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であるのに対し、(2a, b) の文は容認不可能 unacceptable である、とする。 さて、母語話者はどのようにしてこういった判断を示すのであろうか。一つの仮説として、母語話者は持っている現代語の知識に照らし合わせて、自覚的であろうとなかろうと、容認性 acceptability の判断を与えるものとする。ここで現代語統語論と呼んでいるものは、この仮説を受け入れ、判断の基盤となっている統語的な知識を書き出そうとするのである。 現代日本語の統語的な知識はどのようなもので構成されているのだろうか。(1) に現れる「珈琲」が指し示す物について考えてみよう。よく考えると一体何を指しているのだろうか。珈琲(コーヒー)を構成する音韻 /koRhiR/ は飲み物を意味する。しかし液体はそのままでテーブルの上に置くことができるものではない(溢れた、零した、恋人が鼻に割り箸を突っ込んで折ったので笑って吹き出した、等の場合は別の文を使うはず)。指し示されているのはコーヒーが器に入った状態のもの、コーヒー豆が容器に入った状態のもの、等であろう。「珈琲」がこういった物を指すのはメトニミー metonymy と呼ばれるもので、言語の重要な知識である。しかし統語論的な知識はこういったものは含まない。 (1a) と (2a) を比べてみよう。違いは「テーブルの上」と「テーブルうえ」で助詞ノがあるかないか、である。「テーブル上 (じょう)」とすれば容認可能となるが、ここではこの問題は措く。言語によってはある環境で助詞ノに対応するものが自由に脱落するが、日本語の現代語では許されない。つまり「テーブル」と「上」を統語論的なまとまり、「構成素 constituent」するには助詞ノが必要となる。「テーブル」と「上」は学校の国文法でいう名詞であり、これらからなる構成素も名詞である。こういった名詞の構成素は更に文の一部となるが、文を成り立たせる構成素の組み立て方に関する知識である、助詞ノの必須性は、統語論的な知識である。 続いて (1d, e) と (2b) を比べてみよう。(1d, e) の断片 fragment を取り出したものが次である。 (3) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li> テーブルの上に珈琲がある <li> 珈琲がテーブルの上にある </ol> ここでは「テーブルの上に」と「珈琲が」の順序が入れ替わっている。「日本語は語順が自由である」とよく言われるが、上の二文はこれを例示している。更に (4) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li> 珈琲はテーブルの上にあるよ <li> テーブルの上にあるよ、珈琲は </ol> の (4b) のように「珈琲は」を述部の後に置くことも可能である。これらを見ると現代語では (5) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li> NP-ni NP-ga ar <li> NP-ga NP-ni ar <li> NP-ni ar NP-ga <li> NP-ga ar NP-ni </ol> というように極めて語順が自由であるように見える。加えて (6) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li> 監督が倒れさえしなければ(あの試合に負けなかったのに) <li> 倒れさえ監督がしなければ(あの試合に負けなかったのに) </ol> のように述部が前に置かれる場合もあり (7) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li> NP-ga taore <li> taore NP-ga </ol> というように、語順は完全に自由であると考えられるかもしれない。 英語の語順は SVO であるのに対して日本語は SOV である(だからナンダカンダ)、と言われることがある。上の観察を考慮に入れた場合、SVO 語順もあれば VS 語順もあり、そもそも日本語に関して語順に言及することは無意味だという人も居ておかしくない。 しかしここで (2b) を見てみよう。下に再掲する。 (2) b.*テーブルの上にある珈琲がことにあいつは気付いていないのか この文は容認不可能である。もちろんこの断片 (8) テーブルの上にある珈琲が は現代語として問題がない断片である。ただしこの断片は「珈琲」という名詞を「テーブルの上にある」が連体修飾しているもので、ここで問題としようとしているものとは異なる。別の断片 (9) テーブルの上にある珈琲がことに は不適格な断片であり、同様に (10) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>*かからないインフルエンザにようにうがいと手洗いを欠かさずに行っている <li>*明日は良いらしい天気がから寒中水泳に出かけよう </ol> も容認不可能である。 完全に容認可能な範囲の語順の入れ替えと、容認不可能になる語順の入れ替えの環境の違いは何だろうか。述部の後に主語などが現れるのは主節においてであり、従属節では必ず述部が末尾に現れなければならない。つまり、自由語順は主節にのみ見られる現象で、現代語のあらゆるところに見られる現象ではない、ということが考えられる。 では他の自由語順、すなわち述部の前に来る要素は制限なく自由なのであろうか。英語のような SVO や、アイルランド語やタガログ語のような VSO ではないとして、述部が最後にさえあれば語順に規則性や、基本語順のようなものはないのだろうか。 これまで動詞が要求する構成素、「項 argument」のみを扱ってきたが、ここで項ではない、副詞などの構成素である「付加詞 adjunct」を取り上げて考えてみよう。 (11) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>社長が納期直前の今日[取引先への納品が昨日倍に増えた]と従業員に告げた <li>*昨日ᵢ 社長が納期直前の今日[取引先への納品が tᵢ 倍に増えた]と従業員に告げた </ol> 一般に、付加詞は従属節の中から取り出して主節に置くことができないと言われている。節境界を越えた掻き混ぜ scrambling は「長距離掻き混ぜ long-distance scrambling」と呼ばれている。上はその一例だが、主節に時間副詞が二つあるために、主節内で関係付けて解釈しやすいことが悪さをしているのかもしれない。つまり、自由語順現象とはひとまず関係のない現象だと言われるかもしれない。 次に下のような例を考えてみよう。 (12) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>兄は昨日紀伊國屋へ参考書を買いに行った <li>兄は参考書を買いに昨日紀伊國屋へ行った </ol> これら二つの文は、次の二つの節を組み合わせてそれぞれ一文にしている。 (13) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>兄は昨日紀伊國屋へ行った <li>兄が参考書を買う </ol> (12a, b)の違いは、(13b) から作った目的節が主節述部「行った」に隣接しているか否かである。ここで「紀伊國屋へ」の語順を入れ替えてみよう。 (14) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>兄は昨日参考書を紀伊國屋へ買いに行った <li>*兄は参考書を紀伊國屋へ買いに昨日行った </ol> 動詞に目的節が隣接していない (14b) は容認不可能、よくて不自然、と判断されるはずである。 挙げた二つのケースは複文で、よくて、複文では所属する節から構成素を移すことは自由とは言えない、ということしか述べられない。そこで次に単文を取り上げて考察しよう。 ゴールを明確にするために、よく言われる「日本語は SOV 語順である」にからめて問題設定してみよう。ここで現代語には「基本語順 basic word-order」があって、それは (15) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>NP-ga NP-o V <li>NP-o NP-ga V </ol> のいずれかであるのか、それとも、基本語順はなく、単文では項は自由語順であるのか、を確かめよう。 次の文を考えよう。 (16) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>どの観光客も何か弁当を買った <li>観光客の誰かがどの弁当も買った </ol> ここで (16a) は①「どの観光客を取り上げても、それぞれ買った弁当が最低一つある」という解釈(分配解釈と呼ぶ。量化子の作用域は∀>∃)を持つ。また、②「弁当について、観光客のあらゆるものが買った弁当が存在する」という解釈(存在解釈。量化子の作用域は∃>∀)も持つ。②は語順とは逆になる作用域 inverse scope を持つようにも見える。一方、 (16b) は存在解釈の③「観光客の個体について、弁当という個体のすべてを買った観光客が存在する」という解釈は持つが、④「弁当のどの個体を取り上げても、それぞれそれを買った観光客が最低一人いる」という分配解釈は持っていない。英語ではこの場合、語順とは逆になる作用域の解釈を持ち、‘Some woman loves every man’ という文では、Some woman loves every man, and her name is Edith. という存在解釈と、語順とは逆になる作用域の解釈 Some woman loves every man, because Edith loves Harold, Deirdre loves Tom and Anne loves Andy. という分配解釈(解釈の例は Koeneman and Zeijlstra, ''Introducing Syntax'' より)が存在する。これは日本語の (16b) と対照的である。一方、(16a) に対応する ‘Every woman loves some man’ は確かに作用域が語順と逆になる解釈ができるが、それは分配解釈の特殊例で、それぞれの女の愛する男が偶然一致するというものである。現代語では表面の語順と作用域の広狭は厳密に対応すると言われている(Kuroda, ‘Remarks on the notion of subject with special reference to the words like also, even, and only’ など)。上の②の解釈は英語の場合と同様に①の特殊例と考えることができ、また、日本語に④が欠如していることを考えると、現代日本語は語順と作用域が厳密に対応すると考えられる。 (16) の語順を入れ替えてみよう。 (17) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>何か弁当をどの観光客も買った <li>どの弁当も観光客の誰かが買った </ol> この語順は OSV という語順である。この語順で SOV と同じ様式で論理的解釈がもたらされるならば、現代語に基本語順はない、という一つの証拠になる。しかし、(17a) は①の分配解釈と②の存在解釈を持ち、(17b) は③の存在と④の分配解釈を持つ。つまり、いずれも語順通りの作用域の解釈と、語順とは逆になる作用域の解釈で多義的となり、SOV とは解釈の多様性という点で異なるのである。OSV 語順とは逆になる作用域の解釈は SOV と同じ解釈を保存したものであり、OSV 語順通りの作用域の解釈は OSV という語順で新たに得られたものである。すなわち、 (17b)の③の解釈は元の SVO 語順による解釈を保存したものであり、④の解釈は OSV 語順によって新たに得られた解釈である。もし基本語順がなく、与えられた語順で作用域の解釈が定まるのであれば、(17a, b) は語順と逆になる作用域を取らないはずなのであり、この観察は現代語に基本語順があるということの基盤の一つとなる。つまり現代語について以下が成り立つ: (18) 基本語順① NP-ga NP-o V 存在文の基本語順については久野暲の詳細な研究がある (Linguistic Inquiry 論文、『日本文法研究』など)。基本語順は次のように考えられている。 (19) 基本語順② NP-ni NP-ga ar ここで最初の例に戻ってみよう。 (20) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>珈琲はテーブルの上にある <li>テーブルの上には珈琲がある <li>テーブルの上には珈琲があるのか </ol> これらは (1d) の断片である (21) から作られている。 (21) テーブルの上に珈琲がある (= 3a) これと (20b) の違いは「テーブルの上に」の後に「は」があるかないか、だけである。「は」とはなんだろうか。学校の国文法では「係助詞」という品詞に分類されている。係助詞とは、古典語の文法では述部の結びを決定するような助詞のことを指していたのを覚えているだろう。例えば「ぞ」の結びは連体形で、「こそ」の結びは已然形である。ならば「は」?これは終止形で結ぶものとして係助詞と分類されているのである。 ここでハがあるものとないものの違いを考えてみよう。ここで「∅」はハに対応するものが無いことを表している。 (22) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>テーブルの上に ∅ 珈琲がある <li>テーブルの上に ハ 珈琲がある </ol> 使われる状況、文脈、文中の環境に注意して、どんな環境で使えるかどうかを見てみよう。 次のような状況を考えてみよう:仕事から帰宅してキッチンに入るといい薫りがする。ふとテーブルにやった時に (23) あ!テーブルの上に ∅ 珈琲がある! という発話は可能である。一方 (24) あ!テーブルの上に ハ 珈琲がある! という発話は不可能であろう。ただし (25) あ!テーブルの上に ハ 珈琲があるし、ガスレンジの上に ハ パンケーキがある!(同居人、気が利いてるなあ・・・) のようにすると可能になるが、この場合のハは「対比」と呼ばれるもので、ここでは触れない。 今度は (26) ねえ、テーブルの上に何があるの? と質問されたとする。 (27) テーブルの上に ハ 珈琲がある(よ) と答えるのは可能であるが、 (28) テーブルの上に ∅ 珈琲がある(よ) と答えることはできない。質問でも (29) ちょっと休憩にしてお茶にしない? のような場合には可能であるが、この場合字義通りには「うん」や「いやだ」など等で答えるタイプの疑問文で、この答えは語用論的含意をもたらす(自分でなんとかしろや、など)。 テキストにおける出現を考えてみよう。次のようなテキストを考える。 (30) 恋人がうちを出てもうすぐ一年になる。早く忘れた方がいいんだろうが、あいつにこんなにも頼り切っていたのか、悲しくなる毎日だった。そんな日々に、突然恋人から LINE が届いた。「近いうちに戻ってもいい?」……胸が高鳴る。今日か、今日かと家路に急ぐ。そして…… 締め括るには (22) のどちらが相応しいだろうか。 判断を読んでくださっている方々に委ねて(逃げた)文中での環境に注意を移そう。バ条件節には (22) のどちらが出現可能だろうか。 (31) ___ば誰かが飲むに違いない 次のように (22a) に対応する形式は出現可能で、その文全体は容認可能である。 (32) テーブルの上に ∅ 珈琲があれば誰かが飲むに違いない これに対し (22b) に対応する形式が出現した場合、容認不可能となる。 (33) *テーブルの上に ハ 珈琲があれば誰かが飲むに違いない それだけではなく、(20a) に対応する形式が出現した場合にも容認不可能となる。 (34) * 珈琲 ハ テーブルの上にあれば誰かが飲むに違いない この段落の観察では十分に示せていないが、ここで取り上げている用法のハは主節に現れるものと一応見なせることになる。 今暫く、ハについて少し詳しく考えてみよう。ハは、他の係助詞と同様に、次の位置に現れる(Caseは格を表す助詞)。 (35) NP-Case-___ しかし、ある助詞に後続した場合には、先行する助詞が現れてはならない(現れなくなった助詞を∅と表す)。 (36) NP-∅-___ 現れてはならない助詞はガとヲである。ハの後接によって生起出来ないガは転置によって現れる。 (37) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>アメリカ大統領 ∅ ハドナルド・トランプ氏だ <li>ドナルド・トランプ氏ガアメリカ大統領だ </ol> これを三上章は「有格」と呼んだ(『現代語法序説』)。これに対し (38) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>アメリカン・ショートヘアー ∅ ハ猫だ <li>*猫ガアメリカン・ショートヘアーだ </ol> のように転置でガを出せないものがある。三上はこれを「無格」と呼んだ(上掲書)。つまり、ハは常に格を伴う名詞句とともに用いられる訳ではない、ということである。ではハの意味・機能とはなんだろうか。 分節化された文(「あっ!」や「猫!」のようなものではない文)について、これまでハを伴う句、「主題 topic」を持つ文と持たない文に分けられると考えられている。主題を持つ文を松下大三郎は「有題的思惟断定」(『標準日本文法』)、黒田成幸は categorical judgment (double judgment 複合判断、''The (W)hole of Doughnuts'')を表現する文であるとしている。そして主題を持たない文を松下は「無題的完全思惟性断定」、黒田は thetic judgment (simple judgment 単純判断)を表現する文であるとしている。 以後、主題を含む文を「有題文」、含まない文を「無題文」と呼ぶ。無題文は (23) あ!テーブルの上に ∅ 珈琲がある! のように、ある出来事について、それをひとまとまりの判断として出し抜けに述べる(言い換えると、談話や文脈なしに目前の出来事を述べる)使われ方をする。存在動詞文以外では (39) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>ほら!ウチの子が走ってる! <li>見て!白バイが違反車を待ってる! </ol> のような自動詞文や他動詞文で無題文となるものがある。一方、対応する有題文 (40) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>ウチの子は走っている <li>白バイは違反車を待っている </ol> では異なる使われ方をし (41) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>アンタんとこの子どこ…? -ウチの子(は)もう走ってるって! <li>スピード違反には気を付けて。白バイは違反車を待っているから… </ol> の (41a) のように、先行する発話を受けて、「ウチの子」という判断を行い、それに別の判断「もう走ってる」を結合させて情報を伝えたり、(41b) のような「総称文 generic sentence」で、スピード違反の取り締まりから連想される「白バイ」という判断に「違反車を待っている」という判断を結合させてあり得る状況を伝えて注意を喚起したりする。 なお、(39) と (41) を対比させると、ガを伴う名詞句とハを伴う名詞句が対照的であるため、しばしば「主語のハとガはどう違うか」という問題設定がなされる。しかし存在動詞文で見たようにハが付けられて主題になるのはガを伴う名詞句に限られず、ニを伴う名詞句や、他にはヲを伴う名詞句、カラを伴う名詞句、などと対照させるべきである。つまり、「主語のハとガはどう違うか」というのは誤った問題設定であり、これに拘泥するために他の重要な現象から注意を逸らされてしまうということで、誤った問題設定を辞めて重要な現象に取り組むべきであるとして三上章が「主語廃止論」を強く説いたことは有名である(日本語に、どんな定義かは置いて「主語はない」と主張しているわけではない。三上は「主語」という用語を避けて「主格」と呼びつつ、主格の優位性は強調している)。 有題文と無題文の意味・機能についてはまた改めて触れることにする。ここではこれらの統語論的性質に戻ることにする。(1a, b) の有題文 (42) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>珈琲 ハ テーブルの上にある <li>テーブルの上に ハ 珈琲がある </ol> に対応する無題文は (43) テーブルの上に珈琲がある である。基本語順を持つ (43) と並べて観察すると、(42b) は基本語順のままであるのに対し、 (42a) は「珈琲」を含む主題は文頭まで前進している。これを基本語順のままの有題文にすると (44) テーブルの上に珈琲 ハ ある となるが、この場合「珈琲は」は対比の解釈で次のような文や談話の断片 (45) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>テーブルの上に珈琲はあるが麦酒はない <li>テーブルの上に珈琲はある。でも肝心のバースデーケーキはないじゃん! </ol> とはなれるが、主題とは解釈できない。文学的テキストに (46) 峻厳たる表情を我々に見せる霊峰の中腹に目指す寺院はある のような例を見かけるが、破格とすべきか否か不明で、その表現効果も気になる。ここではこういった例のステータスについては保留にしよう。 そうすると、基本語順という観点から、(42b) は主題が元の位置に留まっているのに対し、 (42a) では主題が文頭に転位されている、と言って差し支えない。図式的に示すと (46) <ol style="list-style-type: lower-latin"> <li>[ᴄᴘ NP-ni wa NP-ga ... <li>[ᴄᴘ NP-∅ᵢ wa NP-ni tᵢ ... </ol> である。ここで ‘CP’ はおおまかに「文」というカテゴリーだと理解されたい。また、tᵢ は元々 NP-ga が存在した位置であり、前置され、ハが後続したことにより、NP-∅ に変化している。 先に、母語話者は持っている現代語の知識に照らし合わせて、自覚的であろうとなかろうと、文の容認性判断を与える、と述べた。発話する側から見た場合、母語話者は発話する文を現代語の知識を参照して定義する。このような現代語の統語的知識を構成するものを「規則」と呼ぼう。 ここまで見てきたことから考えて、現代語母語話者の統語的知識には次のような規則が含まれていなければならない。 (48) 基本語順 NP-ga NP-o V NP-ga Vᵢ NP-ni NP-ga Vₑ (49) 主題文の語順 [ᴄᴘ [ᴛᴏᴘ NP-case wa]ᵢ X⁰ ∅ᵢ Y⁰] これらに加えて次の規則も必要となる。 (50) 基本語順と主題文の語順の関係を定義する規則 話を先に進めるために、文の述部を構成する動詞や形容詞などの性質について簡単に見てみたいと思います。 学校の文法が述部になれると教えるのは用言の動詞、形容詞、形容動詞と、体言の名詞・代名詞に断定の助動詞デアル(ダ、デス)が付属したものです。三上章の例 ・そんなことすると、コレ(げんこつを見せながら)だぞ というのもあり、指示詞がさす現実世界のものも間接的に体言のようにできます。 述部はこれらに助動詞や終助詞が付属して拡張することができます。ここでは拡張しない裸の述語を見てみましょう。     述語は大きく分けて動詞とそれ以外に分類できます。 <動詞> ・珈琲を飲む ・寝る ・ある <形容詞> ・寒い <形容動詞> ・静かだ <名詞+断定の助動詞> ・失業者だ これらは次のスキーマに当てはまると、析出される動詞で二分されます。 ・___ハ___ケレドモ <動詞> ・珈琲を飲みハするケレドモ ・寝ハするケレドモ ・ありハするケレドモ <形容詞> ・寒くハあるケレドモ <形容動詞> ・静かでハあるケレドモ <名詞+断定の助動詞> ・失業者でハあるケレドモ つまり、析出される動詞がスルであるものとアルであるものがあります。前者をスル型、後者をアル型と呼ぶことにします(動詞「ある」自体はスル型です)。     いわゆる「主語」に関して、スル型とアル型には次のような違いがあります。 スル型では ・父ガ珈琲を飲んでいる で、ガを伴う名詞句が特段特殊な解釈を持つことはありません(松下の無題的完全思惟性断定、黒田の thetic judgment)。 一方、アル型では発音上卓立が見られ、「総記 exhaustive listing」の解釈が無標です。 ・この部屋ガ寒い ・田舎ガ静かだ ・1.7%ガ失業者だ アル型がなぜこのような解釈を受けるのかについては有題・無題やアスペクトと関係付けて別にツイートしたいと思います。 ここではスル型である動詞の性質について考えましょう。 動詞は時間のトークンである、とする考えがあります(金子亨『言語の時間表現』)。時間は何か独立に存在するものではなく、イベント(出来事)の連なりであると言うことができます。私達が時刻や時間を知るのは独立に存在する時間を参照しているわけではありません。 並行して起こっているイベントの一つを基準にして(世界的な時間の単位はセシウム133の遷移に基づいている)、概ねそれと同じように変化するもの(腕時計など)を見て時刻を知ったり、時間を測ったりします。 動詞はそのようなイベントの連なりである時間の一部に名前を付けたものです。同語反復のようになりますが、そうして動詞はイベントを指示対象とします。     言語を離れてイベントを考えることは難しい場合もありますが、考えてみます。 イベントは何かが起こす場合もありますし、なにもなく起こる場合もあります。例えば「リア充が爆発する」ではその何かは「リア充」であり「時雨れる」のは特に何かがあって起こるわけではありません。 ここで「爆発する」は「リア充」が引き起こすもので、言語的には、この動詞は単一の名詞句を必要とします。これは1項動詞で、一般に「自動詞」と呼ばれます。「時雨れる」は0項動詞です。 いわゆる「自動詞」と「他動詞」と対応させると、次のようになります。 <自動詞> 0項動詞、1項動詞 <他動詞> 2項動詞、3項動詞 日本語母語話者の統語的知識を考える上で、こういった情報で十分でしょうか?先取りになりますが、ボイスとアスペクトの観点からさらに下のような性格付けが必要です。 1項動詞の中には「はためいわくの受身」という文を作れるものと作れないものがあります。 ・あなたに居られると困る ・雨に降られてずぶ濡れになった ・*あられる *要られる 作れないタイプの動詞を三上章は「所動詞」と名付けました。 既に見たように1項動詞には対応する他動詞を持つものがあり、シテイルの形で結果の存続の解釈を持ちます。 ・ビールが冷えている ・アベベが走っている(進行/*結果存続) また、助動詞無しで可能の意味を担い得ます。 ・この扉は簡単に開かない このタイプは「非対格動詞」と呼ばれます。 2項動詞でも、「殴る」で「自分」の先行詞に関して調べると ・田中部長'''ᵢ'''が自分'''ᵢ'''の部下を殴った (下付きの ‘i’ は同じ人) では「田中部長」が「自分」の先行詞になれますが ・*自分'''ᵢ'''の上司が池田'''ᵢ'''を殴った では不可能です。これに対し ・自分'''ᵢ'''の過去がオーウェン'''ᵢ'''を苦しめた は可能です。 このような、先行詞が逆の位置になるようなクラスの動詞を「心理動詞 psych verb」といいます。     動詞以外では ・自分'''ᵢ'''の娘が真澄'''ᵢ'''の誇りだ のようなものがあります(三宅知宏、言語学会発表)。 まとめると 0 項動詞 吹雪く、時雨れる 非対格動詞 融ける、折れる 非能格動詞 走る、泳ぐ__________自動詞 所動詞 ある、かかる ____________________他動詞 有対他動詞 融かす、折る 無対他動詞 食べる 移動動詞 行く、来る 心理動詞 苦しめる 複他動詞 渡す、もらう 現代日本語の基本語順は次のようなものだと述べました。 (1) NP-ga Vᵢ NP-ni NP-ga Vₑ NP-ga NP-o V 母語話者の知識はこういった単文を定義するためにはどのようなものでなければならないでしょうか? まず線形順序に沿って定義する方法あり、一つに「有限状態文法」があります。自然言語に対して有限状態文法は生成力 generative power が弱すぎる、ということを Noam Chomsky が示しました。有限状態文法は、ある状態から次の状態への遷移が確率で決定されており、状態遷移は一定で終了する、それが文に対応する、というものです。はじめの状態が (2) NP-ga の場合、次の状態の候補が (3) {NP-ga, NP-o, NP-ni, V, ∅, ...} で、これらから確率によって (4) NP-ga⌒NP-o が選ばれます。 次に、 (5) {NP-ga, NP-o, NP-ni, V, ∅, ...} という候補から確率によって (6) NP-ga⌒NP-o⌒V が選ばれます。状態遷移は二度の遷移 (7) 状態₁⌒状態₂⌒状態₃ で終了するものとし、ここで文が完成します。 私たちの関心は、現代日本語の母語話者の統語的知識です。現代日本語の文が有限状態文法のような仕組みで定義されている、と明言するということは、母語話者の知識が有限状態文法であると主張している、ということを意味しています。 しかし既に「動詞の性質」のところで見たように、文の完成を決定する項の数や名詞句に後続する助詞は動詞によって決まります。つまり有限の状態遷移には (8) a. 状態₁ b. 状態₁⌒状態₂ c. 状態₁⌒状態₂⌒状態₃ d. 状態₁⌒状態₂⌒状態₃⌒状態₄ の可能性があり(項の個数が 0 〜 3 として)、最終の状態を「状態ₑ」とすると (9) 状態₁⁰⌒ … ⌒状態ₑ₋₁⁰⌒状態ₑ のように一般的に述べておく必要があります。そして状態ₑである動詞によって採用する状態の数が決まる、としておかなければなりません(ここで「状態⁰」は状態が 0 以上であることを表すことにします)。 文法は「文を弱生成 weakly generate し、構造記述を強生成 strongly generate する」(Noam Chomsky _Aspects of the Theory of Syntax_)もので、「文」は表面的な語の並びを指します(「構造記述」については後程)。弱生成能力すら持たない有限状態文法が日本語母語話者の知識を記述することは不可能です。 そこで線形順序(弱生成力を持つ知識で定義される)ではなく、構造記述 structural description に注意を向けることにしましょう。構造記述とは、文の表面に現れる、見える・聞こえる形式の背後にある、まとまり(構成素性)などのことです。 まとまりというのは橋本進吉の連文節や時枝誠記の入れ子、アメリカ構造主義言語学の IC 分析の構成素のことです。例を挙げて考えてみましょう。例を文節に分けて示します (10) |きれいな|おかあさんの|洋服| 上の文は多義的です。一つは「きれいなのはおかあさん」という解釈です。 この解釈での第一の連文節を ‘⌒’ を使って示します。 (11) |きれいな⌒おかあさんの|洋服| 「きれいな⌒おかあさん」を「第一連文節」という表現で置き換え、次の連文節を示すと (12) |第一連文節⌒洋服| となります。 次にもう一つの解釈を考えます。「きれいなのは洋服」という解釈ですが、第一連文節は (13) |きれいな|おかあさんの⌒洋服| となります。「おかあさんの⌒洋服」を「第一連文節」という表現で置き換えて次の連文節構造を示すと (14) |きれいな⌒第一連文節| となります。 以下、構成素と呼び、タイプの便宜上、括弧で構成素を示します。 (15) a.|きれいな|おかあさんの|洋服| b.|きれいな⌒おかあさんの| c.|おかあさんの⌒洋服| はそれぞれ (16) a. [きれいな][おかあさんの][洋服] b. [[きれいな][おかあさんの]] c. [[おかあさんの洋服]] と同じです。 基本語順を持つ単文の問題に戻りましょう。次の文を考えます。 (18) 姪が窓を開ける ここに現れる「姪が」「窓を」「開ける」という三者の間の関係は対等ではありません。「窓を開ける」という組み合わせを使って作る (19) [窓が開けて] ある のような文はあっても「姪が開ける」にはありません。 また (20) NPガ NPヲ 開ケル には対応する (21) NPガ 開ク がありある意味でこの非対格動詞の「使役化」と言えます。自他対応は形態論の問題とし、他動詞文と使役文法の違いは後回しにして、これらを構成素構造を明確にすると (22) a. [NP ga 開] b. [NP ga [NP o 開] 使] です。 ここで疑問が生じます。一緒に助詞のガやヲを知っている必要があるか、です。0 項動詞を除きほとんどの単文は係助詞や副助詞で置き換わらなければ最低一つガを伴う名詞句が現れます。詳しくは後にして自他対応があるクラスを Vunacc とすると (10) a. [NP₁ Vunacc] b. [NP₂ [NP₁ Vunacc] CAUS] 同様のことは無対他動詞にも言えるでしょうか。「食べる」を取り上げます。 (11) あいつがレバ刺を食べさえしなければ... ここで (12) a. レバ刺を食べさえあいつがしなければ... b.*あいつが食べさえレバ刺をしなければ... の対比から、次のように考えられます。 (13) [NP₂ [NP₁-o Vacc]] この議論は Hoji, Miyagawa and Tada. 1989. NP-movement in Japanese, ms. に依ります。 ここまで (14) [NP₂ [NP₁-o V] α] という構造を確認しました。語順との対応は (15) [NP₂ [NP₁-o V] α] 構造 | | | ① ② ③ 語順 になります。 逆に存在文では (16) ① ② ③ 語順 | | | [NP₂-ni [NP₁ V] α] です。 [[カテゴリ:生成文法|にほんこ]] [[カテゴリ:日本語|せいせいふんほう]] sisek588albc7o01tary05nqwrue2rr 利用者:Kwawe 2 34770 303411 298255 2026-09-07T08:55:31Z Kwawe 68789 /* 高校生に向けてメッセージ */ 303411 wikitext text/x-wiki ※2022年6月にwikibooksに登録しております。 == Wikibooksの記述では == # 中学生高校生向けの新規執筆・改定執筆のWikibooksは敬体で記述しています。新課程の自然科学ほぼ全般(物理・生物・地学・理数探究基礎)、社会科学(公民)、人文科学全般、保健体育・家庭科を記述しています。 # 本文記述は、冗長表現をなくしています。詳しくは、国語表現の「[[高等学校国語表現/わかりやすい文を書く|わかりやすい文を書く]]」を参照してください。 # 大人向け法律学(刑法など)のWikibooksは、常体で記述しています。 # 大人向け経済原論(ミクロ経済学など)のWikibooksは、敬体で記述しています。 == 教科書 == Wikibooksの教科書目録の作成などを新課程版に更新しています。 当方、高等学校の旧課程教科書は数学・自然科学(物理・化学・生物・地学)・商業の一部・福祉の一部・公民・国語表現・人文科学(地理・歴史)の教科書を持参しています。 2023年からの新課程用は公共、歴史総合・日本史探究・世界史探究、家庭総合、理数探究基礎、生物全5冊、政治経済、数学[第一、数研の最新シリーズ]の教科書を持参しています。 ※基本、私の執筆するページは資料出所と出典を必ず掲載します。たとえそれが文部科学省の教科書だとしてもです。 == wikibooks執筆担当科目 ==  主に、高校生の教科書を中心に執筆していますが、中学生の実技教科、一般向けの経済原論も執筆しています。  執筆に時間がかかる科目「物理」「生物」「地歴の探究科目」「公共」は、更新頻度が減ります。 * [[高等学校理科 物理基礎|高等学校 物理基礎]]     [全般] * [[高等学校 物理|高等学校物理]]        [全般] * [[高等学校 生物基礎]]     [全般] * [[高等学校 生物]]       [全般] * [[高等学校 地学基礎]]     [全般] * [[高等学校 地学]]       [全般] * [[高等学校 理数探究基礎]]   [全般] * [[高等学校国語表現]]      [全般] * [[高等学校地理探究]]      [全般] * [[高等学校公共]]        [全般] * [[高等学校倫理]]        [全般] * [[ミクロ経済学]]        [全般] * [[高等学校世界史探究]]     [全般] * [[高等学校歴史総合]]      [全般](過去執筆の全てを見直し・本文大修正) * [[高等学校家庭総合]]      [全般] * [[中学校音楽]]         [全般] * [[中学校家庭]]         [全般](衣生活と食生活は完成時期不明。) * [[中学校保健体育]]       [全般] * [[高等学校保健体育]]      [座学編・実技編両方全般] * [[高等学校日本史探究]]     [全般] 今後、順次執筆科目は増加予定です。 また、時期は未定ですが、看護とかも執筆していきたいと思います。(2023年2月04日追記) == 高校生に向けてメッセージ ==  私達は日本人ですから、日本語の文章でまず意味を理解しないと文字式や数式・公式も当然理解出来ません。そして、日本語の語彙を覚えないと当然国語の読解問題の記述問題も解けません。以上、私、当時元文系の高校生から見た視点です(大学卒業後、現在社会人)。あくまで、文字式や数式はイメージ的には図形と似たような感じで、これらをイラスト化にしているに過ぎません。 [現在執筆中の内容] ★日本史探究 * 縄文時代の社会と文化(新規執筆) * 律令体制再編期の政治と社会Ⅰ(新規執筆) * 新たな世紀の日本へⅡ(事後処理) * [[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅢ|新たな世紀の日本へⅢ]](事後処理) ★地学 * [[高等学校 地学/生命の進化|生命の進化]](新規執筆) ★生物 * [[高等学校 生物/個体群とその変動|個体群とその変動]] ★高等学校公共 * [[高等学校公共/国会の役割と仕組みⅡ|国会の役割と仕組みⅡ]](新規執筆) == 過去執筆の事後処理予定[見直し、本文大幅修正] == ★歴史総合 ★生物・生物基礎 ★地学・地学基礎 ★保健体育 ★家庭科 == 2026年執筆予定の内容 == 公共:統治編全て(国会・内閣・裁判所・地方自治)と社会保障制度 日本史探究:古代・近現代(一部) 世界史探究:古代・近現代 生物基礎・生物:全部 地学基礎・地学:全部 余力があれば、地理探究も記述する。 == リンク集 == * https://jawikibooks.wikiscan.org/users nrwpaz0gqpg7ej5okw818w8uki1fwc5 アイヌ語 0 37830 303408 303310 2026-09-07T04:53:14Z トラネコマン 82435 挨拶にリンクを貼った 303408 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|語学|frame=1}} {{Wikipedia|アイヌ語}} {{Wiktionary|カテゴリ:アイヌ語}} '''アイヌ語'''({{lang|ain|Aynu itak}})は、北海道を中心に樺太、千島列島、本州北部などで話されてきた言語です。日本語と同じく、他の言語との系統関係の分かっていない「孤立した言語」に分類されます。日本語にとっては唯一の陸続きの言語で、古くから互いに言葉を借用し合うなどの大きな関わりがありました。日常の語彙、特に儀礼用語には、日本語とアイヌ語とで共通するものや似ているものが数多くあります。語法の面でも、「〜をやってみる」などの表現は日本語と全く同じような言い方で、隣り合って話されてきた近さが感じられます。 アイヌ語の基本的な語順は日本語と同じ主語-目的語-述語です。母音は五種類で、子音も日本語と同じものが多く、上述のように同じ発想の表現もあるため、日本語話者にとっては比較的習得しやすい言語といえます。 その一方、非常に強力な造語力を持ち、多くの要素を繋げて一つの長い単語で文のような役割を表すことなどもできます。 == ウィキブックスでの編集方針 == アイヌ語には表記法にバリエーションがある。ウィキブックスは教科書の類に入るので、学習時の分かり易さのためとして、最も多く使われている表記とは異なる表記を採ることがある。ただし、これまでに全く使われていない独自表記は避けた。 (表記変換器も用意しており、これを使えば自分の好きな表記で見ることもできる。 表記変換するには、[https://www.tampermonkey.net/ Tampermonkey]または類似の拡張機能を各自の[[w:ja:ウェブブラウザ|ブラウザ]]にインストールし、こちらのユーザースクリプトをインストールする。<br> [https://greasyfork.org/ja/scripts/581917 ウィキメディア・プロジェクトのアイヌ語の表記変換] ユーザースクリプトが使えないブラウザでは、こちらのサイトにあるブックマークレットを実行する。<br> [https://toracatman.github.io/WikimediaBookmarklet/index.html ウィキメディア・プロジェクトのアイヌ語の表記変換ブックマークレット]) また、長きに亙って公的な言語として使われてこなかったなどの理由から、アイヌ語には現代社会の事物・概念を表す言葉が不足しがちである。これを解決するために、様々な場で新語や新しい表現などを作り使おうとする取り組みが行われているが、本書ではこれらを教材の中に積極的に取り入れることはせず、使用する場合であっても、試行的な表現であることやこれまで実際に使われてきた表現とは違うことなどができるだけ判るようにする。 ==[[アイヌ語 入門編|入門編]]== *[[アイヌ語の世界へようこそ]] *[[アイヌ語 文字入力の準備|文字入力の準備]] *[[アイヌ語 文字と発音|文字と発音]] **[[アイヌ語 付録:キリル文字対照表|付録:キリル文字対照表]] *[[アイヌ語 アクセント|アクセント]] *[[アイヌ語 音の変化|音の変化]] *[[付録:アイヌ語 表記の揺れについて|付録:表記の揺れについて]] *[[付録:アイヌ語 方言について|付録:アイヌ語の方言について]] ==話す、聞く== === 会話練習 === #[[アイヌ語定型文練習 タンペ へマンタ アン?|これは何?]] #[[アイヌ語 自己紹介|自己紹介]] === 例文集(慣用句、よく使う文) === * [[アイヌ語 挨拶|挨拶]] * == [[アイヌ語 文法|文法]] == *「~は~だ」の形の文 *否定 *動詞の種類 *人称接辞 *位置名詞 ==[[アイヌ語 テーマ別重要語彙|テーマ別 重要語彙]]== *[[アイヌ語 数の数え方|数の数え方]] *[[アイヌ語 暦|暦]] *[[アイヌ語 人称接辞の一覧|地域毎の人称接辞一覧]] *[[アイヌ語 位置名詞の一覧|位置名詞一覧]] *[[アイヌ語 親族名称|親族名称]] *[[アイヌ語 代表的な動植物の一覧|動植物]] *程度を表す表現 == [[アイヌ語 学習に役立つ文献やウェブサイト|学習に役立つ本・ウェブサイト]]<!-- 辞書欄を除いては、情報が溢れないようにし、入門者にも使いやすく信頼の置けるものを重点的に載せてください。 -->== 一部のサイトで使える表記変換器も用意した。<br> [https://toracatman.github.io/AinuNotationConverter/index.html アイヌ語の表記変換器] === 総合 === * [https://www.ff-ainu.or.jp/web/potal_site/index.html アイヌ民族文化財団 アイヌ語ポータルサイト] * [https://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kokugo_shisaku/kikigengo/ainu/index.html 文化庁 アイヌ語に関するリンク集] === 音声を聞く === * [https://ainugo.nam.go.jp/search/media?typeCont=on&typeAudio=on&typeVideo=on 国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブ 資料検索] * [https://ainugo.aa-ken.jp/ AA研アイヌ語資料 公開プロジェクト] * [https://ainugo.hm.pref.hokkaido.lg.jp/generalSearchResult.aspx ほっかいどう アイヌ語アーカイブ|北海道博物館] * [https://www.youtube.com/@user-jr8bk2iy1n YouTube 公益財団法人アイヌ民族文化財団のチャンネル] * [https://www.ff-ainu.or.jp/web/learn/language/animation/index.html オルシペスウォプ 口承文芸視聴覚資料作成事業|アイヌ民族文化財団] * [https://www.stv.jp/radio/ainugo/index.html STVアイヌ語ラジオ講座] :: テキストなどは[https://www.ff-ainu.or.jp/web/potal_site/radio.html ここ]から見られる。 * [https://ainu.ninjal.ac.jp/folklore/ アイヌ語口承文芸コーパス ー音声・グロス付きー] * [https://ainu.ninjal.ac.jp/topic/ トピック別 アイヌ語会話辞典] * [http://itelmen.placo.net/Ainu-archives/index.html アイヌ語鵡川方言 日本語-アイヌ語辞典|千葉大学大学院 人文社会科学研究科] === 独習書・文法書など === * 『ニューエクスプレスプラス アイヌ語』(ISBN 978-4-560-08868-5)中川裕(2021) ::「会話から文法を一冊で学べる入門書に」という言葉の通り、初めてアイヌ語を学ぶ人にはおすすめの一冊。CDやアプリで音声を聞く事もできる。 * 『アイヌ語広文典』(ISBN 978-4-560-09963-6)中川裕(2025) ::アイヌ語学習のためのハンドブック。発音・表記から諸方言の違い、文法、表現、文芸、歴史までを解説する大著。本格的に学ぼうとするときにはたいへん役に立つ。 *『言語学大辞典』第一巻(ISBN 978-4-385-15213-4)亀井孝 他編 所収「アイヌ語」田村すゞ子(1997) :: 分冊版の『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』(ISBN 4-385-15207-1)にも同じ内容が書かれている。 === 辞書・単語集 === パソコンの場合、これらのページでControl (Ctrl) + Fキーを押すと、素早く検索できる。 ==== 書籍版 ==== *『アイヌ語千歳方言辞典』中川裕(1995) *『アイヌ語沙流方言辞典』田村すゞ子(1996) *『萱野茂のアイヌ語辞典』萱野茂(1996) ==== ウェブサイト ==== *[https://ainugo.nam.go.jp/ 国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブ] ::辞書以外の資料からも検索できる。辞書は、田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』(1996)、萱野茂著『萱野茂のアイヌ語辞典』(1996)、知里真志保『分類アイヌ語辞典 植物編・動物編』(1953)の3冊を基にしている。 *アイヌ語ポータルサイトより ** [https://www.ff-ainu.or.jp/teach/files/ishikari_tango.pdf 単語リスト(アイヌ語・日本語)-石狩川-] ** [https://www.ff-ainu.or.jp/teach/files/saru_tango.pdf 単語リスト(アイヌ語・日本語)-沙流-] ** [https://www.ff-ainu.or.jp/teach/files/karahuto_tango.pdf 単語リスト(アイヌ語・日本語)-カラフト]- * [https://kampisos.aynu.io/ kampisos.aynu.io — Kampisos - アイヌ語コーパス検索] *[https://itah.aynu.org/ja 樺太アイヌ語の単語リスト] *[https://web.archive.org/web/20240226075541/https://tommy1949.world.coocan.jp/aynudictionary.htm 富田隆 氏によるアイヌ語電子辞書] :: === 物語 === *『アイヌ神謡集』知里幸惠 ISBN 978-4-00-320801-4、[https://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/44909_29558.html 青空文庫] == その他 == === アイヌ語を使って創作、執筆などを行う取り組み=== [[incubator:Wp/ain/Main_Page|アイヌ語版ウィキペディア]] [https://otarunay.at-ninja.jp/taimuzu.html アイヌタイムズ] [https://wiki.aynu.org/wiki/Mosem Aynuwiki] [https://parunpe.mystrikingly.com/ パルンペ(parunpe)] === アイヌ語やアイヌ文化を題材、モチーフとした創作 === ==== 漫画 ==== *[https://www.shueisha.co.jp/books/search/search.html?seriesid=37334 ゴールデンカムイ] [[カテゴリ:語学]] [[カテゴリ:アイヌ語|*]] 201rz1wu5uji92nnve102116m6iqh14 Wikibooks:統合提案 4 45711 303402 303391 2026-09-07T04:14:56Z Tomzo 248 /* 2026年8月 */ 303402 wikitext text/x-wiki {{ショートカット|WB:DA}} ここは、記述が重複していたり(Duplicate article)まとめて扱った方が望ましいと思われる項目の'''[[Wikibooks:ページの分割と統合#ページの統合|統合提案]]'''(Proposed article mergers)を告知するためのページです。 == ガイドライン == === 統合の手順のガイドライン === * 「[[Wikibooks:ページの分割と統合#ページの統合|ページの統合]]」を参照 === このページへの記載のガイドライン === * 議論は必ず統合に関わるページのノートで行ってください。 ** ただし、カテゴリページの統合については、このページに記載する必要はありません。[[Wikibooks:カテゴリの提案と議論#統合提案の場合]]に従ってください。 * 提案は月で分けて記載してください。 * 統合後の記事名と議論を行う場所を明示してください([[#提案書式の例]]を参照してください)。 * 記載には日時入りの[[Wikibooks:署名|署名]] (<nowiki>--~~~~</nowiki>)を加えてください。 * 特に重要な案件については、[[Wikibooks:コミュニティ・ポータル|コミュニティ・ポータル]]に告知するための[[Template:CP統合提案|リスト]]にも記載してください。 * 統合を実施したか、議論の結果実施しないという結論に至ったものは、報告を記載してください。その後1週間経過したものは除去してください。 * 以下のいずれかの場合は議論の終了とみなします。 *# 参加者によって議論終了の合意が形成された場合。 *# 議論停止から1か月経過した場合。これは、その後の加筆・修正により統合が不適切となっている可能性があるためです。 *# botによりテンプレートが自動除去され、2週間以内に再度貼付されない場合。さらに議論を継続する必要がある場合には、テンプレートの{{Para|date}}指定を新たにして再度貼付してください。 * 議論が終了した場合には以下の対応を行ってください。 ** 告知及びテンプレートの除去。 *** 提案者又は議論参加者は提案告知及びテンプレートを除去して下さい。除去されない場合には他の人が除去しても構いません。 *** 議論の終了、放置、継続中の如何にかかわらず、テンプレートは貼付後六ヶ月経過した場合にはbotによって自動的に除去されます。 ** 再度提案を行うことは可能です(ただし、それまでの議論を踏まえて、提案の内容や理由を再検討することが望ましい)。 == 統合提案の一覧 == この節では統合を提案する項目をリストします。追加・編集する前に前節のガイドラインに目を通してください。 === 提案書式の例 === このページにて統合を提案する際の書式の例を以下に記載します。 <syntaxhighlight lang="wikitext"> * [[リダイレクトにすべき記事1]]と[[リダイレクトにすべき記事2]]を[[統合後の記事として適切と思われる記事]]へ統合。(理由を記載)のため。議論は[[ノート:統合後の記事として適切と思われる記事]]にて。--~~~~ </syntaxhighlight><noinclude>[[Category:プロジェクト関連文書用テンプレート|とうごうていあん]]</noinclude><includeonly>[[Category:統合提案|*]][[Category:ページの分割と統合|とうこうていあん]]</includeonly> === 2025年7月 === * [[高等学校理科基礎地学分野]]を[[高等学校 地学基礎]]の配下へ統合。指導要領改定対応の一環です。有効内容としては「地球と天体」が一部ある程度なので分岐スタブとしてサブページの付け替えで対応の方向を考えています。議論は[[ノート:高等学校 地学基礎]]にて。--[[利用者:Tomzo|Tomzo]] ([[利用者・トーク:Tomzo|トーク]]) 2025年7月27日 (日) 05:11 (UTC) * [[公認会計士試験/学習者のみなさんへ]]と[[公認会計士試験/執筆者の方へ]]を[[公認会計士試験]]へ統合。両記事はサブページ化された派生記事であるが、各々記載量が少なく、比較的長期間加筆等もない、統合した方が可読性の向上が期待できるため。また、ともにサブページであるので「[[Wikibooks:ページの分割と統合#簡易な統合|簡易な統合]]」により実施したい。議論は[[ノート:公認会計士試験]]にて。--[[利用者:Tomzo|Tomzo]] ([[利用者・トーク:Tomzo|トーク]]) 2025年7月2日 (水) 15:36 (UTC) *:{{対処}}特にご意見がなかったため、[[Wikibooks:ページの分割と統合#簡易な統合|簡易な統合]]により統合しました。--[[利用者:Tomzo|Tomzo]] ([[利用者・トーク:Tomzo|トーク]]) 2025年7月11日 (金) 16:06 (UTC) * [[神道の信仰法]]を[[神道と人間]]へ統合することを提案します。[[神道と人間]]は親記事として[[神道の信仰法]]を呼んでいますが、その他に作成すべきテーマ等の記載がなく、分岐の親記事としての機能を果たしていません。統合の方法としては、今後の拡張の可能性を見越して、一旦[[神道の信仰法]]をサブページに改名しインクルードする方法を考えています。議論は[[ノート:神道と人間]]にて。--[[利用者:Tomzo|Tomzo]] ([[利用者・トーク:Tomzo|トーク]]) 2025年7月4日 (金) 16:05 (UTC) *:{{対処}}特にご意見がなかったため、上記提案の方法により統合しました。--[[利用者:Tomzo|Tomzo]] ([[利用者・トーク:Tomzo|トーク]]) 2025年7月12日 (土) 02:12 (UTC) === 2026年1月 === * [[日本語/方言]]と[[日本語の方言]]を[[日本語の方言]]へ統合。同じテーマを書いており、特に内容にも違いがないため。[[Wikibooks:ページの分割と統合#統合すべきでない場合]]の「統合するまでもない記事」に当たるような気もしますが、勝手がまだ分かっていないので取り敢えずここで聞きたいと思います。。内容は[[日本語の方言]]のほうが充実しています(と言っても赤リンクばかりのリンク記事ですが)。記事名はどちらにしても構わないと思いますが、単純に日本語共通化語の下位にある存在ではないという観点と、カテゴリとの一致から、[[日本語の方言]]のほうが適当だと思っています。議論は[[ノート:日本語の方言]]にて。--[[利用者:BrassSnail|BrassSnail]] ([[利用者・トーク:BrassSnail|トーク]]) 2026年1月15日 (木) 15:14 (UTC)<small>(リンク修正:[[利用者:BrassSnail|BrassSnail]] ([[利用者・トーク:BrassSnail|トーク]]) 2026年1月15日 (木) 15:28 (UTC))</small> **{{cmt|コメント}} 基本的に賛成ですが、ツリー構造であることを考えると、[[日本語/方言]]側に寄せる方が良いと思います。--[[利用者:Tomzo|Tomzo]] ([[利用者・トーク:Tomzo|トーク]]) 2026年9月3日 (木) 19:45 (UTC) **:私もはじめはそう思ったのですが、[[日本語]]というタイトルの記事が現在「標準語」のみを対象にしているところからすると、各方言は標準語のバリエーションではなく、標準語と呼ばれるものも日本語の一変種に過ぎないという(少なくとも私の持っている)考えには合わないと思ったので、この形での提案としました。そちらの記事を日本語/共通語のようなタイトルに変更するのでも良いかもしれませんが、実態として需要の高いのは標準語でありそれがサブページ的場所に置かれるのは不便かもしれないという点と、それはそれで「標準語」対「それ以外の方言」という構図になってしまわないかという懸念があります。--[[利用者:BrassSnail|BrassSnail]] ([[利用者・トーク:BrassSnail|トーク]]) 2026年9月6日 (日) 11:27 (UTC) *[[センター試験 世界史B対策]]を[[センター試験 世界史対策]]へ、[[センター試験 日本史B対策]]を[[センター試験 日本史対策]]へ、[[センター試験 地理B対策]]を[[センター試験 地理対策]]へ統合。議論は[[ノート:日本の大学受験ガイド]]へ。--[[利用者:なまえみてい|なまえみてい]] ([[利用者・トーク:なまえみてい|トーク]]) 2026年1月27日 (火) 03:37 (UTC) ** {{コメント2|対処}} 異論がなかったため、[[Wikibooks:ページの分割と統合#ページの統合]]の通りに統合しました。--[[利用者:なまえみてい|なまえみてい]] ([[利用者・トーク:なまえみてい|トーク]]) 2026年2月4日 (水) 08:24 (UTC) === 2026年8月 === * [[Subversion/目次]]を[[Subversion]]へ統合。呼び元の[[Subversion]]には[[Subversion/目次]]へのリンクしかなく、目次ページの分量も少ないため分散の必要性に欠けます。議論は[[ノート:Subversion]]にて。--[[利用者:Tomzo|Tomzo]] ([[利用者・トーク:Tomzo|トーク]]) 2026年8月30日 (日) 17:56 (UTC) *:{{対処}} 特に異論がなかったため、統合します。--[[利用者:Tomzo|Tomzo]] ([[利用者・トーク:Tomzo|トーク]]) 2026年9月7日 (月) 04:14 (UTC) * [[高等学校物理/物理公式集]]を[[初等物理学公式集]]へ統合。明らかに重複です、情報量は[[初等物理学公式集]]の方が多いので、こちらに寄せるべきものと考えます。議論は[[ノート:初等物理学公式集]]にて。--[[利用者:Tomzo|Tomzo]] ([[利用者・トーク:Tomzo|トーク]]) 2026年9月4日 (金) 01:12 (UTC) [[category:統合提案|*]] gohui3s1cefmt2rswmsdr9uiyrdxg7a 高等学校日本史探究/律令体制再編期の政治と社会Ⅰ 0 48906 303393 303385 2026-09-06T13:28:00Z Kwawe 68789 /* 平安京遷都と東北経営 */ 長岡京は縁起の良い年(784年:甲子)に移動した 303393 wikitext text/x-wiki [[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅰ 本節では天皇の政治史について取り上げます。古代の天皇婚姻制度史は明治以降から現代までの婚姻制度(一夫一妻制)と違います。ここに注意して読み進めましょう。 == 平安京遷都と東北経営 == 古代の天皇の結婚制度は、明治以降の一夫一婦制と大きく違っていました。天皇は複数の妻を持つ一夫多妻制(後宮制度)でした。妻の身分から次の天皇を誰にするかで揉めました。奈良時代後期でも同じように起こっています。道鏡は称徳天皇の死去後に都から追い出されました。天武天皇の家族ではなく天智天皇の家族が天皇になれるように藤原永手と藤原百川達で後押ししました。770年、これを受けて天智天皇の施基皇子の子供〈白壁王〉が天皇の立場に就いて光仁天皇となりました。その結果、天皇の家族は天武天皇から天智天皇へと大きく入れ替わりました。光仁天皇は井上内親王を皇后として息子の他戸親王を皇太子として決めましたが、その役職から2人とも首になりました。 また、光仁天皇は百済系渡来氏族と繋がりを持つ和氏出身の高野新笠を妻にしています。高野新笠と結婚後、息子の山部親王が生まれました。その後、藤原百川などは非嫡出子の山部親王を次の天皇になれるように後押ししました。781年、山部親王は光仁天皇から天皇の立場を継いで桓武天皇になりました。やがて光仁天皇は上皇となり、782年に亡くなりました。光仁天皇は、役所の仕事を簡単にしたり、予算の無駄遣いを無くしたり、公民・民衆の負担を軽くしたりしてこれまでの政治を立て直しました。桓武天皇も光仁天皇のやり方をそのまま続けました。 桓武天皇は、光仁天皇(天智天皇の家族)の新しい政治様式を引き継ぎました。天智天皇の家族が天皇を引き継ぐ理由として中国王朝の交替史を根拠にしました。中国の皇帝が行う儀式をそのまま日本でも取り入れて、天皇の立場を公民・民衆に分かるようにしました。また高野新笠のつながりから、渡来系氏族の百済王氏と仲良くなりました。もちろん、藤原種継などの藤原氏とも仲良くなりました。桓武天皇は国内政治の仕事を真面目に取り組む天皇でした。左大臣を無くして、貴族が直接政治を行う新しい政治制度にしました。平安時代初期の嵯峨天皇までに天皇を国家元首として政治の決定権を持つような律令体制へ再編しました。 桓武天皇の主要政策は新都造営と東北経営でした。有力な氏族同士が「我が氏族こそ国家の中心」で何度も争って、平城京の政治も混乱しました。奈良の大寺院も政治に「早くやれ」と文句を言うようになりました。称徳天皇・道鏡の時代に仏教思想を取り入れすぎており、天皇がやりたい政治を自由に行えなくなりました。したがって、天智天皇の子供が新しい天皇になれるようにこれまでの政治の進め方を変えて、国家元首として律令国家を立て直したかったから新しい都を探しました。 784年、桓武天皇は平城京から山背国乙訓郡の長岡京へ都を移しました。長岡京は京都盆地の南西部にあり、淀川水系(桂川・宇治川)から難波津・瀬戸内海方面へ行きやすく、交通でも最も重要な場所でした。秦氏などのように渡来系氏族が長岡京に住んでいて、天皇の家族と深い繋がりを持っていました。桓武天皇は高野新笠も渡来系氏族と繋がっており、情報共有からこの場所を選びました。 == 資料出所 == * 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年 * 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年 * 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年 * 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年 * 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年 * 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本) [[カテゴリ:高等学校日本史探究]] [[カテゴリ:平安時代]] 3hqk2gm7hjvoad099yfao9pe66c1wjn 303394 303393 2026-09-06T13:48:23Z Kwawe 68789 /* 平安京遷都と東北経営 */ 303394 wikitext text/x-wiki [[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅰ 本節では天皇の政治史について取り上げます。古代の天皇婚姻制度史は明治以降から現代までの婚姻制度(一夫一妻制)と違います。ここに注意して読み進めましょう。 == 平安京遷都と東北経営 == 古代の天皇の結婚制度は、明治以降の一夫一婦制と大きく違っていました。天皇は複数の妻を持つ一夫多妻制(後宮制度)でした。妻の身分から次の天皇を誰にするかで揉めました。奈良時代後期でも同じように起こっています。道鏡は称徳天皇の死去後に都から追い出されました。天武天皇の家族ではなく天智天皇の家族が天皇になれるように藤原永手と藤原百川達で後押ししました。770年、これを受けて天智天皇の施基皇子の子供〈白壁王〉が天皇の立場に就いて光仁天皇となりました。その結果、天皇の家族は天武天皇から天智天皇へと大きく入れ替わりました。光仁天皇は井上内親王を皇后として息子の他戸親王を皇太子として決めましたが、その役職から2人とも首になりました。 また、光仁天皇は百済系渡来氏族と繋がりを持つ和氏出身の高野新笠を妻にしています。高野新笠と結婚後、息子の山部親王が生まれました。その後、藤原百川などは非嫡出子の山部親王を次の天皇になれるように後押ししました。781年、山部親王は光仁天皇から天皇の立場を継いで桓武天皇になりました。やがて光仁天皇は上皇となり、782年に亡くなりました。光仁天皇は、役所の仕事を簡単にしたり、予算の無駄遣いを無くしたり、公民・民衆の負担を軽くしたりしてこれまでの政治を立て直しました。桓武天皇も光仁天皇のやり方をそのまま続けました。 桓武天皇は、光仁天皇(天智天皇の家族)の新しい政治様式を引き継ぎました。天智天皇の家族が天皇を引き継ぐ理由として中国王朝の交替史を根拠にしました。中国の皇帝が行う儀式をそのまま日本でも取り入れて、天皇の立場を公民・民衆に分かるようにしました。また高野新笠のつながりから、渡来系氏族の百済王氏と仲良くなりました。もちろん、藤原種継などの藤原氏とも仲良くなりました。桓武天皇は国内政治の仕事を真面目に取り組む天皇でした。左大臣を無くして、貴族が直接政治を行う新しい政治制度にしました。平安時代初期の嵯峨天皇までに天皇を国家元首として政治の決定権を持つような律令体制へ再編しました。 桓武天皇の主要政策は新都造営と東北経営でした。有力な氏族同士が「我が氏族こそ国家の中心」で何度も争って、平城京の政治も混乱しました。奈良の大寺院も政治に「早くやれ」と文句を言うようになりました。称徳天皇・道鏡の時代に仏教思想を取り入れすぎており、天皇がやりたい政治を自由に行えなくなりました。したがって、天智天皇の子供が新しい天皇になれるようにこれまでの政治の進め方を変えて、国家元首として律令国家を立て直したかったから新しい都を探しました。 784年朔旦冬至の日(旧暦11月1日)、桓武天皇は長岡京遷都の詔を出しました。その10日後(旧暦11月11日)、平城京から山背国乙訓郡の長岡京へ都を移しました。長岡京は京都盆地の南西部にあり、淀川水系(桂川・宇治川)から難波津・瀬戸内海方面へ行きやすく、交通でも最も重要な場所でした。秦氏などのように渡来系氏族が長岡京に住んでいて、天皇の家族と深い繋がりを持っていました。桓武天皇は高野新笠も渡来系氏族と繋がっており、情報共有からこの場所を選びました。なお、784年は甲子でした。甲子は現代で使われておらず、馴染みもないので、ここで説明します。甲子は丙午と同じく60年に一度巡る干支の始まりの年です。甲子は古代の中でも特に大黒天の縁年でした。朔旦冬至は月の始まりと冬至と重なり、とても珍しく縁起の良い日でした。 == 資料出所 == * 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年 * 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年 * 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年 * 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年 * 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年 * 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本) [[カテゴリ:高等学校日本史探究]] [[カテゴリ:平安時代]] qnwk1xhuixcc9cthin40jbg63xhal38 303395 303394 2026-09-06T13:53:38Z Kwawe 68789 /* 平安京遷都と東北経営 */ 重要用語を色太字化。 303395 wikitext text/x-wiki [[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅰ 本節では天皇の政治史について取り上げます。古代の天皇婚姻制度史は明治以降から現代までの婚姻制度(一夫一妻制)と違います。ここに注意して読み進めましょう。 == 平安京遷都と東北経営 == 古代の天皇の結婚制度は、明治以降の一夫一婦制と大きく違っていました。天皇は複数の妻を持つ一夫多妻制(後宮制度)でした。妻の身分から次の天皇を誰にするかで揉めました。奈良時代後期でも同じように起こっています。道鏡は称徳天皇の死去後に都から追い出されました。天武天皇の家族ではなく天智天皇の家族が天皇になれるように藤原永手と藤原百川達で後押ししました。770年、これを受けて天智天皇の施基皇子の子供〈白壁王〉が天皇の立場に就いて光仁天皇となりました。その結果、天皇の家族は天武天皇から天智天皇へと大きく入れ替わりました。光仁天皇は井上内親王を皇后として息子の他戸親王を皇太子として決めましたが、その役職から2人とも首になりました。 また、光仁天皇は百済系渡来氏族と繋がりを持つ和氏出身の高野新笠を妻にしています。高野新笠と結婚後、息子の山部親王が生まれました。その後、藤原百川などは非嫡出子の山部親王を次の天皇になれるように後押ししました。781年、山部親王は光仁天皇から天皇の立場を継いで<span style="color:#f29100">'''桓武天皇'''</span>になりました。やがて光仁天皇は上皇となり、782年に亡くなりました。光仁天皇は、役所の仕事を簡単にしたり、予算の無駄遣いを無くしたり、公民・民衆の負担を軽くしたりしてこれまでの政治を立て直しました。桓武天皇も光仁天皇のやり方をそのまま続けました。 桓武天皇は、光仁天皇(天智天皇の家族)の新しい政治様式を引き継ぎました。天智天皇の家族が天皇を引き継ぐ理由として中国王朝の交替史を根拠にしました。中国の皇帝が行う儀式をそのまま日本でも取り入れて、天皇の立場を公民・民衆に分かるようにしました。また高野新笠のつながりから、渡来系氏族の百済王氏と仲良くなりました。もちろん、藤原種継などの藤原氏とも仲良くなりました。桓武天皇は国内政治の仕事を真面目に取り組む天皇でした。左大臣を無くして、貴族が直接政治を行う新しい政治制度にしました。平安時代初期の嵯峨天皇までに天皇を国家元首として政治の決定権を持つような律令体制へ再編しました。 桓武天皇の主要政策は新都造営と東北経営でした。有力な氏族同士が「我が氏族こそ国家の中心」で何度も争って、平城京の政治も混乱しました。奈良の大寺院も政治に「早くやれ」と文句を言うようになりました。称徳天皇・道鏡の時代に仏教思想を取り入れすぎており、天皇がやりたい政治を自由に行えなくなりました。したがって、天智天皇の子供が新しい天皇になれるようにこれまでの政治の進め方を変えて、国家元首として律令国家を立て直したかったから新しい都を探しました。 784年朔旦冬至の日(旧暦11月1日)、桓武天皇は<span style="color:#f29100">'''長岡京'''</span>遷都の詔を出しました。その10日後(旧暦11月11日)、平城京から山背国乙訓郡の長岡京へ都を移しました。長岡京は京都盆地の南西部にあり、淀川水系(桂川・宇治川)から難波津・瀬戸内海方面へ行きやすく、交通でも最も重要な場所でした。秦氏などのように渡来系氏族が長岡京に住んでいて、天皇の家族と深い繋がりを持っていました。桓武天皇は高野新笠も渡来系氏族と繋がっており、情報共有からこの場所を選びました。なお、784年は甲子でした。甲子は現代で使われておらず、馴染みもないので、ここで説明します。甲子は丙午と同じく60年に一度巡る干支の始まりの年です。甲子は古代の中でも特に大黒天の縁年でした。朔旦冬至は月の始まりと冬至と重なり、とても珍しく縁起の良い日でした。 == 資料出所 == * 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年 * 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年 * 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年 * 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年 * 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年 * 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本) [[カテゴリ:高等学校日本史探究]] [[カテゴリ:平安時代]] nk6lcymd4l76fixin3evs43x3y325mb 303396 303395 2026-09-06T14:12:58Z Kwawe 68789 /* 平安京遷都と東北経営 */ 桓武天皇の写真を追加。 303396 wikitext text/x-wiki [[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅰ 本節では天皇の政治史について取り上げます。古代の天皇婚姻制度史は明治以降から現代までの婚姻制度(一夫一妻制)と違います。ここに注意して読み進めましょう。 == 平安京遷都と東北経営 == 古代の天皇の結婚制度は、明治以降の一夫一婦制と大きく違っていました。天皇は複数の妻を持つ一夫多妻制(後宮制度)でした。妻の身分から次の天皇を誰にするかで揉めました。奈良時代後期でも同じように起こっています。道鏡は称徳天皇の死去後に都から追い出されました。天武天皇の家族ではなく天智天皇の家族が天皇になれるように藤原永手と藤原百川達で後押ししました。770年、これを受けて天智天皇の施基皇子の子供〈白壁王〉が天皇の立場に就いて光仁天皇となりました。その結果、天皇の家族は天武天皇から天智天皇へと大きく入れ替わりました。光仁天皇は井上内親王を皇后として息子の他戸親王を皇太子として決めましたが、その役職から2人とも首になりました。 [[ファイル:Emperor Kammu large.jpg|サムネイル|211x211ピクセル|桓武天皇]] また、光仁天皇は百済系渡来氏族と繋がりを持つ和氏出身の高野新笠を妻にしています。高野新笠と結婚後、息子の山部親王が生まれました。その後、藤原百川などは非嫡出子の山部親王を次の天皇になれるように後押ししました。781年、山部親王は光仁天皇から天皇の立場を継いで<span style="color:#f29100">'''桓武天皇'''</span>になりました。やがて光仁天皇は上皇となり、782年に亡くなりました。光仁天皇は、役所の仕事を簡単にしたり、予算の無駄遣いを無くしたり、公民・民衆の負担を軽くしたりしてこれまでの政治を立て直しました。桓武天皇も光仁天皇のやり方をそのまま続けました。 桓武天皇は、光仁天皇(天智天皇の家族)の新しい政治様式を引き継ぎました。天智天皇の家族が天皇を引き継ぐ理由として中国王朝の交替史を根拠にしました。中国の皇帝が行う儀式をそのまま日本でも取り入れて、天皇の立場を公民・民衆に分かるようにしました。また高野新笠のつながりから、渡来系氏族の百済王氏と仲良くなりました。もちろん、藤原種継などの藤原氏とも仲良くなりました。桓武天皇は国内政治の仕事を真面目に取り組む天皇でした。左大臣を無くして、貴族が直接政治を行う新しい政治制度にしました。平安時代初期の嵯峨天皇までに天皇を国家元首として政治の決定権を持つような律令体制へ再編しました。 桓武天皇の主要政策は新都造営と東北経営でした。有力な氏族同士が「我が氏族こそ国家の中心」で何度も争って、平城京の政治も混乱しました。奈良の大寺院も政治に「早くやれ」と文句を言うようになりました。称徳天皇・道鏡の時代に仏教思想を取り入れすぎており、天皇がやりたい政治を自由に行えなくなりました。したがって、天智天皇の子供が新しい天皇になれるようにこれまでの政治の進め方を変えて、国家元首として律令国家を立て直したかったから新しい都を探しました。 784年朔旦冬至の日(旧暦11月1日)、桓武天皇は<span style="color:#f29100">'''長岡京'''</span>遷都の詔を出しました。その10日後(旧暦11月11日)、平城京から山背国乙訓郡の長岡京へ都を移しました。長岡京は京都盆地の南西部にあり、淀川水系(桂川・宇治川)から難波津・瀬戸内海方面へ行きやすく、交通でも最も重要な場所でした。秦氏などのように渡来系氏族が長岡京に住んでいて、天皇の家族と深い繋がりを持っていました。桓武天皇は高野新笠も渡来系氏族と繋がっており、情報共有からこの場所を選びました。なお、784年は甲子でした。甲子は現代で使われておらず、馴染みもないので、ここで説明します。甲子は丙午と同じく60年に一度巡る干支の始まりの年です。甲子は古代の中でも特に大黒天の縁年でした。朔旦冬至は月の始まりと冬至と重なり、とても珍しく縁起の良い日でした。 == 資料出所 == * 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年 * 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年 * 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年 * 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年 * 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年 * 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本) [[カテゴリ:高等学校日本史探究]] [[カテゴリ:平安時代]] 7hns8g9dx6ba4hm5aml7yrohdidv8zc 303398 303396 2026-09-06T23:40:36Z Kwawe 68789 /* 平安京遷都と東北経営 */ 藤原種継が中心になって長岡京の造営工事を進めた。建材を再利用した都だった。 303398 wikitext text/x-wiki [[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅰ 本節では天皇の政治史について取り上げます。古代の天皇婚姻制度史は明治以降から現代までの婚姻制度(一夫一妻制)と違います。ここに注意して読み進めましょう。 == 平安京遷都と東北経営 == 古代の天皇の結婚制度は、明治以降の一夫一婦制と大きく違っていました。天皇は複数の妻を持つ一夫多妻制(後宮制度)でした。妻の身分から次の天皇を誰にするかで揉めました。奈良時代後期でも同じように起こっています。道鏡は称徳天皇の死去後に都から追い出されました。天武天皇の家族ではなく天智天皇の家族が天皇になれるように藤原永手と藤原百川達で後押ししました。770年、これを受けて天智天皇の施基皇子の子供〈白壁王〉が天皇の立場に就いて光仁天皇となりました。その結果、天皇の家族は天武天皇から天智天皇へと大きく入れ替わりました。光仁天皇は井上内親王を皇后として息子の他戸親王を皇太子として決めましたが、その役職から2人とも首になりました。 [[ファイル:Emperor Kammu large.jpg|サムネイル|211x211ピクセル|桓武天皇]] また、光仁天皇は百済系渡来氏族と繋がりを持つ和氏出身の高野新笠を妻にしています。高野新笠と結婚後、息子の山部親王が生まれました。その後、藤原百川などは非嫡出子の山部親王を次の天皇になれるように後押ししました。781年、山部親王は光仁天皇から天皇の立場を継いで<span style="color:#f29100">'''桓武天皇'''</span>になりました。やがて光仁天皇は上皇となり、782年に亡くなりました。光仁天皇は、役所の仕事を簡単にしたり、予算の無駄遣いを無くしたり、公民・民衆の負担を軽くしたりしてこれまでの政治を立て直しました。桓武天皇も光仁天皇のやり方をそのまま続けました。 桓武天皇は、光仁天皇(天智天皇の家族)の新しい政治様式を引き継ぎました。天智天皇の家族が天皇を引き継ぐ理由として中国王朝の交替史を根拠にしました。中国の皇帝が行う儀式をそのまま日本でも取り入れて、天皇の立場を公民・民衆に分かるようにしました。また高野新笠のつながりから、渡来系氏族の百済王氏と仲良くなりました。もちろん、藤原種継などの藤原氏とも仲良くなりました。桓武天皇は国内政治の仕事を真面目に取り組む天皇でした。左大臣を無くして、貴族が直接政治を行う新しい政治制度にしました。平安時代初期の嵯峨天皇までに天皇を国家元首として政治の決定権を持つような律令体制へ再編しました。 桓武天皇の主要政策は新都造営と東北経営でした。有力な氏族同士が「我が氏族こそ国家の中心」で何度も争って、平城京の政治も混乱しました。奈良の大寺院も政治に「早くやれ」と文句を言うようになりました。称徳天皇・道鏡の時代に仏教思想を取り入れすぎており、天皇がやりたい政治を自由に行えなくなりました。したがって、天智天皇の子供が新しい天皇になれるようにこれまでの政治の進め方を変えて、国家元首として律令国家を立て直したかったから新しい都を探しました。 784年朔旦冬至の日(旧暦11月1日)、桓武天皇は<span style="color:#f29100">'''長岡京'''</span>遷都の詔を出しました。その10日後(旧暦11月11日)、平城京から山背国乙訓郡の長岡京へ都を移しました。長岡京は京都盆地の南西部にあり、淀川水系(桂川・宇治川)から難波津・瀬戸内海方面へ行きやすく、交通でも最も重要な場所でした。秦氏などのように渡来系氏族が長岡京に住んでいて、天皇の家族と深い繋がりを持っていました。桓武天皇は高野新笠も渡来系氏族と繋がっており、情報共有からこの場所を選びました。なお、784年は甲子でした。甲子は現代で使われておらず、馴染みもないので、ここで説明します。甲子は丙午と同じく60年に一度巡る干支の始まりの年です。甲子は古代の中でも特に大黒天の縁年でした。朔旦冬至は月の始まりと冬至と重なり、とても珍しく縁起の良い日でした。 藤原種継が中心になって長岡京の造営工事を進めました。工事を急いで進めるため、難波宮・平城宮・平城京の建物と材料をそのまま長岡京でも使いました。発掘調査でも難波宮・平城宮の瓦が長岡宮跡で見つかっています。 == 資料出所 == * 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年 * 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年 * 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年 * 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年 * 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年 * 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本) [[カテゴリ:高等学校日本史探究]] [[カテゴリ:平安時代]] nnng41xrxc33l832qz0m5eke0pf0w81 303399 303398 2026-09-06T23:41:28Z Kwawe 68789 /* 平安京遷都と東北経営 */ 303399 wikitext text/x-wiki [[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅰ 本節では天皇の政治史について取り上げます。古代の天皇婚姻制度史は明治以降から現代までの婚姻制度(一夫一妻制)と違います。ここに注意して読み進めましょう。 == 平安京遷都と東北経営 == 古代の天皇の結婚制度は、明治以降の一夫一婦制と大きく違っていました。天皇は複数の妻を持つ一夫多妻制(後宮制度)でした。妻の身分から次の天皇を誰にするかで揉めました。奈良時代後期でも同じように起こっています。道鏡は称徳天皇の死去後に都から追い出されました。天武天皇の家族ではなく天智天皇の家族が天皇になれるように藤原永手と藤原百川達で後押ししました。770年、これを受けて天智天皇の施基皇子の子供〈白壁王〉が天皇の立場に就いて光仁天皇となりました。その結果、天皇の家族は天武天皇から天智天皇へと大きく入れ替わりました。光仁天皇は井上内親王を皇后として息子の他戸親王を皇太子として決めましたが、その役職から2人とも首になりました。 [[ファイル:Emperor Kammu large.jpg|サムネイル|211x211ピクセル|桓武天皇]] また、光仁天皇は百済系渡来氏族と繋がりを持つ和氏出身の高野新笠を妻にしています。高野新笠と結婚後、息子の山部親王が生まれました。その後、藤原百川などは非嫡出子の山部親王を次の天皇になれるように後押ししました。781年、山部親王は光仁天皇から天皇の立場を継いで<span style="color:#f29100">'''桓武天皇'''</span>になりました。やがて光仁天皇は上皇となり、782年に亡くなりました。光仁天皇は、役所の仕事を簡単にしたり、予算の無駄遣いを無くしたり、公民・民衆の負担を軽くしたりしてこれまでの政治を立て直しました。桓武天皇も光仁天皇のやり方をそのまま続けました。 桓武天皇は、光仁天皇(天智天皇の家族)の新しい政治様式を引き継ぎました。天智天皇の家族が天皇を引き継ぐ理由として中国王朝の交替史を根拠にしました。中国の皇帝が行う儀式をそのまま日本でも取り入れて、天皇の立場を公民・民衆に分かるようにしました。また高野新笠のつながりから、渡来系氏族の百済王氏と仲良くなりました。もちろん、藤原種継などの藤原氏とも仲良くなりました。桓武天皇は国内政治の仕事を真面目に取り組む天皇でした。左大臣を無くして、貴族が直接政治を行う新しい政治制度にしました。平安時代初期の嵯峨天皇までに天皇を国家元首として政治の決定権を持つような律令体制へ再編しました。 桓武天皇の主要政策は新都造営と東北経営でした。有力な氏族同士が「我が氏族こそ国家の中心」で何度も争って、平城京の政治も混乱しました。奈良の大寺院も政治に「早くやれ」と文句を言うようになりました。称徳天皇・道鏡の時代に仏教思想を取り入れすぎており、天皇がやりたい政治を自由に行えなくなりました。したがって、天智天皇の子供が新しい天皇になれるようにこれまでの政治の進め方を変えて、国家元首として律令国家を立て直したかったから新しい都を探しました。 784年朔旦冬至の日(旧暦11月1日)、桓武天皇は<span style="color:#f29100">'''長岡京'''</span>遷都の詔を出しました。その10日後(旧暦11月11日)、平城京から山背国乙訓郡の長岡京へ都を移しました。長岡京は京都盆地の南西部にあり、淀川水系(桂川・宇治川)から難波津・瀬戸内海方面へ行きやすく、交通でも最も重要な場所でした。秦氏などのように渡来系氏族が長岡京に住んでいて、天皇の家族と深い繋がりを持っていました。桓武天皇は高野新笠も渡来系氏族と繋がっており、情報共有からこの場所を選びました。なお、784年は甲子でした。甲子は現代で使われておらず、馴染みもないので、ここで説明します。甲子は丙午と同じく60年に一度巡る干支の始まりの年です。甲子は古代の中でも特に大黒天の縁年でした。朔旦冬至は月の始まりと冬至と重なり、とても珍しく縁起の良い日でした。 藤原種継が中心になって長岡京の造営工事を進めました。工事を早く終わらせるために、難波宮・平城宮・平城京の建物と材料をそのまま長岡京でも使いました。発掘調査でも難波宮・平城宮の瓦が長岡宮跡で見つかっています。 == 資料出所 == * 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年 * 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年 * 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年 * 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年 * 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年 * 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本) [[カテゴリ:高等学校日本史探究]] [[カテゴリ:平安時代]] kbi38hubwgyjhru1tk382xg2zjkc54d 303400 303399 2026-09-07T00:02:46Z Kwawe 68789 /* 平安京遷都と東北経営 */ 難波宮は長岡京造営工事で取り壊された。 303400 wikitext text/x-wiki [[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅰ 本節では天皇の政治史について取り上げます。古代の天皇婚姻制度史は明治以降から現代までの婚姻制度(一夫一妻制)と違います。ここに注意して読み進めましょう。 == 平安京遷都と東北経営 == 古代の天皇の結婚制度は、明治以降の一夫一婦制と大きく違っていました。天皇は複数の妻を持つ一夫多妻制(後宮制度)でした。妻の身分から次の天皇を誰にするかで揉めました。奈良時代後期でも同じように起こっています。道鏡は称徳天皇の死去後に都から追い出されました。天武天皇の家族ではなく天智天皇の家族が天皇になれるように藤原永手と藤原百川達で後押ししました。770年、これを受けて天智天皇の施基皇子の子供〈白壁王〉が天皇の立場に就いて光仁天皇となりました。その結果、天皇の家族は天武天皇から天智天皇へと大きく入れ替わりました。光仁天皇は井上内親王を皇后として息子の他戸親王を皇太子として決めましたが、その役職から2人とも首になりました。 [[ファイル:Emperor Kammu large.jpg|サムネイル|211x211ピクセル|桓武天皇]] また、光仁天皇は百済系渡来氏族と繋がりを持つ和氏出身の高野新笠を妻にしています。高野新笠と結婚後、息子の山部親王が生まれました。その後、藤原百川などは非嫡出子の山部親王を次の天皇になれるように後押ししました。781年、山部親王は光仁天皇から天皇の立場を継いで<span style="color:#f29100">'''桓武天皇'''</span>になりました。やがて光仁天皇は上皇となり、782年に亡くなりました。光仁天皇は、役所の仕事を簡単にしたり、予算の無駄遣いを無くしたり、公民・民衆の負担を軽くしたりしてこれまでの政治を立て直しました。桓武天皇も光仁天皇のやり方をそのまま続けました。 桓武天皇は、光仁天皇(天智天皇の家族)の新しい政治様式を引き継ぎました。天智天皇の家族が天皇を引き継ぐ理由として中国王朝の交替史を根拠にしました。中国の皇帝が行う儀式をそのまま日本でも取り入れて、天皇の立場を公民・民衆に分かるようにしました。また高野新笠のつながりから、渡来系氏族の百済王氏と仲良くなりました。もちろん、藤原種継などの藤原氏とも仲良くなりました。桓武天皇は国内政治の仕事を真面目に取り組む天皇でした。左大臣を無くして、貴族が直接政治を行う新しい政治制度にしました。平安時代初期の嵯峨天皇までに天皇を国家元首として政治の決定権を持つような律令体制へ再編しました。 桓武天皇の主要政策は新都造営と東北経営でした。有力な氏族同士が「我が氏族こそ国家の中心」で何度も争って、平城京の政治も混乱しました。奈良の大寺院も政治に「早くやれ」と文句を言うようになりました。称徳天皇・道鏡の時代に仏教思想を取り入れすぎており、天皇がやりたい政治を自由に行えなくなりました。したがって、天智天皇の子供が新しい天皇になれるようにこれまでの政治の進め方を変えて、国家元首として律令国家を立て直したかったから新しい都を探しました。 784年朔旦冬至の日(旧暦11月1日)、桓武天皇は<span style="color:#f29100">'''長岡京'''</span>遷都の詔を出しました。その10日後(旧暦11月11日)、平城京から山背国乙訓郡の長岡京へ都を移しました。長岡京は京都盆地の南西部にあり、淀川水系(桂川・宇治川)から難波津・瀬戸内海方面へ行きやすく、交通でも最も重要な場所でした。秦氏などのように渡来系氏族が長岡京に住んでいて、天皇の家族と深い繋がりを持っていました。桓武天皇は高野新笠も渡来系氏族と繋がっており、情報共有からこの場所を選びました。なお、784年は甲子でした。甲子は現代で使われておらず、馴染みもないので、ここで説明します。甲子は丙午と同じく60年に一度巡る干支の始まりの年です。甲子は古代の中でも特に大黒天の縁年でした。朔旦冬至は月の始まりと冬至と重なり、とても珍しく縁起の良い日でした。 藤原種継が中心になって長岡京の造営工事を進めました。工事を早く終わらせるために、難波宮・平城宮・平城京の建物と材料をそのまま長岡京でも使いました。発掘調査でも難波宮・平城宮の瓦が長岡宮跡で見つかっています。 ヤマト政権の時代から、都は大和盆地に置かれていました。当時の難波は陪都として使われていました。難波津を管理するため、役所の摂津職も置かれていました。しかし、難波宮は長岡京の造営工事から784年に取り壊されました。難波宮の建築資材も長岡京の造営工事に使われ、難波は副都としての役割を失いました。摂津職も793年に廃止されました。政治上の重要地域に副都のような都市を置く例が中国の周・漢・唐などで見られました。このような中国王朝の都市制度から難波が陪都として置かれました。 == 資料出所 == * 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年 * 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年 * 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年 * 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年 * 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年 * 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本) [[カテゴリ:高等学校日本史探究]] [[カテゴリ:平安時代]] 5f6m7dik1076pre7s0kyd5ioi0yax17 303409 303400 2026-09-07T05:16:42Z Kwawe 68789 /* 平安京遷都と東北経営 */藤原種継暗殺事件で早良親王も無期懲役になった。淡路島への島流し中に餓死した。 303409 wikitext text/x-wiki [[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅰ 本節では天皇の政治史について取り上げます。古代の天皇婚姻制度史は明治以降から現代までの婚姻制度(一夫一妻制)と違います。ここに注意して読み進めましょう。 == 平安京遷都と東北経営 == 古代の天皇の結婚制度は、明治以降の一夫一婦制と大きく違っていました。天皇は複数の妻を持つ一夫多妻制(後宮制度)でした。妻の身分から次の天皇を誰にするかで揉めました。奈良時代後期でも同じように起こっています。道鏡は称徳天皇の死去後に都から追い出されました。天武天皇の家族ではなく天智天皇の家族が天皇になれるように藤原永手と藤原百川達で後押ししました。770年、これを受けて天智天皇の施基皇子の子供〈白壁王〉が天皇の立場に就いて光仁天皇となりました。その結果、天皇の家族は天武天皇から天智天皇へと大きく入れ替わりました。光仁天皇は井上内親王を皇后として息子の他戸親王を皇太子として決めましたが、その役職から2人とも首になりました。 [[ファイル:Emperor Kammu large.jpg|サムネイル|211x211ピクセル|桓武天皇]] また、光仁天皇は百済系渡来氏族と繋がりを持つ和氏出身の高野新笠を妻にしています。高野新笠と結婚後、息子の山部親王が生まれました。その後、藤原百川などは非嫡出子の山部親王を次の天皇になれるように後押ししました。781年、山部親王は光仁天皇から天皇の立場を継いで<span style="color:#f29100">'''桓武天皇'''</span>になりました。やがて光仁天皇は上皇となり、782年に亡くなりました。光仁天皇は、役所の仕事を簡単にしたり、予算の無駄遣いを無くしたり、公民・民衆の負担を軽くしたりしてこれまでの政治を立て直しました。桓武天皇も光仁天皇のやり方をそのまま続けました。 桓武天皇は、光仁天皇(天智天皇の家族)の新しい政治様式を引き継ぎました。天智天皇の家族が天皇を引き継ぐ理由として中国王朝の交替史を根拠にしました。中国の皇帝が行う儀式をそのまま日本でも取り入れて、天皇の立場を公民・民衆に分かるようにしました。また高野新笠のつながりから、渡来系氏族の百済王氏と仲良くなりました。もちろん、藤原種継などの藤原氏とも仲良くなりました。桓武天皇は国内政治の仕事を真面目に取り組む天皇でした。左大臣を無くして、貴族が直接政治を行う新しい政治制度にしました。平安時代初期の嵯峨天皇までに天皇を国家元首として政治の決定権を持つような律令体制へ再編しました。 桓武天皇の主要政策は新都造営と東北経営でした。有力な氏族同士が「我が氏族こそ国家の中心」で何度も争って、平城京の政治も混乱しました。奈良の大寺院も政治に「早くやれ」と文句を言うようになりました。称徳天皇・道鏡の時代に仏教思想を取り入れすぎており、天皇がやりたい政治を自由に行えなくなりました。したがって、天智天皇の子供が新しい天皇になれるようにこれまでの政治の進め方を変えて、国家元首として律令国家を立て直したかったから新しい都を探しました。 784年朔旦冬至の日(旧暦11月1日)、桓武天皇は<span style="color:#f29100">'''長岡京'''</span>遷都の詔を出しました。その10日後(旧暦11月11日)、平城京から山背国乙訓郡の長岡京へ都を移しました。長岡京は京都盆地の南西部にあり、淀川水系(桂川・宇治川)から難波津・瀬戸内海方面へ行きやすく、交通でも最も重要な場所でした。秦氏などのように渡来系氏族が長岡京に住んでいて、天皇の家族と深い繋がりを持っていました。桓武天皇は高野新笠も渡来系氏族と繋がっており、情報共有からこの場所を選びました。なお、784年は甲子でした。甲子は現代で使われておらず、馴染みもないので、ここで説明します。甲子は丙午と同じく60年に一度巡る干支の始まりの年です。甲子は古代の中でも特に大黒天の縁年でした。朔旦冬至は月の始まりと冬至と重なり、とても珍しく縁起の良い日でした。 藤原種継が中心になって長岡京の造営工事を進めました。工事を早く終わらせるために、難波宮・平城宮・平城京の建物と材料をそのまま長岡京でも使いました。発掘調査でも難波宮・平城宮の瓦が長岡宮跡で見つかっています。 ヤマト政権の時代から、都は大和盆地に置かれていました。当時の難波は陪都として使われていました。難波津を管理するため、役所の摂津職も置かれていました。しかし、難波宮は長岡京の造営工事から784年に取り壊されました。難波宮の建築資材も長岡京の造営工事に使われ、難波は副都としての役割を失いました。摂津職も793年に廃止されました。政治上の重要地域に副都のような都市を置く例が中国の周・漢・唐などで見られました。このような中国王朝の都市制度から難波が陪都として置かれました。 785年、藤原種継が長岡京の造営工事中に暗殺されました(藤原種継暗殺事件)。旧豪族の人々[大伴氏・佐伯氏など]が藤原種継暗殺事件の犯人として死刑になりました。早良親王も藤原種継暗殺事件への関わりを疑われ、皇太子の地位を失いました。その後、早良親王は乙訓寺に閉じこめられ、淡路国へ送られました。しかし早良親王は無罪と訴えて食事をとらなくなり、淡路国へ向かう途中で亡くなりました。 == 資料出所 == * 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年 * 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年 * 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年 * 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年 * 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年 * 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本) [[カテゴリ:高等学校日本史探究]] [[カテゴリ:平安時代]] cg44gwt2j1kak9sf2wcsg01jwhw1czf 303410 303409 2026-09-07T08:49:53Z Kwawe 68789 /* 平安京遷都と東北経営 */ 早良親王怨霊からの祟りは長岡京を混乱させたとされている。 303410 wikitext text/x-wiki [[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅰ 本節では天皇の政治史について取り上げます。古代の天皇婚姻制度史は明治以降から現代までの婚姻制度(一夫一妻制)と違います。ここに注意して読み進めましょう。 == 平安京遷都と東北経営 == 古代の天皇の結婚制度は、明治以降の一夫一婦制と大きく違っていました。天皇は複数の妻を持つ一夫多妻制(後宮制度)でした。妻の身分から次の天皇を誰にするかで揉めました。奈良時代後期でも同じように起こっています。道鏡は称徳天皇の死去後に都から追い出されました。天武天皇の家族ではなく天智天皇の家族が天皇になれるように藤原永手と藤原百川達で後押ししました。770年、これを受けて天智天皇の施基皇子の子供〈白壁王〉が天皇の立場に就いて光仁天皇となりました。その結果、天皇の家族は天武天皇から天智天皇へと大きく入れ替わりました。光仁天皇は井上内親王を皇后として息子の他戸親王を皇太子として決めましたが、その役職から2人とも首になりました。 [[ファイル:Emperor Kammu large.jpg|サムネイル|211x211ピクセル|桓武天皇]] また、光仁天皇は百済系渡来氏族と繋がりを持つ和氏出身の高野新笠を妻にしています。高野新笠と結婚後、息子の山部親王が生まれました。その後、藤原百川などは非嫡出子の山部親王を次の天皇になれるように後押ししました。781年、山部親王は光仁天皇から天皇の立場を継いで<span style="color:#f29100">'''桓武天皇'''</span>になりました。やがて光仁天皇は上皇となり、782年に亡くなりました。光仁天皇は、役所の仕事を簡単にしたり、予算の無駄遣いを無くしたり、公民・民衆の負担を軽くしたりしてこれまでの政治を立て直しました。桓武天皇も光仁天皇のやり方をそのまま続けました。 桓武天皇は、光仁天皇(天智天皇の家族)の新しい政治様式を引き継ぎました。天智天皇の家族が天皇を引き継ぐ理由として中国王朝の交替史を根拠にしました。中国の皇帝が行う儀式をそのまま日本でも取り入れて、天皇の立場を公民・民衆に分かるようにしました。また高野新笠のつながりから、渡来系氏族の百済王氏と仲良くなりました。もちろん、藤原種継などの藤原氏とも仲良くなりました。桓武天皇は国内政治の仕事を真面目に取り組む天皇でした。左大臣を無くして、貴族が直接政治を行う新しい政治制度にしました。平安時代初期の嵯峨天皇までに天皇を国家元首として政治の決定権を持つような律令体制へ再編しました。 桓武天皇の主要政策は新都造営と東北経営でした。有力な氏族同士が「我が氏族こそ国家の中心」で何度も争って、平城京の政治も混乱しました。奈良の大寺院も政治に「早くやれ」と文句を言うようになりました。称徳天皇・道鏡の時代に仏教思想を取り入れすぎており、天皇がやりたい政治を自由に行えなくなりました。したがって、天智天皇の子供が新しい天皇になれるようにこれまでの政治の進め方を変えて、国家元首として律令国家を立て直したかったから新しい都を探しました。 784年朔旦冬至の日(旧暦11月1日)、桓武天皇は<span style="color:#f29100">'''長岡京'''</span>遷都の詔を出しました。その10日後(旧暦11月11日)、平城京から山背国乙訓郡の長岡京へ都を移しました。長岡京は京都盆地の南西部にあり、淀川水系(桂川・宇治川)から難波津・瀬戸内海方面へ行きやすく、交通でも最も重要な場所でした。秦氏などのように渡来系氏族が長岡京に住んでいて、天皇の家族と深い繋がりを持っていました。桓武天皇は高野新笠も渡来系氏族と繋がっており、情報共有からこの場所を選びました。なお、784年は甲子でした。甲子は現代で使われておらず、馴染みもないので、ここで説明します。甲子は丙午と同じく60年に一度巡る干支の始まりの年です。甲子は古代の中でも特に大黒天の縁年でした。朔旦冬至は月の始まりと冬至と重なり、とても珍しく縁起の良い日でした。 藤原種継が中心になって長岡京の造営工事を進めました。工事を早く終わらせるために、難波宮・平城宮・平城京の建物と材料をそのまま長岡京でも使いました。発掘調査でも難波宮・平城宮の瓦が長岡宮跡で見つかっています。 ヤマト政権の時代から、都は大和盆地に置かれていました。当時の難波は陪都として使われていました。難波津を管理するため、役所の摂津職も置かれていました。しかし、難波宮は長岡京の造営工事から784年に取り壊されました。難波宮の建築資材も長岡京の造営工事に使われ、難波は副都としての役割を失いました。摂津職も793年に廃止されました。政治上の重要地域に副都のような都市を置く例が中国の周・漢・唐などで見られました。このような中国王朝の都市制度から難波が陪都として置かれました。 785年、藤原種継が長岡京の造営工事中に暗殺されました(藤原種継暗殺事件)。旧豪族の人々[大伴氏・佐伯氏など]が藤原種継暗殺事件の犯人として死刑になりました。早良親王も藤原種継暗殺事件への関わりを疑われ、皇太子の地位を失いました。その後、早良親王は乙訓寺に閉じこめられ、淡路国へ送られました。しかし早良親王は無罪と訴えて食事をとらなくなり、淡路国へ向かう途中で亡くなりました。 また、高野新笠[桓武天皇の母]・皇后・夫人などのように桓武天皇の側近が相次いで亡くなりました。新皇太子の安殿親王も病気になりました。長岡京は洪水などの水害も起こりました。さらに長岡京の造営工事にも問題があり、国内政治もずっと混乱しました。このような出来事は早良親王怨霊からの祟りだと占いで信じられるようになりました。 == 資料出所 == * 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年 * 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年 * 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年 * 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年 * 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年 * 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本) [[カテゴリ:高等学校日本史探究]] [[カテゴリ:平安時代]] qfsvhr0hbywmxkhq5l4cziu79c8xlgn 303412 303410 2026-09-07T09:25:49Z Kwawe 68789 /* 平安京遷都と東北経営 */ 怨霊について叙述。 303412 wikitext text/x-wiki [[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅰ 本節では天皇の政治史について取り上げます。古代の天皇婚姻制度史は明治以降から現代までの婚姻制度(一夫一妻制)と違います。ここに注意して読み進めましょう。 == 平安京遷都と東北経営 == 古代の天皇の結婚制度は、明治以降の一夫一婦制と大きく違っていました。天皇は複数の妻を持つ一夫多妻制(後宮制度)でした。妻の身分から次の天皇を誰にするかで揉めました。奈良時代後期でも同じように起こっています。道鏡は称徳天皇の死去後に都から追い出されました。天武天皇の家族ではなく天智天皇の家族が天皇になれるように藤原永手と藤原百川達で後押ししました。770年、これを受けて天智天皇の施基皇子の子供〈白壁王〉が天皇の立場に就いて光仁天皇となりました。その結果、天皇の家族は天武天皇から天智天皇へと大きく入れ替わりました。光仁天皇は井上内親王を皇后として息子の他戸親王を皇太子として決めましたが、その役職から2人とも首になりました。 [[ファイル:Emperor Kammu large.jpg|サムネイル|211x211ピクセル|桓武天皇]] また、光仁天皇は百済系渡来氏族と繋がりを持つ和氏出身の高野新笠を妻にしています。高野新笠と結婚後、息子の山部親王が生まれました。その後、藤原百川などは非嫡出子の山部親王を次の天皇になれるように後押ししました。781年、山部親王は光仁天皇から天皇の立場を継いで<span style="color:#f29100">'''桓武天皇'''</span>になりました。やがて光仁天皇は上皇となり、782年に亡くなりました。光仁天皇は、役所の仕事を簡単にしたり、予算の無駄遣いを無くしたり、公民・民衆の負担を軽くしたりしてこれまでの政治を立て直しました。桓武天皇も光仁天皇のやり方をそのまま続けました。 桓武天皇は、光仁天皇(天智天皇の家族)の新しい政治様式を引き継ぎました。天智天皇の家族が天皇を引き継ぐ理由として中国王朝の交替史を根拠にしました。中国の皇帝が行う儀式をそのまま日本でも取り入れて、天皇の立場を公民・民衆に分かるようにしました。また高野新笠のつながりから、渡来系氏族の百済王氏と仲良くなりました。もちろん、藤原種継などの藤原氏とも仲良くなりました。桓武天皇は国内政治の仕事を真面目に取り組む天皇でした。左大臣を無くして、貴族が直接政治を行う新しい政治制度にしました。平安時代初期の嵯峨天皇までに天皇を国家元首として政治の決定権を持つような律令体制へ再編しました。 桓武天皇の主要政策は新都造営と東北経営でした。有力な氏族同士が「我が氏族こそ国家の中心」で何度も争って、平城京の政治も混乱しました。奈良の大寺院も政治に「早くやれ」と文句を言うようになりました。称徳天皇・道鏡の時代に仏教思想を取り入れすぎており、天皇がやりたい政治を自由に行えなくなりました。したがって、天智天皇の子供が新しい天皇になれるようにこれまでの政治の進め方を変えて、国家元首として律令国家を立て直したかったから新しい都を探しました。 784年朔旦冬至の日(旧暦11月1日)、桓武天皇は<span style="color:#f29100">'''長岡京'''</span>遷都の詔を出しました。その10日後(旧暦11月11日)、平城京から山背国乙訓郡の長岡京へ都を移しました。長岡京は京都盆地の南西部にあり、淀川水系(桂川・宇治川)から難波津・瀬戸内海方面へ行きやすく、交通でも最も重要な場所でした。秦氏などのように渡来系氏族が長岡京に住んでいて、天皇の家族と深い繋がりを持っていました。桓武天皇は高野新笠も渡来系氏族と繋がっており、情報共有からこの場所を選びました。なお、784年は甲子でした。甲子は現代で使われておらず、馴染みもないので、ここで説明します。甲子は丙午と同じく60年に一度巡る干支の始まりの年です。甲子は古代の中でも特に大黒天の縁年でした。朔旦冬至は月の始まりと冬至と重なり、とても珍しく縁起の良い日でした。 藤原種継が中心になって長岡京の造営工事を進めました。工事を早く終わらせるために、難波宮・平城宮・平城京の建物と材料をそのまま長岡京でも使いました。発掘調査でも難波宮・平城宮の瓦が長岡宮跡で見つかっています。 ヤマト政権の時代から、都は大和盆地に置かれていました。当時の難波は陪都として使われていました。難波津を管理するため、役所の摂津職も置かれていました。しかし、難波宮は長岡京の造営工事から784年に取り壊されました。難波宮の建築資材も長岡京の造営工事に使われ、難波は副都としての役割を失いました。摂津職も793年に廃止されました。政治上の重要地域に副都のような都市を置く例が中国の周・漢・唐などで見られました。このような中国王朝の都市制度から難波が陪都として置かれました。 785年、藤原種継が長岡京の造営工事中に暗殺されました(藤原種継暗殺事件)。旧豪族の人々[大伴氏・佐伯氏など]が藤原種継暗殺事件の犯人として死刑になりました。早良親王も藤原種継暗殺事件への関わりを疑われ、皇太子の地位を失いました。その後、早良親王は乙訓寺に閉じこめられ、淡路国へ送られました。しかし早良親王は無罪と訴えて食事をとらなくなり、淡路国へ向かう途中で亡くなりました。 また、高野新笠[桓武天皇の母]・皇后・夫人などのように桓武天皇の側近が相次いで亡くなりました。新皇太子の安殿親王も病気になりました。長岡京は洪水などの水害も起こりました。さらに長岡京の造営工事にも問題があり、国内政治もずっと混乱しました。このような出来事は早良親王怨霊からの祟りだと占いで信じられるようになりました。 桓武天皇は早良親王に死後の天皇名として崇道天皇を贈りました。そして、何度も早良親王の怨霊を静めて、成仏させました。可哀そうな故人の怨霊は世の中を荒らしやすく、この怨霊を怖がるようになりました。この考えから、御霊信仰へと広がりました。863年、早良親王らの霊を神泉苑の御霊会で慰めました。903年、菅原道真が大宰府で亡くなりました。その後、雷が内裏に落ちたり、藤原時平の一族も相次いで亡くなったりしました。公民・民衆はこれらを道真の祟りだと考えました。その後、道真は神として慰められるようになり、天神信仰にもつながりました。 == 資料出所 == * 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年 * 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年 * 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年 * 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年 * 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年 * 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本) [[カテゴリ:高等学校日本史探究]] [[カテゴリ:平安時代]] ebprpzyuca96kplae0l2mtr35rbr7c8 303413 303412 2026-09-07T09:59:22Z Kwawe 68789 /* 平安京遷都と東北経営 */ 平安京への移転は和気清麻呂の意見を取り入れたとされている。 303413 wikitext text/x-wiki [[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅰ 本節では天皇の政治史について取り上げます。古代の天皇婚姻制度史は明治以降から現代までの婚姻制度(一夫一妻制)と違います。ここに注意して読み進めましょう。 == 平安京遷都と東北経営 == 古代の天皇の結婚制度は、明治以降の一夫一婦制と大きく違っていました。天皇は複数の妻を持つ一夫多妻制(後宮制度)でした。妻の身分から次の天皇を誰にするかで揉めました。奈良時代後期でも同じように起こっています。道鏡は称徳天皇の死去後に都から追い出されました。天武天皇の家族ではなく天智天皇の家族が天皇になれるように藤原永手と藤原百川達で後押ししました。770年、これを受けて天智天皇の施基皇子の子供〈白壁王〉が天皇の立場に就いて光仁天皇となりました。その結果、天皇の家族は天武天皇から天智天皇へと大きく入れ替わりました。光仁天皇は井上内親王を皇后として息子の他戸親王を皇太子として決めましたが、その役職から2人とも首になりました。 [[ファイル:Emperor Kammu large.jpg|サムネイル|211x211ピクセル|桓武天皇]] また、光仁天皇は百済系渡来氏族と繋がりを持つ和氏出身の高野新笠を妻にしています。高野新笠と結婚後、息子の山部親王が生まれました。その後、藤原百川などは非嫡出子の山部親王を次の天皇になれるように後押ししました。781年、山部親王は光仁天皇から天皇の立場を継いで<span style="color:#f29100">'''桓武天皇'''</span>になりました。やがて光仁天皇は上皇となり、782年に亡くなりました。光仁天皇は、役所の仕事を簡単にしたり、予算の無駄遣いを無くしたり、公民・民衆の負担を軽くしたりしてこれまでの政治を立て直しました。桓武天皇も光仁天皇のやり方をそのまま続けました。 桓武天皇は、光仁天皇(天智天皇の家族)の新しい政治様式を引き継ぎました。天智天皇の家族が天皇を引き継ぐ理由として中国王朝の交替史を根拠にしました。中国の皇帝が行う儀式をそのまま日本でも取り入れて、天皇の立場を公民・民衆に分かるようにしました。また高野新笠のつながりから、渡来系氏族の百済王氏と仲良くなりました。もちろん、藤原種継などの藤原氏とも仲良くなりました。桓武天皇は国内政治の仕事を真面目に取り組む天皇でした。左大臣を無くして、貴族が直接政治を行う新しい政治制度にしました。平安時代初期の嵯峨天皇までに天皇を国家元首として政治の決定権を持つような律令体制へ再編しました。 桓武天皇の主要政策は新都造営と東北経営でした。有力な氏族同士が「我が氏族こそ国家の中心」で何度も争って、平城京の政治も混乱しました。奈良の大寺院も政治に「早くやれ」と文句を言うようになりました。称徳天皇・道鏡の時代に仏教思想を取り入れすぎており、天皇がやりたい政治を自由に行えなくなりました。したがって、天智天皇の子供が新しい天皇になれるようにこれまでの政治の進め方を変えて、国家元首として律令国家を立て直したかったから新しい都を探しました。 784年朔旦冬至の日(旧暦11月1日)、桓武天皇は<span style="color:#f29100">'''長岡京'''</span>遷都の詔を出しました。その10日後(旧暦11月11日)、平城京から山背国乙訓郡の長岡京へ都を移しました。長岡京は京都盆地の南西部にあり、淀川水系(桂川・宇治川)から難波津・瀬戸内海方面へ行きやすく、交通でも最も重要な場所でした。秦氏などのように渡来系氏族が長岡京に住んでいて、天皇の家族と深い繋がりを持っていました。桓武天皇は高野新笠も渡来系氏族と繋がっており、情報共有からこの場所を選びました。なお、784年は甲子でした。甲子は現代で使われておらず、馴染みもないので、ここで説明します。甲子は丙午と同じく60年に一度巡る干支の始まりの年です。甲子は古代の中でも特に大黒天の縁年でした。朔旦冬至は月の始まりと冬至と重なり、とても珍しく縁起の良い日でした。 藤原種継が中心になって長岡京の造営工事を進めました。工事を早く終わらせるために、難波宮・平城宮・平城京の建物と材料をそのまま長岡京でも使いました。発掘調査でも難波宮・平城宮の瓦が長岡宮跡で見つかっています。 ヤマト政権の時代から、都は大和盆地に置かれていました。当時の難波は陪都として使われていました。難波津を管理するため、役所の摂津職も置かれていました。しかし、難波宮は長岡京の造営工事から784年に取り壊されました。難波宮の建築資材も長岡京の造営工事に使われ、難波は副都としての役割を失いました。摂津職も793年に廃止されました。政治上の重要地域に副都のような都市を置く例が中国の周・漢・唐などで見られました。このような中国王朝の都市制度から難波が陪都として置かれました。 785年、藤原種継が長岡京の造営工事中に暗殺されました(藤原種継暗殺事件)。旧豪族の人々[大伴氏・佐伯氏など]が藤原種継暗殺事件の犯人として死刑になりました。早良親王も藤原種継暗殺事件への関わりを疑われ、皇太子の地位を失いました。その後、早良親王は乙訓寺に閉じこめられ、淡路国へ送られました。しかし早良親王は無罪と訴えて食事をとらなくなり、淡路国へ向かう途中で亡くなりました。 また、高野新笠[桓武天皇の母]・皇后・夫人などのように桓武天皇の側近が相次いで亡くなりました。新皇太子の安殿親王も病気になりました。長岡京は洪水などの水害も起こりました。さらに長岡京の造営工事にも問題があり、国内政治もずっと混乱しました。このような出来事は早良親王怨霊からの祟りだと占いで信じられるようになりました。 桓武天皇は早良親王に死後の天皇名として崇道天皇を贈りました。そして、何度も早良親王の怨霊を静めて、成仏させました。可哀そうな故人の怨霊は世の中を荒らしやすく、この怨霊を怖がるようになりました。この考えから、御霊信仰へと広がりました。863年、早良親王らの霊を神泉苑の御霊会で慰めました。903年、菅原道真が大宰府で亡くなりました。その後、雷が内裏に落ちたり、藤原時平の一族も相次いで亡くなったりしました。公民・民衆はこれらを道真の祟りだと考えました。その後、道真は神として慰められるようになり、天神信仰にもつながりました。 桓武天皇は早良親王の怨霊を怖がっていました。また水害も長岡京で頻繁に起こり、長岡京の政治問題と造営問題に繋がりました。そのため、桓武天皇は再び都の移転方針を決めました。和気清麻呂がこの移転方針に関わりました。794年、和気清麻呂の意見を取り入れて平安京が山背国葛野郡宇太に造られ、都も長岡京から平安京へ移りました。 == 資料出所 == * 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年 * 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年 * 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年 * 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年 * 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年 * 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年 * 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本) [[カテゴリ:高等学校日本史探究]] [[カテゴリ:平安時代]] 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