで電線を運動させると、電線に電流が生じます。これを、応用して発電機が発明されました<ref>モーターに力を加えて回すことで電流を得ることができます。</ref>。電力は、それまで、化学反応を使った電池によって得ていましたが、大量に得ることは困難でした。発電機の発明によって、大量の電力を連続で安定的に得ることができるようになり、次に述べる「電気の実用化」が可能になります。
#'''電気の実用化'''
#:こうして、大量の電気が供給されるようになると、産業や生活に大きな変化がもたらされます。
#:産業の面では、電気を使うことでメッキや化学産業などが起こりました。また、精錬するのに電気を必要とするアルミニウムが実用化になりました。
#:生活の面では、1880年頃に'''トーマス・エジソン'''が電球を発明するなど、身近な家庭電化製品が発明されていきました。また、同じ時期に'''アレクサンダー・グラハム・ベル'''が実用的な電話を発明しています。
#:1900年頃、音声を電波<ref>何もない空間を電気の変化を伝える性質である電波は、1887年に発見されました。</ref>を使って無線で飛ばす技術が開発され、それを応用して、1920年、'''ラジオ放送'''が開始しました。
#'''化学工業'''
#:植物が育つには{{ruby|窒素|ちっそ}}が必要ですが、空気中の窒素は、豆類の根につく細菌類が化学合成し物質として固定するのを待つしかありませんでした。1909年にドイツで完成されたハーバー・ボッシュ法によって、空気中の窒素から直接、化学肥料の材料となるアンモニアを合成できるようになりました。効果的な化学肥料を製造できるようになり、農作物の収穫が格段と大きくなりました。これは、「水と石炭と空気からパンを作る方法」と言われました。
#:また、従来は火薬(黒色火薬)の原料として{{ruby|硝石|しょうせき}}が使われていて、地下資源として採掘するなど、容易に入手できるものではありませんでしたが、アンモニアが大量に手に入るようになったことと、黒色火薬より強力な窒素系の火薬が開発されたことで<ref>代表的なものは、ニトログリセリンです。これを安全に取り扱えるようダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルは、莫大な遺産でノーベル賞を創設しました。</ref>、火薬製造は原料の輸入に頼らず、強力な火薬が大量に製造できるようになりました。
</small>
|}</div>
=== 全世界を巻き込む戦争 - 第一次世界大戦 ===
==== 先進国の間の対立 ====
:[[File:3goku kyosho & 3goku domei.png|thumb|250px|三国同盟と三国協商]]
:先進国のうちでも、イギリスやフランスは、いち早く近代的な国家の仕組みを整え、産業革命も世界に先がけて成しとげていました。そのため、国内では余る生産力を海外に向けるためアフリカやアジアの多くの地域を植民地として、綿花など原材料の生産地として、そして製品の市場としていました。19世紀半ば頃から他のヨーロッパの他の国も近代工業化がすすんできました。特に、1871年に北部のドイツを統一してできたドイツ帝国では、[[#イノベーション|科学技術のめざましい発展]]が見られ、国の経済力は、すでにフランスを圧倒し、イギリスと肩を並べるものになっていました。しかし、イギリスやフランスは国外にも多くの植民地をはじめとした国際的な市場を持っていたのですが、近代化の遅れたドイツは植民地をあまり持っておらず、国外への展開に困難がありました。
:ドイツ帝国は、同じドイツ系のオーストリア帝国、隣国のイタリア王国と同盟し('''三国同盟'''<ref name="イタリア">'''イタリア王国'''もドイツと同じように市民革命ののちに封建諸国でばらばらであったイタリア民族を統一した王国で、イギリス、フランスを追いかけていた国の一つです。このような共通点から、ドイツと同盟を結びますが、オーストリアとの間に領土問題が存在したため、最初は参戦せず、後に、協商国側で参戦します。</ref>)、オスマン帝国とはかって、バルカン半島からトルコを経由して中東までの鉄道を敷設し、この地域の経済を有利に進めようともくろみました。ドイツから中東までを独占し、さらに、そこからアジア・アフリカに進もうとする考えです。
:この考えに、アジアやアフリカを大きな市場としていたイギリスやフランスは警戒します。
:また、東にあるロシアは、バルカン半島での[[#南下政策|南下政策]]がクリミア戦争で{{ruby|挫折|ざせつ}}した後、極東に目を向けていたのですが、[[#日露戦争|日露戦争]]に敗れたため、再び、クリミヤ半島からの南下に政策を変えます。今度は直接攻め入るのではなくバルカン半島のスラブ国家や独立運動家を支援しオーストリア帝国やオスマン帝国に対抗させる形での介入です。イギリスとフランスは、ドイツを{{ruby|牽制|けんせい}}<ref>相手に自分の行動を見せつけ、勝手な行動をとれなくすること。</ref>するため、ロシアとの間に{{ruby|協商|きょうしょう}}条約<ref>「協商」は「相談をする」と言う意味で、「協商条約」は外交にあたって相談をするということを約束した条約です。「商業」と直接の関係はありません。</ref>を結びます('''三国協商'''<ref>英仏・仏露・英露、各々の協商条約などを合わせたものです。イギリスとロシアは日露戦争までは敵対していましたが、ロシアが敗戦したことをきっかけに、同盟関係を結びます。</ref>)。
:こうして、バルカン半島を中心に、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国とその東西の国との緊張が高まってきました。
==== 初めての『世界大戦』 ====
:バルカン半島中西部のボスニア・ヘルツェゴビナは、長い間、オスマン帝国の領土で、住民もイスラム教に改宗した人々(ボスニア人)が多い地域でしたが、19世紀後半以降オーストリア帝国が支配する領域となっていました。
:1914年6月28日、オーストリア皇太子がボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボを訪問した際、隣国セルビア王国のボスニア系の独立運動家に暗殺されました('''サラエボ事件''')。これが、きっかけとなって、7月28日オーストリア帝国はセルビア王国に宣戦布告し、セルビアを支援するロシアも参戦、これを受けてオーストリアと同盟を組むドイツが参戦、そして、ドイツと敵対するフランスとイギリスが参戦し全ヨーロッパにおける戦争『'''第一次世界大戦'''<ref>これから、25年後、次の世界中を巻き込んだ大きな戦争が起こり、それを『'''第二次'''世界大戦』と呼ぶため、この戦争を『'''第一次'''世界大戦』とよびます。この当時は、『世界戦争』・『大戦争』と呼んでいました。</ref>』が始まりました。なお、以下、ドイツ・オーストリア側を「<span id="同盟国"/>'''同盟国'''<ref name="イタリア"/>」、イギリス・フランス・ロシア側を「<span id="協商国"/>'''協商国'''」と言うこととします。
:第一次世界大戦はそれまでの戦争とことなって『'''国家総力戦'''(または、'''総力戦''')』と言われます。それまでの戦争は、あくまでも軍隊と軍隊の戦いで、軍事拠点をめぐっての争いや、双方の主力部隊がある戦場で戦う(会戦)もので成り立っていて、そのような場所以外が戦火の被害を受けることは少なく、また、軍人以外で戦争で死傷する人は限られていました。しかし、第一次世界大戦になると、戦争は軍人以外の国民も巻き込んだものとなります。兵士は国民の中から徴兵されたものですし、銃砲や砲弾・銃弾、それに用いる火薬といった兵器の製造力も国内の工業力に支えられます。兵器だけではなく、軍服や戦場に持ち込む食糧もそうです。また、兵器やその他の物資を輸入に頼るにしても、その資金は国内の工場の生産物を輸出することで得られるものです。そのため、敵対する国は、相手の軍隊を攻撃するだけではなく、相手の国の生産力を下げるため、戦闘の機会に工場や輸送に用いる鉄道・港湾・船舶を破壊するようになります。さらに、相手が戦争を継続する力を落とすために、軍隊どうしの戦場ではないところの住宅等も破壊するようになりました。総力戦になって、軍人以外の民間人の死傷者や家屋などの財産の破壊が、それ以前と比べられないほどに増大しました。
:戦争は、ヨーロッパだけでなく世界中を巻き込みました。1914年11月ロシアと対抗し、イギリスに脅威を感じていたオスマン帝国は同盟国として参戦しました。こうして戦争は北アフリカなどにも広がりました。
:日本は、日英同盟から、イギリスに要請され協商国側に参戦し、ドイツの租借地である中国の{{ruby|青島|チンタオ}}や南太平洋の島々を占領しました。
:[[File:Cheshire Regiment trench Somme 1916.jpg|thumb|250px|第一次世界大戦の塹壕(ざんごう)]]
:第一次世界大戦では、{{ruby|塹壕|ざんごう}}という攻めてくる敵に対して地面に人が隠れられる溝を掘って<ref>フランスとドイツの間には、大西洋からスイスまでの全長700kmにわたる塹壕が両陣営でできました。</ref>、守りを固める戦法をとったため、お互い戦闘が進まず、戦争は長期化し、同盟国・協商国ともども国内経済は衰退し、国民生活はだんだん貧しいものとなっていました。一方で、当時の最先端の科学技術は次々と投入されます。化学工業の発展は火薬の力を強くしていましたし、毒ガスの開発にも応用されました。また、内燃機関を使ったトラックなどが、馬車などに代わって兵士を移動する手段となり、また、道の状態にかかわらず進むことができる、戦車なども開発されました。そして、[[#飛行機|発明されたばかりの航空機]]も戦場に投入されました。こうした、最新の科学技術の投入は、戦場をますます{{ruby|悲惨|ひさん}}なものにしていきました。
:1917年になって、状況が大きく変わります。
:アメリカ合衆国(以下、しばしば、「米国」と略します)は、もともと、「<span id="モンロー主義"/>南北アメリカ大陸のことに、ヨーロッパの国に口を出させない。その代わり、米国もヨーロッパの政治に口を出さない」という外交の方針があって、また、移民の国であるため、ドイツ系の国民も多く、中立の立場にいました。しかし、ドイツがイギリス周辺を航行する船を、軍事に関する物品を輸送する船であると潜水艦で攻撃し沈めるという作戦をとったところ、米国人を多数乗せた船を沈めると言う事件などがあって、この年に、協商国側として参戦します。米国の参戦は軍隊が増えたことに加えて、米国の工場など生産設備が無傷であったため、イギリスやフランスといった協商国には物資がどんどん補給され、協商国側に有利となりました。
:一方で、東側のロシアとの戦争も一進一退の状態でしたが、バルト海と黒海を同盟国側が封鎖したため、ロシアは輸出入がとだえ、国内の物資不足とインフレが社会問題となっており、各地でストライキや暴動が起こり、1917年2月に皇帝ニコライ2世は退位します('''ロシア革命''')。このような中、[[#共産主義|共産主義]]の運動家である'''ウラジーミル・レーニン'''らが政府を握り、同年12月にはドイツとの戦争を停止します。
:こうして、ドイツは、東側での戦争は終結したのですが、イギリス・フランスと戦う西側では、1918年になると米国の支援により優勢になり、また、[[#スペインかぜ|スペインかぜ(インフルエンザ)が大流行]]するなどして、戦闘の継続は困難なものとなり、11月ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はオランダへ{{ruby|亡命|ぼうめい}}<ref>国外に逃げ出すことを言います。</ref>、オーストリア皇帝カール1世も退位し、第一次世界大戦は事実上終了しました(正式な終了は講和条約が締結された翌年1919年となります)。
:同盟国であったドイツ帝国、オーストリア帝国、オスマン帝国は崩壊し、それぞれ共和国となりました<ref>オスマン帝国は、1918年に降伏し、1922年にトルコ革命により共和制となります。</ref>。
:第一次世界大戦は、協商国側の戦死者 553万人、戦傷者 1283万人、行方不明者 412万人、同盟国側の 戦死者 439万人、戦傷者 839万人、行方不明 363万人。民間人の死亡者、協商国側 360万人、同盟国側 314万人と人類が経験したことがない規模の犠牲者を出すことになりました。
==== 第一次世界大戦後の世界 ====
:1919年フランスのパリで第一次世界大戦の講和会議が開かれました。その結果、
:#敗戦国は戦勝国に賠償金を支払う。
:#領土の一部を戦勝国に割譲する。
:#オーストリア帝国、オスマン帝国が支配していた中央ヨーロッパ・バルカン半島、中東から北アフリカにかけての地域について、独立またはイギリスやフランスの保護領とする。
:#敗戦国の軍備は数年間制限する。
:などが決められました。
:また、このような戦争が2度と起こらないようにと米国大統領ウッドロウ・ウィルソンが提唱し、常設の国際的な協議機関「<span id="国際連盟"/>'''{{ruby|国際連盟|こくさいれんめい}}'''」が誕生します。国際連盟の運用は理事会が行いますが、日本は理事会の常任理事国にイギリス、フランス、イタリアと共に選ばれました。しかし、これを提唱した米国は、[[#モンロー主義|従来の国の方針]]から国内の反対があって国際連盟に加盟しませんでした。
;第一次世界大戦がもたらしたもの
:第一次世界大戦は、人類の歴史が始まって以来の大量の戦死者や戦傷者を出し、当時最も発展していたヨーロッパの国土が荒廃するなど、世界に大きな影響を与えました。その結果として以下のような変化が生じました。
:#ヨーロッパの衰退とアメリカ合衆国・日本の台頭
:#:同盟国であるドイツはもちろん協商国側のフランスは戦場として荒廃し、イギリスも大量の兵力を送り出すなどして疲弊するなど、ヨーロッパの生産力が弱まりました。代わって戦場とならなかった米国は、協商国に兵器他大量の物資を輸出した他、ヨーロッパ諸国が輸出していた地域に代わって輸出することになり、大きな経済的発展を見せることとなりました。その国力を背景に、国際政治で主導的な地位に立ちました。しかし、[[#モンロー主義|もともとの国の方針]]から、国際政治に十分に参加できませんでした。
:#:日本も、国民国家を成立させ産業革命をなしとげた世界でも数少ない国のひとつでしたが、ヨーロッパから遠く離れ、第一次世界大戦の影響を受けることはなく、米国ほどではありませんがヨーロッパの国々が輸出できない分をうめあわせるなどして経済が発展し、[[#国際社会|国際社会でも有力な国となりました]]。
:#<span id="軍縮"/>国際機関の誕生と軍縮の傾向
:#:それまでの国際外交は、国対国の関係でしたが、国際関係が複雑になると、関係する国がまとまって討議するようになりました。第一次世界大戦以前から、電気通信に関して万国電信連合(現.国際電気通信連合)がありましたが、戦後、世界平和を目標とする国際連盟が結成され、平和以外にも人権などについて各国が参加して討議されるようになりました。
:#:第一次世界大戦の{{ruby|惨状|さんじょう}}から、各国共に{{ruby|厭戦|えんせん}}<ref>戦争を嫌うこと。</ref>ムードになっていたため、軍縮に関する国際会議が何回も開かれました。
:#ナショナリズムの実現
:#:ナショナリズムの高まりは、国際的に認められるようになり、オーストリア帝国やオスマン帝国が支配した領域から、同じ民族で集まった国が数多く独立することになりました。しかし、アジアやアフリカの諸国は、まだ独立が認められず、第一次世界大戦後はアジア各地での独立運動が見られるようになります。
:#:また、先進国自身においても一種の民族主義が盛んになります。これは、国外資本が進出してくることや社会主義の民族主義を否定する動きに反発するものです。これが、のちに[[戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#ファシズム|ファシズム]]と呼ばれるものになります。
:#社会主義国家の誕生
:#:ロシア革命後、ロシア国内では内戦が起こり、1922年レーニンが率いる共産党が国内をまとめ、世界で初めての[[#共産主義|社会主義・共産主義]]を国の仕組みに持った'''ソビエト社会主義共和国連邦'''<ref>「ソビエト(ソヴェート)」はロシア語で「評議会」の意味で、ロシア革命前後に人々が集まって政治の方針を決めた団体が母体になっていることを意味します。「社会主義共和国」は社会主義を政治の方針とする共和国ということです。最後の「連邦」は、そのような社会主義共和国がいくつか集まって1国となっているということを言っており、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア・ソビエト社会主義共和国など、いくつかのの国で構成されていました。</ref>('''ソビエト連邦'''、'''ソ連''')が誕生しました。
== 脚注 ==
以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small>
<references/></small>
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{{前後
|type=章
|[[小学校社会/6学年/歴史編]]
|[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう|日本の歴史の流れ]]
|[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代|明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代]]
|[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで|戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで]]
}}
[[Category:社会|しようかつこうしやかい6]]
[[Category:小学校社会|6ねん]]
[[Category:小学校社会 歴史|#12]]
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206171
206168
2022-08-03T01:31:38Z
Tomzo
248
/* 初めての『世界大戦』 */
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|+ この章の概要
|<!--1889年前後から「国際的地位が向上」(1920年国際連盟成立 常任理事国入り)まで--><!--(コ) 大日本帝国憲法の発布,日清・日露の戦争,条約改正,科学の発展などを手掛かりに,我が国の国力が充実し国際的地位が向上したことを理解すること。-->
★時代区分:明治時代後期、大正時代</br>
★取り扱う年代:1889年(大日本帝国憲法の発布)から1925年(昭和改元)まで
; 大日本帝国憲法の制定
: 明治維新の改革は、五箇条の御誓文の方針によりなされましたが、改革が進み近代文明国としての形がひととおり整ってきたところ、さらに政治の形を確かなものとし、人々の権利を明らかにするため、'''憲法'''の制定と選挙によって選ばれた議員による議会を開くことが求められました。'''板垣退助'''や'''大隈重信'''は国会の開設を求めて、政党をつくりました。'''伊藤博文'''を中心とした明治政府は欧米諸国の憲法を研究し、1885年に'''内閣制度'''が創設され、1889年に'''大日本帝国憲法'''が発布されました。翌年憲法の精神に基づいて、初めて総選挙が行われ'''帝国議会'''(国会)が召集されました。
; 日清戦争と日露戦争
: 急激な近代化に成功した日本は、国内で拡大した産業の新たな市場を求め大陸に進出しようとします。朝鮮は中国の帝国'''{{ruby|清|しん}}'''の属国でしたが、その影響で近代化が進んでおらず、朝鮮国内の近代化を求める人々は日本と協力して清の影響から逃れようとしました。朝鮮国内の清に従う保守派と改革派の争いに日本と清はそれぞれ兵を出すなどして緊張が高まり、1894年朝鮮半島西岸における両国海軍の接触をきっかけに'''日清戦争'''が始まりました。日本は清の北洋海軍を壊滅させ、遼東半島を占領するなど戦いを有利に進め、翌年、'''陸奥宗光'''外務大臣と清の提督である李鴻章が交渉し、清の日本への賠償や台湾・遼東半島の割譲などを定めた下関条約が締結され講和が結ばれました(日本の勝利)。
: 遼東半島はロシア、ドイツ、フランスが反対したので割譲は取りやめとなりましたが(三国干渉)、そこにロシアが進出し、それを警戒する日本と対立しました。1904年日本とロシアは開戦し('''日露戦争''')、日本とロシアは、ロシアが植民地としていた遼東半島や中国東北部(満州)で戦いました。日本は多くの犠牲者を出しましたが、'''東郷平八郎'''がロシアのバルチク艦隊をやぶるなどして有利な位置となり、翌年、'''小村寿太郎'''外務大臣とロシアのウィッテが交渉し、ロシアの中国からの撤退、南満州鉄道の譲渡、南樺太の割譲などを定めたポーツマス条約が締結され講和が結ばれました(日本の勝利)。
; 条約改正と国際社会での地位の向上
: 幕末に欧米各国と結ばれた通商条約(不平等条約)の改正は日本政府の悲願でした。まず、政府は、国内の法整備を進め、公正な裁判が行われることを示し、日清戦争終結後の1899年治外法権を撤廃しました。そして、日露戦争の勝利は、世界に驚きをもってむかえられ、国際的地位も上がったことをうけて、1911年関税自主権も回復しました。
: 1912年大正天皇が即位し、元号が「'''大正'''」となりました。
: 1914年にヨーロッパの国々を二分した'''第一次世界大戦'''が始まりました。日本は、イギリスやフランスの属する連合国に参加し、敵対する同盟国の一つであるドイツが租借する中国の{{ruby|青島|チンタオ}}や南太平洋の島々を占領しました。1919年戦争は連合国の勝利に終わり、翌年、平和を維持するための'''国際連盟'''が設立、日本は英仏などとともに常任理事国の一つとなりました。
: このころになると、日本の科学技術の水準も世界的なものになり、'''野口英世'''のように国際的な研究者がでてくるようになりました。
|}
=== 世界の変化2 - 市民革命 ===
:日本が鎖国をしている間、ヨーロッパやそれを受けたアメリカ大陸では、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#世界の変化1 - 産業革命|産業革命]]ともうひとつの大きな社会変革が起こっていました。
;市民革命以前のヨーロッパ
:ヨーロッパの国々も長い間、生まれながら身分によって職業などが決められ、多くの人々は農民や職人として土地(荘園)の領主(「{{ruby|封建|ほうけん}}領主」といいます)や都市の貴族などに服従する社会でした。また、この時代は、ローマ教皇を頂点とする'''カトリック教会'''が、強い影響力や荘園を持っていたというのは、[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#キリスト教|前にお話ししたとおり]]です。この時代を{{ruby|封建|ほうけん}}制<ref>土地(領地)を間に介して、主従関係を結ぶ制度を言います。日本でも、[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#封建制|鎌倉時代の「'''ご恩と奉公'''」の関係]]はこれにあたりますし、安土桃山時代から江戸時代にかけての[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#石高制|石高制]]も封建制の一種です。</ref>の時代と言います。
:14世紀くらいになると、都市を中心に商業が発展してきて、豊かな財産を持って、荘園領主よりも強い影響力を持つようになる者もでてきました。15世紀「[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#大航海時代|大航海時代]]」になると、さらに、貿易や植民地からの収益で都市の商人などは勢力を強くしました。また、繊維工業などを中心に、人を集めて工場などを経営する人たちもあらわれました。これらの、封建領主や貴族ではない階層の人たちを、「{{ruby|市民|しみん}}階級」といいます。これらの、市民階級の経済力を背景に、ヨーロッパの各地で強い力を持った国王が誕生し、伝統的な荘園領主などを圧倒しました。これを、{{ruby|絶対王政|ぜったいおうせい}}の時代といいます。絶対王政の王国は、政治を行う政府は専門の役人をおき、戦争に備えて軍隊を平時から常設するようになりました<ref>封建制の時代は、国王でも自分の荘園をおさめられる程度の役人がいればよく、戦争などでは、その都度、封建領主に命令して軍隊(騎士)を集めていました。</ref>。
;市民革命と近代国家
:市民階級が台頭してくると、封建制度以来の身分制度に対して、生まれながらの身分にかかわらず人間は'''平等'''であり、'''自由'''に発言や経済活動をする'''権利'''('''人権''')を持っているという考え方が広がってきました。また、封建制の時代はおさめている荘園の収穫から政治を行っていましたが、絶対王政の政府は、市民階級からの税金で成り立っていたのですが、税金を取られる市民たちは国王の都合だけで徴税されることに不満を持ち始めました。こうして、17世紀以降、市民階級は絶対王政と対立するようになります。市民階級は代表を出して、政治に参加するようになります。'''議会'''('''国会''')の始まりです。さらには、国王の圧政に対しては、市民階級が集まって武力をもって王政を倒したりしました。これを「'''{{ruby|市民革命|しみんかくめい}}'''」と言います。
:市民革命は、17世紀のイギリスに始まりました ('''清教徒革命'''など)。ひきつづいて、北アメリカ大陸のイギリス植民地が、独立を求めて戦争を起こしアメリカ合衆国が成立しました ('''アメリカ独立戦争''')。そして、1789年代表的市民革命である'''フランス革命'''が起こります。市民革命は、フランスの'''ナポレオン'''が、フランスの革命政府を打ち倒そうとする周辺の国々を逆にせめた戦争によってヨーロッパ各地に広がります。
:市民革命自体は、各国の状況によって様々な結果を生みました。革命後に王政が復活した国もあります。しかし、市民革命で国の政治に身分によらない一般の市民が参加できるようになって、広く国全体から資金を集める仕組みができたこと、また、兵隊に国民が動員されるようになったこと('''[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#徴兵制|徴兵制]]''')から、数が多く強力な軍隊を持つようになり、それまでの、封建的な国や絶対王政の国を圧倒するようになりました。これらの古い体制の国々も、市民階級を国の政治に参加させるように、国の仕組みを変えるようになりました。まず、国民の権利を保障し、国民の代表が参加する'''議会'''を設置して国の政治に参加できるようにしました。そして、そのことを'''憲法'''という、強い力を持った法律に定めるようになりました。
:国が、国王などの所有物ではなく、そこに住む国民によって成立するという近代国家('''国民国家''')の誕生です。
=== 大日本帝国憲法の制定 ===
[[File:Taisuke ITAGAKI.jpg|thumb|125px|板垣退助]]
[[File:OKUMA_Shigenobu.jpg|thumb|125px|大隈重信]]
[[file:Itō Hirobumi.jpg|thumb|125px|伊藤博文]]
:明治になって、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#四民平等|身分制度がなくなり]]<ref name="華族">実際は、公家や大名、明治政府に大きな貢献のあった人たちについては、{{ruby|公爵|こうしゃく}}・{{ruby|侯|こう}}爵・{{ruby|伯|はく}}爵・{{ruby|子|し}}爵・{{ruby|男|だん}}爵といった貴族の爵位が与えられ、その一族は「{{ruby|華族|かぞく}}」と呼ばれました。華族には、いくつかの特権が認められましたが、華族の数は比較的少ないうえ、江戸時代ほど極端に大きな差ではありませんでしたし、社会的な貢献をすることで、誰でも華族となる機会はありました。また、「士族」と「平民」の間で異なる取り扱いは一切ありませんでした。</ref>、人々は才覚や努力によって、どのような職業に就くこともできるようになりました。人々は、学業をはじめとしたさまざまな努力をして、いろいろな分野で活躍するようになりました。
:明治政府は、さまざまな改革を強引に進めたため民衆と対立することも少なくありませんでした。このような民衆の不満は、[[#士族の反乱|士族の反乱]]の後は、こうした近代思想を取り入れて政治参加を求める{{ruby|自由民権|じゆうみんけん}}運動につながります。自由民権運動は、憲法の制定と、民衆が政治に参加できる選挙を通じた国会の開設をもとめるようになります。自由民権運動は、征韓論で下野した'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#板垣退助|{{ruby|板垣退助|いたがきたいすけ}}]]'''と1881年(明治14年)に'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#伊藤博文|{{ruby|伊藤博文|いとうひろぶみ}}]]'''らと対立して政府を離れた'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#大隈重信|{{ruby|大隈重信|おおくましげのぶ}}]]'''らに主導されました。
:大隈や板垣が主導する自由民権運動の主張は、国民の自由と権利を保障する憲法の制定とそれに基づく国民の選挙による議会(民選議会)の開設及び議会による政府の統制でした。伊藤博文ら明治政府を主導する人たちは、自由民権運動の考えをそのまま受け入れると、政策を政府が思うとおりに進めることができず、富国強兵などの改革政策に差しさわりがあると考え、この運動を弾圧しました。一方で各地の有力者や、新たな産業の成功者が登場してきており、明治政府はこれらの人々の支持を受けたいと思っていました。また、欧米諸国から見ると、民選議会が政治を進めない国は遅れているとの意識があり、不平等条約改正にあたっても説得させることができない理由の一つとなっていました。
:1881年(明治14年)明治政府は、明治天皇名で「国会開設の勅諭」を下し、1889年(明治22年)に国会を開設することを国民に約束しました。これを受けて、自由民権運動の活動家は政党を結成し、同年には自由党が板垣退助を中心として、翌1882年(明治15年)立憲改進党が大隈重信らによって結成されました。
:一方、伊藤は、1882年(明治15年)、憲法制定・国会開設の模範を研究するためためにヨーロッパを視察しました。そこで、伊藤は議会が発達したイギリスや、人権思想が進んでいたフランスではなく、ドイツ帝国の憲法を模範にすることとしました<ref>この頃のドイツは、日本が藩に分かれていたのと同様に、多くの王国・貴族領に分かれていたものを、各地で統一の要望が上がり、その中で有力となったプロイセン国王を皇帝とするドイツ帝国が成立していました。ドイツ帝国は、イギリスやフランスよりも、皇帝(それを受けた行政機関)の権限が強く、議会の力はおさえられていました。ドイツは、英仏に比べ工業化などが遅れていたために、それを推進するために、強い行政の力が必要であったためです。また、各個人の人権についても制限がありました。伊藤が、英仏ではなく、ドイツを国の形の模範としたのは、このように、日本と状況が似ていたためです。</ref>。帰国した伊藤は憲法制定の準備をはじめ、1885年(明治18年)に内閣総理大臣を長とする'''内閣制度'''が創設され、1889年(明治22年)に'''大日本帝国憲法'''(明治憲法<span id="明治憲法"/>)が発布されました。翌1890年(明治23年)7月1日憲法の精神に基づいて<ref>明治憲法が、実際に有効となる(施行される)のは、1890年(明治23年)11月29日なので、まだ、憲法の下の選挙・国会の招集ではありませんでした。</ref>、初めて総選挙が行われ、11月25日'''帝国議会'''(国会)が召集されました。
:明治憲法は以下のことを定めています。
:#天皇は、日本の統治者とされます。
:#国会は、天皇に「協賛」して法律や予算を定める機関とされます。
:#*法律や予算を決めるのは天皇であって、国会は、その補助をしているに過ぎないという考えを表しています。
:#*緊急と認められる時には、天皇<ref>実際は、行政府である政府の仕事です。</ref>は国会の議決によらず、法律に代わる勅令を出すことができました。
:#国会は、貴族院と衆議院により成り立ち、衆議院は選挙によって選ばれた議員により構成され、貴族院は皇族・華族<ref name="華族"/>及び勅命<ref>天皇の命令。実際は、その時の行政府による指名。</ref>で任名された議員により構成されます<ref>ただし、このような議会の成り立ちは、世界的に見ても珍しいものではありませんでした。明治憲法の元になったドイツ帝国の議会が貴族院と衆議院で成り立っていましたし、そもそも、議会政治の模範とされるイギリスも世襲貴族による「貴族院」と選挙で選ばれた議員による「庶民院」で構成されていて、現在もその伝統が残ります。このことで、身分で選ばれた議員による議会を「上院」、選挙で選ばれた議員による議会を「下院」という習慣ができました。アメリカ合衆国には独立当時から貴族制度はありませんでしたが、上院は各州の代表(元々は州議会が選出していましたが、現在は州民の選挙によります)、下院は州にかかわらず選挙で選ばれた議員による議会と、上院と下院で性質を変えていたりします。時代が下るにつれ、選挙で選ばれた議員の決めることが優先されるという政治習慣(下院優先の原則)が有力になります。</ref>。
:#*衆議院の優位などの定めはなく、各議院で議決されなければ法律などは成立しませんでした。
:#*<span id="制限選挙"/>衆議院議員の選挙権は、憲法を定めた当時は、一定以上の税金を納めた者にのみ認められていました。
:#国務大臣は天皇を{{ruby|輔弼|ほひつ}}(助言し助ける)すると定められます。また、内閣総理大臣についての定めはありません。
:#*<span id="内閣総理大臣"/>内閣総理大臣は、天皇が指名する建前でしたが、実際には、元老といわれる人達<ref>元老には、最初は伊藤博文など維新の功臣が、後代には長期に首相を務めた者がなりました。</ref>が協議したり、後には首相経験者などで構成する重臣会議で決議して天皇に{{ruby|推薦|すいせん}}して決まるものでした。
:#軍隊(陸海軍)は天皇が直接まとめひきいるとされました。また、国民には徴兵に応じる義務がありました。
:#*軍隊は、国会や内閣の命令を聞く必要がないと解釈されるようになります。
:#様々な国民の人権が認められましたが、それは、法律の範囲内で認められるものとされました。
:#*例えば、女性には選挙権は認められることはありませんでした。また、民法で家族や相続は家制度によったため、女性は不利な取り扱いを受けました。
:#*後に制定される治安維持法は、政治思想(特に[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#社会主義と共産主義|社会主義思想・共産主義思想]])を取り締まる法律でした。
=== 日清戦争と日露戦争 ===
==== 日清戦争 ====
[[File:《马关条约》签字时的情景.jpg|thumb|right|200px|none|下関条約の調印の様子。 向かって左に着席するのが日本の伊藤全権、右が清国の李全権]]
: 急激な近代化に成功した日本は、国内で拡大した産業の新たな市場を求め大陸に進出しようとします<ref>「急激な近代化に成功した日本」と書きましたが、これは、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#世界の変化1 - 産業革命|前の章の『産業革命』の節]]に書いた「欧米各国は、産業革命で経済力が大きくなりましたが、さらにそれを大きくするため、国内で生産する工業製品の{{ruby|市場|しじょう}}と原材料となる農産物や鉱物資源を欧米諸国の外に求めるようになりました。」の部分を日本に当てはめたものです。しかし、この頃の日本の工業力はまだ近代化が始まったばかりで、外国に市場を求めるまで成長していません。</ref>。朝鮮は中国の帝国'''{{ruby|清|しん}}'''の属国でしたが、その影響で近代化が進んでおらず、朝鮮国内の近代化を求める人々は日本と協力して清の影響から逃れようとしました。朝鮮国内の清に従う保守派と改革派の争いに日本と清はそれぞれ兵を出すなどして緊張が高まり、1894年(明治27年)朝鮮半島西岸における両国海軍の接触をきっかけに'''日清戦争'''が始まりました。日本は清の北洋海軍を壊滅させ、黄海沿岸の軍事拠点を攻撃し、遼東半島を占領するなど戦いを有利に進め、翌1895年(明治28年)、'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#陸奥宗光|{{ruby|陸奥宗光|むつむねみつ}}]]<span id="陸奥宗光"/>'''外務大臣と清の提督である{{ruby|李鴻章|りこうしょう}}が交渉し、以下の事項などを定めた'''下関条約'''が締結され講和が結ばれました(日本の勝利)。
:#清は、朝鮮の独立を認める。
:#清は、日本へ台湾と{{ruby|遼東|<small>りょうとう/リャオトン</small>}}半島<ref name="中国地名">中国の地名については、日本語の音読みで読む方法と現代の中国語に近い音で読む方法があります。後者は、「音読みだと日本人にしか通じない」と言う配慮から現代の中国語に近い音を当てると言う意図なのかもしれませんが、実際の発音とは異なっているので中国人にも伝わらないでしょう。ですから、ここでは、原則として音読みで音をふりますが、{{ruby|北京|ペキン}}、{{ruby|上海|シャンハイ}}のように現代中国語音に似せた言い方が一般的になったものもありますので、それらは、よく使う言い方をカタカナで表記します。</ref>を割譲する。
:#清は、日本へ賠償金2億両<ref>1両は銀37.3gで、当時の日本円に換算して約3億円。これは、政府の年間予算の約3倍にあたります。</ref>を支払う。
:#*日本は、この賠償金を資金として大規模な製鉄所を福岡県に作りました('''{{ruby|八幡|やはた}}製鉄所''')。
:清はそれまでも、イギリスやフランスと争って負けてはいましたが、欧米諸国は、それでも清国は世界最大の人口をかかえる巨大な国<ref>当時、3億人を超える程度の人口があったものとされています。</ref>であって、実力を発揮すれば欧米諸国であっても勝てるものではないと思われていた<ref>これを、「清国は『眠れる獅子』だ」という言い方をします。</ref>ので中国本土への進出はおさえられていましたが、近代化後間もない日本に敗れたため、欧米諸国は清国への進出を強め、中国大陸の多くの地域で欧米諸国の半植民地と言ってよい状態になりました。
<div style="margin:0 2em 0 4em">
{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話&考えてみましょう】日本は、どうして清国に勝てたのでしょう<small>
:戦争の勝敗の原因は、様々な要素があって、簡単に決めることができるものではありませんが、その時代の当事国の違いを比較することで、国の体制などの特徴を理解することができます。ここでは、なぜ、清国はやぶれ、日本は勝つことができたのかを考えてみましょう。
:戦争の勝敗を決める要素の第一は双方の国の規模です。大きな国の方が当然有利です。このころ、日本の人口はようやく4千万人程度のところ、清国の人口は3億人を超えていました。農業に適した広大な国土を有しており、近代化が遅れていたとは言え、税収などは日本よりもはるかに大きかったと考えられます。日清戦争の前も、世界最大級の軍艦をドイツから購入していたりします。相手の政権を倒すまでの全面戦争と言われる戦争であれば、日本は、勝つことは難しかったでしょう。
:一方で、清国は皇帝の軍隊は{{ruby|八旗|はっき}}・{{ruby|緑営|りょくえい}}と言われる17世紀の軍隊のままで、これは、日本の武士同様将兵が生まれながらの家柄で決まっている軍隊でしたが、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#アヘン戦争|アヘン戦争]]以後の近代的戦争や民衆の反乱<ref>銃器などを欧米の商人から買っていました。</ref>では対応できなくなっていました。そこで、地方に派遣された高官は地元の有力者に呼びかけ、その地方の税を流用するなどして、地元の若者を集め、私的に軍隊を組織していました。一種の義勇兵ですが、実際は金を払って集めた{{ruby|傭兵|ようへい}}も少なくなかった言われています。
:また、清国は皇帝が独裁する事が建前であったため、外交と軍事がばらばらの動きをし、軍事も統一的な動きはできていませんでした。
:日本の場合、中央政府が全国民から国の制度として兵を集め、政府の予算で設備をそろえ、組織だった訓練を実施した軍隊を有していました。また、「天皇の軍隊」「日本国の軍隊」としての『国民』意識も高く、これが、士気につながりました。
:このような違いから、黄海およびその沿岸での戦闘という局地的な戦争では、国の規模の違いにかかわらず勝つことができたということです。
</small>
|}</div>
==== 日露戦争 ====
[[画像:Location-of-Liaodong-Peninsula.png|thumb|150px|left|遼東半島]]
[[ファイル:Kisaburō Ohara, Europe and Asia Octopus Map, 1904 Cornell CUL PJM 1145 01.jpg|thumb|300px|right|1904年当時、日本人がロシアにもったイメージを伝える風刺地図。]]
:下関条約で、日本は、台湾などとともに中国本土の遼東半島の割譲を受けましたが、ロシア、ドイツ、フランスが反対し('''{{ruby|三国干渉|さんごくかんしょう}}'''<ref>「干渉」とは、「他のものの動きに影響を与える」という元々の意味から、このような場合、「他国の政治に口を出す」という意味で使われています。</ref>)、遼東半島の割譲は取りやめとなりました。ところが、その遼東半島にはロシアが進出し、{{ruby|大連|だいれん}}、{{ruby|旅順|りょじゅん}}<ref name="中国地名"/>といった都市を建設し始めました。
:ロシアは、ユーラシア大陸を横断する鉄道('''シベリア鉄道''')を建築し、ヨーロッパとアジアの間の物流をおさえようとしていました<ref>日本からイギリスやフランスまで、船ならば45日〜50日かかったところを、シベリア鉄道を使えば15日程度で移動できました。</ref>。シベリア鉄道は、もともと、ロシア領内をウラジオストックまでのものですが、ロシアは遼東半島支配に伴って、大連まで{{ruby|東清|とうしん}}鉄道を建設し、その途中である{{ruby|満州|まんしゅう}}地域<ref>現在は、中国東北部と呼ばれる地域です。もともと、「満州(満洲)」とは清王朝をおこした民族(女真族)の名前で地名ではありませんが、「満洲族が起こった土地」と言うことで通称として用いられるようになりました。このころから、1945年頃まで、満州は日本にとって歴史上重要な土地となります。</ref>を実質的に植民地とするなど支配を強めます。そして、満州に接する朝鮮(日清戦争後、{{ruby|大韓帝国|だいかんていこく}})の政治にも介入するなどしはじめました<ref>ロシア進出の背景には、大韓帝国の王室のメンバーや{{ruby|両班|ヤンバン}}と呼ばれる高級官僚らが、朝鮮の政治・経済に段々影響を強めてくる日本を警戒して、それに対抗するため、ロシアと通じていたということもあります。</ref>。
:日本は、ロシアの動きに対して警戒しました。ロシアが満州地域でやっていることは、他のヨーロッパ諸国がアジアやアフリカでやっていて、日清戦争後に中国本土で進められている植民地化であって、そのままでは、満州地域だけでなく、朝鮮半島も、さらには日本までもが、植民地となってしまうのではないかと考えました<ref>これは、大げさな話ではなく、アフリカの植民地化はこの時期に進み、19世紀末には独立国は、エジプト周辺、エチオピア、リベリアだけになっていましたし、アジアも1887年にフランスがベトナムを植民地にするなどして、独立を保っていたのはシャム王国(現在のタイ王国)くらいになっていました。</ref>。
:日本政府では、伊藤博文に代表される日露の衝突を外交努力などで避けるべきとするグループがあった一方で、陸軍に対して大きな影響を持った'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#山県有朋|{{ruby|山県|やまがた}}(山縣){{ruby|有朋|ありとも}}]]'''や首相の{{ruby|桂太郎|かつらたろう}}、外交官出身の外務大臣'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#小村寿太郎|{{ruby|小村寿太郎|こむらじゅたろう}}]]<span id="小村寿太郎"/>'''らは、戦争は避けられないので、それに向けての準備をするという態度に出ました。日本国内では、戦争に向け軍艦を整備したり新たな兵器の開発を行う一方で、ロシアの中央アジアからインドへの南下などを警戒するイギリスと同盟を結び、ロシアとの戦争に備えました。
[[file:Nichirojp.png|thumb|300px|日露戦争の経過]]
:1904年(明治37年)日本とロシアは開戦し('''日露戦争''')、日本とロシアは、ロシアが植民地としていた遼東半島や満州で戦いました。ロシアは、モスクワなどから遠い極東に兵や兵器・軍馬・食料などを送るには、シベリア鉄道に頼るしかないので、すぐに戦場で攻撃の体制を作ることはできません。一方で、日本も、兵などを送るには日本海を渡らなければならないので、この地域の<span id="制海権"/>{{ruby|制海|せいかい}}権<ref>ある地域を自由に航行できるということ。</ref>を握る必要がありました。海軍はロシアの太平洋側の主力艦隊である旅順艦隊をせめ有利な立場になりますが、旅順艦隊は、援軍である世界最大級の艦隊バルチック艦隊<ref>「バルト海」で行動する艦隊なのでバルチック艦隊といいます。</ref>が到着するまで、旅順港に待機することになりました。日本陸軍は遼東半島南端から東進鉄道沿いに北上、朝鮮国境からの軍とあわせ、ロシア軍を満州地域北部までおしもどしました。また、旅順に引き込んだ艦隊がバルチック艦隊と合流すると制海権が危うくなるので、'''{{ruby|乃木希典|のぎまれすけ}}'''<ref>死後、乃木神社にまつられます。乃木坂などの地名にも残っています。</ref>が率いる陸軍の軍団が、要塞となった旅順を攻撃します。この旅順を囲む戦いは、日露戦争の中でも多くの日本兵の犠牲を出しましたが1905年(明治38年)1月に降伏し、バルチック艦隊のみを迎えうつことになりました。そうして、5月に'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#東郷平八郎|{{ruby|東郷平八郎|とうごうへいはちろう}}]]'''がひきいる日本海軍は日本海海戦でバルチック艦隊をやぶり、日本海の制海権を安定したものにしました。
:日本は、戦争を有利に進めたとことで、アメリカ合衆国大統領'''セオドア・ルーズベルト'''に講和の仲介を依頼し、日本からは'''[[#小村寿太郎|小村寿太郎]]'''が、ロシアからは'''ウィッテ'''(前蔵相、のちに初代首相)が、米国のポーツマスに出向き、講和会議が開かれました。1905年9月5日、以下の事項を決めた条約('''ポーツマス条約''')が結ばれ、ロシアは中国から撤退し、日露戦争は日本の勝利で終わりました。
:# ロシアは日本の朝鮮半島における優越権を認める。
:# 日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
:# ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
:# ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の{{ruby|租借|そしゃく}}<ref>土地などを、借り受けるという意味ですが、実質的な支配が行われ、「租借地」というのは、「植民地」とほぼ同義語になります。</ref>権を日本へ譲渡する。
:#*この路線は、「南満州鉄道」と改称され、日本の満洲進出の基礎となります。
:# ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
:# ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
:ポーツマス条約では下関条約と異なり賠償金の支払いはありませんでした。一部の日本国民はこれを不満に思って、暴動をおこすものもありました。しかし、国民には知らされていませんでしたが、戦争を有利に進めていたとはいえ、これ以上は財政上ほとんど無理な状態になっていて、すぐにでも戦争をやめなければならない状態になっていました。ロシアはそれを見越して、敗戦国でありながら、比較的有利な条件で講和条約を結んだといえます。
:しかし、この結果、満州や朝鮮半島に対するロシアの脅威は去りましたので、日本は、この地域への進出を高めます。特に、満州は石炭や鉄鉱石の地下資源が豊かな地域であったため鉱山開発を盛んに行いました。
:韓国については、政治的な不安定を理由に日本の属国化が進められ、1905年12月には統監府が設置され、伊藤博文が初代統監に就任しました。
:1909年 (明治42年)、伊藤博文はロシアとの外交交渉のため満州のハルビンに出向きましたが、そこで、朝鮮民族主義者に暗殺されます。それまで、韓国に対しては朝鮮民族に対し強硬的に望む人たちと、穏健に進めるべきという人たち(伊藤博文もその意見でした)が対立していたのですが、伊藤博文が暗殺されたことで、強硬派の勢いを増し、1910年(明治43年)8月に、日本は大韓帝国を併合しました('''{{ruby|韓国併合|かんこくへいごう}}''')。
:<span id="辛亥革命"/>日露戦争は、日本とロシアの戦争でしたが、その戦いは清国の領土でなされました。清国は、もはやそれを止める力を失っていました。中国の人々は、外国に国土を侵される不安が高まり、中国の人々が政治参加をする国をつくるため、1911年{{ruby|孫文|そんぶん}}が主導者となって革命を起こしました('''{{ruby|辛亥革命|しんがいかくめい}}''')。翌1912年清王朝は滅ぼされ、アジアにおいて史上初の独立した共和制国家である{{ruby|中華民国|ちゅうかみんこく}}が誕生しました。
<div style="margin:0 2em 0 4em">
{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="南下政策"/>ロシアの南下政策<small>
:ロシアは、ヨーロッパの国の中では最も東にあって、17世紀にシベリアを征服し太平洋に達する領土を持つ大きな国ではあったのですが、ヨーロッパ中心部から離れていたので産業革命などはおくれてつたわりました。また、国土の多くが北にあったため、冬にほとんどの港が凍結するなどして、通商などにも支障が出るため、南へ勢力を伸ばす政策をとっていました。これを、「『{{ruby|不凍港|ふとうこう}}』を求めての南下」と言ったりします。19世紀、{{ruby|黒海|こっかい}}を勢力におさめようと、1853年トルコ(オスマン帝国)の領土であったバルカン半島などで戦争(クリミヤ戦争<ref>ロシアは、バルカン半島を南下しようとしたのですが、イギリス・フランスの参戦により押し戻され、クリミア半島が主要な戦場となりました。クリミヤ半島は、現在(2022年4月)、ロシアの侵攻で話題になっているウクライナの黒海地域です。</ref>)を起こしましたが、トルコをイギリスやフランスが支援し、この戦争ではロシアは敗北します<ref>クリミア戦争で、戦傷者の救護を組織的に行い、看護師による近代看護を確立したのが、フローレンス・'''ナイチンゲール'''です。</ref>。その後のバルカン半島の各民族の独立運動に合わせ、1877年オスマン帝国と戦争(露土戦争)をし、これに勝利しバルカン半島を経由したロシアの南下路が開けます。しかし、軍事的な勝利を収めたロシアの勢力拡大に対して欧州各国が警戒感が広がったため、ドイツ帝国の首相ビスマルクが主導し、1878年ベルリン会議を開き、ロシアの南下政策を止め、ロシアはバルカン半島方面の南下を一旦断念します。
:そこで、ロシアは、ヨーロッパ方面から世界へ出ることをあきらめ、東側のシベリアを経由して中央アジアや太平洋への進出をもくろみます。その結果のひとつが、三国干渉及びそれに続く遼東半島への進出です。
:しかし、日露戦争に敗れたため、ロシアは、ふたたび西へ目を向けます。そこで、バルカン半島から東に勢力を伸ばそうとしていたドイツとぶつかります。これが、第一次世界大戦の原因の一つとなります。
</small>
|}</div>
<div style="margin:0 2em 0 4em">
{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話&考えてみましょう】日本は、どうしてロシアに勝てたのでしょう<small>
:ここでは、なぜ、ロシアはやぶれ、日本は勝つことができたのかを考えてみましょう。
:双方の国の規模ですが、日本とロシアでは、人口で3倍、国家予算で10倍、常備軍で5倍という、大きな差がありました。また、清国と違い、ロシアの軍隊はロシア皇帝の下に組織された近代的な軍隊でした。実際、戦没者はロシアが81千人程度のところ、日本は88千人と日本の方が被害が大きかったりしています<ref>当時は、戦場の衛生環境などが悪く、病気になって亡くなる兵士も少なくありませんでした。日露とも、戦没者の1/4が病没者で。特に日本の病没の原因としては、ビタミンB欠乏症の「{{ruby|脚気|かっけ}}」が目立っていて、これは、日本陸軍の医療関係者が、当時新興の栄養学を軽視したためとも言われています。この医療関係者には、小説家の森鴎外もいました。</ref>。
:このように、日本に大きな被害が出た戦争であっても、ロシアが強気に出られなかったのは、サンクトペテルブルクやモスクワなどがある本拠地であるヨーロッパから、鉄道で10日以上かかる遠隔の地で兵隊を送ろうとしても、1日に数千人程度が限界だったからでしょう<ref>戦争において装備に大きな差がなければ、数の違いは大きく影響します。</ref>。ロシアにとっては、バルチック艦隊が日本海の制海権をにぎって、日本が大陸に兵隊や物資を送れなくすることで逆転をもくろんだのですが、日本海海戦でその希望もなくなり、ロシアは戦争の継続をあきらめたのだと思われます。
:バルチック艦隊は強力な艦隊でしたが、日英同盟により、インドなどイギリス植民地への寄港<ref>当時の軍艦の動力は蒸気機関であっったため、石炭と真水を大量に積み込む必要がありました。</ref>が拒否されたため、大西洋から、アフリカの南を回ってインド洋経由で7ヶ月もの航海ののちの到着でした。また、ロシアは身分制が残っており、士官は貴族階級など上流階級の出身者が多く、それに対して、水兵などは農民出身の者や都市の労働者などが多く、航海での待遇の差もあり、航海中から対立も生じていました。
:この上流階級と庶民階級の対立は、海軍だけでなく、陸軍でも見られました。なにより、ロシア国内の一般的な生活でも見られたのです。いくら国の規模が大きいとはいえ、戦争は国民生活に商品不足・インフレーションの影響を与えます。もともと、民衆からの不満がみられ、革命運動もあったところ、日露戦争によるインフレーションと数々の戦いで敗戦したとの知らせで民衆の間に暴動が頻発し、1905年には革命と言っていい状態になっていました。このような国内の不安定さから、ロシア政府は講和を急ぐようになり、日本の勝利につながったといえます。
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|}</div>
=== 条約改正と国際社会での地位の向上 ===
[[File:Chikamatsu Kiken buto no ryakuke.jpg|thumb|300px|鹿鳴館における舞踏会を描いた浮世絵]]
;不平等条約改正の歩み
:幕末に欧米各国と結ばれた通商条約(不平等条約)の改正は日本政府の悲願でした。
:明治政府は、文明開化が進んで欧米並みの文明国になったことを示すため、さまざまなアピールをします。たとえば、1883年(明治16年)に外務卿{{ruby|井上馨|いのうえかおる}}は、'''{{ruby|鹿鳴館|ろくめいかん}}'''という、外国からの重要な来訪者や外交官を接待するための社交場を建設し、舞踏会を開いたりしていました。鹿鳴館での舞踏会などには、政府高官の夫人や娘なども参加しましたが、当時はドレスなどの洋装、欧米風の応対のマナーやエチケット、また、ダンスなどは全く一般的ではなく、必死の訓練などがあったと言われています。しかし、このような取り組みは、欧米人には「{{ruby|滑稽|こっけい}}」と感じられたと言う記録も残っており、あまりうまくいきませんでした。
:一方で、政府は、まず[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#治外法権|治外法権]](領事裁判権)の撤廃のため、国内の法整備を進め、公正な裁判が行われることを諸外国に示そうとしました。領事裁判権の裁判は犯罪に関するものなので、法律に関するフランス人の[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#お雇い外国人|お雇い外国人]]ボアソナードが指導してフランスの法律をもとにして、1880年(明治13年)に犯罪とその刑罰に関する刑法<span id="刑法"/>と刑事手続と裁判を定めた治罪法<ref>後に、刑事訴訟法に改正されます。</ref>が制定され、1882年(明治15年)施行されました。1889年(明治22年)には、[[#明治憲法|明治憲法]]が発布され法制度が欧米並みに整理されたことが、国際的に示されました。外務大臣'''[[#陸奥宗光|陸奥宗光]]'''は、各国と粘り強く交渉し、まず、1897年(明治30年)イギリスとの間で治外法権を撤廃する条約を結び、日清戦争終結後の1899年(明治32年)すべての国との間で治外法権を撤廃しました。
:そして、日露戦争の勝利は、世界に驚きをもってむかえられ、国際的地位も上がったことをうけて、外務大臣'''[[#小村寿太郎|小村寿太郎]]'''が主導し、1911年(明治44年)関税自主権も回復しました。
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{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】大津事件<small>
:1891年(明治24年)、日本を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備中の警察官に突然サーベルで切りつけられケガを負うと言う事件がありました。
:驚いた日本政府は、すぐに明治天皇自身が見舞いに駆けつけるよう手配し、日本を離れる際も自身で見送りました。大国ロシアの皇太子に対して小国日本の国民しかも警察官が暗殺{{ruby|未遂|みすい}}<ref>殺そうとした相手が死ななかったことを言います。</ref>をおかしたということで、ロシアが攻めてくるかもしれない、そして、当時の日本ではロシアに勝てるはずがないということで、日本国内は、大騒ぎになりました。
:明治政府は、犯人を死刑に処してロシア政府に対して謝罪の意も示そうとしました。
:ところが、当時の[[#刑法|刑法]]では、殺人未遂の最高刑は無期{{ruby|徒刑|とけい}}<ref>現在の言い方では「無期{{ruby|懲役|ちょうえき}}」、一生、刑務所に入れられる刑です。</ref>で、死刑とすることはできません。そこで、政府は、天皇や皇室に暴行などを加え死傷させた場合に適用される{{ruby|大逆|たいぎゃく}}罪を適用するよう裁判所に要請しました。しかし、これは「法律に定められていること以外を罪としてはならない」という近代法の原則「{{ruby|罪刑|ざいけい}}{{ruby|法定|ほうてい}}主義」に反します。大審院院長<ref>現在の最高裁判所長官に相当します。</ref>{{ruby|児島惟謙|こじまいけん}}は、事件の裁判所に、法律に従って判決を下すよう指示し、その結果、死刑ではなく無期徒刑の判決となりました。
:このことは、ロシアとの外交関係を難しくさせるおそれがありましたが、欧米諸国に対しては、「日本は、法律を厳格に守る国である」ということが印象付けられ、条約改正に向けても信用を得ることができました。
</small>
|}</div>
;<span id="国際社会"/>国際社会での地位の向上
: 1912年(明治45年・大正元年)大正天皇が即位し、元号が「'''大正'''」となりました。
: 1914年(大正3年)にヨーロッパの国々を二分した'''[[#全世界を巻き込む戦争 - 第一次世界大戦|第一次世界大戦]]'''が始まりました。日本は、イギリスやフランスの属する[[#協商国|協商国]]に参加し、敵対する[[#同盟国|同盟国]]の一つであるドイツが租借する中国の{{ruby|青島|チンタオ}}<ref name="中国地名"/>や南太平洋の島々を占領しました。1919年戦争は協商国の勝利に終わり、翌年、平和を維持するための'''[[#国際連盟|国際連盟]]'''が設立、日本は英仏などとともに常任理事国の一つとなりました。
: 第一次世界大戦は、今までに見られなかったほどの大規模な戦争で、戦場が全国土に広がり多くの工場設備なども失われ、工業生産が止まってしまったりしました。しかし、主な戦場はヨーロッパで、日本への被害はほとんどなかったため、日本は、ヨーロッパの工業生産に代わって、綿糸や綿布といった繊維製品や化学肥料など、さまざまな工業製品を輸出しました。また、日本へのヨーロッパからの輸入が止まったため、それにかわる重工業などが起こるきっかけにもなり、国際取引においても機械など高度な工業製品を輸出できる国となりました。第一次世界大戦の影響で日本の経済は急速に成長しました。
;明治後期から大正にかけての人々の生活や文化と学問
:明治維新後、さまざまな[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#殖産興業|殖産興業]]の取り組みによって、経済的余裕ができ、国民生活は向上し、さまざまな近代文化の進展が見られました。また、欧米から伝わった工業的な製紙法と活版印刷は安価で大量の印刷を可能として、新聞や雑誌が広く普及します。これら新聞や出版業の発達したことと、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#学校|学校制度]]が定着し教育水準が上がったことで、国民の政治参加の意識も高まりました。
:さらに、日清戦争・日露戦争といった戦争で、納税額が多いかどうか、つまり財産が多いかどうかにかかわらず、国民として平等に生命を犠牲にするということが意識され、納税額による選挙権の制限([[#制限選挙|制限選挙]])をやめて、成人であれば誰にでも選挙権が与えられる「普通選挙」を求めた社会運動('''普選運動''')がおこり、1925年(大正14年)すべての男性が選挙権を有する普通選挙法が成立しました。このような、民主化の動きを「'''大正デモクラシー'''」と言います。しかし、まだ女性には選挙権は認められていませんでした。
:<span id="政党政治"/>このように、国民の政治への関心が高まると、選挙で選ばれた国会議員による衆議院の発言力が強まり、[[#内閣総理大臣|内閣総理大臣なども衆議院の意向を受けて選び出されることもありました]]。しかし、一方で議会での議論においては、政党同士の争いもあって、無駄な議論がなされるように見えることもありました。また、政策に関しての、議員の{{ruby|汚職|おしょく}}なども発生するようになりました。
:[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#文明開化|文明開化]]を受けて、日本には西洋風の文化が広く普及し、明治20年(1887年)代以降になると、それを受けた独自の文化が育ってきました。
:新聞や出版業の発達は上で述べたとおり人々の政治への意識を高めたところですが、そこには、政治的な考えなどだけではなく、人々の娯楽としての小説なども掲載されるようになりました。明治も初めのうちは、歌舞伎の演目などを題材としたものが多かったのですが、1885年(明治18年)、{{ruby|坪内逍遥|つぼうちしょうよう}}は、『{{ruby|小説神髄|しょうせつしんずい}}』をあらわし、人々の普段の生活に近い題材をとりあげる、いわゆる近代文学を提唱しました。またその中で、話し言葉と書き言葉の間の大きな違いから、もっと平易で話し言葉に近い言葉を使うよう進められました。これを{{ruby|言文一致|げんぶんいっち}}運動といいます<ref>ただし、今でも話し言葉と書き言葉は同じものではありません。</ref>。このような動きのなかで、多くの近代文学というものが生まれました。その中には、1895年(明治28年)に『たけくらべ』を書いた{{ruby|樋口一葉|ひぐちいちよう}}のような女性もいました。その後、{{ruby|森鴎外|もりおうがい}}や{{ruby|夏目漱石|なつめそうせき}}があらわれ、近代文学が確立します。特に、夏目漱石が1905年(明治38年)に初めて書いた小説『{{ruby|吾輩|わがはい}}は猫である』はユーモアに富んだ内容と落語にヒントを得たとされる平易な語り口調で広く普及し、日本語の書き言葉の元になったとも言われています。
:美術の分野では、写実的な西洋絵画や彫刻が日本でも制作されるようになりました。政府は1887年(明治20年)、「東京美術学校<ref name="芸大">「東京美術学校」と「東京音楽学校」は、のちに合併し「東京{{ruby|藝術|げいじゅつ}}大学」となります。</ref>」を設立し、西洋絵画の製作者や指導者を育てました。
:また、音楽の分野でも西洋音楽の受け入れが進み、1890年(明治23年)、演奏家・作曲家や指導者を育てる「東京音楽学校<ref name="芸大"/>」が開校しました。
:学問の分野では、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#学校|大学教育]]が定着し、日本の科学技術の水準も世界的なものになってきました。物理学では原子のモデルを提唱した{{ruby|長岡半太郎|ながおかはんたろう}}、数学の分野では{{ruby|高木貞治|たかぎていじ}}といった世界的に評価される研究者も登場するようになりました。
:特に、人々の生活に密着した医学の分野では、世界的に進みつつあった細菌学の分野で多くの成果が見られ、破傷風の治療法の研究やペスト菌の発見をおこなった'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#北里柴三郎|{{ruby|北里柴三郎|きたざとしばさぶろう}}]]'''、{{ruby|赤痢|せきり}}菌を発見した{{ruby|志賀潔|しがきよし}}、黄熱病や梅毒の研究で知られ、ノーベル生理学・医学賞の授賞候補ともなった'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#野口英世|{{ruby|野口英世|のぐちひでよ}}]]'''のように国際的な研究者がでてくるようになりました。
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{| class="wikitable" style="width:100%"
|[[ファイル:Noguchi Hideyo.jpg|thumb|120px|right]]
'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="野口英世"/>野口英世<small>
:本文に書いたとおり、野口英世は、国際的に活躍した細菌学者で、現在、その肖像が1000円札に使われている人です。子供の頃から大変苦労して勉強して、多くの業績を残した人で、皆さんの中で、野口英世の伝記を読んだことのある人も少なくないでしょう。ここでは、野口英世の生涯について簡単に紹介して、なぜ彼が偉人とされているかをお話ししたいと思います。
:1876年(明治9年)、英世<ref>元の名は「清作」で「英世」は22歳になって改名したものですが、ここでは、「英世」で統一します。</ref>は福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)に生まれます。貧しいというほどではありませんが、決して余裕のある家の生まれではありませんでした。英世は1歳の時に{{ruby|囲炉裏|いろり}}に落ち、左手に大{{ruby|火傷|やけど}}を負います。ただれた皮膚で指がくっついて開かなくなるというひどいものでした。英世は、学校に上がるようになると、このことでいじめられました。しかし、英世の学校の成績はとても素晴らしいものでした。英世の家計では、上級の学校に出すのは難しく、普通は小学校を出て働きに出るとことだったのですが、これを惜しんだ教師や地域の人がお金を出し合って、上の学校へ進ませました。また、火傷あとが不便であろうと、やはりお金を出し合って、まだ珍しかった西洋医術による手術を受けさせ、左手を使えるようにしました。英世はこの手術の成功に感激したことがきっかけで医師を目指すこととなりました。
:1896年(明治29年)英世は上京し、医学を学びます。1900年(明治33年)米国に渡り、研究を始めます。そして、アメリカを拠点として基礎医学の分野で数々の業績をあげ世界的な名声を得て、何回かノーベル生理学・医学賞の候補者ともなりました。
:1918年(大正7年)以降は{{ruby|黄熱|おうねつ}}病の研究に打ち込み、黄熱病の流行地域である南アメリカ各国やアフリカに渡って研究を続けます。しかし、黄熱病の研究中に自身もその病にかかり、1928年(昭和3年)アフリカのイギリス植民地ゴールド・コースト(現:ガーナ共和国) アクラで亡くなります。
:野口英世が偉人とされるのは、
:*庶民の出身であるにもかかわらず、高い能力で医者・研究者の地位についた<ref>大学以上の高等教育を受けさせることは当時の庶民にはめったにないことでした。また、英世の出身地会津は、戊辰戦争で官軍に抵抗し、政府などに関係者も少なく、薩長などの出身者より不利なところもありました。</ref>。
:*体に受けたハンディキャップにも負けず、努力して勉強した<ref>当時、家が貧しくても、軍隊に入って勉強するという方法もありましたが、英世の場合、このやり方は難しかったと考えられます。</ref>。
:*能力を世に出そうと、周囲の人が協力した。
:*日本ではなく、国外の研究所を拠点として国際的な活躍をした。
:というところにあると思います。野口英世の業績自体は、その後の医学の発展によって否定されたものも少なくはありませんが、目標に向けて努力する姿には見習うものがあると思います。
</small>
|}</div>
:日本の経済力が大きくなることにともなって、人々の暮らしもだんだん豊かなものになっていきましたが、この時期に、大きな災害に見舞われてもいます。
:まず、<span id="スペインかぜ"/>1918年(大正7年)から1920年(大正9年)にかけて世界中で流行した'''スペインかぜ'''といわれるインフルエンザの大流行です。当時は第一次世界大戦の交戦中であったため、軍人を中心に広く行き来し世界中で流行しました。全世界で30%にあたる5億人が感染し、少なくとも1700万人の死者がでたものと推定されています。日本においてもこの3年間で約40万人程度の死者が出ました<ref>最近のコロナ禍で、2020年から2022年7月現在の死者の累計数が約3万人であることと比較してみてください。</ref>。
:もう一つは、<span id="関東大震災"/>1923年(大正12年)9月1日、南関東一円を襲った'''関東大震災'''です。マグニチュード7.9〜8.3と推定される大地震<ref>1000年に1度と言われる2011年東日本大震災のマグニチュードは9.0で特別ですが、1995年阪神淡路大地震のマグニチュードは7.3くらいです。</ref>で、約1万人が倒れた建物の下敷きになって亡くなり、約9万人が、地震ののちに発生した火災で亡くなりました。
== 世界の変化3 ==
:'''この節は、小学校で学習する範囲を超えていますが、昭和以後の日本の歴史に大きく関わる第二次世界大戦がなぜ起きたのか、その後、「世界」はどうなったのかということを理解できていないと、昭和以降の日本の歴史を深く理解することはできません。'''
:'''この節では、「ナショナリズム」「社会主義・共産主義」「資本主義」とはなにかということについては理解しておいてください。ここでは細かいところを覚えるのではなく、大きな流れを頭のかたすみに置けるようにし、次の章を読み進めてください。'''
=== ナショナリズムと社会主義・共産主義 ===
==== 20世紀初めの世界 ====
:[[File:World 1898 empires colonies territory.png|thumb|650px|1898年の世界<br>国旗は上から、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、オランダ、ドイツ、トルコ、ベルギー、ロシア、日本、清、オーストリア、デンマーク、スウェーデン、アメリカ、イタリアの順です。]]
:18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパや北アメリカを中心に[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#世界の変化1_-_産業革命|'''産業革命'''が起こって経済を工業が大きく動かす社会になりました]]。また、[[#世界の変化2_-_市民革命|欧米の'''市民革命'''をきっかけに経済力を持った市民が国の政治に参加するようになり、国民全員が国の活動に参加する'''国民国家'''が誕生しました]]。日本も、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#明治維新と武士の社会の終わり|明治維新で一つの国民国家になり、富国強兵・殖産興業をスローガンとして、国内経済の近代工業化を進めました]]。
:一方、国民国家をつくりあげ、産業革命で大きな経済力を得た欧米の各国(ここでは、『{{ruby|先進国|せんしんこく}}』と呼んでおきましょう。)は、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#帝国主義|各国の工業製品の材料と{{ruby|市場|しじょう}}を求め、アフリカやアジアの、まだ、国民国家としてまとまっていない国や地域に進出し、ほとんどの地域を植民地にしていました]]。
==== ナショナリズム(民族運動) ====
:近代的な工業は、先進国を中心に進みましたが、やがて、製品を各地に売るため、また、原材料を輸送するため鉄道が各地に伸びて、近代社会は世界各地に広がり人々の生活を変えていきました。植民地となった地域でも近代的な教育が行われ、自由や平等といった人権の考え方が普及します。また、新聞などの出版物により人々のさまざまな考えが、広く伝わるようになります。
:植民地となっている地域で、このような知識の高まりが広がると、人々の中に、「どうして、私たちは、言葉や生活習慣の違う人たちに支配されなければならないのか」「私たちの作ったものは、安く買われて、先進国のものを高く買わないといけないのか」という考えが起こってきて、「独立して、自分たちの国を作ろう」という主張が芽生えます。この考えやこの考えに基づく運動を「'''ナショナリズム'''(民族主義・民族運動<ref>「ナショナリズム(Nationalism)」は、「ナショナル(National; ネイション(Nation; 国民・民族)の)」+「イズム(ism; 主義)」という意味です。国民主義とも訳されます。</ref>)」といいます。
:ナショナリズムは、最初、西ヨーロッパに隣接するオーストリア=ハンガリー帝国(「オーストリア帝国」と略します)やオスマン帝国の領土<ref>オーストリア帝国は、もともとヨーロッパの中でも最も強力な国の一つで、プロシアを中心としたドイツ帝国の成立まではドイツ民族の中心でした。この時代においても、中部ヨーロッパに広い領土を持つ国です。また、オスマン帝国は、15世紀に起こったトルコ民族が中心の国で、中東から北アフリカにかけてのイスラム世界を広くおさめ、ヨーロッパもバルカン半島まで領土としていた大国です。両国とも、19世紀にあっても広い領域を支配していましたが、近代化が遅れていました。</ref>であった中部ヨーロッパや東ヨーロッパ('''バルカン半島'''と呼ばれる地域を含みます)で盛んとなり、これが、第一次世界大戦の大きな原因となります。
:第一次世界大戦終結後は、アジア・アフリカの各地に広がり、世界各地で独立運動が展開されます。
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{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="バルカン半島"/>バルカン半島<small>
[[File:Karte Suedosteuropa 03 01.png|thumb|200px|太線でかこまれた地域がバルカン半島です。色の濃い地域が民族や宗教が入り混じっている地域になります。]]
:バルカン半島は、ヨーロッパ中部、ドナウ川より南のアドリア海と黒海にはさまれた地域で、南は狭い海峡を隔ててアナトリア半島に面しています。歴史的には、古代ギリシア文明が栄えた地域であり、それに引き続いて古代ローマの文化が栄え、アナトリア半島との海峡のそばには、中世まで栄えた東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(ビザンティウム)が建設され、後にオスマン帝国の首都イスタンブールとなります。
:バルカン半島は、このように西にドイツやイタリアなどの西ヨーロッパ社会、東にロシアなどのスラブ社会、南にトルコなどのイスラム社会にかこまれ、東西ヨーロッパと西アジアを結ぶ交通の重要な地域であったため、それらの大きな勢力が波のように寄せたり引いたりする地域でした。また、この地域は山がちで、盆地が多く、各盆地ごとに生活する社会ができあがり、大変複雑な状態になっていました。スラブ系民族が多かったのですが、それに、ラテン系民族や、ギリシア系民族が混ざり、一部にはアジア系の民族もいました。また宗教もカトリックとギリシア正教にイスラム教の三大勢力が入り組んでいました。
:19世紀以降、人々がナショナリズムをとなえはじめ、各地で独立運動が起こります。この独立運動も運動の中での対立もあって、まとまることがなく、過激な行動も見られるようになりました。こうして、バルカン半島は『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれるようになりました。
</small>
|}</div>
==== 社会主義と共産主義 ====
:[[File:Marx7.jpg|thumb|150px|カール・マルクス]]
:<span id="労働運動"/>先進国国内にあっては、工業が発展するにつれて多くの{{ruby|労働者|ろうどうしゃ}}が生まれました。工場では工場労働者、石炭の炭鉱や鉄鉱石の鉱山では鉱山労働者、港で貨物の積み下ろしをする港湾労働者などです。産業革命前は、たとえば職人などは技術を長年にわたって習得する必要がある反面、技術を習得した職人は、代わりになる人を探すのが難しいという特徴がありましたが、産業革命以降の労働者の多くは単純な作業が多く、それができる人は数多いので経営者の都合で雇うこともクビにすることも簡単にできるようになりました。そのため、経営者など(労働者に対して{{ruby|資本家|しほんか}}という言い方をします)に比べて、多くの労働者は非常に貧しい生活となることが一般的でした。労働者は、自分たちの待遇(安定して雇われること、十分な賃金をもらえることや安全な労働環境など)を改善するために'''{{ruby|労働組合|ろうどうくみあい}}'''を結成し、集団で経営者と交渉したり、場合によっては'''ストライキ'''を起こすなどして資本家に対抗したりしました('''{{ruby|労働運動|ろうどううんどう}}''')。そのように、社会が変わっていくのを受けて、自由な経済活動を制限してでも、人々の平等な生活が送れる社会をめざすべきであるという'''{{ruby|社会主義|しゃかいしゅぎ}}'''の考えが生まれます。[[#世界の変化2 - 市民革命|市民革命]]は、国王や世襲の貴族といった身分社会から「自由」に活動できる権利を求める社会の変化でしたが、この自由には、工場を作ったり、物を取引する経済的な自由を含みます。自由な経済活動の結果、貧富の差が生じることについて、これをしかたがないことと認める考え方を、社会主義者は批判して、'''{{ruby|資本主義|しほんしゅぎ}}'''と名づけました。さらに、社会主義の中から、19世紀の半ばドイツ生まれの経済学者'''カール・マルクス'''は『{{ruby|資本論|しほんろん}}』を書いて、一層過激な'''{{ruby|共産主義|きょうさんしゅぎ}}'''をとなえました。
:<span id="共産主義"/>共産主義とは、簡単にいうと、農地や工場といった経済的な価値を生み出すものは、人々の共有にしてしまって、全ての人たちが働くことからのみ収入を得る<ref>この考えは、「働かざる者食うべからず」というスローガンに現れています。これは、働かないで怠けているものは食べるべきでない(=生きるべきでない)ととらえられがちですが、第一には、たとえば、地主が土地を小作人に貸したり、財産の利子や配当収入だけで生活できるような資本家を攻撃した言葉です。</ref>平等な社会を目指すという考え方です。それを実現するためには、資本家が持っている財産をうばって、分けあたえるということが必要になります。これは、革命であって、共産主義は、目指す社会を実現させるためには、革命が必要だと主張しました。この考え方は、世界中の多くの労働者の支持を得た一方で、ほとんどの資本家や、資本家が強く関わっている当時の各国の政府を強く警戒させました。また、社会主義や共産主義は、全ての人民が平等という考えが根本にありますから、君主制や民族主義とはあいいれないもので、<span id="反社会主義"/>王国や天皇制に親しみのある人たちや同じ民族だけで助け合おうとする人たちと敵対しましたし、また、平等な社会を作るためには、各個人の自由は多少制限されても仕方がないという考えであるため、人としての自由な行動を大事に思う人たちとも対立しました。
<div style="margin:0 2em 0 4em">
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|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="イノベーション"/>新たな科学・技術の発展<small>
:[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#世界の変化1_-_産業革命|人々のくらしが「産業革命」で大きく変わったことは、前にお話ししたとおりですが]]、1860年頃から1910年くらいまでの間に、「産業革命」と同じくらい、またはそれ以上の科学技術上の大きな発展が見られ、さらに人々の生活を大きく変えます<ref>歴史学者の一部では、これを「'''第二次産業革命'''」と呼びます</ref>。
#'''新たな動力の発明''' - 「産業革命」において、中心となった動力は、主に石炭を使用した蒸気機関でしたが、19世紀半ば以降、これに、新たな動力源が加わります。
#;{{ruby|内燃機関|ないねんきかん}}
#:内燃機関とは、ガスまたは霧状にした燃料を爆発させ、それによって急激にふくらむ力を動力にする装置です。皆さんがよく知っているところでは、自動車のガソリンエンジンやディーゼルエンジンが代表的なものです。
#:蒸気機関の発明は主にイギリスでなされましたが、内燃機関はドイツで発展しました。1880年代、ゴットリープ・ダイムラーとカール・ベンツは各々で実用的なガソリンエンジンを発明し、それに少し遅れて、ルドルフ・ディーゼルがディーゼルエンジンを発明します。内燃機関は、蒸気機関に比べて小型化が容易なので、これを動力とした自動車が誕生しました<ref>ゴットリープ・ダイムラーとカール・ベンツは、各々で自動車の会社を作ります。1926年それらの会社が合併しダイムラー・ベンツができます。現在のメルセデス・ベンツ・グループ(「メルセデス」はダイムラー社製の車の愛称です)です。</ref>。蒸気機関は石炭に加え水が必要でしたが、内燃機関は燃料だけで足りるため、船舶などの動力は早期に内燃機関に切り替わりました。
#:<span id="飛行機"/>また、小型で高出力という特徴を活かして、1903年アメリカで'''ライト兄弟'''がガソリンエンジンを動力とした'''飛行機'''を飛ばすことに成功しました。
#:このように、内燃機関は小型にでき利用できる範囲も広いということで蒸気機関に取って代わっていきました。そのため、石油が資源としての重要性を大きく増すことになりました。
#;{{ruby|電動機|でんどうき}}(モーター)・発電機
#:[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#電気|電気が長い間研究されていたことは、前章に書いたとおりです]]。
#:電気を研究しているうちに、電気を通すことで磁石の力(磁力)が生じることが発見されました。すなわち、「電流」を通すと、「磁力」が発生し、鉄などが電磁石にくっつく(=「運動」する)ということです。1831年ファラデーは、これをまとめた、電気と磁気と運動の関係を発見します。この発見をもとに工夫して、電流を流して連続した回転運動を得る電動機(モーター)が発明されました。
#:逆に磁力のあるところで電線を運動させると、電線に電流が生じます。これを、応用して発電機が発明されました<ref>モーターに力を加えて回すことで電流を得ることができます。</ref>。電力は、それまで、化学反応を使った電池によって得ていましたが、大量に得ることは困難でした。発電機の発明によって、大量の電力を連続で安定的に得ることができるようになり、次に述べる「電気の実用化」が可能になります。
#'''電気の実用化'''
#:こうして、大量の電気が供給されるようになると、産業や生活に大きな変化がもたらされます。
#:産業の面では、電気を使うことでメッキや化学産業などが起こりました。また、精錬するのに電気を必要とするアルミニウムが実用化になりました。
#:生活の面では、1880年頃に'''トーマス・エジソン'''が電球を発明するなど、身近な家庭電化製品が発明されていきました。また、同じ時期に'''アレクサンダー・グラハム・ベル'''が実用的な電話を発明しています。
#:1900年頃、音声を電波<ref>何もない空間を電気の変化を伝える性質である電波は、1887年に発見されました。</ref>を使って無線で飛ばす技術が開発され、それを応用して、1920年、'''ラジオ放送'''が開始しました。
#'''化学工業'''
#:植物が育つには{{ruby|窒素|ちっそ}}が必要ですが、空気中の窒素は、豆類の根につく細菌類が化学合成し物質として固定するのを待つしかありませんでした。1909年にドイツで完成されたハーバー・ボッシュ法によって、空気中の窒素から直接、化学肥料の材料となるアンモニアを合成できるようになりました。効果的な化学肥料を製造できるようになり、農作物の収穫が格段と大きくなりました。これは、「水と石炭と空気からパンを作る方法」と言われました。
#:また、従来は火薬(黒色火薬)の原料として{{ruby|硝石|しょうせき}}が使われていて、地下資源として採掘するなど、容易に入手できるものではありませんでしたが、アンモニアが大量に手に入るようになったことと、黒色火薬より強力な窒素系の火薬が開発されたことで<ref>代表的なものは、ニトログリセリンです。これを安全に取り扱えるようダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルは、莫大な遺産でノーベル賞を創設しました。</ref>、火薬製造は原料の輸入に頼らず、強力な火薬が大量に製造できるようになりました。
</small>
|}</div>
=== 全世界を巻き込む戦争 - 第一次世界大戦 ===
==== 先進国の間の対立 ====
:[[File:3goku kyosho & 3goku domei.png|thumb|250px|三国同盟と三国協商]]
:先進国のうちでも、イギリスやフランスは、いち早く近代的な国家の仕組みを整え、産業革命も世界に先がけて成しとげていました。そのため、国内では余る生産力を海外に向けるためアフリカやアジアの多くの地域を植民地として、綿花など原材料の生産地として、そして製品の市場としていました。19世紀半ば頃から他のヨーロッパの他の国も近代工業化がすすんできました。特に、1871年に北部のドイツを統一してできたドイツ帝国では、[[#イノベーション|科学技術のめざましい発展]]が見られ、国の経済力は、すでにフランスを圧倒し、イギリスと肩を並べるものになっていました。しかし、イギリスやフランスは国外にも多くの植民地をはじめとした国際的な市場を持っていたのですが、近代化の遅れたドイツは植民地をあまり持っておらず、国外への展開に困難がありました。
:ドイツ帝国は、同じドイツ系のオーストリア帝国、隣国のイタリア王国と同盟し('''三国同盟'''<ref name="イタリア">'''イタリア王国'''もドイツと同じように市民革命ののちに封建諸国でばらばらであったイタリア民族を統一した王国で、イギリス、フランスを追いかけていた国の一つです。このような共通点から、ドイツと同盟を結びますが、オーストリアとの間に領土問題が存在したため、最初は参戦せず、後に、協商国側で参戦します。</ref>)、オスマン帝国とはかって、バルカン半島からトルコを経由して中東までの鉄道を敷設し、この地域の経済を有利に進めようともくろみました。ドイツから中東までを独占し、さらに、そこからアジア・アフリカに進もうとする考えです。
:この考えに、アジアやアフリカを大きな市場としていたイギリスやフランスは警戒します。
:また、東にあるロシアは、バルカン半島での[[#南下政策|南下政策]]がクリミア戦争で{{ruby|挫折|ざせつ}}した後、極東に目を向けていたのですが、[[#日露戦争|日露戦争]]に敗れたため、再び、クリミヤ半島からの南下に政策を変えます。今度は直接攻め入るのではなくバルカン半島のスラブ国家や独立運動家を支援しオーストリア帝国やオスマン帝国に対抗させる形での介入です。イギリスとフランスは、ドイツを{{ruby|牽制|けんせい}}<ref>相手に自分の行動を見せつけ、勝手な行動をとれなくすること。</ref>するため、ロシアとの間に{{ruby|協商|きょうしょう}}条約<ref>「協商」は「相談をする」と言う意味で、「協商条約」は外交にあたって相談をするということを約束した条約です。「商業」と直接の関係はありません。</ref>を結びます('''三国協商'''<ref>英仏・仏露・英露、各々の協商条約などを合わせたものです。イギリスとロシアは日露戦争までは敵対していましたが、ロシアが敗戦したことをきっかけに、同盟関係を結びます。</ref>)。
:こうして、バルカン半島を中心に、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国とその東西の国との緊張が高まってきました。
==== 初めての『世界大戦』 ====
:バルカン半島中西部のボスニア・ヘルツェゴビナは、長い間、オスマン帝国の領土で、住民もイスラム教に改宗した人々(ボスニア人)が多い地域でしたが、19世紀後半以降オーストリア帝国が支配する領域となっていました。
:1914年6月28日、オーストリア皇太子がボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボを訪問した際、隣国セルビア王国のボスニア系の独立運動家に暗殺されました('''サラエボ事件''')。これが、きっかけとなって、7月28日オーストリア帝国はセルビア王国に宣戦布告し、セルビアを支援するロシアも参戦、これを受けてオーストリアと同盟を組むドイツが参戦、そして、ドイツと敵対するフランスとイギリスが参戦し全ヨーロッパにおける戦争『'''第一次世界大戦'''<ref>これから、25年後、次の世界中を巻き込んだ大きな戦争が起こり、それを『'''第二次'''世界大戦』と呼ぶため、この戦争を『'''第一次'''世界大戦』とよびます。この当時は、『世界戦争』・『大戦争』と呼んでいました。</ref>』が始まりました。なお、以下、ドイツ・オーストリア側を「<span id="同盟国"/>'''同盟国'''<ref name="イタリア"/>」、イギリス・フランス・ロシア側を「<span id="協商国"/>'''協商国'''」と言うこととします。
:第一次世界大戦はそれまでの戦争とことなって『'''国家総力戦'''(または、'''総力戦''')』と言われます。それまでの戦争は、あくまでも軍隊と軍隊の戦いで、軍事拠点をめぐっての争いや、双方の主力部隊がある戦場で戦う(会戦)もので成り立っていて、そのような場所以外が戦火の被害を受けることは少なく、また、軍人以外で戦争で死傷する人は限られていました。しかし、第一次世界大戦になると、戦争は軍人以外の国民も巻き込んだものとなります。兵士は国民の中から徴兵されたものですし、銃砲や砲弾・銃弾、それに用いる火薬といった兵器の製造力も国内の工業力に支えられます。兵器だけではなく、軍服や戦場に持ち込む食糧もそうです。また、兵器やその他の物資を輸入に頼るにしても、その資金は国内の工場の生産物を輸出することで得られるものです。そのため、敵対する国は、相手の軍隊を攻撃するだけではなく、相手の国の生産力を下げるため、戦闘の機会に工場や輸送に用いる鉄道・港湾・船舶を破壊するようになります。さらに、相手が戦争を継続する力を落とすために、軍隊どうしの戦場ではないところの住宅等も破壊するようになりました。総力戦になって、軍人以外の民間人の死傷者や家屋などの財産の破壊が、それ以前と比べられないほどに増大しました。
:戦争は、ヨーロッパだけでなく世界中を巻き込みました。1914年11月ロシアと対抗し、イギリスに脅威を感じていたオスマン帝国は同盟国として参戦しました。こうして戦争は北アフリカなどにも広がりました。
:日本は、日英同盟から、イギリスに要請され協商国側に参戦し、ドイツの租借地である中国の{{ruby|青島|チンタオ}}や南太平洋の島々を占領しました。
:[[File:Cheshire Regiment trench Somme 1916.jpg|thumb|250px|第一次世界大戦の塹壕(ざんごう)]]
:第一次世界大戦では、{{ruby|塹壕|ざんごう}}という攻めてくる敵に対して地面に人が隠れられる溝を掘って<ref>フランスとドイツの間には、大西洋からスイスまでの全長700kmにわたる塹壕が両陣営でできました。</ref>、守りを固める戦法をとったため、お互い戦闘が進まず、戦争は長期化し、同盟国・協商国ともども国内経済は衰退し、国民生活はだんだん貧しいものとなっていました。一方で、当時の最先端の科学技術は次々と投入されます。化学工業の発展は火薬の力を強くしていましたし、毒ガスの開発にも応用されました。また、内燃機関を使ったトラックなどが、馬車などに代わって兵士を移動する手段となり、また、道の状態にかかわらず進むことができる、戦車なども開発されました。そして、[[#飛行機|発明されたばかりの航空機]]も戦場に投入されました。こうした、最新の科学技術の投入は、戦場をますます{{ruby|悲惨|ひさん}}なものにしていきました。
:1917年になって、状況が大きく変わります。
:アメリカ合衆国(以下、しばしば、「米国」と略します)は、もともと、「<span id="モンロー主義"/>南北アメリカ大陸のことに、ヨーロッパの国に口を出させない。その代わり、米国もヨーロッパの政治に口を出さない」という外交の方針があって、また、移民の国であるため、ドイツ系の国民も多く、中立の立場にいました。しかし、ドイツがイギリス周辺を航行する船を、軍事に関する物品を輸送する船であると潜水艦で攻撃し沈めるという作戦をとったところ、米国人を多数乗せた船を沈めると言う事件などがあって、この年に、協商国側として参戦します。米国の参戦は軍隊が増えたことに加えて、米国の工場など生産設備が無傷であったため、イギリスやフランスといった協商国には物資がどんどん補給され、協商国側に有利となりました。
:一方で、東側のロシアとの戦争も一進一退の状態でしたが、バルト海と黒海を同盟国側が封鎖したため、ロシアは輸出入がとだえ、国内の物資不足とインフレが社会問題となっており、各地でストライキや暴動が起こり、1917年2月に皇帝ニコライ2世は退位します('''ロシア革命''')。このような中、[[#共産主義|共産主義]]の運動家である'''ウラジーミル・レーニン'''らが政府を握り、同年12月にはドイツとの戦争を停止します。
:こうして、ドイツは、東側での戦争は終結したのですが、イギリス・フランスと戦う西側では、1918年になると米国の支援により優勢になり、また、[[#スペインかぜ|スペインかぜ(インフルエンザ)が大流行]]するなどして、戦闘の継続は困難なものとなり、11月ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はオランダへ{{ruby|亡命|ぼうめい}}<ref>国外に逃げ出すことを言います。</ref>、オーストリア皇帝カール1世も退位し、第一次世界大戦は事実上終了しました(正式な終了は講和条約が締結された翌年1919年となります)。
:同盟国であったドイツ帝国、オーストリア帝国、オスマン帝国は崩壊し、それぞれ共和国となりました<ref>オスマン帝国は、1918年に降伏し、1922年にトルコ革命により共和制となります。</ref>。
:<span id="第一次世界大戦の犠牲者"/>第一次世界大戦は、協商国側の戦死者 553万人、戦傷者 1283万人、行方不明者 412万人、同盟国側の 戦死者 439万人、戦傷者 839万人、行方不明 363万人。民間人の死亡者、協商国側 360万人、同盟国側 314万人と人類が経験したことがない規模の犠牲者を出すことになりました。
==== 第一次世界大戦後の世界 ====
:1919年フランスのパリで第一次世界大戦の講和会議が開かれました。その結果、
:#敗戦国は戦勝国に賠償金を支払う。
:#領土の一部を戦勝国に割譲する。
:#オーストリア帝国、オスマン帝国が支配していた中央ヨーロッパ・バルカン半島、中東から北アフリカにかけての地域について、独立またはイギリスやフランスの保護領とする。
:#敗戦国の軍備は数年間制限する。
:などが決められました。
:また、このような戦争が2度と起こらないようにと米国大統領ウッドロウ・ウィルソンが提唱し、常設の国際的な協議機関「<span id="国際連盟"/>'''{{ruby|国際連盟|こくさいれんめい}}'''」が誕生します。国際連盟の運用は理事会が行いますが、日本は理事会の常任理事国にイギリス、フランス、イタリアと共に選ばれました。しかし、これを提唱した米国は、[[#モンロー主義|従来の国の方針]]から国内の反対があって国際連盟に加盟しませんでした。
;第一次世界大戦がもたらしたもの
:第一次世界大戦は、人類の歴史が始まって以来の大量の戦死者や戦傷者を出し、当時最も発展していたヨーロッパの国土が荒廃するなど、世界に大きな影響を与えました。その結果として以下のような変化が生じました。
:#ヨーロッパの衰退とアメリカ合衆国・日本の台頭
:#:同盟国であるドイツはもちろん協商国側のフランスは戦場として荒廃し、イギリスも大量の兵力を送り出すなどして疲弊するなど、ヨーロッパの生産力が弱まりました。代わって戦場とならなかった米国は、協商国に兵器他大量の物資を輸出した他、ヨーロッパ諸国が輸出していた地域に代わって輸出することになり、大きな経済的発展を見せることとなりました。その国力を背景に、国際政治で主導的な地位に立ちました。しかし、[[#モンロー主義|もともとの国の方針]]から、国際政治に十分に参加できませんでした。
:#:日本も、国民国家を成立させ産業革命をなしとげた世界でも数少ない国のひとつでしたが、ヨーロッパから遠く離れ、第一次世界大戦の影響を受けることはなく、米国ほどではありませんがヨーロッパの国々が輸出できない分をうめあわせるなどして経済が発展し、[[#国際社会|国際社会でも有力な国となりました]]。
:#<span id="軍縮"/>国際機関の誕生と軍縮の傾向
:#:それまでの国際外交は、国対国の関係でしたが、国際関係が複雑になると、関係する国がまとまって討議するようになりました。第一次世界大戦以前から、電気通信に関して万国電信連合(現.国際電気通信連合)がありましたが、戦後、世界平和を目標とする国際連盟が結成され、平和以外にも人権などについて各国が参加して討議されるようになりました。
:#:第一次世界大戦の{{ruby|惨状|さんじょう}}から、各国共に{{ruby|厭戦|えんせん}}<ref>戦争を嫌うこと。</ref>ムードになっていたため、軍縮に関する国際会議が何回も開かれました。
:#ナショナリズムの実現
:#:ナショナリズムの高まりは、国際的に認められるようになり、オーストリア帝国やオスマン帝国が支配した領域から、同じ民族で集まった国が数多く独立することになりました。しかし、アジアやアフリカの諸国は、まだ独立が認められず、第一次世界大戦後はアジア各地での独立運動が見られるようになります。
:#:また、先進国自身においても一種の民族主義が盛んになります。これは、国外資本が進出してくることや社会主義の民族主義を否定する動きに反発するものです。これが、のちに[[戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#ファシズム|ファシズム]]と呼ばれるものになります。
:#社会主義国家の誕生
:#:ロシア革命後、ロシア国内では内戦が起こり、1922年レーニンが率いる共産党が国内をまとめ、世界で初めての[[#共産主義|社会主義・共産主義]]を国の仕組みに持った'''ソビエト社会主義共和国連邦'''<ref>「ソビエト(ソヴェート)」はロシア語で「評議会」の意味で、ロシア革命前後に人々が集まって政治の方針を決めた団体が母体になっていることを意味します。「社会主義共和国」は社会主義を政治の方針とする共和国ということです。最後の「連邦」は、そのような社会主義共和国がいくつか集まって1国となっているということを言っており、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア・ソビエト社会主義共和国など、いくつかのの国で構成されていました。</ref>('''ソビエト連邦'''、'''ソ連''')が誕生しました。
== 脚注 ==
以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small>
<references/></small>
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{{前後
|type=章
|[[小学校社会/6学年/歴史編]]
|[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう|日本の歴史の流れ]]
|[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代|明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代]]
|[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで|戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで]]
}}
[[Category:社会|しようかつこうしやかい6]]
[[Category:小学校社会|6ねん]]
[[Category:小学校社会 歴史|#12]]
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ChromeOS/Chromebrew
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2022-08-03T00:43:38Z
Ef3
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/* デベロッパーモード */ Chromebookを「デベロッパーモード<ref>''Developer mode'' を「開発者モード」とする資料もありますが、定訳がないので「デベロッパーモード」とカタカナ表記にしました。</ref>」にすると、Chromebookのシステムファイルを変更できるなど、完全なルートアクセスを取得できます。 デベロッパーモードには、一部のファイルを変更したり、外部USBデバイスからChromebookを起動したりするなど他の使い道もあります。 デベローパーモードへ切替える方法 # ChromeBookの電源をオフにする # ESC+更新(F3)ボタンを押しながら、電源ボタンを押します。その後、電源ボタンを離します。 # リカバリー画面が表示されます。ここで、Ctrl+Dキーを押して開発者モードをオンにします。その後、数分待ちます。
wikitext
text/x-wiki
Chromebrewは、[[ChromeOS]]で動作するソースビルド指向のパッケージ管理システムです。
;公式サイト: https://chromebrew.github.io/
;公式リポジトリー: https://github.com/chromebrew/chromebrew.git
ChromeOSは、Linuxカーネルの上にChromeウェブブラウザーを中心としてネットワーククライアント昨日を提供しますが、所謂GNU/Linuxのディストリビューションに観られるパッケージマネージャーを含まず、GNU/Linuxの環境を手に入れるには
# Crostini {{---}} LXCコンテナー上で、GNU/Linuxディストリビューションを実行する(設定 > “Linux (Beta)” として知られる)
# Crouton {{---}} chroot 環境で、GNU/Linuxディストリビューションを実行する(サポート終了しました)
# Chromebrew {{---}} デベローパーモードのシェル環境に独自バイナリーをインストールする(GNU/Linuxディストリビューションとのパッケージ互換性はない)
の3つがあります。
Chromebrewは、その名の通り[[w:Homebrew|Homebrew]]の影響を受けていますが、完全にRubyで記述され(Homebrewは一部 bash スクリプト)、ユーザーが書込みも実行もできるファイルシステムは <code>/usr/local</code> に限られるなどのChoromeOS固有の事情に適応しています。
Chromebrewは、仮想環境やchrootのオーバーヘッドはなく、ユーティリティーや共有ライブラリーなどChromeOSのものを使えるのでフットプリントは、この中で一番小さくなります。
Chromebrewは、BSD Unixの package source や ports collection の様にソースコードからのビルドをユーザーが気軽に行え、たとえばCコンパイラーに -march=native オプションを与えホスト環境のプロセッサーで実行可能な命令セットからコード生成をすることができるなど、資源の少ない環境にも好適です。
== インストール ==
インストールする前に、Chromebook をデベロッパーモードにする必要があります。
:Chromebook をデベロッパーモードにすると、工場集荷時の設定に戻されます。
:Chromebook をデベロッパーモードにすると、工場集荷時の設定に戻されます。
大切なので二回言いました。
=== デベロッパーモード ===
Chromebookを「デベロッパーモード<ref>''Developer mode'' を「開発者モード」とする資料もありますが、定訳がないので「デベロッパーモード」とカタカナ表記にしました。</ref>」にすると、Chromebookのシステムファイルを変更できるなど、完全なルートアクセスを取得できます。
デベロッパーモードには、一部のファイルを変更したり、外部USBデバイスからChromebookを起動したりするなど他の使い道もあります。
; デベローパーモードへ切替える方法
# Chromebookの電源をオフにする
# ESC + 更新(F3)ボタンを押しながら、電源ボタンを押します。その後、電源ボタンを離します。
# リカバリー画面が表示されます。ここで、Ctrl + Dキーを押して開発者モードをオンにします。その後、数分待ちます。
=== Chromebrewのオンザフライインストール ===
=== パッケージのインストール ===
=== システムとパッケージのアップデート ===
=== パッケージのビルド ===
=== パッケージの作り方 ===
== 脚註 ==
<references />
== 外部リンク ==
* 公式サイト {{---}} https://chromebrew.github.io/
* 公式リポジトリ {{---}} https://github.com/chromebrew/chromebrew.git
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