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阪大対策
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{{wikipedia|大阪大学}}
*[[日本の大学受験ガイド]] > [[阪大対策|大阪大対策]]
本項は、[[w:大阪大学|大阪大学]]の「一般入学試験」対策に関する事項である。
大阪大学のホームページ(入学試験の概要が記載されている)http://www.osaka-u.ac.jp/jp/examination/undergraduate.html
大阪大学(阪大)は、我が国で6番目に設立された帝国大学である。
出題の傾向としては、いたずらに難しい問題や奇問が出題されることはあまりなく、基礎を徹底的に身につけた上で対策をすれば、合格点を取ることは可能である。平成30年度一般入試は、前期日程のみの募集である。
=共通テスト=
阪大は、共通テストの配点がそれほど低いわけではない。これは、教科にとらわれない全般的な基礎学力を重視する本学の方針を表しているものと思われる。経済学部の3種類の変則的配点はこの好例といえる。よって、二次の記述対策はもちろん、共通テストで高得点を取れるように十分に対策すべきであろう。特に、理系は国語の比重が共通テストの他科目よりはるかに高いので他大のように国語を捨てることができない。一方理科の比重は低めである。また、文系の学部でも、理数系科目の配点が非常に高い学部がある。よって、まんべんなく得点できる学力を有した上で、マーク模試を適宜受験し、時間配分の訓練・マークミスの最小化に備えておくべきである。
=二次試験対策=
*本節では特に断りのない限り、大阪大学が独自に行う試験のうち、主に一般入試・前期日程で出題される問題について概説する。*</br>
2017年現在、旧帝大では北海道大学とともに一般入試(前期日程)では全学部・学科で学科試験は1日完結で行われる。
==[[高等学校英語|英語]]==
和訳·長文問題·英作文·自由英作文·リスニング(外国語学部のみ)が課され、英語における総合力を問うている形式となっており、難易度はかなり高い。ただ、ここ最近は和訳と長文読解の易化が見られる。そのため、合格圏内に到達するには最低でも60%、できれば70%の得点は確保したいところである(医学科志望者ならば、7~8割程度は得点したい)。
===英文和訳===
最近の阪大和訳問題は易化傾向にあるため、和訳は近年の阪大英語における有力な得点源といえる。いたずらに難しい単語こそ出ないものの、市販の単語帳には載っていない単語が出ることがある(文意で予測することも難しい)。
和訳問題の高得点確保に求められるのは、正確な構文把握及び日本語力である。本学の和訳と英作文の問題指示文は特異で、「次の英文の意味を日本語で表しなさい」というものである。この問題文をどう解釈するかは議論が分かれるところだが、一般的に受験英語では、名訳を狙わずに英文構造に忠実な日本語を大切にすることが重視されやすい。この観点から阪大英語の和訳にも臨むべきであろう。
また、阪大の英文和訳においては、「対比」を軸にした文章がほとんど毎年のように出題されている。過去に実際に出題された例を挙げると、「運を信じる人」と「運を信じない人」や、「正しい言葉遣い」と「不適切な言葉遣い」などである。そのため、対比の関係性を見抜けば、対比されている単語の逆を書けばある程度の訳を導きだすことができ、いわゆる「難単語」の部分で点を稼ぐことが容易になることもしばしばである。
===長文読解===
長文読解は、オーソドックスな問題で、対比構造が明確な文章が多い。難単語の同義語を選ばせる問題、和訳、文章の大意など設問形式はさまざまである。
英文素材は様々だが、特に専門知識がいるほどでもないが、俗に言う一般教養が無いと苦戦を強いられる場合もあるため(そうでもない場合もある)、一通り自分の使用している単語集を覚えたら、学術的な基礎知識をつけておきたい。加えて知らない単語の意味を前後の文脈から類推する力がついていることが望ましい。他の大学と比べても決して難しいわけではないのでこの分野で落としてはならない。記号問題などで点を落とす受験生はいないので、確実に点数をとれる問題を確実にとることが合否を分ける。また、代名詞などに下線部が引かれ、意味内容を答えろという問題も出題されるが、非常に単純明快で素直な問題である。ここも点数を落とすことがないようにしたい。
ただ、外国語学部は、独自の長文問題を課しているが、こちらの問題の難易度は他学部のそれよりも数段高いといえ、また分量も多いので、相当な英語力と的確な説明を行う日本語力が要ることは、外国語学部志望者なら分かるだろう。阪大のブランドイメージや、センター試験のボーダーの点数だけで、受験するかを判断するというのは、相当危険であり、控えるのが望ましい。
ところで、下線部和訳を、「どうして阪大は英文解釈のⅠ番だけでなく、長文読解のⅡ番でも出しているのか」と、疑問を抱いたことはないだろうか。疑問があって正解である。実は、この下線部和訳の箇所というのは、確かに構文が入り組んでいたり、難単語があったりするというだけのこともあるが、実は文全体を理解できているかを、下線部和訳で見ている場合もある。とりわけ、this や that などの代名詞をの意味を明示させることがある場合には、その傾向が強い。裏を返せば、長文読解を難なく乗り切るには、小手先のテクニックに頼ったりせず、速読と精読をする力を身に付け、全文を読み切ることが大切だということになる。また、これを押さえてしまえば、指示語の指す内容を日本語で答えさせる問題も、阪大ではお馴染みの対比構造をヒントにして解かせる穴埋め式の記号問題も、正誤問題もある程度は解きやすい物となるだろう。そのためには、より多くの英文に触れておくことをお薦めする。
===自由英作文・和文英訳===
自由英作文については、60~80語の英文を書かせる形式が定着している。テーマは身近なものが多いが、平成20(2008)年度は「嘘をつく」ことについて論述を求めるという、比較的一般的なテーマが出題された。また、設問文は英文である場合もあるし、日本語である場合もある。なるべく多くの基本例文を暗記し、できれば15分程度で回答することが望ましい。他の問題との兼ね合いから、20分以上はかけるべきではないだろう。そのため、日頃から自分の意見の立場を明確にして、なおかつその理由付けをする癖をつけることが有用となろう。
一方、英作文は二問構成となっており、訳させる分量がかなり多く逐語訳がほぼ不可能であるため、日本語の意味をうまくくみ取った上での訳出が求められる。英作文の二問目は文学部用と他学部用の問題に分かれているが、文学部志望者用の問題の方が難度が一段高く、京大英作文と難易度はあまり変わらないか、その水準を凌駕する。難易度としては大学入試英語では最高峰レベルといえる。また、外国語学部は、自由英作文は他学部と共通であるが、英作文問題は独自の問題を課している。こちらの問題も文学部並みのレベルと考えて差し支えない。
対策としては、基本的な英語構文を多く頭に入れ、英語にしにくい日本語をどう解釈していくかを考える能力、つまり和文和訳の力を磨きつつ、作文と添削を繰り返すのが一番良い。実践的な演習問題としては、阪大の過去問である。
===現状の傾向===
阪大英語は、試験時間90分(文学部は105分、外国語学部は120分)に対して分量がやや多いため、かなりのスピードが要求される。これが、本学の英語が難問と称される所以の一つとなっている。
平成8(1996)年以前は、試験時間は今と同じで大問が一題多かった。英文も現在よりも難度の高い素材が選ばれていたようである。そのため、問題数が減少してから、阪大英語は若干の易化を辿っているように思えるが、全大学の入試英語問題自体が平均的に易化しているようであり、一概に阪大英語だけが易化傾向にあると断言できない。
仮にこうした傾向にあったとしても阪大英語が良問であることには変わりがない。テクニックも必要だが、多くの英文に触れたり書くことで鍛えられる英語の基礎体力や総合力を育成することが阪大英語突破の近道であろう。
なお、平成20(2008)年度入試より、大阪外国語大学の入試は大阪大学外国語学部の入試として実施された。上述の通り、和訳問題と自由英作問題は他学部と出題形式が共通しているが、長文問題と英作文問題は独自の形式を課している。また、当然入念なリスニング対策もする必要がある。リスニングは年々難化しており、語数も昨年の倍という年もあった。設問は非常に単純なことを聞いているので、流れる英語の音声をいかに速く自分の頭で理解・整理するかが大事である。平成23(2011)年度は、総合問題の語数が倍増した。
==[[高等学校数学|数学]]==
===理系===
150分で5題出題される。理系数学の出題範囲は数学I・数学A・数学II・数学B(ベクトル・数列)・数学IIIである。特徴としては標準~やや難レベルの問題がズラリと並び、一見しただけで解ける問題は少ない。
また、かなり高度な計算力·論理的思考力·推論力が要求されるため難易度は相当高い。常にハイレベルな範囲内で易化~難化を繰り返している。またその年度によって難易度の差が大きいのも特徴である。5題中、4題の難易度は標準~やや難レベルで難易度差が大きくなく、1題はやや難~難レベルで他の4題に比べて頭1つ抜けた難易度の問題であることが多い。
ちなみに05年、06年は標準的な問題が多かったものの、07年には難化し、08年には再び元の水準に戻った。09年、10年も標準的な水準だったが11年に至ってはかなり難化(特に第4問目の不等式の証明はかなり難しく大学初級レベルの高い応用力が必要)した。
また理系数学の場合、文系数学と比較して、それほど高得点の争い(医学部医学科を除く)にはならない為、捨てる問題と取る問題を見分けることが重要となってくる。過去、難しい年度では数学が入試問題として機能せず工学部や理学部で完答0でも受かる場合もあった。例年なら2完+部分点で合格圏には入ってくるだろう。なお、医学部医学科は学力が飛び抜けているため、易しい年度だと全問完答者が続出することもある。例年の難易度でも7割~8割くらいは必要になってくると思われる。
確率、微分積分、ベクトル、数列が頻出であり、証明問題の出題率が極めて高い。
よく練られた良問が多く、複数分野にまたがる融合問題と解答の方針が立てにくい証明問題が多く出題されている。ゆえに教科書を理解した程度では全く歯が立たない。しかし教科書の理解が不十分ではスタ―トラインにも立てないので、まずは教科書を隅々まで理解した上でセンタ―でコンスタントに8~9割(可能ならば満点)を取れる実力をつけよう。
つまり、解法パターンが明らかな基本問題・典型問題は短時間で正確に解けるようになるまでしっかりやり込むことが肝要である。
阪大理系数学はどうやっても概ね計算が繁雑になる問題が多くすっきりとはいかない傾向がある。つまり、センスは要求しない代わりにあまり楽ができず忍耐力を要求してくる傾向が強い。
阪大のような難易度、分量の入試問題は探すのは意外と大変であったりする。
阪大理系数学はこのように概ね難易度は高く、数学が非常に得意な受験生を除くと、対策に相当な苦労を要する受験生が多いことだろう。
1つ目に重要なことは、計算力を身につけることである。阪大理系数学の大きな特徴として、各問題の難易度を問わず必ず計算力が要求されるということがある。つまり、標準レベルの問題だからと言って、やや難レベルの問題に比べて計算が大幅に楽であることはあまりないということだ。そして、計算は時間のない中、基本事項を地道に積み重ねて進めていく作業である。したがって計算力は忍耐力であり集中力であり体力なのだ。解答作成を含め1題30分ほどかかる問題を途中でミスすることなく完答する習慣は毎日の勉強で意識して取り組まないと身に付かない。計算ミスをケアレスミスだからと軽視していては計算力は全く身に付かない。1問解ききるだけの集中力や忍耐力がないからケアレスミスが起きるわけである。計算力に対する認識が甘ければ阪大理系数学は1問も完答できないことさえ十分ありうる。
2つ目に重要なことは、判断力である。つまり、得点すべき問題と捨てる問題をいかに見分けるか、そして複数のアプローチを思いついた場合どちらで解き進めるのかを判断するための力である。阪大レベル以上になってくると特に顕著な傾向であるが、問題の見た目と難易度が一致しないために簡単な問題が難問に見えたり、その逆が起きうるということだ。阪大理系数学は一目見てすぐにアプローチを思い付くような典型問題はほとんど出題されない。そこまで難しい発想力を要求されてない問題であっても、見たことがない問題であるため最初は難しく感じてしまう。そして、実際非常に難しい問題も混ざっていることから、なかなかアプローチできないと「これは難問なのではないか」と考えてしまう。そうなると思考が停止し、解けるはずの問題でも止まってしまう。数学の場合、1問目の完答をいかに早く取るかということが心理的に大きく影響する。最悪1問目の完答が取れずに時間前半を折り返すようなことがあれば、焦りは相当なものである。すると、パニックになり、ますます判断力や集中力の低下を招き、深刻な事態となる。よって、普段の学習で難易度不明な問題のセットに当たって、問題の難易度を見分けるための判断力を養うことが必須である。解法によって問題の難易度が変わることもあるので、思いついた解法で最後まで解き進めるのか、撤退して他の問題に時間をまわすのかも判断力が必要である。こういった判断力も一朝一夕で養えるものではない。阪大模試も十分利用してほしい。
以上2点が阪大理系数学対策の上で重要な視点となってくるだろう。
阪大の理系学部の受験生の多くにとって、最も大きな壁となるのがこの数学であろう。このハイレベルな阪大理系数学に関して万全の対策を立てることはまず不可能である。
言うまでもなく、受験の合否は二次試験の数学だけでなく、センター試験や二次試験の他の科目の点数との総合で決まる。
特に阪大理系数学は時間をかければかけるほど点数が上がるという保証はない。従って二次試験の数学対策に気をとられ過ぎず、他の科目の対策が疎かにならないようにすることも必要である。
===文系===
3問で90分で、他教科と異なり、配点比率が明示されている点が特徴的である。出題範囲は数学I・数学A・数学II・数学B(ベクトル・数列)である。難易度は理系数学と違い、標準レベルの問題が多い。「チャート式基礎からの数学(青チャート)」の例題を何周も解いて基礎を固め、過去問対策をしていれば、満点も十分に狙えるだろう。数学が苦手な受験生でも二完はしておきたいところである。頻出分野は微分積分、ベクトル、数列、確率であるが、幅広い分野が出題されるため、苦手分野は作らないようにしよう。また、証明問題はほぼ毎年のように出題され、図示問題も出題されたことがある。平成25年度では教科書にある公式の証明が出題されるなど、教科書の徹底的な確認は必須条件である。
==理科==
試験時間は1科目(医学部保健学科看護学専攻)75分、2科目150分である。
===[[高等学校物理|物理]]===
物理基礎・物理から出題され、力学、電磁気学が頻出である。主に大問1は力学、大問2は電磁気学、大問3A・Bは熱力学・波動・原子のうち2つで構成されている。また、阪大物理は難易度が高くいわゆる公式を適用しただけで解ける問題は殆どない。
変則的な変数指定も含めて問題文から要求されている事を正確に物理現象に置き換えてそれを読み取る力・高い思考力・高度な数学の力が必要であり、早い段階から十分な対策が要求される。物理の本質を理解出来ているかが高得点のカギを握っている。また結果のみを記すものが殆どであるがグラフの描写問題や論述問題が頻出なのでこちらもしっかり対策されたい。
阪大の物理対策としては基礎を十分に理解し1冊問題集を仕上げた後に入試対策の問題演習を行うとよいだろう。難しい問題でも気をぬかずしっかりと解いておきたい。また、微分積分の概念や、微分方程式の解法をある程度身につけておくと非常に役に立つことがある。
===[[高等学校化学|化学]]===
阪大化学は理系全学部([[w:理学部|理学部]]、[[w:工学部|工学部]]、[[w:基礎工学部|基礎工学部]]、[[w:医学部|医学部]]、[[w:歯学部|歯学部]]、[[w:薬学部|薬学部]])共通で大問4題の出題である。
出題形式としては、記述式が多く、選択肢を選ぶなどの問題はほとんどなく、20~100字程度の論述問題、反応式を書かせる問題、解答過程を書かせる問題、[[w:実験器具|実験装置]]の図示やグラフを書かせるなど多種多様である。
高い化学的応用力と思考力が要求され難易度はかなり高い。
出題範囲は化学基礎・化学の全分野である。新課程から登場した[[w:核酸|核酸]]・[[w:アデノシン三リン酸|ATP]]・[[w:医薬品|医薬品]](生命と化学)は、今後十分に出題される可能性があるので留意すべきである。今まで取り扱われていないような新傾向の問題も数多く出題されているので、暗記化学のような学習法では到底太刀打ちできない。化学的思考力・洞察力を普段から養っておく必要があろう。
解答用紙は、大問1題につきB4判1枚である。
例年、[[w:理論化学|理論化学]]から1題、[[w:無機化学|無機化学]]から1題、[[w:有機化学|有機化学]]から1題、[[w:高分子|高分子化学]](化学の有機・無機)から1題出題、というのが定着している。また、無機は理論分野との融合問題であることが多い。(2008年2月現在)
'''理論化学'''
頻出分野は[[w:反応熱|熱化学]]、[[w:反応速度|速度]]、[[w:平衡|平衡]]である。特に平衡はほぼ毎年出題されている。
'''無機化学'''
頻出分野は[[w:電気化学|電気化学]]との融合問題である。理論化学と無機化学の融合問題が増える傾向にある。
'''有機化学'''
出題に占める割合が最も大きい。難問が多く、頻出分野は構造決定である。官能基の性質や、検出反応についての問題がよく出題される。
'''高分子化学'''
頻出分野は[[w:アミノ酸|アミノ酸]]・[[w:ペプチド|ペプチド]]、[[w:糖|糖類]]である。また前述の通り核酸・ATP・医薬品が出題される可能性もある。
===[[高等学校生物|生物]]===
「生物基礎・生物」から出題される。1冊の参考書を完璧になるまで解き続けるとよい。
==[[高等学校国語|国語]]==
阪大国語は文系のみに課されるが、文学部用問題と法·経済·外国語・人間科学部用問題に分かれ、両者に共通問題はなく全く別の試験になっている。
===法·経済·外国語・人間科学部===
法·経済·外国語・人間科学部用問題は、漢文の出題は無く試験時間は90分である。オーソドックスな問題が多いが、字数指定が課される問題が多い。字数指定は厳しい。文学部に比して難度は下がるが、易しいわけではなく、地道な練習がなければ、合格点を取るのは難しい。古文に関して言えば、近年本文の字数が増加している(問題レベルも難易度を増している)。文学部以外を志望する受験生も、古文の和歌に慣れるために文学部用の問題をやっておくことも有用であろう。
===文学部===
文学部用問題は、評論·小説(または随筆)·古文·漢文の構成で、試験時間は120分である。
特に、小説の難易度が高く、試験時間に比して全体的な分量が非常に多い。短編小説や随筆の全文が問題文になることも多い。対策法の一つとして、短編小説を日常的に短時間で読めるようにするという訓練も有用であると考えられる。
また、小説における大きな特徴としては、ただ単に登場人物の心情などを答えさせる問題にとどまらず、「表現上の特徴だと思われる点を説明しなさい」や、「本文中において『バイオリン』がどのような役割を果たしていると思われるか、考えを述べなさい」などの、レトリック(比喩や象徴なども含めて)に関する問題が出題されることもあることである。この対策としては、センター試験の小説の表現の特徴を問う問題において、選択肢を選ぶのみならず自分の言葉で説明できるように練習することが一つであると考えられる。
評論文はオーソドックスな問題文が題材となることが多いが、過去には西田幾多郎に関する哲学関係の評論が出題されたこともあり、注意も要する。小説と同様に記述は容赦のない量を要求される。他難関国立大学の過去問なども利用しつつ、スピードのある読解・解答・添削を繰り返すしかない。小説と同様、岩波書店などから出版されている哲学書、新書などの「原書購読」も有効な対策法であることは間違いない。
古文や漢文の記述問題に関しては、関西圏の大学で和歌を出題したり本格的な漢文を出題する大学は少ない。傾向も一定ではなく、漢詩が出題されたこともある。現代文・英語の難度も考慮すると、模擬試験は阪大用の模試だけでなく駿台全国模試も受験すべきであろう。
なお、設問に字数指定が課されることは少なく、解答欄を逐一全部埋めていては、時間に余裕が無くなる事もあるので、短くとも答えの核になる部分を分かりやすく記述できるよう、また日ごろから活字の文章を素早く読めるように練習しなければ、文学部用問題で合格点を取ることは難しい。
過去問題の用い方として、同一問題に対する解答例を多く集め、比較することが有効となる。阪大のようなトップクラスの難関大学となると、赤本・青本以外に、各予備校のウェブサイトから数年分の解答速報が利用できる。特に、論述問題には絶対的な解答というものはなかなか存在せず、予備校や出版社の模範解答例でも、大学の採点官から見れば8割程度の解答であろう。だが、受験生から見れば、8割で合格には十分である。従って、色々な8割の解答を参照することで、様々な解答の視点や論述の展開などを、吸収しておくと対策が立てやすくなる。これは、国語に限ったことではなく、論述地歴などにも有効であろう。
==地理歴史==
阪大地歴は文学部・外国語学部のみの出題となり、数学か地歴(世界史B、日本史B、地理Bより1つ)のいずれかを二次試験の科目として選択することができる。ただし、平成24(2012)年度入試より、外国語学部では、日本史Bと地理Bを選択することができない。数学か世界史Bを選択することになる。阪大文学部・外国語学部は、二次試験科目として英・国・地歴(前記の条件あり)での受験が可能である。これは、国公立大学のなかでは珍しい例である。これにより、数学が苦手な受験生でも旧帝国大に入学することが可能となるが、代わりに論述地歴・ハイレベルな国語問題が課されることに留意して受験対策をしなければならない。阪大文系の他学部(法学部、経済学部、人間科学部)にはこのオプションはなく、数学が必須で地歴は課されない。
本学の試験形式は日本史B、世界史B、地理Bともに論述問題がメインとなる。(世界史などに一部短答問題もあるが、少数である)論述問題としてはシンプルで解きやすいといえる。
=== 日本史B・世界史B ===
従って、歴史の流れを頭の中に入れることが必須となる。そして教科書記載の基礎知識をしっかり覚えることも絶対条件となる。この2ステップには、教科書とそれに準じた問題集を使えばよい。
次に重要なことは、流れに沿って身に付けた知識を使って、論理的な文章をきちんと書けるようになることである。数十字の論述からはじめて、作文と添削と再作文を繰り返していけば、いつのまにか100字単位の論述問題に対応できるようになる。または、論述問題集を用いて、学校の先生の添削を受けていくのもよい。
=== 地理B ===
抽象的で大きなテーマについて論述させるのが特徴。問いが提示しているものが奇異に感じられることがあるかもしれないが、焦らず、地理の基本的・基礎的な事項を問われているものと考えて答案を作成すればよい。農業関連、特に焼畑を含むアジア・アフリカの農業は頻出である。150〜250字と分量が多いため、必然的に複数の要素に分節化して論じることになる。分節化の仕方を問題文で誘導してある場合もあれば、受験生が考えなければならない場合もある。大切なのは解答欄の大きさを活かすこと。地理的事象のとらえ方はいくつもあるのが通常であるから、できるだけ多角的な見方を試みて答案に反映しよう。実際、問題文に「多角的に説明せよ」という文言が入ったこともあり、大学側が受験生の発想・手数の豊富さを期待しているのは明らかである。
対策としてやはり、阪大の過去問に当たるのが有用であろう。
そして英語や国語と同様、「対比」を意識して構成すると緊密な答案に仕上がることがある。たとえば「熱帯林は広葉樹が階層構造をなすのに対し、冷帯林は純林であり疎林のことが多い」といった答案は高い評価を得にくい。前半は「落葉性」と「樹木の高さのありよう」を、後半は「樹種の均一性」と「樹木の疎密」をと、評価する項目がばらばらであるためだ。ここを確実に整理して「熱帯林は多種多様な広葉樹が階層構造をなす密林であるのに対し、冷帯林はほぼ一種類の針葉樹が同じ樹高で生育する疎林のことが多い」などとまとめた方がよい。
=== 総論 ===
阪大地歴特有の形式として字数指定が「○○字以内」ではなく「○○字程度」で、升目が無いことが挙げられる。字数指定については、議論が分かれるところだが、基本的に所定の枠内に常識的な範囲内の大きさの文字で解答枠を埋められれば、問題が無いと考えることもできるが、定かではない。また、2011年度入試より、問題文、解答欄ともに横書きとなった。
=模試=
阪大対応模試として2020年現在、河合塾、SAPIX YOZEMI GROUP、駿台<ref>答案は2014年実施分よりWeb返却(駿台のマイページにPDF形式で掲載。掲載期間は、Web公開開始日から3ヶ月間。)となり、紙の答案は追加料金を払うことで返却可能となった(但し試験会場で使用した答案そのものは返却されず、答案をスキャンして前記のPDF形式のものをプリントアウトしたものを返却)。</ref>でいずれも年1回、東進は年3回、と開催されており、最大で6回の受験が可能である。四社で幅広い期間(2020年は7月・8月・10月・11月開催、そして夏休み終了までで3回、9月から本番までで3回実施)で分散して受験できるようになったことから大阪大合格へ向けての習熟度が適宜把握できるメリットが生じたと言える。本番レベルの試験(阪大入試予想問題)を阪大受験予定の受験生と共に受験できる良い機会であるので、可能な限りで受験されることが好ましい。また、中には、マーク模試(センター型)とドッキング判定もあるため、併せて受験されることもおススメする。
四社で幅広い期間(2020年は7月・8月・10月・11月開催、そして夏休み終了までで3回、9月から本番までで3回実施)で分散して受験できるようになったことから阪大合格へ向けての習熟度が適宜把握できるメリットが生じたと言える。本学志願者はこれらの模試を可能な限りで受験することをお勧めする。四社合わせて最大5回受験できることになるが、復習そして共通テストを考えれば、全社そして全回受験するのはさすがに過多であるだろう。いくら2次重視とはいえ、総点に加算される以上、共通テストの成績も侮れないし、万全な対策は必要である。目的は阪大模試で良い判定をとることではなく「阪大合格」とすべきであり、阪大模試はあくまで合格に向けての弱点補強や傾向を知るためのきっかけそして手段であるに過ぎず、模試の判定に一喜一憂しないことが大切である。成績は短期(1~2週間程度)でそんなに大きく変わらないし、全6回分を受験すれば必ず合格できる或いは合格できる実力が付くとは限らないし、受験しても受験しただけで消化不良になってしまえば全くの無意味でそのようになれば、受験しない方がマシである。自身の処理能力を考えて適当な受験回数(予備校模試はどこでも可)を選んで取り組んでほしい。
大手予備校による阪大模試は、以下である。</br>
*阪大本番レベル模試(東進)
*阪大入試オープン(河合塾)
*阪大入試実戦模試(駿台予備学校)
*阪大入試プレ(SAPIX YOZEMI GROUP)</br>
※予備校によっては、大阪大学が受験会場として設置されていることがある。
=編入試験=
工業高等専門学校生のみ対象。募集人数は若干名。
=脚注=
<references/>
=関連リンク=
*[http://www.osaka-u.ac.jp/ja 大阪大学]:大学公式サイト
[[Category:大学入試|おおさかたいたいさく]]
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行政事件訴訟法第3条
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2022-08-17T22:51:02Z
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66092
/* 条文 */
wikitext
text/x-wiki
[[法学]]>[[コンメンタール行政事件訴訟法]]
==条文==
([[w:抗告訴訟]])
;第3条
# この法律において「抗告訴訟」とは、行政庁の公権力の行使に関する不服の訴訟をいう。
# この法律において「処分の取消しの訴え」とは、行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為(次項に規定する裁決、決定その他の行為を除く。以下単に「処分」という。)の取消しを求める訴訟をいう。
# この法律において「裁決の取消しの訴え」とは、審査請求その他の不服申立て(以下単に「審査請求」という。)に対する行政庁の裁決、決定その他の行為(以下単に「裁決」という。)の取消しを求める訴訟をいう。
# この法律において「無効等確認の訴え」とは、処分若しくは裁決の存否又はその効力の有無の確認を求める訴訟をいう。
# この法律において「不作為の違法確認の訴え」とは、行政庁が法令に基づく申請に対し、相当の期間内に何らかの処分又は裁決をすべきであるにかかわらず、これをしないことについての違法の確認を求める訴訟をいう。
# この法律において「義務付けの訴え」とは、次に掲げる場合において、行政庁がその処分又は裁決をすべき旨を命ずることを求める訴訟をいう。
#:一 行政庁が一定の処分をすべきであるにかかわらずこれがされないとき(次号に掲げる場合を除く。)。
#:二 行政庁に対し一定の処分又は裁決を求める旨の法令に基づく申請又は審査請求がされた場合において、当該行政庁がその処分又は裁決をすべきであるにかかわらずこれがされないとき。
# この法律において「差止めの訴え」とは、行政庁が一定の処分又は裁決をすべきでないにかかわらずこれがされようとしている場合において、行政庁がその処分又は裁決をしてはならない旨を命ずることを求める訴訟をいう。
==解説==
行政不服審査法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成26年法律第69号)により、第3項から以下を削除。
: 異議申立て
==参照条文==
==判例==
*[http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=53786&hanreiKbn=02 区画整理事業設計等無効確認請求](最高裁判例 昭和41年02月23日)[[ 土地区画整理法第66条]],[[土地区画整理法第6条]],[[行政事件訴訟特例法第1条]]
*[http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=52634&hanreiKbn=02 不作為の違法確認等請求](最高裁判例 昭和47年11月16日)[[私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律第45条]]1項
*[http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=54240&hanreiKbn=02 盛岡広域都市計画用途地域指定無効確認](最高裁判例 昭和57年04月22日) [[都市計画法第8条]]1項1号
*[http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=55153&hanreiKbn=02 採用内定取消処分取消等](最高裁判例 昭和57年05月27日)[[地方公務員法第17条]]1項
*[http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=55853&hanreiKbn=02 労災保険不支給処分取消](最高裁判例 平成5年02月16日)[[ 労働者災害補償保険法第3条]],[[労働者災害補償保険法第7条]]1項1号,[[労働者災害補償保険法第12条の8]]第1項,労働者災害補償保険法12条の8第2項,[[労働者災害補償保険法附則第57条]]2項,[[労働基準法附則第129条]],[[行政事件訴訟法第33条]]1項,行政事件訴訟法33条2項
;1項
*[http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=52373&hanreiKbn=02 勧告取消等請求事件](最高裁判例 平成17年07月15日)医療法(平成9年法律第125号による改正前のもの)30条の7、健康保険法(平成10年法律第109号による改正前のもの)43条ノ3第2項
;2項
*[http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=54975&hanreiKbn=02 法律解釈指定通達取消請求](最高裁判例 昭和43年12月24日)[[墓地、埋葬等に関する法律第13条]],[[墓地、埋葬等に関する法律第21条]]
*[http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=55172&hanreiKbn=02 行政処分取消](最高裁判例 昭和57年07月15日)[[道路交通法第127条]]1項
*:道路交通法の規定に基づく反則金の納付の通告は、抗告訴訟の対象とならない。
*[http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=54280&hanreiKbn=02 大阪都市計画事業等事業計画決定取消](最高裁判例 平成4年11月26日)[[都市再開発法第51条]],[[都市再開発法第54条]]1項
*[http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=62587&hanreiKbn=02 勧告取消等請求事件](最高裁判例 平成17年10月25日) 医療法(平成12年法律第141号による改正前のもの)30条の7,健康保険法(平成11年法律第87号による改正前のもの)43条ノ3第4項2号
*:医療法に基づき都道府県知事が病院を開設しようとする者に対して行う病床数削減の勧告は抗告訴訟の対象となる行政処分に当たる。
;4項
*[http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=55010&hanreiKbn=02 原野売渡処分無効確認請求](最高裁判例 昭和42年04月07日)[[行政事件訴訟法第30条]],[[民事訴訟法第225条|民訴法225条]],[[行政事件訴訟特例法第1条]]
*[http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=51906&hanreiKbn=02 所得税賦課処分無効確認等請求](最高裁判例 昭和48年04月26日)[[旧所得税法第9条]]1項8号
*[http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=55159&hanreiKbn=02 不作為違法確認](最高裁判例 昭和57年07月15日)[[消防法第11条]]1項
==関連項目==
*[[w:行政事件訴訟法]]
----
{{前後
|[[コンメンタール行政事件訴訟法|行政事件訴訟法]]
|[[コンメンタール行政事件訴訟法#1|第1章 総則]]<br>
|[[行政事件訴訟法第2条|第2条]]<br>(行政事件訴訟)
|[[行政事件訴訟法第4条|第4条]]<br>(当事者訴訟)
}}
{{stub}}
[[category:行政事件訴訟法|3]]
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高校生活ガイド
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一部を変更、削除しました。wikipedia「高等学校」リンクを冒頭に追加しました。
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text/x-wiki
: [[小学校・中学校・高等学校の学習]] > [[高等学校の学習]] > 高校生活ガイド
{{Stub}}
{{独自研究の可能性}}
編集者の主観的な表現が含まれている可能性があります。このページをある程度の参考として、高校入学に向けて心構えを持つことは大切です。
しかし通常、入学時には新入生を対象とした説明が行われるため、そちらをより参考にすべきです。
また日本の高校についての詳しい情報はwikipedia[https://ja.wikipedia.org/wiki/高等学校]を参照してください。
----
== 高校は義務教育ではない ==
=== 説明 ===
高校は、義務教育ではありません。したがって、さまざまな事情により高校を退学することはありえます。そのあとに他の高校に入りなおす義務もありません。非行などに対する懲戒処分として、校長から謹慎や退学を命じられることもありえます。
日本では中学校までは年齢主義をとるため、1年間在籍しているだけで次の学年に進級できます。しかし高校では、規定の時間数以上の授業に出席をし、考査等で一定の成績を収めることが進級の必要条件です。つまり、出席や成績の状況次第で留年をすることがあります。
学校にもよりますが、中堅レベル以上の普通科高校の場合、高校の定期考査では、中学と比べて試験問題が難しくなるのが一般的です。教科書の内容が中学と比べすること高度になり、また大学受験に対応するため、定期考査に難しい問題が出される場合があります。
このため、定期考査の試験対策をしないと、いわゆる赤点を取る可能性が高いです。赤点とは、定期考査等の結果が基準点を下回ることです。詳しい規定は学校によりますが、基準は「固定された点数(30点など)未満」や「平均点の半分未満」などです。赤点をとってしまった場合にはいくつかの処置がとられます。
# 補習参加の上、追試で一定点をとれば合格とする。
# 補習はないが、追試で一定点をとれば合格とする。
# 補習参加の上、課題を提出すれば合格とする。追試はない。
# 補習に参加すれば合格とする。追試はない。
これらの救済措置の結果、合格となれば進級できますが、不合格のままの科目を残している場合は進級ができず、留年となります。このあたりの規定は学校ごとに大きく異なりますので、詳しくは学校の先生の指示に従ってください。
=== 転校 ===
また、高校では他校への編入はかなりハードルが高いです。遠隔地への転居などの場合でも現地の学校に自動的に入学することはできず、編入試験が課されます。
学校になじめず転学を希望したいという場合でも、通信制高校や夜間高校などへ転学せざるを得ないという場合もありえます。
== 科目の選択 ==
高校では、履修する科目を選択する場面が多くあります。まず、学校ごとに開講される科目が異なりますので、学校を選んだ時点で履修科目の幅は狭まっています。その上で、高校に入学して以降も、様々な場面で科目を選択する場面があります。
*主な選択科目(現行課程)
** 地歴科:世界史A・B、日本史A・B、地理A・B(世界史A・Bはどちらかを必ず履修しなければなりません)
** 公民科:現代社会、倫理、政治経済
** 理科:化学基礎・物理基礎・生物基礎・地学基礎、物理・生物・化学・地学
** 芸術科目:音楽、美術、書道、工芸
なお中学にある技術・家庭科の「技術」分野は、高校では取り扱われず家庭分野のみの家庭科となっています。普通科高校では、職業教育はありません。
高校の検定教科書の購入は、全科目とも学校教科書の販売を扱っている取次店(とりつぎてん)で買えます。自分が何歳になっても取次店で高校教科書を買えますので、高校生は検定教科書を入手したいだけなら、その選択科目を履修する必要はありません。
:(※ 検定教科書の購入方法については『[[小学校・中学校・高等学校の学習/検定教科書の購入方法]]』に解説がある。)
=== 芸術科目 ===
普通科高校での芸術科目は、音楽・美術・書道・工芸の中からどれか一つを選ぶ選択制になっています。1年生でどれか1つを選択必修、他学年では開講しない、という学校が多いかと思います。芸術科目は、自分の好きな芸術表現の科目を選ぶのが安全でしょう。もし音楽を履修した場合、授業ではまったく美術や書道が取り扱われません。これはどの芸術科目を選んだ場合にも同様です。好きでもないことを、1年間も毎週2時間ほど練習することは苦行ですので、芸術科目の選択は、自分の好きな芸術表現の科目を選ぶべきです。
なお、現在の中学3年までの芸術科目が、90年代までは高校1年や2年で習っていた内容です。現在の高校1年の芸術科目では、「脱・ゆとり教育」などの影響もあり、90年代の高校芸術科目よりも細かく、専門性のやや高まった事を習ってますので、そういう点からも、興味の無い芸術科目は、履修しないのが無難です。
さて、もし美大・音大または芸術系専門学校などの芸術系の進路を希望する場合は、その分野の科目を履修しておくのが無難ですが、全生徒を対象とする芸術科目だけではどのみち練習量が大幅に不足ですので、外部の芸術系進路用の予備校などで習う必要があります。
=== 文系・理系 ===
==== 文理選択とは ====
普通科高校では、多くの場合2年生次(一部は3年生次)<ref>[https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190726-00010000-yom-soci&p=1 「『文系か理系か』早すぎる選択…受験科目に専念するため、大半が高1で決定」2019年7月26日読売新聞オンライン]</ref>に、文系か理系のどちらかの類型を選択することが一般的です。これは、普通科高校生の多くが目指す大学進学にあたって、入試に対応するためにはポイントを絞る必要があるためです。この選択は一度選択してしまうと卒業まで変更することは、現実にはできない(後述)ため、慎重に選択する必要があります。文理選択までに、進学したい進路先をよく考えておかねばなりません。
少数例ですが学校によってはコースが分かれずに、文系志望の生徒にも数学IIIなどの理系科目を教える文理両立の高校の場合もあります。たとえ文理両立の高校でも、3年生では選択科目が増えてきます。高校普通科の全科目を履修するのは、たとえ文理両立の高校でも、授業時間の制限のため、不可能です。
また、「国際科」・「理数科」などの普通科以外の進学系の学科では、そもそも入学当初から文理選択がなくて、その学科の類型のカリキュラムとなることが普通です。たとえば理数科では、そもそも全生徒が理系のカリキュラムになり、文系特化のカリキュラムは選べません。
推薦入試で大学に入学するなら文理選択は関係ないかというと、そんなことはありません。私立大学の推薦受験では、受験生に特定の科目の履修を条件づける場合があります。たとえば、私立の理系学部を推薦受験する場合は、条件として数学III、および進学先学科に応じた新課程「物理」(旧課程「物理II」相当)・新課程「生物」・新課程「化学」などの科目の履修を条件づける場合もあります。なぜ科目制限するかというと、科目制限しないと文系科目だけで好成績を取って、理系科目が出来ないのに推薦入学してしまう受験生が出現してしまうからです。
==== どうやって選択するか ====
文理選択をするにあたっては、進路先としてどのような大学・学部を考えるかを最優先しましょう。間違っても、科目の得意不得意で選んではいけません。後でつまらない思いをします。なお、勘違いされやすいことですが、英語は文系・理系ともに大学入試で要求されることが一般的なので、「英語が苦手だから理系」という選択はやめましょう。
また、「数学が苦手だから文系」という選択肢をとる生徒が少なからずいますが、こちらも先のことを考えると安易であるといえます。というのも、いわゆる文系に属する学部学科でも数学を使うことがあり、「文系なら数学を使わなくても済む」とは限らないからです。具体的には経済学部・経営学部・社会学部では入試の段階で数学が必要な場合もあります(有名どころでは慶應義塾大学経済学部や慶應義塾大学商学部、早稲田大学政治経済学部)し、入試で使わなくとも大学の授業では必修とされることは珍しくありません。
なお、芸術系大学・短大・専門学校の志望や、体育大志望などは、文系を選ぶのが無難です。内容が文系かというとそうではないのですが、少なくとも高度な理系科目の学力は要求されないためです。また、大学でスポーツ推薦などを受け入れてる学部も、社会学部や文学部・経済学部など、いわゆる文系とされる学部です。経済学部は、日本では文系の学部として扱われます。企業からの視点も、経済学部卒を文系の人間として扱います。また芸術系卒や体育大卒も、企業からの視点では、彼らを文系の人間として扱います。
==== 「文転」「理転」について ====
理系から文系にクラスを変える'''文転'''、文系から理系にクラスを変える'''理転'''も可能ですが、現実的にはどちらも厳しい道を歩むことになります。
理系の場合、3年になってからも新しいことを3年の2学期終わり頃までは授業で習いますが、文系の3年生の授業では復習中心で2年生終わり頃までに習った知識を用いた入試対策や過去問演習などの復習が増えてくる、という特性があります。また、文系では理系の生徒が学ぶ科目である数学IIIは履修しない、理科の「基礎」でない科目は履修しないなどが一般的です。したがって、3年になってから理転しようとしてもスタートラインから極めて大きな差ができてしまいます。よって、文系から理系に「理転」すると、全く習ってないことが続出するので、大学受験対策が間に合わず、ほぼ浪人が確定です。
文転は前述の理転に比べれば多少はマシですが、古文漢文や地歴・公民での学習量などの積み重ねの差は小さくはなく、一般の生徒よりも努力しなければ文系のまま2年3年と進んだ場合に比べて進路が狭まることは否めません。また、学校によっては文理で地歴・公民の進度・内容が違い、2年次に習っていなかったものを文転してから改めて学ぶ必要が出てくる場合があります。当然、その分学習量が増えるため、「文転は理転に比べて楽」という噂を鵜呑みにしてはいけません。
== 特別活動 ==
学校は学業のための場であり、授業以外の活動にどう取り組むかは、校則に触れない範囲で個人の自由です。
中学校と異なるのは、大学入試には部活の実績や委員会活動・生徒会活動などの活動実績は要求されておらず、一般入試では部活などの活動実績があっても試験に加点されないということです。調査書の提出はありますが、高校入試と違い、高校卒業見込みであることの確認に使われるのみで、内容はほぼ考慮されません。
推薦入試やAO入試を行っている大学では部活などの実績が考慮される場合がありますが、基本的に、多くの高校生は一般入試で大学進学することになります。それを踏まえたうえで、特別活動に力を入れるも入れないも、個人の自由です。大学入試のために学業に専念したいという考え方もあり得ますし、そんなことではつまらないので進路には関係ないけれど打ち込めるものを探すという考え方もあり得ます。
* 部活での文書管理などのノウハウについては、こちらを参考にしてください。 リンク:[[高等学校部活動]]
== 普通科高校と実業高校 ==
普通科高校は大学進学を目指す生徒に特化したカリキュラム、実業高校は高卒での就職を目指す生徒に特化したカリキュラムが組まれています。また、実業高校が持つ企業とのパイプも普通科高校は持っていません。したがって、高卒で就職する場合は、実業高校卒の方が有利です。家庭の経済事情で、大学への進学が難しい家庭はこの事に注意してください。いっぽう大学進学は、工業高校や商業高校などの実業高校の卒業生でも、法的には問題なく大学受験が可能です。ですが、現実的には大学受験は普通科高校生の方が有利です。特に職業高校への進学にこだわりが無ければ、将来的に大学進学したいなら、普通科高校を卒業したほうが大学進学しやすいでしょう。
職業高校というと「落ちこぼれの不良が集まる底辺校」というイメージを持っている人がいるかもしれませんが、それは過去のことです。実業高校は就職活動の面接に臨むことができ、その後即戦力として就職できる生徒を育てるために、生徒指導はきちんと行われている学校が多いです。また実習や資格取得のための検定が多くあるため、そのための勉強の忙しさは普通科高校には劣りません。
== 定時制・通信制高校 ==
定時制と通信制の高校に通う(または、それを考えている)方はサブページをお読みください。
*[[高校生活ガイド/定時制]]
*[[高校生活ガイド/通信制]]
== 出典・脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
*[https://shingaku.mynavi.jp/ マイナビ進学]
*[https://allabout.co.jp/gm/gt/2066/ All About学習・勉強法]
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中学校社会 歴史/日本に来航したヨーロッパ人
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2022-08-18T06:28:10Z
Artanisen
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/* キリスト教の伝来 */ より良い画像 = First_Japanese_Embassy_to_Europe_1586.png
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text/x-wiki
== 鉄砲の伝来 ==
[[ファイル:Arquebus.jpg|thumb|right|300px|種子島火縄銃(2005年日本国際博覧会|愛知万博のポルトガル館展示物]]
戦国時代の16世紀の1543年に、九州の今でいう鹿児島県の島である<big>種子島</big>(たねがしま)に、ポルトガル人を乗せた中国大陸の船が流れ着く。
このとき、ポルトガル人から<big>鉄砲</big>(てっぽう)が日本に伝わる。それまでの日本には鉄砲は知られていなく、新兵器であった。当時の鉄砲の仕組みは、火縄銃(ひなわじゅう)という仕組みである。種子島の領主の種子島時尭(たねがしま ときたか)は、ポルトガル人から大金を払って鉄砲を買い入れ、部下にその仕組みと製造法を学ばせた。
時尭はヨーロッパ人の鉄砲の威力を見て感心し、即座に2000両の大金を支払い2丁の鉄砲を購入したという。
[[ファイル:Sakaiteepo.jpg|thumb|300px|堺の鉄砲鍛冶。『和泉名所図会』(いずみ めいしょ ずえ)/国会国立図書館所蔵]]
やがて各地に鉄砲の情報が広がる。堺(さかい、大阪府にある)や国友(くにとも、滋賀県にある)で、それまでの刀鍛冶などによって大量に鉄砲が日本国内でも生産されるようになった。
この時代のころ、ヨーロッパでは、海路での貿易が、さかんであった。15世紀に入ってから西アジアではトルコ系のオスマン帝国が成長し、ヨーロッパは貿易ルートをオスマン帝国にさえぎられるようになっていたからだ。このため陸路(りくろ)をさけた貿易が、さかんになった。16世紀には、ポルトガルやスペイン人らは、貿易で東アジアに進出しており、そこで貿易を行っていた。
鉄砲の伝来により、日本での戦いの仕方が、大きく変わった。
:*馬にのって戦う騎兵(きへい)の戦闘から、足軽(あしがる)などの歩兵の集団に鉄砲を持たせて鉄砲隊を組織して戦う集団戦法に変わった。
:*城の城壁は、鉄砲の弾(たま)を防ぐため、どんどん強固になっていった。
:*戦争の勝負が、早く決まるようになった。
== 南蛮貿易 ==
[[画像:Namban-13.jpg|340px|thumb|南蛮貿易(16-17世紀、狩野内膳画の『南蛮屏風』より)]]
このようなことをきっかけに、日本とポルトガルとの貿易が始まり、やがてスペインも日本との貿易を始め、ポルトガル人・スペイン人の商船が、九州の長崎や平戸(ひらど)や、大阪の堺(さかい)の港などを訪れ、貿易をするようになった。
日本への輸入品は、中国の生糸や絹織物など、中国産の物品が中心だった。ヨーロッパの鉄砲、火薬、毛織物、時計、ガラス製品、南方の香料なども、日本に輸入され、伝えられていった。日本からの輸出品は、銀や刀剣だった。当時の日本では銀山の開発が進んでいたので、世界市場に影響を与えるほどの産出量・輸出量だった。
当時の日本人がヨーロッパ人を<big>南蛮人</big>(なんばんじん)と読んだので、日本によるヨーロッパとの貿易のことを <big>南蛮貿易</big>(なんばん ぼうえき)という。
== キリスト教の伝来 ==
また、戦国時代のヨーロッパ人の来航により、キリスト教が日本に伝わった。
[[ファイル:Franciscus de Xabier.jpg|thumb|250px|left|フランシスコ・ザビエル。(生1506年 - 没1552年) アジア地域での布教中に「アンジロウ」という日本人と知り合ったのをきっかけに、日本への渡航と布教を決意して、1549年に鹿児島に上陸して島津氏に布教の許可を得た。その後、各地に布教のためにまわり、周防(すおう、山口県)の大内氏の保護を受け、また豊後(ぶんご)の大友宗麟の保護を受け、それぞれの地で布教した。 この絵は江戸時代に日本人が書いた物と考えられており、作者は不明。重要文化財。]]
1549年にはイエズス会のスペイン人の宣教師(せんきょうし)である'''フランシスコ=ザビエル'''が日本の鹿児島に来て、<big>キリスト教</big>を伝えた。当時の日本では、キリスト教徒のことを '''キリシタン''' と呼んでいた。
そのあと、他の宣教師も、次々と日本にやってきた。たとえばルイス・フロイスなどの宣教師である。
宣教師は貿易の世話もしたので、戦国大名たちの中にはキリスト教を保護する者が、西日本を中心に、特に九州を中心に多く出た。キリスト教の信者になった大名のことを <big>キリシタン大名</big>(キリシタンだいみょう) という。キリシタン大名になった戦国大名には、有馬晴信(ありま はるのぶ)、松浦隆信(まつら たかのぶ)、宗義智(そう よしとも)、大村純忠(おおむら すみただ)、黒田長政(くろだ ながまさ)、大友宗麟(おおとも そうりん)、小西行長(こにし ゆきなが)、高山右近(たかやま うこん)などがいた。
[[Image:First_Japanese_Embassy_to_Europe_1586.png|thumb|300px|天正遣欧少年使節の来訪を伝える、当時のドイツの新聞の版画、1586年。 右上は伊東マンショ、右下は千々石ミゲル、左上は中浦ジュリアン、左下は原マルチノ。中央はイエズス会の宣教師であるメスキータ。( 京都大学 附属図書館 蔵 )]]
1582年( 天正(てんしょう)10年 )には、九州のキリシタン大名の大村・大友・有馬を中心に、日本からローマ教皇のもとへ少年使節が4人、送られた。(<big>天正遣欧少年使節</big>(てんしょう けんおう しょうねん しせつ)) しかし、使節は1590年に帰国して、帰国の時点では、すでに日本では豊臣秀吉により宣教師が禁止されていたが、キリスト教はまだ許されていた。
キリスト教は、平等を説き、病院や孤児院なども建てたので、民衆の心をつかみ、民衆たちにもキリスト教は広がっていった。17世紀の初め頃には、日本国内でのキリスト教の信者の数が30万人をこえるほどになっていたと言われている。
(: 発展)イエズス会は、カトリック系の組織。ヨーロッパの宗教改革で勢力を伸ばしたプロテスタントに対抗し、カトリックでも改革が進められ、そのカトリックの中でもイエズス会は有力な組織であった。信者を獲得する理由もあり、イエズス会(カトリック)は海外への布教も進めていた。ザビエルなども、そういったカトリックの一連の布教活動もあって、日本などに布教しにきていた。(※ 教科書会社の副教材ワークブックで、ここら辺の背景事情まで教えられている。 )
[[Category:中学校歴史|にほんにらいこうしたよおろつはしん]]
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高等学校日本史B/保元・平治の乱
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2022-08-18T11:49:23Z
椎楽
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{{Nav}}
== 保元・平治の乱 ==
=== 保元の乱 ===
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ 保元の乱
! !! 上皇方<br>(負) !! 天皇方<br>(勝)
|-
! 天皇家
| 崇徳上皇(兄) || 後白河天皇(弟)
|-
! 藤原氏
| 左大臣 藤原頼長(弟) || 関白 忠道(兄)
|-
! 源氏
| 為義(父)<br> 為朝(弟) || <br> 義朝(兄)
|-
! 平氏
| 忠正(叔父) || 清盛(甥)
|-
|}
鳥羽法皇は源平の武士を組織し、荘園を集積していったことで絶大な権力をえた。しかし、このことは鳥羽法皇の権勢の継承という問題を引き起こすことになる。1156(保元元)年、鳥羽法皇が死去すると、次の治天の君の地位をうかがう{{ruby|'''崇徳'''|すとく}}'''上皇'''と'''後白河天皇'''の対立が表面化する。
また、鳥羽法皇の治世末から藤原氏も摂関家の継承をめぐって、関白・'''藤原'''{{ruby|'''忠通'''|ただみち}}と左大臣・'''藤原'''{{ruby|'''頼長'''|よりなが}}が対立していた。
崇徳上皇は権力を取り戻すために頼長らと手を結び、さらに源為義・為朝父子や平忠正らの武士を招集した。一方の後白河天皇は、鳥羽法皇の側近だった'''藤原{{ruby|通憲|のりみち}}'''('''信西''')を参謀として、源義朝・平清盛・源頼政らの有力武士たちを動員し、上皇方に先制攻撃を加えた。兵力に劣る上皇方はすぐに総崩れとなり、崇徳上皇は降伏した。この戦いを'''保元の乱'''という。
この結果、崇徳上皇は讃岐に流され、為義らは処刑された。この戦後処理では、400年ぶりに上皇が島流しとされたこと、約350年ぶりに死刑が行われたことで当時の貴族たちに大きな衝撃を与えることになった。そして、武士が単なる警護役ではなく政治闘争にも関わるようになったことも貴族層に強く印象付けることになった。後に『'''愚管抄'''』を記述する'''慈円'''はこの乱によって「'''{{ruby|武者|むさ}}の世'''」になったと評した。
{{-}}
=== 平治の乱 ===
保元の乱ののち、後白河天皇は退位し、院政を開始した。この時に政治の主導権を握ったのが藤原通憲であった。通憲は平清盛と手を結び、荘園整理や悪僧・{{ruby|神人|じにん}}の取り締まりなどを行い、時代の変化に対応した政治を行った。しかし、今度は後白河上皇の近臣同士の対立が激しくなり、権勢をもつ通憲への反発が強まった。
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ 平治の乱
! !! 勝ち !! 負け
|-
! 院近臣の貴族
| 藤原通憲(→自殺) || 藤原信頼(→斬首)
|-
! 武士
| 平清盛<br> 平重盛 || 源義朝(→謀殺) <br> 源義平(→斬首)<br> 源頼朝(→伊豆)
|-
|}
1159(平治元)年、通憲に反感を持つ'''藤原{{ruby|信頼|のぶより}}'''は、清盛が熊野詣に出かけた隙をついて源義朝とむすんで挙兵し、通憲を自害に追い込み、後白河上皇と二条天皇を幽閉した。しかし、帰京した清盛が六波羅の自邸にもどり、二条天皇を脱出させて信頼・義朝討伐の宣旨(命令)を得ることに成功する。そのため、清盛は多くの武士をまとめることに成功し、信頼・義朝らを倒した。信頼は処刑され、義朝は再起を図るために東国に向かう最中に殺害された。そして、義朝の子の頼朝は伊豆に流された。これが'''平治の乱'''である。
保元・平治の乱の結果、藤原氏の力はさらに落ち込み、源氏をはじめとする多くの武士も没落・滅亡した。一方で、平清盛の地位は、唯一の'''武家の棟梁'''として急速に高まっていった。
== 平氏政権 ==
=== 平家の繁栄 ===
平氏は清盛の父・忠盛の頃から日宋貿易に力を入れていた。11世紀後半から日本・宋・高麗との間での商船の往来は活発化しており、貿易の利益は清盛にとって重要な経済基盤となっていた。
こうした豊かな財力を背景にした後白河上皇への奉仕と軍事力は清盛の権勢を大いに高め、1167(仁安2)年には武士として初めて太政大臣に就任する。清盛本人だけではなく、嫡子・重盛をはじめとした一族も高位高官にのぼり、最盛期には10数名の公卿、殿上人30数名を輩出することになる。
清盛は娘の{{ruby|徳子|とくこ}}({{ruby|建礼門院|けんれいもんいん}})を高倉天皇の中宮に入れる。徳子と高倉天皇の間に皇子が誕生し、'''安徳天皇'''として即位すると清盛は外戚として権勢を誇るようになる。
その間に荘園は500余りを所有するようになった。こうした清盛を中心とした政権を'''平氏政権'''、あるいは'''六波羅政権'''という(六波羅は清盛の邸宅の場所)。
=== 日宋貿易 ===
=== 政権の動揺 ===
平氏政権は従来の朝廷の組織にのっとったもので、平家一門が官職を独占して政権を運営していた。一方で、清盛らとの縁の薄い貴族や他の武家は政権から排除されていたため、徐々に平氏政権に対する不満が高まっていった。また、後白河法皇と清盛との関係も微妙なものとなっていた。そうした中、1176年に後白河法皇の妃で清盛の妻の姉妹であった建春門院滋子が病没し、清盛と法皇・近臣との対立が深まっていった。
1177年、後白河の近臣である藤原{{ruby|成親|なりちか}}や信西の弟子であった西光、僧の{{ruby|俊寛|しゅんかん}}らが京都郊外の鹿ケ谷で平氏打倒の計画をするが失敗した('''{{ruby|鹿ケ谷|ししがたに}}の{{ruby|陰謀|いんぼう}}''' 。
そして1179年、清盛の嫡男であり法皇と清盛の調整役であった平重盛が死去するなどの出来事が積み重なると対立は決定的なものとなる。同年11月、清盛はクーデターを起こして関白をはじめとした多くの貴族たちを左遷または官職を{{ruby|剥奪|はくだつ}}し、後白河を幽閉した。受領も平氏または平氏に近い者に交代させられ、一門の知行国は32か国に急増した。
こうして、平氏は独裁的な強権を手に入れた。しかしこのことがかえって平家一門への反感を強め、反平氏の勢力を結集させることになる。
[[category:高等学校日本史|ほうけんへいしのらん]]
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高等学校日本史B/院政期の文化
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2022-08-18T11:49:48Z
椎楽
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テンプレ追加
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text/x-wiki
{{Nav}}
:wikibooks『[[高等学校古典B]]』で『大鏡』(おおかがみ)など参照せよ。
----
この時代、歴史への関心が高まり、『'''大鏡'''』(おおかがみ)や『今鏡』(いまかがみ)などの歴史物語がつくられた。また、藤原道長の逸話を書いた『'''栄花物語'''』(えいがものがたり)も書かれた。いっぽう、『大鏡』は、藤原氏に批判的な視点で書かれている。
また、『大鏡』や『栄花物語』の文体は、仮名(かな)書きである。
また、新興勢力である武士への関心が高まったことから、軍記物への関心も高まり、平将門の乱を書いた『'''将門記'''』(しょうもんき)や、前九年の役を書いた『陸奥話紀』(むつわき)も書かれた。
また、'''絵巻物'''(えまきもの)がつくられ、『'''源氏物語絵巻'''』や『伴大納言絵巻』(ばんだいなごん えまき)、『鳥獣戯画』(ちょうじゅうぎが)もつくられた。
当時の民間の流行の歌謡のひとつに'''今様'''(いまよう)というのが、あった。後白河は今様を好み、『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)を編纂した。
このほか、民間では、田楽(でんがく)や猿楽(さるがく)などの芸能も流行していた。
これらの歌謡は芸能は、貴族のあいだでも流行していた、という。
:※ 後白河の「今様」好きとか、軍記物の流行、などから推測できるように、どうも、この時代の貴族は、貴族以外の庶民(とはいっても京都などの町民だが)や武士などの貴族以外の集団の社会についても、貴族は関心を抱いていたことが分かる。けっして、鎌倉時代になってから急に、貴族による庶民への関心が高まったのではないようで、どうも、すでに院政期の時代から、貴族の庶民社会への関心は、だんだんと高まっていってるようだ。
インド・中国(チャイナ)・日本の仏教説話をあつめた『'''今昔物語'''』(こんじゃく ものがたり)もつくられた。
建築物では、この時代に奥州藤原氏によって、'''中尊寺金色堂'''(ちゅうそんじ こんじきどう)が平泉(ひらいずみ)に建てられた。
このほか、各地の豪族により、陸奥に白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)、九州に富貴寺大堂(ふきじ おおどう)などが建てられた。
(これらの建築物の分布からも推測できるように、)この時代には、日本全国の各地に仏教や浄土教が普及していった、と考えらている。
また、平家が厳島神社(いつくしまじんじゃ)に納経した『平家納経』にも、絵画が描かれている。
[[ファイル:Fan paper album Shitennoji.JPG|300px|right|thumb|『扇面古写経』(大坂、四天王寺)この紙には書かれてないが、ほかの紙には、京都の市中での庶民のようすが描かれたのもある。]]
『扇面古写経』に、絵画あり。
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高等学校日本史B/鎌倉幕府の成立
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2022-08-18T11:50:09Z
椎楽
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wikitext
text/x-wiki
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== 源平の争乱 ==
=== 以仁王の令旨 ===
1179年に平清盛は後白河法皇を幽閉し、平氏の専制体制を作り上げた。このことは他の有力貴族や寺社の不満を高めることとなった。1180年に清盛が、娘の徳子(とくこ)の産んだ安徳天皇を即位させると、後白河法皇の第2皇子の{{ruby|以仁王|もちひとおう}}が{{ruby|源頼政|みなもとのよりまさ}}とともに挙兵した。これに対して、清盛は速やかに対応し、以仁王らを攻撃した。頼政は宇治で戦死し、以仁王も奈良に逃亡する最中に討ち取られた。
しかし、以仁王は挙兵と同時に諸国の武士に平氏討伐の令旨を出しており、各地でこれに呼応した武士が立ち上がった。その中でも有力だったのが、伊豆(いず)に流されていた'''源頼朝'''(みなもとの よりとも)、および信濃の木曽(きそ)の'''源義仲'''(みなもとのよしなか)であった。
平氏は、一時、都を摂津(せっつ)の'''福原'''(ふくはら)に移した。この遷都は、瀬戸内海の支配を確保するための拠点移動であったが、しかし貴族などに反対されたため、半年で京に都を戻した。
1181年の清盛の死や、畿内・西国を中心とした飢饉(養和の飢饉)の発生は平氏に不利に働いた。
1183年、平氏は京都をめぐって義仲の軍勢と戦い、平氏が負け、平氏は安徳天皇を連れて西国に逃げる(都落ち(みやこおち) )。
後白河法皇は、京都にとどまった。
そして、源義仲と後白河が対立した。
そして、頼朝は、弟の源範頼(のりより)および源義経(よしつね)および彼らの軍勢を京に派遣し、源義仲(よしなか)を討った。
(※ 源氏どうしで戦わせて勢力を削いで後白河を中心とした政権を築こうとする、後白河の策謀か? 実教出版が、この解釈で記述している。)
また1183年に頼朝は後白河法皇との交渉の末に東海•東山両道の支配権を承認された('''寿永二年十月宣旨''')。
=== 平家滅亡 ===
そして、摂津の一の谷(いちのたに)、讃岐の八島(やしま)の合戦で源氏が勝って平氏をやぶり、ついに1185年に長門(ながと)の壇ノ浦(だんのうら)での海戦が源平最後の決戦となり、壇ノ浦で平氏を滅亡させた。壇ノ浦の戦いで安徳天皇は死去した。
== 鎌倉幕府 ==
=== 統治機構の確立 ===
鎌倉は東海道の要衝であり、三方を山で囲まれ、南は海に面した天然の要害であった。さらに、頼朝の五代前の先祖である頼義が鶴岡八幡宮を建立したこともあり、鎌倉は源氏ゆかりの地でもある。こうしたことから、頼朝は鎌倉を拠点として関東統治のための機構をつくりあげる。頼朝は鎌倉を動かず、合戦はもっぱら弟の源範頼と源義経に任せていた。
1180年、富士川の戦いの後、頼朝は有力武士たちとの主従関係を明確なものとし、頼朝に直属する武士たちは'''御家人'''と呼ばれるようになり、頼朝は後に'''鎌倉殿'''と呼ばれるようになった。そして、御家人たちを統括する部署として{{Ruby|'''侍所'''|さむらいどころ}}が設けられた。その別当(長官)に任じられたのが関東の有力豪族であった三浦一族の{{Ruby|和田義盛|わだよしもり}}であった。
1184年には政務や財務を取りしきる{{Ruby|'''公文所'''|くもんじょ}}と裁判事務を担当する'''{{Ruby|問注所|もんちゅうじょ}}'''が開かれた。公文所は後に整備が進み{{ruby|'''政所'''|まんどころ}}となる。公文所(政所)別当には元々朝廷の下級官吏であった{{Ruby|大江広元|おおえのひろもと}}が、問注所執事(長官)には下級官吏出身の{{Ruby|三善康信|みよしのやすのぶ}}が招かれた。
=== 全国支配の公認 ===
1185年、後白河法皇は、頼朝の勢力をそごうとして、義経に頼朝追討を命じるが失敗する。そして、逆に頼朝は軍勢を京に送って後白河にせまり、頼朝は諸国を管理する権限(御家人を「'''守護'''」(しゅご)として各国に置く権利)を獲得する。また、荘園や国衙領にも地頭を置いて兵糧米を徴収する権利も、獲得した(文治勅許)。
:当初は「守護」でなく「'''国地頭'''」(くにじとう)などと呼ばれたが、やがて「守護」と呼ばれるようになった。
:すでに東国は頼朝の支配下にあったので、実質的には、頼朝は西国の支配権を手に入れたことになる。
こうして、1185年に、頼朝が実質的に全国支配をする体制が出来上がった。
そして1189年、頼朝は、奥州藤原氏が義経(よしつね)をかくまったとして、頼朝は奥州藤原氏をほろぼした。(奥州藤原氏の藤原泰衡(やすひら)は頼朝の要求に従って義経を殺したが、それにもかかわらず、頼朝は藤原泰衡を滅ぼした。)
1190年に頼朝は右近衛大将(うこのえたいしょう)となった。
1192年の後白河法皇の死後、源頼朝は征夷大将軍に任命された。
=== コラム:鎌倉幕府の成立は何年か ===
今(2022年)の40歳代以上の年代に鎌倉幕府の成立年を聞けば、たいていの場合「{{ruby|いい国|1192}}つくろう鎌倉幕府」の言葉とともに1192年という答えが返ってくるだろう。
しかし、現在では1192年を鎌倉幕府成立とする教科書・テキストはない。現行の中高の日本史教科書では1185年を鎌倉幕府成立としていることが多いが、これは頼朝が「日本国惣追捕使(守護)」「日本国惣地頭」の地位を獲得し、守護・地頭の任命権を持ったことを根拠とする。しかし、中世史研究者の間では以下の6説が提示されている。
#1180年末:頼朝が鎌倉を拠点とし、侍所を設け、南関東と東海道東部の支配権を確立した段階。
#1183年10月:頼朝の東国支配権が事実上承認された、いわゆる「寿永二年十月宣旨」を受けた段階。
#1184年10月:公文所と問注所の設立。
#1185年11月:全国の荘園と公領に守護・地頭を置く権限を獲得した「文治勅許」を得た段階。(中高の歴史教科書で採用されている見解でもある)
#1190年11月:頼朝が右近衛大将に任命されたとき。
#1192年7月:頼朝が征夷大将軍に任命されたとき。
古くからの説は5と6であるが、これは「幕府」という言葉が近衛大将や将軍の館の意味に由来したことに基づく説である。すなわち、「頼朝が近衛大将・将軍となったこと」に注目したものと言える。現在、この2説に人気がないのは、既に頼朝が統治のための機構を作り上げつつあったことよりも「将軍」という形式にのみ注目しているからといえる。
一方、1~4は「鎌倉幕府」が軍事政権としての実体を持つようになった時期、つまり「どの段階で頼朝が政権を握った」と言えるか注目したものである。現在有力視されている4は頼朝の権力を全国に広げる契機に着目した説である。だが、鎌倉幕府の「頼朝による東国の支配権の確立」という性格に着目すれば2ないし3の説が、さらにその実効支配までさかのぼるならば1の説も主張される。
こうした見解の相違は、結局のところ「武家政権=幕府なのか」「将軍がいなくとも幕府と言えるか」「そもそも武家政権の権限はどこまで有効だったのか」などといった「幕府とは何か」という根本的な問いに由来する。
== 封建制度の成立 ==
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高等学校理科 物理基礎
0
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2022-08-18T11:31:43Z
180.30.89.100
/* 力学 */既に出来上がっているものに交換。
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text/x-wiki
{{pathnav|高等学校の学習|高等学校理科|pagename=物理基礎|frame=1|small=1}}
==力学==
#[[高等学校物理基礎/力学|速度と自由落下]]
#[[高等学校物理/物理I/運動とエネルギー/運動の法則|運動法則]]
#[[高等学校物理/物理I/運動とエネルギー/仕事とエネルギー|仕事と力学的エネルギー]]
==熱==
#[[高等学校 物理基礎/熱|物質と熱]]
#[[高等学校 物理基礎/熱|熱力学法則と熱機関]]
==波動==
#[[高等学校物理基礎/波動|波]]
#[[高等学校物理基礎/波動|音]]
==電磁気==
#[[高等学校 物理基礎/電磁気|電気]]
#[[高等学校 物理基礎/電磁気|磁場と交流]]
==エネルギー==
#[[高等学校 物理基礎/エネルギー|エネルギー]]
== 放射線 ==
#[[高等学校 物理基礎/放射線|放射線]]
== 資料 ==
=== 数学の知識 ===
*[[高等学校 物理基礎/物理のための数学|物理基礎のための数学]]
=== 物理定数 ===
{| class="wikitable"
|+ 物理定数
|-
! 物理量 !! 概数値 !! 詳しい値
|-
| 標準重力加速度 || 9.8 m/s<sup>2</sup> || 9.80665 m/s<sup>2</sup>
|-
| 絶対零度 || -273 ℃(=0 K) || -273.15 ℃
|-
| 熱の仕事当量 || 4.19 J/cal || 4.18605 J/cal
|-
| アボガドロ定数 || 6.02×10<sup>23</sup> /mol || 6.02214179×10<sup>23</sup> /mol
|-
| 理想気体の体積(0℃, 1気圧) || 2.24×10<sup>-2</sup> m<sup>3</sup>/mol || 2.2413996×10<sup>-2</sup> m<sup>3</sup>/mol
|-
| 気体定数 || 8.31 J/(mol・K) || 8.314472 J/(mol・K)
|-
| 乾燥空気中の音の速さ(0℃) || 331.5 m/s || 331.4 5m/s
|-
| 真空中の光の速さ || 3.00×10<sup>8</sup> m/s || 2.99792458×10<sup>8</sup> m/s
|-
| 電気素量 || 1.60×10<sup>-19</sup> C|| 1.602176487×10<sup>-19</sup> C
|-
| 電子の質量 || 9.11×10<sup>-31</sup> kg|| 9.10938215×10<sup>-31</sup> kg
|}
[[category:理科教育|こうとうかつこうふつりきそ]]
[[category:高校理科|ふつりきそ]]
[[category:物理基礎|*]]
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経済学/経済とは何か/供給曲線
0
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2022-08-18T06:09:45Z
2400:2653:8420:2A00:21CB:B279:436A:810E
wikitext
text/x-wiki
{{sakujo|経済学/経済とは何か - トーク 以下の一連の記事}}
次のような曲線を考えてみる。
ある財(例えばリンゴ)の販売価格と企業が供給したい数量との関係をまとめる。
縦軸に価格、横軸に数量を取り、販売価格と企業の供給量の関係を図で表したものが、供給曲線である。
家計の需要曲線と同様の手法で企業の供給曲線を描いてみると、右上がりの曲線になる。
企業は市場で成立する価格のもとで、この供給曲線上の生産量を市場に供給する!
===賃金が上がるとリンゴの供給は減る===
企業が生産するある財(リンゴ)の供給は、その財(リンゴ)の価格以外の経済変数としてはどのようなものに依存しているのだろうか。
リンゴの限界的な生産コストに影響を与えるような経済変数が変化すれば、もちろん限界コストも変化するので、同じリンゴの価格のもとでも企業の供給したい数量は変化する。
生産コストに影響する要因として重要なものは、生産要素の価格である。例えば賃金が上昇すれば生産コストも上昇するので、いままでよりも限界コストが上昇する。
すると、いままでと同じ市場価格では採算がとれなくなるから、その財(リンゴ)の供給は減少するだろう。その財(リンゴ)の供給曲線は左上方に押し上げられる。
これが供給曲線のシフトである。
また、天候不順や予想外の技術的なトラブルなどが発生して、いままでよりもある財(リンゴ)を生産するのにコストがかかりすぎる場合にも、供給曲線は左上方にシフトする。
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高等学校 物理
0
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2022-08-18T10:55:09Z
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/* 熱力学 */熱力学追加
wikitext
text/x-wiki
{{pathnav|高等学校の学習|高等学校理科|高等学校物理|pagename=物理|frame=1|small=1}}
※令和5年度以降の新課程教科書も内容に変更はありません。
以下の内容は、文系の人にもわかるように文字式を使わずに解説しています。なお、理系生のために、公式(文字式)がないとどうしても不安だという人のために参考として、物理公式集をリンクに貼っています。
{{進捗状況}}
==Part1 力学 ==
===Section3 円運動と万有引力===
#[[高等学校物理/円運動|円運動]]{{進捗|50%|2022-06-25}}
#[[高等学校物理/慣性力|慣性力]]{{進捗|75%|2022-06-27}}
#[[高等学校物理/万有引力|万有引力]]{{進捗|00%|2022-07-01}}
===Section4 単振動===
#[[高等学校物理/単振動|単振動]]{{進捗|00%|2022-07-01}}
== 熱力学 ==
[[高等学校物理/物理II/熱力学|熱力学]] {{進捗|75%|2017-08-09}}
== 波 ==
== 電磁気 ==
==Part4 原子 ==
===Section1 電子と光===
#[[高等学校物理/電子|電子]]{{進捗|00%|2022-07-01}}
#[[高等学校物理/光の粒子性|光の粒子性]]{{進捗|00%|2022-07-01}}
#[[高等学校物理/X線|X線]]{{進捗|25%|2022-07-01}}
#[[高等学校物理/粒子の波動性|粒子の波動性]]{{進捗|00%|2022-07-01}}
===Section2 原子と原子核===
#[[高等学校物理/原子モデル|原子モデル]]{{進捗|00%|2022-07-01}}
#[[高等学校物理/原子核と放射線|原子核と放射線]]{{進捗|25%|2022-07-01}}
== 参考:物理公式集 ==
#[[高等学校物理/物理公式集|物理公式集]]{{進捗|00%|2022-06-28}}
====出典====
以下の教科書3冊を参考に記述しました。
普通の検定教科書では参考文献は省かれています。本来、参考文献のない書籍というものはあまり信用のおけるものではありません。簡潔であることを旨とする検定教科書では膨大になることが予想される参考文献はカットされているのでしょう。「物理」教科書を出典として挙げる理由は信頼性の向上です。どうしてもオンライン上の文献、とくにウィキ形式のものはだれでも編集できるという特徴から信頼性に疑問を持たれがちです。信頼性はどのような文献を元にしているかというのも大きいためです。
*『改訂 物理』、東京書籍、2020年(2017年検定)
*『物理 改訂版』、新興出版社啓林館、2020年(2017年検定)
*『高等学校 改訂 物理』、第一学習社、2020年(2018年検定)
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/* Part1 力学 */Section追加
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※令和5年度以降の新課程教科書も内容に変更はありません。
以下の内容は、文系の人にもわかるように文字式を使わずに解説しています。なお、理系生のために、公式(文字式)がないとどうしても不安だという人のために参考として、物理公式集をリンクに貼っています。
{{進捗状況}}
==Part1 力学 ==
===Section1 剛体のつり合い===
===Section2 運動量===
===Section3 円運動と万有引力===
#[[高等学校物理/円運動|円運動]]{{進捗|50%|2022-06-25}}
#[[高等学校物理/慣性力|慣性力]]{{進捗|75%|2022-06-27}}
#[[高等学校物理/万有引力|万有引力]]{{進捗|00%|2022-07-01}}
===Section4 単振動===
#[[高等学校物理/単振動|単振動]]{{進捗|00%|2022-07-01}}
== 熱力学 ==
[[高等学校物理/物理II/熱力学|熱力学]] {{進捗|75%|2017-08-09}}
== 波 ==
== 電磁気 ==
==Part4 原子 ==
===Section1 電子と光===
#[[高等学校物理/電子|電子]]{{進捗|00%|2022-07-01}}
#[[高等学校物理/光の粒子性|光の粒子性]]{{進捗|00%|2022-07-01}}
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===Section2 原子と原子核===
#[[高等学校物理/原子モデル|原子モデル]]{{進捗|00%|2022-07-01}}
#[[高等学校物理/原子核と放射線|原子核と放射線]]{{進捗|25%|2022-07-01}}
== 参考:物理公式集 ==
#[[高等学校物理/物理公式集|物理公式集]]{{進捗|00%|2022-06-28}}
====出典====
以下の教科書3冊を参考に記述しました。
普通の検定教科書では参考文献は省かれています。本来、参考文献のない書籍というものはあまり信用のおけるものではありません。簡潔であることを旨とする検定教科書では膨大になることが予想される参考文献はカットされているのでしょう。「物理」教科書を出典として挙げる理由は信頼性の向上です。どうしてもオンライン上の文献、とくにウィキ形式のものはだれでも編集できるという特徴から信頼性に疑問を持たれがちです。信頼性はどのような文献を元にしているかというのも大きいためです。
*『改訂 物理』、東京書籍、2020年(2017年検定)
*『物理 改訂版』、新興出版社啓林館、2020年(2017年検定)
*『高等学校 改訂 物理』、第一学習社、2020年(2018年検定)
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小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ
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2022-08-17T18:08:03Z
Mtodo
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/* 江戸時代の文化 */
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{{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|6学年|歴史編|frame=1}}
{| class="wikitable" style="width:100%"
|+ この章の概要
|<!--江戸時代中期−主題は文化史(元禄文化、化政文化など)--><!--(ク) 歌舞伎や浮世絵,国学や蘭学を手掛かりに,町人の文化が栄え新しい学問がおこったことを理解すること。-->
★時代区分:江戸時代中期</br>
★取り扱う年代:1638年(島原の乱終結)から1853年(ペリー来航)前まで
;江戸時代の文化
:江戸幕府の様々な政策によって世の中は安定し、人々は安心して経済活動を行えるようになって、様々な文化が武士だけでなく町人にも栄えるようになりました。
:「'''{{ruby|元禄|げんろく}}'''」は、江戸幕府ができてだいたい100年くらいの元号ですが、このころ、最初の町人文化の開花が見られました。元禄の頃の文化を「'''元禄文化'''」と言います。仮名草子・浮世草子といった出版物が市中に出回るようになり、'''人形浄瑠璃'''や'''歌舞伎'''が人々に人気を得て、'''井原西鶴'''や'''近松門左衛門'''といった劇作家がでました。
:連歌から発達した'''俳句'''(俳諧)が流行し、'''松尾芭蕉'''は、それを芸術のレベルまで高めたと言われています。
:絵画も大衆化し、このころ'''菱川師宣'''が'''浮世絵'''を創始しました。浮世絵は、版画の一種で何枚も同じ絵をすることができるので、庶民でもこれを買い求めることができました。ただし、浮世絵については、元禄から、さらに100年ほど後の「文化」「文政」といった元号の時期に最も盛んになります('''化政文化''')。'''喜多川歌麿'''や'''東洲斎写楽'''は歌舞伎役者の肖像画を、'''歌川広重'''は『東海道五十三次絵』などの風景画を、'''葛飾北斎'''は『冨嶽三十六景』など風景画のほか様々な構図の絵をあらわし、国内のみならず、オランダ貿易で持ち出されたものがフランスなどの絵画にも影響を与えました。
;江戸時代の学問
:戦国時代までの学問は主に寺院で、僧侶などにより、仏教や中国の古典が研究されていましたが、江戸時代になると、様々な階層の人々の研究が見られるようになります。
:幕府が公認していた学問は'''儒学'''のうち'''朱子学'''と言われるもので、幕府のほか各藩で教えられました。その他、中国の古典が研究されました。
:一方で、日本の古典についても研究が進み、'''国学'''が成立しました。国学の成立に大きく貢献したのが'''本居宣長'''です。国学は、のちの「'''尊王攘夷'''」の考えに影響します。
:鎖国をしているので、ヨーロッパの文化には直接触れることはできなかったのですが、オランダ語の書物を出島をとおして、手に入れることができ、これを訳して読むことで、当時急速に進みつつあったヨーロッパの科学に触れることができました。このような学問を'''蘭学'''と言います。'''杉田玄白'''らはオランダ語の医学書を翻訳して『'''解体新書'''』をあらわしました。
:'''伊能忠敬'''は、天文学や測量術を学んだ他、独自に測量方法を工夫し、日本全国を訪れ、正確な日本地図を作りました。
|}
=== 島原の乱からペリー来航まで ===
:島原の乱が終わると、日本は安定し大きな戦争などもなく、人々の生活にも変化の少ない時代が約200年続きます。
:この時代も幕府などの政治は色々と動いていて、経済も変化しているのですが、小学生の学習の範囲とはなっておらず、この時代の文化や学問の動きが学習の対象となっています。ただ、それらの文化や学問の時代背景として理解しておいた方が、理解の助けになるので、この節で簡単に述べます。
<div style="margin:0 2em 0 4em">
{| class="wikitable" style="width:100%"
|
;この時代の歴代将軍と政治などの概要
:第4代将軍{{ruby|家綱|いえつな}}(将軍在位1651年-1680年)
:*父家光の死去に伴い、11歳で将軍に即位しました。将軍が幼くても、老中などの幕臣がしっかり支えて混乱がないなど幕府の組織がしっかりしていることをしめしました。
:第5代将軍'''{{ruby|綱吉|つなよし}}'''<span id="綱吉"/>(将軍在位1680年-1709年)
:*{{ruby|柳沢吉保|やなぎさわよしやす}}を{{ruby|側用人|そばようにん}}として用いました。
:*動物を大切にすることをさだめた「{{ruby|生類憐|しょうるいあわれ}}れみの令」という法律を出して、特に犬を大事にしたので「{{ruby|犬公方|いぬくぼう}}」として有名ですが、これは、武士のあらあらしい行動は平和な世の中にふさわしくないため、武力を日常に出すことはひかえて、学問などをおさめることにつとめるよう、さとしたものとも言われています。このような様子を「<u>『{{ruby|武断|ぶだん}}政治』から『{{ruby|文治|ぶんち}}政治』へ</u>」という言い方をします。
:*上方を中心に商業が発展した町人文化「'''{{ruby|元禄|げんろく}}文化'''」が花開きました。
:第6代将軍{{ruby|家宣|いえのぶ}}(将軍在位1709年-1712年)
:*学者の{{ruby|新井白石|あらいはくせき}}を用いて、綱吉の時代の経済が拡大したことで起こったインフレーションをしずめる政策('''{{ruby|正徳|しょうとく}}の{{ruby|治|ち}}''')を行いました。
:第7代将軍{{ruby|家継|いえつぐ}}(将軍在位1713年-1716年)
:*家宣が急死し4歳で即位したため、新井白石の政治が続きました。
:第8代将軍'''{{ruby|吉宗|よしむね}}'''<span id="吉宗"/>(将軍在位1716年-1745年 大御所:-1751年)
:*世の中が安定し、経済が発展したため、幕府の支出が増える一方で、収入源である米の価格が下がるという状況になり、幕府の財政は厳しいものとなっていました。吉宗は、倹約と増税・新田開発、米価をあげることにより幕府の財政を回復させ、また、優秀な人材を登用できるようにし、{{ruby|大岡忠相|おおおかただすけ}}などを用いました。これを'''{{ruby|享保|きょうほう}}の{{ruby|改革|かいかく}}'''と言います。
:第9代将軍{{ruby|家重|いえしげ}}(将軍在位1745年-1760年)
:*{{ruby|田沼意次|たぬまおきつぐ}}を用いて、商業を振興したり、印旛沼の開発などをして、景気を良くすることにつとめました。田沼意次が活躍した時代を「'''{{ruby|田沼|たぬま}}時代'''」といいます。
:第10代将軍{{ruby|家治|いえはる}}(将軍在位1760年-1786年)
:*田沼意次の政治が続きました。商人を利用して経済を活発にしたのですが、役人の汚職が噂されました。
:第11代将軍{{ruby|家斉|いえなり}}(将軍在位1787年-1837年 大御所:-1841年)
:*{{ruby|飢饉|ききん}}やそれにともなう百姓一揆・打ちこわし<ref>江戸や大阪といった都市の民衆が、政治などに不満を持った大きな商人などの店を集団でこわすことを言います。都市における百姓一揆みたいなものです。</ref>が増え、また、幕府の財政が再び悪化したため、田沼意次はやめさせられました。それに代わって{{ruby|松平定信|まつだいらさだのぶ}}が老中{{ruby|筆頭|ひっとう}}に任命され、倹約などをすすめることで、幕府の財政の立て直しをはかりました。これを、これを'''{{ruby|寛政|かんせい}}の{{ruby|改革|かいかく}}'''と言います。
:*経済活動が、上方中心から江戸へと移ってきて、江戸の町民文化が盛んになりました。これを「'''{{ruby|化政|かせい}}文化'''」といいます。
:第12代将軍{{ruby|家慶|いえよし}}(将軍在位1837年-1853年)
:*幕府財政がまた悪化してきたため、大老となった{{ruby|水野忠邦|みずのただくに}}が改革政策である'''{{ruby|天保|てんぽう}}の{{ruby|改革|かいかく}}'''を行いました。
|}</div>
=== 江戸時代の文化 ===
;元禄文化
[[File:ChikamatsuM.jpg|180px|thumb|近松門左衛門]]
:「'''{{ruby|元禄|げんろく}}'''」は、江戸幕府ができてだいたい100年くらいの元号です。このころ、大阪を中心に最初の町人文化の開花が見られました。元禄の頃の文化を「'''元禄文化'''」と言います。仮名草子・浮世草子といった出版物が市中に出回るようになり、'''{{ruby|人形浄瑠璃|にんぎょうじょうるり}}'''や'''歌舞伎'''が庶民に人気を得て、'''{{ruby|井原西鶴|いはらさいかく}}'''や'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#近松門左衛門|{{ruby|近松門左衛門|ちかまつもんざえもん}}]]'''といった小説家・劇作家がでました。
:[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#連歌|連歌]]から発達した'''俳句'''(俳諧)が流行し、'''{{ruby|松尾芭蕉|まつおばしょう}}'''は、それを芸術のレベルまで高めたと言われています。
:絵画も大衆化し、このころ'''{{Ruby|菱川師宣|ひしかわもろのぶ}}'''が'''{{Ruby|浮世絵|うきよえ}}'''を創始しました。浮世絵は、版画の一種で何枚も同じ絵をすることができるので、庶民でもこれを買い求めることができました。
;化政文化
:江戸は幕府が開かれた当時は、全国から武士のみが集まる都市でしたが、元禄から、100年ほど後の「'''{{ruby|文化|ぶんか}}'''」「'''{{ruby|文政|ぶんせい}}'''」といった元号の時期には、武士以外の商人や職人なども増えて、町人文化が見られるようになりました。これを、「文'''化'''」「文'''政'''」から、「'''{{ruby|化政|かせい}}文化'''」といいます。
:'''{{Ruby|喜多川歌麿|きたがわうたまろ}}'''や'''{{Ruby|東洲斎写楽|とうしゅうさいしゃらく}}'''は歌舞伎役者の肖像画を、'''{{Ruby|歌川広重|うたがわひろしげ}}'''は『東海道五十三次絵』などの風景画を、'''{{Ruby|葛飾北斎|かつしかほくさい}}'''は『冨嶽三十六景』など風景画のほか様々な構図の絵をあらわしました。
{| class="wikitable" style="width:100%"
|
<gallery heights="200px" widths="200px">
ファイル:Beauty looking back.jpg|thumb|『見返り美人図』菱川師宣
ファイル:Nihonbashi bridge in Edo.jpg|葛飾北斎『{{ruby|富嶽三十六景|ふがくさんじゅうろっけい}}』 1. {{Ruby|江戸日本橋|えどにほんばし}}
ファイル:Lightnings below the summit.jpg|『富嶽三十六景』 32. {{Ruby|山下白雨|さんかはくう}}
ファイル:Red Fuji southern wind clear morning.jpg|『富嶽三十六景』 33. {{Ruby|凱風快晴|がいふうかいせい}}
File:東海道五十三次之内 川崎 六郷渡舟-Ferry Boat Crossing the Rokugo River MET DP122176.jpg|200px|歌川広重『{{ruby|東海道五十三次|とうかいどうごじゅうさんつぎ}}』
</gallery>
|}
:浮世絵は、国内のみならず、オランダ貿易で持ち出されたもの<ref>もともとは、美術品として持ち出されたものではなく、陶器の輸出に詰め物として使われた屑紙として伝わったものと言われています。</ref>がフランスなどの絵画にも影響を与えました。
{| class="wikitable" style="width:100%"
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<gallery heights="200px" widths="200px">
画像:Hiroshige Van Gogh 2.JPG|300px|歌川広重の絵(左)と、ゴッホの{{Ruby|模写|もしゃ}}(右)
Van Gogh - Portrait of Pere Tanguy 1887-8.JPG |ゴッホの作品。人物の後ろに、浮世絵がえがかれている。
</gallery>
|}
<div style="margin:0 2em 0 4em">
{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="江戸期の商業"/>江戸時代の商業<small>
江戸時代は、それまでの時代と比べて商業が特に発達した時代でした。商業の発達によって、大阪や江戸といった都市が発達し、そこの住民に町人文化が発達しました。商家は過去に見ることのないほど大きくなりました。ここでは、江戸時代に特徴的な商業について紹介します。
*'''{{ruby|米問屋|こめどんや}}・{{ruby|米仲買|こめなかがい}}・{{ruby|札差|ふださし}}'''<span id="米問屋"/>
*:幕藩体制の基本は稲作でした。幕府や各藩は、米で年貢を受けており、農民は年貢分に合わせて、換金しやすい基礎的な商品作物として稲作を行っていました。また、幕府でも各藩でも、家臣への給与は米で支払われていました。
*:[[File:Communications by flags.jpg|thumb|200px|大阪の取引価格を伝えた「旗振り通信」]]
*:幕府や各藩は、年貢を集めると自分の領地で必要な分をのぞいて、江戸や大阪にある{{ruby|蔵屋敷|くらやしき}}と呼ばれる一種の倉庫に運びます。それを{{ruby|米問屋|こめどんや}}と呼ばれる商人に売って、現金を得ていました。米問屋は、米を買い付けるだけではなくて、年貢米を{{ruby|担保|たんぽ}}<ref>担保というのは、お金を借りるとき、将来もしも返せなかった場合に、代わりに相手に渡すもののことを言います。「年貢米を担保に」というのは、ある年に、大名が年貢米を担保に1000両を商人に借りたとして、翌年までに1000両返せなければ、年貢米が商人のものとなることを言っています。</ref>に大名などにお金の貸し付けもしていました。また、各藩の領地や農村から直接買い付けて、米問屋へ売ったり、米問屋から買って米の小売店に売る{{ruby|米仲買|こめなかがい}}という商人もあらわれました。
*:家臣への給与としての米も米商人に売ることで武士は現金をえました。江戸では旗本や御家人の米を買い取る米商人を{{ruby|札差|ふださし}}といい、米問屋が大名に対してやったのと同じように、旗本や御家人に貸し付けを行いました。
*:米の売買はこのように日本中で大規模に取引されましたが、特に大阪には、{{ruby|堂島|どうじま}}{{ruby|米会所|こめかいしょ}}という取引所ができて、ここでの取引価格が米の値段を決めていました。堂島米会所では、毎日取引がなされ、この結果は、「{{ruby|旗振|はたふ}}り通信」という旗や夜間{{ruby|松明|たいまつ}}を振って、リレーで伝える方法で、全国に伝えられました。大阪から江戸まで、2時間から8時間で伝わったそうです。
*'''{{ruby|両替|りょうがえ}}商'''<span id="両替商"/>
*:江戸時代の日常生活で使われた貨幣は、1636年に発行が開始された'''{{ruby|寛永通宝|かんえいつうほう}}'''<span id="寛永通宝">でした。寛永通宝が安定して発行されるようになったので、[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#永楽通宝|永楽通宝]]などを使用する必要はなくなりました<ref>ただし、明治になるまで、永楽通宝1000文=金1両として扱われました。</ref>。
*:しかし、大きな取引になると、寛永通宝では枚数が多くなって不便なので、商人の間の取引や職人の給金の支払いには、'''銀'''が使われました。江戸時代の初めは、銀の重さで取引をしていて、幕府が重さを保証した大型の{{ruby|丁銀|ちょうぎん}}や小型の{{ruby|豆板銀|まめいたぎん}}が流通していましたが、江戸幕府の後期に、{{ruby|一朱銀|いっしゅぎん}}・{{ruby|二朱銀|にしゅぎん}}・{{ruby|一分銀|いちぶぎん}}のような貨幣が発行されました。銀貨を{{ruby|鋳造|ちゅうぞう}}していた所を、「{{ruby|銀座|ぎんざ}}」といい、現在の東京都中央区銀座にありました。
*:大名の取引や大聖人の間の取引といった、さらに大きな取引には、金貨がつかわれました。金は{{ruby|小判|こばん}}と呼ばれる貨幣が発行され、小判1枚は1{{ruby|両|りょう}}という単位で流通しました。さらに、これを補助する通貨として4枚で1両とする{{ruby|一分金|いちぶきん}}や、4枚で1分とする{{ruby|一朱金|いっしゅきん}}が発行されました。小判など金貨を{{ruby|鋳造|ちゅうぞう}}していた所を、「{{ruby|金座|きんざ}}」といいます。金座は、現在の東京都中央区にあり、現在、そこには、日本の紙幣を発行する{{ruby|日本銀行|にほんぎんこう}}の本店があります。
*:このように、江戸時代は銭(寛永通宝)、銀、金といった3種類の貨幣が流通していたのですが、各々の流通していた量が一定ではなかったため、お互いの交換する割合は時々で変わりました。この交換({{ruby|両替|りょうがえ}})を行なったのが、'''{{ruby|両替|りょうがえ}}商'''です。
*:この時代には、{{ruby|紙幣|しへい}}(紙のお金)は発行されていませんでしたが、各藩は、借金をしてその証明書を小口にしたものを発行し、それは、お金と同じように取り扱われました。これを、{{ruby|藩札|はんさつ}}と言います。藩札も、両替商で、銭(寛永通宝)などに交換されました。
<gallery heights="100px" widths="150px">
File:Kanei-tsuho-bun.jpg|寛永通宝
File:Eiji-mameitagin.jpg|豆板銀
File:Keicho-koban2.jpg|小判
File:Hansatsu - Momme du Japon, 1850.jpg|藩札
</gallery>
*'''{{ruby|呉服|ごふく}}商'''
*:元禄の少し前、江戸の日本橋のたもとに呉服屋{{ruby|越後屋|えちごや}}を開いた{{ruby|三井高利|みついたかとし}}は、それまで、呉服の{{ruby|反物|たんもの}}は、むかしから取引のある客(得意客)に見本を見せ、値段を交渉し、1反(呉服一着分)を単位に届け、支払いは後日の{{ruby|掛払|かけばら}}い<ref>米がとれ、それを年貢に取り立てることで幕府や各藩は支払いがはじめてできます。ですから、ある程度高額なものについては、支払いがいつでもできるわけではなく、支払うためのお金を準備する期間をもうけるというのが習慣としてありました。</ref>という習慣に対して、{{ruby|現金|げんきん}}{{ruby|掛値|かけね}}無し(現金払いでの定価販売)、必要分だけ反物の切り売り、店に来た客には誰でも売るという売り方<ref>現在では一般的となった売り方です。</ref>にかえて、売りはじめました。手間などが減った分安く売ることがてきたので、大変はやり、越後屋は大きな店となりました。これが、後に{{ruby|三越|みつこし}}('''三'''井・'''越'''後屋)となり、現在の三井グループのルーツとなります。
*'''{{ruby|廻船|かいせん}}{{ruby|問屋|どんや}}'''<span id="廻船問屋"/>
*:[[File:Sailboat on Blue Water LACMA 16.16.11.jpg|thumb|180px|千石船]]
*:当時、大量の物資を運ぶために江戸と上方、さらには瀬戸内海を経由し、日本海を北上し{{ruby|出羽|でわ}}(現在の山形県)までをつなぐ、定期的な船の行き来がありました。このような船をつかって、荷物を運んだ商人を{{ruby|廻船|かいせん}}{{ruby|問屋|どんや}}と言います。
*:船は、{{ruby|千石船|せんごくぶね}}と呼ばれる大型の船が用いられました。千石船は、大型の{{ruby|帆|ほ}}が一つだけで、操作が難しく、また、甲板がなかったので、しばしば、{{ruby|難破|なんぱ}}しました。
</small>
|}</div>
=== 江戸時代の学問 ===
:戦国時代までの学問は主に寺院で、僧侶などにより、仏教や中国の古典が研究されていましたが、江戸時代になると、様々な階層の人々の研究が見られるようになります。
;{{ruby|儒学|じゅがく}}
:幕府が公認していた学問は'''儒学'''のうち'''{{ruby|朱子学|しゅしがく}}'''と言われるものでした。家康は、朱子学の学者である{{ruby|林羅山|はやしらざん}}を重く用い、幕臣に朱子学を学ばせました。[[#綱吉|第5代将軍綱吉]]は、世の中が平和になったので、それまで武士は、何かと武力で解決しようとしていた(武断政治)のを、何が正しいかを議論することや法令によって解決できるよう(文治政治)、武士に儒学を学ぶよう命じました。林羅山の子孫は、代々幕府で学問の責任者となります。羅山のころは、私的な塾で教えられていたのですが、その塾をもとに、後に幕府は{{ruby|昌平坂|しょうへいざか}}{{ruby|学問所|がくもんじょ}}をつくります。
:朱子学は、各藩でも{{ruby|藩校|はんこう}}がつくられ、そこで教えられました。
;国学<span id="国学">
:[[File:本居宣長02.jpg|thumb|180px|本居宣長]]
:この時代、日本の古典についても研究が進み、'''{{ruby|国学|こくがく}}'''が成立しました。国学の成立に大きく貢献したのが'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#本居宣長|{{Ruby|本居宣長|もとおりのりなが}}]]'''です。国学は、のちの「'''{{ruby|尊王攘夷|そんのうじょうい}}'''」の考えなどに影響します。
{{-}}
;蘭学<span id="蘭学">
:鎖国のため、ヨーロッパの文化には直接触れることはできなかったのですが、[[#吉宗|第8代将軍吉宗]]は、キリスト教関連以外の書物に限って、オランダ語の書物の輸入を認めました。それ以降、これを訳して読むことで、当時急速に進みつつあったヨーロッパの科学に触れることができました。このような学問を'''{{Ruby|蘭学|らんがく}}'''と言います。
:医者の '''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#杉田玄白|{{Ruby|杉田玄白|すぎたげんぱく}}]]'''・'''{{Ruby|前野良沢|まえのりょうたく}}'''らはオランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を見て、実際に死体の解剖を行い、それが非常に正確に記述されていることを知って感心し、これを4年かけて翻訳して、1774年『'''解体新書'''』をあらわしました。このころは、まだ、オランダ語の辞書はなく、大変苦労した話を『{{Ruby|蘭学事始|らんがくことはじめ}}』に記しました。
:杉田玄白らと同じ時代の、{{ruby|平賀源内|ひらがげんない}}<span id="平賀源内">は、オランダ語の本から、「エレキテル」と呼ばれる、静電気を発電し蓄電する機械(起電気)を製作しました。
:蘭学は、現代の日本の科学にも大きな影響を残しています。
:{{ruby|宇田川玄真|うだがわげんしん}}は、『解体新書』よりもさらに詳しい医学書を翻訳し、それまで日本語の名前のなかった臓器である「{{ruby|膵臓|すいぞう}}」や「{{ruby|腺|せん}}(体液を出す器官)」について、「膵」や「腺」という漢字を新しく作ってなづけました。玄真の養子である{{ruby|宇田川榕菴|うだがわようあん}}は、「化学」を紹介し、翻訳で「水素」、「酸素」、「窒素」、「元素」、「酸化」、「細胞」、「圧力」、「温度」、「結晶」、「沸騰」など現在でも使われている言葉を数多く作りました。
:関学は、こうして、当時急速に進んだヨーロッパの科学技術を日本に伝え、幕末には、新しい知識を持った人たちを送り出すのですが、これを研究する人はまだ少数で、世の中を変えるまでの影響はありませんでした。また、18世紀から19世紀にかけての「[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#世界の変化1 - 産業革命|{{ruby|産業革命|さんぎょうかくめい}}]]」にオランダは少し遅れてとりくんだため、蒸気機関などその成果はほとんど入りませんでした。
<div style="margin:0 4em 0 8em">
{| class="wikitable" style="width:90%"
|
<gallery heights="200px" widths="200px">
Sugita_Genpaku.jpg|thumb|杉田玄白
Kaitai shinsyo01.jpg|right|thumb|『解体新書』。とびら絵は『ターヘル・アナトミア』のとびら絵とはまったく{{Ruby|異|こと}}なっている。
Ontleedkundige Tafelen replica.jpg|thumb|『ターヘル・アナトミア』(複製)。
Elekiter replica.jpg|thumb|right|平賀源内作のエレキテル(複製)
</gallery>
|}
</div>
;学問の実践
:'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#伊能忠敬|{{ruby|伊能忠敬|いのうただたか}}]]'''は、天文学や測量術を学んだ他、独自に測量方法を工夫し、日本全国を訪れ、正確な日本地図『{{Ruby|大日本沿海輿地全図|だいにほんえんかいよちぜんず}}』を作りました。
:{{ruby|華岡青洲|はなおかせいしゅう}}は、独自に{{ruby|麻酔薬|ますいやく}}の研究をし、1804年世界で初めて、全身麻酔での外科手術を成功させました。
;教育
:[[File:Bungaku-Bandai_no-Takara-Terakoya-School-by-Issunshi-Hanasato.png|thumb|right|寺子屋のようす。]]
:農民や町民などの{{Ruby|庶民|しょみん}}は、'''{{Ruby|寺子屋|てらこや}}'''で文字の読み書きやそろばんなどを学びました。
{{-}}
<div style="margin:0 2em 0 4em">
{| style="border:2px solid #aabbdd; width:95%; border-radius: 4px;" cellspacing=0
|style="background: #aabbdd; font-size: 115%; padding: 0.2em 0.2em 0.3em;"|'''コラム'''
|-
|style="padding: 0.5em; background: #fafafc;"|伊能忠敬
[[ファイル:Ino Tadataka stamp.jpg|thumb|180px|伊能忠敬がえがかれた切手]]
:伊能忠敬は、50才のときに、天文学や測量のための勉強をはじめました。そして、55才のときに、自費で北海道の南岸の測量を行いました。56才のとき、地図づくりのための測量を、幕府に願いでました。幕府は、忠敬の地図づくりの才能を{{Ruby|認|みと}}め、忠敬に地図づくりの許可を出しました。
:それから17年間、忠敬は、地図づくりのため、日本の全国各地を歩きました。忠敬が歩いた{{ruby|距離|きょり}}は3万km以上になります。
:地図の完成の前に、71才で忠敬は{{Ruby|亡|な}}くなりましたが、弟子たちが、日本全国の地図を完成させました。
:そして、忠敬の弟子たちにより、とても正確な日本地図が、できあがりました。
[[File:Land-Surveyors-Edo-Period-Katsushika-Hokusai.png|thumb|350px|left|江戸時代の測量のようす]]
|}</div>
<div style="margin:0 2em 0 4em">
{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="儒学"/>儒学・儒教<small>
:{{ruby|儒学|じゅがく}}は、中国で紀元前6世紀から5世紀に{{ruby|孔子|こうし}}という人が始めた教えです。宗教としての性格もあるので{{ruby|儒教|じゅきょう}}とも言います。
:儒学は、紀元前2世紀からずっと、中国の王朝で正統とされた学問です。内容を伝えることは、簡単ではありませんが、この教えの特徴をよく伝える『{{ruby|礼記|らいき}}<ref>儒学の重要な書物の一つです。</ref>』の言葉「{{ruby|修身|しゅうしん}}、{{ruby|斉家|せいか}}、{{ruby|治国|ちこく}}、{{ruby|平天下|へいてんか}}」をあげておきましょう。意味は、「自分の行動を正しくし、家族がばらばらではなく、国がおさまるようであれば、世界には争いがなくなる」という意味です。このように、儒学の目標は天下が平和におさまることですが、そのためには、各個人が正しい行いをしていかなければならないというものです。
:儒学は、日本にも中国との交流とともに伝わりました。[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#漢字伝来|漢字の伝来]]の時に、王仁は儒教で最も重要な書物である『{{ruby|論語|ろんご}}』を『{{ruby|千字文|せんじもん}}』という書物とともに伝えたとされています。奈良時代から平安時代にかけての律令制の時代にも、儒教の学校がありました。また、鎌倉時代から室町時代にかけては、主に禅宗の寺院で、中国からの書物を使って研究がされていました。
:江戸時代になると、仏教から独立し学問として研究されるようになります。
:儒学の中でも、江戸時代に中心となったのは、13世紀に{{ruby|朱熹|しゅき}}が完成した{{ruby|朱子学|しゅしがく}}という学問です。朱子学は、国や社会の秩序を重んずるという特徴があり、明や清の国の学問となっていました。中国からの儒教に関する書物も朱子学のもので、また、朱子学は、家庭では親を大切にすること({{ruby|孝|こう}} - 「{{ruby|親'''孝'''行|おやこうこう}}」の「孝」です)と、主君にはさからわずつかえること({{ruby|忠|ちゅう}})が大事であるとといたので、下克上の世の中が終わって、安定した江戸時代の社会に合っていたのです。
:朱子学は、このように、江戸時代の学問の中心になったのですが、朱子学は形式ばった学問という特徴があって、{{ruby|実践|じっせん}}を重要と考えた{{ruby|陽明学|ようめいがく}}なども広く受け入れられました。
</small>
|}</div>
== 脚注 ==
以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small>
<references/></small>
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{{前後
|type=章
|[[小学校社会/6学年/歴史編]]
|[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう|日本の歴史の流れ]]
|[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ|江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ]]
|[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代|明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代]]
}}
[[Category:社会|しようかつこうしやかい6]]
[[Category:小学校社会|6ねん]]
[[Category:小学校社会 歴史|#10]]
1hc304ntvuxihbazjdxstjm1iauzgzj
高校英語の文法/否定
0
35113
206681
206365
2022-08-18T02:04:06Z
すじにくシチュー
12058
/* 否定 */
wikitext
text/x-wiki
== 否定 ==
=== never ===
never は、助動詞ではない(don't などとは違う)。
主語が it や he や she など三単現なら、neverのうしろの動詞には三単現の s がついたまま(青チャート)。
助動詞ではないので、will never などのように助動詞と併用することも可能(エバーグリーン、ジーニアス)だし、will never は「(今後、)~することはないだろう」の意味を表す(ジーニアス)。
never は完了形have といっしょにhave never (または has never)という形で使われることもあり、have never は「一度も~したことがない」の意味で使われる(ジーニアス、桐原ファクト)。
=== no ===
どこの参考書にもある例文で(桐原、大修館)、
I have no money with me. 「お金の持ち合わせが少しもありません。」
no は強い否定を表す。
He is no genius. 「彼は天才なんかじゃない」(=馬鹿だ)
He is no gentleman. 「彼は紳士なんかじゃない」
「no 形容詞」で、その逆の意味であることを表す。和訳の際は、単に「決して・・・でない」と訳せば十分(桐原、大修館)。
「no 名詞」は、「~がひとつもない」という意味も表す用法もある。
この場合、続く名詞が単数形か複数形かは、他の一般的な場合に単数であることの多い名詞ならnoに続く名詞も単数形に、同様に一般的に複数であることの多い名詞ならnoに続く名詞もあわせて複数形にする。
=== 準否定語 ===
not や no は、文を完全に否定する。
いっぽう、完全な否定ではなく、「ほとんどない」や「あまりない」といった程度や頻度が少ないことをあらわす語のことを「'''準否定語'''」という(青チャート、桐原ファクト)。
hardly や scarcely 、seldom や rarely, few や little などが準否定語である(インスパイア)。
なお、文中でのこれらの準否定語の位置は、never や not などと同じであり、具体的に言えば 一般動詞の前/ be動詞・助動詞の後ろ である(青チャート、桐原ファクト)。
;hardly, scarcely 程度が「ほとんど・・・ない」
hardly, scarcely は程度が「ほとんど・・・ない」ことを示す。
hardlyなどの位置は、普通、一般動詞の前、be動詞/助動詞の後ろに置く。
scarcely は固い語である。
;seldom, rarely 頻度が低い「めったに・・・ない」
seldom, rarely は頻度が低いことを示し、和訳の際はよく「めったに・・・ない」と訳される。
seldom などの位置は、普通、一般動詞の前、be動詞/助動詞の後ろに置く。
なお、hardly ever または scarcely ever で頻度の低さを示すこともできる(桐原、大修館)。
;few , little 数や量が「ほとんど~ない」
few や little は数や量が「ほとんど~ない」ことを示す。
few は数えられる名詞(可算名詞)の場合において「ほとんどない」場合を示す。
たとえば 「few people ~」で、「~な人はほとんどいない」の意味。
little は数えられない名詞(不加算名詞)の場合において「ほとんどない」場合を示す。
このように few や little は、やや否定の意味が弱まっている。
なお a few や a little のように不定冠詞 a がつくと、否定の意味がさらに弱まり、「少しはある」の意味になる。
しかし、まぎらわしいことに、
only a few および only a little は、「ほとんど~ない」の意味である(ロイヤル、大修館)。
なお、only a few および only a little は形容詞的に名詞を修飾するのに使うのが一般的である。参考書では特に言及されてないが、例文がそうである。
{{コラム|日本語の否定との違い|
よく日本語の否定は「否定語が最後にくるので、最後まで聞かないと否定かどうか分からないので、日本語は分かりづらい」などと批判されることもある。
しかし日本語の否定表現には、「あまり~'''ない'''」や「ほとんど~'''ない'''」といった上述でいう準否定のような表現も含めて、必ず日本語では「ない」またはそれを変化した単語が来るのが通例であるので(青チャート)、文末さえ読み書きさえすれば、あとは文章を一見しただけで否定表現であるかどうかが容易に判別できるので、考えようによっては日本語には分かりやすい面もある(青チャート)。
裏を返せば、英語には、日本語のような準否定と完全否定との間においての共通の単語は無い。
seldom のように準否定でしか使われない単語なら、まだ判別しやすいが、ほかにも 「too ~ to 不定詞」(・・・するには~すぎる)のような表現になると too も to も否定以外でも使われるので、文法知識が無いと否定表現だとは判別できなくなる。
このように英文法の学習では、発想を日本語とは切り替える必要がある(青チャート)。
}}
=== 部分否定と全否定 ===
not ・・・ all は「すべてが・・・というわけではない」のような意味なので、少しは・・・なものがある、という含みがある。また、このような否定の仕方を、部分否定という。
なお、not always 「いつも~なわけはない」も部分否定である。つまり、例の not always の場合なら時々は~な場合もある。
not ・・・ any は「ひとつも・・・なものはない」のような意味であり、またこのような否定のしかたを全否定という。
ただし、all ~notが部分否定か全否定かは文脈による(ロイヤル)。
また、nobody または no ~ も同様に全否定。
not ~ both は「両方とも~なわけではない」という部分否定。
not ~ neither は全否定。
部分否定を作る語は、次のようなものがある。一般に否定語とともに次の語が用いられると部分否定になる。
always(いつも), altogether(全く), every(すべての),
necessarily(必ず), wholly ,
entirely(完全に), completely(完全に),
これらの語の多くは、「全部」や「完全」などの意味をもつ副詞・形容詞であり、それらを否定することは「全部がそうである」という事を否定しているにすぎず、「一部にはそうでないものもありうる」という含みがある。
not necessarily は「必ずしも~というわけではない」の意味。
「not many 名詞」は、「あまり多くない」の意味。
「not much」は「あまり~でない」の意味。
=== 二重否定 ===
たとえば
It's not unusual ~ 「~するのは、めずらしいことではない」
のような表現を、二重否定という。
unusual は、usual(普通である)を否定した語である。
さらに not unusual とnotで否定しているので、つまり最終的には肯定の意味に近くなるが、しかし二重否定は肯定とまったく同じとは言えず、二重否定には若干のためらいや控えめな気持ちがある(大修館、ロイヤル)。
このためか、二重否定の文の和訳の際には、「めすらしいことではない」のように訳し分けるのが一般(ロイヤル、大修館)。
never ・・・ without ~ 「~なしで・・・することは決してない」
nobody や nothing や no one などは普通、二重否定にはしないので、つまり not や never とは併用しない(ロイヤル、桐原フォレスト、エバーグリーン)。
=== 慣用表現 ===
You cannot be too careful when ~ 「~する時はいくら気をつけても気をつけすぎることはない」
cannot help ~ing 「~せずにはいられない」
ここでの help は「~を避ける」の意味。
not ~ until ・・・ 「・・・して始めて~した」の意味。
no longer 「(今では)もはや~ではない」「(今では)もう~ではない」
not any longer でも言い換えできる。
no sooner ・・・ than ~ 「・・・するとすぐに~」
否定を使った慣用表現は多数あるので、紹介しきれない。市販の参考書でも、参考書によって紹介されている表現がマチマチである。
「do nothing but ~(動詞の原型)」は「~してばかりいる」「~ばかりしている」の意味。
このbutは「~を除いて」の意味であり、それを除くと何もしなくなるのだから、つまりそれしかしていないという意味になるので、上述のような意味になる。
==== 否定語を使わない否定表現 ====
===== 不定詞を使った否定表現 =====
「too ~ to ・・・」は「~すぎて・・・できない」の意味。直訳すると「・・・するには~すぎる」の意味。この直訳のほうを和訳として紹介している参考書もあるので、直訳でも間違いではない。
「be the last person to ~動詞の原型」は、「けっして~しない人である」の意味。主語がheならpersonの部分がmanのこともある。
He is the last man to ~. 「彼はけっして~する男ではない。」
fail to ~(不定詞)「しない」「できない」
は、本来なら起きるべき事が起こらなかった場合に使う。
===== その他の否定表現 =====
far from ~ 「~から程遠い」=「けっして~とは言えない」、「少しも~ではない」の意味。
far from の後ろには名詞の場合のほかにも、形容詞が来る場合もある。
free from ~ 「~がない」
free from は、束縛するものがないという意味なので、意味的にやっかいなものが後ろに続き、嫌なものや心配や苦痛など(ジーニアス、フォレスト)が「~」の部分に来る。
たとえば、
be free from air pollution 「大気汚染がない」(ロイヤル、桐原フォレスト)
前置詞に fromの代わりにof が来ることもある。
free of ~ 「~がない」
anything but ~ 「けっして~ではない」
but は「~を除いて」「~以外」の意味。anything は「何でも」の意味。
「anything but ~」で直訳すれば「~以外は何でも」の意味だが、英語では「けっして~ではない」のように否定の強調として使われるので、和訳の際には「けっして~ではない」という風に訳す。
その他、前置詞 beyond ~ は「~を超えて」の意味であるが、文脈によっては否定の意味になる事もある。
たとえば、beyond my understanding 「私の理解を超えて」→「私には理解できない」、(ロイヤル英文法)
beyond description 「描写を超えている」→(凄すぎたりして)「描写しようがない」
など。beyond の後ろに人がする行動の名詞などが来ると、「~をできる範囲を超えている」→「~できない」のような意味になる。
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206682
206681
2022-08-18T02:51:56Z
すじにくシチュー
12058
/* never */
wikitext
text/x-wiki
== 否定 ==
=== never ===
never は、頻度について「一度も~ない」(経験が「ない」)や「決して~ない」という意味。
「決して~ない」の意味の場合、never は決して単に not の強調語ではない。
never の「決して~ない」の意味は、現在の習慣として、比較的に長期の期間にわたって、確実に「ない」ことの意味である(青チャート、ジーニアス)。
なので、短期の間だけ「ない」場合には never は用いない(ジーニアス、青チャート)。
never は、助動詞ではない(don't などとは違う)。なので、never のあとの動詞は、主語や時制によって形が変わりうる(青チャート)。たとえば、もし主語が it や he や she など三単現なら、neverのうしろの動詞には三単現の s がついたまま(青チャート)。
助動詞ではないので、will never などのように助動詞と併用することも可能(エバーグリーン、ジーニアス)だし、will never は「(今後、)~することはないだろう」の意味を表す(ジーニアス)。
never は完了形have といっしょにhave never (または has never)という形で使われることもあり、have never は「一度も~したことがない」の意味で使われる(ジーニアス、桐原ファクト)。
=== no ===
どこの参考書にもある例文で(桐原、大修館)、
I have no money with me. 「お金の持ち合わせが少しもありません。」
no は強い否定を表す。
He is no genius. 「彼は天才なんかじゃない」(=馬鹿だ)
He is no gentleman. 「彼は紳士なんかじゃない」
「no 形容詞」で、その逆の意味であることを表す。和訳の際は、単に「決して・・・でない」と訳せば十分(桐原、大修館)。
「no 名詞」は、「~がひとつもない」という意味も表す用法もある。
この場合、続く名詞が単数形か複数形かは、他の一般的な場合に単数であることの多い名詞ならnoに続く名詞も単数形に、同様に一般的に複数であることの多い名詞ならnoに続く名詞もあわせて複数形にする。
=== 準否定語 ===
not や no は、文を完全に否定する。
いっぽう、完全な否定ではなく、「ほとんどない」や「あまりない」といった程度や頻度が少ないことをあらわす語のことを「'''準否定語'''」という(青チャート、桐原ファクト)。
hardly や scarcely 、seldom や rarely, few や little などが準否定語である(インスパイア)。
なお、文中でのこれらの準否定語の位置は、never や not などと同じであり、具体的に言えば 一般動詞の前/ be動詞・助動詞の後ろ である(青チャート、桐原ファクト)。
;hardly, scarcely 程度が「ほとんど・・・ない」
hardly, scarcely は程度が「ほとんど・・・ない」ことを示す。
hardlyなどの位置は、普通、一般動詞の前、be動詞/助動詞の後ろに置く。
scarcely は固い語である。
;seldom, rarely 頻度が低い「めったに・・・ない」
seldom, rarely は頻度が低いことを示し、和訳の際はよく「めったに・・・ない」と訳される。
seldom などの位置は、普通、一般動詞の前、be動詞/助動詞の後ろに置く。
なお、hardly ever または scarcely ever で頻度の低さを示すこともできる(桐原、大修館)。
;few , little 数や量が「ほとんど~ない」
few や little は数や量が「ほとんど~ない」ことを示す。
few は数えられる名詞(可算名詞)の場合において「ほとんどない」場合を示す。
たとえば 「few people ~」で、「~な人はほとんどいない」の意味。
little は数えられない名詞(不加算名詞)の場合において「ほとんどない」場合を示す。
このように few や little は、やや否定の意味が弱まっている。
なお a few や a little のように不定冠詞 a がつくと、否定の意味がさらに弱まり、「少しはある」の意味になる。
しかし、まぎらわしいことに、
only a few および only a little は、「ほとんど~ない」の意味である(ロイヤル、大修館)。
なお、only a few および only a little は形容詞的に名詞を修飾するのに使うのが一般的である。参考書では特に言及されてないが、例文がそうである。
{{コラム|日本語の否定との違い|
よく日本語の否定は「否定語が最後にくるので、最後まで聞かないと否定かどうか分からないので、日本語は分かりづらい」などと批判されることもある。
しかし日本語の否定表現には、「あまり~'''ない'''」や「ほとんど~'''ない'''」といった上述でいう準否定のような表現も含めて、必ず日本語では「ない」またはそれを変化した単語が来るのが通例であるので(青チャート)、文末さえ読み書きさえすれば、あとは文章を一見しただけで否定表現であるかどうかが容易に判別できるので、考えようによっては日本語には分かりやすい面もある(青チャート)。
裏を返せば、英語には、日本語のような準否定と完全否定との間においての共通の単語は無い。
seldom のように準否定でしか使われない単語なら、まだ判別しやすいが、ほかにも 「too ~ to 不定詞」(・・・するには~すぎる)のような表現になると too も to も否定以外でも使われるので、文法知識が無いと否定表現だとは判別できなくなる。
このように英文法の学習では、発想を日本語とは切り替える必要がある(青チャート)。
}}
=== 部分否定と全否定 ===
not ・・・ all は「すべてが・・・というわけではない」のような意味なので、少しは・・・なものがある、という含みがある。また、このような否定の仕方を、部分否定という。
なお、not always 「いつも~なわけはない」も部分否定である。つまり、例の not always の場合なら時々は~な場合もある。
not ・・・ any は「ひとつも・・・なものはない」のような意味であり、またこのような否定のしかたを全否定という。
ただし、all ~notが部分否定か全否定かは文脈による(ロイヤル)。
また、nobody または no ~ も同様に全否定。
not ~ both は「両方とも~なわけではない」という部分否定。
not ~ neither は全否定。
部分否定を作る語は、次のようなものがある。一般に否定語とともに次の語が用いられると部分否定になる。
always(いつも), altogether(全く), every(すべての),
necessarily(必ず), wholly ,
entirely(完全に), completely(完全に),
これらの語の多くは、「全部」や「完全」などの意味をもつ副詞・形容詞であり、それらを否定することは「全部がそうである」という事を否定しているにすぎず、「一部にはそうでないものもありうる」という含みがある。
not necessarily は「必ずしも~というわけではない」の意味。
「not many 名詞」は、「あまり多くない」の意味。
「not much」は「あまり~でない」の意味。
=== 二重否定 ===
たとえば
It's not unusual ~ 「~するのは、めずらしいことではない」
のような表現を、二重否定という。
unusual は、usual(普通である)を否定した語である。
さらに not unusual とnotで否定しているので、つまり最終的には肯定の意味に近くなるが、しかし二重否定は肯定とまったく同じとは言えず、二重否定には若干のためらいや控えめな気持ちがある(大修館、ロイヤル)。
このためか、二重否定の文の和訳の際には、「めすらしいことではない」のように訳し分けるのが一般(ロイヤル、大修館)。
never ・・・ without ~ 「~なしで・・・することは決してない」
nobody や nothing や no one などは普通、二重否定にはしないので、つまり not や never とは併用しない(ロイヤル、桐原フォレスト、エバーグリーン)。
=== 慣用表現 ===
You cannot be too careful when ~ 「~する時はいくら気をつけても気をつけすぎることはない」
cannot help ~ing 「~せずにはいられない」
ここでの help は「~を避ける」の意味。
not ~ until ・・・ 「・・・して始めて~した」の意味。
no longer 「(今では)もはや~ではない」「(今では)もう~ではない」
not any longer でも言い換えできる。
no sooner ・・・ than ~ 「・・・するとすぐに~」
否定を使った慣用表現は多数あるので、紹介しきれない。市販の参考書でも、参考書によって紹介されている表現がマチマチである。
「do nothing but ~(動詞の原型)」は「~してばかりいる」「~ばかりしている」の意味。
このbutは「~を除いて」の意味であり、それを除くと何もしなくなるのだから、つまりそれしかしていないという意味になるので、上述のような意味になる。
==== 否定語を使わない否定表現 ====
===== 不定詞を使った否定表現 =====
「too ~ to ・・・」は「~すぎて・・・できない」の意味。直訳すると「・・・するには~すぎる」の意味。この直訳のほうを和訳として紹介している参考書もあるので、直訳でも間違いではない。
「be the last person to ~動詞の原型」は、「けっして~しない人である」の意味。主語がheならpersonの部分がmanのこともある。
He is the last man to ~. 「彼はけっして~する男ではない。」
fail to ~(不定詞)「しない」「できない」
は、本来なら起きるべき事が起こらなかった場合に使う。
===== その他の否定表現 =====
far from ~ 「~から程遠い」=「けっして~とは言えない」、「少しも~ではない」の意味。
far from の後ろには名詞の場合のほかにも、形容詞が来る場合もある。
free from ~ 「~がない」
free from は、束縛するものがないという意味なので、意味的にやっかいなものが後ろに続き、嫌なものや心配や苦痛など(ジーニアス、フォレスト)が「~」の部分に来る。
たとえば、
be free from air pollution 「大気汚染がない」(ロイヤル、桐原フォレスト)
前置詞に fromの代わりにof が来ることもある。
free of ~ 「~がない」
anything but ~ 「けっして~ではない」
but は「~を除いて」「~以外」の意味。anything は「何でも」の意味。
「anything but ~」で直訳すれば「~以外は何でも」の意味だが、英語では「けっして~ではない」のように否定の強調として使われるので、和訳の際には「けっして~ではない」という風に訳す。
その他、前置詞 beyond ~ は「~を超えて」の意味であるが、文脈によっては否定の意味になる事もある。
たとえば、beyond my understanding 「私の理解を超えて」→「私には理解できない」、(ロイヤル英文法)
beyond description 「描写を超えている」→(凄すぎたりして)「描写しようがない」
など。beyond の後ろに人がする行動の名詞などが来ると、「~をできる範囲を超えている」→「~できない」のような意味になる。
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