Wikibooks jawikibooks https://ja.wikibooks.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 MediaWiki 1.39.0-wmf.26 first-letter メディア 特別 トーク 利用者 利用者・トーク Wikibooks Wikibooks・トーク ファイル ファイル・トーク MediaWiki MediaWiki・トーク テンプレート テンプレート・トーク ヘルプ ヘルプ・トーク カテゴリ カテゴリ・トーク Transwiki Transwiki‐ノート TimedText TimedText talk モジュール モジュール・トーク Gadget Gadget talk Gadget definition Gadget definition talk 日本の大学受験ガイド 0 573 207317 201920 2022-08-27T06:18:13Z 編集者・その他 67151 /* 中部地方の私立大 */ wikitext text/x-wiki {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|受験ガイド|大学受験ガイド|frame=1}} ---- 本校では主に大学入試の入試制度の説明や、各大学別の入試傾向などの説明へのリンクを置く。勉強法や進路の検討などについては別記事 [[日本の大学受験ガイド/総論]] で扱うこととする。 == 本項記載における注意事項 == 本項記載においては、以下の点に留意し記載されるようお願いします。これに反する記載については除去されることがありますのでご注意ください。 *日本の大学受験ガイドの個別大学受験対策においては、各大学の受験に関するガイドについて記述します。各大学の特色等学校案内や学校紹介については、受験対策と直接の関係があることを除いては、ここには記載しないようにし、適宜、wikipedia他へのリンクなどで対応してください。 *記載においては、客観的・検証可能な内容を記述するよう努め、特に以下の表現は原則として使用しないよう、配慮してください。 **'''「名門」「重鎮」「難関」「優秀」「逸材を輩出」「……期待を集める」「……とされている」「……といわれている」「……と称されている」「有名大学」「難易度が高い」''' **ただし、「[[w:代々木ゼミナール|代々木ゼミナール]]・[[w:河合塾|河合塾]]・[[w:駿台予備校|駿台予備校]]などの大学受験[[w:予備校|予備校]]では難関校という評価をされていることがある」のように具体的な「どこでいわれるか」ということを明記すれば掲載可能です。ただし、そのような論評の存在について、引用やURLを示すなど、実在性について担保してください。さらに、その際においては、著作権等の権利関係について十分な配慮をするようにお願いします。 **ある特定大学のページで入試問題で他大学の入試問題にも似た傾向の問題が有るのでやっておくことが好ましい(例:「〇〇大対策」のページで「△△大や□□大にも似た傾向の問題が有るので、こちらの大学もやっておくことが好ましい」etc)等の表記が有るが、似たような問題や似た傾向の問題は沢山ある。こういったことを書くとキリがないし、特定大学対策のページを作る意味そのものが失われてしまう。記載はその大学に特化した内容やネタだけとして頂くよう、お願い致します(「〇〇大対策」のページでは専ら〇〇大の対策の話、「△△大対策」のページでは専ら△△大の対策の話)。他大学の似たような問題や似た傾向の問題があることを知っていても、あくまでそれは他大学のことなので、触れる必要は有りません。 *'''「○○大学と同レベルである」「○○大学とランクは変わらない」などと言った他の大学と対比させる表現は、大学同士が認めている姉妹校関係や大学が公式に認めている共通している内容を除いて掲載しないようにしてください。''' 本章は [[{{ns:project}}:談話室]] における <span class="plainlinks" title="Wikibooks:談話室#個別大学入試対策の記述内容について">[{{fullurl:{{NAMESPACE}}:{{BASEPAGENAME}}|oldid=48427}}#{{anchorencode:個別大学入試対策の記述内容について}} 2009年6月20日 (土) 16:33 (UTC) 版]</span>までの議論にて合意された事項です。合意なき除去改変を禁じます。 == 受験のシステム == ===国公立大学の一般入試=== [[w:国公立大学|国公立大学]]の一般入試では原則的に[[w:大学入試センター試験|センター試験(2020年度まで)]]の受験を必須とするとともに、多くの[[w:学部|学部]]([[w:学科 (学校)|学科]])において個別学力検査(いわゆる'''二次試験'''。センターと対比される形でよく用いられる語である)が実施され、それぞれの結果を総合して合格者が決定される。 ただし、一部の国立大学や[[w:医学部|医学部]]医学科において、センター試験の成績が一定の基準に満たない志願者を不合格とする'''二段階選抜'''が行われることがある(いわゆる'''足切り'''・'''門前払い''')。ここで不合格になると、不戦敗の形で出願先の大学受験が終了することとなる(受験料は一部返還される)。志願者数があらかじめ決められた倍率を超えた場合に実施する大学や、事前に最低点(具体値や志願者平均点に対する割合)を定めている大学などがあるが、二段階選抜が実施された場合、センター試験の成績が基準を満たした志願者のみが第二段階となる二次試験を受験することができる。 [[w:国立大学|国立大学]]のセンター試験は、原則として5[[w:教科|教科]]7[[w:科目|科目]](理系は英語・数学(1)(2)・国語・理科×2・地歴公民×1、文系は英語・数学(1)(2)・国語・理科×1・地歴公民×2)を課すことで広範囲にわたる学力をテストすることが一般的であり、'''オールラウンドな学力が要求されている。'''このため、入学定員の大半を選抜するための入試形態(後に述べる分離・分割方式の前期日程)においては、ほとんどの国立大学が5教科7科目を課す選抜方式を採っている。加えて、入学定員の極少数を選抜するための入試形態(後に述べる分離・分割方式の後期日程)において、例外的に課す教科数を4教科以下にまで減少させる選抜方式を併設することによって受験生を異なる尺度で選抜し入学者の多様性を保っている国立大学が多く見られる。 [[w:公立大学|公立大学]]のセンター試験も基本的には国立大学に準じている。ただし、国立大学に比べると課す教科数を減少させて4教科以下を課すことを原則とする大学が比較的多く見られる。その為、国立大学受験生よりは、試験科目が少ない分負担が少ないことが多い。 国公立大学の二次試験は一般的に'''分離・分割方式'''と呼ばれる制度で実施される。すなわち、同じ大学での二次試験を'''前期日程'''と'''後期日程'''に「分離」し、同じ学部(学科)の定員をそれぞれの日程で「分割」する方式である。前期日程では2~3教科、後期日程では1~2教科の学科試験を課すのが主流であるほか、特に後期日程で[[w:論文#小論文|小論文]]や[[w:面接|面接]]などを課す大学も多い。また、公立大学の一部の学部(学科)では'''中期日程'''という形で二次試験を行うところもある。したがって、この中期日程を含めれば、前期・中期・後期と国公立大学を'''最大3校3学部'''受験できることになる。また、学科試験は記述式の設問が中心であることが特徴である。つまり、答のみを解答するセンター試験や私立大学のマークセンス試験と異なり、単に答のみでなく、その答に至るまでの正確な過程や考察も求める問題が非常に多く、'''より高度な学力が要求されている'''とも言える。 なお、同じ日程で複数の国公立大学を受験することはできない。さらに、前期日程で合格し入学手続きを行うと、中期・後期日程の大学には二次試験を受けても合格対象から外される。定員配分も多くの大学において前期日程に圧倒的に多く配分しているため、制度上複数回受験することができるものの、後期日程は二次募集的な意味合いが強いと言えるだろう。 ただし国際教養大学と新潟県立大学においては独自に日程を用意している。他大学とも併願が可能なため、これらの大学を受けるとすれば、最大6回受験することができることになる。 後期日程の合格発表後、定員を満たせなかった学部(学科)では3月末~4月初旬にかけて、追加募集として特別入試を実施する場合がある。 大学によって、受験時に目的の[[w:学部|学部]](学科)を選択する場合と、受験時は類を選択するのみで入学後しばらくして学部に振り分けられる場合がある([[w:東京大学|東京大学]]など)。例えば東京大学の場合、2年生までは全員が[[w:教養学部|教養学部]]前期課程に所属し、3年進級時点で、入学時の文科一類~理科三類の区分におおむね従う形で、各学部に分かれる。 ===私立大学の一般入試=== 国立大学に対し、[[w:私立大学|私立大学]]の一般入試では、センター試験の受験を義務とせず、理系であれば英語・数学・理科(基本は化学、生物、物理の中から1~2科目。但し、大学や学部によっては受験できない科目もある)の3~4科目、文系であれば英語・国語・地歴公民、または数学(基本は日本史、世界史、地理、政治経済、数学から1科目。但し、大学や学部によっては受験できない科目もある)の3科目を課すことが基本である。国立大学受験生がセンター試験5教科7科目、更に大学別個別試験(2次試験)を受験しなければならないことを考えると、'''私立大学受験生の受験科目数は非常に少ない。その代わり、特に競争の激しい<!--これでも控えめ-->私大になると個々の科目を深く学ばねばならないので、必ずしも負担が軽減されているとは言えない。むしろ、その分1科目毎の失敗が許されずリスクを背負うことになるので、かえって大変になるとも、考えることができる。''' ほとんどの私立大学では、遠方に住んでいる受験生のために、本学以外に受験会場を用意する地方受験を実施している。 国公立大学の2次試験が記述形式が中心であるのに対し、私立大学は答のみを求めるマークセンス形式が中心である(私立大学の受験生は、国公立大学と比較すると多めである為、採点の手間を省く為だと思われる)。但し、上位私大になると記述形式でない分、試験時間が短く、相当の学力がないと試験時間に回答できない量の問題が出題されるため一概に受験生の負担が軽くなるわけではない。 国公立大学の分離・分割方式と呼ばれる制度(前期日程、中期日程、後期日程)は採用されておらず、同じ大学でも別々の大学でも、日程さえ異なれば複数の学部を受験可能であり、'''受験可能大学・学部の数が国公立大学(最大3校3学部)と異なり限定されていない。''' 一般入試以外にも、'''センター試験利用入試'''をほとんどの私立大学が実施している。これは、センター試験の結果、もしくはそれと国公立大学の2次試験に相当する個別試験の総合結果で、合否を決めるものだ。 センター試験利用入試を実施していない私立大学は[[w:学習院大学|学習院大学]]、[[w:慶應義塾大学|慶應義塾大学]]、[[w:国際基督教大学|国際基督教大学]]、[[w:上智大学|上智大学]]などの一部の私大に限られる。また、[[w:早稲田大学|早稲田大学]]の理工学部や教育学部のように学部によっては利用不可な場合もあるので、センター試験利用入試を利用するつもりの受験生は事前に志望校の志望学部が実施しているか調べる必要がある。 多くの私立大学は、系列高校からの内部推薦・指定校推薦・AO入試など多様な入試方式を採っており、一般の入学試験を突破してきたものとこれらの多様な入試方式による進学者数は、ほぼ同じである大学が多く、推薦入学者の質について度々議論されている。 ==入試対策== ===国立大対策=== ====北海道・東北地方の国立大==== *[[北海道大対策]] *[[北海道教育大対策]] *[[旭川医科大対策]] *[[室蘭工業大対策]] *[[北見工業大対策]] *[[弘前大対策]] *[[秋田大対策]] *[[東北大対策]] *[[山形大対策]] *[[岩手大対策]] *[[福島大対策]] ====関東地方の国立大==== *[[茨城大対策]] *[[筑波大対策]] *[[宇都宮大対策]] *[[群馬大対策]] *[[埼玉大対策]] *[[千葉大対策]] *[[電気通信大対策]] *[[東大対策|東京大対策]] *[[東京外国語大対策]] *[[東京学芸大対策]] *[[東京医科歯科大対策]] *[[東工大対策|東京工業大対策]] *[[東京農工大対策]] *[[一橋大対策]] *[[横浜国立大対策]] ====中部地方の国立大==== *[[新潟大対策]] *[[長岡技術科学大対策]] *[[金沢大対策]] *[[信州大対策]] *[[静岡大対策]] *[[岐阜大対策]] *[[浜松医科大対策]] *[[愛知教育大対策]] *[[名古屋大対策]] *[[名古屋工業大対策]] *[[豊橋技術科学大対策]] *[[三重大対策]] ====近畿地方の国立大==== *[[滋賀大対策]] *[[滋賀医科大対策]] *[[京大対策|京都大対策]] *[[阪大対策|大阪大対策]] *[[大阪教育大対策]] *[[神戸大対策]] *[[和歌山大対策]] ====中国・四国地方の国立大==== *[[鳥取大対策]] *[[島根大対策]] *[[岡山大対策]] *[[広島大対策]] *[[山口大対策]] *[[徳島大対策]] *[[香川大対策]] *[[愛媛大対策]] *[[高知大対策]] ====九州・沖縄地方の国立大==== *[[九大対策|九州大対策]] *[[九州工業大対策]] *[[長崎大対策]] *[[熊本大対策]] *[[大分大対策]] *[[鹿児島大対策]] *[[琉球大対策]] ===公立大対策=== ====北海道・東北地方の公立大==== *[[釧路公立大対策]] *[[公立千歳科学技術大対策]] *[[公立はこだて未来大対策]] *[[岩手県立大対策]] *[[会津大対策]] ====関東地方の公立大==== *[[東京都立大学対策]] *[[都留文科大対策]] *[[高崎経済大対策]] ====中部地方の公立大==== *[[福井県立大学|福井県大対策]] *[[静岡県立大対策]] *[[名古屋市立大対策]] *[[愛知県立大対策]] ====近畿地方の公立大==== *[[京都府立医科大対策]] *[[京都府立大対策]] *[[大阪市立大対策]] *[[大阪府立大対策]] *[[大阪公立大対策]] *[[兵庫県立大対策]] ====中国・四国地方の公立大==== *[[広島市立大対策]] *[[尾道市立大対策]] *[[高知工科大対策]] ====九州・沖縄地方の公立大==== *[[北九州市立大対策]] ===私立大対策=== ====北海道・東北地方の私立大==== * [[北海学園大対策]] * [[北星学園大対策]] * [[東北学院大対策]] ====関東地方の私立大==== *[[青山学院大対策]] *[[学習院大対策]] *[[神奈川大対策]] *[[慶應義塾大対策]] *[[国学院大対策|國學院大対策]] *[[国際基督教大対策]] *[[順天堂大対策]] *[[上智大対策]] *[[成蹊大対策]] *[[成城大対策]] *[[専修大対策]] *[[中央大対策]] *[[帝京大対策]] *[[東京工科大対策]] *[[東京慈恵会医科大対策]] *[[東京電機大対策]] *[[東京理科大対策]] *[[東洋大対策]] *[[獨協大対策]] *[[日本大対策]] *[[法政大対策]] *[[明治大対策]] *[[明治学院大対策]] *[[武蔵大対策]] *[[立教大対策]] *[[早稲田大対策]] *[[駒澤大対策]] *[[東京都市大対策]] *[[工学院大対策]] *[[芝浦工業大対策]] *[[東京農業大対策]] *[[立正大対策]] *[[東京経済大対策]] *[[武蔵野大対策]] *[[玉川大対策]] *[[文教大対策]] ====中部地方の私立大==== *[[愛知大対策]] *[[中京大対策]] *[[豊田工業大対策]] *[[南山大対策]] *[[名城大対策]] *[[愛知淑徳大対策]] ====近畿地方の私立大==== *[[追手門学院大対策]] *[[大阪経済大対策]] *[[関西学院大対策]] *[[関西大対策]] *[[京都産業大対策]] *[[近畿大対策]] *[[甲南大対策]] *[[神戸学院大対策]] *[[摂南大対策]] *[[同志社大対策]] *[[佛教大対策]] *[[桃山学院大対策]] *[[立命館大対策]] *[[龍谷大対策]] *[[兵庫大対策]] *[[大阪工業大対策]] *[[関西外国語大対策]] *[[京都外国語大対策]] ====中国・四国地方の私立大==== *[[広島修道大対策]] *[[松山大対策]] ====九州・沖縄地方の私立大==== *[[西南学院大対策]] *[[福岡大対策]] *[[福岡工業大対策]] *[[立命館アジア太平洋大対策]] === 共通テスト対策 === ===センター試験対策=== *[[センター試験 英語対策]] *[[センター試験 数学対策]] *[[センター試験 国語対策]] **[[センター試験 国語(現代文)対策]] **[[センター試験 国語(古文)対策]] *[[センター試験 理科対策]] **[[センター試験 物理I対策]] **[[センター試験 化学I対策]] **[[センター試験 生物I対策]] **[[センター試験 地学I対策]] *[[センター試験 地理歴史対策]] **[[センター試験 世界史対策]] ***[[センター試験 世界史B対策]] **[[センター試験 日本史対策]] ***[[センター試験 日本史B対策]] **[[センター試験 地理対策]] ***[[センター試験 地理B対策]] *[[センター試験 公民対策]] **[[センター試験 現代社会対策]] **[[センター試験 倫理対策]] **[[センター試験 政治・経済対策]] **[[センター試験 倫理、政治・経済対策]] == 関連項目 == *[[受験ガイド]] *[[生活と進路]] [[Category:入学試験|にほんのたいかくしゆけんかいと]] ez94b5lzsxqyb0xw9x6ym4nqk1jabzd 生理学 0 4415 207318 173834 2022-08-27T06:44:11Z 203.168.71.158 /* ※ ゴルジ体とかリボソームとか */ wikitext text/x-wiki {{Pathnav|メインページ|医学|frame=1}} {{Wikipedia}} '''生理学 (Physiology)''' とは、人体を構成する各要素(それは組織、器官であったり細胞であったりする)がどのような活動を行っているかを解き明かす学問である。各要素がどのような機能を持つかという基本を抑えたうえで、その機序への理解を深めていく。更に複数要素の関わり合い、ひいては全身の機能を総合的に捉えられるようにする。これには、各要素の分類や形態的特徴([[解剖学]])や代謝反応などに関する[[生化学]]の知識が要求される。 {{medical stub}} == 項目 == === ホメオスタシス === 細胞は、固体状の細胞の中心部分と、液体からなる外側の細胞外液によって成り立っている。19世紀のフランスの生理学者クロード・ベルナール(Claude Bernard)がこの体内の環境のことを「内部環境」 milien unterne (英訳すれば internal environment<ref>『ギャノング生理学』P69</ref>)という用語で表し、内部環境は外界から隔絶された環境であるとした。 なお、体の外の環境を外部環境と呼ぶ。 アメリカの生理学者ウォルター・B・キャノン Walter B. Cannon はさらにベルナールの考えを発展させ、神経と内分泌の多くの実験などをもとに、キャノンは生体内の環境は常に一定になるように生物的に制御されていると主張し「ホメオスタシス」 homeostasis (恒常性) という造語で定義した(1932)。「類似の」 homeo + 「停止状態」stasis という意味の造語である<ref>『標準生理学』</ref>。 :なお、ホメオスタシスという用語を作ったのはCannon であるが、しかしその概念に先に到達したのはクロード・ベルナールであり、ベルナールは「内部環境の恒常性」という言い回しで表現した<ref>『ギャノング生理学』P69</ref>。 ともかく、たとえば、血液の水素イオン濃度は、現代では約pH7.4前後に維持される事が知られている<ref>『標準生理学』</ref>。 さて「恒常」といっても、けっして全くの不変ではなく、基準から僅かばかりに変動しているが、すぐに元に戻るように調整されている。工学的な用語で表すなら、制御工学で言う「ネガティブ・フィードバック」である<ref>『生理学テキスト』 </ref><ref>『標準生理学』</ref>。 :なお、日本だけでなく欧米でも国際的に、「ホメオスタシス」の概念を説明する際に工学用語のフィードバックを用いても伝わり、たとえば『ギャノング生理学』でもホメオスタシスの説明としてフィードバックという用語が使われている<ref>『ギャノング生理学』P69</ref>。 ともかく、ホメオスタシスという現象のあることはつまり、体内に基準となるべき正常な状態があり、その基準状態からのズレを補正して元の基準に戻そうとするような仕組みが存在している事である。 なお、「フィードバック」とは制御工学の用語である。フィードバックには、基準からのズレを拡大していくポジティブ・フォードバック(正のフィードバック)と、基準に戻そうとするネガティブ・フィードバック(負のフィードバック)とがある。「ネガティブ」には、負(ふ)という意味がある。数学の正負の負も、英語で negative ネガティブ という。 === ※ ゴルジ体とかリボソームとかだす === :※ 高校の参考書の細かいのとだいたい同じなので、調査を後回し。 === 能動輸送 === ナトリウムポンプのほかに、カルシウムポンプやプロトン(H)ポンプがある。 :※ 『標準生理学』と『生理学テキスト』で説明がバラバラ。だいぶ、説明内容が違う。 === 膜電位の用語説明など === [[File:膜電位の用語説明.svg|thumb|500px|]] 生理学でいう「オーバーシュート」overshoot<ref>『ギャノング生理学 原書23版』、P99</ref> という用語は、この図のように、一時的に電位などの波形が目標値よりも高くなる事である。「オーバーシュート」がこういう意味なのは日本だけでなく世界的に同様であり、『ギャノング生理学』でも似たような意味で「オーバーシュート」という用語が使われている<ref>『ギャノング生理学 原書23版』、P99</ref>。 :※ 電子工学などの「オーバーシュート」もほぼ同様の意味であり、制御して調節すべき波形などが、制御目標よりも高くなり過ぎためにアップ直後に下降して戻ることで形状がスパイク的な波形になることをオーバーシュートという。なお、対義語の「ダウンシュート」は、目標値よりも低くなりすぎたので、V字カーブ的にダウン直後にやや上昇することで谷間の波形が出来ること。 :※ 2020年、感染症などの急拡大を「オーバーシュート」という用例があったが、生理学的には誤用である。そもそも感染症の急拡大には既に「パンデミック」という用語がある。 なお、上記の説明で「スパイク」という用語を、先端(右図では波形の頂上の部分)のとんがってない波形に使ったが、ギャノング生理学でも同様の用語の使い方である<ref>『ギャノング生理学 原書23版』、P105の表4-1「哺乳類の神経における神経線維のタイプ」</ref>。ギャノング生理学に、「スパイクの持続時間」なる語句があり、ある神経のある刺激の電位の「スパイク」はたとえば 0.5ミリ秒 ほど持続する場合もあるとしている。(※ 数値は一例なので、暗記しなくていい。) このような活動電位の波形を図示する場合、数ミリ秒の短時間で電位の興奮が終わるので場合によっては1本の縦線で図示される場合があるが(たとえば『ギャノング生理学 原書23版』、P178の図)、しかし現実の波形は右図のように、なだらかな曲線である(たとえば『ギャノング生理学 原書23版』、P179の図)。 {{-}} === 電気伝導度 === 神経の電位の理論計算の際、抵抗値の単位オーム Ω だけではなく、電気伝導度 という単位を使う場合がある。 電気伝導度とは、単に抵抗値の逆数であり、単位はシーメンスであり、シーメンスの記号はSで表す。 たとえば、2Ωの抵抗値は、その抵抗の電気伝導度は 0.5 S である。(0.5×2 = 1なので) (「0.5 シーメンス」と読む。) もし抵抗をRとし、電流をIとし、電気伝導度をgとした際、 オームの法則により、電流・抵抗・電圧の関係は RI=E であるので、移項すると I = E (1/R) = gE となり、見かけ上、電圧と電流の関係が I = gE というふうに1行で書けるので、電気伝導度による記述が用いられる場合がある。 抵抗および抵抗値のことを英語でリアクタンスという。リアクタンスの単位はオーム Ω である。 電気伝導値のことを英語でコンダクタンス conductance という。つまり、コンダクタンスの単位はシーメンス S である。 === リガンドとアゴニスト === 一般に、受容体に結合する物質のことを'''リガンド''' ligand という。(※ 生理学テキストに記述あり。) なお、類語で「アゴニスト」 agonist とは、薬品などで、受容体に結合して、作用をもたらす物質分子のことである。薬品が受容体と結合した際に作用を増強したり発現したりする場合をアゴニストという。一方、薬品が受容体と結合したさいに抑制的に働いたり他のアゴニストの結合を妨げるものの場合はアンタゴニスト antagonist という。薬物の場合、アンタゴニストのことを「拮抗薬」(きっこうやく)ともいう<ref>『はじめの一歩の薬理学』、第2版、20ページ</ref>。 ※ 「薬物」と言っても、麻薬のような違法的な意味は無い。慣習的に薬理学では、薬の事を一般に「薬物」という。 伝統的な、大学レベルの薬理学の教育では、アゴニストとアンタゴニストという語句が、これらの概念を説明するのに、よく使われる。 よく、リガンドと受容体の関係は、カギとカギ穴の関係に喩えられる。 アンタゴニストが存在するという事はつまり、 :分子は受容体に結合するだけでは、作用を及ぼさない. という事である。分子が受容体に結合し、さらになんらかの変化をその受容体に起こすことにより、初めて作用が起きるのである<ref>『はじめの一歩の薬理学』、第2版、20ページ</ref>。 では、作用を起こすための変化とは何か? 一般的には、受容体の立体構造の変化である、とされている。 アンタゴニストは、結合穴に結合するだけで終わってしまい、立体構造を変化させないので、作用を起こさない、という解釈がある。 ※ 本wiki独自の喩えだが、アンタゴニストをカギに喩えるなら、カギ穴に入ることはできるが、カギの凹凸が不一致で、カギを回せない、とでもいえようか・・・ :※ これらの話題の薬理学での詳細については、『[[薬理学/アゴニストとアンタゴニスト]]』を参照せよ。 == イオンチャネルなど == :※ 文献ごとに重点的に説明する箇所が違っており、あまり説明が統一されてない。 たとえば読者は、神経伝達物質としてアセチルコリンを高校生物で読者は習ったと思う。 これも、上記の「リガンド」という用語を使うなら、 神経細胞にはアセチルコリン受容体があるので、その結果として、神経細胞のイオンチャネルのリガンドとして、アセチルコリンが作用するからである。(※ なお高校の東京書籍の検定教科書にも、似たような説明がある。別ページだが「リガンド」の用語も、東京書籍の教科書にある。) ※ ともかく読者は、こういった専門用語の言葉遣いになれてほしい。 イオンチャネルやイオンポンプは、必ずしも神経細胞だけに限定はしないが、しかし医学的には神経細胞のイオンチャネルやイオンポンプに作用する物質は危険物や毒物などになりやすいので重要である。 フグ毒のテトロドトキシンもNa<sup>+</sup>チャネルを阻害するため、神経細胞のNa<sup>+</sup>チャネルも阻害するので、重篤な症状をもたらす。(※ シンプル生理学に説明あり。『標準生理学 第8版』P72に記載あり。) :※ 生理学の専門書でも、割と冒頭のほうで、神経細胞のイオンチャネルを説明している。 ;パッチクランプ法 ※ 『標準生理学』と『生理学テキスト』P.25で、若干に説明が食い違いあり。『ギャノング生理学』の内容が比較的に標準生理学に近いので、本wikiではギャノングにあわせる。 とても細い 1本の「毛細管」というかピペット<ref>岡田泰伸 ほか訳『ギャノング生理学 原書23版』、P53</ref>のようなものを使い、電気的な手法で、細胞膜チャネルなどの細胞表面の器官を1個だけひきつけつ方法がある、とされており、その方法がパッチクランプ法である。 断面図で描かれると、2本の棒かのように誤解されるが、そうではない。 パッチクラノンプ法を使えば細胞が無傷のままひきつけることが出来る、とされている。 なお、細胞膜をやぶっても細胞膜チャネルを観測できる<ref>岡田泰伸 ほか訳『ギャノング生理学 原書23版』、P53</ref>。 :※ 『生理学テキスト』P.25を読むと、なんか細胞膜を破っているっぽく記述されているのは、おそらくこちらの方式を紹介しているのだろう。 つまり、細胞膜を破らずに観測する方式と、別の方式として、細胞膜を破って観測する方式がある。 どのような方式でも、電極が(たとえば毛細管の中心軸あたりに)付属している。 そして、とにかく実験結果がどうなるかというと、膜電位の電圧が、オンまたはオフのいずれかという、2値のいずれかの状態だけを取ることが観測結果である。 正確に言うと、ms(ミリセカンド)のオーダーで、電圧の高低が切り替わる。つまり、1つのチャネルの開閉について、ミリセカンドのオーダーで開閉が切り替わっている<ref>『標準生理学』、P73</ref>、と医学では考えられている。 グラフ的にどう見えるかを言えば、オシロスコープなどの表示するグラフは、(表示倍率や設定にも寄るが、適正な表示倍率なら)けっして傾斜40度みたいなナナメの傾斜の曲線にはならず、オン状態はほぼ90度で立ち上がる。(厳密には85~89度くらいの斜めかもしれないが、そういう事を言い出すとキリがないので、ほぼ90度だと説明することにする。) :※ なので、医学書にある観測電圧の波形グラフでも、ほぼ90度で立ち上がっている。 この事から、1つのチャネルの開閉の状態の切り替えは、瞬時に開または閉に切り変わる事が分かる、・・・と医学会では考えられており、医学書ではパッチクランプ法でそう証明されたと断言されている。 :※ チャネルの開閉の理論について、根拠となる実験結果がほぼこのパッチクランプ法の1つしかない。よって本wikiでは、念のため、慎重的に「考えられている」と言い回しをする事になる。なお、パッチクランプ法によって始めて、チャネルの開閉の電圧が観測できるようになった。『標準生理学』P.73を読むと、他にも方法があると書かれているが、しかし具体的にどんな方法があるのか何も具体的には紹介されていないので、本wikiでは当面はそれを信用しない。 ;観測技術 イオンチャネルが、なぜ構造が筒状で穴が空いているのか分かったかというと(※ なんと『標準生理学』でしか紹介されてない。『ギャノング生理学』と『生理学テキスト』には説明が無し)、主に「電子線」による実験の観測だとされる。 :※ 『標準生理学』P.74では「電子線」と書いてある。たぶん電子顕微鏡による観測のことか?  その他、X線による解析も行われている。 それらの電子線の観測写真などにより、実際に円形の何かが観測される。いかにも穴っぽい何かが観測できる。(と、『標準生理学』に、その観測写真(「ニコチン性アセチルコリン受容体」)がある。しかし倍率とかがその図に書かれておらず、いまいち不便。なお、ニコチンアセチルコリンにはチャネルポア(つまり貫通穴)がある。) なお余談だが、チャネルの生物実験的な性質については、現代ではチャネルの遺伝子が特定されているのでクローニング技術的に大量生産できるので、「cDNAクローニング」による生物学的性質の確認が取られている。(と『標準生理学』P.74が言っている。) 要するに、主に :パッチクランプ法、 :電子線またはX線などによる構造解析、 :cDNAクローニング法、 の3つが、イオンチャネルや類似の生体分子を調べるための典型的な手法である。(と、『標準生理学』P.75がこの3つの手法を特別に紹介している。) ;Na,K 以外のイオンチャネル 読者はナトリウムチャネル(Na<sup>+</sup>チャネル)、カリウムチャネル(K<sup>+</sup>チャネル)を高校で習ったと思う。 実はカルシウムチャネルも存在する。一般的に「Ca<sup>2+</sup>チャネル」と表記される。 カルシウムと聞くと、ついつい骨細胞だけのものかと誤解しがちであるが、一般の細胞にも濃度は低いものの、カルシウムイオンが存在している。 高等学校の生物でも、いちおう神経伝達にカルシウムが関わっている事は習う。『[[高等学校生物/生物I/環境と動物の反応#シナプスでの伝達]]』 高校では習ってないかもしれないが、神経のほかにも筋細胞でも、筋収縮を伝えるのにカルシウムが関わっている。これについては筋肉細胞に、トロポニンというCaとの結合をするタンパク質が存在する事が明らかになっている。 なお、神経細胞も筋肉細胞もともに、興奮性の細胞であることに着目しよう。 このようにカルシウムは、何かの情報伝達的な物質としての側面もあることに注目しよう。もっとも生理学の大学教科書では、そこまで大げさに分類するまでもなく、生理活性物質などとしてカルシウムは分類されている。 また、筋肉や神経細胞など興奮性細胞に限らず、一般の多くの細胞にも、カルモジュリンという、Caと結合する蛋白質がある事が分かっている。(『生理学テキスト』、『標準生理学 第8版』P89、など) ;余談 なお、イオンの価数をいちいち「2」とか書くのが面倒な場合などは「Caチャネル」と略記する場合もよくある。(『生理学テキスト』にもある表記)ナトリウムチャネルなども同様、「Naチャネル」のようにイオンの価数を略記することもある。 == 筋肉 == === 赤筋と白筋 === 骨格筋の赤みはおおむね、ミオグロビンによるものである。 ミオグロビンの多い筋肉をその色から「赤筋」という。 一方、ミオグロビンの多い筋肉を、赤みが比較的にうすい事から「白筋」という。 === フィラメントの種類 === 筋肉には、フォラメントが2種類あり、「太いフィラメント」(アクチンフィラメント)と「細いフィラメント」(ミオシンフィラメント)がある。 はその名の通り、太いフィラメントのほうが太い。また、太いフィラメントの構成物質は主にアクチンである。 細いフィラメントの抗生物質は主にミオシンである。さらに「細いフィラメント」にだけ、トロポニンとトロポミオシンというタンパク質がある。トロポニンは、カルシウムと結合する性質をもっている。 トロポニンとトロポミオシンによって、筋肉の収縮が調節されている。 筋小胞体という膜状の組織が、筋原線維のけっこうな割合の表面を取り囲んでいる。筋小胞体にはカルシウムが蓄えられており、必要に応じてカルシウムが筋小胞体から放出され、また必要に応じてカルシウムが筋小胞体に回収され、筋肉の収縮・弛緩を制御している。 === 収縮の種類 === ;拘縮 筋線維への薬物投与など、人為的な手法によって筋収縮を起こさせることを、生理的な収縮とは区別して「拘縮」 contracture といい、次のような例が知られている。 ::K拘縮、 カリウムによる膜電位の持続的な脱分極による。 ::カフェイン拘縮、 カフェイン投与による、筋小胞体からのカルシウム放出による。 薬理学のほうで、麻酔薬を使ったときに、患者によっては全身が高熱になって致死的な「悪性高熱症」という現象があるのだが、これは筋小胞体のCa<sup>2+</sup>放出機構の異常が原因だとされており<ref>『ギャノング生理学』</ref><ref>『標準生理学』</ref>(※ 『生理学テキスト』では触れられてない)、主に筋小胞体のリアノジン受容体の異常だろう<ref>『標準薬理学』、P243 (※ 「生理学」ではなく「薬理学」のほう)</ref><ref>『ギャノング生理学』</ref>、と考えられている。 :※ 『標準生理学』にもリアノジン受容体のことは書いてあるのだが、説明が細かすぎて他の用語も多すぎて、どれが入門的な知識か初学者には分かりづらいので、上記の文章の参考文献からは除外した。 なお、リアノジンという植物アルカロイドがある<ref>『生理学テキスト』、P54</ref><ref>『標準生理学』、P112の節「(2)Ca<sup>2+</sup>放出チャネル(リアノジン受容体)」</ref>。そのリアノジンが、この受容体(リアノジン受容体)と強固に結合するので、「リアノジン受容体」(Rynanodin receptor : RyR)という名前がついている<ref>今井正・宮本英七 監修『標準薬理学 第7版』、医学書院、2015年3月25日 第7版 第1刷、P144</ref>。 また、カフェイン拘縮と似たような機構なのだろう、と思われている<ref>小澤瀞司・福田康一郎 監修『標準生理学 第8版』、医学書院、2015年8月1日 第8版 第2刷 発行、P.112</ref>。 カフェイン-ハロタン筋収縮テストという実験で、悪性高熱症の発症のしやすさを評価できるとされている<ref>柳沢輝行 ほか監訳『カッツング薬理学 原書 第10版』、丸善書店株式会社、平成25年3月25日 発行、P439、</ref>。 ;硬直 ATP濃度が低下して1μmol/L以下になると、アクチンとミオシンが結合した状態になり、筋肉は硬くなり、これを硬直 rigor と言う。 死体などで見られる死後硬直(「死硬直」とも) rigor mortis も、これである。 == アセチルコリン受容体 == 神経伝達の物質のひとつに、高校でも習うようにアセチルコリンがある。 高校では、神経同士の伝達におけるアセチルコリンの役割を習った。 神経から骨格筋における伝達も、アセチルコリンによる。 運動神経は、筋肉の「終板」と言われる部位に(間隙はあるが)接合している。 運動神経の終末にも、シナプス小胞があり、そのシナプス小胞からアセチルコリンを放出する。 そして、筋肉側に、アセチルコリンの受容体(アセチルコリン受容体)が存在しているので、こうして伝達が神経から筋肉に伝わる。 筋肉側の「終板」のあたりに、アセチルコリン受容体およびアセチルコリンエステラーゼが密集して存在している。 アセチルコリン受容体には、ニコチン受容体と、ムスカリン受容体がある。 「ニコチン受容体」とは、その名のとおり、薬物の受容体に反応して開口するので、「ニコチン受容体」の名をつけられている。 そして、筋肉の「終板」には、アセチルコリンのニコチン受容体がある。(※ 生理学テキスト、シンプル生理学など) なお、アセチルコリンを略称で「ACh」と書く。AだけでなくCも大文字である。アセチルコリン受容体なら、略称は「ACh受容体」と書く。 筋肉の「終板」にも存在しているアセチルコリンエステラーゼ(略称: AChE)は、アセチルコリンを分解する酵素である。 筋肉にかぎらず、アセチルコリンはシナプス間隙などに放出されても、このアセチルコリンエステラーゼにより、すぐに分解されてしまう。 むかしの南アメリカ原住民(いわゆるインディアン)の矢に塗って使っていた毒(矢毒)のクラーレおよび、その主成分がツボクラリンは、終板のアセチルコリン受容体に接合することで、アセチルコリンの働きを競合的に妨げる作用により、筋肉が麻痺するので、毒として作用している事が分かっている。(※ シンプル生理学、生理学テキスト) クラーレにより、筋肉の麻痺を起こせば、標的の呼吸筋などの重要な筋肉も麻痺するので、標的を死に至らしめるという毒である。 == シナプス伝達 == :※ この節では、筋肉に限らず、脳なども含めた、神経細胞のシナプス伝達を扱う。 アセチルコリン受容体には、'''ニコチン性受容体'''(略称: nAChR)と、'''ムスカリン性受容体'''(略称: mAChR)がある。 「ニコチン受容体」とは、その名のとおり、薬物の受容体に反応して開口するので、「ニコチン受容体」の名をつけられている。 筋肉の「終板」には、アセチルコリンのニコチン受容体がある。(※ 生理学テキスト、シンプル生理学など) 一方、平滑筋や心筋や脳には、ムスカリン性受容体がある。薬物のムスカリンに反応するので、ムスカリン性受容体という名が付けられている。(『生理学テキスト』、2017年8月9日 第8版 第2刷、73ページ) 心筋や脳のほか、副交感神経によるホルモン分泌などにも、ムスカリン性受容体が関わっている。 ムスカリン性受容体にはm1からm5までの5種類のサブタイプがある事が知られている。(大文字で「M1」~「M5」と書く場合もあり(『生理学テキスト』では大文字。『標準生理学』では小文字)、どちらでもいい。) :このうち、m1,m3,m5 は ・・・ ※ 調査中 :※ 編集者へ: Gタンパク質との関係を調査してください m2とm4は、・・・ ※ 調査中 ;GABAやグリシンなど 神経に関する抑制性伝達物質は主に、GABAという物質と、グリシンという物質の、2つである。 * GABA 20世紀なかごろのアメリカで、乳幼児に てんかんが多く発生する事件が起きた。原因は、粉ミルクの変性により、ビタミンB6が変性したことだとされる<ref>『標準生理学』、P147</ref>。 さて、「てんかん」とは、脳細胞の異常な興奮である。 この様な事実から、つまり、なんらかの栄養素の栄養不足によって、神経が異常に興奮するという現象が起きると考えられる。 これをもっと突き詰めて考えれば、つまり、栄養素から合成される何か(おそらく何らかの物質)の不足によって、神経が異常に興奮するという事であろう。 さらに突き詰めれば、つまり、神経伝達物質には、神経を興奮させる物質のほかに、神経を抑制させる物質もある、という事が想像される。 さて、天下り的に結論を言うと、GABA(γ-アミノ酪酸<ref>『生理学テキスト』、P77</ref>)という物質が、神経抑制の物質である。上述のアメリカの粉ミルクの事件も、乳幼児の深刻なGABA不足が原因だと医学的には考えられている<ref>『標準生理学』、P147</ref>。 なお、GABAは生体内では、グルタミン酸をグルタミン酸脱炭酸酵素(GAD)で脱炭酸することによって直接<ref>『標準生理学』、P147</ref>合成されている<ref>『生理学テキスト』、P77</ref><ref>『標準生理学』、P147</ref>。 :※ なお、グルタミン酸そのものは神経の興奮伝達性物質である。 GABAの受容体には、少なくともGABA<sub>A</sub>受容体とGABA<sub>B</sub>受容体の2種類がある。なお GABA<sub>C</sub>受容体とは、GABA<sub>A</sub>受容体のうちの特殊なものをそう呼んでいる。 抗不安薬として用いられているベンゾジアゼピンという薬物が、GABA<sub>A</sub>受容体を活性化する。GABA<sub>A</sub>受容体が活性化すると、Cl<sup>-</sup>イオンの透過性が高まる<ref>『ギャノング生理学』、P168 </ref>。 よって、ベンゾジアゼピンにより、Cl<sup>-</sup> イオンの透過性が高まる<ref>『生理学テキスト』、P77 </ref>。 GABA<sub>A</sub>受容体は5つのサブユニットから構成される五量体構造である<ref>『カッツング薬理学』、P372</ref><ref>『ギャノング生理学』、P168 </ref>。 一方、GABA<sub>B</sub>受容体は GABA<sub>B</sub>R1<ref>『標準生理学』、P148</ref> と GABA<sub>B</sub>R2<ref>『標準生理学』、P148</ref> からなるヘテロ二量体構造であり<ref>『標準生理学』、P148</ref><ref>『カッツング薬理学』、P372</ref><ref>『ギャノング生理学』、P168 </ref>、またGタンパク質と共役している<ref>『標準生理学』、P148</ref><ref>『カッツング薬理学』、P372</ref>。 * グリシン GABAのほか、グリシンという物質も、神経の抑制伝達物質として働く。グリシンの受容体も、活性化のさいに、Cl<sup>-</sup>イオンの透過性が高まっている<ref>『ギャノング生理学』、P169 </ref>。 なお、グリシンの阻害薬はストリキニンである<ref>『生理学テキスト』、P77 </ref><ref>『ギャノング生理学』、P169 </ref>。ストリキニンによって、痙攣などが起きる<ref>『ギャノング生理学』、P169 </ref>。 なお、その語源となったストリキニ-ネは東インドの原住民が用いていた矢毒である<ref>『標準生理学』、P148</ref>。 グリシンはグルタミン酸と同様に多くの細胞に存在している<ref>『標準生理学』、P147</ref>。 GABAやグリシンは、抑制性シナプスにも関わっている、と一般に考えられている<ref>『標準生理学』、P135</ref><ref>『やさしい生理学 改訂第7版』、南江堂、P212</ref>。 :※ 一般的な解釈では、GABAは脳で抑制性の伝達物質としてはたらっており、一方、グリシンは脊髄での抑制性シナプスの物質として機能している、と考えられているような傾向がある。(たとえば『生理学テキスト』や『標準薬理学』や『カッツング薬理学 原書10版』和訳本 P.372 が、だいたい、そんな感じ) なお、脊髄においては抑制性シナプス後電位(IPSP)の50%はグリシン由来である。 == カテコールアミン == ドーパミンおよびアドレナリンおよびノルアドレナリンのことを、カテコールアミンという。 ;ドーパミン ドーパミンは、脳の情動に関係が深い。 そのため、統合失調症などの関連薬にも、ドーパミンを制御する薬品がある。 パーキンソン病にも、ドーパミンは関係している。 ドーパミン受容体は、D1,D2,D3,・・・などと何種類かに分けられるが、いずれもGPCRである。(※ 『標準生理学』および『生理学テキスト』) GPCRとは、「Gタンパク質共役受容体」のこと。7回膜貫通タンパク質とも言われる。(※ 分子生物学の教科書によく書いてあるアレの一種。) :※ 文献によって、D5とD7の違いがある。 分泌されたドーパミンは、ドーパミン輸送体(DAT)によって神経終末に取り込まれ、再利用される。(標準生理学、P149。生理学テキスト、P78。) 麻薬のコカインや、覚せい剤のアンフェタミンは、ドーパミン輸送体(DAT)を妨害する作用があることで、ドーパミンによるニューロン活性化を延長させている。 ;アドレナリンとノルアドレナリン アドレナリンとノルアドレナリンは、程度の差はあるが共通の受容体に作用するので、受容体は「アドレナリン受容体」と一括して呼ばれる。(標準生理学、P150。生理学テキスト、P77。) アドレナリン受容体は7回膜貫通タンパク質(GPCR)である。(※ 『標準生理学』および『生理学テキスト』) GPCRとは、「Gタンパク質共役受容体」のこと。7回膜貫通タンパク質とも言われる。(※ 分子生物学の教科書によく書いてあるアレの一種。) アドレナリン受容体には、α1,α2,β1,β2,β3 が存在するが、いずれもGPCRである。(標準生理学がP150で「β3」を紹介。生理学テキストのP77では「β3」が無い。 == その他の色々な伝達物質 == ;セロトニン セロトニン(5-hydroxytryptamine、略称: 5-HT) は、アミノ酸のトリプトファンから合成される。 5-HTの多くはGPCRである。 3型である 5-HT<sub>3</sub> のみ、イオンチャネル型であり、リガンドによって開閉する。 ;プリン ※ 未記述. ;アデノシン アデノシン受容体には、A1, A2A, A2B, A3 の4種類が知られている。いずれも、一般的に中枢神経に対しては抑制的に作用する。(※ 生理学テキスト) コーヒーや茶などに含まれるカフェインやテオフェリンは(なお、両物質ともキサンチン誘導体である)、アデノシン受容体を阻害する。 :※ キサンチン誘導体の件は、標準生理学に記述あり。 ;一酸化窒素 一酸化窒素は気体である。生体内での伝達物質としての一酸化窒素(NO)は、一酸化窒素合成酵素の働きにより、アルギニンから合成される。 :※ 標準生理学で、一酸化窒素が血管の弛緩の物質のように書いててあるが、これはどういう事かというと、1998年ノーベル賞の研究が、生体内の血管はアセチルコリンを注射すると弛緩するのに、生体外に摘出した血管にアセチルコリンを作用させても弛緩しないという不思議の解明であり、その答えとなる物質が一酸化窒素である事を米国の Ignarro 博士など米国の3人の学者が解き明かしたことが背景にある。 :狭心症の治療に使われるニトログリセリンによる血管拡張の作用は古くから知られていたが、しかしその仕組みがノーベル賞の研究まで長らく解明されていなかった。 :ニトログリセリンなどについては詳しくは薬理学で習うだろうから、この単元では省略。 現代では、一酸化窒素がグアニル酸シクラーゼを活性化して、サイクリックGMP(cGMP)が合成される事が解明されている。 ;内因性オピオイドおよび内因性カンナビナイド :オピオイド モルヒネは植物のケシから合成でき、麻薬の阿片(アヘン)もモルヒネの派生であり、モルヒネ洋物質をオピエートというのだが、動物の体内物質としてモルヒネに似たような構造の物質が見つけられており、その体内のモルヒネ様物質のことをオピオイドという。 特に動物体内で産生される物質である事を強調するとき、「内因性」と冒頭につけて「内因性オピオイド」などと言う。 エンドルフィンなどが、内因性オピオイドという。なお、オピオイドの構造はペプチドである。 :カンナビノイド ※ 未記述 == 血液 == ; 大学生用の血液凝固の図 [[File:Coagulation diagram japanese.svg|thumb|500px| 血液凝固因子は慣習的にローマ数字で書かれる。<br> 番号は、発見順につけられているので、作用の順番とは関係ない。<br> 6番目(VI)の凝固因子は、存在が認められておらず、現在は欠番である。]] Ca以外の凝固因子はタンパク質である(『標準生理学』)。 血液凝固における、凝固していく過程は図のように、「内因性」と「外因性」という2種類に分かれる。 内因性も外因性も、共通して、血液中の第X因子がカルシウムの存在のもとに活性化された結果としてXa因子となる。そして、そのXa因子によって、プロトロンビンがトリンビンに変化する。 :※ 作図の都合で、X→Xa を内因性と外因性の2箇所に分けて重複して記述しているが、教科書によっては1箇所でまとめているものもある(『標準生理学』や『生理学テキスト』など)。 一方、『シンプル生理学』や『はじめの一歩のイラスト生理学』(羊土社)などは2箇所にX→Xaを分けて書いているので、本wikiのように2箇所に分けてX→Xaを書いても、間違いではない。 古典的には、モラビッツの凝固機序というモデルが知られているが(『生理学テキスト』で紹介されている。『標準生理学』では紹介せず)、現代ではより正確なモデルに置き換わっているので、モラビッツに関しては名前を紹介するのにとどめる。 図中の「V」(プロトロンビンの左上にあるヤツ)は、ブイじゃなくて「5」番目の意味。 :(※ 市販の教科書の状況 :) キニノゲンとかカリクレインは、『生理学テキスト』には書いてあるけど、『標準生理学』には書いてないです。 :線溶系は、『標準生理学』には凝固系の図とまとめて(図『血液凝固と線溶』)書いてあるけど、『生理学テキスト』では図無しです。 ;ビタミンKと肝臓 :※ 『標準生理学』でも『生理学テキスト』でも、ともに紹介される重要事項です。 また、血液の止血の凝固には'''ビタミンK'''が必要である。 凝固因子のうち、II(2),VII(7),IX(9),X(10) がビタミンKを凝固に必要とする。 また、ほとんどの血液凝固因子は肝臓で合成される。 ビタミンKが酵素的に振舞うなどの働きにより、グルタミン酸残基がγ-カルボキシグルタミン酸に変換される。 したがって、ビタミンK欠乏や肝障害があると、出血傾向を見る。 抗凝固薬として使われる'''ワルファリン'''という薬剤は、ビタミンKの代謝を阻害する。 (備考: ) なお、納豆にビタミンKは多く含まれるという(『シンプル薬理学』)。 語呂合わせだが、ビタミンK要求性の凝固因子の7番と10番で「ナットウ」と覚える語呂合わせもある(『標準生理学』で2番,9番、7番、10番がビタミンK要求性なので『肉納豆』と覚える語呂合わせが紹介されている。)。 詳しくは薬理学の教科書で解説されると思うので、ワルファリンや納豆については、この単元では、あまり深入りしないとする。 ;血友病 血友病患者は、第VIII因子(8番目)または第IX因子(9番目)が欠損している。 第8因子の欠損するタイプが血友病Aである。 第9因子の欠損するタイプが血友病Bである。 血友病Aも血友病Bも、ともに劣性遺伝である。 {{-}} == 体温 == [[File:Environment and Body temperature japanese 1.svg|thumb|500px|環境温と体温]] === 実験的な事実 === 右図にもあるように、健康なヒトの体温は、外気温に関わらず、脳と心臓といった核心部の体温はつねに一定であり、 ほぼ37℃に保たれている。 また、ヒトの体温は、同じ瞬間であっても、部位によって温度が異なる。 普通、心臓や脳などの核心部ほど温度が高く、表皮(表皮の近くを「外殻部」という)や手足の先端などといった周辺部に向かうにつれ、温度が下がっていく。 外殻部の温度は、外気温の影響を受けて変動する。 脳や心臓や腹部臓器の温度のことを「核心温」(core temperature)または「核心温度」という。 :※ 「核心温」でも「核心温度」でも、どちらでもいい。『標準生理学』でも、単元によって「核心温」か「核心温度」か表記が異なっており、統一されていない。英語はどちらとも core temperature である。なお、核心温のことを深部体温 deep body temperature という場合もある<ref>『標準生理学』、P871</ref>。 ただし、風邪などによって核心部の体温が上がることがある。 これは防衛反応によるものであるが、プロスタグランジンE<sub>2</sub>が最終的な発熱物質である<ref>大地陸男『生理学テキスト』、2017年8月9日 第8版 第2刷発行、P509</ref>。 よって、プロスタグランジンE<sub>2</sub>(PGE<sub>2</sub>)の生成を阻害することにより、体温の上昇を防ぐことができ、実際に熱さましの薬などにプロスタグランジン阻害剤が応用されており、具体的には解熱薬のアスピリンやインドメタシンがCOX回路を阻害することでPGE<sub>2</sub>阻害をしている薬である<ref>大地陸男『生理学テキスト』、2017年8月9日 第8版 第2刷発行、P509</ref>。 === 解釈など === 核心部の体温を一定に調節する機構が、明らかに体内に存在している。 まず、それらの概念を工学的な用語を使って整理してみよう。 ==== フィードバック ==== まず、 :体温におけるフィードバック的な機構により、少なくとも核心部の体温は体内で計測・測定などのモニタリングい<ref>照井直人『はじめの一歩のイラスト生理学』、羊土社、2018年4月10日 第2版 第7刷 発行、165ページ、 </ref>(工学では「センシング」ともいう)をされており、そして体温がもし変動しそうな要因が感知されれば、核心部の体温を一定に近づけるように'''ネガティブ・フィードバック'''い<ref>照井直人『はじめの一歩のイラスト生理学』、羊土社、2018年4月10日 第2版 第7刷 発行、165ページ、 </ref>による調整が働く、 という事が言える。 ではそのフィードバック機構の正体は何か?となると、また別の議論だが、少なくとも現象論を工学的に記述するなら、おおむね上記のような説明文になる。 ==== セットポイント ==== さて、風邪によってワキのしたの温度が高くなるように、風邪によって核心部の温度がやや上昇すると考えるのが妥当であろう。 :(※ 厳密には、ワキの下は表皮だが、しかしワキ下は肉が薄いので、擬似的にワキ下の温度は核心温に近いだろう、と考えられている。) 臨床においても、舌下温または腋窩温<ref>照井直人『はじめの一歩のイラスト生理学 改訂 第2版』、羊土社、2018年4月10日 第2版 第7刷発行、P165、</ref>(えきかおん)が体温の測定の際でよく用いられる。 腋窩(えきか)とは、ワキの下のこと。 この事から、核心部の温度は、永久不変ではなく、体調などによて変わると考えるべきである。 '''セットポイント'''という温度概念が定義されており、「その時点での、核心部のあるべき温度」の事がセットポイントである。 風邪の場合、人体は防衛反応のためにセットポイントを上昇させる。 人体において、セットポイントと核心部の実際の温度を比較して、そしてフィードバック調節によって書く深部の体温をセットポイントに近づけようとする機構がヒトなどホニュウ動物に備わっている、と見なすのが妥当である。 このように、核心部の温度は、外気温では変わらないが、しかし体調などによって(核心部の温度が)変わる。 プロスタグランジン阻害剤などの熱さましの薬は、セットポイントを変更し、風邪でない状態の平熱のときのセットポイントに戻す薬という事になる。 === 温度の測定部位 === なお、医学実験的において核心温として測定される部位は、舌下温<ref>照井直人『はじめの一歩のイラスト生理学 改訂 第2版』、羊土社、2018年4月10日 第2版 第7刷発行、P165、</ref>、食道温、直腸温、鼓膜温、である<ref>彼末一之・能勢博『やさしい生理学 改訂 第7版』、南江堂、2019年5月20日 第7版 第2刷発行、P137、</ref>。 哺乳類の場合、脳の温度を非侵襲的に測定するのは不可能である<ref>彼末一之・能勢博『やさしい生理学 改訂 第7版』、南江堂、2019年5月20日 第7版 第2刷発行、P137、</ref><ref>照井直人『はじめの一歩のイラスト生理学 改訂 第2版』、羊土社、2018年4月10日 第2版 第7刷発行、P165、</ref>。この文脈でいう「非侵襲的」とは、「外科手術などを伴わないで」というような意味。 そこで、赤外線サーモグラフィーで頭部の赤外線を測定することで、代わりに生体・活動中のヒトの脳の温度を推定することが、よく行われている<ref>彼末一之・能勢博『やさしい生理学 改訂 第7版』、南江堂、2019年5月20日 第7版 第2刷発行、P137、</ref>。 ただし、汗が多い場合、脳からの赤外線ではなく汗の赤外線を測定しまっている可能性がある<ref>彼末一之・能勢博『やさしい生理学 改訂 第7版』、南江堂、2019年5月20日 第7版 第2刷発行、P137、</ref>。 一方、臨床的には、腋窩温(えきかおん)または舌下温(または口腔温)が核心温として測定されることが多い。 直腸温、鼓膜温、食道温、舌下温(口腔温)、腋窩温 が、この順番で、直腸音がもっとも温度が高く、そして腋窩温が最も温度が低い。 なお、「腋窩温」<ref>『生理学テキスト』、P504 </ref>(えきかおん)は「腋下温」<ref>『標準生理学』、P872 </ref>(えきかおん)とも書く。 === 概実リズム との関係 === 健康なヒトの体温は、一日のあいだでも変動があり、早朝の寝起きの直前直後に低く、午後に高い。 なお、ヒトではなくラットのように夜間に行動する生物では、夜間のほうが体温が高い<ref>照井直人『はじめの一歩のイラスト生理学』、羊土社、2018年4月10日 第2版 第7刷 発行、165ページ、 </ref>。 === 月経との関係 === 女性の場合、月経周期と連動して、体温が変わる。 つまり、女性の体温については、月経周期に連動して、女性の体温にも周期がある。 このように、女性の体温には「性周期」がある。 女性の体温は、排卵日に低下して最低になる。 {{-}} == 感覚の理論 == === 数式 === ==== Weber-Fechner の法則 ==== 感覚の強さは、刺激の強さの対数に比例すると古典的には言われており、これを'''ウェーバー-フェヒナーの法則'''(Weber-Fechner の法則)という。 この法則によると、たとえば、30gが31gに増えたときの感覚は、90gが93gに増えたときの感覚と同じだという主張になる<ref>『標準生理学』、P214</ref>。 Weber-Fechner の法則は数学的には、感覚の強さをEとして、刺激の強さをSとしたとき、差分方程式で :ΔE = k(ΔS/S) である。 これを微分方程式に置き換えて積分すれば、 :E = k logS + C が導かれる。(Cは積分定数) ==== ベキ関数の法則 ==== だが近年、対数よりもベキ関数のほうがよく比例するといわれており<ref>『ギャノング生理学』、P180</ref>、Weber-Fechner の法則に対しての異論も出されている。 このベキ関数の法則の式は、 :E = K・S<sup>n</sup> である。 (K および n は定数) なお、このベキ関数の法則の式は微分方程式(差分方程式)で表すと、 :(ΔE/E) = n(ΔS/S) となり、左辺と右辺の両方とも、それぞれの基準値からの差分の比率になっている。 === 痛覚 === 痒み(かゆみ)は便宜的に痛覚として分類される。だが、一般の外傷などの痛みを伝える神経線維が明らかになっている一方で、痒みを伝える神経線維は不明である<ref>『標準生理学』、P231</ref>。 実験的な事実により、外部からヒスタミンを皮下注射すると、痒みが起きる<ref>『標準生理学』、P231</ref><ref>『ギャノング生理学』、P199 </ref>。 『標準生理学』では、下記のことから、痒みは痛みとは異なる線維によって運ばれていると考えている。 :* 経験的な事実として、痒みは掻くことによって(一時的に)消失する。 :* 鎮痛作用をもつモルヒネが痒みをもたらす事がある。 === 聴覚 === まず、音を物理測定する場合、その単位は圧力である。 つまり、Pa(パスカル)単位である<ref>『標準生理学』、P232 </ref>。 「音圧」という用語があるように、音は圧力である。 「デシベル」や「ベル」という単位があるが、これは基準音からの倍率を常用対数で表したものである。 ベルは Bel と記号で表し、 :Bel = log<sub>10</sub>(被検査音の強さ / 基準音の強さ) である。 『標準生理学』P.232 では、音の強さは圧力の2乗に比例するとして、。 :Bel = log<sub>10</sub>(被検査音の圧力 / 基準音の圧力) としている。 その大元の基準となる、基準音の単位が、パスカル単位である。 なお、0デシベルというのは、音が無いという意味ではなく、基準音と同じ強さという意味である<ref>『ギャノング生理学』、P246 </ref>。 また、音は空気の縦波でもある。 つまり、空気の縦波の強さを測定する際の単位は、圧力である事になる。 :※ その他、耳の中のアブミ骨とかコルチ器官の構造と機能とか、生理学の教科書に書いてある。高校生物と同じ様な内容なので(もっと細かい事も大学の『生理学』教科書に発書いてあるが)、カネのない貧乏学生の読者は、がんばって高校生物を覚えろ。 {{-}} [[File:Homunculus-ja.png|600px|thumb|]] {{-}} == 流体力学 == 大学の生理学では伝統的に、流体力学の初歩の内容が教えられている。主に、下記のベルヌーイの法則などが教えられている。 応用としては、主に、人間の血管の血圧などの理解や測定などに応用されている。 {{コラム|医学における流体力学を学ぶにあたっての注意| ※ はたして、機械工学科などでよく教えていてるような金属管(またはガラス管)などの硬い剛体管の中での流れ解析の理論を、血管のような弾力的な管に適用していいかのかという厳密性の問題はあるが、しかし伝統的に大学の生理学教育では、剛体管のような管での流体力学が生理学でも教えられている。 上記の注意は、『標準生理学』でも同様の内容が述べられている<ref>『標準生理学』、P533 </ref>。なので、後述するような流体力学は、血管へ適用は、あくまで近似的、概念を理解するための便宜的なものである。 医学部での血管の流体力学では、水や油など、単純な流体を想定すればいい。 なお、機械工学的には、水とは異なり、さらに発展的に粘度が変数になるような流体を扱う「レオロジー」という学問分野もあるが(『標準生理学』にも「レオロジー」という用語が章の冒頭文にある(P.533))、しかし レオロジ-は工学部でもまだ大学院レベルの研究段階であり、まだ医学部などに教えられるような体系的な段階にはなってないので、医学部では当面、レオロジーは学ばなくていい。 普通の水や油では、 粘度は物質に固有な定数としていい。(おそらく理科年表などを見れば書いてあるだろう。もし無くても、機械工学や土木工学などの流体力学の初歩の本を読めん場書いてある。) }} [[File:Venturifixed2.PNG|thumb|ベンチュリ管を流れる液体の流れ]] 流体のエネルギーは以下の式で表される。 :<math> p + \frac{\rho V^2}{2} + \rho gz = constant </math> [Pa] この関係式を'''ベルヌーイの原理'''(Bernoulli's principle)という。なお、ρは密度である。h は基準面からの高さである。 重要なのは、つまり流体のエネルギーでは、圧力エネルギー、運動エネルギー、位置エネルギーを考える必要がある。 もちろん、ベルヌーイ式中の変数pが圧力エネルギーである。 ρghは位置エネルギーである。 なお、上式中のポテンシャルエネルギーは、圧力エネルギ- p と位置エネルギー ρgh の合計二つである。 <math>\frac{\rho V^2}{2}</math> は運動エネルギーである。 そして、ベルヌーイの式の主張する内容はつまり、 流体エネルギー保存則式は、圧力エネルギ-、運動エネルギー、位置エネルギーの合計が(摩擦などの無い限り)一定である事を主張している。 厳密には摩擦などがあるので、摩擦によってエネルギーの散逸(さんいつ)があるので、流れのエネルギーの合計は位置ごとに違っていたりして一定ではない。しかし、摩擦があるのは何も流体力学だけでなく、高校で習う物理I(『物理基礎』)とかの力学だって摩擦を考えた場合はエネルギー保存の式が成り立たないので、そういのと同じことである。 なので、ベルヌーイの式は、流体の法則をよく説明している。 摩擦の無い流体のことを、「理想流体」という。上述のような初等的なベルヌーイの式が扱っている流体も、理想流体である。 流体力学の理論的には、「粘度」(ねんど)と呼ばれる物性値がゼロであれば、「理想流体」と見なせる(というか、書物によっては「理想流体」の定義。たとえば『標準生理学』が粘度がゼロであることを理想流体を定義している<ref>『標準生理学』、P533 </ref>)。 なお、hは基準面からの高さである。 分野によって、同じ法則を「ベルヌーイの法則」と呼んだり、「ベルヌーイの定理」(Bernoulli's theorem)と呼んだり、多少の呼び名のゆれがある。ギャノング生理学が「ベルヌーイの原理」、『標準生理学』は「ベルヌーイの定理」で呼んでいる。 :※ なお、theorem は「セオレム」と読む。 上のベルヌーイ式の変数 p は、『標準生理学』では「側圧」(lateral pressure<ref>『標準生理学 第8版』、P.554</ref>、side pressure<ref>『ギャノング生理学』、P.635</ref>)と呼んでいる<ref>『標準生理学 第8版』、P.554</ref>。 :※ なお一般的な機械工学書では、ベルヌーイ式の p は「静圧」(static presure)と呼んでいる<ref> 中山康喜『改訂版 流体の力学』、養賢堂、2004年3月10日 第7版 発行、P57 </ref><ref>原田幸夫『工業 流体力学』、槇書房、2002年9月20日 6刷 発行、P48 </ref>。 実験的な事実として、右のベンチュリ管の図のように、管路が狭まると、圧力は低くなる。(※ ギャノング生理学にも、ベンチュリ管の図が描いてある。) これは、管路がせばまったので流速が速くなったが、流体の合計エネルギーを一定にするためにそのぶんpの値が小さくなったからである、と解釈される。 ベンチュリ管から縦に突き出ている細長い垂直な管の水面の高さは、静圧(つまり側圧)に比例している<ref> 中山康喜『改訂版 流体の力学』、養賢堂、2004年3月10日 第7版 発行、P57 </ref>。 ベルヌーイ式中の ρgh または係数(ρg)を省いた hは、工学では一般に「位置水頭」とか「位置ヘッド」(potential head)とか言う。 だが医学では、人体の「頭」との区別から、 ρgh または h を「位置水頭」(potential head)と呼ぶのが良いだろう。『標準生理学』でも、「位置水頭」(potential head)と呼んでいる。 工学では、どちらかというと定数を省いた「h」だけを「位置ヘッド」および「位置水頭」と呼ぶ場合が多いが<ref> 中山康喜『改訂版 流体の力学』、養賢堂、2004年3月10日 第7版 発行、P57 </ref><ref>原田幸夫『工業 流体力学』、槇書房、2002年9月20日 6刷 発行、P48 </ref>、あまり本質的ではないので、本wikiでは深入りしない。また『標準生理学』では区別せず、 ρgh を「位置水頭」と呼んでいる<ref>『標準生理学 第8版』、P.554</ref><ref> 中山康喜『改訂版 流体の力学』、養賢堂、2004年3月10日 第7版 発行、P57 </ref>。 :※ 工学の場合、呼び名を覚えさせる問題なんて出ないので。 呼び名が無いと不便なので本wikiでは、ベルヌーイの定理の計算における h または ρgh を「位置水頭」と呼ぶことにしよう。 本wiki中で h または ρgh のどちらを呼んでいるかは、読者が文脈から適宜に判断してもらいたい。 さて、 ベルヌーイの式は、下記のように両辺を ρg で割り算して式変形できる。 :<math> \frac{p}{\rho g} + \frac{V^2}{2g} + z = constant </math> [Pa] こちらの式が「ベルヌーイの原理」または「ベルヌーイの定理」などとして紹介される場合もある。 なお、ベルヌーイの式の3つあるエネルギー項(圧力エネルギ-、運動エネルギ-、位置エネルギー)すべてを足したのを「全圧」(total pressure)という<ref>『標準生理学 第8版』、P.554</ref><ref> 中山康喜『改訂版 流体の力学』、養賢堂、2004年3月10日 第7版 発行、P57 </ref>。。 つまり、 :<math> \frac{p}{\rho g} + \frac{V^2}{2g} + z = e </math> とすれば、e が「全圧」である。 あるいは、 :<math> p + \frac{\rho V^2}{2} + \rho gz = E </math> [Pa] とすれば、Eが「全圧」である。 「全圧」の呼び名は、医学でも工学でも同じく「全圧」と呼ぶので、覚えておこう。 なお、運動エネルギーの項 <math> \frac{\rho V^2}{2} </math> または <math>\frac{V^2}{2g} </math> を「動圧」という。 :※ いろんな用語が出てくるが、特に覚えてもらいたいのは、ベルヌーイの式と、流体のエネルギー保存則では(高校物理の「質点の運動」のエネルギー式とは異なり、流体では)圧力エネルギーも考える必要があるという点だけである。もし「動圧」の名前が思い出せなくても、「運動エネルギー」とでも言っておけば済む。位置水頭も同様で、いざとなったら「位置エネルギー」とでも呼んでおけばいい。 その他、「速度水頭」や「圧水頭」などの用語もあるが、あまり重要では無いので、本wikiでは深入りしない。 流体力学の分野は、ρg の係数をどうするかで式が定数倍変わるので、分野ごとに用語の若干の不統一があり(たとえば工学なのか医学なのか、さらに工学内でも学科が色々あるので不明瞭)、「〇〇水頭」(圧水頭、速度水頭、位置水頭)とか「〇〇圧」(静圧、動圧、)とか言ったときに、 :<math> \frac{p}{\rho g} + \frac{V^2}{2g} + z = e </math> の式の項なのか、それとも :<math> p + \frac{\rho V^2}{2} + \rho gz = E </math> [Pa] の式の項なのか、分野や文献などによって多少の不統一がある。なので、あまり用語の表す項の係数は気にしなくていい。学生に重要なのは、項が表しているのが圧力エネルギーか運動エネルギーか位置エネルギーか、そういった力学的な理解をする事である。 == 胆汁酸 == :※ 『[[薬理学/生理活性物質と消化器作用薬#胆]]』で記述済み。 == 生理学で扱う項目 == === 神経系総論 === * 神経細胞([[w:神経細胞]]) * 膜電位([[w:膜電位]]) ** 静止膜電位([[w:膜電位#静止膜電位]]) ** 活動電位([[w:活動電位]]) * 神経の興奮 * イオンチャネル([[w:イオンチャネル]])    === 筋肉総論 === :[[w:筋肉]]も参照 * 筋細胞 * 骨格筋収縮([[w:骨格筋]]) * 平滑筋([[w:平滑筋]]) * 心筋([[w:心筋]]) === 神経系 === :[[w:神経系]]も参照 * 概説 * 脊髄と脳幹の構造([[w:脊髄]]、[[w:脳幹]]) * 内臓機能の調節 * 内臓反射([[w:自律神経系#自律神経反射]]) * 小脳機能([[w:小脳]]) * 大脳基底核機能([[w:大脳基底核]]) * 脳波([[w:脳波]]) * 睡眠([[w:睡眠]]) * 皮質連合野の機能 * 視床下部と辺縁系([[w:視床下部]]、[[w:大脳辺縁系]]) === 運動機能 === * 運動機能の調節 * 体性反射([[w:自律神経系#自律神経反射]]) * 脳幹による体性反射 === 感覚機能 === :[[w:感覚]]、[[w:知覚]]も参照 * 感覚総論 * 視覚([[w:視覚]]) * 聴覚([[w:聴覚]]) * 平衡感覚([[w:平衡感覚]]) * 嗅覚([[w:嗅覚]]) * 味覚([[w:味覚]]) * 体性感覚([[w:体性感覚]]) * 内臓感覚 ---- === 血液 === :[[w:血液]]も参照 * 血液の役割 * 組成 * 免疫([[w:免疫]]) * 血液型([[w:血液型]]) * 血液凝固([[w:凝固・線溶系]]) === 循環 === :[[w:循環器]]、[[w:循環器系]]も参照 * [[/概論|概論]] * [[/心臓|心臓]] * 血管([[w:血管]]) * 循環の調節 * 局所循環 * リンパ液([[w:リンパ]]) * 脳脊髄液([[w:脳脊髄液]]) === 代謝 === :[[生化学]]、[[w:代謝]]も参照 * 生体の構成成分 * エネルギー代謝 * 中間代謝 === 消化と吸収 === :[[w:消化器]]も参照 * 消化器の役割 * 消化の調節 * 消化液 * 消化・吸収 * 消化管での分泌 * 肝臓・胆嚢([[w:肝臓]]、[[w:胆嚢]]) === 内分泌 === :[[w:内分泌]]、[[w:ホルモン]]も参照 * ホルモン概説 * 視床下部([[w:視床下部]]) * 下垂体([[w:下垂体]]) ** 前・中葉 ** 後葉 * 松果体([[w:松果体]]) * 甲状腺([[w:甲状腺]]) * 上皮小体([[w:副甲状腺]]) * 骨([[w:骨]])    * 副腎([[w:副腎]]) * 膵臓([[w:膵臓]]) * 血糖の調節([[w:血糖値]]、[[w:インスリン]]) * 生殖ホルモン([[w:エストロゲン]]、[[w:プロゲステロン]]、[[w:テストステロン]]) === 呼吸 === :[[w:肺]]も参照 * 呼吸器 * 換気 * ガス交換 * 血中のガス運搬 * 換気の調節 * 呼吸の異常   === 体液 === :[[w:体液]]も参照 * 体液の区分 * 組成 * 恒常性の調節([[w:恒常性]]) === 腎機能と排泄 === :[[w:泌尿器]]も参照 * 腎の構造([[w:腎臓]]) * ろ過と再吸収 * 尿細管での分泌 * 排尿   === 体温調節 === :[[w:体温]]も参照 * 体温の変動 * 体温の調節 * 発熱([[w:発熱]])    == 参考文献 == ;全体の主な参考文献 :本wiki『生理学』において、よく脚注で参考文献になっている文献を以下に列記する。 * 彼末一之・能勢博『やさしい生理学 改訂 第7版』、南江堂、2019年5月20日 第7版 第2刷発行 * 照井直人『はじめの一歩のイラスト生理学』、羊土社、2018年4月10日 第2版 第7刷 発行 * 大地陸男『生理学テキスト』、文光堂、2017年8月9日 第8版 第2刷発行 * 小澤瀞司・福田康一郎 監修『標準生理学』、医学書院、2015年8月1日 第8版 第2刷 * KIM E. BARRETT ほか原著改訂、岡田泰伸 監訳『ギャノング生理学 原著23版 』丸善株式会社、平成23年1月31日 発行 この他、内容の裏づけの確認のために、多くの生理学書を参考にしている。 ;流体力学の詳説 流体の章では、上記の生理学の書籍に加え、下記の工学の流体力学の入門書も参照した。 * 中山康喜『改訂版 流体の力学』、養賢堂、2004年3月10日 第7版 発行 == 脚注 == [[Category:医学|せいりかく]] 5y1wylk5d6vn22iysgre2xvc665ocl6 207319 207318 2022-08-27T07:18:51Z Nermer314 62933 [[Special:Contributions/203.168.71.158|203.168.71.158]] ([[User talk:203.168.71.158|トーク]]) による版 207318 を取り消し wikitext text/x-wiki {{Pathnav|メインページ|医学|frame=1}} {{Wikipedia}} '''生理学 (Physiology)''' とは、人体を構成する各要素(それは組織、器官であったり細胞であったりする)がどのような活動を行っているかを解き明かす学問である。各要素がどのような機能を持つかという基本を抑えたうえで、その機序への理解を深めていく。更に複数要素の関わり合い、ひいては全身の機能を総合的に捉えられるようにする。これには、各要素の分類や形態的特徴([[解剖学]])や代謝反応などに関する[[生化学]]の知識が要求される。 {{medical stub}} == 項目 == === ホメオスタシス === 細胞は、固体状の細胞の中心部分と、液体からなる外側の細胞外液によって成り立っている。19世紀のフランスの生理学者クロード・ベルナール(Claude Bernard)がこの体内の環境のことを「内部環境」 milien unterne (英訳すれば internal environment<ref>『ギャノング生理学』P69</ref>)という用語で表し、内部環境は外界から隔絶された環境であるとした。 なお、体の外の環境を外部環境と呼ぶ。 アメリカの生理学者ウォルター・B・キャノン Walter B. Cannon はさらにベルナールの考えを発展させ、神経と内分泌の多くの実験などをもとに、キャノンは生体内の環境は常に一定になるように生物的に制御されていると主張し「ホメオスタシス」 homeostasis (恒常性) という造語で定義した(1932)。「類似の」 homeo + 「停止状態」stasis という意味の造語である<ref>『標準生理学』</ref>。 :なお、ホメオスタシスという用語を作ったのはCannon であるが、しかしその概念に先に到達したのはクロード・ベルナールであり、ベルナールは「内部環境の恒常性」という言い回しで表現した<ref>『ギャノング生理学』P69</ref>。 ともかく、たとえば、血液の水素イオン濃度は、現代では約pH7.4前後に維持される事が知られている<ref>『標準生理学』</ref>。 さて「恒常」といっても、けっして全くの不変ではなく、基準から僅かばかりに変動しているが、すぐに元に戻るように調整されている。工学的な用語で表すなら、制御工学で言う「ネガティブ・フィードバック」である<ref>『生理学テキスト』 </ref><ref>『標準生理学』</ref>。 :なお、日本だけでなく欧米でも国際的に、「ホメオスタシス」の概念を説明する際に工学用語のフィードバックを用いても伝わり、たとえば『ギャノング生理学』でもホメオスタシスの説明としてフィードバックという用語が使われている<ref>『ギャノング生理学』P69</ref>。 ともかく、ホメオスタシスという現象のあることはつまり、体内に基準となるべき正常な状態があり、その基準状態からのズレを補正して元の基準に戻そうとするような仕組みが存在している事である。 なお、「フィードバック」とは制御工学の用語である。フィードバックには、基準からのズレを拡大していくポジティブ・フォードバック(正のフィードバック)と、基準に戻そうとするネガティブ・フィードバック(負のフィードバック)とがある。「ネガティブ」には、負(ふ)という意味がある。数学の正負の負も、英語で negative ネガティブ という。 === ※ ゴルジ体とかリボソームとか === :※ 高校の参考書の細かいのとだいたい同じなので、調査を後回し。 === 能動輸送 === ナトリウムポンプのほかに、カルシウムポンプやプロトン(H)ポンプがある。 :※ 『標準生理学』と『生理学テキスト』で説明がバラバラ。だいぶ、説明内容が違う。 === 膜電位の用語説明など === [[File:膜電位の用語説明.svg|thumb|500px|]] 生理学でいう「オーバーシュート」overshoot<ref>『ギャノング生理学 原書23版』、P99</ref> という用語は、この図のように、一時的に電位などの波形が目標値よりも高くなる事である。「オーバーシュート」がこういう意味なのは日本だけでなく世界的に同様であり、『ギャノング生理学』でも似たような意味で「オーバーシュート」という用語が使われている<ref>『ギャノング生理学 原書23版』、P99</ref>。 :※ 電子工学などの「オーバーシュート」もほぼ同様の意味であり、制御して調節すべき波形などが、制御目標よりも高くなり過ぎためにアップ直後に下降して戻ることで形状がスパイク的な波形になることをオーバーシュートという。なお、対義語の「ダウンシュート」は、目標値よりも低くなりすぎたので、V字カーブ的にダウン直後にやや上昇することで谷間の波形が出来ること。 :※ 2020年、感染症などの急拡大を「オーバーシュート」という用例があったが、生理学的には誤用である。そもそも感染症の急拡大には既に「パンデミック」という用語がある。 なお、上記の説明で「スパイク」という用語を、先端(右図では波形の頂上の部分)のとんがってない波形に使ったが、ギャノング生理学でも同様の用語の使い方である<ref>『ギャノング生理学 原書23版』、P105の表4-1「哺乳類の神経における神経線維のタイプ」</ref>。ギャノング生理学に、「スパイクの持続時間」なる語句があり、ある神経のある刺激の電位の「スパイク」はたとえば 0.5ミリ秒 ほど持続する場合もあるとしている。(※ 数値は一例なので、暗記しなくていい。) このような活動電位の波形を図示する場合、数ミリ秒の短時間で電位の興奮が終わるので場合によっては1本の縦線で図示される場合があるが(たとえば『ギャノング生理学 原書23版』、P178の図)、しかし現実の波形は右図のように、なだらかな曲線である(たとえば『ギャノング生理学 原書23版』、P179の図)。 {{-}} === 電気伝導度 === 神経の電位の理論計算の際、抵抗値の単位オーム Ω だけではなく、電気伝導度 という単位を使う場合がある。 電気伝導度とは、単に抵抗値の逆数であり、単位はシーメンスであり、シーメンスの記号はSで表す。 たとえば、2Ωの抵抗値は、その抵抗の電気伝導度は 0.5 S である。(0.5×2 = 1なので) (「0.5 シーメンス」と読む。) もし抵抗をRとし、電流をIとし、電気伝導度をgとした際、 オームの法則により、電流・抵抗・電圧の関係は RI=E であるので、移項すると I = E (1/R) = gE となり、見かけ上、電圧と電流の関係が I = gE というふうに1行で書けるので、電気伝導度による記述が用いられる場合がある。 抵抗および抵抗値のことを英語でリアクタンスという。リアクタンスの単位はオーム Ω である。 電気伝導値のことを英語でコンダクタンス conductance という。つまり、コンダクタンスの単位はシーメンス S である。 === リガンドとアゴニスト === 一般に、受容体に結合する物質のことを'''リガンド''' ligand という。(※ 生理学テキストに記述あり。) なお、類語で「アゴニスト」 agonist とは、薬品などで、受容体に結合して、作用をもたらす物質分子のことである。薬品が受容体と結合した際に作用を増強したり発現したりする場合をアゴニストという。一方、薬品が受容体と結合したさいに抑制的に働いたり他のアゴニストの結合を妨げるものの場合はアンタゴニスト antagonist という。薬物の場合、アンタゴニストのことを「拮抗薬」(きっこうやく)ともいう<ref>『はじめの一歩の薬理学』、第2版、20ページ</ref>。 ※ 「薬物」と言っても、麻薬のような違法的な意味は無い。慣習的に薬理学では、薬の事を一般に「薬物」という。 伝統的な、大学レベルの薬理学の教育では、アゴニストとアンタゴニストという語句が、これらの概念を説明するのに、よく使われる。 よく、リガンドと受容体の関係は、カギとカギ穴の関係に喩えられる。 アンタゴニストが存在するという事はつまり、 :分子は受容体に結合するだけでは、作用を及ぼさない. という事である。分子が受容体に結合し、さらになんらかの変化をその受容体に起こすことにより、初めて作用が起きるのである<ref>『はじめの一歩の薬理学』、第2版、20ページ</ref>。 では、作用を起こすための変化とは何か? 一般的には、受容体の立体構造の変化である、とされている。 アンタゴニストは、結合穴に結合するだけで終わってしまい、立体構造を変化させないので、作用を起こさない、という解釈がある。 ※ 本wiki独自の喩えだが、アンタゴニストをカギに喩えるなら、カギ穴に入ることはできるが、カギの凹凸が不一致で、カギを回せない、とでもいえようか・・・ :※ これらの話題の薬理学での詳細については、『[[薬理学/アゴニストとアンタゴニスト]]』を参照せよ。 == イオンチャネルなど == :※ 文献ごとに重点的に説明する箇所が違っており、あまり説明が統一されてない。 たとえば読者は、神経伝達物質としてアセチルコリンを高校生物で読者は習ったと思う。 これも、上記の「リガンド」という用語を使うなら、 神経細胞にはアセチルコリン受容体があるので、その結果として、神経細胞のイオンチャネルのリガンドとして、アセチルコリンが作用するからである。(※ なお高校の東京書籍の検定教科書にも、似たような説明がある。別ページだが「リガンド」の用語も、東京書籍の教科書にある。) ※ ともかく読者は、こういった専門用語の言葉遣いになれてほしい。 イオンチャネルやイオンポンプは、必ずしも神経細胞だけに限定はしないが、しかし医学的には神経細胞のイオンチャネルやイオンポンプに作用する物質は危険物や毒物などになりやすいので重要である。 フグ毒のテトロドトキシンもNa<sup>+</sup>チャネルを阻害するため、神経細胞のNa<sup>+</sup>チャネルも阻害するので、重篤な症状をもたらす。(※ シンプル生理学に説明あり。『標準生理学 第8版』P72に記載あり。) :※ 生理学の専門書でも、割と冒頭のほうで、神経細胞のイオンチャネルを説明している。 ;パッチクランプ法 ※ 『標準生理学』と『生理学テキスト』P.25で、若干に説明が食い違いあり。『ギャノング生理学』の内容が比較的に標準生理学に近いので、本wikiではギャノングにあわせる。 とても細い 1本の「毛細管」というかピペット<ref>岡田泰伸 ほか訳『ギャノング生理学 原書23版』、P53</ref>のようなものを使い、電気的な手法で、細胞膜チャネルなどの細胞表面の器官を1個だけひきつけつ方法がある、とされており、その方法がパッチクランプ法である。 断面図で描かれると、2本の棒かのように誤解されるが、そうではない。 パッチクラノンプ法を使えば細胞が無傷のままひきつけることが出来る、とされている。 なお、細胞膜をやぶっても細胞膜チャネルを観測できる<ref>岡田泰伸 ほか訳『ギャノング生理学 原書23版』、P53</ref>。 :※ 『生理学テキスト』P.25を読むと、なんか細胞膜を破っているっぽく記述されているのは、おそらくこちらの方式を紹介しているのだろう。 つまり、細胞膜を破らずに観測する方式と、別の方式として、細胞膜を破って観測する方式がある。 どのような方式でも、電極が(たとえば毛細管の中心軸あたりに)付属している。 そして、とにかく実験結果がどうなるかというと、膜電位の電圧が、オンまたはオフのいずれかという、2値のいずれかの状態だけを取ることが観測結果である。 正確に言うと、ms(ミリセカンド)のオーダーで、電圧の高低が切り替わる。つまり、1つのチャネルの開閉について、ミリセカンドのオーダーで開閉が切り替わっている<ref>『標準生理学』、P73</ref>、と医学では考えられている。 グラフ的にどう見えるかを言えば、オシロスコープなどの表示するグラフは、(表示倍率や設定にも寄るが、適正な表示倍率なら)けっして傾斜40度みたいなナナメの傾斜の曲線にはならず、オン状態はほぼ90度で立ち上がる。(厳密には85~89度くらいの斜めかもしれないが、そういう事を言い出すとキリがないので、ほぼ90度だと説明することにする。) :※ なので、医学書にある観測電圧の波形グラフでも、ほぼ90度で立ち上がっている。 この事から、1つのチャネルの開閉の状態の切り替えは、瞬時に開または閉に切り変わる事が分かる、・・・と医学会では考えられており、医学書ではパッチクランプ法でそう証明されたと断言されている。 :※ チャネルの開閉の理論について、根拠となる実験結果がほぼこのパッチクランプ法の1つしかない。よって本wikiでは、念のため、慎重的に「考えられている」と言い回しをする事になる。なお、パッチクランプ法によって始めて、チャネルの開閉の電圧が観測できるようになった。『標準生理学』P.73を読むと、他にも方法があると書かれているが、しかし具体的にどんな方法があるのか何も具体的には紹介されていないので、本wikiでは当面はそれを信用しない。 ;観測技術 イオンチャネルが、なぜ構造が筒状で穴が空いているのか分かったかというと(※ なんと『標準生理学』でしか紹介されてない。『ギャノング生理学』と『生理学テキスト』には説明が無し)、主に「電子線」による実験の観測だとされる。 :※ 『標準生理学』P.74では「電子線」と書いてある。たぶん電子顕微鏡による観測のことか?  その他、X線による解析も行われている。 それらの電子線の観測写真などにより、実際に円形の何かが観測される。いかにも穴っぽい何かが観測できる。(と、『標準生理学』に、その観測写真(「ニコチン性アセチルコリン受容体」)がある。しかし倍率とかがその図に書かれておらず、いまいち不便。なお、ニコチンアセチルコリンにはチャネルポア(つまり貫通穴)がある。) なお余談だが、チャネルの生物実験的な性質については、現代ではチャネルの遺伝子が特定されているのでクローニング技術的に大量生産できるので、「cDNAクローニング」による生物学的性質の確認が取られている。(と『標準生理学』P.74が言っている。) 要するに、主に :パッチクランプ法、 :電子線またはX線などによる構造解析、 :cDNAクローニング法、 の3つが、イオンチャネルや類似の生体分子を調べるための典型的な手法である。(と、『標準生理学』P.75がこの3つの手法を特別に紹介している。) ;Na,K 以外のイオンチャネル 読者はナトリウムチャネル(Na<sup>+</sup>チャネル)、カリウムチャネル(K<sup>+</sup>チャネル)を高校で習ったと思う。 実はカルシウムチャネルも存在する。一般的に「Ca<sup>2+</sup>チャネル」と表記される。 カルシウムと聞くと、ついつい骨細胞だけのものかと誤解しがちであるが、一般の細胞にも濃度は低いものの、カルシウムイオンが存在している。 高等学校の生物でも、いちおう神経伝達にカルシウムが関わっている事は習う。『[[高等学校生物/生物I/環境と動物の反応#シナプスでの伝達]]』 高校では習ってないかもしれないが、神経のほかにも筋細胞でも、筋収縮を伝えるのにカルシウムが関わっている。これについては筋肉細胞に、トロポニンというCaとの結合をするタンパク質が存在する事が明らかになっている。 なお、神経細胞も筋肉細胞もともに、興奮性の細胞であることに着目しよう。 このようにカルシウムは、何かの情報伝達的な物質としての側面もあることに注目しよう。もっとも生理学の大学教科書では、そこまで大げさに分類するまでもなく、生理活性物質などとしてカルシウムは分類されている。 また、筋肉や神経細胞など興奮性細胞に限らず、一般の多くの細胞にも、カルモジュリンという、Caと結合する蛋白質がある事が分かっている。(『生理学テキスト』、『標準生理学 第8版』P89、など) ;余談 なお、イオンの価数をいちいち「2」とか書くのが面倒な場合などは「Caチャネル」と略記する場合もよくある。(『生理学テキスト』にもある表記)ナトリウムチャネルなども同様、「Naチャネル」のようにイオンの価数を略記することもある。 == 筋肉 == === 赤筋と白筋 === 骨格筋の赤みはおおむね、ミオグロビンによるものである。 ミオグロビンの多い筋肉をその色から「赤筋」という。 一方、ミオグロビンの多い筋肉を、赤みが比較的にうすい事から「白筋」という。 === フィラメントの種類 === 筋肉には、フォラメントが2種類あり、「太いフィラメント」(アクチンフィラメント)と「細いフィラメント」(ミオシンフィラメント)がある。 はその名の通り、太いフィラメントのほうが太い。また、太いフィラメントの構成物質は主にアクチンである。 細いフィラメントの抗生物質は主にミオシンである。さらに「細いフィラメント」にだけ、トロポニンとトロポミオシンというタンパク質がある。トロポニンは、カルシウムと結合する性質をもっている。 トロポニンとトロポミオシンによって、筋肉の収縮が調節されている。 筋小胞体という膜状の組織が、筋原線維のけっこうな割合の表面を取り囲んでいる。筋小胞体にはカルシウムが蓄えられており、必要に応じてカルシウムが筋小胞体から放出され、また必要に応じてカルシウムが筋小胞体に回収され、筋肉の収縮・弛緩を制御している。 === 収縮の種類 === ;拘縮 筋線維への薬物投与など、人為的な手法によって筋収縮を起こさせることを、生理的な収縮とは区別して「拘縮」 contracture といい、次のような例が知られている。 ::K拘縮、 カリウムによる膜電位の持続的な脱分極による。 ::カフェイン拘縮、 カフェイン投与による、筋小胞体からのカルシウム放出による。 薬理学のほうで、麻酔薬を使ったときに、患者によっては全身が高熱になって致死的な「悪性高熱症」という現象があるのだが、これは筋小胞体のCa<sup>2+</sup>放出機構の異常が原因だとされており<ref>『ギャノング生理学』</ref><ref>『標準生理学』</ref>(※ 『生理学テキスト』では触れられてない)、主に筋小胞体のリアノジン受容体の異常だろう<ref>『標準薬理学』、P243 (※ 「生理学」ではなく「薬理学」のほう)</ref><ref>『ギャノング生理学』</ref>、と考えられている。 :※ 『標準生理学』にもリアノジン受容体のことは書いてあるのだが、説明が細かすぎて他の用語も多すぎて、どれが入門的な知識か初学者には分かりづらいので、上記の文章の参考文献からは除外した。 なお、リアノジンという植物アルカロイドがある<ref>『生理学テキスト』、P54</ref><ref>『標準生理学』、P112の節「(2)Ca<sup>2+</sup>放出チャネル(リアノジン受容体)」</ref>。そのリアノジンが、この受容体(リアノジン受容体)と強固に結合するので、「リアノジン受容体」(Rynanodin receptor : RyR)という名前がついている<ref>今井正・宮本英七 監修『標準薬理学 第7版』、医学書院、2015年3月25日 第7版 第1刷、P144</ref>。 また、カフェイン拘縮と似たような機構なのだろう、と思われている<ref>小澤瀞司・福田康一郎 監修『標準生理学 第8版』、医学書院、2015年8月1日 第8版 第2刷 発行、P.112</ref>。 カフェイン-ハロタン筋収縮テストという実験で、悪性高熱症の発症のしやすさを評価できるとされている<ref>柳沢輝行 ほか監訳『カッツング薬理学 原書 第10版』、丸善書店株式会社、平成25年3月25日 発行、P439、</ref>。 ;硬直 ATP濃度が低下して1μmol/L以下になると、アクチンとミオシンが結合した状態になり、筋肉は硬くなり、これを硬直 rigor と言う。 死体などで見られる死後硬直(「死硬直」とも) rigor mortis も、これである。 == アセチルコリン受容体 == 神経伝達の物質のひとつに、高校でも習うようにアセチルコリンがある。 高校では、神経同士の伝達におけるアセチルコリンの役割を習った。 神経から骨格筋における伝達も、アセチルコリンによる。 運動神経は、筋肉の「終板」と言われる部位に(間隙はあるが)接合している。 運動神経の終末にも、シナプス小胞があり、そのシナプス小胞からアセチルコリンを放出する。 そして、筋肉側に、アセチルコリンの受容体(アセチルコリン受容体)が存在しているので、こうして伝達が神経から筋肉に伝わる。 筋肉側の「終板」のあたりに、アセチルコリン受容体およびアセチルコリンエステラーゼが密集して存在している。 アセチルコリン受容体には、ニコチン受容体と、ムスカリン受容体がある。 「ニコチン受容体」とは、その名のとおり、薬物の受容体に反応して開口するので、「ニコチン受容体」の名をつけられている。 そして、筋肉の「終板」には、アセチルコリンのニコチン受容体がある。(※ 生理学テキスト、シンプル生理学など) なお、アセチルコリンを略称で「ACh」と書く。AだけでなくCも大文字である。アセチルコリン受容体なら、略称は「ACh受容体」と書く。 筋肉の「終板」にも存在しているアセチルコリンエステラーゼ(略称: AChE)は、アセチルコリンを分解する酵素である。 筋肉にかぎらず、アセチルコリンはシナプス間隙などに放出されても、このアセチルコリンエステラーゼにより、すぐに分解されてしまう。 むかしの南アメリカ原住民(いわゆるインディアン)の矢に塗って使っていた毒(矢毒)のクラーレおよび、その主成分がツボクラリンは、終板のアセチルコリン受容体に接合することで、アセチルコリンの働きを競合的に妨げる作用により、筋肉が麻痺するので、毒として作用している事が分かっている。(※ シンプル生理学、生理学テキスト) クラーレにより、筋肉の麻痺を起こせば、標的の呼吸筋などの重要な筋肉も麻痺するので、標的を死に至らしめるという毒である。 == シナプス伝達 == :※ この節では、筋肉に限らず、脳なども含めた、神経細胞のシナプス伝達を扱う。 アセチルコリン受容体には、'''ニコチン性受容体'''(略称: nAChR)と、'''ムスカリン性受容体'''(略称: mAChR)がある。 「ニコチン受容体」とは、その名のとおり、薬物の受容体に反応して開口するので、「ニコチン受容体」の名をつけられている。 筋肉の「終板」には、アセチルコリンのニコチン受容体がある。(※ 生理学テキスト、シンプル生理学など) 一方、平滑筋や心筋や脳には、ムスカリン性受容体がある。薬物のムスカリンに反応するので、ムスカリン性受容体という名が付けられている。(『生理学テキスト』、2017年8月9日 第8版 第2刷、73ページ) 心筋や脳のほか、副交感神経によるホルモン分泌などにも、ムスカリン性受容体が関わっている。 ムスカリン性受容体にはm1からm5までの5種類のサブタイプがある事が知られている。(大文字で「M1」~「M5」と書く場合もあり(『生理学テキスト』では大文字。『標準生理学』では小文字)、どちらでもいい。) :このうち、m1,m3,m5 は ・・・ ※ 調査中 :※ 編集者へ: Gタンパク質との関係を調査してください m2とm4は、・・・ ※ 調査中 ;GABAやグリシンなど 神経に関する抑制性伝達物質は主に、GABAという物質と、グリシンという物質の、2つである。 * GABA 20世紀なかごろのアメリカで、乳幼児に てんかんが多く発生する事件が起きた。原因は、粉ミルクの変性により、ビタミンB6が変性したことだとされる<ref>『標準生理学』、P147</ref>。 さて、「てんかん」とは、脳細胞の異常な興奮である。 この様な事実から、つまり、なんらかの栄養素の栄養不足によって、神経が異常に興奮するという現象が起きると考えられる。 これをもっと突き詰めて考えれば、つまり、栄養素から合成される何か(おそらく何らかの物質)の不足によって、神経が異常に興奮するという事であろう。 さらに突き詰めれば、つまり、神経伝達物質には、神経を興奮させる物質のほかに、神経を抑制させる物質もある、という事が想像される。 さて、天下り的に結論を言うと、GABA(γ-アミノ酪酸<ref>『生理学テキスト』、P77</ref>)という物質が、神経抑制の物質である。上述のアメリカの粉ミルクの事件も、乳幼児の深刻なGABA不足が原因だと医学的には考えられている<ref>『標準生理学』、P147</ref>。 なお、GABAは生体内では、グルタミン酸をグルタミン酸脱炭酸酵素(GAD)で脱炭酸することによって直接<ref>『標準生理学』、P147</ref>合成されている<ref>『生理学テキスト』、P77</ref><ref>『標準生理学』、P147</ref>。 :※ なお、グルタミン酸そのものは神経の興奮伝達性物質である。 GABAの受容体には、少なくともGABA<sub>A</sub>受容体とGABA<sub>B</sub>受容体の2種類がある。なお GABA<sub>C</sub>受容体とは、GABA<sub>A</sub>受容体のうちの特殊なものをそう呼んでいる。 抗不安薬として用いられているベンゾジアゼピンという薬物が、GABA<sub>A</sub>受容体を活性化する。GABA<sub>A</sub>受容体が活性化すると、Cl<sup>-</sup>イオンの透過性が高まる<ref>『ギャノング生理学』、P168 </ref>。 よって、ベンゾジアゼピンにより、Cl<sup>-</sup> イオンの透過性が高まる<ref>『生理学テキスト』、P77 </ref>。 GABA<sub>A</sub>受容体は5つのサブユニットから構成される五量体構造である<ref>『カッツング薬理学』、P372</ref><ref>『ギャノング生理学』、P168 </ref>。 一方、GABA<sub>B</sub>受容体は GABA<sub>B</sub>R1<ref>『標準生理学』、P148</ref> と GABA<sub>B</sub>R2<ref>『標準生理学』、P148</ref> からなるヘテロ二量体構造であり<ref>『標準生理学』、P148</ref><ref>『カッツング薬理学』、P372</ref><ref>『ギャノング生理学』、P168 </ref>、またGタンパク質と共役している<ref>『標準生理学』、P148</ref><ref>『カッツング薬理学』、P372</ref>。 * グリシン GABAのほか、グリシンという物質も、神経の抑制伝達物質として働く。グリシンの受容体も、活性化のさいに、Cl<sup>-</sup>イオンの透過性が高まっている<ref>『ギャノング生理学』、P169 </ref>。 なお、グリシンの阻害薬はストリキニンである<ref>『生理学テキスト』、P77 </ref><ref>『ギャノング生理学』、P169 </ref>。ストリキニンによって、痙攣などが起きる<ref>『ギャノング生理学』、P169 </ref>。 なお、その語源となったストリキニ-ネは東インドの原住民が用いていた矢毒である<ref>『標準生理学』、P148</ref>。 グリシンはグルタミン酸と同様に多くの細胞に存在している<ref>『標準生理学』、P147</ref>。 GABAやグリシンは、抑制性シナプスにも関わっている、と一般に考えられている<ref>『標準生理学』、P135</ref><ref>『やさしい生理学 改訂第7版』、南江堂、P212</ref>。 :※ 一般的な解釈では、GABAは脳で抑制性の伝達物質としてはたらっており、一方、グリシンは脊髄での抑制性シナプスの物質として機能している、と考えられているような傾向がある。(たとえば『生理学テキスト』や『標準薬理学』や『カッツング薬理学 原書10版』和訳本 P.372 が、だいたい、そんな感じ) なお、脊髄においては抑制性シナプス後電位(IPSP)の50%はグリシン由来である。 == カテコールアミン == ドーパミンおよびアドレナリンおよびノルアドレナリンのことを、カテコールアミンという。 ;ドーパミン ドーパミンは、脳の情動に関係が深い。 そのため、統合失調症などの関連薬にも、ドーパミンを制御する薬品がある。 パーキンソン病にも、ドーパミンは関係している。 ドーパミン受容体は、D1,D2,D3,・・・などと何種類かに分けられるが、いずれもGPCRである。(※ 『標準生理学』および『生理学テキスト』) GPCRとは、「Gタンパク質共役受容体」のこと。7回膜貫通タンパク質とも言われる。(※ 分子生物学の教科書によく書いてあるアレの一種。) :※ 文献によって、D5とD7の違いがある。 分泌されたドーパミンは、ドーパミン輸送体(DAT)によって神経終末に取り込まれ、再利用される。(標準生理学、P149。生理学テキスト、P78。) 麻薬のコカインや、覚せい剤のアンフェタミンは、ドーパミン輸送体(DAT)を妨害する作用があることで、ドーパミンによるニューロン活性化を延長させている。 ;アドレナリンとノルアドレナリン アドレナリンとノルアドレナリンは、程度の差はあるが共通の受容体に作用するので、受容体は「アドレナリン受容体」と一括して呼ばれる。(標準生理学、P150。生理学テキスト、P77。) アドレナリン受容体は7回膜貫通タンパク質(GPCR)である。(※ 『標準生理学』および『生理学テキスト』) GPCRとは、「Gタンパク質共役受容体」のこと。7回膜貫通タンパク質とも言われる。(※ 分子生物学の教科書によく書いてあるアレの一種。) アドレナリン受容体には、α1,α2,β1,β2,β3 が存在するが、いずれもGPCRである。(標準生理学がP150で「β3」を紹介。生理学テキストのP77では「β3」が無い。 == その他の色々な伝達物質 == ;セロトニン セロトニン(5-hydroxytryptamine、略称: 5-HT) は、アミノ酸のトリプトファンから合成される。 5-HTの多くはGPCRである。 3型である 5-HT<sub>3</sub> のみ、イオンチャネル型であり、リガンドによって開閉する。 ;プリン ※ 未記述. ;アデノシン アデノシン受容体には、A1, A2A, A2B, A3 の4種類が知られている。いずれも、一般的に中枢神経に対しては抑制的に作用する。(※ 生理学テキスト) コーヒーや茶などに含まれるカフェインやテオフェリンは(なお、両物質ともキサンチン誘導体である)、アデノシン受容体を阻害する。 :※ キサンチン誘導体の件は、標準生理学に記述あり。 ;一酸化窒素 一酸化窒素は気体である。生体内での伝達物質としての一酸化窒素(NO)は、一酸化窒素合成酵素の働きにより、アルギニンから合成される。 :※ 標準生理学で、一酸化窒素が血管の弛緩の物質のように書いててあるが、これはどういう事かというと、1998年ノーベル賞の研究が、生体内の血管はアセチルコリンを注射すると弛緩するのに、生体外に摘出した血管にアセチルコリンを作用させても弛緩しないという不思議の解明であり、その答えとなる物質が一酸化窒素である事を米国の Ignarro 博士など米国の3人の学者が解き明かしたことが背景にある。 :狭心症の治療に使われるニトログリセリンによる血管拡張の作用は古くから知られていたが、しかしその仕組みがノーベル賞の研究まで長らく解明されていなかった。 :ニトログリセリンなどについては詳しくは薬理学で習うだろうから、この単元では省略。 現代では、一酸化窒素がグアニル酸シクラーゼを活性化して、サイクリックGMP(cGMP)が合成される事が解明されている。 ;内因性オピオイドおよび内因性カンナビナイド :オピオイド モルヒネは植物のケシから合成でき、麻薬の阿片(アヘン)もモルヒネの派生であり、モルヒネ洋物質をオピエートというのだが、動物の体内物質としてモルヒネに似たような構造の物質が見つけられており、その体内のモルヒネ様物質のことをオピオイドという。 特に動物体内で産生される物質である事を強調するとき、「内因性」と冒頭につけて「内因性オピオイド」などと言う。 エンドルフィンなどが、内因性オピオイドという。なお、オピオイドの構造はペプチドである。 :カンナビノイド ※ 未記述 == 血液 == ; 大学生用の血液凝固の図 [[File:Coagulation diagram japanese.svg|thumb|500px| 血液凝固因子は慣習的にローマ数字で書かれる。<br> 番号は、発見順につけられているので、作用の順番とは関係ない。<br> 6番目(VI)の凝固因子は、存在が認められておらず、現在は欠番である。]] Ca以外の凝固因子はタンパク質である(『標準生理学』)。 血液凝固における、凝固していく過程は図のように、「内因性」と「外因性」という2種類に分かれる。 内因性も外因性も、共通して、血液中の第X因子がカルシウムの存在のもとに活性化された結果としてXa因子となる。そして、そのXa因子によって、プロトロンビンがトリンビンに変化する。 :※ 作図の都合で、X→Xa を内因性と外因性の2箇所に分けて重複して記述しているが、教科書によっては1箇所でまとめているものもある(『標準生理学』や『生理学テキスト』など)。 一方、『シンプル生理学』や『はじめの一歩のイラスト生理学』(羊土社)などは2箇所にX→Xaを分けて書いているので、本wikiのように2箇所に分けてX→Xaを書いても、間違いではない。 古典的には、モラビッツの凝固機序というモデルが知られているが(『生理学テキスト』で紹介されている。『標準生理学』では紹介せず)、現代ではより正確なモデルに置き換わっているので、モラビッツに関しては名前を紹介するのにとどめる。 図中の「V」(プロトロンビンの左上にあるヤツ)は、ブイじゃなくて「5」番目の意味。 :(※ 市販の教科書の状況 :) キニノゲンとかカリクレインは、『生理学テキスト』には書いてあるけど、『標準生理学』には書いてないです。 :線溶系は、『標準生理学』には凝固系の図とまとめて(図『血液凝固と線溶』)書いてあるけど、『生理学テキスト』では図無しです。 ;ビタミンKと肝臓 :※ 『標準生理学』でも『生理学テキスト』でも、ともに紹介される重要事項です。 また、血液の止血の凝固には'''ビタミンK'''が必要である。 凝固因子のうち、II(2),VII(7),IX(9),X(10) がビタミンKを凝固に必要とする。 また、ほとんどの血液凝固因子は肝臓で合成される。 ビタミンKが酵素的に振舞うなどの働きにより、グルタミン酸残基がγ-カルボキシグルタミン酸に変換される。 したがって、ビタミンK欠乏や肝障害があると、出血傾向を見る。 抗凝固薬として使われる'''ワルファリン'''という薬剤は、ビタミンKの代謝を阻害する。 (備考: ) なお、納豆にビタミンKは多く含まれるという(『シンプル薬理学』)。 語呂合わせだが、ビタミンK要求性の凝固因子の7番と10番で「ナットウ」と覚える語呂合わせもある(『標準生理学』で2番,9番、7番、10番がビタミンK要求性なので『肉納豆』と覚える語呂合わせが紹介されている。)。 詳しくは薬理学の教科書で解説されると思うので、ワルファリンや納豆については、この単元では、あまり深入りしないとする。 ;血友病 血友病患者は、第VIII因子(8番目)または第IX因子(9番目)が欠損している。 第8因子の欠損するタイプが血友病Aである。 第9因子の欠損するタイプが血友病Bである。 血友病Aも血友病Bも、ともに劣性遺伝である。 {{-}} == 体温 == [[File:Environment and Body temperature japanese 1.svg|thumb|500px|環境温と体温]] === 実験的な事実 === 右図にもあるように、健康なヒトの体温は、外気温に関わらず、脳と心臓といった核心部の体温はつねに一定であり、 ほぼ37℃に保たれている。 また、ヒトの体温は、同じ瞬間であっても、部位によって温度が異なる。 普通、心臓や脳などの核心部ほど温度が高く、表皮(表皮の近くを「外殻部」という)や手足の先端などといった周辺部に向かうにつれ、温度が下がっていく。 外殻部の温度は、外気温の影響を受けて変動する。 脳や心臓や腹部臓器の温度のことを「核心温」(core temperature)または「核心温度」という。 :※ 「核心温」でも「核心温度」でも、どちらでもいい。『標準生理学』でも、単元によって「核心温」か「核心温度」か表記が異なっており、統一されていない。英語はどちらとも core temperature である。なお、核心温のことを深部体温 deep body temperature という場合もある<ref>『標準生理学』、P871</ref>。 ただし、風邪などによって核心部の体温が上がることがある。 これは防衛反応によるものであるが、プロスタグランジンE<sub>2</sub>が最終的な発熱物質である<ref>大地陸男『生理学テキスト』、2017年8月9日 第8版 第2刷発行、P509</ref>。 よって、プロスタグランジンE<sub>2</sub>(PGE<sub>2</sub>)の生成を阻害することにより、体温の上昇を防ぐことができ、実際に熱さましの薬などにプロスタグランジン阻害剤が応用されており、具体的には解熱薬のアスピリンやインドメタシンがCOX回路を阻害することでPGE<sub>2</sub>阻害をしている薬である<ref>大地陸男『生理学テキスト』、2017年8月9日 第8版 第2刷発行、P509</ref>。 === 解釈など === 核心部の体温を一定に調節する機構が、明らかに体内に存在している。 まず、それらの概念を工学的な用語を使って整理してみよう。 ==== フィードバック ==== まず、 :体温におけるフィードバック的な機構により、少なくとも核心部の体温は体内で計測・測定などのモニタリングい<ref>照井直人『はじめの一歩のイラスト生理学』、羊土社、2018年4月10日 第2版 第7刷 発行、165ページ、 </ref>(工学では「センシング」ともいう)をされており、そして体温がもし変動しそうな要因が感知されれば、核心部の体温を一定に近づけるように'''ネガティブ・フィードバック'''い<ref>照井直人『はじめの一歩のイラスト生理学』、羊土社、2018年4月10日 第2版 第7刷 発行、165ページ、 </ref>による調整が働く、 という事が言える。 ではそのフィードバック機構の正体は何か?となると、また別の議論だが、少なくとも現象論を工学的に記述するなら、おおむね上記のような説明文になる。 ==== セットポイント ==== さて、風邪によってワキのしたの温度が高くなるように、風邪によって核心部の温度がやや上昇すると考えるのが妥当であろう。 :(※ 厳密には、ワキの下は表皮だが、しかしワキ下は肉が薄いので、擬似的にワキ下の温度は核心温に近いだろう、と考えられている。) 臨床においても、舌下温または腋窩温<ref>照井直人『はじめの一歩のイラスト生理学 改訂 第2版』、羊土社、2018年4月10日 第2版 第7刷発行、P165、</ref>(えきかおん)が体温の測定の際でよく用いられる。 腋窩(えきか)とは、ワキの下のこと。 この事から、核心部の温度は、永久不変ではなく、体調などによて変わると考えるべきである。 '''セットポイント'''という温度概念が定義されており、「その時点での、核心部のあるべき温度」の事がセットポイントである。 風邪の場合、人体は防衛反応のためにセットポイントを上昇させる。 人体において、セットポイントと核心部の実際の温度を比較して、そしてフィードバック調節によって書く深部の体温をセットポイントに近づけようとする機構がヒトなどホニュウ動物に備わっている、と見なすのが妥当である。 このように、核心部の温度は、外気温では変わらないが、しかし体調などによって(核心部の温度が)変わる。 プロスタグランジン阻害剤などの熱さましの薬は、セットポイントを変更し、風邪でない状態の平熱のときのセットポイントに戻す薬という事になる。 === 温度の測定部位 === なお、医学実験的において核心温として測定される部位は、舌下温<ref>照井直人『はじめの一歩のイラスト生理学 改訂 第2版』、羊土社、2018年4月10日 第2版 第7刷発行、P165、</ref>、食道温、直腸温、鼓膜温、である<ref>彼末一之・能勢博『やさしい生理学 改訂 第7版』、南江堂、2019年5月20日 第7版 第2刷発行、P137、</ref>。 哺乳類の場合、脳の温度を非侵襲的に測定するのは不可能である<ref>彼末一之・能勢博『やさしい生理学 改訂 第7版』、南江堂、2019年5月20日 第7版 第2刷発行、P137、</ref><ref>照井直人『はじめの一歩のイラスト生理学 改訂 第2版』、羊土社、2018年4月10日 第2版 第7刷発行、P165、</ref>。この文脈でいう「非侵襲的」とは、「外科手術などを伴わないで」というような意味。 そこで、赤外線サーモグラフィーで頭部の赤外線を測定することで、代わりに生体・活動中のヒトの脳の温度を推定することが、よく行われている<ref>彼末一之・能勢博『やさしい生理学 改訂 第7版』、南江堂、2019年5月20日 第7版 第2刷発行、P137、</ref>。 ただし、汗が多い場合、脳からの赤外線ではなく汗の赤外線を測定しまっている可能性がある<ref>彼末一之・能勢博『やさしい生理学 改訂 第7版』、南江堂、2019年5月20日 第7版 第2刷発行、P137、</ref>。 一方、臨床的には、腋窩温(えきかおん)または舌下温(または口腔温)が核心温として測定されることが多い。 直腸温、鼓膜温、食道温、舌下温(口腔温)、腋窩温 が、この順番で、直腸音がもっとも温度が高く、そして腋窩温が最も温度が低い。 なお、「腋窩温」<ref>『生理学テキスト』、P504 </ref>(えきかおん)は「腋下温」<ref>『標準生理学』、P872 </ref>(えきかおん)とも書く。 === 概実リズム との関係 === 健康なヒトの体温は、一日のあいだでも変動があり、早朝の寝起きの直前直後に低く、午後に高い。 なお、ヒトではなくラットのように夜間に行動する生物では、夜間のほうが体温が高い<ref>照井直人『はじめの一歩のイラスト生理学』、羊土社、2018年4月10日 第2版 第7刷 発行、165ページ、 </ref>。 === 月経との関係 === 女性の場合、月経周期と連動して、体温が変わる。 つまり、女性の体温については、月経周期に連動して、女性の体温にも周期がある。 このように、女性の体温には「性周期」がある。 女性の体温は、排卵日に低下して最低になる。 {{-}} == 感覚の理論 == === 数式 === ==== Weber-Fechner の法則 ==== 感覚の強さは、刺激の強さの対数に比例すると古典的には言われており、これを'''ウェーバー-フェヒナーの法則'''(Weber-Fechner の法則)という。 この法則によると、たとえば、30gが31gに増えたときの感覚は、90gが93gに増えたときの感覚と同じだという主張になる<ref>『標準生理学』、P214</ref>。 Weber-Fechner の法則は数学的には、感覚の強さをEとして、刺激の強さをSとしたとき、差分方程式で :ΔE = k(ΔS/S) である。 これを微分方程式に置き換えて積分すれば、 :E = k logS + C が導かれる。(Cは積分定数) ==== ベキ関数の法則 ==== だが近年、対数よりもベキ関数のほうがよく比例するといわれており<ref>『ギャノング生理学』、P180</ref>、Weber-Fechner の法則に対しての異論も出されている。 このベキ関数の法則の式は、 :E = K・S<sup>n</sup> である。 (K および n は定数) なお、このベキ関数の法則の式は微分方程式(差分方程式)で表すと、 :(ΔE/E) = n(ΔS/S) となり、左辺と右辺の両方とも、それぞれの基準値からの差分の比率になっている。 === 痛覚 === 痒み(かゆみ)は便宜的に痛覚として分類される。だが、一般の外傷などの痛みを伝える神経線維が明らかになっている一方で、痒みを伝える神経線維は不明である<ref>『標準生理学』、P231</ref>。 実験的な事実により、外部からヒスタミンを皮下注射すると、痒みが起きる<ref>『標準生理学』、P231</ref><ref>『ギャノング生理学』、P199 </ref>。 『標準生理学』では、下記のことから、痒みは痛みとは異なる線維によって運ばれていると考えている。 :* 経験的な事実として、痒みは掻くことによって(一時的に)消失する。 :* 鎮痛作用をもつモルヒネが痒みをもたらす事がある。 === 聴覚 === まず、音を物理測定する場合、その単位は圧力である。 つまり、Pa(パスカル)単位である<ref>『標準生理学』、P232 </ref>。 「音圧」という用語があるように、音は圧力である。 「デシベル」や「ベル」という単位があるが、これは基準音からの倍率を常用対数で表したものである。 ベルは Bel と記号で表し、 :Bel = log<sub>10</sub>(被検査音の強さ / 基準音の強さ) である。 『標準生理学』P.232 では、音の強さは圧力の2乗に比例するとして、。 :Bel = log<sub>10</sub>(被検査音の圧力 / 基準音の圧力) としている。 その大元の基準となる、基準音の単位が、パスカル単位である。 なお、0デシベルというのは、音が無いという意味ではなく、基準音と同じ強さという意味である<ref>『ギャノング生理学』、P246 </ref>。 また、音は空気の縦波でもある。 つまり、空気の縦波の強さを測定する際の単位は、圧力である事になる。 :※ その他、耳の中のアブミ骨とかコルチ器官の構造と機能とか、生理学の教科書に書いてある。高校生物と同じ様な内容なので(もっと細かい事も大学の『生理学』教科書に発書いてあるが)、カネのない貧乏学生の読者は、がんばって高校生物を覚えろ。 {{-}} [[File:Homunculus-ja.png|600px|thumb|]] {{-}} == 流体力学 == 大学の生理学では伝統的に、流体力学の初歩の内容が教えられている。主に、下記のベルヌーイの法則などが教えられている。 応用としては、主に、人間の血管の血圧などの理解や測定などに応用されている。 {{コラム|医学における流体力学を学ぶにあたっての注意| ※ はたして、機械工学科などでよく教えていてるような金属管(またはガラス管)などの硬い剛体管の中での流れ解析の理論を、血管のような弾力的な管に適用していいかのかという厳密性の問題はあるが、しかし伝統的に大学の生理学教育では、剛体管のような管での流体力学が生理学でも教えられている。 上記の注意は、『標準生理学』でも同様の内容が述べられている<ref>『標準生理学』、P533 </ref>。なので、後述するような流体力学は、血管へ適用は、あくまで近似的、概念を理解するための便宜的なものである。 医学部での血管の流体力学では、水や油など、単純な流体を想定すればいい。 なお、機械工学的には、水とは異なり、さらに発展的に粘度が変数になるような流体を扱う「レオロジー」という学問分野もあるが(『標準生理学』にも「レオロジー」という用語が章の冒頭文にある(P.533))、しかし レオロジ-は工学部でもまだ大学院レベルの研究段階であり、まだ医学部などに教えられるような体系的な段階にはなってないので、医学部では当面、レオロジーは学ばなくていい。 普通の水や油では、 粘度は物質に固有な定数としていい。(おそらく理科年表などを見れば書いてあるだろう。もし無くても、機械工学や土木工学などの流体力学の初歩の本を読めん場書いてある。) }} [[File:Venturifixed2.PNG|thumb|ベンチュリ管を流れる液体の流れ]] 流体のエネルギーは以下の式で表される。 :<math> p + \frac{\rho V^2}{2} + \rho gz = constant </math> [Pa] この関係式を'''ベルヌーイの原理'''(Bernoulli's principle)という。なお、ρは密度である。h は基準面からの高さである。 重要なのは、つまり流体のエネルギーでは、圧力エネルギー、運動エネルギー、位置エネルギーを考える必要がある。 もちろん、ベルヌーイ式中の変数pが圧力エネルギーである。 ρghは位置エネルギーである。 なお、上式中のポテンシャルエネルギーは、圧力エネルギ- p と位置エネルギー ρgh の合計二つである。 <math>\frac{\rho V^2}{2}</math> は運動エネルギーである。 そして、ベルヌーイの式の主張する内容はつまり、 流体エネルギー保存則式は、圧力エネルギ-、運動エネルギー、位置エネルギーの合計が(摩擦などの無い限り)一定である事を主張している。 厳密には摩擦などがあるので、摩擦によってエネルギーの散逸(さんいつ)があるので、流れのエネルギーの合計は位置ごとに違っていたりして一定ではない。しかし、摩擦があるのは何も流体力学だけでなく、高校で習う物理I(『物理基礎』)とかの力学だって摩擦を考えた場合はエネルギー保存の式が成り立たないので、そういのと同じことである。 なので、ベルヌーイの式は、流体の法則をよく説明している。 摩擦の無い流体のことを、「理想流体」という。上述のような初等的なベルヌーイの式が扱っている流体も、理想流体である。 流体力学の理論的には、「粘度」(ねんど)と呼ばれる物性値がゼロであれば、「理想流体」と見なせる(というか、書物によっては「理想流体」の定義。たとえば『標準生理学』が粘度がゼロであることを理想流体を定義している<ref>『標準生理学』、P533 </ref>)。 なお、hは基準面からの高さである。 分野によって、同じ法則を「ベルヌーイの法則」と呼んだり、「ベルヌーイの定理」(Bernoulli's theorem)と呼んだり、多少の呼び名のゆれがある。ギャノング生理学が「ベルヌーイの原理」、『標準生理学』は「ベルヌーイの定理」で呼んでいる。 :※ なお、theorem は「セオレム」と読む。 上のベルヌーイ式の変数 p は、『標準生理学』では「側圧」(lateral pressure<ref>『標準生理学 第8版』、P.554</ref>、side pressure<ref>『ギャノング生理学』、P.635</ref>)と呼んでいる<ref>『標準生理学 第8版』、P.554</ref>。 :※ なお一般的な機械工学書では、ベルヌーイ式の p は「静圧」(static presure)と呼んでいる<ref> 中山康喜『改訂版 流体の力学』、養賢堂、2004年3月10日 第7版 発行、P57 </ref><ref>原田幸夫『工業 流体力学』、槇書房、2002年9月20日 6刷 発行、P48 </ref>。 実験的な事実として、右のベンチュリ管の図のように、管路が狭まると、圧力は低くなる。(※ ギャノング生理学にも、ベンチュリ管の図が描いてある。) これは、管路がせばまったので流速が速くなったが、流体の合計エネルギーを一定にするためにそのぶんpの値が小さくなったからである、と解釈される。 ベンチュリ管から縦に突き出ている細長い垂直な管の水面の高さは、静圧(つまり側圧)に比例している<ref> 中山康喜『改訂版 流体の力学』、養賢堂、2004年3月10日 第7版 発行、P57 </ref>。 ベルヌーイ式中の ρgh または係数(ρg)を省いた hは、工学では一般に「位置水頭」とか「位置ヘッド」(potential head)とか言う。 だが医学では、人体の「頭」との区別から、 ρgh または h を「位置水頭」(potential head)と呼ぶのが良いだろう。『標準生理学』でも、「位置水頭」(potential head)と呼んでいる。 工学では、どちらかというと定数を省いた「h」だけを「位置ヘッド」および「位置水頭」と呼ぶ場合が多いが<ref> 中山康喜『改訂版 流体の力学』、養賢堂、2004年3月10日 第7版 発行、P57 </ref><ref>原田幸夫『工業 流体力学』、槇書房、2002年9月20日 6刷 発行、P48 </ref>、あまり本質的ではないので、本wikiでは深入りしない。また『標準生理学』では区別せず、 ρgh を「位置水頭」と呼んでいる<ref>『標準生理学 第8版』、P.554</ref><ref> 中山康喜『改訂版 流体の力学』、養賢堂、2004年3月10日 第7版 発行、P57 </ref>。 :※ 工学の場合、呼び名を覚えさせる問題なんて出ないので。 呼び名が無いと不便なので本wikiでは、ベルヌーイの定理の計算における h または ρgh を「位置水頭」と呼ぶことにしよう。 本wiki中で h または ρgh のどちらを呼んでいるかは、読者が文脈から適宜に判断してもらいたい。 さて、 ベルヌーイの式は、下記のように両辺を ρg で割り算して式変形できる。 :<math> \frac{p}{\rho g} + \frac{V^2}{2g} + z = constant </math> [Pa] こちらの式が「ベルヌーイの原理」または「ベルヌーイの定理」などとして紹介される場合もある。 なお、ベルヌーイの式の3つあるエネルギー項(圧力エネルギ-、運動エネルギ-、位置エネルギー)すべてを足したのを「全圧」(total pressure)という<ref>『標準生理学 第8版』、P.554</ref><ref> 中山康喜『改訂版 流体の力学』、養賢堂、2004年3月10日 第7版 発行、P57 </ref>。。 つまり、 :<math> \frac{p}{\rho g} + \frac{V^2}{2g} + z = e </math> とすれば、e が「全圧」である。 あるいは、 :<math> p + \frac{\rho V^2}{2} + \rho gz = E </math> [Pa] とすれば、Eが「全圧」である。 「全圧」の呼び名は、医学でも工学でも同じく「全圧」と呼ぶので、覚えておこう。 なお、運動エネルギーの項 <math> \frac{\rho V^2}{2} </math> または <math>\frac{V^2}{2g} </math> を「動圧」という。 :※ いろんな用語が出てくるが、特に覚えてもらいたいのは、ベルヌーイの式と、流体のエネルギー保存則では(高校物理の「質点の運動」のエネルギー式とは異なり、流体では)圧力エネルギーも考える必要があるという点だけである。もし「動圧」の名前が思い出せなくても、「運動エネルギー」とでも言っておけば済む。位置水頭も同様で、いざとなったら「位置エネルギー」とでも呼んでおけばいい。 その他、「速度水頭」や「圧水頭」などの用語もあるが、あまり重要では無いので、本wikiでは深入りしない。 流体力学の分野は、ρg の係数をどうするかで式が定数倍変わるので、分野ごとに用語の若干の不統一があり(たとえば工学なのか医学なのか、さらに工学内でも学科が色々あるので不明瞭)、「〇〇水頭」(圧水頭、速度水頭、位置水頭)とか「〇〇圧」(静圧、動圧、)とか言ったときに、 :<math> \frac{p}{\rho g} + \frac{V^2}{2g} + z = e </math> の式の項なのか、それとも :<math> p + \frac{\rho V^2}{2} + \rho gz = E </math> [Pa] の式の項なのか、分野や文献などによって多少の不統一がある。なので、あまり用語の表す項の係数は気にしなくていい。学生に重要なのは、項が表しているのが圧力エネルギーか運動エネルギーか位置エネルギーか、そういった力学的な理解をする事である。 == 胆汁酸 == :※ 『[[薬理学/生理活性物質と消化器作用薬#胆]]』で記述済み。 == 生理学で扱う項目 == === 神経系総論 === * 神経細胞([[w:神経細胞]]) * 膜電位([[w:膜電位]]) ** 静止膜電位([[w:膜電位#静止膜電位]]) ** 活動電位([[w:活動電位]]) * 神経の興奮 * イオンチャネル([[w:イオンチャネル]])    === 筋肉総論 === :[[w:筋肉]]も参照 * 筋細胞 * 骨格筋収縮([[w:骨格筋]]) * 平滑筋([[w:平滑筋]]) * 心筋([[w:心筋]]) === 神経系 === :[[w:神経系]]も参照 * 概説 * 脊髄と脳幹の構造([[w:脊髄]]、[[w:脳幹]]) * 内臓機能の調節 * 内臓反射([[w:自律神経系#自律神経反射]]) * 小脳機能([[w:小脳]]) * 大脳基底核機能([[w:大脳基底核]]) * 脳波([[w:脳波]]) * 睡眠([[w:睡眠]]) * 皮質連合野の機能 * 視床下部と辺縁系([[w:視床下部]]、[[w:大脳辺縁系]]) === 運動機能 === * 運動機能の調節 * 体性反射([[w:自律神経系#自律神経反射]]) * 脳幹による体性反射 === 感覚機能 === :[[w:感覚]]、[[w:知覚]]も参照 * 感覚総論 * 視覚([[w:視覚]]) * 聴覚([[w:聴覚]]) * 平衡感覚([[w:平衡感覚]]) * 嗅覚([[w:嗅覚]]) * 味覚([[w:味覚]]) * 体性感覚([[w:体性感覚]]) * 内臓感覚 ---- === 血液 === :[[w:血液]]も参照 * 血液の役割 * 組成 * 免疫([[w:免疫]]) * 血液型([[w:血液型]]) * 血液凝固([[w:凝固・線溶系]]) === 循環 === :[[w:循環器]]、[[w:循環器系]]も参照 * [[/概論|概論]] * [[/心臓|心臓]] * 血管([[w:血管]]) * 循環の調節 * 局所循環 * リンパ液([[w:リンパ]]) * 脳脊髄液([[w:脳脊髄液]]) === 代謝 === :[[生化学]]、[[w:代謝]]も参照 * 生体の構成成分 * エネルギー代謝 * 中間代謝 === 消化と吸収 === :[[w:消化器]]も参照 * 消化器の役割 * 消化の調節 * 消化液 * 消化・吸収 * 消化管での分泌 * 肝臓・胆嚢([[w:肝臓]]、[[w:胆嚢]]) === 内分泌 === :[[w:内分泌]]、[[w:ホルモン]]も参照 * ホルモン概説 * 視床下部([[w:視床下部]]) * 下垂体([[w:下垂体]]) ** 前・中葉 ** 後葉 * 松果体([[w:松果体]]) * 甲状腺([[w:甲状腺]]) * 上皮小体([[w:副甲状腺]]) * 骨([[w:骨]])    * 副腎([[w:副腎]]) * 膵臓([[w:膵臓]]) * 血糖の調節([[w:血糖値]]、[[w:インスリン]]) * 生殖ホルモン([[w:エストロゲン]]、[[w:プロゲステロン]]、[[w:テストステロン]]) === 呼吸 === :[[w:肺]]も参照 * 呼吸器 * 換気 * ガス交換 * 血中のガス運搬 * 換気の調節 * 呼吸の異常   === 体液 === :[[w:体液]]も参照 * 体液の区分 * 組成 * 恒常性の調節([[w:恒常性]]) === 腎機能と排泄 === :[[w:泌尿器]]も参照 * 腎の構造([[w:腎臓]]) * ろ過と再吸収 * 尿細管での分泌 * 排尿   === 体温調節 === :[[w:体温]]も参照 * 体温の変動 * 体温の調節 * 発熱([[w:発熱]])    == 参考文献 == ;全体の主な参考文献 :本wiki『生理学』において、よく脚注で参考文献になっている文献を以下に列記する。 * 彼末一之・能勢博『やさしい生理学 改訂 第7版』、南江堂、2019年5月20日 第7版 第2刷発行 * 照井直人『はじめの一歩のイラスト生理学』、羊土社、2018年4月10日 第2版 第7刷 発行 * 大地陸男『生理学テキスト』、文光堂、2017年8月9日 第8版 第2刷発行 * 小澤瀞司・福田康一郎 監修『標準生理学』、医学書院、2015年8月1日 第8版 第2刷 * KIM E. BARRETT ほか原著改訂、岡田泰伸 監訳『ギャノング生理学 原著23版 』丸善株式会社、平成23年1月31日 発行 この他、内容の裏づけの確認のために、多くの生理学書を参考にしている。 ;流体力学の詳説 流体の章では、上記の生理学の書籍に加え、下記の工学の流体力学の入門書も参照した。 * 中山康喜『改訂版 流体の力学』、養賢堂、2004年3月10日 第7版 発行 == 脚注 == [[Category:医学|せいりかく]] qtmarc8cydkv45i8oospzlmj648qeyz 民法第701条 0 5090 207302 171557 2022-08-27T02:14:30Z Rhkmk 66092 /* 参照条文 */ wikitext text/x-wiki [[法学]]>[[民事法]]>[[コンメンタール民法]]>[[第3編 債権 (コンメンタール民法)]] ==条文== ([[w:委任|委任]]の規定の準用) ;第701条 : [[民法第645条|第645条]]から[[民法第647条|第647条]]までの規定は、[[w:事務管理|事務管理]]について準用する。 ==解説== 事務管理の管理者は契約関係にないとはいえ、本人のために事務を遂行するという点で[[w:委任]]関係における受任者と似ている。そこで、事務管理の管理者について、委任の規定をいくつか準用している。 一方で、委任の規定でも準用されていない規定もある。例えば委任契約の場合における受任者は委任事務遂行中に受任者の過失なくして損害を被った場合、その損害賠償の支払いを本人に請求できるとする規定([[民法第650条]])があるが、事務管理には第650条は準用されていないため、事務管理者が事務遂行中に際して過失なく損害を被った場合であっても本人にその賠償の支払いを請求することはできない。 ==参照条文== *[[民法第645条]](受任者による報告) *[[民法第646条]](受任者による受取物の引渡し等) *[[民法第647条]](受任者の金銭の消費についての責任) ---- {{前後 |[[コンメンタール民法|民法]] |[[第3編 債権 (コンメンタール民法)|第3編 債権]]<br> [[第3編 債権 (コンメンタール民法)#3|第3章 事務管理]]<br> |[[民法第700条]]<br>(管理者による事務管理の継続) |[[民法第702条]]<br>(管理者による費用の償還請求等) }} {{stub}} [[category:民法|701]] 0fwvg1aroevs4bq5ev9lshintmmzob5 民法第702条 0 5549 207303 194957 2022-08-27T02:15:38Z Rhkmk 66092 wikitext text/x-wiki [[法学]]>[[民事法]]>[[民法]]>[[コンメンタール民法]]>[[第3編 債権 (コンメンタール民法)]] ==条文== (管理者による費用の償還請求等) ;第702条 # '''管理者'''は、本人のために有益な費用を支出したときは、本人に対し、その償還を請求することができる。 # [[民法第650条|第650条第2項]]の規定は、管理者が本人のために有益な債務を負担した場合について準用する。 # 管理者が本人の意思に反して[[w:事務管理|事務管理]]をしたときは、本人が現に利益を受けている限度においてのみ、前二項の規定を適用する。 ==解説== [[w:事務管理|事務管理]]が成立する場合、管理のために生じた費用や負担した債務につき、管理者と本人との関係について定めた規定である。<br> 「管理者」の定義については、[[民法第697条]]に規定がある。<br> 委任と事務管理とは、後者は義務なくしてはじめられる行為であるとはいえ、関係者の利益状況は類似した状況にあるため、第2項のような準用規定(代弁済請求権の規定の準用)が設けられているが、本人の意思に反している場合には、本人の利益を考慮する必要が大きいため、第3項による制限が設けられている。<br> なお、当初から本人の意思に反していることが明らかであれば、事務管理は成立しないため([[民法第700条|第700条]]ただし書参照)、3項は、当初の段階では、本人の意思が明らかでない場合を想定して規定されたものと解される。<br> *民法650条(受任者による費用等の償還請求等)<br> 有益な費用の判断時期は、請求時では無く、管理の当時を基準として客観的に判断すべきと解されている。<br> また、本人の意思に反する事務管理の場合は、償還請求の時を基準として、現存利益の判断をすべきと解されている。<br> ==参照条文== ==判例== *[http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=53758&hanreiKbn=02 所有権移転登記手続請求](最高裁判決 昭和36年11月30日)[[民法第697条]] ---- {{前後 |[[コンメンタール民法|民法]] |[[第3編 債権 (コンメンタール民法)|第3編 債権]]<br> [[第3編 債権 (コンメンタール民法)#3|第3章 事務管理]]<br> |[[民法第701条]]<br>(委任の規定の準用) |[[民法第703条]]<br>(不当利得の返還義務) }} {{stub}} [[category:民法|702]] qtx7ig23nq6078tsz80660qmtxt9ub5 小学校社会/6学年/歴史編 0 6725 207305 206407 2022-08-27T02:22:23Z Mtodo 450 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|小学校社会/6学年|frame=1}} このページでは、日本の歴史について学びましょう。「政治と私たちの暮らし」(この項目|は[[小学校社会/6学年/政治・国際編#政治と私たちの暮らし|こちら]]です)→「日本の歴史」(このページ)→「世界の中の日本」(この項目は[[小学校社会/6学年/政治・国際編#世界の中の日本|こちら]]です)の順に学びましょう。 # [[/はじめに|はじめに]] - 歴史の勉強方法 # [[/歴史の流れをつかもう|歴史の流れをつかもう]] - 日本の歴史の全体をながめてみましょう。 # [[/歴史の始まり|歴史の始まり]]<!--先史時代(縄文時代、弥生時代)から古墳時代、大和政権成立期にかけて--> - 「むら」から「くに」への変化。 #:(注目ポイント)狩猟・採集や農耕の生活、古墳、大和朝廷(大和政権)による統一の様子 # [[/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代|天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代]]<!--飛鳥時代(聖徳太子の政策、遣隋使)から奈良時代にかけて--> - 天皇を中心とした政治の確立。 #:(注目ポイント)大陸文化の摂取、大化の改新、大仏造営 # [[/貴族の文化-平安時代|貴族の文化-平安時代]]<!--平安京遷都から概ね平安時代--> - 日本風の文化の誕生 #:(注目ポイント) 貴族の生活や文化 # [[/武家社会の始まり-鎌倉時代|武家社会の始まり-鎌倉時代]]<!--保元平治の乱あたりから元寇まで、鎌倉時代--> - 武士社会による政治の始まり #:(注目ポイント) 源平の戦い、鎌倉幕府の始まり、元との戦い # [[/室町文化の誕生-室町時代|室町文化の誕生-室町時代]]<!--室町時代−主題は文化史--> - 今日の生活文化につながる室町文化の誕生 #:(注目ポイント) 室町時代の代表的な建造物や絵画 # [[/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代|戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代]]<!--戦国時代末期から織豊時代--> - 戦国の世の統一 #:(注目ポイント) キリスト教の伝来、織田・豊臣の天下統一 # [[/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ|江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ]]<!--徳川幕府の成立、江戸時代初期(概ね島原の乱あたりまで)--> - 武士による政治の安定 #:(注目ポイント) 江戸幕府の始まり、参勤交代や鎖国などの幕府の政策、身分制 # [[/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ|江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ]]<!--江戸時代中期−主題は文化史(元禄文化、化政文化など)--> - 町人文化の繁栄と新しい学問の興隆 #:(注目ポイント) 歌舞伎や浮世絵、国学や蘭学 # [[/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代|明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代]]<!--黒船来航から倒幕、明治政府成立までー幕末から明治時代初期--> - 明治維新を機に欧米の文化を取り入れつつ近代化を進めた #:(注目ポイント) 黒船の来航、廃藩置県や四民平等などの改革、文明開化 # [[/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代|国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代]]<!--1889年前後から「国際的地位が向上」(1920年国際連盟成立 常任理事国入り)まで--> - 日本の国力充実と国際的地位の向上 #:(注目ポイント) 大日本帝国憲法の発布、日清・日露の戦争、条約改正、科学の発展 # [[/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで|戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで]] - 戦後、民主的な国家として出発し、国民生活が向上し、国際社会の中で重要な役割を果たす #:(注目ポイント) 日中戦争、第二次世界大戦、日本国憲法の制定、オリンピック・パラリンピックの開催 #付録 #*[[/年表|年表]] - 「できごと」を年代ごとにならべています。 #*[[/人物事典|人物事典]] - 歴史学習に出てくる人物についてくわしく学びましょう。 == 旧版 == * [[/上巻|{{Ruby|上巻|じょうかん}}]] - {{Ruby|安土桃山|あづちももやま}}時代までについて学びましょう。 * [[/下巻|{{Ruby|下巻|げかん}}]] - {{Ruby|江戸|えど}}時代{{Ruby|以降|いこう}}を学びましょう。 [[Category:社会|しようかつこうしやかい6]] [[Category:小学校社会|6ねん]] e6ndocc4wppvmmvze6xezs9cl0fwe2z 簿記/総論/総説 0 16595 207320 147185 2022-08-27T07:19:31Z Kengregg 70112 /* 複式簿記の意義 */誤字修正(機会→機械) wikitext text/x-wiki [[ファイル:Bookkeeping-Back of Check Stubs.png|thumb|単式簿記]] == 複式簿記の意義 == さて、会計の分野では、たとえば、3億円の資金をもっている中小工場の会社がたとえば1億円の生産機械を購入すると、その企業の保有資金から普通は1億円が減ります。(話を単純化するため、分割払いを考えず、一括払いしたとする。) さて、1億円が差し引かれたからといって、けっしてその企業の価値が1億円へったわけではなく、単に1億円が生産機械に形を変えただけです。 その機械で生産して商売をすれば、もしかしたら将来的に1億円以上の大きな売り上げ(たとえば10億円や100億円の売上)を出せるかもしれません。 なので、企業の価値を見る場合は、単にお金だけでなく、設備などの資産額の合計も見る必要があります。 このような見方のできる方式の簿記が、複式簿記(ふくしき ぼき)です。 先進国の大企業で採用されている簿記の手法は通常、複式簿記です。 いっぽう、単に資金の金額だけに注目する方式の簿記が、単式簿記です。日本政府などが政府の財政などとして発表する帳簿は、単式簿記です。 === 簿記の意義 === 簿記とは、事業の所有する財産や資本に生じた変動を、漏れなく記録計算整理して、その結果を明らかにする方法である。 およそ事業を経営するには、若干の資本が必要である。しかし、この資本はただそのままでは決して成果を生み出すものではなくて、これを種々運用しなければならない。資本の運用とは、資本のとる形態を色々変えることであって、それは結局次のことを意味する。即ち、企業に投下せられた資本の最も原始的な形態は貨幣であるが、この貨幣は企業の目的とする経済性昂揚のために、例えば商品の買入に充てられる。買入れられた商品は更に転売されて、また元の貨幣となる。このように貨幣から始まって貨幣に帰ることを資本の運動という。それゆえ、運動の結果は種々の形態を経て、結局は再び貨幣なる元の姿に復帰する。ところで、この現象は第一運動が終わらないうちに、第二の運動が始まり、さらに第三第四の運動が連続して繰り返されるのであって、企業の成果は実にこの運動中に生ずる。かかる運動は一般に資本の循環と称せられ、次のような簡単な式で表される。 G-W-G<sub>1</sub>-W<sub>1</sub>-G<sub>2</sub>-W<sub>2</sub>-G<sub>3</sub>……G<sub>n</sub> 簿記は、如何にせば、かかる資本の循環を計算的に正しく把握し、その成果を明らかにすることができるかを研究するものである。けだし複雑化した今日の事業経営に対しては、一定の法則と形式とを備える把握方法によらなければ、その会計を完全に整理することができないのであって、簿記は即ちこの記帳法則とその適用とを研究するものである。 <gallery> Euromoenterogsedler.jpg|貨幣 WomanFactory1940s.jpg|労働力 2011 Nissan Leaf WAS 2011 1040.JPG|商品 Euromoenterogsedler.jpg|貨幣 </gallery> === 簿記の目的 === [[ファイル:CashRegister.svg|thumb|簿記の主目的は、財産及び資本の変動を秩序正しく記録計算すること。もって経営活動の成果と財政の現状を正しく知ることができる。]] 簿記の目的は、これを大別して2つとすることができる。 ; (1) 主目的 : 簿記は各期間の正しい業績を確かめ、かつ一定時点における事業の財政状態を明らかにするため、財産及び資本の変動を秩序正しく記録計算することを主なる目的とする。経営活動の結果いかなる成果を収め得たか、また財政の現状はいかがなったかを正しく知ることが、経営者にとり必要なことは言をまたぬところであって、彼はこれをもって過去の経過を回顧する手段となすと同時に、将来採るべき方針を定める基礎とすることができるのである。いかに小規模単純なる事業でも、全然見聞や記憶だけによって経営を進めることは困難である。いわんや現今のように高度に発達した経済社会においては、経営活動は複雑を極め、これを見聞ないし記憶のごとき推算を基礎として管理するごときはほとんど不可能で、経営者は簿記の助を藉って(借りて)始めて経営活動を認識し、その成果を知り、もって合理的な経営生活を営み得るのである。従来事業経営に従事する者の簿記知識の欠乏が、事業失敗の原因となったことは決して少なくない。 ; (2) 副目的 : 簿記の副目的には種々ある。第一に、簿記は企業の他の計算制度に対して重要なる資料を提供する。即ち原価計算のためには原価要素の収集分類をなし、統計のためにはその数字材料を提供する。第二に、企業の債権者または将来債権者たらんとする者に対して、信用程度を判断する材料を供し、投資者には彼の投資の安否判断の手段を与える。一般にかかる企業の利害関係者は、企業の経営記録ないしその結果に接し得て、始めて合理的な判断をなし得ること、経営者におけると変わりがない。第三に、簿記は保険事故の発生した時その当事者に対して賠償額または賠償請求額の算定基礎を提供し、訴訟事件の場合にはその正当なることを証明する手段として役立つ。第四、国家その他公共団体に対して簿記は課税の基礎を提供し、各種統制のための手がかりを供する。経済統制の強化に伴い、この目的は次第にその重要性を増大する。 === 簿記の種類 === 簿記は記録計算法の目的と方法との相違から、単式簿記と複式簿記とに分かたれる。 ; (1) 単式簿記 : 単式簿記 Single Entry Book-keeping, einfache Buchhaltungは、財産の変動のみを記録するもので、特別の記帳原理を有せず、もっぱら常識的に記録計算を行う簿記法である。それゆえ、これが習得は容易であるという長所を有つも、一方資本に関する記録計算を欠くゆえ、一期間の純損益は確かめ得るも、その由来を知り得ない。しかもその財産計算といえども不完全であって、多くは財産の一部即ち他人との貸借および金銭の収支等を記録するにとどまる。かくて単式簿記は財産や資本の正確な記録計算をなすよりは、むしろ記帳技術の簡易を望む小規模単純な企業の会計整理に用いられる簿記である。 ; (2) 複式簿記 : これに反して複式簿記 Double Entry Book-keeping, doppelte Buchhaltung は、財産および資本の双方の変動を明らかにする目的で、一定の法則によって記録計算する簿記法である。その財産計算は、単式簿記のように、もっぱら貸借関係のみにとどまらず、財産および資本のすべての構成部分に関する計算を網羅し、その結果たる営業成果についての記録計算をも併せ行うから、営業成果のよって来るところを明らかにすることができる。ゆえに企業の会計は、複式簿記の適用によって始めて完全に整理せられる。これ今日各種事業に広く適用せられ、単に簿記というときは複式簿記が意味せられる所以である。ただその記帳原則を会得するには、幾分困難を伴うかもしれないが、しかし一旦これを理解するときは極めて明瞭である。かくて簿記の研究は、複式簿記を目標に進まなければならぬ。 次に簿記は応用せられる事業の種類によって、商業簿記・工業簿記・農業簿記・銀行簿記・保険簿記・運送簿記・倉庫簿記など種々に分かたれる。これらはすべて単式または複式どれかの方法によって記帳せられるのであるが、業種の性質上その方法には幾分の相違を有する。しかしその根本原理に至っては、毫も異なるものではないから、これら諸簿記中の一種を会得すれば、他はその事業に特有な記帳形式を特別に研究することによって、容易に理解し得られる。しかして上記諸簿記の中で、商業簿記は単式および複式の記帳法を会得し、他の簿記を研究する基礎として最も適当しており、この意味でそれは一般簿記とも称すべきものである。けだし商業はその取引が単純でかつ最も典型的であり、しかも他の事業も大抵商業的活動の一面を有するからである。 === 簿記学 === 簿記学は、事業経営上生起する諸種の事象を、計数的に記録計算整理する方法を研究する学問である。簿記が学問であるかまたは技術であるかは縷々論ぜられるところであるが、簿記はそのいずれをも有し得る。換言すれば、簿記は二つの方面を有し、簿記理論は簿記学を形成し、簿記法は簿記技術を構成する。学問としての簿記は業績の確定を目的として、財産や資本の変動を計算整理する方法の理論的研究であり、簿記技術は抽象的な簿記理論の研究ではなくて、実際的立場から簿記遂行に関する諸知識を与えるものである。もちろんこれら両者は、相依り相たすけて相互の完全を期し得るのであって、前者は後者の助を藉って(借りて)完全な研究をなし得べく、また後者は前者の研究成果を得て始めてその完璧を期することができる。本書はかかる見地から、簿記理論を簡明に説き、主として簿記技術を説明することを目的とする。 簿記学というとき、それと会計学 Accounting とは同一学問に対する別の呼称にほかならない。簿記学も会計学もともに経営経済事象の計算的研究で、その目的もともに業績の確定にある。それゆえ学問として両者間には区別がない。これを沿革に徴するも、両者を区別すべきなんらの根拠をも見出し得ない。次に経営学も経営経済事象の研究を目的とするものであるが、これは現象そのものの研究であって、それは簿記のように必ずしも計算によって捕捉するを要せないし、また一定の形式に依拠する要もない。両者の関係は例えば、俳優と撮影技師のごときで、俳優は独自の立場から演出についての研究を行うべく、撮影技師もまたそれをいかにせば正しく撮影し得るかを研究し得るはずである。経営学は経営現象そのものの研究であり、簿記学は経営現象表示方法の研究である。 <noinclude>{{利用者:Akaniji/Template:前後|../../|../基礎概念|../../}}</noinclude> {{DEFAULTSORT:ほき}} [[category:会計学]] [[category:簿記論|そうろん]] m937fxmt4hz2vivty0iyzkqjoopa1x3 中学校社会 歴史/第二次世界大戦 0 19383 207326 203834 2022-08-27T11:02:53Z どぬ 70116 /* ユダヤ人の運命 */ wikitext text/x-wiki {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|中学校の学習|中学校社会|中学校社会 歴史|frame=1}} == 第二次世界大戦 == [[ファイル:Second world war europe 1939 map de.png|thumb|400px|ドイツとソビエトのポーランド侵攻直後(1939年)<br>青いところがドイツとイタリアの勢力圏。<br>緑色が、ソビエトの勢力。<br>赤いところがイギリスとフランスの勢力。]] [[ファイル:Second world war europe 1940 map de.png|thumb|400px|ドイツのフランス占領(1940年)<br>青いところがドイツとイタリアの勢力圏。水色のところが、枢軸国に支配された地域。<br>緑色が、ソビエトの勢力。<br>赤いところがイギリスの勢力。]] === 第二次世界大戦の開戦へ=== 中国大陸で日中戦争が行われているころ、ヨーロッパではドイツが軍事力を背景にして、オーストリアやチェコ,スロバキア西部を併合した。 イギリスやフランスは、当初はドイツによる併合を認めていた。併合を認めていた理由は、ドイツの占領した地域がオーストリアなど民族的に近い国だったことや、ドイツが植民地を持たないこと、ソビエト連邦を封じ込めるためであった。しかし、ヒトラー率いるドイツは、その後、ポーランドの領土も要求した。イギリスとフランスは、ポーランドの支援を発表したが、ドイツはこれを無視した。 ドイツは、1939年8月にソ連と'''独ソ不可侵条約'''を結んだ上、1939年9月にドイツはポーランド西部に侵攻して占領した。そのため、ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスがドイツに宣戦布告<ref>「これから、◯◯の国に戦争をしかける」という内容の宣言をすること。この宣言なしに開戦するのは国際条約([[w:開戦に関する条約]])違反となる。</ref>し、ドイツ対イギリス・フランスという列強どうしの戦争に発展した。ソ連もポーランド東部に侵攻して占領した。 このドイツによるポーランド侵攻をきっかけとして'''第二次世界大戦'''(英語: World War II)が始まった<ref>これに、日中戦争と後の太平洋戦争も加える。</ref>。ただし、まだこのときはアメリカはイギリスの援助にとどまっていた。 === 第二次世界大戦の開戦後 === ==== ドイツ・イタリア、およびソ連の動向 ==== 1940年には、ドイツ軍は、デンマークとノルウェーを攻撃し占領した。さらにドイツはオランダおよびベルギーを攻撃。ドイツは1940年にはパリを占領し、フランスを降伏させた。そして、イギリス本土に上陸するためにイギリスへ激しい空襲を行う。 また、イタリアが、ドイツ側で参戦した。 いっぽう、独ソ不可侵条約をむすんでいたソ連はポーランドの東部を占領し、さらにフィンランドを侵略して戦争となった<ref>フィンランドとソ連との戦争は1939-1940、1941-1944の二回発生した(高校世界史の範囲)。</ref>。 ==== ドイツへの抵抗 ==== 1940年6月にフランスに、ドイツの{{ruby|傀儡|かいらい}}政権<ref>「傀儡」はあやつり人形のこと。「傀儡政権」はあやつり人形のように言いなりとなる政権。</ref>が建てられた(ヴィシー政権)。しかし、ドイツに抵抗する軍人や政治家はイギリスに亡命して自由フランスという組織を結成し、フランス国内に住む民間人に抵抗運動(レジスタンス)を呼びかけて抵抗した。 (※ 「レジスタンス」 英語: resistance )。英語で「抵抗する」をレジスト resist という。 :(※ 範囲外 :)占領へのゲリラなどによる抵抗軍のことを「パルチザン」(partisan) ともいう。フランス語が由来。(※ 資料集には「パルチザン」まで書いてあるらしい。)パルチザンと言った場合、より戦闘的なニュアンスがある。というか、占領に抵抗するゲリラなども含む戦闘部隊のことをパルチザンと呼ぶのが一般的。 1941年8月には、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相との間に、{{ruby|大西洋憲章|たいせいよう けんしょう}}が結ばれた。ドイツに対抗して戦うことを確認した憲章である。このドイツとの戦いを、ファシズム国家による侵略から民主主義を守るための戦い、と宣言した。 ==== 日本とヨーロッパ諸国との関係 ==== 1936年、共産主義国であるソ連に対抗するための、{{ruby|日独防共協定|にちどく ぼうきょうきょうてい}}が日本とドイツとの間に結ばれた。また1937年11月にはイタリアが加入し、{{ruby|'''日独伊防共協定'''|にちどくい ぼうきょうきょうてい}}が結ばれた。 しかし1939年にはドイツとソビエトとの間で、独ソ不可侵条約がむすばれたため、防共協定は、いったん実効性がなくなった。 日本は、ドイツが勝利をつづけていることから、1940年にドイツとイタリアと同盟を結んだ。この三国の軍事同盟を{{ruby|日独伊三国軍事同盟|にちどくい さんごく ぐんじどうめい}}<ref>'''日独伊三国同盟'''ともいう。</ref>(独:Dreimächtepakt、伊:Patto tripartito)が1940年に結ばれた。 この日独伊三国同盟によって、ドイツとの戦争の最中だったイギリスと、イギリスを支持するアメリカと日本との対立は決定的となった。 ==== ユダヤ人の運命 ==== [[File:AnneFrankSchoolPhoto.jpg|thumb|left|アンネ=フランク]] [[File:Auschwitz-birkenau-main track.jpg|thumb|アウシュビッツ第2収容所。(世界遺産)]] ドイツはナチスの政策にもとづき、占領地ではユダヤ人を迫害し、多くのユダヤ人を捕らえ、'''アウシュビッツ'''(ポーランド)の収容所など、各地の収容所に送った。ユダヤ人は収容所などで強制労働させられたり、処刑された。このため、ナチスの迫害から逃げるため、多くのユダヤ人が隠れて住んだり、あるいはアメリカなどに{{ruby|亡命|ぼうめい}}<ref>不当な{{ruby|迫害|はくがい}}を逃れるために、外国に逃げること。特に、民族差別や宗教差別、あるいは政治活動への弾圧などによる迫害から逃れるために外国に逃げることを言う場合が多い。</ref>した。 このユダヤ人への迫害のようすを伝える史料として、ユダヤ人の少女"アンネ=フランク"が書いた日記が有名である。アンネは衰弱のため、収容所内にて15歳で亡くなった。 :※ ユダヤ人強制収容所はドイツの国内外にあった。 :(※ 中学の範囲外:)ナチスドイツの行った、上記のようなユダヤ人絶滅をたくらんだ政策のことを'''ホロコースト'''(英: Holocaust<ref>高等学校外国語『CROWN English Communication I』三省堂、2021年1月29日 文部科学省検定済、2022年3月30日発行、P127</ref>)という。 [[File:Sugihara b.jpg|thumb|left|{{ruby|杉原千畝|すぎはら ちうね}}]] さて、1940年のこと。リトアニアの日本領事館にはドイツに追われたユダヤ人が集まっていた。リトアニアの日本領事館の外交官であった{{ruby|'''杉原千畝'''|すぎはら ちうね}}は、同盟国ドイツの意向に反して、杉原は人道の観点からユダヤ人をアメリカなどに逃がすために、途中経路の日本入国のビザを発給した。このため、約6000人のユダヤ人が命をすくわれた。 [[File:Kiichiro Higuchi.jpg|thumb|{{ruby|樋口季一郎|ひぐち きいちろう}}]] このほか、中国の上海などに逃げようとしていたユダヤ人が、満州国が入国をしぶったために足止めされていたので、日本の陸軍のハルビン機関長の{{ruby|樋口季一郎|ひぐち きいちろう}}は、独断で列車の手配をして、通行させた。 なお、救出されたユダヤ人の人数については、史料ごとに人数が違っており、正確な人数は、よく分かっていない。 {{-}} === 注 === <references/> == 太平洋戦争 == === 中国戦線の行き詰まりと日米の対立 === 第二次世界大戦が始まった1939年は、日中戦争の最中だった。この頃には、戦争の範囲が拡大しすぎて日本にとっては収拾がつかない状態になっていた。また、アメリカやイギリスは中華民国の蒋介石を支持し、東南アジアなどの植民地から中国を支援していた。そのため、すぐに中国は降伏すると考えていた日本の目論見ははずれ、戦争が長期化していた。日本軍の侵攻は中国の主権と独立の尊重などを取り決めた条約(九カ国条約)違反であるとされ、国際的な孤立も深まった。 日中戦争の行きづまりを解決するため、アメリカやイギリスによる中国への支援ルートを断ち切ろうとした。石油・ゴム・錫などの資源の確保も重要だった。そのため、1939年に日本軍は東南アジアへの足がかりを求めて中国南部へと侵攻した。その結果、米・英・仏は警戒を強め、アメリカは日本に対して経済制裁を始めた。 1940年に入ると、ヨーロッパでドイツが次々と勢力を拡大していた。フランスはすでに述べたように、ドイツに占領されて傀儡政権のもとにおかれていた。オランダも国土が占領されて政府はイギリスに亡命していた。イギリスはドイツ軍の空襲を受け、激しい戦いとなっていた。 こうしたヨーロッパの状況を見た日本は東南アジアへの侵攻を進めた。そのために、1941年、ソ連と'''日ソ中立条約'''を結び、北方の安全を確保した。そして、1940~41年にかけてヴィシー政権の要請を受けるという形をとって日本軍はフランス領インドシナ<ref>ベトナム・ラオス・カンボジアの辺り。仏印ともいう。</ref>に進駐する。アメリカは日本の行動を侵略的な行動と認定し、日本への石油の輸出を全面禁止した。 アメリカにくわえ、オランダやイギリスや中国も、同様に日本への輸出を制限していた。この状況を、日本政府やマスコミは、アメリカ(America)・イギリス({{ruby|Britain|ブリテン}})・中国({{ruby|China|チャイナ}})・オランダ({{ruby|Dutch|ダッチ}})の4カ国の頭文字をとった「{{ruby|ABCD包囲網|エービーシーディー ほういもう}}(または「ABCD包囲陣」)」と呼び、国民の{{ruby|敵愾心|てきがいしん}}<ref>敵に対する憎しみや闘争心。</ref>をあおった。 日本の近衛内閣は、アメリカと交渉を進める一方、1941年の10月上旬までに交渉が上手くいかなければアメリカ・イギリスとの戦争を始めるという方針を固めた。このときの日本の要求は以下のようなものだった。 #米英は日中戦争に口を出さないこと。 #日本の物資の獲得に協力すること。 #米英がこれに応じればフランス領インドシナから撤退する。 あまりにも都合の良すぎる日本側の提案はアメリカ側に受け入れられず、たちまちタイムリミットである10月がやってきた。しかし、{{ruby|近衛文麿|このえ ふみまろ}}は有効な手を打つことができず、軍・帝国議会・世論の強硬路線をおさえきれなくなった。そのため近衛内閣は総辞職し、陸軍大将の{{ruby|'''東条英機'''|とうじょう ひでき}}が新たに首相となった。 [[ファイル:Hideki Tojo.jpg|thumb|150px|right|東条英機(とうじょう ひでき)]] 1941年11月26日、アメリカは日本に対して以下のような要求を出した。 #日本軍の中国・フランス領インドシナからの完全な撤退。 #蒋介石政権の承認と満州国などの日本が建てた{{ruby|傀儡|かいらい}}政権の否定。 #事態を満州事変以前に戻すこと。 このときのアメリカからの要求を「ハル・ノート」(英:Hull note)という<ref>アメリカの国務長官コーデル・ハル(Cordell Hull)の名が由来。</ref>。「ハル・ノート」はあくまでアメリカの原則的な方針を書いたものでしかなかったが、日本はこれを「交渉決裂」と判断した。そして、1941年12月1日にアメリカ・イギリスとの戦争を正式決定した<ref>ただし、11月5日に開かれた御前会議(天皇が出席する重大な国策決定の会議)で開戦が事実上、決定していたという見方が強い。</ref>。 {{コラム|(※範囲外)もう1つのハルノート?|日本のこの南インドシナ派兵の行動は、形式上はフランス本国がドイツに占領された結果によるので国際法などに違反していないが(なので、よく歴史論争で議論になる)、なぜアメリカが強行に日本の仏領インドシナ派兵に強く反発したのかの理由が、いまいち不明であった。近年の歴史学研究によると、実はハル・ノートとは別に、最終的に破棄されたが水面下の日米交渉で暫定協定案があった事が明らかになっており、なんとその内容はハル・ノートと大きく異なり、暫定協定案ではフランス領インドシナ北部の日本軍の駐留を認めている事が明らかになっている<ref>田原総一郎『ホントはこうだった日本近代史1 満州事変から太平洋戦争の終わりまで』、ポプラ社、2013年3月5日 第1刷、P159</ref>。この暫定協定案に中国(中華民国)および蒋介石が強く反発した事が明らかになっており、アメリカ政府が中国に配慮した結果として、暫定協定案が破棄され、代わりにハル・ノートが採用されたというような経緯が解明されてきている。 }} {{clear}} === 太平洋戦争 === [[ファイル:USS West Virginia;014824.jpg|300px|thumb|left|真珠湾攻撃で炎上中のアメリカ海軍の軍艦。({{ruby|戦艦|せんかん}}ウェスト・バージニア。) <br>※ 艦名(ウェスト・バージニア)は中学教科書には無いが、ネット検索用に記述した。]] [[ファイル:Second_world_war_asia_1937-1942_map_de.png|left|430px|日本による占領地域の拡大(1937年から1942年)]] 1941年の12月8日に、日本海軍がアメリカのハワイの{{ruby|真珠湾|しんじゅわん}}(英:{{ruby|Pearl Harbor|パールハーバー}})にあるアメリカ海軍の基地を奇襲攻撃({{ruby|真珠湾攻撃|しんじゅわん こうげき}}(英語:Attack on Pearl Harbor))した。真珠湾攻撃の約1時間前には、日本陸軍がマレー半島のイギリス領に上陸し、イギリス軍との戦闘がはじまった。こうして、 主に日本とアメリカ・イギリスが中心となった太平洋方面の戦争を、'''太平洋戦争'''(英語:Pacific War または Asia-Pacific War)という<ref>現在の日本政府もこの名前を用いているので、テストなどではこの戦争は「太平洋戦争」と書いておけばいいだろう。なお、日中戦争から連続し、太平洋だけではなく、東南アジア・インドまで広がった戦争であることを明確にした「アジア太平洋戦争」という呼称が学術的には広く使われている。</ref>。 この奇襲攻撃のあと、アメリカ政府は日本の外交官から日本の宣戦布告の知らせを聞いた。このため、アメリカ国内では、日本の奇襲攻撃は、だましうちだとして、アメリカで反日的な意見が強まっていった。「{{ruby|Remember Pearl Harbor|リメンバー・パールハーバー}}」(意味:真珠湾を忘れるな! )が、アメリカでのスローガンになった。 日本のアメリカとの開戦後、ドイツ・イタリアもアメリカに対して宣戦布告した。こうして、日本・ドイツ・イタリアの3カ国を中心とする陣営({{ruby|'''枢軸国'''|すうじくこく}})と、アメリカ合衆国・イギリス・フランス(自由フランス)・ソビエト連邦・中華民国を中心とする陣営({{ruby|'''連合国'''|れんごうこく}})とが戦争するという形になった。 開戦当初、アメリカ・イギリスなどは戦争の準備が十分にできていなかったうえ、アメリカ海軍は真珠湾攻撃で大きな損害を受けていた。このため、日本軍は次々と勢力を拡大することができた。その際、日本は列強諸国によるアジアの植民地を解放するというスローガンを掲げた。そのため、当時の日本では{{ruby|大東亜戦争|だいとうあ せんそう}}とよんだ<ref>この呼び方は戦後にGHQによって禁止された。現在ではこの戦争に肯定的な人が主に「大東亜戦争」と呼ぶ傾向がある。</ref>。 このように、日米戦争の開戦のはじめごろは日本が有利だった。だが、1942年に'''ミッドウェー海戦'''で、日本は{{ruby|空母|くうぼ}}<ref>軍用の航空機を運び、運用する軍艦のこと。</ref>を4隻失うなどの大損害を受け、アメリカに大敗した。その後、アメリカ軍も戦争の準備を整えていったため、ガダルカナル島の戦いなどを経て、日本軍は各地で敗北し、当初の占領地の多くを失った。そればかりでなく、太平洋戦争以前から日本が統治していた地域にもアメリカ軍が迫ってきた。 また、日本軍は食料や物資などの補給を軽視していたため、戦況が悪化すると物資の輸送が困難となり、いくつもの戦場で日本兵が餓死した。 なお、日本政府では、{{ruby|戦局|せんきょく}}の悪化にともない、議会では首相の東條英機の指導力をうたがう意見が強くなる。サイパンが米軍に占領されて日本列島がアメリカ軍の空襲範囲に入ると、東條は議会の政治家からの支持も失い、1944年(昭和19年)7月に東條内閣は総辞職に追い込まれた。 === 大東亜共栄圏とその実態 === [[ファイル:1943 Tokyo conference.jpg|thumb|400px|大東亜会議の出席者]] [[ファイル:Image-Japanese 1sh note- Occupation currency Oceania.jpg|thumb|270px|軍票(ぐんぴょう)。 軍票とは、占領地で貨幣として使うための特殊な紙幣。日本だけでなく、多くの交戦国が、それぞれの占領地で軍票を使った。写真は、太平洋戦争中に、南太平洋地域で日本軍が使用した1シリング軍票(1942年)。]] 日本にとっての太平洋戦争の目的の一つは東南アジアの資源の確保だった。しかし、日本は、表向きの戦争の正当化の理由として、ヨーロッパ諸国による東南アジアでの植民地支配の打倒と解放という理念をかかげた。それを{{ruby|'''大東亜共栄圏'''|だいとうあきょうえいけん}}とよんだ。 当時の東南アジアの地域の人々は、すでに独立運動を始めていた。独立運動の指導者たちは日本と利害が一致したので、当初は日本軍に協力した。 しかし、日本軍が支配するようになると、独立運動の弾圧、地下資源の独占、食料や物資の略奪、ゴムやジュートなどの軍事的に必要な作物への転換を強制したりするようになった。物資調達には軍票を用いたが、無計画に発行したため現地ではハイパーインフレが起き、経済を混乱させた。また、強制労働にアメリカ・イギリスなどの{{ruby|捕虜|ほりょ}}以外に現地の人々を動員したが、厳しい労働と少ない食料などから多くの犠牲者を出した。このため、今度は日本への不満が高まった。 1943年、東京で{{ruby|大東亜会議|だいとうあ かいぎ}}をひらく。これは1941年8月にアメリカ・イギリスが発表した大西洋憲章に対抗するという目的もあった。タイ、満州、ビルマ、フィリピン、インドなどの代表をあつめ、欧米からの植民地支配の解放などをうたった{{ruby|大東亜共同宣言|だいとうあ きょうどうせんげん}}を発表した。しかし、日本軍による厳しい統治にはかわらなかった。 日本の劣勢が明らかになると、各地で日本に対する不満がゲリラなどの形でふき出してきた。ビルマ(現・ミャンマー)のように抗日組織が結成され、大規模な{{ruby|武装蜂起|ぶそうほうき}}を起こした地域もあった。 {{clear}} === 注 === <references/> == 日本の敗戦へ == === イタリア・ドイツの敗戦 === {| class="wikitable" |- ! 年 !! 月 !! 出来事 |- | 1941年 || 6月 || ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破ってソ連へ侵攻する。 |- | 1942年 || 6月 || スターリングラード攻防戦が始まる。 |- | 1943年 || 2月 || スターリングラードのドイツ軍降伏。ドイツ軍は大打撃を受ける。 |- | 1943年 || 7月 || 連合軍のシチリア上陸。ムッソリーニ失脚。 |- | 1943年 || 9月 || イタリア降伏。 |- | 1944年 || 6月 || アメリカ・イギリス連合軍がフランスのノルマンディーに上陸。 |- | 1944年 || 8月 || パリ解放。ヴィシー政権崩壊。 |- | 1945年 || 4月 || ヒトラー自殺。 |- | 1945年 || 5月 || ベルリン陥落。ドイツ降伏。 |} 第二次世界大戦の開戦直後はドイツ軍が圧倒的な速さで各地を侵攻したが、イギリスへの上陸はできなかった。そのため、ヒトラーは方針を転換し、1941年6月に不可侵条約を結んでいたソ連へと攻め込む(独ソ戦)。ドイツが攻めこんでくることを予想していなかったソ連は敗北を重ねるが、首都のモスクワの手前で踏みとどまり、激しい抵抗を行った。そして、1942~43年のスターリングラード攻防戦でドイツ軍は大敗し、ソ連がドイツ占領地へ侵攻を始めた。 ヨーロッパ西部でも、1944年にアメリカ・イギリス連合軍がフランス北西部のノルマンディーに上陸した。こうして、ドイツはアメリカ・イギリスとソ連にはさみうちにされた。そして、1945年4月30日にヒトラーが自殺し、5月2日にはドイツの首都ベルリンがソ連軍に占領される。1945年5月7日、ドイツは連合国に無条件降伏した。 イタリアは1943年7月に連合軍がシチリアに上陸・制圧したことで、ムッソリーニは失脚に追い込まれる。1943年9月にはイタリアは連合国軍に降伏した。 こうして、ヨーロッパでの戦闘は終わった。 [[File:ヤルタ会談.png|330px|thumb|'''ヤルタ会談'''<br> (中央ソファー左から)会談に臨むチャーチル(イギリス代表)、フランクリン・ルーズベルト(アメリカ代表)、スターリン(ソ連代表)。<br />]] アメリカ・イギリス・ソ連の代表は、1945年2月にソ連のヤルタで、ドイツの戦後処理について話していた( '''ヤルタ会談''')。 このヤルタ会談では、日本との戦争の対応についても話し合われ、密約として、ソ連の対日参戦と千島列島・樺太の領有が認められた。 そして3カ国の代表は1945年7月には、日本の降伏条件についてドイツのポツダムで会談し、'''ポツダム宣言'''をまとめた。そして中国の同意を得て、アメリカ・イギリス・中国の名で発表した。 {{clear}} === 日本の敗戦 === 戦争で日本が不利になるにつれて、兵士が足りなくなっていった。1943年、それまで徴兵をされていなかった文科系の大学生も兵士として動員された。これを{{ruby|'''学徒出陣'''|がくと しゅつじん}}という。徴兵されなかった理科系の学生、女学生、中学生なども工場などの仕事に動員されて働かされた(勤労動員)。 また、生活物資とくに食糧の不足はますます深刻になっていった。普通の店で買える品物は極端に少なくなる一方、軍や軍需工場は違法な買い占めを行っていた。その上、物資の横流しも横行していたため、軍に対する反感は強まっていたが、治安維持法などで取りしまられていたので、表に出ることはなかった。 朝鮮や台湾では、反乱や自治権を要求されることなどをおそれ、徴兵は行われなかった。しかし、もはや兵力や労働力の不足は極めて深刻だった。はじめは労働者の動員にとどまっていたが、やがて朝鮮や台湾でも徴兵を実施された。徴兵された朝鮮人・台湾人は戦線に出るのではなく、連合国兵士の捕虜監視の役割を当てられることがあり、戦後、戦犯と認定されることもあった(※ 中学範囲外: BC級戦犯)。 ==== 日本本土への空襲 ==== アメリカ軍がサイパン島を占領すると、サイパン島から飛び立ったアメリカ軍の大型{{ruby|爆撃機|ばくげきき}}B29によって、日本の各地が{{ruby|空襲|くうしゅう}}されるようになる。都市が空襲の目標になることが多かったので、都市に住んでいる子どもたちは、空襲の危険からのがれるため、両親からはなれて地方へと移り住む、{{ruby|疎開|そかい}}をさせられた(学童疎開)。 当初は軍事施設や工場だけを標的にしていたが、効果が薄かったため、都市を無差別に攻撃するようになった<ref>民間人への爆撃である無差別爆撃は、戦時国際法に違反している。</ref>。B29は{{ruby|焼夷弾|しょういだん}}<ref>焼夷弾とは、建造物などを焼き払うために、炎を吹き出す爆弾。燃えやすいように、ガソリンなどが焼夷弾の中に入っている。焼夷弾による爆撃作戦を指揮した軍人は、カーチス・ルメイという人物である。全くの余談だが、彼は戦後に「航空自衛隊の創設に協力した」という功績で'''日本政府から'''勲章をもらった。</ref>を投下し、日本の都市を焼き払った。 [[File:After Bombing of Tokyo on March 1945 19450310.jpg|thumb|400px|東京大空襲で焼け野原となった東京。]] 1945年3月10日の{{ruby|'''東京大空襲'''|とうきょう だいくうしゅう}}では、約10万人の人が亡くなった。その後は、大阪や名古屋など日本全国の主要な都市が空襲にあい、多くの人命が失われた。 :(※ 範囲外:)東京大空襲は、別に日本の本土への最初の空襲ではない。(ときどき誤解される) ==== 沖縄戦 ==== 1944年になると、沖縄での戦闘が始まる可能性が高くなり、沖縄の住民たちは疎開のため九州や台湾に移動した。しかし、アメリカ軍の潜水艦によって、民間船が撃沈されることも激増した。特に疎開する学童を多く乗せた疎開船・対馬丸が撃沈され、多数の犠牲者が出た事件は現在でもよく知られている。 1945年4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、日本軍と地上戦になった('''沖縄戦''')。沖縄では根こそぎ動員と呼ばれ、成人男性だけでなく、中学生は兵士として、女学生は看護婦などとして動員された。そのため、被害は軍人・兵士だけでなく、一般市民の犠牲も多大だった。 また、日本軍によって、集団自決をせまられた沖縄県民も多くいたという<ref>沖縄にかぎらず、戦争当時の日本では「{{ruby|投降|とうこう}}して{{ruby|捕虜|ほりょ}}になっても、米軍に{{ruby|虐待|ぎゃくたい}}されて{{ruby|悲惨|ひさん}}な目にあうから、捕虜にならず最後まで戦え」といった内容の教育を日本人はされた。そのため、サイパンでも日本の民間人が集団自決するという事態が発生していた([[w:バンザイクリフ]])。</ref>。「洞窟に沖縄住民とともに隠れた日本軍は、泣きやまぬ乳幼児がいると米軍に発見されないためにと乳幼児を殺害した」「禁止されていた方言を話した地元住民が、スパイ容疑で殺害されたりもしたと」いう事例もあった。 こうして、米軍との戦闘だけでなく、様々な要因で沖縄県民のうち約5分の1から4分の1にあたる約12万人が亡くなった。 1945年6月23日、日本軍の現地司令官は、もはや日本軍は力つきたとして自決した。こうして、日本軍の組織的な抵抗は終わり、沖縄はアメリカ軍に占領された。しかし、日本軍の一部はその後も沖縄各地にひそんで、戦闘はその後(終戦後の9月7日ごろまで)も続いた。 {{clear}} ==== 日本の無条件降伏 ==== ドイツが降伏し、沖縄戦での敗色が濃厚になる中、日本政府はソ連を仲立ちとしてアメリカなどと講和することを模索しはじめた。しかし、ドイツの降伏後、日本との戦争を決めていたソ連は日本政府との交渉には消極的だった。 一方、1945年7月には、アメリカ・イギリス・ソ連の三か国は日本の降伏条件についてドイツのポツダムで会談し、ポツダム宣言をまとめた。そして中国の同意を得て、アメリカ・イギリス・中国<ref>ソ連はまだ日本との戦争を始めていなかったため、代わりに中国が入った。ソ連は対日参戦後にポツダム宣言に加わった。</ref>の名で発表した。 <div style="border:1px solid #000000;">    '''ポツダム宣言'''(要約、抜粋、現代語訳) ::6: 日本国民をだまして世界征服に乗り出すといった{{ruby|過|あやま}}ちを犯した者たちの権力を、永久に除去する。 ::7:(上記の6条のような)新たな秩序が建設され、(日本の)戦争の遂行能力がなくなると確信できるまでは、連合国は日本を占領する。 ::8: 日本国の主権がおよぶ領土は、本州・北海道・九州・四国および、連合国の決定する島だけに限る。 ::9: 日本国軍隊は完全に武装を解除した後、各自の家庭に復帰し平和的かつ生産的の生活を営む機会がえられる。 ::10:われら連合国は、日本人を奴隷化することはしないし、日本を滅亡させることもしない。しかし、日本の戦争犯罪人には厳重な処罰をくわえる。日本政府は、日本国民の間の民主主義を復活させなければならず、そのため言論・宗教・思想の自由および基本的人権を確立させなければならない。 </div> このとき、日本はポツダム宣言を「{{ruby|黙殺|もくさつ}}」すると発表したが、これはアメリカ側からは「拒否」と受け取られた。 [[ファイル:Nagasakibomb.jpg|thumb|left|170px|長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲<br/>1945年8月9日]] [[ファイル:AtomicEffects-Hiroshima.jpg|thumb|420px|原爆投下後の広島のようす。]] アメリカは1945年の8月6日に広島に{{ruby|'''原子爆弾'''|げんし ばくだん}}(略して原爆)を投下した。広島の街は一瞬で破壊され、広島では10万人をこえる一般市民が亡くなった。9日には長崎に原子爆弾が落とされ、8万人ほどが亡くなった。 また、8月8日、ソ連は日ソ中立条約をやぶって満州に攻めこんだ。こうして、日本が計画していた「ソ連を仲立ちとする講和」という方針は完全に{{ruby|破綻|はたん}}した。8月14日、日本はポツダム宣言を受け入れることを正式に決定し、連合国に通達した。 1945年(昭和20年)の8月15日、ラジオ放送で天皇が国民に日本の降伏を発表した。こうして日中戦争や太平洋戦闘をふくむ第二次世界大戦は終わった<ref>ただし、正式な終戦は、無条件降伏を認めた文書に政府代表が署名した1945年9月2日である。</ref>。 {{clear}} {{コラム|(範囲外:)太平洋戦争に関する用語|教科書には書かれてない用語でも、戦争に関する用語で、常識的に中学生が知っておいた方がよい単語がいくつかある。たぶん、学校でも教師が口頭で説明するか、あるいは資料集などの副教材などで習うだろう。 *{{ruby|大本営発表|だいほんえい はっぴょう}} 「大本営」とは、戦時中の日本軍の本部のこと。日本政府による公式な戦況の報告が大本営発表である。<br />当初は比較的正確だったが、日本政府は戦況が不利になっても、国民の戦意を低下させないために、ウソの発表をしたり、あたかも勝利してるかのように新聞などでの表現を変えさせた。そのため、戦局が悪化して誰の目にも日本の不利が明らかとなると国民の信頼を失った。<br />有名な表現は、日本軍の退却・撤退とはいわず、あたかも単に軍の進行の方角を変更しただけのようにみせかける「{{ruby|転進|てんしん}}」、部隊などの全滅を美化する「{{ruby|玉砕|ぎょくさい}}」などがある。 <br />現代でも、政府や企業などによる、自分に都合よく信用できない発表のことを「大本営発表」という。 *{{ruby|零戦|れい/ぜろせん}} (資料集で名前だけ紹介されることが多い) [[File:Mitsubishi A6M6C Zero 2.jpg|thumb|のちにアメリカで復元された零戦]] 零戦は日本海軍の艦隊や航空機を敵方の航空機から護衛する戦闘機の一種で、太平洋戦争中の主力戦闘機だった。正式名称は「{{ruby|零式艦上戦闘機|れいしき かんじょう せんとうき}}」。零戦の他に「ゼロ戦」「{{Ruby|零式艦戦|れいしきかんせん}}」などとも呼ばれる。 *{{ruby|特攻隊|とっこうたい}} 「特別攻撃隊」の略。特攻は日本軍が戦争末期にとった、航空機や特攻用に開発された人間爆弾「[[w:桜花|桜花]]」による体当たり戦法で、特攻隊はこれを行う部隊。特攻兵器に脱出装置はないため、パイロットは確実に死ぬ。「{{ruby|神風特攻隊|かみかぜ/しんぷうとっこうたい}}」が有名である。形式的には志願だったが、実質的に強制されることが多かった。<br />特攻のような攻撃はドイツやソ連でも行われてはいた。しかし、最初から生還を前提にしていないことや規模、組織的な戦法という点で日本が際立っている。<br />ほかにも、1~2人乗り潜水艦に爆薬をつめた人間魚雷「{{ruby|回天|かいてん}}」、モーターボートに爆薬を載せた「{{ruby|震洋|しんよう}}」による特攻もあった。 *戦艦{{Ruby|大和|やまと}} 大和は世界最大の戦艦である。沖縄戦の最中、大和をはじめとした軍艦10隻が沖縄に派遣された。しかし、途中でアメリカ海軍の艦隊に遭遇し、アメリカ海軍の[[w:航空母艦|航空母艦]]の艦載機による攻撃をうけて撃沈された。<br />大和を攻撃したアメリカ軍の軍人は、まるで巨大な島を攻撃しているかの様な感覚に陥ったという。}} === 注 === <references/> [[Category:中学校歴史|たいにしせかいたいせん]] 74e61wwx6qzqhtwfwqxa02dceuthl40 高校英語の文法 0 21996 207315 207289 2022-08-27T05:05:40Z すじにくシチュー 12058 /* 参考文献についての注意 */ 抽象名詞+itself で、その名詞で表される内容を強調したことになる。 wikitext text/x-wiki <!-- このページには導入部がありません。適切な導入部を作成し、このコメントを除去してください。 --> == 目次 == * [[高校英語の文法/文の種類]] * [[高校英語の文法/動詞と文型]] * [[高校英語の文法/時制]] ※ 参考書によって微妙に単元名が異なるので暫定 * [[高校英語の文法/完了形]] * [[高校英語の文法/助動詞]] * [[高校英語の文法/不定詞]] * [[高校英語の文法/動名詞]] * [[高校英語の文法/分詞]] * * [[高校英語の文法/比較]] * [[高校英語の文法/関係詞]] * [[高校英語の文法/仮定法]] * [[高校英語の文法/名詞]] * [[高校英語の文法/冠詞]] * * [[高校英語の文法/否定]] * [[高校英語の文法/接続詞]] * [[高校英語の文法/前置詞]] その他 [[高等学校英語/文法用語の英単語]] 「名詞」Noun など(入試には出ないので覚える必要は無い) == 文の構造 == === 文の要素 === 文の構造を知るためには、文がどのような要素で成り立っているのかを知らなければならない。 ==== 主語と述語動詞 ==== # '''The old man''' ''is'' a famous singer. # '''My sister''' ''studied'' math. ## 訳例:その老人'''は'''有名な歌手'''だ'''。 ## 訳例:私の姉'''は'''数学を研究'''していた'''。 1の文は「AはBだ」という文であり、2の文は「AはCする」という文である。どちらも # 「…は」「…が」という主題の部分 # 「~である」「~する」という主題が何であるかについて述べる部分 の二つが共通している。 この場合、1を'''主部'''といい、2を'''述部'''という。 そして、主部の中心となる語を'''主語'''(Subject)といい、述部の中心となる部分を'''述語動詞'''(Predicate Verb略して'''動詞'''('''Verb'''))という。 たとえば上記「私の姉」以下略の場合、 sister を主語、My sister を主部と分類する場合もある。 だが、主部のことを主語という場合もある(文英堂インスパイア)。 以下では、述語動詞は原則として単に動詞と呼ぶ。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |- ! || - || 主語 || 述語動詞 || - |- | - | colspan="2" | 主部 | colspan="2" | 述部 |- | 1. | The old | man | is | a famous singer. |- | 2. | My | sister | studied | math. |} 主語は単に'''S'''で表し、動詞は'''V'''で表す。 ==== 目的語 ==== # He ''has'' '''a personal computer'''. # We ''played'' '''soccer'''. # Everone ''likes'' '''Sushi'''. ## 訳例:彼はパソコン'''を'''持っている。 ## 訳例:私たちはサッカー'''を'''した。 ## 訳例:みんなが寿司'''を'''好む。 いずれの文の動詞も「~を」という、動作の対象が必要である。このような動作の対象を表す語を'''目的語'''(Object)といい、'''O'''で表す。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |- ! || 主語 || 動詞 || 目的語 |- | - | colspan="1" | 主部 | colspan="2" | 述部 |- | 1. | He | has | a personal computer. |- | 2. | We | played | soccer. |- | 3. | Everone | likes | Sushi. |} このような、'''S+V+O'''という形の文は英文の基本形の一つである。 ==== 補語 ==== # Mary ''is'' '''happy'''. # John ''became'' '''a doctor'''. ## 訳例:メアリーは幸せだ。 ## 訳例:ジョンは医者になった。 これらはいずれも主語の状態を説明した文であるが、isやbecomeで文を切ると意味をとれない。happyやa doctorという、主語の様子をおぎなう語があって初めて意味のある文となる。このように、主語の様子について説明する語を'''補語'''(Complement)という。補語は'''C'''で表される。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |- ! || 主語 || 動詞 || 補語 |- | - | colspan="1" | 主部 | colspan="2" | 述部 |- | 1. | Mary | is | happy. |- | 2. | John | became | a doctor. |} このような'''S+V+C'''の文も基本的な文の一つである。なお、後で学ぶように、補語は主語の様子だけでなく目的語の様子を説明する場合もある(例文:I call him Sensei.(私は彼を先生と呼ぶ))。 ==== まとめ ==== 文の要素を表す記号をまとめると、 主語 '''S''' (Subject) / 動詞 '''V''' (Verb) / 目的語 '''O''' (Object) / 補語 '''C''' (Complement) / 修飾語 '''M''' (Modifier) である。 subject や verb などの単語は、青チャート、文英堂インスパイア、いいずな出版エバーグリーン、などで紹介されている。一方、大修館書店ジーニアス、桐原ファクトブックには無い。 「主部」と「主語」は厳密には異なるが、しかしSVOO文型やSVC文型など文型について言う場合、主部のことも含めて「主語」と呼んでよい。参考書もそうなっている。 文法用語でいう修飾語(Modifier)には副詞と形容詞があるが、しかし文型の理論でいう記号 '''M''' は副詞だけに限定するのが一般的である(インスパイア)。 また、よく記号Mを「修飾語」というが、実際には1単語の「語」だけでなくとも、複数の語からなる副詞句や副詞節でも「修飾語」といって記号 M で表す(インスパイア)。 == 動詞の用法 == === 態 === ==== 受動態 ==== ;どういうときに受動態を使うか。 動作主が不明な場合、 動作主をぼかしたい場合(ジーニアス)、 動作主に興味が無い場合(インスパイア)、 and接続詞のある文などで、形容詞をつかった「 be +形容詞」型の文章と並列させたい場合、受動態を使うことで「 It is 形容詞 and is 過去分詞(受動態)」のように主語を同じままで並列できて読みやすくなる(ジーニアス)。 能動態だと主語が長くなる場合、受動態を使うことがよくある。英語では長い主語を避けるのが普通(インスパ、ジーニアス)。 ;by以外の動作主の前置詞 受動態にて動詞主をあらわす前置詞は一般的には by であるが、 しかし be known to ~ (知られている)や be covered with (~で覆われている)など、意味や動詞によっては前置詞がすでに決まっている。ほか、 be caught in ((にわか雨などに)あう)、 be filled with (~で満たされている)、 などが、そういったby以外が決まっている動詞(青チャート、ジーニアス)。 余談だが、「be known by ~」は、動作主ではなく「判断の基準」を表すのに使われる(インスパイア)。 A man is known by the company he keeps. 「つきあっている友達を見れば、その人の人柄が分かる」(ことわざ)※ インスパイア A tree is known by its fruit. 「木のよしあしはその果実によって決まる」→「人はことばではなく行いによって判断される」(ことわざ)※青チャート なお、by で表せるような動詞の受動態の場合、動作主が一般の人である場合は、byおよび動作主を省略することもある(青チャート)。 ;感情と受動態 感情を表す be surprised at (驚く)などを、一説には、形容詞ではなく受動態であると見なす場合もある(ジーニアス、青チャート)。 be pleased with / be delight with 「~で喜ぶ」、 be satisfied with 「~に満足する」、 be disappointed at / in / with 「~に落胆する」 be interested in 「~に興味を持つ」、 be amused at/with 「~を楽しむ」、 be amazed at 「~に驚嘆している」、※ ジーニアス be worried about 「~を心配している」、 ;被害や災害 感情だけでなく、被害や災害も、英語では普通は受動態であらわす(インスパイア、青チャート)。 be delayed (遅れる) be delayed due to heavy snow 「大雪で遅れる」※インスパ 、 de delayed by heavy snow 「大雪で遅れる」※青チャ be injured (けがをする) be injured in the accident 「その事故でけがをする」※青チャ be killed ((戦争や事故などで)死亡する) be killed in traffic accident. 「交通事故で死亡する」※エバグリ 被害以外にも、受動態が使われる動詞がいくつかある。 be born in ~ 「~(場所、年)に生まれる」 I was born in U.S.A. 「私はアメリカ合衆国に生まれた」 be located in ~(場所)「~(場所)にある」※インスパ be accustomed to 「~に慣れている」※インスパ 婚約や結婚も、受動態。 be engaged 「婚約している」 be married 「結婚している」 なお、married は、 He got married to her. 「彼は彼女と結婚した。」 のように get married でもいい、「get 過去分詞」では変化を表す(エバーグリーン)。 engaged には「従事している」の意味もあるが、こちらも受動態でしか使わないのが普通。つまり be engaged 「従事している」 ;受動態にならない動詞 resemble ,meet のように相互関係を表す動詞(ロイヤル)は、受動態にならない。ただし、meetは「出迎える」の意味では受動態になりうる(ロイヤル)。 所有の状態をあらわす用法での have や 非所有の状態を表す lack などの動詞(ロイヤル、インスパ)は、受動態にならない。ただし、have でも「手に入れる」という別の意味では受動態にできる(ロイヤル)。 cost (金額がかかる)など数量を目的語にとる動詞(ロイヤル、インスパ)は、受動態にならない。 suit(~に似合う)、become(~に似合う)などの動詞(インスパ)は、受動態にならない。 ;be動詞ではなくgetやbecomeを使う動詞 get married 「結婚する」 He got married to her. 「彼は彼女と結婚した。」 become acquainted with 「知り合いになる」 ==== 助動詞と組み合わさった受動態 ==== He could be seen by her. 受動態の文を作るときには、その文の述語は必ずbe動詞の節になるが、be動詞に対して助動詞を用いたり、時制の変化をさせることも普通に行なわれる。 この時には、例えば He is seen by her. という文が He could be seen by her. の様にbe動詞は、助動詞+beの形で書き換えられる。これは、be動詞の原形が beで与えられることによる。同じ様に例えば、 might be may be must be will be なども用いることが出来る。また、過去形や現在完了と組み合わせるときにも通常の規則に従えばよい。例えば、上の文では He was seen by her. He has been seen by her. などとなる。been は be の過去分詞である。ここで、be が過去分詞 been になったのは、現在完了を作るためであり、see が過去分詞 seen になったのは、受動態を作るためであることに注意。 == さまざまな構文 == === 話法 === === 会話表現 === == 品詞 == === 代名詞 === ==== 未分類 ==== 中学校では「代名詞」として、 he や she や we など、基本的な代名詞を習う。 もちろんそれも代名詞であるが、しかしそれ以外にも多くの代名詞がある。 たとえば the same (「同じもの」の意味)も代名詞である(青チャート、ジーニアス)。なぜなら、the same は、なにか具体的な名詞を言う代わりとして使われるのだから、the same も立派な代名詞である。 このように、代名詞は別に一語でなくても構わない。 なお、形容詞的に the same の直後につづけて名詞が来る場合もあり、「the same ~ as ・・・(名詞または代名詞)」で、「・・・と同じ ~」の意味。 こちらの構文では the same は代名詞というよりも形容詞としての用法だが、市販の参考書では都合上、代名詞の章でいっしょにthe same ~ as の構文も教えているのが通例である。 ともかく例文は、たとえば the same ~ as yours で「あなたのと同じ~」の意味(ジーニアス、エバーグリーン)。 the same shoes as yours なら「あなたのと同じ靴」だし(エバー)、 the same computer as yours なら「あなたのと同じコンピュータ」である(ジーニアス)。 一方、慣用的に、節が続く場合は as ではなく that の場合が多く the same man that I saw yesterday で「昨日見かけたのと同じ男の人」の意味だし(エバーの和訳を少し改造)、 the same song that I heard yesterday で「昨日聞いたのと同じ曲」の意味(ジーニアス)。 のように、 「the same ~ that ・・・(節)」 というのもある。 ただし、節が続く場合でも、べつに as を使ってもかまわず、つまり「 the same ~ as ・・・(節)」としてもマチガイではない(ブレイクスルー)。 those who ~ で「~な人々」の意味の代名詞である。 たとえばエバーグリーンいわく、 those who wish to smoke で「たばこを吸いたい人々」である。 such は代名詞として「そのようなもの」「そのような人」として扱われる場合もある。 たとえば He is an adult now, and should be treated as such. 「彼はもう大人なのだから、そのように扱うべきだ。」 ※ジーニアス He is mere child, and should be treated as such. 「彼はまだほんの子供だから、子供として扱ってやるべきだ。」 ※青チャート のように such はよく as such などとして使われる。 ==== some と any ==== {| class="wikitable" style="left" |+ 複合不定代名詞 !   !! some- !! any- !! no- !! every- |- ! 人<br> -one<br> -body |  someone <br> somebody<br>(だれか) ||  anyone <br> anybody<br>(だれか、だれでも) || no one (※ 離して書く)<br> nobody<br>(だれも~ない) ||  everyone<br> everybody<br>(だれでも) |- ! 物<br>-thing |  something ||  anything  || nothing || everything |- |} some にも any にも「いくつかの」という意味がある。 よく参考書では、「 some は肯定文で使う。anyは疑問文・否定文で使う」などと習う(青チャート、ジーニアスなど)。 しかし桐原ファクトいわく、anyの基本的な意味は「どれでも」の意味である。any の「いくつかの」の意味は、「どれでも」の派生だと思うほうが良いだろう。 some と any の区別で悩んだ場合は、この「どれでも」の意味を基準に考えると良い。 だから肯定文であっても、「どれでも」の意味の形容詞には any を使う。 桐原ファクトいわく、疑問文で any を使う場合でも、ニュアンス的には「どれでも」の意味があるのが実際とのこと。否定文の any も同様。 この any の基本的な意味が「どれでも」の説に立てば、たとえば熟語 not ~ any が形容詞 no と同じ意味だということも、 not ~ any は「どれでもいいので存在してほしい(any)という事についてすら、それが成り立たない(not)。 → つまり無い」というふうに理解できます。 なお、any の後ろに否定語を置くのは禁止されている(ジーニアス、青チャート)。 ほか、慣用的な表現として、よくお茶などやコーヒーの飲み物をすすめる際に、 Would you like some coffee? 「コーヒーはいかがですか」(桐原ファクト) Would you like some more tea? 「お茶のお代わりはいかがですか」(青チャート) のようにsome を使う。 青チャートいわく、some は、答えが Yes であることを期待しているニュアンスのある表現とのこと。そういう用法もある。なので、人にものを勧めるからには、some で質問しないと失礼になるので、someを使うのが当然とのこと。 実際にはsome も any もけっして意味中立的な表現ではなく、それぞれニュアンスがあるので、some と any を完全に使い分けるのは難しいだろう。 参考書にあるような代表的な事例についてだけ、some とanyを使い分ければ、とりあえずは平気だろう。 somebody と anybody などの使い分けも、上記の some と any に準じる(桐原ファクト)。 たとえば「誰かに出会いました」といいたい場合は、somebody を使うべきだと桐原は言っている。これがもしanybodyだと 「誰でもいいのですが、その人に会いました」(原文ママ(桐原))という内容の意味不明の文章になってしまうことからも分かるとして、桐原ファクトは誰かに会った事を言いたい場合には somebody を使うべきだと言っている。 所有格については、-body や -thing の末尾に 's をつければいい(インスパ)。 Everybody's business is nobody's business. 「みなの仕事は誰の仕事でもない」(直訳)→「共同責任は無責任」(ことわざ) ※ 「共同責任は無責任」の部分がことわざ。青チャートおよびインスパイアがこの ことわざ を紹介。 ;慣用句など He is something of musician. 「彼はちょっとした音楽家だ」 ※青チャ、インスパ、ロイヤル something of a 「少しは~である」※青チャ、「ちょっとした~」※インスパ、 He thinks he is something. 「彼は自分を立派な人だと思っている」 「He thinks himself somebody. 」などでも同じ意味。 somebody または something で「立派な人」の意味(青チャート)。 逆に、nobody または nothing には「とるにたらない人」の意味がある(青チャート、ロイヤル)。 be something like または look something like で「少し似ている」の意味(青チャ、ロイヤル)。 ==== every とall の違い ==== 「すべての」という意味での every は形容詞であるが(インスパイア)、市販の参考書では便宜的に代名詞の章で紹介される。形容詞なので、every 単独ではあつかわれず、必ず直後に名詞または代名詞をともなう(インスパイア)。 every には「すべての」の意味もある(桐原ファクト、インスパイア)。しかし every と all には、ニュアンスの違いが明確に存在する。 また、every の後ろは単数形でなければならない。 every は、その全部を構成する一つ一つに関心がある文脈の場合に用いられる(桐原ファクト)。だから every で形容される名詞は必ず単数形でなければならないのも当然である(桐原ファクト)。また、everyは例外がないことを強調している(ジーニアス)。 each は2つ以上、every は3つ以上のものについて使用する。 なお、each は比較的に小さい個数のものに使い、everyは比較的に大きい数のものに使う(ジーニアス)。 each の使用対象はべつに2個限定でなくても構わない。 every と all には、こういったニュアンスの違いがあるので、参考書によってはevery の標準的な和訳を「すべての」以外で紹介する参考書も多い。 たとえば「あらゆる」「どの~も」という訳で every を紹介する参考書がよくある(青チャート、ブレイクスル-)。 なお、every には別の用法で「~(数詞のつく名詞)ごとに」の意味もあり、この場合は複数形になる。 たとえば every six hours で「6時間ごとに」である(ブレイクスルー)。 every four years で「四年ごとに」である(エバーグリーン)、なおオリンピックが四年ごとに開かれる という文章。 なお、「一日おきに」は every other day である(インスパイア)。 {{コラム|every child を受ける代名詞は he か she か?| 桐原ファクトに書いてあるのですが、男女のどちらの場合もある単数の名詞について、それを代名詞で受ける際、 he か she かが、時代とともに変わっていきました。 もともとは、男女不明などの場合は、とりあえず he で代名詞を受けていました(桐原ファクト)。 だから every child も he で受けていました。 しかし、それが男女平等の観点に反するという意見が多くなり、近年になって、「 he/ she 」などと受ける代名詞が変わってきました。 「he / she 」はhe or she と読みます。 しかし、長くなるので会話などで不便でした(桐原ファクト)。 その不便さを解消するためか、さらに最近では、単数形であることを無視して every child のような名詞でも they で受けています(桐原ファクトの 2022年 第2版で確認)。 each も同様、最近では they で受けます(桐原ファクト)。 :※ 上記のような説が有名であるが、それに対する若干の異論もある。それは 「もともと he は男の代名詞ではなく性別不明の代名詞であり、もし、男である何らかの名詞についてそれを代名詞で受ける場合については、とりあえず性別不明の代名詞である he を当てるというルールだった」というような説です。 ツイッターで東大の地震学の教授・[[w:ロバート・ゲラー]]がそのような主張をしています。 [https://twitter.com/rjgeller/status/1062486963242979328 Robert Geller@rjgeller 午前8:26 · 2018年11月14日] おおむね、その教授はおおむね「自分は50年前の高校生のときにそう習った(heは性別不明の代名詞だと習った)」(※ 日本語として読みやすくなるようにwiki側で文章を修正。正確な文章については参照元を読むこと)とツイッターで主張していました。 この場合でも男女は不平等であります。しかし、女性差別とは言いがたい実態になります。 つまり、「女性を無視して男性を意味する he を使っていたのではなく、そもそも he は男女不明の代名詞であったが、女性専用の she という代名詞が存在していたため、あとからhe に男性の意味がついてきた。なのに『性別不明の名詞に he を使う事を女性差別だ』というフェミニズム言説は間違っている」という説です。 もしこの説「he は性別不明の代名詞だった」論のとおりなら(この説が間違っている可能性もありますので、どちらかに決め付けないように)、現代の各国の英語教育が、フェミニズミム運動などに配慮して代名詞 he の歴史の説明について、若干のウソをついている事になる可能性があります。 どちらの場合にせよ(数学の確率問題の場合わけのように、マジメに検証する人は両方の可能性を検討する)、参考書の桐原ファクトをよく読めば、性別不明の代名詞 he → he/she → they の変遷について「男女平等」という表現は説明に用いていますが、しかし「女性差別」という表現は用いていません。桐原ファクトの著者たちは、なかなか優秀です。こういう何気ない言葉の端々に、参考書の著者の優秀さが現れます。 まあ、私たちは背景事情にまでは深入りする必要はありません。上記のような異論もあることも承知した上で、異論もふくめた両者の合意である he → he/she → they という性別不明の単数代名詞の客観的事実を覚えれば済みます。 }} ==== その他 ==== 「those who ~」で「~する人々」 Heaven helps those who help themselves. 「天はみずから助くる者を助く。」(ことわざ) ※ 青チャート So do I. 「私もです。」 「So 動詞+主語」 か「So 主語+動詞」かで意味が違う。 「So 動詞+主語」は、「主語もです」の意味。 「So 主語+動詞 」 は「主語は確かにそうだ」の意味(インスパ代名詞、ジーニアス副詞)。 例文を出せば、たとえば So he is. 「確かに彼はそうだ」 Tom is kind. 「トムは親切だ。」 - So he is. 「確かに彼はそうだ(=彼・トムは親切だ)。」 - So is John. 「ジョンもそうです。(=トムだけでなくジョンも親切ですよ)」 のような違いがある。 Tom can French well. 「トムはフランス語を上手に話せます」 - So he can. 「確かに彼はそうだ」 - So can John. 「ジョンもフランス語が上手ですよ」 ※ 青チャにcanで似た例文 === 形容詞・副詞 === ;副詞の位置 副詞の位置がどこに来るかについて、単語や文章によって様々である。 通常、英語では副詞の位置は、修飾対象に前置きである。 しかし very much や from time to time など複数語から構成される副詞表現になると、通常は文末または修飾対象の後ろに置かれるのが通常である(桐原ファクト)。 == 名詞構文・無生物主語 == === 名詞構文 === === 無生物主語 === The road takes you to the station. 「その道を歩いていくと駅につきます。」 The bus takes you to the station. 「そのバスに乗れば駅に行きます。」 take は「連れて行く」の意味だが、交通機関などを主語にして使うことも出来る。その場合は、たとえば道なら「その道を行けば、~につきます」のような意味になる。 takes の代わりに will take としても良い(ロイヤル英文法)。 「remind 人 of」 で「人に~を思い出させる」の意味である。 This picture reminds me of vacation in Greece. 「その写真を見ると、ギリシャでの休日を思い出す。」 This picture reminds me of holidays in London. 「その写真を見ると、ロンドンでの休日を思い出す。」 なお、大修館ジーニアスだとロンドン、桐原フォレストだとギリシャの例文。 「deprived 人 of ~」 「(機会などが)うばわれる」 The knee injury deprived him of the chance to play in the final game. 「ひざのけがのため、彼は決勝戦に出場する機会を失った。」 または The knee injury deprived the player of the chance to play in the game. 「ひざにけがをしたため、その選手は試合に出場する機会を失った。」 のように例文が参考書によくある。 enable ~ は、「~をできるようにする」「~を可能にする」の意味。「~のおかげで、・・・できるようになった」と訳すことができる。 The scholarship enabled him to go on to university. 「その奨学金のおかげで彼は大学へ進学できた。」 ジーニアス、ロイヤルに scholarship の似た例文。 == 疑問詞 == 疑問詞は、'''疑問代名詞'''と'''疑問副詞'''に分けられる。 下記に疑問代名詞の一覧の表を示す。 {| class="wikitable" style="float:left" |+ 疑問代名詞の種類 !   !! 主格 !! 所有格 !! 目的格 |- ! 人 |  who (だれが) ||  whose (だれの(もの)) || who / whom (だれを、だれに) |- ! 人、事物 |  what (何が) ||  ない  || what (何を、何に) |- ! 人、事物 |  which || ない || which (どれを、どちらに) |} {{-}} what, which には所有格が無い(青チャ、ロイヤル)。 what, which, whose は疑問形容詞としても用いられる(青チャ、ブレイクスルー)。※ ブレイクスルーでは、一覧表の直後で章が変わり、疑問形容詞の章になる。 上記の一覧表は、あくまで疑問代名詞のみである。 疑問副詞については、まったく言及していない。 {{-}} インスパイア、青チャート、ブレイクスルー、ロイヤルには上記のような疑問詞の一覧表がある。 ジーニアス、エバーグリーン、桐原ファクトには無い。 === 前置詞と疑問詞 === Where are you from? 出身はどちらですか? 文法上、ここでの Where は副詞であり、「疑問副詞」というのに分類される(ロイヤル)。 中学校では主語を you にした例を中心にWhereの疑問文を教わったかもしれないが(中学の1年くらいだと、まだ3人称をあまり習ってないなどの教育的理由があるので)、もちろん he や she などを主語にしても where を使った質問は使用可能である(青チャ)。 Where does he live in? 「彼はどこに住んでいますか」 - Los Angels. 「ロサンゼルスです」 のようにyou以外にも he やsheなどでも言うことも可能。 さて、「Where are you from?」 について前置詞 from に注目しよう。 もしかしたら中学高校などで「前置詞は名詞や代名詞の前に移動するのが原則」とか習うかもしれないが、しかし前置詞をけっしてfromの前に移動しない。 なので、Where は副詞であると考えたほうが理解しやすいだろう。(これとは別の解釈で、そもそも「副詞には前置詞がいらない」という考えから副詞ではなく代名詞としての機能だと考える立場もあり、ジーニアスやロイヤルやフォレストがそういう立場。だが、机上の空論だろう。) なお、法学など幾つかの学問では、『原則』というのは例外のありうる規則、という意味である。おそらくジーニアスが「原則」という言葉を使っているのは、Where ~?などの疑問詞を文頭にもちいた疑問文の場合は例外的な事例という含みがあるのだろう。 Where に限らず、たとえば When などで疑問文を作るときも原則、それらの疑問詞の前には前置詞(When の場合は since や till や until など)を置かない。そのため、それら When の文でも前置詞は文末にくる場合が多くなる。 つまり、「いつから~?」なら When do you ~ since ? のような文章になる事が多い。 ただし、疑問代名詞の場合は例外的である。 たとえば前置詞 With を使う場合、Who が目的格 Whom に変化する場合もあり、 With whom do you ~? 「誰と一緒に~しますか?」 のようにWith が文頭にくる場合もあるが(桐原)、文語調である(青チャート)。with以外の前置詞の場合でも文頭に持ってくる場合には同様にwhoではなく whom に変化する(ジーニアス)。なお、前置詞を文頭に持ってくる場合、whomを使わずにwho のままで文頭の前置詞の次に置くのは禁止である。 なお、Whomを使わずとも who のままで下記のように言うこともでき Who do you ~ with? となり、こちらは口語調である。 青チャートからの引用になるが、 About Which Yamada were you talking? (文語)「どちらが山田さんのことを話していたのですか.」 Which Yamada were you talking about? (口語)「どちらが山田さんのことを話していたのですか.」 となる。 しかし、 What are you looking for? 「何をさがしているのですか。」 については、 look for でひとつの句動詞(群動詞)なので、forは動詞の直後の文末でなければならない(青チャート)。なお、句動詞のことを群動詞ともいう。青チャートでは「句動詞」、インスパイアでは「群動詞」である。 同様にlook for (=を探す), look after (~を世話する),laugh at(を笑う), listen to, depend on , などが句動詞(群動詞)である(青チャ、インスパ、ロイヤル)。なので、これら句動詞(群動詞)では、動詞と前置詞は分離できないので、語順は「疑問詞 ~ 動詞 前置詞?」になる。 さて、疑問副詞の話題に戻る。 Where are you from? の場合、もし前置詞 from がないと、「あなたはどこ?」となり、それが出身をたずねているのか、それとも現在地をたずねているのか、意味が分からなくなることもあってか、ともかく 「Where are you from?」の文章は from を省略できない。 ジーニアスは、話し言葉ではWhereでは from を省略しないという言い方をしているが、しかし書き言葉であっても from を省略しないのが一般的であろう(省略したら上述のように意味が通らなり読み手に誤解を与えるので。)。 しかし、用いる動詞などによっては前置詞を省略できる場合があり、たとえば Where do you go to? 「どこに行きますか?」 なら、もし前置詞 to を省略しても、動詞 go から意味を推測できるので、この場合は to を省略されるのが許され、つまり Where do you go? でも許される(ジーニアス)。 このように文法の理論というのは、あまり論理的ではない。最終的には、英文法の学習では典型的な構文を覚えて、それを真似して使っていく必要がある。 === 慣用的な疑問文 === How about a cup of tea? 「お茶を一杯いかがですか?」 How about ~? は勧誘を表す。 What do you say to ~ing 名詞/動名詞 ? 「~はいかがですか?」「~しませんか」 What do you say to ~ing でも勧誘を表せる。 ここでのsayの直後にある to は前置詞であると考えられている(桐原フォレスト)。どういうわけか、ジーニアスもロイヤルも、to が前置詞かどうかは言及していない。 ほか、Why don't you 動詞 ~ ? は、「~してはどうしょうか」のような相手に行為を促す(うながす)言い方であり、やや押し付けがましい言い方である(ジーニアス)。 Why don't we の形で、一緒になにかをする時に「~しましょうよ」の意味で使う場合もある(フォレスト)。 また、これを省略的に Why not ~? の形で「~はどうですか」「~してはいかがでしょうか」「~しましょうよ」の意味にもある。 How come S + V ~? How come ~? は「どうして~」の意味でありwhy に近いが、How come のほうが感情的な表現であるので、目上の人に使うのは避けるのが良い(ジーニアス)。なお、How come は語順がSVと肯定形の語順になる。 How come you didn't call me ? 「どうして電話をくれなかったの?」 ※ 「電話してほしかったのに」のような含みがあり、相手を責めているようにも受け取られかねない。だから返事も、Sorry, 「ごめん」とかになる(ジーニアス)。 許可を求める表現である Do you mind if~? で、「~してもいいですか」という許可を求める表現ができる。なお Would you mind if ~? については仮定法になり、つまり「~」中の動詞が過去形になる。Would you mind if ~? については 『[[高校英語の文法/仮定法]]』で説明済み。 Do you mind if のほうは、if ~ の動詞は現在形で構わない。 What becomes of ~? 「~はどうですか」※ 青チャ、インスパ What has become of he? 「彼はどうなりましたか」 ※ 青チャに同じ例文 青チャートとインスパイアでしか、what becomes of は紹介してない。ジーニアス、エバグリ、ロイヤル、ブレイクスルー、桐原ファクトの巻末索引には無い事を確認。 しばらく見かけてない人や物の消息をたずねるのに what becomes of を使う(ジーニアス)。参考書では明記してないが、現在完了形や未来表現(will)などで使う例文が多い。 日本語の「どう」につられて how とするミスがあるので注意(青チャ)。 === 間接疑問文 === 「何が起きたかを話して」Tell me what happened. (ジーニアス、ブレイクスルー) のように、文中に疑問的な言い回し(上記の例では「何が起きたか」what happened の部分)が含まれているが、しかし文全体としては平叙文のような英文があり、こういう構造の文のことを間接疑問文という。 「間接疑問」とはいうものの、文中の「関節疑問」の部分は名詞節として働く。 間接疑問文が疑問文なのか平叙文なのかの分類は入試では問われないので、安心していい。文法参考書でも、間接疑問文については、紹介を書籍の後半部に後回しに後回しにしている参考書もある。 このため、高校英語では、疑問文とは、文末が「?」で終わる文章のことだと思っておけば、特に問題が無い。 Would you tell me what happened? 「何が起きたかを話してくれませんか.」 のように間接疑問文をさらに文全体でも疑問文にすることもできるが、本ページでは深入りしない。 I know what he wants. 「私は彼が欲しいものを知っている.」 のような表現も、間接疑問文に分類する場合もある。なお、間接疑問の節中の動詞の人称格変化の有無や、時制の一致などに注意。 I don't know what he wants. 「私は彼が欲しいものを知らない.」 のように文全体が否定文になることもある。 I know where he lives. 「私は彼が住んでいる場所を知っている.」 なお、 Do you know where he lives? 「彼がどこに住んでいるかを知っていますか.」 と質問された場合、文法的には返事は Yes, I do. 「はい知ってますよ」 No, I don't. 「いいえ、知りません」 となる。(ただし、現実では、質問された側が気を利かして、住んでいる場所まで答えてくれるような場合もありうるが、しかし本単元では考慮しないとする。) 文法的に、どこに住んでいるかを聞き出したい場合は、間接疑問ではなく、疑問副詞を用いた一般的な疑問文で Where does he live? で質問することになる。 このように、文頭の単語を見れば、文法上の返事の仕方や、文法的には質問されているものは何かを決定できる。 == 強調 == 抽象名詞+itself で、その名詞で表される内容を強調したことになる。また、all +抽象名詞 でも、その名詞の内容を強調したことになる。 She is happiness itself. 「彼女はとてもしあわせそうだ」 = She is all happiness. ※ インスパ She was kindness itself. 「彼女はとても親切だった.」 = She was very kind.  ※ 青チャ、ロイヤル ほかの参考書では、あまり重視されておらず、ジーニアス、エバーグリーン、桐原ファクト、ブレイクスルーなどでは見当たらなかった。 == 参考文献についての注意 == サブページ中の参考文献で、現代2022年では廃止になったシリーズの桐原『フォレスト』などを掲げているが、現代でも他社の いいずな出版『エバーグリーン』シリーズにフォレストの権利が引き継がれているようなので、わざわざ古本のフォレストを探す必要は無い。 [[カテゴリ:高等学校教育|ふむほふ]] p2ul6vgj3rsnx8fp0zqd202kniuv2i6 小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり 0 32852 207293 207083 2022-08-27T00:19:04Z Mtodo 450 /* 「むら」から「くに」へ */ wikitext text/x-wiki {{Nav}} {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|小学校社会/6学年|小学校社会/6学年/歴史編|frame=1}} {| class="wikitable" style="width:100%" |+ この章の概要 |<!--(ア) 狩猟・採集や農耕の生活,古墳,大和朝廷(大和政権)による統一の様子を手掛かりに,むらからくにへと変化したことを理解すること。その際,神話・伝承を手掛かりに,国の形成に関する考え方などに関心をもつこと。--> ★時代区分:原始時代、石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代</br> ★取り扱う年代:おおむね5世紀以前 ;狩猟・採集から農耕へ : 大昔、日本に人々が住みはじめたころ、人々は、木の実をひろったり(採集)、動物や魚を狩などでつかまえて(狩猟)、食料や衣服としていました。このころ、ものを切ったりするのに使った道具は石でできていました。このような道具を、'''石器'''といい、この時代を「'''石器時代'''」と言います。時代がだんだん進むと、人々は、土を火で焼き固めると固くなってうつわなどが作ること('''土器''')ができるのを発見します。最初は低い温度で厚くもろい器や人形('''土偶''')を作っていましたが(このような土器を「'''縄文土器'''」といい、この時代を「'''縄文時代'''」と言います)、さらに時代が進んで薄く硬い土器が作られるようになりました(このような土器を「'''弥生式土器'''」といい、この時代を「'''弥生時代'''」と言います)。 : 縄文時代から弥生時代に変わるころ、人々は狩猟・採集のくらしから田んぼや畑をたがやして米などを作る生活('''農耕''')をするようになりました。狩猟・採取の生活から農耕生活になると、人々は定住し「'''むら'''」ができます。人々が互いに行き来するようになると、「むら」はだんだん大きくなり、また、いくつかの「むら」が集まって「'''くに'''」となります。 ;「くに」の統一 : 「くに」を統治する王や女王は、海を越えて中国や朝鮮半島など大陸に使者を送ったりしました。その結果、大陸から'''青銅'''や'''鉄'''を作る技術や'''文字'''(「'''漢字'''」)などの文化が流入しました。鉄器が普及したことで石器は使われることがなくなり「石器時代」は終わります。この時代、「くに」の王など有力者は、墓として「'''古墳'''」を作りましたが、そこには'''{{ruby|埴輪|はにわ}}'''などのほか、青銅製の鏡(銅鏡)などが副葬されています(この時代を「'''古墳時代'''」とも言います)。 :そして、これらの「くに」をまとめて今の日本の元を作ったのが、天皇を長とした'''{{ruby|大和|やまと}}朝廷(大和政権)'''です。統一前に「くに」をひきいていた有力者などは'''豪族'''と呼ばれます。 |} == 大昔の暮らし == ;<span id="石器時代"/>石器時代と狩猟生活 :日本に人類が住み始めたのは、いろいろな説がありますが、ほりだされたもので確かめられるところでは、だいたい3万8000年前と言われています。 :そのころ、日本列島に住んでいる人たちは、海や川の近くに住んで、石や骨でつくった刃物や槍や矢をつかって、シカやイノシシなどの動物を、とらえて食料にしていました。このような石や骨でつくった道具を、'''石器'''といい、この時代を「'''石器時代'''」と言います。動物の骨は、とがらせて使うことが多く、とがらせたものを {{ruby|骨角器|こっかくき}} と言います。骨角器のようなとがった骨も出土することがあります。狩りなどで、槍の先の武器として使ったりすることが多かったものと思われます。 :石器も、最初のうちは、石をただ割ったものを使っていたのですが、時代がくだると、固い石をといでするどくしたり、{{ruby|黒曜石|こくようせき}}と言われるガラスに似た石をうすくとがらせてナイフのようにしたものも見られます。 ;{{ruby|考古学|こうこがく}} :この時代には文字がありませんでしたから、何が起こったのかという記録は残っていません。しかし、土をほりかえしてみると、このように使った土器や、とって食べたと思われる動物の骨、火を使ったあとなどが見つかることがあります。このようなものを、よく調べて大昔はどうであったかを研究する学問を'''考古学'''と言います。 === 縄文時代 === [[file:Jomon Vessel with Flame-like Ornamentation, attributed provenance Umataka, Nagaoka-shi, Niigata, Jomon period, 3000-2000 BC - Tokyo National Museum - DSC05620.JPG|thumb|200px|縄文土器 ]] :人々は、土を火で焼き固めて'''土器'''をつくるようになりました。その土器に縄の模様がついているので、この時代に作られた土器を {{ruby|縄文|じょうもん}}土器 と言います。この土器は、採取した木の実などを貯めたり、食べ物を煮炊きする「なべ」に用いたりしました。ふちに、炎のような飾りをつけたものは実用的ではありませんが、神々や祖先をまつる時に用いられたものと考えられています。 :この縄文土器を使用した、約1万2000年前から約3000年前までの時代のことを、 '''{{Ruby|縄文|じょうもん}}時代''' と言います。 [[Image:JomonStatue.JPG|thumb|left|150px|土偶({{ruby|亀ヶ岡|かめがおか}}遺跡)]] ;土偶 :器だけでなく、土を焼き固めた人形が見つかる場合があります。これを、'''{{ruby|土偶|どぐう}}'''といっています。土偶は、食料が増えることや女性の安産をいのったものだと考えられています。 {{-}} ;貝塚 [[File:Kasori midden preserve north.jpg|thumb|200px|加曽利貝塚、北貝層断面]] :土地を掘り返すと、多くの貝がらがまとまって発見されることがあります。そこには、貝がら以外にも、動物の骨や、魚の骨、土器の破片などが出土することもよくあります。研究の結果、これは、縄文時代の人々が住み着いた土地で、貝がらなどをごみとして捨てた場所であることがわかりました。これを、'''{{ruby|貝塚|かいづか}}'''といい、周辺に縄文の人々の集落があったことがわかります。 :貝塚には、東京都の{{ruby|大森|おおもり}}貝塚や、福井県の{{ruby|鳥浜|とりはま}}貝塚や、千葉県の{{ruby|加曽利|かそり}}貝塚などが有名です。 :貝塚や石器などに限らず古い時代の物が見つかる場所のことを、 '''遺跡'''と言います。遺跡などから出土する物(これを出土品や遺物と言います)によって、その時代の暮らしもわかります。 :魚つりに必要な、「釣り針」と「もり」が、縄文時代の遺跡から出土されることも多く、漁もしていたことがわかります。 :縄文時代の人の家の建物は、'''{{ruby|竪穴|たてあな}}住居''' といい地面に穴をほりさげたあとに、柱を立て、草ぶきの屋根をかけただけの住居にすんでいました。 ==== 三内丸山遺跡 ==== [[ファイル:Reconstructed Pillar Supported Structure.jpg|right|thumb|200px|三内丸山遺跡 六本柱建物(復元)]] :青森県の '''{{ruby|三内丸山|さんないまるやま}}遺跡''' は、約5500年前から約1500年前の間の縄文時代の集落だったということがわかっています。 :この三内丸山遺跡から、クリ、クルミ、トチといった実のなる樹木を栽培したあとが見つかっています。つまり、すでにこの時代から一種の農耕が始まっていたものと考えられています。 :また、多くの土器や石器のあとも見つかっており、大型の{{ruby|掘立|ほった}}て柱の跡も、見つかっていますが、この用途はまだ分かっていません。 :ヒスイの玉や、黒曜石でできた刃物のようなものも見つかっています。ヒスイは、この地ではとれず、新潟県の{{ruby|糸魚川|いといがわ}}などの他の土地でとれるので、他の地域と交易があったのだろう、と考えられています。 :この三内丸山遺跡は、縄文時代を知る遺跡として代表的な遺跡です。 {{-}} === 弥生時代 === [[Image:YayoiJar.JPG|right|200px|thumb|弥生土器]] ;{{ruby|弥生|やよい}}土器 :約3000年前から、土器は、それまでの縄文土器に比べて、うすくかたいものとなりました。これは、縄文土器に比べて、土を焼き固めるのに高い温度で焼き固めることができるよう技術が進歩したためです。これを、'''{{ruby|弥生|やよい}}土器'''(または、「弥生式土器」)と言います<ref>1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚(向ヶ岡貝塚 東京大学構内)で発見されたためこの名がついています。</ref>。 :この弥生土器を使用した、約3000年前から約1800年位前(紀元後3世紀中期)までの時代のことを、 '''{{Ruby|弥生|やよい}}時代''' と言います。 ;{{ruby|稲作|いなさく}}のはじまり :縄文時代の生活は狩猟・採集によるものが主でした。縄文時代の後期になって農耕をやっていたと考えられますが、あまり大規模なものではありません。'''弥生時代'''を特徴づけるのは、稲作をはじめ定住したことです。 :2400年ぐらい前のころから、現代中国の{{ruby|揚子江|ようすこう}}(または、{{ruby|長江|ちょうこう}})周辺から、日本に'''水田'''(田んぼ)を用いて米を栽培する技術('''稲作''')が伝わりました。 :稲作は、まず西日本につたわり、西日本から東日本へと、米作りが広がっていき、東北地方南部にまで広がりました<ref>弥生時代の遺跡は、新潟県北部と千葉県・茨城県を結んだ線より西側で発見されており、弥生時代には東北まで稲作ができる品種がなかったと考えられています。</ref>。 :この時代の農具は、木製や石器です<ref>北部九州の一部では鉄を用いた農具も見つかっています。</ref>。{{ruby|穂|ほ}}から米をとるときに、 {{ruby|石包丁|いしぼうちょう}} が、使われました。 ;<span id="むら"/>「むら」の誕生 :米は乾燥させると、長期間保管ができます。米を大量に保管することで、冬など食料となるものが少なくなる時期でも、人々は安定した生活をおくることができます<ref>同じような穀物に、小麦やトウモロコシがあります。小麦は、乾燥した土地を好むので日本の気候にあまり合いませんし、トウモロコシは、まだ日本に伝わっていませんでした。</ref>。米は縄文時代から採集または水田を使わずに栽培されていたことがわかっていますが、水田を作って栽培することで、収穫量が大きく上がります。一方で、土地をならして水田をつくったり、ため池などの水源を確保し水を引く水路を作ったりする作業は少人数でやるのはむずかしいことです。そして、一度作った水田は何年も使い続けないと、また、荒れ地をきりひらいて水田を作ることから始めないといけなくなります。稲作を続けていくために、人々は水田を中心に定住を始めます。米などの農作物が安定して取れることで人口が増えていき、やがて、多くの人々が住む「'''むら'''」ができます<ref>「むら」ということばは、「むらがる・むれる(集まる)」や「むれ(集まったもの)」と関係があると言われています。</ref>。 ;{{ruby|高床|たかゆか}}倉庫 :米は、 '''{{ruby|高床|たかゆか}}倉庫''' で保管されていました。 :高床倉庫が高いのは、ねずみ などの動物が入りづらくするためです。なお、風通しをよくするため、という理由も考えられます。ねずみの害を防ぐという理由の有力な根拠として、地面から床までの柱の、柱のてっぺんに、「かえし」がついていて、動物などが登れないように工夫した高床倉庫が見つかっています。弥生時代の多くの住まいは、縄文時代同様、竪穴住居でした。 <gallery widths="200px" heights="200px"> Image:Takayukasikisouko.JPG|高床倉庫 妻側より(復元、神奈川県、{{ruby|大塚|おおつか}}・{{ruby|歳勝土|さいかちど}}遺跡) File:Yoshinogari-iseki takayukashiki-souko.JPG|高床倉庫(復元、佐賀県{{ruby|吉野ヶ里|よしのがり}}遺跡) File:2004年08月25日竪02.JPG|thumb|240px|right|弥生時代の竪穴住居(復元、静岡県{{ruby|登呂|とろ}}遺跡) File:Yoshinogari-iseki tateanashiki-juukyo.JPG|thumb|250px|right|弥生時代の竪穴住居(復元、佐賀県吉野ヶ里遺跡) </gallery> ;金属器の伝来 :およそ2300年前、青銅器や鉄器などの金属器とその製造法が伝わります。 :青銅とは、銅 と すず(金属の1つ)を、とかしてまぜあわせた金属でつくられた合金です。比較的低い温度で溶けて加工することができるという特徴があります。鉄は、今でも身近にある非常に硬い金属ですが、製造するためには、青銅より強い火力を必要とします。世界の歴史では、まず、金属器としては青銅が普及し、続いて実用的な鉄が普及したのですが、日本には、ほぼ同時期に伝来したと考えられ、青銅器は、おもに祭りの道具を作るのに使われ、鉄器が、農具や武器などの実用品につかわれるようになりました。 :金属器を使い始めると、石器が使われなくなるため、それ以降を[[#石器時代|石器時代]]とはいわなくなります<ref>世界の歴史では、使われる金属器によって「青銅器時代」「鉄器時代」ということもあり、現代も含めて「鉄器時代」ですが、皆さんは覚える必要はありません。「石器時代」が終わったことだけ理解しておいてください。</ref>。 :青銅器は表面がさびても形を残す性質があるため、銅{{ruby|剣|けん}}や、銅{{ruby|矛|ほこ}}、銅{{ruby|鐸|たく}}、銅{{ruby|鏡|きょう}}などが残っています。一方、鉄は、うめられると、さびてボロボロになってしまいますし、鉄自体、貴重なものだった<ref name="鉄">鉄は、材料となる砂鉄や鉄鉱石が日本では希少で、製造に大量の炭を使い、{{ruby|鍛治|かじ}}という特殊な技術が必要であったため、当時の生活から見るとかなり高価なものでした。</ref>ので、再利用して、あらたな道具として作り直されることが多く、当時のものはほとんど残っていません。 <gallery widths="200px" heights="200px"> ファイル:YayoiBronzeSpearTip1-2ndCenturyKyushu.jpg|弥生時代の銅矛(九州で出土、1~2世紀) ファイル:DotakuBronzeBellLateYayoi3rdCenturyCE.jpg|thumb|銅鐸 </gallery> {{-}} [[file:Toro Site 1.jpg|thumb|200px|登呂遺跡全景]] ;{{ruby|登呂|とろ}}遺跡 :静岡県の登呂遺跡は、1943年(昭和18年)発見され、1947年に考古学・人類学・地質学など各分野の学者が加わった日本で初めての総合的な発掘調査が行われた遺跡です。8万平方メートルを超える水田跡や井戸の跡、竪穴式住居・高床式倉庫を建てたあとが検出されました。この他にも、農耕や狩猟、魚釣りのための木製道具や火起こしの道具、占いに用いた骨などが出土しました。 {{-}} [[File:Yoshinogari-iseki zenkei.JPG|thumb|440px|right|吉野ケ里遺跡,遠景]] ;{{ruby|吉野ケ里|よしのがり}}遺跡 :佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、昔から、遺物の出土が見られた土地でしたが、工業用地開発にあたり調査をしたところ、1989年に弥生時代の大規模な集落あとであることが発見されました。 :この遺跡は、まわりを{{ruby|濠|ほり}}でかこまれた {{ruby|環壕|かんごう}}集落 であるところに特徴があります。ほりの内側からは、多くの高床倉庫が見つかっています。ほりは集落を守るためにめぐらされたと考えられています。 :また、矢がささった人骨も見つかっており、これらのことから、人々のあいだで争いがあったことが想像できます。おそらくは、米作りによって、食料生産が増えたので人口が多くなって、それぞれの集落で、さらに多くの人口を養うために米の生産量を増やす必要が生じ、集落どうしで、土地や水をめぐっての争いが起きたのだろうと思われています。このような争いが、身分の差を作っていった理由の一つだとも、思われています。 {{-}} === 「むら」から「くに」へ === ;「くに」の誕生<!-- ::*「むら」と「くに」はどこが違うのか。 ::*「むら」や「くに」はなぜ大きくなっていかなければならなかったのか。--> :[[#むら|こうして「むら(村)」ができると]]、村同士のあらそいがしばしば起こりました。その原因は、村と村の間に水源がある時にどちらが使うかというものであったり、不作などで食糧が足りなくなったのでとなりの村をおそって食糧をうばったりしたものだったのでしょう。相手の村に対抗するため、別の村と共同してあらそうことがあったかもしれません。 :強い村が弱い村をしたがえたり、村同士で共同したりして、村はだんだん大きなものとなっていきます。村が大きくなってくると、人の行き来もふえ、道を作ったりしなければならなくなります。<span id="市"/>また、人が集まると、人々は同じ農耕(稲作)ばかりではなく、野菜や果物を作ったり、魚をとったり、カゴなど竹細工や木工品を作ったりと別々のことをやって、それぞれ作った農作物や、とった魚や動物、作ったカゴなど工作品とを交換して生活を豊かにすることができるようになります。こうしたものの交換の場として、'''{{ruby|市|いち}}'''ができます。 :田を耕したり、物を収穫したりする能力は人それぞれです。村の中にも豊かな人とそうでない人の差はできました。さらに、たとえば、広い田を持つ豊かな人は、田を持たない人に収穫の一部を与える代わりに自分の田をたがやさせたり、貧しい人の子どもをもらってきて育て、やはり、自分の農地で使ったりもしたでしょう。村のあらそいで負けた人々が、このような立場になることもあったとも考えられます。このころには、こうした豊かな人たちと、その人たちに支配される人々の差がでてきました。 :村が大きくなるにつれ、ばらばらの人をまとめるリーダーが必要になってきます。リーダーは、ため池・水路や道をつくったり、整備することの指示をしたり、市を開いたり、市でのもめごとをおさめたり(仲裁)、また、他の村とのあらそいでは武器を持って戦ったり、それを指揮したりしたでしょう。このリーダーには、上でのべた豊かな人たちがなったり<ref name="鉄"/>、そのような人の中で能力が高いために人々が押し上げたりしたのでしょう。知識をたくわえ、{{ruby|神|かみ}}の声として伝えて、そのようなリーダーになった人もいたかもしれません。 :さらに、時間がたつと、村はますます大きくなっていきます。だんだん、このリーダーたちは、自分で田を耕さず、日々の指示や仲裁や戦うことだけを仕事とするようになり、リーダーたちの生活は村の人々が収穫の一部をわけることで成り立つようになります。すなわち、「'''税'''」です。税の仕組みができた村を「'''くに'''」と言います<ref>「くに」ということばは、「むら」ほど明確な関係は、わかっていませんが、「{{ruby|組|く}}む」「{{ruby|組|くみ}}」と関係があるとも言われています。</ref>。そして、のちに「くに」のリーダーの、さらに長を「'''王'''」、女性の場合は「'''女王'''」と言ったりします<ref name="王">「くに」の長については、当時の言葉が残っていないので、中国語の考え方(漢字)を当てています。少し後の時代に、「主人」という意味で「きみ(君)」と呼ばれていたらしいとも考えられています。「くに・くむ・くみ」と少し似ていますね。「きみ」を支配するものが「おおきみ」です。</ref>。 :「くに」は、「むら」と同様に、となりの「くに」とあらそうなどして、大きくなっていきます<ref name="人口">弥生時代の日本の全人口は60万人くらいだったのではないかといわれています。次の古墳時代の終わりころになって、ようやくその10倍くらいになります。紀元前1世紀頃は100数カ国あったとされる(これは、九州北部から近畿地方までと考えられていますから、おそらく200以上はあったでしょう)ので、「くに」といっても、人口数千人から数万人の規模であったと考えられます。</ref>。このころになると、朝鮮半島をはじめとする大陸としばしば行き来するようになります<ref>稲作や金属器製法の伝来は大陸からなので、それ以前も行き来はあったでしょうが紀元前1世紀くらいから特にふえます。</ref>。「王」の中には大陸から渡ってきたものもいるかもしれませんし、大陸にわたって王になったものもいるかもしれません。 ;中国との交流<span id="中国との交流"/> :中国には、約5000年前から青銅器を作り、約3500年前には文字(漢字)を使っていた古い文明をもった人々が住んでいました。紀元前3世紀には、大きな国となって、それを{{ruby|皇帝|こうてい}}が治めていました。 :日本の「くに」の王は、皇帝に{{ruby|貢|みつ}}ぎ物をおくり、関係をもちました。これは、皇帝に貢ぎ物をおくると、そのお返しに数倍の価値の品物を与えられ<span id="朝貢"/>、また、皇帝によって「くに」の王としての地位が認められたからです。 :中国の歴史書には、日本の「くに」が貢ぎ物をおくったことが記録されています。 [[File:King of Na gold seal.jpg|200px|thumb|right|金印。「漢委奴国王」印]] :#最初の記録は、紀元前1世紀に、当時の'''{{ruby|漢|かん}}'''{{ruby|王朝|おうちょう}}<ref>同じ家系の皇帝によって治められた時代を王朝と言います。</ref>(前漢<ref name="漢">漢は一度ほろぼされましたが、一族がまた王朝を開きました。滅ぼされる前の王朝を「{{ruby|前漢|ぜんかん}}」、新しくできた王朝を「{{ruby|後漢|ごかん}}」と言います。</ref>)の朝鮮半島にある役所に貢ぎ物がなされたこと記録されています。当時の日本は「'''{{ruby|倭|わ}}'''<ref>なよなよした人、背が低い人(矮)などの意味で、あまり良い意味ではありません。</ref>」と呼ばれ、百数国に分かれていたと書かれています。これが、日本のことが文書に書かれた最初の例です。 :#57年、倭の{{ruby|奴|な}}国が貢ぎ物をし、漢(後漢<ref name="漢"/>)の皇帝は、'''金印'''をさずけました。金印は江戸時代になって、現在の福岡県で発見されました。金印には「漢委奴国王」と書いてあります。これは、一般に「{{ruby|漢|かん}}の{{ruby|委|わ}}(=倭)の{{ruby|奴|な}}の国王」と読んでいます。「漢が支配する倭(=日本)の奴の国の王」という意味です。 :#107年、倭国王が来て、奴隷160人を貢ぎ物として、皇帝に会うことをねがった。文明の進歩していない日本からの貢ぎ物は、おもに人(奴隷)だったことがわかります。 :#147年から189年にかけて、倭国の中で大きな戦争があって、国々が互いに争ったことが記録されています。その当時になると、中国も日本に興味を持っていたことがわかります。 :#<span id="邪馬台国"/>235年、'''{{ruby|魏|ぎ}}'''<ref>このころ、中国では後漢はほろぼされ、「魏」が最も有力な王朝となっていました。</ref>の皇帝に、使いをおくりました。おくった国は、'''{{ruby|邪馬台国|やまたいこく}}'''といい、その王は女性で'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#卑弥呼(ひみこ)|卑弥呼]]|ひみこ}}'''といいました。 :#*この卑弥呼が魏におくった使者については、くわしく記録されており<ref>この歴史書を、『{{ruby|魏志|ぎし}}{{ruby|倭人|わじん}}{{ruby|伝|でん}}』と言います。</ref>、当時の社会をよく知ることができます。以下にいくつか例をあげます。 :#**百数国あった国は、このころ、中国と行き来のある国は、約30国になった。 :#**邪馬台国は30国をしたがえているが、{{ruby|狗奴国|くなこく}}と対立している。 :#**卑弥呼はうらないやまじないで国をまとめていて、その姿を人前にあらわすことはない。 :#**人々は、顔や体に{{ruby|入|い}}れ{{ruby|墨|ずみ}}を入れ、貫頭衣と言われる単純な服を着ている。 :#**養蚕をして糸をえている。牛や馬は飼っていない。 :#**邪馬台国からの貢物は男女の奴隷10人とわずかな布に対して、皇帝は、金印に加えて、大量の錦などの高価な織物や金、刀、銅鏡100枚などを与えた。 :#*邪馬台国の場所は分かっておらず、古くから多くの人が色々な説を出して論争をしています。奈良県と北部九州が有力ですが、結論は出ていません。 == 「くに」の統一 == === 古墳時代 === [[画像:NintokuTomb Aerial photograph 2007.jpg|thumb|{{ruby|仁徳天皇陵|てんのうりょう}}と伝えられている大山古墳。前方後円墳、大阪府堺市]] :3世紀から4世紀ごろになると、各地で'''{{ruby|古墳|こふん}}'''といわれる、大きな墓が作られるようになります。古墳には「くに」の王や有力者('''{{ruby|豪族|ごうぞく}}''')が{{ruby|埋葬|まいそう}}されたと考えられています。この、3世紀ごろから7世紀ごろの時代を '''古墳時代''' と言います。 :古墳は全国に分布しますが、特に九州地方から中国地方をへて、近畿地方にかけて多く見られます。古墳は朝鮮半島南部にも見られ、この地域との関係が深かったことがわかります。 :古墳には、いろいろな形のものがあります。円形に{{ruby|盛|も}}り上がった古墳を{{ruby|円墳|えんふん}}と言います。四角く盛り上がった古墳を{{ruby|方墳|ほうふん}} と言います。円墳と方墳があわさったような、かぎ{{ruby|穴|あな}}のような形の古墳を {{ruby|前方後円墳|ぜんぽうこうえんふん}} と言います。大阪府{{ruby|堺|さかい}}市にある {{ruby|大仙|だいせん}}(大山)古墳 は、日本で最大の面積の古墳です。 :弥生時代に比べて古墳時代は、古墳作りのような大規模な事業ができるほど人口が増えます<ref name="人口"/>。これは、大陸から、牛や馬がもちこまれたり<ref name="牛馬">『魏志倭人伝』には、「倭には、馬や牛はいない」と書かれていますので、この時代(古墳時代)に伝わったことがわかります。馬は、漢字の音(昔の中国語の音)で「マ」と発音しますが、それがなまって「うま」となったとされています。</ref>、鉄を製造する技術が普及したためであると考えられています。 :なお、このころ、中国は国内が乱れたため、邪馬台国を書いたような歴史書がとだえ、4世紀の様子はあまり伝わっていません。ただ一方で、<span id="好太王の碑"/>4世紀末から5世紀にかけて朝鮮半島の北部に倭の軍隊がせめいって北部の国({{ruby|高句麗|こうくり}})と戦ったことが、朝鮮半島の石碑<ref>「{{ruby|好太王|こうたいおう}}の碑」といいます。</ref>に残っています。このように、この当時も朝鮮半島とは盛んに行き来がありました。 {{-}} ;古墳の{{ruby|副葬|ふくそう}}品 :古墳からは、鏡や玉・{{ruby|勾玉|まがたま}}、{{ruby|剣|つるぎ}}などが副葬<ref>遺体とともに埋葬されることを言います。</ref>されています。ほかにも、'''{{ruby|埴輪|はにわ}}''' という、土を焼いて作られた筒状のもの<ref>「はに」-土で作ったもの、「わ」-円形のもの、で、「はにわ」と言います。</ref>が発見されています。これは、時代がくだると、人や牛馬<ref name="牛馬"/>、家や船などをかたどったものが見られるようになります。埴輪から、当時の人々がどのような姿をし、どのような家に住み、どのような船に乗ったのかなど、当時の生活の様子を知ることができます。これら、古墳の副葬品からわかる古墳時代の文化のことを'''古墳文化'''と言います。 <gallery widths="200px" heights="200px"> File:Large domestic mirror, Kofun period, 300s-400s AD, bronze - Tokyo National Museum - Ueno Park, Tokyo, Japan - DSC09133.jpg|副葬品の銅鏡(奈良県・{{ruby|柳本大塚|やなぎもとおおつか}}古墳出土 ) File:Koujindani Remains 03.JPG|銅矛とともに出土した銅鐸(島根県・{{ruby|出雲|いづも}}市の{{ruby|荒神谷|こうじんだに}}遺跡)。古墳時代の遺跡。 Magatamas.JPG|古墳時代の勾玉(東京国立博物館所蔵) 塚廻り古墳 - panoramio.jpg|埴輪出土の様子 ファイル:メスリ山古墳出土 大型円筒埴輪.JPG|大型円筒埴輪 File:KofunSoldier.jpg|thumb|left|140px|埴輪。武装男子立像(群馬県{{ruby|太田|おおた}}市出土) 画像:HaniwaHorse.JPG|thumb|190px|馬形埴輪 ファイル:西都原古墳群出土 埴輪 子持家.JPG|家の埴輪 ファイル:西都原古墳群出土 埴輪 船.JPG|船の埴輪 </gallery> {{-}} === 大和政権 === [[File:Inariyama sword.JPG|thumb|250px|right|真ん中の、{{ruby|縦|たて}}に長いものが、発掘された{{ruby|鉄剣|てっけん}}。]] :現在の奈良県奈良市周辺、{{ruby|大和|やまと}}川上流部の奈良{{ruby|盆地|ぼんち}}は、「'''やまと'''(後に「'''大和'''」の字を当てます)」と呼ばれる稲作に適した豊かな土地<ref>現代の考え方では、多くは川の下流の海に近い広い低湿地の方が稲作に適していると考えられていますが、そのような土地は水害に弱く、江戸時代くらいになるまでは、このような盆地や台地で水の豊富な土地が稲作の中心でした。</ref>で、大和川を下って、現在の大阪府中部周辺も一体となった、この地域における「くに」の王や豪族は、大変有力なものとなりました。それは、この地方に、大きな古墳が数多く発見されていることからもわかります。 :この地方の豪族たちは、自分たちのリーダーとして'''{{ruby|大王|おおきみ}}'''<ref name="王"/>をおしたて、それに従うことになります。この{{ruby|大王|おおきみ}}が、現在の天皇の祖先とされ、{{ruby|大王|おおきみ}}の政府を大和{{ruby|朝廷|ちょうてい}} と言い、この大和地方の勢力を'''{{ruby|大和政権|やまとせいけん}}''' と言います。 :大和政権は、東西に兵を出して、日本の「くに」を一つにまとめようとします :5世紀後半に作られたと見られる埼玉県の{{ruby|稲荷山|いなりやま}}古墳から見つかった{{ruby|鉄剣|てっけん}}には、「ワカタケル大王」という名がきざまれた文が発見されました。この文から、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたことがわかります。また、熊本県の {{ruby|江田船山|えだふなやま}}古墳 にも、一部が読めなくなっていましたが、「ワ□□□ル大王」という同じ名の刻まれた鉄刀があり、ワカタケル大王の支配する領域が、関東地方から九州までの広い範囲におよんでいたことがわかります。このことから、大和政権は、5世紀後半から6世紀前半にかけて、日本を統一したのではないかと考えられています。 :<span id="南北"/>5世紀に入ると中国はやや安定し、南北に王朝ができ、より安定した南の王朝に日本が使者を何度も送ったことが記録されており、これを送ったのは大和政権の{{ruby|大王|おおきみ}}(天皇)であろうとされています。 ;「くにづくり」についての日本神話 :<span id="漢字伝来"/>日本に、文字(漢字)が伝えられたのは、4世紀後半から5世紀前半にかけてであろうとされています。伝説では、朝鮮半島から渡ってきた{{ruby|王仁|わに}}が伝えたとされていますが、その前から、ある程度の読み書きはできていたと考えられますし、1人の伝えたもので、文字が伝わるものでもありません。おそらく、朝鮮半島から、漢字を読み書きできる集団が移住してきて大和朝廷につかえたことの、{{ruby|象徴|しょうちょう}}だと考えられます<ref>実際に、王仁の子孫とされる{{ruby|西文|かわちのふみ}}氏は、朝廷に{{ruby|史|ふひと}}という書記の役職で朝廷につかえます。</ref>。 :したがって、文字が伝わるまで日本で何があったのかはよくわかりません。また、文字が伝わった後も、しばらくは書かれたものも少なかったため、記録はほとんど残っておらず、やはり詳しいところはわかっていません。 :この時代のことを知るには、出土品などから考古学の方法によるか、中国などに残る歴史書にたよるしかありません。 :しかし、文字のない時代にあっても、人々は、いろいろなできごとを、物語にして語り伝えてきました。これを、「{{ruby|口伝|くでん}}」といいます。人が記憶によって伝えるのですから、語り伝えている間に、正しく伝わらなかったり、伝える人に都合よくかえられたり、また、よくわからないことについては、神秘的なできごと、つまり、{{ruby|神|かみ}}さまのやったことにしてしまうなど、正確なものとはいえませんが、元々のできごとを想像させたり、それを語りついだ人々の考えを知ったりすることができます。このようにして、語り伝えられた物語を{{ruby|神話|しんわ}}といいます。 :日本においても、神話は語りつがれていました。8世紀になって、日本人が漢字を自由に使いこなし、紙なども大量に入手できるようになると、日本の歴史をまとめることをはじめます<ref>[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#奈良時代|次の章の「奈良時代」]]で詳しく説明します。</ref>。この時に、日本神話を多く書き残しました。[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#記紀|特に、大和朝廷の成立に関係する神話については『{{ruby|古事記|こじき}}』・『{{ruby|日本書紀|にほんしょき}}』という書物にまとめます]]。この二つの書物の名をとって、これらの神話を、{{ruby|記紀|きき}}神話と言います。いかに簡単に紹介します。すでにいくつか知っている話もあるかもしれません。[[/「くにづくり」についての日本神話|別のページ]]では、もう少し詳しく解説します。 :ただし、神話はあくまでも物語です。これを読む時に歴史的事実とごちゃごちゃにならないよう注意しましょう<ref>たとえば、ここに紹介する神武天皇の話は『古事記』によると、約2700年前の話になるのですが、そのころに、鉄などの高度な文明があったことは、考古学上発見されていません。</ref>。 :;国産み・神産み神話 ::男神イザナギと女神イザナミは結婚して、日本の国土の島々を産み、また、さまざまな物事に関するたくさんの神々を産みました。 :;{{ruby|高天原|たかまがはら}}神話 ::イザナギの子である太陽の女神アマテラスは、神々の土地である{{ruby|高天原|たかまがはら}}をおさめますが、弟の男神スサノオが暴れるので、{{ruby|天岩戸|あまのいわと}}と言われるほらあなにかくれてしまいます。太陽の神がかくれたので、世の中は真っ暗やみになります。困った神々は策略をめぐらしアマテラスを天岩戸からひっぱりだして、元の平穏な世界にもどります(天岩戸伝説)。スサノオは高天原を追放されます。 :;{{ruby|出雲|いずも}}神話 ::追放されたスサノオは、出雲(現在の島根県)に向かいます。出雲で、人々を困らせる大蛇の化物ヤマタノオロチの話を聞き、これを退治し出雲に住んでここを治めます(ヤマタノオロチ伝説) ::出雲の神さまであるオオクニヌシは、兄弟の神々からいじめられていたが、海岸でひどい目にあっているシロウサギを助けるなど優しい心の持ち主であったので({{ruby|因幡|いなば}}の白兎伝説)、多くの人々に受け入れられ、やがて、スサノオをついで出雲を治め、日本全国をおさめることになります。オオクニヌシの国は、オオクニヌシを厚くまつることを条件にアマテラスからの使者にアマテラスの子孫にゆずることを約束させられます(国譲り神話、出雲大社由来)。 :;{{ruby|天孫降臨|てんそんこうりん}}神話・{{ruby|日向|ひゅうが}}神話・{{ruby|神武東遷|じんむとうせん}}神話 ::アマテラスは孫のニニギに日本を治めさせることとし、ニニギは日向(現在の宮崎県)の{{ruby|高千穂|たかちほ}}におります({{ruby|天孫降臨|てんそんこうりん}}神話)。 ::ニニギの子のホオリ({{ruby|山幸彦|やまさちひこ}})は、兄のホスセリ({{ruby|海幸彦|うみさちひこ}})と対立しましたが、ホオリがホスセリをしたがえました(海幸山幸伝説)。 ::ホオリの孫であるイワレヒコは、日向から船出し瀬戸内海沿岸の国々をしたがえ、大和を征服し、初代天皇である「神武天皇」となりました({{ruby|神武東遷|じんむとうせん}})。 :;ヤマトタケル神話 ::景行天皇の皇子であるヤマトタケルは、西に九州の{{ruby|熊襲|くまそ}}を平定したのち、東国に向かい、各地を平定しました。 == 脚注 == 以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small> <references/></small> ---- {{前後 |type=章 |[[小学校社会/6学年/歴史編]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう|日本の歴史の流れ]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう|歴史の流れをつかもう]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代|天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代]] }} [[Category:社会|しようかつこうしやかい6]] [[Category:小学校社会|6ねん]] [[Category:小学校社会 歴史|#03]] 28xr6y6b3cft4ulwsdd1k0zm14or6bw 小学校社会/6学年/歴史編/はじめに 0 32856 207324 204240 2022-08-27T09:18:19Z Mtodo 450 /* 年代・時代の学習上の注意 */ wikitext text/x-wiki {{Nav}} {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|小学校社会/6学年|小学校社会/6学年/歴史編|frame=1}} == 年代・時代の表し方 == 歴史学習では、「過去」の「できごと」をあつかいます。「過去」である「いつ」を表現するのにはいくつかの方法があります。 #「〜年前」という表現 #:わかりやすい表現ですが、年が変わると毎年言い方が変わるので、「いつ」起きたのかがはっきりしているできごとをあらわすには適当ではありません。「いつ」起きたのかがはっきりしない大昔のできごと(例、2万年前、5000年前)をあらわすのにもちいます。 #年代による表現 #:ある基準となる年<ref>これを、「{{ruby|紀元|きげん}}」といいます。</ref>をきめて、その年から前後何年たったかということによって、「いつ」をあらわす方法です。みなさんの学習には、'''{{ruby|西暦|せいれき}}'''が使われます。 #:西暦は、キリスト教を始めた[[w:イエス・キリスト|イエス・キリスト]]が生まれたとされる年を西暦1年として年を表す表し方です<ref>世界中が、キリスト教の信者ではないので、イスラム教の国にはイスラム暦、タイなど仏教国には{{ruby|仏暦|ぶつれき}}というものがあり、その国内では使われていますが、国際的な交流には不便なので、キリスト教信者の少ない国でも多くは「共通暦」という言い方で、西暦を使っています。</ref>。現在は西暦{{CURRENTYEAR}}年です。 #:;世紀 #::西暦を100年ごとにまとめたものを{{ruby|世紀|せいき}}と言います。これは、長い時間の{{ruby|幅|はば}}をもったできごとが、おおよそ「いつ」ごろに起きたのかをしめす時にもちいます。西暦1年から西暦100年までが1世紀です。西暦101年から西暦200年までが2世紀です。西暦2001年から西暦2100年までを21世紀といいます。たとえば、105年は2世紀、1853年は19世紀にふくまれます。 #:::(参考)'''紀元前''' #::::西暦1年より前の年をあらわす場合、西暦1年から何年前かという意味で「{{ruby|紀元前|きげんぜん}}○年」という言い方をします。西暦1年の前の年は紀元前1年です。 #::::西暦1年より後について、「<sup>×</sup>紀元◯年」「<sup>×</sup>紀元後◯年」という言い方はしません。 #::::これから学習する日本の歴史では「紀元前○年」というのはあつかいませんから、あくまでも参考としてください。ただし、世紀については、「紀元前○世紀」という言い方をすることがありますから、それを見つけた時は、西暦1年から100年ごとに昔になっているんだなと理解してください<ref>紀元前1世紀は、紀元前100年から紀元前1年まで/紀元前2世紀は、紀元前200年から紀元前101年まで/紀元前3世紀は、紀元前300年から紀元前201年までです。</ref>。 #'''時代'''[[File:日本の時代の年表.png|650px|thumb|時代の流れ]] #:歴史学習では、できごとの背景となる環境が共通している時期を、「'''時代'''」としてまとめています。時代のまとめ方は、代表的な文化であったり、政治の拠点であったりさまざまです。小学生のみなさんは、今すぐおぼえる必要はありませんが、歴史の学習を進めるにつれ、以下の時代をおぼえることになります。 #:#{{ruby|縄文|じょうもん}}時代 #:#{{ruby|弥生|やよい}}時代 #:#{{ruby|古墳|こふん}}時代 #:#{{ruby|飛鳥|あすか}}時代 #:#{{ruby|奈良|なら}}時代 #:#{{ruby|平安|へいあん}}時代 #:#{{ruby|鎌倉|かまくら}}時代 #:#{{ruby|室町|むろまち}}時代 #:#*さらに、以下の時代がわけられることがあります。 #:#*:{{Ruby|南北朝|なんぼくちょう}}時代 - 1392年まで #:#*:{{Ruby|戦国|せんごく}}時代 - 1467年以降 #:#{{ruby|安土桃山|あづちももやま}}時代 #:#{{ruby|江戸|えど}}時代 #:#{{ruby|明治|めいじ}}時代 #:#{{ruby|大正|たいしょう}}時代 #:#{{ruby|昭和|しょうわ}}時代 #::※現代 - 平成や令和は、最近のことなので歴史の時代としてはとりあつかいません。 #:(参考)<span id="元号">'''元号'''</span> #::今は、『令和』です、その前は『平成』でした。このように、日本では特定の年代に呼び名をつける慣習があり、この呼び名を『元号』といいます<ref>元号は、もともと中国で使っていたもので、中国の影響を受けた周辺各国で使っていました。現在、元号の習慣があるのは日本だけになりました。</ref>。日本では646年(大化元年)からずっと元号があって、現在でも、日本国政府などがあつかう公的なものでは、西暦を使わず、または、西暦に優先してこれを使うことになっています。歴史の学習においても「明治」「大正」「昭和」といった時代は元号に合わせて区分しています。しかし、一般的には、覚えにくいなどの理由<ref>①日本の元号は、全部で248個ある。②元号は年の途中で変わる、③同時に2個の元号があった時期がある。</ref>で、歴史の学習には元号は使いません。 === 年代・時代の学習上の注意 === :これから、みなさんが歴史を学習するのに、「年代や時代を暗記しなければならないの?」と不安になるかもしれません。 :答えるのが、ちょっとむずかしい問題です。 :まず、ある「できごと」が起こったり、ある人物が{{ruby|活躍|かつやく}}した「時代」は、どの時代かというのは、その「できごと」や人物と一緒におぼえなければならないでしょう。なぜならば、その「できごと」は「時代」がひきおこしたり、その「できごと」が「時代」を変えるからです。 :では、年代はどうでしょう。おそらく、小学生のみなさんが理解しなければいけない「できごと」は、100個程度ではないかとおもいます。それを、全ておぼえなければならないかといえば、おそらく、小学校の間は必要ないでしょう。ですから、おぼえられないからといって心配しないでください。 :ただ、歴史では、どちらが先に起こったかという前後関係は、とても大切です。だから、教科書には、「できごと」に年代をつけて前後関係<ref>複数の「できごと」に、原因と結果の関係がある場合、「{{ruby|因果|いんが}}関係」といって、歴史の学習の重要なポイントになります。</ref>がわかるようにしています。年代は暗記する必要はありませんが、前後関係は「理解」するようにしましょう<ref>中学受験とかには、年代を暗記する必要がある場合があるかもしれません。このときは、指導する塾などの先生の指導をよく聞いて、「どの『できごと』が大事か」という順番をつけて、重要なものからおぼえるようにしましょう。ただし、そのような場合でも、基本は前後関係・因果関係です。</ref>。 :年代を100年ごとにまとめた「世紀」については、「時代」と似ている部分があり、こちらは、「時代」と一緒におぼえることをすすめます。 :年代をおぼえる必要はありませんが、「できごと」を年代ごとにならべた「'''[[小学校社会/6学年/歴史編/年表|年表]]'''」を参考に(または、自分で作りながら)、歴史の学習をすることは、理解を深めるのに大変効果的です。 == 脚注 == 以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small> <references/></small> ---- {{前後 |type=章 |[[小学校社会/6学年/歴史編]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう|日本の歴史の流れ]] |- |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう|歴史の流れをつかもう]] }} [[Category:社会|しようかつこうしやかい6]] [[Category:小学校社会|6ねん]] [[Category:小学校社会 歴史|#01]] ayw5t0eiv4pec83hqzjc05r0mmh4ghi 小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代 0 32873 207294 207267 2022-08-27T00:43:29Z Mtodo 450 wikitext text/x-wiki {{Nav}} {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|小学校社会/6学年|小学校社会/6学年/歴史編|frame=1}} {| class="wikitable" style="width:100%" |+ この章の概要 |<!--飛鳥時代(聖徳太子の政策、遣隋使)から奈良時代にかけて--><!--(イ) 大陸文化の摂取,大化の改新,大仏造営の様子を手掛かりに,天皇を中心とした政治が確立されたことを理解すること。--> ★時代区分:飛鳥時代、奈良時代</br> ★取り扱う年代:おおむね6世紀以前から794年(平安遷都)まで ;飛鳥時代 : 大和朝廷によって日本が統一されると、ますます、大陸との行き来が増えました。朝鮮半島から技術や文化を持った人々が定住し、これらを伝えました('''渡来人''')。また、仏教が日本に伝えられたのもこのころです。 : 当時、中国では「'''{{ruby|隋|ずい}}'''」が国を統一し強力なものとなっていました。推古天皇の皇太子である'''聖徳太子'''は、隋にならって天皇中心の強力な政治を進めるため、役人の心得をしるした「'''十七条の憲法'''」をあらわし、序列を明らかにする「'''冠位十二階'''」を定めました。また、'''小野妹子'''などを隋に派遣し('''遣隋使''')、隋と親交を結ぶとともに、隋の制度などを学ばせました。なお、まもなく隋は「'''{{ruby|唐|とう}}'''」に滅ぼされますが、中国への派遣はつづき、これを'''遣唐使'''と言います。また、仏教がさかんになり、'''法隆寺'''などの寺院が建てられました。これは、都が{{ruby|飛鳥|あすか}}(奈良県中部)を中心にくりひろげられたので、この時代を「'''飛鳥時代'''」と言います。 :大化の改新 : 聖徳太子が亡くなったのち、最も勢力を持っていた蘇我氏を中大兄皇子(後の'''天智天皇''')は中臣鎌足('''藤原鎌足'''、「'''藤原氏'''」の始祖)らとともに討ち、天皇中心の政治を一層強力なものにしました。例えば、土地は天皇のものとして人々に均等に分け与え、'''{{ruby|租|そ}}{{ruby|庸|よう}}{{ruby|調|ちょう}}'''といった税を徴収する制度('''公地公民制''')などがすすめられました。また、この時、中国にならって、初めて'''元号'''「大化」を定めました。これらの事件や改革を'''大化の改新'''と言います。このころ、朝鮮半島では'''{{ruby|新羅|しらぎ}}'''が統一を進めていて、唐と連合して'''{{ruby|百済|くだら}}'''を攻めました。百済は日本に助けを求め、日本は百済とともに新羅・唐と戦いましたがやぶれ、多くの百済の人々が日本へ移り住みました。 ;奈良時代 : 朝廷は、国づくりをすすめるのに、'''{{ruby|律令|りつりょう}}'''という法律を作り、それにもとづく政治が行われるようになりました('''律令制''')。また、それまでは、天皇が変わるたびに都を移していたのですが、現在の奈良市に大規模な都「'''平城京'''(奈良の都)」を作り、そこで天皇が代わっても引き続いて政治を行うようになりました。また、このころ、初めて貨幣が作られました('''和同開珎''')。 : 平城京には、遣唐使で留学した僧や来日した僧によって多くの寺院が作られました。'''聖武天皇'''は即位した頃、地震や疫病などの災いが起こったのを受け、仏教に救いを求めて、全国に'''国分寺'''や'''国分尼寺'''を建立しました。これ話の総本山として奈良に'''東大寺'''をつくり、そこに大仏('''奈良の大仏''')を作りました。 : 平城京に都のあった時代を「'''奈良時代'''」と言います。 |} == 飛鳥時代 == === 大和政権の政治 === :[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#大和政権|大和政権は5世紀後半から6世紀前半にかけて、日本の「くに」を統一しました]]。しかし、統一前は各地の「くに」の王であったものが、大和政権にしたがって{{ruby|国造|くにのみやつこ}}や{{ruby|県主|あがたぬし}}などといわれる称号<ref>このような称号を{{ruby|姓|かばね}}といいます。「かばね」は、個人に与えられたものではなく、一族全体で称したものです。</ref>のついた豪族となっただけで、大和朝廷との関係はうすいものでした。他方で、{{ruby|大王|おおきみ}}のまわりの朝廷も、{{ruby|臣|おみ}}、{{ruby|連|むらじ}}、{{ruby|伴造|とものみやつこ}}などの様々な称号のついた豪族によってなりたっており、なかでも{{ruby|大臣|おおおみ}}である{{ruby|蘇我|そが}}氏、{{ruby|大連|おおむらじ}}である{{ruby|物部|もののべ}}氏や{{ruby|大伴|おおとも}}氏といった豪族が有力となっており、それらが、きそっていました。 :<span id="渡来人"/>また、このころ、日本は朝鮮半島との間に深い関係がありました。朝鮮半島は、中国に隣接しており高い技術や文化が伝わっていたので、それらを持った人々が多く日本にやってきて、日本に住み着きます。この人々を'''{{ruby|渡来人|とらいじん}}'''といいます。日本に、'''仏教'''が伝わったのもこのころです。はじめは、渡来人たちの宗教として広まり、やがて6世紀のなかば、朝鮮半島南西部にあって親密な関係にある'''{{ruby|百済|くだら}}'''の国王から、{{ruby|大王|おおきみ}}あてに正式に伝わりました。 :前の章で書かれたとおり、[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#好太王の碑|倭が朝鮮半島の'''{{ruby|高句麗|こうくり}}'''にせめいったことの記録があります。]]日本は、当時、朝鮮半島の南に{{ruby|任那|みまな}}と呼ばれた領土があったのではないかと考えられてもいますが、朝鮮半島南東部の'''{{ruby|新羅|しらぎ}}'''がだんだん勢力を伸ばしてきて、任那を攻めとってしまいます。 :大和政権は、これに兵を送りましたが、任那はとりもどせませんでした。また、地方の豪族たちもしばしば反乱を起こしました。大和政権は、統一にともなって、支配する地域が広がり、そこに住む人々の数も大きくふえたため、たとえば、戦争を行うとか反乱をおさめるために兵士を集めるなど、それまでのような、豪族の連合では問題の解決が難しくなっていました。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="部民"/>大和政権の国の仕組みと苗字(姓)'''<small> :大和政権は、日本を統一したといっても、それは、豪族の連合であって、国としてのまとまりは弱いものでした。 :このころは、「税」か土地を有する主人と人民の間のやりとりなのかはあいまいで、大和政権が征服した土地の一部を、{{ruby|大王|おおきみ}}の土地として、各地の豪族(国造や県主など)にまかせて、そこからの収穫を都におくるというものでした。このような土地を「{{ruby|屯倉|みやけ}}」と言います。「{{ruby|三宅|みやけ}}」さんという苗字(姓)はこれに由来します。なお、各地の豪族が支配した土地を、「{{ruby|田荘|たどころ}}」と言います。「{{ruby|田所|たどころ}}」という苗字の方もいますね。 :また、{{ruby|大王|おおきみ}}は、職業別の人民のグループをしたがえていて、屯倉(農地)で働かせたり、ニワトリを飼わせたり、工芸品を作らせたりしました。そこから得られるものも大和朝廷のものとなりました。この人民のグループを「{{ruby|部民|べのたみ}}」と言います。田をたがやす{{ruby|田部|たべ}}、ニワトリを飼う{{ruby|鳥飼部|とりかいべ}}、土器を作る{{ruby|土師部|はじべ}}などさまざまな部民がいました。また、豪族のもとにも同じような、人民のグループがいて、それらの人々は「{{ruby|部曲|かきべ}}」と言われてました<ref><span id="奴婢"/>部民・部曲の他、主人が売り買いすることもある召使いや{{ruby|奴隷|どれい}}のような{{ruby|身分|みぶん}}である、{{ruby|家人|けにん}}や{{ruby|奴婢|ぬひ}}と呼ばれる人々もいました。</ref>。その部民の中に、川の渡し船を職業としたグループがいます。河川を使った水運や大きな橋のない時代に、陸上交通を助けたりもしたでしょう。この部民を「渡部」と書いて「わたべ」「わたなべ」と読みます。きっと、皆さんのだれかの苗字か、知り合いの苗字ですよね。もどっていえば、「田部・多部・田辺」さん、「鳥飼」さんとか「土師」さんとかもいませんか。 :服を作る部民を「服部」といいます。「はっとり」さんですよね。これは、もとは「はとりべ」と呼ばれていて、「はたおり」からきています。 : :以上の話を、簡単に表にすると以下のようになります。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" ! !! 支配する土地 !! 支配する人民 |- ! {{ruby|大王|おおきみ}}(天皇) | {{ruby|屯倉|みやけ}} || {{ruby|部民|べのたみ}} |- ! 豪族 | {{ruby|田荘|たどころ}} || {{ruby|部曲|かきべ}} |} </div></small> |}</div> [[File:Prince Shotoku face.svg|180px|thumb|聖徳太子]] === 聖徳太子 === :大和の有力な豪族どうしの争いは、まず、大伴氏は政治を失敗して勢力が弱くなります。のこった蘇我氏の{{ruby|蘇我馬子|そが の うまこ}}と物部氏の{{ruby|物部守屋|もののべ の もりや}}は、{{ruby|用明|ようめい}}天皇<ref>聖徳太子の父になります。</ref>の死後、誰を天皇とするかで争います。これは、大和朝廷で仏教を信仰するかという争いでもありました。馬子<ref><span id="呼称"/>歴史では、個人を指すのに、しばしば下の名前だけでさししめすことがあります。姓名ともに記述すると長くなってしまいますし、代名詞「彼・彼女」では、複数の人物が登場したときに誰を指すのかがわかりにくくなります。上の名前(氏姓・苗字)では、後から出てくる藤原氏・源氏・徳川氏など同じ一族の区別がつきません。日本人の本名である{{ruby|諱|いみな}}は、重なることが少ないため、そのような取り扱いになります。ただし、明治以降は、特定の一族ばかりが活躍することも少なくなり、また、姓の種類が増えたこともあって、上の名前(姓)で個人を指すことが増えます。</ref>は、仏教をとりいれる立場で守屋はそれに反対する立場でした。馬子は、この争いに勝ち、大きな権力をにぎります。馬子は、次の天皇を自分の思いのままにならないからという理由で殺してしまい、593年、初めて女性の天皇である<span id="推古"/>{{ruby|推古|すいこ}}天皇を即位させます。馬子は女性の天皇だと戦争などの時に不安があるため、おいの{{ruby|厩戸王|うまやどのおう}}を{{ruby|摂政|せっしょう}}とし、政治を補佐させます。これが、'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#聖徳太子(しょうとくたいし)|聖徳太子]]|しょうとくたいし}}'''です<ref name="太子">「聖徳太子」は、死後につけられた名前です。歴史の学習では、「太子」だけで「聖徳太子」をさすことがよくあります。なお、本文中「-天皇」と書いていますが、この時代「天皇」という言葉は、まだありません。この前の節までは、大和政権の長をあらわすのに、その時代に使われていた{{ruby|大王|おおきみ}}という表現をしていましたが、聖徳太子の時代以降は、個々の天皇を個人名として表す必要があるため、「-天皇」という表現とします。</ref>。聖徳太子は摂政の立場で、豪族の集団の政治から、'''天皇中心の政治'''を目指します。また、お寺をつくるなどして、仏教文化をさかんにします。これは、都が{{ruby|飛鳥|あすか}}(奈良県中部)を中心にくりひろげられたので、この時代を「'''飛鳥時代'''」と言います。 :太子<ref name="太子"/>は、仏教の信仰が厚く、また、深く研究していたと伝えられます。摂政となる前、馬子と守屋の戦いでは、仏教方である馬子がわにあって、{{ruby|四天王|してんのう}}の像をほって、勝ったならば寺を作ってまつると祈りました。戦いに勝った結果建てられたのが、現在大阪市にある、四天王寺というお寺です。 :太子が摂政になった当時、中国では「'''{{ruby|隋|ずい}}'''」が南北に分かれた中国を統一し強力なものとなっていました。[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#南北|大和朝廷は南の王朝には何度も使者を送っていた]]のですが、北の王朝へは送っておらず様子があまりわかりませんでした。600年太子は隋に使者を送って様子をみさせます('''{{ruby|遣隋使|けんずいし}}''')。使者は、隋からもどって、太子に隋の進んだ政治、特に皇帝に権力がまとまった様子({{ruby|中央集権|ちゅうおうしゅうけん}})を報告します。太子は、深く納得して、豪族たちの争う大和政権の仕組みをかえようととりくみ、以下のようなことをおこないました。 :'''聖徳太子の改革''' ::*'''{{ruby|冠位十二階|かんいじゅうにかい}}の制''' ::*:603年、太子は朝廷に使えるものを役割の重さにしたがって、12の段階に分け、それを冠の色で見分けられるようにしました。それまでは、臣・連・国造などの称号が多数あってその関係は明確ではなく、また、それは豪族一族に認められたものでしたが、この制度によって、一族ではなく、能力のある個人に役職があたえられることになりました。この、冠位の制度は、「{{ruby|位階|いかい}}<ref name="位階">役人の順番を表したもの。後世には、「正一位、従一位、・・・」と言うように表すようになりました。</ref>」の形となって後世まで引き継がれます。 ::*'''{{ruby|十七条|じゅうしちじょう}}の{{ruby|憲法|けんぽう}}''' ::*:役人としてのこころがまえをしるしました。一人で決めないで、みんなで相談して決めることなどが説かれ、また、仏教を信じることなどが決められています。 <div style="margin:0 4em 0 8em"> {| style="border:1px solid #777; background-color:#ffffff; width:60%; margin:0.25em 0" | style="padding:0.25em 0.5em" |'''十七条の憲法(要約)''' :1条 争いをやめ、なかよくしなさい。 :2条 仏教を厚く保護しなさい。 :3条 天皇の命令にはしたがいなさい。 :5条 裁判は、公正に行いなさい。 :12条 農民などの{{ruby|民|たみ}}から、勝手に税やみつぎ物をとってはいけません。 :17条 重要なことを決めるときには、話し合いで決めなさい。 |}</div> :[[ファイル:Horyu-ji08s3200.jpg|thumb|法隆寺。{{ruby|金堂|こんどう}}と{{ruby|五重塔|ごじゅうのとう}}]][[File:Shakyamuni Triad Horyuji2.JPG|thumb|法隆寺の{{ruby|釈迦三尊像|しゃかさんぞんぞう}}(金堂)]] ::*'''{{ruby|遣隋使|けんずいし}}''' ::*:607年、'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#小野妹子(おののいもこ)|小野妹子]]|おののいもこ}}'''に太子の手紙を持たせて、ふたたび隋に使者を送りました。609年、やはり、小野妹子が使者となり派遣されました。この遣隋使には、国の制度を学ぶための留学生や仏教を学ぶための留学僧を多数ともなっていました。遣隋使は、610年、614年にも送られます。 ::*'''仏教の普及''' :::*仏教を深く研究し、お経の解説書をあらわしました。 :::*四天王寺ほか多くの寺を{{Ruby|建立|こんりゅう}}<ref>寺などを建てること。</ref>しました。 :::*:607年に、{{ruby|斑鳩|いかるが}}に建てた'''{{Ruby|法隆寺|ほうりゅうじ}}'''は特に有名です。 :::*:*法隆寺は、現存する木造建築としては世界最古といわれています<ref>ただし、太子の死後、まもなく火災にあい、現在のものは670年に立て直されたものと言われています。それでも、世界最古の木造建築物です。</ref>。また、法隆寺金堂の釈迦三尊像<ref>渡来人系の{{ruby|鞍作止利|くらつくりのとり}}が聖徳太子の病気回復を祈って制作し、太子の死後完成したものとされます。また、真ん中の釈迦は聖徳太子をモデルにしたとも伝えられています。</ref>など国宝に指定されているものが数多くあります。法隆寺は、1993年に世界文化遺産に登録されました。 ::*その他 ::*:初めて、日本の歴史書『天皇記』『国記』をまとめさせましたが、現在は残っていません。 :'''聖徳太子の改革の結果''' ::622年、聖徳太子は亡くなりました。推古天皇(628年没)よりも先に亡くなったため天皇になることはありませんでした。 ::聖徳太子の改革によって大和政権はどうかわったでしょうか。冠位十二階や十七条の憲法によって、大和政権は天皇を中心とした政権であることが理解されたのではないかと思います。しかしながら、法律などを決めて政治のルールにするまでは達しませんでしたし、多くの豪族の勢力は弱まったものの、太子の政策は、馬子<ref>太子の{{ruby|妃|きさき}}は馬子の娘です。</ref>(626年没)の協力があってなされたため最大の豪族である蘇我氏は強い勢力をもちつづけました。聖徳太子の改革は、天皇中心の政治に向けて「さきがけ」となったと言えるでしょう。太子のやりのこしたことを、これからのべる「大化の改新」や「律令制」で完成させるのです。 ::隋との外交はうまくいった方でしょう。隋に留学した人々は、あらたな知識を持って日本に帰ってきました。ただ、隋は、618年、太子が生きている間に、{{ruby|唐|とう}}にほろぼされます。太子は、新たな王朝と外交を始めなければならないと心配していたのではないでしょうか。 ::聖徳太子の功績で最も大きいものは、仏教の普及だとおもわれます。聖徳太子が、摂政である時期、多くの寺が建立され、朝廷内にも定着しました。 === 大化の改新と律令制の成立 === :聖徳太子の改革の後も、蘇我氏だけは強い勢力をもちつづけました。626年馬子が亡くなると、その子である蘇我{{ruby|蝦夷|えみし}}が{{ruby|大臣|おおおみ}}の地位をつぎました。蝦夷は、推古天皇の死後の{{ruby|舒明|じょめい}}天皇の即位、その次の{{ruby|皇極|こうぎょく}}天皇の即位にあたって口を出すほどの権力をもちました。642年、蝦夷は生きている間に子の蘇我{{ruby|入鹿|いるか}}に{{ruby|大臣|おおおみ}}を天皇のゆるしなくゆずりました。入鹿は聖徳太子の天皇中心の政治をめざす人々と対立し、643年には聖徳太子の子の{{ruby|山背大兄王|やましろのおおえのおう}}をせめほろぼします。 :645年、'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)|中大兄皇子]]|なかのおおえのおうじ}}'''は、'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#中臣鎌足(なかとみのかまたり)|中臣鎌足]]|なかとみのかまたり}}''' とはかってくわだてて、宮中で入鹿を殺し、そのまま、蝦夷の屋敷をせめて、自殺させます({{ruby|乙巳|いっし}}の{{ruby|変|へん}})。 :こうして、力を持った豪族はいなくなったので、中大兄皇子たちは、天皇中心の政治を行うために改革を行います。中大兄皇子は、聖徳太子と同じように皇太子として、この改革をおこないます。 :*'''元号の制定''' :*:はじめて、「'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/はじめに#元号|元号]]|げんごう}}'''」をさだめて「'''{{ruby|大化|たいか}}'''」としました。元号は元々中国の習慣で、{{ruby|暦|こよみ}}を皇帝(日本では天皇)が決めることができるというものです。 :*:ここから、これから行われる改革を「'''{{Ruby|大化|たいか}}の{{Ruby|改新|かいしん}}'''」といいます。 :*'''改新の{{ruby|詔|みことのり}}''' :*:翌646年、改革の内容を示した「改新の{{ruby|詔|みことのり}}<ref>天皇の命令</ref>」が出されます。以下の4か条です<ref name="詔">ただし、これは『日本書紀』に書かれたことであって、現在の研究では646年に、このようなまとまったもので出されたわけではなく、何年もかけて整備されていったものだとされています。たとえば、「防人」が、この{{ruby|詔|みことのり}}に出てきますが、実際、九州に配置されたのは663年以降とされています。</ref>。これにさらに明細にあたる副文がそえられています。 <div style="margin:0 4em 0 8em"> {| style="border:1px solid #777; background-color:#ffffff; width:100%; margin:0.25em 0" | style="padding:0.25em 0.5em" |'''改新の{{ruby|詔|みことのり}}'''(大意) #[[#部民|今までの、天皇の{{ruby|部民|べのたみ}}と各地の{{ruby|屯倉|みやけ}}、そして豪族の所有する{{ruby|部曲|かきべ}}」の民と各地の{{ruby|田荘|たどころ}}]]を廃止する。 #{{ruby|都|みやこ}}を定め、{{ruby|畿内|きない}}・{{ruby|国司|こくし}}・{{ruby|郡司|ぐんじ}}・{{ruby|関所|せきしょ}}・{{ruby|斥候|せっこう}}・{{ruby|防人|さきもり}}・{{ruby|駅伝|えきでん}}制などの制度を導入し、通行証を作成し、国郡の境界を設定することとする。 #{{ruby|戸籍|こせき}}・{{ruby|土地台帳|とちだいちょう}}を作成し、{{ruby|班田収授法|はんでんしゅうじゅのほう}}をおこなう。 #今までの{{ruby|労役|ろうえき}}を廃止して、新たな{{ruby|租税|そぜい}}制度({{Ruby|田|でん}}の{{Ruby|調|ちょう}})をつくる。 |}</div> :::おのおの、解説します。 :::#天皇の{{ruby|部民|べのたみ}}と各地の{{ruby|屯倉|みやけ}}、そして豪族の所有する{{ruby|部曲|かきべ}}」の民と各地の{{ruby|田荘|たどころ}}を廃止する。 :::#:<span id="公地公民"/>大化の改新までは、土地・人民とも、天皇(=大和朝廷=日本)に属するのと、豪族に属するのがあったけれども、すべて、天皇に属するものとするということです。これを、 '''{{Ruby|公地公民|こうちこうみん}}''' といいます。 :::#:簡単にいえば、豪族から土地と人民<ref>{{ruby|家人|けにん}}・{{ruby|奴婢|ぬひ}}といった人々は、そのまま、豪族などのものとされました。</ref>をとりあげたということです。かわって、これらの豪族は朝廷の役人となり、役人の官位({{ruby|官職|かんしょく}}と{{ruby|位階|いかい}}<ref name="位階"/>)にあわせた報酬があたえられるようになりました。このことで、豪族は、朝廷にしたがうものとなりました。役人には、だれでもなれることになっていましたが、実際になるのは、このようなもともと豪族だった役人の子孫ばかりでした。こののちの時代にかけて、このようにもともと豪族であった中央の役人やその一族を「'''{{ruby|貴族|きぞく}}'''」と呼ぶことにしましょう。 :::#{{ruby|都|みやこ}}を定め、{{ruby|畿内|きない}}・{{ruby|国司|こくし}}・{{ruby|郡司|ぐんじ}}・{{ruby|関所|せきしょ}}・{{ruby|斥候|せっこう}}・{{ruby|防人|さきもり}}・{{ruby|駅伝|えきでん}}制などの制度を導入し、通行証を作成し、国郡の境界を設定することとする。 :::#:都と地方の政治についてさだめます。 :::#:*{{ruby|都|みやこ}}を定めます。改新前は、朝廷は天皇の住まい周辺に集まったもので、あまり大規模ではありませんでした。天皇中心の政治を行うにあたっては、役人の数もふえ、役所などの規模が大きくなっていきます。そこで、単に天皇の住まいではなく、国全体をおさめる都市として、{{ruby|都|みやこ}}を考えるようになります。大化の改新当初は小規模で、よく移転しましたが、やがて、平城京という大きな都ができ、安定します。 :::#:*{{ruby|畿内|きない}}<ref>「きだい」とも読みます。</ref>は、都近辺の国です。都の政治の影響もあるため、国の中でも特別なあつかいをします。今の日本で「首都圏」のようなものです。現在の奈良県・大阪府・京都府の一部が畿内となります。 :::#:*それまで、<span id="国"/>各地の豪族(国造や県主など)がおさめていた地域を、いくつかにまとめ「'''{{ruby|国|くに}}'''」として朝廷から役人を'''{{ruby|国司|こくし}}'''として送り統治します。それまで、各地をおさめていた豪族は、朝廷の役人である'''{{ruby|郡司|ぐんじ}}'''となって、おさめていた地域で国司を補佐します。 :::#:*関所は、国境におかれて都などを守る拠点となります。また、人は田をたがやしたりする労働力なので、移動は厳しく制限されます。通行証がなければ関所は通られません。 :::#:*各国の状況は{{ruby|斥候|せっこう}}が調べて、朝廷に報告します。 :::#:*九州に大陸からの警備の兵として'''{{ruby|防人|さきもり}}'''がおかれました。 :::#:*日本中の国と都で使者をやり取りするようになったので、街道沿いには、使者が使う馬を何頭も飼って馬を乗りかえたり、夜になったら宿泊したりする「{{ruby|駅|えき}}」を作り、都との連絡が、うまくできるようにした{{ruby|駅伝|えきでん}}制を整備しました。 :::#{{ruby|戸籍|こせき}}・{{ruby|土地台帳|とちだいちょう}}を作成し、{{ruby|班田収授法|はんでんしゅうじゅのほう}}をおこなう。 :::#*「公地公民」になって、朝廷は人民に土地を分け与えて農業をすることとなりました。これを、{{ruby|班田収授法|はんでんしゅうじゅのほう}}といいます。 :::#*人々の名前や年齢、住所を登録した {{Ruby|戸籍|こせき}} を作成し、それにもとづいて、{{ruby|土地台帳|とちだいちょう}}に書かれた土地をわりあてます。人々はそれをたがやし収穫をあげて、その中から税をおさめるという仕組みです。 :::#今までの{{ruby|労役|ろうえき}}を廃止して、新たな{{ruby|租税|そぜい}}制度({{Ruby|田|でん}}の{{Ruby|調|ちょう}})をつくる。 :::#*今までは部民は天皇に、部曲は豪族に、収穫や工芸品などをおさめていたのですが、そのおさめる割合などは決まっていなかったところ、改新ではその内容を決めるというものです。この{{ruby|詔|みことのり}}では、田からの収穫によるものにしかふれていませんが、'''{{Ruby|租庸調|そようちょう}}'''という形にまとめられます。 :::#**'''{{Ruby|租|そ}}'''<span id="租"/>とは、田の収穫量の、約3~10%を、国におさめる税です。 :::#**'''{{Ruby|庸|よう}}'''とは、都に出てきて年10日ほど働くか、布<ref>近代になるまで、糸をつむぎ、{{ruby|布|ぬの}}を織るのは大変な作業で、布・繊維製品は大変高価なものでした。</ref>を納める税です :::#**'''{{Ruby|調|ちょう}}'''とは、繊維製品または地方の特産物を、国に納める税です。 :::#*このほかに、兵士としてつとめる{{Ruby|兵役|へいえき}}の仕事がありました。兵役には、住まいの国の軍団に配属されるもののあれば、{{Ruby|衛士|えじ}}として都に上って宮中の護衛をしたり、最もつらかったものに九州に行って国防の任務にあたる{{Ruby|防人|さきもり}}となることもありました。 :::#*:この防人のつらさを歌った歌として、つぎのような歌が残っています。 <div style="margin:0 10em 0 12em;; width:80%; border:1px solid #000000;">  '''さきもりの歌'''  (『{{Ruby|万葉集|まんようしゅう}}』より ) :: {{中付きルビ|3|唐|から|衣|ころも|裾|すそ}}に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや{{Ruby|母|おも}}なしにして :::(現代語{{Ruby|訳|やく}})唐衣のにすがって泣きつく子どもたちを、(防人に出るため)置いてきてしまったなあ。あの子たちには母もいないのに。 </div> <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】「{{ruby|班田収授法|はんでんしゅうじゅのほう}}」と昔の単位({{ruby|尺貫法|しゃっかんほう}})の話'''<small> :<span id="班田収授"/>「{{ruby|班田収授法|はんでんしゅうじゅのほう}}」によって、「みんな平等に田んぼがもらえるようになったんだ。」と思うかもしれませんが、そう言うものではありませんでした。 :まず、人々は{{ruby|良民|りょうみん}}と{{ruby|賎民|せんみん}}に分けられます。賎民は、朝廷や豊かな貴族や地方豪族などの[[#奴婢|召使いや奴隷]]です。 :6年ごとに、6歳以上の良民に対して、男性なら2{{ruby|段|たん}}、女性なら、その2/3の田が割り当てられます。この田を、'''{{ruby|区分田|くぶんでん}}'''<span id="区分田"/>といいます。 :*「{{ruby|段|たん}}」は「反」とも書きますが、広さの単位です。現在の単位で言うと1段は約12アールです。2段だと、50m四方の田んぼをイメージすればいいかと思います。 :*元々は、1{{ruby|石|こく}}(=約180リットル)の米が取れる広さを1段としていました。1石は1000{{ruby|合|ごう}}<ref>1石=10{{ruby|斗|と}}=100{{ruby|升|しょう}}=1000合</ref>で、当時は、1年を360日で計算していたので、1人1日3合(女性の場合は2合)が必要と考えていたのでしょう。「合」は、今でもお米を炊く時に使いますからみなさんイメージしやすいでしょう。ただ、「1石の米が取れる広さ」といっても決められません。ですから、1段は360{{ruby|歩|ぶ}}とされました。{{ruby|歩|ぶ}}は、1{{ruby|間|けん}}(約1.8m)四方の面積で、「{{ruby|坪|つぼ}}」と同じです。たたみ、2{{ruby|畳|じょう}}分の面積ですね。 :*割り当てられた田から、想定される収穫の3%を税として納めなければなりませんでした。2段なら2石ですから、6{{ruby|升|しょう}}となります。 :つまり、朝廷は、「1年分食べるのに困らない」面積の田と同じ広さの田をわりあて、その分から税を払い残りで生活するようにと言っていることになります。 :これですべてかと言うと、当然そうではありません。役人などは、区分田の他に、役人の位による{{ruby|位田|いでん}}(8〜80{{ruby|町|ちょう}}:1町=10段)、職務による{{ruby|職田|しょくでん}}(2〜40町)が割り当てられ、功績のある物には{{ruby|功田|こうでん}}や{{ruby|賜田|しでん}}が割り当てられました。また、寺や神社には、そこを維持するための{{ruby|寺田|じでん}}・{{ruby|神田|しんでん}}がわりあてられていました。 :これらの土地は広大で、また、日頃の職務を持つ役人や僧侶がたがやすことはできません。そこをたがやしたのは、土地に応じて割り当てられた良民らのほか、その役人や寺に属する[[#奴婢|{{ruby|家人|けにん}}や{{ruby|奴婢|ぬひ}}]]といった人たちでした。家人や奴婢にも区分田はわりあてられましたが、良民の1/3で足りることはなかったでしょうから、主人から独立はできませんでした。 :※なお、この単位については、[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#太閤検地|約800年後に大きく見直されます]]。 </small> |}</div> : :*'''中大兄皇子の外交'''<span id="外交"/> :*:<span id="遣唐使"/>隋が618年に{{Ruby|唐|とう}}に滅ぼされた後、蘇我蝦夷がまだ大臣の時代、遣隋使につづいて{{Ruby|遣唐使|けんとうし}}が派遣され、皇帝に遠方から来たことで歓迎されました。大化の改新以後も数度にわたって派遣し、唐との親交を深めていました。 :*:このころ、朝鮮半島の情勢が大きく変わります。唐は、勢力を伸ばしている新羅を配下に加え、隋の時代から敵対していた高句麗に対して攻撃しようとしていました。日本は、任那を失ったのちも百済とは親交を深めていたところですが、新羅はさらに勢力を伸ばそうと隣国の百済を唐とともにせめ、660年に百済をほろぼしてしまいます。百済の{{ruby|遺臣|いしん}}<ref>ほろびた国の家臣。</ref>たちは、日本にいた百済王の王子を立てて、百済の復興を望み、日本に支援を願います。朝廷はこれに応じ、約4万人<ref>日本の全人口が約600万人のころです。</ref>の兵を朝鮮半島に送ります。 :*:663年日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍と戦い({{ruby|白村江|はくすきのえ}}の戦い)、約1万人の戦死者をだすほどの惨敗をし、百済から多くの亡命者をひきつれ帰国します。 :*:中大兄皇子は、唐・新羅連合軍が日本に攻めてくることにそなえ<ref>実際に、北に向かった唐・新羅連合軍は、668年高句麗を滅ぼしています。</ref>、防人をおいて九州を守らせ<ref name="詔"/>、667年都を現在の大阪市にあった{{ruby|難波宮|なにわのみや}}から滋賀県の{{ruby|近江京|おうみきょう}}に移しました。翌年、天皇に即位し'''天智天皇'''となります。 :*:国内での防衛を固めると同時に、唐に何度も使いを送って友好関係を回復させようと努力しました。 :*'''律令制の成立''' :*:白村江の戦いの敗北は、国の仕組みが遅れていることを自覚させました。唐が強大な理由の一つは、国づくりの基本がしっかりとした法律もとづいているからだと考えた天智天皇は、唐と同じような国づくりを目指して、668年に{{ruby|近江令|おうみりょう}}という法律を決めます。 :*:天智天皇は671年に亡くなり、<span id="壬申の乱"/>翌672年、天智天皇の子{{ruby|大友皇子|おおとものおうじ}}と弟{{ruby|大海人皇子|おおあまのおうじ}}がはげしく争い({{ruby|壬申|じんしん}}の乱)、大海人皇子が即位し、'''天武天皇'''となります。 :*:天武天皇は、681年、よりよい法律を定めるように命じ、686年天武天皇が亡くなったあとの689年に{{ruby|飛鳥浄御原令|あすかきよみはらりょう}}が完成しました。しかし、飛鳥浄御原令は、役所の仕組みや税の仕組みなどを決めた「{{ruby|令|りょう}}」の部分しかなく、まだ、犯罪の処罰について決めた「{{ruby|律|りつ}}」の部分はありませんでした。 :*:法律の研究はさらに進み、701年に、「律」の部分もそろった '''{{Ruby|大宝律令|たいほうりつりょう}}'''が完成して、しっかりとした法律にもとづく天皇を中心とした国づくりが完成することになります<ref>「'''日本'''」という国の名前は、大宝律令の完成にともない、「倭」に代わって、決められたとも言われています。</ref>。この律令によって、政治を行うことを「'''{{Ruby|律令制|りつりょうせい}}'''」 と言います。 :*:'''律令制の役所'''<span id="律令制"/> :*::「令」によって、朝廷の仕組みが明確になりました。 :*::*政治を行う「{{Ruby|太政官|だじょうかん}}」と、宮中の{{Ruby|祭祀|さいし}}を行う「{{Ruby|神祇官|じんぎかん}}」に分けられます。 :*::*<span id="太政官"/>「太政官」には{{Ruby|太政大臣|だじょうだいじん}}、{{Ruby|左大臣|さだいじん}}、{{Ruby|右大臣|うだいじん}}などがいて重要なことをとりあつかいます。 :*::*「太政官」の下に、租税を扱う{{Ruby|民部省|みんぶしょう}}、軍事を扱う{{Ruby|兵部省|ひょうぶしょう}}、朝廷の財産を扱う{{Ruby|大蔵省|おおくらしょう}}など専門をあつかう、8個の役所(省)が作られました。 :*::*国司も「太政官」の下にありました。九州は、畿内から遠い一方で大陸とは近かったので、{{Ruby|太宰府|だざいふ}}と言う特別の役所がおかれました。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】「{{ruby|令制国|りょうせいこく}}」の話'''<small> :「改新の{{ruby|詔|みことのり}}」に、「[[#国|各地の豪族(国造や県主など)がおさめていた地域を、いくつかにまとめ「'''{{ruby|国|くに}}'''」として朝廷から役人を'''{{ruby|国司|こくし}}'''として送り統治します。]]」とありましたが、大宝律令の{{ruby|令|りょう}}によって、これがほぼ確定しました。「{{ruby|国|くに}}」はいろいろな意味を持っていますので、歴史の学習では、これを、「{{ruby|令|りょう}}で決めた国」という意味で「{{ruby|令制国|りょうせいこく}}」と呼んでいます。また、令制国の名を「{{ruby|旧国名|きゅうこくめい}}」ということがよくあります。 :令制国は、今の都府県(北海道と沖縄県はそのころは朝廷の支配はおよんでいませんでした)と同じくらいの広さを持つ地域です。今の県の中には、元々令制国の領域をそのまま県の領域にしたものもあります。たとえば、県の歌が『{{ruby|信濃|しなの}}の国』である長野県は「{{ruby|信濃|しなの}}」という令制国でした。同じような例は{{ruby|甲斐|かい}}(山梨県)、{{ruby|美濃|みの}}(岐阜県)、{{ruby|讃岐|さぬき}}(香川県)、{{ruby|日向|ひゅうが}}(宮崎県)など多数あります。また、{{ruby|陸奥|むつ}}(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県の一部)、{{ruby|武蔵|むさし}}(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)のように令制国が複数の都府県に分割されたり、{{ruby|伊豆|いず}}、{{ruby|駿河|するが}}、{{ruby|遠江|とおとうみ}}で静岡県となった複数の令制国が一つの県になった例もあります。兵庫県は{{ruby|摂津|せっつ}}の西部、{{ruby|播磨|はりま}}、{{ruby|但馬|たじま}}、{{ruby|丹波|たんば}}の西部、{{ruby|淡路|あわじ}}など多数の令制国からできています。令制国は古くからありますから、同じ県でも住んでいる人々の気質が違うとはよく言われるところです。皆さんも今住んでいるところが、令制国ではなんと呼ばれていたか調べてみましょう。 :令制国の名前は、昔からの地名に漢字2文字をあてて名づけられました。3文字のものから1文字けずったり<ref>(例)上毛野→{{ruby|上野|こうずけ}}(群馬県)・下毛野国→{{ruby|下野|しもつけ}}(栃木県)</ref>、1文字のものに1文字くわえたり<ref>(例)和→{{ruby|大和|やまと}}(奈良県)・泉→{{ruby|和泉|いずみ}}(大阪府南部)</ref>しました。また、元々大きな国をいくつかに分けて、都に近い方から「前・中・後<ref>(例){{ruby|越|こし}}の国→{{ruby|越前|えちぜん}}(福井県)・{{ruby|越中|えっちゅう}}(富山県)・{{ruby|越後|えちご}}(新潟県)、{{ruby|吉備|きび}}の国→{{ruby|備前|びぜん}}(岡山県東部)・{{ruby|備中|びっちゅう}}(岡山県西部)・{{ruby|備後|びんご}}(広島県東部)</ref>」「上・下<ref>(例){{ruby|総|ふさ}}の国→{{ruby|上総|かずさ}}(千葉県中部)・{{ruby|下総|しもうさ}}(千葉県北部・茨城県南部):当時は東京湾を渡って房総半島を北上する道が通常の道でした。</ref>」をつけるやり方もありました。 :また、「旧国名」の一部、たとえば、{{ruby|長門|ながと}}(山口県北部)の「長」をとって、「{{ruby|州|しゅう}}」の字をつけ、別名を「{{ruby|長州|ちょうしゅう}}」とする呼び方もよくされています。 :「旧国名」は、今でも日常的生活でよく使います。地名では、{{ruby|大隅|おおすみ}}半島、{{ruby|信濃|しなの}}川、{{ruby|'''武蔵'''村山|むさしむらやま}}市などがあり、{{ruby|安'''芸'''|あき}}(広島県西部)と{{ruby|伊'''予'''|いよ}}(愛媛県)の間の海峡は{{ruby|芸予|げいよ}}海峡といいます。また、サツマイモは{{ruby|薩摩|さつま}}(鹿児島県)から全国に普及した芋ですし、香川県の名物は{{ruby|讃岐|さぬき}}うどんです。{{ruby|'''紀'''伊|きい}}(和歌山県・三重県南部)と{{ruby|伊'''勢'''|いせ}}(三重県北中部)を結ぶ鉄道の路線は{{ruby|紀勢|きせい}}本線と言います。身の回りに「旧国名」に関係するものがないか探してみてください。 :また、役人の国司がいた地域を{{ruby|国府|こくふ}}<span id="国府"/>といいますが、これにちなむ地名も全国に見られます。「国府」のついた地名や{{ruby|府中|ふちゅう}}などがそうです。 </small> |}</div> == 奈良時代 == === 平城京遷都 === [[File:Heijokyo.jpg|right|350px|平城京のイメージ図]] :律令制も完成し世の中が落ち着いてきました。一方で、律令が完成したことで多くの役所が、王宮には必要となり、これまでの{{ruby|都|みやこ}}では、手ぜまになってきました。また、唐や新羅とも国交が回復し、その国の使者などが{{ruby|都|みやこ}}におとずれるようになり、威信を保つため、立派な街並みや建物などを備えることが求められました。そこで、710年、元明天皇は、現在の{{ruby|奈良|なら}}市に、「'''{{ruby|平城京|へいじょうきょう}}'''」 を建設し{{ruby|遷都|せんと}}<ref>都を移すこと。</ref>。平城京は、それまでの都に比べ巨大で、唐の都である{{ruby|長安|ちょうあん}}にならって{{ruby|碁盤|ごばん}}の目のように、区画が整理されています。この都が平城京にあった時代を '''{{ruby|奈良|なら}}時代''' といいます。 :奈良時代の初期は、律令制が確立していく時期で、いろいろな唐の文化や制度を学んで取り入れていきました。 [[Image:yakushiji_toutou_1.jpg|thumb|left|180px|薬師寺東塔]] :*'''遣唐使の派遣と唐風文化''' :*:[[#遣唐使|白村江の戦いにまけてからのちの数回の使者の派遣]]もあって、また、遣唐使を派遣するようになりました。遣唐使の中には、長い間留学し、その経験を朝廷で発揮するものもいました。たとえば、{{Ruby|吉備真備|きびのまきび}}は、十数年唐に留学し、多くの書物と楽器や日時計といったものを日本に持ち込み、政治の世界ではその経験をいかして[[#太政官|右大臣]]にまでなりました。また、{{Ruby|阿倍仲麻呂|あべのなかまろ}}は、真備とともに唐に渡って、学問をおさめますが、大変優秀であったため、唐の役人になり出世しました<ref>唐は、国際的な国で、中国人でなくても高位の役人になれました。</ref><ref>仲麻呂は、30年以上唐に滞在し、老齢になって日本に帰国しようと、遣唐使の帰りの船に乗りましたが、難船し船は唐に戻り、結局帰国できず唐の地で亡くなりました。</ref>。 :*:また、唐の建築様式が伝えられ、宮殿や役所、寺院などが唐風に作られました。唐風建築は、現在でも『薬師寺東塔』などに残っており、日本の寺院建築に大きな影響を残しました。 :*<span id="記紀"/>'''歴史書の{{ruby|編纂|へんさん}}''' :*:中国の王朝には、前の王朝までの歴史を{{ruby|編纂|へんさん}}<ref>いろいろな資料を集めて、一つの書物を作ること。</ref>する習慣があります。朝廷は中国をまねて、712年に『'''{{ruby|古事記|こじき}}'''』、720年に『{{ruby|日本書紀|にほんしょき}}』を完成させました。『古事記』には、神話の時代から[[#推古|推古天皇]]にいたるまでのできごとが物語を語るように書かれていて、『日本書紀』には神話の時代から持統天皇までの歴史が、神話時代は元となる資料を比較し、天皇の代になってからは、できごとの起こった順に沿って書かれています。古事記と日本書紀は、あわせて『{{ruby|記紀|きき}}』と言っています。 :*'''万葉集''' :*:このころになると、日本でも、漢字を使える人たちが相当に増え、そういう人の中から、漢字一文字の音を日本語の音に当てるという工夫が生まれ一般的になってきました。この工夫から、日本語の{{Ruby|詩歌|しいか}}である{{Ruby|和歌|わか}}が文字で記録できるようになりました。こうして記録した和歌をまとめた{{Ruby|万葉集|まんようしゅう}}が759年ごろに{{Ruby|編纂|へんさん}}されました。貴族だけでなく、農民など様々な身分の者が作ったと思われる和歌も{{Ruby|収録|しゅうろく}}されており、合計で4500首の歌が収録されています。このため、当時の庶民の生活の様子がよくわかったりします。 :*:また、このような、漢字で日本語の音を表す工夫を{{Ruby|万葉仮名|まんようがな}}<span id="万葉仮名"/>といい、後世の{{Ruby|仮名|かな}}(ひらがな、カタカナ)の源流となります。 :*'''{{ruby|和同開珎|わどうかいちん}}の{{ruby|鋳造|ちゅうぞう}}'''<span id="和同開珎"/>[[File:Wadōkaichin found at Sūfuku-ji Temple Site TNM front.jpg|thumb|150px|和同開珎(東京国立博物館所蔵)]] :*:平城京完成前の708年、日本で初めて<ref>それ以前に「'''{{ruby|富本銭|ふほんせん}}'''」という貨幣があったという説がありますが、反対意見も強く決着していません。</ref>の{{ruby|貨幣|かへい}}(お金)「'''{{ruby|和同開珎|わどうかいちん}}'''<ref>{{ruby|珎|ちん}}を「{{ruby|寶|ほう}}(「宝」の旧字体)」の略字とみて「わどうかいほう」と読む説もあります</ref>」が{{ruby|鋳造|ちゅうぞう}}<ref>金属をとかして、型に流しこんで、製品を作ること。</ref>されました。 :*:貨幣(お金)ができるまでは、[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#市|{{ruby|市|いち}}]]などで、欲しいものがあって、それを手に入れるには、米などを代わりに渡さなければなりませんでした('''{{ruby|物々交換|ぶつぶつこうかん}}''')。物々交換は、相手が欲しいものを持っていないと成立しません。また、野菜や果物、魚などは大量に手に入れても傷んだり腐ったりするので、長期間保管できませんし、工芸品はそれを保管する場所が必要になるところ、貨幣(お金)の場合、農作物などを大量に手に入れた時に売って貨幣(お金)で残しておけば、別の機会に、物を買うのに使えますから無駄がありません。 :*:しかし、日本では、貨幣(お金)は一般的なものにならず、物々交換が主で、貨幣(お金)による売買が一般的になったのは、これから、600年から700年後の話になります。 :*東西の交流ー正倉院御物 :*:{{Ruby|東大寺|とうだいじ}}にある {{Ruby|正倉院|しょうそういん}} には、奈良時代の美術品や、{{Ruby|聖武天皇|しょうむてんのう}}が愛用した道具などがおさめられています。これらは、{{Ruby|正倉院御物|しょうそういんぎょぶつ}}<ref>「{{Ruby|御物|ぎょぶつ}}」とは、天皇の物について、天皇を尊敬していうことばです。</ref>と呼ばれますが、遣唐使が唐から持ち帰ったものなども多く、しかも、唐は国際的な国であったので、遠く西のペルシア(現在のイラン)あたりから伝えられたものもあり、世界的に大変貴重なものとなっています。 <gallery widths="200px"> Image:Shoso-in.jpg|正倉院正倉 Image:Azekura-dukuri JPN.JPG|正倉院の宝物庫 Image:RED LACQUERED CABINET Shosoin N2.JPG|{{Ruby|赤漆文欟木御厨子|せきしつぶんかんぼくのおんずし}} Image:8Lobed Mirror Inlay Shosoin.jpg|{{Ruby|平螺鈿背八角鏡|へいらでんはいのはっかくきょう}} Image:Silver Backed Bronze Mirror Shosoin.JPG|{{Ruby|金銀山水八卦背八角鏡|きんぎんさんすいはっけはいのはっかくきょう}} Image:LADIES UNDER TREES SCREEN4th Shosoin.JPG|{{Ruby|鳥毛立女屏風|とりげりつじょのびょうぶ}}第4(部分) Image:ROCHECHI Screen Panel Shosoin NH44.JPG|{{Ruby|羊木臈纈屏風|ひつじきろうけちのびょうぶ}} Image:Silver Incense Burner Shosoin.JPG|{{Ruby|銀薫炉|ぎんのくんろ}} Image:Gold Silver Painted BOX Shosoin.JPG|{{Ruby|蘇芳地金銀絵箱蓋|すおうじきんぎんえのはこ}} </gallery> :::::※その他、有名な所蔵品に「{{Ruby|螺鈿紫檀五絃琵|らでんしたんごげんのびわ}}」や「{{Ruby|瑠璃杯|るりのつき}}」などがあります。 {{-}} [[File:Daibutsu of Todaiji 3.jpg|thumb|left|250px|東大寺の大仏]] === 仏教の興盛 === [[File:Emperor Shomu Face.svg|thumb|180px|聖武天皇]] :<span id="奈良仏教"/>8世紀のなかごろ、都では病気が流行し、多くの死者が出たり、さらに、貴族の反乱が起きたりしたため、世の中に不安が広がりました。仏教を深く信じた'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#聖武天皇(しょうむてんのう)|聖武天皇]]|しょうむてんのう}}'''は、仏教の力を借りて人々の不安をしずめ、社会を安定させようとしました<ref>仏教に対する、このような考えを{{ruby|鎮護国家|ちんごこっか}}といいます。</ref>。 :まず741年に国ごとに{{ruby|国分寺|こくぶんじ}}と{{ruby|国分尼寺|こくぶんにじ}}を建てさせました。そして、都には国分寺の総本山として{{ruby|東大寺|とうだいじ}}を建てさせ、そのなかに銅製の'''大仏'''を作らせました。そのころには、この巨大な仏像(高さ約15m、周囲約70m)を作る金属加工の技術はありましたが、これほど大きな仏像を作った経験はなかったため、建立には苦労をきわめ、752年の完成まで7年かかりました。 {{-}} [[File:Gyouki Face.jpg|thumb|180px|行基]] :仏教はもともと、[[#渡来人|渡来人]]が伝え、一族の宗教とし、やがて、天皇をはじめとする支配階級に広がっていったものでした。遣唐使にともなって留学し、帰国して寺を開く僧もふえ、平城京には多くの寺とそこで学ぶ僧が見られるようになりましたが、彼らの多くは仏教を学問としてとらえ、民衆のことを考えることはあまりありませんでした。 :このころ、'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#行基(ぎょうき)|行基]]|ぎょうき}}'''という僧がいました。かれは、渡来人の子孫で、身分を問わず用水の池や橋を造りながら、諸国をまわって教えを説いていたので、多くの人々にしたわれていました<ref>この民衆の生活に深くかかわろうとする教えは、{{Ruby|道昭|どうしょう}}に学びました。道昭は遣唐使で留学し、{{Ruby|玄奘|げんじょう}}に学んでいます。玄奘は、『西遊記』の三蔵法師のモデルになった人です。</ref>。はじめのうちは、当時、民衆への仏教の直接の布教は禁止されており危険な人物と思われ、朝廷は行基の行動をとりしまりました。しかし、民衆や地方豪族の支持を集め、朝廷も危険な行動ではないと理解し、とりしまりをゆるめました。 :こうしたなか、大仏建立には、とても多くの人々の支持と労働力を必要とするので、朝廷は、人々にしたわれていた行基を、日本の仏教の最高峰である'''{{Ruby|大僧正|だいそうじょう}}'''に任じて、大仏建立を主導させました。 [[File:Jianzhen (Tōshōdai-ji, 2).jpg|thumb|left|180px|鑑真]] :遣唐使で唐に向かった多くの日本の僧が学ぶにつれ、唐の僧の中にも日本に興味をいだく者が出てきました。'''{{Ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#鑑真(がんじん)|鑑真]]|がんじん}}'''がそのひとりです。鑑真は、その当時の唐にあって、僧となるものに戒律を与える教えの第一人者で、日本の留学僧の招きに応じ、日本に渡ろうとしましたが、最初は皇帝からの許可が降りず、許可を得てから渡ろうとして、5回も失敗し、6回目にようやく日本に着きました。6回目に日本についたころには、失明していました。鑑真は、奈良に '''{{Ruby|唐招提寺|とうしょうだいじ}}''' を開き,そして多くの日本人の僧を育てました。 {{-}} === 律令制のいきづまり === :こうして、聖徳太子がはじめ、大化の改新をへて、「天皇中心の国づくり」と言う考えは、律令制で完成するのですが、奈良時代の半ばにはすでにいきづまりを見せていました。 :国は、人々から「税」を集めることで政治を行うことができます。律令制では、「[[#租|租]]」が最も重要な税で、それは、「[[#班田収授|班田収授法]]」でわりあてられた田から得られるものでした。「班田収授法」は、戸籍や土地台帳の整備など実施には大変難しい点があり、畿内以外の全国で実施できたのかはうたがわしいものがあります。地方では、できたとしても[[#国府|国府]]近辺のごく一部ではなかったかと言われています。 :また、班田収授法が実施できた地域でも問題がありました。 :人口が増えると、新たな[[#口分田|口分田]]をわりあてるために新たに土地を{{ruby|開墾|かいこん}}しなければならないのですが、開墾しても朝廷の土地(公地)となるのでは誰も開墾しないと言うことです。 :朝廷は723年に開墾した土地は三世代(自分-子-孫 又は 子-孫-曾孫)にわたって私有を認める{{ruby|三世一身法|さんぜいっしんのほう}}を出して開墾を勧めますが、それでも十分ではなく<ref>三世代目で、朝廷におさめることになるので、耕作をやめて荒地にもどすようになりました。ただし、墾田永年私財法までの20年で三世代目になった例は少なかったのではないかといわれ、墾田永年私財法を求めた勢力がひろめた話とも言われています。</ref>、<span id="墾田永年私財法"/>743年{{ruby|墾田永年私財法|こんでんえいねんしざいほう}}が出され、新たに開墾した土地は、税は納めますが自分の土地として売ったり相続したりできることとなりました。 :墾田永年私財法で、積極的に開墾を行なったのは、貴族や大きな寺で、これらが勢力を持って「天皇中心」がゆらいでいくことになります。 == 脚注 == 以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small> <references/></small> ---- {{前後 |type=章 |[[小学校社会/6学年/歴史編]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう|日本の歴史の流れ]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり|歴史の始まり]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代|貴族の文化-平安時代]] }} [[Category:社会|しようかつこうしやかい6]] [[Category:小学校社会|6ねん]] [[Category:小学校社会 歴史|#04]] 1vdqaofhp6ibjr5zaah7xh50mijnc7l 小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代 0 32894 207295 204243 2022-08-27T01:08:15Z Mtodo 450 wikitext text/x-wiki {{Nav}} {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|6学年|歴史編|frame=1}} {| class="wikitable" style="width:100%" |+ この章の概要 |<!--保元平治の乱あたりから元寇まで、鎌倉時代--><!--(エ) 源平の戦い,鎌倉幕府の始まり,元との戦いを手掛かりに,武士社会による政治が始まったことを理解すること。--> ★時代区分:鎌倉時代</br> ★取り扱う年代:1192年(鎌倉幕府の成立)から1333年(鎌倉幕府の滅亡)まで ; 源平の戦い : 平安時代末期には、武士がいなければ治安は保たれなくなっていました。武士は、日本各地で強力なリーダーの下で集団となって武士団となりました。武士団の中でも強力なものが'''平氏'''(平家)と'''源氏'''です。平氏は主に瀬戸内海の海賊の取り締まりで、源氏は関東地方や東北地方の反乱鎮圧で勢力を伸ばしました。1156年天皇家や藤原氏のあとつぎについて、双方が武士団を味方につけて争いました。この争いで、武士が中央の政治にかかわるようになり、1160年に'''平清盛'''が政権をとって、それ以降、天皇や貴族から政治の実権は武士が握るようになりました。 : 平氏は一族のみで政権を独占し、他の武士団の利益を顧みなかったことなどから、他の武士団の反発をまねき各地で反乱が起きました。清盛が死去すると、源義仲(木曾義仲)が平氏を都から追い出し、鎌倉に勢力を有する'''源頼朝'''が弟'''源義経'''などに命じて、義仲と平氏を滅ぼしました('''源平の戦い''')。頼朝は1192年'''征夷大将軍'''(将軍)というすべての武士の長に任ぜられ、鎌倉に将軍の役所である'''幕府'''を開きます。これを、「'''鎌倉幕府'''」といい、鎌倉に幕府がある時代を「'''鎌倉時代'''」と言います。 ; 鎌倉幕府 : 頼朝は、自分の家来である武士('''{{ruby|御家人|ごけにん}}''')を各国の軍事や治安を取りまとめる'''守護'''や各荘園を管理する'''地頭'''に任じて全国を支配しました。頼朝の死後、頼家・実朝の三代で源氏の将軍家は終わりますが、それ以降は将軍を補佐する'''{{ruby|執権|しっけん}}'''の職にあった'''北条氏'''が武士を取りまとめ政治を行いました。各地の治安が安定すると、産品を遠距離輸送する商業などが見られるようになり、人々の生活が多様で豊かなものになってきました。こうした生活の変化は、仏教にも及び、浄土教('''浄土宗'''・'''浄土真宗'''・'''時宗''')、'''禅宗'''('''臨済宗'''・'''曹洞宗''')、'''法華宗'''(日蓮宗)などがおこり、武士や庶民といった民衆に受け入れられました。 ; 元寇 : そのころ、モンゴルがはげしい勢いでユーラシア大陸全土にわたって勢力範囲を広げており、中国には「'''元'''」という国を打ち立てていました。元は朝鮮半島も領土とし、さらに日本に攻め入りました('''{{ruby|元寇|げんこう}}''')。執権'''北条時宗'''は、全国の御家人や武士を集め、これを撃退しました。しかし、幕府は得るものがなかったので恩賞を十分に与えることができず、各地の武士に不満が残りました。 |} === 源平の戦い === : [[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#武士の誕生|平安時代末期には、武士がいなければ治安は保たれなくなっていました]]。[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#武士団|武士団]]の中でも強力なものが、武士団をひきいる者({{ruby|棟梁|とうりょう}})が'''平氏'''(平家)と'''源氏'''の武士団でした。平氏は主に瀬戸内海の海賊の取り締まりで、源氏は関東地方や東北地方の反乱鎮圧で勢力を伸ばしました。 :朝廷では、藤原氏の勢いがおとろえた一方で、位をゆずった天皇が{{ruby|上皇|じょうこう}}・{{ruby|法皇|ほうおう}}<ref>僧となった上皇のことです。</ref>(あわせて、「'''{{ruby|院|いん}}'''」と呼びます)として、天皇に変わって政治を行うようになっていました('''{{ruby|院政|いんせい}}''')。代々の院は、独立した荘園を持って、藤原氏ではない貴族や藤原氏でも[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#摂関家|摂関家]]ではない貴族の中から能力のある者を{{ruby|側近|そっきん}}として太政官に代わって政治にあたらせ、また、多くの武士を集めて軍事力をにぎりました。その中で、平氏や源氏といった地方の武士団は、院だけでなく、天皇や摂関家などに近づいていきました。 ;平清盛の政治 [[File:Itsukushima Hiroshima.JPG|thumb|200px|厳島神社。平氏の一族は、一族の{{ruby|繁栄|はんえい}}を厳島神社に願った。{{ruby|国宝|こくほう}}。世界{{ruby|遺産|いさん}}。]] :<span id="保元"/>1156年天皇家や藤原氏のあとつぎについて、双方が武士団を味方につけて争いました({{ruby|保元|ほうげん}}の{{ruby|乱|らん}})。この争いで、武士が中央の政治にかかわるようになり、1160年に平氏の'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#平清盛(たいらのきよもり)|平清盛]]|たいらのきよもり}}'''が源氏で最も有力であった{{ruby|源義朝|みなもとのよしとも}}<span id="義朝"/>を倒して政権をとりました({{ruby|平治|へいじ}}の乱<span id="平治"/>)。それ以降、天皇や貴族から政治の実権は武士が握るようになりました。 :清盛の一族である平氏は、元々、瀬戸内海の海賊をとりしまることで、朝廷や上皇の信頼をえてきたということから、瀬戸内海沿岸や九州といった西日本に勢力を持っていました。清盛は 海の神をまつっている {{ruby|厳島|いつくしま}}神社 を{{ruby|敬|うやま}}いました。厳島神社は、広島県にあります。清盛は、厳島神社の神を、平氏一族がまつるべき{{ruby|氏神|うじがみ}}としました。清盛が、北部九州をおさめ瀬戸内海を安全に航海できるようになったので、唐の後に中国を統一した'''{{ruby|宋|そう}}'''との間の{{ruby|貿易|ぼうえき}}が盛んになりました('''{{ruby|日宋貿易|にっそうぼうえき}}'''<span id="日宋貿易"/>)<ref>9世紀末から、唐は国内が乱れていて、907年に滅亡します。その後、960年宋が乱れた中国を統一します<span id="宋"/>。[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#遣唐使の中止と国風文化|894年遣唐使は中止になりましたが]]、その後も、国と国の間ではなく、商人の間での商品の売り買い(貿易)の行き来は続いていました。</ref>。 :1167年には、平清盛は、武士としては初めて {{ruby|太政大臣|だいじょうだいじん}} の位につき、娘を天皇の{{ruby|妃|きさき}}に、その子を天皇({{ruby|安徳|あんとく}}天皇)にし、平氏一族の者ばかりを、朝廷の重要な役につけるなど、道長のころの藤原氏と同じような政治をしました。これを、清盛の弟{{ruby|平時忠|たいらのときただ}}は「{{ruby|平家|へいけ}}にあらずんば、人にあらず(平家の者でなければひとではない)」と言ってほこったと伝えられます。一方で、貴族や他の武士団の利益をかえりみなかったことなどから、他の武士団の反発をまねき各地で反乱が起きました。1180年には、義朝の子で伊豆に流されていた'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#源頼朝(みなもとのよりとも)|源頼朝]]|みなもとのよりとも}}'''が、{{ruby|鎌倉|かまくら}}(神奈川県鎌倉市)を拠点として関東の武士団をまとめて兵を上げ、西に兵を進めました。 ;源平の戦い<span id="平家滅亡"/> :清盛の生前はこのような反乱はおさえられていたのですが、1181年清盛が死去すると、清盛にしたがっていた{{ruby|後白河法皇|ごしらかわほうおう}}<span id="後白河法皇"/>や貴族も平氏から離れ、1183年に後白河法皇は平氏をほろぼすよう命令を出しました。同年、北陸からせめ入った{{ruby|源義仲|みなもとのよしなか}}({{ruby|木曽|きそ}}義仲)<ref>源氏の一族で頼朝のいとこですが、父親を頼朝の兄により殺されています。</ref>が平氏を都から追い出し、平氏は幼い安徳天皇をつれて現在の神戸市の近辺に逃れます。義仲は、頼朝と対立し、翌年、頼朝の軍にほろぼされます。 :頼朝は、鎌倉にいたまま、弟の{{ruby|源範頼|みなもとののりより}}や'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#源義経(みなもとのよしつね)|源義経]]|みなもとのよしつね}}'''らに、関東の武士団をひきいさせ、平氏を追いつめます。平氏は四国などに逃れた後、1185年{{ruby|壇ノ浦|だんのうら}}(山口県下関市)の戦いでほろびます。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="義経"/>{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#源義経(みなもとのよしつね)|源義経]]|みなもとのよしつね}}について'''<small> [[File:Minamoto no Yoshitsune Face.svg|thumb|180px|源義経]] :源義経は、「源平の戦い」で最も活躍の記録や伝説が残る武将です。 :義経は、1156年[[#義朝|源義朝]]の九男として生まれます。おさないころの名前を{{ruby|牛若丸|うしわかまる}}といいます。1160年義朝は[[#平治|平治の乱]]に敗れ殺されました。牛若丸も殺されるところだったのですが、幼かったので、京都の寺に入り僧になるということでゆるされました。おさない頃から武芸がたくみですばしっこく、京都に夜あらわれ武士をおそって刀を取り上げる比叡山の[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#僧兵|僧兵]]'''{{ruby|弁慶|べんけい}}'''をこらしめ、家来にしたという伝説があります。弁慶は、確かな歴史書に残っておらず、{{ruby|架空|かくう}}の人物であろうといわれていますが、弁慶の伝説から、義経の家来に多くの僧兵がいたのではないかと考えられています。 :牛若丸は、武士になろうと1174年寺からのがれ義経と名のり、遠く{{ruby|奥州|おうしゅう}}<ref>「{{ruby|陸奥国|むつのくに}}」のことです。</ref>{{ruby|平泉|ひらいずみ}}(岩手県平泉町)で大きな勢力を持っていた{{ruby|藤原秀衡|ふじわらひでひら}}<ref>貴族の藤原氏とは別の氏族で、「奥州藤原氏」といわれます。</ref>のもとに行きます。 ::;「{{ruby|金売|かねう}}り{{ruby|吉次|きちじ}}」の話 :::この時、義経を秀衡のもとに送りとどけたのは、{{ruby|金売|かねう}}り{{ruby|吉次|きちじ}}という商人だったと言われています。吉次は秀衡から秀衡の領内でとれた砂金をあずかり、京に上がって都のものを買い集め平泉までもどるという商いをしていました。吉次も弁慶同様架空の人物ではないかとされますが、当時の東北地方が金を産出し、それを京で取引していたのは明らかになっていて、吉次のように金を商っている奥州からやって来た商人がいたとおもわれます。 :1180年頼朝が平家をうつ兵を上げると、頼朝のもとに向かいます。頼朝は喜んで、義経にもう一人の弟範頼とともに、遠征軍の指揮をとらせました。義経は、馬を使った{{ruby|奇襲|きしゅう}}などで、義仲や平氏の軍を次々とやぶりました。これに喜んだ[[#後白河法皇|後白河法皇]]は、義経に{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#検非違使|検非違使]]|けびいし}}の判官<ref>普通は「はんがん」と読みますが、義経に関する場合「ほうがん」と読みます。</ref>に任じます。義経を九男の判官ということで「{{ruby|九郎判官|くろうほうがん}}」とも呼びます。そして、壇ノ浦の戦いに勝利し平氏をほろぼした義経は、英雄として京都の法皇らに迎えられ、その後、鎌倉に向かいます。しかし、意外なことに頼朝は会おうとしません。頼朝は、自分の許しなく義経が法皇から官位をもらったことに怒っていました。頼朝は、武士の評価は、武士の棟梁だけが行うことで、武士の社会を棟梁中心にしなければならないと考えていたからです。 :こうして、頼朝と対立した義経は、京都にもどり頼朝をうつ兵を上げますが敗れて、北陸をへて平泉に逃げようとします。この逃げる途中の伝説が「{{ruby|安宅|あたか}}の{{ruby|関|せき}}」または「{{ruby|勧進帳|かんじんちょう}}」といわれるものです。 :義経は、秀衡のもとにのがれますが、頼朝は平泉へ討伐の兵を出します。秀衡の死後、1189年、秀衡の子{{ruby|藤原泰衡|ふじわらやすひら}}は、これをおそれ、義経をせめころし<ref>伝説では、義経がこもる屋敷の前でこれを守ろうと、弁慶が立ちはだかり、多くの矢を受け、立ったまま亡くなった({{ruby|往生|おうじょう}}した)とあり、これを、「弁慶の立ち往生」といい「'''立ち往生'''」という言葉の由来となっています。</ref>、その首を鎌倉におくりました。 :その後、結局、奥州藤原氏は、頼朝によってほろぼされました。 </small> |}</div> === 鎌倉幕府 === [[File:Minamoto2.jpg|thumb|180px|源頼朝と伝えられる人物]] :1185年平氏を滅ぼした'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#源頼朝(みなもとのよりとも)|源頼朝]]|みなもとのよりとも}}'''は、武士による政治を確立させようとします。 :同年、義経を逮捕するという名目で、自分の家来である武士('''{{ruby|御家人|ごけにん}}''')を各国の軍事や治安を取りまとめる'''{{ruby|守護|しゅご}}'''と各荘園の治安を守り、{{ruby|年貢|ねんぐ}}(米の収穫の税)などをとりたてる'''{{ruby|地頭|じとう}}''' に任じて全国に武士の支配を広げました。 :頼朝は1192年'''{{ruby|征夷大将軍|せいいたいしょうぐん}}'''(将軍)というすべての武士の長に任ぜられ、鎌倉に将軍の役所である'''{{ruby|幕府|ばくふ}}'''を開きます。これを、「'''{{ruby|鎌倉幕府|かまくらばくふ}}'''」といい、鎌倉に幕府がある時代を「'''{{ruby|鎌倉|かまくら}}時代'''」と言います。 :頼朝は、清盛と異なり、太政大臣や摂政・関白といった朝廷の最高職を求めませんでしたし、京都で、政治を行うことなく、鎌倉にとどまりました。今までの、朝廷の政治とはちがう、武士の政治を始めたのです。 <div style="font-size:100%;margin:0 2em 0 4em"> <pre style="line-height:1.5em;"> 【鎌倉幕府の仕組み】 将軍 ━ 執権 ━┳━ 侍所 (さむらいどころ) : 戦の時の軍事や日常の警察活動で御家人を指示する。         ┣━ 政所 (まんどころ) : 幕府の会計などを担当する。         ┣━ 問注所 (もんちゅうじょ) : 裁判を担当する。         (地方)         ┣━ 六波羅探題 (ろくはらたんだい) : 朝廷の監視、京都の日常の警察活動、西日本の訴訟などを行う。         ┣━ 守護 (しゅご) : 国ごとに置かれ、各国の警察活動をする。         ┗━ 地頭 (じとう)                           : 各荘園におかれ、荘園内の警察活動や年貢の取り立てを行う。 </pre> </div> <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="将軍"/>{{ruby|征夷大将軍|せいいたいしょうぐん}}について'''<small> :{{ruby|征夷大将軍|せいいたいしょうぐん}}とは、「{{ruby|'''夷'''人|いじん}}」または「{{ruby|蝦'''夷'''|えみし}}」を討伐すために任命された将軍で、794年に最初の任命がありました。「夷人・蝦夷」とは、当時、東北地方東部に住んで、朝廷に従わなかった人々をいいます。アイヌ系の人々であったろうと言われています。征夷大将軍として活躍したのは{{ruby|坂上田村麻呂|さかのうえのたむらまろ}}で、蝦夷を平定したことで軍人の象徴となりました。 :征夷大将軍自体は、もともと、軍人として最高の地位<ref>最高の地位は{{ruby|近衛大将|このえだいしょう}}で、頼朝は征夷大将軍になる前に一度任命されてすぐにやめています。</ref>ではなく、太政大臣や左大臣・右大臣はもちろん、大納言や各省の長官(卿)より下位の職でしたが、もともと、戦場の司令官という地位なので、戦場では他の誰の命令にもしたがわなくてよいという性格があります。'''{{ruby|幕府|ばくふ}}'''というのは、'''{{ruby|幕|まく}}'''で囲まれたテントのような仮の建物を意味し、戦場に仮に建てられた将軍などがいる場所のことです。 :征夷大将軍は、頼朝より後は、全ての武士の棟梁をいうようになり、それが、日本の政治の頂点を意味するようになります。 </small> |}</div> ==== 執権政治 ==== :1199年、頼朝は亡くなり、その後、頼朝の子{{ruby|頼家|よりいえ}}・{{ruby|実朝|さねとも}}兄弟の三代で源氏の将軍家は終わります。実朝のころから、将軍を補佐する'''{{ruby|執権|しっけん}}'''の職にあった'''北条氏'''<ref name="北条氏">北条氏は、頼朝の妻である'''{{ruby|北条政子|ほうじょう まさこ}}'''の実家で、元々関東で有力な武士団の棟梁でした。全てをうばわれて、伊豆に流された頼朝は北条政子と結婚することで、父親である{{ruby|北条時政|ほうじょうときまさ}}や弟の{{ruby|北条義時|ほうじょうよしとき}}の支援を得ることができ、やがて、関東の武家の棟梁となることができました。</ref>が武士を取りまとめていて、源氏の将軍がたえた後も、朝廷から名目上の将軍をむかえて、執権が実際の政治を行うようになりました。これを、'''執権政治'''といいます。ちょっと、「摂関政治」ににていますね。 ;{{ruby|承久|じょうきゅう}}の乱 :1221年、{{ruby|後鳥羽|ごとば}}上皇は、将軍ではなく執権が実権をにぎる幕府をたおせとの命令を出し軍を東に出しました。 :このとき、頼朝の妻で当時の執権{{ruby|北条義時|ほうじょうよしとき}}の姉でもある{{ruby|北条政子|ほうじょうまさこ}}<ref name="北条氏"/>は、武士たちに、「あなたたちに頼朝があたえたご{{ruby|恩|おん}}は、山よりも高く、海よりも深いものです。その恩にむくいようとするものは、力を合わせて敵軍をうちとり、幕府をまもるでしょう。」と、武士たちによびかけ、武士たちをまとめました。 :多くの御家人の支持は幕府に集まり、北条氏の幕府軍と、上皇方の軍との戦争は、北条氏の側が勝利しました。後鳥羽上皇らは{{ruby|流罪|るざい}}、上皇に味方した武士は処分され、幕府は朝廷側の所領の多くを没収しました。京都には、もともと守護として京都守護がおかれていたのですが、あらためて{{ruby|六波羅探題|ろくはらたんだい}}<span id="六波羅探題"/>がおかれ、京都の日常の警察活動のほか、朝廷の監視、鎌倉から遠い西日本の訴訟などを行ようになりました。 ;武士のくらし [[Image:Yabusame 02.jpg|thumb|180px|やぶさめ]] :鎌倉時代の将軍と御家人の関係は、土地を仲立ちとしています<span id="封建制"/>。 :将軍は、御家人たちの土地の権利を保証する(これを「'''ご{{ruby|恩|おん}}'''」とよびます)かわりに、御家人たちは将軍のために鎌倉や京都の警護にあたったり、戦争の時には戦ったりしなければなりませんでした(これを「'''{{ruby|奉公|ほうこう}}'''」と呼びます)。このような{{ruby|主従|しゅじゅう}}関係を、 '''ご恩と奉公''' といいます。 :「'''いざ鎌倉'''」といって、御家人は戦いが起きれば、すぐに鎌倉へと行って将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とされていました([[#いざ鎌倉|コラム参照]])。 :「{{ruby|一所懸命|いっしょけんめい}}」という言葉がありますが、これは、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子からできた言葉です<ref>なお、これが転じて「{{ruby|一生|いっしょう}}懸命」となりました。</ref>。 :1232年、このような土地の扱いや犯罪と処罰について明確にするよう、「'''{{ruby|御成敗式目|ごせいばいしきもく}}'''」という法律が作られました。 :なお、武士のすべてが、御家人というわけではありません。御家人とは、あくまでも将軍との間にご恩奉公の関係のある武士をいいます。その数ですが、13世紀末だと500人くらいだったと言われています。もちろん、それだけでは戦争など行けませんから兄弟や親類、代々の家来など(これを、'''{{ruby|一族郎党|いちぞくろうとう}}'''といいます)をしたがえます。御家人は江戸時代でいうところの大名を想像すればよいかと思います。また、公家や寺社の荘園に、武装して{{ruby|荘官|しょうかん}}としてつかえる武士のように、御家人でも、御家人の一族郎党でもなく、したがって幕府とかかわりの少ない武士もいました。 :御家人たちの{{ruby|屋敷|やしき}}は、{{ruby|武家造|ぶけづくり}}という作りで、屋敷のまわりに{{ruby|堀|ほり}}があったり、{{ruby|塀|へい}}で囲まれていたりと、戦いにそなえたつくりになっています。 :武士は、日ごろから [[w:流鏑馬|やぶさめ]] などの武芸にはげんでいました。「やぶさめ」とは、馬にのって走りながら、いくつもある板の的をつぎつぎに{{ruby|射|い}}る武芸のことです。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="いざ鎌倉"/>いざ鎌倉'''<small> :御家人の奉公を象徴する「いざ鎌倉」という言葉は、{{ruby|謡曲|ようきょく}}<ref>後の室町時代に成立する演劇「{{ruby|能|のう}}」の台本。</ref>『{{ruby|鉢木|はちのき}}』から有名になりました。『鉢木』のあらすじは以下のとおりです。 : ::ある大雪のふる夕暮れ、{{ruby|佐野|さの}}の里<ref>現在の群馬県高崎市、あるいは栃木県佐野市。</ref>のはずれにあるあばら家に、旅の僧が現れて一夜の宿を求めます。住人の武士は、「貧しいので、お坊さまにおもてなしもできません」といったん断りますが、雪道に悩む僧を見かねて招きいれ、なけなしの{{ruby|粟飯|あわめし}}を出し、「自分は{{ruby|佐野源左衛門尉常世|さのげんざえもんつねよ}}といい、以前は三十余郷の所領を持つ身分でしたが、一族の{{ruby|横領|おうりょう}}<ref>違法に、横取りをすること。</ref>ですべてうばわれ、このように落ちぶれました」と身の上を語ります。はなしのうちに いろり の たきぎ がつきて火が消えかかりましたが、つぎ足すたきぎもろくにありません。常世は松・梅・桜のみごとな三{{ruby|鉢|はち}}の盆栽({{ruby|鉢木|はちのき}})を出してきて、「さかえた昔に集めた自慢の品ですが、今となっては無用のもの、これをたきぎにして、せめてものおもてなしにいたしましょう」とおって火にくべました。そして、「今はすべてを失った身の上ですが、あのように よろい と なぎなた と馬だけは残してあり、一旦鎌倉よりおめしがあれば、馬にむち打っていち早く鎌倉に駆け付け、命がけで戦います」と決意を語ります。 ::年があけて春になり、突然鎌倉から一大事との報がありました。常世も 古よろい に身をかため、さびたなぎなた を背負い、やせ馬に乗って駆けつけますが、鎌倉につくと、常世は執権の{{ruby|北条時頼|ほうじょうときより}}の御前に呼び出されました。諸将の居並ぶ中、みすぼらしいよろい で平伏した常世に時頼は「あの雪の夜の旅僧は、実はこの自分である。言葉にいつわりなく、はせ参じてきたことをうれしく思う」と語りかけ、失った領地を返した上、あの晩の鉢の木にちなむ三箇所の領地(加賀国'''梅'''田庄、越中国'''桜'''井庄、上野国'''松'''井田庄の領土)を新たに恩賞として与えました。常世は感謝して引きさがり、はればれと佐野荘へと帰っていきました。 : :【注目点】これは、おそらく本当の話ではないでしょうが、鎌倉時代の武士の生活がよくわかります。 ::*幕府の呼びかけに、御家人はすぐに応じたこと(「奉公」) ::*御家人が幕府(将軍-実際には執権)をたよろうとしたのは、まず、「土地」の問題の解決であったこと。(「ご恩」) ::*幕府のはたらきは、土地問題を解決する裁判であったこと。 ::*御家人にまかされた土地は、1箇所ではなく、また、住んでいる土地から離れたものもあったこと。その土地には一族郎党を派遣していました。 </small> |}</div> {{-}} === 鎌倉時代の社会の変化と文化 === :平安時代の後期から鎌倉時代に比べそれより前の時代は、同じ広さの土地から収穫する量が少なく<ref>これを、「生産力が低い」という言い方をします。</ref>、日々の家族の生活分と税を引くと余る分はほとんどなく(「[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#班田収授|奈良時代ころの農村の様子]]」などをふりかえってみましょう)、市で、日常に野菜や魚、塩や油などと、まれに布などととりかえると、もう、とりかえるものはない生活でした。 :武士の世界の進展は、刀ややじりの買い手を増やしました。買い手が増えると、売り手(作り手)である{{ruby|鍛治|かじ}}も増えますし、鉄を作るのに木炭の生産も増えます。そうすると、刀以外の鉄製品が安くなり、農具にも多く用いられるようになって米など農産物の生産が増えます。増えて、日々の生活から余ったものについては売りに行きますから、商業がおこります。 :また、多くの武士は馬を使います。馬を飼う習慣がつくと、馬で遠くへ農産物や工芸品などを多く運ぶことができるようになりました。また、農村が豊かになると、牛などを買い求め<ref>当時は、牛を食べることはめったになく、「すき」などを引かせるのに使っていました。</ref>田畑をより深くたがやし収穫量を増やすことができるようになりました。 :清盛が盛んにした[[#日宋貿易|日宋貿易]]は、平家滅亡後もつづけられました。<span id="日宋貿易"/>日本からいろいろなものが輸出されましたが、中でも、日本刀は重要な輸出品でした<ref>ただし、多くは武器として使われたのではなく、鉄器の材料となったのではないかといわれています。</ref>。日本からの輸出に対して、多くの宋の貨幣{{ruby|宋銭|そうせん}}<span id="宋銭"/>が入ってきました。日本でも708年に[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#和同開珎|和同開珎]]を作り、その後も何度も作ったのですが、当時は、貨幣を使うほどのものの取引は少なく、また、朝廷の発行する貨幣の品質が悪かったなどの理由で、人々にあまり使われませんでした。このころ、商業が盛んになったのにともなって、宋銭が人々の間で使われるようになりました<ref>宋銭は、質の良い銅でできているので、初めのうちは仏具の材料として輸入されていました。これを、国産の貨幣と同じように貨幣として使用することを進めたのは平清盛であると言われています。</ref>。 :また、朝廷の力が弱まった頃は山中などで{{ruby|盗賊|とうぞく}}におそわれることもよくありましたが、守護や地頭がおかれたことで各地の治安が安定すると、産品を安全に遠距離輸送できるようになり、こうして、庶民を含めた人々の生活が多様で豊かなものになってきました。 ;鎌倉仏教<span id="鎌倉仏教"/> [[File:Todaiji Monastery Kongo Rikishi of Nandaimon I (409).jpg|thumb|200px|{{ruby|東大寺|とうだいじ}}の{{ruby|南大門|なんだいもん}}、{{ruby|金剛力士像|こんごうりきしぞう}}]] :こうした生活の変化は、仏教にも及びます。平安時代には、空海の真言宗は民衆への布教は熱心でしたが、他の宗派は貴族相手であったり、学問に専念するものばかりでした。そのような中、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、武士や庶民の生活が活発になってくると、その人々に受け入れられる仏教の宗派が、比叡山で学んだ僧からでてきました。 :;浄土教 ::11世紀に[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#末法思想と浄土信仰|{{ruby|末法|まっぽう}}の世の中が来る(末法思想)のに対して{{ruby|阿弥陀仏|あみだぶつ}}に救いを求めるという{{ruby|浄土|じょうど}}信仰が起こりました]]。末法思想自体は下火になったのですが、{{ruby|法然|ほうねん}}は「{{ruby|南無阿弥陀仏|なむあみだぶつ}}」と'''{{ruby|念仏|ねんぶつ}}'''をとなえるだけで{{ruby|極楽|ごくらく}}浄土にいけると説き、これが、広く武士や庶民に受け入れられました。法然の弟子{{ruby|親鸞|しんらん}}は、さらにその考えをすすめ、修行や善行といったものではなく、念仏をとなえることだけが救済のみちとときました。{{ruby|一遍|いっぺん}}は、全国をめぐり、主に庶民を相手にわかりやすく教えました。一遍の念仏は「おどり念仏」と言われています<ref>盆踊りのルーツです。さらに、能や歌舞伎などの演劇につながっているとも言われています。</ref>。法然、親鸞、一遍らの教えは、それぞれ、'''{{ruby|浄土宗|じょうどしゅう}}'''、'''{{ruby|浄土真宗|じょうどしんしゅう}}'''<span id="浄土真宗"/>、'''{{ruby|時宗|じしゅう}}'''<span id="時宗"/>の宗派につがれました。 :;{{ruby|禅宗|ぜんしゅう}}<span id="禅宗"/> ::'''{{ruby|座禅|ざぜん}}'''を組んで無心になったり、常識にとらわれずに物事を深く考えたりして、{{ruby|雑念|ざつねん}}をのぞいて仏の道を追求するという{{ruby|禅宗|ぜんしゅう}}が宋から伝えられ、主に武士の支持をえました。{{ruby|栄西|えいさい}}は、鎌倉で活躍し、喫茶(お茶を飲む)習慣を伝え、'''{{ruby|臨済宗|りんざいしゅう}}'''を開きました。{{ruby|道元|どうげん}}は、ひたすら座禅を追求する'''{{ruby|曹洞宗|そうとうしゅう}}'''を開きました。 :;{{ruby|法華宗|ほっけしゅう}}(日蓮宗) ::{{ruby|日蓮|にちれん}}は、『{{ruby|法華経|ほけきょう}}』を最高の教えとし、「{{ruby|南無妙法蓮華経|なむみょうほうれんげきょう}}」の'''{{ruby|題目|だいもく}}'''をとなえることで真の{{ruby|成仏|じょうぶつ}}の道をあゆむことができると解き、'''{{ruby|法華宗|ほっけしゅう}}'''(日蓮宗)を開きました。日蓮は阿弥陀信仰や禅宗を厳しく批判したため、幕府に弾圧されました。 ;彫刻 :鎌倉時代には、仏教美術において、平安時代まで落ち着いたものが主流であったのに対して、いきいきとした{{ruby|躍動感|やくどうかん}}を表した作品がみられるようになりました。代表的な{{ruby|彫刻家|ちょうこくか}}に、'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#運慶(うんけい)|運慶]]|うんけい}}'''と'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#快慶(かいけい)|快慶]]|かいけい}}'''がいます。運慶の代表的な作品として、奈良県の{{ruby|東大寺|とうだいじ}}の{{ruby|南大門|なんだいもん}}の{{ruby|金剛力士像|こんごうりきしぞう}}があります。 ;文学 :『源氏物語』など宮中文学が書き写され、武家社会においても広く読まれるようになりました。 :また、平氏が盛え滅びる様をえがいた『{{ruby|平家物語|へいけものがたり}}』が、{{ruby|琵琶|びわ}}に合わせて語る{{ruby|琵琶法師|びわほうし}}という、目の見えない僧によって全国に広まりました。 === 元寇 === [[ファイル:Mōko Shūrai Ekotoba.jpg|thumb|500px|1274年のモンゴル軍の{{ruby|襲来|しゅうらい}}において、矢が飛びかい、てつはうが{{ruby|炸裂|さくれつ}}する中を、モンゴル軍へ{{ruby|攻撃|こうげき}}する御家人の {{ruby|竹崎季長|たけさきすえなが}} と、応戦・{{ruby|逃亡|とうぼう}}するモンゴル兵]] :13世紀初め中国北西部に接するモンゴル({{ruby|蒙古|もうこ}})にチンギス・ハーン(ジンギス・カン<ref>「チンギス(ジンギス)」が名で、「ハーン(カン : 漢字で『汗』)」が国王の意味です。</ref>)がモンゴル帝国を開き、はげしい勢いでユーラシア大陸全土にわたって勢力範囲を広げました。モンゴル帝国は南下して、「{{ruby|金|きん}}<ref>中国北東部・朝鮮半島北部に住んでいた{{ruby|女真族|じょしんぞく}}が建てた国。1125年南下し、「[[#宋|宋]]」を長江の南に押し出し、黄河流域に帝国を作っていました。</ref> 」を滅ぼし、代わって「'''元'''」という国を建てました。元はさらに、朝鮮半島の{{ruby|高麗|こうらい}}も領土とし、長江の南にあった「[[#宋|宋]]<ref>金に押し出された後を「{{ruby|南宋|なんそう}}」といいます。</ref>」に攻め入ろうとしていました。 :元は、日本にも使者を送り、元にしたがうよう要求しました。執権'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#北条時宗(ほうじょうときむね)|北条時宗]]|ほうじょうときむね}}'''は、使者を切り殺し、これを断りました。 :1274年、元は朝鮮半島から3~4万人の兵を出し、対馬、壱岐を攻め落とした後、九州北部に上陸しました。幕府は九州各地の御家人を集め応戦しました。元軍の火薬を用いた新兵器(日本では「てつはう」と{{ruby|呼|よ}}ばれた)、毒矢、元軍の集団戦<ref>それまでの日本の武士の戦いは、お互いが名乗りをあげて一騎討ちをするのが一般的でした。</ref>といったものに苦戦しましたが、これを撃退しました。 :この戦いのあと、幕府は、今の福岡県にある{{ruby|博多|はかた}}湾の沿岸に防衛用のの{{ruby|石垣|いしがき}}'''{{ruby|石塁|せきるい}}'''を築き、九州だけでなく各国の御家人と御家人ではない武士を九州北部と長門国に集め、次のモンゴル軍がせめこんでくるのに備えました。 :1281年に、元の軍勢は、14万人もの大軍を率いてふたたび日本におそいかかりました。日本は十分に準備をしていたのにくわえ、ちょうど、台風が通過しモンゴルの船団に大きな被害を出し、撃退することに成功しました。 :この2度の元の{{ruby|襲来|しゅうらい}}を あわせて '''{{ruby|元寇|げんこう}}''' といいます。 :撃退に成功したものの、幕府は得るものがなかったので恩賞を十分に与えることができず、各地の武士には、大きな不満が残りました。 == 脚注 == 以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small> <references/></small> ---- {{前後 |type=章 |[[小学校社会/6学年/歴史編]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう|日本の歴史の流れ]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代|貴族の文化-平安時代]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代|室町文化の誕生-室町時代]] }} [[Category:社会|しようかつこうしやかい6]] [[Category:小学校社会|6ねん]] [[Category:小学校社会 歴史|#06]] oz04ujfk8dro34jc8zvz31bttkoz1k3 小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代 0 33096 207296 207049 2022-08-27T01:24:53Z Mtodo 450 wikitext text/x-wiki {{Nav}} {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|6学年|歴史編|frame=1}} {| class="wikitable" style="width:100%" |+ この章の概要 |<!--室町時代−主題は文化史--><!--(オ) 京都の室町に幕府が置かれた頃の代表的な建造物や絵画を手掛かりに,今日の生活文化につながる室町文化が生まれたことを理解する こと。--> ★時代区分:建武の新政、南北朝時代、室町時代(前期)</br> ★取り扱う年代:1333年(鎌倉幕府の滅亡)から1467年(応仁の乱の開始)まで ; 室町幕府の誕生 : 元寇の後、恩賞の不足などから武士が貧しくなるなどして、世の中が乱れました。'''後醍醐天皇'''は、執権北条氏を倒して政治の改革をしようと全国の武士に呼びかけ、北条氏を滅ぼし、新たな政治を始めます('''建武の新政''')。しかし、この新政は、公家が優先されるなどから、多くの武士の不満を生じさせ、この不満を受けた'''足利尊氏'''は、後醍醐天皇に反して別の天皇を立て、征夷大将軍に任ぜられ京都に幕府を開きます。これを、「'''室町幕府'''」といい、この時代を「'''室町時代'''」と言います。また、このころ、後醍醐天皇とその子孫が天皇の朝廷(南朝)と尊氏が立てた天皇の朝廷(北朝)がともにあった時期があり、これを「'''南北朝時代'''」と言います。 : 鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争いを通じて、守護・地頭と言った御家人や各土地の武士は、朝廷領や荘園の管理の立場から直接に支配するようになってきました。このようにして大きな領地を得ることになった守護を'''守護大名'''と言います。また、各地で領主となった武士を'''{{ruby|国人|こくじん}}'''と言います。 ; 室町時代の文化 : 南北朝の争いは、第三代将軍'''足利義満'''のときに、南朝が降伏しおさまります。義満は、その他有力な守護大名を押さえるなどして、戦乱の世をおさめ安定した世の中を実現します。また、中国の「'''{{ruby|明|みん}}'''」に使いを送り、貿易を開始します('''勘合貿易''')。この貿易から、日本に大量の貨幣('''永楽通宝''')が流入し、商業が盛んとなるきっかけになりました<!--貨幣経済が発展した-->。 : 義満は、京都北山に別荘「'''金閣'''」を建てました、また、第八代将軍'''足利義政'''は東山に「'''銀閣'''」を建てました。これらのつくりには、ふすまや畳、違い棚と言った現在の和風建築に生かされているものを見ることができます。義満は、'''観阿弥'''・'''世阿弥'''といった'''能楽'''の始祖を保護し、能楽とそれからわかれ出た'''狂言'''は日本の演劇のみなもととなります。この時代は、京都だけではなく、守護大名の治める地方都市でも文化が花開くようになります。'''水墨画'''の'''雪舟'''はこの時期の代表的な芸術家ですが、守護大名大内氏のもと、現在の山口市などで活躍しました。 |} === 室町幕府の誕生 === ;鎌倉幕府の{{ruby|動揺|どうよう}} :[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#元寇|元寇]]でモンゴル軍を追い返したものの、代わりに与える恩賞はありませんでした。また、[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#鎌倉時代の社会の変化と文化|鎌倉時代の安定した世の中で商品の取引が盛んになってきた]]一方で商品につかうためのお金も増えて御家人の中には貧しくなり借金をする者もでて、中には借金が返せず、かわりに所領を取られるものも出てきました。御家人が財産を失うと、[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#封建制|幕府へのつとめ]]をあてにできなくなるので、幕府は、この借金を返さなくてもよく、また、かわりに取られた所領を元にもどすという命令('''{{ruby|徳政令|とくせいれい}}'''<ref>徳政令は、今借金をしている御家人の救済にはなりましたが、徳政令が出された後、借金しないですむ生活になるわけではないので、御家人は借金ができなくなって、かえって困ることとなりましたし、借金をするとき、「徳政令が出ても、借金は返す/所領は返さない」などの約束をするようになり、のちには、効果がなくなってきました。</ref>)を出したりしました。 :一方で御家人ではない武士でも、馬などを使った商品のやり取りを護衛するなどで経済力をつけ、力をつけるものなどがあらわれ、武士の世の中が乱れました。幕府は、有力な御家人は北条氏によって倒され、御家人ではない北条氏の直接の家臣などが力を持って、むかしからの御家人と対立するなど、これをうまくおさめられていませんでした。 ;鎌倉幕府の滅亡と建武の新政<span id="鎌倉滅亡"/> [[File:Ashikaga Takauji Jōdo-ji.jpg|thumb|200px|足利尊氏のものと伝えられる肖像]] :'''{{ruby|後醍醐|ごだいご}}天皇'''は、執権北条氏を倒して政治の改革をしようと全国の武士に呼びかけます。後醍醐天皇の呼びかけには、河内国(現在の大阪府)の武士'''{{ruby|楠木正成|くすのきまさしげ}}'''などがこたえ、全国で幕府に対する反乱が起きます。幕府は全国に兵を送り、これをしずめようとしますが、1333年、京都に送った'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#足利尊氏(あしかがたかうじ)|足利尊氏]]|あしかがたかうじ}}'''が幕府の役所である{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#六波羅探題|六波羅探題]]|ろくはらたんだい}}をせめると、全国に幕府に対する兵が上がり、ついには、鎌倉の北条氏を'''{{ruby|新田義貞|にったよしさだ}}'''がほろぼします。 :こうして、後醍醐天皇による、天皇を中心とした政治がはじまります。この政治を、元号「{{ruby|建武|けんむ}}」から、'''{{ruby|建武|けんむ}}の{{ruby|新政|しんせい}}'''といいます。 :後醍醐天皇は、御家人という考えをやめて、全ての武士を平等に取り扱いました。しかし、この新政は、恩賞や朝廷の官職などについて公家が優先されたことなどから、多くの武士の不満を生じさせました。 ;室町幕府の誕生と南北朝時代<span id="室町幕府誕生"/> :こうした武士の不満を受けた尊氏は、後醍醐天皇に反して別の天皇を立て<ref>鎌倉時代の後期から、天皇家は二つの家系に分かれており、交互に天皇を出しあっていました。尊氏は後醍醐天皇と別の家系の親王を天皇としました。</ref>、1338年、'''[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#将軍|征夷大将軍]]'''に任ぜられ、幕府を開きます。後に第3代将軍となった尊氏の孫'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#足利義満(あしかがよしみつ)|足利義満]]|あしかがよしみつ}}'''が、京都の{{Ruby|室町|むろまち}}というところに屋敷をかまえ、そこで政務をとったので、これを、「'''{{ruby|室町|むろまち}}幕府'''」といい、この時代を「'''{{ruby|室町|むろまち}}時代'''」と言います。 :後醍醐天皇は、奈良県の吉野にのがれて、全国の武士などに尊氏をうつように命じます。後醍醐天皇とその子孫が天皇の朝廷を'''{{ruby|南朝|なんちょう}}'''、尊氏が立てた天皇の朝廷を'''{{ruby|北朝|ほくちょう}}'''といい、この二つがともにあって、全国で争った時期を「'''{{ruby|南北朝時代|なんぼくちょうじだい}}'''」と言います。 <!-- 追記の予定が「鎌倉幕府の動揺」で書いてしまった気はする。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="鎌倉滅亡"/>どうして鎌倉幕府はほろんだのか'''<small> : </small> |}</div>--> === 室町幕府の完成と武家社会の変化 === [[File:Yoshimitsu Ashikaga cropped.jpg|thumb|200px|{{ruby|足利義満|あしかがよしみつ}}]] :'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#足利義満(あしかがよしみつ)|義満]]|よしみつ}}'''が将軍のころ、南朝が降伏し、南北朝時代が終わりました。 :室町幕府は仕組みの多くを鎌倉幕府からひきつぎましたが、いくつかの違いがあります。 :まず、将軍を補佐する役職に{{ruby|管領|かんれい}}<span id="管領"/>をおきましたが、鎌倉幕府の{{ruby|執権|しっけん}}のように一つの家(北条氏)に独占させず、足利一族の三つの家(斯波氏・細川氏・畠山氏)で分担しました。幕府でもっとも重要な役所は{{ruby|侍所|さむらいどころ}}で、戦の時の武士の指揮と京都市中の警察・徴税などをつかさどるものですが、その長官である{{ruby|所司|しょし}}も特に有力な四つの家(赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏)から、交代で任命されました。 :また、鎌倉に幕府と同じ仕組みをもった「鎌倉府<span id="鎌倉府"/>」をおいて、尊氏の四男・{{ruby|基氏|もとうじ}}の子孫が将軍の代理「{{ruby|鎌倉公方|かまくらくぼう}}」として、関東の政治を行いました。鎌倉公方には、将軍とおなじように、補佐としてついて{{ruby|関東管領|かんとうかんれい}}がつき、上杉氏がこれをつとめました。そのほか、九州や東北といった京都から遠い地方には、{{ruby|探題|たんだい}}がおかれました。 :各国には、鎌倉幕府と同じように守護と地頭がおかれましたが、守護の役割りがつよめられ、地頭はその指示に従う立場になりました。また、守護自身は、幕府のある京都にいることが多かったため、国元には、家臣を'''{{ruby|守護代|しゅごだい}}'''<span id="守護代"/>として、自分の代理をつとめさせました。 :鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争いを通じて、守護や地頭のほか各地の武士は、朝廷領や荘園の管理の立場から直接に支配するようになってきました。このようにして大きな領地を得ることになった守護を'''{{ruby|守護大名|しゅごだいみょう}}'''<span id="守護大名"/>と言います。また、各地で領主となった地頭などの武士を'''{{ruby|国人|こくじん}}'''<span id="国人"/>と言います。 <span id="室町幕府"/><div style="font-size:100%;margin:0 2em 0 4em"> <pre style="line-height:1.5em;"> 【室町幕府の仕組み】 将軍 ┳ 管領 ━┳━ 侍所 (さむらいどころ) : 戦の時の軍事や日常の警察活動を指示する。 ┃ ┣━ 政所 (まんどころ) : 幕府の会計などを担当する。 ┃ ┗━ 問注所 (もんちゅうじょ) : 文書の保管などを担当する。 ┃ [鎌倉府] ┣━ 鎌倉公方 (かまくらくぼう) ┃ ┗━ 関東管領 ━┳━ 侍所 ┃ ┣━ 政所 ┃ ┗━ 問注所 ┣━ 九州探題 (きゅうしゅうたんだい) : 九州の守護を統括する。 ┣━ 奥州探題 (おうしゅうたんだい) : 陸奥国に守護に代わって設置された。 ┣━ 羽州探題 (うしゅうたんだい) : 出羽国に守護に代わって設置された。 ┗━ 守護 (しゅご) : 国ごとに置かれ、各国の武士を統率する。 ┗━ 守護代 (しゅごだい)       : 国元にいて、守護の代理をつとめる。                ┗━ 地頭 (じとう)   : 実質的な領主。 </pre> </div> :室町幕府がもっとも力を持ったのは、義満が征夷大将軍であった時期までで、義満の死後は、守護大名どうしが勢力争いをするようになっていました。また、国の中でも国人どうしで争うようになってきていました。 === 室町時代の文化 === ==== 室町時代の農村の生活 ==== [[File:Tukinami huuzoku taue.jpg|thumb|200px|室町時代の田植えの様子。『{{ruby|月次風俗図屏風|つきなみふうぞくずびょうぶ}}』より]] :平安時代後期から、公領や荘園での農業は「[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#名田|名田]]」が単位となっており、人々は名田ごとにばらばらにはなれて住んでいました。しかし、鎌倉時代の後期から、地頭などが国司や荘園領主から自分の領地にしていき、荘園領主との関係が薄まると、用水など農地の管理がおろそかになるようになりました。農民たちは、用水の配分や水路・道路の補修、境界の争いを、近隣の人々が集まって自ら行うようになり、また、戦乱や盗賊からの自衛などをきっかけに、まず畿内や近畿周辺で、耕作する田から住居がはなれ、農民同士が集合する集落<ref>近隣に住む'''{{ruby|惣|すべ}}'''ての農民からなるということから、'''{{ruby|惣|そう}}'''または'''{{ruby|惣村|そうそん}}'''とよびます。</ref>が次第にできていきました。現在の「'''{{ruby|村|むら}}'''」のもともとの形です。 :室町時代には、村でまとまって、{{Ruby|厳|きび}}しい領主に対して、対立するようになり、{{ruby|年貢|ねんぐ}}が重い場合は、集団で領主におしかけてうったえでたり、全員が村から{{ruby|逃亡|とうぼう}}したりして{{ruby|対抗|たいこう}}するようになりました。一方で、村の一部の農民が守護や国人の家臣となって武士となることや、普段は、農耕をしながら戦になるとかりだされる農民もあって、武士と農民の差がはっきりしなくなってもきました<span id="惣村"/>。 {{-}} ==== {{ruby|倭寇|わこう}}と{{ruby|勘合貿易|かんごうぼうえき}} ==== [[File:Eiraku-Tsuho.jpg|thumb|150px|{{ruby|永楽通宝|えいらくつうほう}}]] :中国では、14世紀に入ると、元の朝廷内が乱れ、国内各地で反乱が起きました。その反乱の中から{{ruby|朱元璋|しゅげんしょう}}が、元をモンゴルに退けて、1368年新しい王朝'''{{ruby|明|みん}}'''<span id="明"/>を建国しました。 :そのころ、中国や朝鮮半島の海岸部では、日本の船がしばしば貿易におとずれていましたが、この船は武装しており、時には沿岸部の村などをおそう{{ruby|海賊|かいぞく}}となっていました。これを、'''{{ruby|倭寇|わこう}}'''<span id="倭寇"/>といいます。 :明は、王朝をひらくと、将軍に対して、[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#朝貢|{{ruby|朝貢|ちょうこう}}(みつぎものを皇帝に贈ること)]]と倭寇の取り締まりを求めてきました。義満は、これを了承し明との間に公式の貿易を行います<ref>[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#朝貢|前に書いたとおり]]中国の皇帝は、みつぎものを受け取るかわりにそのお返しに数倍の価値の品物を与えるという、贈る側にとって得な貿易です。このような貿易を{{ruby|朝貢貿易|ちょうこうぼうえき}}<span id="朝貢貿易"/>といいます。</ref>。<span id="勘合貿易"/>明へ派遣した船が、幕府の船でわかるよう、日本と明でおたがい{{ruby|勘合符|かんごうふ}}と言われる{{ruby|割符|わりふ}}<ref>文字が書かれ印が押された、紙や板などを二つに分けたものをお互い持って、会ったときに、その二つがぴったり合うかどうかで、正当な相手であるかどうかの証拠とするもの。</ref>をもって航海したため'''{{ruby|勘合貿易|かんごうぼうえき}}'''と言われます。 :勘合貿易は、幕府に大きな富をもたらしましたが、義満死後、将軍の力が弱まったため、中国地方の有力な守護大名である{{ruby|大内|おおうち}}氏がこれを引き継ぎやはり大きな利益をえました。 :勘合貿易で、日本は銅、いおう、[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#日宋貿易|日本刀]]、{{ruby|漆器|しっき}}、{{ruby|扇子|せんす}}などを輸出し、明からは、{{ruby|生糸|きいと}}、織物、{{ruby|陶磁器|とうじき}}、書物が輸入されましたが、最も重要な輸入品は明の貨幣('''{{ruby|永楽通宝|えいらくつうほう}}'''<span id="永楽通宝"/>)でした。平清盛の時代から鎌倉時代にかけて多くの[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#鎌倉時代の社会の変化と文化#宋銭|宋銭]]が日本に入って、日本の国内で「お金」として使われていましたが、「永楽通宝」はそれにも増して大量に輸入されたため、室町時代をとおして日本全国共通の貨幣となりました<ref>戦国時代になると、輸入される永楽通宝だけでは足りなくなり、自分で{{ruby|鋳型|いがた}}にはめて作るものが出てきました。これを{{ruby|私鋳銭|しちゅうせん}}といいます。一種の偽造ですが、それも貨幣として使用されました。私鋳銭のうち、特に質の悪いもの(銅の含有量の少ないもの)を{{ruby|鐚銭|びたせん}}と言います。今でも、お金を少しも出さないことを「'''びた'''{{ruby|一文|いちもん}}ださない」と言いますが、この「'''びた'''」です。</ref>。貨幣の量が増えたため、商品の取引はますますさかんとなりました。 ==== 室町時代の文化の特徴 ==== :室町時代になって、多くの武士が幕府のある京都に住むようになって、伝統的な公家の文化と、鎌倉時代の武家社会で誕生した武家文化の融合が見られるようになりました。また、各地での村の発達や商業の発展にともなう、庶民の文化が見られるようになりました。 :守護大名が自分の領地に、寺などを建て、京都などから文化人をまねいたため、京都近辺だけでなく、全国にさまざまな文化がくりひろげられました。 :仏教は、[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#鎌倉仏教|鎌倉時代に起こった仏教宗派]]が布教につとめ信者を増やしていきます。特に、[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#浄土真宗|親鸞が起こした浄土真宗]]は、当時、'''{{ruby|一向宗|いっこうしゅう}}'''<span id="一向宗"/>とよばれ、各地で信者({{ruby|門徒|もんと}})が集まり、領主などに不満があると反抗して争ったりしていました。これをまとめていたのが{{ruby|本願寺|ほんがんじ}}で、本願寺は守護大名と同じくらいの勢力を持っていました。 ;建物 :この当時の建物として代表的なものに、京都の'''{{Ruby|金閣|きんかく}}'''と'''{{ruby|銀閣|ぎんかく}}'''があります。 [[File:Kinkakuji 2004-09-21.jpg|thumb|right|200px|金閣]] :<span id="金閣"/>金閣は、1394年、'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#足利義満(あしかがよしみつ)|義満]]|よしみつ}}'''が、京都の{{Ruby|北山|きたやま}}に別荘として建てたものです<ref>現在は、{{Ruby|鹿苑寺|ろくおんじ}}というお寺の一部になっています。</ref>。義満が建てたものは、1950年に火事で無くなりましたが、詳細な図面が残っており、1955年、それにもとづいて復元されました。「金閣」の名は建物全体に{{Ruby|金箔|きんぱく}}が貼られていることから付けられたものですが、当時の義満の経済力の大きさをよくあらわしています。3階建ての金閣は、第1階は公家風の[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#寝殿造|寝殿造]]、第2階は武家風のつくり、第3階は{{Ruby|唐風|からふう}}という、当時の明の様式となっており、公家文化と武家文化の融合が見られます。 {{-}} [[File:Ginkaku-ji after being restored in 2008.jpg|thumb|right|200px|銀閣]] :<span id="銀閣"/>銀閣は、1482年、第8代将軍である'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#足利義政(あしかがよしまさ)|義政]]|よしまさ}}'''が、京都の{{Ruby|東山|ひがしやま}}にやはり別荘として建てたものです<ref>現在は、{{Ruby|慈照寺|じしょうじ}}というお寺の一部になっています。</ref>。「銀閣」は、金閣にならって建物全体に{{Ruby|銀箔|ぎんぱく}}をはりめぐらすもくろみでしたが、義政の時代に幕府にはもうその力は残っていませんでした。銀閣は、建てられた当時の姿を今もとどめていて、また、現在の日本家屋の様式に引き継がれる{{Ruby|書院造|しょいんづくり}}の特徴を数多く残しています。 [[File:Takagike Kashihara JPN 001.jpg|thumb|200px|書院造]] :;{{Ruby|書院造|しょいんづくり}}の特徴 ::*書院造の特徴を、平安時代の様式である寝殿造とくらべてみましょう。 ::*#寝殿造では、部屋を区切ることなく、{{Ruby|几帳|きちょう}}という幕でしきっていましたが、書院造では、{{Ruby|襖|ふすま}}や{{Ruby|障子|しょうじ}}で部屋をわけました。 ::*#寝殿造では、{{ruby|畳|たたみ}}は人の座るところだけにしきましたが、書院造では、部屋の{{ruby|床|ゆか}}全面にしきました。 ::*#寝殿造では、屋根までふきぬけでしたが、書院造では、屋根の下に{{ruby|天井|てんじょう}}がつきました。 ::*#寝殿造の窓は、板作り上下開閉の{{ruby|蔀戸|しとみど}}と呼ばれるものでしたが、書院造では、{{ruby|明|あ}}かり{{Ruby|障子|しょうじ}}をもちいました。 ::*その他、{{ruby|床|とこ}}の{{ruby|間|ま}}や{{ruby|違|ちが}}い{{ruby|棚|だな}}といった、現在の和室でも見られるつくりが特徴になっています。 {{-}} ;水墨画 [[ファイル:SesshuToyo.jpg|left|thumb|200px|水墨画。秋冬山水図のうち秋景(東京国立博物館)]] [[ファイル:Portrait of Sesshu.jpg|thumb|180px|雪舟]] [[File:Sesshu - View of Ama-no-Hashidate.jpg|thumb|300px|雪舟の水墨画、『{{ruby|天橋立図|あまのはしだてず}}』]] :絵画においては、鎌倉時代に、中国から '''{{ruby|水墨画|すいぼくが}}''' の技法が日本に伝わりました。水墨画とは、{{ruby|墨|すみ}}の線で輪郭だけを書くのではなく、墨の{{ruby|濃淡|のうたん}}やぼかしなどを利用して、絵に{{ruby|陰影|いんえい}}をつけたり、墨の黒色一色だけでも遠近をつけて表現を豊かにする技法です。 :水墨画は、[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#禅宗|禅宗]]とともに日本に伝わり、はじめは『{{ruby|達磨図|だるまず}}』・『{{ruby|瓢鮎図|ひょうねんず}}』といった、仏教の世界をつたえるためにえがかれました。しかし、室町時代になり、'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#雪舟(せっしゅう)|雪舟]]|せっしゅう}}'''は、水墨画と仏教を分けて考え、仏教にとらわれずに、自然の風景などの水墨画をえがきました。この時代になると、京都だけでなく有力な守護大名が絵師などを支援するようになってきており、雪舟も中国地方の守護大名大内氏のもと、現在の山口市などで活躍しました。 {{コラム|雪舟|雪舟は、{{ruby|幼|おさな}}いとき、今の{{ruby|岡山|おかやま}}県の{{ruby|興福寺|こうふくじ}}に{{ruby|預|あず}}けられていました。しかし雪舟はそこで{{ruby|修行|しゅぎょう}}をせず絵ばかりかいていました。そこでおこった{{ruby|和尚|おしょう}}は雪舟を柱にしばりつけました。しばらくして和尚が様子を見に行くと、雪舟の足元にねずみがいたので、追いはらおうとしましたが、ねずみは動きません。雪舟が、なみだでかいたねずみだったのです。和尚は、それ{{ruby|以降|いこう}}、絵をかくのを{{Ruby|認|みと}}めました。}} ;{{ruby|茶|ちゃ}}の{{ruby|湯|ゆ}} :[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#禅宗|禅宗]]は、また、お茶を飲む習慣をもちこみました<ref>もともと、お茶は、座禅の時に眠くならないためにのまれたものです。</ref>。やがて、書院造の部屋で、おちついた作法にしたがって茶を飲む作法がかたちづくられ、'''{{ruby|茶|ちゃ}}の{{ruby|湯|ゆ}}'''と呼ばれましたが。茶の湯は、のちに{{ruby|茶道|さどう}}という形になり、今でも受けつがれています。 ;{{Ruby|能|のう}}と{{Ruby|狂言|きょうげん}} :平安時代から、人々の間で、田植えの時などに{{Ruby|舞|ま}}われた{{Ruby|田楽|でんがく}}{{Ruby|舞|ま}}いや{{Ruby|猿楽|さるがく}}<ref>宮廷などで披露された芸能である{{Ruby|散楽|さんがく}}が庶民に受け入れられたものとされています。</ref>に、芸術的な考えを取り入れた'''{{Ruby|能|のう}}'''を{{ruby|観阿弥|かんあみ}}と{{Ruby|世阿弥|ぜあみ}}の親子<ref>「観'''阿弥'''」「世'''阿弥'''」は「観阿弥陀仏」「世阿弥陀仏」の略で、「踊念仏」を布教の方法にした[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#時宗|時宗]]の法名です。</ref>が完成させました。また、猿楽の喜劇的な面は、のちに{{Ruby|狂言|きょうげん}}として完成されました。 ;文学 :『{{ruby|太平記|たいへいき}}』など歴史上の合戦を題材とした{{ruby|軍記|ぐんき}}物語などが武士に好まれました。 :また、庶民が豊かになってきたので、庶民に受け入れられる文学が多く見られるようになりました。物語を{{ruby|挿絵|さしえ}}をいれて書き写したものを『{{ruby|御伽草子|おとぎぞうし}}』といい、御伽草子には『浦島太郎』や『一寸法師』などもありました。 :'''和歌'''は、この時代も広く愛されました。この時代に完成したのは{{ruby|連歌|れんが}}<span id="連歌"/>という形式のものです。これは、五七五の長句に、別の人が七七の短句をつけ、さらに別の人が、その短句に、五七五の長句をつけることをずっと続けるという形式のものです。連歌は、人々が集まってよみあう一種の遊びとして発展し、それを専門とする連歌師もうまれました。 == 脚注 == 以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small> <references/></small> ---- {{前後 |type=章 |[[小学校社会/6学年/歴史編]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう|日本の歴史の流れ]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代|武家社会の始まり-鎌倉時代]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代|戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代]] }} [[Category:社会|しようかつこうしやかい6]] [[Category:小学校社会|6ねん]] [[Category:小学校社会 歴史|#07]] 040u50p28acwvfa4e7d6e6nv5ctltar 小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代 0 33209 207297 207080 2022-08-27T01:45:14Z Mtodo 450 wikitext text/x-wiki {{Nav}} {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|6学年|歴史編|frame=1}} {| class="wikitable" style="width:100%" |+ この章の概要 |<!--戦国時代から織豊時代--><!--(カ) キリスト教の伝来,織田・豊臣の天下統一を手掛かりに,戦国の世が統一されたことを理解すること。--> ★時代区分:戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代</br> ★取り扱う年代:1467年(応仁の乱の開始)から1600年(関ヶ原の戦い)まで ;戦国時代 : 義政のころになると、守護大名は幕府にたよらず領地を強力におさめるようになり、そのため、各地では大名同士や国人同士での勢力争いも数多く見られるようになりました。特に、義政の後継者争いをきっかけにした'''応仁の乱'''以後は、幕府は各地の争いを止める力を失って大名間で競って領土を争うようになります。この時代を「'''戦国時代'''」と言います。 : 戦国時代にあっては、世襲の守護大名に対して、実力のある家臣などが大名の地位を乗っ取ることがしばしば見られました('''下克上''')。このように実力で大名となり、周囲の大名と争った大名を'''戦国大名'''と言います。また、長槍・投石など単純な兵器を軽装で扱う兵士('''足軽''')を大量に用いて集団でたたかうようになりました。特に、'''鉄砲伝来'''が、この戦い方に影響を与えました。 : 15世紀から、西ヨーロッパの国々、特に'''ポルトガル'''と'''スペイン'''は世界中に船を出して貿易を始めたり、新たな土地を発見したりしていました('''大航海時代''')。その中で、1543年種子島にポルトガル人が漂着し、鉄砲が伝えられました。日本への航路を発見したポルトガルとスペインは、日本では'''南蛮人'''と呼ばれ、各地の戦国大名などと貿易を行います('''南蛮貿易''')。また、'''フランシスコ・ザビエル'''が来日し、'''キリスト教'''を伝えました。 ;安土桃山時代 : 実力のある戦国大名が、周囲の戦国大名などを討ち取って、各地での統一が進んでいましたが、戦乱の世の中を治め日本全体を統一に向かわせたのは'''織田信長'''です。信長は、領地の商業を盛んにし財力を拡大し<!--検地の実施(生産力の把握)、楽市楽座、貨幣経済への指向(永楽銭の旗印)-->、身分に関わりのない人材の登用、鉄砲など新たな武器の使用などで、領国の現在の愛知県から京都周辺の近畿地方一帯を統一し、将軍を追放し室町幕府を滅ぼしました。しかし、家臣の明智光秀により殺され、光秀を討った'''豊臣秀吉'''が信長の天下統一を引き継ぎます。信長は滋賀県の安土に城をきずき政治を行い、それをついだ秀吉は京都の桃山城(現在の京都市伏見区)で政治を行なったので、この時代を「'''安土桃山時代'''」と言います。政治の中心は桃山(伏見)でしたが、秀吉は、豊臣家の城として'''大坂城'''(大阪城)をきずき、城下に大名屋敷や堺などの周辺の町々の町人を集めて、'''大坂'''(大阪)の町を築いて政治・経済の中心都市としました。 : 秀吉は、中国地方の毛利氏、四国地方の長宗我部氏、九州地方の島津氏などを攻めしたがえ、関東を支配する北条氏を攻めほろぼして、天下を統一します。天下を統一した秀吉は、全国の農地の測量を行い('''検地''')、どれくらい米が収穫できるかを明らかにし('''太閤検地''')、大名の財力の基準としました('''{{ruby|石高|こくだか}}制''')。この機会に、長さ・広さ・体積の単位が統一されました。また、天下が統一され、平和になったのだから武器は必要ないであろうということで、刀などを取り上げる「'''{{ruby|刀狩|かたながり}}'''」を行いました。刀狩で、武士とそうでない民衆は明確に区別されました。 : 秀吉が、天下を統一したころには、キリスト教の信者('''キリシタン''')はかなり増えており、大名の中にも信者がいました(キリシタン大名)。しかし、各地で寺社との対立があったり、スペインなどの侵略のうわさなどもあり、宣教師(バテレン)を国外に追放し、キリスト教の布教を禁止しました。 : 晩年、秀吉は、大陸進出を望んで、全国の大名に命じて朝鮮に兵を進めました('''朝鮮出兵''': 文禄・慶長の役)。しかし、朝鮮の強い抵抗と、明の援軍にあい、侵攻が進まないなか、秀吉が死去し朝鮮出兵は撤退しました。 |} === 戦国時代 === ==== 戦乱の世の始まり ==== [[File:Ounin no Ran 1467.png|thumb|300px|応仁の乱が始まった当時(1467年)<br>人名:青字が東軍、赤字が西軍<br>守護大名の領土<br>水色:東軍、黄色:西軍、黄緑:両軍伯仲]] :銀閣を建てた第8代将軍'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#足利義政(あしかがよしまさ)|義政]]|よしまさ}}'''のころになると、[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#守護大名|守護大名]]は、各国で大きな力をもち、幕府にたよらず領地を強力におさめるようになりました。日本各地では、大名同士や国人同士での勢力争いや後継者争いも数多く見られるようになりました。<span id="関東戦乱"/>特に、関東においては、関東の政治を行なっていた[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#鎌倉府|鎌倉府]]が、鎌倉公方(足利氏)と関東管領(上杉氏)と対立し、また、上杉氏の中でも争って、京都の幕府にもしたがわないなど、関東の中での争いの原因となっていて、15世紀初めから、ずっと戦乱が続き、幕府もなかなかこれを止められませんでした。 :そのような中、1467年'''{{ruby|応仁|おうにん}}の{{ruby|乱|らん}}'''<span id="応仁の乱"/>が起きました。応仁の乱とは、もともと、有力な守護大名である{{ruby|畠山|はたけやま}}氏の後継者争いにはじまって、[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#管領|管領]]の{{ruby|細川勝元|ほそかわかつもと}}と数カ国の守護大名である{{ruby|山名宗全|やまなそうぜん}}が対立していたところに、義政と弟{{ruby|足利義視|あしかがよしみ}}との間で後継者争いがおき<ref>義政は将軍就任後、しばらくの間、男子が生まれず、弟義視にゆずることにしていましたが、義政に子(後の第9代将軍{{ruby|足利義尚|あしかがよしひさ}})が生まれ、その子につがせようとして争いが起きました。</ref>、義政は細川勝元をつけ(東軍)、義視は山名宗全を味方につけて(西軍)、争ったものです。おのおのに有力な守護大名がついて争い、京都が焼け野原になるなど大きな被害が出ましたが、1473年山名宗全と細川勝元が次々に亡くなると、京都だけではなく戦乱は全国に広がりました。各地方では、守護大名の一族や家臣の中でも東軍西軍に分かれて、争うこともありました。この争いは、1477年、西軍が降伏することで終わりますが、処分を受けた守護などはいなかったため、東軍・西軍のどちらが勝ったというものではありませんでした<ref>第9代将軍には{{ruby|義尚|よしひさ}}がなりましたが、義尚が若くして亡くなると、{{ruby|義視|よしみ}}の子{{ruby|足利義稙|あしかがよしたね}}が第10代将軍となっています。</ref>。また、関東では、京都での争いと関係なくずっと争いが続いていました。 :応仁の乱以後は、多くの武士は将軍にしたがわなくなり、幕府は各地の争いを止める力を失って大名間で競って領土を争うようになります。この時代を「'''戦国時代'''」と言います。 :守護や地頭が年貢の多くを横取りされたとはいえ、領主も年貢を得ていた'''荘園'''は、戦国時代に入ると京都など遠方にいる荘園領主の公家や寺社には年貢がおさめられなくなり、消滅していきます。また、おのおのの戦国大名の領地が独立国のようになり、大名の領地を離れるところに大名は関所<span id="関所"/>をもうけ、人の出入りが監視され、通行税をとったりしました。 {{-}} ==== 下克上の時代 ==== :戦国時代にあっては、世襲の守護大名に対して、'''[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#守護代|守護代]]'''など実力のある家臣が、その地の'''[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#国人|国人]]'''領主らをしたがえて、大名の地位を乗っ取ることがしばしば見られました。これを、'''{{ruby|下克上|げこくじょう}}'''といいます。また、家系は同じであっても、国人領主となっていた分家が本家を乗っ取ることも少なくありませんでした。このように実力で大名となり、周囲の大名と争った大名を'''戦国大名'''と言います。 :応仁の乱をひきいた、山名氏は{{ruby|京極|きょうごく}}氏が守護であった{{ruby|出雲|いずも}}の守護代{{ruby|尼子|あまこ}}氏<span id="尼子氏"/>にせめとられ、管領の細川氏は領土の一つであった{{ruby|阿波|あわ}}の守護代{{ruby|三好|みよし}}氏<span id="三好氏"/>に乗っ取られます。三好氏の{{ruby|三好長慶|みよしながよし}}は、畿内・近畿・四国東部を領地とし、幕府をあやつるようになります。また、関東は、戦国大名の代表である{{ruby|北条早雲|ほうじょうそううん}}があらわれ、その地方の争いをおさめます。 :戦国大名は、その武将が強かったというよりは、多数の国人領主を味方につけたという性質があります。国人領主などが共同して('''{{ruby|国一揆|くにいっき}}'''<ref name="一揆"><span id="一揆"/>この時代、複数の人々が何かの目的を持って集まって行動すること約束すること({{ruby|盟約|めいやく}})を「'''{{ruby|一揆|いっき}}'''」と言っていました。国人が一揆することで「国一揆」、これに農民も加わると「{{ruby|土一揆|つちいっき}}」、一揆の人々が一向宗の信者(「{{ruby|門徒|もんと}}」と言います。国人などの武士も農民もいました。)であると「一向一揆」と呼ばれます。時代がくだって江戸時代に、農民がまとまって武士に反抗して争うことを、「'''{{ruby|百姓一揆|ひゃくしょういっき}}'''」と呼んでいます。</ref>)、守護大名をほろぼして、国人領主どうしの話し合いで国をおさめたものもあります。特に[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#浄土真宗|浄土真宗]]の本山{{ruby|本願寺|ほんがんじ}}の一派は[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#一向宗|'''{{ruby|一向宗|いっこうしゅう}}''']]と呼ばれて、本山本願寺はこれを全国各地で応援しました。これを、'''{{ruby|一向一揆|いっこういっき}}'''<ref name="一揆"/><span id="一向一揆"/>といいます。 :戦国時代になると、戦い方も、武士が一人一人ばらばらに戦うのではなく、軽装で大量の兵士が、{{ruby|長槍|ながやり}}や{{ruby|投石|とうせき}}(石を投げること)など単純な兵器を使って、集団で戦うやり方になりました。このような軽装の兵士は、普段は貧しい農民であったりした者で'''{{ruby|足軽|あしがる}}'''<span id="足軽"/>と呼ばれました。特に、次の節でのべる'''鉄砲伝来'''が、この戦い方に影響を与えました。足軽から武士になって出世をしていく者もあらわれました。 :戦国時代は、このように、今までの身分などの{{ruby|秩序|ちつじょ}}がみだれた時代でしたが、実力により世に出ることができる時代でもありました。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="下克上"/>戦国大名と下克上<small> [[File:C1550.png|thumb|300px|戦国時代中期(1550年)の各国の守護大名や戦国大名]] [[File:C1560.png|thumb|300px|戦国時代中期(1560年)の各国の守護大名や戦国大名<br>この「長尾氏」は上杉謙信のことです]] :有名な戦国大名を以下にあげます。その他にも有名な戦国大名はたくさんいますが、脱線しすぎるので、ここでは、取り上げません。興味があれば、皆さんの住んでいるところで活躍した戦国大名を調べてみましょう。 :*{{ruby|北条早雲|ほうじょうそううん}}<span id="北条早雲"/> :*:{{ruby|伊豆|いず}}国(現在の静岡県)と{{ruby|相模|さがみ}}国(現在の神奈川県)をおさめ、後に関東地方全体をおさめる{{ruby|北条|ほうじょう}}氏<ref>鎌倉時代の執権であった北条氏と区別するため「{{ruby|後北条|ごほうじょう}}氏」といいます。</ref>の初代となる戦国大名です。関東南部から{{ruby|上野|こうずけ}}国、{{ruby|越後|えちご}}国は、[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#鎌倉府|関東管領]]である上杉氏が守護をしていましたが、[[#関東戦乱|関東での戦乱]]で上杉氏の中でも対立がおこり、守護に戦乱をおさめる力はありませんでした。北条早雲は西国の出身ですが<ref>以前は、誰にもつかえていない武士({{ruby|浪人|ろうにん}})とされていましたが、最近の研究では[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#室町幕府|室町幕府の政所執事]](政所の責任者){{ruby|伊勢|いせ}}氏の一族であることが分かっています。</ref>、東国に移り住んで{{ruby|今川|いまがわ}}氏が守護をする{{ruby|駿河|するが}}国(現在の静岡県)の守護代となり、伊豆国と相模国から上杉氏の勢力を追い出し、領地としました。 :*{{ruby|斎藤道三|さいとうどうさん}}<span id="斎藤道三"/> :*:{{ruby|美濃|みの}}国(現在の岐阜県)の戦国大名です。美濃国は、{{ruby|土岐|とき}}氏が守護をつとめていましたが、実際の政治は守護代である{{ruby|斉藤|さいとう}}氏が行い、さらに、その代官である{{ruby|長井|ながい}}氏が力を持っていました。斎藤道三は、もともと京都の油売りで、美濃で長井氏につかえ、やがて、主人の罪をせめて殺して長井新九郎をなのります<ref>最近の研究では、ここまでは、道三の父親の時代の話ではないかと言われています。</ref>。その後守護代の斉藤氏が亡くなると、斉藤新九郎利政となのって守護代になります。そして、最後に守護の土岐氏を追い出して、美濃国をおさめる戦国大名となりました。 :*{{ruby|上杉謙信|うえすぎけんしん}}<span id="上杉謙信"/> :*:{{ruby|越後|えちご}}国(現在の新潟県)の戦国大名です。越後国の守護は上杉氏がつとめていて、守護代を{{ruby|長尾|ながお}}氏がつとめていました。謙信は、もともと長尾氏の生まれですが、力が衰えた上杉氏の養子となり、関東管領の地位もつぎました。謙信は、北関東をめぐって北条氏と戦い、{{ruby|信濃|しなの}}国(信州、現在の長野県)をめぐって{{ruby|武田信玄|たけだしんげん}}と戦いました。 :*{{ruby|武田信玄|たけだしんげん}}<span id="武田信玄"/> :*:{{ruby|甲斐|かい}}国(現在の山梨県)の戦国大名です。{{ruby|武田|たけだ}}氏は、もともと守護大名です。信玄は、馬を使った{{ruby|戦|いくさ}}がたくみで、{{ruby|信濃|しなの}}国をめぐって上杉謙信と戦い、信濃を領地にし、{{ruby|今川|いまがわ}}氏が衰えたのち、駿河に南下し、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#徳川家康|徳川家康]]とたたかい、家康を敗退させます<span id="三方原の戦い"/>。そのまま、西に進み、[[#織田信長|織田信長]]とたたかおうとしたところで病で亡くなりました。 :*{{ruby|今川義元|いまがわよしもと}}<span id="今川義元"/> :*:{{ruby|駿河|するが}}国と{{ruby|遠江|とおとおみ}}国(現在の静岡県中部から西部)の戦国大名です。{{ruby|今川|いまがわ}}氏は、足利家の一族の有力な守護大名です。義元は、隣接する北条氏や信玄と争いながら、ひけをとらない強力な戦国大名で、西に隣接する{{ruby|三河|みかわ}}国の大名{{ruby|松平|まつだいら}}氏をしたがえており、松平氏であった[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#徳川家康|徳川家康]]も幼いころ人質にされていました。1560年、大軍で西に進み{{ruby|尾張|おわり}}を攻撃しようとしたところで、[[#織田信長|織田信長]]の奇襲にあってうたれました(桶狭間の戦い)。 :*{{ruby|毛利元就|もうりもとなり}}<span id="毛利元就"/> :*:毛利元就はもともと{{ruby|安芸|あき}}国(現在の広島県)の国人領主でしたが、安芸の守護武田氏をほろぼし戦国大名となり、ついで、{{ruby|周防|すおう}}、{{ruby|長門|ながと}}国(現在の山口県)など中国地方西部を領地とした守護大名である{{ruby|大内|おおうち}}氏の内乱の機会に大内氏の領地をえて、中国地方の東部を領地とした戦国大名である[[#尼子氏|{{ruby|尼子|あまこ}}氏]]をほろぼして中国地方全体をおさめる戦国大名になりました。 </small> |}</div> ==== 鉄砲とキリスト教の伝来 ==== [[ファイル:Arquebus.jpg|thumb|right|200px|種子島{{ruby|火縄銃|ひなわじゅう}}]] :15世紀から、西ヨーロッパの国々、特に'''ポルトガル'''と'''スペイン'''は世界中に船を出して貿易を始めたり、新たな土地を発見したりしていました('''[[#大航海時代|大航海時代]]''')。 :その中で、1543年{{ruby|種子島|たねがしま}}にポルトガル人が漂着し、'''{{ruby|鉄砲|てっぽう}}'''が伝えられました。当時の鉄砲は、{{ruby|筒|つつ}}先から、丸い{{ruby|弾|たま}}と火薬をつめ、ねらいを定めたら、手元の火のついた縄で火薬に火をつけうつというもので'''{{ruby|火縄銃|ひなわじゅう}}'''と呼ばれています。火縄銃の弾がとどく{{ruby|距離|きょり}}は、100mほどでしたが<ref>この距離は意外と短いです。一発うつと、次のをうつのに弾と火薬を、また筒先からつめないといけないので、その間に馬などに乗った敵に近づかれてしまいます。</ref>、{{ruby|鎧|よろい}}をつらぬくほどの威力があって、おどろきをもってむかえられます。すぐに、火縄銃の製造法({{ruby|鉄砲鍛冶|てっぽうかじ}})が習得され、全国で製造されるようになって、各地の戦国大名がもちいるようになり、戦争の様子が大きく変わりました。 {{-}} [[File:Namban-13.jpg|thumb|200px|{{Ruby|南蛮屏風|なんばんびょうぶ}}(※ 一部分)<br>南蛮貿易のようすがかかれています。日本人がえがいたものです。]] :この漂着を機会に日本への航路を発見したポルトガルとスペインは、日本では'''{{ruby|南蛮人|なんばんじん}}'''と呼ばれ、九州の{{ruby|長崎|ながさき}}や{{ruby|平戸|ひらど}}や、大阪の{{ruby|堺|さかい}}の港などを{{ruby|訪|おとず}}れ各地の戦国大名などと貿易を行うようになります('''{{ruby|南蛮貿易|なんばんぼうえき}}'''<span id="南蛮貿易"/>)。 :南蛮貿易で、ボルトガルは、ヨーロッパから持ち込んだものではなく、日本・中国(明)・インド(ゴアという町をポルトガルの領地にしていました)・東南アジアを結んだ貿易をしていました。 ::#中国から日本 ::#:生糸、絹織物、金、陶磁器、{{ruby|硝石|しょうせき}}<ref>火薬の材料</ref>、薬、砂糖 ::#日本から中国 ::#:銀、{{ruby|硫黄|いおう}}、日本刀、{{ruby|漆器|しっき}}、{{ruby|螺鈿細工|らでんざいく}}、人(奴隷) ::#東南アジア各地から日本へ ::#:{{ruby|沈香|じんこう}}<ref>お香や薬の材料。</ref>、{{ruby|錫|すず}}、{{ruby|鉛|なまり}}など。 :その他、南蛮貿易によって、アメリカ大陸原産のカボチャ<ref>「カンボジア」がなまったものと言われています。</ref>・スイカ・トウモロコシ・ジャガイモ<ref>「ジャガタラいも」の略で、「ジャガタラ」は今のインドネシア・ジャカルタのことです。</ref>・トウガラシ・タバコが日本にもたらされました。 :また、これらの船を使って、日本人の中にも東南アジアの各地にうつり住む人々も出てきて、東南アジアには'''{{ruby|日本人町|にほんじんまち}}'''<span id="日本人町"/>もあちこちにできました。 [[File:Franciscus de Xabier.jpg|thumb|200px|フランシスコ・ザビエル]] :1549年、スペイン人の{{ruby|宣教師|せんきょうし}}'''フランシスコ・ザビエル'''が来日し、'''[[#キリスト教|キリスト教]]'''を伝えました。キリスト教は、{{ruby|聖書|せいしょ}}にもとづいた大変わかりやすい教えで、また、当時の仏教の寺の多くが地主や大名のように振る舞っていたことへの反発、さらに、貿易の目的から保護をする大名などもいて、多くの信者('''キリシタン''')をえました。戦国大名自身がキリシタンとなった者('''キリシタン大名''')もいました。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="大航海時代"/>{{ruby|大航海時代|だいこうかいじだい}}<small> [[File:Explos.png|thumb|300px|大航海時代の主な航路を示した地図]] :日本人にとって外国とは、朝鮮半島か中国、書物の上での{{ruby|天竺|てんじく}}(インド)くらいでしたが、鉄砲伝来の時に、はじめて、日本で、日本人がヨーロッパ人に出会うことになりました。 :日本を、ヨーロッパに初めて広めたのは、14世紀に中国の元を、[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#元寇|元寇]]のころ、おとずれた'''マルコ・ポーロ'''の書いた『{{ruby|東方見聞録|とうほうけんぶんろく}}』です。そこでは、日本を'''ジパング'''<ref>「日本国」の当時の中国語の発音からでしょう。日本語でも、「日」は「ジツ」とも読みますね。英語の"Japan"(ジャパン)など日本を表すことばの元になっています。</ref>と呼び、建物の屋根まで黄金でできた黄金の国と表現しています<ref>もちろん、これは大げさですが、当時の日本からの重要な輸出品に{{ruby|金|きん}}がありました。</ref>。 :14世紀頃までのヨーロッパの重要な輸入品に、肉のくさみを消し、長期間保存するための{{ruby|胡椒|こしょう}}がありました。胡椒はインドで栽培されたものを陸路で運んでいましたが、途中にイスラム商人やイタリア商人が入っていたため大変高価なものとなっていました。 :15世紀になると、ヨーロッパの国々で航海の能力が、格段に伸びて、陸路ではなく船で貿易をこころみるようになりました。さまざまな航路が発見され、ヨーロッパの人々は世界中に船を出し貿易をしたり、新たに見つけた土地を植民地としたりしました。この時代を、'''{{ruby|大航海時代|だいこうかいじだい}}'''といいます。 :ヨーロッパからインドまではアラビア半島沿いの{{ruby|紅海|こうかい}}を通っていけば近いのですが、当時は紅海と地中海の間は船の通行ができず<ref>今は、'''スエズ運河'''があるので通行できます。</ref>、また、イスラムの国々を通過しなければならなかったので、その経路はつかえません。そこで、大西洋アフリカ西岸を南下し、アフリカ最南端を回ってインド洋をへてインドへむかう航路が探され、1498年ポルトガル王が派遣した'''ヴァスコ・ダ・ガマ'''がその航路を発見しました。それ以降、ポルトガルがこのインド洋航路を支配して貿易を行いました。 :これと同時期、アフリカ西岸を南下するのではなく、地球は丸いのだから大西洋をずっと西に行けばインドに着くという考えを持つ人がいました。'''クリストファー・コロンブス'''という人です。コロンブスは、黄金の国ジパングにあこがれ、スペイン王の支援をえて、1492年、大西洋を西に進みました。そうすると、2ヶ月後に人の住む島を発見しました。コロンブスはインドに到着したものと思い、その島の住民などを「インドの人(インディオ、インディアン)」と呼びました。しかし、その後よく調べると、コロンブスが発見したのは、インドの一部ではなく、ヨーロッパ人が知らなかった新たな土地'''アメリカ'''<ref>この名前は、コロンブスが発見したのがインドではなく新たな土地であることを見つけた'''アメリゴ・ベスプッチ'''の名前にちなみます。</ref>であることがわかりました。 :16世紀の間、スペインは南北アメリカ大陸を植民地とし銀などの資源をヨーロッパに持ち込み、ポルトガルはアフリカ航路を利用した、アジア貿易で国がさかえました<ref name="スペイン">1465年スペインはフィリピンを植民地にし、アジア貿易に参加します。また、1480年スペインはポルトガルを併合するので、秀吉の頃は貿易など、ポルトガルではなくスペインが独占しています。</ref>。 :1453年、種子島にポルトガル人が漂着したのはこの頃です。 :ポルトガルは、中国南部のマカオを拠点として、さらに東に貿易の範囲を広げようとしていました。漂着したポルトガルの船には、中国人が乗っていて、種子島の役人とは筆談で、やりとりができました。 </small> |}</div> <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="キリスト教"/>キリスト教について<small> :さすがに、キリスト教を全然知らないという方はいないでしょうが、日本の歴史では、ここで初めて出てくるので、簡単な説明と、この時代のキリスト教の状況について説明しておきます。 :キリスト教は、紀元1世紀<ref>そもそも、イエス・キリストが生まれたとされる年を紀元1年としているので当たり前ですが。</ref>、現在のイスラエルで、その地に住んでいたユダヤ人の宗教ユダヤ教を元にイエス・キリスト<ref>名前が「イエス」で、「キリスト」は「救世主」の意味です。</ref>が説き、ヨーロッパ各地に広めた宗教です。イエス・キリストの教えは、ユダヤ教の教えとともに「'''{{ruby|聖書|せいしょ}}'''」という書物<ref>もともとのユダヤ教の教えの部分を「{{ruby|旧約|きゅうやく}}聖書」、イエス・キリストが登場した後の教えの部分を「{{ruby|新約|しんやく}}聖書」といいます。「訳」ではなく「約」であることに注意してください。これは、神様との{{ruby|契'''約'''|けいやく}}・{{ruby|'''約'''束|やくそく}}ということです。</ref>になって、キリスト教は、この聖書にもとづいて説かれています。 :キリスト教は、最初はヨーロッパから中東、アフリカ北部を支配していたローマ帝国から厳しい迫害を受けましたが、4世紀にはローマ帝国の国教になります。ローマ帝国がほろびた後も、ヨーロッパ全土にキリスト教の教えは広まり、ローマ教皇を頂点とする'''カトリック教会'''(ローマ教会)が、ヨーロッパ西部において宗教的な支配者となりました<ref><span id="ギリシア正教"/>ただし、ギリシア近辺を中心としたヨーロッパの東部にはローマ帝国をつぐ国が残っていたので、その人々はローマ教会の支配に入らず、独自の信仰を続けました。この人々の宗派を'''ギリシア正教'''と言います。ギリシア正教はやがて北上し、スラブ系の民族に信仰されるようになります。</ref>。また、同時に、教会も土地やそこで働く農奴を有して、領主としてもふるまうようになりました(日本のお寺が「荘園領主」になったのと同じことです)。こうして、経済的な力も持った教会は、しばしば、国王や貴族たちと対立するようになりました。なかには、神父など聖職者であるにもかかわらず、教会のお金で贅沢な生活をするものも現れました。 :<span id="宗教改革"/>16世紀(ちょうど大航海時代の頃)になって、イエス・キリストの教えはカトリック教会からではなくて、聖書から直接学ぶことができるという考え方が現れ、カトリック教会から独立してキリスト教を信仰する動きが出てきました。この考え方を、「'''プロテスタント'''」または「'''新教'''<ref>新教に対してカトリックを「'''旧教'''」ともいいます。</ref>」といいます。プロテスタントはローマから遠いドイツやフランスの北部に広まり、ヨーロッパ各地でカトリックとプロテスタントの争い<ref>単に宗教上の論争だけではなく、各々を信仰する貴族の間での戦争です。</ref>が起こりました。 :カトリック教会でも、このようなことになったことに反省し、その使命感を持った人々が集まり<ref>キリスト教では、同じ考えに共感を持った聖職者があつまって活動する場所を{{ruby|修道院|しゅうどういん}}といい、いくつかの修道院を含んだ、そのような集まりを{{ruby|修道会|しゅうどうかい}}と言います。</ref>、新たな布教活動を始めます。フランシスコ・ザビエルが所属するイエズス会もそのひとつです。 :<span id="キリスト教宣教"/>イエズス会などは、大航海時代で、ヨーロッパ人には新たな土地である、アジアや南北アメリカ大陸の各地へ布教にでかけます。宣教師たちは、キリスト教の教えとともに算術などの各種の学術、中には文字まで伝えるなどして、ヨーロッパ文明を伝え信者を増やしました。一方で、そのようにして信者を増やして、スペインなどが植民地としやすくしたとの話もあります。 </small> |}</div> <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - これはちょっと覚えておいた方がいい話】<span id="ヨーロッパ"/>ヨーロッパの人々について<small> :この時代に、日本はヨーロッパの人たちと初めて出会ったのですが、大航海時代以降世界中でヨーロッパの人たちは活躍し、その影響は、今、皆さんたちが生活している現代までに及びます。 :ただ、ヨーロッパとは言っても、その中身はさまざまです。ヨーロッパの人たちは大きくラテン系、ゲルマン系、スラブ系の人々に分かれます。このことは、小学校の学習範囲ではありませんが、世界の地理や歴史を話す際に常識になりますので、大まかなところを覚えておきましょう。 :#'''ラテン系'''の人々は、主にヨーロッパの南西部の人々です。カトリックの信者が多く、ポルトガルやスペインはこのグループに入ります。その他、フランスやイタリアが含まれます。大航海時代にスペインとポルトガルからメキシコ以南の中南米に多くの移民し、その言語や文化を伝えます。そのため中南米をラテンアメリカと言います。 :#'''ゲルマン系'''の人々は、主にヨーロッパ北西部の人たちです。プロテスタントの信者が多くなります。ポルトガルやスペインの次にやってくる、オランダやイギリスがこのグループです。その他、ドイツやデンマークなど北ヨーロッパ諸国が、ゲルマン系になります。北アメリカのアメリカ合衆国はイギリス人の移民が中心となって建国しました。 :#'''スラブ系'''の人々は、主にヨーロッパ東部の人々です。この地域では、キリスト教のうち[[#ギリシア正教|ギリシア正教]]が中心となります。このグループを代表するのがロシア人です。その他、ウクライナやポーランド、ブルガリア、セルビアなどが挙げられます。 :この3つのグループに属さないヨーロッパの民族もいくつかあります。代表的なものはギリシア人です。 :各々のグループの特徴については、数多くの例外はありますが、この3分類はヨーロッパの理解の基本として覚えておきましょう。 </small> |}</div> === 安土桃山時代 === :1467年の応仁の乱から、約100年、戦国の世の中は、各地で有力な戦国大名が領土を拡大し各地方をまとめつつありましたが(このような状態を、{{ruby|群雄割拠|ぐんゆうかっきょ}}といいます)、[[#上杉謙信|上杉謙信]]と[[#武田信玄|武田信玄]]と[[#北条早雲|北条氏]]がお互い強力で動きが取れなくなったりして、世の中が平和になる見込みはありませんでした。そのような中、{{ruby|尾張|おわり}}(現在の愛知県の西部)に'''[[#織田信長|{{ruby|織田信長|おだのぶなが}}]]'''が現れました。信長は、尾張からはじまって約20年で[[#信長最大版図|京都をはじめとした日本の中心部]]をおさえ、天下を統一し戦国時代を終わらせるきっかけを作りました。信長は、家臣の{{ruby|明智光秀|あけちみつひで}}によって殺されますが、光秀を討った'''[[#豊臣秀吉|{{ruby|豊臣秀吉|とよとみひでよし}}]]'''が引き継いで天下を統一します。信長は滋賀県の{{ruby|安土|あづち}}に城をきずき政治を行い、それをついだ秀吉は京都の{{ruby|桃山|ももやま}}城(現在の京都市伏見区)で政治を行なったので、この時代を「'''{{ruby|安土|あづち}}{{ruby|桃山|ももやま}}時代'''<ref>別名を、「'''織'''田信長」と「'''豊'''臣秀吉」で'''{{ruby|織豊|しょくほう}}時代'''とも言います。</ref>」と言います。 ==== 織田信長の登場 ==== [[File:Odanobunaga.jpg|200px|thumb|織田信長]] :'''{{ruby|織田信長|おだのぶなが}}<span id="織田信長"/>がやったこと''' ::(ここには、ポイントだけ書きます。細かい部分は[[#信長|参考資料]]とし、小学校の範囲を超えているので、おぼえる必要はありませんが理解を深めるため、そちらをを読んでください。) ::*尾張一国の戦国大名でしたが、1560年{{ruby|桶狭間|おけはざま}}の戦いで有力な戦国大名である{{ruby|駿河|するが}}の{{ruby|今川義元|いまがわよしもと}}をたおしました。 ::*領土を西に広げて行き、1569年室町幕府の第15代将軍に{{ruby|足利義昭|あしかがよしあき}}をつけました。 ::*'''{{ruby|堺|さかい}}'''などの商人を保護し、'''南蛮貿易'''をはじめとする商業をさかんにしました。 ::*南蛮貿易をさかんにするためなどの理由で、ポルトガル人宣教師によるキリスト教の布教を認めました。 ::*将軍義昭と対立し、1573年京都から義昭を追放しました。そのため、室町幕府は滅亡しました。 ::*三好氏・朝倉氏・甲斐武田氏といった有力な戦国大名をほろぼし、[[#信長最大版図|京都をはじめとした主要な土地]]を領地として、その領土に自分の家臣をおきました。 ::*1576年、{{ruby|近江|おうみ}}(現在の滋賀県)に '''{{ruby|安土城|あづちじょう}}''' を築かせ、そこで政治をとりました。 ::*1582年、家臣の'''{{ruby|明智光秀|あけちみつひで}}'''に{{ruby|裏|うら}}切られ、京都の{{ruby|本能寺|ほんのうじ}}でおそわれて、亡くなりました('''{{ruby|本能寺|ほんのうじ}}の{{Ruby|変|へん}}''')。 :'''信長が他の戦国大名と違うところ'''<span id="信長の政策"/> ::それまで戦国大名ができなかったことが、信長にはなぜできたのでしょう。信長がそれまでの戦国大名と違うと言われるところを以下にあげます。 ::どれも、信長がはじめてやったというものではありませんが、これらのことを{{ruby|大胆|だいたん}}にできたので、信長は天下統一に手がとどいたのかもしれません。 ::[[File:Battle of Nagashino word.svg|400px|thumb|長篠の戦い。左側が織田・徳川の連合軍。右側が武田軍。]] ::*'''軍事''' ::**鉄砲の活用 ::**:信長は、{{ruby|戦|いくさ}}に大量の鉄砲を用いました。 ::**:<span id="長篠の戦い"/>鉄砲を活用した{{ruby|戦|いくさ}}の例として、1575年、甲斐の大名{{ruby|武田勝頼|たけだかつより}}([[#武田信玄|信玄]]の子)との'''{{ruby|長篠|ながしの}}の戦い'''があります。当時、武田軍はよく訓練された騎馬部隊<ref>馬に乗った武士がおそいかかる軍隊。</ref>をもっており、日本最強とも言われていたのですが、これを、3000{{ruby|丁|ちょう}}の火縄銃でむかえうち、武田軍を圧倒しました。 ::**軍団の組織化 ::**:信長は、それまで武将(多くは国人領主)単位に編制されていた軍隊を鉄砲隊、槍隊、騎馬隊など機能ごとに編成しました。また、各地での連絡や移動途中の食糧の確保などを重視し、軍隊が素早く動けるよう工夫しました。 ::**兵士の専門化<span id="兵農分離"/> ::**:{{ruby|戦|いくさ}}が集団戦で数が多い方が有利となり、[[#足軽|足軽]]などが増えたのですが、多くは農民をかねていて稲作の時期など思うようにあつめられず、また、鉄砲や槍といった取り扱いに訓練や経験が必要なものは、農作業のあいまにということではうまくいきませんでした。信長は、これらの足軽を城下に集め、専門の兵士としました。また、これを逆から見ると、専門の兵士でないものは農業ばかりやるようになり、生産が増えることが期待できる他、武器を持った反乱などのおそれがへるということになります。 ::*:[[ファイル:Nobunaga_flag.png|thumb|180px|織田信長軍 [[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#永楽通宝|永楽銭(永楽通宝)]]の旗印]] ::*'''経済''' ::*:鉄砲を買ったり、専門の兵士として足軽を雇うためにはお金が必要です。信長は、お金をえるためにいろいろなことをしました。 ::*:信長の{{ruby|旗印|はたじるし}}は、中国の貨幣で当時日本でも共通の貨幣であった「'''[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#永楽通宝|永楽通宝]]」'''です。信長が、いかに経済を大事に考えていたかがわかります。 ::**{{ruby|検地|けんち}}<span id="検地"/> ::**:信長は新たに領地となった田畑の面積や収穫量を調査し、それを検地帳にまとめました<ref>最初に検地をやったのは、[[#北条早雲|北条早雲]]ではないかと言われています。</ref>。これで、年貢の量を予想することができ、計画的にお金の使い{{ruby|途|みち}}(予算)を決めることができます。お金の出入りが計画的であれば、売ったり、貸したりする方も安心して取引ができます。 ::**商業の振興 ::***領地内の[[#関所|関所]]を廃止し通行税をとることをやめ、商品が安価で大量に流通するようにしました。 ::***'''[[#楽市楽座|{{ruby|楽市楽座|らくいちらくざ}}]]'''といって、岐阜や安土城の城下の{{ruby|市|いち}}などで自由に物を売らせるようにし、いろいろなものが大量に取引されるようにしました。 ::***日本最大の貿易港であった'''{{ruby|堺|さかい}}'''を直接おさめ、堺の商人に自由にものごとを決めさせて、'''[[#南蛮貿易|南蛮貿易]]'''などを盛んに行いました。 ::*'''人材の登用''' ::*:{{ruby|豊臣秀吉|とよとみひでよし}}、{{ruby|明智光秀|あけちみつひで}}、{{ruby|滝川一益|たきがわかずます}}など、家柄や出身地にかかわらず能力のあるものを登用しました。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="信長"/>信長のあしあと<small> [[File:Map Japan Genki1.png|thumb|300px|戦国時代末期(1570年)の各国の戦国大名]] [[File:Sengoku period 1582.png|thumb|300px|<span id="信長最大版図"/>1582年本能寺の変直前の領地の様子。徳川氏は信長にしたがっているので、信長の領地と考えても良いです。]] :{{ruby|尾張|おわり}}はもともと{{ruby|斯波|しば}}氏が守護を務める国で、{{ruby|織田|おだ}}氏は尾張の守護代の家柄でした。しかも、信長の家系は守護代の家の分家にあたりましたが、父{{ruby|織田信秀|おだのぶひで}}が戦国大名として尾張をまとめ、隣国{{ruby|美濃|みの}}[[#斎藤道三|斎藤道三]]と結ぶなどしていました。 :一国のみの大名であった信長が有力大名になるきっかけは、1560年{{ruby|桶狭間|おけはざま}}の戦い<span id="桶狭間の戦い"/>です。これは、有力な戦国大名である{{ruby|駿河|するが}}の[[#今川義元|{{ruby|今川義元|いまがわよしもと}}]]が西に進めていた軍を、奇襲して義元を討ち取ったという戦いです。この戦いで、東側からせめられる心配がなくなり、信長は西へ進みます。 :1567年、道三の孫{{ruby|斎藤龍興|さいとうたつおき}}を追放し、美濃をえて、街の名を{{ruby|岐阜|ぎふ}}と変えて尾張から移住し、翌1568年には、足利氏の一族である{{ruby|足利義昭|あしかがよしあき}}<ref>第12代将軍{{ruby|足利義晴|あしかがよしよしはる}}の子、第13代将軍{{ruby|足利義輝|あしかがよしてる}}の弟。当時、京都は、将軍義輝を殺した{{ruby|阿波|あわ}}の[[#三好氏|三好氏]]が京都を占領しており、それから逃げていました。</ref>を連れ、京都に入り、翌年第15代将軍としました。 :京都から近畿地方一帯を、自分の勢力におさめた信長は、当時、日本最大の貿易港であった{{ruby|堺|さかい}}を直接おさめ、堺の商人たちに自分たちの政治をまかせました。そうすることで、商業をさかんにし、'''南蛮貿易'''をはじめとした取引の利益を税としてえようとしました。 :また、このころ、キリスト教の{{ruby|宣教師|せんきょうし}}と初めて出会い、布教を許可しました。信長本人はキリスト教の信者ではなく、信長のねらいは、南蛮貿易のほか、宣教師のもたらす情報や、さらには当時に信長と{{ruby|敵対|てきたい}}していた仏教勢力への{{ruby|対策|たいさく}}などと言われています。 :京都近辺の訴訟や各国の争い事の調停などは将軍義昭の幕府に任せて、自分は領地の中の政治や領地の拡大につとめていましたが、幕府にはもうその力はなく、将軍にかわって信長が取り扱わなければならない例が多く出てきました。将軍義昭やその側近はそれに不満を持つようになりました。そのため、信長を囲む勢力と連絡をとって攻撃させたとも言われています。信長を囲む勢力としては、阿波の[[#三好氏|三好氏]]、北陸の{{ruby|朝倉|あさくら}}氏、{{ruby|摂津|せっつ}}の石山本願寺<ref>のちに大阪城が建てられる場所です。</ref>が指揮をとる各地の[[#一向一揆|一向一揆]]がありました。信長は、家臣を各々の方面に当てて戦いました。また、1571年には、 {{ruby|延暦寺|えんりゃくじ}}が敵対する朝倉氏の兵をかばったとして焼き{{ruby|討|う}}ちにしました<ref>当時の延暦寺は僧だけではなく、寺を守る武士やその家族も含めた一つの街になっていました。</ref>。翌1572年には、これをとがめた[[#武田信玄|武田信玄]]が西へ向かい、同盟者の[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#徳川家康|{{ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}]]と戦い、'''[[#三方原の戦い|{{ruby|三方原|みかたがはら}}の戦い]]'''で信長と家康の同盟軍をうちやぶりますが、信玄がその途中で病死したため、武田軍は甲斐へ戻ります。 :1573年、信長は将軍義昭を追放し、室町幕府はほろび、室町時代は終わります。 :翌年、北陸地方の有力な大名であった{{ruby|朝倉|あさくら}}氏とその協力者であった近江の{{ruby|浅井|あざい}}氏をほろぼし、1575年の[[#長篠の戦い|長篠の戦い]]では、大量の火縄銃で、{{ruby|武田勝頼|たけだかつより}}がひきいる日本最強とうわさされた騎馬軍団をしりぞけました。 :1576年、{{ruby|近江|おうみ}}(現在の滋賀県)に '''{{ruby|安土城|あづちじょう}}''' を築かせ、岐阜からうつって政治をとりました。安土城は、最初に{{ruby|天守閣|てんしゅかく}}をもった城と言われています。信長は、多くの家来を安土城の城下に集め、また、取引が自由な市を安土城下におきました。 :その後、石山本願寺を打倒し、北陸方面では国境を接するようになった[[#上杉謙信|上杉謙信]]らと争い、中国地方では{{ruby|毛利|もうり}}氏と四国地方では三好氏に代わった{{ruby|長宗我部|ちょうそかべ}}氏と争います。そして、1582年には、長年敵対していた武田勝頼をほろぼします。 :同年、このような中、中国地方の毛利氏と争っていた豊臣秀吉に支援の兵を出そうとしていた時、重臣であった'''{{ruby|明智光秀|あけちみつひで}}'''が、信長の滞在する京都の{{ruby|本能寺|ほんのうじ}}に兵を向け、そこで亡くなりました('''{{ruby|本能寺|ほんのうじ}}の{{Ruby|変|へん}}''')。 </small> |}</div> <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="楽市楽座"/>{{ruby|楽市楽座|らくいちらくざ}}<small>。 :戦国時代に入るころには、大量の永楽通宝などが入って、ますます商業はさかんとなって、各地の交通の便の良いよいところや寺社の門前の{{ruby|市|いち}}がにぎわったほか、戦国大名などは、居城の周辺に家臣を集め住ませたことで{{ruby|刀鍛治|かたなかじ}}などの職人も集まるようになり、そのような場所にも定期的に{{ruby|市|いち}}が立つようになりました('''{{ruby|城下町|じょうかまち}}'''のはじまり)。 :そのころの{{ruby|市|いち}}では、領主などにお金を払って、商売をする場所「{{ruby|座|ざ}}」を確保していました({{ruby|市|いち}}にある「座」を「{{ruby|市座|いちざ}}」といいます。「{{ruby|店|みせ}}」のはじまりです)。座は最初は個人にあたえられていましたが、次第に同業者でまとまったりしていました。このような座に{{ruby|魚|うお}}座・{{ruby|莚|むしろ}}座・{{ruby|鋳物|いもの}}座・{{ruby|布|ぬの}}座・{{ruby|紙|かみ}}座など多数ありました。これらの座は、個々の{{ruby|市|いち}}をこえてまとまって、お金を払う代わりに寺社などの保護を受けるものもありました。 :戦国時代のなかばには、「市座」は、その{{ruby|市|いち}}で独占的に商売をすることができるようになり、だれかが新しくその仕事をはじめたり、{{ruby|値段|ねだん}}を決めたりすることがむずかしくなっていました。また、「座」があることで、新しく始めたり、値段を安くしたり、工夫をすることができなくなっていました。 :{{ruby|楽市楽座|らくいちらくざ}}は、このような制限をなくして、自由に取引ができるようにし、より良いものが、より安く、より多く取引されることを目的とした政策です。 </small> |}</div> ==== 豊臣秀吉の天下統一 ==== [[File:Toyotomi_hideyoshi.jpg|thumb|200px|豊臣秀吉。秀吉は、もともと農民でしたが、武士になりました。そして、信長に{{Ruby|認|みと}}められ、信長の部下になりました。]] [[File:Osaka Castle Keep tower of 「A figure of camp screen of the Osaka summer」.jpg|thumb|200px|大阪城]] :1582年、'''{{ruby|本能寺|ほんのうじ}}の{{Ruby|変|へん}}'''のとき、'''{{ruby|豊臣秀吉|とよとみひでよし}}<span id="豊臣秀吉"/>'''<ref name="秀吉の名">秀吉は、何度も名前を変えていて、もともと、{{Ruby|木下|きのした}}{{Ruby|藤吉郎|とうきちろう}}{{Ruby|秀吉|ひでよし}}という名でしたが、この当時は、{{Ruby|羽柴|はしば}}{{Ruby|秀吉|ひでよし}}と名乗っていました。[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#なのり|なお、「豊臣」は「源」や「平」と同じ本姓で、苗字(名字)は「羽柴」のままです。]]</ref>は、{{ruby|備中|びっちゅう}}(現在の岡山県)で毛利氏と戦っていましたが、ただちに、戦いをやめ軍団2万人を連れて上方に引き返し、{{Ruby|明智光秀|あけちみつひで}}をうちました。 :このことで、秀吉は、信長の後継者とみとめられ、翌年、信長の有力な家臣であった{{ruby|柴田勝家|しばたかついえ}}をうって、信長の天下統一の事業を引き継ぎました。 :同年、石山本願寺のあとに大阪城を築かせ、そこを{{Ruby|本拠地|ほんきょち}}にし、安土城同様またはそれ以上に、城下に堺の商人も含め多くの人々をあつめました。 :秀吉は、以下のとおり、順々に全国を統一して行きます。 :*中国地方の毛利氏とは、毛利氏がその当時もっていた中国地方9カ国の領地をそのまま認めることで同盟を結びました。 :*1583年、{{ruby|越後|えちご}}の{{ruby|上杉景勝|うえすぎかげかつ}}([[#上杉謙信|謙信]]の後継者)とも同盟を結びました。 :*1584年、秀吉の後継に不満を持った信長の次男織田{{ruby|信雄|のぶかつ}}が[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#徳川家康|{{ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}]]を味方にして戦いますが、翌年には家康は秀吉に従います。 :*四国は長宗我部氏がほぼまとめていましたが、1585年、攻め入って、{{ruby|土佐|とさ}}(現在の高知県)一国のみを残し、その他を取り上げました。 :*1585年秀吉は、[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#摂関政治|関白]]に、翌年[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#太政官|太政大臣]]となり、天皇から「豊臣」の姓<ref name="秀吉の名"/>をあたえられました。 :*1587年、その大部分を{{ruby|島津|しまづ}}氏が統一していた九州に入り、島津氏には{{ruby|薩摩|さつま}}、{{ruby|大隈|おおすみ}}(現在の鹿児島県)と{{ruby|日向|ひゅうが}}(現在の宮崎県)の一部のみを残し、九州を平定しました。 :*1590年、関東を支配していた{{ruby|北条|ほうじょう}}氏の{{ruby|小田原|おだわら}}城(現在の神奈川県小田原市)をせめ、これをほろぼします<span id="小田原攻め"/>。この時、東北を広く支配していた{{ruby|伊達政宗|だてまさむね}}は小田原まで来て、秀吉にしたがいました。こうして、秀吉に対抗する戦国大名はいなくなり、天下は統一され、戦国時代が終わりました。 :1591年秀吉は関白をやめ甥の{{ruby|秀次|ひでつぐ}}にゆずりました。それ以降、秀吉は関白をやめた人をさす「{{Ruby|太閤|たいこう}}」と呼ばれます。そして、今では「太閤」といえば、普通は豊臣秀吉のことを指すようになりました。また、1594年秀吉は京都伏見に{{ruby|桃山|ももやま}}城(伏見城)を作り、各国の大名を集め、そこで政治を行いました。 :<span id="朝鮮出兵"/>1592年、秀吉は、大陸進出を望んで、全国の大名に命じて'''朝鮮'''に兵を進めました。翌年、'''[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#明|{{ruby|明|みん}}]]'''が援軍を入れたため、いったん、兵を引き上げ、明と交渉を続けましたがまとまらず、1597年ふたたび、朝鮮に兵を進めました。これを、'''{{ruby|朝鮮出兵|ちょうせんしゅっぺい}}'''または'''{{ruby|文禄|ぶんろく}}・{{ruby|慶長|けいちょう}}の{{ruby|役|えき}}'''<ref>1592年が文禄元年、1597年が慶長2年となるからこの名がついています。「{{ruby|役|えき}}」とは、「戦争」の意味です。</ref>といいます。朝鮮出兵は朝鮮の強い抵抗と、明の援軍にあい、侵攻が進まないなか、1598年秀吉が死去し朝鮮出兵は撤退しました。 ;秀吉の政策 :秀吉は信長の政策の多くを引き継ぎました。 :*'''{{Ruby|太閤検地|たいこうけんち}}'''<span id="太閤検地"/> :*:秀吉は、[[#検地|信長同様、新たに領地となった農地に対して検地を行いました]]。信長の時と違っているのは、信長の時は、土地の持ち主に申告させましたが、秀吉の場合、実際に役人を派遣して測量させました。この際、[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#班田収授|班田収授以来使用し全国で乱れていた長さ・広さ・体積の単位]]を統一させました。これを、「{{Ruby|太閤検地|たいこうけんち}}」と呼びます。 :*:太閤検地により、土地の収穫高がわかるため、これを大名の財力の基準としました('''{{ruby|石高|こくだか}}制'''<span id="石高制"/>)<ref>「石高制」の前は、収穫した米を売ったお金を基準とする「{{ruby|貫高|かんだか}}制」でしたが、農地の把握が不確実であったことに加え、貨幣の量が十分でなく、米との交換価格が不安定であったため、検地で収穫量を明確にし安定した収入を確保することで「石高制」に変わりました。</ref>。 :*:また、その土地を耕し、年貢を納める人が明確になったので、荘園は名実ともになくなりました<ref>公家は、荘園からの収入がなくなり、武家同様、知行からの収入のみとなりました。</ref>。 :*'''{{Ruby|刀狩|かたながり}}'''<span id="刀狩"/> :*:秀吉は、信長の「[[#兵農分離|兵士の専門化]]」をさらに進め、1588年に、天下統一が進み、世の中が平和になったということで、{{Ruby|京都|きょうと}}の{{Ruby|方広寺|ほうこうじ}}に大仏を作るので材料の鉄が必要であるという理由で、武士ではない、農民から刀や{{Ruby|鉄砲|てっぽう}}などの武器を{{Ruby|没収|ぼっしゅう}}する命令'''{{Ruby|刀狩令|かたながりれい}}'''を出しました。逆に刀などを持ち続ける場合には、武士であって、農地を手放すということです。この刀狩で、武士とそうでない民衆は明確に区別されました。 :*:また、刀狩によって、寺や神社で武器を持つことができなくなり、これ以降、寺社が武士のようにふるまうことがなくなりました。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''{{Ruby|刀狩令|かたながりれい}}''' :{{Ruby|百姓|ひゃくしょう}}が刀・やり・鉄砲などの武器をもつことを禁止する。ねんぐを出ししぶり、一揆をおこすものは、{{Ruby|厳|きび}}しく{{Ruby|罰|ばっ}}する。 :とりあげた刀は、大仏をつくるためのくぎなどにするから、百姓は仏のめぐみで、この世だけでなく、あの世でも救われるだろう。 |}</div> :*'''キリスト教の禁止'''<span id="バテレン追放令"> :*: 秀吉が、天下を統一したころには、キリスト教の信者('''キリシタン''')はかなり増えており、大名の中にも信者がいました('''キリシタン大名''')。しかし、各地で寺社との対立があったり、[[#キリスト教宣教|スペイン<ref name="スペイン"/>などの侵略のうわさ]]などもあり、1587年、宣教師('''バテレン''')を国外に追放し、キリスト教の布教を禁止しました('''バテレン追放令''' 禁教令)。この時は、個人として信じることは許されたのですが、キリシタン大名の中には信仰をやめる者や信仰を続ける代わりに大名をやめる者もありました。 :*:秀吉は、南蛮貿易を、そのまま継続したため、キリスト教の禁止はあまり徹底されませんでした。ただ、例外として、1597年京都で活動していたキリスト教徒たちを捕らえて、はじめてキリスト教を信じたということで20人日本人、4人のスペイン人宣教師、それぞれ1名のメキシコ人、ポルトガル人宣教師合計26名が処刑されました<ref>これは、古くから布教をしていたキリスト教のグループである'''イエズス会'''(ザビエルもイエズス会の一員です)は、秀吉の意を受けて目立たないように活動を続けていたのですが、新たに布教を始めた'''フランシスコ会'''というグループが禁教令を無視したふるまいをしたためにみせしめに行ったものであるとされています</ref>。この人たちは、「日本二十六{{ruby|聖人|せいじん}}」と呼ばれています。 {{-}} == 脚注 == 以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small> <references/></small> ---- {{前後 |type=章 |[[小学校社会/6学年/歴史編]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう|日本の歴史の流れ]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代|室町文化の誕生-室町時代]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ|江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ]] }} [[Category:社会|しようかつこうしやかい6]] [[Category:小学校社会|6ねん]] [[Category:小学校社会 歴史|#08]] abcx2mnvnqt0848bvon68xsmxf118u0 小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ 0 33212 207300 206435 2022-08-27T02:01:24Z Mtodo 450 wikitext text/x-wiki {{Nav}} {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|6学年|歴史編|frame=1}} {| class="wikitable" style="width:100%" |+ この章の概要 |<!--徳川幕府の成立、江戸時代初期(概ね島原の乱あたりまで)--><!--(キ) 江戸幕府の始まり,参勤交代や鎖国などの幕府の政策,身分制を手掛かりに,武士による政治が安定したことを理解すること。--> ★時代区分:江戸時代初期</br> ★取り扱う年代:1600年(関ヶ原の戦い)から1638年(島原の乱終結)まで ;江戸幕府の始まり :秀吉死後、最も強力な大名'''徳川家康'''は、敵対する豊臣家家臣石田三成らと、東軍(家康側)と西軍(三成側)に分かれ関ヶ原で戦い('''関ヶ原の戦い''')、これに勝利します。政権は豊臣氏から徳川氏に移ります。 :関ヶ原の戦いに勝利した'''徳川家康'''は、1603年に征夷大将軍に就任し、'''江戸'''に幕府を開きます。これを「'''江戸幕府'''(または、徳川幕府)」といい、江戸に幕府があった時代を「'''江戸時代'''」と言います。家康は、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、これ以降、大名同士の合戦はなくなります。 :関ヶ原の戦いの後、家康は西軍の大名の領地と豊臣氏の領土を取り上げ、東軍の大名に分け与えました。この時、大名を家康の子孫による'''親藩'''、関ヶ原の戦い前から家来である'''{{ruby|譜代|ふだい}}大名'''、関ヶ原の戦い後に従った'''{{ruby|外様|とざま}}大名'''にわけてとりあつかいました。①親藩は、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った'''御三家'''・'''御三卿'''を含み、家格・官位などでは優遇されましたが、幕政に参加することはまれでした、②譜代大名は、比較的小さな石高の領土を認められ領地替えもよくありましたが、江戸や京大阪からは近くに位置したものでした。'''大老'''、'''老中'''、'''若年寄'''といった幕閣には譜代大名がつきました。③外様大名は、比較的大きな石高の領土を認められ、幕末まで領地替えはほとんどありませんでしたが、江戸や京大阪からは遠いところにありました。また、幕政に参加することはほとんどありませんでした。なお、江戸時代の大名とその家来を合わせた集団を、「'''{{ruby|藩|はん}}'''」と言っています。幕府は強力な力を持っていましたが、藩の中の政治に口を出すことはありませんでした。 ;武士の政治の安定 :第3代将軍'''徳川家光'''は、大名は、妻子(正妻と後継となる子)を江戸に置き、領土との間を1年おきに行き来すること('''参勤交代''')を定めました。また、将軍の命令で、徳川氏が有する城や河川の改修などを務めなければならないこともありました。こうして、徳川将軍は大名が、戦国時代のように勝手に争うことができないようにし、安定した世の中を作り上げました。 :徳川幕府には、重要なことを決める大老、老中、若年寄の他、大名の監視を行う'''大目付'''、寺社を管理する'''寺社奉行'''、幕府の出納を管理する'''勘定奉行'''、江戸の行政や裁判を行う'''江戸町奉行'''などの役職があり、大名の他、将軍の直接の家臣である'''旗本'''がその任務につきました。 :秀吉の刀狩によって、武士の身分(士分)と民衆が明確に分けられましたが、江戸幕府はそれを引き継ぎ、「'''士農工商'''」という身分制を確立しました。<!--なお、以前は、身分がこの順にあったと言われていましたが、現在では「士分」とその他は身分差があるが、「農工商」には身分の差がなかったというのが定説となっています。-->また、人の移動は厳しく制限され、各地に関所がもうけられ、ここを通るのに通行手形が必要でした。 :キリスト教は秀吉の時代に禁じられましたが、江戸幕府においても禁じられました。一方で、ポルトガルなどとの貿易は港を限定しながらも続いており、そこで宣教師との行き来があったとされます。そんな中、九州の天草・島原で大規模なキリスト教徒による反乱('''島原の乱''')が起きました。これがきっかけとなって、幕府は、島原の乱の翌年に、貿易の相手を、キリスト教の布教には熱心でない'''オランダ'''だけに限って、さらに、長崎の'''出島'''だけでこれを認めることになりました。これを、'''{{ruby|鎖国|さこく}}'''と言います。 |} === 江戸幕府の始まり === ==== 秀吉死後の政権争い ==== :1598年[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#豊臣秀吉|秀吉]]が死んだ時、後継の{{Ruby|秀頼|ひでより}}はまだ5歳でした。秀吉は、秀頼が成長するまで'''{{ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}'''・{{ruby|上杉景勝|うえすぎがげかつ}}他5人の有力な大名('''{{ruby|五大老|ごたいろう}}'''<ref>家康・景雄の他は{{ruby|前田利家|まえだとしいえ}}・{{ruby|毛利輝元|もうりてるもと}}・{{ruby|宇喜多秀家|うきたひでいえ}}です。</ref>)と秀吉が信頼する'''{{ruby|石田三成|いしだみつなり}}'''や{{ruby|浅野長政|あさのながまさ}}他5人の家臣('''{{ruby|五奉行|ごぶぎょう}}'''<ref>三成・長政の他は{{ruby|前田玄以|まえだげんい}}・{{ruby|増田長盛|ましたながもり}}・{{ruby|長束正家|なつかまさいえ}}です。</ref>)の10人で相談して政治を行うよう言い残しました。しかし、秀吉が死ぬと家康は他の大名との関係を深めるなどの動きを見せ、三成は家康が天下をねらっているのではないかとうたがいを持つようになりました。他方で、秀吉・秀頼の家臣の中で、石田三成を中心とする行政で秀吉をささえたグループと浅野長政や{{ruby|加藤清正|かとうきよまさ}}・{{ruby|福島正則|ふくしままさのり}}といった{{ruby|戦|いくさ}}で{{ruby|手柄|てがら}}を立ててきたグループの間に対立が生じてもいました。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |[[File:Tokugawa_Ieyasu2.JPG|thumb|200px|徳川家康]] ;{{ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}のこれまでの歩み<span id="徳川家康"/> :徳川家康は、{{Ruby|三河|みかわ}}(現在の愛知県東部)の大名{{Ruby|松平|まつだいら}}氏に生まれます。松平氏は三河の国人出身の大名でしたが、隣接する{{ruby|今川|いまがわ}}氏や織田氏に比べると弱小な大名でした。家康は家を継ぐ前、{{Ruby|松平元康|まつだいらもとやす}}と言って、今川氏に人質に出されていたことがあります。 :1560年[[#桶狭間の戦い|{{ruby|桶狭間|おけはざま}}の戦い]]で[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#今川義元|今川義元]]が討ち死にし、今川氏が弱くなると、[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|信長]]と同盟し三河をとりもどします。そして、名を{{ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}とかえ、{{Ruby|遠江|とおとおみ}}をせめとります。その後、信長の同盟国として武田氏や北条氏と隣接する信長の勢力の東南部を守り続けます。 :1572年の'''[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#三方原の戦い|{{ruby|三方原|みかたがはら}}の戦い]]'''では大敗し、命の危険もありましたが、[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#武田信玄|武田信玄]]が病死し、兵は甲斐へもどったため一命をとりとめました。 :逆に、1575年の[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#長篠の戦い|長篠の戦い]]では、信長との連合軍で、{{ruby|武田勝頼|たけだかつより}}に大勝し{{Ruby|駿河|するが}}をえ、1582年武田氏をほろぼして{{Ruby|甲斐|かい}}と{{Ruby|信濃|しなの}}の一部をえました。 :秀吉には、後継者争いで一時抵抗し、秀吉の軍をくだすなどしたのですが、和解し、その後はしたがいます。 :1590年、秀吉の[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#小田原攻め|小田原攻め]]に協力し北条氏を攻め滅ぼしますが、秀吉の命令によって、領地を北条氏のおさめていた関東に移され、{{Ruby|江戸|えど}}城を{{Ruby|拠城|きょじょう}}としました。 :秀吉の生前は、秀吉配下では最大の大名となっていました。 |} ;<span id="関ヶ原の戦い"/>{{Ruby|関ヶ原|せきがはら}}の戦い :[[File:Sekigaharascreen.jpg|thumb|400px|関ヶ原の戦い<br>絵の右側にいるのが徳川軍。絵の左側にいるのが豊臣軍。]] :1600年、五大老五奉行の{{ruby|仲違|なかたが}}いが深まり、家康は{{ruby|会津|あいづ}}の上杉景勝を攻める兵を挙げ東へ向かいます。 :三成は、家康に反対する大名たちに呼びかけ、家康を攻める兵をあげやはり東へ向かいました。これを知った家康は軍を西へ反転して、これをむかえうとうとしました。そして、{{Ruby|関ヶ原|せきがはら}}(今の岐阜県)で、家康が率いる軍(東軍)と、三成が率いる軍(西軍)がぶつかりました。これを '''関ヶ原の戦い''' といいます。これは、両軍合わせて約20万人と日本史上最大の合戦となりました。結果は、西軍の中での裏切りなどもあって東軍の勝利となりました。 :戦後、三成らは処刑され領土は没収されました。毛利氏など西軍についたもまた多くの領土を没収されました。豊臣氏も多くの領土を没収され、一地方の大名に過ぎないものとなって、家康の天下となりました。 {{-}} ==== 江戸幕府の誕生 ==== :1603年、{{Ruby|朝廷|ちょうてい}}から{{Ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}は [[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#将軍|{{Ruby|征夷大将軍|せいいたいしょうぐん}}]]に任命されました。 :家康は{{Ruby|江戸|えど}}(現在の東京)に'''{{Ruby|幕府|ばくふ}}'''を開きました。これが'''{{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}'''であり、この時から'''江戸時代'''が始まりました。 :将軍の権限は、武士に[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#石高制|石高で表した領地({{ruby|知行|ちぎょう}})を与えること({{ruby|石高制|こくだかせい}})]]であり、知行が1万石以上の者を'''{{ruby|大名|だいみょう}}'''、1万石未満で、将軍に直接会うこと<ref>これを「{{ruby|御目見得|おめみえ}}」と言います。</ref>ができる者を'''{{ruby|旗本|はたもと}}'''、できない者を'''{{ruby|御家人|ごけにん}}'''<ref>多くは、戦国時代、「足軽」と呼ばれていた階層の武士です。</ref>と言っていました。 :関ヶ原の戦いの後に、家康は領地を分け与えましたが、この時、大名を家康の子孫による'''{{ruby|親藩|しんぱん}}'''、関ヶ原の戦い前から家来である'''{{ruby|譜代|ふだい}}大名'''、関ヶ原の戦い後に従った'''{{ruby|外様|とざま}}大名'''にわけてとりあつかいました。なお、江戸時代の大名とその家来を合わせた集団を、「'''{{ruby|藩|はん}}'''」と言っています<ref>ただし、この言い方は明治以降の言い方で、当時は、「○○様{{ruby|御家中|ごかちゅう}}」などの言い方を使いました。</ref>。幕府は、藩をつぶしたり({{ruby|改易|かいえき}})、領土の一部を取り上げたり({{ruby|減封|げんぽう}})、大名同士の領土を交換させる({{ruby|国替|くにがえ}}・{{ruby|転封|てんぽう}}<span id="国替"/>)など、強力な力を持っていましたが、藩の中の政治に口を出すことはありませんでした。日本国内は、幕府と藩により統治されていたので、このような政治の仕組みを「'''{{ruby|幕藩体制|ばくはんたいせい}}'''」といいます。 ::;親藩 :::将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割をになった'''{{ruby|御三家|ごさんけ}}'''<ref>{{ruby|尾張|おわり}}藩、{{ruby|紀州|きしゅう}}藩、{{ruby|水戸|みと}}藩の3家で、それぞれ領国をもっていました。家康のこどもで、第2代将軍{{ruby|秀忠|ひでただ}}の兄弟の子孫です。</ref>・'''御三卿'''<ref>{{ruby|田安|たやす}}家、{{ruby|一橋|ひとつばし}}家、{{ruby|清水|しみず}}家の3家で、御三家と違い領国を持っていません。江戸幕府の誕生から130年〜150年ほどのちにできた家で、第8代将軍{{ruby|吉宗|よしむね}}の子孫です。</ref>を含み、家格・官位などでは優遇されましたが、幕政に参加することはまれでした。 ::;譜代大名 :::関ヶ原の戦いの前から徳川家の家来であった家系の大名です。比較的小さな石高の領土を認められ領地替えもよくありましたが、江戸や京大阪からは近くに位置したものでした。'''{{ruby|大老|たいろう}}'''、'''{{ruby|老中|ろうじゅう}}'''といった{{ruby|幕閣|ばっかく}}や'''{{ruby|若年寄|わかどしより}}'''、{{ruby|大阪城代|おおさかじょうだい}}、{{ruby|京都所司代|きょうとしょしだい}}、{{ruby|寺社奉行|じしゃぶぎょう}}といった重職には譜代大名がつきました。 ::;外様大名 :::関ヶ原の戦い以降に徳川家の家来となった大名です。比較的大きな石高の領土を認められ、幕末まで領地替えはほとんどありませんでしたが、江戸や京大阪からは遠いところにありました。また、幕政に参加することはほとんどありませんでした。 :徳川幕府は、「'''{{ruby|天領|てんりょう}}'''」といって旗本などの知行とせずに直接支配する400万石に及ぶ領地ももっていました。天領には旗本や御家人から{{ruby|代官|だいかん}}を派遣し、これをおさめました。 ;{{Ruby|武家諸法度|ぶけしょはっと}} :1615年、第2代将軍徳川{{ruby|秀忠|ひでただ}}は、大名を取りしまるための法律を作りました。これを '''{{ruby|武家諸法度|ぶけしょはっと}}''' といいます。この法度に反すると、改易などの処分がなされました。 <div style="border:1px solid #000000;margin:0 2em 0 4em"> * '''武家諸法度'''(一部) *: 一. (武士は)学問や武芸の道に、ひたすら{{Ruby|専念|せんねん}}すること。 *: 一. 新しく城を築くことは、かたく禁止する。修理する場合であっても、必ず幕府に申し出ること。 *: 一. 大名は、毎年、きめられた月に江戸に{{Ruby|参勤|さんきん}}すること([[#参勤交代|参勤交代]])。 (※) *: 一. 大きな船を作ってはならない。(※) *: 一. 大名は、幕府の許可なしに勝手に結婚をしてはならない。 :::::※:3代将軍 徳川家光が加えたものです。 </div> ==== 大阪の陣 ==== :このように、徳川家による支配が確立した時期にあっても、秀吉の子{{ruby|秀頼|ひでより}}は、徳川家にしたがう態度を見せませんでした。また、関ヶ原の戦い以降、領地を失った大名やその家来、主君から離れた武士などが大阪城に集まってきていました。1614年、家康<ref>この頃は、将軍ではありません。</ref>と将軍秀忠は、大阪城を攻めるのに、全国の大名に兵を出すように命じ、翌1615年豊臣氏はほろびます。これを'''{{ruby|大阪|おおさか}}の{{ruby|陣|じん}}'''<ref>詳しくは、1614年に起こった戦を「大坂冬の陣」、1615年豊臣氏がほろびた戦を「大坂夏の陣」といいます。また、この当時、大阪は「大'''坂'''」と書いていたので「大坂の陣」と書く場合もあります。</ref>と言います。 :大阪城は、徳川氏のものとなり、当時日本一商業が栄えていた大阪は幕府が直接おさめるようになります。 :戦国時代以来の、大名同士の争いはこれが最後となりました。 === 武士の政治の安定 === ==== 江戸幕府の仕組み ==== [[File:Iemitu Face.svg|thumb|180px|徳川家光]] :1623年将軍となった第3代将軍'''徳川{{ruby|家光|いえみつ}}'''は、大名は、妻子(正妻と後継となる子)を江戸に置き、領土との間を1年おきに行き来すること('''{{ruby|参勤交代|さんきんこうたい}}''')<span id="参勤交代"/>を定めました。また、将軍の命令で、徳川氏が有する城や河川の改修などを務めなければならないこともありました。こうして、徳川将軍は大名が、戦国時代のように勝手に争うことができないようにし、安定した世の中を作り上げました。 :徳川幕府には、重要なことを決める大老、老中、若年寄の他、大名の監視を行う'''{{ruby|大目付|おおめつけ}}'''、寺社を管理する'''{{ruby|寺社奉行|じしゃぶぎょう}}'''、幕府の出納を管理する'''{{ruby|勘定奉行|かんじょうぶぎょう}}'''、江戸の行政や裁判を行う'''{{ruby|江戸町奉行|えどまちぶぎょう}}'''などの役職があり、大名の他、将軍の直接の家臣である'''旗本'''がその任務につきました。 <span id="江戸幕府"/><div style="font-size:100%;margin:0 2em 0 4em"> <pre style="line-height:1.5em;"> 【江戸幕府の仕組み 主な役職のみ】 将軍 ━┳━ 大老(たいろう) : 将軍を補佐する最高職。臨時に置かれ、譜代大名の中でも石高の高い家の者のみなれた。      ┃     ┣━ 老中(ろうじゅう)      : 複数による合議制で、大名の統制他、全国的なことがらについてとりあつかう。      ┃ ┣━ 江戸町奉行 (えどまちぶぎょう) : 江戸の行政、治安、司法を担当する。      ┃ ┣━ 勘定奉行 (かんじょうぶぎょう) : 幕府の会計な、天領の収税どを担当する。      ┃ ┣━ 遠国奉行 (おんごくぶぎょう) : 大阪、京都、長崎など幕府の直轄地の行政、治安、司法を担当する。      ┃ ┗━ 大目付 (おおめつけ) : 大名の動向を監視する。      ┃     ┣━ 側用人(そばようにん)・御側御用取次(おそばごようとりつぎ)      ┃       : 将軍の側近で、将軍と老中の間をとりついだ。将軍の命令を直接受けるので、老中よりも権力があった場合もある。      ┃      ┣━ 若年寄(わかどしより) : 複数による合議制で、旗本・御家人の統制他、将軍家まわりのことがらについてとりあつかう。      ┃ ┗━ 目付 (めつけ)          : 旗本・御家人の動向を監視する。      ┃     ┣━ 寺社奉行 (じしゃぶぎょう)          : 全国の寺と神社を統括する。     ┣━ 京都所司代 (きょうとしょしだい) : 京都にいて、皇室や公家との取次と監視を行う。     ┗━ 大坂城代 (おおさかじょうだい) : 将軍に代わって大阪城を預かる。 </pre> </div> ==== 武士と庶民 ==== :秀吉の刀狩によって、武士の身分(士分)と民衆が明確に分けられましたが、江戸幕府はそれを引き継ぎ、「'''士農工商'''」という身分制を確立しました。「'''士'''」は武士、「'''農'''」は農民、「'''工'''」は大工や{{ruby|鍛冶屋|かじや}}などの職人、「'''商'''」は商人のことです。なお、以前は、身分がこの順にあったと言われていましたが、現在では「士分」とその他は身分差があるが、「農工商」の庶民には身分の差がなかったというのが定説となっています。すなわち、庶民は武士にはなれないけれども、「農工商」の間では比較的自由にその職業につけたということです。ただし、農民になるのは、農地を持たないといけませんが、それはむずかしかったので、職人や商人が農民になることはまれだったと考えられます。 :武士は、苗字を公式に名のることと刀を所持し外でさすこと(あわせて、'''{{ruby|苗字帯刀|みょうじたいとう}}'''といいます)、庶民が武士に対して失礼({{ruby|無礼|ぶれい}})な行為があったときには「{{ruby|無礼討|ぶれいう}}ち」と言ってその場で斬り殺しても良いこと({{ruby|切捨御免|きりすてごめん}}<ref>実際、そのようなことをすると、庶民の反発をまねくので、本当に「無礼」な行為があったかを証人などを呼んで裁判し、簡単に認められるものではありませんでした。</ref>)などの特権がありました。 :;農村の生活 ::農村は、検地によって収穫高が明らかにされていたので、それにもとづいた{{ruby|年貢|ねんぐ}}をおさめました。年貢の割合は、収穫の4割から5割で、これを「{{ruby|四公六民|しこうろくみん}}・{{ruby|五公五民|ごこうごみん}}」と言って、各農民ではなく村を単位としておさめていました<ref>これを、{{ruby|村請|むらうけ}}といいます。</ref>。農民は、自分の土地を持った{{ruby|本百姓|ほんびゃくしょう}}と、自分の土地を持たず本百姓の農地をたがやすなどして生活する{{ruby|水呑百姓|みずのみびゃくしょう}}がありました。 ::農地は、1643年{{ruby|田畑永代売買禁止令|でんぱたえいたいばいばいきんしれい}}が出され、売買が禁止され代々相続されるものとなりました。また、同年{{ruby|田畑勝手作禁止令|でんぱたかってづくりきんしれい}}が出され、米以外の作物は勝手に作ることはできませんでした。 :;町人の生活 ::職人や商人は主にそこをおさめる大名やその代官の屋敷の周辺に町([[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#楽市楽座|{{ruby|城下町|じょうかまち}}]])を作り住むようになっていました。商業は、市が開かれるたびに取引を行うのではなく、定住して「店」であきなうようになりました。 ::職人は、{{ruby|親方|おやかた}}に{{ruby|弟子|でし}}入りし、仕事を手伝いながら、仕事を覚え、やがて一人前になり独立するという{{ruby|徒弟制|とていせい}}になっていました。商人は、まず、{{ruby|丁稚|でっち}}として店に入り、やがて、{{ruby|手代|てだい}}・{{ruby|番頭|ばんとう}}となって、{{ruby|暖簾分|のれんわ}}けで独立するというものでした。職人も商人も、弟子や丁稚のころは、給金とかもらえず住み込みで働く{{ruby|年季奉公|ねんきぼうこう}}という形が一般的でした。 :職業の選択はこのように自由にできるものではなく、また、人の移動は厳しく制限され、各地に関所がもうけられ、ここを通るのに通行手形が必要でした。 :江戸時代になって、戦国時代や安土桃山時代に比べて、庶民の生活は安定したのですが、一方で移動の自由や職業選択の自由が失われたものとなったとも言えます。 ==== キリスト教の禁止と鎖国 ==== :[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#バテレン追放令|キリスト教は秀吉の時代に禁じられました]]が、江戸幕府においてもひきつづき禁じられていました。同様に、[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代‎#南蛮貿易|ポルトガルやスペインとの南蛮貿易]]は続けられており、そこで宣教師との行き来がありました。 :1600年{{ruby|豊後|ぶんご}}(現在の大分県)に'''オランダ'''の船リーフデ号が流れつきます。ポルトガル人とスペイン人以外の初めてのヨーロッパの人たちです。家康は、流れついた人の中からオランダ人の'''ヤン・ヨーステン'''とイギリス人の'''ウィリアム・アダムス'''<ref>後に、{{ruby|三浦按針|みうらあんじん}}と名を改めます。</ref>をめしだして、外国のことを聞くようになりました。これ以降、ポルトガル人たちに加えてオランダ人などが日本に来るようになりました。オランダ人たちはポルトガル人などに比べ、キリスト教の布教には熱心ではなく、また、そのことが幕府にも伝わりました。ポルトガル人やスペイン人を南蛮人と呼ぶのに対して、オランダ人やイギリス人は{{ruby|紅毛人|こうもうじん}}とよばれました。 :家康は、秀吉同様海外貿易に熱心で、東南アジアの国々<ref>{{ruby|安南|あんなん}}(現在のベトナム)、スペイン領であったフィリピンのマニラ、カンボジア、シャム(現在のタイ)、パタニ(マレー半島中部の国、現在のマレーシア)などに派遣しました。</ref>と交流を持って、{{ruby|朱印状|しゅいんじょう}}と呼ばれる貿易の許可証<ref>日本人には日本からの出国を外国人には日本への入国を認めるもので、もともとは秀吉が始めました。</ref>を発行して貿易を認めました。朱印状を持った船を{{ruby|朱印船|しゅいんせん}}と言い、この貿易を'''朱印船貿易'''と呼びます<ref>中国(明王朝)は、日本の入国を禁止していましたし、朝鮮は、対馬の大名{{ruby|宗|そう}}氏が代表していたので、朱印船貿易の相手ではありませんでした。</ref>。 :1612年南蛮貿易をめぐって幕府の役人に{{ruby|汚職|おしょく}}事件がおこり<span id="岡本大八事件"/>、この関係者がキリシタンであったことから、幕府は大名と幕臣、江戸、京都など幕府の直轄地でのキリスト教の信仰を禁じました。1614年にはこれを全国に広げ、各地の教会を破壊し、宣教師や主だったキリスト教徒を国外に追放しました。 :その後も幕府は、中国船を含めた外国船の入港を制限したり、宣教師や信者を見せしめに処刑したりしてキリスト教の禁止を徹底しようとしましたが、宣教師が密かに来日して布教する例があとをたちませんでした。 :そんな中、1637年、現在の長崎県にある{{Ruby|島原|しまばら}}半島(現在の長崎県)から海をへだてた{{Ruby|天草|あまくさ}}諸島(現在の熊本県)にかけての一帯で、農民3万人あまりによる、大きな[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#一揆|{{Ruby|一揆|いっき}}]]が起きました。原因は、領主が領民に重い{{ruby|年貢|ねんぐ}}を課したこととキリシタンへの{{Ruby|弾圧|だんあつ}}でした。一揆の中心は、当時16才の{{Ruby|天草四郎|あまくさしろう}}という少年でした。幕府は12万人ほどの大軍を送り、4か月ほどかかってこれをしずめました。これを、「'''島原の乱'''」または「'''島原天草一揆'''」と言います。島原の乱は、戦死・処刑された農民などが2万人から3万人になり、幕府側も死傷者が8000人以上という江戸時代最大の百姓一揆で、これを最後に、これから、明治維新の戊辰戦争まで230年間、日本国内での争いことで100人をこえる死者が出ることがない、世界的にも珍しい平和な時代となりました。 [[ファイル:Plattegrond van Deshima.jpg|thumb|200px|出島を空から見た図]] :これが決め手となって、1639年、幕府は、ポルトガルの来航を禁じ、貿易の相手を、中国以外は'''オランダ'''だけに限って、さらに、長崎の'''{{Ruby|出島|でじま}}'''だけでこれを認めることになりました。幕府は、出島に入ることのできる日本人は、幕府の役人や、許可を得た日本人のみに制限していました。これを、'''{{ruby|鎖国|さこく}}'''と言います。 :江戸幕府は長崎のオランダ{{Ruby|商館長|しょうかんちょう}}に、外国のようすを幕府に報告させるための報告書の提出を義務づけました。 :このように日本でのヨーロッパ人と日本人とのかかわりを制限していった結果、日本では、江戸幕府が貿易の利益と西洋についての情報を{{Ruby|独占|どくせん}}しました<ref>朱印状は、一部の大名にも発行されたため、その大名は直接海外との貿易ができたのですが、1631年にさらに、幕府が発行する「{{Ruby|奉書|ほうしょ}}」が必要となり、大名が海外と貿易をすることはできなくなっていました。</ref>。 {{-}} [[Image:Jesus on cross to step on.jpg|thumb|180px|踏み絵]] ;{{ruby|宗門人別改帳|しゅうもんにんべつあらためちょう}}<span id="寺請制度"/> :島原の乱のあと、キリスト教への取りしまりは、いっそう{{Ruby|厳|きび}}しくなりました。キリスト教をかくれて信じる人をとりしまるため、定期的に調査をして人々にイエス・キリストなどがえがかれた銅板の{{ruby|踏|ふ}}み絵を踏ませ、踏めなかった者はキリスト教徒であるとして{{Ruby|処罰|しょばつ}}しました。これを、{{ruby|宗門改|しゅうもんあらため}}といいます。 :また、寺にキリスト教徒でないことの証明書({{ruby|寺請証文|てらうけしょうもん}})を出させる代わりに、お葬式や{{ruby|供養|くよう}}をその寺だけでする{{ruby|寺請|てらうけ}}制度<ref>{{ruby|檀家|だんか}}制度とも言います。</ref>もできました。 :寺請の結果は一人一人、「{{ruby|宗門人別改帳|しゅうもんにんべつあらためちょう}}」という帳簿に残され、奉公や結婚で土地を離れる時には、寺から寺請証文を出してもらって、うつり住む土地で新たに帳簿に書き込むという習慣ができて、これが、現在の{{ruby|戸籍|こせき}}や住民基本台帳と同じ役割をはたすようになりました。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="オランダ"/>オランダ [[File:LocationNetherlands.png|thumb|250px|オランダの位置]]<small> :オランダは、ヨーロッパ中西部、ライン川というスイス、フランス、ドイツを流れヨーロッパの水運で最も重要な川の河口にある国です。「オランダ」はその中の州の名前で、正式には'''ネーデルラント'''と言います<ref>ただ、日本人がネーデルラントを「オランダ」と呼ぶことは、オランダ人も認めています。英語で「日本」を「Japan」と呼んでいるようなものです。</ref>。 :このころ、オランダはスペインの王室の支配下にあって、独立を争って戦争をしていました(オランダ独立戦争 1568年〜1648年)。オランダは、ゲルマン系オランダ人の国で、言葉や習俗はドイツやイギリスに近く、一方、スペインはイタリア・フランス・ポルトガルといったラテン系の国です。また、当時のヨーロッパでは、[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#宗教改革|カトリックとプロテスタントが対立]]していて、スペインはカトリックを支持していたのに対して、オランダ人の多くはプロテスタントでした。 :独立戦争は続いていましたが、1600年頃までにスペインからほとんど独立していたオランダは、当時、ヨーロッパで最高の造船技術<ref>この時代、オランダの造船技術が高かった理由の一つに、オランダの風車を利用して製材が盛んであったことが挙げられます。</ref>をいかして海洋貿易に進出します。 :1602年オランダは、アジア貿易のために、「'''東インド会社'''<ref>世界最初の、{{ruby|株式|かぶしき}}会社と言われています。なお、1600年イギリスにも同名の会社がつくられています。</ref>」という会社を作って、それまで、この地域の貿易の中心であったポルトガルの地位をうばいました。 :オランダは、幕府に近づいて、日本の海外に対する貿易の独占的な地位を得ました。オランダとの貿易品には以下のものがあります。 :*オランダからの輸入品のほとんどは、中国産の{{Ruby|生糸|きいと}}・{{Ruby|砂糖|さとう}}・毛織物でした。ときどき、ガラスや望遠鏡や時計などの、めずらしいものも輸入されました。 :*日本からの輸出品としては、金・銀・銅などの金属や{{Ruby|陶磁器|とうじき}}などでした。陶磁器が割れないようにつめた紙くずに浮世絵があり、それがヨーロッパに浮世絵が伝わるきっかけになりました。 </small> |}</div> <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="日中貿易"/>中国との貿易<small> :[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#南蛮貿易|南蛮貿易]]でもオランダ船による貿易であっても、日本が最も必要としたのは、生糸・絹織物<ref>この時代の、日本の絹は品質が悪く良いものは中国からの輸入品ばかりでした。</ref>、陶磁器といった中国で生産されるものと、[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#永楽通宝|永楽通宝]]のような貨幣でした。では、中国商人が直接取引をすればよいではないかという話になりそうですが、それは、簡単な話ではありませんでした。 :明の王朝は14世紀から[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#倭寇|{{ruby|倭寇|わこう}}]]<ref>倭寇は、14世紀に[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#勘合貿易|足利義満が勘合貿易を始めた]]ことで一時収まりますが、その後、勘合貿易をまかされていた大内氏がほろびた1550年代以降、海賊がまた増え、これも倭寇と呼ばれました。ただし、16世紀になってからの倭寇は、ほとんどが中国人でした。</ref>になやまされて、海外貿易をしばしば禁止しました。 :1644年、明は国内の反乱によってほろび、その反乱軍も中国北部の国'''{{ruby|清|しん}}'''<span id="清"/>によってほろぼされます。 :清の建国に反抗して、明の家臣などが台湾にのこり{{ruby|抵抗|ていこう}}していました。清の王朝は、これを取り締まるため、清への[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#朝貢貿易|朝貢貿易]]以外は、明と同じように海外貿易を禁止しました。 :日本としては、中国の産品を手に入れにくくなったのですが、以下のとおり対応し輸入にたよらなくてもよくなりました。 :#生糸・絹織物については、江戸幕府や各藩が、改良に努め、江戸時代の中期には輸入を制限できるほど品質が上がりました。明治になると日本の代表的な輸出品になります。 :#陶磁器については、朝鮮出兵で多くの朝鮮人陶工を日本に連行し、{{ruby|有田焼|ありたやき}}・{{ruby|薩摩焼|さつまやき}}など、薄く固い陶磁器の技術を確立しました。 :#永楽通宝など貨幣については、1636年幕府は{{ruby|銭座|ぜにざ}}を開いて、'''[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#寛永通宝|{{ruby|寛永通宝|かんえいつうほう}}]]'''を発行し国内の通貨だけで取引ができるようになりました。 :一方で、日本からの輸出品は、金や銀、人(奴隷、戦国時代敵国の領民をさらって売った)、海産物加工品({{ruby|干|ほ}}し{{ruby|鮑|あわび}}、干しナマコなど)でした。秀吉の天下統一以降は、奴隷の輸出はほとんどなくなり、金や銀ばかりになったのですが、日本国内でも商業が盛んになるなどして、金や銀を国外に持ち出すと貨幣が足りなくなり困るようになりました。 :こうして、江戸時代になると、中国との貿易の必要が少なくなって、江戸幕府は明が清になったのちも、朝貢貿易はやりませんでした。中国との取引は、金銀銅と言った貴金属を支払いなどに使わないようになり、長崎における、その他の取引も次第に重要なものではなくなっていきました。 </small> |}</div> <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="鎖国"/>鎖国までの道のり<small> :秀吉も家康もキリスト教の布教を禁止し、ポルトガル人やスペイン人の宣教師は国外へ追放しましたが、南蛮貿易は、大きな利益をもたらしていたため、そのまま継続し、それにかかわる宣教師以外のポルトガル人などの往来は自由になされていました。そのため、幕府などに隠れて布教は進み、キリシタンの数は増えていきました。 :1609年から1612年にかけて起こったポルトガルとの貿易に関するキリシタン大名{{ruby|有馬晴信|ありまはるのぶ}}をめぐる事件からは、家康側近{{ruby|本多正純|ほんだまさずみ}}の家臣でキリシタンである{{ruby|岡本大八|おかもとだいはち}}の高額な{{ruby|賄賂|わいろ}}の受け取りや、長崎奉行{{ruby|長谷川藤広|はせがわふじひろ}}暗殺陰謀など、数々の{{ruby|不祥事|ふしょうじ}}が発覚し、ヤン・ヨーステンなどの進言もあって、家康はポルトガルとの付き合いに不信感を持つようになりました。 :1616年幕府は、明船以外の外国船との貿易を{{Ruby|長崎|ながさき}}と{{Ruby|平戸|ひらど}}のみに制限しました。 :それでも、1620年商人といつわってスペイン人宣教師が日本に入国しようとした事件があり、それをきっかけに1622年長崎でとらわれていた宣教師とキリスト教徒55人を処刑するなど、幕府はキリスト教対策に追われ、1624年、まず、スペイン人の来航を禁止しました<ref>ポルトガルとの通商が認められたのは、ポルトガルはマカオを有しており、中国との間の取引が、オランダだけでは不安だったからです。</ref>。 :幕府は、その後も規制を強め、1631年朱印状以外に老中の奉書を必要とするようにし、大名や日本人商人の朱印船をなくし、1635年には外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人が国外に出ることと[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#日本人町|東南アジアに住んでいた日本人]]の帰国を禁止しました。 :また、南蛮貿易の最大の目的である中国は、1619年以降{{ruby|女真|じょしん}}族({{ruby|満州|まんしゅう}}族、のちの[[#清|清王朝]])の南下と国内の反乱で国内が混乱し、貿易品も少なくなっていました。 :島原の乱後1639年の鎖国令によってポルトガル船の来航が禁止され、1641年オランダ商館を平戸から出島に移し、鎖国は完成しました。 </small> |}</div> <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="島原の乱"/>島原の乱<small> :この地域は、海をへだてて隣接しており、島原地方は{{ruby|有馬晴信|ありまはるのぶ}}、天草地方は{{ruby|小西行長|こにしゆきなが}}と、もともとともにキリシタン大名がおさめていたところでした。天草地方は、1600年、小西行長が関ヶ原の戦いで西軍について、やぶれて処刑されたので、唐津(現在に福岡県唐津市)をおさめる{{ruby|寺沢|てらさわ}}氏の領地になっていました。一方、島原地方は、有馬晴信は、[[#岡本大八事件|1612年の幕臣汚職事件]]で処罰されたため、子孫は[[#国替|国替]]となり、かわって、{{ruby|松倉|まつくら}}氏がおさめていました。 :島原では、松倉氏が、あらたに城を作るなどのために農民から非常に重い年貢をとりたてていました。また、キリスト教徒への迫害もはげしく、{{ruby|棄教|ききょう}}<ref>キリスト教を信仰することをやめること。</ref>をするように、きびしい{{ruby|拷問|ごうもん}}をしたり、棄教しない者は処刑したりしていました。天草でも、寺沢氏が同様に農民に重い年貢をかけ、キリスト教とを迫害していました。 :島原には有馬晴信に、天草には小西行長につかえていた元武士の庶民が数多く残っていて、この人たちが集まって反乱を起こすことをくわだてました。総大将には、キリシタンの間で人気のあった当時16歳の{{Ruby|天草四郎|あまくさしろう}}(小西行長の家臣の子)をむかえました。キリシタンを総大将にしたのは、ポルトガルが応援することを期待したのではないかと言われています。 :島原と天草で、ほぼ同時に兵をあげ、天草でもいくつかの城を落としましたが、ばらばらに戦うことは不利ということで、天草の一揆の人々は、島原にうつり、有馬氏の城であった原城にこもりました。この数は27000人から37000人にのぼると言われています。 :この一揆は、領主によるきびしい政治が主な原因で、一揆の農民はキリスト教徒ばかりではなかったのですが、幕府は禁止するキリスト教徒の反乱として、九州各地の大名に兵を出すように命じこれを鎮圧しようとしました。最初は、役職の軽い大名に指揮を取らせようとしましたが、九州の大名は大大名が多く、この指揮をとる大名に従わなかったため、うまくいかず、幕府側は多くの死傷者をだします。幕府はこれに替えて、将軍家光の側近であった老中{{ruby|松平信綱|まつだいらのぶつな}}を総大将に派遣し、12万人の軍勢によって、原城にこもった人々は皆殺しにされ、一揆は鎮圧されました。 </small> |}</div> ==== 江戸時代の北海道と沖縄 ==== :現在の北海道と沖縄県は戦国時代まで、朝廷の支配に服することもなく、今まで学習してきた日本の歴史と違う歴史を歩んできました。戦国時代後期になって、日本本土でもこの2つの地域との関係がもたれるようになります。江戸時代になると、北海道には、 {{Ruby|松前藩|まつまえはん}}がおかれ、沖縄は、{{ruby|薩摩|さつま}}藩を通じて本土と深く関係するようになりました。 ; {{Ruby|北海道|ほっかいどう}}<span id="北海道"/> :北海道は、日本人(和人)には、古くからそこにあることは知られていましたが、稲作かできる北の限界より北にあって、税をはじめとした、日本の生活をおくるのはむずかしい土地でした。そこには、今はアイヌ民族と呼んでいる人々が住んでいました。日本本土ではこの人々を、「'''えみし'''<ref>平安時代ころまでは東北地方で、朝廷に反抗する人々の意味で、アイヌ民族だけをさしたものではありませんでした。この当時、この人々を征服するために作られた役職が「[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#将軍|征夷大将軍]]」です。</ref>」または「'''えぞ'''」(漢字はどちらも「蝦夷」という字を当てます)と呼んで、北海道のことは「{{ruby|蝦夷地|えぞち}}」と呼んでいました。 :平安時代の末期から、北海道の最南端に和人が住みはじめました。この人たちは主にアイヌの人たちと物々交換(交易)をしていました。アイヌからは、乾燥したサケ・ニシン・クマやキツネの皮・矢羽の原料とする鷹の羽・海草・木材を、和人はそれに替えて鉄製品・漆器・米・木綿などと交換していました。 :この、居住和人を取りまとめていた豪族の中から、{{ruby|蠣崎|かきざき}}氏が有力なものとなり、秀吉に領主としての地位を認められ、1599年居城の{{ruby|松前|まつまえ}}城から{{ruby|松前|まつまえ}}氏とあらため、家康によってアイヌとの交易は松前氏が独占することが認められました。松前氏はのちに大名としてあつかわれますが、大名で唯一、米の収穫高(石高)ではなく商品の取引量で大名の格が決まる藩でした。 :17世紀に入ると中国の北部から{{ruby|樺太|からふと}}島などをとおって中国の物品が入ってきて、アイヌの人々が和人に伝えましたが、交易の条件などで対立することもあり、17世紀の中ごろの'''シャクシャイン'''の反乱のように和人とアイヌの人々の間で争いが生ずることもありました。 ;沖縄 - {{Ruby|琉球|りゅうきゅう}}王国<span id="琉球王国"/> :現在の沖縄県にあたる地域は、歴史上ずっと日本民族が居住していたところですが、朝廷や幕府などの支配にはならない地域でした。 :14世紀頃から沖縄本島に小さな国が分立し明に朝貢していましたが、15世紀に統一され、{{Ruby|琉球|りゅうきゅう}}王国が誕生しました。 :江戸時代の初めごろ、{{ruby|薩摩|さつま}}の{{ruby|島津|しまづ}}氏が攻め入って、服従させました。ただし、国の形は琉球王国のままで、毎年、薩摩藩へ{{ruby|貢納|こうのう}}を強制しました<ref>薩摩藩は、琉球王国の石高を約9万石と見積もり、年に約1万石の貢納を要求しました。琉球王国の全ての生産の1/9ということです。また、沖縄は長い川や広い平野が少なく大規模な稲作ができなかったため、薩摩藩は、代わりにサトウキビを栽培させ、砂糖をおさめさせていました。</ref>。薩摩藩が琉球王国のままとしたのは、中国との[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#朝貢貿易|朝貢貿易]]を続けさせるためした。琉球王国は、明に続いて清にも朝貢し、中国の産物を手に入れ、それを薩摩藩が日本国内に売って利益を得ていました。 == 脚注 == 以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small> <references/></small> ---- {{前後 |type=章 |[[小学校社会/6学年/歴史編]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう|日本の歴史の流れ]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代|戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ|江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ]] }} [[Category:社会|しようかつこうしやかい6]] [[Category:小学校社会|6ねん]] [[Category:小学校社会 歴史|#09]] ezc6nvgcnktltd9wyn12940mzdgsz4x 小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ 0 33297 207292 206679 2022-08-26T19:39:15Z Mtodo 450 /* 江戸時代の学問 */ wikitext text/x-wiki {{Nav}} {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|6学年|歴史編|frame=1}} {| class="wikitable" style="width:100%" |+ この章の概要 |<!--江戸時代中期−主題は文化史(元禄文化、化政文化など)--><!--(ク) 歌舞伎や浮世絵,国学や蘭学を手掛かりに,町人の文化が栄え新しい学問がおこったことを理解すること。--> ★時代区分:江戸時代中期</br> ★取り扱う年代:1638年(島原の乱終結)から1853年(ペリー来航)前まで ;江戸時代の文化 :江戸幕府の様々な政策によって世の中は安定し、人々は安心して経済活動を行えるようになって、様々な文化が武士だけでなく町人にも栄えるようになりました。 :「'''{{ruby|元禄|げんろく}}'''」は、江戸幕府ができてだいたい100年くらいの元号ですが、このころ、最初の町人文化の開花が見られました。元禄の頃の文化を「'''元禄文化'''」と言います。仮名草子・浮世草子といった出版物が市中に出回るようになり、'''人形浄瑠璃'''や'''歌舞伎'''が人々に人気を得て、'''井原西鶴'''や'''近松門左衛門'''といった劇作家がでました。 :連歌から発達した'''俳句'''(俳諧)が流行し、'''松尾芭蕉'''は、それを芸術のレベルまで高めたと言われています。 :絵画も大衆化し、このころ'''菱川師宣'''が'''浮世絵'''を創始しました。浮世絵は、版画の一種で何枚も同じ絵をすることができるので、庶民でもこれを買い求めることができました。ただし、浮世絵については、元禄から、さらに100年ほど後の「文化」「文政」といった元号の時期に最も盛んになります('''化政文化''')。'''喜多川歌麿'''や'''東洲斎写楽'''は歌舞伎役者の肖像画を、'''歌川広重'''は『東海道五十三次絵』などの風景画を、'''葛飾北斎'''は『冨嶽三十六景』など風景画のほか様々な構図の絵をあらわし、国内のみならず、オランダ貿易で持ち出されたものがフランスなどの絵画にも影響を与えました。 ;江戸時代の学問 :戦国時代までの学問は主に寺院で、僧侶などにより、仏教や中国の古典が研究されていましたが、江戸時代になると、様々な階層の人々の研究が見られるようになります。 :幕府が公認していた学問は'''儒学'''のうち'''朱子学'''と言われるもので、幕府のほか各藩で教えられました。その他、中国の古典が研究されました。 :一方で、日本の古典についても研究が進み、'''国学'''が成立しました。国学の成立に大きく貢献したのが'''本居宣長'''です。国学は、のちの「'''尊王攘夷'''」の考えに影響します。 :鎖国をしているので、ヨーロッパの文化には直接触れることはできなかったのですが、オランダ語の書物を出島をとおして、手に入れることができ、これを訳して読むことで、当時急速に進みつつあったヨーロッパの科学に触れることができました。このような学問を'''蘭学'''と言います。'''杉田玄白'''らはオランダ語の医学書を翻訳して『'''解体新書'''』をあらわしました。 :'''伊能忠敬'''は、天文学や測量術を学んだ他、独自に測量方法を工夫し、日本全国を訪れ、正確な日本地図を作りました。 |} === 島原の乱からペリー来航まで === :島原の乱が終わると、日本は安定し大きな戦争などもなく、人々の生活にも変化の少ない時代が約200年続きます。 :この時代も幕府などの政治は色々と動いていて、経済も変化しているのですが、小学生の学習の範囲とはなっておらず、この時代の文化や学問の動きが学習の対象となっています。ただ、それらの文化や学問の時代背景として理解しておいた方が、理解の助けになるので、この節で簡単に述べます。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" | ;この時代の歴代将軍と政治などの概要 :第4代将軍{{ruby|家綱|いえつな}}(将軍在位1651年-1680年) :*父家光の死去に伴い、11歳で将軍に即位しました。将軍が幼くても、老中などの幕臣がしっかり支えて混乱がないなど幕府の組織がしっかりしていることをしめしました。 :第5代将軍'''{{ruby|綱吉|つなよし}}'''<span id="綱吉"/>(将軍在位1680年-1709年) :*{{ruby|柳沢吉保|やなぎさわよしやす}}を{{ruby|側用人|そばようにん}}として用いました。 :*動物を大切にすることをさだめた「{{ruby|生類憐|しょうるいあわれ}}れみの令」という法律を出して、特に犬を大事にしたので「{{ruby|犬公方|いぬくぼう}}」として有名ですが、これは、武士のあらあらしい行動は平和な世の中にふさわしくないため、武力を日常に出すことはひかえて、学問などをおさめることにつとめるよう、さとしたものとも言われています。このような様子を「<u>『{{ruby|武断|ぶだん}}政治』から『{{ruby|文治|ぶんち}}政治』へ</u>」という言い方をします。 :*上方を中心に商業が発展した町人文化「'''{{ruby|元禄|げんろく}}文化'''」が花開きました。 :第6代将軍{{ruby|家宣|いえのぶ}}(将軍在位1709年-1712年) :*学者の{{ruby|新井白石|あらいはくせき}}を用いて、綱吉の時代の経済が拡大したことで起こったインフレーションをしずめる政策('''{{ruby|正徳|しょうとく}}の{{ruby|治|ち}}''')を行いました。 :第7代将軍{{ruby|家継|いえつぐ}}(将軍在位1713年-1716年) :*家宣が急死し4歳で即位したため、新井白石の政治が続きました。 :第8代将軍'''{{ruby|吉宗|よしむね}}'''<span id="吉宗"/>(将軍在位1716年-1745年 大御所:-1751年) :*世の中が安定し、経済が発展したため、幕府の支出が増える一方で、収入源である米の価格が下がるという状況になり、幕府の財政は厳しいものとなっていました。吉宗は、倹約と増税・新田開発、米価をあげることにより幕府の財政を回復させ、また、優秀な人材を登用できるようにし、{{ruby|大岡忠相|おおおかただすけ}}などを用いました。これを'''{{ruby|享保|きょうほう}}の{{ruby|改革|かいかく}}'''と言います。 :第9代将軍{{ruby|家重|いえしげ}}(将軍在位1745年-1760年) :*{{ruby|田沼意次|たぬまおきつぐ}}を用いて、商業を振興したり、印旛沼の開発などをして、景気を良くすることにつとめました。田沼意次が活躍した時代を「'''{{ruby|田沼|たぬま}}時代'''」といいます。 :第10代将軍{{ruby|家治|いえはる}}(将軍在位1760年-1786年) :*田沼意次の政治が続きました。商人を利用して経済を活発にしたのですが、役人の汚職が噂されました。 :第11代将軍{{ruby|家斉|いえなり}}(将軍在位1787年-1837年 大御所:-1841年) :*{{ruby|飢饉|ききん}}やそれにともなう百姓一揆・打ちこわし<ref>江戸や大阪といった都市の民衆が、政治などに不満を持った大きな商人などの店を集団でこわすことを言います。都市における百姓一揆みたいなものです。</ref>が増え、また、幕府の財政が再び悪化したため、田沼意次はやめさせられました。それに代わって{{ruby|松平定信|まつだいらさだのぶ}}が老中{{ruby|筆頭|ひっとう}}に任命され、倹約などをすすめることで、幕府の財政の立て直しをはかりました。これを、これを'''{{ruby|寛政|かんせい}}の{{ruby|改革|かいかく}}'''と言います。 :*経済活動が、上方中心から江戸へと移ってきて、江戸の町民文化が盛んになりました。これを「'''{{ruby|化政|かせい}}文化'''」といいます。 :第12代将軍{{ruby|家慶|いえよし}}(将軍在位1837年-1853年) :*幕府財政がまた悪化してきたため、大老となった{{ruby|水野忠邦|みずのただくに}}が改革政策である'''{{ruby|天保|てんぽう}}の{{ruby|改革|かいかく}}'''を行いました。 |}</div> === 江戸時代の文化 === ;元禄文化 [[File:ChikamatsuM.jpg|180px|thumb|近松門左衛門]] :「'''{{ruby|元禄|げんろく}}'''」は、江戸幕府ができてだいたい100年くらいの元号です。このころ、大阪を中心に最初の町人文化の開花が見られました。元禄の頃の文化を「'''元禄文化'''」と言います。仮名草子・浮世草子といった出版物が市中に出回るようになり、'''{{ruby|人形浄瑠璃|にんぎょうじょうるり}}'''や'''歌舞伎'''が庶民に人気を得て、'''{{ruby|井原西鶴|いはらさいかく}}'''や'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#近松門左衛門|{{ruby|近松門左衛門|ちかまつもんざえもん}}]]'''といった小説家・劇作家がでました。 :[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#連歌|連歌]]から発達した'''俳句'''(俳諧)が流行し、'''{{ruby|松尾芭蕉|まつおばしょう}}'''は、それを芸術のレベルまで高めたと言われています。 :絵画も大衆化し、このころ'''{{Ruby|菱川師宣|ひしかわもろのぶ}}'''が'''{{Ruby|浮世絵|うきよえ}}'''を創始しました。浮世絵は、版画の一種で何枚も同じ絵をすることができるので、庶民でもこれを買い求めることができました。 ;化政文化 :江戸は幕府が開かれた当時は、全国から武士のみが集まる都市でしたが、元禄から、100年ほど後の「'''{{ruby|文化|ぶんか}}'''」「'''{{ruby|文政|ぶんせい}}'''」といった元号の時期には、武士以外の商人や職人なども増えて、町人文化が見られるようになりました。これを、「文'''化'''」「文'''政'''」から、「'''{{ruby|化政|かせい}}文化'''」といいます。 :'''{{Ruby|喜多川歌麿|きたがわうたまろ}}'''や'''{{Ruby|東洲斎写楽|とうしゅうさいしゃらく}}'''は歌舞伎役者の肖像画を、'''{{Ruby|歌川広重|うたがわひろしげ}}'''は『東海道五十三次絵』などの風景画を、'''{{Ruby|葛飾北斎|かつしかほくさい}}'''は『冨嶽三十六景』など風景画のほか様々な構図の絵をあらわしました。 {| class="wikitable" style="width:100%" | <gallery heights="200px" widths="200px"> ファイル:Beauty looking back.jpg|thumb|『見返り美人図』菱川師宣 ファイル:Nihonbashi bridge in Edo.jpg|葛飾北斎『{{ruby|富嶽三十六景|ふがくさんじゅうろっけい}}』 1. {{Ruby|江戸日本橋|えどにほんばし}} ファイル:Lightnings below the summit.jpg|『富嶽三十六景』 32. {{Ruby|山下白雨|さんかはくう}} ファイル:Red Fuji southern wind clear morning.jpg|『富嶽三十六景』 33. {{Ruby|凱風快晴|がいふうかいせい}} File:東海道五十三次之内 川崎 六郷渡舟-Ferry Boat Crossing the Rokugo River MET DP122176.jpg|200px|歌川広重『{{ruby|東海道五十三次|とうかいどうごじゅうさんつぎ}}』 </gallery> |} :浮世絵は、国内のみならず、オランダ貿易で持ち出されたもの<ref>もともとは、美術品として持ち出されたものではなく、陶器の輸出に詰め物として使われた屑紙として伝わったものと言われています。</ref>がフランスなどの絵画にも影響を与えました。 {| class="wikitable" style="width:100%" | <gallery heights="200px" widths="200px"> 画像:Hiroshige Van Gogh 2.JPG|300px|歌川広重の絵(左)と、ゴッホの{{Ruby|模写|もしゃ}}(右) Van Gogh - Portrait of Pere Tanguy 1887-8.JPG |ゴッホの作品。人物の後ろに、浮世絵がえがかれている。 </gallery> |} <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="江戸期の商業"/>江戸時代の商業<small> 江戸時代は、それまでの時代と比べて商業が特に発達した時代でした。商業の発達によって、大阪や江戸といった都市が発達し、そこの住民に町人文化が発達しました。商家は過去に見ることのないほど大きくなりました。ここでは、江戸時代に特徴的な商業について紹介します。 *'''{{ruby|米問屋|こめどんや}}・{{ruby|米仲買|こめなかがい}}・{{ruby|札差|ふださし}}'''<span id="米問屋"/> *:幕藩体制の基本は稲作でした。幕府や各藩は、米で年貢を受けており、農民は年貢分に合わせて、換金しやすい基礎的な商品作物として稲作を行っていました。また、幕府でも各藩でも、家臣への給与は米で支払われていました。 *:[[File:Communications by flags.jpg|thumb|200px|大阪の取引価格を伝えた「旗振り通信」]] *:幕府や各藩は、年貢を集めると自分の領地で必要な分をのぞいて、江戸や大阪にある{{ruby|蔵屋敷|くらやしき}}と呼ばれる一種の倉庫に運びます。それを{{ruby|米問屋|こめどんや}}と呼ばれる商人に売って、現金を得ていました。米問屋は、米を買い付けるだけではなくて、年貢米を{{ruby|担保|たんぽ}}<ref>担保というのは、お金を借りるとき、将来もしも返せなかった場合に、代わりに相手に渡すもののことを言います。「年貢米を担保に」というのは、ある年に、大名が年貢米を担保に1000両を商人に借りたとして、翌年までに1000両返せなければ、年貢米が商人のものとなることを言っています。</ref>に大名などにお金の貸し付けもしていました。また、各藩の領地や農村から直接買い付けて、米問屋へ売ったり、米問屋から買って米の小売店に売る{{ruby|米仲買|こめなかがい}}という商人もあらわれました。 *:家臣への給与としての米も米商人に売ることで武士は現金をえました。江戸では旗本や御家人の米を買い取る米商人を{{ruby|札差|ふださし}}といい、米問屋が大名に対してやったのと同じように、旗本や御家人に貸し付けを行いました。 *:米の売買はこのように日本中で大規模に取引されましたが、特に大阪には、{{ruby|堂島|どうじま}}{{ruby|米会所|こめかいしょ}}という取引所ができて、ここでの取引価格が米の値段を決めていました。堂島米会所では、毎日取引がなされ、この結果は、「{{ruby|旗振|はたふ}}り通信」という旗や夜間{{ruby|松明|たいまつ}}を振って、リレーで伝える方法で、全国に伝えられました。大阪から江戸まで、2時間から8時間で伝わったそうです。 *'''{{ruby|両替|りょうがえ}}商'''<span id="両替商"/> *:江戸時代の日常生活で使われた貨幣は、1636年に発行が開始された'''{{ruby|寛永通宝|かんえいつうほう}}'''<span id="寛永通宝">でした。寛永通宝が安定して発行されるようになったので、[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#永楽通宝|永楽通宝]]などを使用する必要はなくなりました<ref>ただし、明治になるまで、永楽通宝1000文=金1両として扱われました。</ref>。 *:しかし、大きな取引になると、寛永通宝では枚数が多くなって不便なので、商人の間の取引や職人の給金の支払いには、'''銀'''が使われました。江戸時代の初めは、銀の重さで取引をしていて、幕府が重さを保証した大型の{{ruby|丁銀|ちょうぎん}}や小型の{{ruby|豆板銀|まめいたぎん}}が流通していましたが、江戸幕府の後期に、{{ruby|一朱銀|いっしゅぎん}}・{{ruby|二朱銀|にしゅぎん}}・{{ruby|一分銀|いちぶぎん}}のような貨幣が発行されました。銀貨を{{ruby|鋳造|ちゅうぞう}}していた所を、「{{ruby|銀座|ぎんざ}}」といい、現在の東京都中央区銀座にありました。 *:大名の取引や大聖人の間の取引といった、さらに大きな取引には、金貨がつかわれました。金は{{ruby|小判|こばん}}と呼ばれる貨幣が発行され、小判1枚は1{{ruby|両|りょう}}という単位で流通しました。さらに、これを補助する通貨として4枚で1両とする{{ruby|一分金|いちぶきん}}や、4枚で1分とする{{ruby|一朱金|いっしゅきん}}が発行されました。小判など金貨を{{ruby|鋳造|ちゅうぞう}}していた所を、「{{ruby|金座|きんざ}}」といいます。金座は、現在の東京都中央区にあり、現在、そこには、日本の紙幣を発行する{{ruby|日本銀行|にほんぎんこう}}の本店があります。 *:このように、江戸時代は銭(寛永通宝)、銀、金といった3種類の貨幣が流通していたのですが、各々の流通していた量が一定ではなかったため、お互いの交換する割合は時々で変わりました。この交換({{ruby|両替|りょうがえ}})を行なったのが、'''{{ruby|両替|りょうがえ}}商'''です。 *:この時代には、{{ruby|紙幣|しへい}}(紙のお金)は発行されていませんでしたが、各藩は、借金をしてその証明書を小口にしたものを発行し、それは、お金と同じように取り扱われました。これを、{{ruby|藩札|はんさつ}}と言います。藩札も、両替商で、銭(寛永通宝)などに交換されました。 <gallery heights="100px" widths="150px"> File:Kanei-tsuho-bun.jpg|寛永通宝 File:Eiji-mameitagin.jpg|豆板銀 File:Keicho-koban2.jpg|小判 File:Hansatsu - Momme du Japon, 1850.jpg|藩札 </gallery> *'''{{ruby|呉服|ごふく}}商''' *:元禄の少し前、江戸の日本橋のたもとに呉服屋{{ruby|越後屋|えちごや}}を開いた{{ruby|三井高利|みついたかとし}}は、それまで、呉服の{{ruby|反物|たんもの}}は、むかしから取引のある客(得意客)に見本を見せ、値段を交渉し、1反(呉服一着分)を単位に届け、支払いは後日の{{ruby|掛払|かけばら}}い<ref>米がとれ、それを年貢に取り立てることで幕府や各藩は支払いがはじめてできます。ですから、ある程度高額なものについては、支払いがいつでもできるわけではなく、支払うためのお金を準備する期間をもうけるというのが習慣としてありました。</ref>という習慣に対して、{{ruby|現金|げんきん}}{{ruby|掛値|かけね}}無し(現金払いでの定価販売)、必要分だけ反物の切り売り、店に来た客には誰でも売るという売り方<ref>現在では一般的となった売り方です。</ref>にかえて、売りはじめました。手間などが減った分安く売ることがてきたので、大変はやり、越後屋は大きな店となりました。これが、後に{{ruby|三越|みつこし}}('''三'''井・'''越'''後屋)となり、現在の三井グループのルーツとなります。 *'''{{ruby|廻船|かいせん}}{{ruby|問屋|どんや}}'''<span id="廻船問屋"/> *:[[File:Sailboat on Blue Water LACMA 16.16.11.jpg|thumb|180px|千石船]] *:当時、大量の物資を運ぶために江戸と上方、さらには瀬戸内海を経由し、日本海を北上し{{ruby|出羽|でわ}}(現在の山形県)までをつなぐ、定期的な船の行き来がありました。このような船をつかって、荷物を運んだ商人を{{ruby|廻船|かいせん}}{{ruby|問屋|どんや}}と言います。 *:船は、{{ruby|千石船|せんごくぶね}}と呼ばれる大型の船が用いられました。千石船は、大型の{{ruby|帆|ほ}}が一つだけで、操作が難しく、また、甲板がなかったので、しばしば、{{ruby|難破|なんぱ}}しました。 </small> |}</div> === 江戸時代の学問 === :戦国時代までの学問は主に寺院で、僧侶などにより、仏教や中国の古典が研究されていましたが、江戸時代になると、様々な階層の人々の研究が見られるようになります。 ;{{ruby|儒学|じゅがく}} :幕府が公認していた学問は'''儒学'''のうち'''{{ruby|朱子学|しゅしがく}}'''と言われるものでした。家康は、朱子学の学者である{{ruby|林羅山|はやしらざん}}を重く用い、幕臣に朱子学を学ばせました。[[#綱吉|第5代将軍綱吉]]は、世の中が平和になったので、それまで武士は、何かと武力で解決しようとしていた(武断政治)のを、何が正しいかを議論することや法令によって解決できるよう(文治政治)、武士に儒学を学ぶよう命じました。林羅山の子孫は、代々幕府で学問の責任者となります。羅山のころは、私的な塾で教えられていたのですが、その塾をもとに、後に幕府は{{ruby|昌平坂|しょうへいざか}}{{ruby|学問所|がくもんじょ}}をつくります。 :朱子学は、各藩でも{{ruby|藩校|はんこう}}がつくられ、そこで教えられました。 ;国学<span id="国学"> :[[File:本居宣長02.jpg|thumb|180px|本居宣長]] :この時代、日本の古典についても研究が進み、'''{{ruby|国学|こくがく}}'''が成立しました。国学の成立に大きく貢献したのが'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典‎‎#本居宣長|{{Ruby|本居宣長|もとおりのりなが}}]]'''です。国学は、のちの「'''{{ruby|尊王攘夷|そんのうじょうい}}'''」の考えなどに影響します。 {{-}} ;蘭学<span id="蘭学"> :鎖国のため、ヨーロッパの文化には直接触れることはできなかったのですが、[[#吉宗|第8代将軍吉宗]]は、キリスト教関連以外の書物に限って、オランダ語の書物の輸入を認めました。それ以降、これを訳して読むことで、当時急速に進みつつあったヨーロッパの科学に触れることができました。このような学問を'''{{Ruby|蘭学|らんがく}}'''と言います。 :医者の '''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典‎‎#杉田玄白|{{Ruby|杉田玄白|すぎたげんぱく}}]]'''・'''{{Ruby|前野良沢|まえのりょうたく}}'''らはオランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を見て、実際に死体の解剖を行い、それが非常に正確に記述されていることを知って感心し、これを4年かけて翻訳して、1774年『'''解体新書'''』をあらわしました。このころは、まだ、オランダ語の辞書はなく、大変苦労した話を『{{Ruby|蘭学事始|らんがくことはじめ}}』に記しました。 :杉田玄白らと同じ時代の、{{ruby|平賀源内|ひらがげんない}}<span id="平賀源内">は、オランダ語の本から、「エレキテル」と呼ばれる、静電気を発電し蓄電する機械(起電気)を製作しました。 :蘭学は、現代の日本の科学にも大きな影響を残しています。 :{{ruby|宇田川玄真|うだがわげんしん}}は、『解体新書』よりもさらに詳しい医学書を翻訳し、それまで日本語の名前のなかった臓器である「{{ruby|膵臓|すいぞう}}」や「{{ruby|腺|せん}}(体液を出す器官)」について、「膵」や「腺」という漢字を新しく作ってなづけました。玄真の養子である{{ruby|宇田川榕菴|うだがわようあん}}は、「化学」を紹介し、翻訳で「水素」、「酸素」、「窒素」、「元素」、「酸化」、「細胞」、「圧力」、「温度」、「結晶」、「沸騰」など現在でも使われている言葉を数多く作りました。 :関学は、こうして、当時急速に進んだヨーロッパの科学技術を日本に伝え、幕末には、新しい知識を持った人たちを送り出すのですが、これを研究する人はまだ少数で、世の中を変えるまでの影響はありませんでした。また、18世紀から19世紀にかけての「[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#世界の変化1 - 産業革命|{{ruby|産業革命|さんぎょうかくめい}}]]」にオランダは少し遅れてとりくんだため、蒸気機関などその成果はほとんど入りませんでした。 <div style="margin:0 4em 0 8em"> {| class="wikitable" style="width:90%" | <gallery heights="200px" widths="200px"> Sugita_Genpaku.jpg|thumb|杉田玄白 Kaitai shinsyo01.jpg|right|thumb|『解体新書』。とびら絵は『ターヘル・アナトミア』のとびら絵とはまったく{{Ruby|異|こと}}なっている。 Ontleedkundige Tafelen replica.jpg|thumb|『ターヘル・アナトミア』(複製)。 Elekiter replica.jpg|thumb|right|平賀源内作のエレキテル(複製) </gallery> |} </div> ;学問の実践 :'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典‎‎#伊能忠敬|{{ruby|伊能忠敬|いのうただたか}}]]'''は、天文学や測量術を学んだ他、独自に測量方法を工夫し、日本全国を訪れ、正確な日本地図『{{Ruby|大日本沿海輿地全図|だいにほんえんかいよちぜんず}}』を作りました。 :{{ruby|華岡青洲|はなおかせいしゅう}}は、独自に{{ruby|麻酔薬|ますいやく}}の研究をし、1804年世界で初めて、全身麻酔での外科手術を成功させました。 ;教育 :[[File:Bungaku-Bandai_no-Takara-Terakoya-School-by-Issunshi-Hanasato.png|thumb|right|寺子屋のようす。]] :武士の子弟は、幕臣ならば昌平坂学問所、大名家では藩校で、主に朱子学が教えられました。 :一方、農民や町民などの{{Ruby|庶民|しょみん}}は、'''{{Ruby|寺子屋|てらこや}}'''で文字の'''読み書き'''や'''そろばん'''などを学びました。 :蘭学などは、蘭学者が塾を開き、そこで教えました。特に、医学については、身分に関係なく塾で学んで医者になることができました。 {{-}} <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| style="border:2px solid #aabbdd; width:95%; border-radius: 4px;" cellspacing=0 |style="background: #aabbdd; font-size: 115%; padding: 0.2em 0.2em 0.3em;"|'''コラム''' |- |style="padding: 0.5em; background: #fafafc;"|伊能忠敬 [[ファイル:Ino Tadataka stamp.jpg|thumb|180px|伊能忠敬がえがかれた切手]] :伊能忠敬は、50才のときに、天文学や測量のための勉強をはじめました。そして、55才のときに、自費で北海道の南岸の測量を行いました。56才のとき、地図づくりのための測量を、幕府に願いでました。幕府は、忠敬の地図づくりの才能を{{Ruby|認|みと}}め、忠敬に地図づくりの許可を出しました。 :それから17年間、忠敬は、地図づくりのため、日本の全国各地を歩きました。忠敬が歩いた{{ruby|距離|きょり}}は3万km以上になります。 :地図の完成の前に、71才で忠敬は{{Ruby|亡|な}}くなりましたが、弟子たちが、日本全国の地図を完成させました。 :そして、忠敬の弟子たちにより、とても正確な日本地図が、できあがりました。 [[File:Land-Surveyors-Edo-Period-Katsushika-Hokusai.png|thumb|350px|left|江戸時代の測量のようす]] |}</div> <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="儒学"/>儒学・儒教<small> :{{ruby|儒学|じゅがく}}は、中国で紀元前6世紀から5世紀に{{ruby|孔子|こうし}}という人が始めた教えです。宗教としての性格もあるので{{ruby|儒教|じゅきょう}}とも言います。 :儒学は、紀元前2世紀からずっと、中国の王朝で正統とされた学問です。内容を伝えることは、簡単ではありませんが、この教えの特徴をよく伝える『{{ruby|礼記|らいき}}<ref>儒学の重要な書物の一つです。</ref>』の言葉「{{ruby|修身|しゅうしん}}、{{ruby|斉家|せいか}}、{{ruby|治国|ちこく}}、{{ruby|平天下|へいてんか}}」をあげておきましょう。意味は、「自分の行動を正しくし、家族がばらばらではなく、国がおさまるようであれば、世界には争いがなくなる」という意味です。このように、儒学の目標は天下が平和におさまることですが、そのためには、各個人が正しい行いをしていかなければならないというものです。 :儒学は、日本にも中国との交流とともに伝わりました。[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#漢字伝来|漢字の伝来]]の時に、王仁は儒教で最も重要な書物である『{{ruby|論語|ろんご}}』を『{{ruby|千字文|せんじもん}}』という書物とともに伝えたとされています。奈良時代から平安時代にかけての律令制の時代にも、儒教の学校がありました。また、鎌倉時代から室町時代にかけては、主に禅宗の寺院で、中国からの書物を使って研究がされていました。 :江戸時代になると、仏教から独立し学問として研究されるようになります。 :儒学の中でも、江戸時代に中心となったのは、13世紀に{{ruby|朱熹|しゅき}}が完成した{{ruby|朱子学|しゅしがく}}という学問です。朱子学は、国や社会の秩序を重んずるという特徴があり、明や清の国の学問となっていました。中国からの儒教に関する書物も朱子学のもので、また、朱子学は、家庭では親を大切にすること({{ruby|孝|こう}} - 「{{ruby|親'''孝'''行|おやこうこう}}」の「孝」です)と、主君にはさからわずつかえること({{ruby|忠|ちゅう}})が大事であるとといたので、下克上の世の中が終わって、安定した江戸時代の社会に合っていたのです。 :朱子学は、このように、江戸時代の学問の中心になったのですが、朱子学は形式ばった学問という特徴があって、{{ruby|実践|じっせん}}を重要と考えた{{ruby|陽明学|ようめいがく}}なども広く受け入れられました。 </small> |}</div> == 脚注 == 以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small> <references/></small> ---- {{前後 |type=章 |[[小学校社会/6学年/歴史編]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう|日本の歴史の流れ]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ|江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代|明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代]] }} [[Category:社会|しようかつこうしやかい6]] [[Category:小学校社会|6ねん]] [[Category:小学校社会 歴史|#10]] 53vpp6huv1n0mtoorb2sqjt175hvebp 207301 207292 2022-08-27T02:08:01Z Mtodo 450 wikitext text/x-wiki {{Nav}} {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|6学年|歴史編|frame=1}} {| class="wikitable" style="width:100%" |+ この章の概要 |<!--江戸時代中期−主題は文化史(元禄文化、化政文化など)--><!--(ク) 歌舞伎や浮世絵,国学や蘭学を手掛かりに,町人の文化が栄え新しい学問がおこったことを理解すること。--> ★時代区分:江戸時代中期</br> ★取り扱う年代:1638年(島原の乱終結)から1853年(ペリー来航)前まで ;江戸時代の文化 :江戸幕府の様々な政策によって世の中は安定し、人々は安心して経済活動を行えるようになって、様々な文化が武士だけでなく町人にも栄えるようになりました。 :「'''{{ruby|元禄|げんろく}}'''」は、江戸幕府ができてだいたい100年くらいの元号ですが、このころ、最初の町人文化の開花が見られました。元禄の頃の文化を「'''元禄文化'''」と言います。仮名草子・浮世草子といった出版物が市中に出回るようになり、'''人形浄瑠璃'''や'''歌舞伎'''が人々に人気を得て、'''井原西鶴'''や'''近松門左衛門'''といった劇作家がでました。 :連歌から発達した'''俳句'''(俳諧)が流行し、'''松尾芭蕉'''は、それを芸術のレベルまで高めたと言われています。 :絵画も大衆化し、このころ'''菱川師宣'''が'''浮世絵'''を創始しました。浮世絵は、版画の一種で何枚も同じ絵をすることができるので、庶民でもこれを買い求めることができました。ただし、浮世絵については、元禄から、さらに100年ほど後の「文化」「文政」といった元号の時期に最も盛んになります('''化政文化''')。'''喜多川歌麿'''や'''東洲斎写楽'''は歌舞伎役者の肖像画を、'''歌川広重'''は『東海道五十三次絵』などの風景画を、'''葛飾北斎'''は『冨嶽三十六景』など風景画のほか様々な構図の絵をあらわし、国内のみならず、オランダ貿易で持ち出されたものがフランスなどの絵画にも影響を与えました。 ;江戸時代の学問 :戦国時代までの学問は主に寺院で、僧侶などにより、仏教や中国の古典が研究されていましたが、江戸時代になると、様々な階層の人々の研究が見られるようになります。 :幕府が公認していた学問は'''儒学'''のうち'''朱子学'''と言われるもので、幕府のほか各藩で教えられました。その他、中国の古典が研究されました。 :一方で、日本の古典についても研究が進み、'''国学'''が成立しました。国学の成立に大きく貢献したのが'''本居宣長'''です。国学は、のちの「'''尊王攘夷'''」の考えに影響します。 :鎖国をしているので、ヨーロッパの文化には直接触れることはできなかったのですが、オランダ語の書物を出島をとおして、手に入れることができ、これを訳して読むことで、当時急速に進みつつあったヨーロッパの科学に触れることができました。このような学問を'''蘭学'''と言います。'''杉田玄白'''らはオランダ語の医学書を翻訳して『'''解体新書'''』をあらわしました。 :'''伊能忠敬'''は、天文学や測量術を学んだ他、独自に測量方法を工夫し、日本全国を訪れ、正確な日本地図を作りました。 |} === 島原の乱からペリー来航まで === :島原の乱が終わると、日本は安定し大きな戦争などもなく、人々の生活にも変化の少ない時代が約200年続きます。 :この時代も幕府などの政治は色々と動いていて、経済も変化しているのですが、小学生の学習の範囲とはなっておらず、この時代の文化や学問の動きが学習の対象となっています。ただ、それらの文化や学問の時代背景として理解しておいた方が、理解の助けになるので、この節で簡単に述べます。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" | ;この時代の歴代将軍と政治などの概要 :第4代将軍{{ruby|家綱|いえつな}}(将軍在位1651年-1680年) :*父家光の死去に伴い、11歳で将軍に即位しました。将軍が幼くても、老中などの幕臣がしっかり支えて混乱がないなど幕府の組織がしっかりしていることをしめしました。 :第5代将軍'''{{ruby|綱吉|つなよし}}'''<span id="綱吉"/>(将軍在位1680年-1709年) :*{{ruby|柳沢吉保|やなぎさわよしやす}}を{{ruby|側用人|そばようにん}}として用いました。 :*動物を大切にすることをさだめた「{{ruby|生類憐|しょうるいあわれ}}れみの令」という法律を出して、特に犬を大事にしたので「{{ruby|犬公方|いぬくぼう}}」として有名ですが、これは、武士のあらあらしい行動は平和な世の中にふさわしくないため、武力を日常に出すことはひかえて、学問などをおさめることにつとめるよう、さとしたものとも言われています。このような様子を「<u>『{{ruby|武断|ぶだん}}政治』から『{{ruby|文治|ぶんち}}政治』へ</u>」という言い方をします。 :*上方を中心に商業が発展した町人文化「'''{{ruby|元禄|げんろく}}文化'''」が花開きました。 :第6代将軍{{ruby|家宣|いえのぶ}}(将軍在位1709年-1712年) :*学者の{{ruby|新井白石|あらいはくせき}}を用いて、綱吉の時代の経済が拡大したことで起こったインフレーションをしずめる政策('''{{ruby|正徳|しょうとく}}の{{ruby|治|ち}}''')を行いました。 :第7代将軍{{ruby|家継|いえつぐ}}(将軍在位1713年-1716年) :*家宣が急死し4歳で即位したため、新井白石の政治が続きました。 :第8代将軍'''{{ruby|吉宗|よしむね}}'''<span id="吉宗"/>(将軍在位1716年-1745年 大御所:-1751年) :*世の中が安定し、経済が発展したため、幕府の支出が増える一方で、収入源である米の価格が下がるという状況になり、幕府の財政は厳しいものとなっていました。吉宗は、倹約と増税・新田開発、米価をあげることにより幕府の財政を回復させ、また、優秀な人材を登用できるようにし、{{ruby|大岡忠相|おおおかただすけ}}などを用いました。これを'''{{ruby|享保|きょうほう}}の{{ruby|改革|かいかく}}'''と言います。 :第9代将軍{{ruby|家重|いえしげ}}(将軍在位1745年-1760年) :*{{ruby|田沼意次|たぬまおきつぐ}}'<span id="田沼"/>を用いて、商業を振興したり、印旛沼の開発などをして、景気を良くすることにつとめました。田沼意次が活躍した時代を「'''{{ruby|田沼|たぬま}}時代'''」といいます。 :第10代将軍{{ruby|家治|いえはる}}(将軍在位1760年-1786年) :*田沼意次の政治が続きました。商人を利用して経済を活発にしたのですが、役人の汚職が噂されました。 :第11代将軍{{ruby|家斉|いえなり}}(将軍在位1787年-1837年 大御所:-1841年) :*{{ruby|飢饉|ききん}}やそれにともなう百姓一揆・打ちこわし<ref>江戸や大阪といった都市の民衆が、政治などに不満を持った大きな商人などの店を集団でこわすことを言います。都市における百姓一揆みたいなものです。</ref>が増え、また、幕府の財政が再び悪化したため、田沼意次はやめさせられました。それに代わって{{ruby|松平定信|まつだいらさだのぶ}}'<span id="定信"/>が老中{{ruby|筆頭|ひっとう}}に任命され、倹約などをすすめることで、幕府の財政の立て直しをはかりました。これを、これを'''{{ruby|寛政|かんせい}}の{{ruby|改革|かいかく}}'''と言います。 :*経済活動が、上方中心から江戸へと移ってきて、江戸の町民文化が盛んになりました。これを「'''{{ruby|化政|かせい}}文化'''」といいます。 :第12代将軍{{ruby|家慶|いえよし}}(将軍在位1837年-1853年) :*幕府財政がまた悪化してきたため、大老となった{{ruby|水野忠邦|みずのただくに}}'<span id="忠邦"/>が改革政策である'''{{ruby|天保|てんぽう}}の{{ruby|改革|かいかく}}'''を行いました。 |}</div> === 江戸時代の文化 === ;元禄文化 [[File:ChikamatsuM.jpg|180px|thumb|近松門左衛門]] :「'''{{ruby|元禄|げんろく}}'''」は、江戸幕府ができてだいたい100年くらいの元号です。このころ、大阪を中心に最初の町人文化の開花が見られました。元禄の頃の文化を「'''元禄文化'''」と言います。仮名草子・浮世草子といった出版物が市中に出回るようになり、'''{{ruby|人形浄瑠璃|にんぎょうじょうるり}}'''や'''歌舞伎'''が庶民に人気を得て、'''{{ruby|井原西鶴|いはらさいかく}}'''や'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#近松門左衛門|{{ruby|近松門左衛門|ちかまつもんざえもん}}]]'''といった小説家・劇作家がでました。 :[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#連歌|連歌]]から発達した'''俳句'''(俳諧)が流行し、'''{{ruby|松尾芭蕉|まつおばしょう}}'''は、それを芸術のレベルまで高めたと言われています。 :絵画も大衆化し、このころ'''{{Ruby|菱川師宣|ひしかわもろのぶ}}'''が'''{{Ruby|浮世絵|うきよえ}}'''を創始しました。浮世絵は、版画の一種で何枚も同じ絵をすることができるので、庶民でもこれを買い求めることができました。 ;化政文化 :江戸は幕府が開かれた当時は、全国から武士のみが集まる都市でしたが、元禄から、100年ほど後の「'''{{ruby|文化|ぶんか}}'''」「'''{{ruby|文政|ぶんせい}}'''」といった元号の時期には、武士以外の商人や職人なども増えて、町人文化が見られるようになりました。これを、「文'''化'''」「文'''政'''」から、「'''{{ruby|化政|かせい}}文化'''」といいます。 :'''{{Ruby|喜多川歌麿|きたがわうたまろ}}'''や'''{{Ruby|東洲斎写楽|とうしゅうさいしゃらく}}'''は歌舞伎役者の肖像画を、'''{{Ruby|歌川広重|うたがわひろしげ}}'''は『東海道五十三次絵』などの風景画を、'''{{Ruby|葛飾北斎|かつしかほくさい}}'''は『冨嶽三十六景』など風景画のほか様々な構図の絵をあらわしました。 {| class="wikitable" style="width:100%" | <gallery heights="200px" widths="200px"> ファイル:Beauty looking back.jpg|thumb|『見返り美人図』菱川師宣 ファイル:Nihonbashi bridge in Edo.jpg|葛飾北斎『{{ruby|富嶽三十六景|ふがくさんじゅうろっけい}}』 1. {{Ruby|江戸日本橋|えどにほんばし}} ファイル:Lightnings below the summit.jpg|『富嶽三十六景』 32. {{Ruby|山下白雨|さんかはくう}} ファイル:Red Fuji southern wind clear morning.jpg|『富嶽三十六景』 33. {{Ruby|凱風快晴|がいふうかいせい}} File:東海道五十三次之内 川崎 六郷渡舟-Ferry Boat Crossing the Rokugo River MET DP122176.jpg|200px|歌川広重『{{ruby|東海道五十三次|とうかいどうごじゅうさんつぎ}}』 </gallery> |} :浮世絵は、国内のみならず、オランダ貿易で持ち出されたもの<ref>もともとは、美術品として持ち出されたものではなく、陶器の輸出に詰め物として使われた屑紙として伝わったものと言われています。</ref>がフランスなどの絵画にも影響を与えました。 {| class="wikitable" style="width:100%" | <gallery heights="200px" widths="200px"> 画像:Hiroshige Van Gogh 2.JPG|300px|歌川広重の絵(左)と、ゴッホの{{Ruby|模写|もしゃ}}(右) Van Gogh - Portrait of Pere Tanguy 1887-8.JPG |ゴッホの作品。人物の後ろに、浮世絵がえがかれている。 </gallery> |} <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="江戸期の商業"/>江戸時代の商業<small> 江戸時代は、それまでの時代と比べて商業が特に発達した時代でした。商業の発達によって、大阪や江戸といった都市が発達し、そこの住民に町人文化が発達しました。商家は過去に見ることのないほど大きくなりました。ここでは、江戸時代に特徴的な商業について紹介します。 *'''{{ruby|米問屋|こめどんや}}・{{ruby|米仲買|こめなかがい}}・{{ruby|札差|ふださし}}'''<span id="米問屋"/> *:幕藩体制の基本は稲作でした。幕府や各藩は、米で年貢を受けており、農民は年貢分に合わせて、換金しやすい基礎的な商品作物として稲作を行っていました。また、幕府でも各藩でも、家臣への給与は米で支払われていました。 *:[[File:Communications by flags.jpg|thumb|200px|大阪の取引価格を伝えた「旗振り通信」]] *:幕府や各藩は、年貢を集めると自分の領地で必要な分をのぞいて、江戸や大阪にある{{ruby|蔵屋敷|くらやしき}}と呼ばれる一種の倉庫に運びます。それを{{ruby|米問屋|こめどんや}}と呼ばれる商人に売って、現金を得ていました。米問屋は、米を買い付けるだけではなくて、年貢米を{{ruby|担保|たんぽ}}<ref>担保というのは、お金を借りるとき、将来もしも返せなかった場合に、代わりに相手に渡すもののことを言います。「年貢米を担保に」というのは、ある年に、大名が年貢米を担保に1000両を商人に借りたとして、翌年までに1000両返せなければ、年貢米が商人のものとなることを言っています。</ref>に大名などにお金の貸し付けもしていました。また、各藩の領地や農村から直接買い付けて、米問屋へ売ったり、米問屋から買って米の小売店に売る{{ruby|米仲買|こめなかがい}}という商人もあらわれました。 *:家臣への給与としての米も米商人に売ることで武士は現金をえました。江戸では旗本や御家人の米を買い取る米商人を{{ruby|札差|ふださし}}といい、米問屋が大名に対してやったのと同じように、旗本や御家人に貸し付けを行いました。 *:米の売買はこのように日本中で大規模に取引されましたが、特に大阪には、{{ruby|堂島|どうじま}}{{ruby|米会所|こめかいしょ}}という取引所ができて、ここでの取引価格が米の値段を決めていました。堂島米会所では、毎日取引がなされ、この結果は、「{{ruby|旗振|はたふ}}り通信」という旗や夜間{{ruby|松明|たいまつ}}を振って、リレーで伝える方法で、全国に伝えられました。大阪から江戸まで、2時間から8時間で伝わったそうです。 *'''{{ruby|両替|りょうがえ}}商'''<span id="両替商"/> *:江戸時代の日常生活で使われた貨幣は、1636年に発行が開始された'''{{ruby|寛永通宝|かんえいつうほう}}'''<span id="寛永通宝">でした。寛永通宝が安定して発行されるようになったので、[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#永楽通宝|永楽通宝]]などを使用する必要はなくなりました<ref>ただし、明治になるまで、永楽通宝1000文=金1両として扱われました。</ref>。 *:しかし、大きな取引になると、寛永通宝では枚数が多くなって不便なので、商人の間の取引や職人の給金の支払いには、'''銀'''が使われました。江戸時代の初めは、銀の重さで取引をしていて、幕府が重さを保証した大型の{{ruby|丁銀|ちょうぎん}}や小型の{{ruby|豆板銀|まめいたぎん}}が流通していましたが、江戸幕府の後期に、{{ruby|一朱銀|いっしゅぎん}}・{{ruby|二朱銀|にしゅぎん}}・{{ruby|一分銀|いちぶぎん}}のような貨幣が発行されました。銀貨を{{ruby|鋳造|ちゅうぞう}}していた所を、「{{ruby|銀座|ぎんざ}}」といい、現在の東京都中央区銀座にありました。 *:大名の取引や大聖人の間の取引といった、さらに大きな取引には、金貨がつかわれました。金は{{ruby|小判|こばん}}と呼ばれる貨幣が発行され、小判1枚は1{{ruby|両|りょう}}という単位で流通しました。さらに、これを補助する通貨として4枚で1両とする{{ruby|一分金|いちぶきん}}や、4枚で1分とする{{ruby|一朱金|いっしゅきん}}が発行されました。小判など金貨を{{ruby|鋳造|ちゅうぞう}}していた所を、「{{ruby|金座|きんざ}}」といいます。金座は、現在の東京都中央区にあり、現在、そこには、日本の紙幣を発行する{{ruby|日本銀行|にほんぎんこう}}の本店があります。 *:このように、江戸時代は銭(寛永通宝)、銀、金といった3種類の貨幣が流通していたのですが、各々の流通していた量が一定ではなかったため、お互いの交換する割合は時々で変わりました。この交換({{ruby|両替|りょうがえ}})を行なったのが、'''{{ruby|両替|りょうがえ}}商'''です。 *:この時代には、{{ruby|紙幣|しへい}}(紙のお金)は発行されていませんでしたが、各藩は、借金をしてその証明書を小口にしたものを発行し、それは、お金と同じように取り扱われました。これを、{{ruby|藩札|はんさつ}}と言います。藩札も、両替商で、銭(寛永通宝)などに交換されました。 <gallery heights="100px" widths="150px"> File:Kanei-tsuho-bun.jpg|寛永通宝 File:Eiji-mameitagin.jpg|豆板銀 File:Keicho-koban2.jpg|小判 File:Hansatsu - Momme du Japon, 1850.jpg|藩札 </gallery> *'''{{ruby|呉服|ごふく}}商''' *:元禄の少し前、江戸の日本橋のたもとに呉服屋{{ruby|越後屋|えちごや}}を開いた{{ruby|三井高利|みついたかとし}}は、それまで、呉服の{{ruby|反物|たんもの}}は、むかしから取引のある客(得意客)に見本を見せ、値段を交渉し、1反(呉服一着分)を単位に届け、支払いは後日の{{ruby|掛払|かけばら}}い<ref>米がとれ、それを年貢に取り立てることで幕府や各藩は支払いがはじめてできます。ですから、ある程度高額なものについては、支払いがいつでもできるわけではなく、支払うためのお金を準備する期間をもうけるというのが習慣としてありました。</ref>という習慣に対して、{{ruby|現金|げんきん}}{{ruby|掛値|かけね}}無し(現金払いでの定価販売)、必要分だけ反物の切り売り、店に来た客には誰でも売るという売り方<ref>現在では一般的となった売り方です。</ref>にかえて、売りはじめました。手間などが減った分安く売ることがてきたので、大変はやり、越後屋は大きな店となりました。これが、後に{{ruby|三越|みつこし}}('''三'''井・'''越'''後屋)となり、現在の三井グループのルーツとなります。 *'''{{ruby|廻船|かいせん}}{{ruby|問屋|どんや}}'''<span id="廻船問屋"/> *:[[File:Sailboat on Blue Water LACMA 16.16.11.jpg|thumb|180px|千石船]] *:当時、大量の物資を運ぶために江戸と上方、さらには瀬戸内海を経由し、日本海を北上し{{ruby|出羽|でわ}}(現在の山形県)までをつなぐ、定期的な船の行き来がありました。このような船をつかって、荷物を運んだ商人を{{ruby|廻船|かいせん}}{{ruby|問屋|どんや}}と言います。 *:船は、{{ruby|千石船|せんごくぶね}}と呼ばれる大型の船が用いられました。千石船は、大型の{{ruby|帆|ほ}}が一つだけで、操作が難しく、また、甲板がなかったので、しばしば、{{ruby|難破|なんぱ}}しました。 </small> |}</div> === 江戸時代の学問 === :戦国時代までの学問は主に寺院で、僧侶などにより、仏教や中国の古典が研究されていましたが、江戸時代になると、様々な階層の人々の研究が見られるようになります。 ;{{ruby|儒学|じゅがく}} :幕府が公認していた学問は'''儒学'''のうち'''{{ruby|朱子学|しゅしがく}}'''と言われるものでした。家康は、朱子学の学者である{{ruby|林羅山|はやしらざん}}を重く用い、幕臣に朱子学を学ばせました。[[#綱吉|第5代将軍綱吉]]は、世の中が平和になったので、それまで武士は、何かと武力で解決しようとしていた(武断政治)のを、何が正しいかを議論することや法令によって解決できるよう(文治政治)、武士に儒学を学ぶよう命じました。林羅山の子孫は、代々幕府で学問の責任者となります。羅山のころは、私的な塾で教えられていたのですが、その塾をもとに、後に幕府は{{ruby|昌平坂|しょうへいざか}}{{ruby|学問所|がくもんじょ}}をつくります。 :朱子学は、各藩でも{{ruby|藩校|はんこう}}がつくられ、そこで教えられました。 ;国学<span id="国学"> :[[File:本居宣長02.jpg|thumb|180px|本居宣長]] :この時代、日本の古典についても研究が進み、'''{{ruby|国学|こくがく}}'''が成立しました。国学の成立に大きく貢献したのが'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典‎‎#本居宣長|{{Ruby|本居宣長|もとおりのりなが}}]]'''です。国学は、のちの「'''{{ruby|尊王攘夷|そんのうじょうい}}'''」の考えなどに影響します。 {{-}} ;蘭学<span id="蘭学"> :鎖国のため、ヨーロッパの文化には直接触れることはできなかったのですが、[[#吉宗|第8代将軍吉宗]]は、キリスト教関連以外の書物に限って、オランダ語の書物の輸入を認めました。それ以降、これを訳して読むことで、当時急速に進みつつあったヨーロッパの科学に触れることができました。このような学問を'''{{Ruby|蘭学|らんがく}}'''と言います。 :医者の '''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典‎‎#杉田玄白|{{Ruby|杉田玄白|すぎたげんぱく}}]]'''・'''{{Ruby|前野良沢|まえのりょうたく}}'''らはオランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を見て、実際に死体の解剖を行い、それが非常に正確に記述されていることを知って感心し、これを4年かけて翻訳して、1774年『'''解体新書'''』をあらわしました。このころは、まだ、オランダ語の辞書はなく、大変苦労した話を『{{Ruby|蘭学事始|らんがくことはじめ}}』に記しました。 :杉田玄白らと同じ時代の、{{ruby|平賀源内|ひらがげんない}}<span id="平賀源内">は、オランダ語の本から、「エレキテル」と呼ばれる、静電気を発電し蓄電する機械(起電気)を製作しました。 :蘭学は、現代の日本の科学にも大きな影響を残しています。 :{{ruby|宇田川玄真|うだがわげんしん}}は、『解体新書』よりもさらに詳しい医学書を翻訳し、それまで日本語の名前のなかった臓器である「{{ruby|膵臓|すいぞう}}」や「{{ruby|腺|せん}}(体液を出す器官)」について、「膵」や「腺」という漢字を新しく作ってなづけました。玄真の養子である{{ruby|宇田川榕菴|うだがわようあん}}は、「化学」を紹介し、翻訳で「水素」、「酸素」、「窒素」、「元素」、「酸化」、「細胞」、「圧力」、「温度」、「結晶」、「沸騰」など現在でも使われている言葉を数多く作りました。 :関学は、こうして、当時急速に進んだヨーロッパの科学技術を日本に伝え、幕末には、新しい知識を持った人たちを送り出すのですが、これを研究する人はまだ少数で、世の中を変えるまでの影響はありませんでした。また、18世紀から19世紀にかけての「[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#世界の変化1 - 産業革命|{{ruby|産業革命|さんぎょうかくめい}}]]」にオランダは少し遅れてとりくんだため、蒸気機関などその成果はほとんど入りませんでした。 <div style="margin:0 4em 0 8em"> {| class="wikitable" style="width:90%" | <gallery heights="200px" widths="200px"> Sugita_Genpaku.jpg|thumb|杉田玄白 Kaitai shinsyo01.jpg|right|thumb|『解体新書』。とびら絵は『ターヘル・アナトミア』のとびら絵とはまったく{{Ruby|異|こと}}なっている。 Ontleedkundige Tafelen replica.jpg|thumb|『ターヘル・アナトミア』(複製)。 Elekiter replica.jpg|thumb|right|平賀源内作のエレキテル(複製) </gallery> |} </div> ;学問の実践 :'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典‎‎#伊能忠敬|{{ruby|伊能忠敬|いのうただたか}}]]'''は、天文学や測量術を学んだ他、独自に測量方法を工夫し、日本全国を訪れ、正確な日本地図『{{Ruby|大日本沿海輿地全図|だいにほんえんかいよちぜんず}}』を作りました。 :{{ruby|華岡青洲|はなおかせいしゅう}}は、独自に{{ruby|麻酔薬|ますいやく}}の研究をし、1804年世界で初めて、全身麻酔での外科手術を成功させました。 ;教育 :[[File:Bungaku-Bandai_no-Takara-Terakoya-School-by-Issunshi-Hanasato.png|thumb|right|寺子屋のようす。]] :武士の子弟は、幕臣ならば昌平坂学問所、大名家では藩校で、主に朱子学が教えられました。 :一方、農民や町民などの{{Ruby|庶民|しょみん}}は、'''{{Ruby|寺子屋|てらこや}}'''で文字の'''読み書き'''や'''そろばん'''などを学びました。 :蘭学などは、蘭学者が塾を開き、そこで教えました。特に、医学については、身分に関係なく塾で学んで医者になることができました。 {{-}} <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| style="border:2px solid #aabbdd; width:95%; border-radius: 4px;" cellspacing=0 |style="background: #aabbdd; font-size: 115%; padding: 0.2em 0.2em 0.3em;"|'''コラム''' |- |style="padding: 0.5em; background: #fafafc;"|伊能忠敬 [[ファイル:Ino Tadataka stamp.jpg|thumb|180px|伊能忠敬がえがかれた切手]] :伊能忠敬は、50才のときに、天文学や測量のための勉強をはじめました。そして、55才のときに、自費で北海道の南岸の測量を行いました。56才のとき、地図づくりのための測量を、幕府に願いでました。幕府は、忠敬の地図づくりの才能を{{Ruby|認|みと}}め、忠敬に地図づくりの許可を出しました。 :それから17年間、忠敬は、地図づくりのため、日本の全国各地を歩きました。忠敬が歩いた{{ruby|距離|きょり}}は3万km以上になります。 :地図の完成の前に、71才で忠敬は{{Ruby|亡|な}}くなりましたが、弟子たちが、日本全国の地図を完成させました。 :そして、忠敬の弟子たちにより、とても正確な日本地図が、できあがりました。 [[File:Land-Surveyors-Edo-Period-Katsushika-Hokusai.png|thumb|350px|left|江戸時代の測量のようす]] |}</div> <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="儒学"/>儒学・儒教<small> :{{ruby|儒学|じゅがく}}は、中国で紀元前6世紀から5世紀に{{ruby|孔子|こうし}}という人が始めた教えです。宗教としての性格もあるので{{ruby|儒教|じゅきょう}}とも言います。 :儒学は、紀元前2世紀からずっと、中国の王朝で正統とされた学問です。内容を伝えることは、簡単ではありませんが、この教えの特徴をよく伝える『{{ruby|礼記|らいき}}<ref>儒学の重要な書物の一つです。</ref>』の言葉「{{ruby|修身|しゅうしん}}、{{ruby|斉家|せいか}}、{{ruby|治国|ちこく}}、{{ruby|平天下|へいてんか}}」をあげておきましょう。意味は、「自分の行動を正しくし、家族がばらばらではなく、国がおさまるようであれば、世界には争いがなくなる」という意味です。このように、儒学の目標は天下が平和におさまることですが、そのためには、各個人が正しい行いをしていかなければならないというものです。 :儒学は、日本にも中国との交流とともに伝わりました。[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#漢字伝来|漢字の伝来]]の時に、王仁は儒教で最も重要な書物である『{{ruby|論語|ろんご}}』を『{{ruby|千字文|せんじもん}}』という書物とともに伝えたとされています。奈良時代から平安時代にかけての律令制の時代にも、儒教の学校がありました。また、鎌倉時代から室町時代にかけては、主に禅宗の寺院で、中国からの書物を使って研究がされていました。 :江戸時代になると、仏教から独立し学問として研究されるようになります。 :儒学の中でも、江戸時代に中心となったのは、13世紀に{{ruby|朱熹|しゅき}}が完成した{{ruby|朱子学|しゅしがく}}という学問です。朱子学は、国や社会の秩序を重んずるという特徴があり、明や清の国の学問となっていました。中国からの儒教に関する書物も朱子学のもので、また、朱子学は、家庭では親を大切にすること({{ruby|孝|こう}} - 「{{ruby|親'''孝'''行|おやこうこう}}」の「孝」です)と、主君にはさからわずつかえること({{ruby|忠|ちゅう}})が大事であるとといたので、下克上の世の中が終わって、安定した江戸時代の社会に合っていたのです。 :朱子学は、このように、江戸時代の学問の中心になったのですが、朱子学は形式ばった学問という特徴があって、{{ruby|実践|じっせん}}を重要と考えた{{ruby|陽明学|ようめいがく}}なども広く受け入れられました。 </small> |}</div> == 脚注 == 以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small> <references/></small> ---- {{前後 |type=章 |[[小学校社会/6学年/歴史編]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう|日本の歴史の流れ]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ|江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代|明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代]] }} [[Category:社会|しようかつこうしやかい6]] [[Category:小学校社会|6ねん]] [[Category:小学校社会 歴史|#10]] 416bq2qtet9lkr2z2zsy77w05whjl6m モールス信号 0 33498 207316 195497 2022-08-27T05:54:14Z 2409:12:67A3:2600:F0B9:6AD9:4A20:300A wikitext text/x-wiki {{スタブ}} ここではモールス信号の概要とその使い方を説明します。詳しくは下を見てください ==モールス信号の基本情報== ===モールス信号とは=== モールス信号とは、モールス符号を用いた通信手段のことで、短点(・)と長点(ー)を使う。<ref group="注">短点は「トン」、長点は「ツー」と言われることがある</ref> ===歴史=== 1837年に米国の発明家サミュエル・フィンレイ・ブリース・モールスが考案したのがはじまり。 その後改良に改良を重ね、日本語仮名版が1855年に完成。だがこれは現行のものではなく、その後も1869年に子安峻が考案したものの、これも現行のものではない。 それでは現行のものは何かというと、1873年の吉田正秀と寺崎遜が考案したものがもとになっている。 ==モールス信号== ===アルファベット=== {| class="wikitable" style="background:white" !文字 !符号 !信号音 !文字 !符号 !信号音 |- |A |・- |{{Audio|Morse-A.ogg|Aの符号|help=no}} |N |-・ |{{Audio|Morse-N.ogg|Nの符号|help=no}} |- |B |-・・・ |{{Audio|Morse-B.ogg|Bの符号|help=no}} |O |--- |{{Audio|Morse-O.ogg|Oの符号|help=no}} |- |C |-・-・ |{{Audio|Morse-C.ogg|Cの符号|help=no}} |P |・--・ |{{Audio|Morse-P.ogg|Pの符号|help=no}} |- |D |-・・ |{{Audio|Morse-D.ogg|Dの符号|help=no}} |Q |--・- |{{Audio|Morse-Q.ogg|Qの符号|help=no}} |- |E |・ |{{Audio|Morse-E.ogg|Eの符号|help=no}} |R |・-・ |{{Audio|Morse-R.ogg|Rの符号|help=no}} |- |F |・・-・ |{{Audio|Morse-F.ogg|Fの符号|help=no}} |S |・・・ |{{Audio|Morse-S.ogg|Sの符号|help=no}} |- |G |--・ |{{Audio|Morse-G.ogg|Gの符号|help=no}} |T |- |{{Audio|Morse-T.ogg|Tの符号|help=no}} |- |H |・・・・ |{{Audio|Morse-H.ogg|Hの符号|help=no}} |U |・・- |{{Audio|Morse-U.ogg|Uの符号|help=no}} |- |I |・・ |{{Audio|Morse-I.ogg|Iの符号|help=no}} |V |・・・- |{{Audio|Morse-V.ogg|Vの符号|help=no}} |- |J |・--- |{{Audio|Morse-J.ogg|Jの符号|help=no}} |W |・-- |{{Audio|Morse-W.ogg|Wの符号|help=no}} |- |K |-・- |{{Audio|Morse-K.ogg|Kの符号|help=no}} |X |-・・- |{{Audio|Morse-X.ogg|Xの符号|help=no}} |- |L |・-・・ |{{Audio|Morse-L.ogg|Lの符号|help=no}} |Y |-・-- |{{Audio|Morse-Y.ogg|Yの符号|help=no}} |- |M |-- |{{Audio|Morse-M.ogg|Mの符号|help=no}} |Z |--・・ |{{Audio|Morse-Z.ogg|Zの符号|help=no}} |} 日本語のモールス信号はあまり知られていないので「・・・/ーーー/・・・(SOS)」だけでも覚えておけばいい。 ===数字=== {| class="wikitable" style="background:white" ! 文字 ! 符号 ! 信号音 |- | 1 | ・---- | <!-- {{Audio|1 number morse code.ogg|1の符号|help=no}} : 1 ではない --> |- | 2 | ・・--- | {{Audio|2 number morse code.ogg|2の符号|help=no}} |- | 3 | ・・・-- | {{Audio|3 number morse code.ogg|3の符号|help=no}} |- | 4 | ・・・・- | <!-- {{Audio|4 number morse code.ogg|4の符号|help=no}} : 5 になっている --> |- | 5 | ・・・・・ | <!-- {{Audio|5 number morse code.ogg|5の符号|help=no}} : これは H --> |- | 6 | -・・・・ | <!-- {{Audio|6 number morse code.ogg|6の符号|help=no}} : これは B --> |- | 7 | --・・・ | {{Audio|7 number morse code.ogg|7の符号|help=no}} |- | 8 | ---・・ | {{Audio|8 number morse code.ogg|8の符号|help=no}} |- | 9 | ----・ | <!-- {{Audio|9 number morse code.ogg|9の符号|help=no}} : 9 になっていない --> |- | 0 | ----- | <!-- {{Audio|0 number morse code.ogg|0の符号|help=no}} : 9 のようになっている --> |} ===日本語仮名=== {| class="wikitable" style="background:white" ! 文字 ! 符号 ! 文字 ! 符号 |- | イ | ・- | ノ | ・・-- |- | ロ | ・-・- | オ | ・-・・・ |- | ハ | -・・・ | ク | ・・・- |- | [[に|ニ]] | -・-・ | ヤ | ・-- |- | ホ | -・・ | マ | -・・- |- | ヘ | ・ | ケ | -・-- |- | ト | ・・-・・ | フ | --・・ |- | チ | ・・-・ | コ | ---- |- | リ | --・ | エ | -・--- |- | ヌ | ・・・・ | テ | ・-・-- |- | ル | -・--・ | ア | --・-- |- | ヲ | ・--- | サ | -・-・- |- | ワ | -・- | キ | -・-・・ |- | カ | ・-・・ | ユ | -・・-- |- | ヨ | -- | メ | -・・・- |- | タ | -・ | ミ | ・・-・- |- | レ | --- | シ | --・-・ |- | ソ | ---・ | ヱ | ・--・・ |- | ツ | ・--・ | ヒ | --・・- |- | ネ | --・- | モ | -・・-・ |- | ナ | ・-・ | セ | ・---・ |- | ラ | ・・・ | ス | ---・- |- | ム | - | ン | ・-・-・ |- | ウ | ・・- | [[゛]]濁点 | ・・ |- | ヰ | ・-・・- | [[゜]]半濁点 | ・・--・ |} ==注釈== <references group="注"/> rd69uk0aikh3azdoxu65x994eh4hsoa 小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代 0 33499 207304 205085 2022-08-27T02:21:00Z Mtodo 450 wikitext text/x-wiki {{Nav}} {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|6学年|歴史編|frame=1}} {| class="wikitable" style="width:100%" |+ この章の概要 |<!--黒船来航から倒幕、明治政府成立までー幕末から明治時代初期 (ケ) 黒船の来航,廃藩置県や四民平等などの改革,文明開化などを手掛かりに,我が国が明治維新を機に欧米の文化を取り入れつつ近代化を進めたことを理解すること。--> ★時代区分:幕末、明治維新、明治時代前期</br> ★取り扱う年代:1853年(ペリー来航)から1889年(大日本帝国憲法の発布)まで ; 黒船来航と江戸幕府の終わり : 日本が鎖国をしている間、ヨーロッパやそれを受けたアメリカ大陸では大きな社会変革が起こっていました。「'''産業革命'''」です。産業革命によって、石炭を使って大量の製鉄ができ、蒸気機関によって大きな力を得て、蒸気機関車や蒸気船といった、大量かつ高速輸送が可能となりました。欧米各国は、産業革命で巨大になった経済力を背景に世界中に船を出すなどして、製品の{{ruby|市場|しじょう}}を求めるようになりました。 : 1853年'''アメリカ合衆国'''(米国)の提督'''ペリー'''が4隻の蒸気船('''黒船''')を引き連れ、浦賀に来航し日本に開国を要求しました。幕府は大混乱の中、翌年の再来日をうけ、米国の船舶が港湾を利用することなどを認める'''日米和親条約'''を結び、その後、米国以外のヨーロッパ各国とも同様の条約を結び、1639年以来の鎖国は解かれました。欧米各国はさらに日本との貿易の条件などに関する通商条約の締結を求めます。日本国内では天皇が治める国であって(尊皇)外国人を入れるべきではない(攘夷)という考え('''尊王攘夷''')が全国的に起こり、幕府の動きがこれに反するものとして対立し、大老'''井伊直弼'''はこれを弾圧しました。井伊直弼は'''通商条約'''締結を強行しますが、尊王攘夷派に暗殺されます。日本は長い間他の国と外交をすることがなかったので、国際法の知識に乏しく、この時に結ばれた通商条約は、「'''治外法権'''」があって、「'''関税自主権'''」を認められない日本にとって不平等な条約でした。'''長州藩'''と'''薩摩藩'''は尊皇攘夷の代表でしたが、欧米諸国に日本は大きく遅れており、それに追いつくには、「攘夷」ではなく積極的に外国に学ぶことであり、幕府の仕組みではうまくいかないと考えて、同盟して(薩長同盟)、幕府をうちたおすこと(倒幕)に方針を変えました。1867年第15代将軍'''徳川慶喜'''は、征夷大将軍を辞任し('''{{ruby|大政奉還|たいせいほうかん}}''')、江戸城は、薩摩の西郷隆盛らの率いる新政府に明け渡されました。こうして、江戸幕府は終わり、武士の世の中が終わります。 ; 明治維新と文明開化 : 幕府が倒れた後、薩摩藩の'''西郷隆盛'''、'''大久保利通'''、長州藩の'''木戸孝允'''らの働きによって'''明治天皇'''を中心とした新政府がつくられました('''王政復古''')。明治天皇の名による'''五箇条の御誓文'''が発布され新政府の方針がしめされ、様々な改革に取り組みます。元号が「'''明治'''」に改められたことをうけて、この改革を「'''{{ruby|明治維新|めいじいしん}}'''」といいます。新政府は幕府だけでなく、藩も廃止し、政府が全国を直接治める形に変えました('''廃藩置県''')。また、'''四民平等'''をうたって、武士の特権を否定しました。新政府は、法律・裁判・軍隊・警察・経済・金融・税制・工業・鉄道・海運・郵便・電信・学校・暦など数多い分野で、欧米を模範にした改革を行いました。 : これらの改革によって、たとえば、布地が安く手に入るようになったり、蒸気機関車で短時間で遠くまで移動できるようになるなど人々の生活は大きく便利に変わりました('''文明開化''')。また、身分制をなくしたので、生まれた家に関わらず、個人の努力によって政治をはじめとする社会のあらゆる分野にかかわることができるようになりました。このような社会にあった「自由」や「平等」など「権利」「人権」といった欧米の考え方が'''福沢諭吉'''などにより紹介されました。 |} == 黒船来航と江戸幕府の終わり == === 世界の変化1 - 産業革命 === [[File:Maquina vapor Watt ETSIIM.jpg|thumb|250px|ワットの蒸気機関、最初は炭鉱の水の排出に使われました。]] [[File:First passenger railway 1830.jpg|thumb|250px|スティーブンソンが実用化した蒸気機関車]] :日本が鎖国をしている間、ヨーロッパやそれを受けたアメリカ大陸では大きな社会変革が起こっていました。 :17世紀のヨーロッパは各地で大きな戦争が起き、そこでは、多くの銃や大砲が使われました。銃や大砲は鉄でできていますから、作るのに大量の鉄が必要となりました。このころまでは、鉄を作るために木炭を使っていたためヨーロッパの国々の森林の伐採が進みました。イギリスでは国内の森林のほとんどが伐採され、木炭は輸入に頼るしかなくなりました。イギリスは、石炭が豊富に取れる国だったので木炭の代わりに石炭を使う工夫にとりくみました<ref>石炭には、イオウやリンが多く含まれていて、製鉄に使うと鉄がもろくなるので、そのまま使うことはできませんでした。</ref>。そうして、18世紀初頭に、石炭を蒸し焼きにしたコークスが発明され、製鉄に石炭が使われるようになります。 :コークスの発明で、大量の製鉄が可能になり、同時に大量の石炭を採掘しなければならなくなりました。石炭は地下資源なので掘りすすめると、地下水が大量に出て、さらに進むことができなくなります。これを解決するのに、'''蒸気機関'''が開発されました。水を温めて蒸気にすると水の体積に比べて何倍も{{ruby|膨張|ぼうちょう}}します、逆に、冷やすと水に戻りますので{{ruby|収縮|しゅうしゅく}}します。この膨張と収縮を交互に行うことで、水を温める熱を運動に変えるのが蒸気機関です。炭鉱では、蒸気機関でポンプを動かし水を汲み出しました。特に1776年ジェームズ・ワットが開発した蒸気機関は、小型で強力なもので、それ以降の蒸気機関の元となりました。 :ワットの蒸気機関は石炭を燃やすだけで大きな力を得ることができ、当時、おこりつつあった'''{{ruby|繊維|せんい}}工業'''の生産力を爆発的に向上させました。繊維工業には、大きく分けて、細かい繊維をまとめて糸にする工程({{ruby|紡績|ぼうせき}})と、糸を縦横に組み合わせて布にする工程({{ruby|織布|しょくふ}})があります。紡績には、細かい繊維をくるくるとより合わせて長い糸を作る作業があり、また、織布には横に交互に張った縦糸に横糸を通して力をかけてまとめるという作業があります。これらの作業は、もともと人力でやっていたため、大量の生産は期待できませんでした。一部には水車を使った水力も使われていましたが、工場の立地が限られるという難点がありました。この動力源として、ともに蒸気機関が用いられるようになったのです。 :また、蒸気機関を動力とした乗り物が開発されました。19世紀の初頭には、蒸気機関を船の動力とした'''蒸気船'''がアメリカ人ロバート・フルトンによって、'''蒸気機関車'''を使った'''鉄道'''<ref>なぜ、「鉄道」だったかを考えてみましょう。車輪をつけた乗り物は、でこぼこ道を走るのは大変ですし、スピードを出せません。でこぼこ道をならして舗装しなければなりませんが、これを、いつも維持しておくのは大変です。そこで、車輪がとおる場所だけ、でこぼこでないようにすればいいと考えたのです。その車輪が通る部分だけ丈夫なもので作っておけば、道全体を常に整備しておく必要はありません。これが、鉄路(レール)の考え方です。この背景には、コークスにより、鉄が安く大量に手に入るようになったことがあります。</ref>がジョージ・スチーブンソンによってイギリスで実用化されました。 :こうして、鉄や、繊維や布といった工業製品を大量に製造し、それを鉄道や蒸気船で大量・安価かつ高速に輸送することが可能になりました。これを、「'''産業革命'''」と言います。産業革命は、イギリスにはじまって、ヨーロッパ各国、大西洋を越えてアメリカでもおこりました<ref>同じ時期に、ヨーロッパやアメリカ大陸では、身分に関係なく人々が国の政治に参加するという、もうひとつの大きな社会変革が起こっていました。この変革については、[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#世界の変化2 - 市民革命|次の章]]でお話しします。</ref>。 :<u><span id="帝国主義"/>欧米各国は、産業革命で経済力が大きくなりましたが、さらにそれを大きくするため、国内で生産する工業製品の{{ruby|市場|しじょう}}と原材料となる農産物や鉱物資源を欧米諸国の外に求めるようになりました。国外の市場や原材料を確保する方法の一つとして、アジアやアフリカの多くの国や地域が、工業化が進んだイギリスやフランスといったヨーロッパの一部の国の植民地となりました。</u> :例えば、この頃、インドは、イギリスからの安く良質な綿製品が流れ込み、国内の綿工業は衰退する一方で、輸入などにあたっての資金はイギリスから貸し付けられたため、イギリスの影響力が極めて強い状態になっていたところ、1857年の反乱がきっかけとなって、イギリスの植民地となりました。また、中国(清)からは、大量の茶を輸入していたのですが、代わりに清に輸出するものがなく、麻薬であるアヘンを密かに売っていました。そのため、1840年イギリスは清と戦争('''アヘン戦争'''<span id="アヘン戦争"/>)になり、香港を領土としたりしていました。この状況は、日本にも伝わり、一部の人たちはヨーロッパ各国に対して警戒するようになっていました。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="電気"/>「電気」の研究<small> :「産業革命」の中心となったものは、鉄鋼・蒸気機関・紡績・織機などですが、同時に、これと並行して「電気」も研究されていました。 :「電気」は、はじめ、「ある種のものをこすると、軽いゴミとかが集まったりしたり、たまに、ビリッと痛みを感じる」くらいの経験から研究がなされるようになります。この時こすったものはコハク(琥珀)でした。コハクはギリシア語でエレクトロンと言います。そこから、このこすった時のモヤモヤした物を「エレクトリクス」と呼ぶこととし、それが、後に英語のelectricity(エレクトリシティ; 電気)となります。17世紀に入って、こすって「静電気」を作り出すことができる機械を作ったり、そのビリビリする目に見えないものは、金属を通して移動をして、加工をほどこしたガラス瓶にためるということができることがわかりました。1776年に[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#平賀源内|平賀源内]]が組み立てた「エレキテル」もこのような機械の一つです。ただ、そのビリビリは何かの役に立つかは全くわかりませんでした。数少ない例外の一つが、アメリカのベンジャミン・フランクリンの話で、雷は、このビリビリの一種だと考え、実際に実験をしてこれを証明して、避雷針を発明したことです。 :18世紀から19世紀にかけて、イタリアのボルタが、静電気のようにこすってではなく、化学変化から連続して電気を取り出せるようになりました。「電池」が発明されたのです。 :このことで、安定して電気を得ることができるようになり、さまざまな実験ができるようになりました。その実験の中から、電気が磁気(磁石の力)と関係することがわかって、1825年電磁石が発明されます。そして、1831年ファラデーが電気と磁気と運動の関係を発見します。この発見は後にモーターと発電機の発明につながります。 :モーターと発電機の発明はもう少し後の時代になりますので、少し見方を変えます。電磁石の発明は、電気と運動を関連づけることになります。つまり、電気が通ると電磁石が磁力を持って鉄などを引きつけます、電気を切るとそれは離れます。電気は遠いところでもほぼ同時に動きを伝えることができます。つまり、手元のスイッチのオン/オフを遠いところでほぼ同時に知ることができ、そして、いくつかのオン/オフのタイミングで文字を伝えるということができるということです。これが、「電信」の仕組みで、1830年代から40年代にかけて実用化しました。はじめて、電気が人の生活の役に立った例でしょう<ref>ボルタが電池を発明した直後の1805年フランスで電気メッキの実験が成功していました。しかし、この事実は隠されていたため、これと関係なく1839年にイギリスとロシアで発見され翌年特許が取られて実用化しました。</ref><ref>なお、モーターが実用化になるのは1860年代、電球と電話が発明されるのは1870年代です。</ref>。 : :電気は、「目には見えないけれども、ものをこすると何かビリビリするものができる」とわかってから、何の役にも立たなかったのに、科学者たちは興味を持ち続け約200年の時をへて、ようやく、人の暮らしの役に立ちました。それから電気を使ったさまざまな発明がなされ、皆さんの生活に欠かせないものになっていることは、よく知っているかと思います。興味を持って研究していくことの大切さがよくわかる話ですね。 </small> |}</div> {{-}} === 黒船来航と開国 === [[ファイル:Commodore-Perry-Visit-Kanagawa-1854.jpg|thumb|250px|黒船来航]] :欧米で産業革命にともなう変化が起こっている中で、鎖国をしている日本に対しても、イギリスやロシアから鎖国をやめるよう何度か使者が来ましたが、幕府はこれを許しませんでした。 :このようななか、<span id="黒船来航">1853年7月8日'''アメリカ合衆国'''<ref>アメリカ合衆国は、1772年イギリスから独立した新しい国ですが、1846年に北米大陸西岸までが国土となり、太平洋へ進出しました。このころの米国の太平洋への関心事は油を取るための捕鯨でした。日本には、捕鯨船の寄港地(遠洋航海での水・食料・たき木などを手に入れる港)を期待していました。</ref>(米国)の提督'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#マシュー・ペリー|ペリー]]'''が4隻の蒸気船('''黒船''')を引き連れ、{{ruby|浦賀|うらが}}に来航し日本に開国を要求しました。 :ペリーは、それまでの各国の対応とちがい、東京湾を北上したり空砲を発射したりするなど、幕府に対して強硬に接し、翌年の返事を約束させて、7月17日浦賀から去りました。 :幕府では大混乱となり<ref>ペリーが浦賀から去った10日後の7月27日、病床にあった第12代将軍家慶が死去、将軍後継者の家定は病弱でこの混乱を抑えられる人ではありませんでした。</ref>、幕府内だけでは対応ができず、8月5日、老中筆頭の{{ruby|阿部正弘|あべまさひろ}}は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも外交についての意見を求めました。これは江戸幕府が始まって以来初めてのことでした。しかしながら、良案は出ない一方で大名などに、幕府に意見をしても良いという風潮が生まれました。 :ペリーは、返事を翌年にするとの約束のところ、日本での混乱を聞きつけ半年後の1854年2月13日に再び浦賀に現れました。幕府はペリーと交渉し、<span id="開国">3月31日米国の船舶が港湾を利用することなどを認める'''{{ruby|日米和親条約|にちべいわしんじょうやく}}'''を結びました。その後、米国以外のヨーロッパ各国とも同様の条約を結び、1639年以来の鎖国は解かれました('''開国''')。 :欧米各国はさらに日本との貿易の条件などに関する通商条約の締結を求めます。日本国内では天皇が治める国であって({{ruby|尊皇|そんのう}})外国人を入れるべきではない({{ruby|攘夷|じょうい}})という考え('''尊王攘夷''')が全国的に起こり、幕府の動きがこれに反するものとして対立し、大老'''{{ruby|井伊直弼|いいなおすけ}}'''はこれを弾圧しました('''{{ruby|安政|あんせい}}の{{ruby|大獄|たいごく}}'''<span id="安政の大獄">)。<span id="通商条約">井伊直弼は1858年アメリカとの間で'''{{ruby|日米修好通商条約|にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく}}'''、イギリス・フランス・オランダ・ロシアとの間で同様の'''通商条約'''の締結を強行しますが、翌年尊王攘夷派に暗殺されます('''{{ruby|桜田門外|さくらだもんがい}}の{{ruby|変|へん}}''')。日本は長い間他の国と外交をすることがなかったので、国際法の知識に乏しく、この時に結ばれた通商条約は、「'''{{ruby|治外法権|ちがいほうけん}}'''<ref><span id="治外法権">外国人が犯罪を犯した時に、その国の法律と裁判所ではなくて、犯罪を犯した外国人の本国の法律で、その国に駐在する本国の役人({{ruby|領事|りょうじ}})により裁判がなされる権利をいいます。「{{ruby|領事裁判権|りょうじさいばんけん}}」ともいいます。加害者側の国の法律で、加害者側の裁判所が裁くのですから、被害者側から見て不公平な判決がなされる、または、そう見えるおそれがあります。</ref>」があって、「'''{{ruby|関税自主権|かんぜいじしゅけん}}'''<ref><span id="関税自主権">{{ruby|関税|かんぜい}}とは、輸入する時に輸入国がかける税金です。主に、国外から安い品物が入ってくると、国内の産業が成り立たなくなるため、国内産業の保護の目的でかけられます。普通は、輸入国は自由に関税をかけたり、その税率を決めたりできるのですが、この通商条約により、自由に決めることができなくなっていました。</ref>」を認められない日本にとって不平等な条約でした。 === 江戸幕府の終わり === :もともと、江戸幕府では、外様大名は幕府の政治に口を出すことはできなかったのですが、開国にあたって、意見を求めたことと、その後幕府が騒動をおさめられなかったことから、各地の大名の中には、幕府の政治に参加しようとしたり、幕府の政治を批判するものも見られるようになりました。また、開国と条約締結にあたって、幕府は朝廷(天皇)の許可を求めたため<ref>江戸幕府の仕組みとして、このような場合に、朝廷に許可を求める必要はなかったし、実際求めませんでした。形式的に許可が必要な時には、幕府は朝廷を強制して許可を出させていました。開国にあたって幕府は、自分で決められないところを朝廷に責任を移した結果、このようになりました。</ref>、「尊皇攘夷」を唱え、幕府の開国や条約改正に反対する各地の武士などが京都に集まっていました。 :'''長州藩'''<ref>長門国と周防国(現在の山口県)を領有する、毛利家を藩主とする藩です。</ref>には、'''{{ruby|吉田松陰|よしだしょういん}}'''という思想家が現れ、'''{{ruby|松下村塾|しょうかそんじゅく}}'''を開いて長州藩の若者に尊王攘夷を説きました。松蔭は、[[#安政の大獄|安政の大獄]]で処刑されますが、'''{{ruby|高杉晋作|たかすぎしんさく}}'''や{{ruby|桂小五郎|かつらこごろう}}(後の'''{{ruby|木戸孝允|きどたかよし}}''')らの弟子たちは京都などで尊皇攘夷の運動を繰り広げます。 :'''薩摩藩'''<ref>薩摩国と大隅国(現在の鹿児島県)と日向国(現在の宮崎県)の一部を領有する、島津家を藩主とする藩です。</ref>では、'''{{ruby|島津斉彬|しまづなりあきら}}'''という藩主が、海外の状況などを研究し<ref>斉彬は、もともと蘭学に興味を持つなど、知的好奇心が旺盛な人でしたが、黒船来航にあたっては、浦賀に来航する前、当時、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#琉球王国|薩摩藩の強い影響下にあった琉球国]]に立ち寄るなどしていたため、幕府とは別の情報を得ていたと考えられます。</ref>、同じ尊皇攘夷でも、攘夷とは国として他国の支配を受けずに独立してやっていくことだと考え、それを成功させるには、国を強く豊かにさせる必要があると考えていました。その考えのもと、薩摩藩で、後に{{ruby|富国強兵|ふこくきょうへい}}や{{ruby|殖産興業|しょくさんこうぎょう}}と呼ばれるようになる政策に着手し、また幕府に働きかけて国政改革にも貢献しました。斉彬は1858年に亡くなりますが、'''{{ruby|西郷隆盛|さいごうたかもり}}'''や'''{{ruby|大久保利通|おおくぼとしみち}}'''ら家臣が、その思想を受け継ぎます。 :長州藩と薩摩藩は幕府との関係で敵対することもありましたが、1863年から1864年にかけて、それぞれヨーロッパの艦隊と戦い大きな被害を出すという共通の経験を経て<ref>この時、銃火器の差の大きさが痛感されました。日本では、まだ、安土桃山時代の火縄銃がそのまま使われていましたが、欧米では、射程が長く、命中度も高く、取り扱いが簡単な銃器が大量に存在していました。</ref>、欧米諸国に日本は大きく遅れており、それに追いつくには、西洋諸国との付き合いを避けるという「攘夷」ではなく積極的に外国に学ぶことが必要であると考えるようになりました。そうして、現在の幕府の仕組みではうまくいかないとして、同盟して({{ruby|薩長同盟|さっちょうどうめい}}<ref>これを仲介したのが、{{ruby|坂本龍馬|さかもとりょうま}}と言われています。</ref>)、攘夷から幕府をうちたおすこと({{ruby|倒幕|とうばく}})に方針を変えました。 :[[File:Tokugawa yoshinobu.jpg|thumb|200px|第15代将軍徳川慶喜]] :開国や通商条約の締結にあたって、幕府がしっかりした方針を示せなかったことは、全国の大名に不安をもたらしました。開国に伴って海外の様子が伝わり、[[#帝国主義|イギリスやフランスが多くの国や地域を植民地にしていったこと]]も知られるようになり、このままでは日本も植民地にされてしまうということも恐れられるようになりました。また、開国に伴って各大名が近代兵器を海外から買い付けたことや、金が海外へ流出したこと<ref>日本には{{ruby|佐渡金山|さどきんざん}}など世界有数の金鉱山があって金を豊富に持っていました。一方で欧米諸国ではメキシコなどで銀が大量に採掘されていて、銀の価値は比較的低いものでした。その結果、日本では金と銀を1:5で交換していたのですが、欧米では1:15で交換していました。そこで、欧米の商人たちは、銀で日本の金を買って持ち出したため、日本から大量の金が国外に流出しました。そして、日本では金の価値が上がり、銀の価値は下がることとなります。銀は幕府の公共事業の報酬などに使われており、庶民もよく手にするものでしたが、その価値が下がり、他方、大名や大商人間の取引や一部の税の支払いは、金で決済されることが多かったのですが、金が上がったため、その調達の費用が増えました。</ref>で、物価が上がって庶民の暮らしは苦しくなり、世の中は騒然としました。このようになっても、幕府は諸大名をまとめられず、効果的な政策を行うこともできなくなっていました。 :このような中、1867年第15代将軍'''{{ruby|徳川慶喜|とくがわよしのぶ}}'''が、征夷大将軍を辞任し('''{{ruby|大政奉還|たいせいほうかん}}''')、260年以上続いた江戸幕府は終わりを告げます。慶喜は、大名が相談して政治を進めることを期待して、慶喜自身もそれに徳川家の代表として参加するつもりでしたが、西郷らは、天皇中心の政府(新政府)を作るために('''{{ruby|王政復古|おうせいふっこ}}''')、翌1868年、江戸幕府をはじめとして、明治政府に従わない大名を従えるため戦争を起こしました('''{{ruby|戊辰戦争|ぼしんせんそう}}''')<ref name="新政府">徳川家は、将軍職と無関係に約400万石の経済力を持っていました。天皇家と全ての公家を合わせても10万石、薩長を合わせても100万石程度なので、徳川家がある限り薩長が主導権を握ることはあり得ませんでした。また、幕藩体制は、徳川幕府が格段に強い権力と財力を持っていたとはいえ、基本的には、大名の連合であって、欧米諸国に追いつくためには、各々の大名が持つ財力を一つの政府にまとめる必要がありました。討幕に加えて、廃藩置県をして、全ての税金が政府に集まり仕組みが作られて初めて、鉄道や官営工場などの投資ができるようになったのです。</ref>。西郷らは、公家の{{ruby|岩倉具視|いわくらともみ}}などを味方につけ、天皇の権威({{ruby|錦|にしき}}の{{ruby|御旗|みはた}})をもって、天皇の軍隊として幕府を攻めました。新政府軍は、薩摩藩及び長州藩を中心として、後に土佐藩<ref>土佐国(現在の高知県)を領有する、山内家を藩主とする藩です。坂本龍馬の出身地でもあります。</ref>や肥前藩(佐賀藩)<ref>肥前国東部(現在の佐賀県)を領有する、鍋島家を藩主とする藩です。</ref>が加わります。長州藩では、武士だけではなく、農民他庶民も軍に加わりました({{ruby|奇兵隊|きへいたい}})。この戦争で中心となった、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩の出身者が、明治政府の中心(「{{ruby|薩長土肥|さっちょうどひ}}」)となります。 :新政府軍は、京都から東に進んで、江戸城を攻めようとしましたが、幕府を代表する'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#勝海舟|{{ruby|勝海舟|かつかいしゅう}}]]'''が、西郷隆盛と交渉して、江戸城は新政府に明け渡されました。その後、東北北越地方の大名との戦いや、函館で旧幕臣らとの戦いがありましたが、新政府軍が勝利し、1869年5月戊辰戦争は終わります。 {{-}} == 明治維新と文明開化 == === 明治維新と武士の社会の終わり === [[File:Saigo Takamori.jpg|thumb|160px|西郷隆盛]] [[File:Toshimichi Okubo 4.jpg|thumb|160px|大久保利通]] [[File:KIDO TAKAYOSHI.jpg|thumb|160px|木戸孝允]] : こうして、'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#西郷隆盛|西郷隆盛]]'''、'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#大久保利通|大久保利通]]'''、'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#木戸孝允|木戸孝允]]'''(この3人を「維新の三傑」と言います)らの働きによって'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#明治天皇|{{ruby|明治天皇|めいじてんのう}}]]<ref>1868年[[小学校社会/6学年/歴史編/はじめに#元号|元号]]が明治に変わるときに、天皇ひとりについて一つの元号を用いることが定められました({{ruby|一世一元|いっせいちげん}})。「○○天皇」という呼び方は、その天皇が亡くなってからの呼び方です。明治以降の天皇には、「○○」の部分に在位した元号がきます。</ref>'''を中心とした新政府がつくられました。明治天皇の名による'''{{ruby|五箇条|ごかじょう}}の{{ruby|御誓文|ごせいもん}}'''が発布され新政府の方針がしめされ、様々な改革に取り組みます。元号が「'''明治'''」に改められたことをうけて、この改革を「'''{{ruby|明治維新|めいじいしん}}'''」といいます。 ::なお、これ以降は、日本の出来事については西暦と元号を並べて記述していきます。明治以降は、元号を10年区切り(大正は15年を一区切り)にしていくと時代の特徴が理解しやすいところがあるからです。 ::また、[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#呼称|これまでの記述]]と違って、個人を姓のみであらわすことがあります。 :新政府は、[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#律令制|律令制の仕組み]]を元にした{{ruby|太政官|だじょうかん}}という役所で政治を行い、日本中から広く優秀な人たちを集めましたが、討幕を主導した4藩(薩長土肥)の出身者がその中心を占めていました。このような政治を{{ruby|藩閥|はんばつ}}政治と言います。各藩出身の主な政治家を以下にしめします。 :*薩摩藩 - 西郷隆盛、大久保利通、西郷{{ruby|従道|つぐみち}}、{{ruby|黒田清隆|くろだきよたか}}、{{ruby|松方正義|まつかたまさよし}} :*長州藩 - 木戸孝允、[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#伊藤博文|{{ruby|伊藤博文|いとうひろぶみ}}]]、{{ruby|井上馨|いのうえかおる}}、{{ruby|山縣有朋|やまがたありとも}} :*土佐藩 - [[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#板垣退助|{{ruby|板垣退助|いたがきたいすけ}}]]、{{ruby|後藤象二郎|ごとうしょうじろう}} :*肥前藩 - {{ruby|江藤新平|えとうしんぺい}}、{{ruby|副島種臣|そえじまたねおみ}}、[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#大隈重信|{{ruby|大隈重信|おおくましげのぶ}}]] :江戸幕府が滅びたのちも、徳川家の領地などは、「府」や「県」をおいて新政府がおさめることとなったのですが、そのほかの大名の領地はそのままで、大名が{{ruby|知藩事|ちはんじ}}<ref>名前は、すぐに、「藩知事」と改められます。</ref>と名を変えておさめていました。藩と府県は入り組んでおり行政には非効率でした。また、新政府直轄の府県は合わせても全国の4分の1程度で、新政府は改革の資金を得るのに苦労する一方で、各藩では財政が悪化し、廃藩を願い出るところもありました。 :こうしたことを受け、1871年(明治4年)新政府は幕府だけでなく、藩も廃止し、政府が全国を直接治める形に変えました(<span id="廃藩置県"/>'''{{ruby|廃藩置県|はいはんちけん}}''')<ref name="新政府"/>。また、'''四民平等'''<span id="四民平等"/>をうたって、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#武士と庶民|「名字帯刀」などの武士の特権]]を否定しました。廃藩置県によって、武士の世の中は完全に終わりました。 :「農工商」と言われていた庶民<ref>明治の戸籍においては「家」が単位となりました。戸籍に、もともと武士であった「家」は、「士族」とされ、その他、「農工商」の庶民の「家」は「平民」と書かれました。</ref>も、等しく姓をなのることができるようになり、同年制定の戸籍法に基づいて翌1872年(明治5年)近代的な戸籍<span id="戸籍制度"/>に記録されました。 :新政府は、[[#帝国主義|経済を発展させて軍事力の増強させなければ欧米諸国の植民地となる]]という危機感があり'''{{ruby|富国強兵|ふこくきょうへい}}'''を国の目標として、'''{{ruby|殖産興業|しょくさんこうぎょう}}'''<ref>経済を発展させるため、西洋諸国に対抗し、機械制工業、鉄道網整備、資本主義の育成により国家の近代化を推進する。</ref>をスローガンとして、法律・裁判・軍隊・警察・経済・金融・税制・工業・鉄道・海運・郵便・電信・学校・暦など数多い分野で、欧米を模範にした改革を行いました。 :[[File:Iwakura mission.jpg|thumb|280px|left|遣欧使節団<br/>左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通]]<span id="使節団"/> : :1871年(明治4年)から1873年(明治6年)にかけて、欧米の状況を学ぶため、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らを含めた約100名({{ruby|遣欧使節団|けんおうしせつだん}}、「岩倉使節団」ともいいます)が送られました。この使節団の帰国後、大久保利通や伊藤博文を中心に、改革が急速に進みました。 :また、欧米から高い科学技術を学ぶため、政府は、多額の予算を使って多くの外国人を指導者としてやとい入れました。この外国人たちを'''お{{ruby|雇|やと}}い外国人'''といいます<span id="お雇い外国人"/>。 : :以下に、この時期にどのような改革が行われたかを列挙します。 :;軍隊 ::天皇は、臣下に武士がいなかったため、明治4年(1871年)、薩摩・長州・土佐の各藩から、天皇警護の名目で兵が集められました。 ::同年の廃藩置県で武力を持った藩は消滅し、政府だけが軍事力を持つことになります。四民平等によって、武士は世襲の職業ではなくなり、また、軍人を志願するものだけでは、兵隊として数が全く足りないため、全国民の男子から兵士を集めるようにしました({{ruby|徴兵制|ちょうへいせい}}<span id="徴兵制"/>)。 ::1872年(明治5年)に太政官は徴兵{{ruby|告諭|こくゆ}}という法律を出し、翌1873年(明治6年)に徴兵令が施行されました。徴兵には、新たに導入された戸籍が用いられました。 ::徴兵令は、士族のプライドを傷つけるものであり<ref>後に起こる、[[#士族の反乱|士族の反乱]]の原因の一つとなります。</ref>、逆に平民にとっては、命をかけて戦うというのは思ってもいなかったことで、多くの国民には不安と不満を持ってむかえられました。 ::徴兵された兵士は、日本で6ヶ所に設けられた{{ruby|鎮台|ちんだい}}<span id="鎮台"/>に集められ、厳しい訓練と教育を受けます。そうして、後に述べる西南戦争などにあっても、元武士である士族に対しても戦える近代的軍隊に育ちました。 :;<span id="殖産興業"/>経済・金融 ::江戸時代には、貨幣を使って経済を回す仕組み({{ruby|貨幣経済|かへいけいざい}}<span id="貨幣経済"/>)はできあがっていましたが経済の中心はやはり米であり、また、貨幣も、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#江戸時代の文化#両替商|金(小判、分金)・銀(板銀、分銀)・銭(寛永通宝 など)がばらばらに流通する複雑な仕組み]]でした。この頃の欧米諸国は、お金の価値を{{ruby|金|きん}}の価値とする仕組み({{ruby|金本位制|きんほんいせい}})となって、単純で明確なお金の流れが確立し、経済の流れに勢いをつけていました。日本も1871年(明治4年)、新貨条例を制定し、通貨単位を「両」から「圓(円)」に切り替えて本位貨幣を金貨とし、金本位制度を採用することにしました。 ::金貨は重量があり、また、そのまま流通させると、傷がついたりしてすり減るおそれがあります。そこで、金貨を預かって代わりに紙の「預かり証」を発行する工夫がなされました。「預かり証」は、預けているところに持っていけば金貨と代えてもらえるので、金貨と同じようにお金として利用できます。この金貨を預かるところが「{{ruby|銀行|ぎんこう}}」です。そして、預かり証が「{{ruby|紙幣|しへい}}」です。銀行は、預かるため安全な金庫を持っていますから、金貨だけではなく、すぐには使わない紙幣も預かるようになります。預かって金庫の中にしまっておいても、預けていた人が大勢いれば、預けていた人が一斉に全部引き出すことはめったに起こりませんから、預かっているお金を貸し付けに使ったりできます。こうして銀行の仕組みができて、新しい事業を起こす元手を得る方法が新たに加わりました。 ::1872年(明治5年)このような役割を果たす銀行についての国立銀行条例を政府は制定しました。そして、翌1872年(明治5年)、国立銀行条例の制定にかかわった'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#渋沢栄一|{{ruby|渋沢栄一|しぶさわえいいち}}]]'''が日本最初の銀行である第一国立銀行を設立しました。また、渋沢は、第一国立銀行を、多くの人から資金を集める{{ruby|株式会社|かぶしきがいしゃ}}の仕組みを日本で初めて使って設立しました。 :;税制 ::[[#貨幣経済|貨幣経済の仕組み]]を作り上げたとはいっても、当時の日本で最大の産業はやはり稲作であり、税収はそれに頼らざるを得ませんでした。 ::しかし、江戸時代同様、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#米問屋|収穫した米を年貢として徴税する方法では、米の輸送や保管に費用がかかり、また、米の相場に税収が左右される]]など、国の財政を計画的に運営するには適当ではないため、1873年(明治6年)、土地の収穫量などを参考に地価を決め、それを証明する証書({{ruby|地券|ちけん}})を発行し、地価に対する一定割合(当初3%、後に2.5%)を現金で納税する方式を取り入れました。これを、{{ruby|地租|ちそ}}改正といいます。 ::地租改正は、同時に、江戸時代は禁止されていた農地の売買を公に認めることとなりました。 :;工業 ::明治政府は、欧米諸国に追いつくよう、蒸気機関などの動力や、織機などの機械を使った工業をおこす必要がありました。そこで、政府が出資して、近代的工場('''{{ruby|官営模範|かんえいもはん}}工場''')を作りました。 ::1872年(明治5年)群馬県にカイコの{{ruby|繭|まゆ}}から{{ruby|生糸|きいと}}を作る{{ruby|富岡製糸場|とみおかせいしじょう}}<ref>2014年世界遺産に登録されています。</ref>が作られ、1873年(明治6年)頃に深川セメント製造所など多くの官営模範工場ができました。<span id="ビール工場">1876年には札幌に[[#開拓使|{{ruby|開拓使|かいたくし}}]]{{ruby|麦酒醸造所|ばくしゅじょうぞうじょ}}というビール工場までできます。 ::これらの、官営模範工場は、民間で新たに作る工場のモデルとなり、やがて、民間だけで経営ができるようになると民間の資本家に売却されました。 [[File:First steam train leaving Yokohama.jpg|thumb|250px|浮世絵に描かれた開業当初の鉄道(横浜)]] :;鉄道等交通機関 ::;鉄道 :::1872年(明治5年)、日本初の鉄道路線である新橋駅 - 横浜駅間が、正式に開業しました。西日本では、明治7年(1874年)に大阪駅 - 神戸駅間が開通し、明治10年(1877年)に京都駅まで延伸しました。 :::鉄道は、当時開拓中であった北海道で、開拓推進のため、本土の各地域にさきがけて、1880年(明治13年)小樽 - 札幌間で開業しました。 :::<span id="北海道鉄道"/>明治10年代は、西南戦争の影響もあり、政府は資金不足で鉄道建設の進みは遅くなりましたが、徐々に路線は伸びてゆき、1889年(明治22年)、東京大阪間を結ぶ東海道本線が開通しました。 ::;市街地の交通 [[ファイル:JapaneseRickshaw.jpg|サムネイル|人力車(1897年)]] :::東京など市街地では、1870年(明治3年)発明された'''人力車'''が、{{ruby|駕籠|かご}}に代わって、人々の近距離の移動の手段となりました。人力車が普及するためには、市街地においても道路が整備される<ref>いわゆる{{ruby|舗装|ほそう}}です。現在のようにコンクリートやアスファルトをつかったものばかりではありませんが、でこぼこ道を平らにならし、つき固める必要もありましたし、雨が降って水がたまったり泥だらけのぬかるみにならないようにしなければなりませんでした。また、人力車などがすれちがえるように幅を確保する必要もありました</ref>必要があります。 :::また、1882年(明治15年)道路にレールを引いて、その上を走る'''鉄道馬車'''が運行を開始し市内大量輸送交通のさきがけとなります。 ::;海運 :::江戸時代は、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#廻船問屋|千石船]]を使って海上輸送がなされていましたが、開国後、欧米資本の船会社が最新の蒸気船を使って定期航路を開き、それまでの[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#廻船問屋|廻船問屋]]を圧倒し、海運業は独占されるおそれがありました。政府は、1872年(明治5年) 日本国郵便蒸気船会社を設立し、政府予算で蒸気船を購入し定期的な海上運送を開始します。1875年(明治8年) {{ruby|岩崎弥太郎|いわさきやたろう}}率いる三菱商会が、事業を引き継ぎ外資に頼らない海上運送ができるようになりました。 ::[[File:Maeshima.JPG|thumb|120px|left|前島密の肖像を使った1円切手]] :;郵便 ::1871年(明治4年)、郵便に関わる太政官布告が交付され、郵便制度が施行されました。この時、最初の郵便切手が発行されました。郵便役所はさらに横浜、神戸、長崎、函館、新潟と全国展開が図られ、江戸時代に地域のまとめ役だった名主に自宅を郵便取扱所(後に郵便局となります)とすることを要請、1873年(明治6年)に全国約1100箇所の名主が郵便取扱所となることを引き受けたことから、郵便制度は全国に拡大しました。 ::郵便制度を作り上げたのは、もともと幕臣であった{{ruby|前島密|まえじまひそか}}で、現代でもよく使う「切手」、「為替」、「葉書」などの言葉は、彼の考案によると言われています。前島密は「日本郵便の父」と言われ、その肖像は、1円切手に採用されています。 :;電信 ::1869年(明治2年)に横浜燈台役所と横浜裁判所の間に電信回線が敷設、1870年1月(明治2年12月<ref>この頃はまだ、[[#暦|暦は変更されていない]]ため、西暦と元号の月が1か月程度ずれます。</ref>)には、東京・横浜間で電信による電報の取り扱いが始まりました。1880年(明治13年)頃には大都市間、1890年(明治23年)頃には全国の県庁所在地が電信でつながりました。 ::1871年(明治4年)にはロシアのウラジオストクから長崎へ海底ケーブルが敷設され、シベリア経由でヨーロッパ、さらには大西洋横断電信ケーブルを経て米国とも通信が可能となりました。1873年(明治6年)には東京と長崎間に回線がひかれたので、東京から海外との通信が可能になりました。 :;学校<span id="学校"/> ::1872年(明治5年)、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である{{ruby|学制|がくせい}}が出されました。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校<ref>現在の中学校と高等学校にあたります。</ref>・小学校を設置することを計画し、身分や性別に区別なく、国民全てが学校教育を受けられることを目指しました。 ::高等教育においても、1877年(明治10年)、もともと、徳川幕府が近代化政策のために設置し、明治政府が引き継いだ開成学校と東京医学校を統合し、近代的な総合大学である'''東京大学'''<ref name="大学">東京大学は帝国大学・東京帝国大学をへて、現在の東京大学となります。1897年に京都帝国大学が設立されるまで、原則として「学位(大学教育を修了したという国際的な証明)」を授与できる唯一の大学でした。その例外として、札幌農学校においては、農学に関する学位が授与できるというものでした。</ref>が発足します。また、開拓に力を入れた北海道には、1876年(明治9年)に農業技術に関して大学に相当する<span id="札幌農学校">'''札幌農学校'''<ref name="大学"/>を設立しています<ref>札幌農学校は、現在の北海道大学の母体となります。</ref>。そこでは、[[#お雇い外国人|多くの外国人が雇われ]]、欧米の進んだ科学技術を、若者たちに教えました。札幌農学校で農業を指導したウィリアム・クラーク<ref>クラーク博士として知られ、「少年よ大志を抱け」という言葉で有名です。</ref>などが有名です。 ::高等教育は、民間においても、1868年(慶応4年)[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#福澤諭吉|{{ruby|福沢諭吉|ふくざわゆきち}}]]が政府にさきがけて近代的な高等教育の場である'''慶應義塾'''<ref>のちの慶應義塾大学。</ref>を設立し、それ以後、1875年(明治8年){{ruby|新島襄|にいじまじょう}}が'''同志社'''英学校<ref>のちの同志社大学。</ref>、1882年(明治15年)[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#大隈重信|{{ruby|大隈重信|おおくましげのぶ}}]]が'''東京専門学校'''<ref>のちの早稲田大学。</ref>を設立するなどして、官学とはやや異なった見方から、新しい社会へ人材を送り出していきました。 :;暦<span id="暦"/> ::明治5年12月2日(1872年12月31日)をもって太陰太陽暦(天保暦)を廃止し、翌日を明治6年(1873年)1月1日として欧米諸国で用いている太陽暦(グレゴリオ暦)にしました。それまで使っていた暦は、今は「{{ruby|旧暦|きゅうれき}}」と呼ばれています。 ==== 士族の反乱 ==== :[[#廃藩置県|廃藩置県]]によって藩がなくなったので、武士であったひとたちは、定期的な収入も失い、自分で慣れない商売を始めるなど(そして、それに失敗する例も数多くあり、「武士の商法」として、{{ruby|嘲笑|ちょうしょう}}されました)、新たな苦労を負うことになりました。また、戸籍の上では「士族」として、「平民」とは、区別されていましたが、特に優遇されることもありませんでした。多くの士族が新政府の政策に失望し、特に倒幕に加わった藩の士族は、中央で活躍するかつての同輩たちに不満を抱きました。 :このような中、1873年(明治6年)、遣欧施設の帰国後、朝鮮との外交問題({{ruby|征韓論|せいかんろん}})で、西郷と大久保が対立し、西郷、板垣、後藤、江藤、副島は政府から離れ故郷に戻りました。 :1874年(明治7年)に江藤が故郷の佐賀県でおしたてられて反乱をおこしましたが(佐賀の乱)、政府によって鎮圧されました。 :続いて、1876年(明治9年)には熊本県で{{ruby|神風連|じんぷうれん}}の乱、それを受けるように福岡県で{{ruby|秋月|あきづき}}藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱、10月には山口県で{{ruby|前原一誠|まえばらいっせい}}らによる{{ruby|萩|はぎ}}の乱など反乱が続き、それぞれ鎮圧されました。 [[File:Battle of Tabaruzaka Nishiki-e.jpg|thumb|350px|西南戦争で最も激しい戦いとされる田原坂の戦いを描いた錦絵]] :これらの反乱は、すべて、倒幕の中心またはそれに協力した藩の士族によるものです。 :そして、1877年(明治10年)には旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将にして、日本国内では歴史上最大規模の内戦となる'''{{ruby|西南戦争|せいなんせんそう}}'''が勃発しました。西郷等の軍は北上して、[[#鎮台|鎮台]]のおかれていた熊本を攻めますが、鎮台の兵士が熊本城にこもり、西郷軍の足止めをしているうちに、大久保利通が主導する政府は東京や大阪から大量の兵士を移動させ{{ruby|田原坂|たばるざか}}の戦いで西郷軍を打ち負かします。残った西郷軍は南九州各地を転々とし、最後に、西郷隆盛が鹿児島の城山で自決して、西南戦争は鎮圧されます。なお、この翌年、大久保利通は不平士族に暗殺されました。 :薩摩藩は、江戸時代から武を尊ぶことで有名で、戊辰戦争でも活躍し、日本最強と言われていたところ、多くは元々武士ではなかった兵士の政府軍に圧倒的に敗北したのですから、これ以後、政府に対する不満は、武力に訴えるものではなく、{{ruby|自由民権|じゆうみんけん}}運動など政治活動によるものとなっていきます。 ==== 北海道と沖縄 ==== :[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#江戸時代の北海道と沖縄|江戸時代、北海道と沖縄は、一部の除いて、幕府と藩という江戸時代の政治の仕組みとは別に取り扱われていました。]]明治になって、この二つの地域も日本の一部として他の地域同様に取り扱われるようになりました。 ;北海道 :ヨーロッパの一国であるロシアは、17世紀東に兵を進め、ユーラシア大陸北部のシベリアを領土としました。シベリアは、ロシアの中心部からは遠く、また、農業に適していない土地だったので、開発はなかなか進みませんでしたが、18世紀後半あたりからロシア船舶の航海がさかんになり、日本人としばしば接触するようになりました。その頃から日本でも、北海道沿岸でとれるニシンなどを肥料に用いるようになり、北海道でも農業に代えた経済的な価値が発見され、本土からの商人の行き来がさかんになってきます。例えば、{{ruby|函館|はこだて}}市は、そのような商人が江戸時代に開いた街です。また、太平洋側まで領土を広げ、さらに、南下しようとするロシアに対抗して、幕府はこの地域の調査を始めます。{{ruby|間宮林蔵|まみやりんぞう}}は{{ruby|樺太島|からふととう}}(サハリン)を調査し、それが島であることを発見しました<ref>樺太の領有はロシアとの間で争われていて、大陸の一部であると、日本の領有は認めにくいものでした。</ref>。幕末、開国に合わせ箱館(函館)に箱館奉行がおかれています。 :明治になって、政府は北海道をロシアに近く、また、未開発の土地などが豊富にある<ref>北海道が江戸時代初めには認知されていながら、開発が全く進んでいなかったのは、石高制などの基本である稲作に適していなかったからです。明治初期においても、北海道での稲作は難しいものでした。しかし、食生活の変化や鉄道・汽船といった輸送設備が整備されることで、商品作物としてじゃがいも・たまねぎ・小麦・てん菜・ホップ・トウモロコシ・リンゴなどが農業生産の対象となり、また、西洋食の習慣や毛織物が浸透してくると牧畜も成立し、北海道の広大な土地は農業の地として魅力的なものになりました。明治政府は、海外から農業技術の指導者を招くなどして、農業創業・農地開拓を推進しました。なお、稲作については、その後の地道な品種改良などの努力によって、現在では、都道府県別のコメの収穫高で、新潟県と1位2位を争う生産地域となっています。</ref>重要な土地と考え、<span id="開拓使">'''{{ruby|開拓使|かいたくし}}'''(通称:北海道開拓使)をおいて北海道の開拓を進めます。北海道には、兵士として警備・防衛につきつつ普段は農業をいとなむ{{ruby|屯田兵|とんでんへい}}がおかれました。また、戊辰戦争で敗北した藩からの移住なども見られました。明治政府も、{{ruby|札幌|さっぽろ}}・{{ruby|小樽|おたる}}など都市の建設、[[#北海道鉄道|鉄道の導入]]、学校([[#札幌農学校|札幌農学校]])や[[#ビール工場|工場]]の建設などについて、本土に優先して予算を配分した例も少なくありません。 ;沖縄 :[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#琉球王国|沖縄は琉球王国がおさめる国]]でしたが、薩摩藩が強い力を持って支配し、同時に清国に朝貢を行う国、つまり、清国の属国でもありました。 :明治になって、琉球王国がどこに属するかが清国との間で問題になりました。1872年(明治5年)、明治政府は、琉球国を「藩」のひとつとして認め<ref>前年に「[[#廃藩置県|廃藩置県]]」がなされているので、異例の処理です。</ref>、日本国の一部と諸外国に宣言しました。1875年(明治8年)、明治政府は「琉球処分」を決定し、清国との間の独自外交を禁じ、本土の法制などに従うよう琉球藩政府に要求しました。このような明治政府の対応に、琉球藩内で抵抗がありましたが、1879年(明治12年)、琉球藩は廃止され<ref>旧琉球国王は、各藩の藩主同様、[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#華族|華族]]となって、東京に住むことが強制されました。</ref>、沖縄県がおかれました。 === 文明開化 === :これらの改革によって、たとえば、布地が安く手に入るようになったり、蒸気機関車で短時間で遠くまで移動できるようになるなど人々の生活は大きく便利に変わりました('''文明開化''')。 :[[File:Tomomi Iwakura 3.jpg|thumb|160px|遣欧使節団途中で、まげを切った岩倉具視。[[#使節団|使節団出発の時]]と比べてみてください。]] :1871年(明治4年)「{{ruby|断髪令|だんぱつれい}}」が出され、それまで、身分によって髪型({{ruby|髷|まげ}}、「ちょんまげ」はまげの一種です)が決まっていましたが、どのような髪型をしても良いことになり、ほとんどの人がまげを切りました。当時、まげを切ったばかりの髪型を「ザンギリ{{ruby|頭|あたま}}」と言われていました。庶民の間では、「''ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする''」などと言われ、生活が変わったことの実感として受け取られました。 :欧米人が数多く訪問したり、居住したりするようになり、牛肉や豚肉などの肉食の習慣や牛乳を飲むなどの新しい食習慣が少しずつ広がりました<ref>肉食は、仏教の教えから嫌われていたと言われていますが、魚やニワトリは普段の生活でも食べており(ただし、ニワトリも一種の高級な食材であったため、めったに食べることはできないものでした)、ウサギやイノシシなどの野生の獣は食べていたので、仏教の影響というよりはよりも、牛や豚といった食料用の家畜を飼う習慣や家畜を解体して食材にする習慣があまりなかったという理由の方が大きいと思われます。来日した外国人のために、家畜を飼ってそれを料理にする仕組みが整えられたため、それを利用し、一般の日本人も食べるようになったという側面も大きいでしょう。また、軍隊で体格をよくするという目的で肉食がすすめられたという点も見逃せません。</ref>。 :衣服も江戸時代は身分によって決められていました。明治になって、その制限は無くなりました。すぐに、全て洋服に変わったわけではありませんが、機械工場で生産する布地は、和服の反物より安く入手できたので徐々にデザインも洋装にちかづいていきました。 :開国に伴って、キリスト教の宣教師も来日するようになりました。江戸幕府は禁教令をそのままにして、日本人がキリスト教徒になる事を禁じていました。明治政府も最初はそれを引き継ぎましたが、外国人達の強い抗議があって1873年(明治6年)以降、キリスト教を含めた宗教の布教や信者になることについて一切の制限がなくなりました。 :一方で、仏教寺院は、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#寺請制度|寺請制度]]で住民の役所の役割も果たしていましたが、[[#戸籍制度|戸籍制度]]がこれに代わったため、住民との公的なつながりは無くなりました。さらに、新政府ができた当時は、尊皇攘夷思想の影響から神道が重要視され<ref>江戸時代までは、神道は仏教の一部(神仏習合)の考えが有力で、僧が神官を兼ねていたり、大きな神社には神宮寺といった寺が併設されたりしていました。明治政府は、これを仏教と神道に分け寺か神社のいずれかにするよう命じました(神仏分離)。このため多くの寺が、神社となりました。</ref>、また、仏教は古臭い伝統であるとの意識から、多くの寺が壊されたりものが持ち出されたりしました({{ruby|廃仏毀釈|はいぶつきしゃく}})。 :学校制度の定着は、{{ruby|識字率|しきじりつ}}(文字を読める能力)を高めることになり、また、欧米から伝わった'''活版印刷'''によって、新聞や出版物が大量で安価に人々の元に届くようになります。このことで、欧米の新しい思想が普及するようになることの他に、小説などの文学が娯楽として定着するようになりました<ref>言葉づかいも、日本で共通のものになるよう、工夫が進められてもいます。</ref>。 :また、演劇の世界では、歌舞伎のように男性だけが舞台に立てるという制限がなくなり、女性も同様に舞台に立つという新劇が生まれました。 ;社会思想<span id="社会思想"/> :身分制をなくしたので、生まれた家に関わらず、個人の努力によって政治をはじめとする社会のあらゆる分野にかかわることができるようになりました。このような社会にあった「自由」や「平等」など「権利」「人権」といった欧米の考え方が'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#福澤諭吉|{{ruby|福沢諭吉|ふくざわゆきち}}]]'''などにより紹介されました。 :福沢諭吉は、著書『学問のすすめ』の中で「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と、生まれながらの平等を説いて、努力次第で社会の重要な地位に就くことができること(立身出世)を主張しました。これらの考えは、[[#学校|学校教育制度の整備]]や新聞や出版物の普及もあわせて、だんだん社会に浸透し、努力をすることで社会的立場を向上さすることができることが理解されるのと同時に社会のさまざまな層から社会参加を求める声が上がってきました。 == 脚注 == 以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small> <references/></small> ---- {{前後 |type=章 |[[小学校社会/6学年/歴史編]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう|日本の歴史の流れ]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ|江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代|国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代]] }} [[Category:社会|しようかつこうしやかい6]] [[Category:小学校社会|6ねん]] [[Category:小学校社会 歴史|#11]] beg5r80mbxkixm3kv02qd7bdpfyjrvz 小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代 0 33920 207307 206360 2022-08-27T02:38:46Z Mtodo 450 wikitext text/x-wiki {{Nav}} {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|6学年|歴史編|frame=1}} {| class="wikitable" style="width:100%" |+ この章の概要 |<!--1889年前後から「国際的地位が向上」(1920年国際連盟成立 常任理事国入り)まで--><!--(コ) 大日本帝国憲法の発布,日清・日露の戦争,条約改正,科学の発展などを手掛かりに,我が国の国力が充実し国際的地位が向上したことを理解すること。--> ★時代区分:明治時代後期、大正時代</br> ★取り扱う年代:1889年(大日本帝国憲法の発布)から1925年(昭和改元)まで ; 大日本帝国憲法の制定 : 明治維新の改革は、五箇条の御誓文の方針によりなされましたが、改革が進み近代文明国としての形がひととおり整ってきたところ、さらに政治の形を確かなものとし、人々の権利を明らかにするため、'''憲法'''の制定と選挙によって選ばれた議員による議会を開くことが求められました。'''板垣退助'''や'''大隈重信'''は国会の開設を求めて、政党をつくりました。'''伊藤博文'''を中心とした明治政府は欧米諸国の憲法を研究し、1885年に'''内閣制度'''が創設され、1889年に'''大日本帝国憲法'''が発布されました。翌年憲法の精神に基づいて、初めて総選挙が行われ'''帝国議会'''(国会)が召集されました。 ; 日清戦争と日露戦争 : 急激な近代化に成功した日本は、国内で拡大した産業の新たな市場を求め大陸に進出しようとします。朝鮮は中国の帝国'''{{ruby|清|しん}}'''の属国でしたが、その影響で近代化が進んでおらず、朝鮮国内の近代化を求める人々は日本と協力して清の影響から逃れようとしました。朝鮮国内の清に従う保守派と改革派の争いに日本と清はそれぞれ兵を出すなどして緊張が高まり、1894年朝鮮半島西岸における両国海軍の接触をきっかけに'''日清戦争'''が始まりました。日本は清の北洋海軍を壊滅させ、遼東半島を占領するなど戦いを有利に進め、翌年、'''陸奥宗光'''外務大臣と清の提督である李鴻章が交渉し、清の日本への賠償や台湾・遼東半島の割譲などを定めた下関条約が締結され講和が結ばれました(日本の勝利)。 : 遼東半島はロシア、ドイツ、フランスが反対したので割譲は取りやめとなりましたが(三国干渉)、そこにロシアが進出し、それを警戒する日本と対立しました。1904年日本とロシアは開戦し('''日露戦争''')、日本とロシアは、ロシアが植民地としていた遼東半島や中国東北部(満州)で戦いました。日本は多くの犠牲者を出しましたが、'''東郷平八郎'''がロシアのバルチク艦隊をやぶるなどして有利な位置となり、翌年、'''小村寿太郎'''外務大臣とロシアのウィッテが交渉し、ロシアの中国からの撤退、南満州鉄道の譲渡、南樺太の割譲などを定めたポーツマス条約が締結され講和が結ばれました(日本の勝利)。 ; 条約改正と国際社会での地位の向上 : 幕末に欧米各国と結ばれた通商条約(不平等条約)の改正は日本政府の悲願でした。まず、政府は、国内の法整備を進め、公正な裁判が行われることを示し、日清戦争終結後の1899年治外法権を撤廃しました。そして、日露戦争の勝利は、世界に驚きをもってむかえられ、国際的地位も上がったことをうけて、1911年関税自主権も回復しました。 : 1912年大正天皇が即位し、元号が「'''大正'''」となりました。 : 1914年にヨーロッパの国々を二分した'''第一次世界大戦'''が始まりました。日本は、イギリスやフランスの属する連合国に参加し、敵対する同盟国の一つであるドイツが租借する中国の{{ruby|青島|チンタオ}}や南太平洋の島々を占領しました。1919年戦争は連合国の勝利に終わり、翌年、平和を維持するための'''国際連盟'''が設立、日本は英仏などとともに常任理事国の一つとなりました。 : このころになると、日本の科学技術の水準も世界的なものになり、'''野口英世'''のように国際的な研究者がでてくるようになりました。 |} === 世界の変化2 - 市民革命 === :日本が鎖国をしている間、ヨーロッパやそれを受けたアメリカ大陸では、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#世界の変化1 - 産業革命|産業革命]]ともうひとつの大きな社会変革が起こっていました。 ;市民革命以前のヨーロッパ :ヨーロッパの国々も長い間、生まれながら身分によって職業などが決められ、多くの人々は農民や職人として土地(荘園)の領主(「{{ruby|封建|ほうけん}}領主」といいます)や都市の貴族などに服従する社会でした。また、この時代は、ローマ教皇を頂点とする'''カトリック教会'''が、強い影響力や荘園を持っていたというのは、[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#キリスト教|前にお話ししたとおり]]です。この時代を{{ruby|封建|ほうけん}}制<ref>土地(領地)を間に介して、主従関係を結ぶ制度を言います。日本でも、[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#封建制|鎌倉時代の「'''ご恩と奉公'''」の関係]]はこれにあたりますし、安土桃山時代から江戸時代にかけての[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#石高制|石高制]]も封建制の一種です。</ref>の時代と言います。 :14世紀くらいになると、都市を中心に商業が発展してきて、豊かな財産を持って、荘園領主よりも強い影響力を持つようになる者もでてきました。15世紀「[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#大航海時代|大航海時代]]」になると、さらに、貿易や植民地からの収益で都市の商人などは勢力を強くしました。また、繊維工業などを中心に、人を集めて工場などを経営する人たちもあらわれました。これらの、封建領主や貴族ではない階層の人たちを、「{{ruby|市民|しみん}}階級」といいます。これらの、市民階級の経済力を背景に、ヨーロッパの各地で強い力を持った国王が誕生し、伝統的な荘園領主などを圧倒しました。これを、{{ruby|絶対王政|ぜったいおうせい}}の時代といいます。絶対王政の王国は、政治を行う政府は専門の役人をおき、戦争に備えて軍隊を平時から常設するようになりました<ref>封建制の時代は、国王でも自分の荘園をおさめられる程度の役人がいればよく、戦争などでは、その都度、封建領主に命令して軍隊(騎士)を集めていました。</ref>。 ;市民革命と近代国家 :市民階級が台頭してくると、封建制度以来の身分制度に対して、生まれながらの身分にかかわらず人間は'''平等'''であり、'''自由'''に発言や経済活動をする'''権利'''('''人権''')を持っているという考え方が広がってきました。また、封建制の時代はおさめている荘園の収穫から政治を行っていましたが、絶対王政の政府は、市民階級からの税金で成り立っていたのですが、税金を取られる市民たちは国王の都合だけで徴税されることに不満を持ち始めました。こうして、17世紀以降、市民階級は絶対王政と対立するようになります。市民階級は代表を出して、政治に参加するようになります。'''議会'''('''国会''')の始まりです。さらには、国王の圧政に対しては、市民階級が集まって武力をもって王政を倒したりしました。これを「'''{{ruby|市民革命|しみんかくめい}}'''」と言います。 :市民革命は、17世紀のイギリスに始まりました ('''清教徒革命'''など)。ひきつづいて、北アメリカ大陸のイギリス植民地が、独立を求めて戦争を起こしアメリカ合衆国が成立しました ('''アメリカ独立戦争''')。そして、1789年代表的市民革命である'''フランス革命'''が起こります。市民革命は、フランスの'''ナポレオン'''が、フランスの革命政府を打ち倒そうとする周辺の国々を逆にせめた戦争によってヨーロッパ各地に広がります。 :市民革命自体は、各国の状況によって様々な結果を生みました。革命後に王政が復活した国もあります。しかし、市民革命で国の政治に身分によらない一般の市民が参加できるようになって、広く国全体から資金を集める仕組みができたこと、また、兵隊に国民が動員されるようになったこと('''[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#徴兵制|徴兵制]]''')から、数が多く強力な軍隊を持つようになり、それまでの、封建的な国や絶対王政の国を圧倒するようになりました。これらの古い体制の国々も、市民階級を国の政治に参加させるように、国の仕組みを変えるようになりました。まず、国民の権利を保障し、国民の代表が参加する'''議会'''を設置して国の政治に参加できるようにしました。そして、そのことを'''憲法'''という、強い力を持った法律に定めるようになりました。 :国が、国王などの所有物ではなく、そこに住む国民によって成立するという近代国家('''国民国家''')の誕生です。 === 大日本帝国憲法の制定 === [[File:Taisuke ITAGAKI.jpg|thumb|125px|板垣退助]] [[File:OKUMA_Shigenobu.jpg|thumb|125px|大隈重信]] [[file:Itō Hirobumi.jpg|thumb|125px|伊藤博文]] :明治になって、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#四民平等|身分制度がなくなり]]<ref name="華族">実際は、公家や大名、明治政府に大きな貢献のあった人たちについては、{{ruby|公爵|こうしゃく}}・{{ruby|侯|こう}}爵・{{ruby|伯|はく}}爵・{{ruby|子|し}}爵・{{ruby|男|だん}}爵といった貴族の爵位が与えられ、その一族は「{{ruby|華族|かぞく}}」と呼ばれました。華族には、いくつかの特権が認められましたが、華族の数は比較的少ないうえ、江戸時代ほど極端に大きな差ではありませんでしたし、社会的な貢献をすることで、誰でも華族となる機会はありました。また、「士族」と「平民」の間で異なる取り扱いは一切ありませんでした。</ref>、人々は才覚や努力によって、どのような職業に就くこともできるようになりました。人々は、学業をはじめとしたさまざまな努力をして、いろいろな分野で活躍するようになりました。 :明治政府は、さまざまな改革を強引に進めたため民衆と対立することも少なくありませんでした。このような民衆の不満は、[[#士族の反乱|士族の反乱]]の後は、こうした近代思想を取り入れて政治参加を求める{{ruby|自由民権|じゆうみんけん}}運動につながります。自由民権運動は、憲法の制定と、民衆が政治に参加できる選挙を通じた国会の開設をもとめるようになります。自由民権運動は、征韓論で下野した'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#板垣退助|{{ruby|板垣退助|いたがきたいすけ}}]]'''と1881年(明治14年)に'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#伊藤博文|{{ruby|伊藤博文|いとうひろぶみ}}]]'''らと対立して政府を離れた'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#大隈重信|{{ruby|大隈重信|おおくましげのぶ}}]]'''らに主導されました。 :大隈や板垣が主導する自由民権運動の主張は、国民の自由と権利を保障する憲法の制定とそれに基づく国民の選挙による議会(民選議会)の開設及び議会による政府の統制でした。伊藤博文ら明治政府を主導する人たちは、自由民権運動の考えをそのまま受け入れると、政策を政府が思うとおりに進めることができず、富国強兵などの改革政策に差しさわりがあると考え、この運動を弾圧しました。一方で各地の有力者や、新たな産業の成功者が登場してきており、明治政府はこれらの人々の支持を受けたいと思っていました。また、欧米諸国から見ると、民選議会が政治を進めない国は遅れているとの意識があり、不平等条約改正にあたっても説得させることができない理由の一つとなっていました。 :1881年(明治14年)明治政府は、明治天皇名で「国会開設の勅諭」を下し、1889年(明治22年)に国会を開設することを国民に約束しました。これを受けて、自由民権運動の活動家は政党を結成し、同年には自由党が板垣退助を中心として、翌1882年(明治15年)立憲改進党が大隈重信らによって結成されました。 :一方、伊藤は、1882年(明治15年)、憲法制定・国会開設の模範を研究するためためにヨーロッパを視察しました。そこで、伊藤は議会が発達したイギリスや、人権思想が進んでいたフランスではなく、ドイツ帝国の憲法を模範にすることとしました<ref>この頃のドイツは、日本が藩に分かれていたのと同様に、多くの王国・貴族領に分かれていたものを、各地で統一の要望が上がり、その中で有力となったプロイセン国王を皇帝とするドイツ帝国が成立していました。ドイツ帝国は、イギリスやフランスよりも、皇帝(それを受けた行政機関)の権限が強く、議会の力はおさえられていました。ドイツは、英仏に比べ工業化などが遅れていたために、それを推進するために、強い行政の力が必要であったためです。また、各個人の人権についても制限がありました。伊藤が、英仏ではなく、ドイツを国の形の模範としたのは、このように、日本と状況が似ていたためです。</ref>。帰国した伊藤は憲法制定の準備をはじめ、1885年(明治18年)に内閣総理大臣を長とする'''内閣制度'''が創設され、1889年(明治22年)に'''大日本帝国憲法'''(明治憲法<span id="明治憲法"/>)が発布されました。翌1890年(明治23年)7月1日憲法の精神に基づいて<ref>明治憲法が、実際に有効となる(施行される)のは、1890年(明治23年)11月29日なので、まだ、憲法の下の選挙・国会の招集ではありませんでした。</ref>、初めて総選挙が行われ、11月25日'''帝国議会'''(国会)が召集されました。 :明治憲法は以下のことを定めています。 :#天皇は、日本の統治者とされます。 :#国会は、天皇に「協賛」して法律や予算を定める機関とされます。 :#*法律や予算を決めるのは天皇であって、国会は、その補助をしているに過ぎないという考えを表しています。 :#*緊急と認められる時には、天皇<ref>実際は、行政府である政府の仕事です。</ref>は国会の議決によらず、法律に代わる勅令を出すことができました。 :#国会は、貴族院と衆議院により成り立ち、衆議院は選挙によって選ばれた議員により構成され、貴族院は皇族・華族<ref name="華族"/>及び勅命<ref>天皇の命令。実際は、その時の行政府による指名。</ref>で任名された議員により構成されます<ref>ただし、このような議会の成り立ちは、世界的に見ても珍しいものではありませんでした。明治憲法の元になったドイツ帝国の議会が貴族院と衆議院で成り立っていましたし、そもそも、議会政治の模範とされるイギリスも世襲貴族による「貴族院」と選挙で選ばれた議員による「庶民院」で構成されていて、現在もその伝統が残ります。このことで、身分で選ばれた議員による議会を「上院」、選挙で選ばれた議員による議会を「下院」という習慣ができました。アメリカ合衆国には独立当時から貴族制度はありませんでしたが、上院は各州の代表(元々は州議会が選出していましたが、現在は州民の選挙によります)、下院は州にかかわらず選挙で選ばれた議員による議会と、上院と下院で性質を変えていたりします。時代が下るにつれ、選挙で選ばれた議員の決めることが優先されるという政治習慣(下院優先の原則)が有力になります。</ref>。 :#*衆議院の優位などの定めはなく、各議院で議決されなければ法律などは成立しませんでした。 :#*<span id="制限選挙"/>衆議院議員の選挙権は、憲法を定めた当時は、一定以上の税金を納めた者にのみ認められていました。 :#国務大臣は天皇を{{ruby|輔弼|ほひつ}}(助言し助ける)すると定められます。また、内閣総理大臣についての定めはありません。 :#*<span id="内閣総理大臣"/>内閣総理大臣は、天皇が指名する建前でしたが、実際には、元老といわれる人達<ref>元老には、最初は伊藤博文など維新の功臣が、後代には長期に首相を務めた者がなりました。</ref>が協議したり、後には首相経験者などで構成する重臣会議で決議して天皇に{{ruby|推薦|すいせん}}して決まるものでした。 :#軍隊(陸海軍)は天皇が直接まとめひきいるとされました。また、国民には徴兵に応じる義務がありました。 :#*軍隊は、国会や内閣の命令を聞く必要がないと解釈されるようになります。 :#様々な国民の人権が認められましたが、それは、法律の範囲内で認められるものとされました。 :#*例えば、女性には選挙権は認められることはありませんでした。また、民法で家族や相続は家制度によったため、女性は不利な取り扱いを受けました。 :#*後に制定される治安維持法は、政治思想(特に[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#社会主義と共産主義|社会主義思想・共産主義思想]])を取り締まる法律でした。 === 日清戦争と日露戦争 === ==== 日清戦争 ==== [[File:《马关条约》签字时的情景.jpg|thumb|right|200px|none|下関条約の調印の様子。 向かって左に着席するのが日本の伊藤全権、右が清国の李全権]] : 急激な近代化に成功した日本は、国内で拡大した産業の新たな市場を求め大陸に進出しようとします<ref>「急激な近代化に成功した日本」と書きましたが、これは、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#世界の変化1 - 産業革命|前の章の『産業革命』の節]]に書いた「欧米各国は、産業革命で経済力が大きくなりましたが、さらにそれを大きくするため、国内で生産する工業製品の{{ruby|市場|しじょう}}と原材料となる農産物や鉱物資源を欧米諸国の外に求めるようになりました。」の部分を日本に当てはめたものです。しかし、この頃の日本の工業力はまだ近代化が始まったばかりで、外国に市場を求めるまで成長していません。</ref>。朝鮮は中国の帝国'''{{ruby|清|しん}}'''の属国でしたが、その影響で近代化が進んでおらず、朝鮮国内の近代化を求める人々は日本と協力して清の影響から逃れようとしました。朝鮮国内の清に従う保守派と改革派の争いに日本と清はそれぞれ兵を出すなどして緊張が高まり、1894年(明治27年)朝鮮半島西岸における両国海軍の接触をきっかけに'''日清戦争'''が始まりました。日本は清の北洋海軍を壊滅させ、黄海沿岸の軍事拠点を攻撃し、遼東半島を占領するなど戦いを有利に進め、翌1895年(明治28年)、'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#陸奥宗光|{{ruby|陸奥宗光|むつむねみつ}}]]<span id="陸奥宗光"/>'''外務大臣と清の提督である{{ruby|李鴻章|りこうしょう}}が交渉し、以下の事項などを定めた'''下関条約'''が締結され講和が結ばれました(日本の勝利)。 :#清は、朝鮮の独立を認める。 :#清は、日本へ台湾と{{ruby|遼東|<small>りょうとう/リャオトン</small>}}半島<ref name="中国地名">中国の地名については、日本語の音読みで読む方法と現代の中国語に近い音で読む方法があります。後者は、「音読みだと日本人にしか通じない」と言う配慮から現代の中国語に近い音を当てると言う意図なのかもしれませんが、実際の発音とは異なっているので中国人にも伝わらないでしょう。ですから、ここでは、原則として音読みで音をふりますが、{{ruby|北京|ペキン}}、{{ruby|上海|シャンハイ}}のように現代中国語音に似せた言い方が一般的になったものもありますので、それらは、よく使う言い方をカタカナで表記します。</ref>を割譲する。 :#清は、日本へ賠償金2億両<ref>1両は銀37.3gで、当時の日本円に換算して約3億円。これは、政府の年間予算の約3倍にあたります。</ref>を支払う。 :#*日本は、この賠償金を資金として大規模な製鉄所を福岡県に作りました('''{{ruby|八幡|やはた}}製鉄所''')。 :清はそれまでも、イギリスやフランスと争って負けてはいましたが、欧米諸国は、それでも清国は世界最大の人口をかかえる巨大な国<ref>当時、3億人を超える程度の人口があったものとされています。</ref>であって、実力を発揮すれば欧米諸国であっても勝てるものではないと思われていた<ref>これを、「清国は『眠れる獅子』だ」という言い方をします。</ref>ので中国本土への進出はおさえられていましたが、近代化後間もない日本に敗れたため、欧米諸国は清国への進出を強め、中国大陸の多くの地域で欧米諸国の半植民地と言ってよい状態になりました。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話&考えてみましょう】日本は、どうして清国に勝てたのでしょう<small> :戦争の勝敗の原因は、様々な要素があって、簡単に決めることができるものではありませんが、その時代の当事国の違いを比較することで、国の体制などの特徴を理解することができます。ここでは、なぜ、清国はやぶれ、日本は勝つことができたのかを考えてみましょう。 :戦争の勝敗を決める要素の第一は双方の国の規模です。大きな国の方が当然有利です。このころ、日本の人口はようやく4千万人程度のところ、清国の人口は3億人を超えていました。農業に適した広大な国土を有しており、近代化が遅れていたとは言え、税収などは日本よりもはるかに大きかったと考えられます。日清戦争の前も、世界最大級の軍艦をドイツから購入していたりします。相手の政権を倒すまでの全面戦争と言われる戦争であれば、日本は、勝つことは難しかったでしょう。 :一方で、清国は皇帝の軍隊は{{ruby|八旗|はっき}}・{{ruby|緑営|りょくえい}}と言われる17世紀の軍隊のままで、これは、日本の武士同様将兵が生まれながらの家柄で決まっている軍隊でしたが、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#アヘン戦争|アヘン戦争]]以後の近代的戦争や民衆の反乱<ref>銃器などを欧米の商人から買っていました。</ref>では対応できなくなっていました。そこで、地方に派遣された高官は地元の有力者に呼びかけ、その地方の税を流用するなどして、地元の若者を集め、私的に軍隊を組織していました。一種の義勇兵ですが、実際は金を払って集めた{{ruby|傭兵|ようへい}}も少なくなかった言われています。 :また、清国は皇帝が独裁する事が建前であったため、外交と軍事がばらばらの動きをし、軍事も統一的な動きはできていませんでした。 :日本の場合、中央政府が全国民から国の制度として兵を集め、政府の予算で設備をそろえ、組織だった訓練を実施した軍隊を有していました。また、「天皇の軍隊」「日本国の軍隊」としての『国民』意識も高く、これが、士気につながりました。 :このような違いから、黄海およびその沿岸での戦闘という局地的な戦争では、国の規模の違いにかかわらず勝つことができたということです。 </small> |}</div> ==== 日露戦争 ==== [[画像:Location-of-Liaodong-Peninsula.png|thumb|150px|left|遼東半島]] [[ファイル:Kisaburō Ohara, Europe and Asia Octopus Map, 1904 Cornell CUL PJM 1145 01.jpg|thumb|300px|right|1904年当時、日本人がロシアにもったイメージを伝える風刺地図。]] :下関条約で、日本は、台湾などとともに中国本土の遼東半島の割譲を受けましたが、ロシア、ドイツ、フランスが反対し('''{{ruby|三国干渉|さんごくかんしょう}}'''<ref>「干渉」とは、「他のものの動きに影響を与える」という元々の意味から、このような場合、「他国の政治に口を出す」という意味で使われています。</ref>)、遼東半島の割譲は取りやめとなりました。ところが、その遼東半島にはロシアが進出し、{{ruby|大連|だいれん}}、{{ruby|旅順|りょじゅん}}<ref name="中国地名"/>といった都市を建設し始めました。 :ロシアは、ユーラシア大陸を横断する鉄道('''シベリア鉄道''')を建築し、ヨーロッパとアジアの間の物流をおさえようとしていました<ref>日本からイギリスやフランスまで、船ならば45日〜50日かかったところを、シベリア鉄道を使えば15日程度で移動できました。</ref>。シベリア鉄道は、もともと、ロシア領内をウラジオストックまでのものですが、ロシアは遼東半島支配に伴って、大連まで{{ruby|東清|とうしん}}鉄道を建設し、その途中である{{ruby|満州|まんしゅう}}地域<ref>現在は、中国東北部と呼ばれる地域です。もともと、「満州(満洲)」とは清王朝をおこした民族(女真族)の名前で地名ではありませんが、「満洲族が起こった土地」と言うことで通称として用いられるようになりました。このころから、1945年頃まで、満州は日本にとって歴史上重要な土地となります。</ref>を実質的に植民地とするなど支配を強めます。そして、満州に接する朝鮮(日清戦争後、{{ruby|大韓帝国|だいかんていこく}})の政治にも介入するなどしはじめました<ref>ロシア進出の背景には、大韓帝国の王室のメンバーや{{ruby|両班|ヤンバン}}と呼ばれる高級官僚らが、朝鮮の政治・経済に段々影響を強めてくる日本を警戒して、それに対抗するため、ロシアと通じていたということもあります。</ref>。 :日本は、ロシアの動きに対して警戒しました。ロシアが満州地域でやっていることは、他のヨーロッパ諸国がアジアやアフリカでやっていて、日清戦争後に中国本土で進められている植民地化であって、そのままでは、満州地域だけでなく、朝鮮半島も、さらには日本までもが、植民地となってしまうのではないかと考えました<ref>これは、大げさな話ではなく、アフリカの植民地化はこの時期に進み、19世紀末には独立国は、エジプト周辺、エチオピア、リベリアだけになっていましたし、アジアも1887年にフランスがベトナムを植民地にするなどして、独立を保っていたのはシャム王国(現在のタイ王国)くらいになっていました。</ref>。 :日本政府では、伊藤博文に代表される日露の衝突を外交努力などで避けるべきとするグループがあった一方で、陸軍に対して大きな影響を持った'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#山県有朋|{{ruby|山県|やまがた}}(山縣){{ruby|有朋|ありとも}}]]'''や首相の{{ruby|桂太郎|かつらたろう}}、外交官出身の外務大臣'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#小村寿太郎|{{ruby|小村寿太郎|こむらじゅたろう}}]]<span id="小村寿太郎"/>'''らは、戦争は避けられないので、それに向けての準備をするという態度に出ました。日本国内では、戦争に向け軍艦を整備したり新たな兵器の開発を行う一方で、ロシアの中央アジアからインドへの南下などを警戒するイギリスと同盟を結び、ロシアとの戦争に備えました。 [[file:Nichirojp.png|thumb|300px|日露戦争の経過]] :1904年(明治37年)日本とロシアは開戦し('''日露戦争''')、日本とロシアは、ロシアが植民地としていた遼東半島や満州で戦いました。ロシアは、モスクワなどから遠い極東に兵や兵器・軍馬・食料などを送るには、シベリア鉄道に頼るしかないので、すぐに戦場で攻撃の体制を作ることはできません。一方で、日本も、兵などを送るには日本海を渡らなければならないので、この地域の<span id="制海権"/>{{ruby|制海|せいかい}}権<ref>ある地域を自由に航行できるということ。</ref>を握る必要がありました。海軍はロシアの太平洋側の主力艦隊である旅順艦隊をせめ有利な立場になりますが、旅順艦隊は、援軍である世界最大級の艦隊バルチック艦隊<ref>「バルト海」で行動する艦隊なのでバルチック艦隊といいます。</ref>が到着するまで、旅順港に待機することになりました。日本陸軍は遼東半島南端から東進鉄道沿いに北上、朝鮮国境からの軍とあわせ、ロシア軍を満州地域北部までおしもどしました。また、旅順に引き込んだ艦隊がバルチック艦隊と合流すると制海権が危うくなるので、'''{{ruby|乃木希典|のぎまれすけ}}'''<ref>死後、乃木神社にまつられます。乃木坂などの地名にも残っています。</ref>が率いる陸軍の軍団が、要塞となった旅順を攻撃します。この旅順を囲む戦いは、日露戦争の中でも多くの日本兵の犠牲を出しましたが1905年(明治38年)1月に降伏し、バルチック艦隊のみを迎えうつことになりました。そうして、5月に'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#東郷平八郎|{{ruby|東郷平八郎|とうごうへいはちろう}}]]'''がひきいる日本海軍は日本海海戦でバルチック艦隊をやぶり、日本海の制海権を安定したものにしました。 :日本は、戦争を有利に進めたとことで、アメリカ合衆国大統領'''セオドア・ルーズベルト'''に講和の仲介を依頼し、日本からは'''[[#小村寿太郎|小村寿太郎]]'''が、ロシアからは'''ウィッテ'''(前蔵相、のちに初代首相)が、米国のポーツマスに出向き、講和会議が開かれました。1905年9月5日、以下の事項を決めた条約('''ポーツマス条約''')が結ばれ、ロシアは中国から撤退し、日露戦争は日本の勝利で終わりました。 :# ロシアは日本の朝鮮半島における優越権を認める。 :# 日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。 :# ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。 :# ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の{{ruby|租借|そしゃく}}<ref>土地などを、借り受けるという意味ですが、実質的な支配が行われ、「租借地」というのは、「植民地」とほぼ同義語になります。</ref>権を日本へ譲渡する。 :#*この路線は、「南満州鉄道」と改称され、日本の満洲進出の基礎となります。 :# ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。 :# ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。 :ポーツマス条約では下関条約と異なり賠償金の支払いはありませんでした。一部の日本国民はこれを不満に思って、暴動をおこすものもありました。しかし、国民には知らされていませんでしたが、戦争を有利に進めていたとはいえ、これ以上は財政上ほとんど無理な状態になっていて、すぐにでも戦争をやめなければならない状態になっていました。ロシアはそれを見越して、敗戦国でありながら、比較的有利な条件で講和条約を結んだといえます。 :しかし、この結果、満州や朝鮮半島に対するロシアの脅威は去りましたので、日本は、この地域への進出を高めます。特に、満州は石炭や鉄鉱石の地下資源が豊かな地域であったため鉱山開発を盛んに行いました。 :韓国については、政治的な不安定を理由に日本の属国化が進められ、1905年12月には統監府が設置され、伊藤博文が初代統監に就任しました。 :1909年 (明治42年)、伊藤博文はロシアとの外交交渉のため満州のハルビンに出向きましたが、そこで、朝鮮民族主義者に暗殺されます。それまで、韓国に対しては朝鮮民族に対し強硬的に望む人たちと、穏健に進めるべきという人たち(伊藤博文もその意見でした)が対立していたのですが、伊藤博文が暗殺されたことで、強硬派の勢いを増し、1910年(明治43年)8月に、日本は大韓帝国を併合しました('''{{ruby|韓国併合|かんこくへいごう}}''')。 :<span id="辛亥革命"/>日露戦争は、日本とロシアの戦争でしたが、その戦いは清国の領土でなされました。清国は、もはやそれを止める力を失っていました。中国の人々は、外国に国土を侵される不安が高まり、中国の人々が政治参加をする国をつくるため、1911年{{ruby|孫文|そんぶん}}が主導者となって革命を起こしました('''{{ruby|辛亥革命|しんがいかくめい}}''')。翌1912年清王朝は滅ぼされ、アジアにおいて史上初の独立した共和制国家である{{ruby|中華民国|ちゅうかみんこく}}が誕生しました。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="南下政策"/>ロシアの南下政策<small> :ロシアは、ヨーロッパの国の中では最も東にあって、17世紀にシベリアを征服し太平洋に達する領土を持つ大きな国ではあったのですが、ヨーロッパ中心部から離れていたので産業革命などはおくれてつたわりました。また、国土の多くが北にあったため、冬にほとんどの港が凍結するなどして、通商などにも支障が出るため、南へ勢力を伸ばす政策をとっていました。これを、「『{{ruby|不凍港|ふとうこう}}』を求めての南下」と言ったりします。19世紀、{{ruby|黒海|こっかい}}を勢力におさめようと、1853年トルコ(オスマン帝国)の領土であったバルカン半島などで戦争(クリミヤ戦争<ref>ロシアは、バルカン半島を南下しようとしたのですが、イギリス・フランスの参戦により押し戻され、クリミア半島が主要な戦場となりました。クリミヤ半島は、現在(2022年4月)、ロシアの侵攻で話題になっているウクライナの黒海地域です。</ref>)を起こしましたが、トルコをイギリスやフランスが支援し、この戦争ではロシアは敗北します<ref>クリミア戦争で、戦傷者の救護を組織的に行い、看護師による近代看護を確立したのが、フローレンス・'''ナイチンゲール'''です。</ref>。その後のバルカン半島の各民族の独立運動に合わせ、1877年オスマン帝国と戦争(露土戦争)をし、これに勝利しバルカン半島を経由したロシアの南下路が開けます。しかし、軍事的な勝利を収めたロシアの勢力拡大に対して欧州各国が警戒感が広がったため、ドイツ帝国の首相ビスマルクが主導し、1878年ベルリン会議を開き、ロシアの南下政策を止め、ロシアはバルカン半島方面の南下を一旦断念します。 :そこで、ロシアは、ヨーロッパ方面から世界へ出ることをあきらめ、東側のシベリアを経由して中央アジアや太平洋への進出をもくろみます。その結果のひとつが、三国干渉及びそれに続く遼東半島への進出です。 :しかし、日露戦争に敗れたため、ロシアは、ふたたび西へ目を向けます。そこで、バルカン半島から東に勢力を伸ばそうとしていたドイツとぶつかります。これが、第一次世界大戦の原因の一つとなります。 </small> |}</div> <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話&考えてみましょう】日本は、どうしてロシアに勝てたのでしょう<small> :ここでは、なぜ、ロシアはやぶれ、日本は勝つことができたのかを考えてみましょう。 :双方の国の規模ですが、日本とロシアでは、人口で3倍、国家予算で10倍、常備軍で5倍という、大きな差がありました。また、清国と違い、ロシアの軍隊はロシア皇帝の下に組織された近代的な軍隊でした。実際、戦没者はロシアが81千人程度のところ、日本は88千人と日本の方が被害が大きかったりしています<ref>当時は、戦場の衛生環境などが悪く、病気になって亡くなる兵士も少なくありませんでした。日露とも、戦没者の1/4が病没者で。特に日本の病没の原因としては、ビタミンB欠乏症の「{{ruby|脚気|かっけ}}」が目立っていて、これは、日本陸軍の医療関係者が、当時新興の栄養学を軽視したためとも言われています。この医療関係者には、小説家の森鴎外もいました。</ref>。 :このように、日本に大きな被害が出た戦争であっても、ロシアが強気に出られなかったのは、サンクトペテルブルクやモスクワなどがある本拠地であるヨーロッパから、鉄道で10日以上かかる遠隔の地で兵隊を送ろうとしても、1日に数千人程度が限界だったからでしょう<ref>戦争において装備に大きな差がなければ、数の違いは大きく影響します。</ref>。ロシアにとっては、バルチック艦隊が日本海の制海権をにぎって、日本が大陸に兵隊や物資を送れなくすることで逆転をもくろんだのですが、日本海海戦でその希望もなくなり、ロシアは戦争の継続をあきらめたのだと思われます。 :バルチック艦隊は強力な艦隊でしたが、日英同盟により、インドなどイギリス植民地への寄港<ref>当時の軍艦の動力は蒸気機関であっったため、石炭と真水を大量に積み込む必要がありました。</ref>が拒否されたため、大西洋から、アフリカの南を回ってインド洋経由で7ヶ月もの航海ののちの到着でした。また、ロシアは身分制が残っており、士官は貴族階級など上流階級の出身者が多く、それに対して、水兵などは農民出身の者や都市の労働者などが多く、航海での待遇の差もあり、航海中から対立も生じていました。 :この上流階級と庶民階級の対立は、海軍だけでなく、陸軍でも見られました。なにより、ロシア国内の一般的な生活でも見られたのです。いくら国の規模が大きいとはいえ、戦争は国民生活に商品不足・インフレーションの影響を与えます。もともと、民衆からの不満がみられ、革命運動もあったところ、日露戦争によるインフレーションと数々の戦いで敗戦したとの知らせで民衆の間に暴動が頻発し、1905年には革命と言っていい状態になっていました。このような国内の不安定さから、ロシア政府は講和を急ぐようになり、日本の勝利につながったといえます。 </small> |}</div> === 条約改正と国際社会での地位の向上 === [[File:Chikamatsu Kiken buto no ryakuke.jpg|thumb|300px|鹿鳴館における舞踏会を描いた浮世絵]] ;不平等条約改正の歩み :幕末に欧米各国と結ばれた通商条約(不平等条約)の改正は日本政府の悲願でした。 :明治政府は、文明開化が進んで欧米並みの文明国になったことを示すため、さまざまなアピールをします。たとえば、1883年(明治16年)に外務卿{{ruby|井上馨|いのうえかおる}}は、'''{{ruby|鹿鳴館|ろくめいかん}}'''という、外国からの重要な来訪者や外交官を接待するための社交場を建設し、舞踏会を開いたりしていました。鹿鳴館での舞踏会などには、政府高官の夫人や娘なども参加しましたが、当時はドレスなどの洋装、欧米風の応対のマナーやエチケット、また、ダンスなどは全く一般的ではなく、必死の訓練などがあったと言われています。しかし、このような取り組みは、欧米人には「{{ruby|滑稽|こっけい}}」と感じられたと言う記録も残っており、あまりうまくいきませんでした。 :一方で、政府は、まず[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#治外法権|治外法権]](領事裁判権)の撤廃のため、国内の法整備を進め、公正な裁判が行われることを諸外国に示そうとしました。領事裁判権の裁判は犯罪に関するものなので、法律に関するフランス人の[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#お雇い外国人|お雇い外国人]]ボアソナードが指導してフランスの法律をもとにして、1880年(明治13年)に犯罪とその刑罰に関する刑法<span id="刑法"/>と刑事手続と裁判を定めた治罪法<ref>後に、刑事訴訟法に改正されます。</ref>が制定され、1882年(明治15年)施行されました。1889年(明治22年)には、[[#明治憲法|明治憲法]]が発布され法制度が欧米並みに整理されたことが、国際的に示されました。外務大臣'''[[#陸奥宗光|陸奥宗光]]'''は、各国と粘り強く交渉し、まず、1897年(明治30年)イギリスとの間で治外法権を撤廃する条約を結び、日清戦争終結後の1899年(明治32年)すべての国との間で治外法権を撤廃しました。 :そして、日露戦争の勝利は、世界に驚きをもってむかえられ、国際的地位も上がったことをうけて、外務大臣'''[[#小村寿太郎|小村寿太郎]]'''が主導し、1911年(明治44年)関税自主権も回復しました。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】大津事件<small> :1891年(明治24年)、日本を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備中の警察官に突然サーベルで切りつけられケガを負うと言う事件がありました。 :驚いた日本政府は、すぐに明治天皇自身が見舞いに駆けつけるよう手配し、日本を離れる際も自身で見送りました。大国ロシアの皇太子に対して小国日本の国民しかも警察官が暗殺{{ruby|未遂|みすい}}<ref>殺そうとした相手が死ななかったことを言います。</ref>をおかしたということで、ロシアが攻めてくるかもしれない、そして、当時の日本ではロシアに勝てるはずがないということで、日本国内は、大騒ぎになりました。 :明治政府は、犯人を死刑に処してロシア政府に対して謝罪の意も示そうとしました。 :ところが、当時の[[#刑法|刑法]]では、殺人未遂の最高刑は無期{{ruby|徒刑|とけい}}<ref>現在の言い方では「無期{{ruby|懲役|ちょうえき}}」、一生、刑務所に入れられる刑です。</ref>で、死刑とすることはできません。そこで、政府は、天皇や皇室に暴行などを加え死傷させた場合に適用される{{ruby|大逆|たいぎゃく}}罪を適用するよう裁判所に要請しました。しかし、これは「法律に定められていること以外を罪としてはならない」という近代法の原則「{{ruby|罪刑|ざいけい}}{{ruby|法定|ほうてい}}主義」に反します。大審院院長<ref>現在の最高裁判所長官に相当します。</ref>{{ruby|児島惟謙|こじまいけん}}は、事件の裁判所に、法律に従って判決を下すよう指示し、その結果、死刑ではなく無期徒刑の判決となりました。 :このことは、ロシアとの外交関係を難しくさせるおそれがありましたが、欧米諸国に対しては、「日本は、法律を厳格に守る国である」ということが印象付けられ、条約改正に向けても信用を得ることができました。 </small> |}</div> ;<span id="国際社会"/>国際社会での地位の向上 : 1912年(明治45年・大正元年)大正天皇が即位し、元号が「'''大正'''」となりました。 : 1914年(大正3年)にヨーロッパの国々を二分した'''[[#全世界を巻き込む戦争 - 第一次世界大戦|第一次世界大戦]]'''が始まりました。日本は、イギリスやフランスの属する[[#協商国|協商国]]に参加し、敵対する[[#同盟国|同盟国]]の一つであるドイツが租借する中国の{{ruby|青島|チンタオ}}<ref name="中国地名"/>や南太平洋の島々を占領しました。1919年戦争は協商国の勝利に終わり、翌年、平和を維持するための'''[[#国際連盟|国際連盟]]'''が設立、日本は英仏などとともに常任理事国の一つとなりました。 : 第一次世界大戦は、今までに見られなかったほどの大規模な戦争で、戦場が全国土に広がり多くの工場設備なども失われ、工業生産が止まってしまったりしました。しかし、主な戦場はヨーロッパで、日本への被害はほとんどなかったため、日本は、ヨーロッパの工業生産に代わって、綿糸や綿布といった繊維製品や化学肥料など、さまざまな工業製品を輸出しました。また、日本へのヨーロッパからの輸入が止まったため、それにかわる重工業などが起こるきっかけにもなり、国際取引においても機械など高度な工業製品を輸出できる国となりました。第一次世界大戦の影響で日本の経済は急速に成長しました。 ;明治後期から大正にかけての人々の生活や文化と学問 :明治維新後、さまざまな[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#殖産興業|殖産興業]]の取り組みによって、経済的余裕ができ、国民生活は向上し、さまざまな近代文化の進展が見られました。また、欧米から伝わった工業的な製紙法と活版印刷は安価で大量の印刷を可能として、新聞や雑誌が広く普及します。これら新聞や出版業の発達したことと、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#学校|学校制度]]が定着し教育水準が上がったことで、国民の政治参加の意識も高まりました。 :<span id="大正デモクラシー"/>さらに、日清戦争・日露戦争といった戦争で、納税額が多いかどうか、つまり財産が多いかどうかにかかわらず、国民として平等に生命を犠牲にするということが意識され、納税額による選挙権の制限([[#制限選挙|制限選挙]])をやめて、成人であれば誰にでも選挙権が与えられる「普通選挙」を求めた社会運動('''普選運動''')がおこり、1925年(大正14年)すべての男性が選挙権を有する普通選挙法が成立しました。このような、民主化の動きを「'''大正デモクラシー'''」と言います。しかし、まだ女性には選挙権は認められていませんでした。 :<span id="政党政治"/>このように、国民の政治への関心が高まると、選挙で選ばれた国会議員による衆議院の発言力が強まり、[[#内閣総理大臣|内閣総理大臣なども衆議院の意向を受けて選び出されることもありました]]。しかし、一方で議会での議論においては、政党同士の争いもあって、無駄な議論がなされるように見えることもありました。また、政策に関しての、議員の{{ruby|汚職|おしょく}}なども発生するようになりました。 :[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#文明開化|文明開化]]を受けて、日本には西洋風の文化が広く普及し、明治20年(1887年)代以降になると、それを受けた独自の文化が育ってきました。 :新聞や出版業の発達は上で述べたとおり人々の政治への意識を高めたところですが、そこには、政治的な考えなどだけではなく、人々の娯楽としての小説なども掲載されるようになりました。明治も初めのうちは、歌舞伎の演目などを題材としたものが多かったのですが、1885年(明治18年)、{{ruby|坪内逍遥|つぼうちしょうよう}}は、『{{ruby|小説神髄|しょうせつしんずい}}』をあらわし、人々の普段の生活に近い題材をとりあげる、いわゆる近代文学を提唱しました。またその中で、話し言葉と書き言葉の間の大きな違いから、もっと平易で話し言葉に近い言葉を使うよう進められました。これを{{ruby|言文一致|げんぶんいっち}}運動といいます<ref>ただし、今でも話し言葉と書き言葉は同じものではありません。</ref>。このような動きのなかで、多くの近代文学というものが生まれました。その中には、1895年(明治28年)に『たけくらべ』を書いた{{ruby|樋口一葉|ひぐちいちよう}}のような女性もいました。その後、{{ruby|森鴎外|もりおうがい}}や{{ruby|夏目漱石|なつめそうせき}}があらわれ、近代文学が確立します。特に、夏目漱石が1905年(明治38年)に初めて書いた小説『{{ruby|吾輩|わがはい}}は猫である』はユーモアに富んだ内容と落語にヒントを得たとされる平易な語り口調で広く普及し、日本語の書き言葉の元になったとも言われています。 :美術の分野では、写実的な西洋絵画や彫刻が日本でも制作されるようになりました。政府は1887年(明治20年)、「東京美術学校<ref name="芸大">「東京美術学校」と「東京音楽学校」は、のちに合併し「東京{{ruby|藝術|げいじゅつ}}大学」となります。</ref>」を設立し、西洋絵画の製作者や指導者を育てました。 :また、音楽の分野でも西洋音楽の受け入れが進み、1890年(明治23年)、演奏家・作曲家や指導者を育てる「東京音楽学校<ref name="芸大"/>」が開校しました。 :学問の分野では、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#学校|大学教育]]が定着し、日本の科学技術の水準も世界的なものになってきました。物理学では原子のモデルを提唱した{{ruby|長岡半太郎|ながおかはんたろう}}、数学の分野では{{ruby|高木貞治|たかぎていじ}}といった世界的に評価される研究者も登場するようになりました。 :特に、人々の生活に密着した医学の分野では、世界的に進みつつあった細菌学の分野で多くの成果が見られ、破傷風の治療法の研究やペスト菌の発見をおこなった'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#北里柴三郎|{{ruby|北里柴三郎|きたざとしばさぶろう}}]]'''、{{ruby|赤痢|せきり}}菌を発見した{{ruby|志賀潔|しがきよし}}、黄熱病や梅毒の研究で知られ、ノーベル生理学・医学賞の授賞候補ともなった'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#野口英世|{{ruby|野口英世|のぐちひでよ}}]]'''のように国際的な研究者がでてくるようになりました。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |[[ファイル:Noguchi Hideyo.jpg|thumb|120px|right]] '''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="野口英世"/>野口英世<small> :本文に書いたとおり、野口英世は、国際的に活躍した細菌学者で、現在、その肖像が1000円札に使われている人です。子供の頃から大変苦労して勉強して、多くの業績を残した人で、皆さんの中で、野口英世の伝記を読んだことのある人も少なくないでしょう。ここでは、野口英世の生涯について簡単に紹介して、なぜ彼が偉人とされているかをお話ししたいと思います。 :1876年(明治9年)、英世<ref>元の名は「清作」で「英世」は22歳になって改名したものですが、ここでは、「英世」で統一します。</ref>は福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)に生まれます。貧しいというほどではありませんが、決して余裕のある家の生まれではありませんでした。英世は1歳の時に{{ruby|囲炉裏|いろり}}に落ち、左手に大{{ruby|火傷|やけど}}を負います。ただれた皮膚で指がくっついて開かなくなるというひどいものでした。英世は、学校に上がるようになると、このことでいじめられました。しかし、英世の学校の成績はとても素晴らしいものでした。英世の家計では、上級の学校に出すのは難しく、普通は小学校を出て働きに出るとことだったのですが、これを惜しんだ教師や地域の人がお金を出し合って、上の学校へ進ませました。また、火傷あとが不便であろうと、やはりお金を出し合って、まだ珍しかった西洋医術による手術を受けさせ、左手を使えるようにしました。英世はこの手術の成功に感激したことがきっかけで医師を目指すこととなりました。 :1896年(明治29年)英世は上京し、医学を学びます。1900年(明治33年)米国に渡り、研究を始めます。そして、アメリカを拠点として基礎医学の分野で数々の業績をあげ世界的な名声を得て、何回かノーベル生理学・医学賞の候補者ともなりました。 :1918年(大正7年)以降は{{ruby|黄熱|おうねつ}}病の研究に打ち込み、黄熱病の流行地域である南アメリカ各国やアフリカに渡って研究を続けます。しかし、黄熱病の研究中に自身もその病にかかり、1928年(昭和3年)アフリカのイギリス植民地ゴールド・コースト(現:ガーナ共和国) アクラで亡くなります。 :野口英世が偉人とされるのは、 :*庶民の出身であるにもかかわらず、高い能力で医者・研究者の地位についた<ref>大学以上の高等教育を受けさせることは当時の庶民にはめったにないことでした。また、英世の出身地会津は、戊辰戦争で官軍に抵抗し、政府などに関係者も少なく、薩長などの出身者より不利なところもありました。</ref>。 :*体に受けたハンディキャップにも負けず、努力して勉強した<ref>当時、家が貧しくても、軍隊に入って勉強するという方法もありましたが、英世の場合、このやり方は難しかったと考えられます。</ref>。 :*能力を世に出そうと、周囲の人が協力した。 :*日本ではなく、国外の研究所を拠点として国際的な活躍をした。 :というところにあると思います。野口英世の業績自体は、その後の医学の発展によって否定されたものも少なくはありませんが、目標に向けて努力する姿には見習うものがあると思います。 </small> |}</div> :日本の経済力が大きくなることにともなって、人々の暮らしもだんだん豊かなものになっていきましたが、この時期に、大きな災害に見舞われてもいます。 :まず、<span id="スペインかぜ"/>1918年(大正7年)から1920年(大正9年)にかけて世界中で流行した'''スペインかぜ'''といわれるインフルエンザの大流行です。当時は第一次世界大戦の交戦中であったため、軍人を中心に広く行き来し世界中で流行しました。全世界で30%にあたる5億人が感染し、少なくとも1700万人の死者がでたものと推定されています。日本においてもこの3年間で約40万人程度の死者が出ました<ref>最近のコロナ禍で、2020年から2022年7月現在の死者の累計数が約3万人であることと比較してみてください。</ref>。 :もう一つは、<span id="関東大震災"/>1923年(大正12年)9月1日、南関東一円を襲った'''関東大震災'''です。マグニチュード7.9〜8.3と推定される大地震<ref>1000年に1度と言われる2011年東日本大震災のマグニチュードは9.0で特別ですが、1995年阪神淡路大地震のマグニチュードは7.3くらいです。</ref>で、約1万人が倒れた建物の下敷きになって亡くなり、約9万人が、地震ののちに発生した火災で亡くなりました。 == 世界の変化3 == :'''この節は、小学校で学習する範囲を超えていますが、昭和以後の日本の歴史に大きく関わる第二次世界大戦がなぜ起きたのか、その後、「世界」はどうなったのかということを理解できていないと、昭和以降の日本の歴史を深く理解することはできません。''' :'''この節では、「ナショナリズム」「社会主義・共産主義」「資本主義」とはなにかということについては理解しておいてください。ここでは細かいところを覚えるのではなく、大きな流れを頭のかたすみに置けるようにし、次の章を読み進めてください。''' === ナショナリズムと社会主義・共産主義 === ==== 20世紀初めの世界 ==== :[[File:World 1898 empires colonies territory.png|thumb|650px|1898年の世界<br>国旗は上から、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、オランダ、ドイツ、トルコ、ベルギー、ロシア、日本、清、オーストリア、デンマーク、スウェーデン、アメリカ、イタリアの順です。]] :18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパや北アメリカを中心に[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#世界の変化1_-_産業革命|'''産業革命'''が起こって経済を工業が大きく動かす社会になりました]]。また、[[#世界の変化2_-_市民革命|欧米の'''市民革命'''をきっかけに経済力を持った市民が国の政治に参加するようになり、国民全員が国の活動に参加する'''国民国家'''が誕生しました]]。日本も、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#明治維新と武士の社会の終わり|明治維新で一つの国民国家になり、富国強兵・殖産興業をスローガンとして、国内経済の近代工業化を進めました]]。 :一方、国民国家をつくりあげ、産業革命で大きな経済力を得た欧米の各国(ここでは、<span id="先進国"/>『{{ruby|先進国|せんしんこく}}』と呼んでおきましょう。)は、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#帝国主義|各国の工業製品の材料と{{ruby|市場|しじょう}}を求め、アフリカやアジアの、まだ、国民国家としてまとまっていない国や地域に進出し、ほとんどの地域を植民地にしていました]]。 ==== ナショナリズム(民族運動) ==== :近代的な工業は、先進国を中心に進みましたが、やがて、製品を各地に売るため、また、原材料を輸送するため鉄道が各地に伸びて、近代社会は世界各地に広がり人々の生活を変えていきました。植民地となった地域でも近代的な教育が行われ、自由や平等といった人権の考え方が普及します。また、新聞などの出版物により人々のさまざまな考えが、広く伝わるようになります。 :植民地となっている地域で、このような知識の高まりが広がると、人々の中に、「どうして、私たちは、言葉や生活習慣の違う人たちに支配されなければならないのか」「私たちの作ったものは、安く買われて、先進国のものを高く買わないといけないのか」という考えが起こってきて、「独立して、自分たちの国を作ろう」という主張が芽生えます。この考えやこの考えに基づく運動を「'''ナショナリズム'''(民族主義・民族運動<ref>「ナショナリズム(Nationalism)」は、「ナショナル(National; ネイション(Nation; 国民・民族)の)」+「イズム(ism; 主義)」という意味です。国民主義とも訳されます。</ref>)」といいます。 :ナショナリズムは、最初、西ヨーロッパに隣接するオーストリア=ハンガリー帝国(「オーストリア帝国」と略します)やオスマン帝国の領土<ref>オーストリア帝国は、もともとヨーロッパの中でも最も強力な国の一つで、プロシアを中心としたドイツ帝国の成立まではドイツ民族の中心でした。この時代においても、中部ヨーロッパに広い領土を持つ国です。また、オスマン帝国は、15世紀に起こったトルコ民族が中心の国で、中東から北アフリカにかけてのイスラム世界を広くおさめ、ヨーロッパもバルカン半島まで領土としていた大国です。両国とも、19世紀にあっても広い領域を支配していましたが、近代化が遅れていました。</ref>であった中部ヨーロッパや東ヨーロッパ('''バルカン半島'''と呼ばれる地域を含みます)で盛んとなり、これが、第一次世界大戦の大きな原因となります。 :第一次世界大戦終結後は、アジア・アフリカの各地に広がり、世界各地で独立運動が展開されます。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="バルカン半島"/>バルカン半島<small> [[File:Karte Suedosteuropa 03 01.png|thumb|200px|太線でかこまれた地域がバルカン半島です。色の濃い地域が民族や宗教が入り混じっている地域になります。]] :バルカン半島は、ヨーロッパ中部、ドナウ川より南のアドリア海と黒海にはさまれた地域で、南は狭い海峡を隔ててアナトリア半島に面しています。歴史的には、古代ギリシア文明が栄えた地域であり、それに引き続いて古代ローマの文化が栄え、アナトリア半島との海峡のそばには、中世まで栄えた東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(ビザンティウム)が建設され、後にオスマン帝国の首都イスタンブールとなります。 :バルカン半島は、このように西にドイツやイタリアなどの西ヨーロッパ社会、東にロシアなどのスラブ社会、南にトルコなどのイスラム社会にかこまれ、東西ヨーロッパと西アジアを結ぶ交通の重要な地域であったため、それらの大きな勢力が波のように寄せたり引いたりする地域でした。また、この地域は山がちで、盆地が多く、各盆地ごとに生活する社会ができあがり、大変複雑な状態になっていました。スラブ系民族が多かったのですが、それに、ラテン系民族や、ギリシア系民族が混ざり、一部にはアジア系の民族もいました。また宗教もカトリックとギリシア正教にイスラム教の三大勢力が入り組んでいました。 :19世紀以降、人々がナショナリズムをとなえはじめ、各地で独立運動が起こります。この独立運動も運動の中での対立もあって、まとまることがなく、過激な行動も見られるようになりました。こうして、バルカン半島は『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれるようになりました。 </small> |}</div> ==== 社会主義と共産主義 ==== :[[File:Marx7.jpg|thumb|150px|カール・マルクス]] :<span id="労働運動"/>先進国国内にあっては、工業が発展するにつれて多くの{{ruby|労働者|ろうどうしゃ}}が生まれました。工場では工場労働者、石炭の炭鉱や鉄鉱石の鉱山では鉱山労働者、港で貨物の積み下ろしをする港湾労働者などです。産業革命前は、たとえば職人などは技術を長年にわたって習得する必要がある反面、技術を習得した職人は、代わりになる人を探すのが難しいという特徴がありましたが、産業革命以降の労働者の多くは単純な作業が多く、それができる人は数多いので経営者の都合で雇うこともクビにすることも簡単にできるようになりました。そのため、経営者など(労働者に対して{{ruby|資本家|しほんか}}という言い方をします)に比べて、多くの労働者は非常に貧しい生活となることが一般的でした。労働者は、自分たちの待遇(安定して雇われること、十分な賃金をもらえることや安全な労働環境など)を改善するために'''{{ruby|労働組合|ろうどうくみあい}}'''を結成し、集団で経営者と交渉したり、場合によっては'''ストライキ'''を起こすなどして資本家に対抗したりしました('''{{ruby|労働運動|ろうどううんどう}}''')。そのように、社会が変わっていくのを受けて、自由な経済活動を制限してでも、人々の平等な生活が送れる社会をめざすべきであるという'''{{ruby|社会主義|しゃかいしゅぎ}}'''の考えが生まれます。[[#世界の変化2 - 市民革命|市民革命]]は、国王や世襲の貴族といった身分社会から「自由」に活動できる権利を求める社会の変化でしたが、この自由には、工場を作ったり、物を取引する経済的な自由を含みます。自由な経済活動の結果、貧富の差が生じることについて、これをしかたがないことと認める考え方を、社会主義者は批判して、'''{{ruby|資本主義|しほんしゅぎ}}'''と名づけました。さらに、社会主義の中から、19世紀の半ばドイツ生まれの経済学者'''カール・マルクス'''は『{{ruby|資本論|しほんろん}}』を書いて、一層過激な'''{{ruby|共産主義|きょうさんしゅぎ}}'''をとなえました。 :<span id="共産主義"/>共産主義とは、簡単にいうと、農地や工場といった経済的な価値を生み出すものは、人々の共有にしてしまって、全ての人たちが働くことからのみ収入を得る<ref>この考えは、「働かざる者食うべからず」というスローガンに現れています。これは、働かないで怠けているものは食べるべきでない(=生きるべきでない)ととらえられがちですが、第一には、たとえば、地主が土地を小作人に貸したり、財産の利子や配当収入だけで生活できるような資本家を攻撃した言葉です。</ref>平等な社会を目指すという考え方です。それを実現するためには、資本家が持っている財産をうばって、分けあたえるということが必要になります。これは、革命であって、共産主義は、目指す社会を実現させるためには、革命が必要だと主張しました。この考え方は、世界中の多くの労働者の支持を得た一方で、ほとんどの資本家や、資本家が強く関わっている当時の各国の政府を強く警戒させました。また、社会主義や共産主義は、全ての人民が平等という考えが根本にありますから、君主制や民族主義とはあいいれないもので、<span id="反社会主義"/>王国や天皇制に親しみのある人たちや同じ民族だけで助け合おうとする人たちと敵対しましたし、また、平等な社会を作るためには、各個人の自由は多少制限されても仕方がないという考えであるため、人としての自由な行動を大事に思う人たちとも対立しました。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="イノベーション"/>新たな科学・技術の発展<small> :[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#世界の変化1_-_産業革命|人々のくらしが「産業革命」で大きく変わったことは、前にお話ししたとおりですが]]、1860年頃から1910年くらいまでの間に、「産業革命」と同じくらい、またはそれ以上の科学技術上の大きな発展が見られ、さらに人々の生活を大きく変えます<ref>歴史学者の一部では、これを「'''第二次産業革命'''」と呼びます</ref>。 #'''新たな動力の発明''' - 「産業革命」において、中心となった動力は、主に石炭を使用した蒸気機関でしたが、19世紀半ば以降、これに、新たな動力源が加わります。 #;{{ruby|内燃機関|ないねんきかん}} #:内燃機関とは、ガスまたは霧状にした燃料を爆発させ、それによって急激にふくらむ力を動力にする装置です。皆さんがよく知っているところでは、自動車のガソリンエンジンやディーゼルエンジンが代表的なものです。 #:蒸気機関の発明は主にイギリスでなされましたが、内燃機関はドイツで発展しました。1880年代、ゴットリープ・ダイムラーとカール・ベンツは各々で実用的なガソリンエンジンを発明し、それに少し遅れて、ルドルフ・ディーゼルがディーゼルエンジンを発明します。内燃機関は、蒸気機関に比べて小型化が容易なので、これを動力とした自動車が誕生しました<ref>ゴットリープ・ダイムラーとカール・ベンツは、各々で自動車の会社を作ります。1926年それらの会社が合併しダイムラー・ベンツができます。現在のメルセデス・ベンツ・グループ(「メルセデス」はダイムラー社製の車の愛称です)です。</ref>。蒸気機関は石炭に加え水が必要でしたが、内燃機関は燃料だけで足りるため、船舶などの動力は早期に内燃機関に切り替わりました。 #:<span id="飛行機"/>また、小型で高出力という特徴を活かして、1903年アメリカで'''ライト兄弟'''がガソリンエンジンを動力とした'''飛行機'''を飛ばすことに成功しました。 #:このように、内燃機関は小型にでき利用できる範囲も広いということで蒸気機関に取って代わっていきました。そのため、石油が資源としての重要性を大きく増すことになりました。 #;{{ruby|電動機|でんどうき}}(モーター)・発電機 #:[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#電気|電気が長い間研究されていたことは、前章に書いたとおりです]]。 #:電気を研究しているうちに、電気を通すことで磁石の力(磁力)が生じることが発見されました。すなわち、「電流」を通すと、「磁力」が発生し、鉄などが電磁石にくっつく(=「運動」する)ということです。1831年ファラデーは、これをまとめた、電気と磁気と運動の関係を発見します。この発見をもとに工夫して、電流を流して連続した回転運動を得る電動機(モーター)が発明されました。 #:逆に磁力のあるところで電線を運動させると、電線に電流が生じます。これを、応用して発電機が発明されました<ref>モーターに力を加えて回すことで電流を得ることができます。</ref>。電力は、それまで、化学反応を使った電池によって得ていましたが、大量に得ることは困難でした。発電機の発明によって、大量の電力を連続で安定的に得ることができるようになり、次に述べる「電気の実用化」が可能になります。 #'''電気の実用化''' #:こうして、大量の電気が供給されるようになると、産業や生活に大きな変化がもたらされます。 #:産業の面では、電気を使うことでメッキや化学産業などが起こりました。また、精錬するのに電気を必要とするアルミニウムが実用化になりました。 #:生活の面では、1880年頃に'''トーマス・エジソン'''が電球を発明するなど、身近な家庭電化製品が発明されていきました。また、同じ時期に'''アレクサンダー・グラハム・ベル'''が実用的な電話を発明しています。 #:1900年頃、音声を電波<ref>何もない空間を電気の変化を伝える性質である電波は、1887年に発見されました。</ref>を使って無線で飛ばす技術が開発され、それを応用して、1920年、'''ラジオ放送'''が開始しました。 #'''化学工業''' #:植物が育つには{{ruby|窒素|ちっそ}}が必要ですが、空気中の窒素は、豆類の根につく細菌類が化学合成し物質として固定するのを待つしかありませんでした。1909年にドイツで完成されたハーバー・ボッシュ法によって、空気中の窒素から直接、化学肥料の材料となるアンモニアを合成できるようになりました。効果的な化学肥料を製造できるようになり、農作物の収穫が格段と大きくなりました。これは、「水と石炭と空気からパンを作る方法」と言われました。 #:また、従来は火薬(黒色火薬)の原料として{{ruby|硝石|しょうせき}}が使われていて、地下資源として採掘するなど、容易に入手できるものではありませんでしたが、アンモニアが大量に手に入るようになったことと、黒色火薬より強力な窒素系の火薬が開発されたことで<ref>代表的なものは、ニトログリセリンです。これを安全に取り扱えるようダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルは、莫大な遺産でノーベル賞を創設しました。</ref>、火薬製造は原料の輸入に頼らず、強力な火薬が大量に製造できるようになりました。 </small> |}</div> === 全世界を巻き込む戦争 - 第一次世界大戦 === ==== 先進国の間の対立 ==== :[[File:3goku kyosho & 3goku domei.png|thumb|250px|三国同盟と三国協商]] :先進国のうちでも、イギリスやフランスは、いち早く近代的な国家の仕組みを整え、産業革命も世界に先がけて成しとげていました。そのため、国内では余る生産力を海外に向けるためアフリカやアジアの多くの地域を植民地として、綿花など原材料の生産地として、そして製品の市場としていました。19世紀半ば頃から他のヨーロッパの他の国も近代工業化がすすんできました。特に、1871年に北部のドイツを統一してできたドイツ帝国では、[[#イノベーション|科学技術のめざましい発展]]が見られ、国の経済力は、すでにフランスを圧倒し、イギリスと肩を並べるものになっていました。しかし、イギリスやフランスは国外にも多くの植民地をはじめとした国際的な市場を持っていたのですが、近代化の遅れたドイツは植民地をあまり持っておらず、国外への展開に困難がありました。 :ドイツ帝国は、同じドイツ系のオーストリア帝国、隣国のイタリア王国と同盟し('''三国同盟'''<ref name="イタリア">'''イタリア王国'''もドイツと同じように市民革命ののちに封建諸国でばらばらであったイタリア民族を統一した王国で、イギリス、フランスを追いかけていた国の一つです。このような共通点から、ドイツと同盟を結びますが、オーストリアとの間に領土問題が存在したため、最初は参戦せず、後に、協商国側で参戦します。</ref>)、オスマン帝国とはかって、バルカン半島からトルコを経由して中東までの鉄道を敷設し、この地域の経済を有利に進めようともくろみました。ドイツから中東までを独占し、さらに、そこからアジア・アフリカに進もうとする考えです。 :この考えに、アジアやアフリカを大きな市場としていたイギリスやフランスは警戒します。 :また、東にあるロシアは、バルカン半島での[[#南下政策|南下政策]]がクリミア戦争で{{ruby|挫折|ざせつ}}した後、極東に目を向けていたのですが、[[#日露戦争|日露戦争]]に敗れたため、再び、クリミヤ半島からの南下に政策を変えます。今度は直接攻め入るのではなくバルカン半島のスラブ国家や独立運動家を支援しオーストリア帝国やオスマン帝国に対抗させる形での介入です。イギリスとフランスは、ドイツを{{ruby|牽制|けんせい}}<ref>相手に自分の行動を見せつけ、勝手な行動をとれなくすること。</ref>するため、ロシアとの間に{{ruby|協商|きょうしょう}}条約<ref>「協商」は「相談をする」と言う意味で、「協商条約」は外交にあたって相談をするということを約束した条約です。「商業」と直接の関係はありません。</ref>を結びます('''三国協商'''<ref>英仏・仏露・英露、各々の協商条約などを合わせたものです。イギリスとロシアは日露戦争までは敵対していましたが、ロシアが敗戦したことをきっかけに、同盟関係を結びます。</ref>)。 :こうして、バルカン半島を中心に、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国とその東西の国との緊張が高まってきました。 ==== 初めての『世界大戦』 ==== :バルカン半島中西部のボスニア・ヘルツェゴビナは、長い間、オスマン帝国の領土で、住民もイスラム教に改宗した人々(ボスニア人)が多い地域でしたが、19世紀後半以降オーストリア帝国が支配する領域となっていました。 :1914年6月28日、オーストリア皇太子がボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボを訪問した際、隣国セルビア王国のボスニア系の独立運動家に暗殺されました('''サラエボ事件''')。これが、きっかけとなって、7月28日オーストリア帝国はセルビア王国に宣戦布告し、セルビアを支援するロシアも参戦、これを受けてオーストリアと同盟を組むドイツが参戦、そして、ドイツと敵対するフランスとイギリスが参戦し全ヨーロッパにおける戦争『'''第一次世界大戦'''<ref>これから、25年後、次の世界中を巻き込んだ大きな戦争が起こり、それを『'''第二次'''世界大戦』と呼ぶため、この戦争を『'''第一次'''世界大戦』とよびます。この当時は、『世界戦争』・『大戦争』と呼んでいました。</ref>』が始まりました。なお、以下、ドイツ・オーストリア側を「<span id="同盟国"/>'''同盟国'''<ref name="イタリア"/>」、イギリス・フランス・ロシア側を「<span id="協商国"/>'''協商国'''」と言うこととします。 :第一次世界大戦はそれまでの戦争とことなって『'''国家総力戦'''(または、'''総力戦''')』と言われます。それまでの戦争は、あくまでも軍隊と軍隊の戦いで、軍事拠点をめぐっての争いや、双方の主力部隊がある戦場で戦う(会戦)もので成り立っていて、そのような場所以外が戦火の被害を受けることは少なく、また、軍人以外で戦争で死傷する人は限られていました。しかし、第一次世界大戦になると、戦争は軍人以外の国民も巻き込んだものとなります。兵士は国民の中から徴兵されたものですし、銃砲や砲弾・銃弾、それに用いる火薬といった兵器の製造力も国内の工業力に支えられます。兵器だけではなく、軍服や戦場に持ち込む食糧もそうです。また、兵器やその他の物資を輸入に頼るにしても、その資金は国内の工場の生産物を輸出することで得られるものです。そのため、敵対する国は、相手の軍隊を攻撃するだけではなく、相手の国の生産力を下げるため、戦闘の機会に工場や輸送に用いる鉄道・港湾・船舶を破壊するようになります。さらに、相手が戦争を継続する力を落とすために、軍隊どうしの戦場ではないところの住宅等も破壊するようになりました。総力戦になって、軍人以外の民間人の死傷者や家屋などの財産の破壊が、それ以前と比べられないほどに増大しました。 :戦争は、ヨーロッパだけでなく世界中を巻き込みました。1914年11月ロシアと対抗し、イギリスに脅威を感じていたオスマン帝国は同盟国として参戦しました。こうして戦争は北アフリカなどにも広がりました。 :日本は、日英同盟から、イギリスに要請され協商国側に参戦し、ドイツの租借地である中国の{{ruby|青島|チンタオ}}や南太平洋の島々を占領しました。 :[[File:Cheshire Regiment trench Somme 1916.jpg|thumb|250px|第一次世界大戦の塹壕(ざんごう)]] :第一次世界大戦では、{{ruby|塹壕|ざんごう}}という攻めてくる敵に対して地面に人が隠れられる溝を掘って<ref>フランスとドイツの間には、大西洋からスイスまでの全長700kmにわたる塹壕が両陣営でできました。</ref>、守りを固める戦法をとったため、お互い戦闘が進まず、戦争は長期化し、同盟国・協商国ともども国内経済は衰退し、国民生活はだんだん貧しいものとなっていました。一方で、当時の最先端の科学技術は次々と投入されます。化学工業の発展は火薬の力を強くしていましたし、毒ガスの開発にも応用されました。また、内燃機関を使ったトラックなどが、馬車などに代わって兵士を移動する手段となり、また、道の状態にかかわらず進むことができる、戦車なども開発されました。そして、[[#飛行機|発明されたばかりの航空機]]も戦場に投入されました。こうした、最新の科学技術の投入は、戦場をますます{{ruby|悲惨|ひさん}}なものにしていきました。 :1917年になって、状況が大きく変わります。 :アメリカ合衆国(以下、しばしば、「米国」と略します)は、もともと、「<span id="モンロー主義"/>南北アメリカ大陸のことに、ヨーロッパの国に口を出させない。その代わり、米国もヨーロッパの政治に口を出さない」という外交の方針があって、また、移民の国であるため、ドイツ系の国民も多く、中立の立場にいました。しかし、ドイツがイギリス周辺を航行する船を、軍事に関する物品を輸送する船であると潜水艦で攻撃し沈めるという作戦をとったところ、米国人を多数乗せた船を沈めると言う事件などがあって、この年に、協商国側として参戦します。米国の参戦は軍隊が増えたことに加えて、米国の工場など生産設備が無傷であったため、イギリスやフランスといった協商国には物資がどんどん補給され、協商国側に有利となりました。 :一方で、東側のロシアとの戦争も一進一退の状態でしたが、バルト海と黒海を同盟国側が封鎖したため、ロシアは輸出入がとだえ、国内の物資不足とインフレが社会問題となっており、各地でストライキや暴動が起こり、1917年2月に皇帝ニコライ2世は退位します('''ロシア革命''')。このような中、[[#共産主義|共産主義]]の運動家である'''ウラジーミル・レーニン'''らが政府を握り、同年12月にはドイツとの戦争を停止します。 :こうして、ドイツは、東側での戦争は終結したのですが、イギリス・フランスと戦う西側では、1918年になると米国の支援により優勢になり、また、[[#スペインかぜ|スペインかぜ(インフルエンザ)が大流行]]するなどして、戦闘の継続は困難なものとなり、11月ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はオランダへ{{ruby|亡命|ぼうめい}}<ref>国外に逃げ出すことを言います。</ref>、オーストリア皇帝カール1世も退位し、第一次世界大戦は事実上終了しました(正式な終了は講和条約が締結された翌年1919年となります)。 :同盟国であったドイツ帝国、オーストリア帝国、オスマン帝国は崩壊し、それぞれ共和国となりました<ref>オスマン帝国は、1918年に降伏し、1922年にトルコ革命により共和制となります。</ref>。 :<span id="第一次世界大戦の犠牲者"/>第一次世界大戦は、協商国側の戦死者 553万人、戦傷者 1283万人、行方不明者 412万人、同盟国側の 戦死者 439万人、戦傷者 839万人、行方不明 363万人。民間人の死亡者、協商国側 360万人、同盟国側 314万人と人類が経験したことがない規模の犠牲者を出すことになりました。 ==== 第一次世界大戦後の世界 ==== :1919年フランスのパリで第一次世界大戦の講和会議が開かれました。その結果、 :#敗戦国は戦勝国に賠償金を支払う。 :#領土の一部を戦勝国に割譲する。 :#オーストリア帝国、オスマン帝国が支配していた中央ヨーロッパ・バルカン半島、中東から北アフリカにかけての地域について、独立またはイギリスやフランスの保護領とする。 :#敗戦国の軍備は数年間制限する。 :などが決められました。 :また、このような戦争が2度と起こらないようにと米国大統領ウッドロウ・ウィルソンが提唱し、常設の国際的な協議機関「<span id="国際連盟"/>'''{{ruby|国際連盟|こくさいれんめい}}'''」が誕生します。国際連盟の運用は理事会が行いますが、日本は理事会の常任理事国にイギリス、フランス、イタリアと共に選ばれました。しかし、これを提唱した米国は、[[#モンロー主義|従来の国の方針]]から国内の反対があって国際連盟に加盟しませんでした。 ;第一次世界大戦がもたらしたもの :第一次世界大戦は、人類の歴史が始まって以来の大量の戦死者や戦傷者を出し、当時最も発展していたヨーロッパの国土が荒廃するなど、世界に大きな影響を与えました。その結果として以下のような変化が生じました。 :#ヨーロッパの衰退とアメリカ合衆国・日本の台頭 :#:同盟国であるドイツはもちろん協商国側のフランスは戦場として荒廃し、イギリスも大量の兵力を送り出すなどして疲弊するなど、ヨーロッパの生産力が弱まりました。代わって戦場とならなかった米国は、協商国に兵器他大量の物資を輸出した他、ヨーロッパ諸国が輸出していた地域に代わって輸出することになり、大きな経済的発展を見せることとなりました。その国力を背景に、国際政治で主導的な地位に立ちました。しかし、[[#モンロー主義|もともとの国の方針]]から、国際政治に十分に参加できませんでした。 :#:日本も、国民国家を成立させ産業革命をなしとげた世界でも数少ない国のひとつでしたが、ヨーロッパから遠く離れ、第一次世界大戦の影響を受けることはなく、米国ほどではありませんがヨーロッパの国々が輸出できない分をうめあわせるなどして経済が発展し、[[#国際社会|国際社会でも有力な国となりました]]。 :#<span id="軍縮"/>国際機関の誕生と軍縮の傾向 :#:それまでの国際外交は、国対国の関係でしたが、国際関係が複雑になると、関係する国がまとまって討議するようになりました。第一次世界大戦以前から、電気通信に関して万国電信連合(現.国際電気通信連合)がありましたが、戦後、世界平和を目標とする国際連盟が結成され、平和以外にも人権などについて各国が参加して討議されるようになりました。 :#:第一次世界大戦の{{ruby|惨状|さんじょう}}から、各国共に{{ruby|厭戦|えんせん}}<ref>戦争を嫌うこと。</ref>ムードになっていたため、軍縮に関する国際会議が何回も開かれました。 :#ナショナリズムの実現 :#:ナショナリズムの高まりは、国際的に認められるようになり、オーストリア帝国やオスマン帝国が支配した領域から、同じ民族で集まった国が数多く独立することになりました。しかし、アジアやアフリカの諸国は、まだ独立が認められず、第一次世界大戦後はアジア各地での独立運動が見られるようになります。 :#:また、先進国自身においても一種の民族主義が盛んになります。これは、国外資本が進出してくることや社会主義の民族主義を否定する動きに反発するものです。これが、のちに[[戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#ファシズム|ファシズム]]と呼ばれるものになります。 :#社会主義国家の誕生 :#:ロシア革命後、ロシア国内では内戦が起こり、1922年レーニンが率いる共産党が国内をまとめ、世界で初めての[[#共産主義|社会主義・共産主義]]を国の仕組みに持った'''ソビエト社会主義共和国連邦'''<ref>「ソビエト(ソヴェート)」はロシア語で「評議会」の意味で、ロシア革命前後に人々が集まって政治の方針を決めた団体が母体になっていることを意味します。「社会主義共和国」は社会主義を政治の方針とする共和国ということです。最後の「連邦」は、そのような社会主義共和国がいくつか集まって1国となっているということを言っており、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア・ソビエト社会主義共和国など、いくつかのの国で構成されていました。</ref>('''ソビエト連邦'''、'''ソ連''')が誕生しました。 == 脚注 == 以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small> <references/></small> ---- {{前後 |type=章 |[[小学校社会/6学年/歴史編]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう|日本の歴史の流れ]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代|明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで|戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで]] }} [[Category:社会|しようかつこうしやかい6]] [[Category:小学校社会|6ねん]] [[Category:小学校社会 歴史|#12]] 0yh3t3vwi5q6ks45az3ovub6yzr4sab 高校英語の文法/否定 0 35113 207298 206716 2022-08-27T01:49:25Z すじにくシチュー 12058 /* 部分否定と全否定 */ wikitext text/x-wiki == 否定 == === never === never は、頻度について「一度も~ない」(経験が「ない」)や「決して~ない」という意味。 「決して~ない」の意味の場合、never は決して単に not の強調語ではない。 never の「決して~ない」の意味は、現在の習慣として、比較的に長期の期間にわたって、確実に「ない」ことの意味である(青チャート、ジーニアス)。 なので、短期の間だけ「ない」場合には never は用いない(ジーニアス、青チャート)。 never は、助動詞ではない(don't などとは違う)。なので、never のあとの動詞は、主語や時制によって形が変わりうる(青チャート)。たとえば、もし主語が it や he や she など三単現なら、neverのうしろの動詞には三単現の s がついたまま(青チャート)。 助動詞ではないので、will never などのように助動詞と併用することも可能(エバーグリーン、ジーニアス)だし、will never は「(今後、)~することはないだろう」の意味を表す(ジーニアス)。 never は完了形have といっしょにhave never (または has never)という形で使われることもあり、have never は「一度も~したことがない」の意味で使われる(ジーニアス、桐原ファクト)。 never の語源と意味合いは、not ever である。 「 Nothing will ever 動詞 」の構文のように、一見すると never の単語が無くても、「否定の語句 + ever 」という構文なら、その意味合いは基本的には never と同じである場合もある(青チャートの無生物主語の単元)。 === no === どこの参考書にもある例文で(桐原、大修館)、 I have no money with me. 「お金の持ち合わせが少しもありません。」 no は強い否定を表す。 He is no genius. 「彼は天才なんかじゃない」(=馬鹿だ) He is no gentleman. 「彼は紳士なんかじゃない」 「no 形容詞」で、その逆の意味であることを表す。和訳の際は、単に「決して・・・でない」と訳せば十分(桐原、大修館)。 「no 名詞」は、「~がひとつもない」という意味も表す用法もある。 この場合、続く名詞が単数形か複数形かは、他の一般的な場合に単数であることの多い名詞ならnoに続く名詞も単数形に、同様に一般的に複数であることの多い名詞ならnoに続く名詞もあわせて複数形にする。 === 準否定語 === not や no は、文を完全に否定する。 いっぽう、完全な否定ではなく、「ほとんどない」や「あまりない」といった程度や頻度が少ないことをあらわす語のことを「'''準否定語'''」という(青チャート、桐原ファクト)。 hardly や scarcely 、seldom や rarely, few や little などが準否定語である(インスパイア)。 なお、文中でのこれらの準否定語の位置は、never や not などと同じであり、具体的に言えば 一般動詞の前/ be動詞・助動詞の後ろ である(青チャート、桐原ファクト)。 ;hardly, scarcely 程度が「ほとんど・・・ない」 hardly, scarcely は程度が「ほとんど・・・ない」ことを示す。 hardlyなどの位置は、普通、一般動詞の前、be動詞/助動詞の後ろに置く。 scarcely は固い語である。 ;seldom, rarely 頻度が低い「めったに・・・ない」 seldom, rarely は頻度が低いことを示し、和訳の際はよく「めったに・・・ない」と訳される。 seldom などの位置は、普通、一般動詞の前、be動詞/助動詞の後ろに置く。 なお、hardly ever または scarcely ever で頻度の低さを示すこともできる(桐原、大修館)。 ;few , little 数や量が「ほとんど~ない」 few や little は数や量が「ほとんど~ない」ことを示す。 few は数えられる名詞(可算名詞)の場合において「ほとんどない」場合を示す。 たとえば 「few people ~」で、「~な人はほとんどいない」の意味。 little は数えられない名詞(不加算名詞)の場合において「ほとんどない」場合を示す。 このように few や little は、やや否定の意味が弱まっている。 なお a few や a little のように不定冠詞 a がつくと、否定の意味がさらに弱まり、「少しはある」の意味になる。 しかし、まぎらわしいことに、 only a few および only a little は、「ほとんど~ない」の意味である(ロイヤル、大修館)。 なお、only a few および only a little は形容詞的に名詞を修飾するのに使うのが一般的である。参考書では特に言及されてないが、例文がそうである。 {{コラム|日本語の否定との違い| よく日本語の否定は「否定語が最後にくるので、最後まで聞かないと否定かどうか分からないので、日本語は分かりづらい」などと批判されることもある。 しかし日本語の否定表現には、「あまり~'''ない'''」や「ほとんど~'''ない'''」といった上述でいう準否定のような表現も含めて、必ず日本語では「ない」またはそれを変化した単語が来るのが通例であるので(青チャート)、文末さえ読み書きさえすれば、あとは文章を一見しただけで否定表現であるかどうかが容易に判別できるので、考えようによっては日本語には分かりやすい面もある(青チャート)。 裏を返せば、英語には、日本語のような準否定と完全否定との間においての共通の単語は無い。 seldom のように準否定でしか使われない単語なら、まだ判別しやすいが、ほかにも 「too ~ to 不定詞」(・・・するには~すぎる)のような表現になると too も to も否定以外でも使われるので、文法知識が無いと否定表現だとは判別できなくなる。 このように英文法の学習では、発想を日本語とは切り替える必要がある(青チャート)。 }} === 部分否定と全否定 === not ・・・ all は「すべてが・・・というわけではない」のような意味なので、少しは・・・なものがある、という含みがある。また、このような否定の仕方を、'''部分否定'''という。 なお、not always 「いつも~なわけはない」も部分否定である。つまり、例の not always の場合なら時々は~な場合もある。 not ・・・ any は「ひとつも・・・なものはない」のような意味であり、またこのような否定のしかたを全否定という。 ただし、all ~notが部分否定か全否定かは文脈による(ロイヤル)。 また、nobody または no ~ も同様に全否定。 not ~ both は「両方とも~なわけではない」という部分否定。 not ~ neither は全否定。 部分否定を作る語は、次のようなものがある。一般に否定語とともに次の語が用いられると部分否定になる。 always(いつも), altogether(全く), every(すべての), necessarily(必ず), wholly , entirely(完全に), completely(完全に), これらの語の多くは、「全部」や「完全」などの意味をもつ副詞・形容詞であり、それらを否定することは「全部がそうである」という事を否定しているにすぎず、「一部にはそうでないものもありうる」という含みがある。 not necessarily は「必ずしも~というわけではない」の意味。 「not many 名詞」は、「あまり多くない」の意味。 「not much」は「あまり~でない」の意味。 「both ~ not 」および「 not ~ both 」は部分否定であり「両方とも・・・とは限らない」の意味だが、全否定と混同されやすにこともあり、使用は避けられている(インスパイア)。 all ~ not や every ~ not も同様、部分否定か全否定かは、形からは判別できない(インスパイア、青チャ)。ジーニアスは、all ~ not の語順は避けるべきだとしている。なお、always ~ not や every ~notなども同様(ジーニアス) ただし、次の慣用句 All that glitters is not gold. 「光るものは必ずしも金ならず.」(部分否定) は部分否定だと分かっている。 ここら辺の単元は紛らわしいので、入門的な参考書(エバーグリーンや桐原ファクトなど)では深入りしてない事項である。 なお、not all は全否定である(エバーグリーン、ジーニアス)。また none は全否定である。 暗記としては「not all 全否定」とでもnot all のほうだけをセットで覚えて、覚えてないほうは「使用が避けられているから、暗記対象から外れている」という事だけを覚えるのが良いだろう。 === 二重否定 === たとえば It's not unusual ~ 「~するのは、めずらしいことではない」 のような表現を、二重否定という。 unusual は、usual(普通である)を否定した語である。 さらに not unusual とnotで否定しているので、つまり最終的には肯定の意味に近くなるが、しかし二重否定は肯定とまったく同じとは言えず、二重否定には若干のためらいや控えめな気持ちがある(大修館、ロイヤル)。 このためか、二重否定の文の和訳の際には、「めすらしいことではない」のように訳し分けるのが一般(ロイヤル、大修館)。 never ・・・ without ~ 「~なしで・・・することは決してない」 nobody や nothing や no one などは普通、二重否定にはしないので、つまり not や never とは併用しない(ロイヤル、桐原フォレスト、エバーグリーン)。 === 慣用表現 === You cannot be too careful when ~ 「~する時はいくら気をつけても気をつけすぎることはない」 cannot help ~ing 「~せずにはいられない」 ここでの help は「~を避ける」の意味。 not ~ until ・・・ 「・・・して始めて~した」の意味。 no longer 「(今では)もはや~ではない」「(今では)もう~ではない」 not any longer でも言い換えできる。 no sooner ・・・ than ~ 「・・・するとすぐに~」 否定を使った慣用表現は多数あるので、紹介しきれない。市販の参考書でも、参考書によって紹介されている表現がマチマチである。 「do nothing but ~(動詞の原型)」は「~してばかりいる」「~ばかりしている」の意味。 このbutは「~を除いて」の意味であり、それを除くと何もしなくなるのだから、つまりそれしかしていないという意味になるので、上述のような意味になる。 ==== 否定語を使わない否定表現 ==== ===== 不定詞を使った否定表現 ===== 「too ~ to ・・・」は「~すぎて・・・できない」の意味。直訳すると「・・・するには~すぎる」の意味。この直訳のほうを和訳として紹介している参考書もあるので、直訳でも間違いではない。 「be the last person to ~動詞の原型」は、「けっして~しない人である」の意味。主語がheならpersonの部分がmanのこともある。 He is the last man to ~. 「彼はけっして~する男ではない。」 fail to ~(不定詞)「しない」「できない」 は、本来なら起きるべき事が起こらなかった場合に使う。 ===== その他の否定表現 ===== far from ~ 「~から程遠い」=「けっして~とは言えない」、「少しも~ではない」の意味。 far from の後ろには名詞の場合のほかにも、形容詞が来る場合もある。 free from ~ 「~がない」 free from は、束縛するものがないという意味なので、意味的にやっかいなものが後ろに続き、嫌なものや心配や苦痛など(ジーニアス、フォレスト)が「~」の部分に来る。 たとえば、 be free from air pollution 「大気汚染がない」(ロイヤル、桐原フォレスト) 前置詞に fromの代わりにof が来ることもある。 free of ~ 「~がない」 anything but ~ 「けっして~ではない」 but は「~を除いて」「~以外」の意味。anything は「何でも」の意味。 「anything but ~」で直訳すれば「~以外は何でも」の意味だが、英語では「けっして~ではない」のように否定の強調として使われるので、和訳の際には「けっして~ではない」という風に訳す。 その他、前置詞 beyond ~ は「~を超えて」の意味であるが、文脈によっては否定の意味になる事もある。 たとえば、beyond my understanding 「私の理解を超えて」→「私には理解できない」、(ロイヤル英文法) beyond description 「描写を超えている」→(凄すぎたりして)「描写しようがない」 など。beyond の後ろに人がする行動の名詞などが来ると、「~をできる範囲を超えている」→「~できない」のような意味になる。 57p846dyhijkozs84inmht1tsxl2zvg 207299 207298 2022-08-27T01:57:00Z すじにくシチュー 12058 /* 部分否定と全否定 */ yupo wikitext text/x-wiki == 否定 == === never === never は、頻度について「一度も~ない」(経験が「ない」)や「決して~ない」という意味。 「決して~ない」の意味の場合、never は決して単に not の強調語ではない。 never の「決して~ない」の意味は、現在の習慣として、比較的に長期の期間にわたって、確実に「ない」ことの意味である(青チャート、ジーニアス)。 なので、短期の間だけ「ない」場合には never は用いない(ジーニアス、青チャート)。 never は、助動詞ではない(don't などとは違う)。なので、never のあとの動詞は、主語や時制によって形が変わりうる(青チャート)。たとえば、もし主語が it や he や she など三単現なら、neverのうしろの動詞には三単現の s がついたまま(青チャート)。 助動詞ではないので、will never などのように助動詞と併用することも可能(エバーグリーン、ジーニアス)だし、will never は「(今後、)~することはないだろう」の意味を表す(ジーニアス)。 never は完了形have といっしょにhave never (または has never)という形で使われることもあり、have never は「一度も~したことがない」の意味で使われる(ジーニアス、桐原ファクト)。 never の語源と意味合いは、not ever である。 「 Nothing will ever 動詞 」の構文のように、一見すると never の単語が無くても、「否定の語句 + ever 」という構文なら、その意味合いは基本的には never と同じである場合もある(青チャートの無生物主語の単元)。 === no === どこの参考書にもある例文で(桐原、大修館)、 I have no money with me. 「お金の持ち合わせが少しもありません。」 no は強い否定を表す。 He is no genius. 「彼は天才なんかじゃない」(=馬鹿だ) He is no gentleman. 「彼は紳士なんかじゃない」 「no 形容詞」で、その逆の意味であることを表す。和訳の際は、単に「決して・・・でない」と訳せば十分(桐原、大修館)。 「no 名詞」は、「~がひとつもない」という意味も表す用法もある。 この場合、続く名詞が単数形か複数形かは、他の一般的な場合に単数であることの多い名詞ならnoに続く名詞も単数形に、同様に一般的に複数であることの多い名詞ならnoに続く名詞もあわせて複数形にする。 === 準否定語 === not や no は、文を完全に否定する。 いっぽう、完全な否定ではなく、「ほとんどない」や「あまりない」といった程度や頻度が少ないことをあらわす語のことを「'''準否定語'''」という(青チャート、桐原ファクト)。 hardly や scarcely 、seldom や rarely, few や little などが準否定語である(インスパイア)。 なお、文中でのこれらの準否定語の位置は、never や not などと同じであり、具体的に言えば 一般動詞の前/ be動詞・助動詞の後ろ である(青チャート、桐原ファクト)。 ;hardly, scarcely 程度が「ほとんど・・・ない」 hardly, scarcely は程度が「ほとんど・・・ない」ことを示す。 hardlyなどの位置は、普通、一般動詞の前、be動詞/助動詞の後ろに置く。 scarcely は固い語である。 ;seldom, rarely 頻度が低い「めったに・・・ない」 seldom, rarely は頻度が低いことを示し、和訳の際はよく「めったに・・・ない」と訳される。 seldom などの位置は、普通、一般動詞の前、be動詞/助動詞の後ろに置く。 なお、hardly ever または scarcely ever で頻度の低さを示すこともできる(桐原、大修館)。 ;few , little 数や量が「ほとんど~ない」 few や little は数や量が「ほとんど~ない」ことを示す。 few は数えられる名詞(可算名詞)の場合において「ほとんどない」場合を示す。 たとえば 「few people ~」で、「~な人はほとんどいない」の意味。 little は数えられない名詞(不加算名詞)の場合において「ほとんどない」場合を示す。 このように few や little は、やや否定の意味が弱まっている。 なお a few や a little のように不定冠詞 a がつくと、否定の意味がさらに弱まり、「少しはある」の意味になる。 しかし、まぎらわしいことに、 only a few および only a little は、「ほとんど~ない」の意味である(ロイヤル、大修館)。 なお、only a few および only a little は形容詞的に名詞を修飾するのに使うのが一般的である。参考書では特に言及されてないが、例文がそうである。 {{コラム|日本語の否定との違い| よく日本語の否定は「否定語が最後にくるので、最後まで聞かないと否定かどうか分からないので、日本語は分かりづらい」などと批判されることもある。 しかし日本語の否定表現には、「あまり~'''ない'''」や「ほとんど~'''ない'''」といった上述でいう準否定のような表現も含めて、必ず日本語では「ない」またはそれを変化した単語が来るのが通例であるので(青チャート)、文末さえ読み書きさえすれば、あとは文章を一見しただけで否定表現であるかどうかが容易に判別できるので、考えようによっては日本語には分かりやすい面もある(青チャート)。 裏を返せば、英語には、日本語のような準否定と完全否定との間においての共通の単語は無い。 seldom のように準否定でしか使われない単語なら、まだ判別しやすいが、ほかにも 「too ~ to 不定詞」(・・・するには~すぎる)のような表現になると too も to も否定以外でも使われるので、文法知識が無いと否定表現だとは判別できなくなる。 このように英文法の学習では、発想を日本語とは切り替える必要がある(青チャート)。 }} === 部分否定と全否定 === not ・・・ all は「すべてが・・・というわけではない」のような意味なので、少しは・・・なものがある、という含みがある。また、このような否定の仕方を、'''部分否定'''という。 なお、not always 「いつも~なわけはない」も部分否定である。つまり、例の not always の場合なら時々は~な場合もある。 not ・・・ any は「ひとつも・・・なものはない」のような意味であり、またこのような否定のしかたを全否定という。 ただし、all ~notが部分否定か全否定かは文脈による(ロイヤル)。 また、nobody または no ~ も同様に全否定。 not ~ both は「両方とも~なわけではない」という部分否定。 not ~ neither は全否定。 部分否定を作る語は、次のようなものがある。一般に否定語とともに次の語が用いられると部分否定になる。 always(いつも), altogether(全く), every(すべての), necessarily(必ず), wholly , entirely(完全に), completely(完全に), これらの語の多くは、「全部」や「完全」などの意味をもつ副詞・形容詞であり、それらを否定することは「全部がそうである」という事を否定しているにすぎず、「一部にはそうでないものもありうる」という含みがある。 not necessarily は「必ずしも~というわけではない」の意味。 「not many 名詞」は、「あまり多くない」の意味。 「not much」は「あまり~でない」の意味。 「both ~ not 」および「 not ~ both 」は部分否定であり「両方とも・・・とは限らない」の意味だが、全否定と混同されやすにこともあり、使用は避けられている(インスパイア)。 all ~ not や every ~ not も同様、部分否定か全否定かは、形からは判別できない(インスパイア、青チャ)。ジーニアスは、all ~ not の語順は避けるべきだとしている。なお、always ~ not や every ~notなども同様(ジーニアス) ただし、次の慣用句 All that glitters is not gold. 「光るものは必ずしも金ならず.」(部分否定) は部分否定だと分かっている。 ここら辺の単元は紛らわしいので、入門的な参考書(エバーグリーンや桐原ファクトなど)では深入りしてない事項である。 なお、not all は部分否定である(エバーグリーン、ジーニアス)。いっぽう、 none は全否定である。 暗記としては「not all 部分否定」とでもnot all のほうだけをセットで覚えて、覚えてないほうは「使用が避けられているから、暗記対象から外れている」という事だけを覚えるのが良いだろう。 === 二重否定 === たとえば It's not unusual ~ 「~するのは、めずらしいことではない」 のような表現を、二重否定という。 unusual は、usual(普通である)を否定した語である。 さらに not unusual とnotで否定しているので、つまり最終的には肯定の意味に近くなるが、しかし二重否定は肯定とまったく同じとは言えず、二重否定には若干のためらいや控えめな気持ちがある(大修館、ロイヤル)。 このためか、二重否定の文の和訳の際には、「めすらしいことではない」のように訳し分けるのが一般(ロイヤル、大修館)。 never ・・・ without ~ 「~なしで・・・することは決してない」 nobody や nothing や no one などは普通、二重否定にはしないので、つまり not や never とは併用しない(ロイヤル、桐原フォレスト、エバーグリーン)。 === 慣用表現 === You cannot be too careful when ~ 「~する時はいくら気をつけても気をつけすぎることはない」 cannot help ~ing 「~せずにはいられない」 ここでの help は「~を避ける」の意味。 not ~ until ・・・ 「・・・して始めて~した」の意味。 no longer 「(今では)もはや~ではない」「(今では)もう~ではない」 not any longer でも言い換えできる。 no sooner ・・・ than ~ 「・・・するとすぐに~」 否定を使った慣用表現は多数あるので、紹介しきれない。市販の参考書でも、参考書によって紹介されている表現がマチマチである。 「do nothing but ~(動詞の原型)」は「~してばかりいる」「~ばかりしている」の意味。 このbutは「~を除いて」の意味であり、それを除くと何もしなくなるのだから、つまりそれしかしていないという意味になるので、上述のような意味になる。 ==== 否定語を使わない否定表現 ==== ===== 不定詞を使った否定表現 ===== 「too ~ to ・・・」は「~すぎて・・・できない」の意味。直訳すると「・・・するには~すぎる」の意味。この直訳のほうを和訳として紹介している参考書もあるので、直訳でも間違いではない。 「be the last person to ~動詞の原型」は、「けっして~しない人である」の意味。主語がheならpersonの部分がmanのこともある。 He is the last man to ~. 「彼はけっして~する男ではない。」 fail to ~(不定詞)「しない」「できない」 は、本来なら起きるべき事が起こらなかった場合に使う。 ===== その他の否定表現 ===== far from ~ 「~から程遠い」=「けっして~とは言えない」、「少しも~ではない」の意味。 far from の後ろには名詞の場合のほかにも、形容詞が来る場合もある。 free from ~ 「~がない」 free from は、束縛するものがないという意味なので、意味的にやっかいなものが後ろに続き、嫌なものや心配や苦痛など(ジーニアス、フォレスト)が「~」の部分に来る。 たとえば、 be free from air pollution 「大気汚染がない」(ロイヤル、桐原フォレスト) 前置詞に fromの代わりにof が来ることもある。 free of ~ 「~がない」 anything but ~ 「けっして~ではない」 but は「~を除いて」「~以外」の意味。anything は「何でも」の意味。 「anything but ~」で直訳すれば「~以外は何でも」の意味だが、英語では「けっして~ではない」のように否定の強調として使われるので、和訳の際には「けっして~ではない」という風に訳す。 その他、前置詞 beyond ~ は「~を超えて」の意味であるが、文脈によっては否定の意味になる事もある。 たとえば、beyond my understanding 「私の理解を超えて」→「私には理解できない」、(ロイヤル英文法) beyond description 「描写を超えている」→(凄すぎたりして)「描写しようがない」 など。beyond の後ろに人がする行動の名詞などが来ると、「~をできる範囲を超えている」→「~できない」のような意味になる。 4advw5f9832db1wmn69pz34ithcje7l 小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで 0 35311 207322 206711 2022-08-27T09:10:21Z Mtodo 450 wikitext text/x-wiki {{Nav}} {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|6学年|歴史編|frame=1}} {| class="wikitable" style="width:100%" |+ この章の概要 |<!--(サ)日中戦争や我が国に関わる第二次世界大戦,日本国憲法の制定,オリンピック・パラリンピックの開催などを手掛かりに,戦後我が国は民主的な国家として出発し,国民生活が向上し,国際社会の中で重要な役割を果たしてきたことを理解すること。--> ★時代区分:昭和時代、平成時代、令和</br> ★取り扱う年代:1926年(昭和改元)以降 ; 戦争への道 : 1926年昭和天皇が即位し、元号が「'''昭和'''」となりました。 : 日本経済は、第一次世界大戦終結後、長く低迷を続けていましたが、1929年に'''世界恐慌'''が起きるとさらに景気が悪くなりました。人々の一部は、中国東北部(満州)の開発で、これを解決しようとしました。こうして、'''中華民国'''との間に対立が生まれ、1931年から戦争状態となります。全世界を見ても、世界恐慌から回復しようと自国を優先した政策をとるようになります。こうして、世界は第一次世界大戦前のような状態になってきました。特に1919年ロシア革命で生まれた'''ソビエト連邦'''(ソ連)に対しては、日本はドイツ・イタリアと同盟するなど各国から警戒されました。こうした中、1939年ドイツはポーランドに侵攻し'''第二次世界大戦'''が始まりました。1940年、ドイツはフランスに侵攻、1941年にはソ連に侵攻するなど戦争が拡大しました。日本は、中国との戦争を非難するアメリカ合衆国との交渉がうまくいかず、1941年ドイツ側に参戦し、アメリカやイギリスと戦うことになりました。この戦争は、戦車や飛行機といった最新の強力な兵器が使われ、大量の犠牲者が出ました。日本も、中国をはじめとしたアジア各地で住民に損害を与えた一方で、戦争の後期には、日本各地で'''空襲'''を受け、沖縄は全土が戦場となり、そして、広島・長崎に'''原子爆弾'''が落とされるなど、歴史上見なかった被害を出して、戦争に敗れました。 ; 民主国家日本の誕生と発展 : 日本は、戦勝国であるアメリカ合衆国の占領下に入り、その下で、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を三大原則とした'''日本国憲法'''が制定されるなどさまざまな民主化政策が行われます。そうして世の中が安定すると、日本は品質の高い工業製品を世界中に輸出することで、経済力を回復し('''高度経済成長''')、国民生活が向上すると同時に、国際社会の一員として復帰しました。その象徴が、1964年に開催された'''東京オリンピック'''と'''パラリンピック'''です。その後も、万国博覧会、2回の冬季オリンピックやサッカーワールドカップなど世界的な催し物を開催できるようになりました。2021年世界中が'''コロナ禍'''で沈む中、2回目の'''東京オリンピック・パラリンピック'''を開催したことは記憶に新しいところです<!--指導要領に「1964年に開催された東京オリンピックとパラリンピック」が強調されており、無視するわけにもいかず付言する。指導要領作成時にはこの事態は当然想定しておらず、成功する前提で話題としているに違いない-->。 |} == 世界の変化4 == :この章では、1925年に日本が昭和となってからの歴史を述べます。 :しかし、この時代になると、日本も国際社会の登場人物の一人として振る舞わないといけないようになっていました。そして、世界中を巻き込んだ戦争が世界を大きく変えます。昭和以降の歴史は、その世界の歴史の一部です。 :'''この節は、[[#世界の変化3|前の節]]同様、小学校で学習する範囲を超えていますが、昭和以後の日本の歴史に大きく関わる第二次世界大戦がなぜ起きたのか、その後、「世界」はどうなったのかということを理解できていないと、昭和以降の日本の歴史を深く理解することはできません。また、別の機会に学ぶ、「我が国の政治の働き」について、日本国憲法の成り立ちや、そこで強調される国民主権、平和主義、国民としての基本的人権が、決められた経緯などは、まさに、この歴史的な動きの中で成立したものです。''' :この節では、ここでは、「世界恐慌・大恐慌」「ファシズム」という言葉がキーワードになります。 [[File:Ford modelle 1924.jpg|thumb|200px|1924年、フォード車生産累計1000万台達成時の記念写真。ヘンリー・フォードの両側に、1896年の最初の試作車と、1000万台記念のモデルTが並ぶ。]] [[File:Depression, Breadlines-long line of people waiting to be fed, New York City, in the absence of substantial government... - NARA - 195524.tif|thumb|200px|食料配給に並ぶ失業者たち。]] [[File:Bundesarchiv Bild 146-1969-054-53A, Nürnberg, Reichsparteitag.jpg|thumb|200px|ヒトラー(前を歩くヒゲの人物)とナチス幹部]] ;第一次世界大戦後のアメリカの好景気 :第一次世界大戦後にあっても1920年代を通して、米国は、ヨーロッパにおける復興の需要などがあって景気を維持していました、そのため、米国においては、生産力を増大させるための工場などの投資が引き続きなされ、庶民の間ではローンを組んでの住宅投資などがなされました。また、'''ヘンリー・フォード'''は、1908年に大量生産によって価格を安くして一般人にもT型フォードという自動車を発売し、それが、1920年代の好景気を受け、急激に普及しました。戦争の間、通信の手段として一般に解放されていなかった無線技術を使った'''ラジオ放送'''が1920年解禁され放送局ができて、人々はラジオを買い求めました。また、人々は財産を貯めるために株式を購入し<ref>米国の人々は、お金を貯めるのに、日本と違って銀行へ預金するのではなく、株式を購入する傾向があります。それは、現在も同じです。</ref>、株式価格も{{ruby|高騰|こうとう}}<ref name="高騰暴落">「高騰」は「値段が上がる」こと、「暴落」は株式などの値段が、急激に下がることを言います</ref>する傾向にありました。 ;世界恐慌<span id=''世界恐慌''/> :しかし、第一次世界大戦終了後、10年も経過すると、ヨーロッパ各国も落ち着きを取り戻し、工場なども再建されて、米国での工業生産は余るようになっていました。一方で、好景気が続いたため物価が上がり('''インフレーション'''・インフレ)、中央銀行はこれを抑えようと金利を上げるなどの対策をとっていました。 :そのような状況の中、1929年(昭和4年)10月24日ニューヨーク株式市場で一部の株式が{{ruby|暴落|ぼうらく}}<ref name="高騰暴落"/>しました。株式市場で、値が下がり始めると、それから逃れようとして持株を売って現金にしようとする人が増えます。すると、ますます、株式の値が下がるという悪循環におちいります。こうして、1週間ほどで、米国の株式は半分ほどの価格になってしまいました。100万円あったと思っていた預金が50万円になったようなものです。 :この大暴落を機会に米国は急激に不景気となります。米国からの投資や米国への輸出で景気を保っていたヨーロッパもこれに巻き込まれます。こうして、世界中が深刻な不景気となりました。これを、'''{{ruby|世界恐慌|せかいきょうこう}}'''または'''{{ruby|大恐慌|だいきょうこう}}'''と言います。 ;世界恐慌に対する各国の対応 :20世紀になって先進国各国において、工業化が進んで労働者の数が多くなったことや労働組合のやり方が広く知られるようになったことを受けて、[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#労働運動|労働運動]]はますます激しいものになっていました。特に第一次世界大戦後は、徴兵されて戦場に向かった兵士に多く工場労働者が含まれるようになったことで、労働者の発言力が強まりました。また、ソ連の成立が、これらの労働運動を勢いづけたという面もあります。世界恐慌で企業の経営があやうくなると、雇用も不安定になるなど、労働者の立場は不利になりました。各国では、大規模なストライキを含んだ労働運動が展開され、また、あわせて社会主義者や共産主義者の活動が目立つようになりました。 :<span id="ファシズム">このような、社会主義者や共産主義者の動きについて、ほとんどの先進国の政府は警戒します。また、[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#反社会主義|先進国の民族主義者たち]]は、政党を作って社会主義運動に対抗し、外国資本の進出に抵抗しました。イタリアでは、'''ベニート・ムッソリーニ'''が'''ファシスト党'''を、ドイツでは'''アドルフ・ヒトラー'''が'''ナチス党'''<ref>正式な名称は「国民社会主義ドイツ労働者党」で「ナチス」は{{ruby|軽蔑|けいべつ}}の意味も込めた略称です。しかし、広く使われている呼び名なので、以下、「ナチス党」で統一します。</ref>を結成し、社会主義運動と争いました。このような、政党を'''ファシズム'''の政党といいます。 :自国の景気を回復させるため、広い植民地を持つイギリスやフランスは、植民地との結びつきを強くし、その他の国との貿易を関税を高くするなどして制限しました。これを'''ブロック経済'''と言います。他の国も同様の制限をしたのですが、植民地がほとんどないドイツやイタリアには経済の後退をもたらしました。特にドイツは、第一次世界大戦の賠償金のをまだ支払っていたところであったので、国民経済の{{ruby|窮乏|きゅうぼう}}が激しく社会問題となっていました。この、窮乏に乗じてナチスなどは勢力を伸ばしました。また、ブロック経済は、世界的に見ると経済の循環を悪くさせかえって世界全体の景気回復には悪影響を与えました。 :景気を回復させる、もう一つの方法として、政府が公共事業などを行うことにより、仕事を作って失業者を減らす方法です。<span id=''ヨシフ・スターリン''/>'''ヨシフ・スターリン'''が独裁的な指導者となった、ソ連は計画経済といって、工業生産などを政府が指導して行い、世界恐慌の影響を受けませんでした。米国大統領'''フランクリン・ルーズベルト'''は、恐慌対策の一つとして、電力需要の増加に対応できることもあり、大規模なダムと水力発電所建設の事業などを行いました。イタリアではファシスト党が1922年に、ドイツではナチス党が1933年に政権を取りますが、ファシズムは政府に強い権限を持たせる思想であるため、公共事業などを次々に行い、景気を回復させようとしました。例として、ドイツの高速道路網(アウトバーン)の建設があげられます。こうして、ドイツなどは生産力を回復しましたが、ブロック経済などにより、国内の生産物を売る市場が十分ではなかったため、その政策には限界がありました。 == 戦争への道 == :1926年(大正15年)12月25日大正天皇が亡くなり、昭和天皇が即位し、元号が「'''昭和'''」となりました<ref>昭和元年は12月25日から12月31日までの1週間だけでした。</ref>。 === 日中戦争 === :1919年(大正8年)第一次世界大戦が終わると、翌年には景気が一気に冷え込み、多くの中小企業が倒産するなど不景気になっていました。その間に、首都圏が[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#関東大震災|関東大震災]]に襲われるなどして景気の回復はなかなか見られませんでした。社会不安は進み、社会主義・共産主義などの考えも伝わり、ストライキなどの{{ruby|労働争議|ろうどうそうぎ}}なども各地で見られるようになりました。政府は、それを取り締まるため'''<span id="治安維持法"/>{{ruby|治安維持法|ちあんいじほう}}'''を制定、労働運動を弾圧し、共産党員などを逮捕・収監<ref>刑務所に入れること。</ref>したりしていました。 :日本は、市場や資源を求め、日露戦争でロシアからゆずられた南満州鉄道沿線の開発を進めますが、[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#辛亥革命|1911年辛亥革命によって成立した中華民国]]は内部の対立などが合って政府の力が弱く、治安の維持などが十分ではなかったこともあり、沿線の治安維持の名目で日本陸軍などが進駐しました({{ruby|関東軍|かんとうぐん}})。 [[File:Lytton Commission at railway.jpg|thumb|220px|南満州鉄道での爆発現場を調査しているリットン調査団。]] :一方で、軍部は[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#軍縮|世界的な軍縮の傾向]]によって、軍隊の規模を縮小されたりしていたため政府に不満を持っていました<ref>軍縮によって、職を失った軍人などが社会主義運動などに走ることなども警戒されていました。</ref>。日本から離れた関東軍などは日本政府の命令もなく、要人を暗殺したり、現地の中国人などによる集団と衝突したりしていました。 :そして、<span id="満州事変"/>1931年(昭和6年)、南満州鉄道での爆発事件をきっかけに、関東軍は軍を進め満州一帯を占領し('''満州事変'''<ref name="事変">「事変」というのは、「事件」・局地的なトラブル程度の軽い意味ですが、お互いの政府が「戦争」ととらえていないだけであって、実際は戦争と変わりありません。戦争というと、当事国以外の国との外交関係などにも影響を与えるため、政府としては大げさなものにしたくなかったものと考えられます。</ref>)、翌1932年(昭和7年)清王朝の最後の皇帝{{ruby|溥儀|ふぎ}}<ref>清朝は、もともと満州地域を本拠地とした女真族の国でした。</ref>を皇帝とした満洲国として独立させます。満洲国は独立国とは言っても、政府には多くの日本人が入り、日本の影響を強く受けた国でした<ref>このような国を{{ruby|傀儡|かいらい}}国家と呼びます。「傀儡」とは「あやつり人形」のことです。</ref>。中華民国政府は、これを抗議して国際連盟に訴えました。国際連盟は、調査団(リットン調査団)を満州に入れ詳細に調査した結果、中華民国の主張を受け入れ、満州地域を中華民国に返すように勧告しましたが、日本はこれを不満として1933年(昭和8年)国際連盟を脱退しました。 :<span id="軍国主義"/>日本国内でも、軍人の暴走が続きました。1932年(昭和7年)5月15日には武装した海軍の青年将校たちが内閣総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害する事件('''五・一五事件''')が起き、1936年(昭和11年)2月26日には、陸軍青年将校らが約1,500名の兵隊を率いて蜂起し、政府要人を襲撃・殺傷、首相官邸や霞ヶ関の役所街などの一帯を占領するというクーデター未遂事件('''二・二六事件''')が起こりました。どちらの事件も犯人の逮捕及び反乱の鎮圧で解決しましたが、軍部が国の政治に口を出す大きなきっかけとなりました。このように、軍部が国の政治を主導したことを'''{{ruby|軍国|ぐんこく}}主義'''といいます。 :中国では、中華民国政府と中国共産党などの勢力争いが続いており、満州国以外の上海などといった中国本土の都市で経済活動をする日本人は不安な生活を送っていました。関東軍などの中国に駐留する日本陸軍は、これらの人たちの保護のため、満洲国の外に出て、数千人の軍隊を駐留させました<ref>「居留民保護」といって、中国に在住者を持つ欧米各国でも数百人から千人程度の軍隊を駐留させていました。</ref>。<span id="日中戦争"/>1937年(昭和12年)7月7日北部中国の都市北平(現在の北京)の郊外で日本軍と中華民国軍が衝突し、そのまま、両国は戦争状態となりました('''日中戦争'''、ただし、当時の日本政府はこれを戦争ととらえず、「支那事変」「北支事変」「日華事変」<ref name="事変"/>といっていました)。 === 第二次世界大戦・太平洋戦争 === :中華民国政府と敵対する日本は、中国に多くの権益をもつイギリスや、多くの中国人移民を受け入れ、また、中国を大きな市場として期待する米国との関係を悪くします。 :一方で、ソ連他共産主義を警戒するという共通の目的で、ヒトラーのドイツやムッソリーニのイタリアとの関係を強めます。1936年(昭和11年)にドイツとの間に、共産主義の流入を防止する{{ruby|防共協定|ぼうきょうきょうてい}}を締結し、翌年、イタリアもこれに加わります('''三国防共協定''')。 :ドイツは、東ヨーロッパにも領土を多く持っていましたが、第一次世界大戦でほとんど失いました。しかし、そこには、まだ多くのドイツ系の住民が残っていたため、ヒトラーは軍隊を進めるなどして、それらをドイツに取り戻し、欧米各国もこれに抵抗しませんでした({{ruby|宥和|ゆうわ}}政策)。 :[[画像:Second world war europe animation small.gif|thumb|350px|第二次世界大戦のヨーロッパ戦域の動画<br/>青色系がドイツなど枢軸国側、赤色系がイギリスなど連合国側です。ソ連は最初のうちは立場が不明確であったため緑色で表されています。]] :1939年8月23日ドイツはソ連との間に、お互いを侵略しないことを約束する'''独ソ{{ruby|不可侵|ふかしん}}条約'''を結びます。これは、「防共」の趣旨に反するもので、日本をはじめとした各国を混乱させます<ref>当時の首相であった{{ruby|平沼騏一郎|ひらぬまきいちろう}}は「欧州の天地は複雑怪奇」との言葉を残し、8月28日内閣総辞職します。</ref>。 :そして、その直後の9月1日ドイツは東の隣国ポーランドに軍隊を進め、同月17日ソ連も東からポーランドに攻め込み、ポーランドは独ソに分割されました。<span id="第二次世界大戦"/>イギリスとフランスはポーランドと相互援助協定があったため9月3日ドイツに宣戦布告しました。こうして、再びヨーロッパで世界的な戦争が起こります。これを、'''{{ruby|第二次世界大戦|だいにじせかいたいせん}}'''といいます。 :1940年になるとドイツ軍は、西側に戦力を投入しオランダ、ベルギー、フランスをせめ、6月までに各国を降伏させました。同年9月日本とドイツとイタリアは、まだ参戦していない米国を警戒して'''日独伊三国同盟'''を結びます。これ以降、日独伊側の国を'''{{ruby|枢軸|すうじく}}国'''<ref>「枢軸」とは、それを中心にして回るコマの軸のようなものを言います。ムッソリーニが、「ヨーロッパをローマ(イタリア)とベルリン(ドイツ)を軸にして回す」という発言が元になっています。</ref>といい、これに対応する国々を'''{{ruby|連合|れんごう}}国'''といいます。日本は、ドイツの支配下に入ったフランスの植民地である仏領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)に進駐し、フランスに代わって植民地経営を行います。 :1941年4月日本とソ連は'''日ソ中立条約'''を結びます。ところが、その直後である6月ドイツは不可侵条約を破棄し、ソ連に攻め込み、ドイツとソ連は戦争状態となり、連合国にソ連が加わりました。 :日中の争いに米国とイギリス、オランダ<ref>当時、オランダはジャワ島など現在のインドネシアを植民地としていて、日本はそこから原油を輸入していました。</ref>は中国を支援して貿易などを制限する立場を取りました。これを'''ABCD{{ruby|包囲網|ほういもう}}'''<ref>A(America アメリカ合衆国)、B(Britain;ブリテン、イギリスのことです)、C(China 中国)、D(Dutch;ダッチ、オランダのことです)の4国によるものです。</ref>といいます。日本は、米国とこの制限について解消するよう交渉を続けましたが、米国は、最終的に、日本の中国からの撤退を条件としてきたため交渉は決裂、日本の首相である'''{{ruby|東條英機|とうじょうひでき}}'''は、米国や英国との戦争を決意しました。 :<span id="太平洋戦争"/>1941年12月7日、日本は米国ハワイの真珠湾基地とマレー半島のイギリス軍基地を攻撃し、両国に対して宣戦を布告しました('''{{ruby|太平洋戦争|たいへいようせんそう}}'''<ref>戦後の呼び名です。当時は{{ruby|大東亜戦争|だいとうあせんそう}}(東亜=東アジア)と言っていました。</ref>)。このことで、日中戦争は第二次世界大戦のひとつとなり、中華民国が連合国の一国となりましたし、米国が連合国に加わって、日本に対するだけではなく、ヨーロッパの戦争にも参戦するようになります。 :日本は開戦当時、大量の航空機<ref>「ゼロ戦」などが有名です。</ref>を使った攻撃という今までに見られなかった戦い方などで、米英を圧倒し、米国の植民地であったフィリピン、イギリスの植民地であった香港やシンガポールを含むマレー半島やボルネオ島、オランダ<ref>この頃、オランダはドイツに占領されていて、イギリスに渡ったオランダ王室の配下の政府(「{{ruby|亡命政府|ぼうめいせいふ}}」と言います)が治めていました。</ref>の植民地であるジャワ島などインドネシア諸島を占領しました。また、タイ王国と同盟関係を結んで、英領ビルマ(現在のミャンマー)に軍を進め、さらに、北上して英領インドに進軍する勢いをしめしました。 :こうして、1942年年頃までに、世界は枢軸国側と連合国側に大きく分かれ、このころまでは、枢軸国側が、比較的有利に戦いを進めていました。 :なお、この頃からドイツ国内やドイツが占領したヨーロッパの地域では、ナチス党の民族主義にもとづく、<span id="ユダヤ人迫害"/>'''ユダヤ人<ref><span id="ユダヤ人"/>'''ユダヤ人'''とは、もともと、中東の地中海沿岸(現在のイスラエル)に住んでいた民族で、[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#キリスト教|キリスト教]]の元になった'''ユダヤ教'''を信仰する人々です。紀元1世紀ごろ古代ローマ帝国の攻撃にあって、イスラエルの土地を追われ、ヨーロッパ各地に散らばりました。ユダヤ人は、自分たちの宗教を守りぬいて、キリスト教に改宗しませんでした。また、新約聖書によると、イエス・キリストはユダヤ教の宗教指導者が訴えたので十字架にかけられたとされているため、キリスト教徒とは敵対的な関係にありました(なお、イエス・キリストは民族的にはユダヤ人です)。多くのユダヤ人は、長い間差別され土地所有などできなかったので、ヨーロッパの地方では生きていけず、都市生活者となり、そこで生きていくために、商業や金融の能力を高めて成功した者も少なくありませんでした。こうしたことが、ねたまれて民族的差別(現在の言葉で言う「ヘイト」)の対象となっていました。</ref>の迫害'''が表立って行われるようになり、ユダヤ人の財産を奪って、強制収容所に送るということがなされていました。強制収容所では多くのユダヤ人が処刑されました。 :1942年8月、ドイツおよびイタリアなど枢軸国は、ソ連南部のスターリングラード(現在のヴォルゴグラード)に攻め込みます。当初は、枢軸国軍の戦車など近代兵器を大量に投入する作戦により早期に枢軸国が占領することになりましたが、ソ連は、国力を上げて、この街を取り返そうとしました<ref>ドイツが、この街(スターリングラード)の占領にこだわって、ソ連も必死でとりもどそうとしたのかというと、この街の名前のためと言われています。「スターリングラード」は、ロシア語で「[[#スターリン|スターリン]]の街(グラード)」という意味です。</ref>。これはドイツとソ連との戦いの中で最も激しいものとなり、ドイツなど枢軸国は約100万人の軍隊を進め、ソ連は約170万人の兵士で守りましたが、戦死傷者は枢軸国約85万人、ソ連約120万人、住民の死者約20万人を数える悲惨なものになりました。結局、翌1943年2月ドイツが撤退し、それ以降、ヨーロッパの東部ではソ連が優勢になります。 :1943年に入ると、米国の参入が本格化します。北アフリカに上陸した米軍は、北アフリカのドイツ軍とイタリア軍を降伏させ、このまま北上しイタリアを攻撃。9月イタリアは降伏します。 :翌1944年アメリカ軍など連合国はフランスのノルマンディーに上陸し、フランスを回復、そのまま東に攻めていきます。また、東側からは、ソ連が勢いを盛り返して、西に進んでおり、ドイツは挟み撃ちの状態となって、1945年4月ヒトラーは自殺し、ヨーロッパでの大戦は終結します。 :日米は、開戦以来、南太平洋で[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#制海権|制海権]]を争っていましたが、1944年米国は初戦で失った艦船に倍増するほどの船を造船し、この年の末までに航空母艦<ref>戦闘機・爆撃機など軍用機を積んで発着させる軍艦。</ref>をはじめとした日本の軍艦をほとんど沈め、日本は制海権を失います。米国はこの地域に空港を作って、爆撃機を飛ばして、日本本土の各都市に爆弾を落として攻撃('''{{ruby|空襲|くうしゅう}}''')するようになります。 [[画像:Physical damage, blast effect, Hiroshima, 1946-03-13 ~ 1946-04-08, 342-USAF-11071.ogv|right|300px|thumb|thumbtime=5:55 |原爆投下の翌年1946年春、米軍映画撮影隊による爆心地周辺の被害状況映像。]] :<span id="終戦"/>日本は海に囲まれているので、制海権を失うと各地での戦争の継続が難しくなる一方で、1945年に入ると米国の攻撃は激しさを増します。同年4月には沖縄本土に米軍が上陸、4月から7月にかけて東京や大阪といった大都市だけでなく、各地の地方都市も空襲を受け焼け野原になります。<span id="原子爆弾"/>そして8月6日広島に8月9日長崎に'''{{ruby|原子爆弾|げんしばくだん}}'''が落とされ、それぞれ、合わせて20万人以上の死者を出しました。また、ソ連が条約を破って満州などの日本軍を攻撃したことで、日本政府は戦争を継続することはできないと判断し、8月15日連合国に降伏しました。これで、第二次世界大戦は終結します。 :[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#第一次世界大戦の犠牲者|第一次世界大戦は、協商国側・同盟国合わせて、約1000万人の戦死者、約2000万人の戦傷者、約800万人の行方不明者を出し、民間人も約780万人の死亡者を出すと言う悲惨な戦争でした]]が、第二次世界大戦はさらにひどいものとなりました。連合軍側の犠牲者は、軍人の戦死者数約1700万人、民間人の死亡者数3300万人、枢軸国側の軍人の戦死者数約800万人、民間人の死亡者数400万人といったものです。 :日本の場合、220万人程度の戦死者と50万から100万人の民間の死者を出しました。空襲で多くの家や財産が焼き尽くされました。また、満州や朝鮮に約250万人程度の日本人が住んでいましたが、その人たちはほぼ全ての財産を奪われ、約40万人が日本へ帰還の際に亡くなりました。多くの人たちが戦争に協力しようと、財産で{{ruby|国債|こくさい}}(国の借金)を買いました。しかし、その国債は戦後の極端なインフレーションのため400分の1の価値に落ちてしまいました。戦争はこうして人々の生活に大きなきずあとを残したのです。 == 民主国家日本の誕生と発展 == === 戦後社会と冷戦 === ==== 民主国家日本の誕生 ==== :降伏した日本は、米国の占領下に入りました。敗戦に伴って、以下にあげるとおり、日本は大きく変わりました。 :#日本国の領土は、明治維新当時のものとなりました。そのため、朝鮮半島は独立し、台湾は中華民国の支配に入り、その他南洋諸島なども日本の支配を離れました。サハリン島南部(南樺太)も放棄し、そこにはソ連が進駐しました。なお、{{ruby|択捉|えとろふ}}島・{{ruby|国後|くなしり}}島など北方4島は、明治維新には日本の国土であったため、支配放棄の対象ではありませんが、ソ連は不法にこれを占領し、それが、ロシアに引き継がれ、いまだに解決していません。また、沖縄県は、米国が琉球政府を建てて日本本土と別の政治をおこないました。 :#全ての兵器を差し押さえ、陸軍と海軍を解体しました。 :#米国は、日本が戦争に向かった原因は[[#軍国主義|軍国主義]]にあると考えて、日本の民主化を進めることとしました。 :##占領直後に、政治思想や活動を規制していた、[[#治安維持法|治安維持法]]を廃止し、刑務所に収監されていた労働運動家や共産党員を解放しました。そして、労働組合法が制定され、労働運動は合法的なものとなりました。 :##経済を一部の{{ruby|財閥|ざいばつ}}が独占していたことで、自由な経済活動ができなかったとして、三井、三菱、住友といった財閥は会社や資本の関係をバラバラにされました({{ruby|財閥解体|ざいばつかいたい}})。 :##戦前日本の農業は、農地の所有者である地主に、お金を払って農作物を作る{{ruby|小作|こさく}}制度が広く普及していましたが、実際に耕す人の所有になるべきとの考えから、地主の農地は小作人に分け与えられました({{ruby|農地改革|のうちかいかく}})。 :##これらの改革と同時に、国の政治の根本を見直すために、憲法を変えることになるました。1946年(昭和21年)4月10日、初めて、男女平等の普通選挙による衆議院選挙が行われ、その国会で新たな憲法が議論されて、'''日本国憲法'''として同年11月3日に公布、翌1947年(昭和22年)5月3日<ref>国民の祝日である憲法記念日です。</ref>施行されました。 ;日本国憲法 :日本国憲法は、今、私たち日本人が生活するのに基本となっているルールです。社会科の他の単元でも詳しく学習するものですが、ここでは歴史の流れから憲法を考えてみましょう。 :[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#明治憲法|前の章では、明治憲法の特徴について、簡単に説明しました]]。ここでは、新憲法を明治憲法と比較してみましょう。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%;" |+ ! style="width:7%;" | ! style="width:31%;" | 大日本帝国憲法(明治憲法) ! style="width:31%;" | 日本国憲法(新憲法) ! style="width:31%;" | 解説 |- !天皇 |国の統治者。 |日本国の象徴であり日本国民統合の象徴。<br/>天皇は、国事行為のみを行い、国政に関する権能を有しない。<br/>天皇の国事行為には、内閣の助言と承認を必要とする。 |一般に明治憲法においては、天皇を統治者(=主権者)とされます。一方、新憲法では国民に主権があると定め、その総意に基づいて天皇は日本国及び国民統合の「象徴」と定めました。 |- !国会 |天皇に協賛して法律や予算を定める機関。<br/>選挙された議員による衆議院と世襲貴族などによる貴族院で構成される。<br/>改正まで女性に選挙権は与えられなかった。 |国権の最高機関。<br/>選挙された議員による衆議院と参議院で構成される。<br/>選挙権及び被選挙権は性別などで差別してはならない。 |国民から選挙で選ばれた、国会は国の権力を行使する最高機関です。明治憲法で認められていた勅令のような法律と同等の法令は新憲法では認められていません。 |- !内閣 |国務大臣は天皇を{{ruby|輔弼|ほひつ}}(助言し助ける)する。<br/>内閣総理大臣は憲法に特に定めがなく、天皇が指名する。 |行政権は、内閣総理大臣が長である内閣に属する。<br/>内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で指名される。 |明治憲法では、内閣と議会は無関係でしたが、新憲法では、内閣総理大臣を内閣の長<ref>全ての閣僚の任命権を有する。</ref>とし、内閣総理大臣は国会議員の中から国会の議決で選ばれることとしました({{ruby|議院内閣制|ぎいんないかくせい}})。 |- !地方自治 |(定めなし) |その地方に住む住民の自治が尊重され、首長や議会の議員を選ぶことができる。 |地方自治は、明治憲法では特別の位置付けはありませんでした。そのため、都道府県の知事は政府の役人が派遣されていました。新憲法では、住民による自治が明記され、知事や議員は住民が選ぶこととなりました。 |- !軍隊 |軍隊は天皇が直接まとめひきいる。したがって、内閣や国会は軍隊に口を出してはならない。<br/>国民には、{{ruby|兵役|へいえき}}の義務がある。 |国際紛争を解決する手段として、戦争は行ってはならない。<br/>戦争のための軍隊を持ってはならない。 | |- !人権 |法律によって制限できる。<br/> (例)<br/> ・治安維持法<br/> ・国家神道 |憲法に定められた人権は法律によっても制限できない(裁判所の{{ruby|違憲立法審査権|いけんりっぽうしんさけん}})<br/><br/>新たに認められた権利<br/> ・個人の尊重<br/> ・男女の本質的平等<br/> ・労働運動の権利<br/> ・生存権の保障<br/> ・厳格な刑事手続 など |新たに認められた権利、「個人の尊重」と「男女の本質的平等」から、{{ruby|家督相続|かとくそうぞく}}などを定めた民法の「家制度」は廃止されました。 |} </div> :日本は、新憲法のもと、民主的で自由な国づくりを目指して再出発しました。 ==== 世界の変化5 新しい国際社会 - 東西対立と冷戦の社会・南北問題 ==== :第二次世界大戦が終わり、社会主義・共産主義を警戒したファシズムが敗北すると、米国やソ連といった連合国は、[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#国際連盟|国際連盟]]が結局第二次世界大戦を防げなかったことを反省し、これを解消して'''国際連合'''がつくられます。米国は、今度は、これに積極的に取り組み、本部をニューヨークに置きました。 :[[ファイル:Cold War Map 1959.svg|thumb|300px|1959年の世界の様子(色分け)<br/>(ワインレッド = ワルシャワ条約加盟国<br/>朱色 = ソ連の他の同盟国(東側諸国)<br/>青紺色 = 北大西洋条約 (NATO) 加盟国<br/>水色 = 米国の他の同盟国(西側諸国)<br/>緑 = 植民地<br/>灰色 = 非同盟諸国)]] :第二次世界大戦後、社会主義は世界中の政治に強い影響を与えるようになり、世界中で資本主義勢力と社会主義勢力の争いが見られるようになりました。 :戦後ソ連が占領した東ヨーロッパの国々には社会主義の政府が建てられました。ヨーロッパを基準とすると、米国、イギリス、フランスなど資本主義の諸国は西にあったので'''西側諸国'''、一方、ソ連など社会主義の国は東にあったので'''東側諸国'''といい、資本主義諸国と社会主義諸国の対立を'''東西対立'''と言います。ドイツは、ソ連に占領されていた地域が東ドイツ、米国などに占領されていた地域が西ドイツと、国家が分裂しました。ドイツの首都であったベルリンは、東ドイツの中にあったのですが、米国などが占領していた地域があり、この部分は西ドイツになりました。西ベルリンは東ドイツに囲まれた{{ruby|飛地|とびち}}になりました。東ドイツ政府は、西ベルリンを囲んで壁を構築し、東ドイツの市民が西ベルリンを通過して西側諸国へ行けないようにしました。これが、<span id="ベルリンの壁">「'''ベルリンの壁'''」といって、東西対立の象徴となりました。また、東西の行き来は困難なものとなったため、西側から見て東側との間には「'''鉄のカーテン'''」が引かれているとも表現します。東側諸国は、ソ連を中心にワルシャワ条約機構という軍事同盟を結び、それに対抗して、西側諸国は北大西洋条約 (NATO) という軍事同盟を結んで対立しました。また、中国では、'''{{ruby|毛沢東|もうたくとう}}'''がひきいる中国共産党が、中華民国政府を攻めて、<span id="中華人民共和国"/>1947年社会主義の国である'''中華人民共和国'''を建国します<ref>中華民国政府は、台湾に逃げ込みます。</ref>。朝鮮半島には、1948年ソ連などの支持を受けた'''朝鮮民主主義人民共和国'''(北朝鮮)と米国などの支持を受けた'''大韓民国'''(韓国)が建国されましたが、1950年北朝鮮は韓国に攻め込み、南北各々米国とソ連・中国の支援を得て激しく戦い、1953年北緯38度線を境に休戦します('''朝鮮戦争''')。 :東西対立には、今までに見られなかった特徴があります。それは、'''核兵器'''の存在です。[[#原子爆弾|広島と長崎に落とされた'''原子爆弾''']]の威力は世界中に脅威を持って受け入れられました。米国はこの技術が自国だけで独占されるものと考えていたのですが、1949年ソ連が原子爆弾の実験に成功します。1952年米国はさらに強力な水素爆弾の実験に成功しますが、ソ連も、1955年水素爆弾の実験に成功します(下欄「[[#科学競争|米国とソ連の科学競争]]」参照)。その他、イギリスやフランス、中華人民共和国なども核兵器を保有するようになりました。もし、東西に本格的な軍事衝突が起こったならば、大げさではなく、人類が滅亡してしまうくらいの核兵器をもったため、大国同士の戦争はお互いに避けるようになりました。東西は、こうして大きな戦争を伴わないまま国際的に対立しました。これを、「冷たい戦争」、「'''{{ruby|冷戦|れいせん}}'''」といいます。 :一方で、第二次世界大戦で枢軸国はもちろん連合国にあったイギリスやフランスも国力を失い、植民地の独立を止めることができないようになりました。この結果、終戦後数年後には、中東諸国の他、インドやインドシナ半島諸国、インドネシアの諸国が独立し、少し遅れて1960年代にはアフリカの各国が独立しました。しかしながら、これらの国は、まだ国内の産業が十分に成長しておらず先進国に比べて、国民生活は全体的に貧しく、また、貧富の差も大きいものであり、各国は経済発展の政策に取り組みました。また、政策に不満を持つ集団が、政権を倒そうとするなど政治的にも不安定なものでした。このような国々を、[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#先進国|先進国]]に対して「'''{{ruby|発展途上国|はってんとじょうこく}}'''」と言います。先進国は、欧米や日本をはじめとして北半球に多く、発展途上国は、赤道付近から南の国が多いため、先進国と発展途上国の格差の問題を'''南北問題'''と言います。 <div style="margin:0 2em 0 4em"> {| class="wikitable" style="width:100%" |'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="科学競争"/>米国とソ連の科学競争<small> [[File:Sputnik asm.jpg|thumb|180px|世界最初の人工衛星スプートニク1号]] :現在でこそ、ロシア(旧ソ連)の科学力は、米国に遅れをとっているといえますが、1940年代から70年代位までは、国をあげての科学研究を行い、米国をはじめとする、西側諸国をおびやかしたものでした。上で述べたとおり、核兵器の開発はすぐに米国に追いつきましたし、ロケットを使った宇宙開発は、米国に先行していました。 :1957年ソ連は世界で最初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功しました。米国をはじめとする西側諸国は、衝撃を受け危機感を覚えました。なぜならば、この技術は、核爆弾を搭載したミサイルを飛行機を使わず、相手国に打ち込む技術があることを意味するからです。米国は、これに追いつくため翌年にはアメリカ航空宇宙局 (NASA)を設立、研究開発体制を見直します。また、一般の教育体制までも見直しが行われました。しかし、ソ連は1961年世界で最初の有人宇宙飛行を成功させるなど、米国の先を行っていました。米国がソ連に追いついたと言えるのは、1971年アポロ11号で友人月面着陸を成功させた時といわれています。ソ連を引き継いだロシアも宇宙開発においては現在でも、世界でトップクラスの技術を有しています。 :一方で、ソ連の科学技術は、このような軍事目的などにばかり集中され、一般の人々の生活にはあまり貢献しませんでした。そのため、西側諸国で発展が見られた、自動車や家庭電化製品の発展は遅れました。このことは、半導体の開発の遅れにつながり、コンピューターなどの開発が遅れ、工業力が西側に遅れる原因となります。 </small> |}</div> ==== 高度経済成長とその後の日本 ==== :終戦直後の日本は、多くのものを失ったところから始めなければなりませんでした。 :1951年(昭和26年)、日本は米国他と平和条約を締結し<ref>ソ連との間では、北方領土の問題などがあって平和条約が締結されず、戦争をしないという仮の約束として1956年(昭和31年)'''日ソ共同宣言'''が出されました。現在も、ソ連を継いだロシアとの間に平和条約は結ばれていません。</ref>独立を回復、1956年(昭和31年)には国際連合にも加盟しました。東西対立に危機感を覚えた、米国は日本を資本主義の国として復興させるためにさまざまな支援をします。1950年(昭和25年)朝鮮戦争がおこると、国防の必要が認識され戦闘力を有した警察予備隊が結成され、それが1954年(昭和29年)'''自衛隊'''となります。 :朝鮮戦争では、米軍などの支援物資の需要があり製造業が復興しました。その後、高品質低価格を特徴とする船舶や自動車、電化製品と知った日本製品は世界中に輸出され、日本経済は急激に拡大していきます。また、政府は産業界を指導して投資資金などを効率的に分配し、経済成長を助けました。1955年(昭和30年)頃から、急激な経済成長を見せ、これを'''高度経済成長'''といっています。 :[[File:Bundesarchiv Bild 183-C1012-0001-026, Tokio, XVIII. Olympiade, Gesamtdeutsche Mannschaft.jpg|thumb|200px|東京オリンピック開会式]] :復興した日本は、国際的な催し物を開催し、国際社会に復帰したことを世界に示します。1964年(昭和39年)の'''東京オリンピック'''、1970年(昭和45年)の'''大阪万国博覧会'''、1972年(昭和42年)の'''札幌冬季オリンピック'''などが代表的なものです。 :1972年(昭和42年)、米国が統治していた沖縄が日本に返還され沖縄県となりました。また、この年に日本は中華人民共和国との国交を回復(日中国交正常化)します<ref>[[#中華人民共和国|1947年から中華人民共和国が中国大陸を支配していた]]のですが、社会主義の国であったので米国や日本は正式に国と認めず、中国の代表は台湾だけを支配する中華民国としていました。しかし、国際的に見て明らかにおかしなとりあつかいで、このころ、米国と中華人民共和国との間が接近したのを受けて、日本は、中華人民共和国と正式に国交を結びます。</ref>。 :経済成長にともない人々の生活は、だんだん豊かなものとなっていきました。1953年(昭和28年)'''テレビ放送'''が始まり、東京オリンピックをきっかけにカラーテレビが各家庭に普及しました。その他、電気冷蔵庫や電気掃除機、電気洗濯機が普及して家事が楽になるなど、家庭電化製品は人々の生活を大きく変えました。1955年(昭和30年)ころ100軒に1軒くらいしかなかった'''電話'''も、1975年(昭和50年)ころには70%家庭に引かれました。また、1960年(昭和35年)ころ自動車は平均して100軒に3軒ほどしか普及していなかったものが、1980年代には80軒の家は自家用車を持つようになりました。自動車の急激な増加を受け、高速道路網をはじめとした道路整備がなされました。 :1964年(昭和39年)には、'''東海道新幹線'''が開通し、日本各地で空港が整備され、飛行機による移動も一般的なものとなりました。 :1973年(昭和48年)、中東における中東戦争<ref>[[#ユダヤ人迫害|ナチス党などで迫害]]された[[#ユダヤ人|ユダヤ人]]は、自分たちの国を求めて、元々の出身地であるイェルサレム周辺にイスラエルという国を作ります。この時、もともと住んでいたイスラム教徒の住民(パレスチナ人)を追い出し、迫害したため、同じイスラム教徒が大多数を占めるエジプトやサウジアラビアといった国とイスラエルとの間で起こった戦争です。</ref>をきっかけに、サウジアラビアなど中東諸国の石油輸出国が共同で石油価格を2倍近くに上げたため物価が急に上がり('''オイル・ショック''')、高度経済成長はその勢いを失いますが、それから10年程度は、安定した経済成長を続け、1978年には、国の経済規模の尺度である<span id="GDP"/>'''国内総生産'''('''GDP''')<ref>当時は、「国民総生産(GNP)」という尺度を用いていました。GDPとGNPは、何点か違いはありますがだいたい同じものと考えても、ここでは問題ありません。</ref>は、米国に続いて世界第2位の規模になっていました。 :一方で、重工業化が急速に進められたため、'''公害'''などが社会問題となりました。 === 冷戦終了後の世界 === :1989年(昭和64年)1月7日昭和天皇が亡くなって、翌日から元号が'''平成'''と改められました。 :<span id="平成"/>元号が変わったからといって、世の中の動きが変わるわけではありませんが、この1989年(昭和64年・平成元年)は、それまでの世界が大きく変わり、その後30年現在にいたるまで影響を与える重要な年となりました。 :;ソ連を中心とする東側諸国の崩壊と冷戦の終結 ::1970年代から80年代にかけて、西側諸国と東側諸国の生活レベルは明らかに差がついていました。その原因は、いくつか考えられます。ひとつには、経済活動を政府が統制するため安定はしていますが競争はあまり起こらないところ、競争に伴う創意工夫がなされず、発展が遅れるというものです。これは、家庭電化製品や乗用車といった民生分野といわれるもので大きな差が出ました。また、これらの製造に不可欠な半導体の開発や工場の自動化などにも差が出ました。また、ソ連が主導した農業政策は、政府の指示が適当ではなかったため東側諸国全体で生産が低迷しました。また、東側諸国は選挙による政権交代がないため、新たなことをきらう役人の性質({{ruby|官僚|かんりょう}}主義)がはびこり、政治による改革も行き詰まっていました。ソ連では、'''ミハエル・ゴルバチョフ'''が書記長となって、'''ペレストロイカ'''(改革)、'''グラスノスチ'''(情報公開)という改革を進めていましたが、うまく進んでいませんでした。 ::1980年代後半に入って、ポーランドでは政府に抗議する労働組合の運動がみられ、チェコスロバキアやハンガリーからは西側諸国へ移封に移民する人々が目立つようになりました。また、このころ、東欧諸国では衛星放送が普及するようになって、西側諸国の豊かな生活が東側諸国に知られるようになったと言われています。 ::1989年には、東ドイツで西側への移動を求めた暴動が激しくなり、11月9日東ドイツ政府は自由な移動を認め、それを受け、翌日、民衆は[[#ベルリンの壁|ベルリンの壁]]を壊し東西の行き来が自由になりました。 ::こうして、東欧諸国へのソ連の支配はなくなり、冷戦が終結しました。 ::この後、東ヨーロッパの各国は、1990年に西ドイツと東ドイツが統一するなど、社会主義政府から自由主義の国となりました。また、1991年ソ連は崩壊し、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなど15の共和国に分かれました。 :;中華人民共和国 ::世界的な社会主義の後退の傾向から、中華人民共和国でも民主化を求めた運動が起こりました。 ::しかし、中華人民共和国政府は、資本主義的な政策を取り入れながらも、それは、政府が主導するものであって、自由な選挙など民主的な活動を認めないという態度を示して、6月4日民主化を求める民衆を弾圧しました('''{{ruby|天安門|てんあんもん}}事件''')。この後、中華人民共和国は、資本主義を取り入れた政策によって大きく経済成長を達成したのですが、現在においても、自由な政治活動は制限されています。 :;日本 ::1980年代、国際経済において、米国の経済力が弱くなっていたことをうけ、西側諸国内で相談し、各国の通貨の交換水準などについて調整が行われました<ref>1985年(昭和60年)9月22日の'''プラザ合意'''と呼ばれるものです。それまで、日本の通貨である円と米国の通貨であるドルは、1ドルに対して240円前後で交換されていました。米国は、この交換水準が実際の経済的な実力よりも「ドルは高く、円は安く評価されている」と主張して、「円高ドル安」にするように、日本政府に求めたのです。この合意によって、その日のうちに1ドルは210円程度に、1年後には150円程度に、2年後には120円程度になってしまいました。これは、輸出産業に打撃を与えます。例えば、1ドルが240円の時、240万円で米国に輸出していた自動車は1万ドルを売ることができたのですが、1ドルが120円になると2万ドルで売らなければ損をすることになります。ところが、米国の消費者は、「1万ドルなら買えるけれども、2万ドルでは買えない」ということになって、この自動車は売れなくなります。こうして、日本の輸出産業は大打撃を受けることになりました。</ref>。日本政府は、輸出産業が不利になることを防ぐため事業資金を大きく増やしました。そのため、それらの資金は最終的に不動産や株式投資に回って、不動産や株式の高騰<ref name="高騰暴落"/>となりました。これを「'''バブル景気'''<ref name="バブル">「バブル」は「泡」のことです。泡のように中身がないのに大きく膨らんで、ちょっとしたことではじけてしまうことをたとえています。</ref>」といいます。1989年バブル景気は最高潮となり、その年の株式取引の最終日の平均株価は史上最高値を記録しました。 ::しかし、バブル景気の{{ruby|弊害|へいがい}}も見られるようになったため、翌年以降、政府は景気を引き締めます。そのため、バブル景気は終わり、反動で日本経済は不景気となります('''バブルの{{ruby|崩壊|ほうかい}}'''<ref name="バブル"/>)。日本政府は、その後、景気対策を続けますが、30年以上成功できずに今にいたっています<ref>景気が良いかどうかは、[[#GDP|GDP]]が前の年よりもどれだけ大きくなったかということで表します。これを、経済成長率といいます。これは、だいたい3%程度成長していれば、普通に成長しているとされます。高度成長時代の日本は10%程度の成長をしていました。しかし、バブル崩壊後、日本は30年間平均1%程度の成長しかしていません。欧米各国が3~5%成長しているのに比べると異常と言ってよいでしょう。</ref>。 ;冷戦後の世界 :冷戦が終わり、対立するものがなくなった世界は平和になったかといえば、そうではありません。核兵器を持ったソ連などが、対立の当事者でなくなったため、核保有国以外では戦争が起こりやすくなった側面もあります。 :第一次世界大戦後争いの続いた[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#バルカン半島|バルカン半島]]は、第2次世界大戦後ユーゴスラビアとして統一され40年以上安定した状態が続いたのですが、冷戦終了後、各民族が分裂し、内戦状態となりました。 :中東では勢力争いが絶えず、また、イスラム過激派などは、米国などを敵視してテロリズムを起こしたりしました。2001年9月11日アメリカ同時多発テロは、その代表です。 :アフリカも民族間の対立が各地で起きています。冷戦時代ならば、一方が西側につけば、他方は東側について、戦争になると米ソの争いとなるため、にらみあいで止まったものですが、冷戦後は、そのようなブレーキがなくなったのです。 :冷戦後、ソ連は崩壊し、それをついだロシアも冷戦当時ほどの力を失いましたが、それに代わって、中華人民共和国が、世界一の労働力を背景に世界中から工場を呼び込んで、経済力を伸ばしてきて、2010年にはGDPで日本を抜いて世界第2位になりました。 :日本は、この間、二つの大きな自然災害にみまわれました。1995年(平成7年)の'''阪神淡路大震災'''と2011年(平成23年)の'''東日本大震災'''です。日本は、そのほかにも大規模な風水害などを経験しており、自然の脅威に対しての備えを怠ってはならないという教訓を残しています。 === 今変わりつつある世界 === :2019年(平成31年)5月1日天皇明仁<ref>「平成天皇」という呼び方は正しくありません。</ref>が退位し上皇となり、現在の天皇が即位、元号が令和に変わりました。 :[[#平成|前の節]]でも述べたところですが、元号が変わったからといって、世の中の動きが変わるわけではありません。しかし、偶然とは言っても、令和になって何年かで起こったことは、今日本に生きているどんな年齢の人たちでも生まれてから経験のないことでした。 :新型コロナの流行は、人間は、まだまだ、自然には簡単に立ち向かえないことを痛感させられました。一方で、素早いワクチンの出現に科学の可能性を感じさせられました。また、今までの技術でも可能であったのに、習慣から普及しなかったネットを使った勤務や学習が可能であることも理解できました。このような中で、開催された東京オリンピックとパラリンピックは人々に希望と感動を与えたことでしょう。 :一方で、ロシアのウクライナ侵攻を見ると、日本の満州侵攻とよく似ていることが理解されます。また、国際社会における中国の位置付けは、だんだんと冷戦の時のソ連に似てきている様子があります。 :歴史を学ぶことで、これから、何が起こるのか、何を変えれば、何が起こらないのかを予想し、悪い事態を避けることができるかもしれません。歴史を学ぶということは、そういうことだと理解してください。 == 脚注 == 以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small> <references/></small> ---- {{前後 |type=章 |[[小学校社会/6学年/歴史編]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう|日本の歴史の流れ]] |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代|国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代]] |- }} [[Category:社会|しようかつこうしやかい6]] [[Category:小学校社会|6ねん]] [[Category:小学校社会 歴史|#13]] mv2v247pepsm2ak9wsdt5qmdkkc1382 化学熱力学/系と外界 0 35495 207290 2022-08-26T12:28:28Z GeSciHok 27654 ページの作成:「化学熱力学では、注目している物体を'''系'''と呼ぶ。系の周りにあるものを'''外界'''と呼ぶ。外界は、'''周囲'''または'''環境'''と呼ばれることもある。 外界と物質のやり取りが許されている系を'''開放系'''と呼ぶ。外界と物質をやり取りできないが、エネルギーのやり取りは許されている系を'''閉鎖系'''と呼ぶ。外界と物質・エネルギーのやり取り…」 wikitext text/x-wiki 化学熱力学では、注目している物体を'''系'''と呼ぶ。系の周りにあるものを'''外界'''と呼ぶ。外界は、'''周囲'''または'''環境'''と呼ばれることもある。 外界と物質のやり取りが許されている系を'''開放系'''と呼ぶ。外界と物質をやり取りできないが、エネルギーのやり取りは許されている系を'''閉鎖系'''と呼ぶ。外界と物質・エネルギーのやり取りができない系を'''孤立系'''と呼ぶ。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |+ 系の分類 ! 系 !! 物質の出入り !! エネルギーの出入り |- ! 開放系 | 〇 || 〇 |- ! 閉鎖系 | × || 〇 |- ! 孤立系 | × || × |} この教科書では、簡単のため、開放系は扱わない。 8fpegf470rv1aoycidwn9fihvh4ldz9 化学熱力学/体積変化に伴う仕事 0 35496 207291 2022-08-26T12:28:35Z GeSciHok 27654 ページの作成:「系の周りの外界の圧力を外圧と呼ぶ。 外圧''p''<sub>ext</sub>が一定の条件下で、系の体積が&Delta;''V''変化したとき、外界が系にした仕事''W''は次式で与えられる。 :<math> W = -p_\text{ext}\Delta V</math> 外圧''p''<sub>ext</sub>が常に系の圧力''p''に等しいとみなせるほどゆっくりと、系の体積が''V''<sub>1</sub>から''V''<sub>2</sub>まで変化したとき、外界が系にした仕事'…」 wikitext text/x-wiki 系の周りの外界の圧力を外圧と呼ぶ。 外圧''p''<sub>ext</sub>が一定の条件下で、系の体積が&Delta;''V''変化したとき、外界が系にした仕事''W''は次式で与えられる。 :<math> W = -p_\text{ext}\Delta V</math> 外圧''p''<sub>ext</sub>が常に系の圧力''p''に等しいとみなせるほどゆっくりと、系の体積が''V''<sub>1</sub>から''V''<sub>2</sub>まで変化したとき、外界が系にした仕事''W''は次式で与えられる。 :<math> W = -\int_{V_1}^{V_2}p\; \mathrm dV</math> 体積変化に伴って外界が系にする仕事は、変化の仕方に依存する。このように、状態変化の経路に依存する物理量を'''経路関数'''または'''非状態量'''と呼ぶ。それに対して、系の状態が定まれば、一意に決まる物理量を'''状態関数'''または'''状態量'''と呼ぶ。 *非状態量 *:仕事''W''、熱量''Q'' *状態量の例 *:体積''V''、圧力''p''、絶対温度''T''、物質量''n''、内部エネルギー''U''、エントロピー''S'' *その他の物理量の例 *:時間''t''、外圧''p''<sub>ext</sub>、状態量の変化量&Delta;''V'', &Delta;''p'', &Delta;''T'',... el2szz7cwex6mgd84gevszclsozn0zk 小学校社会/6学年/歴史編/年表 0 35497 207306 2022-08-27T02:23:03Z Mtodo 450 新規作成、一旦保存 wikitext text/x-wiki {{Nav}} {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|6学年|歴史編|frame=1}} これまで学習してきたことの主なできごとを年代順に表にしています。<!--教程との関係で不正確な表現は残る。--> {| class="wikitable" style="width:100%;" |+ ! style="width:10%;" | 年代 ! style="width:30%;" | できごと ! style="width:60%;" | 「できごと」に関係すること |- !紀元前1世紀 |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#中国との交流|漢(前漢)に使いを送る]]。 |日本が歴史上初めて、文字で書かれた記録に登場しました。 |- !57年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#中国との交流|倭の奴国が後漢に使いを送る]]。 |皇帝から、金印「漢委奴国王印」をもらう。 |- !235年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#邪馬台国|邪馬台国の卑弥呼が、魏の皇帝に使いを送る]]。 |「魏志倭人伝」に書かれています。 |- !5世紀後半から<br/>6世紀前半 |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#大和政権|ヤマト政権が日本を統一する]]。 | |- !飛鳥時代 ! ! |- !538年頃 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#渡来人|仏教が公式に伝わる]]。 | |- !593年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#聖徳太子|聖徳太子が皇太子になる]]。 | |- !600年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#聖徳太子|小野妹子を遣隋使として隋に送る]]。 | |- !603年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#聖徳太子|冠位十二階を定める]]。 |このころ、「十七条の憲法」も決められました。 |- !645年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#大化の改新と律令制の成立|中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺し、「大化の改新」を始める]]。 |班田収授法、口分田<br/>租庸調 |- !663年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#外交|朝鮮半島で唐と新羅の軍に敗れる(白村江の戦い)]] | |- !672年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#壬申の乱|壬申の乱]] | |- !701年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#律令制|大宝律令が完成する]]。 |律令制の完成 |- !708年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#和同開珎|和同開珎]]をつくる。 | |- !奈良時代 ! ! |- !710年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#平城京遷都|平城京に遷都する]]。 | |- !712年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#記紀|古事記が完成する]]。 | |- !720年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#記紀|日本書紀が完成する]]。 | |- !741年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#奈良仏教|全国に国分寺と国分尼寺を作る]]。 | |- !743年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#墾田永年私財法|墾田永年私財法]] |班田収授法の意味がなくなり、「荘園」ができるもととなります。 |- !752年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#奈良仏教|東大寺大仏(奈良の大仏)が完成する]]。 | |- !平安時代 ! ! |- !794年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#平安遷都|平安京に遷都する]]。 | |- !804年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#空海と最澄|空海と最澄が遣唐使として唐へ行く]]。 |空海 真言宗 高野山金剛峯寺<br/>最澄 天台宗 比叡山延暦寺 |- !894年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#遣唐使の中止と国風文化|菅原道真が遣唐使を廃止する]]。 |「国風文化(日本独自の文化)」が発展します。 |- !939年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#平将門|平将門の乱、藤原純友の乱]] |最初の、大きな「武士」の反乱です。 |- !1016年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#摂関政治|藤原道長が摂政となる]]。 |「摂関政治」の代表です。 |- !1156年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#保元|保元の乱]] |武士が天皇や貴族に並んで政治の表舞台に出ました。 |- !1160年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#平治|平治の乱]] |平清盛が源義朝(源頼朝や義経の父)を倒して政権を握ります。 |- !1185年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#平家滅亡|壇ノ浦の戦い]] |源頼朝に命令された、源義経らが平家を滅ぼします。 |- !鎌倉時代 ! ! |- !1192年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#鎌倉幕府|源頼朝が征夷大将軍になる]]。 |鎌倉幕府が開かれます。 |- !1221年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#執権政治|承久の乱]] |武家が主導する政治が確立。<br/>執権政治 |- !1274年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#元寇|第1回元寇・文永の役]] | |- !1281年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#元寇|第2回元寇・弘安の役]] | |- !1333年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#鎌倉滅亡|後醍醐天皇の命令で新田義貞が北条氏を滅ぼす]]。 |鎌倉幕府は滅亡します。 |- !室町時代 ! ! |- !1338年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#室町幕府誕生|足利尊氏が征夷大将軍になる]]。 |室町幕府が開かれる。 <br/>天皇家が南北に分裂し、南北朝時代が始まります。 |- !1394年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#金閣|足利義満が金閣を作る]]。 |このころ、南朝が降伏し南北朝時代が終わります。 |- !1467年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#応仁の乱|応仁の乱が始まる]]。 |戦国時代が始まります。 |- !1482年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#銀閣|足利義政が銀閣を作る]]。 | |- !1543年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#鉄砲とキリスト教の伝来|鉄砲伝来]] | |- !1569年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|織田信長が足利義昭を将軍にする]]。 | |- !1573年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|織田信長が足利義昭を追放する]]。 |室町幕府滅亡 |- !安土桃山時代 ! ! |- !1576年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|安土城築城]] |城下町、楽市楽座 |- !1582年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|本能寺の変]] |織田信長がなくなり、明智光秀をうった豊臣秀吉が強力になる。 |- !1587年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#バテレン追放令|キリスト教が禁止される]]。 | |- !1588年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#刀狩|刀狩令]] | |- !1590年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#小田原攻め|豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし天下を統一する]]。 |戦国時代が終わる。 |- !1592年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#朝鮮出兵|第1回朝鮮出兵・文禄の役]] | |- !1597年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#朝鮮出兵|第2回朝鮮出兵・慶長の役]] | |- !1598年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#朝鮮出兵|豊臣秀吉死去]] |朝鮮出兵は取りやめになり、将兵は帰国した。 |- !1600年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#関ヶ原の戦い|関ヶ原の戦い]] |徳川家康が豊臣家の家臣石田三成などを破って、豊臣家に代わって天下を取りました。 |- !江戸時代 ! ! |- !1603年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#江戸幕府の誕生|徳川家康が征夷大将軍になる]]。 |江戸幕府が開かれる。 |- !1615年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#大阪の陣|大阪の陣で豊臣氏が滅びる]]。 | |- !1623年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#参勤交代|徳川家光が参勤交代制度を始める]]。 | |- !1637年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#島原の乱|島原の乱]] |江戸時代最大の民衆反乱(百姓一揆)。これ以降、明治維新になるまで、死亡者が100人を超えるような騒動は無くなります。 |- !1639年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#鎖国|鎖国の始まり]]。 | |- !1680年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#綱吉|徳川綱吉が第5代将軍になる]]。 |犬公方、文治政治<br/>元禄文化 |- !1716年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#吉宗|徳川吉宗が第8代将軍になる]]。 |享保の改革 |- !1772年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#田沼|田沼意次が老中になる]]。 |田沼時代 |- !1787年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#定信|松平定信が老中になる]]。 |寛政の改革 |- !1841年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#|忠邦|水野忠邦が改革を始める]]。 |天保の改革 |- !1853年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#黒船来航|黒船来航]] |マシュー・ペリー |- !1854年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#開国|日米和親条約締結]] |開国 |- !1858年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#通商条約|日米修好通商条約]] |不平等条約→条約改正 |- !1867年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#江戸幕府の終わり|大政奉還]] |江戸幕府滅亡 |- !明治時代 ! ! |- !1868年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#明治維新と武士の社会の終わり|明治維新]] | |- !1871年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#廃藩置県|廃藩置県]] |武士の世の中の終わり |- !1877年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#士族の反乱|西南戦争]] |士族の反乱 → 自由民権運動 |- !1889年 |大日本帝国憲法公布 |第1回衆議院議員選挙 → 帝国議会召集 |- !1894年-95年 |日清戦争 |下関条約 |- !1897年 |治外法権撤廃 | |- !1904年-05年 |日露戦争 |ポーツマス条約 |- !1911年 |関税自主権回復 | |- !大正・戦前昭和 ! ! |- !1914年-19年 |第一次世界大戦 |ヴェルサイユ条約 → 国際連盟 常任理事国に |- !1923年 |関東大震災 | |- !1925年 |男子普通選挙 |大正デモクラシー |- !1929年 |世界恐慌 | |- !1931年 |満州事変 | |- !1932年 |五・一五事件 | |- !1933年 |国際連盟脱退 | |- !1936年 |二・二六事件 | |- !1937年 |日中戦争 | |- !1939年 |第二次世界大戦勃発 | |- !1941年 |太平洋戦争勃発 | |- !1945年 |終戦 | |- !戦後昭和・平成 ! ! |- !1946年 |男女平等の普通選挙 | |- !1947年 |日本国憲法施行 | |- !1951年 |サンフランシスコ平和条約 |独立の回復 |- !1956年 |国際連合加盟 | |- !1964年 |東京オリンピック | |- !1970年 |大阪万国博覧会 | |- !1972年 |札幌冬季オリンピック<br/>沖縄返還 | |- !1973年 |オイルショック | |- !1989年 |ベルリンの壁崩壊 |冷戦終結 |} [[Category:社会|しようかつこうしやかい6]] [[Category:小学校社会|6ねん]] [[Category:小学校社会 歴史|#14ねんひよう]] cfhz7phdan5fo8t4vn9m48fr23c0qvf 207321 207306 2022-08-27T09:06:19Z Mtodo 450 wikitext text/x-wiki {{Nav}} {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|6学年|歴史編|frame=1}} これまで学習してきたことの主なできごとを年代順に表にしています。<!--教程との関係で不正確な表現は残る。--> {| class="wikitable" style="width:100%;" |+ ! style="width:10%;" | 年代 ! style="width:30%;" | できごと ! style="width:60%;" | 「できごと」に関係すること |- !紀元前1世紀 |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#中国との交流|漢(前漢)に使いを送る]]。 |日本が歴史上初めて、文字で書かれた記録に登場しました。 |- !57年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#中国との交流|倭の奴国が後漢に使いを送る]]。 |皇帝から、金印「漢委奴国王印」をもらう。 |- !235年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#邪馬台国|邪馬台国の卑弥呼が、魏の皇帝に使いを送る]]。 |「魏志倭人伝」に書かれています。 |- !5世紀後半から<br/>6世紀前半 |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#大和政権|ヤマト政権が日本を統一する]]。 | |- !飛鳥時代 ! ! |- !538年頃 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#渡来人|仏教が公式に伝わる]]。 | |- !593年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#聖徳太子|聖徳太子が皇太子になる]]。 | |- !600年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#聖徳太子|小野妹子を遣隋使として隋に送る]]。 | |- !603年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#聖徳太子|冠位十二階を定める]]。 |このころ、「十七条の憲法」も決められました。 |- !645年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#大化の改新と律令制の成立|中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺し、「大化の改新」を始める]]。 |班田収授法、口分田<br/>租庸調 |- !663年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#外交|朝鮮半島で唐と新羅の軍に敗れる(白村江の戦い)]] | |- !672年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#壬申の乱|壬申の乱]] | |- !701年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#律令制|大宝律令が完成する]]。 |律令制の完成 |- !708年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#和同開珎|和同開珎]]をつくる。 | |- !奈良時代 ! ! |- !710年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#平城京遷都|平城京に遷都する]]。 | |- !712年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#記紀|古事記が完成する]]。 | |- !720年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#記紀|日本書紀が完成する]]。 | |- !741年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#奈良仏教|全国に国分寺と国分尼寺を作る]]。 | |- !743年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#墾田永年私財法|墾田永年私財法]] |班田収授法の意味がなくなり、「荘園」ができるもととなります。 |- !752年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#奈良仏教|東大寺大仏(奈良の大仏)が完成する]]。 | |- !平安時代 ! ! |- !794年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#平安遷都|平安京に遷都する]]。 | |- !804年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#空海と最澄|空海と最澄が遣唐使として唐へ行く]]。 |空海 真言宗 高野山金剛峯寺<br/>最澄 天台宗 比叡山延暦寺 |- !894年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#遣唐使の中止と国風文化|菅原道真が遣唐使を廃止する]]。 |「国風文化(日本独自の文化)」が発展します。 |- !939年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#平将門|平将門の乱、藤原純友の乱]] |最初の、大きな「武士」の反乱です。 |- !1016年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#摂関政治|藤原道長が摂政となる]]。 |「摂関政治」の代表です。 |- !1156年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#保元|保元の乱]] |武士が天皇や貴族に並んで政治の表舞台に出ました。 |- !1160年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#平治|平治の乱]] |平清盛が源義朝(源頼朝や義経の父)を倒して政権を握ります。 |- !1185年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#平家滅亡|壇ノ浦の戦い]] |源頼朝に命令された、源義経らが平家を滅ぼします。 |- !鎌倉時代 ! ! |- !1192年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#鎌倉幕府|源頼朝が征夷大将軍になる]]。 |鎌倉幕府が開かれます。 |- !1221年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#執権政治|承久の乱]] |武家が主導する政治が確立。<br/>執権政治 |- !1274年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#元寇|第1回元寇・文永の役]] | |- !1281年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#元寇|第2回元寇・弘安の役]] | |- !1333年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#鎌倉滅亡|後醍醐天皇の命令で新田義貞が北条氏を滅ぼす]]。 |鎌倉幕府は滅亡します。 |- !室町時代 ! ! |- !1338年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#室町幕府誕生|足利尊氏が征夷大将軍になる]]。 |室町幕府が開かれる。 <br/>天皇家が南北に分裂し、南北朝時代が始まります。 |- !1394年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#金閣|足利義満が金閣を作る]]。 |このころ、南朝が降伏し南北朝時代が終わります。 |- !1467年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#応仁の乱|応仁の乱が始まる]]。 |戦国時代が始まります。 |- !1482年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#銀閣|足利義政が銀閣を作る]]。 | |- !1543年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#鉄砲とキリスト教の伝来|鉄砲伝来]] | |- !1569年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|織田信長が足利義昭を将軍にする]]。 | |- !1573年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|織田信長が足利義昭を追放する]]。 |室町幕府滅亡 |- !安土桃山時代 ! ! |- !1576年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|安土城築城]] |城下町、楽市楽座 |- !1582年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|本能寺の変]] |織田信長がなくなり、明智光秀をうった豊臣秀吉が強力になる。 |- !1587年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#バテレン追放令|キリスト教が禁止される]]。 | |- !1588年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#刀狩|刀狩令]] | |- !1590年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#小田原攻め|豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし天下を統一する]]。 |戦国時代が終わる。 |- !1592年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#朝鮮出兵|第1回朝鮮出兵・文禄の役]] | |- !1597年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#朝鮮出兵|第2回朝鮮出兵・慶長の役]] | |- !1598年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#朝鮮出兵|豊臣秀吉死去]] |朝鮮出兵は取りやめになり、将兵は帰国した。 |- !1600年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#関ヶ原の戦い|関ヶ原の戦い]] |徳川家康が豊臣家の家臣石田三成などを破って、豊臣家に代わって天下を取りました。 |- !江戸時代 ! ! |- !1603年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#江戸幕府の誕生|徳川家康が征夷大将軍になる]]。 |江戸幕府が開かれる。 |- !1615年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#大阪の陣|大阪の陣で豊臣氏が滅びる]]。 | |- !1623年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#参勤交代|徳川家光が参勤交代制度を始める]]。 | |- !1637年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#島原の乱|島原の乱]] |江戸時代最大の民衆反乱(百姓一揆)。これ以降、明治維新になるまで、死亡者が100人を超えるような騒動は無くなります。 |- !1639年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#鎖国|鎖国の始まり]]。 | |- !1680年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#綱吉|徳川綱吉が第5代将軍になる]]。 |犬公方、文治政治<br/>元禄文化 |- !1716年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#吉宗|徳川吉宗が第8代将軍になる]]。 |享保の改革 |- !1772年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#田沼|田沼意次が老中になる]]。 |田沼時代 |- !1787年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#定信|松平定信が老中になる]]。 |寛政の改革 |- !1841年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#|忠邦|水野忠邦が改革を始める]]。 |天保の改革 |- !1853年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#黒船来航|黒船来航]] |マシュー・ペリー |- !1854年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#開国|日米和親条約締結]] |開国 |- !1858年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#通商条約|日米修好通商条約]] |不平等条約→条約改正 |- !1867年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#江戸幕府の終わり|大政奉還]] |江戸幕府滅亡 |- !明治時代 ! ! |- !1868年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#明治維新と武士の社会の終わり|明治維新]] | |- !1871年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#廃藩置県|廃藩置県]] |武士の世の中の終わり |- !1877年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#士族の反乱|西南戦争]] |士族の反乱 → 自由民権運動 |- !1889年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#大日本帝国憲法の制定|大日本帝国憲法制定]] |第1回衆議院議員選挙 → 帝国議会召集 |- !1894年-95年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#日清戦争|日清戦争]] |下関条約 |- !1897年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#条約改正と国際社会での地位の向上|治外法権撤廃]] | |- !1904年-05年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#日露戦争|日露戦争]] |ポーツマス条約 |- !1911年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#条約改正と国際社会での地位の向上|関税自主権回復]] | |- !大正・戦前昭和 ! ! |- !1914年-19年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#全世界を巻き込む戦争 - 第一次世界大戦|第一次世界大戦]] |ヴェルサイユ条約 → 国際連盟 常任理事国に |- !1923年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#関東大震災|関東大震災]] | |- !1925年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#大正デモクラシー|男子普通選挙]] |大正デモクラシー |- !1929年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#世界恐慌|世界恐慌]] | |- !1931年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#満州事変|満州事変]] |満州の中華民国軍と関東軍が対立し、関東軍は満州を占領しました。 |- !1932年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#軍国主義|五・一五事件]] |海軍軍人が犬養毅首相を暗殺しました。 |- !1933年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#満州事変|国際連盟脱退]] |満州事変について国際連盟で非難されたため、日本は国際連盟を脱退しました。 |- !1936年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#軍国主義|二・二六事件]] |陸軍軍人が政府を倒そうと東京で反乱を起こしました。 |- !1937年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#日中戦争|日中戦争]] | |- !1939年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#第二次世界大戦|第二次世界大戦勃発]] |ヨーロッパで、ドイツがポーランドに攻め込み、イギリスやフランスとの間で戦争になりました。 |- !1941年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#太平洋戦争|太平洋戦争勃発]] |日本はアメリカ合衆国に攻め込んで戦争になりました。 |- !1945年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#終戦|終戦]] |日本やドイツの枢軸国は降伏して第二次世界大戦は終わりました。 |- !戦後昭和・平成 ! ! |- !1946年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#民主国家日本の誕生|男女平等の普通選挙]] |アメリカ合衆国による占領のもとで、日本の民主化が進められました。 |- !1947年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#民主国家日本の誕生|日本国憲法施行]] |国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を三本柱とする民主的な日本国憲法が施行されました。 |- !1951年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#高度経済成長とその後の日本|サンフランシスコ平和条約]] |占領をしていた米国が撤退し、日本の独立が回復されました。 |- !1956年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#高度経済成長とその後の日本|国際連合加盟]] |日本の国際社会への復帰が認められました。 |- !1964年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#高度経済成長とその後の日本|東京オリンピック]] | |- !1970年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#高度経済成長とその後の日本|大阪万国博覧会]] | |- !1972年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#高度経済成長とその後の日本|札幌冬季オリンピック<br/>沖縄返還]] | |- !1973年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#高度経済成長とその後の日本|オイルショック]] | |- !1989年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#冷戦終了後の世界|ベルリンの壁崩壊]] |冷戦終結 |} [[Category:社会|しようかつこうしやかい6]] [[Category:小学校社会|6ねん]] [[Category:小学校社会 歴史|#14ねんひよう]] fvknnbxxgo5klf0dlzqwbi9dci5470c 207323 207321 2022-08-27T09:11:37Z Mtodo 450 wikitext text/x-wiki {{Nav}} {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|6学年|歴史編|frame=1}} これまで学習してきたことの主なできごとを年代順に表にしています。<!--教程との関係で不正確な表現は残る。--> {| class="wikitable" style="width:100%;" |+ ! style="width:10%;" | 年代 ! style="width:30%;" | できごと ! style="width:60%;" | 「できごと」に関係すること |- !紀元前1世紀 |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#中国との交流|漢(前漢)に使いを送る]]。 |日本が歴史上初めて、文字で書かれた記録に登場しました。 |- !57年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#中国との交流|倭の奴国が後漢に使いを送る]]。 |皇帝から、金印「漢委奴国王印」をもらう。 |- !235年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#邪馬台国|邪馬台国の卑弥呼が、魏の皇帝に使いを送る]]。 |「魏志倭人伝」に書かれています。 |- !5世紀後半から<br/>6世紀前半 |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#大和政権|ヤマト政権が日本を統一する]]。 | |- !飛鳥時代 ! ! |- !538年頃 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#渡来人|仏教が公式に伝わる]]。 | |- !593年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#聖徳太子|聖徳太子が皇太子になる]]。 | |- !600年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#聖徳太子|小野妹子を遣隋使として隋に送る]]。 | |- !603年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#聖徳太子|冠位十二階を定める]]。 |このころ、「十七条の憲法」も決められました。 |- !645年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#大化の改新と律令制の成立|中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺し、「大化の改新」を始める]]。 |班田収授法、口分田<br/>租庸調 |- !663年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#外交|朝鮮半島で唐と新羅の軍に敗れる(白村江の戦い)]] | |- !672年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#壬申の乱|壬申の乱]] | |- !701年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#律令制|大宝律令が完成する]]。 |律令制の完成 |- !708年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#和同開珎|和同開珎]]をつくる。 | |- !奈良時代 ! ! |- !710年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#平城京遷都|平城京に遷都する]]。 | |- !712年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#記紀|古事記が完成する]]。 | |- !720年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#記紀|日本書紀が完成する]]。 | |- !741年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#奈良仏教|全国に国分寺と国分尼寺を作る]]。 | |- !743年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#墾田永年私財法|墾田永年私財法]] |班田収授法の意味がなくなり、「荘園」ができるもととなります。 |- !752年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#奈良仏教|東大寺大仏(奈良の大仏)が完成する]]。 | |- !平安時代 ! ! |- !794年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#平安遷都|平安京に遷都する]]。 | |- !804年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#空海と最澄|空海と最澄が遣唐使として唐へ行く]]。 |空海 真言宗 高野山金剛峯寺<br/>最澄 天台宗 比叡山延暦寺 |- !894年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#遣唐使の中止と国風文化|菅原道真が遣唐使を廃止する]]。 |「国風文化(日本独自の文化)」が発展します。 |- !939年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#平将門|平将門の乱、藤原純友の乱]] |最初の、大きな「武士」の反乱です。 |- !1016年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#摂関政治|藤原道長が摂政となる]]。 |「摂関政治」の代表です。 |- !1156年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#保元|保元の乱]] |武士が天皇や貴族に並んで政治の表舞台に出ました。 |- !1160年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#平治|平治の乱]] |平清盛が源義朝(源頼朝や義経の父)を倒して政権を握ります。 |- !1185年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#平家滅亡|壇ノ浦の戦い]] |源頼朝に命令された、源義経らが平家を滅ぼします。 |- !鎌倉時代 ! ! |- !1192年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#鎌倉幕府|源頼朝が征夷大将軍になる]]。 |鎌倉幕府が開かれます。 |- !1221年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#執権政治|承久の乱]] |武家が主導する政治が確立。<br/>執権政治 |- !1274年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#元寇|第1回元寇・文永の役]] | |- !1281年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#元寇|第2回元寇・弘安の役]] | |- !1333年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#鎌倉滅亡|後醍醐天皇の命令で新田義貞が北条氏を滅ぼす]]。 |鎌倉幕府は滅亡します。 |- !室町時代 ! ! |- !1338年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#室町幕府誕生|足利尊氏が征夷大将軍になる]]。 |室町幕府が開かれる。 <br/>天皇家が南北に分裂し、南北朝時代が始まります。 |- !1394年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#金閣|足利義満が金閣を作る]]。 |このころ、南朝が降伏し南北朝時代が終わります。 |- !1467年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#応仁の乱|応仁の乱が始まる]]。 |戦国時代が始まります。 |- !1482年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#銀閣|足利義政が銀閣を作る]]。 | |- !1543年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#鉄砲とキリスト教の伝来|鉄砲伝来]] | |- !1569年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|織田信長が足利義昭を将軍にする]]。 | |- !1573年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|織田信長が足利義昭を追放する]]。 |室町幕府滅亡 |- !安土桃山時代 ! ! |- !1576年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|安土城築城]] |城下町、楽市楽座 |- !1582年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|本能寺の変]] |織田信長がなくなり、明智光秀をうった豊臣秀吉が強力になる。 |- !1587年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#バテレン追放令|キリスト教が禁止される]]。 | |- !1588年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#刀狩|刀狩令]] | |- !1590年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#小田原攻め|豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし天下を統一する]]。 |戦国時代が終わる。 |- !1592年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#朝鮮出兵|第1回朝鮮出兵・文禄の役]] | |- !1597年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#朝鮮出兵|第2回朝鮮出兵・慶長の役]] | |- !1598年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#朝鮮出兵|豊臣秀吉死去]] |朝鮮出兵は取りやめになり、将兵は帰国した。 |- !1600年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#関ヶ原の戦い|関ヶ原の戦い]] |徳川家康が豊臣家の家臣石田三成などを破って、豊臣家に代わって天下を取りました。 |- !江戸時代 ! ! |- !1603年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#江戸幕府の誕生|徳川家康が征夷大将軍になる]]。 |江戸幕府が開かれる。 |- !1615年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#大阪の陣|大阪の陣で豊臣氏が滅びる]]。 | |- !1623年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#参勤交代|徳川家光が参勤交代制度を始める]]。 | |- !1637年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#島原の乱|島原の乱]] |江戸時代最大の民衆反乱(百姓一揆)。これ以降、明治維新になるまで、死亡者が100人を超えるような騒動は無くなります。 |- !1639年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#鎖国|鎖国の始まり]]。 | |- !1680年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#綱吉|徳川綱吉が第5代将軍になる]]。 |犬公方、文治政治<br/>元禄文化 |- !1716年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#吉宗|徳川吉宗が第8代将軍になる]]。 |享保の改革 |- !1772年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#田沼|田沼意次が老中になる]]。 |田沼時代 |- !1787年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#定信|松平定信が老中になる]]。 |寛政の改革 |- !1841年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#|忠邦|水野忠邦が改革を始める]]。 |天保の改革 |- !1853年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#黒船来航|黒船来航]] |マシュー・ペリー |- !1854年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#開国|日米和親条約締結]] |開国 |- !1858年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#通商条約|日米修好通商条約]] |不平等条約→条約改正 |- !1867年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#江戸幕府の終わり|大政奉還]] |江戸幕府滅亡 |- !明治時代 ! ! |- !1868年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#明治維新と武士の社会の終わり|明治維新]] | |- !1871年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#廃藩置県|廃藩置県]] |武士の世の中の終わり |- !1877年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#士族の反乱|西南戦争]] |士族の反乱 → 自由民権運動 |- !1889年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#大日本帝国憲法の制定|大日本帝国憲法制定]] |第1回衆議院議員選挙 → 帝国議会召集 |- !1894年-95年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#日清戦争|日清戦争]] |下関条約 |- !1897年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#条約改正と国際社会での地位の向上|治外法権撤廃]] | |- !1904年-05年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#日露戦争|日露戦争]] |ポーツマス条約 |- !1911年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#条約改正と国際社会での地位の向上|関税自主権回復]] | |- !大正・戦前昭和 ! ! |- !1914年-19年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#全世界を巻き込む戦争 - 第一次世界大戦|第一次世界大戦]] |ヴェルサイユ条約 → 国際連盟 常任理事国に |- !1923年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#関東大震災|関東大震災]] | |- !1925年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#大正デモクラシー|男子普通選挙]] |大正デモクラシー |- !1929年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#世界恐慌|世界恐慌]] | |- !1931年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#満州事変|満州事変]] |満州の中華民国軍と関東軍が対立し、関東軍は満州を占領しました。 |- !1932年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#軍国主義|五・一五事件]] |海軍軍人が犬養毅首相を暗殺しました。 |- !1933年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#満州事変|国際連盟脱退]] |満州事変について国際連盟で非難されたため、日本は国際連盟を脱退しました。 |- !1936年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#軍国主義|二・二六事件]] |陸軍軍人が政府を倒そうと東京で反乱を起こしました。 |- !1937年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#日中戦争|日中戦争]] | |- !1939年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#第二次世界大戦|第二次世界大戦勃発]] |ヨーロッパで、ドイツがポーランドに攻め込み、イギリスやフランスとの間で戦争になりました。 |- !1941年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#太平洋戦争|太平洋戦争勃発]] |日本はアメリカ合衆国に攻め込んで戦争になりました。 |- !1945年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#終戦|終戦]] |日本やドイツの枢軸国は降伏して第二次世界大戦は終わりました。 |- !戦後昭和・平成 ! ! |- !1946年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#民主国家日本の誕生|男女平等の普通選挙]] |アメリカ合衆国による占領のもとで、日本の民主化が進められました。 |- !1947年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#民主国家日本の誕生|日本国憲法施行]] |国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を三本柱とする民主的な日本国憲法が施行されました。 |- !1951年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#高度経済成長とその後の日本|サンフランシスコ平和条約]] |占領をしていた米国が撤退し、日本の独立が回復されました。 |- !1956年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#高度経済成長とその後の日本|国際連合加盟]] |日本の国際社会への復帰が認められました。 |- !1964年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#高度経済成長とその後の日本|東京オリンピック]] | |- !1970年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#高度経済成長とその後の日本|大阪万国博覧会]] | |- !1972年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#高度経済成長とその後の日本|札幌冬季オリンピック<br/>沖縄返還<br/>日中国交正常化]] | |- !1973年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#高度経済成長とその後の日本|オイルショック]] | |- !1989年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#冷戦終了後の世界|ベルリンの壁崩壊]] |冷戦終結 |} [[Category:社会|しようかつこうしやかい6]] [[Category:小学校社会|6ねん]] [[Category:小学校社会 歴史|#14ねんひよう]] kk91jbbytj50q8cnfnfg12f8feverti 207325 207323 2022-08-27T09:23:04Z Mtodo 450 wikitext text/x-wiki {{Nav}} {{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|6学年|歴史編|frame=1}} これまで学習してきたことの主なできごとを年代順に表にしています。<!--教程との関係で不正確な表現は残る。--> {| class="wikitable" style="width:100%;" |+ ! style="width:10%;" | 年代 ! style="width:30%;" | できごと ! style="width:60%;" | 「できごと」に関係すること |- !紀元前1世紀 |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#中国との交流|漢(前漢)に使いを送る]]。 |日本が歴史上初めて、文字で書かれた記録に登場しました。 |- !57年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#中国との交流|倭の奴国が後漢に使いを送る]]。 |皇帝から、金印「漢委奴国王印」をもらう。 |- !235年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#邪馬台国|邪馬台国の卑弥呼が、魏の皇帝に使いを送る]]。 |「魏志倭人伝」に書かれています。 |- !5世紀後半から<br/>6世紀前半 |[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#大和政権|ヤマト政権が日本を統一する]]。 | |- !飛鳥時代 ! ! |- !538年頃 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#渡来人|仏教が公式に伝わる]]。 | |- !593年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#聖徳太子|聖徳太子が皇太子になる]]。 | |- !600年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#聖徳太子|小野妹子を遣隋使として隋に送る]]。 | |- !603年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#聖徳太子|冠位十二階を定める]]。 |このころ、「十七条の憲法」も決められました。 |- !645年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#大化の改新と律令制の成立|中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺し、「大化の改新」を始める]]。 |班田収授法、口分田<br/>租庸調 |- !663年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#外交|朝鮮半島で唐と新羅の軍に敗れる(白村江の戦い)]] | |- !672年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#壬申の乱|壬申の乱]] | |- !701年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#律令制|大宝律令が完成する]]。 |律令制の完成 |- !708年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#和同開珎|和同開珎]]をつくる。 | |- !奈良時代 ! ! |- !710年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#平城京遷都|平城京に遷都する]]。 | |- !712年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#記紀|古事記が完成する]]。 | |- !720年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#記紀|日本書紀が完成する]]。 | |- !741年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#奈良仏教|全国に国分寺と国分尼寺を作る]]。 | |- !743年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#墾田永年私財法|墾田永年私財法]] |班田収授法の意味がなくなり、「荘園」ができるもととなります。 |- !752年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#奈良仏教|東大寺大仏(奈良の大仏)が完成する]]。 | |- !平安時代 ! ! |- !794年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#平安遷都|平安京に遷都する]]。 | |- !804年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#空海と最澄|空海と最澄が遣唐使として唐へ行く]]。 |空海 真言宗 高野山金剛峯寺<br/>最澄 天台宗 比叡山延暦寺 |- !894年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#遣唐使の中止と国風文化|菅原道真が遣唐使を廃止する]]。 |「国風文化(日本独自の文化)」が発展します。 |- !939年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#平将門|平将門の乱、藤原純友の乱]] |最初の、大きな「武士」の反乱です。 |- !1016年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#摂関政治|藤原道長が摂政となる]]。 |「摂関政治」の代表です。 |- !1156年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#保元|保元の乱]] |武士が天皇や貴族に並んで政治の表舞台に出ました。 |- !1160年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#平治|平治の乱]] |平清盛が源義朝(源頼朝や義経の父)を倒して政権を握ります。 |- !1185年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#平家滅亡|壇ノ浦の戦い]] |源頼朝に命令された、源義経らが平家を滅ぼします。 |- !鎌倉時代 ! ! |- !1192年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#鎌倉幕府|源頼朝が征夷大将軍になる]]。 |鎌倉幕府が開かれます。 |- !1221年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#執権政治|承久の乱]] |武家が主導する政治が確立。<br/>執権政治 |- !1274年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#元寇|第1回元寇・文永の役]] | |- !1281年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#元寇|第2回元寇・弘安の役]] | |- !1333年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#鎌倉滅亡|後醍醐天皇の命令で新田義貞が北条氏を滅ぼす]]。 |鎌倉幕府は滅亡します。 |- !室町時代 ! ! |- !1338年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#室町幕府誕生|足利尊氏が征夷大将軍になる]]。 |室町幕府が開かれる。 <br/>天皇家が南北に分裂し、南北朝時代が始まります。 |- !1394年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#金閣|足利義満が金閣を作る]]。 |このころ、南朝が降伏し南北朝時代が終わります。 |- !1467年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#応仁の乱|応仁の乱が始まる]]。 |戦国時代が始まります。 |- !1482年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#銀閣|足利義政が銀閣を作る]]。 | |- !1543年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#鉄砲とキリスト教の伝来|鉄砲伝来]] | |- !1569年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|織田信長が足利義昭を将軍にする]]。 | |- !1573年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|織田信長が足利義昭を追放する]]。 |室町幕府滅亡 |- !安土桃山時代 ! ! |- !1576年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|安土城築城]] |城下町、楽市楽座 |- !1582年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|本能寺の変]] |織田信長がなくなり、明智光秀をうった豊臣秀吉が強力になる。 |- !1587年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#バテレン追放令|キリスト教が禁止される]]。 | |- !1588年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#刀狩|刀狩令]] | |- !1590年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#小田原攻め|豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし天下を統一する]]。 |戦国時代が終わる。 |- !1592年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#朝鮮出兵|第1回朝鮮出兵・文禄の役]] | |- !1597年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#朝鮮出兵|第2回朝鮮出兵・慶長の役]] | |- !1598年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#朝鮮出兵|豊臣秀吉死去]] |朝鮮出兵は取りやめになり、将兵は帰国した。 |- !1600年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#関ヶ原の戦い|関ヶ原の戦い]] |徳川家康が豊臣家の家臣石田三成などを破って、豊臣家に代わって天下を取りました。 |- !江戸時代 ! ! |- !1603年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#江戸幕府の誕生|徳川家康が征夷大将軍になる]]。 |江戸幕府が開かれる。 |- !1615年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#大阪の陣|大阪の陣で豊臣氏が滅びる]]。 | |- !1623年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#参勤交代|徳川家光が参勤交代制度を始める]]。 | |- !1637年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#島原の乱|島原の乱]] |江戸時代最大の民衆反乱(百姓一揆)。これ以降、明治維新になるまで、死亡者が100人を超えるような騒動は無くなります。 |- !1639年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#鎖国|鎖国の始まり]]。 | |- !1680年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#綱吉|徳川綱吉が第5代将軍になる]]。 |犬公方、文治政治<br/>元禄文化 |- !1716年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#吉宗|徳川吉宗が第8代将軍になる]]。 |享保の改革 |- !1772年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#田沼|田沼意次が老中になる]]。 |田沼時代 |- !1787年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#定信|松平定信が老中になる]]。 |寛政の改革 |- !1841年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#忠邦|水野忠邦が改革を始める]]。 |天保の改革 |- !1853年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#黒船来航|黒船来航]] |マシュー・ペリー |- !1854年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#開国|日米和親条約締結]] |開国 |- !1858年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#通商条約|日米修好通商条約]] |不平等条約→条約改正 |- !1867年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#江戸幕府の終わり|大政奉還]] |江戸幕府滅亡 |- !明治時代 ! ! |- !1868年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#明治維新と武士の社会の終わり|明治維新]] | |- !1871年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#廃藩置県|廃藩置県]] |武士の世の中の終わり |- !1877年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#士族の反乱|西南戦争]] |士族の反乱 → 自由民権運動 |- !1889年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#大日本帝国憲法の制定|大日本帝国憲法制定]] |第1回衆議院議員選挙 → 帝国議会召集 |- !1894年-95年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#日清戦争|日清戦争]] |下関条約 |- !1897年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#条約改正と国際社会での地位の向上|治外法権撤廃]] | |- !1904年-05年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#日露戦争|日露戦争]] |ポーツマス条約 |- !1911年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#条約改正と国際社会での地位の向上|関税自主権回復]] | |- !大正・戦前昭和 ! ! |- !1914年-19年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#全世界を巻き込む戦争 - 第一次世界大戦|第一次世界大戦]] |ヴェルサイユ条約 → 国際連盟 常任理事国に |- !1923年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#関東大震災|関東大震災]] | |- !1925年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#大正デモクラシー|男子普通選挙]] |大正デモクラシー |- !1929年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#世界恐慌|世界恐慌]] | |- !1931年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#満州事変|満州事変]] |満州の中華民国軍と関東軍が対立し、関東軍は満州を占領しました。 |- !1932年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#軍国主義|五・一五事件]] |海軍軍人が犬養毅首相を暗殺しました。 |- 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|[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#高度経済成長とその後の日本|国際連合加盟]] |日本の国際社会への復帰が認められました。 |- !1964年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#高度経済成長とその後の日本|東京オリンピック]] | |- !1970年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#高度経済成長とその後の日本|大阪万国博覧会]] | |- !1972年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#高度経済成長とその後の日本|札幌冬季オリンピック<br/>沖縄返還<br/>日中国交正常化]] | |- !1973年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#高度経済成長とその後の日本|オイルショック]] | |- !1989年 |[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#冷戦終了後の世界|ベルリンの壁崩壊]] |冷戦終結 |} [[Category:社会|しようかつこうしやかい6]] [[Category:小学校社会|6ねん]] [[Category:小学校社会 歴史|#14ねんひよう]] 0xu1fozfd76kcs9154s47gisk8rnqjt