Wikibooks
jawikibooks
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
MediaWiki 1.47.0-wmf.24
first-letter
メディア
特別
トーク
利用者
利用者・トーク
Wikibooks
Wikibooks・トーク
ファイル
ファイル・トーク
MediaWiki
MediaWiki・トーク
テンプレート
テンプレート・トーク
ヘルプ
ヘルプ・トーク
カテゴリ
カテゴリ・トーク
Transwiki
Transwiki‐ノート
TimedText
TimedText talk
モジュール
モジュール・トーク
Event
Event talk
情報技術
0
1482
304734
301569
2026-10-15T15:18:52Z
Nermer314
62933
304734
wikitext
text/x-wiki
{{Pathnav|メインページ|frame=1|small=1}}
[[w:情報技術|情報技術]]に関する文書・資料・教科書が収められた書庫。
== 高等学校(高校) ==
=== 高等学校情報 ===
[[高等学校情報]]の教科書。[[高等学校工業|工業]]、[[高等学校商業|商業]]の教科書も参照のこと。
* [[高等学校情報I]] 2単位
* [[高等学校情報II]] 2単位
=== 高等学校工業 ===
* [[高等学校工業/ソフトウェア技術]]
== コンピュータ基礎 ==
* [[コンピュータ技術概要]]
* [[Windows入門]]
* [[MacOS入門]]
* [[UNIX/Linux入門]]
== ハードウェア ==
* [[Linuxハードウェア]]
== ソフトウェア ==
* [[ITスキルとアプリケーション]]
* [[CAD/CAM入門]]
* [[画像映像・音楽入門]]
=== 一般的なソフトウェア ===
各種ソフトの使い方。
* [[Adobe]]
* [[Blender]]
* [[iMovie]]
* [[LibreOffice]]
* [[Microsoft Office]]
* [[OpenOffice.org]]
=== ウェブアプリケーション ===
* [[Google ドキュメント エディタ]]
=== オープンソースソフトウェア ===
==== クライアントアプリケーション ====
* [[Audacity]]
* [[Emacs]]
* [[FreeCAD]]
* [[GIMP]]
* [[gnuplot]] ([[:en:gnuplot|en]])
* [[Freenet|Hyphanet]]
* [[Inkscape]]
* [[I2P]]
* [[Krita]]
* [[LibreOffice]]
* [[Linuxシステム管理]]
* [[OpenOffice.org]]
* [[OsiriX オンライン解説文書]]
* [[TeX/LaTeX入門]]
* [[Ubuntu]] ([[:en:Ubuntu|en]])
* [[UNIX/Linux入門]]
* [[vi]]
* [[VirtualBox]]
==== サーバーアプリケーション ====
* [[Apache HTTP Server]](Webサーバ)
* [[BIND]](DNSサーバ)
* [[Squid]] (Proxy)
* [[OpenVPN]] (VPN)
* [[MySQL]]
* [[PostgreSQL]] (DBMS)
* メール転送エージェント
** [[Dovecot]]
** [[Postfix]]
** [[qmail]]
** [[Sendmail]]
=== OS(オペレーティングシステム) ===
各種OSについて。
* [[Windows入門]]
** [[MS-DOS/PC DOS入門]]
* [[MacOS入門]]
* [[UNIX/Linux入門]]
**[[Debian GNU/Linux]]
**[[Linux Mint]]
**[[RHEL]]
**[[Ubuntu]] ([[:en:Ubuntu|en]])
* [[Chrome OS入門]]
OS一般
* [[オペレーティングシステム]]
===プログラミング===
* [[プログラミング]]
=== ドメイン特化言語 ===
* マークアップ言語
** [[HTML]] {{進捗|75%|2014-02-09}}
** [[CSS]]
** [[SVG]]
=== 数式処理システム ===
* [[Mizar]]
* [[GNU Octave]]
* [[Maxima]]
== ネットワークとインターネット ==
ネットワークの仕組みとインターネットの使い方。
* [[LANとインターネット]]
* [[TCP/IP入門]]
* [[情報セキュリティ入門]] ([[:en:Basic Computer Security|en]])
* [[LDAP入門]]
* [[NTP入門]]
* [[オンライン・プライバシー・ガイド]]
== 各種検定 ==
=== 情報処理技術者試験 ===
[[情報処理技術者試験]]の種類と内容。
* [[情報処理技術者試験の概要]]
==== 現行の制度 ====
* [[ITパスポート試験]]
* [[情報セキュリティマネジメント試験]]
* [[基本情報技術者試験]]
* [[応用情報技術者試験]]
* ITストラテジスト試験
* システムアーキテクト試験
* プロジェクトマネージャ試験
* ネットワークスペシャリスト試験
* データベーススペシャリスト試験
* エンベデットシステムスペシャリスト試験
* [[情報処理安全確保支援士試験]]([[情報セキュリティスペシャリスト試験]]も参照)
* ITサービスマネージャ試験
* システム監査技術者試験
=== ETEC ===
* [[JASA組込みソフトウェア技術者試験クラス2]]
=== LPI認定試験 ===
* [[LPIC(level1)]]
=== 情報検定 ===
*[[情報活用試験]]
*[[情報システム試験]]
*[[情報デザイン試験]]
=== サーティファイ ===
*[[情報処理技術者能力認定試験]]
== 情報科学 ==
* [[符号理論]]
* [[AIの仕組み]]
== カテゴリツリー ==
{{#カテゴリツリー:情報技術}}
== その他 ==
* [[音声合成]]
* [[拡張子ハンドブック]]
* [[情報処理用語]]
* [[物理学のための計算機とオープンソース]]
* [[ウェブユニバーサルデザイン]]
* [[各種ウェブサイト・アプリの使用法]]
== 脚注 ==
<references/>
[[Category:情報技術|*]]
[[Category:書庫|しようほうきしゆつ]]
{{NDC|007|しようほうきしゆつ}}
tiqwg0l33tptlzs25t9o7gebic036lp
行政事件訴訟法第37条の5
0
10987
304759
304213
2026-10-16T02:16:16Z
~2026-52604-44
92673
304759
wikitext
text/x-wiki
[[法学]]>[[行政法]]>[[行政救済法]]>[[行政事件訴訟法]]>[[コンメンタール行政事件訴訟法]]
==条文==
(仮の義務付け及び仮の差止め)
;第37条の5
# 義務付けの訴えの提起があつた場合において、その義務付けの訴えに係る処分又は裁決がされないことにより生ずる償うことのできない損害を避けるため緊急の必要があり、かつ、本案について理由があるとみえるときは、裁判所は、申立てにより、決定をもつて、仮に行政庁がその処分又は裁決をすべき旨を命ずること(以下この条において「仮の義務付け」という。)ができる。
# 差止めの訴えの提起があつた場合において、その差止めの訴えに係る処分又は裁決がされることにより生ずる償うことのできない損害を避けるため緊急の必要があり、かつ、本案について理由があるとみえるときは、裁判所は、申立てにより、決定をもつて、仮に行政庁がその処分又は裁決をしてはならない旨を命ずること(以下この条において「仮の差止め」という。)ができる。
# 仮の義務付け又は仮の差止めは、公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるときは、することができない。
# [[行政事件訴訟法第25条|第25条]]第5項から第8項まで、[[行政事件訴訟法第26条|第26条]]から[[行政事件訴訟法第28条|第28条]]まで【[[行政事件訴訟法第26条|第26条]]、[[行政事件訴訟法第27条|第27条]]、[[行政事件訴訟法第28条|第28条]]】及び[[行政事件訴訟法第33条|第33条]]第1項の規定は、仮の義務付け又は仮の差止めに関する事項について準用する。
# 前項において準用する[[行政事件訴訟法第25条|第25条]]第7項の即時抗告についての裁判又は前項において準用する[[行政事件訴訟法第26条|第26条]]第1項の決定により仮の義務付けの決定が取り消されたときは、当該行政庁は、当該仮の義務付けの決定に基づいてした処分又は裁決を取り消さなければならない。
==解説==
[[行政事件訴訟法第25条|第25条(執行停止)]]第5項から第8項の規定の準用
# (準用せず)
# (準用せず)
# (準用せず)
# (準用せず)
# 第1項及び第2項の決定は、疎明に基づいてする。
# 第1項及び第2項の決定は、口頭弁論を経ないですることができる。ただし、あらかじめ、当事者の意見をきかなければならない。
# 第1項及び第2項の申立てに対する決定に対しては、[[即時抗告]]をすることができる。
# 第1項及び第2項の決定に対する即時抗告は、その決定の執行を停止する効力を有しない。
[[行政事件訴訟法第26条|第26条(事情変更による執行停止の取消し)]]の規定の準用
# 仮の義務付け又は仮の差止めの決定が確定した後に、その理由が消滅し、その他事情が変更したときは、裁判所は、相手方の申立てにより、決定をもつて、仮の義務付け又は仮の差止めの決定を取り消すことができる。
# 前項の申立てに対する決定及びこれに対する不服については、[[行政事件訴訟法第25条|前条]]第5項から第8項までの規定を準用する。
[[行政事件訴訟法第27条|第27条(内閣総理大臣の異議)]]の規定の準用
# [[行政事件訴訟法第25条|第25条]]第2項の申立てがあつた場合には、内閣総理大臣は、裁判所に対し、異議を述べることができる。仮の義務付け又は仮の差止めの決定があつた後においても、同様とする。
# 前項の異議には、理由を附さなければならない。
# 前項の異議の理由においては、内閣総理大臣は、処分の効力を存続し、処分を執行し、又は手続を続行しなければ、公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれのある事情を示すものとする。
# 第1項の異議があつたときは、裁判所は、仮の義務付け又は仮の差止めをすることができず、また、すでに仮の義務付け又は仮の差止めの決定をしているときは、これを取り消さなければならない。
# 第1項後段の異議は、仮の義務付け又は仮の差止めの決定をした裁判所に対して述べなければならない。ただし、その決定に対する抗告が抗告裁判所に係属しているときは、抗告裁判所に対して述べなければならない。
# 内閣総理大臣は、やむをえない場合でなければ、第1項の異議を述べてはならず、また、異議を述べたときは、次の常会において国会にこれを報告しなければならない。
[[行政事件訴訟法第28条|第28条(執行停止等の管轄裁判所)]]の規定の準用
: 仮の義務付け若しくは仮の差止め又はその決定の取消しの申立ての管轄裁判所は、本案の係属する裁判所とする。
[[行政事件訴訟法第33条|第33条(取消判決等の効力)]]第1項の規定の準用
: 仮の義務付け又は仮の差止めの決定は、その事件について、処分又は裁決をした行政庁その他の関係行政庁を拘束する。
==参照条文==
==判例==
*'''東京地方裁判所令和8年(行ク)第232号同9月7日決定<ref>LEX/DB文献番号25640532</ref>'''
**いわゆる「障害年金認定調書シュレッダー破棄問題」を背景とする行政訴訟(障害基礎年金有期認定処分取消等及び国家賠償請求事件・東京地方裁判所令和8年(行ウ)第89号)を本案として、本案事件の判決確定まで、障害基礎年金の次回診断書の提出を不要とする旨の処分を求めた事案。
***'''(判示事項)'''
****①仮に有期認定処分以降に申立人(本案原告)の精神症状が悪化したとしても、それが本件有期認定によるものであることを認めるに足りる疎明はなく、上記の症状悪化と永久固定の認定がされないこととの間の因果関係を認めることはできない。
****②仮に、申立人に診断書の取得及び提出が困難な事情が存在するとしても、次回診断書提出年月は令和9年11月であり、提出期限までは1年以上の期間があることに照らすと、申立人の主張する損害を避けるために直ちに永久固定の認定を行わなければならない切迫した必要性があるとは認められない。そうすると、現時点において、障害基礎年金の支払停止による損害を避けるために永久固定の認定を行う緊急の必要があると認めることはできない。
****①②によれば、申立人の前記主張はいずれも採用することはできず、永久固定の認定の仮の義務付けにつき、「償うことのできない損害を避けるため緊急の必要」があるということはできない。よって、本件申立ては、その余の点について判断するまでもなく、理由がないからこれを却下する。
----
{{前後
|[[コンメンタール行政事件訴訟法|行政事件訴訟法]]
|[[コンメンタール行政事件訴訟法#2|第2章 抗告訴訟]]<br>
[[コンメンタール行政事件訴訟法#2-2|第2節 無効等確認の訴えの原告適格]]
|[[行政事件訴訟法第37条の4|第37条の4]]<br>(差止めの訴えの要件)
|[[行政事件訴訟法第38条|第38条]]<br>(取消訴訟に関する規定の準用)
}}
{{stub|law}}
[[category:行政事件訴訟法|37の5]]
6t16qjhuyhppfw4qu2wynv9m82f3x49
弁理士法第57条
0
22522
304763
304732
2026-10-16T09:38:59Z
Kyube
57
誤解を与えないような表現に変更
304763
wikitext
text/x-wiki
==条文==
(会則)
;第57条
#弁理士会は、会則を定め、これに次に掲げる事項を記載しなければならない。
##名称及び事務所の所在地
##入会及び退会に関する規定
##会員の種別及びその権利義務に関する規定
##役員に関する規定
##会議に関する規定
##支部に関する規定
##弁理士の登録に関する規定
##登録審査会に関する規定
##会員の品位保持に関する規定
##会員の研修に関する規定
##実務修習に関する規定
##会員の業務に関する紛議の調停に関する規定
##弁理士会及び会員に関する情報の提供に関する規定
##会費に関する規定
##会計及び資産に関する規定
##事務局に関する規定
##その他弁理士会の目的を達成するために必要な規定
#会則の制定又は変更(政令で定める重要な事項に係る変更に限る。)は、経済産業大臣の認可を受けなければ、その効力を生じない。
==解説==
日本弁理士会が会則を定める必要があること及び日本弁理士会の会則において定めるべき規定の内訳を定め、並びに、同会則の制定及び重要な事項についての変更は経済産業大臣の認可が必要である旨定める。本条の規定に従い、日本弁理士会は会則を定めている。
本条第2項にいう重要な事項は、本条第1項第3号から第5号まで及び第7号から第11号までに掲げる事項(同項第10号に掲げる事項にあっては、[[弁理士法第31条の2|第31条の2]]に規定する研修(いわゆる継続研修)に関する事項に限る。)である(弁理士法施行令第5条)。
==参照条文==
==判例==
==外部リンク==
* [https://www.jpaa.or.jp/cms/wp-content/uploads/2025/04/constitution_20250422.pdf 日本弁理士会会則] (pdf)
----
{{前後
|[[コンメンタール弁理士法|弁理士法]]
|[[コンメンタール弁理士法#7|第7章 日本弁理士会]]
|[[弁理士法第56条]]<br>(設立、目的及び法人格)
|[[弁理士法第58条]]<br>(支部)
}}
{{stub|law}}
[[category:弁理士法|57]]
q9tj35j3qc7d1gfj267uapn8512rbqh
ジョーク集/エスニックジョーク
0
34208
304733
304670
2026-10-15T13:18:03Z
~2026-55347-34
92800
/* 来る時間 */
304733
wikitext
text/x-wiki
{{wikipedia|エスニックジョーク}}
エスニックジョーク(民族や国民性や国家を題材としたジョーク)は、ある民族の典型的な特徴を誇張することで笑いを誘うものです。
この項では、エスニックジョークを紹介します。
ブラックジョークもあるので注意!
== 前提 ==
{{wikipedia|ステレオタイプ#人種・国籍・肌の色など}}
よくジョークに登場する民族とその特徴は、しばしば次のように表現されることが多いです。なお、重複する特徴もしばしばあります。言語の違いによるジョークも多いです。国民性・民族性に由来する偏見(いわゆる「[[w:ステレオタイプ|ステレオタイプ]]」)を笑うものですが、現在では公の場での取り扱いは注意を要します。
*アメリカ人:大雑把、陽気、贅沢、ヒーローへのあこがれが強い、訴訟をよくおこす、地理の知識がない、銃社会、ケンカ好き、傲慢、独善的。
*イギリス人:皮肉屋、紅茶好き、紳士の国、合理的、料理が不味い、堅苦しい、賭博好き。
*フランス人:ひねくれ者、キザ、恋愛重視、感覚的、自己中心的。
*イタリア人:女好き、怠け者、陽気、グルメ、情熱的。
*ドイツ人:生真面目、合理的、技術大国、頑固、個人主義。
*ロシア人:酒好き(特にウォッカ)、旧ソ連の影響のあるものは秘密主義などの厳しい政治。
*日本人:真面目、技術大国、集団主義、働きすぎ、家が狭い、勤勉、金持ち、英語が下手。
*中国人:食へのこだわり・グルメ、ケチ、強引、法を守らない。
*韓国人:酒好き、日本へのライバル意識、他責思考、韓国起源説の主張。
*ユダヤ人:狡猾、金儲けがうまい。米国においては、基本的に富裕層。
*アイルランド人:酒豪、ケチ。米国においては、遅れて入植したヨーロッパ系移民であって、多くは貧困層を形成するものとされた。
*ロマ(いわゆる「ジプシー」):高価なものや財布を見つけたらすぐ盗りに行く。ケチ。
*ポルトガル人:時間にルーズ。うるさい。ロマンチック。味覚が鈍感。
== 沈没船 ==
世界各国の人が乗った船が沈没しかかっています。そこで、船長は各国の乗客を海に飛び込ませようとします。
* アメリカ人に対して「飛び込めばヒーローになれますよ」
* ロシア人に対して「海にウォッカのビンが流れていますよ」
* イタリア人に対して「飛び込めば女性に愛されますよ」または「美女が飛び込みました」
* フランス人に対して「絶対に飛び込まないでください」
* イギリス人に対して「海に飛び込めばあなたは紳士です」
* ドイツ人に対して「海に飛び込むのはルールです」
* インド人に対して「牛が溺れていますよ」
* 中国人に対して「おいしい魚が泳いでいますよ」
* 日本人に対して「みなさん飛び込んでいます」
* 韓国人に対して「日本人はもう飛び込みました」
* 北朝鮮人に対して「今が脱北のチャンスです」又は「[[ja:w:金正恩|偉大なる第一書記様]]の命令です」
* 台湾人に対して「中国が飛び込めば侵略を諦めると言っていましたよ」
== 酒場にて ==
頼んだ酒にハエが入っているのを見て、
* フランス人は怒って帰った。
* イギリス人はウエイターに取り替えさせた。2杯分の代金を払った。
* ドイツ人はハエを除いて飲んだ。
* ロシア人はそのまま飲んだ。
* アメリカ人はウエイターに取り替えさせた。1杯分の料金を払った。
* 日本人はアメリカ人と同じ。
* 中国人はハエを食べた。
* 韓国人はこれは日本のせいだ!と言って帰っていった。
* 台湾人は中国に腐肉を投げつけてあっち行けと言って帰った。
または
* アメリカ人はビールを飲んでから不衛生だと裁判所に店を訴えた。
* イギリス人はビールを飲まず、皮肉を言って交換させた。
* ドイツ人は「アルコールで消毒されている」と思い、ハエを取り除いて飲んだ。
* フランス人は激怒して散々悪態をついて、もう一杯せしめた。
* ロシア人はすでに酔っぱらっていたのでハエに気付かずに飲んだ。
* ユダヤ人は「こら、これは俺のビールだ! 飲んだ分を返せ!」とハエを小突いた。
* 日本人は自分のジョッキにだけハエが入っているのを確認してからウエイターを呼んだ。
== 諜報機関 ==
([[w:アネクドート#秘密警察]]より)
国連がソ連のKGBとフランスのGIGNとアメリカのCIAは誰が一番犯人を捕まえるのがうまいか証明しようとしていた。国連の事務総長は彼らをテストすることにした。彼は森に1匹のウサギを放つと、それを捕まえてくるよう各々に指示した。
CIAは、動物の情報提供者を森中に配置した。さらに、植物や鉱物の目撃者に尋ねて回った。そうして3ヶ月に渡る徹底的な調査が終了した後、彼らはウサギは存在しないという結論を下した。
GIGNは2週間捜索し、成果が得られないとみると森に火をつけウサギもろともみんな殺してしまった。彼らは謝りもせず、ウサギに責任があると言った。
KGBは2時間ほど森に入っていたかと思うと、ひどく痛めつけられたクマを連れてきた。クマはうめいて言った「へぇへぇ、俺がウサギでございやす、ウサギで」。
== 無人島 ==
無人島に男2人、女1人が流された。そのときどうなるか。
*アメリカ人:男Aと女は結婚するが、すぐに離婚。男Bがその際の弁護士役を務める。
*ドイツ人:男Aと女は結婚し、男Bがその証人として書類を作成する。
*フランス人:男Aと女は結婚し、女は男Bと浮気する。
*イタリア人:3人で楽しむ。
*日本人:男2人はそれぞれ、女をどうすればいいかについて東京の本社にお伺いを立てる。
== 料理 ==
フランス人が言った
「日本は豊かだと思っていたがそうではないようだ。腐った大豆(もしくは海藻)を食べているなんて」
日本人が言った
「フランスは豊かだと思っていたがそうではないようだ。かたつむりを食べているなんて」
フランス人と日本人が言った
「イギリスは豊かだと思っていたがそうではないようだ。イギリス料理を食べているなんて」
== 銃 ==
アメリカで家族全員が銃殺される事件が起きた。それが報道された時アメリカ人は口を揃えて言った。
「もっと銃規制が軽ければ家族は銃で自分の身を守れたであろう!」
== 酒 ==
いつも一緒に酒を飲んでいるロシア人とイギリス人とドイツ人がいた。
ある日、ドイツ人が言った「俺の寿命はもう一年もないらしい。俺が死んだら、毎年俺の命日にウォッカを墓にかけてくれないか?」
それを聞いたイギリス人は「毎年欠かさずにかけてやるさ」と言った。
ロシア人も言った「俺もかけてやるよ。ただし一回腎臓を通してからでいいかな?」
== 新聞 ==
ある新聞が『アイルランド人はケチである』という内容の記事を書いたところ、アイルランド人の団体から抗議の手紙が届いた。その手紙にはこう書いてあった。
「貴紙の書いたアイルランド人はケチであるという話は事実無根でありこのような記事を書き続ける場合は我々アイルランド人は対抗措置として貴紙を他人から借りて読むのをやめることとする」
== 必要なものは ==
国際的な会議でコロナ禍の今、なにが必要かについて話し合われた。
*アメリカ人は勇気、
*ドイツ人はルール、
*フランス人は愛、
*日本人は技術、
*ロシア人はウォッカと答えた。
周りはロシア人に聞いた。 どうしてウォッカなのかと。
ロシア人は答えた。
「ウイルスは抑制できないが、不安を抑制することはできる。」
== 来る時間 ==
*開始一時間前に来たのがドイツ人と日本人とユダヤ人、
*開始30分前に来るのがイギリス人、
*開始時間ちょうどに来るのがアメリカ人、
*10分後に来るのがフランス人、
*15分後に来るのがイタリア人、
*30分〜1時間後に来るのがスペイン人。
*いつ来るのか分からないのがポルトガル人。
*中国人は、不法滞在している、もしくは入国禁止措置を取られているため来れない。
== 天国と地獄 ==
天国とは、
*コックは中国人(またはフランス人)
*政治家がイギリス人
*エンジニアが日本人(またはドイツ人)
*銀行員がドイツ人(またはスイス人)
*恋人がイタリア人
*警察官がイギリス人
地獄とは、
*コックがイギリス人
*政治家が日本人
*エンジニアが中国人
*銀行員がイタリア人
*恋人がドイツ人(またはスイス人)
*警察官がドイツ人(または中国人)
または
天国とは
*日本人の妻を持ち、
*アメリカ人の給料をもらい、
*中国人のコックを雇い、
*イギリス人の邸宅に住むこと
地獄とは
*アメリカ人の妻を持ち、
*中国人の給料をもらい、
*イギリス人のコックを雇い、
*日本人の家に住むこと
※ 中国が経済成長をする前のバージョン。
== 幸福 ==
幸福を買うかと神は各国の人々に言った。
*フランス人はワインとチーズがあるので買いませんと言った。
*イタリア人はパスタとサッカーさえあればいいので買いませんと言った。
*日本人は幸福を買い、領収書をもらった。
== たくさんあるもの ==
列車にアメリカ人とキューバ人とロシア人と弁護士と中国人(インド人)と付き添いの中国人(インド人)と日本人が座っていた。
キューバ人は葉巻を吸い終えると「ハバナの葉巻は最高級品だ。だがわが国には捨てるほどある。」と言って残った葉巻を窓の外に投げ捨てた。
ロシア人はウオッカを飲み終えると「ロシアのウオッカは最高だ。だがわが国には捨てるほどある。」と言って残った瓶を窓の外に放り投げた。
日本人はカメラで写真を撮ると「日本の機械は最高だ。だがわが国には捨てるほどある。」と言って写真を取り出して捨てた。
それを聞いたアメリカ人は、弁護士を窓から投げ捨てた。
それも見た中国人(インド人)は隣の中国人(インド人)を投げ捨てた。
韓国人はその話を聞いて「それらのルーツはすべて韓国だ」と言った。
== アジア関連 ==
=== 二次会 ===
結婚式の後、日本人と中国人と韓国人が二次会に行くことにした。
* 日本人「みんなが行くなら私も行きます」
* 中国人「おごってくれるなら私も行きます」
* 韓国人(黙って二人を二次会の飲み屋に連れていく)
=== 国際会議 ===
*国際会議において一番難しいのはインド人を黙らせ、日本人を喋らせることである。
=== 日本誕生 ===
*神様が日本列島を作りながら言った「この島々は日本と名付けよう。そしてこの国には美しい自然と素晴らしい文化と技術を与えよう。」助手がそれを聞いて言った「それではあまりにも日本が恵まれすぎています」神様は言った「安心しろ。多くの地震プレートや隣に朝鮮と中国、ロシアを作っておいた」
=== お会計 ===
*アジア人はどちらが全額支払うかで揉める。
=== 少子高齢化 ===
日本の少子高齢化について国会で話し合われた。
それからしばらく経って日本人の代表者がその問題について会見を行った。
その日本人は高らかに宣言した。
「私が最後の日本人だ」
=== 不良品 ===
*各国の工場に不良品は1000個に一個の精度でお願いします、とお願いすると
ロシアの工場では納期の延長を頼んだ。
中国の工場は不良品が10個あった。
日本の工場では999個作り終えると、「不良品用の設計図が届いていないのですが」と連絡しに来た。
=== 信用ならない言葉 ===
アジア人の信用ならない言葉3選
*日本人の「できません」
*韓国人の「できます」
*中国人の「できました」
=== 38度 ===
韓国の医学校で、生徒が先生に質問した。「先生、人は38度を超えるとどうなりますか?」「射殺されます」
=== 診察 ===
風邪をひいた日本人がアメリカのクリニックを訪れた。「How are you?」「I'm fine thank you, and you?」
=== アンケート ===
100人の日本人を対象にアンケートが実施された。「日本人は優柔不断な民族だと思いますか?」
*はい:13人
*いいえ:8人
*どちらとも言えない:79人
=== 輸血 ===
韓国の大統領が会談のために訪朝したが、道中で不慮の事故に遭い、意識不明の重体に陥った。
手術のために大量の輸血が行われたが、この時北朝鮮の官僚は思った。「今、ヤツの身体には北朝鮮人の血がたくさん流れている。親北思想に生まれ変わるに違いない!そうなれば韓国はあっという間に我らの手中に…!」
何時間にも及ぶ手術が終わり、大統領が意識を取り戻すと、開口一番に叫んだ。「金正恩の馬鹿野郎!」
=== ジョークと日本人 ===
日本人は1つのジョークで3回笑う。ジョークを聞いた時、隣の人にジョークのオチを説明してもらった時、家に帰ってからジョークのオチを理解した時。
=== パン屋 ===
ロシアを観光中の日本人・中国人・韓国人・北朝鮮人が、パン屋に並ぶ長蛇の列に出くわした。
日本人「パンを買う人の大行列ができている。この店のパンは絶品に違いない」
中国人「パンを買う人の大行列ができている。ロシア人は律儀な民族に違いない」
韓国人「パンを買う人の大行列ができている。この店は苦情が殺到するに違いない」
北朝鮮人「並びさえすればパンが買えるのか。ロシアは民主主義国家に違いない」
=== 日本人の怒らせ方 ===
中国・韓国・ロシア・北朝鮮・アメリカが、日本人を怒らせたくなって、結託して意地悪をする事にした。
中国は尖閣諸島を奪い取った。韓国は竹島を奪い取った。ロシアは北方領土を奪い取った。北朝鮮は弾道ミサイルを何発も発射した。アメリカは核爆弾を2発もお見舞いした。それでも日本人は怒らなかった。
各国がお手上げ状態になったその時、日本のテレビであるニュースが報じられ、日本人は憤慨した。「回転寿司の卓上醤油のボトルを舌で舐める動画が拡散され…」
=== 中国文化を学ぶ方法 ===
唐王朝の文化を見たいなら日本に行け。
宋王朝の文化を見たいならベトナムに行け。
明王朝の文化を見たいなら韓国に行け。
元王朝の文化を見たいならモンゴルに行け。
中華民国の文化を見たいなら台湾へ行け。
== 面白いジョーク ==
BはAに対して「面白いジョークを言えたら1ドルやるよ」と言った。以下は続き。
'''アメリカ&イギリス'''
*A「あるアメリカ人紳士がいた…」
*B「君には負けたよ!絶対にありえないじゃないか!」
'''ロシア人'''
*A「ある酒が嫌いなロシア人がいた…」
*B「君には負けたよ!絶対にありえないじゃないか!」
'''ドイツ人'''
*A「あるユニークなドイツ人がいた…」
*B「君には負けたよ!絶対にありえないじゃないか!」
== 教皇 ==
中世ヨーロッパには教皇が2人存在していた。
ある者が提案した。「みんなが納得する新しい教皇が必要だ。」そして3人目を出した。
結果は他の2人が認めず一時的に3人になり、問題を増やしてしまうだけだった。
== 嘘発見器 ==
中国共産党の習近平総書記と日本の岸田首相とアメリカのトランプ(ブッシュ)大統領が、ウソ発見器にかけられることになった。ウソをつくと「ビー」とブザーが鳴る装置である。
はじめに習近平総書記が装置に座って言った。
「私はいつも考えています。中国だけでなく世界中が豊かになればいいと」
「ビー、ビー、ビー」
次に岸田首相が装置に座って言った。
「私はいつも考えています。日本と北朝鮮が良き友人になればいいと」
「ビー、ビー、ビー」
最後にトランプ(ブッシュ)大統領が装置に座って言った。
「私はいつも考えています」
「ビー、ビー、ビー」
== 拉致 ==
ブッシュ大統領がテロリストに拉致された。「500万ドル用意しろ!さもなくばブッシュを生かして返すぞ」
== 拉致その2 ==
通勤中に渋滞に巻き込まれてしまった。すると前方から警察が歩いてきて窓をノックした。
「この先でブッシュ大統領がテロリストに拉致されてしまったんです。犯人は身代金を出さなければブッシュにガソリンを蒔いて火をつけるぞと言っています。いくらか寄付をお願いします」
「なるほど。いくら寄付すればいい?」
「1リットルもあれば十分です」
== 各国のベストセラー ==
アメリカでは新約聖書、
イスラエルでは旧約聖書、
ロシアでは偉人『スターリン』、
中国では毛沢東語録、
韓国では韓国の栄光、
日本では漫画
つまりどこの国でもフィクションが人気である
== 製品開発 ==
ドイツ人が発明し、
アメリカ人が製品化し、
イギリス人(ユダヤ人)が投資し、
フランス人がデザインし、
イタリア人が宣伝し、
日本人が小型化(高性能化)し、
中国が海賊版をつくり、
韓国が起源を主張する
== 懐に入れる ==
ある酒場に日本人・アメリカ人・ブラジル人の政治家が集まって話をしていた。
日本「あそこに橋が見えるでしょう?」
アメリカ「立派な橋ですね」
日本「実はここだけの話、建設費の10%を懐に入れましてね」
一同、ニヤニヤ
アメリカ「あそこにビルが見えるでしょう?」
ブラジル「高いビルですね」
アメリカ「私は30%を懐に入れましたよ」
一同、爆笑
ブラジル「あそこにダムが見えるでしょう?」
日本・アメリカ「いいえ?」
ブラジル「100%懐に入れました」
== 不法滞在 ==
オーストラリアの首相が言った
「我が国への不法滞在は絶対に許さない!」
アボリジニ「えっ!いつ帰ってくれるの?」
==オリンピック==
オリンピックのマークを見てアメリカ人はこう言った。
「O、O、O、O、Oってなんだ?」
== 時間厳守! ==
日本人「アメリカ人は時間にルーズだ。会議の開始時刻になっても全員集まらない」
アメリカ人「日本人は時間にルーズだ。終了時刻になってもまだ会議が終わらない」
== お静かに ==
日本のオフィスで静かにしなければならないのは、みんな仕事に集中しているから。
イタリアのオフィスで静かにしなければならないのは、みんな寝ているから。
== 図書館にて ==
「『平和国家・アメリカ』という本はありますか?」「ありますよ。ファンタジーノベルの棚をご覧ください」
== 持ち込み禁止 ==
2人のアメリカ人がカフェを訪れ、それぞれのカバンからサンドイッチを取り出し食べ始めた。
店員が注意を促した。「お客様、持参物の飲食はご遠慮願います」
2人は目を見合わせると、互いのサンドイッチを交換した。
== 理想の人間 ==
最も望ましい人間とは…
*ロシア人のように酒を慎み
*イギリス人のように料理が上手く(または「賭け事を慎み」)
*フランス人のように協調性があり
*イタリア人のように紳士的で(または「よく働き」)
*アメリカ人のように清貧で(または「寛容で」)
*ユダヤ人のように太っ腹で
*中国人のように法を守り
*インド人のように時間を守り
*日本人のように個性的で
*韓国人のように責任感があり
*ドイツ人のようにユーモラスな者である。
== 交通事故 ==
車を運転中、飛び出してきた歩行者に接触してしまった。ケガをした歩行者が運転手にかけた言葉とは?
アメリカ人「私から言う事は何もない。あとは弁護士と話してくれ」
ドイツ人「貴方が加入している保険会社の損害賠償額と免責事項を教えて下さい」
フランス人「なにボサッとしてんだ!こっちにだって飛び出す権利がある筈だ!」
イタリア人「あなたに娘さんはいますか?」
イギリス人「ちくしょう、今日は誰とも話さないって賭けをしてたのに!」
日本人「私にも落ち度があります。示談にしますか?保険を使いますか?」
韓国人「絶対に許さない!孫の代まで謝罪と賠償を要求する」
中国人は不法滞在しているので無言で立ち去る。
== 100万で買えるもの ==
日本人「100万もらったぞ!中古車くらいなら買えるかな。」
アメリカ人「は?100万あったら庭付きの家位は買えるだろ。」
韓国人「お前らのところ物価低すぎるだろ、100万あったら買えるのはせいぜいスマホくらいだろ」
日本人は100万円のことを言っており、アメリカ人は100万ドルのことを言っており、韓国人は100万ウォンのことを言っている。
==アリとキリギリス==
アリは夏の間にせっせと働き、冬を耐えるための食べ物を蓄えた。
キリギリスはその間バイオリンを弾いていた。
さて、冬になったらどうする?
フランス人「愛し合って冬を凌ぐ」
ドイツ人「キリギリスがアリの家でバイオリンを弾き、演奏料金としてアリから食べ物をもらう」
日本人「アリが過労により死に、キリギリスがそれらを食べて冬を耐えた」
==優秀な将軍==
フランス人とドイツ人とロシア人が、歴史上で最も優秀な将軍が誰か話し合っている。
そこで彼らはこう言った。
フランス人「ナポレオンこそ優秀な将軍だ」
ドイツ人「ヒトラーほど素晴らしい指導者はいない」
ロシア人「冬”将軍”だ」
== 道に落ちているりんご ==
ノルウェー人は拾って食べる
アイスランド人はりんごを拾い、綺麗に拭いてあげる
スウェーデン人は気づかないふりをする
フィンランド人は気づかない
デンマーク人はりんごをスウェーデン人に売りつける
日本人はどうするか悩む
中国人はけとばす
== ジャパングリッシュ ==
ある日本人がイタリア人とイギリス人に言った。
日本人「イタリアとイギリスって首都名の頭文字一緒ですよね!”ロ”ンドン、”ロ”ーマ、一緒なんて面白いですね!」
イタリア人「確かに日本語ではそうだけど…」
イギリス人「英語表記では違いますね」
日本人「えっそうなんですか!…あっ!でも国名の頭文字は一緒ですね!!”イ”タリア、”イ”ギリスですもんね!」
イタリア人「えっ、あぁ…」
イギリス人「”日本語表記では”確かに一緒ですね。」
イタリア人・イギリス人『…まさか日本人はRとLを間違えるとは聞いたことがあるけど…IとEも見分けられないのか…』
== バルカン ==
日本人「バルカン半島はどこですか?」
スロベニア人「スロベニアは完全にバルカンじゃなくて中央ヨーロッパだよ。クロアチアからがバルカンです。」
クロアチア人「クロアチアは、文化的にも宗教的にも中央ヨーロッパだよ。バルカンなんかと一緒にしないでほしい。」
セルビア人「セルビアもバルカンじゃないよ。ボスニア・ヘルツェゴヴィナにはボシュニャク人がいるからバルカンかもね。」
ボスニア人「ボスニア・ヘルツェゴヴィナもバルカンじゃないよ。ギリシャは突き出ているからバルカンかな?」
ギリシャ人「ギリシャがバルカンなわけないじゃん。」
== 青いキリン ==
ある大富豪は言った。「青いキリンを一番早く連れてきた者に総資産を渡そう」と。
* イギリス人は複数人集まって議論し、青いキリンは居ないという結論についた。
* ドイツ人は図書館などで調べた。
* アメリカ人は世界中を調べまわった。
* 日本人は品種改良の末に青いキリンを作り出せた。
* 中国人は青いペンキを買いに行った。
== ロボコップ ==
日本人のエンジニアが、犯罪者を探して捕縛するロボットを作り上げた。早速日本で稼働させてみたところ、ロボットは1時間で10人のスリ師を捕まえてみせた。
ロボットをアメリカに輸出し稼働させてみたところ、1時間で100人の窃盗犯を捕まえた。
ロボットを中国に輸出し稼働させてみたところ、総書記を捕まえようとしたため、粉々になった。
ロボットをメキシコに輸出してみたところ、このロボットそのものが盗まれた。
qm7l9nmmjiga4o4qisg5wl0kpf6dwfh
利用者:Kwawe
2
34770
304756
304608
2026-10-15T23:41:11Z
Kwawe
68789
/* 高校生に向けてメッセージ */
304756
wikitext
text/x-wiki
※2022年6月にwikibooksに登録しております。
== Wikibooksの記述では ==
# 中学生高校生向けの新規執筆・改定執筆のWikibooksは敬体で記述しています。新課程の自然科学ほぼ全般(物理・生物・地学・理数探究基礎)、社会科学(公民)、人文科学全般、保健体育・家庭科を記述しています。
# 本文記述は、冗長表現をなくしています。詳しくは、国語表現の「[[高等学校国語表現/わかりやすい文を書く|わかりやすい文を書く]]」を参照してください。
# 大人向け法律学(刑法など)のWikibooksは、常体で記述しています。
# 大人向け経済原論(ミクロ経済学など)のWikibooksは、敬体で記述しています。
== 教科書 ==
Wikibooksの教科書目録の作成などを新課程版に更新しています。
当方、高等学校の旧課程教科書は数学・自然科学(物理・化学・生物・地学)・商業の一部・福祉の一部・公民・国語表現・人文科学(地理・歴史)の教科書を持参しています。
2023年からの新課程用は公共、歴史総合・日本史探究・世界史探究、家庭総合、理数探究基礎、生物全5冊、政治経済、数学[第一、数研の最新シリーズ]の教科書を持参しています。
※基本、私の執筆するページは資料出所と出典を必ず掲載します。たとえそれが文部科学省の教科書だとしてもです。
== wikibooks執筆担当科目 ==
主に、高校生の教科書を中心に執筆していますが、中学生の実技教科、一般向けの経済原論も執筆しています。
執筆に時間がかかる科目「物理」「生物」「地歴の探究科目」「公共」は、更新頻度が減ります。
* [[高等学校理科 物理基礎|高等学校 物理基礎]] [全般]
* [[高等学校 物理|高等学校物理]] [全般]
* [[高等学校 生物基礎]] [全般]
* [[高等学校 生物]] [全般]
* [[高等学校 地学基礎]] [全般]
* [[高等学校 地学]] [全般]
* [[高等学校 理数探究基礎]] [全般]
* [[高等学校国語表現]] [全般]
* [[高等学校地理探究]] [全般]
* [[高等学校公共]] [全般]
* [[高等学校倫理]] [全般]
* [[ミクロ経済学]] [全般]
* [[高等学校世界史探究]] [全般]
* [[高等学校歴史総合]] [全般](過去執筆の全てを見直し・本文大修正)
* [[高等学校家庭総合]] [全般]
* [[中学校音楽]] [全般]
* [[中学校家庭]] [全般](衣生活と食生活は完成時期不明。)
* [[中学校保健体育]] [全般]
* [[高等学校保健体育]] [座学編・実技編両方全般]
* [[高等学校日本史探究]] [全般]
今後、順次執筆科目は増加予定です。
また、時期は未定ですが、看護とかも執筆していきたいと思います。(2023年2月04日追記)
== 高校生に向けてメッセージ ==
私達は日本人ですから、日本語の文章でまず意味を理解しないと文字式や数式・公式も当然理解出来ません。そして、日本語の語彙を覚えないと当然国語の読解問題の記述問題も解けません。以上、私、当時元文系の高校生から見た視点です(大学卒業後、現在社会人)。あくまで、文字式や数式はイメージ的には図形と似たような感じで、これらをイラスト化にしているに過ぎません。
[現在執筆中の内容]
★日本史探究
* 新たな世紀の日本へⅡ(事後処理)
* 新たな世紀の日本へⅣ(新規執筆)
★地学
* [[高等学校 地学/生命の進化|生命の進化]](新規執筆)
★生物
* [[高等学校 生物/個体群とその変動|個体群とその変動]]
★高等学校公共
* [[高等学校公共/国会の役割と仕組みⅡ|国会の役割と仕組みⅡ]](新規執筆)
== 過去執筆の事後処理予定[見直し、本文大幅修正] ==
★歴史総合
★生物・生物基礎
★地学・地学基礎
★保健体育
★家庭科
== 2026年執筆予定の内容 ==
日本史探究:古代・近現代(一部)
科学と人間生活:化学分野の一部
== 2027年執筆予定の内容 ==
公共:統治編全て(国会・内閣・裁判所・地方自治)と社会保障制度
生物基礎・生物:全部
地学基礎・地学:全部
== リンク集 ==
* https://jawikibooks.wikiscan.org/users
q25tmzr5pjde42cpx1rjxjs05k7rmoa
高等学校日本史探究
0
36598
304745
304722
2026-10-15T22:37:00Z
Kwawe
68789
/* 第4章 古代の国家・社会の変容 */
304745
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>高等学校日本史探究
高等学校日本史探究のページです。{{進捗状況}} 本ページの目次と項目の配列は、実教出版株式会社の新課程教科書「[https://www.jikkyo.co.jp/book/detail/23010423 日本史探究]」(日探702・日探007-901)に合わせて作成しています。文章の配列も原則上記教科書会社さんに従いました。学習指導要領に定められた日本史探究の標準単位数は'''3単位です。'''
※本ページは大学の二次試験まで対応させるため、日本史探究の完成時期は未定です。当面の間は日本史Bを参照して下さい。
== 第1部 原始・古代の日本と東アジア ==
INTRODUCTION
=== 第1章 日本文化のあけぼの ===
# [[高等学校日本史探究/日本列島最古の文化Ⅰ|日本列島最古の文化Ⅰ]]{{進捗|100%|2024-09-21}}(人類の誕生と日本列島への居住)
# [[高等学校日本史探究/日本列島最古の文化Ⅱ|日本列島最古の文化Ⅱ]]{{進捗|100%|2024-10-01}}(日本の旧石器時代)
# [[高等学校日本史探究/縄文時代の社会と文化|縄文時代の社会と文化]]{{進捗|100%|2026-09-27}}(縄文文化の成立~縄文社会と縄文人)
# 弥生時代の社会と文化Ⅰ{{進捗|00%|2023-11-11}}
# 弥生時代の社会と文化Ⅱ{{進捗|00%|2023-11-11}}
=== 第2章 ヤマト政権の成立と古墳文化 ===
# 小国の分立と邪馬台国{{進捗|00%|2023-11-11}}
# 古墳の出現とヤマト政権の成立{{進捗|00%|2023-11-11}}
# ヤマト政権の展開と統治の進展{{進捗|00%|2023-11-11}}
# 古墳時代の生活と文化{{進捗|00%|2023-11-11}}
=== 第3章 律令国家の形成 ===
# [[高等学校日本史探究/古代国家の形成Ⅰ|古代国家の形成Ⅰ]]{{進捗|100%|2024-11-18}}(6世紀の朝鮮半島と倭~7世紀の東アジアと倭国)
# [[高等学校日本史探究/古代国家の形成Ⅱ|古代国家の形成Ⅱ]]{{進捗|100%|2025-02-01}}(大化の改新~東北遠征と白村江の戦い)
# [[高等学校日本史探究/古代国家の形成Ⅲ|古代国家の形成Ⅲ]]{{進捗|100%|2025-02-11}}(近江朝廷と壬申の乱~天武・持統期の政治改革)
# [[高等学校日本史探究/飛鳥文化・白鳳文化|飛鳥文化・白鳳文化]]{{進捗|100%|2024-11-06}}
# [[高等学校日本史探究/律令制度|律令制度]]{{進捗|100%|2025-06-03}}(大宝律令の官制~土地・人民の支配制度)
# [[高等学校日本史探究/奈良時代の政治Ⅰ|奈良時代の政治Ⅰ]]{{進捗|100%|2025-07-21}}(遣唐使派遣と平城京遷都)
# [[高等学校日本史探究/奈良時代の政治Ⅱ|奈良時代の政治Ⅱ]]{{進捗|100%|2025-11-22}}(奈良時代初期の政策~度重なる遷都と鎮護国家の仏教)
# [[高等学校日本史探究/奈良時代の政治Ⅲ|奈良時代の政治Ⅲ]]{{進捗|100%|2025-12-21}}(公地公民制の修正~奈良時代後半の政争)
# 天平文化
STEP UP 1 [[高等学校日本史探究/奈良時代の人々の暮らし|奈良時代の人々の暮らし]]{{進捗|100%|2026-04-09}}(奈良時代の貴族生活~生活文化の発展と庶民の苦難)
=== 第4章 古代の国家・社会の変容 ===
# [[高等学校日本史探究/律令体制再編期の政治と社会Ⅰ|律令体制再編期の政治と社会Ⅰ]]{{進捗|100%|2026-10-11}}(平安京遷都と東北経営)
# [[高等学校日本史探究/律令体制再編期の政治と社会Ⅱ|律令体制再編期の政治と社会Ⅱ]]{{進捗|75%|2026-10-16}}(律令政治の再編成~法・儀式の整備と教育)
# 律令体制再編期の政治と社会Ⅲ{{進捗|00%|2026-09-5}}(密教の隆盛~弘仁・貞観文化)
# 摂関政治の成立と支配体制の転換
# 国風文化
== 第2部 中世の日本と世界 ==
INTRODUCTION
=== 第1章 荘園公領制の成立と院政 ===
※荘園公領制の成立と院政は2027年4月に記述します。
* 荘園公領制の成立と院政Ⅰ
* 荘園公領制の成立と院政Ⅱ
* 荘園公領制の成立と院政Ⅲ
* 荘園公領制の成立と院政Ⅳ
=== 第2章 中世の国家・社会の展開 ===
# 鎌倉幕府の成立と朝廷
# 中世に生きる人々
# 蒙古襲来と幕府の衰退
# 鎌倉文化
=== 第3章 中世の国家・社会の変容 ===
# 南北朝の動乱
# 室町幕府の政治と外交
# 室町社会の展開と応仁の乱
# 室町文化
# [[高等学校日本史探究/戦国大名の分国経営Ⅰ|戦国大名の分国経営Ⅰ]]{{進捗|100%|2025-02-15}}(戦国時代の特質~戦国の争乱)
# 戦国大名の分国経営Ⅱ{{進捗|00%|2023-00-00}}(分国経営)
# 戦国大名の分国経営Ⅲ{{進捗|00%|2025-02-15}}(都市の発達と町衆~経済の混乱)
STEP UP 2 東アジアのなかのアイヌ文化・琉球文化
STEP UP 3 女性と仏教
== 第3部 近世の日本と世界 ==
INTRODUCTION
=== 第1章 東アジア世界の変容と天下統一 ===
# 織豊政権
# 天下統一の完成
# 近世成立期の文化
歴史資料と近世の展望
=== 第2章 幕藩体制の成立と展開 ===
# 幕藩体制の成立
# 貿易の統制と対外関係
# 近世社会のしくみ
# 幕府政治の展開
# 経済の発展
# 元禄文化と学芸の発展
STEP UP 4 近世の遊郭
=== 第3章 近世の国家・社会の変容 ===
# 幕藩体制の動揺と幕政の改革
# 欧米列強の接近と天保の改革
# 近世文化の成熟と変容
STEP UP 5 百姓一揆と義民物語
== 第4部 近現代の地域・日本と世界 ==
INTRODUCTION(近代)
=== 第1章 開国から倒幕へ ===
歴史資料と近代の展望
=== 第2章 明治維新 ===
# 明治維新
# 文明開化
=== 第3章 近代国家の形成 ===
# 立憲国家への道
# 議会政治の展開と日清・日露戦争
# 産業革命と社会の変化
# 近代文化の形成と展開
STEP UP 6 日露戦争のアジアへの影響
=== 第4章 両大戦間の日本 ===
# 第一次世界大戦
# 政党政治の展開
# 市民文化の展開
STEP UP 7 近代日本の「食」と米
=== 第5章 十五年戦争と日本 ===
# 満洲事変
# 日中戦争
# アジア・太平洋戦争(太平洋戦争)
INTRODUCTION(現代)
=== 第6章 戦後日本の形成 ===
# 占領と民主改革
# 独立と日米安保体制の形成
# 高度経済成長下の日本
STEP UP 8 エネルギー革命
=== 第7章 グローバル化のなかの現代日本 ===
# 「国際化」する経済大国Ⅰ{{進捗|00%|2023-00-00}}(ドル=ショックと石油危機~安定成長への転換まで)
# 「国際化」する経済大国Ⅱ{{進捗|00%|2023-00-00}}(経済大国への道と国際化の時代)
# 「国際化」する経済大国Ⅲ{{進捗|00%|2023-00-00}}(貿易摩擦とバブル経済~「豊かさ」と社会・生活の変容まで)
# [[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅠ|新たな世紀の日本へⅠ]]{{進捗|100%|2026-04-10}}(冷戦の終結とグローバル化~湾岸戦争と平和維持活動まで)
# [[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]{{進捗|25%|2026-09-24}}(政界再編と55年体制の終結~行政改革と日米安保の変化まで)
# [[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅢ|新たな世紀の日本へⅢ]]{{進捗|100%|2026-09-23}}(「構造改革」と対テロ戦争~憲法改正論と政権交代まで)
# [[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅣ|新たな世紀の日本へⅣ]]{{進捗|25%|2026-09-24}}(新しい世界を目指して~平成時代・令和時代の文化史・科学史まで)
【STEP UP 9】[[高等学校日本史探究/多文化共生|多文化共生]]{{進捗|100%|2024-09-24}}
現代の日本の課題の探究
== 読書案内・学習方法 ==
* [[高等学校日本史探究/資料出所・読書案内|資料出所・読書案内]]
* [[学習方法/高校日本史|高校日本史学習方法]]{{進捗|100%|2026-04-29}}(新試験対応)
[[カテゴリ:高等学校日本史|探]]
cc93dqvaxjvmt2vvggmfmmmecxnleh8
304764
304745
2026-10-16T11:00:41Z
Kwawe
68789
/* 第4章 古代の国家・社会の変容 */
304764
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>高等学校日本史探究
高等学校日本史探究のページです。{{進捗状況}} 本ページの目次と項目の配列は、実教出版株式会社の新課程教科書「[https://www.jikkyo.co.jp/book/detail/23010423 日本史探究]」(日探702・日探007-901)に合わせて作成しています。文章の配列も原則上記教科書会社さんに従いました。学習指導要領に定められた日本史探究の標準単位数は'''3単位です。'''
※本ページは大学の二次試験まで対応させるため、日本史探究の完成時期は未定です。当面の間は日本史Bを参照して下さい。
== 第1部 原始・古代の日本と東アジア ==
INTRODUCTION
=== 第1章 日本文化のあけぼの ===
# [[高等学校日本史探究/日本列島最古の文化Ⅰ|日本列島最古の文化Ⅰ]]{{進捗|100%|2024-09-21}}(人類の誕生と日本列島への居住)
# [[高等学校日本史探究/日本列島最古の文化Ⅱ|日本列島最古の文化Ⅱ]]{{進捗|100%|2024-10-01}}(日本の旧石器時代)
# [[高等学校日本史探究/縄文時代の社会と文化|縄文時代の社会と文化]]{{進捗|100%|2026-09-27}}(縄文文化の成立~縄文社会と縄文人)
# 弥生時代の社会と文化Ⅰ{{進捗|00%|2023-11-11}}
# 弥生時代の社会と文化Ⅱ{{進捗|00%|2023-11-11}}
=== 第2章 ヤマト政権の成立と古墳文化 ===
# 小国の分立と邪馬台国{{進捗|00%|2023-11-11}}
# 古墳の出現とヤマト政権の成立{{進捗|00%|2023-11-11}}
# ヤマト政権の展開と統治の進展{{進捗|00%|2023-11-11}}
# 古墳時代の生活と文化{{進捗|00%|2023-11-11}}
=== 第3章 律令国家の形成 ===
# [[高等学校日本史探究/古代国家の形成Ⅰ|古代国家の形成Ⅰ]]{{進捗|100%|2024-11-18}}(6世紀の朝鮮半島と倭~7世紀の東アジアと倭国)
# [[高等学校日本史探究/古代国家の形成Ⅱ|古代国家の形成Ⅱ]]{{進捗|100%|2025-02-01}}(大化の改新~東北遠征と白村江の戦い)
# [[高等学校日本史探究/古代国家の形成Ⅲ|古代国家の形成Ⅲ]]{{進捗|100%|2025-02-11}}(近江朝廷と壬申の乱~天武・持統期の政治改革)
# [[高等学校日本史探究/飛鳥文化・白鳳文化|飛鳥文化・白鳳文化]]{{進捗|100%|2024-11-06}}
# [[高等学校日本史探究/律令制度|律令制度]]{{進捗|100%|2025-06-03}}(大宝律令の官制~土地・人民の支配制度)
# [[高等学校日本史探究/奈良時代の政治Ⅰ|奈良時代の政治Ⅰ]]{{進捗|100%|2025-07-21}}(遣唐使派遣と平城京遷都)
# [[高等学校日本史探究/奈良時代の政治Ⅱ|奈良時代の政治Ⅱ]]{{進捗|100%|2025-11-22}}(奈良時代初期の政策~度重なる遷都と鎮護国家の仏教)
# [[高等学校日本史探究/奈良時代の政治Ⅲ|奈良時代の政治Ⅲ]]{{進捗|100%|2025-12-21}}(公地公民制の修正~奈良時代後半の政争)
# 天平文化
STEP UP 1 [[高等学校日本史探究/奈良時代の人々の暮らし|奈良時代の人々の暮らし]]{{進捗|100%|2026-04-09}}(奈良時代の貴族生活~生活文化の発展と庶民の苦難)
=== 第4章 古代の国家・社会の変容 ===
# [[高等学校日本史探究/律令体制再編期の政治と社会Ⅰ|律令体制再編期の政治と社会Ⅰ]]{{進捗|100%|2026-10-11}}(平安京遷都と東北経営)
# [[高等学校日本史探究/律令体制再編期の政治と社会Ⅱ|律令体制再編期の政治と社会Ⅱ]]{{進捗|100%|2026-10-16}}(律令政治の再編成~法・儀式の整備と教育)
# 律令体制再編期の政治と社会Ⅲ{{進捗|00%|2026-09-5}}(密教の隆盛~弘仁・貞観文化)
# 摂関政治の成立と支配体制の転換
# 国風文化
== 第2部 中世の日本と世界 ==
INTRODUCTION
=== 第1章 荘園公領制の成立と院政 ===
※荘園公領制の成立と院政は2027年4月に記述します。
* 荘園公領制の成立と院政Ⅰ
* 荘園公領制の成立と院政Ⅱ
* 荘園公領制の成立と院政Ⅲ
* 荘園公領制の成立と院政Ⅳ
=== 第2章 中世の国家・社会の展開 ===
# 鎌倉幕府の成立と朝廷
# 中世に生きる人々
# 蒙古襲来と幕府の衰退
# 鎌倉文化
=== 第3章 中世の国家・社会の変容 ===
# 南北朝の動乱
# 室町幕府の政治と外交
# 室町社会の展開と応仁の乱
# 室町文化
# [[高等学校日本史探究/戦国大名の分国経営Ⅰ|戦国大名の分国経営Ⅰ]]{{進捗|100%|2025-02-15}}(戦国時代の特質~戦国の争乱)
# 戦国大名の分国経営Ⅱ{{進捗|00%|2023-00-00}}(分国経営)
# 戦国大名の分国経営Ⅲ{{進捗|00%|2025-02-15}}(都市の発達と町衆~経済の混乱)
STEP UP 2 東アジアのなかのアイヌ文化・琉球文化
STEP UP 3 女性と仏教
== 第3部 近世の日本と世界 ==
INTRODUCTION
=== 第1章 東アジア世界の変容と天下統一 ===
# 織豊政権
# 天下統一の完成
# 近世成立期の文化
歴史資料と近世の展望
=== 第2章 幕藩体制の成立と展開 ===
# 幕藩体制の成立
# 貿易の統制と対外関係
# 近世社会のしくみ
# 幕府政治の展開
# 経済の発展
# 元禄文化と学芸の発展
STEP UP 4 近世の遊郭
=== 第3章 近世の国家・社会の変容 ===
# 幕藩体制の動揺と幕政の改革
# 欧米列強の接近と天保の改革
# 近世文化の成熟と変容
STEP UP 5 百姓一揆と義民物語
== 第4部 近現代の地域・日本と世界 ==
INTRODUCTION(近代)
=== 第1章 開国から倒幕へ ===
歴史資料と近代の展望
=== 第2章 明治維新 ===
# 明治維新
# 文明開化
=== 第3章 近代国家の形成 ===
# 立憲国家への道
# 議会政治の展開と日清・日露戦争
# 産業革命と社会の変化
# 近代文化の形成と展開
STEP UP 6 日露戦争のアジアへの影響
=== 第4章 両大戦間の日本 ===
# 第一次世界大戦
# 政党政治の展開
# 市民文化の展開
STEP UP 7 近代日本の「食」と米
=== 第5章 十五年戦争と日本 ===
# 満洲事変
# 日中戦争
# アジア・太平洋戦争(太平洋戦争)
INTRODUCTION(現代)
=== 第6章 戦後日本の形成 ===
# 占領と民主改革
# 独立と日米安保体制の形成
# 高度経済成長下の日本
STEP UP 8 エネルギー革命
=== 第7章 グローバル化のなかの現代日本 ===
# 「国際化」する経済大国Ⅰ{{進捗|00%|2023-00-00}}(ドル=ショックと石油危機~安定成長への転換まで)
# 「国際化」する経済大国Ⅱ{{進捗|00%|2023-00-00}}(経済大国への道と国際化の時代)
# 「国際化」する経済大国Ⅲ{{進捗|00%|2023-00-00}}(貿易摩擦とバブル経済~「豊かさ」と社会・生活の変容まで)
# [[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅠ|新たな世紀の日本へⅠ]]{{進捗|100%|2026-04-10}}(冷戦の終結とグローバル化~湾岸戦争と平和維持活動まで)
# [[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]{{進捗|25%|2026-09-24}}(政界再編と55年体制の終結~行政改革と日米安保の変化まで)
# [[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅢ|新たな世紀の日本へⅢ]]{{進捗|100%|2026-09-23}}(「構造改革」と対テロ戦争~憲法改正論と政権交代まで)
# [[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅣ|新たな世紀の日本へⅣ]]{{進捗|25%|2026-09-24}}(新しい世界を目指して~平成時代・令和時代の文化史・科学史まで)
【STEP UP 9】[[高等学校日本史探究/多文化共生|多文化共生]]{{進捗|100%|2024-09-24}}
現代の日本の課題の探究
== 読書案内・学習方法 ==
* [[高等学校日本史探究/資料出所・読書案内|資料出所・読書案内]]
* [[学習方法/高校日本史|高校日本史学習方法]]{{進捗|100%|2026-04-29}}(新試験対応)
[[カテゴリ:高等学校日本史|探]]
9osjm5ubahjj5yeuc4lj8vgrqu86fct
日本国憲法第19条
0
37594
304736
295989
2026-10-15T18:32:54Z
Tomzo
248
304736
wikitext
text/x-wiki
[[法学]]>[[憲法]]>[[日本国憲法]]>[[コンメンタール日本国憲法]]
==条文==
【思想・良心の自由】
;第19条
:思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
==解説==
{{wikipedia|日本国憲法第19条}}
'''[[思想・良心の自由]]'''も参照。
==参照条文==
==判例==
#[https://www.courts.go.jp/hanrei/57207/detail2/index.html 雇傭契約解除無効確認俸給支払請求](最高裁判決 昭和27年02月22日)[[日本国憲法第20条]],[[日本国憲法第21条]]
#;政治活動をしないことを条件とする雇傭契約と基本的人権の制限
#:憲法で保障されたいわゆる基本的人権も絶対のものではなく、自己の自由意思に基く特別な公法関係または私法関係上の義務によつて制限を受けるものであつて、自己の自由意思により、校内において政治活動をしないことを条件として教員として学校に雇われた場合には、その契約は無効ではない。
# [https://www.courts.go.jp/hanrei/57386/detail2/index.html 謝罪広告請求](最高裁判決 昭和31年7月4日)[[民法第723条]], 民訴法733条(現[[民事執行法第171条]])
##'''謝罪広告を命ずる判決と強制執行'''
##:新聞紙に謝罪広告を掲載することを命ずる判決は、その広告の内容が単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明する程度のものにあつては、民訴第733条により'''代替執行をなし得る'''。
##'''謝罪広告を強制する判決は憲法第19条に反しないか'''
##:謝罪広告を強制する判決は憲法第19条に反しない。
##::原判決の是認した被上告人の本訴請求は、上告人が判示日時に判示放送、又は新聞紙において公表した客観的事実につき上告人名義を以て被上告人に宛て「右放送及記事は真相に相違しており、貴下の名誉を傷け御迷惑をおかけいたしました。ここに陳謝の意を表します」なる内容のもので、結局<u>上告人をして右公表事実が虚偽且つ不当であつたことを広報機関を通じて発表すべきことを求めるに帰する</u>。されば少くともこの種の謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる原判決は、<u>上告人に屈辱的若くは苦役的労苦を科し、又は上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられない</u>。.
# [https://www.courts.go.jp/hanrei/51931/detail2/index.html 労働契約関係存在確認請求]([[w:三菱樹脂事件|三菱樹脂事件]] 最高裁判決 昭和48年12月12日) [[日本国憲法第14条|憲法第14条]],[[民法第1条]],[[民法第90条]],[[労働基準法第3条]],労働基準法第2章
#:→[[日本国憲法第98条#判例:憲法の私人間効力|憲法の私人間効力]]
#[https://www.courts.go.jp/hanrei/53255/detail2/index.html 在留期間更新不許可処分取消]([[w:マクリーン事件|マクリーン事件]] 最高裁判決 昭和53年10月4日)
#:→[[日本国憲法第10条#マクリーン事件|憲法第10条判例節参照]]
#[https://www.courts.go.jp/hanrei/55864/detail2/index.html 選挙権被選挙権停止処分無効確認等]([[w:南九州税理士会事件|南九州税理士会事件]] 最高裁判決 平成8年3月19日)[[日本国憲法第19条|憲法第19条]]
##'''政党など政治資金規正法上の政治団体に金員を寄付することと税理士会の目的の範囲'''
##:税理士会が政党など政治資金規正法上の政治団体に金員を寄付することは、税理士会の目的の範囲外の行為である。
##'''政党など政治資金規正法上の政治団体に金員を寄付するために特別会費を徴収する旨の税理士会の総会決議の効力'''
##:政党など政治資金規正法上の政治団体に金員の寄付をするために会員から特別会費を徴収する旨の税理士会の総会決議は無効である。
##:*税理士会は、法人として、法及び会則所定の方式による多数決原理により決定された団体の意思に基づいて活動し、その構成員である会員は、これに従い協力する義務を負い、その一つとして会則に従って税理士会の経済的基礎を成す会費を納入する義務を負う。しかし、<u>法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。</u>したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。
#[https://www.courts.go.jp/hanrei/81409/detail2/index.html 戒告処分取消等,裁決取消請求事件](最高裁判決平成23年6月14日)[[日本国憲法第15条]]第2項
#;公立中学校の校長が教諭に対し卒業式又は入学式において国旗掲揚の下で国歌斉唱の際に起立して斉唱することを命じた職務命令が憲法19条に違反しないとされた事例
#:公立中学校の校長が教諭に対し卒業式又は入学式において国旗掲揚の下で国歌斉唱の際に起立して斉唱することを命じた職務命令は,次の1.〜3.など判示の事情の下では,当該教諭の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するということはできない。
#:#上記の起立斉唱行為は,学校の儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり,我が国において「日の丸」や「君が代」が戦前の軍国主義や国家体制等との関係で果たした役割に関わる当該教諭の歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものではなく,上記職務命令は,直ちにその歴史観ないし世界観それ自体を否定するものとはいえない。
#:#上記の起立斉唱行為は,学校の儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作として外部からも認識されるものであって,特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり,上記職務命令は,当該教諭に特定の思想を持つことを強制したり,これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものともいえない。
#:#上記の起立斉唱行為は,国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であり,上記1.の歴史観ないし世界観を有する者がこれを求められることはその歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行動を求められることとなる面があるところ,他方,上記職務命令は,中学校教育の目標や卒業式等の儀式的行事の意義,在り方等を定めた関係法令等の諸規定の趣旨に沿って,地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性を踏まえ,生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図るものである。
#:(補足意見及び反対意見がある。)
----
{{前後
|[[コンメンタール日本国憲法|日本国憲法]]
|[[コンメンタール日本国憲法#3|第3章 国民の権利及び義務]]
|[[日本国憲法第18条]]<br>【奴隷的拘束・苦役からの自由】
|[[日本国憲法第20条]]<br>【信教の自由・政教分離】
}}
{{stub|law}}
[[category:日本国憲法|19]]
t977016tmoi94ga2ve4tpmui6pnl8t7
304737
304736
2026-10-15T18:33:31Z
Tomzo
248
/* 判例 */
304737
wikitext
text/x-wiki
[[法学]]>[[憲法]]>[[日本国憲法]]>[[コンメンタール日本国憲法]]
==条文==
【思想・良心の自由】
;第19条
:思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
==解説==
{{wikipedia|日本国憲法第19条}}
'''[[思想・良心の自由]]'''も参照。
==参照条文==
==判例==
#[https://www.courts.go.jp/hanrei/57207/detail2/index.html 雇傭契約解除無効確認俸給支払請求](最高裁判決 昭和27年02月22日)[[日本国憲法第20条]],[[日本国憲法第21条]]
#;政治活動をしないことを条件とする雇傭契約と基本的人権の制限
#:憲法で保障されたいわゆる基本的人権も絶対のものではなく、自己の自由意思に基く特別な公法関係または私法関係上の義務によつて制限を受けるものであつて、自己の自由意思により、校内において政治活動をしないことを条件として教員として学校に雇われた場合には、その契約は無効ではない。
# [https://www.courts.go.jp/hanrei/57386/detail2/index.html 謝罪広告請求](最高裁判決 昭和31年7月4日)[[民法第723条]], 民訴法733条(現[[民事執行法第171条]])
##'''謝罪広告を命ずる判決と強制執行'''
##:新聞紙に謝罪広告を掲載することを命ずる判決は、その広告の内容が単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明する程度のものにあつては、民訴第733条により'''代替執行をなし得る'''。
##'''謝罪広告を強制する判決は憲法第19条に反しないか'''
##:謝罪広告を強制する判決は憲法第19条に反しない。
##::原判決の是認した被上告人の本訴請求は、上告人が判示日時に判示放送、又は新聞紙において公表した客観的事実につき上告人名義を以て被上告人に宛て「右放送及記事は真相に相違しており、貴下の名誉を傷け御迷惑をおかけいたしました。ここに陳謝の意を表します」なる内容のもので、結局<u>上告人をして右公表事実が虚偽且つ不当であつたことを広報機関を通じて発表すべきことを求めるに帰する</u>。されば少くともこの種の謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる原判決は、<u>上告人に屈辱的若くは苦役的労苦を科し、又は上告人の有する倫理的な意思、良心の自由を侵害することを要求するものとは解せられない</u>。.
# [https://www.courts.go.jp/hanrei/51931/detail2/index.html 労働契約関係存在確認請求]([[w:三菱樹脂事件|三菱樹脂事件]] 最高裁判決 昭和48年12月12日) [[日本国憲法第14条|憲法第14条]],[[民法第1条]],[[民法第90条]],[[労働基準法第3条]],労働基準法第2章
#:→[[日本国憲法第98条#判例:憲法の私人間効力|憲法の私人間効力]]
#[https://www.courts.go.jp/hanrei/53255/detail2/index.html 在留期間更新不許可処分取消]([[w:マクリーン事件|マクリーン事件]] 最高裁判決 昭和53年10月4日)
#:→[[日本国憲法第10条#マクリーン事件|憲法第10条判例節参照]]
#[https://www.courts.go.jp/hanrei/55864/detail2/index.html 選挙権被選挙権停止処分無効確認等]([[w:南九州税理士会事件|南九州税理士会事件]] 最高裁判決 平成8年3月19日)[[日本国憲法第98条|憲法第98条]]
##'''政党など政治資金規正法上の政治団体に金員を寄付することと税理士会の目的の範囲'''
##:税理士会が政党など政治資金規正法上の政治団体に金員を寄付することは、税理士会の目的の範囲外の行為である。
##'''政党など政治資金規正法上の政治団体に金員を寄付するために特別会費を徴収する旨の税理士会の総会決議の効力'''
##:政党など政治資金規正法上の政治団体に金員の寄付をするために会員から特別会費を徴収する旨の税理士会の総会決議は無効である。
##:*税理士会は、法人として、法及び会則所定の方式による多数決原理により決定された団体の意思に基づいて活動し、その構成員である会員は、これに従い協力する義務を負い、その一つとして会則に従って税理士会の経済的基礎を成す会費を納入する義務を負う。しかし、<u>法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。</u>したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。
#[https://www.courts.go.jp/hanrei/81409/detail2/index.html 戒告処分取消等,裁決取消請求事件](最高裁判決平成23年6月14日)[[日本国憲法第15条]]第2項
#;公立中学校の校長が教諭に対し卒業式又は入学式において国旗掲揚の下で国歌斉唱の際に起立して斉唱することを命じた職務命令が憲法19条に違反しないとされた事例
#:公立中学校の校長が教諭に対し卒業式又は入学式において国旗掲揚の下で国歌斉唱の際に起立して斉唱することを命じた職務命令は,次の1.〜3.など判示の事情の下では,当該教諭の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するということはできない。
#:#上記の起立斉唱行為は,学校の儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり,我が国において「日の丸」や「君が代」が戦前の軍国主義や国家体制等との関係で果たした役割に関わる当該教諭の歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものではなく,上記職務命令は,直ちにその歴史観ないし世界観それ自体を否定するものとはいえない。
#:#上記の起立斉唱行為は,学校の儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作として外部からも認識されるものであって,特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり,上記職務命令は,当該教諭に特定の思想を持つことを強制したり,これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものともいえない。
#:#上記の起立斉唱行為は,国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であり,上記1.の歴史観ないし世界観を有する者がこれを求められることはその歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行動を求められることとなる面があるところ,他方,上記職務命令は,中学校教育の目標や卒業式等の儀式的行事の意義,在り方等を定めた関係法令等の諸規定の趣旨に沿って,地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性を踏まえ,生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図るものである。
#:(補足意見及び反対意見がある。)
----
{{前後
|[[コンメンタール日本国憲法|日本国憲法]]
|[[コンメンタール日本国憲法#3|第3章 国民の権利及び義務]]
|[[日本国憲法第18条]]<br>【奴隷的拘束・苦役からの自由】
|[[日本国憲法第20条]]<br>【信教の自由・政教分離】
}}
{{stub|law}}
[[category:日本国憲法|19]]
dfvbid3qg68or8602in77ubi1076pzt
日本国憲法第98条
0
37608
304735
296105
2026-10-15T18:32:49Z
Tomzo
248
/* 判例:憲法の私人間効力 */
304735
wikitext
text/x-wiki
[[法学]]>[[憲法]]>[[日本国憲法]]>[[コンメンタール日本国憲法]]
==条文==
【憲法の最高法規性、国際法規の遵守】
;第98条
#この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
#日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
==解説==
{{wikipedia}}
===憲法の私人間効力===
==参照条文==
==判例==
#[https://www.courts.go.jp/hanrei/55588/detail2/index.html 暴力行為等処罰に関する法第律違反・業務妨害、建造物侵入、窃盗](最高裁判決 昭和26年07月18日)
#;暴力行為を等処罰に関する法律第1条第1項の合憲性
#:[[暴力行為等処罰に関する法律第1条]]第1項の規定は、[[憲法第28条]],[[憲法第98条]]に違反しない。
#<span id="砂川事件"></span>[https://www.courts.go.jp/hanrei/55816/detail2/index.html 日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反]([[w:砂川事件|砂川事件]] 最高裁判決 昭和34年12月16日) - [[日本国憲法第9条#砂川事件|憲法第9条に係る判断は同法記事判例節]]、[[日本国憲法第73条#砂川事件|憲法第73条に係る判断は同法記事判例節]]参照
##'''日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(以下安保条約と略す。)と司法裁判所の司法審査権'''
##:安保条約の如き、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否の法的判断は、純司法的機能を使命とする'''司法裁判所の審査に原則としてなじまない'''性質のものであり、それが'''一見極めて明白に違憲無効であると認められない限り'''は、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする。
##:*主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有する条約については、その締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解する
##'''安保条約がいわゆる前提問題となつている場合と司法裁判所の司法審査権'''
##:安保条約(またはこれに基く政府の行為)が違憲であるか否かが、本件のように(行政協定に伴う刑事特別法第2条が違憲であるか)前提問題となつている場合においても、これに対する司法裁判所の審査権は前項と同様である。
##'''安保条約は一見明白に違憲と認められるか'''
##:安保条約(およびこれに基くアメリカ合衆国軍隊の駐留)は、憲法第9条、第98条第2項および前文の趣旨に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは認められない。
##:*駐留軍隊は外国軍隊であつて、わが国自体の戦力でないことはもちろん、これに対する指揮権、管理権は、すべてアメリカ合衆国に存し、わが国がその主体となつてあだかも自国の軍隊に対すると同様の指揮権、管理権を有するものではない。
##:*安全保障条約の前文に示された趣旨において駐留するものであり、同条約1条の示すように極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、ならびに一または二以上の外部の国による教唆または干渉によつて引き起されたわが国における大規模の内乱および騒じようを鎮圧するため、わが国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することとなつており、その目的は、専らわが国およびわが国を含めた極東の平和と安全を維持し、再び戦争の惨禍が起らないようにすることに存し、わが国がその駐留を許容したのは、わが国の防衛力の不足を、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して補なおうとしたものに外ならない。
##:*憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。
#<span id="百里"></span>[https://www.courts.go.jp/hanrei/52161/detail2/index.html 不動産所有権確認、所有権取得登記抹消請求本訴、同反訴、不動産所有権確認、停止条件付所有権移転仮登記抹消登記請求本訴、同反訴及び当事者参加]([[w:百里基地訴訟|百里基地訴訟]] 最高裁判決 平成元年6月20日)[[日本国憲法第9条]]
#;国が行う私法上の行為と憲法98条1項にいう「国務に関するその他の行為」
#:国が行う私法上の行為は、憲法98条1項にいう「国務に関するその他の行為」には当たらない。
#:*憲法98条1項は、憲法が国の最高法規であること、すなわち、憲法が成文法の国法形式として最も強い形式的効力を有し、憲法に違反するその余の法形式の全部又は一部はその違反する限度において法規範としての本来の効力を有しないことを定めた規定であるから、同条項にいう「国務に関するその他の行為」とは、同条項に列挙された法律、命令、詔勅と同一の性質を有する国の行為、言い換えれば、公権力を行使して法規範を定立する国の行為を意味し、したがつて、行政処分、裁判などの国の行為は、個別的・具体的ながらも公権力を行使して法規範を定立する国の行為であるから、かかる法規範を定立する限りにおいて国務に関する行為に該当するものというべきであるが、国の行為であつても、私人と対等の立場で行う国の行為は、右のような法規範の定立を伴わないから憲法98条1項にいう「国務に関するその他の行為」に該当しないものと解すべきである。
===判例:憲法の私人間効力===
# [https://www.courts.go.jp/hanrei/51931/detail2/index.html 労働契約関係存在確認請求]([[w:三菱樹脂事件|三菱樹脂事件]] 最高裁判決 昭和48年12月12日) [[日本国憲法第14条|憲法第14条]],[[日本国憲法第19条|憲法第19条]],[[民法第1条]],[[民法第90条]],[[労働基準法第3条]],労働基準法第2章
#;憲法14条、19条と私人相互間の関係
#:憲法14条や19条の規定は、直接私人相互間の関係に適用されるものではない。
#:*憲法の右各規定は、同法第3章のその他の自由権的基本権の保障規定と同じく、国または公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障する目的に出たもので、もつぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない。
#:*私人間の関係においても、相互の社会的力関係の相違から、一方が他方に優越し、事実上後者が前者の意思に服従せざるをえない場合があり、このような場合に私的自治の名の下に優位者の支配力を無制限に認めるときは、劣位者の自由や平等を著しく侵害または制限することとなるおそれがあることは否み難いが、そのためにこのような場合に限り憲法の基本権保障規定の適用ないしは類推適用を認めるべきであるとする見解もまた、採用することはできない。
#:*私的支配関係においては、個人の基本的な自由や平等に対する具体的な侵害またはそのおそれがあり、その態様、程度が社会的に許容しうる限度を超えるときは、これに対する立法措置によつてその是正を図ることが可能であるし、また、場合によつては、私的自治に対する一般的制限規定である民法1条、90条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によつて、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存するのである。そしてこの場合、個人の基本的な自由や平等を極めて重要な法益として尊重すべきことは当然であるが、これを絶対視することも許されず、統治行動の場合と同一の基準や観念によつてこれを律することができないことは、論をまたない。
#:*憲法は、思想、信条の自由や法の下の平等を保障すると同時に、他方、22条、29条等において、財産権の行使、営業その他広く経済活動の自由をも基本的人権として保障している。それゆえ、企業者は、かような経済活動の一環としてする契約締結の自由を有し、自己の営業のために労働者を雇傭するにあたり、いかなる者を雇い入れるか、いかなる条件でこれを雇うかについて、法律その他による特別の制限がない限り、原則として自由にこれを決定することができるのであつて、企業者が特定の思想、信条を有する者をそのゆえをもつて雇い入れることを拒んでも、それを当然に違法とすることはできない。
#[https://www.courts.go.jp/hanrei/55864/detail2/index.html 選挙権被選挙権停止処分無効確認等]([[w:南九州税理士会事件|南九州税理士会事件]] 最高裁判決 平成8年3月19日)[[日本国憲法第19条|憲法第19条]]
##'''政党など政治資金規正法上の政治団体に金員を寄付することと税理士会の目的の範囲'''
##:税理士会が政党など政治資金規正法上の政治団体に金員を寄付することは、税理士会の目的の範囲外の行為である。
##'''政党など政治資金規正法上の政治団体に金員を寄付するために特別会費を徴収する旨の税理士会の総会決議の効力'''
##:政党など政治資金規正法上の政治団体に金員の寄付をするために会員から特別会費を徴収する旨の税理士会の総会決議は無効である。
##:*税理士会は、法人として、法及び会則所定の方式による多数決原理により決定された団体の意思に基づいて活動し、その構成員である会員は、これに従い協力する義務を負い、その一つとして会則に従って税理士会の経済的基礎を成す会費を納入する義務を負う。しかし、<u>法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。</u>したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。
----
{{前後
|[[コンメンタール日本国憲法|日本国憲法]]
|[[コンメンタール日本国憲法#10|第10章 最高法規]]
|[[日本国憲法第97条]]<br>【基本的人権の本質】
|[[日本国憲法第99条]]<br>【憲法尊重擁護の義務】
}}
{{stub|law}}
[[category:日本国憲法|98]]
k8ur4f4v04pgdm83brp83jjmem48ihc
高等学校日本史探究/律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
0
48956
304738
304730
2026-10-15T21:16:38Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ 藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に弘仁格式をまとめた。
304738
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="nolines" widths="250" heights="250">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に弘仁格式をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
ll6j3nuc7euu4jk0jscvkxot4jlzpjh
304739
304738
2026-10-15T21:17:11Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ 701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられた。
304739
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="nolines" widths="250" heights="250">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に弘仁格式をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
t8d8ypvbrnynuft5wumoqa1eiequ84l
304740
304739
2026-10-15T21:17:36Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に貞観格式をまとめた。
304740
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="nolines" widths="250" heights="250">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に弘仁格式をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に貞観格式をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
er0lhmznucubb9s7pntdp89xppqcb96
304741
304740
2026-10-15T22:25:47Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ 醍醐天皇在位時に延喜格式をまとめた。
304741
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="nolines" widths="250" heights="250">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に弘仁格式をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に貞観格式をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に延喜格式をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、三代格式になります。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
spj2rgoyrgindtwftmtv0ulg227sdt9
304742
304741
2026-10-15T22:26:48Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ 三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っている。
304742
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="nolines" widths="250" heights="250">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に弘仁格式をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に貞観格式をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に延喜格式をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、三代格式になります。
三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、『類聚三代格』へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
7hzs8dgvjzz3tjepgedfbza4qi5y8w6
304743
304742
2026-10-15T22:27:25Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ 同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまう。
304743
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="nolines" widths="250" heights="250">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に弘仁格式をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に貞観格式をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に延喜格式をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、三代格式になります。
三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、『類聚三代格』へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書『令義解』作成を頼みました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
7wqjagq25agywfvs9siefyals0vlk4e
304744
304743
2026-10-15T22:28:02Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ 833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめた。
304744
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="nolines" widths="250" heights="250">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に弘仁格式をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に貞観格式をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に延喜格式をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、三代格式になります。
三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、『類聚三代格』へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書『令義解』作成を頼みました。
833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめ、仁明天皇の834年から実際に使いました。清原夏野のほか、小野篁なども編集に参加したかもしれません。こうして、朝廷の役人は『令義解』を読んで、養老令の条文を同じ意味で解釈出来るようになりました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
bgcawgs44zoimhwth9btdjocmoq9ezy
304746
304744
2026-10-15T22:42:13Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ 重要用語を色太字化と黒太字化。
304746
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="nolines" widths="250" heights="250">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''弘仁格式'''</span>をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''貞観格式'''</span>をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''延喜格式'''</span>をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、<span style="color:#f29100">'''三代格式'''</span>になります。
三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、'''『類聚三代格』'''へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書<span style="color:#f29100">'''『令義解』'''</span>作成を頼みました。
833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめ、仁明天皇の834年から実際に使いました。清原夏野のほか、小野篁なども編集に参加したかもしれません。こうして、朝廷の役人は『令義解』を読んで、養老令の条文を同じ意味で解釈出来るようになりました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
tgtdsx0gor2wt4mgsbf66uobxbd1pom
304747
304746
2026-10-15T22:44:02Z
Kwawe
68789
/* 律令政治の再編成 */
304747
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''弘仁格式'''</span>をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''貞観格式'''</span>をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''延喜格式'''</span>をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、<span style="color:#f29100">'''三代格式'''</span>になります。
三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、'''『類聚三代格』'''へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書<span style="color:#f29100">'''『令義解』'''</span>作成を頼みました。
833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめ、仁明天皇の834年から実際に使いました。清原夏野のほか、小野篁なども編集に参加したかもしれません。こうして、朝廷の役人は『令義解』を読んで、養老令の条文を同じ意味で解釈出来るようになりました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
pvbo1u3kiif598jt58gs3gdj4yfnmnh
304748
304747
2026-10-15T22:51:16Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ 天皇の写真を追加。
304748
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''弘仁格式'''</span>をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''貞観格式'''</span>をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''延喜格式'''</span>をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、<span style="color:#f29100">'''三代格式'''</span>になります。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Seiwa.jpg|清和天皇
ファイル:Emperor Daigo.jpg|醍醐天皇
</gallery>三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、'''『類聚三代格』'''へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書<span style="color:#f29100">'''『令義解』'''</span>作成を頼みました。
833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめ、仁明天皇の834年から実際に使いました。清原夏野のほか、小野篁なども編集に参加したかもしれません。こうして、朝廷の役人は『令義解』を読んで、養老令の条文を同じ意味で解釈出来るようになりました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
qqtsdor6gvkxhpgzmih9rrlk5xfxzqg
304749
304748
2026-10-15T23:26:58Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ 朝廷の注釈書だけでなく個人の注釈書もあった。
304749
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''弘仁格式'''</span>をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''貞観格式'''</span>をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''延喜格式'''</span>をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、<span style="color:#f29100">'''三代格式'''</span>になります。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Seiwa.jpg|清和天皇
ファイル:Emperor Daigo.jpg|醍醐天皇
</gallery>三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、'''『類聚三代格』'''へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書<span style="color:#f29100">'''『令義解』'''</span>作成を頼みました。
833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめ、仁明天皇の834年から実際に使いました。清原夏野のほか、小野篁なども編集に参加したかもしれません。こうして、朝廷の役人は『令義解』を読んで、養老令の条文を同じ意味で解釈出来るようになりました。
朝廷の注釈書だけでなく個人の注釈書もありました。9世紀後半の貞観年間、惟宗直本などが全30巻の『令集解』へまとめ、令の条文をどのように解釈したのか様々な意見を集めました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
pwt8j9soimh5iffsr9skxt72rcnafua
304750
304749
2026-10-15T23:27:36Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ また、朝廷は国事行為・公的行為・宮中祭祀の進め方も決めた。
304750
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''弘仁格式'''</span>をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''貞観格式'''</span>をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''延喜格式'''</span>をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、<span style="color:#f29100">'''三代格式'''</span>になります。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Seiwa.jpg|清和天皇
ファイル:Emperor Daigo.jpg|醍醐天皇
</gallery>三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、'''『類聚三代格』'''へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書<span style="color:#f29100">'''『令義解』'''</span>作成を頼みました。
833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめ、仁明天皇の834年から実際に使いました。清原夏野のほか、小野篁なども編集に参加したかもしれません。こうして、朝廷の役人は『令義解』を読んで、養老令の条文を同じ意味で解釈出来るようになりました。
朝廷の注釈書だけでなく個人の注釈書もありました。9世紀後半の貞観年間、惟宗直本などが全30巻の『令集解』へまとめ、令の条文をどのように解釈したのか様々な意見を集めました。
また、朝廷は国事行為・公的行為・宮中祭祀の進め方も決めました。桓武天皇は中国皇帝をお手本にして、唐風の国事行為・公的行為・宮中祭祀を日本にも取り入れました。嵯峨天皇も唐の文化を大切にして、平安宮の殿舎に唐風の名前を付けました。嵯峨天皇は古代の儀式にも唐の進め方を取り入れました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
70oxz8d1g9eqcv6wmymegz7wptciwk2
304751
304750
2026-10-15T23:27:58Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */
304751
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''弘仁格式'''</span>をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''貞観格式'''</span>をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''延喜格式'''</span>をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、<span style="color:#f29100">'''三代格式'''</span>になります。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Seiwa.jpg|清和天皇
ファイル:Emperor Daigo.jpg|醍醐天皇
</gallery>三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、'''『類聚三代格』'''へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書<span style="color:#f29100">'''『令義解』'''</span>作成を頼みました。
833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめ、仁明天皇の834年から実際に使いました。清原夏野のほか、小野篁なども編集に参加したかもしれません。こうして、朝廷の役人は『令義解』を読んで、養老令の条文を同じ意味で解釈出来るようになりました。
朝廷の注釈書だけでなく個人の注釈書もありました。9世紀後半の貞観年間、惟宗直本などが全30巻の『令集解』へまとめ、令の条文をどのように解釈したのか様々な意見を集めました。
また、朝廷は国事行為・公的行為・宮中祭祀の進め方も決めました。桓武天皇は中国皇帝を見本にして、唐風の国事行為・公的行為・宮中祭祀を日本にも取り入れました。嵯峨天皇も唐の文化を大切にして、平安宮の殿舎に唐風の名前を付けました。嵯峨天皇は古代の儀式にも唐の進め方を取り入れました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
f9hha8rwjlr66plnjj226wgut8nuchq
304752
304751
2026-10-15T23:28:34Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ 嵯峨天皇在位時に公的行為・宮中祭祀をどのような順番で進めるのかまで決めた。
304752
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''弘仁格式'''</span>をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''貞観格式'''</span>をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''延喜格式'''</span>をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、<span style="color:#f29100">'''三代格式'''</span>になります。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Seiwa.jpg|清和天皇
ファイル:Emperor Daigo.jpg|醍醐天皇
</gallery>三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、'''『類聚三代格』'''へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書<span style="color:#f29100">'''『令義解』'''</span>作成を頼みました。
833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめ、仁明天皇の834年から実際に使いました。清原夏野のほか、小野篁なども編集に参加したかもしれません。こうして、朝廷の役人は『令義解』を読んで、養老令の条文を同じ意味で解釈出来るようになりました。
朝廷の注釈書だけでなく個人の注釈書もありました。9世紀後半の貞観年間、惟宗直本などが全30巻の『令集解』へまとめ、令の条文をどのように解釈したのか様々な意見を集めました。
また、朝廷は国事行為・公的行為・宮中祭祀の進め方も決めました。桓武天皇は中国皇帝を見本にして、唐風の国事行為・公的行為・宮中祭祀を日本にも取り入れました。嵯峨天皇も唐の文化を大切にして、平安宮の殿舎に唐風の名前を付けました。嵯峨天皇は古代の儀式にも唐の進め方を取り入れました。
嵯峨天皇在位時に公的行為・宮中祭祀をどのような順番で進めるのかまで決めました。例えば、叙位式は正月5日と各宮中祭祀の進め方を決めました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
izp1s6lm313c4zmlx0yz09n7cwgpuf1
304753
304752
2026-10-15T23:36:15Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ このような儀式を朝廷が初めて一冊の勅撰儀式書『内裏式』へまとめた。
304753
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''弘仁格式'''</span>をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''貞観格式'''</span>をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''延喜格式'''</span>をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、<span style="color:#f29100">'''三代格式'''</span>になります。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Seiwa.jpg|清和天皇
ファイル:Emperor Daigo.jpg|醍醐天皇
</gallery>三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、'''『類聚三代格』'''へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書<span style="color:#f29100">'''『令義解』'''</span>作成を頼みました。
833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめ、仁明天皇の834年から実際に使いました。清原夏野のほか、小野篁なども編集に参加したかもしれません。こうして、朝廷の役人は『令義解』を読んで、養老令の条文を同じ意味で解釈出来るようになりました。
朝廷の注釈書だけでなく個人の注釈書もありました。9世紀後半の貞観年間、惟宗直本などが全30巻の『令集解』へまとめ、令の条文をどのように解釈したのか様々な意見を集めました。
また、朝廷は国事行為・公的行為・宮中祭祀の進め方も決めました。桓武天皇は中国皇帝を見本にして、唐風の国事行為・公的行為・宮中祭祀を日本にも取り入れました。嵯峨天皇も唐の文化を大切にして、平安宮の殿舎に唐風の名前を付けました。嵯峨天皇は古代の儀式にも唐の進め方を取り入れました。
嵯峨天皇在位時に公的行為・宮中祭祀をどのような順番で進めるのかまで決めました。例えば、叙位式は正月5日と各宮中祭祀の進め方を決めました。
このような儀式を朝廷が初めて一冊の勅撰儀式書『内裏式』へまとめました。その後も朝廷は儀式の整理を進めて、毎年同じ時期に行う年中行事を決めました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
ly4azp5qu9zg3jgls8b7rb229qynphj
304754
304753
2026-10-15T23:36:59Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ 和気氏の弘文院・藤原氏の勧学院・橘氏の学館院が代表的な大学別曹に入り、それ以外に一般の奨学院[皇族・源氏・平氏・在原氏など]もあった。
304754
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''弘仁格式'''</span>をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''貞観格式'''</span>をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''延喜格式'''</span>をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、<span style="color:#f29100">'''三代格式'''</span>になります。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Seiwa.jpg|清和天皇
ファイル:Emperor Daigo.jpg|醍醐天皇
</gallery>三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、'''『類聚三代格』'''へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書<span style="color:#f29100">'''『令義解』'''</span>作成を頼みました。
833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめ、仁明天皇の834年から実際に使いました。清原夏野のほか、小野篁なども編集に参加したかもしれません。こうして、朝廷の役人は『令義解』を読んで、養老令の条文を同じ意味で解釈出来るようになりました。
朝廷の注釈書だけでなく個人の注釈書もありました。9世紀後半の貞観年間、惟宗直本などが全30巻の『令集解』へまとめ、令の条文をどのように解釈したのか様々な意見を集めました。
また、朝廷は国事行為・公的行為・宮中祭祀の進め方も決めました。桓武天皇は中国皇帝を見本にして、唐風の国事行為・公的行為・宮中祭祀を日本にも取り入れました。嵯峨天皇も唐の文化を大切にして、平安宮の殿舎に唐風の名前を付けました。嵯峨天皇は古代の儀式にも唐の進め方を取り入れました。
嵯峨天皇在位時に公的行為・宮中祭祀をどのような順番で進めるのかまで決めました。例えば、叙位式は正月5日と各宮中祭祀の進め方を決めました。
このような儀式を朝廷が初めて一冊の勅撰儀式書『内裏式』へまとめました。その後も朝廷は儀式の整理を進めて、毎年同じ時期に行う年中行事を決めました。
和気氏の弘文院・藤原氏の勧学院・橘氏の学館院が代表的な大学別曹に入り、それ以外に一般の奨学院[皇族・源氏・平氏・在原氏など]もありました。有力氏族は自分の子供を官僚として育てたいから大学別曹へ進学させました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
jxe8sgnnsu4fiy21ad96bp9726zleve
304755
304754
2026-10-15T23:39:18Z
Kwawe
68789
/* 律令政治の再編成 */
304755
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="packed" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''弘仁格式'''</span>をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''貞観格式'''</span>をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''延喜格式'''</span>をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、<span style="color:#f29100">'''三代格式'''</span>になります。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Seiwa.jpg|清和天皇
ファイル:Emperor Daigo.jpg|醍醐天皇
</gallery>三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、'''『類聚三代格』'''へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書<span style="color:#f29100">'''『令義解』'''</span>作成を頼みました。
833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめ、仁明天皇の834年から実際に使いました。清原夏野のほか、小野篁なども編集に参加したかもしれません。こうして、朝廷の役人は『令義解』を読んで、養老令の条文を同じ意味で解釈出来るようになりました。
朝廷の注釈書だけでなく個人の注釈書もありました。9世紀後半の貞観年間、惟宗直本などが全30巻の『令集解』へまとめ、令の条文をどのように解釈したのか様々な意見を集めました。
また、朝廷は国事行為・公的行為・宮中祭祀の進め方も決めました。桓武天皇は中国皇帝を見本にして、唐風の国事行為・公的行為・宮中祭祀を日本にも取り入れました。嵯峨天皇も唐の文化を大切にして、平安宮の殿舎に唐風の名前を付けました。嵯峨天皇は古代の儀式にも唐の進め方を取り入れました。
嵯峨天皇在位時に公的行為・宮中祭祀をどのような順番で進めるのかまで決めました。例えば、叙位式は正月5日と各宮中祭祀の進め方を決めました。
このような儀式を朝廷が初めて一冊の勅撰儀式書『内裏式』へまとめました。その後も朝廷は儀式の整理を進めて、毎年同じ時期に行う年中行事を決めました。
和気氏の弘文院・藤原氏の勧学院・橘氏の学館院が代表的な大学別曹に入り、それ以外に一般の奨学院[皇族・源氏・平氏・在原氏など]もありました。有力氏族は自分の子供を官僚として育てたいから大学別曹へ進学させました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
8wp7mt0wx6jy3a2hg51bw8cj3skhs3d
304757
304755
2026-10-16T01:34:19Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ 作家・文学者・学者を朝廷の役人に採用して、詩宴・詩会も何度も開いた。
304757
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="packed" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''弘仁格式'''</span>をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''貞観格式'''</span>をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''延喜格式'''</span>をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、<span style="color:#f29100">'''三代格式'''</span>になります。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Seiwa.jpg|清和天皇
ファイル:Emperor Daigo.jpg|醍醐天皇
</gallery>三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、'''『類聚三代格』'''へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書<span style="color:#f29100">'''『令義解』'''</span>作成を頼みました。
833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめ、仁明天皇の834年から実際に使いました。清原夏野のほか、小野篁なども編集に参加したかもしれません。こうして、朝廷の役人は『令義解』を読んで、養老令の条文を同じ意味で解釈出来るようになりました。
朝廷の注釈書だけでなく個人の注釈書もありました。9世紀後半の貞観年間、惟宗直本などが全30巻の『令集解』へまとめ、令の条文をどのように解釈したのか様々な意見を集めました。
また、朝廷は国事行為・公的行為・宮中祭祀の進め方も決めました。桓武天皇は中国皇帝を見本にして、唐風の国事行為・公的行為・宮中祭祀を日本にも取り入れました。嵯峨天皇も唐の文化を大切にして、平安宮の殿舎に唐風の名前を付けました。嵯峨天皇は古代の儀式にも唐の進め方を取り入れました。
嵯峨天皇在位時に公的行為・宮中祭祀をどのような順番で進めるのかまで決めました。例えば、叙位式は正月5日と各宮中祭祀の進め方を決めました。
このような儀式を朝廷が初めて一冊の勅撰儀式書『内裏式』へまとめました。その後も朝廷は儀式の整理を進めて、毎年同じ時期に行う年中行事を決めました。
嵯峨天皇は文学・学問も大切にしました。作家・文学者・学者を朝廷の役人に採用して、詩宴・詩会も何度も開きました。貴族なども儒学・漢文学を学び、天皇の指示で勅撰漢詩文集も相次いで生まれました。文学・学問は趣味として楽しむだけでなく、役人として政策を進めるためにも必要でした。
和気氏の弘文院・藤原氏の勧学院・橘氏の学館院が代表的な大学別曹に入り、それ以外に一般の奨学院[皇族・源氏・平氏・在原氏など]もありました。有力氏族は自分の子供を官僚として育てたいから大学別曹へ進学させました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
lsvg6m95q7i14v4itkuxa16nxwe2aig
304758
304757
2026-10-16T01:36:27Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ 有力氏族・有力貴族の子供を大学寮へ進学させて、将来の官僚になってもらおうとした。
304758
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="packed" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''弘仁格式'''</span>をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''貞観格式'''</span>をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''延喜格式'''</span>をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、<span style="color:#f29100">'''三代格式'''</span>になります。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Seiwa.jpg|清和天皇
ファイル:Emperor Daigo.jpg|醍醐天皇
</gallery>三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、'''『類聚三代格』'''へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書<span style="color:#f29100">'''『令義解』'''</span>作成を頼みました。
833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめ、仁明天皇の834年から実際に使いました。清原夏野のほか、小野篁なども編集に参加したかもしれません。こうして、朝廷の役人は『令義解』を読んで、養老令の条文を同じ意味で解釈出来るようになりました。
朝廷の注釈書だけでなく個人の注釈書もありました。9世紀後半の貞観年間、惟宗直本などが全30巻の『令集解』へまとめ、令の条文をどのように解釈したのか様々な意見を集めました。
また、朝廷は国事行為・公的行為・宮中祭祀の進め方も決めました。桓武天皇は中国皇帝を見本にして、唐風の国事行為・公的行為・宮中祭祀を日本にも取り入れました。嵯峨天皇も唐の文化を大切にして、平安宮の殿舎に唐風の名前を付けました。嵯峨天皇は古代の儀式にも唐の進め方を取り入れました。
嵯峨天皇在位時に公的行為・宮中祭祀をどのような順番で進めるのかまで決めました。例えば、叙位式は正月5日と各宮中祭祀の進め方を決めました。
このような儀式を朝廷が初めて一冊の勅撰儀式書『内裏式』へまとめました。その後も朝廷は儀式の整理を進めて、毎年同じ時期に行う年中行事を決めました。
嵯峨天皇は文学・学問も大切にしました。作家・文学者・学者を朝廷の役人に採用して、詩宴・詩会も何度も開きました。貴族なども儒学・漢文学を学び、天皇の指示で勅撰漢詩文集も相次いで生まれました。文学・学問は趣味として楽しむだけでなく、役人として政策を進めるためにも必要でした。
また、有力氏族・有力貴族の子供を大学寮へ進学させて、将来の官僚になってもらおうとしました。この大学寮は遠距離なので各氏族の大学別曹へ有力氏族・有力貴族の子供を入れました。大学寮の学生は大学別曹内の寄宿舎に住みながら勉強できました。また、勉強を教えたり、学費を出したり、本を貸したりして、大学別曹の学生が大学寮で勉強を続けられるようにしました。和気氏の弘文院・藤原氏の勧学院・橘氏の学館院が代表的な大学別曹に入り、それ以外に一般の奨学院[皇族・源氏・平氏・在原氏など]もありました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
117ze2c4fx2bx9ppp5m6t24ybnhhbwa
304760
304758
2026-10-16T04:54:50Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ 空海は家柄・身分・宗派などで入学を制限しない学校[綜芸種智院]を教王護国寺(東寺)の隣に開いた。
304760
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="packed" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''弘仁格式'''</span>をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''貞観格式'''</span>をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''延喜格式'''</span>をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、<span style="color:#f29100">'''三代格式'''</span>になります。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Seiwa.jpg|清和天皇
ファイル:Emperor Daigo.jpg|醍醐天皇
</gallery>三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、'''『類聚三代格』'''へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書<span style="color:#f29100">'''『令義解』'''</span>作成を頼みました。
833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめ、仁明天皇の834年から実際に使いました。清原夏野のほか、小野篁なども編集に参加したかもしれません。こうして、朝廷の役人は『令義解』を読んで、養老令の条文を同じ意味で解釈出来るようになりました。
朝廷の注釈書だけでなく個人の注釈書もありました。9世紀後半の貞観年間、惟宗直本などが全30巻の『令集解』へまとめ、令の条文をどのように解釈したのか様々な意見を集めました。
また、朝廷は国事行為・公的行為・宮中祭祀の進め方も決めました。桓武天皇は中国皇帝を見本にして、唐風の国事行為・公的行為・宮中祭祀を日本にも取り入れました。嵯峨天皇も唐の文化を大切にして、平安宮の殿舎に唐風の名前を付けました。嵯峨天皇は古代の儀式にも唐の進め方を取り入れました。
嵯峨天皇在位時に公的行為・宮中祭祀をどのような順番で進めるのかまで決めました。例えば、叙位式は正月5日と各宮中祭祀の進め方を決めました。
このような儀式を朝廷が初めて一冊の勅撰儀式書『内裏式』へまとめました。その後も朝廷は儀式の整理を進めて、毎年同じ時期に行う年中行事を決めました。
嵯峨天皇は文学・学問も大切にしました。作家・文学者・学者を朝廷の役人に採用して、詩宴・詩会も何度も開きました。貴族なども儒学・漢文学を学び、天皇の指示で勅撰漢詩文集も相次いで生まれました。文学・学問は趣味として楽しむだけでなく、役人として政策を進めるためにも必要でした。
また、有力氏族・有力貴族の子供を大学寮へ進学させて、将来の官僚になってもらおうとしました。この大学寮は遠距離なので各氏族の大学別曹へ有力氏族・有力貴族の子供を入れました。大学寮の学生は大学別曹内の寄宿舎に住みながら勉強できました。また、勉強を教えたり、学費を出したり、本を貸したりして、大学別曹の学生が大学寮で勉強を続けられるようにしました。和気氏の弘文院・藤原氏の勧学院・橘氏の学館院が代表的な大学別曹に入り、それ以外に一般の奨学院[皇族・源氏・平氏・在原氏など]もありました。
主に朝廷の役人・有力氏族の子供などは従来の大学寮で学んでいました。これに対して、空海は家柄・身分・宗派などで入学を制限しない学校[綜芸種智院]を教王護国寺(東寺)の隣に開きました。828年に綜芸種智院を開き、仏教・儒教・道教などを教えようとしました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
9ojltrda25j471tyn9m9d46cbhoep06
304761
304760
2026-10-16T06:01:38Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ 明経道[儒教経典]・紀伝道[中国史・中国文学・漢詩文など]を学び将来の官僚を大学で育てた。
304761
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="packed" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''弘仁格式'''</span>をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''貞観格式'''</span>をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''延喜格式'''</span>をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、<span style="color:#f29100">'''三代格式'''</span>になります。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Seiwa.jpg|清和天皇
ファイル:Emperor Daigo.jpg|醍醐天皇
</gallery>三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、'''『類聚三代格』'''へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書<span style="color:#f29100">'''『令義解』'''</span>作成を頼みました。
833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめ、仁明天皇の834年から実際に使いました。清原夏野のほか、小野篁なども編集に参加したかもしれません。こうして、朝廷の役人は『令義解』を読んで、養老令の条文を同じ意味で解釈出来るようになりました。
朝廷の注釈書だけでなく個人の注釈書もありました。9世紀後半の貞観年間、惟宗直本などが全30巻の『令集解』へまとめ、令の条文をどのように解釈したのか様々な意見を集めました。
また、朝廷は国事行為・公的行為・宮中祭祀の進め方も決めました。桓武天皇は中国皇帝を見本にして、唐風の国事行為・公的行為・宮中祭祀を日本にも取り入れました。嵯峨天皇も唐の文化を大切にして、平安宮の殿舎に唐風の名前を付けました。嵯峨天皇は古代の儀式にも唐の進め方を取り入れました。
嵯峨天皇在位時に公的行為・宮中祭祀をどのような順番で進めるのかまで決めました。例えば、叙位式は正月5日と各宮中祭祀の進め方を決めました。
このような儀式を朝廷が初めて一冊の勅撰儀式書『内裏式』へまとめました。その後も朝廷は儀式の整理を進めて、毎年同じ時期に行う年中行事を決めました。
嵯峨天皇は文学・学問も大切にしました。作家・文学者・学者を朝廷の役人に採用して、詩宴・詩会も何度も開きました。貴族なども儒学・漢文学を学び、天皇の指示で勅撰漢詩文集も相次いで生まれました。文学・学問は趣味として楽しむだけでなく、役人として政策を進めるためにも必要でした。
朝廷は大学課程にも力を入れました。明経道[儒教経典]・紀伝道[中国史・中国文学・漢詩文など]を学び将来の官僚を大学で育てました。文章経国も大切にされ、紀伝道学習者も朝廷で重要な仕事を任されるようになりました。
また、有力氏族・有力貴族の子供を大学寮へ進学させて、将来の官僚になってもらおうとしました。この大学寮は遠距離なので各氏族の大学別曹へ有力氏族・有力貴族の子供を入れました。大学寮の学生は大学別曹内の寄宿舎に住みながら勉強できました。また、勉強を教えたり、学費を出したり、本を貸したりして、大学別曹の学生が大学寮で勉強を続けられるようにしました。和気氏の弘文院・藤原氏の勧学院・橘氏の学館院が代表的な大学別曹に入り、それ以外に一般の奨学院[皇族・源氏・平氏・在原氏など]もありました。
主に朝廷の役人・有力氏族の子供などは従来の大学寮で学んでいました。これに対して、空海は家柄・身分・宗派などで入学を制限しない学校[綜芸種智院]を教王護国寺(東寺)の隣に開きました。828年に綜芸種智院を開き、仏教・儒教・道教などを教えようとしました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
tdu3xdms232x4swc7ujf8tk5e0p76rz
304762
304761
2026-10-16T06:03:24Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ 紀伝道は文章道ともいう。
304762
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="packed" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''弘仁格式'''</span>をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''貞観格式'''</span>をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''延喜格式'''</span>をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、<span style="color:#f29100">'''三代格式'''</span>になります。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Seiwa.jpg|清和天皇
ファイル:Emperor Daigo.jpg|醍醐天皇
</gallery>三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、'''『類聚三代格』'''へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書<span style="color:#f29100">'''『令義解』'''</span>作成を頼みました。
833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめ、仁明天皇の834年から実際に使いました。清原夏野のほか、小野篁なども編集に参加したかもしれません。こうして、朝廷の役人は『令義解』を読んで、養老令の条文を同じ意味で解釈出来るようになりました。
朝廷の注釈書だけでなく個人の注釈書もありました。9世紀後半の貞観年間、惟宗直本などが全30巻の『令集解』へまとめ、令の条文をどのように解釈したのか様々な意見を集めました。
また、朝廷は国事行為・公的行為・宮中祭祀の進め方も決めました。桓武天皇は中国皇帝を見本にして、唐風の国事行為・公的行為・宮中祭祀を日本にも取り入れました。嵯峨天皇も唐の文化を大切にして、平安宮の殿舎に唐風の名前を付けました。嵯峨天皇は古代の儀式にも唐の進め方を取り入れました。
嵯峨天皇在位時に公的行為・宮中祭祀をどのような順番で進めるのかまで決めました。例えば、叙位式は正月5日と各宮中祭祀の進め方を決めました。
このような儀式を朝廷が初めて一冊の勅撰儀式書『内裏式』へまとめました。その後も朝廷は儀式の整理を進めて、毎年同じ時期に行う年中行事を決めました。
嵯峨天皇は文学・学問も大切にしました。作家・文学者・学者を朝廷の役人に採用して、詩宴・詩会も何度も開きました。貴族なども儒学・漢文学を学び、天皇の指示で勅撰漢詩文集も相次いで生まれました。文学・学問は趣味として楽しむだけでなく、役人として政策を進めるためにも必要でした。
朝廷は大学課程にも力を入れました。明経道[儒教経典]・紀伝道<ref>紀伝道は文章道ともいいます。</ref>[中国史・中国文学・漢詩文など]を学び将来の官僚を大学で育てました。文章経国も大切にされ、紀伝道学習者も朝廷で重要な仕事を任されるようになりました。
また、有力氏族・有力貴族の子供を大学寮へ進学させて、将来の官僚になってもらおうとしました。この大学寮は遠距離なので各氏族の大学別曹へ有力氏族・有力貴族の子供を入れました。大学寮の学生は大学別曹内の寄宿舎に住みながら勉強できました。また、勉強を教えたり、学費を出したり、本を貸したりして、大学別曹の学生が大学寮で勉強を続けられるようにしました。和気氏の弘文院・藤原氏の勧学院・橘氏の学館院が代表的な大学別曹に入り、それ以外に一般の奨学院[皇族・源氏・平氏・在原氏など]もありました。
主に朝廷の役人・有力氏族の子供などは従来の大学寮で学んでいました。これに対して、空海は家柄・身分・宗派などで入学を制限しない学校[綜芸種智院]を教王護国寺(東寺)の隣に開きました。828年に綜芸種智院を開き、仏教・儒教・道教などを教えようとしました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
dctf6xcd373maopkzug9vgd5i7z7e8l
304765
304762
2026-10-16T11:06:30Z
Kwawe
68789
/* 法・儀式の整備と教育 */ 重要用語を色太字化。
304765
wikitext
text/x-wiki
[[小学校・中学校・高等学校の学習]]>[[高等学校の学習]]>[[高等学校地理歴史]]>[[高等学校日本史探究]]>律令体制再編期の政治と社会Ⅱ
== 律令政治の再編成 ==
桓武天皇の政治改革は次期天皇の<span style="color:#f29100">'''平城天皇'''</span>と<span style="color:#f29100">'''嵯峨天皇'''</span>も引き継ぎました。806年、平城天皇は官司再編を行いました。2000年の中央省庁再編<ref>中央省庁再編の詳細は[[高等学校日本史探究/新たな世紀の日本へⅡ|新たな世紀の日本へⅡ]]の「行政改革と日米安保の変化」を参照してください。</ref>と同じように役所数と職員数を減らして、役所をまとめて官司機関をすっきりさせました。その結果、予算の使い過ぎを防げました。また、地方行政機関の暴走を防ぐため地方監察官[観察使]各1名を畿内七道に4年間採用しました。
809年、平城天皇の容体悪化から弟の嵯峨天皇に譲りました。その後、平城太上天皇[平城上皇]として平城京で闘病生活を送っていました。平城上皇の容体が回復すると、平城京で嵯峨天皇の政策方針に口を出すようになりました。平城上皇の側近などが平城京に移りました。その結果、嵯峨天皇〔平安京〕と平城上皇〔平城京〕それぞれが政策方針を出しました(二所朝廷)。<gallery mode="packed" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Saga large.jpg|嵯峨天皇
ファイル:Emperor Heizei-colord.jpg|平城天皇
ファイル:The prince Takaoka.jpg|高岳親王
</gallery>藤原薬子〔藤原種継の娘〕と藤原仲成〔藤原薬子の兄〕が平城太上天皇の側近としていました。平城上皇は藤原式家の藤原薬子・藤原仲成と手を組み、律令政権の中心を平城京に戻そうとしました。
やがて、新価値観側の嵯峨天皇は旧価値観側の平城上皇と施策方針を巡って争うようになりました。810年、新価値観側の秘密が旧価値観側に漏れないように新しい役所[蔵人所]を作りました。新しい役所[<span style="color:#f29100">'''蔵人所'''</span>]の代表者[<span style="color:#f29100">'''蔵人頭'''</span>]は2名選ばれ、蔵人所の初代蔵人頭として<span style="color:#f29100">'''藤原冬嗣'''</span>と巨勢野足を選びました。
蔵人所は現在の宮内庁書陵部と同じように大事な文書・秘密資料を保管して、天皇の公務を止めないようにしました。また、宮内庁式部職と同じように宮中行事の準備・来客応対・文書・打ち合わせまで行うようになりました。蔵人は天皇の側近として大事なお話にも関わるようになり、やがて蔵人頭から参議へ昇格するようになりました。
810年、嵯峨天皇は平城太上天皇の平城京朝廷復帰を許しませんでした。その後、嵯峨天皇は東国流出を防ぐため、伊勢・近江・美濃の通路を塞ぎました。健児も入れて不審者の平安京侵入を防ぎました。こうして新価値観側は藤原仲成の平安京侵入に素早く気づいて殺しつつ、尚侍の藤原薬子も首にしました。平城太上天皇は東国へ逃げようとしても新価値観側の坂上田村麻呂などに囲まれて、平城京へ帰ってから出家しました。藤原薬子は毒を飲んで亡くなりました(<span style="color:#f29100">'''平城太上天皇の変'''</span>)。
従来、藤原薬子と藤原仲成が無罪の平城太上天皇を操り人形として動かしており、平城太上天皇のみ当事件に関わっていないから「薬子の変」とよばれていました。しかし、最新の歴史学文献から平城太上天皇も当事件に大きく関わっており「平城太上天皇の変」に変わりました。当事件後、嵯峨天皇は政策方針を出して二所朝廷も終わりました。また藤原式家は政治にほとんど出なくなり、蔵人頭の意見を取り入れるようになりました。
当事件後、高岳親王[平城太上天皇の息子]は皇太子の地位を失いました。その後の高岳親王は出家して真如と名乗り、空海から学ぶようになりました。仏教の教えをもっと深く学ぶために唐へ渡っても、当時の唐は仏教の指導者もほとんどいませんでした。そのため、さらに西の天竺[現在のインド]へ向かいました。高丘親王はマレー半島付近[シンガポール付近]で亡くなり、約16年後に日本へ現地のご逝去も届きました。
816年、嵯峨天皇は蔵人所創設に引き続き左衛門府と右衛門府へ<span style="color:#f29100">'''検非違使'''</span>を入れました。検非違使は現在の警視庁みたいに犯人[盗賊など]を捕まえたり、不審者を見つけたり、事件を調べたりしました。その後、新しい独立官司として検非違使庁を作り、現在の検察庁業務と裁判所業務まで担うようになりました。
[[ファイル:Kyowogokokuji Monastery Tobatsu Bishamonten (280).jpg|サムネイル|241x241ピクセル|兜跋毘沙門天(教王護国寺)]]
各律令官司[衛門府・弾正台・刑部省・京職・六衛府]の業務内容も少しずつ検非違使が引き取りました。衛門府[警察署地域課の業務内容]・弾正台[警察署警務課の業務内容]・刑部省[警察署刑事課の業務内容]・京職[警察署生活安全課の業務内容]・六衛府[警察署警備課の業務内容]を検非違使が行うと、現在の警視庁みたいな組織になりました。なお、地方は地方警察の国検非違使をいれ、検非違使庁の長官は別当として特別扱いされるようになりました。また、一部の元受刑者は放免[捜査協力者]にもなっています。
このように、平安時代初期の朝廷は政策を行いやすいように従来の官職・官司を減らしたり、類似の官職・官司をまとめたりしました。また、新しい業務内容に取り組むため、新しい官職・官司[<span style="color:#f29100">'''令外官'''</span>]も導入しました。勘解由使〔桓武天皇〕・蔵人所〔嵯峨天皇〕・蔵人頭〔嵯峨天皇〕・検非違使〔嵯峨天皇〕・中納言・参議・内大臣・征夷大将軍・押領使・追捕使などは令外官になります。内大臣は左大臣・右大臣に次いで3番目の上司でした。令外官は律令制度を引き続き取り入れつつ新しい政策を行いやすいように導入されました。
嵯峨天皇の子供は約50人もいました。子供全員を皇族関係者として扱うとパンクしやすいので、大半の息子と娘は名字の源朝臣を付けて一般人として生活させました。
なお、平安京南端の羅城門は敵の侵入を防ぐために毘沙門天像を置いたかもしれません。現在、教王護国寺(東寺)の伝兜跋毘沙門天立像は高さ約1.9mあり、中国の唐で作られたのかもしれません。羅城門の伝兜跋毘沙門天立像が教王護国寺(東寺)へ引っ越しして羅城門の旧像を置いたのかもしれません。
== 法・儀式の整備と教育 ==
朝廷は昔ながらの大宝律令・養老律令を守りながら、古い条文を新しい条文に直しました。この時、新しい条文として<span style="color:#f29100">'''格'''</span>と<span style="color:#f29100">'''式'''</span>が使われました。格は現代法律の第α項に当たり、詔勅・太政官官符なども格に入りました。式は現代法律の第α号に当たり、条件・対象を細かく分けました。しかし、格と式は何度も出され、大宝律令・養老律令も読みにくくなりました。平安時代初期の朝廷は大量の格と式を整理して、法令集にまとめるようになりました。
藤原冬嗣などは嵯峨天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''弘仁格式'''</span>をまとめました。701年から819年までの格が全10巻の弘仁格にまとめられました。820(弘仁11)年に編集され、淳和天皇の830年から実際に使われました。
同じように、701年から819年までの式が全40巻の弘仁式へまとめられました。820年に編集され、仁明天皇の840年から実際に使われました。大宝律令・養老律令をそのまま残しながら弘仁格式にまとめられ、朝廷の官司は必要な法令を探しやすくなりました。
その後もこの作業は続き、清和天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''貞観格式'''</span>をまとめました。869(貞観11)年、819年から868年までの詔勅・官符を藤原氏宗などが全12巻の貞観格へまとめ、実際に使いました。871年、弘仁式以降の新しい条文を全20巻の貞観式にまとめ、実際に使いました。
醍醐天皇在位時に<span style="color:#f29100">'''延喜格式'''</span>をまとめました。907(延喜7)年、869年から907年までの詔勅・官符を藤原時平などが全12巻の延喜格へまとめ、908年から実際に使いました。927(延長5)年、藤原忠平などが弘仁式・貞観式の条文を再整理して全50巻の法令集[延喜式]へまとめ、冷泉天皇の967年から実際に使いました。弘仁格式・貞観格式・延喜格式をまとめて、<span style="color:#f29100">'''三代格式'''</span>になります。<gallery mode="nolines" widths="200" heights="200">
ファイル:Emperor Seiwa.jpg|清和天皇
ファイル:Emperor Daigo.jpg|醍醐天皇
</gallery>三代格式の中でも『延喜式』の式だけが現在まで残っています。11世紀、弘仁格・貞観格・延喜格の条文を各内容に分けて、'''『類聚三代格』'''へまとめました。この史料を読むと、弘仁格・貞観格・延喜格の大まかな内容が分かります。また、地方の国司の交代方法も決められ、各時期[延暦・貞観・延喜]の法令集『交替式』へまとめました。
同じ法令でも各人の解釈が違うと、各役所の対応も変わってしまいます。そこで朝廷は、養老令の条文を誰でも同じ意味で解釈しやすいように清原夏野などへ全10巻の公式注釈書<span style="color:#f29100">'''『令義解』'''</span>作成を頼みました。
833(天長10)年、淳和天皇在位時に『令義解』をまとめ、仁明天皇の834年から実際に使いました。清原夏野のほか、小野篁なども編集に参加したかもしれません。こうして、朝廷の役人は『令義解』を読んで、養老令の条文を同じ意味で解釈出来るようになりました。
朝廷の注釈書だけでなく個人の注釈書もありました。9世紀後半の貞観年間、惟宗直本などが全30巻の<span style="color:#f29100">'''『令集解』'''</span>へまとめ、令の条文をどのように解釈したのか様々な意見を集めました。
また、朝廷は国事行為・公的行為・宮中祭祀の進め方も決めました。桓武天皇は中国皇帝を見本にして、唐風の国事行為・公的行為・宮中祭祀を日本にも取り入れました。嵯峨天皇も唐の文化を大切にして、平安宮の殿舎に唐風の名前を付けました。嵯峨天皇は古代の儀式にも唐の進め方を取り入れました。
嵯峨天皇在位時に公的行為・宮中祭祀をどのような順番で進めるのかまで決めました。例えば、叙位式は正月5日と各宮中祭祀の進め方を決めました。
このような儀式を朝廷が初めて一冊の勅撰儀式書『内裏式』へまとめました。その後も朝廷は儀式の整理を進めて、毎年同じ時期に行う年中行事を決めました。
嵯峨天皇は文学・学問も大切にしました。作家・文学者・学者を朝廷の役人に採用して、詩宴・詩会も何度も開きました。貴族なども儒学・漢文学を学び、天皇の指示で勅撰漢詩文集も相次いで生まれました。文学・学問は趣味として楽しむだけでなく、役人として政策を進めるためにも必要でした。
朝廷は大学課程にも力を入れました。明経道[儒教経典]・紀伝道<ref>紀伝道は文章道ともいいます。</ref>[中国史・中国文学・漢詩文など]を学び将来の官僚を大学で育てました。文章経国も大切にされ、紀伝道学習者も朝廷で重要な仕事を任されるようになりました。
また、有力氏族・有力貴族の子供を大学寮へ進学させて、将来の官僚になってもらおうとしました。この大学寮は遠距離なので各氏族の<span style="color:#f29100">'''大学別曹'''</span>へ有力氏族・有力貴族の子供を入れました。大学寮の学生は大学別曹内の寄宿舎に住みながら勉強できました。また、勉強を教えたり、学費を出したり、本を貸したりして、大学別曹の学生が大学寮で勉強を続けられるようにしました。和気氏の弘文院・藤原氏の勧学院・橘氏の学館院が代表的な大学別曹に入り、それ以外に一般の奨学院[皇族・源氏・平氏・在原氏など]もありました。
主に朝廷の役人・有力氏族の子供などは従来の大学寮で学んでいました。これに対して、空海は家柄・身分・宗派などで入学を制限しない学校[<span style="color:#f29100">'''綜芸種智院'''</span>]を教王護国寺(東寺)の隣に開きました。828年に綜芸種智院を開き、仏教・儒教・道教などを教えようとしました。
== 資料出所 ==
* 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
* 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
* 伊藤純郎ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社清水書院 2023年
* 大橋幸泰ほか編著『高等学校日本史探究』株式会社第一学習社 2023年
* 山中裕典著'''『'''改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本'''』'''株式会社KADOKAWA 2024年
* 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
* 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)
* 外園豊基編集代表『最新日本史図表』株式会社第一学習社 2026年
* 東京法令出版編著『歴史資料館 日本史のライブラリー』東京法令出版株式会社 2026年
== ここに注意!! ==
[[カテゴリ:高等学校日本史探究]]
[[カテゴリ:平安時代]]
9zyg5sk3u3fmsoroe64pezkq19ubo5s