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蜘蛛の糸
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|title=蜘蛛の糸
|year=1918
|author=芥川龍之介
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|edition=yes
|notes=
* 書誌情報の詳細は[[{{TALKPAGENAME}}|議論ページ]]をご覧ください。
{{デフォルトソート:くものいと}}
[[Category:日本の短編小説]]
[[Category:芥川龍之介全集 (筑摩書房)]]
[[Category:児童文学]]
}}
==一==
ある日が事でございます。{{r|御釈迦様|おしゃかさま}}は極楽の{{r|蓮池|はすいけ}}のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている{{r|蓮|はす}}の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある{{r|金色|きんいろ}}の{{r|蕊|ずい}}からは、何とも云えない{{r|好|よ}}い{{r|匂|におい}}が、{{r|絶間|たえま}}なくあたりへ{{r|溢|あふ}}れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。
やがて御釈迦様はその池のふちに{{r|御佇|おたたず}}みになって、水の{{r|面|おもて}}を{{r|蔽|おお}}っている蓮の葉の間から、ふと下の{{r|容子|ようす}}を御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度{{r|地獄|じごく}}の底に当って居りますから、{{r|水晶|すいしよう}}のような水を透き徹して、{{r|三途|さんず}}の河や針の山の景色が、丁度{{r|覗|のぞ}}き{{r|眼鏡|めがね}}を見るように、はっきりと見えるのでございます。
するとその地獄の底に、{{r|犍陀多|かんだた}}と云う男が一人、ほかの罪人と一しょに{{r|蠢|うごめ}}いている姿が、御眼に止まりました。この犍陀多と云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな{{r|蜘蛛|くも}}が一匹、路ばたを{{r|這|は}}って行くのが見えました。そこで犍陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を{{r|無暗|むやみ}}にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この犍陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした{{r|報|むくい}}には、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、{{r|翡翠|ひすい}}のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような{{r|白蓮|しらはす}}の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御{{r|下|おろ}}しなさいました。
==二==
こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていた{{r|犍陀多|かんだた}}でございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつく{{r|微|かすか}}な{{r|嘆息|たんそく}}ばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の{{r|責苦|せめく}}に疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊の犍陀多も、やはり血の池の血に{{r|咽|むせ}}びながら、まるで死にかかった{{r|蛙|かわず}}のように、ただもがいてばかり居りました。
ところがある時の事でございます。{{r|何気|なにげ}}なく犍陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の{{r|蜘蛛|くも}}の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。犍陀多はこれを見ると、思わず手を{{r|拍|う}}って喜びました。この糸に{{r|縋|すが}}りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。
こう思いましたから{{r|犍陀多|かんだた}}は、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。
しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら{{r|焦|あせ}}って見た所で、容易に上へは出られません。ややしばらくのぼる{{r|中|うち}}に、とうとう犍陀多もくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。
すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。犍陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、{{r|数限|かずかぎり}}もない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで{{r|蟻|あり}}の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。犍陀多はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、{{r|莫迦|ばか}}のように大きな口を{{r|開|あ}}いたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ{{r|断|き}}れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの{{r|人数|にんず}}の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で{{r|断|き}}れたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの{{r|肝腎|かんじん}}な自分までも、元の地獄へ{{r|逆落|さかおと}}しに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと{{r|這|は}}い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。
そこで犍陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は{{r|己|おれ}}のものだぞ。お前たちは一体誰に{{r|尋|き}}いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と{{r|喚|わめ}}きました。
その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に犍陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて{{r|断|き}}れました。ですから犍陀多もたまりません。あっと云う{{r|間|ま}}もなく風を切って、{{r|独楽|こま}}のようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。
==三==
{{r|御釈迦様|おしゃかさま}}は極楽の{{r|蓮池|はすいけ}}のふちに立って、この一部{{r|始終|しじゅう}}をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて{{r|犍陀多|かんだた}}が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には{{r|頓着|とんじゃく}}致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の{{r|御足|おみあし}}のまわりに、ゆらゆら{{r|萼|うてな}}を動かして、そのまん中にある金色の{{r|蕊|ずい}}からは、何とも云えない{{r|好|よ}}い匂が、{{r|絶間|たえま}}なくあたりへ{{r|溢|あふ}}れて居ります。極楽ももう{{r|午|ひる}}に近くなったのでございましょう。
<div class="chitsuki_1" style="text-align:right; margin-right: 1em">(大正七年四月十六日)</div>
{{PD-old-auto-1996|deathyear=1927}}
[[Category:青空文庫からインポートしたテキスト]]
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[[Category:日本の短編小説]]
[[Category:芥川龍之介全集 (筑摩書房)]]
[[Category:児童文学]]
}}
==一==
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御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この犍陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした{{r|報|むくい}}には、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、{{r|翡翠|ひすい}}のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような{{r|白蓮|しらはす}}の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御{{r|下|おろ}}しなさいました。
==二==
こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていた{{r|犍陀多|かんだた}}でございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつく{{r|微|かすか}}な{{r|嘆息|たんそく}}ばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の{{r|責苦|せめく}}に疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊の犍陀多も、やはり血の池の血に{{r|咽|むせ}}びながら、まるで死にかかった{{r|蛙|かわず}}のように、ただもがいてばかり居りました。
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こう思いましたから{{r|犍陀多|かんだた}}は、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。
しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら{{r|焦|あせ}}って見た所で、容易に上へは出られません。ややしばらくのぼる{{r|中|うち}}に、とうとう犍陀多もくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。
すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。犍陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、{{r|数限|かずかぎり}}もない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで{{r|蟻|あり}}の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。犍陀多はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、{{r|莫迦|ばか}}のように大きな口を{{r|開|あ}}いたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ{{r|断|き}}れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの{{r|人数|にんず}}の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で{{r|断|き}}れたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの{{r|肝腎|かんじん}}な自分までも、元の地獄へ{{r|逆落|さかおと}}しに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと{{r|這|は}}い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。
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利用者:村田ラジオ
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村田ラジオ
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===1. 聖イサク===
[[Wikisource:宗教]]<
* [[シリヤの聖イサアク全書]]
* [[ニネベのイサアク神秘論文集]](A. J. ヴェンシンク)
{|
|valign=top|
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第1論文|第1論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第2論文|第2論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第3論文|第3論文]]
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:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第40論文|第40論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第43論文|第43論文]] 霊的な知恵に満ちた有益な言葉
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第44論文|第44論文]] 知識の程度と信仰の程度について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第45論文|第45論文]] 有益な助言
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第46論文|第46論文]] その他の考慮事項
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第47論文|第47論文]] 霊的な事柄における魂の教育という神の摂理に
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第48論文|第48論文]] 魂が常にさらされる光と闇の様々な状態
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第50論文|第50論文]] 様々な考察をまとめた短い教訓集
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第51論文|第51論文]] 知識の3つの段階とその奉仕と衝動との区別、魂の信仰とその中に隠された神秘の宝について
::(a) 知識の第一段階
::(b) 知識の第二段階
::(c) 知識の第三段階。つまり完全な段階
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第53論文|第53論文]] 祈りと、絶えず思い出すことが必然的に求められ、人が区別して唱え、保持することが非常に有益であるその他の事柄について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第54論文|第54論文]] マゲナヌータに関するその他の説明
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第55論文|第55論文]] 魂の中に隠された警戒心を
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第56論文|第56論文]] 人の生命に関する美しい考察
|valign=top|
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第57論文|第57論文]] 神の愛のための忍耐がどのようにして神の助けを得るのか
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第58論文|第58論文]] 神の近くに住み、認識の生活の中で日々を過ごす人々について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第59論文|第59論文]] 有益な談話
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第60論文|第60論文]] 必然性がなければ、何らかのしるしを望んだり求めたりしてはならないこと
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第61論文|第61論文]] 神は何のために神を愛する人たちへの誘惑を許すのか
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第62論文|第62論文]] 人の中に湧き起こる思考によって、自分がどの段階に属し、どのような思考が続くかを知ることができるということ
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第63論文|第63論文]] 認識の心理状態にある人々は、なぜ肉体の粗雑さに応じて霊的なことを考えるのか
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第64論文|第64論文]] 心中に起こる、祈りによって浄化されるさまざまな状態について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第65論文|第65論文]] 心の警戒に関する指示
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第66論文|第66論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第67論文|第67論文]] 理解可能なものの区別に関して例をあげ、それぞれの使い方を示しての説明
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第68論文|第68論文]] 短いセクション
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第69論文|第69論文]] 思慮ある者はどのように黙想を務めるべきか
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第70論文|第70論文]] 初期知識の微妙な順序
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:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第72論文|第72論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第73論文|第73論文]] これまでに述べられた内容の説明
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第74論文|第74論文]] 聖人の中に神に似たものを創造している霊的目的について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第75論文|第75論文]] 隠された状態と、そこに存在する力と影響力
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第76論文|第76論文]] 短い言葉
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第77論文|第77論文]] この章は生命力に満ちている
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第78論文|第78論文]] 世俗からの逃避によって得られる…
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第79論文|第79論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第80論文|第80論文]] 徹夜祷とその間の様々な種類の労働について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第81論文|第81論文]] なぜ独居修行者たちはそれ以上に孤独を重んじるのか
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第82論文|第82論文]] 謙虚さはどれほどの名誉を持ち、その地位は
|}
===2. マカリオス===
* [[エジプトのマカリオス50の霊的説教]] (擬マカリオス)(完)
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教1|説教1]] 預言者エゼキエルに記された幻の寓話的解釈。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教2|説教2]] 暗黒の王国、すなわち罪の王国について、そして神だけが私たちから罪を取り除き、邪悪な君主の束縛から私たちを救い出すことができるということについて。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教3|説教3]] 兄弟たちは互いに誠実、単純、愛、平和のうちに生きるべきであり、心の中では競争と戦いを続けるべきである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教4|説教4]] キリスト教徒は、神と天使たちから天の賞賛を得るために、この世での競争を注意深く慎重に成し遂げるべきである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教5|説教5]] キリスト教徒とこの世の人々の間には大きな違いがある。この世の精神を持つ人々は心と精神において地上の束縛に縛られているが、他の人々は天の父の愛を切望し、ただ目の前に父を待ち望んでいる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教6|説教6]] 神を喜ばせたいと願う者は、平穏と静寂、優しさと知恵をもって祈りを捧げるべきであり、大声で叫んで他人に迷惑をかけるべきではない。説教には、王座と冠が実際に創造されたものであるかどうか、そしてイスラエルの12の王座についてという2つの質問も含まれている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教7|説教7]] キリストの人間に対する慈愛について。説教にはいくつかの質問と答えも含まれている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教8|説教8]] 祈りの中でキリスト教徒に起こること、そして完全さの尺度について、キリスト教徒が完全な尺度に達することは可能かどうか。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教9|説教9]] 神の約束と預言は、さまざまな試練と誘惑を通して成就し、神のみに従う者は悪魔の誘惑から救われる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教10|説教10]] 謙虚な心と真摯さによって神の恵みの賜物は保存されるが、傲慢さと怠惰によってそれらは破壊される。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教11|説教11]] 聖霊の力は人の心の中で火のようであること、心に湧き上がる考えを見分けるために何が必要か、そしてモーセが柱のてっぺんに立てた死んだ蛇がキリストの象徴であることなど。説教には二つの対話があり、一つはキリストと悪魔、サタンとの対話、もう一つは罪人と同じ罪人との対話である。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教12|説教12]] アダムが神の戒めを破る前、そして自分の姿と天の姿の両方を失った後のアダムの状態について。説教には、非常に有益な質問がいくつか含まれている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教13|説教13]] 神がキリスト信徒に期待する成果。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教14|説教14]] 神に思いと心を捧げる人々は、心の目が開かれ、神が彼らに最も神聖で純粋な神秘を与え、神が恵みを授けてくれることを望みながらそうするのである。天国の善いものを手に入れたいと願う私たちがすべきこと。そして使徒と預言者は窓から差し込む太陽の光にたとえられる。説教ではまた、サタンの「地」と天使の「地」とは何か、そしてどちらも無形で目に見えないものであることを教えている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教15|説教15]] この説教は、世界の救い主であるキリスト・イエスの配偶者に対して、魂がいかに聖潔と貞潔と純潔をもってふるまうべきかを広く教えている。また、復活のときにすべての部分がよみがえるかどうか、悪、恩寵、自由意志、人間の尊厳など、多くの重要な教えに満ちた議論も含まれている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教16|説教16]] 霊的な人は最初の罪から生じる誘惑や逆境にさらされる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教17|説教17]] キリスト教徒の霊的塗油とその栄光について、そしてキリストなしには救われることも永遠の命にあずかることも不可能であることについて。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教18|説教18]] キリスト教徒の宝であるキリストと聖霊について、キリストと聖霊はそれを様々な方法で実践して完成に至る。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教19|説教19]] 進歩し成長したいと願うキリスト教徒は、内在する罪から解放され、聖霊に満たされるために、あらゆる善いことに自らを駆り立てるべきである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教20|説教20]] 内なる人の真の医者であるキリストだけが、魂を癒し、恵みの衣でそれを飾ることができるのである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教21|説教21]] キリスト教徒には、内なる戦いと外なる戦いという二つの戦いが待ち受けている。後者は、地上の煩いから身を引くためのものであり、前者は、心の中で、邪悪な霊の誘惑に対抗するためのものである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教22|説教22]] この世を去る人々の二通りの状態について。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教23|説教23]] 王家の血統から生まれた者だけが高価な王家の真珠を身につけることができるように、神の子だけが天国の真珠を身につけることが許されている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教24|説教24]] キリスト教徒の状態は、商品やパン種のようなものである。商人が地上の利益を蓄えるように、キリスト教徒は世界中に散らばった思いを集める。パン種が塊全体をパン種に変えるように、罪のパン種はアダムの種族全体に浸透する。しかしキリストは、忠実な魂には天の善のパン種を入れる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教25|説教25]] この説教は、キリストによって強められなければ、誰も悪魔の妨害を克服することはできないこと、そして神の栄光を望む者がしなければならないことを教えている。また、アダムの不従順によって私たちは肉欲の束縛に陥ったが、十字架の神秘によってそこから解放されたことも教えている。さらに、涙と神の火の力は偉大であることを教えてくれる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教26|説教26]] 不滅の魂の価値と大切さ、力と効力、そしてそれがいかにしてサタンに誘惑され、誘惑から解放されるかについて。また、非常に素晴らしい教えに満ちたいくつかの質問も含まれている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教27|説教27]] この説教は、前述の説教と同様に、キリスト教徒の尊厳と地位について長々と説明している。そして、神の知恵に満ちたいくつかの質問を織り交ぜながら、自由意志に関する多くの有益なことを教えている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教28|説教28]] この説教は、罪のせいで主が魂の中に住まわれないという魂の災難を描写し嘆き、また、洗礼者ヨハネに関して、女から生まれた者の中で彼より偉大な者はいないと述べている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教29|説教29]] 神は人類に恵みの分配を二通りの方法で行い、公正な裁きによってその成果を要求することを意図している。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教30|説教30]] 人の魂が神の王国に入るには聖霊によって生まれなければならない。そして、それがどのように実現されるかについて。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教31|説教31]] 信者は心を変え、すべての思いを神に集めるべきである。なぜなら、神への奉仕はすべてこれにかかっているからである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教32|説教32]] キリスト教徒の栄光は今も彼らの魂の中に留まり、復活の時に現れ、彼らの敬虔さに応じて彼らの体を栄光に輝かせるであろう。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教33|説教33]] 私たちは神に絶えず注意深く祈るべきである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教34|説教34]] キリスト教徒の栄光については、復活の時に彼らの体に与えられ、彼らは魂と共に啓蒙されるであろう。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教35|説教35]] 古い安息日と新しい安息日について。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教36|説教36]] 魂と肉体の二重の復活と復活した者の様々な栄光について。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教37|説教37]] 楽園と霊的法則について。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教38|説教38]] 真のキリスト教徒を見分けるには、またそれが誰であるかを見分けるには、非常に正確な判断力と知性が求められる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教39|説教39]] 聖書が神から私たちに与えられた理由。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教40|説教40]] すべての美徳とすべての悪徳は互いに結びついており、鎖のように互いにつながっている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教41|説教41]] 魂の秘密の部屋は非常に深く、それは恩恵や邪悪さの成長に比例して成長する。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教42|説教42]] 外的なものではなく、内的なものが人間を前進させたり傷つけたりする。つまり、恵みの霊か邪悪の霊かである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教43|説教43]] キリスト教徒の進歩については、その力の全てが心次第であり、ここでは様々な方法で説明されている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教44|説教44]] 魂の苦しみと病を{{r|癒|いや}}したキリストによって、キリスト教徒の内にどのような変化と再生がもたらされるであろうか。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教45|説教45]] この世のいかなる芸術も富でもなく、ただキリストの出現だけが人間を癒すことができる。この説教は人間と神との偉大な親族関係を説いている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教46|説教46]] 神の言葉とこの世の言葉、そして神の子らとこの世の子らの違いについて。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教47|説教47]] 律法のもとで行われた事柄の寓話的解釈。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教48|説教48]] 神への完全な信仰について。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教49|説教49]] この世の快楽を捨て去ったとしても、あの世の祝福を得なければ十分ではない。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教50|説教50]] 神は聖徒たちを通して奇跡を起こす。
===3. クリソストモス===
[[Wikisource:宗教]]<
* [[マタイ福音書に関する説教]] 目録(クリソストムス)
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*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第14巻/ヨハネ福音書注解|ヨハネ福音書注解]](クリソストモス) (未完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第11巻/使徒行伝の注解|使徒行伝の注解]] (クリソストモス) (未完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第11巻/ローマ人への手紙注解|ローマ人への手紙注解]](完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第12巻/コリント人への手紙第一の注解|コリント人への手紙第一の注解]](未完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ガラテヤとエペソについて/ガラテヤ人への手紙注解|ガラテヤ人への手紙注解]] (完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ガラテヤとエペソについて/エペソ人への手紙注解|エペソ人への手紙注解]] (完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/ピリピ人への手紙注解|ピリピ人への手紙注解]](未完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/コロサイ人への手紙注解|コロサイ人への手紙注解]](完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/テサロニケ人への第一の手紙注解|テサロニケ人への第一の手紙注解]](完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/マタイ26章39節についての説教|マタイ26章39節についての説教]](完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/屋根を突き破って降ろされた中風の患者についての説教|屋根を突き破って降ろされた中風の患者についての説教]](完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/オリンピアスへの手紙|オリンピアスへの手紙]]
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/アンティオキアの人々への彫像に関する説教|アンティオキアの人々への彫像に関する説教]](未完)
===4. オリゲネス===
* [[諸原理について]](オリゲネス)
:* [[諸原理について/序説]]
:* [[諸原理について/I|I]]
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:* [[諸原理について/IV|IV]]
:* [[諸原理について/IV/第1章|IV/第1章]]
:* [[諸原理について/IV/第2章|IV/第2章]]
:* [[諸原理について/解説|解説]]
*[[言葉の受肉について]] [[s:la:De incarnatione Verbi|De incarnatione Verbi]](完)
*[[エレミヤ書とエゼキエル書に関する説教の翻訳]] [[s:la:Translatio Homiliarum in Ieremiam et Ezechielem|Translatio Homiliarum in Ieremiam et Ezechielem]](未完)
*[[イザヤの幻視に関する説教の翻訳]] [[s:la:Translatio homiliarum in visiones Isaiae|Translatio homiliarum in visiones Isaiae]](完)
*[[39の説教の翻訳]] [[s:la:Translatio XXXIX Homiliarum|Translatio XXXIX Homiliarum]]
===5. ニカイア教父シリーズ===
*[[ニカイア以前の教父たち]]
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I]]
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II]]
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻|第1巻]] – エウセビオス: 紀元1年から324年までの教会史、コンスタンティヌス大帝の生涯、コンスタンティヌスを讃える演説
***[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史|第1巻/エウセビオスの教会史]] 入力中
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻|第2巻]] – ソクラテス: 西暦305年から438年までの教会史、ソゾメノス ([[w:en:Sozomen|en]]): 西暦323年から425年までの教会史
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻|第3巻]] – テオドレトス、ヒエロニムスとゲンナディウス、ルフィヌス ([[w:en:Tyrannius Rufinus|en]])とヒエロニムス
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第4巻|第4巻]] – アタナシオス: 選集と手紙
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第5巻|第5巻]] – ニュッサのグレゴリオス: 教義論文、選集および書簡
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第6巻|第6巻]] – ヒエロニムス: 手紙と選集
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻|第7巻]] – エルサレムのキュリロス、ナジアンゾスのグレゴリオス
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第8巻|第8巻]] – バシレイオス: 手紙と選集
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻|第9巻]] – ポワティエのヒラリウス、ダマスコのヨアンネス
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第10巻|第10巻]] – アンブロシウス: 選集と手紙
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第11巻|第11巻]] – スルピティウス・セウェルス、レランスのウィンケンティウス、ヨハネス・カッシアヌス
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第12巻|第12巻]] – レオ1世、グレゴリウス1世
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第13巻|第13巻]] – グレゴリウス1世 (パート2)、シリアのエフレム、アフラハト
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第14巻|第14巻]] – 七つの全地公会議
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻|第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻]]
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:*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第1章|第1巻/第1章]]
:*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第2章|第1巻/第2章]]
:*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第3章|第1巻/第3章]]
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:*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第7章|第1巻/第7章]]
:*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第8章|第1巻/第8章]]
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:*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第10章|第1巻/第10章]]
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:*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第12章|第1巻/第12章]]
|}
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について|第3巻/高名な人々について]](著名人列伝)
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について/ヒエロニムス|ヒエロニムス]](135人)
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について/ゲンナディウス|ゲンナディウス]](99人)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/ルフィヌス/使徒信条の解説|第3巻/ルフィヌス/使徒信条の解説]](ルフィヌス)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/ナジアンゾスのグレゴリオス演説|第7巻/ナジアンゾスのグレゴリオス演説]]
*[[原ニカイア信条]](325年)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第14巻/第二回公会議/聖なる信条|第14巻/第二回公会議/聖なる信条]](374 - 381年)
*[[ニカイア以前の教父たち/第2巻/ヘルマスの牧者]] (完)
===6. ユスティノス===
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/殉教者ユスティノス/トリュフォンとの対話|トリュフォンとの対話]]
===7. エイレナイオス 他===
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第1巻|異端反駁:第1巻]](エイレナイオス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第2巻|異端反駁:第2巻]](エイレナイオス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第3巻|異端反駁:第3巻]](エイレナイオス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第4巻|異端反駁:第4巻]](エイレナイオス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第5巻|異端反駁:第5巻]](エイレナイオス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第3巻/護教的論文/偶像崇拝について|偶像崇拝について]](テルトゥリアヌス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第5巻/キプリアヌス/キプリアヌスの論文/主の祈りについて|主の祈りについて]] (キプリアヌス) (完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/エルサレムのキュリロス/教理講義|教理講義]] (キュリロス) (完)
**[[教理講義4]] 《教義の10の要点について》
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/エルサレムのキュリロス/序説|エルサレムのキュリロス/序説]]
*[[神の言葉の誕生について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス) (完)
:::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]]
===8. ヒラリウス===
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ポワティエのヒラリウス/三位一体論|三位一体論]] (ヒラリウス) (未完)
* [[詩篇の論考]]
** [[詩篇の論考/序文|序文]]
** [[詩篇の論考/詩篇第1篇|詩篇第1篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇2篇|詩篇2篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇9篇|詩篇9篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇13篇|詩篇13篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇14篇|詩篇14篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇51篇|詩篇51篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇61篇|詩篇61篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇62篇|詩篇62篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇67篇|詩篇67篇]]
===9. アンブロシウス===
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第10巻/著作/キリスト教信仰の解説|ニカイア後教父: シリーズ II/信仰について]](アンブロシウス)入力中
* [[信仰について (アンブロシウス)]](完)
* [[ルカ福音書の解説 (アンブロシウス)]](完)
* [[ヘクサエメロン (アンブロシウス)]](第5巻のみが未完)
* [[楽園について (アンブロシウス)]](完)
* [[カインとアベルについて (アンブロシウス)]](完)
* [[ノアと箱舟について (アンブロシウス)]](完)
* [[アブラハムについて (アンブロシウス)]](完)
* [[イサクと魂について]](完)
* [[死の善について]](完)
* [[世界からの逃避について]](完)
* [[ヤコブと祝福された人生について]](未完)
* [[族長ヨセフについて]](未完)
* [[ダビデの詩篇十二篇の解説]](完)
* [[ダビデの詩篇118篇の解説]](未完)
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/プロローグ|プロローグ]]
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/1番目の言葉|1番目の言葉]] アレフ
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/2番目の言葉|2番目の言葉]] ベト
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/3番目の言葉|3番目の言葉]] ギメル
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/4番目の言葉|4番目の言葉]] ダレト
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/5番目の言葉|5番目の言葉]] ヘー
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/6番目の言葉|6番目の言葉]] ワウ
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/7番目の言葉|7番目の言葉]] ザイン
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/8番目の言葉|8番目の言葉]] ヘト
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/9番目の言葉|9番目の言葉]] テト
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/10番目の言葉|10番目の言葉]] ヨド
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/11番目の言葉|11番目の言葉]] カフ
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/12番目の言葉|12番目の言葉]] ラメド
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/13番目の言葉|13番目の言葉]] メム
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/14番目の言葉|14番目の言葉]] ヌン
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/15番目の言葉|15番目の言葉]] サメク
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/16番目の言葉|16番目の言葉]] アイン
* [[ローマ人への手紙注解 (アンブロシアステル)]](完)
* [[コリント人への第一の手紙注解 (アンブロシアステル)]](完)
* [[コリント人への第二の手紙注解 (アンブロシアステル)]](完)
===10. アウグスティヌス===
* [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第7巻/ヨハネ福音書論考|ヨハネ福音書論考]] 入力中
* [[三位一体論 (アウグスティヌス)]] 入力中
===11. レオ1世===
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第12巻/レオ1世/説教|第12巻/レオ1世/説教]](レオ1世)入力中
===12. ダマスコのヨハネ===
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻|正教信仰の正確な解説/第1巻]](ヨハネ・ダマスキン)入力中
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:*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第5章|第5章]]
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*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻|正教信仰の正確な解説/第2巻]]
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*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第4巻|正教信仰の正確な解説/第4巻]]
:::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]]
===13. フィロカリア===
*[[ドブロトリュビエ]] (Philokalia)
*[[ドブロトリュビエ/第1巻|第1巻]]
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/大アントニオスの言葉と彼に関する伝説|大アントニオスの言葉と彼に関する伝説]]
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/大アントニオスの名言の解説|大アントニオスの名言の解説]]
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/アバ・イザヤが弟子たちに語った言葉|アバ・イザヤが弟子たちに語った言葉]](アバ・イザヤ)
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/新米修道士へのルールとアドバイス|新米修道士へのルールとアドバイス]](アバ・イザヤ)
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/アバ・イザヤの言葉|アバ・イザヤの言葉]](アバ・イザヤ)
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/心を守ることについて27章|心を守ることについて27章]](アバ・イザヤ)
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/修道士ニコラスへのメッセージ|修道士ニコラスへのメッセージ]](修行者マルコ)
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/修行者マルコの著作に対するニコラス修道士の反応|修行者マルコの著作に対するニコラス修道士の反応]]
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/霊的法則に関する200章|霊的法則に関する200章]](修行者マルコ)
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/行いによって義とされると考える人々について|行いによって義とされると考える人々について]](修行者マルコ)
*[[ドブロトリュビエ/第2巻|第2巻]]
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/霊的生活の完成度について|霊的生活の完成度について]](ヨハネス・カッシアヌス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/悔い改めの働きの終了について|悔い改めの働きの終了について]](ヨハネス・カッシアヌス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/テオドロスへ 覚醒と祈りについて|テオドロスへ 覚醒と祈りについて]](ヘシュキオス長老)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/祈りに関する153章|祈りに関する153章]](シナイのニール)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/悪の八魂について|悪の八魂について]](シナイのニール)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/悔い改めについて|悔い改めについて]](ヨハネ・クリマクス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/美徳と情熱について–また情熱との戦いについて|美徳と情熱について–また情熱との戦いについて]](ヨハネ・クリマクス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/8つの主要な情熱との戦いについて|8つの主要な情熱との戦いについて]](ヨハネ・クリマクス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/平静さについて|平静さについて]](ヨハネ・クリマクス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/バルサヌフィオスの禁欲的教え|バルサヌフィオスの禁欲的教え]](大バルサヌフィオス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/アバ・ドロテオスの禁欲的教え|アバ・ドロテオスの禁欲的教え]](アバ・ドロテオス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/シリアの聖イサクの禁欲的教え|シリアの聖イサクの禁欲的教え]](シリアのイサク)
*[[ドブロトリュビエ/第3巻|第3巻]]
**[[ドブロトリュビエ/第3巻/霊的知識と識別についての100章|霊的知識と識別についての100章]](フォティケのディアドコス)
**[[ドブロトリュビエ/第3巻/愛についての400章|愛についての400章]](告白者マクシモス)
**[[ドブロトリュビエ/第3巻/愛・禁欲・霊的生活について400章|愛・禁欲・霊的生活について400章]](アバ・タラシオス)
**[[ドブロトリュビエ/第3巻/最も魂をたすける100の章|最も魂をたすける100の章]](エデッサのテオドロス)
**[[ドブロトリュビエ/第3巻/覚醒についての40章|覚醒についての40章]](シナイのフィロテオス)
*[[ドブロトリュビエ/第4巻|第4巻]]
**[[ドブロトリュビエ/第4巻/修道士への禁欲的な指導|修道士への禁欲的な指導]](ストゥディオスのテオドロス)
*[[ドブロトリュビエ/第5巻|第5巻]]
:::新神学者シメオン
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/新神学者シメオンの略歴|新神学者シメオンの略歴]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/実践的および神学的な章|実践的および神学的な章]](新神学者シメオン)
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/敬虔なる長老シメオンの禁欲的な説教|敬虔なる長老シメオンの禁欲的な説教]](彼の師、敬虔者シメオン)
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/信仰について、そしてこの世に生きる人間が完璧を達成するのは不可能だと言う人々へ|信仰について、そしてこの世に生きる人間が完璧を達成するのは不可能だと言う人々へ]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/三つの注意と祈りについて|三つの注意と祈りについて]]
:::ニケタス・ステタトス
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ニケタス・ステタトスの略歴|ニケタス・ステタトスの略歴]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/最初の100の実践的な章|最初の100の実践的な章]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/次の100の自然心理学的章 – 精神の浄化について|次の100の自然心理学的章 – 精神の浄化について]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/最後の100の思索的な章 – 愛と人生の完成について|最後の100の思索的な章 – 愛と人生の完成について
]]
:::シナイのグレゴリオス
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/戒めと教義・警告と約束についての137章|戒めと教義・警告と約束についての137章]](シナイのグレゴリオス)
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/沈黙行者たちへの指示|沈黙行者たちへの指示]](シナイのグレゴリオス)
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/静寂と祈りについての15章|静寂と祈りについての15章]](シナイのグレゴリオス)
:::修道士ニケフォロス
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/覚醒と心を守ることについて|覚醒と心を守ることについて]](修道士ニケフォロス)
:::グレゴリオス・パラマス
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/名誉ある修道女クセニアに|名誉ある修道女クセニアに]](グレゴリオス・パラマス)
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/キリスト教法に基づく十戒|キリスト教法に基づく十戒]](グレゴリオス・パラマス)
:::ダマスコのペトロ
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロ序文|ダマスコのペトロ序文]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロの第1巻|ダマスコのペトロの第1巻]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロの第2巻|ダマスコのペトロの第2巻]]
————————————
===14. 神学的著作===
*[[主の祈り、洗礼、聖体に関する注釈]](モプスエスティアのテオドロス) (完)
* [[口語訳旧約聖書 目次]]{{ext scan link|1=http://jco.ibibles.net/index.htm#%C2%A0%3E%C2%A0}}
* [[口語訳新約聖書 目次]]{{ext scan link|1=http://jco.ibibles.net/index.htm#%C2%A0%3E%C2%A0}}
* [[KJV 旧約聖書続編 目録]] (King James Bible, 1769)
* [[フィラレートのカテキズム]](モスクワの聖フィラレート、1913)(完)
** [[フィラレートのカテキズム 2]]
* [[英国国教会の39箇条についての教理問答]](ジェームズ・ビーヴン、1853)(未完)
* [[短い信条]](ガザーリー、1903英訳ダンカン・B・マクドナルド)(完)
* [[アル・ガザーリーの宗教的・道徳的教え]](ガザーリー、1921英訳サイード・ナワーブ・アリ)
* [[鳩の書]](''Book of the Dove'' [[w:ja:バル・ヘブラエウス|バル・ヘブラエウス]]、1919英訳 A.J. ヴェンシンク)(入力中)
* [[蜂の書]](''The Book of the Bee'' アフラトのソロモン、英訳 [[w:ja:ウォーリス・バッジ|ウォーリス・バッジ]])(入力中)
* [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作]](ジョン・パーカー、1897)(目録)
** [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作/神名論|神名論]]
** [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作/神秘神学|神秘神学]]
* [[修道院の制度について]] "De coenobiorum institutis"(ヨハネス・カッシアヌス)
* [[コラティオネス]](ヨハネス・カッシアヌス)
* [[信仰について (アンブロシウス)]](完)
* [[マルコ福音書注解 (アンセルムス・ラウドゥン)]](グロッサ・オルディナリア)(未完)
* [[聖バルラームと聖ヨサファトの生涯]](ダマスコのヨハネ)(未完)
* [[神の言葉の誕生について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス)(完)
* [[ホモウシオスの受容について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス)(完)
* [[砂漠を讃えて]](リヨンのエウケリウス)(完)
* [[聖書霊的解釈の定式]](リヨンのエウケリウス)(未完)
* [[神の統治について]](マルセイユのサルヴィアヌス)(完)
* [[論考 (ヴェローナのゼノ)]]
* [[言葉の受肉について]] [[s:la:De incarnatione Verbi|De incarnatione Verbi]](オリゲネス)(完)
* [[観想生活について]] [[s:la:De vita contemplativa|De vita contemplativa]](ユリアヌス・ポメリウス)
* [[歴史 (オロシウス)]] [[s:la:Historiae (Orosius)|Historiae (Orosius)]](オロシウス)
* [[詩篇の解説 (カッシオドルス)]] [[s:la:Expositio in Psalterium (Cassiodorus)|Expositio in Psalterium (Cassiodorus)]](カッシオドルス)
* [[説教 (アマセアのアステリウス)]]
**[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教1|説教1]] 金持ちとラザロ
**[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教2|説教2]] 不正な管理人
**[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教3|説教3]] 貪欲に対する戒め
**[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教4|説教4]] カレンダ祭について
**[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教5|説教5]] 離婚について
:::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]]
————————————
* [[イェルサリム大主教聖キリール教訓]](エルサレムのキュリロス)
* [[聖金口イオアン教訓下]](ヨハネ・クリュソストモス)
* [[シリヤの聖エフレム教訓]]
* [[正教要理問答]]
* [[通俗正教教話]](府主教フィラレート)
* [[聖詠講話上編]](ヨハネ・クリュソストモス)
* [[聖詠講話中編]]
* [[新約聖書譬喩略解]]
* [[祈祷惺々集]] {{註|祈りと清醒の教訓集。隠修者フェオファン編集。}}
*#[[祈祷惺々集/我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(1)]]
*#[[祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(1)]]
*#[[祈祷惺々集/克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(1)]]
*#[[祈祷惺々集/シリヤの聖イサアクの教訓(1)]]
*#[[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(1)]]
:(ヨハネ・クリマクス、シナイのヘシュキオス、シナイのフィロテオス、シリアのイサアク、ガザのバルサヌフィオス)
* [[埃及マカリイ全書]](著者は擬マカリオス)
* [[ニケア信経]](ニケア・コンスタンチノープル信経)
* [[使徒信経(天主公教会1911年)]]
* [[使徒信経(日本聖公会1941年)]]
* [[アタナシオ信経]]
* [[信経問答]]
* [[十誡問答]]
* [[吉利支丹文学抄/吉利支丹文学概説及び原本の解題]]
* [[さんぺいとろの御作業 (新漢字)]]
* [[さんふらんしすこの御作業 (新漢字)]]
* [[さんゑうすたきよの御作業]]
* [[こんてむつすむんぢ抄 (新漢字)]](『キリストに倣いて』)
* [[でうすの御性体と御善徳の事 (新漢字)]](『ぎや・ど・ぺかどる』)
* [[御扶けの御恩の事 (新漢字)]]( 同 ){{註|ぎやどぺかどるは興味深い。}}
* [[善人達のよきこんしゑんしやの悦びの事 (新漢字)]]( 同 )
* [[世界と悪の執着に引るゝ人の迷ひを導く事 (新漢字)]]( 同 )
* [[瞋恚に対する了簡の事 (新漢字)]]( 同 )
* [[ほるたれざといふ強き心の事 (新漢字)]]( 同 )
* [[けれいど並びにひいですのあるちごの事 (新漢字)]](『どちりな・きりしたん』)
* [[でうすの御掟十のまだめんとすの事 (新漢字)]]( 同 )
* [[詩四篇・三十一篇・九十一篇(日本聖公会訳)]](+詩百三十四)
* [[詩九十二篇・九十五篇・九十八篇・百篇(日本聖公会訳)]]
* [[詩七十一篇・百十六篇(日本聖公会訳)]](+詩百二十七、詩百三十)
* [[詩二十三篇・三十九篇・九十篇(日本聖公会訳)]]
* [[詩五十一篇]](詩篇第五十一、第五十聖詠)
* [[人類の忘恩に対する償の祈祷]]
:::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]]
===15. 典礼・奉神礼===
* [[ミサ通常文・キリエ・グロリア]](カトリック)
::(+クレド・サンクトゥス・ベネディクトゥス・アニュスデイ)
* [[神聖なる聖体礼儀の歌章の次第]](正教会)
* [[大齋の晩課及び先備聖体礼儀の「主よ爾に籲ぶ」]](正教会)
* [[八調の品第詞(ステペンナ)]](正教会){{註|聖詠119~133を題材にした祈祷文}}
* [[大斎第一週間奉事式略]](おおものいみだいいっしゅうかんほうじしき)
**[[大斎第一週間奉事式略 2]](火曜日)
**[[大斎第一週間奉事式略 3]](水曜日)
**[[大斎第一週間奉事式略 4]](木曜日)
* [[聖パスハの奉事]]
* [[信経]](正教会)
* [[聖詠経]] ([[w:日本ハリストス正教会|日本正教会]]翻訳)
* [[マトフェイ伝06]]
* [[マトフェイ伝07]]
————————————
===16. 仏教===
* [[正信念仏偈 (意訳聖典)]]
* [[歎異抄 (意訳聖典)]]
** [[歎異抄 (意訳聖典 新漢字)]]
* [[蓮如上人御文章 (意訳聖典)]]
* [[七箇條の起請文 (浄土宗全書)]](別名:念仏行者訓條)
* [[横川法語]]{{註|恵心僧都、源信}}
* [[十二問答]]
* [[十二箇條問答]]{{註|法然上人の人柄が優しい。}}
* [[黒田の聖人へつかはす御文]](別名:一紙小消息)
* [[或女房に示されける法語]]
* [[常に仰られける御詞 (法然上人全集)]]
* [[平重衡に示す御詞 (法然上人全集)]]
* [[甘糟太郎忠綱に示す御詞 (法然上人全集)]]
* [[元强盜の張本なりし教阿に示す御詞 (法然上人全集)]]
* [[御臨終の時門弟等に示されける御詞 (法然上人全集)]]
* [[消息法語 (一遍上人語録)]]
* [[門人伝説 (一遍上人語録)]]{{註|興味深い。}}
* [[仏説阿弥陀経 (昭和新纂経典部)]]
===17. イスラム教===
* [[短い信条]](ガザーリー、1903英訳ダンカン・B・マクドナルド)(完)
* [[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え]](ガザーリー、1921英訳サイード・ナワーブ・アリ)
===18. ユダヤ教===
* [[ユダヤ古代誌]] [[s:en:The Antiquities of the Jews|The Antiquities of the Jews]](フラウィウス・ヨセフ)
===19. ギリシャ・ローマ哲学===
* [[トゥスクルム荘対談集]](キケロ)
* [[新プラトン主義哲学者断片集/サッカス (ブイエ訳)]](アンモニオス・サッカス)
==加筆項目==
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* [[聖詠経]](ふりがなを付加)
** [[第一「カフィズマ」]]
** [[第二「カフィズマ」]]
** [[第三「カフィズマ」]]
** [[第四「カフィズマ」]]
** [[第五「カフィズマ」]]
** [[第六「カフィズマ」]]
** [[第十七「カフィズマ」]]
** [[第十八「カフィズマ」]]
** [[第十九「カフィズマ」]]
** [[第二十「カフィズマ」他]]
* [[コンチリサンの略]]{{註|Contrição/Contrition:悔い改め、懺悔という意味}}
* [[白骨の御文]]
* [[主の祈り]]
==リダイレクト==
* [[ディダケー (Riddle translation)]] → [[ニカイア以前の教父たち/第7巻/十二使徒の教訓/十二使徒の教訓]]
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* [[利用者:村田ラジオ/sandbox]] ウェブスター改訂聖書
* [[利用者:村田ラジオ/sandbox2]] マカリオス 大書簡
* [[利用者:村田ラジオ/sandbox3]] ばるらあんと聖じょさはつの御作業 <strike>信仰について 第5巻、ルカ福音書の解説 第8巻</strike>
* [[利用者:村田ラジオ/sandbox4]] トゥスクルム荘対談集 <strike>聖バルラームと聖ヨサファトの生涯</strike>
* [[利用者:村田ラジオ/common.js]]
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===19. 忘備録===
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村田ラジオ
14210
オリゲネス、諸原理についてを校正。
242506
wikitext
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===1. 聖イサク===
[[Wikisource:宗教]]<
* [[シリヤの聖イサアク全書]]
* [[ニネベのイサアク神秘論文集]](A. J. ヴェンシンク)
{|
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:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第30論文|第30論文]] 罪の力と邪悪な働き
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第31論文|第31論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第32論文|第32論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第33論文|第33論文]]
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:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第35論文|第35論文]] 絶え間ない行動とあらゆる種類の道徳を考慮した問答形式の論文
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第36論文a|第36論文a]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第37論文|第37論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第38論文|第38論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第39論文|第39論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第40論文|第40論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第43論文|第43論文]] 霊的な知恵に満ちた有益な言葉
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第44論文|第44論文]] 知識の程度と信仰の程度について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第45論文|第45論文]] 有益な助言
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第46論文|第46論文]] その他の考慮事項
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第47論文|第47論文]] 霊的な事柄における魂の教育という神の摂理に
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第48論文|第48論文]] 魂が常にさらされる光と闇の様々な状態
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第50論文|第50論文]] 様々な考察をまとめた短い教訓集
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第51論文|第51論文]] 知識の3つの段階とその奉仕と衝動との区別、魂の信仰とその中に隠された神秘の宝について
::(a) 知識の第一段階
::(b) 知識の第二段階
::(c) 知識の第三段階。つまり完全な段階
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第53論文|第53論文]] 祈りと、絶えず思い出すことが必然的に求められ、人が区別して唱え、保持することが非常に有益であるその他の事柄について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第54論文|第54論文]] マゲナヌータに関するその他の説明
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第55論文|第55論文]] 魂の中に隠された警戒心を
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第56論文|第56論文]] 人の生命に関する美しい考察
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:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第57論文|第57論文]] 神の愛のための忍耐がどのようにして神の助けを得るのか
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第58論文|第58論文]] 神の近くに住み、認識の生活の中で日々を過ごす人々について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第59論文|第59論文]] 有益な談話
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第60論文|第60論文]] 必然性がなければ、何らかのしるしを望んだり求めたりしてはならないこと
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第61論文|第61論文]] 神は何のために神を愛する人たちへの誘惑を許すのか
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第62論文|第62論文]] 人の中に湧き起こる思考によって、自分がどの段階に属し、どのような思考が続くかを知ることができるということ
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第63論文|第63論文]] 認識の心理状態にある人々は、なぜ肉体の粗雑さに応じて霊的なことを考えるのか
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第64論文|第64論文]] 心中に起こる、祈りによって浄化されるさまざまな状態について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第65論文|第65論文]] 心の警戒に関する指示
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第66論文|第66論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第67論文|第67論文]] 理解可能なものの区別に関して例をあげ、それぞれの使い方を示しての説明
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第68論文|第68論文]] 短いセクション
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第69論文|第69論文]] 思慮ある者はどのように黙想を務めるべきか
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第70論文|第70論文]] 初期知識の微妙な順序
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第71論文|第71論文]] 恩寵から生じる影響について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第72論文|第72論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第73論文|第73論文]] これまでに述べられた内容の説明
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第74論文|第74論文]] 聖人の中に神に似たものを創造している霊的目的について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第75論文|第75論文]] 隠された状態と、そこに存在する力と影響力
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第76論文|第76論文]] 短い言葉
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第77論文|第77論文]] この章は生命力に満ちている
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第78論文|第78論文]] 世俗からの逃避によって得られる…
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第79論文|第79論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第80論文|第80論文]] 徹夜祷とその間の様々な種類の労働について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第81論文|第81論文]] なぜ独居修行者たちはそれ以上に孤独を重んじるのか
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第82論文|第82論文]] 謙虚さはどれほどの名誉を持ち、その地位は
|}
===2. マカリオス===
* [[エジプトのマカリオス50の霊的説教]] (擬マカリオス)(完)
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教1|説教1]] 預言者エゼキエルに記された幻の寓話的解釈。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教2|説教2]] 暗黒の王国、すなわち罪の王国について、そして神だけが私たちから罪を取り除き、邪悪な君主の束縛から私たちを救い出すことができるということについて。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教3|説教3]] 兄弟たちは互いに誠実、単純、愛、平和のうちに生きるべきであり、心の中では競争と戦いを続けるべきである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教4|説教4]] キリスト教徒は、神と天使たちから天の賞賛を得るために、この世での競争を注意深く慎重に成し遂げるべきである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教5|説教5]] キリスト教徒とこの世の人々の間には大きな違いがある。この世の精神を持つ人々は心と精神において地上の束縛に縛られているが、他の人々は天の父の愛を切望し、ただ目の前に父を待ち望んでいる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教6|説教6]] 神を喜ばせたいと願う者は、平穏と静寂、優しさと知恵をもって祈りを捧げるべきであり、大声で叫んで他人に迷惑をかけるべきではない。説教には、王座と冠が実際に創造されたものであるかどうか、そしてイスラエルの12の王座についてという2つの質問も含まれている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教7|説教7]] キリストの人間に対する慈愛について。説教にはいくつかの質問と答えも含まれている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教8|説教8]] 祈りの中でキリスト教徒に起こること、そして完全さの尺度について、キリスト教徒が完全な尺度に達することは可能かどうか。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教9|説教9]] 神の約束と預言は、さまざまな試練と誘惑を通して成就し、神のみに従う者は悪魔の誘惑から救われる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教10|説教10]] 謙虚な心と真摯さによって神の恵みの賜物は保存されるが、傲慢さと怠惰によってそれらは破壊される。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教11|説教11]] 聖霊の力は人の心の中で火のようであること、心に湧き上がる考えを見分けるために何が必要か、そしてモーセが柱のてっぺんに立てた死んだ蛇がキリストの象徴であることなど。説教には二つの対話があり、一つはキリストと悪魔、サタンとの対話、もう一つは罪人と同じ罪人との対話である。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教12|説教12]] アダムが神の戒めを破る前、そして自分の姿と天の姿の両方を失った後のアダムの状態について。説教には、非常に有益な質問がいくつか含まれている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教13|説教13]] 神がキリスト信徒に期待する成果。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教14|説教14]] 神に思いと心を捧げる人々は、心の目が開かれ、神が彼らに最も神聖で純粋な神秘を与え、神が恵みを授けてくれることを望みながらそうするのである。天国の善いものを手に入れたいと願う私たちがすべきこと。そして使徒と預言者は窓から差し込む太陽の光にたとえられる。説教ではまた、サタンの「地」と天使の「地」とは何か、そしてどちらも無形で目に見えないものであることを教えている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教15|説教15]] この説教は、世界の救い主であるキリスト・イエスの配偶者に対して、魂がいかに聖潔と貞潔と純潔をもってふるまうべきかを広く教えている。また、復活のときにすべての部分がよみがえるかどうか、悪、恩寵、自由意志、人間の尊厳など、多くの重要な教えに満ちた議論も含まれている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教16|説教16]] 霊的な人は最初の罪から生じる誘惑や逆境にさらされる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教17|説教17]] キリスト教徒の霊的塗油とその栄光について、そしてキリストなしには救われることも永遠の命にあずかることも不可能であることについて。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教18|説教18]] キリスト教徒の宝であるキリストと聖霊について、キリストと聖霊はそれを様々な方法で実践して完成に至る。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教19|説教19]] 進歩し成長したいと願うキリスト教徒は、内在する罪から解放され、聖霊に満たされるために、あらゆる善いことに自らを駆り立てるべきである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教20|説教20]] 内なる人の真の医者であるキリストだけが、魂を癒し、恵みの衣でそれを飾ることができるのである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教21|説教21]] キリスト教徒には、内なる戦いと外なる戦いという二つの戦いが待ち受けている。後者は、地上の煩いから身を引くためのものであり、前者は、心の中で、邪悪な霊の誘惑に対抗するためのものである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教22|説教22]] この世を去る人々の二通りの状態について。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教23|説教23]] 王家の血統から生まれた者だけが高価な王家の真珠を身につけることができるように、神の子だけが天国の真珠を身につけることが許されている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教24|説教24]] キリスト教徒の状態は、商品やパン種のようなものである。商人が地上の利益を蓄えるように、キリスト教徒は世界中に散らばった思いを集める。パン種が塊全体をパン種に変えるように、罪のパン種はアダムの種族全体に浸透する。しかしキリストは、忠実な魂には天の善のパン種を入れる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教25|説教25]] この説教は、キリストによって強められなければ、誰も悪魔の妨害を克服することはできないこと、そして神の栄光を望む者がしなければならないことを教えている。また、アダムの不従順によって私たちは肉欲の束縛に陥ったが、十字架の神秘によってそこから解放されたことも教えている。さらに、涙と神の火の力は偉大であることを教えてくれる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教26|説教26]] 不滅の魂の価値と大切さ、力と効力、そしてそれがいかにしてサタンに誘惑され、誘惑から解放されるかについて。また、非常に素晴らしい教えに満ちたいくつかの質問も含まれている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教27|説教27]] この説教は、前述の説教と同様に、キリスト教徒の尊厳と地位について長々と説明している。そして、神の知恵に満ちたいくつかの質問を織り交ぜながら、自由意志に関する多くの有益なことを教えている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教28|説教28]] この説教は、罪のせいで主が魂の中に住まわれないという魂の災難を描写し嘆き、また、洗礼者ヨハネに関して、女から生まれた者の中で彼より偉大な者はいないと述べている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教29|説教29]] 神は人類に恵みの分配を二通りの方法で行い、公正な裁きによってその成果を要求することを意図している。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教30|説教30]] 人の魂が神の王国に入るには聖霊によって生まれなければならない。そして、それがどのように実現されるかについて。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教31|説教31]] 信者は心を変え、すべての思いを神に集めるべきである。なぜなら、神への奉仕はすべてこれにかかっているからである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教32|説教32]] キリスト教徒の栄光は今も彼らの魂の中に留まり、復活の時に現れ、彼らの敬虔さに応じて彼らの体を栄光に輝かせるであろう。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教33|説教33]] 私たちは神に絶えず注意深く祈るべきである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教34|説教34]] キリスト教徒の栄光については、復活の時に彼らの体に与えられ、彼らは魂と共に啓蒙されるであろう。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教35|説教35]] 古い安息日と新しい安息日について。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教36|説教36]] 魂と肉体の二重の復活と復活した者の様々な栄光について。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教37|説教37]] 楽園と霊的法則について。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教38|説教38]] 真のキリスト教徒を見分けるには、またそれが誰であるかを見分けるには、非常に正確な判断力と知性が求められる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教39|説教39]] 聖書が神から私たちに与えられた理由。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教40|説教40]] すべての美徳とすべての悪徳は互いに結びついており、鎖のように互いにつながっている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教41|説教41]] 魂の秘密の部屋は非常に深く、それは恩恵や邪悪さの成長に比例して成長する。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教42|説教42]] 外的なものではなく、内的なものが人間を前進させたり傷つけたりする。つまり、恵みの霊か邪悪の霊かである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教43|説教43]] キリスト教徒の進歩については、その力の全てが心次第であり、ここでは様々な方法で説明されている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教44|説教44]] 魂の苦しみと病を{{r|癒|いや}}したキリストによって、キリスト教徒の内にどのような変化と再生がもたらされるであろうか。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教45|説教45]] この世のいかなる芸術も富でもなく、ただキリストの出現だけが人間を癒すことができる。この説教は人間と神との偉大な親族関係を説いている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教46|説教46]] 神の言葉とこの世の言葉、そして神の子らとこの世の子らの違いについて。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教47|説教47]] 律法のもとで行われた事柄の寓話的解釈。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教48|説教48]] 神への完全な信仰について。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教49|説教49]] この世の快楽を捨て去ったとしても、あの世の祝福を得なければ十分ではない。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教50|説教50]] 神は聖徒たちを通して奇跡を起こす。
===3. クリソストモス===
[[Wikisource:宗教]]<
* [[マタイ福音書に関する説教]] 目録(クリソストムス)
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:* [[マタイ福音書に関する説教/説教74|説教74]]
|}
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第14巻/ヨハネ福音書注解|ヨハネ福音書注解]](クリソストモス) (未完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第11巻/使徒行伝の注解|使徒行伝の注解]] (クリソストモス) (未完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第11巻/ローマ人への手紙注解|ローマ人への手紙注解]](完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第12巻/コリント人への手紙第一の注解|コリント人への手紙第一の注解]](未完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ガラテヤとエペソについて/ガラテヤ人への手紙注解|ガラテヤ人への手紙注解]] (完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ガラテヤとエペソについて/エペソ人への手紙注解|エペソ人への手紙注解]] (完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/ピリピ人への手紙注解|ピリピ人への手紙注解]](未完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/コロサイ人への手紙注解|コロサイ人への手紙注解]](完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/テサロニケ人への第一の手紙注解|テサロニケ人への第一の手紙注解]](完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/マタイ26章39節についての説教|マタイ26章39節についての説教]](完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/屋根を突き破って降ろされた中風の患者についての説教|屋根を突き破って降ろされた中風の患者についての説教]](完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/オリンピアスへの手紙|オリンピアスへの手紙]]
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/アンティオキアの人々への彫像に関する説教|アンティオキアの人々への彫像に関する説教]](未完)
===4. オリゲネス===
* [[諸原理について]](オリゲネス)
:* [[諸原理について/序説]]
:* [[諸原理について/第1巻|第1巻]]
{|
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:* [[諸原理について/第1巻/第1章|第1巻/第1章]]
:* [[諸原理について/第1巻/第2章|第1巻/第2章]]
:* [[諸原理について/第1巻/第3章|第1巻/第3章]]
:* [[諸原理について/第1巻/第4章|第1巻/第4章]]
:* [[諸原理について/第1巻/第5章|第1巻/第5章]]
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:* [[諸原理について/第1巻/第6章|第1巻/第6章]]
:* [[諸原理について/第1巻/第7章|第1巻/第7章]]
:* [[諸原理について/第1巻/第8章|第1巻/第8章]]
:* [[諸原理について/第1巻/第9章|第1巻/第9章]]
:* [[諸原理について/第1巻/第10章|第1巻/第10章]]
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:* [[諸原理について/第2巻|第2巻]]
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:* [[諸原理について/第2巻/第2章|第2巻/第2章]]
:* [[諸原理について/第2巻/第3章|第2巻/第3章]]
:* [[諸原理について/第2巻/第4章|第2巻/第4章]]
:* [[諸原理について/第2巻/第5章|第2巻/第5章]]
:* [[諸原理について/第2巻/第6章|第2巻/第6章]]
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:* [[諸原理について/第2巻/第8章|第2巻/第8章]]
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:* [[諸原理について/第2巻/第10章|第2巻/第10章]]
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:* [[諸原理について/第3巻|第3巻]]
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:* [[諸原理について/第3巻/第2章|第3巻/第2章]]
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:* [[諸原理について/第3巻/第4章|第3巻/第4章]]
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:* [[諸原理について/第3巻/第7章|第3巻/第7章]]
:* [[諸原理について/第3巻/第8章|第3巻/第8章]]
|}
:* [[諸原理について/第4巻|第4巻]]
:* [[諸原理について/第4巻/第1章|第4巻/第1章]]
:* [[諸原理について/第4巻/第2章|第4巻/第2章]]
:* [[諸原理について/解説|解説]]
*[[言葉の受肉について]] [[s:la:De incarnatione Verbi|De incarnatione Verbi]](完)
*[[エレミヤ書とエゼキエル書に関する説教の翻訳]] [[s:la:Translatio Homiliarum in Ieremiam et Ezechielem|Translatio Homiliarum in Ieremiam et Ezechielem]](未完)
*[[イザヤの幻視に関する説教の翻訳]] [[s:la:Translatio homiliarum in visiones Isaiae|Translatio homiliarum in visiones Isaiae]](完)
*[[39の説教の翻訳]] [[s:la:Translatio XXXIX Homiliarum|Translatio XXXIX Homiliarum]]
===5. ニカイア教父シリーズ===
*[[ニカイア以前の教父たち]]
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I]]
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II]]
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻|第1巻]] – エウセビオス: 紀元1年から324年までの教会史、コンスタンティヌス大帝の生涯、コンスタンティヌスを讃える演説
***[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史|第1巻/エウセビオスの教会史]] 入力中
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻|第2巻]] – ソクラテス: 西暦305年から438年までの教会史、ソゾメノス ([[w:en:Sozomen|en]]): 西暦323年から425年までの教会史
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻|第3巻]] – テオドレトス、ヒエロニムスとゲンナディウス、ルフィヌス ([[w:en:Tyrannius Rufinus|en]])とヒエロニムス
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第4巻|第4巻]] – アタナシオス: 選集と手紙
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第5巻|第5巻]] – ニュッサのグレゴリオス: 教義論文、選集および書簡
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第6巻|第6巻]] – ヒエロニムス: 手紙と選集
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻|第7巻]] – エルサレムのキュリロス、ナジアンゾスのグレゴリオス
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第8巻|第8巻]] – バシレイオス: 手紙と選集
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻|第9巻]] – ポワティエのヒラリウス、ダマスコのヨアンネス
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第10巻|第10巻]] – アンブロシウス: 選集と手紙
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第11巻|第11巻]] – スルピティウス・セウェルス、レランスのウィンケンティウス、ヨハネス・カッシアヌス
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第12巻|第12巻]] – レオ1世、グレゴリウス1世
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第13巻|第13巻]] – グレゴリウス1世 (パート2)、シリアのエフレム、アフラハト
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第14巻|第14巻]] – 七つの全地公会議
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻|第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻]]
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:*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第1章|第1巻/第1章]]
:*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第2章|第1巻/第2章]]
:*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第3章|第1巻/第3章]]
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|}
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について|第3巻/高名な人々について]](著名人列伝)
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について/ヒエロニムス|ヒエロニムス]](135人)
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について/ゲンナディウス|ゲンナディウス]](99人)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/ルフィヌス/使徒信条の解説|第3巻/ルフィヌス/使徒信条の解説]](ルフィヌス)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/ナジアンゾスのグレゴリオス演説|第7巻/ナジアンゾスのグレゴリオス演説]]
*[[原ニカイア信条]](325年)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第14巻/第二回公会議/聖なる信条|第14巻/第二回公会議/聖なる信条]](374 - 381年)
*[[ニカイア以前の教父たち/第2巻/ヘルマスの牧者]] (完)
===6. ユスティノス===
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/殉教者ユスティノス/トリュフォンとの対話|トリュフォンとの対話]]
===7. エイレナイオス 他===
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第1巻|異端反駁:第1巻]](エイレナイオス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第2巻|異端反駁:第2巻]](エイレナイオス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第3巻|異端反駁:第3巻]](エイレナイオス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第4巻|異端反駁:第4巻]](エイレナイオス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第5巻|異端反駁:第5巻]](エイレナイオス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第3巻/護教的論文/偶像崇拝について|偶像崇拝について]](テルトゥリアヌス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第5巻/キプリアヌス/キプリアヌスの論文/主の祈りについて|主の祈りについて]] (キプリアヌス) (完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/エルサレムのキュリロス/教理講義|教理講義]] (キュリロス) (完)
**[[教理講義4]] 《教義の10の要点について》
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/エルサレムのキュリロス/序説|エルサレムのキュリロス/序説]]
*[[神の言葉の誕生について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス) (完)
:::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]]
===8. ヒラリウス===
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ポワティエのヒラリウス/三位一体論|三位一体論]] (ヒラリウス) (未完)
* [[詩篇の論考]]
** [[詩篇の論考/序文|序文]]
** [[詩篇の論考/詩篇第1篇|詩篇第1篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇2篇|詩篇2篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇9篇|詩篇9篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇13篇|詩篇13篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇14篇|詩篇14篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇51篇|詩篇51篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇61篇|詩篇61篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇62篇|詩篇62篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇67篇|詩篇67篇]]
===9. アンブロシウス===
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第10巻/著作/キリスト教信仰の解説|ニカイア後教父: シリーズ II/信仰について]](アンブロシウス)入力中
* [[信仰について (アンブロシウス)]](完)
* [[ルカ福音書の解説 (アンブロシウス)]](完)
* [[ヘクサエメロン (アンブロシウス)]](第5巻のみが未完)
* [[楽園について (アンブロシウス)]](完)
* [[カインとアベルについて (アンブロシウス)]](完)
* [[ノアと箱舟について (アンブロシウス)]](完)
* [[アブラハムについて (アンブロシウス)]](完)
* [[イサクと魂について]](完)
* [[死の善について]](完)
* [[世界からの逃避について]](完)
* [[ヤコブと祝福された人生について]](未完)
* [[族長ヨセフについて]](未完)
* [[ダビデの詩篇十二篇の解説]](完)
* [[ダビデの詩篇118篇の解説]](未完)
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/プロローグ|プロローグ]]
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/1番目の言葉|1番目の言葉]] アレフ
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/2番目の言葉|2番目の言葉]] ベト
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/3番目の言葉|3番目の言葉]] ギメル
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/4番目の言葉|4番目の言葉]] ダレト
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/5番目の言葉|5番目の言葉]] ヘー
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/6番目の言葉|6番目の言葉]] ワウ
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/7番目の言葉|7番目の言葉]] ザイン
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/8番目の言葉|8番目の言葉]] ヘト
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/9番目の言葉|9番目の言葉]] テト
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/10番目の言葉|10番目の言葉]] ヨド
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/11番目の言葉|11番目の言葉]] カフ
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/12番目の言葉|12番目の言葉]] ラメド
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/13番目の言葉|13番目の言葉]] メム
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/14番目の言葉|14番目の言葉]] ヌン
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/15番目の言葉|15番目の言葉]] サメク
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/16番目の言葉|16番目の言葉]] アイン
* [[ローマ人への手紙注解 (アンブロシアステル)]](完)
* [[コリント人への第一の手紙注解 (アンブロシアステル)]](完)
* [[コリント人への第二の手紙注解 (アンブロシアステル)]](完)
===10. アウグスティヌス===
* [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第7巻/ヨハネ福音書論考|ヨハネ福音書論考]] 入力中
* [[三位一体論 (アウグスティヌス)]] 入力中
===11. レオ1世===
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第12巻/レオ1世/説教|第12巻/レオ1世/説教]](レオ1世)入力中
===12. ダマスコのヨハネ===
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻|正教信仰の正確な解説/第1巻]](ヨハネ・ダマスキン)入力中
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*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第2巻|正教信仰の正確な解説/第2巻]]
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|}
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第4巻|正教信仰の正確な解説/第4巻]]
:::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]]
===13. フィロカリア===
*[[ドブロトリュビエ]] (Philokalia)
*[[ドブロトリュビエ/第1巻|第1巻]]
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/大アントニオスの言葉と彼に関する伝説|大アントニオスの言葉と彼に関する伝説]]
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/大アントニオスの名言の解説|大アントニオスの名言の解説]]
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/アバ・イザヤが弟子たちに語った言葉|アバ・イザヤが弟子たちに語った言葉]](アバ・イザヤ)
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/新米修道士へのルールとアドバイス|新米修道士へのルールとアドバイス]](アバ・イザヤ)
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/アバ・イザヤの言葉|アバ・イザヤの言葉]](アバ・イザヤ)
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/心を守ることについて27章|心を守ることについて27章]](アバ・イザヤ)
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/修道士ニコラスへのメッセージ|修道士ニコラスへのメッセージ]](修行者マルコ)
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/修行者マルコの著作に対するニコラス修道士の反応|修行者マルコの著作に対するニコラス修道士の反応]]
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**[[ドブロトリュビエ/第1巻/行いによって義とされると考える人々について|行いによって義とされると考える人々について]](修行者マルコ)
*[[ドブロトリュビエ/第2巻|第2巻]]
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/霊的生活の完成度について|霊的生活の完成度について]](ヨハネス・カッシアヌス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/悔い改めの働きの終了について|悔い改めの働きの終了について]](ヨハネス・カッシアヌス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/テオドロスへ 覚醒と祈りについて|テオドロスへ 覚醒と祈りについて]](ヘシュキオス長老)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/祈りに関する153章|祈りに関する153章]](シナイのニール)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/悪の八魂について|悪の八魂について]](シナイのニール)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/悔い改めについて|悔い改めについて]](ヨハネ・クリマクス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/美徳と情熱について–また情熱との戦いについて|美徳と情熱について–また情熱との戦いについて]](ヨハネ・クリマクス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/8つの主要な情熱との戦いについて|8つの主要な情熱との戦いについて]](ヨハネ・クリマクス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/平静さについて|平静さについて]](ヨハネ・クリマクス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/バルサヌフィオスの禁欲的教え|バルサヌフィオスの禁欲的教え]](大バルサヌフィオス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/アバ・ドロテオスの禁欲的教え|アバ・ドロテオスの禁欲的教え]](アバ・ドロテオス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/シリアの聖イサクの禁欲的教え|シリアの聖イサクの禁欲的教え]](シリアのイサク)
*[[ドブロトリュビエ/第3巻|第3巻]]
**[[ドブロトリュビエ/第3巻/霊的知識と識別についての100章|霊的知識と識別についての100章]](フォティケのディアドコス)
**[[ドブロトリュビエ/第3巻/愛についての400章|愛についての400章]](告白者マクシモス)
**[[ドブロトリュビエ/第3巻/愛・禁欲・霊的生活について400章|愛・禁欲・霊的生活について400章]](アバ・タラシオス)
**[[ドブロトリュビエ/第3巻/最も魂をたすける100の章|最も魂をたすける100の章]](エデッサのテオドロス)
**[[ドブロトリュビエ/第3巻/覚醒についての40章|覚醒についての40章]](シナイのフィロテオス)
*[[ドブロトリュビエ/第4巻|第4巻]]
**[[ドブロトリュビエ/第4巻/修道士への禁欲的な指導|修道士への禁欲的な指導]](ストゥディオスのテオドロス)
*[[ドブロトリュビエ/第5巻|第5巻]]
:::新神学者シメオン
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/新神学者シメオンの略歴|新神学者シメオンの略歴]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/実践的および神学的な章|実践的および神学的な章]](新神学者シメオン)
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/敬虔なる長老シメオンの禁欲的な説教|敬虔なる長老シメオンの禁欲的な説教]](彼の師、敬虔者シメオン)
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/信仰について、そしてこの世に生きる人間が完璧を達成するのは不可能だと言う人々へ|信仰について、そしてこの世に生きる人間が完璧を達成するのは不可能だと言う人々へ]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/三つの注意と祈りについて|三つの注意と祈りについて]]
:::ニケタス・ステタトス
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ニケタス・ステタトスの略歴|ニケタス・ステタトスの略歴]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/最初の100の実践的な章|最初の100の実践的な章]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/次の100の自然心理学的章 – 精神の浄化について|次の100の自然心理学的章 – 精神の浄化について]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/最後の100の思索的な章 – 愛と人生の完成について|最後の100の思索的な章 – 愛と人生の完成について
]]
:::シナイのグレゴリオス
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/戒めと教義・警告と約束についての137章|戒めと教義・警告と約束についての137章]](シナイのグレゴリオス)
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/沈黙行者たちへの指示|沈黙行者たちへの指示]](シナイのグレゴリオス)
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/静寂と祈りについての15章|静寂と祈りについての15章]](シナイのグレゴリオス)
:::修道士ニケフォロス
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/覚醒と心を守ることについて|覚醒と心を守ることについて]](修道士ニケフォロス)
:::グレゴリオス・パラマス
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/名誉ある修道女クセニアに|名誉ある修道女クセニアに]](グレゴリオス・パラマス)
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/キリスト教法に基づく十戒|キリスト教法に基づく十戒]](グレゴリオス・パラマス)
:::ダマスコのペトロ
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロ序文|ダマスコのペトロ序文]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロの第1巻|ダマスコのペトロの第1巻]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロの第2巻|ダマスコのペトロの第2巻]]
————————————
===14. 神学的著作===
*[[主の祈り、洗礼、聖体に関する注釈]](モプスエスティアのテオドロス) (完)
* [[口語訳旧約聖書 目次]]{{ext scan link|1=http://jco.ibibles.net/index.htm#%C2%A0%3E%C2%A0}}
* [[口語訳新約聖書 目次]]{{ext scan link|1=http://jco.ibibles.net/index.htm#%C2%A0%3E%C2%A0}}
* [[KJV 旧約聖書続編 目録]] (King James Bible, 1769)
* [[フィラレートのカテキズム]](モスクワの聖フィラレート、1913)(完)
** [[フィラレートのカテキズム 2]]
* [[英国国教会の39箇条についての教理問答]](ジェームズ・ビーヴン、1853)(未完)
* [[短い信条]](ガザーリー、1903英訳ダンカン・B・マクドナルド)(完)
* [[アル・ガザーリーの宗教的・道徳的教え]](ガザーリー、1921英訳サイード・ナワーブ・アリ)
* [[鳩の書]](''Book of the Dove'' [[w:ja:バル・ヘブラエウス|バル・ヘブラエウス]]、1919英訳 A.J. ヴェンシンク)(入力中)
* [[蜂の書]](''The Book of the Bee'' アフラトのソロモン、英訳 [[w:ja:ウォーリス・バッジ|ウォーリス・バッジ]])(入力中)
* [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作]](ジョン・パーカー、1897)(目録)
** [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作/神名論|神名論]]
** [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作/神秘神学|神秘神学]]
* [[修道院の制度について]] "De coenobiorum institutis"(ヨハネス・カッシアヌス)
* [[コラティオネス]](ヨハネス・カッシアヌス)
* [[信仰について (アンブロシウス)]](完)
* [[マルコ福音書注解 (アンセルムス・ラウドゥン)]](グロッサ・オルディナリア)(未完)
* [[聖バルラームと聖ヨサファトの生涯]](ダマスコのヨハネ)(未完)
* [[神の言葉の誕生について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス)(完)
* [[ホモウシオスの受容について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス)(完)
* [[砂漠を讃えて]](リヨンのエウケリウス)(完)
* [[聖書霊的解釈の定式]](リヨンのエウケリウス)(未完)
* [[神の統治について]](マルセイユのサルヴィアヌス)(完)
* [[論考 (ヴェローナのゼノ)]]
* [[言葉の受肉について]] [[s:la:De incarnatione Verbi|De incarnatione Verbi]](オリゲネス)(完)
* [[観想生活について]] [[s:la:De vita contemplativa|De vita contemplativa]](ユリアヌス・ポメリウス)
* [[歴史 (オロシウス)]] [[s:la:Historiae (Orosius)|Historiae (Orosius)]](オロシウス)
* [[詩篇の解説 (カッシオドルス)]] [[s:la:Expositio in Psalterium (Cassiodorus)|Expositio in Psalterium (Cassiodorus)]](カッシオドルス)
* [[説教 (アマセアのアステリウス)]]
**[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教1|説教1]] 金持ちとラザロ
**[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教2|説教2]] 不正な管理人
**[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教3|説教3]] 貪欲に対する戒め
**[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教4|説教4]] カレンダ祭について
**[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教5|説教5]] 離婚について
:::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]]
————————————
* [[イェルサリム大主教聖キリール教訓]](エルサレムのキュリロス)
* [[聖金口イオアン教訓下]](ヨハネ・クリュソストモス)
* [[シリヤの聖エフレム教訓]]
* [[正教要理問答]]
* [[通俗正教教話]](府主教フィラレート)
* [[聖詠講話上編]](ヨハネ・クリュソストモス)
* [[聖詠講話中編]]
* [[新約聖書譬喩略解]]
* [[祈祷惺々集]] {{註|祈りと清醒の教訓集。隠修者フェオファン編集。}}
*#[[祈祷惺々集/我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(1)]]
*#[[祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(1)]]
*#[[祈祷惺々集/克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(1)]]
*#[[祈祷惺々集/シリヤの聖イサアクの教訓(1)]]
*#[[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(1)]]
:(ヨハネ・クリマクス、シナイのヘシュキオス、シナイのフィロテオス、シリアのイサアク、ガザのバルサヌフィオス)
* [[埃及マカリイ全書]](著者は擬マカリオス)
* [[ニケア信経]](ニケア・コンスタンチノープル信経)
* [[使徒信経(天主公教会1911年)]]
* [[使徒信経(日本聖公会1941年)]]
* [[アタナシオ信経]]
* [[信経問答]]
* [[十誡問答]]
* [[吉利支丹文学抄/吉利支丹文学概説及び原本の解題]]
* [[さんぺいとろの御作業 (新漢字)]]
* [[さんふらんしすこの御作業 (新漢字)]]
* [[さんゑうすたきよの御作業]]
* [[こんてむつすむんぢ抄 (新漢字)]](『キリストに倣いて』)
* [[でうすの御性体と御善徳の事 (新漢字)]](『ぎや・ど・ぺかどる』)
* [[御扶けの御恩の事 (新漢字)]]( 同 ){{註|ぎやどぺかどるは興味深い。}}
* [[善人達のよきこんしゑんしやの悦びの事 (新漢字)]]( 同 )
* [[世界と悪の執着に引るゝ人の迷ひを導く事 (新漢字)]]( 同 )
* [[瞋恚に対する了簡の事 (新漢字)]]( 同 )
* [[ほるたれざといふ強き心の事 (新漢字)]]( 同 )
* [[けれいど並びにひいですのあるちごの事 (新漢字)]](『どちりな・きりしたん』)
* [[でうすの御掟十のまだめんとすの事 (新漢字)]]( 同 )
* [[詩四篇・三十一篇・九十一篇(日本聖公会訳)]](+詩百三十四)
* [[詩九十二篇・九十五篇・九十八篇・百篇(日本聖公会訳)]]
* [[詩七十一篇・百十六篇(日本聖公会訳)]](+詩百二十七、詩百三十)
* [[詩二十三篇・三十九篇・九十篇(日本聖公会訳)]]
* [[詩五十一篇]](詩篇第五十一、第五十聖詠)
* [[人類の忘恩に対する償の祈祷]]
:::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]]
===15. 典礼・奉神礼===
* [[ミサ通常文・キリエ・グロリア]](カトリック)
::(+クレド・サンクトゥス・ベネディクトゥス・アニュスデイ)
* [[神聖なる聖体礼儀の歌章の次第]](正教会)
* [[大齋の晩課及び先備聖体礼儀の「主よ爾に籲ぶ」]](正教会)
* [[八調の品第詞(ステペンナ)]](正教会){{註|聖詠119~133を題材にした祈祷文}}
* [[大斎第一週間奉事式略]](おおものいみだいいっしゅうかんほうじしき)
**[[大斎第一週間奉事式略 2]](火曜日)
**[[大斎第一週間奉事式略 3]](水曜日)
**[[大斎第一週間奉事式略 4]](木曜日)
* [[聖パスハの奉事]]
* [[信経]](正教会)
* [[聖詠経]] ([[w:日本ハリストス正教会|日本正教会]]翻訳)
* [[マトフェイ伝06]]
* [[マトフェイ伝07]]
————————————
===16. 仏教===
* [[正信念仏偈 (意訳聖典)]]
* [[歎異抄 (意訳聖典)]]
** [[歎異抄 (意訳聖典 新漢字)]]
* [[蓮如上人御文章 (意訳聖典)]]
* [[七箇條の起請文 (浄土宗全書)]](別名:念仏行者訓條)
* [[横川法語]]{{註|恵心僧都、源信}}
* [[十二問答]]
* [[十二箇條問答]]{{註|法然上人の人柄が優しい。}}
* [[黒田の聖人へつかはす御文]](別名:一紙小消息)
* [[或女房に示されける法語]]
* [[常に仰られける御詞 (法然上人全集)]]
* [[平重衡に示す御詞 (法然上人全集)]]
* [[甘糟太郎忠綱に示す御詞 (法然上人全集)]]
* [[元强盜の張本なりし教阿に示す御詞 (法然上人全集)]]
* [[御臨終の時門弟等に示されける御詞 (法然上人全集)]]
* [[消息法語 (一遍上人語録)]]
* [[門人伝説 (一遍上人語録)]]{{註|興味深い。}}
* [[仏説阿弥陀経 (昭和新纂経典部)]]
===17. イスラム教===
* [[短い信条]](ガザーリー、1903英訳ダンカン・B・マクドナルド)(完)
* [[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え]](ガザーリー、1921英訳サイード・ナワーブ・アリ)
===18. ユダヤ教===
* [[ユダヤ古代誌]] [[s:en:The Antiquities of the Jews|The Antiquities of the Jews]](フラウィウス・ヨセフ)
===19. ギリシャ・ローマ哲学===
* [[トゥスクルム荘対談集]](キケロ)
* [[新プラトン主義哲学者断片集/サッカス (ブイエ訳)]](アンモニオス・サッカス)
==加筆項目==
{{resize|120%|この利用者が加筆したもの}}
* [[聖詠経]](ふりがなを付加)
** [[第一「カフィズマ」]]
** [[第二「カフィズマ」]]
** [[第三「カフィズマ」]]
** [[第四「カフィズマ」]]
** [[第五「カフィズマ」]]
** [[第六「カフィズマ」]]
** [[第十七「カフィズマ」]]
** [[第十八「カフィズマ」]]
** [[第十九「カフィズマ」]]
** [[第二十「カフィズマ」他]]
* [[コンチリサンの略]]{{註|Contrição/Contrition:悔い改め、懺悔という意味}}
* [[白骨の御文]]
* [[主の祈り]]
==リダイレクト==
* [[ディダケー (Riddle translation)]] → [[ニカイア以前の教父たち/第7巻/十二使徒の教訓/十二使徒の教訓]]
{{resize|120%|サブページ}}
* [[利用者:村田ラジオ/sandbox]] ウェブスター改訂聖書
* [[利用者:村田ラジオ/sandbox2]] マカリオス 大書簡
* [[利用者:村田ラジオ/sandbox3]] ばるらあんと聖じょさはつの御作業 <strike>信仰について 第5巻、ルカ福音書の解説 第8巻</strike>
* [[利用者:村田ラジオ/sandbox4]] トゥスクルム荘対談集 <strike>聖バルラームと聖ヨサファトの生涯</strike>
* [[利用者:村田ラジオ/common.js]]
:::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]]
-----
===19. 忘備録===
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諸原理について
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*底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis".
*[[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis|Origen De Principiis]]
*ウィキソースによる日本語訳
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[[Category:キリスト教]]
[[Category:教父]]
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===目録===
* [[/序説|序説]]
* [[/第1巻|第1巻]]
**[[/第1巻/第1章|第1章]] 神について
**[[/第1巻/第2章|第2章]] キリストについて
**[[/第1巻/第3章|第3章]] 聖霊について
**[[/第1巻/第4章|第4章]] 離反、あるいは背信について
**[[/第1巻/第5章|第5章]] 理性的な性質について
**[[/第1巻/第6章|第6章]] 終わりまたは完成について
**[[/第1巻/第7章|第7章]] 無形の存在と有形の存在について
**[[/第1巻/第8章|第8章]] 天使について
**[[/第1巻/第9章|第9章]] 『諸原理』第1巻からの断片
**[[/第1巻/第10章|第10章]] 同じものからの別の断片
* [[/第2巻|第2巻]]
**[[/第2巻/第1章|第1章]] 世界について
**[[/第2巻/第2章|第2章]] 肉体の性質の永続性について
**[[/第2巻/第3章|第3章]] 世界の始まりとその原因について
**[[/第2巻/第4章|第4章]] 律法と預言者の神、そして私たちの主イエス・キリストの父は同じ神である
**[[/第2巻/第5章|第5章]] 正義と善について
**[[/第2巻/第6章|第6章]] キリストの受肉について
**[[/第2巻/第7章|第7章]] 聖霊について
**[[/第2巻/第8章|第8章]] 魂(アニマ)について
**[[/第2巻/第9章|第9章]] 世界と、善悪を問わず理性的な生き物の運動、そしてその原因について
**[[/第2巻/第10章|第10章]] 復活、審判、地獄の火、そして罰について
**[[/第2巻/第11章|第11章]] 反対側の約束について
* [[/第3巻|第3巻]]
**[[諸原理について/第3巻/第1章|第1章]] ルフィヌスの序文
**[[諸原理について/第3巻/第2章|第2章]] 第1章 意志の自由について
**[[諸原理について/第3巻/第3章|第3章]] 第1章 意志の自由について(ギリシャ語からの翻訳)
**[[諸原理について/第3巻/第4章|第4章]] 第2章 対立する勢力について
**[[諸原理について/第3巻/第5章|第5章]] 第3章 三重の知恵について
**[[諸原理について/第3巻/第6章|第6章]] 第4章 人間の誘惑について
**[[諸原理について/第3巻/第7章|第7章]] 第5章 世界は時間の中で始まった
**[[諸原理について/第3巻/第8章|第8章]] 第6章 世界の終わりについて
* [[/第4巻|第4巻]]
* [[/解説|解説]]
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Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis" を翻訳
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諸原理について/序説
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*ウィキソースによる日本語訳
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[[Category:オリゲネス]]
}}
諸原理について
————————————
序説
===1===
恵みと真理がイエス・キリストを通して得られたと信じ、確信し、キリストが真理であることを知っている人は皆、キリスト自身の「私は真理である」<ref>ヨハネ 14:6</ref>という宣言に従って 、キリストが真理であることを知っている。彼らは、人々を善良で幸福な生活に駆り立てる知識を、キリストの言葉と教えそのものからしか得ていない。そして、キリストの言葉とは、キリストが人となられ、肉体に宿ったときに語った言葉だけを意味するのではない。なぜなら、その前に、神の言葉であるキリストは、モーセと預言者の中にいたからである。神の言葉がなければ、彼らはどうしてキリストについて預言できたであろうか。そして、この論文を可能な限り簡潔にまとめることが私たちの目的でなければ、この主張の証拠として、モーセや預言者がキリストの霊に満たされて、どのように語り、また行ったかを聖書から示すことは難しくないであろう。ですから、私はヘブル人への手紙<ref> [オリゲネスは、現存する著作の中で、この箇所や他の箇所でも頻繁に(全部で約200回)、ヘブライ人への手紙の著者を聖パウロに帰している。エウセビオス(『教会史』6.25)は、オリゲネスの次の言葉を引用している。「私の意見はこうである。考えは使徒のものである。しかし、言葉遣いと語法は、使徒が言ったことを記録した者、またその主人が口述したことを書き留めた者のものである。したがって、この手紙がパウロの書いたものであると教会が考えるなら、その点を賞賛すべきである。なぜなら、古代の人々が理由もなくこの手紙をそのように伝えたわけではないからである。しかし、この手紙を誰が書き記したかは、神のみが知っている。」S.]</ref>からパウロのこの証言を引用するだけで十分だと思います。彼はこう言っています。「信仰によって、モーセは年老いたとき、ファラオの娘の子と呼ばれることを拒み、罪の快楽をしばらく楽しむよりは、むしろ神の民とともに苦しみを受けることを選び、キリストの侮辱をエジプト人の宝よりも大きな富と考えました。」<ref>ヘブル人への手紙 11:24-26</ref>さらに、キリストが昇天した後、使徒たちを通して語られたことは、パウロの言葉で示されています。「それとも、わたしを通して語るキリストの証拠を求めるのですか。」<ref>2 コリント 13:3</ref>
===2===
しかし、キリストを信じていると公言する人々の多くは、些細なことだけでなく、神や主イエス・キリスト、聖霊など、最も重要な事柄についても意見が分かれています。また、これらだけでなく、他の創造された存在、すなわち力<ref>支配</ref>や聖なる徳<ref>美徳</ref>についても意見が分かれています。そのため、まず最初に、これらのそれぞれについて明確な制限を設け、間違いのない規則を定め、それから他の点の調査に移ることが必要であると思われます。なぜなら、私たちは、キリストが神の子であると信じるようになり、キリスト自身からそれを学ばなければならないと確信した後は、真理を誤った意見であると主張するすべての人々の中で真理を求めることをやめてしまったからです(ギリシャ人や蛮族の多くの人々がそれを知らせようと公言したにもかかわらず)。したがって、キリストの意見を持っていると考える人は多く、また、その中には先人たちと異なる考えを持つ人もいますが、使徒たちから秩序正しく継承され、今日まで教会に残っている教会の教えは今も保たれているので、それだけが教会や使徒の伝統と何ら変わらない真理として受け入れられるべきです。
===3===
さて、聖なる使徒たちがキリストの信仰を説くにあたり、神の知識の探究に多少鈍感な人々に対してさえも、すべての人に必要であると信じたいくつかの点については、極めて明快に語ったことは、知っておくべきです。しかし、彼らの発言の根拠は、聖霊の優れた賜物にふさわしい人々、特に聖霊自身によって言語、知恵、知識の賜物を得る人々に吟味されるべきである。一方、他の主題については、物事がそうなっているという事実を述べるだけで、その存在の仕方や起源については沈黙していた。明らかに、それは、知恵を愛するより熱心な後継者たち、つまり、知恵の受け手としてふさわしい者となるよう準備すべき人々に、才能の成果を示すための課題を与えるためでありました。
===4===
使徒たちの教えの中で明確に伝えられた点<ref>種類</ref>は次のとおりです。
第一に、唯一の神が存在すること。この神がすべてのものを創造し、整えたこと。何も存在しなかった時に、全宇宙が存在するようにされたこと。神は世界の創造の初めから神であり、すべての正しい人々の神であり、アダム、アベル、セツ、エノシュ、エノク、ノア、セム、アブラハム、イサク、ヤコブ、12人の族長、モーセ、預言者たちの神であること。そしてこの神は、預言者たちによって前もって予告していたとおり、主イエス・キリストを遣わされたこと。そして、それはまずイスラエルの民を呼び集め、イスラエルの民が不忠実であった後に異邦人をも呼び集めるためであったこと。主イエス・キリストの父であるこの正しく善良な神が、律法と預言者と福音書をお与えになったこと。この神こそ使徒たちの神であり、旧約聖書及び新約聖書の神でもあるということです。
第二に、(この世に)来られたイエス・キリストご自身は、すべての被造物より前に父から生まれたこと。彼は、万物の創造において父に仕えておられたのであって、「彼によってすべてのものが造られた」<ref>ヨハネ 1:3</ref>こと。終わりの時に、ご自身を(栄光を)脱ぎ捨てて人となり、神であるにもかかわらず受肉し、人となった間も神であり続けたこと。イエスは私たちと同じような体をとったが、唯一の違いは処女から聖霊によって生まれたということ。このイエス・キリストは本当に生まれ、本当に苦しみ、外見上だけ(人間に)共通するこの死に耐えたのではなく、本当に死んだこと。本当に死からよみがえったこと。そして復活後、弟子たちと語り合い、(天に)上げられたということです。
そして、第三に、使徒たちは、聖霊は父と子と名誉と尊厳をもって結びついていると語りました。しかし、聖霊の場合、生まれつきのものか生来のものか<ref>イナトゥス。ルフィヌスが「natus an innatus」と訳した語は、ヒエロニムスがアウィトゥスへの手紙(94別名59)で「factus an infectus」と訳している。彼は『原理』 第 1 巻の誤りを批判して、次のように述べている。「オリゲネスは、聖霊は父と子に次いで尊厳と名誉において第 3 位であると宣言している。そして、聖霊が創造されたかどうかについては知らないと公言しながらも(factus an infectus)、後には聖霊に関する意見を示し、父なる神以外に創造されていないものはないと主張した。」ヒエロニムスは間違いなくγενητὸς ἢ ἀγένητος と読み、ルフィヌスは γεννητὸς ἢ ἀγέννητος と読んだ。—R.</ref>、あるいは神の子であるかどうかは明確に区別されていません。なぜなら、これらは、聖書から私たちの能力の及ぶ限り調べなければならない点であり、注意深い調査を必要とするからです。そして、この聖霊が預言者であれ使徒であれ、聖徒の一人一人に霊感を与えたこと、そして、古い時代の人々の中に一つの霊があり、キリストの到来に霊感を受けた人々の中に別の霊があったわけではないことは、教会全体で最も明確に教えられています。
===5===
これらの点の後にも、使徒の教えは、魂は実体<ref>Substantia.</ref>とそれ自身の生命を持ち、この世を去った後、その功績に応じて報いを受け、その行為によって永遠の生命と祝福がもたらされた場合はそれを相続し、その罪の咎によって永遠の火と罰に引き渡された場合はそれを相続することになっている、というものである。また、死者の中から復活する時があり、その時には「朽ちるものとして蒔かれたものが朽ちないものとして甦り」、また「不名誉なものとして蒔かれたものが栄光のうちに甦る」というものである<ref>1 コリント 15:42-43</ref>。これはまた、教会の教えの中で明確に定義されている。すなわち、すべての理性的な魂は自由意志と意欲を持っており、悪魔とその使いたち、そして逆らう霊たち<ref>勇気、決意</ref>が魂に罪を負わせようと努めるため、魂は それらと闘わなければならない、というものである。しかし、正しく賢明に生きるなら、そのような重荷から解放されるよう努めるべきである。また、そこから、私たちは、たとえ意志に反しても、あらゆる手段で善行や悪行を強いられるような必然性に支配されているわけではないと理解することになる。というのは、もし私たちが自分自身の主人であるなら、ある影響は私たちを罪に駆り立て、他の影響は私たちを救いに導くかもしれない。しかし、星の軌道や動きが人間の行動の原因であると主張する人々がそうであると考えるような、正しい行動や間違った行動を強いられることはない。人間の行動は、意志の自由の影響を超えて起こるものだけでなく、私たち自身の力の範囲内にあるものも含まれる。しかし、魂に関しては、それが種子から伝達の過程によって派生し、その理由や実体が身体の精子粒子自体にあると考えられるのか、それとも魂には別の起源があるのか。そして、この始まり自体は、それが出生によるものであるか否か、あるいは外部から身体に与えられたものであるか否かにかかわらず、教会の教えの中で十分に明確に区別されていません。
===6===
悪魔とその使い、逆らう霊たちに関して、教会の教えは、これらの存在が確かに存在すると定めていますが、それが何であるか、どのように存在するかについては、十分に明確に説明されていません。しかし、ほとんどの人が、悪魔は天使であり、背教者となった彼は、できるだけ多くの天使を自分と一緒に堕落するように仕向け、現在に至るまでこれらの天使が悪魔の使いと呼ばれているという意見を持っています。
===7===
これも教会の教えの一部です。つまり、世界はある時に創造され、始まり、その邪悪さのゆえに滅ぼされるということです。しかし、この世界が存在する前に何があったか、あるいはこの世界が終わった後に何が存在するかは、多くの人々に確実には知られていません。なぜなら、教会の教えにはそれに関する明確な記述がないからです。
===8===
そして最後に、聖書は神の霊によって書かれ、一見して明らかな意味だけでなく、ほとんどの人には気づかれないような意味も持っています。なぜなら、書かれたもの(言葉)は、ある種の神秘の形であり<ref>Sacramentorum. 秘跡</ref>、神聖なものの像だからです。これに関して、教会全体を通して、律法全体は確かに霊的なものであるが、律法が伝える霊的な意味はすべての人に知られているのではなく、知恵と知識の言葉において聖霊の恵みが与えられた人々だけに知られているという意見があります。
ἀσώματον 、すなわち無形のという用語は、他の多くの文献だけでなく、私たちの聖書でも使われておらず、知られていません。そして、もし誰かが、ペテロの教理と題する小論文<ref>エウセビオス(『教会史』第3巻 c. 36)はイグナティウスについて論じ、スミルナの教会への手紙から次のように引用している。「スミルナの人々に手紙を書いたとき、彼(イグナティウス)はイエスについて、どこから引用されたのか分からないが、次のような言葉を用いている。『しかし私は、イエスが復活後に現れたことを知っており、また信じている。そして、イエスがペテロとその仲間のところに来たとき、彼らにこう言った。『私を連れて行き、さわり、私が霊でないことを確かめなさい。』」教会著述家の目録の中で、ヒエロニムスは、この言葉は彼が最近翻訳したナザレ人の福音書からの引用であると述べています。しかし、オリゲネスはここでこれを『ペテロの教理』から引用しており、ルエウスは、この言葉はこれら外典の両方に含まれている可能性があると述べています。</ref>からそれを引用するならば、その中で救い主は弟子たちに「私は無形の悪魔ではありません」<ref>Dæmonium. 悪魔</ref>と言っているようですが、私はまず第一に、その作品は教会の書物には含まれていないと答えなければなりません。なぜなら、それがペテロによって、あるいは神の霊に触発された他の誰かによって書かれたものではないことを私たちは示すことができるからです。しかし、たとえその点が認められたとしても、そこでの ἀσώματονという言葉は、哲学者が無形の性質について論じるときにギリシャ人や異邦人の著者が意図したのと同じ意味を伝えません。というのは、前述の小論文で、彼は「無形の悪魔」という語句を使って、悪魔の体の形や輪郭が何であれ、私たちのこの粗大で目に見える体とは似ていないことを示していたからである。しかし、論文の著者の意図に沿うように、それは、悪魔が持つような、自然に細かく<ref>Subtile. 微妙な</ref>空気でできたように薄い体(このため、多くの人は無形だと考えるか、そう呼んでいる)ではなく、固くて触知できる体を持っていたという意味だと理解されなければならない。ところで、人間の習慣によれば、そのような性質ではないものはすべて、単純な、または無知な人によって無形だと呼ばれている。まるで、私たちが呼吸する空気は、つかんで保持したり、圧力に耐えたりできるような性質の体ではないので、無形であると言うのと同じである。
===9===
しかし、ギリシャの哲学者が ἀσώματον 、つまり「無形の」と呼んでいるものが、聖書の中で別の名前で見つかるかどうかは、調査する必要があります。神自身をどのように理解するかも調査の対象です。つまり、神自身が有体物であり、何らかの形に従って形作られているか、それとも物体とは異なる性質を持っているかです。この点は、私たちの教えでは明確に示されていません。そして、キリストと聖霊について、またすべての魂と理性的な性質を持つすべてのものについて、同じ調査を行う必要があります。
===10===
これも教会の教えの一部です。神の天使や善なる霊たちがおり、それらは人々の救済を成し遂げるために神の僕として仕える存在です。しかし、これらがいつ創造されたのか、どのような性質のものであるのか、どのように存在するのかは、明確に述べられていません。太陽、月、星に関しては、それらが生き物であるか、無生物であるかにかかわらず、明確な救済はありません<ref>[See note, infra, at end of cap. vi. S.]</ref>。
したがって、すべての人が、これらすべての事柄の理由に従って、一連の真理と真理の集合を形成し、明確で必要な陳述によって各主題に関する真理を確かめ、前述のように、聖書で発見したもの、または結果を綿密に追跡して正しい方法に従って演繹した例え話や議論によって、一つの教義の集合を形成したいと望むのであれば、「知識の光で自らを照らしなさい」<ref>ホセア書第10章12節。本文中の語句は欽定訳聖書の訳ではなく、七十人訳聖書の訳で、φωτίσατε ἑαυτοῖς φῶς γνώσεωςとなっている。マソラ本文でתע“וְ ( et tempus )となっているところをオリゲネスは明らかにתעַדַּ ( scientia )と読んでおり、Vau とDaleth の類似性は 転写者の誤りを説明している。</ref>という教訓に従って、このような要素と基礎を利用しなければなりません。
==脚注==
{{Reflist}}
==出典==
*底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis".
*[[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis|Origen De Principiis]]
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諸原理について/第1巻
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*底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis".
*[[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis|Origen De Principiis]]
*ウィキソースによる日本語訳
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}}
諸原理について
————————————
I(第1巻)
*[[諸原理について/I/第1章|第1章]] 神について
*[[諸原理について/I/第2章|第2章]] キリストについて
*[[諸原理について/I/第3章|第3章]] 聖霊について
*[[諸原理について/I/第4章|第4章]] 離反、あるいは背信について
*[[諸原理について/I/第5章|第5章]] 理性的な性質について
*[[諸原理について/I/第6章|第6章]] 終わりまたは完成について
*[[諸原理について/I/第7章|第7章]] 無形の存在と有形の存在について
*[[諸原理について/I/第8章|第8章]] 天使について
*[[諸原理について/I/第9章|第9章]] 『諸原理』第1巻からの断片
*[[諸原理について/I/第10章|第10章]] 同じものからの別の断片
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Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis" I を翻訳
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*底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis".
*[[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis|Origen De Principiis]]
*ウィキソースによる日本語訳
{{DEFAULTSORT:しよけんりについて 100}}
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[[Category:キリスト教神学]]
[[Category:オリゲネス]]
[[Category:諸原理について|100]]
}}
諸原理について
————————————
第1巻
*[[諸原理について/第1巻/第1章|第1章]] 神について
*[[諸原理について/第1巻/第2章|第2章]] キリストについて
*[[諸原理について/第1巻/第3章|第3章]] 聖霊について
*[[諸原理について/第1巻/第4章|第4章]] 離反、あるいは背信について
*[[諸原理について/第1巻/第5章|第5章]] 理性的な性質について
*[[諸原理について/第1巻/第6章|第6章]] 終わりまたは完成について
*[[諸原理について/第1巻/第7章|第7章]] 無形の存在と有形の存在について
*[[諸原理について/第1巻/第8章|第8章]] 天使について
*[[諸原理について/第1巻/第9章|第9章]] 『諸原理』第1巻からの断片
*[[諸原理について/第1巻/第10章|第10章]] 同じものからの別の断片
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諸原理について/第1巻/第1章
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村田ラジオ
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| notes =
*ウィキソースによる日本語訳
{{DEFAULTSORT:しよけんりについて 101}}
[[Category:諸原理について|101]]
}}
'''第1巻'''
==第1章==
::神について
===1===
モーセの書には「われらの神は焼き尽くす火である」<ref>申命記 4:24</ref>とあり、(一方で)ヨハネの福音書には「神は霊です。神を礼拝する者は、霊と真理をもって神を礼拝しなければなりません」<ref>ヨハネ 4:24</ref>とあるため、私たちの聖書の言明に従ってさえ(なお)、神は物体であると主張する人がいることを私は知っています。彼らによれば、火と霊は物体にほかなりません。さて、私はこれらの人々に、神は光であると宣言されている箇所について、彼らが何と言うか尋ねたいと思います。ヨハネは手紙の中で「神は光であり、神には暗さが少しもありません」と書いています<ref>第一ヨハネ 1:5</ref>。実に、神は真理を受け入れる能力のある人々の理解全体を照らす光であり、詩篇第36篇には「あなたの光によって、私たちは光を見る」とあります<ref>詩篇 36:9</ref>。 神の影響力以外に、「だれでも光を見る」神の光と呼べるものは他に何があるでしょうか。それは、人が光に照らされて、すべてのものの真実を完全に見るか、真理と呼ばれる神自身を知るようになることです。「あなたの光の中で、私たちは光を見ます」という表現の意味はこれです。つまり、あなたの御言葉と知恵、すなわちあなたの御子の中に、私たちは父なるあなたを見るのです。光と呼ばれているからといって、太陽の光に似ていると考えられるでしょうか。あるいは、その物質的な光から誰かが知識の原因を引き出し、真理の理解に到達できるなどと想像する根拠が少しでもあるでしょうか。
===2===
それで、もし彼らが、光の性質に関して理性自体が証明した私たちの主張に同意し、神は光のような意味で物体であると理解することはできないことを認めるならば、同様の推論が「焼き尽くす火」という表現にも当てはまるでしょう。なぜなら、神は火ですが、何を焼き尽くすのでしょうか。木や干し草や刈り株などの、物質を焼き尽くすと考えるべきでしょうか。また、この見方では、神がそのような(単に)物質を焼き尽くす火であるなら、何を神の栄光にふさわしいと言えるのでしょうか。しかし、神は確かに焼き尽くし、完全に破壊するということ、信者の心に悪の考え、邪悪な行為、罪深い欲望が入り込むと、それを焼き尽くすということ、そして、神自身の述べられる御言葉、「わたしと父が来て、わたしたちは彼と共に住む」に従って、神の言葉と知恵を受け入れる能力を与えられた魂に、神が息子と共に宿るということについて考えてみましょう<ref>ヨハネ 14:23</ref>。 神は、彼らの悪徳や情熱がすべて消え去った後、彼らを神にふさわしい聖なる神殿にします。さらに、「神は霊です」という表現のせいで、神を物体であると考える人たちには、次のように答えるべきでしょう。聖書では、この粗雑で固い物体に反するものを指し示すときは、それを霊と呼ぶのが慣例です。「文字は殺しますが、霊は生かします」という表現があります<ref>2 コリント 3:6</ref>。 ここで、「文字」とは肉体的(=物質的)なものであり、「霊」とは知的なものを意味し、私たちはそれを「霊的」とも呼んでいます。さらに使徒は、「今日に至るまで、モーセの書が読まれるとき、彼らの心には覆いがかけられている。しかし、主に向かうとき、覆いは取り去られる。主の霊のあるところには、自由がある」と言っています<ref>2 コリント 3:15-17</ref>。人は霊的な理解に改心していない限り、その人の心にはベールがかけられており、そのベール、つまり粗雑な理解によって、聖書そのものが覆われていると言われたり考えられたりしています。そして、モーセが人々に語ったとき、つまり律法が公に朗読されたとき、モーセの顔にベールがかけられたという発言の意味はこれです。しかし、私たちが主に立ち返るなら、そこには神の言葉があり、聖霊が霊的な知識を啓示するところであり、そのときベールは取り去られ、顔の覆いをとり去った状態で、私たちは聖書にある主の栄光を見るでしょう。
===3===
多くの聖徒が聖霊に与っているのだから、聖霊は物体であるとは理解することはできません。肉体は肉体の部分に分かれており、聖徒の一人ひとりがそれに与っています。聖霊は明らかに聖化の力であり、その恵みによって聖化されるに値するすべての人がその一部を持っていると言われています。そして、私たちの言っていることがより理解しやすいように、まったく異なる事柄から例を挙げてみましょう。医学の知識<ref>Disciplina.</ref>や技術に携わっている人は大勢います。では、そうした人々は目の前に置かれた薬と呼ばれる物質の粒子を自分自身に取り、このようにして同じこと(=霊的なことがら)に参加していると考えるべきでしょうか。それとも、むしろ、こう言えるのではないでしょうか。機敏で訓練された心で技術と知識自体を理解するようになった人は皆、治療の技術に与っていると。しかし、医学と聖霊を比較する上で、(この二つが)まったく同じ例であるとは考えられません。なぜなら、これらは、必ずしも聖霊を多くの人が所有する身体であると考えるべきではないことを明らかにするためだけに挙げられたからです。聖霊は、医学の方法や科学とは大きく異なり、聖霊は知的な存在であり<ref>Subsistentia.</ref>、独自の方法で存続し、存在しているのに対し、医学はそのような性質のものではありません。
===4===
さて、私たちは福音書そのものの言葉に移らなければなりません。そこでは「神は霊です」と宣言されており、私たちが述べたことと一致してそれがどのように理解されるべきかを示さなければなりません。というのは、救い主がこれらの言葉をどのような機会に語ったのか、誰の前で語ったのか、そして調査の対象は何であったのかを調べてみるべきなのです。私たちは、疑いなく、神はサマリア人の見解と一致して、神はゲリジム山で礼拝されるべきであると考えていたサマリア人の女性に、神は「神は霊です」と語り、これらの言葉を語ったことがわかります。サマリア人の女性は、イエスがユダヤ人であると信じていたので、神はエルサレムで礼拝されるべきか、それともこの山で礼拝されるべきかを尋ねていました。彼女の言葉は、「私たちの先祖は皆この山で礼拝しました。そして、あなた方は、礼拝すべき場所はエルサレムであると言っています」でした<ref>ヨハネ 4:20</ref>。 サマリア人の女は、エルサレムのユダヤ人とゲリジム山のサマリア人では、各自の土地の特権に応じて、(自分たちの)神への礼拝が正しく、また(相手の神への礼拝が)不当に行われていると考えていましたが、このサマリア人の意見に対して、救い主は、主に従う者は、(礼拝において)特定の場所にこだわることを完全に捨て去らなければならないと答え、このように表現されました。「真の礼拝者が、エルサレムでもこの山でもないところで父を礼拝する時が来ます。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって神を礼拝しなければなりません。」<ref>ヨハネ 4:23-24</ref> 主が霊と真理をいかに論理的に結び付けたかに目を向けてください。主は神を霊と呼び、神を物体と区別し、神を真理と名付けました。それは、神を影や像と区別するためです。エルサレムで礼拝していた人たちは、天にあるものの影や像に服従していたため、真理でも霊でも神を礼拝していませんでした。ゲリジム山で礼拝していた人たちも同じでした。
===5===
これにより、神を少しでも物質的なものと考えるべきだと示唆するかもしれないあらゆる考えをできる限り反駁しました。それゆえ、厳密な真実(の定義)により、私達はこのように述べるでしょう、神は(私達にとって)理解することは不可能であり、計り知ることも不可能である、と<ref>“Inæstimabilem.”</ref>。 知覚または熟考によって神について得られる知識が何であれ、私たちは必然的に、神は私たちが認識しているものよりも、はるかに優れていると信じなければなりません。なぜなら、光の火花や非常に小さなランプの炎に耐えられない人を見て、私たちが述べた以上の程度の光を受け入れることができない視力を持つ人に、太陽の明るさと輝きを伝えたいと望むのと同じように、太陽の輝きは彼が見たこのすべての光よりも言葉では言い表せないほど、計り知れないほど優れ、栄光に満ちていると彼に伝える必要があるのではないでしょうか。したがって、私たちの知性は、肉と血の束縛に閉じ込められ、そのような物質的実体に関与しているために、(元の能力よりも)鈍く、鈍感になっています。私たちの肉体の性質と比較すると、知性ははるかに優れていると評価されていますが、形の無いものを調べて見ようとする努力においては、火花やランプの役割を果たすことはほとんどありません。では、すべての知性、つまり形の無い命の中で、神ほど他のすべてよりも優れているもの、言い表せないほど、計り知れないほど優れているものは何でしょうか。その性質は、人間の知性、最も純粋で聡明知性でさえ、把握したり見たりすることはできません。
===6===
さて、この問題をもっと明確にするために、別の例えを用いると、不合理に思われることはないでしょう。私たちの目は、しばしば光そのものの性質、つまり太陽それ自体を見ることはできません。しかし、窓や光が差し込む小さな開口部から差し込むその輝きや光線を見ると、物体の光の供給源と源がいかに大きいかを思い起こすことができます。同じように、神の摂理の働きとこの世界全体の計画は、神の実際の実体と存在と比較すると、いわば神の性質の一種の光線です。したがって、私たちの知性は、神自身をあるがままに見ることはできませんが、神の働きの美しさと被造物の美しさから世界の父を認識します。したがって、神は、物体であるとか、物体の中に存在するとかではなく、純粋な知的性質であると考えられるべきであり<ref>“Simplex intellectualis natura.”</ref>、いかなる種類の付加物も自身の中に認められません。だから、神はその内部に(物質のように)大きいものや小さいものがあるとは考えられません。神はすべての部分において 一(Monas)であり、また単一性(Henas)であり、すべての知的性質や精神の始まりとなる精神であり、(知的なものの)始源です。しかし、精神は、その運動や作用のために、物理的空間も、感覚的な大きさも、物体の形も、色も、その他の物体や物質の特性である付属物も必要としません。したがって、その純粋で完全に知的な性質<ref>“Natura illa simplex et tota mens.”</ref>は、その動きや働きに遅れやためらいを許してはなりません。そうしないと、神の性質の純粋さが、そのような付属物によって制限されたり、妨げられたりして、万物の始まりであるものが複合的で異なっていることになり、神の本質はただ一つのものであり、あらゆる物質的な混交から自由であるべきはずのものが、一つであるどころか、多くのものから構成されていることになるからです。さらに、心はその性質に従って働き続けるために空間を必要としないことは、私たち自身の心を観察すれば明らかです。なぜなら、心がその限界内にとどまり、いかなる原因によっても損害を受けなければ、状況の多様性によってその機能の遂行が遅れることは決してないからです。また、逆に、特定の場所の性質によって移動性が増加したりすることもないからです。ここで、たとえばを持ち出しましょう。「海上にあって波に揺られている人々の精神は、陸上にいるときよりもかなり衰弱している」と反論する人がいるとしたら、私たちは、(精神の置かれている)状況の違いではなく、精神が結びついている、あるいは結びついている身体の動揺や混乱が、このような状態になっていると信じるべきです。人間の身体が海上で生活することは、不自然であると思われます。そのため、人間の身体は、ある種の不平等によって、だらしなく不規則な方法で精神活動を開始し、陸上で熱病にかかっている人々と同じくらい鈍い感覚で知性の働きを行うように見えます。彼に関しては、病気のせいで精神が以前と同じようにその機能を果たさなくなった場合、その責めは場所ではなく、身体の病気に帰せられるべきであることは明白です。身体は乱れ、無秩序になり、決して自然な条件の下でではなく、(通例とは異なる条件下で)精神にいつもの奉仕を与えます。なぜなら、私たち人間は肉体と魂の結合体で構成された動物であり、このようにしてのみ、私たちは地球上で生きることができるです。しかし、万物の始まりである神は、複合的な存在とみなされるべきではありません。なぜなら、(神という)始まり自体より前に、複合物と呼ばれるものすべてを構成する要素が存在することが発見されるかもしれないからです。また、精神は、行為や働きを行うために身体の大きさを必要としません。例えば、目は、より大きな物体を見るときには拡張されるが、より小さな物体を見るときには圧縮され、収縮される。心は確かに知的な大きさを必要とします。なぜなら、心は身体の成長に合わせてではなく、知性に合わせて成長するからです。なぜなら、心は、身体の成長とともに、20歳や30歳になるまでは、身体的な成長によって大きくなるのではなく、学習の訓練によって知性が研ぎ澄まされるからです。そして、知的な目的のためにるものです。これらは、少年時代や誕生直後には、すぐに獲得されません。これは、精神が自らを訓練するための器官として用いる手足の仕組みが弱く脆弱であるためです。そのため、精神は自身の活動の重荷に耐えることができず、訓練を受け入れる能力を発揮することもできません。
===7===
もし、心と魂自体が身体であると考える人がいるなら、私は彼らが答えとして、そのような重要で困難で微妙な主題について、それがどのようにして理由と主張を受け取るのかを私に教えてくれることを望みます。どこから記憶力を得るのか。そして、目に見えない<ref>「見える」と読むものもある。</ref>ものの直覚はどこから来るのか。身体はどのようにして形の無い存在を理解する能力を持つのか。身体の性質はどのようにしてさまざまな技術の過程を調査し、物事の理由を直覚するのか。また、明らかに無形である神の真理をどのようにして知覚し理解することができるのか。確かに、耳や目の身体の形状や形態自体が聴覚や視覚に何らかの貢献をしており、神によって形成された個々の部分は、その形状の質自体からさえ、それらが自然に割り当てられた目的に何らかの適応性を持っているという意見を持つ人がいるなら別ですが。同様に、魂や精神は、個々のものを知覚し理解するために、また生命の運動によって働かされるために、意図的に創造されたと理解するべきと考えることもできます。しかし、精神が理性であり、知的な存在として行動することに関して、精神の色彩が何であるかを誰が説明したり述べたりできるのか、私にはわかりません。さらに、精神や魂に関して私たちがすでに述べたこと、つまりそれが身体の全体よりも優れているという点について、確認し説明するため、次の言明を追加することができます。すべての身体感覚の根底には、ある特定の感覚的存在がある<ref>「固有の感覚存在」。</ref>。身体感覚が働く感覚。例えば、色、形、大きさは視覚の基盤であり、声や音は聴覚の基盤であり、匂いの良し悪しは嗅覚の基盤であり、味覚の基盤であり、熱さや冷たさ、硬さや柔らかさ、ざらつきや滑らかさは触覚の基盤です。上に挙げた感覚のうち、心の感覚が最も優れていることは誰の目にも明らかです。それなら、劣った感覚のもとに実体が置かれ、その力を発揮するのに、他のどの力よりも優れたこの力、すなわち心の感覚のもとには実体の性質の何ものも置かれず、知的性質の力が偶然、または物体に付随して生じるというのは、どうして不合理に思えないでしょうか。このように主張する人々は、疑いなく、自分たちの中にあるより優れた実体を軽視しています。いや、そうすることによって、彼らは神自身に対しても不正を行っています。なぜなら、彼らは神が肉体によって理解されると考え、彼らの見解によれば、神は物体であり、肉体によって理解または知覚されるものであると考えたからです。そして彼らは、心が神と一定の関係を持ち、心自体が神の知的似姿であり、これによって心は神の性質について何らかの知識に達する可能性があることを理解しようとしません。特に、心が肉体から分離され、浄化されることに関しては、なおさらです。
===8===
さて、おそらくこれらの宣言は、聖書から神聖な事柄について教えられたいと望み、その源から、神の性質が物質の性質を超越していることを証明してもらいたいと望む人々にとっては、それほど重要ではないと思われるかもしれません。したがって、使徒がキリストについて語るとき、「彼は、見えない神の似姿であり、すべての被造物のなかで最初に生まれた者である」と宣言しているのと同じことを言っていないかどうかを見てください<ref>コロサイ 1:15</ref>。ある人が考えているように、神の性質はある人には見え、他の人には見えないということではありません。使徒は「人には見えない神の像」または「罪人には見えない」とは言わず、一貫して次の言葉で神の性質について宣言しています。「見えない神の似姿」と。さらに、ヨハネは福音書の中で、「いまだかつて神を見た者はいない」<ref>ヨハネ 1:18</ref>と主張するとき、理解力のあるすべての人に、神には目に見える性質などないということを明白に宣言しています。それは、神が本来目に見える存在であり、より弱い被造物の視界から単に逃れたり、混乱させたりしているのではなく、神の存在の性質上、神を見ることは不可能であるからです。そして、あなたが私に、独り子自身について、本来目に見えない神の性質は神にも見えないのかと尋ねるなら、そのような質問が馬鹿げているとか不敬虔だとは思う必要はありません。なぜなら、私たちがあなたに論理的な理由を与えるからです。見ることと、知ることと別のことです。見ることと見られることは物体の特性であり、知ることと知られることは知的存在の属性です。したがって、物体の特性であるものは何でも、父にも子にも当てはめることはできません。しかし、神性の性質に属するものは、父と子に共通です<ref>「それは父と子の間にあります」</ref>。最後に、イエス自身も、福音書の中で、「子を除いて父を見た者はなく、父を除いて子を見た者はいない」と述べるのではなく、むしろ、こう言っています。「父のほかに子を知る者はなく、子のほかに父を知る者はいない。」<ref>マタイ 11:27</ref>これによって、肉体の性質の中で見る、見られると呼ばれるものはすべて、父と子の間では、視覚の弱さではなく、知識の力によって知る、知られることと呼ばれていることが明確に示されています。したがって、見ることも見られることも、無形で目に見えない性質に適切に当てはめることはできないため、福音書では、父が子に見られたり、子が父に見られたりするのではなく、一方が他方に「知られる」と言われています。
===9===
ここで、もし誰かが(私たちに反論するために)「心の清い人は幸いである。彼らは神を見るであろう」<ref>マタイ 5:8</ref>と書かれている箇所を私たちの前に示したとしたら、まさにその箇所のゆえに、私たちの立場はさらに強められるだろうと私は考えます。なぜなら、心で神を見るということは、上記の私たちの説明によれば、心で神を理解し知ること以外に何があるでしょうか。感覚器官の名前は、魂に頻繁に当てはめられ、魂は心の目で見る、つまり知性の力によって知的な行為を行うと言われることがあります。また、魂は、言葉のより深い意味を認識するとき、耳で聞くと言われています。また、天から下って来る命のパンを噛んで食べるとき、歯を使うとも言われます。同様に、魂は、他の器官の働きを利用すると言われ、それらは、肉体の名称から移され、魂の力に当てはめられ、ソロモンの言葉によれば、「あなたは神の感覚を見出すだろう」と言われています<ref>箴言 ii. 5を参照。</ref>。というのは、パウロは、私たちの中に二種類の感覚があることを知っていたからです。一つは死すべき、朽ちる、人間的な感覚で、もう一つは不死で知的な感覚で、パウロはこれを神的な感覚と名付けました。ですから、目ではなく、純粋な心、つまり知性によって、ふさわしい人々は神を見ることができるのです。確かに、聖書の古いものも新しいものもすべて、「心」という言葉が「知性」、つまり知力の代わりに何度も使われているのを見いだすでしょう。ですから、このようにして、たとえ主題の尊厳からは程遠いものであっても、私たちは、人間の理解力の限界の下でそれを理解する者として、神の本性について語ってきたのです。次に、キリストの名が何を意味するのかを見てみましょう。
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==脚注==
{{Reflist}}
==出典==
*底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/I/Chapter 1".
*[[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De PrincipiisI/Chapter 1|Origen De Principiis/I/Chapter 1]]
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Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De PrincipiisI/Chapter 1" を翻訳
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諸原理について/第1巻/第2章
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2026-05-17T02:35:44Z
村田ラジオ
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235033
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*ウィキソースによる日本語訳
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[[Category:諸原理について|102]]
}}
'''第1巻'''
==第2章==
::キリストについて
===1===
まず第一に、キリストが神の独り子であるという点でキリストにある神性の性質と、この終わりの時代に神の摂理(恵みの)の目的のために彼が身につけた人間性は別のものであることに注意しなければなりません。したがって、神の独り子が個人の状況や見解に応じてさまざまな名前で呼ばれていることから、まずは神の独り子が何であるかを突き止めなければなりません。ソロモンの言葉によれば、彼は知恵と呼ばれています。「主は、その道の初め、その御業の初めに、私を創造された。主は、他のすべてのものを造る前に、世々の初めに私を創造された。初めに、地を形づくる前、水の源を湧き出させる前、山々が堅く立つ前、すべての丘が造られる前に、主は私を創造された。」<ref>[[s:ja:箴言(文語訳)#8:22|箴言8章22-25節]]。本文の読み方はウルガタ訳聖書の読み方とかなり異なります。</ref> 彼はまた、使徒が宣言したように、「すべての被造物の初子である」という長子とも呼ばれています<ref>コロサイ 1:15</ref>。 しかし、長子は本質的に知恵とは別の存在ではなく、同一人物です。最後に、使徒パウロは「キリストは神の力であり、神の知恵である」と述べています<ref>1 コリント 1:24</ref>。
===2===
しかしながら、私たちが彼を神の知恵と呼ぶとき、私たちが非人格的な何か<ref>実体的な何か</ref>を意味していると想像してはいけません。つまり、たとえば、私たちが彼を知恵に恵まれた生き物ではなく、人々を賢くする何か、彼の美徳と知性を受け入れる能力を与えられた人々の心に自分自身を捧げ、植え付けるものであると理解していると仮定してください。したがって、神の独り子が彼の知恵の位格的存在である<ref>実質的に</ref>ことが一度正しく理解されると、私たちの好奇心がこれ以上進むべきかどうか、またはその ὑπόστασις {{註|ヒュポスタシス 実在}}または実体に何か物質的な性質が含まれているという疑いを抱くべきかどうかはわかりません。なぜなら、物質的なものはすべて、形、色、または大きさによって区別されるからです。そこで、健全な感覚を持つ人で、知恵が知恵であるかどうかに関して、知恵に形、色、または大きさを求める人が誰かいるでしょうか。そして、神について敬虔な思いや感情を抱くことのできる者であれば、父なる神がこの知恵を生み出さずに、一瞬たりとも存在したことがあるなどと想像したり信じたりできるでしょうか<ref>重要な点まで</ref>。 その場合、神は知恵を生み出す前に知恵を生み出すことができなかったので、以前は存在しなかった知恵を後から呼び起こした、あるいは――これは神に対して不敬なことであるが――確かに神はその力を持っていたが、それを使うことを望まなかった、と言わざるを得ない。どちらの仮定も、誰の目にも明らかであるが、同様に不合理で不敬な説である。なぜなら、それらは、神が無能な状態から有能な状態へと進歩したか、あるいは、力を持っていたにもかかわらず、それを隠し、知恵の創出を遅らせた、ということになるからである。それゆえ、私たちは常に、神は独り子の父であり、独り子は確かに神から生まれ、神から神であるものの、いかなる始まりもなく、時間の区分によって測定できるものだけでなく、心だけが自分自身の中で直覚できるもの、つまり、いわば理解力の裸の力で見ることができるものさえも、神から派生したものであると信じてきました。したがって、私たちは、理解または表現できるいかなる始まりよりも前に知恵が生成されたと信じなければなりません。そして、来たるべき創造の創造力のすべて<ref>未来の創造物のすべての美徳と奇形。</ref>は、知恵(元のものであろうと派生したものであろうと)の存在に含まれており、予知の力によって事前に形成され、配置されていました。知恵は、ソロモンの言葉を借りれば、知恵自身に描写され、予示されていたこれらの生き物のために、神の道の始源として創造されたと言っているのです。知恵は、すべての創造物の始源、形、種を自らの内に含んでいたということです。
===3===
さて、知恵は神の道の始まりであり、創造され、すべての被造物の種と始源をあらかじめ形作り、その中に含んでいると言われていることを理解したのと同じように、知恵は神の言葉であると理解しなければなりません。なぜなら、知恵は他のすべての存在、つまり宇宙の創造物に、神の知恵に含まれる神秘と秘密の性質を明らかにするからです。この理由で知恵は言葉{{註|ロゴス}}と呼ばれています。それは、いわば心の秘密の解釈者だからです。したがって、『パウロ行伝』<ref>この作品は、エウセビオスの『伝道者の歴史』第 3 巻第 3 節と第 25 節で、教会で流布している偽書の一つとして言及されています。『パウロとテクラの行伝』は『パウロ行伝』とは別の作品です。引用されている「Hic est verbum animal vivens」という言葉は、ヘブライ語 iv. 12, ζῶν γὰρ ὁ λόγος τοῦ Θεοῦ の訛りと思われます。 [Jones on the Canon、第 2 巻、353~411 ページ、パウロとテクラについて。著者のこの引用については、Lardner, Credib .、ii. p. 539 を参照してください。]</ref>に見られる「ここに生きた言葉がある」という言葉は、私には正しく使用されているように思われます。しかし、ヨハネは、より崇高で適切な方法で、福音書の冒頭で、神を{{r|言葉|ロゴス}}であると特別な定義で定義する際に、「神は{{r|言|ことば}}であった<ref> あるいは、「そして{{r|言|ことば}}は神であった。」</ref>。これは初めに神と共にあった。」と言います。そこで、神の{{r|言葉|ロゴス}}や知恵に始まりを帰する者は、生まれざる父自身に対して不敬の罪を犯さないように注意すべきである。なぜなら、彼は、神が常に父であり、{{r|言葉|ロゴス}}を生成し、時代や年代、あるいはそのように称され得る他の何と呼ぼうと、それ以前のすべての時代において知恵を持っていたことを否定しているからです。
===4===
したがって、この子は、存在するすべてのものの真理であり命でもある。そして理性がある。なぜなら、創造されたものは、命からその存在を引き出さなければ、どうして生きることができるだろうか。あるいは、存在するものは、真理から降りてこなければ、どうして真に存在することができるだろうか。あるいは、言葉や理性が以前に存在していなかったら、どうして理性的な存在が存在することができるだろうか。あるいは、知恵がなかったら、どうして賢くなれるだろうか。しかし、ある者たちも命から脱落し、衰退によって自ら死を招くことになるので(死は命からの離脱にほかならない)、かつて神によって命を楽しむために創造された存在が完全に滅びるはずはないので、死の前に、来たるべき死を滅ぼすような力が存在すること、そして、私たちの主であり救い主である復活の型があること、そして、この復活が神の知恵と言葉と命にその根拠があることが必要だった。そして次に、創造された人々の中には、彼らが所有する祝福を穏やかに適度に享受しながら、常に不変かつ不動のままでいることを望む者がいなかったため、彼らの中にあった善が、本性や本質によってではなく偶然に彼らのものとなった結果、歪められ、変化し、彼らの立場から外れてしまった者がいたため、神の言葉と知恵が道とされた。そして、それはそれに沿って歩む者を父に導くので、そのように名付けられた。
したがって、神の知恵について私たちが述べたことはすべて、神の子が生命であり、言葉であり、真理であり、復活であることによって、神の子について適切に適用され、理解されるであろう。なぜなら、これらすべての称号は神の力と働きから派生したものであり、そのどれにも、大きさ、形、または色のいずれかを示すと思われる物質的な性質の何かを理解するための根拠はわずかもないからである。私たちの間に現れる人間の子供たち、または他の生き物の子孫は、彼らが生み出された人々の種に対応しているか、彼らがその子宮で形成され、養われた母親から派生しており、それが何であれ、彼らがこの人生に持ち込み、生まれたときに一緒に運ぶものである<ref>“Quoniam hi qui videntur apud nos hominum filii, vel ceterorum animalium, semini eorum a quibus seminati sunt respondent, vel earum quarum in utero formantur ac nutriuntur, habent ex his quidquid illud est quod in lucem hanc assumunt, ac deferunt processuri.”おそらく最後の 2 つの単語は「deferunt processuris」、つまり「彼らから出てくる運命にある人々、つまり彼らの子孫にそれを引き渡す」であるべきです。</ref>。 しかし、父なる神を、その独り子の世代において、およびその本質<ref>Subsistentia。ここを「substantia」と読む人もいるでしょう。</ref>において、そのような行為に従事する人間または他の生き物と比較することは、恐るべきことであり、不法である。なぜなら、私たちは必然的に、神には、単に物においてだけではなく、思考によっても思い描くことも知覚によっても発見することさえできない、いかなる比較も許さない、何か例外的で価値のあるものがあると考えなければならないからです。そうすれば、人間の心は、生まれていない神がどのようにして独り子の父とされたかを理解できるはずです。なぜなら、神の生成は、太陽から生み出される輝きと同じくらい永遠で永久だからです。なぜなら、彼が息子とされるのは<ref>Per adoptionem Spiritus。ここでの元の言葉はおそらくεἰσποίησις τοῦ πνεύματοςであり、ルフィヌスは創世記2章7節への言及を誤解しているようです。専門的神学的な意味での「養子縁組」に対して、テキストの言葉はいかなる言及も持つことはできません。—シュニッツァー。</ref>、 命の息吹を受けることによってではなく、外的な行為によってではなく、神自身の性質によるからです。
===5===
では、私たちが述べたこれらの主張が、聖書の権威によってどのように裏付けられているかを確かめてみましょう。使徒パウロは、独り子は「見えない神の似姿」であり、「すべての被造物の初子」であると述べています<ref>コロサイ 1:15</ref>。 また、ヘブライ人への手紙の中で、彼は独り子について「神の栄光の輝き、神の本質の完全な似姿」であると述べています<ref>ヘブル 1:3</ref>。 さて、[[s:ja:ソロモンの智慧 第七章|ソロモンの知恵]]と呼ばれる論文には、神の知恵について次のような記述があります。「知恵は神の力の息吹であり、全能者の栄光の最も純粋な流出物である<ref> ἀπόῤῥοια. 必然的に。結果。</ref>。」<ref>ソロモンの智慧 7:25</ref> したがって、汚れたものは何も知恵に降りかかることはできません。知恵は永遠の光の輝きであり、神の働きの汚れのない鏡であり、神の善良さの似姿だからです。さて、私たちは、以前と同じように、知恵は、すべてのものの始まりである彼の中にのみ存在すると言います。彼からは、すべての知恵が生まれます。なぜなら、彼自身が、生まれながらに息子である唯一の存在であり、したがって独り子と呼ばれているからです。
===6===
では、「目に見えない像」という表現をどのように理解すべきかを見てみましょう。そうすれば、神がその子の父と呼ばれるのが当然であることがわかります。まず、人間の間で慣習的に像と呼ばれているものから結論を導きましょう。それは、木や石などの物質に描かれたり彫刻された像と呼ばれることがあります。また、子供の特徴が父親に似ていることをまったく裏切らない場合、子供が親の像と呼ばれることもあります。したがって、神の像と似姿に形作られたその人間は、最初の例え話によく似ていると思います。しかし、神の意志があれば、創世記の箇所を解説するときに、彼についてより正確に理解するでしょう。しかし、今私たちが話している神の子の像は、目に見えない神の目に見えない像であるという点でも、上記の例の2番目と比較することができます。これは、聖書によれば、アダムの像は彼の息子セトであると私たちが言うのと同じです。その言葉は、「そしてアダムは彼自身の似姿に、彼自身の像に従ってセトを生んだ。」です<ref>創世記 5:3</ref>。 さて、この像には、父と子に属する性質と実体の統一が含まれています。なぜなら、もし子が父が行うすべてのことを同じように行うなら、父と同じようにすべてのことを子が行うおかげで、父の像が子の中に形作られ、子は父から生まれ、心から生じる父の意志の行為のようになります。したがって、父の意志だけで、父が存在を望むものの存在に十分であるべきだと私は考えています。なぜなら、父は意志を実行する際に、彼の意志の助言によって知らされる方法以外の方法を使用しないからです。そして、このようにして、存在も<ref> Subsistentia.</ref>御子の創造は御子によってなされる。というのは、この点は、父なる神以外には何も生まれていないもの、すなわち生まれていないものはないと考える人たちによって、何よりもまず主張されなければならない。そして、神の性質をいくつかの部分に分割し、父なる神をできる限り分割するような、ある種の放出を自分たちに思い描く人たちの不合理に陥らないように注意しなければならない。なぜなら、無形の存在に関してそのようなことを少しでも疑うことは、不敬の極みであるだけでなく、最大の愚行のしるしであり、無形の性質に物理的な分割があるはずであるという、いかなる知的な概念からも最も遠いからである。それゆえ、むしろ、意志の行為が理解から生じ、いかなる部分も切り離したり、そこから分離したり、分けたりしないのと同様に、父は、御子を、御自身の似姿として生んだと想定されるべきである。すなわち、御子自身が本来目に見えないように、御子もまた、目に見えない似姿を生んだのである。なぜなら、御子は言葉であり、それゆえ、御子の中に感覚で認識できるものがあると理解すべきではないからです。御子は知恵であり、知恵には物質的なものを疑う余地はありません。御子は真の光であり、この世に来るすべての人を照らすものですが、この太陽の光とは何の共通点もありません。したがって、私たちの救い主は目に見えない神の似姿であり、父自身と比較すると真理です。そして、御子が父を啓示する私たちと比較すると、御子は私たちが父を知るための似姿です。御子は、御子と、御子が喜んで啓示する人以外には誰も知りません。そして、御子を啓示する方法は理解を通してです。御子自身を理解する人は、御子自身の言葉に従って、結果として父も理解します。「私を見た者は、父をも見たのです。」<ref>ヨハネ 14:9</ref>
===7===
しかし、私たちはパウロがキリストについて「神の栄光の輝きであり、神の本質の完全な現れである」<ref>ヘブル 1:3</ref>と言っている言葉を引用したので、このことからどのような考えを抱くべきかを見てみましょう。ヨハネによると、「神は光です」。したがって、独り子はこの光の栄光であり、輝きが光から生じるように、神自身から不可分に生じ、すべての被造物を照らします。なぜなら、彼が道であり、父に導く方法、彼が言葉であり、知恵の秘密と知識の奥義を解釈し、理性的な被造物にそれらを知らせる方法、そしてまた真理であり、命であり、復活である方法についてすでに説明したことと一致して、同じように、彼が輝きである意味も理解する必要があります。なぜなら、その輝きによって、私たちは光自体が何であるかを理解し、感じるからです。そしてこの輝きは、人間の弱くて脆い目に優しく優しく現れ、いわば徐々に訓練し、光の輝きに耐えられるように慣れさせ、主自身の教え「あなたの目から梁を追い出せ」<ref>ルカ 6:42</ref>に従って、視覚を妨げるものや妨害するものをすべて取り除くと、人間は光の輝きに耐えることができるようになり、この点でも人間と光との間の一種の仲介者にもなります。
===8===
しかし使徒は、イエスをその栄光の輝きだけでなく、その人格や存在の明確な象徴として呼んでいるので<ref>ヘブル 1:3。本質または存在のこと</ref>、ペルソナと実体の意味が何であれ、神自身のペルソナ{{註|persona 位格}}のほかに、そのペルソナの別の姿があると言えるのかを問うことは、無意味ではないようです。それでは、神の子は、神の言葉であり知恵であり、父を知る唯一の存在であり、父が望む者(つまり、神の言葉と知恵を受け取る能力のある者)に父を明らかにするので、神を理解して認めさせるというまさにこの点に関して、神のペルソナと実体の姿と呼ばれることはできないでしょうか。つまり、神が他の人に認識され、理解される手段を知らせたいと願うその知恵が、まず自分自身を説明するとき、そのようにすることで、神のペルソナの明確な姿と呼ばれることができるのです。しかし、救世主が神の位格または実体の象徴である様子をより深く理解するために、私たちが扱っている主題を十分に、または適切に説明しているわけではないが、それでもこの目的のためだけに使われていると見なせる例を取り上げましょう。それは、神の形をとっていた神の子が、(その栄光を)脱ぎ捨て、まさにその脱ぎ捨てによって、神の神性の完全さを私たちに示すことをその目的とするということを示すためです。たとえば、全世界を埋め尽くすほど巨大な像があり、そのために誰にも見えないと仮定します。そして、手足の形、顔の特徴、形や材質が全く同じであるが、大きさがそれほど大きくない別の像が造られた。そのため、巨大な像を見ることができなかった者も、後者を見ると、前者を見たと認めるであろう。なぜなら、後者は手足や顔の特徴、さらには形や材質さえも、前者と全く区別がつかないほどよく保存しているからである。そのような類似性によって、神の子は、父と同等であることを捨て、神を知る道を我々に示すことにより、神のペルソナの明確な似姿とされる。そのため、神の偉大さの中に置かれたときにその驚くべき光の栄光を見ることができなかった我々は、神が我々にとって輝きとなられたことにより、その輝きを見ることによって神の光を見る手段を得ることができるのである。もちろん、この彫像を物質的なものとの比較として用いるのは、神の子が人間の体という取るに足らない形をとっているにもかかわらず、その働きと力が父に似ていることから、彼の中には計り知れない目に見えない偉大さがあることを示したということを示すためだけである。つまり、彼は弟子たちに「私を見る者は、父をも見る」また「私と父とは一つである」と言ったのである。そして、これらには「父は私の中におり、私は父の中にいる」という同様の表現も当てはまる。
===9===
では、ソロモンの知恵に出てくる表現の意味を見てみましょう。知恵について、「それは神の力の息吹のようなもので、全能者の栄光の最も純粋な流出であり、永遠の光の輝きであり、神の働きや力の汚れのない鏡であり、神の善良さの像である」と言われています<ref>ソロモンの智慧 7:25-26</ref>。 これらは、ソロモンが神に与えた定義であり、それぞれによって神の知恵に属する特定の属性を指摘し、知恵を神の力、栄光、永遠の光、働き、善良さと呼んでいます。しかし、彼は、知恵が全能者の栄光の息吹、永遠の光の息吹、父の働きの息吹、父の善良さの息吹であるとは言っていません。これらのどれかに息吹を帰することは適切ではなかったからです。しかし、彼は、知恵は神の力の息吹であると、適切に述べています。さて、神の力とは、神が強くなる力、神が目に見えるもの、目に見えないものすべてを任命し、抑制し、支配する力、神が摂理において支配するすべてのものに十分な力、神がすべての中に、あたかも一人の人間として存在する力であると理解されるべきです。そして、このすべての強大で計り知れない力の息吹、そしていわばそれ自体の存在によって生み出される活力そのものは、意志が心から発するように、力自体から発せられますが、それでも神のこの意志さえも、神の力となるように作られているのです<ref>“Hujus ergo totius virtutis tantæ et tam immensæ vapor, et, ut ita dicam, vigor ipse in propriâ subsistentiâ effectus, quamvis ex ipsa virtute velut voluntas ex mente procedat, tamen et ipsa voluntas Dei nihilominus Dei virtus efficitur.”</ref>。
したがって、別の力が生み出され、それは独自の特性を持って存在し、聖書が言うように、神の根源的で生まれなかった力の一種の息吹であり、神からその存在を引き出し、決して存在しないことはない。なぜなら、もし誰かが、それが以前は存在せず、後から存在するようになったと主張するなら、それを存在させた父が以前にそうしなかった理由を説明するべきだ。そして、もし彼が、その息吹が神の力から生じたとき、かつて始まりがあったことを認めるなら、私たちは彼に、彼が認めた始まりよりも前になぜそうしなかったのか、と再び尋ねるだろう。このようにして、常により早い日付を要求し、質問を重ねていくと、神は常に力と意志を持っていたので、神が望んだその祝福を常に持っていなかった理由が適切であるかどうかにかかわらず、決してなかったという結論に達するだろう。それによって、神の力の息吹は常に存在し、神自身以外に始まりがなかったことが示される。また、神自身以外に何か他の始まりがあるというのはふさわしくありません。神からその誕生がもたらされるのですから。そして使徒の言葉によれば、キリストは「神の力である」<ref>1 コリント 1:24</ref>。それは神の力の息吹であるだけでなく、力から生まれた力とも呼ばれるべきです。
===10===
では、「知恵は全能者の栄光の最も純粋な流出である」という表現を検討してみましょう。まず、全能の神の栄光とは何かを考えてみましょう。そうすれば、その流出が何であるかを理解できます。息子を持たない父親はおらず、召使いを持たない主人はいないのと同じように、神がその力を行使できる人々がいなければ、神でさえ全能であるとは言えません。したがって、神が全能であることを示すには、すべてのものが存在することが必要です。なぜなら、ある時代や時間の部分、あるいは何と呼ぼうと、その後に作られたものがまだ存在していない間に過ぎ去ったと望む人がいるとしたら、その人は間違いなく、それらの時代や期間の間、神は全能ではなく、後になって、つまり、神が権力を行使できる人々を持ち始めた時から全能になったことを示すでしょう。そしてこのようにして、神はある程度の増加を受け、低い状態から高い状態へと上昇したように見えるでしょう。なぜなら、全能である方がそうでないよりも良いことは疑いの余地がないからです。さて、神が所有するのにふさわしいものを何も所有していなかったときに、ある種の進歩によって、神が後にそれらを所有するようになったというのは、不合理以外の何物でもありません。しかし、神が全能でなかった時代が一度もなかったとしたら、必然的に、神がその称号を受け取るものも存在しなければなりません。そして、神は常に、王または君主として神によって統治され、権力を行使した者たちを持っていたに違いありません。これについては、適切な場所で、被造物について議論するときに、より詳しくお話しします。しかし、今でさえ、私は、たとえ大ざっぱであっても、警告の言葉を述べる必要があると思う。なぜなら、私たちの前に立ちはだかる問題は、知恵がいかにして全能者の栄光の最も純粋な流出物であるかということであるから、誰かが、全能者の称号が、知恵の誕生に先立って神に存在していたと考えないようにするためである。知恵を通して神は父と呼ばれている。神の子である知恵は、全能者の栄光の最も純粋な流出物であるからである。この疑いを抱きがちな人は、「あなたは知恵によってすべてを造られた」<ref>詩篇 104:24</ref>と宣言する聖書の疑いのない宣言と、「彼によってすべてのものが造られた。彼なしには何も造られなかった」<ref>ヨハネ 1:3</ref>という福音の教えを聞くべきである。そして、このことから、神の全能性の称号は父のそれより古いはずがないことを理解すべきである。なぜなら、父は子を通して全能だからである。しかし、「全能者の栄光」という表現から、知恵はその栄光の流出物であるが、これは、神が全能であると言われる知恵が全能者の栄光にあずかっていることを意味する。なぜなら、キリストである知恵を通して、神はすべてのものを支配する力を持つからである。それは、支配者の権威によってだけでなく、臣民の自発的な服従によってもである。そして、父と子の全能性が同一であり、神と主が父と同一であることを理解するために、ヨハネが黙示録で語る様子に耳を傾けなさい。「今いまし、昔いまし、やがて来られる全能者である主なる神がこう言われる。」<ref>黙示録 1:8</ref> キリスト以外の誰が「やがて来られる方」であっただろうか。そして、神が父であり、救い主も神であるのを見て、誰も腹を立てるべきではないのと同じように、父が全能と呼ばれているのだから、神の子も全能と呼ばれていることに腹を立てるべきではない。このようにして、イエスが父に語った言葉は真実になる。「わたしのものはすべてあなたのものであり、あなたのものはわたしのものであり、わたしはそれらによって栄光を受ける。」<ref>ヨハネ 17:10</ref> さて、父のものであるすべてのものがキリストのものでもあるなら、確かに存在するものの中には父の全能性があります。そして、子もまた父が所有するすべてのものを持つことができるように、独り子は全能であるべきです。「そして、わたしはそれらによって栄光を受ける」と彼は宣言します。「イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてがひざまずき、すべての舌が、主イエスは父なる神の栄光の中におられると告白する。」<ref>ピリピ 2:10-11</ref> したがって、この点において、彼は神の栄光の流出物であり、彼は全能であり、純粋で澄んだ知恵そのものであり、全能性または栄光の流出物として讃えられています。そして、全能性の栄光が何であるかをより明確に理解するために、次のことを付け加えましょう。父なる神は全能です。なぜなら、彼はすべてのもの、つまり、天と地、太陽、月、星、そしてその中にあるすべてのものに対する力を持っているからです。そして、彼は言葉によってそれらに対する力を行使します。なぜなら、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてがひざまずくからです。そして、すべてのひざがイエスにかがむなら、疑いなく、すべてのものはイエスに服従し、イエスがすべてのものに対して力を行使し、彼を通してすべてのものが父に服従するからです。なぜなら、知恵によって、つまり言葉と理性によって、力と必要性によってではなく、によって、すべてのものが服従するからです。それゆえ、神の栄光は、神がすべてのものを所有していることにほかならず、これこそ全能性の最も純粋で澄んだ栄光であり、すべてのものは力や必然ではなく理性と知恵によって従属している。さて、知恵の最も純粋で澄んだ栄光は、純粋で誠実とは言えない栄光と区別するのに便利な表現である。しかし、変換可能で変化する性質はすべて、正義や知恵の働きによって栄光を与えられたとしても、正義や知恵は偶然の性質であり、偶然のものも失われる可能性があるため、その栄光は誠実で純粋であるとは言えない。しかし、神の独り子である神の知恵は、あらゆる点で変化や改変が不可能であり、神のすべての良い性質は本質的であり、変更や改変が不可能であるため、神の栄光は純粋で誠実であると宣言される。
===11===
第三に、知恵は永遠の光の輝きと呼ばれます。この表現の力については、前のページで太陽の類似性とその光線の輝きを紹介し、これがどのように理解されるべきかをできる限り示したときに説明しました。その時述べたことに、次のコメントだけを追加しましょう。存在の始まりがなく、それがそのままであることをやめることもないものが、永遠または永遠であると適切に呼ばれます。そして、これがヨハネが「神は光である」と言ったときに伝えた考えです。さて、神の知恵はその光の輝きであり、光であるという点だけでなく、永遠の光であるという点でも輝きであり、したがって神の知恵は永遠で永遠の輝きです。これが完全に理解されれば、子の存在は父から派生したもので、時間から派生したものでも、他のいかなる始まりからも派生したものでもなく、私たちが言ったように神自身から派生したものであることが明確に示されます。
===12===
しかし知恵は、神の働き、すなわち ἐνέργεια {{註|エネルゲイア}}の汚れのない鏡とも呼ばれています。では、まず神の力の働きがどのようなものかを理解する必要があります。それはいわば、神が創造、摂理、裁き、あるいは個々の物事の処分や配置において、それぞれの時期に働く力のようなものです。鏡に映った像が、それを見つめる人のすべての行為や動きを間違いなく映すように、知恵は父の力と働きの汚れのない鏡と呼ばれるとき、そのように理解されるべきです。神の知恵である主イエス・キリストも、自らについて、「父のなさる業は、子も同じようにするのである」と宣言しています<ref>ヨハネ 5:19</ref>。 また、子は父のなさることを見ること以外は、自分では何もできないとも言っています。したがって、御子は御業の力において父と何ら異なるところがなく、御子の御業は父の御業と異なるものではなく、いわばすべてのものにおいて一つの同じ動きであるので、神は御子を汚れのない鏡と名付け、そのような表現によって御子と父との間に何ら相違がないことを理解できるようにした。実際、弟子が師匠に似る、または真似るやり方で行われると一部の人が言うこと、または御父によって霊的本質が最初に形作られたものが御子によって肉体的な素材で作られるという見解に従って行われることが、福音書では御子は同様のことを行うのではなく、同様の方法で同じことをすると述べられているのに、どうして聖書の宣言と一致するのだろうか。
===13===
残るは「神の善の似姿」とは何かという問いかけです。ここで、鏡によって形作られた像について少し前に述べたのと同じことを理解しなければならないと思います。なぜなら、神は疑いなく根源的な善であり、子はそこから生まれ、子はあらゆる点で父の似姿であるため、当然のことながら、神の善の似姿とも呼ばれます。子には、父にある善以外には第二の善は存在しないからです。したがって、救い主ご自身も福音書の中で正しくこう言っています。「父なる神以外には善なる者はいない」<ref>ルカ 18:19</ref>この表現によって、子は別の善を持つわけではなく、父にある善のみから来ていることがわかります。子は父の似姿であると正しく呼ばれています。なぜなら、子は根源的な善以外には何も源がないからです。そうしないと、子には父にある善とは異なる善があるように思われるかもしれません。また、御子には善良さの相違や違いはありません。したがって、「ただひとり、父なる神以外に善なる者はいない」という言葉に、いわば冒涜的な意味があるとは考えるべきではありません。それによって、キリストまたは聖霊のどちらかが善良であったことが否定されるかのように考えるべきではありません。しかし、すでに述べたように、根源的な善良さは、御子が生まれ、聖霊を発する父なる神に宿ると理解されるべきであり、御子と聖霊は、その源泉にある善良さの性質を、疑いなく保持しています。そして、聖書で善良と呼ばれている他のもの、つまり天使、人、しもべ、宝、善い心、善い木などがあれば、これらすべては、偶発的な善良さを持ち、本質的な善良さを持っていない、型破りな意味でそう呼ばれています<ref> 乱用 [= 不適切に使用される。S.]</ref>。しかし、真の光、門、正義、聖化、贖罪など、神の子の称号をすべて集め、それぞれがどのような理由でそのように与えられているかを示すには、多くの時間と労力が必要です。したがって、私たちはすでに述べたことに満足し、次に続く他の事柄の調査に進みます。
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==脚注==
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Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/I/Chapter 2". を翻訳
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諸原理について/第1巻/第3章
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村田ラジオ
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*ウィキソースによる日本語訳
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[[Category:諸原理について|103]]
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'''第1巻'''
==第3章==
::聖霊について
===1===
次の点は、聖霊という主題をできるだけ簡単に調べることです。どのような方法であれ、摂理の存在を認識する人は皆、万物を創造し、配置した神は何かから生まれた者ではない{{註|自立存在者である}}と告白し、宇宙の親として神を認めます。さて、神に子が属するというのは、私たちだけが述べたことではありません。ギリシャ人や蛮族の間で哲学者として名声を得ている人たちにとっては、十分に驚異的で信じ難い主張に思えるかもしれませんが、彼らの中には、万物は神の言葉や理性によって創造されたことを認める中で、神の存在という考えを抱いていたようです。しかしながら、私たちは、その教義が神の霊感によるものであると確信しているという信念に従って、神の子としてのこのより高尚で神聖な理性を人間の知識の範囲内に説明し、もたらすには、聖霊の霊感を受けた聖書、すなわち、キリスト自身の宣言による福音書と書簡、律法と預言書のみを用いる以外に方法はないと信じている。律法と預言書に精通している者、またはキリストを信じていると公言する者を除いて、聖霊の存在については誰も疑念を抱くことはできない。なぜなら、父なる神について確実に語れる者はいないが、それでも、目に見える創造物と人間の心の自然な感情によって、神についてのある程度の知識を得ることは可能であり、さらに、そのような知識が聖書から限定されることも可能だからである。しかし、神の子に関しては、父以外には誰も子を知りませんが、人間の心は子についてどのように考えるべきかを聖書から教えられています。そして、それは新約聖書だけでなく旧約聖書からも教えられています。聖人たちによって行われたことですが、比喩的にキリストを指し示し、そこからキリストの神性と、キリストが引き受けた人間性の両方が発見されるのです。
===2===
さて、聖霊が何であるかは、聖書の多くの箇所で教えられています。例えば、詩篇第51篇のダビデは「あなたの聖霊を私から取り去らないでください」と言っています<ref>詩篇第51篇11節</ref>。また、ダニエルは「あなたの中にある聖霊」と言っています<ref>ダニエル 4:8</ref>。 また、新約聖書には、聖霊がキリストの上に降臨したと描写されている箇所や、主が復活後に使徒たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたときの箇所<ref>ヨハネ 20:22</ref>、天使がマリアに「聖霊があなたに臨むでしょう」と言った箇所<ref>ルカ 1:35</ref>、パウロが「聖霊によらなければ、だれもイエスを主と呼ぶことはできない」と宣言した箇所など、豊富な証言があります<ref>1 コリント 12:3</ref>。 使徒行伝では、洗礼の際に使徒たちが手を置くことによって聖霊が与えられました<ref>使徒行伝 8:18</ref>。 これらすべてから、聖霊の位格がそのような権威と尊厳を持っていたこと、そして、救いの洗礼が、それらすべての中で最も優れた三位一体の権威、すなわち父、子、聖霊の名付けによって、そして、生まれざる父なる神とその独り子に聖霊の名を結びつけることによってでなければ、完成しなかったことがわかります。それでは、人の子に逆らって言葉を発する者は赦しを期待できるが、聖霊に対して冒涜の罪を犯した者は、この世でも来世でも赦しを得られないと聞いて、聖霊のこの上ない威厳に驚かない者がいるでしょうか<ref>マタイ伝12章32節とルカ伝12章10節を参照。</ref>。
===3===
万物は神によって創造され、神に由来しない生き物は存在しないということは、聖書の多くの宣言から立証されています。神と共存する物質や生まれていない魂の存在について、神が存在の力ではなく平等と秩序を植え付けたと主張する人々によって誤って主張された主張は、反駁され、拒否されています。ヘルマスによって書かれた「牧者または悔い改めの天使」と呼ばれる小論文でさえ、次のように書かれています。「まず第一に、万物を創造し、配置した唯一の神がいることを信じなさい。神は、以前は何も存在しなかったときに、万物を存在させました。神自身が万物を含んでいますが、神自身が何にも含まれていないことを。」<ref>[[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume II/The Pastor of Hermas/Book Second|ヘルマスの牧者]]、Vision v. Mandat. 1 を参照。[第2巻20ページを参照]</ref> エノク書にも同様の記述があります。しかし、現在まで、私たちは聖霊が作られたり創造されたりしたと言えるような記述を聖書の中に見つけることができていません<ref>Per quem Spiritus Sanctus fatura esse vel creatura diceretur.</ref>。ソロモンが神の知恵について語っていることを上で示した方法や、私たちが論じてきた表現が神の子の命、言葉、その他の呼び名について理解されるべきである方法でさえもです。したがって、世界の創造の初めに書かれているように、水に乗って運ばれた神の霊は、私が理解する限り、聖霊に他ならないと私は考えています。実際、私たちは歴史的解釈ではなく、霊的解釈方法に従って、聖句自体の解説で示しました。
===4===
確かに、私たちの先人たちの中には、新約聖書では、聖霊が、その性質を表す付加語なしで呼ばれる場合はいつでも、聖霊と理解されるべきであると指摘した人がいました。例えば、「さて、聖霊の実は、愛、喜び、平和です」<ref>ガラテヤ人への手紙 5章22節</ref>、そして「あなたがたは、聖霊において始まったのに、今は肉において全うされたのですか」<ref>ガラテヤ人への手紙 3章3節</ref>という表現です。私たちは、この区別は旧約聖書にも見られると考えており、「地に住む人々に霊を与え、地の上を歩く人々に霊を与える方」<ref>イザヤ書 42章5節</ref>と言われています。なぜなら、疑いなく、地の上を歩くすべての人(すなわち、地上の肉体を持つ存在)は、神から聖霊を受け、聖霊にあずかっているからです。私のヘブライ語の師匠も、イザヤ書に出てくる二人のセラフィムは、それぞれ六つの翼を持ち、互いに呼び合って「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神」<ref>イザヤ6章3節</ref>と言っているとよく言っていました。これは神の独り子と聖霊のことです。また、ハバクク書の賛美歌に出てくる「二つの生き物、二つの命の真ん中で、あなたは知られるであろう」<ref>ハバクク 3章2節</ref>という表現も、キリストと聖霊のことです。父に関するすべての知識は、聖霊を通じた子の啓示によって得られるので、預言者によれば「生き物」または「命」と呼ばれるこれらの存在は両方とも、父なる神に関する知識の根拠として存在するのです。というのは、子について、「子と子が父をあらわす者のほかには、だれも父を知る者はいない」<ref>ルカによる福音書 10章22節</ref>と言われているように、聖霊の使徒も、「神は聖霊によって、これらのことをわたしたちにあらわされた。聖霊はすべてのことを探り、神の深みにいたるまで探り知るからである」<ref>1コリント 2:10</ref>と宣言しています 。また、福音書の中では、救い主が、弟子たちがまだ受け入れることができなかった、教えの神聖で深遠な部分について語るとき、このように弟子たちに語りかけています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに耐えられない。しかし、助け主である聖霊が来ると、すべてのことを教え、わたしが話しておいたことをことごとく思い起こさせてくれるであろう。」<ref>ヨハネ16章12節、13節、14章26節を参照。</ref> ですから、私たちは、父を知る唯一の御子が、父が望む者に父を明らかにするのと同じように、神の深遠なことを探る唯一の"霊"が、神が望む者に神を明らかにすることを理解しなければなりません。「{{r|"霊"|みたま}}は思いのままに吹くからである。」<ref>ヨハネ 3章8節</ref> しかし、聖霊が御子からの啓示を通して知識を得ると想定してはならない。なぜなら、もし聖霊が御子の啓示を通して父を知るなら、無知の状態から知識の状態に移るからである。しかし、聖霊を告白しながらも、聖霊を無知であるとするのは、同様に不敬虔で愚かなことである。聖霊の前に何か他のものが存在していたとしても、聖霊が聖霊となったのは進歩的な進歩によるのではない。まるで、聖霊がまだ聖霊ではなかったときには父を知らなかったが、知識を得た後に聖霊になったと誰かがあえて言うようなものである。もしそうであるなら、聖霊が常に聖霊であったのでなければ、聖霊は三位一体の統一、すなわち不変の父とその子とともに数えられることは決してないであろう。実際、私たちが「常に」や「だった」などの言葉、あるいはその他の時間指定を使用する場合、それらを絶対的に受け取るのではなく、適切な考慮を払わなければなりません。なぜなら、これらの言葉の意味は時間に関係しており、私たちが話している主題は言葉の範囲を超えて時間内に存在するものとして話されているものの、それでもそれらの本質は有限の理解のあらゆる概念を超えているからです。
===5===
それでもなお、神によって再生されて救いに至った者は、父と子と聖霊の両方と関係し、三位一体全体の協力なしには救いを得られないのはなぜか、また聖霊なしに父や子にあずかることがなぜ不可能なのかを問うのは適切であるように思われる。そしてこれらの主題を論じるには、聖霊と父と子の特別な働きを記述することが間違いなく必要となるだろう。そこで私は、父と子の働きは、聖人にも罪人にも、理性ある存在にも口のきけない動物にも同じように起こる、という意見である。いや、命のない物にも、普遍的に存在するすべての物にも起こる。しかし、命のない物、あるいは生きているけれども口のきけない物には、聖霊の働きはまったく起こらない。いや、確かに理性に恵まれていながら、悪の道に身を投じ、より良い生活にまったく転向していない人々の中にさえ、聖霊は見出されない。聖霊の働きは、すでにより良い生活に転向し、イエス・キリストへと導く道を歩んでいる人々、すなわち、善行の実行に従事し、神に留まっている人々においてのみ起こると私は考える。
===6===
父と子の働きが聖徒にも罪人にも働くことは、理性ある存在はすべて言葉、すなわち理性の分け前を受け、それによって知恵と正義の種を体内に植え付けられ、それがキリストであるということからも明らかです。さて、真に存在し、モーセを通して「わたしはある者である」<ref>出エジプト記 3:14</ref>と言われた彼には、すべてのものが、それが何であれ、分け前を受けます。父なる神へのこの分け前は、義人も罪人も、理性ある存在も非理性ある存在も、そして普遍的に存在するすべてのものも共有しています。使徒パウロもまた、すべての人がキリストに分け前を受けていることを、次のように言って真に示しています。「あなたは心の中で、『だれが天に上ろうか。(すなわち、キリストを上から引き下ろすために)だれが深みに下ろうか。(すなわち、キリストを死人の中から引き上げるために)』と言ってはならない。しかし、聖書は何と言っているか。御言葉はあなたの近くにある、あなたの口にあり、あなたの心にある。」<ref>ローマ 10:6-8</ref> これによって彼が言いたいのは、キリストは言葉や理性であり、皆が理性的な存在である限り、それらに与ることで、すべての人の心の中にいるということである。福音書の「もし私が来て彼らに語らなかったなら、彼らには罪がなかったであろう。しかし今、彼らには罪の弁解の余地がない。」<ref>ヨハネ 15:22</ref>という宣言は、人間が罪を犯さない期間がどれほど長く、どの期間から罪を犯すようになるかを理性的な知識を持つすべての人に明らかにし、明白にしている。つまり、理解力と知識を身につけた時から、つまり、内に植え付けられた理性が善と悪の違いを彼らに示唆した時から、人々は罪を犯したと言われている。そして、悪が何であるかをすでに知り始めた後でも、もし悪を犯せば、彼らは罪を犯すようになるのである。そして、これが「人間には罪の弁解の余地がない」という表現の意味です。つまり、神の言葉や理性が善と悪の違いを内面的に示し始めた時から、人間は邪悪なものを避け、警戒すべきであるということです。「善をなすべきことを知りながら行わない人は、その人にとって罪なのです。」<ref>ヤコブの手紙 4:17</ref> さらに、すべての人が神との交わりを持たないわけではないことは、福音書の中で救い主の言葉によって次のように教えられています。「神の国は人に見える形で来るのではない。また、見よ、ここにある、見よ、あそこにある、とも言わない。神の国はあなたの内にある。」<ref>ルカ 17:20-21</ref> しかし、ここで私たちは、これが創世記の表現と同じ意味を持たないかどうかを見なければなりません。「そして神は彼の顔に命の息を吹き込まれた。すると人は生きた魂となった。」<ref>創世記 2:7</ref> というのは、これが一般にすべての人間に当てはまると理解されるなら、すべての人間には神とのつながりがあることになるからです。
===7===
しかし、もしこれが神の霊について語られていると理解されるなら、アダムもいくつかのことを預言していたことがわかっているので、これは一般的な適用としてではなく、聖徒たちに限定してとらえられるかもしれません。最後に、また、すべての肉なる者が神の前で堕落した洪水のとき、神はふさわしくない人々や罪人について次のように語ったと記録されています。「わたしの霊は、いつまでも彼らと共にとどまることはない。彼らは肉であるからだ。」<ref>創世記 6:3</ref> これによって、神の霊はふさわしくない人々から取り去られることが明確に示されています。詩篇にもこう書かれています。「あなたが彼らの霊を取り去ると、彼らは死に、土に帰ります。あなたがあなたの霊を送られると、彼らは創造され、あなたは地の面を新しくされます。」<ref>詩篇 104:29-30</ref>これは明らかに聖霊の働きによるものです。聖霊は、罪人や価値のない者が取り去られ、滅ぼされた後、ご自分のために新しい民を創り、地の面を新しくします。聖霊の恵みにより、人々は古い人間をその行いとともに脱ぎ捨て、新しいいのちに歩み始めます。したがって、この表現は聖霊に適切に当てはまります。なぜなら、聖霊はすべての人の中にではなく、肉なる人々の中にではなく、その土地<ref>Terra 大地、陸地</ref>が新しくされた人々の中に住まわれるからです。最後に、このために、洗礼後、使徒たちが按手することによって、聖霊の恵みと啓示が授けられました。私たちの救い主も、復活の後、古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなったとき、ご自身も新しい人、死人の中から最初に生まれた者となり、使徒たちも復活を信じる信仰によって新しくされて、「聖霊を受けなさい」と言われます<ref>ヨハネ 20:22</ref>。 これは、救い主である主が福音書の中で、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れることはできないと言い、皮袋を新しくするよう命じた時に伝えたかったことであることに疑いの余地はありません。つまり、人々は新しい命を歩み、新しいぶどう酒、つまり聖霊の恵みの新しいものを受けることができるようにするためです。このようにして、父なる神と子なる神の力の働きは、区別なくすべての被造物に及ぶのです。しかし、聖霊の分け前は聖徒だけが持っていることがわかります。そのため、「聖霊によらなければ、だれもイエスは主であるとは言えない」と言われています<ref>1 コリント 12:3</ref>。 そして、ある時、使徒たち自身でさえ、「あなたたちは聖霊の力があなたたちに降りかかるのを受けるでしょう」という言葉を聞くにふさわしいとはほとんど考えられませんでした<ref>使徒行伝 1:8</ref>。 また、この理由から、人の子に対して罪を犯した者は赦しを受けるに値すると私は考える。なぜなら、神の言葉や理性に与る者が理性に従って生きることをやめれば、無知や愚かさに陥ったように思われ、それゆえ赦しを受けるに値するからである。一方、聖霊の一部を得るにふさわしいとみなされ、逆戻りした者は、まさにこの行為と働きによって、聖霊に対する冒涜の罪を犯したと言われる。聖霊は聖徒だけに授けられるが、父と子の恩恵や働きは善と悪、正義と不正義に及ぶと私たちが言ったからといって、父と子よりも聖霊を優先したり、聖霊の尊厳の方が大きいと主張したりするなどと、誰も考えてはならない。それは確かに非常に非論理的な結論であろう。なぜなら、私たちが説明してきたのは、聖霊の恩恵と働きの特殊性だからである。さらに、三位一体において、大きいとか小さいとか呼ばれるものは何もありません。なぜなら、神性の源泉だけが、その言葉と理性によってすべてのものを含み、その口の霊によって、聖化に値するすべてのものを聖化するからです。詩篇にこう書かれています。「主の言葉によって、天は強くなり、そのすべての力は、その口の霊によって強められた。」<ref>詩篇 33:6</ref> 父なる神には、すべてのものに自然の命の賜物を授けた働きのほかに、特別な働きもあります。また、主イエス・キリストには、生まれながらに理性の賜物を授けた人々に対する特別な奉仕があり、それによって彼らは正しくあることができるようになります。また、聖霊の別の恵みがあり、それは、それを受け取ることができるようになった人々の功績に応じて、キリストの奉仕と父の働きを通して、ふさわしい人々に授けられます。このことは、使徒パウロが三位一体の力が一つで同じであることを示す際に、次のように最も明確に指摘されています。「賜物はいろいろあるが、{{r|"霊"|みたま}}は同じである。管理はいろいろあるが、主は同じである。働きはいろいろあるが、すべてのものにおいてすべてのものを働かせるのは同じ神である。しかし、{{r|"霊"|みたま}}の顕現は、すべての人に、それぞれ益をもたらすために与えられている。」<ref>1 コリント 12:4-7</ref> そこから、三位一体には違いはなく、"霊"の賜物と呼ばれるものは、御子を通して知らされ、父なる神によって働かされていることが最も明確にわかります。「しかし、これらすべては、一つの、同じ{{r|"霊"|みたま}}によって働いて、御心のままに、各自に分け与えてくださる。」<ref>1 コリント 12:11</ref>
===8===
父と子と聖霊の一体性に関するこれらの宣言を行ったので、議論を始めた順序に戻りましょう。父なる神はすべてのものに存在を授けます。そして、キリストが理性の言葉であるという点で、キリストにあずかることで、彼らは理性的な存在になります。このことから、彼らは美徳と悪徳を持ち得るため、賞賛にも非難にも値します。したがって、この理由で聖霊の恵みがあり、本質的に聖でない存在は、聖霊にあずかることで聖化されます。まず、彼らはその存在を父なる神から、次に理性的な性質を言葉から、そして第三にその聖性を聖霊から得ていることを考えると、聖霊によって以前に聖化された人々は、キリストが神の正義であるという点で、再びキリストを受け入れることができるようになります。そして、聖霊の聖化によってこの段階まで昇進した人々は、それでもなお、神の霊の力と働きに応じて、知恵の賜物を得るでしょう。そして、これがパウロが「ある人には知恵の言葉が与えられ、ある人には知識の言葉が、同じ霊によって与えられている」と言うときの意味だと私は考えています。そして、賜物の個々の違いを指摘しながら、彼はそれらすべてを万物の源に関連付けて、「働きにはさまざまなものがありますが、すべてのものの中ですべてのものを働かせるのは唯一の神です」という言葉で述べています<ref>1 コリント 12:6</ref>。 そこから、すべてのものに存在を与える父の働きは、より栄光に満ち、より壮大であることがわかります。一方、それぞれは、知恵、知識、聖化としてキリストにあずかることによって進歩し、より高い完成の段階へと進みます。そして、聖霊を受けることによって、人はより清く、より聖なる者とされるのだから、ふさわしい者とされたとき、知恵と知識の恵みを得る。それは、汚れと無知の汚れがすべて清められ、取り除かれた後、神聖さと純粋さにおいて大いに進歩し、神から受けた性質が、それを清く、完全なものとするために与えた神にふさわしいものとなり、存在する存在が、それを存在させた神にふさわしいものとなるためである。このようにして、創造主が望んだような者には、常に存在し、永遠にとどまる力が神から与えられる。こうして、神が創造した者たちが、神と共に絶えず、切り離すことなく存在できるようにするためである。知恵の仕事は、彼らを教え訓練し、聖霊の確証と絶え間ない聖化によって彼らを完成に導くことであり、それによってのみ彼らは神を受け入れることができるのです。このようにして、父と子と聖霊が私たちの中で絶え間なく働き、そのさまざまな進歩の段階を更新することによって、私たちは将来、困難ではあっても、おそらく聖なる祝福された生活を見ることができるでしょう。私たちは(多くの苦労の後にのみそこに到達することができるので)その祝福に飽きることがないように、その生活を続けるべきです。その祝福を認識すればするほど、それに対する憧れは私たちの中でますます増し強められ、父と子と聖霊をますます熱心に自由に受け入れ、しっかりと保つべきです。しかし、最高かつ完璧な達成の頂点に立つ人々の誰かが飽くことを覚悟したとしても、そのような人が突然地位を追われ堕落することはなく、徐々に少しずつ衰退していくと私は思います。そのため、一時的な過失が起こり、その人がすぐに悔い改めて立ち返れば、完全に堕落することはなく、元の道をたどって元の地位に戻り、不注意によって失ったものを再び取り戻すことができるかもしれません。
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==脚注==
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諸原理について/第1巻/第4章
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*底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/I/Chapter 4".
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*ウィキソースによる日本語訳
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'''第1巻'''
==第4章==
::離反、あるいは背信について
===1===
不注意な行動をする人々の背信や堕落の性質を示すために、たとえ話を使うのは場違いではないだろう。では、たとえば幾何学や医学といった技術や科学に徐々に精通し、その原理と実践を長期間にわたって訓練し、その技術を完全にマスターするまでに至った人の場合を考えてみよう。そのような人には、その技術を習得して眠りについたときに、無知な状態で目覚めるということは決して起こらない。ここで、怪我や弱さによって生じる事故を挙げたり、指摘したりすることが私たちの目的ではない。なぜなら、それらは私たちの現在の例には当てはまらないからである。私たちの観点からすると、その幾何学者や医師が自分の技術の研究とその原理の実践に励み続ける限り、その職業に関する知識は彼に残る。しかし、もし彼がその習慣をやめ、勤勉な習慣を捨て去るならば、彼の怠慢により、最初はいくつかのことが徐々に彼から逃げ、それから次第にますます多くが逃げ、時が経つにつれてすべてが忘れ去られ、記憶から完全に消し去られるでしょう。確かに、彼が最初に堕落し始め、まだ小さな怠慢の腐敗した影響に屈し始めたとき、彼が目を覚ましてすぐに正気に戻るならば、その時までほんの最近の損失を修復し、これまで彼の心からわずかに消えていた知識を取り戻すことは可能です。これを、神の知識と知恵に専念した人々のケースに当てはめてみましょう。彼らの学識と勤勉さは他のすべての訓練を比べものにならないほど上回っています。そして、用いられたたとえの形に応じて、知識の獲得とは何か、あるいは知識の消失とは何かを熟考してみましょう。特に、使徒から、完全な者たちは主の奥義の啓示において主の栄光を顔と顔とを合わせて見るであろうと言われたことを聞きながら。
===2===
しかしながら、父、子、聖霊の三位一体がすべての神聖さの源泉である、私たちに授けられた神聖な恩恵を示したいという私たちの願いの中で、私たちは、私たちの理性的な性質に関連する同族の話題を議論していたので、偶然私たちの前に現れた魂の主題について、ざっとではあるが触れておくべきだと考え、脱線してしまいました。しかし、イエス・キリストと聖霊を通して神の許しを得て、より都合よく、適切な場所で、三つの属と種に区別されるすべての理性的な存在の主題を検討しましょう。
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諸原理について/第1巻/第5章
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*底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/I/Chapter 5".
*[[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De PrincipiisI/Chapter 5|Origen De Principiis/I/Chapter 5]]
*ウィキソースによる日本語訳
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}}
'''第1巻'''
==第5章==
::理性的な性質について
===1===
父、子、聖霊について、私たちができる限り簡潔に論じた論文の後、理性的な性質、その種類と秩序、あるいは聖なる力と悪なる力の職務、また善と悪の力の中間に位置し、いまだに闘争と試練の状態にあるものについて、いくつかのコメントを述べることにします。なぜなら、私たちは聖書の中に、聖なる存在だけでなく、反対の記述を持つものも含め、特定の秩序と職務の数多くの名前を見つけるからです。まず、私たちはそれらの名前を私たちの前に提示し、次に、その意味をできる限りの力で解明しようと努めます。パウロが「救いの相続人となる人々のために奉仕するために遣わされた奉仕の霊」と呼ぶ、神の聖なる天使たちがいます<ref>ヘブル人への手紙 1:14</ref>。 聖パウロ自身の著作にも、彼が何らかの未知の出典から、それらを王位、主権、支配、権力と呼んでいるのが見られます。そして、この列挙の後で、彼が名付けたもの以外にも、まだ他の合理的な役職<ref>Officia. 義務、職務</ref>や階級があることを知っているかのように、彼は救世主についてこう言っています。「主は、すべての支配、権力、勢力、主権の上におられ、この世だけでなく、来るべき世でも呼ばれるあらゆる名の上におられます。」<ref>エペソ 1:21</ref> そこから彼は、彼が言及した存在の他に、確かにこの世で名付けられるかもしれないが、今は彼によって列挙されておらず、おそらく他の誰にも知られていない特定の存在がいたことを示しています。また、この世では名付けられないかもしれないが、来るべき世で名付けられる他の存在もあったことを示しています。
===2===
次に、理性を授かり、その法規と制限を犯すすべての存在は、正義と公正から逸脱して間違いなく罪を犯しているということを私たちは知らなければなりません。したがって、理性を持つすべての被造物は、賞賛と非難を受ける可能性があります。賞賛は、彼が持つ理性に従って、より良いものへと前進する場合です。非難は、彼が正義の計画と道から外れた場合です。この理由により、彼は当然、苦痛と罰を受けることになります。そして、これは悪魔自身と、彼と一緒にいて彼の使い{{註|堕天使}}と呼ばれる人々にも当てはまると見なす必要があります。さて、これらの存在の称号を説明して、私たちが話さなければならない彼らが何であるかを知る必要があります。それで、悪魔、サタン、邪悪な者という名前は、神の敵とも呼ばれ、聖書の多くの箇所で言及されています。さらに、悪魔の使いたちや、この世の君主たちも言及されていますが、悪魔自身か他の誰かかは、まだはっきりとは現れていません。この世の君主たちの中には、ある種の知恵を持ち、それが無に帰すると言われている者もいます。しかし、これらの君主たちが、私たちが格闘しなければならない君主たちなのか、それとも他の存在なのかは、私には、誰にとっても簡単には判断できない点に思えます。君主たちの次には、私たちが格闘し、この世の君主たちやこの暗闇の支配者たちと闘わなければならない、ある種の力も挙げられています。パウロ自身も、天にある邪悪な霊的力について語っています。さらに、福音書に出てくる邪悪で汚れた霊についてはどう言うべきでしょうか。それから、似たような名前で呼ばれている天の存在たちがいますが、彼らはイエスの名にひざまずく、あるいはひざまずこうとしていると言われています。いや、地上のものや地の下にあるものでさえ、パウロが順序立てて列挙している。そして確かに、理性的な性質という主題を論じているところで、人間であり理性的な動物と呼ばれている我々自身について沈黙するのは適切ではない。いや、我々人間の中にさえ、ある特定の異なる秩序が「主の分はその民ヤコブ、イスラエルはその嗣業の綱である」という言葉で言及されているというこの点さえ、軽々しく無視されるべきではない<ref>申命記 32:9</ref>。 さらに、他の国々は天使の一部と呼ばれている。なぜなら、「いと高き方が国々を分け、アダムの子らを散らしたとき、神の天使の数に従って国々の境界を定められた」からである<ref>申命記 32:8</ref>。 したがって、他の理性的な性質とともに、人間の魂の理性も徹底的に調べなければならない。
===3===
では、このように多くの、そして非常に重要な階級や職務の名称を列挙したが、その背後には人格的存在があることは確かである。そこで、万物の創造主であり創始者である神が、あるものを神聖で幸福に創造し、反対の種類の要素をまったく受け入れないようにし、あるものを美徳と悪徳の両方ができるようにしたのかどうか、あるいは、あるものをまったく美徳ができないように、またあるものをまったく悪徳ができないが幸福な状態にとどまる力だけを持つように、またあるものをどちらの状態も可能なように創造したと仮定すべきかどうか、検討してみよう<ref> [第6章末尾の注釈を参照]</ref>。 さて、最初の検討を名称自体から始めるために、聖なる天使たちが、最初の存在の時代から常に聖なる存在であったのか、今も聖なる存在であり、これからも聖なる存在であり、罪を犯す機会を一度も認めたことがないのか、あるいは認める力を持っていなかったのか、考えてみよう。次に、聖なる君主と呼ばれる者たちは、神によって創造された瞬間から、彼らに服従させられた者たちに対して権力を行使し始めたのか、そして、これらの者たちはそのような性質を持って創造され、まさに服従し従属する目的で形作られたのか、ということについて考えてみましょう。同様に、権力と呼ばれる者たちも、そのような性質を持って創造され、権力を行使するという明確な目的のために創造されたのか、それとも、権力と尊厳に至ったのは、彼らの徳の報酬であり、報いなのか。さらに、王座や座所と呼ばれる者たちは、創造主の意志のみによってその所有物を持つように、その誕生と同時に幸福の安定を獲得したのか<ref> Simul cum substantiæ suæ prolatione—実体の発散と同時に。</ref>、それとも、領地と呼ばれる者たちは、その能力に対する報酬としてではなく、その創造物の特別な特権として、その領地を授けられたのか<ref>Conditionis prærogativa. 特権的な条件</ref>、つまり、その領地は、ある程度、彼らから切り離すことのできない、自然なものなのか、ということも考えてみましょう。さて、もし私たちが、聖なる天使たち、聖なる力、祝福された座、栄光の徳、そして壮大な支配権は、それらの力と尊厳と栄光をその性質のゆえに持っているとみなされるべきであるという見解を採用するならば<ref>Substantialiter. 実質的に</ref>、疑いなく、反対の種類の役職に就いていると述べられている存在も、同じようにみなされなければならないと思われる。したがって、私たちが闘わなければならない君主たちは、すべての善に対する反対と抵抗の精神を後になって受け継いだとか、意志の自由によって善から離れたとかではなく、存在の初めから善を存在の本質として持っていたとみなされるべきである。同様に、権力と美徳についても、そのどれもが最初の存在の後に悪意を持っていたわけではない。使徒がこの世の闇の支配者や君主と呼んだ者たちも、彼らの支配と闇の占有に関しては、意図の邪悪さからではなく、彼らの創造の必然性から堕落したと言われている。論理的推論は、邪悪で悪意のある霊や汚れた悪魔に関しても同じ見方をするように私たちを強いるだろう。しかし、悪意のある反対の力に関してこの見解を抱くことが不合理であるように思われるならば、それらの邪悪さの原因がそれらの力自身の意志の目的から取り除かれ、必然的にそれらの創造主に帰せられることが確かに不合理であるのと同様に、善と聖なる力に関しても同様の告白をしなければならないのはなぜでしょうか。すなわち、それらの力にある善は本質的にそれらの力のものではないということです。これは、キリストと聖霊の場合のみに当てはまること、そして父の場合にも間違いなく当てはまることを私たちは明らかに示しました。なぜなら、三位一体の性質には何も複合的なものがなかったことが証明されたため、これらの性質が偶然の結果として三位一体に属するように見えるかもしれないからです。そこから、あらゆる被造物の場合、他のものに対して支配権を握っているか、権力や支配権を行使しているように見える権力は、その被造物自身の働きと行動の結果であり、その被造物の性質に固有の特別な特権の結果ではなく、功績の結果として、その被造物によって支配または権力を行使すると言われている人々よりも優先され、その上に位置付けられているということになります。
===4===
しかし、このような重要かつ困難な主題に関する主張を推論のみに基づいて構築したり、推測にすぎないものに聴衆の同意を求めたりしているように思われないように、これらの立場をより確実に維持できる権威となる聖書からの宣言が得られるかどうかを見てみましょう。まず、邪悪な力に関して聖書に何が書かれているかを示します。次に、主が啓示してくださるように、他のものに関して調査を続け、このような困難な問題において何が真実に最も近いか、または宗教の基準に一致する意見が何であるべきかを突き止めます。さて、預言者エゼキエルには、ティルス(ツロ) の君主に宛てて書かれた 2 つの預言があります。最初の預言は、2 番目の預言も聞く前に、ティルスの君主であった人物について語られたように思われるかもしれません。したがって、その間、最初の預言からは何も取り上げません。しかし、後者は明らかに人間については全く理解できない種類のものであり、より高い地位から転落し、より低くより悪い状態に落ちた、ある優れた力によるものであるため、そこから例を挙げて、それらの反対の悪意ある力は、自然によってそのように形成または創造されたのではなく、より良い地位からより悪い地位に落ち、邪悪な存在に変わったことを極めて明確に証明することができます。また、それらの祝福された力も、もし彼らがそのように傾向があり、怠慢になり、彼らの状態の祝福を最も注意深く守らなかったとしても、彼らに反対するものを受け入れることができないような性質のものではありません。なぜなら、ティルスの君主と呼ばれる人が聖徒たちの中にいて、汚れがなく、神の楽園に置かれ、美しさと美しさの冠で飾られていたと伝えられているのであれば、そのような人が聖徒たちのいずれかより少しでも劣っていると考えられるでしょうか。なぜなら、彼は美しさと美しさの冠をかぶって、神の楽園を汚れのない姿で歩いたと描写されているからです。そのような存在が、幸福な状態に置かれているので、これ以外の栄誉は授けられていないと信じなければならない、あの聖なる祝福された力の一つではないと誰が考えることができるでしょうか。しかし、預言の言葉自体から何を教えられているかを見てみましょう。「主の言葉が私に臨んだ」と預言者は言います。「人の子よ、ティルス(ツロ) の君主のために哀歌を歌い、彼に言いなさい。主なる神はこう言われる。あなたは似姿の印であり、楽園の喜びの中の美しさの冠であった。あなたはあらゆる良質の石や宝石で飾られ、金や銀にはめ込まれた赤縞めのう、黄玉髄、エメラルド、カーバンクル、サファイア、碧玉で覆われ、また瑪瑙、紫水晶、貴石、緑柱石、縞めのうで覆われていた。また、あなたの宝物とあなたの中の倉は金で満たされていた。あなたがケルビムとともに創造された日から、私はあなたを神の聖なる山に置いた。あなたは、火の石の間にいた。あなたが創造された日から、あなたの中に不義が見出されるまでは、あなたの人生は汚れのないものであった。あなたは、その商売が盛んであったため、あなたの倉を不義で満たし、罪を犯し、神の山から傷つけられた。そして、ケルブがあなたを火の石の間から追い出した。あなたの心はあなたの美しさのために高ぶり、あなたの規律はあなたの美しさとともに腐敗した。あなたの罪が多かったので、わたしはあなたを地上の王たちの前に投げ出した。あなたの罪と不義が多かったので、わたしはあなたを見せ物と嘲りの種とした。あなたは、商売のために、あなたの聖所を汚した。そして、わたしはあなたの中から火を出し、あなたを焼き尽くす。わたしはあなたを見るすべての人々の目の前で、あなたを地上の灰と燃え殻にする。諸国の中であなたを知るすべての人々は、あなたのために嘆き悲しむ。あなたは滅ぼされ、永遠に存在しなくなる。」<ref>エゼキエル書 28章 11-19節</ref> それで、預言者の言葉がそのようなものであるのなら、「あなたは似姿の印であり、楽園の喜びの中の美しさの冠であった」とか、「あなたがケルビムとともに創造された日から、私はあなたを神の聖なる山に置いた」と聞いて、その意味を弱めて、この言葉がティルスの王子は言うまでもなく、ある人や聖人について使われていると考えることができる人がいるだろうか。あるいは、人がその中で生きることができるような燃える石を想像できるだろうか。あるいは、創造されたその日から汚れのない人だと考えられる人が、後にその人の中に邪悪さが発見され、その人が地上に投げ込まれたと言われることができるだろうか。これは、まだ地上にいなかった方が地上に投げ込まれたと言われ、その聖なる場所も汚されたと言われるという意味である。それで、私たちがティルス(ツロ) の君主について預言者エゼキエルから引用したものは、敵対的な力について言及していることを示しました。そしてそれによって、その力が以前は神聖で幸福であったことが最も明確に証明されています。その幸福な状態から、その力に不正が見つかって地に投げ落とされたときから、その状態は落ちました。そして、その状態は自然と創造によってそのような状態になったのではありません。したがって、私たちは、これらの言葉は、ティルス人の国を統治する役目を受け、彼らの魂の世話も託されたある天使について語られていると考えています。しかし、ティルス、またはティルス人の魂が何であるかを、私たちは理解すべきです。フェニキア州の境界内にあるティルスか、それとも、私たちが地上で知っているこのティルスがモデルとなっている他の何かか。ティルス人の魂が、以前のティルスの魂であるか、霊的に理解されているティルスに属する魂であるかは、この場所で検討する必要はないようです。おそらく、これほど謎と重要性のある主題を、それ自体の労力と作業を必要とするのに、表面的なやり方で調査しているように思われるかもしれないからだ。
===5===
また、預言者イザヤは、もう一つの敵対する勢力について、次のように教えています。預言者は言います。「朝ごとに起きていたルシファーが、どうして天から落ちたのか。すべての国々を攻撃した彼は打ち砕かれ、地に打ち倒された。あなたは確かに心の中で言った、『わたしは天に昇り、わたしの王座を天の星々の上に据え、北の方の高い山々よりも高い山の上に座り、雲よりも高く昇り、いと高き者のようになる』。しかし今、あなたは下界、地の基にまで落とされる。あなたを見る者は驚いて言う、『この人は全地を悩まし、王たちを動揺させ、全世界を砂漠にし、町々を滅ぼし、鎖につながれた者を解かなかった人だ』」諸国の王たちは皆、自分の家で栄誉のうちに眠りについた。しかし、お前は剣で刺し貫かれて下界に下った多くの死者とともに呪われ、山々に投げ出される。血に染まった衣服のように清くはない。お前も清くはない。私の国を滅ぼし、私の民を殺したからだ。最も邪悪な子孫よ、お前は永遠に残ることはない。父の罪のために、お前の息子たちを死に備えさせなさい。そうしないと、彼らは再び立ち上がって地を受け継ぎ、地を戦争で満たすであろう。そして、万軍の主はこう言われる。「わたしは彼らに立ち向かい、彼らの名と遺骸と子孫を滅ぼす。」<ref>イザヤ書 14章 12-22節</ref> これらの言葉によって最も明白に示されたのは、かつてルシファーであり、朝ごとに起きていた彼が天から落ちたということである。というのは、ある人たちが考えるように、彼が闇の性質を持っていたのなら、どうしてルシファーは以前から存在していたと言えるのでしょうか。あるいは、自分自身に光を持たない彼が、どうして朝に起きることができたのでしょうか。いや、救い主ご自身も、悪魔についてこう言って教えています。「見よ、サタンが稲妻のように天から落ちたのが見える。」<ref>ルカ 10章18節</ref> かつては、サタンは光でした。さらに、真理である主は、ご自身の栄光ある降臨の力を稲妻にたとえてこう言われました。「稲妻が天の高みからまたその高みにひらめくように、人の子の到来もそのようになる。」<ref>マタイ 24章27節</ref> それにもかかわらず、イエスは彼を稲妻にたとえ、彼が天から落ちたとおっしゃっています。これによって、彼がかつては天にいて、聖徒たちの間に居場所を持ち、すべての聖徒たちが参加する光にあずかっていたこと、その光によって彼らは光の天使となり、使徒たちは主によって世の光と呼ばれていることを示そうとしたのです。このように、あの存在は、道に迷ってこの場所に落ち、その栄光が塵と化す前には、かつて光として存在していたのです。これは、預言者も言っているように、悪人の目印です。そこから、彼はこの世、すなわち地上の住まいの君主と呼ばれました。なぜなら、彼は自分の悪に服従する者たちに対して権力を振るったからです。なぜなら、「この世界全体は」――私はこの地球の場所を世界と呼んでいます――「悪しき者の配下にある」<ref>ヨハネの手紙第一 5:19</ref>からです。彼が背教者、すなわち逃亡者であることについては、ヨブ記の中で主でさえ「あなたは背教した竜を釣り針で捕らえる」、すなわち逃亡者であると言っています<ref>ヨブ 11:20</ref>。 さて、竜とは悪魔自身を指していることは確かです。では、それらが対立する力と呼ばれ、かつては汚れがなかったと言われているのなら、汚れのない純粋さは父と子と聖霊以外の誰の本質にも存在せず、すべての創造物における偶然の性質です。偶然のものは消え去ることもあり、それらの対立する力はかつては汚れがなく、かつては今も汚れていないものの中にあったので、このすべてから、本質や性質によって純粋な人はおらず、生まれつき汚れた人はいないことは明らかです。そしてこの結果、幸福と神聖さのどちらかを持つのは私たち自身の内側と私たち自身の行動次第です。あるいは、怠惰と不注意によって幸福から悪と破滅に転落し、いわば悪事に熟達しすぎることによって(もし人がそのような大きな不注意を犯した場合)、いわゆる「反対勢力」に変貌する状態にまで堕落することもある。
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==脚注==
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諸原理について/第1巻/第6章
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*ウィキソースによる日本語訳
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'''第1巻'''
==第6章==
::終わりまたは完成について
===1===
終わりや完結は、物事の完全性と完成のしるしであるように思われます。そして、ここで私たちに思い出させるのは、このような困難で重要な主題を読んで理解したいという願望に駆り立てられた人がいれば、おそらくこの種の問題の経験がない場合は、それらの問題が無駄で余計なものに思われるかもしれないので、その努力に完全で教養のある理解をもたせるべきだということです。あるいは、他の点に関して先入観や偏見で心がいっぱいであれば、それらの問題を異端で教会の信仰に反するものと判断し、理性の確信よりも偏見の独断主義に屈するかもしれません。実際、これらの主題は、確固とした確実な決定というよりも、調査と議論という形で、私たちは非常に注意深く慎重に扱っています。なぜなら、私たちは前のページで、三位一体について語るときに私ができる限りのことをしたように、明確な独断的な命題で提示されなければならない問題を指摘したからです。しかし、今回の場合、私たちの演習は、厳密な定義ではなく、できる限りの議論のスタイルで行われることになります。
そして、世の終わり、そして最終的な完成は、すべての人が罪に対する罰を受けるときに起こります。それは神だけが知っている時であり、神が各人にふさわしい報いを与える時です。確かに、私たちは、神の慈悲がキリストを通して、神のすべての被造物を一つの目的に呼び戻し、神の敵さえも征服し、従わせることができると考えています。聖書はこう言っています。「主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右に座していなさい。」<ref>詩篇 110:1</ref> そして、ここでの預言者の言葉の意味が明確でない場合は、使徒パウロがより率直に次のように語っていることからそれを確かめることができます。「キリストはすべての敵をその足元に置くまで、支配しなければなりません。」<ref>1 コリント 15:25</ref> しかし、使徒のこの率直な宣言でさえ、「敵を彼の足元に置く」とはどういう意味なのか十分にわからない場合は、次の言葉で彼が言うことに耳を傾けてください。「すべてのものは彼の下に置かれなければならないからです。」それでは、すべてのものをキリストに従わせるこの「従わせる」とは一体何でしょうか。この従わせこそが、私たちもキリストに従わせたいと願うものであり、使徒たちも従い、キリストの追随者であったすべての聖徒たちも従ったものであると私は考えています。なぜなら、私たちがキリストに従わせる「従わせる」という名前は、キリストから来る救いが、ダビデの宣言「私の魂は神に従わないはずがあろうか。私の救いは神から来る」と一致して、キリストの臣民に属することを示しているからです<ref>詩篇 62:1</ref>。
===2===
したがって、すべての敵がキリストに屈服し、最後の敵である死が滅ぼされ、王国がキリスト(すべてのものはキリストに服従する)によって父なる神に引き渡されるときが終わりであるのだから、このような終わりから物事の始まりを思い巡らそうではないか。終わりは常に始まりと同じである。したがって、すべての物事には終わりが 1 つあるように、始まりも 1 つあったと理解すべきである。そして、多くの事物に一つの終わりがあるように、一つの始まりから多くの相違や多様性が生じ、それらはまた、神の善良さによって、キリストへの服従によって、聖霊の統一によって、一つの終わり、すなわち初めに似た終わりに呼び戻される。すなわち、イエスの名にひざまずき、そのようにしてイエスへの服従を知らせるすべての者たちである。これらは、天と地と地の下にある者たちである。この三つの区分によって、事物の宇宙全体が指し示され、すなわち、その一つの始まりから、それぞれの行動の多様性に応じて、それぞれの功績に応じて、さまざまな秩序の中に配置されてきた者たちである。なぜなら、神とそのキリスト、そして聖霊におけるような、本質的な存在による善は、彼らにはなかったからである。なぜなら、すべてのものの創造主である三位一体においてのみ、本質的な存在としての善が存在するからである。一方、偶発的で消えやすい性質としてそれを持っている人たちもおり、神聖さと知恵、そして神性そのものにあずかって初めて祝福を享受する。しかし、そのような参加を怠り、軽蔑するなら、各人は自分の怠惰のせいで、ある人はより速く、ある人はより遅く、ある人はより大きく、ある人はより小さく、自分自身の没落の原因となる。そして、すでに述べたように、個人が自分の立場から転落する過ちは、心と意志の動きに応じて非常に多様であり、ある人はより容易に、ある人はより困難に、より低い状態に落ちるので、これは、各人の行動の多様性に応じて、その人の退廃と背信の罪に比例して起こるべきであるという神の摂理の正当な判断であることがわかる。確かに、私たちが来たるべき終わりに似ていると描写したあの始まりに残った人たちの中には、世界の秩序と配置において天使の地位を得た人たちもいた。ある者は影響力、ある者は君主権、ある者は権力を授かり、権力を必要とする者に対して権力を行使した。またある者は王位の位を受け、これを必要とする者を裁き、支配する職務を担った。またある者は、疑いなく奴隷に対する支配権を授かった。これらはすべて、神の摂理によって公正かつ公平な裁きのもとに、その功績と、神への参加と模倣において彼らが成し遂げた進歩に応じて授けられたものである。しかし、本来の祝福された状態から引き離された人々は、回復不能に引き離されたわけではなく、私たちが述べた聖なる祝福された秩序の支配下に置かれました。そして、これらの助けを借り、有益な原則と規律によって作り変えられることによって、彼らは回復し、幸福な状態に戻ることができます。これらすべてから、私が見る限り、この人類の秩序は、イザヤが語った新しい天と新しい地がある未来の世界、または来たるべき時代に、主イエスが弟子たちに代わって父なる神に祈ったときに約束された統一に回復されるように定められたものであると私は考えています。「私は彼らのためだけではなく、彼らの言葉によって私を信じるすべての人のためにお願いします。父よ、あなたが私の中におられ、私があなたの中におられるように、彼らも私たちの中に一つとなるためです。」<ref>ヨハネ 17:20-21</ref> また、主はこう言われます。「それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つとなるためです。わたしが彼らの中におり、あなたがわたしの中におられるように。彼らは一つとなって完全にされるためです。」<ref>ヨハネ 17:22-23</ref> このことは、使徒パウロの言葉によってさらに確証されています。「ついに、わたしたちはみな、信仰の一致によって完全な人に至り、キリストの満ちあふれる徳の高さにまで達するのです。」<ref>エペソ 4:13</ref> また、これと調和して、同じ使徒は、この世においても教会の中に置かれているわたしたちに、この同じ一致の似姿に励むよう勧めています。「みな同じことを語り、あなたがたの間に分裂があってはなりません。かえって、同じ思い、同じ考えで完全に結び合わされなさい。」<ref>1 コリント 1:10</ref>
===3===
ただし、私たちが語った一つの始まりから堕落したある存在は、無価値と邪悪の深みに陥り、人類が肉体にある間に天の力の助けを借りて訓練され教えられる訓練と指導に全く値しないとみなされ、それどころか、この指導と教えを受けている人々に対して敵意と反対の状態を続けているということを心に留めておく必要があります。そしてそれゆえ、この死すべき人生全体が、少しも振り返らずにより良い状態から堕落した人々の反対と敵意によって引き起こされる闘争と試練に満ちているのです。彼らは悪魔とその天使、および使徒が反対勢力に分類したその他の悪の階級と呼ばれています。しかし、悪魔の支配下で行動し、悪魔の邪悪な命令に従うこれらの階級の誰かが、自由意志の能力を持っているために来世で正義に改心するかどうか、または持続的で根深い邪悪が習慣の力によって自然に変わるかどうかは、読者のあなた自身が承認できる結果です。ただし、これらの現在の目に見える一時的な世界でも、目に見えない永遠の世界でも、その部分が物事の最終的な統一性と適合性から完全に異なることはありません。しかし、その間、目に見える一時的な世界と目に見えない永遠の世界の両方で、すべての存在は、規則的な計画に従って、その功績の順序と程度に従って配置されています。そのため、彼らのうちのある者は最初の時代に、他の者は二番目の時代に、またある者は最後の時代に、より重く厳しい懲罰を受けた後、いわば長い期間、何世代にもわたって耐え、この厳しい訓練方法によって向上し、最初は天使の教えによって、その後はより高次の力によって回復し、こうして各段階を経てより良い状態へと進み、ある種の訓練によって天の力のあらゆる職務を経た後、目に見えない永遠のものにまで達する。そこから、あらゆる理性的な性質は、一つの秩序から他の秩序へと移る際に、それぞれからすべてへと、すべてからそれぞれへと進むことができるという推論が導かれると思われるが、その一方で、自由意志の力を享受するために自らの行動と努力に応じて、さまざまな程度の熟達と失敗の対象になる。
===4===
しかしながらパウロは、あるものは目に見える一時的なものであり、他のものは目に見えない永遠のものであると言っているのだから、目に見えるものがどのようにして一時的なのか、さらに調べていくことにしよう。それは、来世のすべての期間において、その分散と分離がひとつの始まりからひとつの同じ目的と類似性へと回復する過程を経ているときに、目に見えるものの後には何も残らないからなのか、それとも、目に見えるものの形態は過ぎ去っても、その本質は腐敗しないからなのか。そしてパウロは後者の見解を裏付けているようで、「この世の様式は過ぎ去るからです」と言っている<ref>1 コリント 7:31</ref>。 ダビデもまた、「天は滅びるであろうが、あなたは存続されるであろう。それらはすべて衣のように古び、あなたはそれらを着物のように変え、それらは祭服のように変えられるであろう」という言葉で同じことを主張しているようだ<ref>詩篇 102:26</ref>。 というのは、もし天が変化するとしても、変化するものは確かに滅びることはないし、世の流行が過ぎ去るとしても、それは物質的実体の消滅や破壊が起こるということではなく、一種の質の変化や外観の変化である。イザヤもまた、新しい天と新しい地があると預言的に宣言して、間違いなく同様の見解を示唆している。なぜなら、この天と地の再生、現在の世界の形のこの変化、そしてこの天の変化は、間違いなく、私たちが上で指摘した道を歩み、敵さえも従うと言われている幸福の目標に向かっている人々のために用意されているからであり、その幸福においては神は「すべてであり、すべての中にいる」と言われているからである。そして、もし誰かが、最後には物質的、つまり肉体的な性質が完全に破壊されるだろうと想像するなら、彼は、これほど多数で強力な存在が肉体なしで生き、存在できるという私の見解にまったく同意できない。なぜなら、いかなる物質的実体もなしに、またいかなる程度の肉体的付属物もなしに存在することは、神の性質、つまり父、子、聖霊の属性だけであるからだ。また、おそらく、最後にはすべての肉体的実体はエーテルのように純粋で精錬され、天の純粋さと清らかさを持つようになるだろうと言う人もいるだろう。しかし、物事がどのようになるかは、神と、キリストと聖霊を通して神の友人である人々にのみ確実に知られている<ref> [この章と前の章でオリゲネスが使用した言語は、事実や意見を述べる際の時折の行き過ぎ、および聖書の意味に関する奇妙な想像や突飛な推測の顕著な例であり、これらは後に彼に重大な誤りと異端の堕落の罪を負わせることとなった。ネアンダーの『最初の3世紀のキリスト教と教会の歴史』(ローズ訳)第2巻、217ページ以降、およびハーゲンバッハの『教義の歴史』第5巻、102ページ以降を参照。また、前掲のオリゲネス著作への序文 、235ページも参照。S.]</ref>。
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==脚注==
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*底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/I/Chapter 7".
*[[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De PrincipiisI/Chapter 7|Origen De Principiis/I/Chapter 7]]
*ウィキソースによる日本語訳
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'''第1巻'''
==第7章==
::無形の存在と有形の存在について
===1===
前章で検討した主題は一般的な言葉で語られており、理性的な存在の性質は、父、子、聖霊の位格について可能な限り扱った箇所を除いて、厳密な教義的定義よりも知的な推論によって議論されています。次に、私たちの教義的信念、つまり教会の信条に従って、次のページで扱うのが適切な問題が何であるかを確かめなければなりません。すべての魂とすべての理性的な性質は、聖なるものであれ邪悪なものであれ、形作られ、創造されました。そして、これらすべては、その本来の性質によれば、無形です。しかし、無形であるにもかかわらず、それでも創造されました。なぜなら、すべてのものはキリストを通して神によって作られたからです。ヨハネは、福音書の中で、次のように一般的に教えています。「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。言葉は初めに神とともにあった。すべてのものは彼によって作られた。彼なしに作られたものは一つもなかった。」<ref>ヨハネ 1:1-3</ref> さらに使徒パウロは、被造物を種類、数、順序で描写し、すべてのものがキリストによって造られたことを示す際に、次のように語っています。「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、見えないもの、王座であれ、主権であれ、支配であれ、権威であれ、すべてのものはキリストにおいて造られた。すべてのものはキリストによって、またキリストにおいて造られた。キリストはすべてのものより先におられ、頭であられる。」<ref>コロサイ 1:16-18</ref> したがってパウロは、目に見える物質的なものであれ、目に見えないものであれ、すべてのものはキリストにおいて、キリストによって造られ、創造されたと、明らかに宣言している。目に見えないものが、私は無形の霊的な力にほかならないと考えています。しかしパウロが一般的に物質的または無形と呼んだもののうち、以下の言葉で、彼は王座、主権、支配、権威、影響力など、さまざまな種類を列挙しているように私には思えます。
これらの事柄は、私たちが以前に述べたとおりです。私たちは、論理的推論によって太陽、月、星の調査に秩序正しく進み、それらが ᾽Αρχάς {{註|初め}}に、すなわち 昼と夜の統治のために創造されたと言われている理由で、それらも適切に君主国に数えられるべきであるかどうか、またはそれらは、それらを照らす役割を果たすことによって果たす昼と夜の統治のみを持っていると見なされるべきであり、実際にはその君主国の秩序の長ではないかどうかを確かめたいのです。
===2===
さて、万物は神によって造られ、万物は神によって創造された、天にあるものも地にあるものも、すべて神によって創造されたと言われるとき、天と呼ばれ、光体が置かれていると言われる大空にあるものも、天にあるものの数に含まれることは疑いようがありません。そして第二に、議論の過程で、万物は造られた、あるいは創造されたこと、そして創造されたものの中には善と悪を認めず、そのどちらもできないものは何もないことが明らかにわかったので、私たちの友人の一部が太陽、月、星に関して抱いている次の意見、すなわち、それらは不変であり、それらの正反対になることはできない、についてどう考えるべきでしょうか。聖なる天使に関してさえ、また霊的性質と呼ぶ魂に関しても、その見解を持つ人は少なくありません。
そこでまず、太陽、月、星に関して理性自体が何を発見できるか、つまり、一部の人々が抱く、それらの不変性に関する意見が正しいかどうかを見てみよう。そして、できる限り聖書の宣言をまず引用しよう。というのは、ヨブは、星が罪に支配されるだけでなく、実際には罪の汚染から清くないと主張しているように思われるからである。以下は彼の言葉である。「星もまた、あなたの目に清くない。」<ref>ヨブ 25:5</ref> また、これは、たとえば衣服について、それが清くないと言うのと同じように、それらの物質の輝きについて理解されるべきではない。なぜなら、もしそのような意味であれば、それらの物質の輝きに清浄さが欠けていると非難することは、それらの創造主に対する悪意ある反映を意味するからである。というのは、もし彼らが自分自身の勤勉な努力によってより輝く体を獲得することができず、あるいは怠惰によって彼らが持っている体をより不純なものにすることができず、彼らが汚れた星であるという理由で称賛を受けないのであれば、どうして彼らは汚れた星であるという非難を受けるのでしょうか<ref>[See note, supra, p. 262. S.]</ref>。
===3===
しかし、これらの事柄についてより明確な理解に達するためには、まずこの点について、彼らが生きていて理性的な存在であると仮定することが許されるかどうか、次に、彼らの魂は彼らの肉体と同時に存在するようになったのか、それともそれより前に生まれたのか、そしてまた、世界の終わりの後、彼らは肉体から解放されると理解すべきなのか、そして、私たちが生きなくなると、彼らも世界を照らすことをやめるのか、を問わなければなりません。この問答はいくぶん大胆に思えるかもしれませんが、できる限り真実を確かめたいという願望に駆り立てられているので、聖霊の恵みに従ってこの問題の調査を試みることには不合理なことはないように思われます。
それで、私たちは、彼らが神から命令を受けていると言われる理由から、彼らを生物と呼ぶことができると考えます。これは通常、理性的な存在にのみ当てはまります。「私はすべての星に命令を与えた」<ref>イザヤ 45:12</ref>と主は言われます。では、これらの命令とは何でしょうか。つまり、それぞれの星が、その秩序と軌道に従って、託された輝きを世界に与えるというものです。「惑星」と呼ばれるものは、ある種の軌道で動きますが、ἀπλανεῖς {{註|恒星}}と呼ばれるものは異なります。さて、このことから、その物体の運動は魂なしには起こり得ず、生物はいかなる時も運動なしではあり得ないことが明白にわかります。そして、星々が秩序正しく規則正しく動いていて、その動きが乱れるようなことは決してないのに、非理性的な存在が、これほど秩序だった方法と計画の遵守を実行したり、成し遂げたりできると言うのは、愚の骨頂ではないでしょうか。確かに、エレミヤ書では、月は天の女王と呼ばれています<ref>エレミヤ 7:18</ref>。 しかし、星々が生きていて理性的な存在であるなら、間違いなく、星々の間には前進と後退が現れるでしょう。ヨブの言葉「星々は神の目に清くない」は、私にはそのような考えを伝えているように思われます。
===4===
さて、ここで我々は、これまでの議論の中で生命と理性を持っていることがわかったこれらの存在が、聖書に記されている時、「神は二つの大きな光を造られた。大きい光に昼を治めさせ、小さい光に夜を治めさせ、また星々も造られた」<ref>創世記 1:16</ref>ときに、肉体とともに魂を授かったのか、それとも肉体の創造時にではなく、すでに肉体が造られた後に、外部から霊が植え付けられたのかを確かめなければならない。私としては、霊が外部から植え付けられたのではないかと疑っている。しかし、聖書からこれを立証する価値はあるだろう。なぜなら、推測に基づいてこの主張をするのは簡単なことのように思えるが、聖書の証言によってそれを立証するのはより難しいからである。さて、次のように推測的に立証することができるだろう。人間の魂は、人間の魂である限り確かに劣っているが、その魂が肉体とともに形成されたのではなく、厳密に外部から植え付けられたことが証明されているのなら、天の魂と呼ばれる生き物についてはなおさらそうであるはずだ。人間に関して言えば、胎内で兄弟に取って代わったヤコブの魂が、肉体とともに形成されたように見えることはどうしてあり得るだろうか。あるいは、母親の胎内にいる間、聖霊に満たされていた彼の魂、またはその像が、肉体とともに形成されたことはどうしてあり得るだろうか。私が言っているのは、母親の胎内で跳ね回り、マリアの挨拶の声が母親エリサベトの耳に届いたことを喜んだヨハネのことである。胎内で創造される前から神に知られ、生まれる前から神によって聖別されていたと言われている彼の魂とその像が、肉体とともに形成されたことはどうしてあり得るだろうか。おそらく、ある人たちは、神は個人を聖霊で満たし、聖化を授けるが、それは正義に基づいてではなく、その人の功績に応じてではなく、不当にそうするのだ、と考えるかもしれません。では、どうして私たちは、「神に不正があるだろうか。そんなはずはない!」<ref>ローマ 9:14</ref>、あるいは、「神に人種の差別があるだろうか。」<ref>ローマ 2:11</ref>という発言から逃れることができましょう。なぜなら、魂は肉体とともに存在すると主張する人たちは、そのような言い訳をするからです。したがって、人間の状態との比較から意見を形成できる限り、天の存在に対しても同じことを信じなければならないと私は思います。理性自体と聖書の権威は、人間の場合も同様であることを示しています。
===5===
しかし、聖書の中に、これらの天の存在に適切に当てはまる何かのしるしが見つかるかどうか見てみましょう。使徒パウロは次のように述べています。「被造物は虚無に服従させられましたが、それは自ら望んだのではなく、服従させた方の御心によるのです。なぜなら、被造物自身も、滅びの束縛から解放され、神の子たちの栄光ある自由にあずかるからです。」<ref>ローマ8章20節、21節を参照。</ref> 一体、被造物はどのような虚無に服従させられたのでしょうか。あるいは、どの被造物を指すのでしょうか。あるいは、「自ら望んだのではなく」、あるいは「何を望んで」とはどのように言われているのでしょうか。また、被造物自身はどのようにして滅びの束縛から解放されるのでしょうか。また、同じ使徒は別の箇所でもこう言っています。「被造物は神の子たちの出現を待ち望んでいるからです。」<ref>ローマ 8:19</ref> また、別の箇所では、「私たちだけでなく、被造物自体も今に至るまで共にうめき、苦しんでいます。」<ref>ローマ 8:22-23</ref> それで、私たちはうめき声と苦痛が何であるかを尋ねなければなりません。それでは、まず第一に、被造物が受ける虚しさが何であるかを見てみましょう。それは肉体に他ならないと私は理解しています。なぜなら、星の体は霊魂的であるにもかかわらず、それでも物質的だからです。そこから、ソロモンは肉体全体を、魂の活力を弱める一種の重荷として特徴づけているように思われます。「説教者は言う。空虚の空。すべては空虚だ。私は太陽の下でなされるすべての業を見てきた。しかし、見よ、すべては空虚だ。」<ref>伝道の書 1:1,14</ref> それで、この虚栄に被造物は従属しているのである。特に、この世界で確かに最も偉大であると同時に、労働の卓越した主権も持つ被造物、すなわち太陽、月、星は、肉体をまとい、人類に光を与えるという役割に分けられているので、虚栄に従属していると言われている。「そして、この被造物は」と彼は言う、「自ら望んで虚栄に従属したのではない」。なぜなら、被造物は自発的に虚栄に仕えたのではなく、それを従わせた神の意志であり、この不本意な服従に追い込まれた人々に対する従属者の約束によるものである。すなわち、彼らの偉大な仕事の奉仕が遂行されれば、神の子供たちの栄光ある救済の時が到来し、彼らはこの腐敗と虚栄の束縛から解放されるという約束である。そして、この希望を受け入れ、今この約束の実現を待ち望んでいる全被造物は、その間、奉仕する人々への愛情を持ちながら、彼らとともにうめき、彼らとともに忍耐強く苦しみ、約束の実現を望みます。また、パウロの次の言葉が、自ら望んでではないにせよ、彼らを服従させた方の意志に従い、約束の希望を抱きながら虚しさに服従させられた人々に当てはまるかどうかも見てください。彼はこう言っています。「わたしは、解けてしまいたいのです」。あるいは、「戻ってキリストと共にいることを望むのです。その方が、はるかによいのです。」<ref>ピリピ 1:23</ref> というのは、太陽も同じようにこう言うかもしれないと思うからです。「わたしは、解けてしまいたいのです」。あるいは、「戻ってキリストと共にいることを望むのです。その方が、はるかによいのです。」パウロは確かにこう付け加えています。「しかし、肉にとどまる方が、あなた方にとってより必要です。」一方、太陽はこう言うかもしれません。「神の子らの顕現のために、この輝く天の体にとどまる方が、より必要です。」月と星に関しても同様の見解が信じられ、表明されるべきである。
さて、被造物の自由とは何か、あるいはその束縛の終結とは何かを見てみましょう。キリストが王国を父なる神に引き渡されるとき、それらの生き物もまた、彼らが最初にキリストの王国とされたとき、その王国全体とともに父の支配に引き渡されます。それは、神がすべてのものの中にすべてとなるとき、彼らもまた、すべてのものの一部であるので、神がすべてのものの中におられるように、彼ら自身の中にも神を持つためです。
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==脚注==
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諸原理について
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II(第2巻)
*[[諸原理について/II/第1章|第1章]] 世界について
*[[諸原理について/II/第2章|第2章]] 肉体の性質の永続性について
*[[諸原理について/II/第3章|第3章]] 世界の始まりとその原因について
*[[諸原理について/II/第4章|第4章]] 律法と預言者の神、そして私たちの主イエス・キリストの父は同じ神である
*[[諸原理について/II/第5章|第5章]] 正義と善について
*[[諸原理について/II/第6章|第6章]] キリストの受肉について
*[[諸原理について/II/第7章|第7章]] 聖霊について
*[[諸原理について/II/第8章|第8章]] 魂(アニマ)について
*[[諸原理について/II/第9章|第9章]] 世界と、善悪を問わず理性的な生き物の運動、そしてその原因について
*[[諸原理について/II/第10章|第10章]] 復活、審判、地獄の火、そして罰について
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諸原理について
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第2巻
*[[諸原理について/第2巻/第1章|第1章]] 世界について
*[[諸原理について/第2巻/第2章|第2章]] 肉体の性質の永続性について
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諸原理について
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III(第3巻)
*[[諸原理について/III/第1章|第1章]] ルフィヌスの序文
*[[諸原理について/III/第2章|第2章]] 第1章 意志の自由について
*[[諸原理について/III/第3章|第3章]] 第1章 意志の自由について(ギリシャ語からの翻訳)
*[[諸原理について/III/第4章|第4章]] 第2章 対立する勢力について
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*ウィキソースによる日本語訳
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諸原理について
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<b>第3巻</b>
*[[諸原理について/第3巻/第1章|第1章]] ルフィヌスの序文
*[[諸原理について/第3巻/第2章|第2章]] 第1章 意志の自由について
*[[諸原理について/第3巻/第3章|第3章]] 第1章 意志の自由について(ギリシャ語からの翻訳)
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*ウィキソースによる日本語訳
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諸原理について
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<b>第3巻</b>
*[[諸原理について/第3巻/第1章|第1章]] ルフィヌスの序文
*[[諸原理について/第3巻/第2章|第2章]] 第1章 意志の自由について
*[[諸原理について/第3巻/第3章|第3章]] 第1章 意志の自由について(ギリシャ語からの翻訳)
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*ウィキソースによる日本語訳
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諸原理について
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IV(第4巻)
*[[諸原理について/IV/第1章|第1章]] 第1章 聖書は神の啓示によるものである(ルフィヌスのラテン語からの翻訳)
*[[諸原理について/IV/第2章|第2章]] 第1章 聖書の霊感について、また聖書をどのように読み、理解するか、また聖書の不確実性の理由、また文字通りに解釈した場合の聖書中の特定の事柄の不可能性または不合理性の理由について(ギリシャ語からの翻訳)
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*ウィキソースによる日本語訳
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諸原理について
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第4巻
*[[諸原理について/第4巻/第1章|第1章]] 第1章 聖書は神の啓示によるものである(ルフィヌスのラテン語からの翻訳)
*[[諸原理について/第4巻/第2章|第2章]] 第1章 聖書の霊感について、また聖書をどのように読み、理解するか、また聖書の不確実性の理由、また文字通りに解釈した場合の聖書中の特定の事柄の不可能性または不合理性の理由について(ギリシャ語からの翻訳)
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*底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/I/Chapter 8".
*[[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De PrincipiisI/Chapter 8|Origen De Principiis/I/Chapter 8]]
*ウィキソースによる日本語訳
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}}
'''第1巻'''
==第8章==
::天使について
===1===
天使を扱う際にも同様の方法がとられなければならない。また、特定の天使に特定の職務が割り当てられているのは偶然の結果であると想定してはならない。たとえば、ラファエルには治癒と治療の働き、ガブリエルには戦争の指揮、ミカエルには人間の祈りと嘆願に応じる義務などである。なぜなら、彼らがこれらの職務を獲得したのは、彼ら自身の功績と、この世界が形成される前にそれぞれが示していた熱意と優れた資質による以外の何ものでもなく、そう想像してはならないからである。そのため、後に大天使の階級において、各人にこの職務またはその職務が割り当てられ、他の者は天使の階級に登録され、この大天使またはその大天使、あるいは階級のリーダーまたは長の下で行動するにふさわしい者となったのである。これらすべてのことは、私が言ったように、無差別に、偶然にではなく、神の最も適切で公正な決定によって配置されました。神は、ご自身の承認と判断に従って、それらを功績に応じて配置しました。したがって、ある天使にはエフェソスの教会が、別の天使にはスミルナの教会が託されました。ある天使はペテロの天使、別の天使はパウロの天使、そして教会にいるすべての小さな者たちに同様に割り当てられました。なぜなら、毎日神の顔を見るこのような天使が、彼ら一人一人に割り当てられなければならないからです<ref>マタイ 18:10</ref>。また、神を畏れる者たちの周りには、何らかの天使が陣取らなければなりません<ref>詩篇 34:7、主の使いは主を恐れる者のまわりに 陣をしいて彼らを助けられる。</ref>。 これらのことはすべて、偶然や偶然によって、または彼ら(天使)がそのように創造されたために行われたのではないことは確かであると信じられなければなりません。そうしないと、その見方では、創造主が偏りがあると非難されることになります。しかし、それらは、すべてのものの公正かつ公平な支配者である神によって、各個人の精神の功績、優れた性質、および精神的な活力に応じて授与されたと信じられるべきである。
===2===
さて、霊的性質の多様性の存在を主張する人々について、少し述べておこう。そうすれば、天の存在と人間の魂の両方に霊的性質の多様性があると偽り、そのためにそれらが異なる創造主によって創造されたと主張するような愚かで不敬虔な作り話に陥るのを避けることができる。なぜなら、同じ創造主が理性的な存在の異なる性質を創造したと考えるのは不合理に思えるし、実際不合理であるが、彼らはその多様性の原因を知らないからである。なぜなら、同じ創造主が、なんの功績の根拠もなく、ある存在に支配権を与え、他の存在を権威に従属させ、ある存在に君主権を与え、他の存在を支配者に従属させるのは矛盾しているように思える、と彼らは言うからである。実際、私の判断では、上記の推論に従うことによって、これらの意見は完全に否定されます。その推論によって、これらの存在の間の多様性と多様性の原因は、彼らの行動によるものであり、彼らの性質の善悪に応じて、より真剣または無関心で特徴付けられており、支配者の側の偏見によるものではないことが示されました。しかし、これが天の存在の場合に当てはまることをより簡単に示すために、人間の間で行われた、または行われていることから例を借りてみましょう。そうすれば、目に見えるものから、結果として、目に見えないものも見ることができます。
パウロとペテロは、疑いなく霊的な性質の人であったことが証明されている。したがって、パウロが神の教会を迫害するという宗教に反する行為をしたことが判明し、またペテロが女中から尋問されたとき、キリストが誰であるか知らないと誓って断言するほどの重大な罪を犯したことが判明した場合、これらの人々、すなわち、私たちが話している人々によれば霊的な存在であった人々が、そのような性質の罪に陥ることがどうして可能だろうか。特に、彼らは、良い木が悪い実を結ぶはずがないとよく言う癖があるのに。そして、良い木が悪い実を結ぶはずがないのに、そして彼らによれば、ペテロとパウロが良い木の根から生まれたのに、どうして彼らがそれほど邪悪な実を結んだとみなされるだろうか。そして、彼らが、迫害したのはパウロではなく、パウロの中にいた誰かは知らないが、他の誰かであるという、一般に考えられている答えを返すならば、そして、否定を口にしたのはペテロではなく、彼の中にいる他の誰かであった。もしパウロが罪を犯していなかったら、どうして「私は神の教会を迫害したので、使徒と呼ばれる資格はありません」と言うことができただろうか<ref>1 コリント 15:9</ref>。 また、もしペテロ以外の人が罪を犯したのなら、なぜペテロは激しく泣いたのだろうか。これによって、彼らの愚かな主張はすべて根拠がないことが証明される。
===3===
我々の見解によれば、善と悪の両方ができない理性的な生き物は存在しない。しかし、悪を認めない性質は存在しないと言うからといって、すべての性質が悪を認めた、つまり邪悪になったと主張することにはならない。すべての人間の性質は船乗りであることを認めていると言うことはできるが、そこからすべての人間が船乗りになるということにはならない。また、文法や医学を学ぶことは誰でもできるが、だからといってすべての人間が医者か文法学者であることが証明されるわけではない。同様に、悪を認めない性質は存在しないと言う場合、必ずしも悪を認めたと示されるわけではない。なぜなら、我々の見解では、悪魔自身でさえ善を行うことができないわけではないからである。しかし、善を認めることはできたが、だからといって悪魔は善を望んだり、美徳を求めたりはしなかった。というのは、私たちが預言者から引用した引用文から教えられているように、かつて彼が善良で、神の楽園でケルビムの間を歩いていた時があったからです。彼はその時、善と悪のどちらかを受け入れる力を持っていましたが、高潔な道から外れ、心の力のすべてを悪に向けました。同様に、他の被造物も、どちらの状態になる可能性も持っているので、意志の自由を行使して悪から逃れ、善に固執します。ですから、善悪を受け入れない性質は、すべての善の源である神の性質とキリストの性質以外にはありません。なぜなら、それは知恵であり、知恵は確かに愚かさを受け入れることができないからです。それは正義であり、正義は絶対に不正義を受け入れません。そして、それは言葉、つまり理性であり、それは確かに不合理にすることはできません。いや、それは光でもあり、暗闇が光を受け入れないことは確かです。同様に、聖霊の性質も聖なるものであるため、汚れることはありません。なぜなら、聖霊は本来、あるいは本質的な存在として聖なるものだからです。もし他の聖なる性質があるとすれば、それは聖霊の受容または霊感によって聖化されるというこの性質を持っていますが、それは本来持っているのではなく、偶然の性質であり、そのため偶然であるため失われることがあります。同様に、人は偶然の正義を持っている可能性があり、そこから堕落する可能性があります。人が持つ知恵でさえも、私たちが人生の熱意と努力をもって知恵に身を捧げるなら、賢くなることは私たち自身の力で可能ですが、それでも偶然のものです。私たちが常に知恵の研究を追求するなら、私たちは常に知恵の参加者であり得ます。その結果は、私たちの人生の功績や熱意の量に応じて、多かれ少なかれ伴います。神の善良さは、神にふさわしいものであり、すべての人々を至福の結末へと導き、そこではすべての痛み、悲しみ、苦しみが消え去ります。
===4===
それで、私が思うに、これまでの議論は、私が思うに、「君主」が支配権を握っているのも、他の霊の階級がそれぞれの役職を得たのも、識別力の欠如や偶然の理由によるのでもないことを十分に証明していると思います。彼らがその階級の地位を得たのは、彼らの功績によるものですが、彼らが特定の階級で地位を得た行為が何であったかを知ることも、尋ねることも、私たちの特権ではありません。神の公平性と正義を証明するには、使徒パウロの宣言に従って、「神には個人は受け入れられない」というこれだけを知っていれば十分です<ref>ローマ2章11節を参照。</ref>。 神はむしろ、各個人の功績と道徳的進歩に応じてすべてを処分する。したがって、天使の職務は彼らの功績の結果としてのみ存在する。また、「権力」は彼らの道徳的進歩のおかげでのみ権力を行使する。また、「席」と呼ばれるもの、すなわち、裁きと支配の権力は、功績によらなければその権力を行使しない。また、「領地」は不当に支配することはない。なぜなら、天界の存在の間で理性的な被造物の偉大で際立った秩序は、輝かしい多様な職務に配置されているからである。そして、そのような地位や役職に就いた反対の勢力についても、同じ見方をすべきである。つまり、彼らが「君主」や「権力」、世界の闇の支配者、邪悪な霊、悪霊、汚れた悪魔となるのは、彼らの本質やそのように創造されたことに由来するのではなく、彼らの行いや邪悪さの進展に比例して、悪の度合いを獲得したのである。そして、それは理性的な被造物の第二の類であり、彼らはあまりにも突進的に邪悪さに身を捧げたため、立ち直ることができないというよりは、立ち直りたくないのである。悪への渇望はすでに情熱であり、彼らに快楽を与えている。しかし、理性的な被造物の第三の類は、人類、すなわち、天使の位への道徳的進歩の結果として想定された人間の魂を補充するのに神によって適していると判断された者たちである。彼らのうちのある者は、神の子とされた者、復活の子とされた者、闇を捨てて光を愛し、光の子とされた者、あらゆる闘争に勝利し、平和の人となった者、平和の子、神の子となった者、地上で自分の肢体を苦行し、肉体の性質だけでなく、魂自体の不確かで脆弱な動きさえも超越し、主に結合し、完全に霊的なものとされ、永遠に主と一つの霊となり、主とともに一つ一つのものを識別し、ついには完全な霊性の状態に達し、神の言葉と知恵を通してすべての聖性における完全な啓示によってすべてのものを識別し、彼ら自身は誰にもまったく区別がつかない者、とされている。
われわれは、一部の人々が不必要に主張し主張する、魂が堕落の度合いがひどくなり、理性的な本性と尊厳を忘れ、大小を問わず理性のない動物の状態に陥るという見解は決して受け入れられないと考える。そして、こうした主張を支持するために、彼らは通常、女性が不自然に売春した動物は女性と同等の罪を犯したとみなされ、石打ちに処せられる、あるいは角で突く雄牛は<ref> [出エジプト記第21章28節、29節参照]</ref>同様に死刑に処せられる、あるいは神が口を開くと、口のきけない荷役動物が人間の声で答え、預言者の狂気を非難したバラムのロバの話し声など、聖書の偽りの記述を引用する。われわれはこうした主張をすべて受け入れないばかりか、われわれの信念に反するとして反駁し、拒絶する。このような誤った意見を反駁し、拒絶した後、適切な時と場所で、彼らが聖書から引用している文章がどのように理解されるべきかを示すつもりです。
:::[[諸原理について/I/第8章#第8章|トップに戻る↑]]
==脚注==
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諸原理について/第1巻/第9章
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*ウィキソースによる日本語訳
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'''第1巻'''
==第9章==
『諸原理』第一巻からの断片。
ヒエロニムスによるアウィトゥスへの手紙での翻訳。
「各人がそのような堕落の段階に落ち込み、悪に陥って、非理性的な荷役動物の粗野な体に縛り付けられるほどに空虚になることは、大きな怠慢と怠惰の証拠である。」
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諸原理について/第1巻/第10章
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'''第1巻'''
==第10章==
同じものからの別の断片。
アウィトゥスへの同じ手紙で翻訳されています。
「世界の終わりと完成のとき、魂と理性ある生き物が、まるで稲妻と障壁から放たれるようにして<ref>De quibusdam repagulis atque carceribus.: 一部の居酒屋や刑務所のもの。</ref>、彼らのうちのあるものはその怠惰な習慣のためにゆっくりと歩き、他のものはその勤勉さのために素早く飛ぶ。そして、すべての人は自由意志を持ち、自らの意志で善と悪のいずれかを受け入れることができるので、前者は現在よりも悪い状態にあり、後者はより良い状態に進むでしょう。なぜなら、異なる行動と変化する意志は、どちらの方向にも異なる状態を受け入れるからです。つまり、天使は人間または悪魔になる可能性があり、後者から再び人間または天使に昇る可能性があるからです。」
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*ウィキソースによる日本語訳
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'''第1巻'''
==第10章==
同じものからの別の断片。
アウィトゥスへの同じ手紙で翻訳されています。
「世界の終わりと完成のとき、魂と理性ある生き物が、まるで稲妻と障壁から放たれるようにして<ref>De quibusdam repagulis atque carceribus.: 一部の居酒屋や刑務所のもの。</ref>、彼らのうちのあるものはその怠惰な習慣のためにゆっくりと歩き、他のものはその勤勉さのために素早く飛ぶ。そして、すべての人は自由意志を持ち、自らの意志で善と悪のいずれかを受け入れることができるので、前者は現在よりも悪い状態にあり、後者はより良い状態に進むでしょう。なぜなら、異なる行動と変化する意志は、どちらの方向にも異なる状態を受け入れるからです。つまり、天使は人間または悪魔になる可能性があり、後者から再び人間または天使に昇る可能性があるからです。」
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諸原理について/第2巻/第1章
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*ウィキソースによる日本語訳
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'''第2巻'''
==第1章==
::世界について
===1===
前書における議論はすべて世界とその秩序について言及していました。ここでは世界そのもの、すなわち世界の始まりと終わり、あるいは始まりと終わりの間に起こった神の摂理の摂理、あるいは世界の創造前に起こったとされる出来事、あるいは世界の終わりの後に起こるとされる出来事について、特に再度議論する必要があると思われます。
この調査で、最初に明らかになる点は、世界は、その多様で変化するすべての状態において、理性的で神聖な性質、および多様な物体だけでなく、口のきけない動物、野生の獣、飼いならされた獣、鳥、および水中に生息するすべてのものから構成されているということです<ref>Redepenning版では「in aquis」という語句が省略されている。</ref>。次に、場所、つまり天または天、地または水、および中間の空気、エーテルと呼ばれる空気、および地から発生するもの、または地で生まれるものすべてから構成されています<ref>この文の原文は、ユスティニアヌス帝がコンスタンティノープル総主教メナスに宛てた書簡の末尾に見られ、直訳すると次のようになる。「世界は多種多様で、非常に多くの異なる理性的な存在を含んでいるのだから、統一性 ( τῆς ἑνάδος ) からさまざまな形で脱落する者たちの多様性以外に、その存在の原因は何であると言うべきだろうか?」—ルエウス。ロンマッチは、ベネディクト会編集者の注釈には含まれていない一節を付け加えている。「そして時には、魂は水の中にある命 ( ἔνυδρον ) を選ぶこともある。」</ref>。世界には非常に大きな多様性があり、理性的な存在自体にも非常に大きな多様性があり、そのために他のすべての多様性と多様性も存在すると考えられていることを考えると、特に前の本ですべてのものが元の状態に戻ることを示した目的を考慮すると、これ以外のどのような原因が世界の存在に帰せられるべきでしょうか。そして、もしこれが論理的に述べられているように思われるならば、すでに述べたように、神によって最初に創造された原初の統一と調和から堕落し、その善良な状態から追い出され、さまざまな動機と欲望の悩ます影響によってさまざまな方向に引き寄せられ、それぞれの傾向に応じて、その本性の単一で分割されない善良さをさまざまな種類の心に変えてしまった人々の運動と変遷の多様性と変化以外に、世界にこれほど大きな多様性がある理由を想像できるでしょうか<ref>文字通り「心のさまざまな性質に」</ref>。
===2===
しかし神は、その言い表せない知恵の技量によって、あらゆるものを、それがどのように作られたかにかかわらず、何らかの有用な目的とすべての人の共通の利益のために、作り変え、修復し、精神的に互いに大きく異なっていた被造物を、労働と目的の合意に呼び戻します。そのため、被造物は異なる動機の影響下にあるにもかかわらず、それでもなお、一つの世界の充足と完全性を完成させ、精神の多様性は一つの完全性の目的に向かいます。なぜなら、世界の多様性をすべて把握してまとめ、異なる動きを一つの仕事に導くのは、一つの力だからです。そうすることで、世界のような巨大な事業が魂の不和によって崩壊することがないようにします。そしてこの理由から、万物の父である神は、その言葉と知恵の言い表せない計画を通して、すべての被造物の救済を確実にするために、これらをそれぞれ配置し、魂であれ理性的な存在であれ、どのような呼び方であれ、すべての霊魂が、自らの意志の自由に反して、自らの心の動機が導く以外の道に強制的に強制されないようにした(そうすることで、自由意志を行使する力が奪われたように見え、それは確かに存在自体の性質に変化をもたらすであろうから)。そして、これらのさまざまな目的は、あるものは助けを必要とし、あるものは助けを与えることができ、またあるものは進歩している者たちとの闘争と競争の原因となり、彼らの間では彼らの勤勉さがより承認に値するとみなされ、勝利後に得られる順位は、競争の困難さによって確立されるより確実に保持されることによって、一つの世界の調和に適切かつ有益に適合するであろう<ref>「Et diversi motus propositi Earum (rationabilium subsistentiarum) ad unius mundi consonantiam computeer atque utiliter aptarentur, dum aliæ juvari indigent, aliæ juvare possunt, aliæ vero proficientibus ceramina atque agones movent, in quibus eorum probabilior haberetur industria, et certior post」トーリアム・レパラティ・グラドゥス statio teneretur, quæ per issues labrantium constitisset.」</ref>。
===3===
全世界はさまざまな役職に配属されているが、それでもなお、その状態は内部の矛盾や不一致の 1 つとして考えるべきではない。私たちの 1 つの体が多くの部分から成り、1 つの魂によってまとめられているように、全世界もまた、神の力と理性によって 1 つの魂によってまとめられている、巨大で巨大な動物とみなされるべきだと私は考えている。これはまた、聖書の中で預言者の宣言、「わたしは天地に満ちているではないか」と主は言われる<ref>[[s:ja:ヱレミヤ記(文語訳)#23:24|エレミヤ書 23章24節]]</ref>。また、「天はわたしの王座、地はわたしの足台である」<ref>[[s:ja:イザヤ書 (文語訳)#66:1|イザヤ66章1節]]</ref> また、救い主が「天をさして誓ってはならない。それは神の王座だからである。また、地をさして誓ってはならない。それは神の足台だからである」と言っている言葉によっても示されていると思う<ref>マタイ 5:34</ref>。 パウロがアテネ人への演説で「私たちは神にあって生き、動き、存在している」と言ったのも、同じ意味です<ref>使徒行伝 17:28</ref>。 なぜなら、神がその力によって全世界を包括し、まとめ上げなければ、どうして私たちは神にあって生き、動き、存在しているのでしょうか。また、救い主ご自身が宣言されているように、主ご自身の言葉に従って、神の力によって天と地のすべてのものを満たさなければ、どうして天が神の王座であり、地が神の足台なのでしょうか。そして、私たちが引用した聖句によれば、万物の父である神が、その力の豊かさによって世界を満たし、まとめ上げているという事実は、誰も認めるのに困難はないと思います。さて、これまでの議論の過程で、理性的な存在のさまざまな動きと、彼らのさまざまな意見が、世界の多様性をもたらしていることがわかったので、この世界には、その始まりと同じように終わりがあるのが適切ではないかと考えなければなりません。なぜなら、その終わりは、多くの多様性と変化の中で探されなければならないことに疑いの余地はないからである。その変化は、世界の終わりに存在することがわかり、現在の世界に続く別の世界の多様性に再び根拠と機会を与えるであろう。
===4===
さて、これまでの議論の中で、これらのことが事実であることが確認されたとすれば、次に、世界における多様性は物体なしには存在できないことを考えると、物質的存在の本質について考察するべきであると思われる。物自体の本質から、物質的性質は多様性と変化の多様性を許容し、したがって、たとえば、木が火に、火が煙に、煙が空気に、油が火に変わるなど、あらゆる可能な変化を受けることができることは明らかである。人間のものであれ動物のものであれ、食物自体も、同じ変化の根拠を示しているのではないだろうか。なぜなら、私たちが食物として摂取するものはすべて、私たちの体の物質に変わるからである。しかし、水が土や空気に、空気が再び火に、火が空気に、空気が水に変わる仕組みは、説明するのが難しいことではないが、今回の場合は、単にそれらについて述べるだけで十分である。なぜなら、私たちの目的は、物質的物質の本質について議論することだからである。したがって、物質とは、物体の下に置かれるもの、つまり、性質を授けたり植え付けたりすることによって物体が存在するものを意味します。ここでは、熱、冷たさ、乾燥、湿気という4つの性質について言及します。これらの4つの性質は、ὕλη {{註|材料}}に植え付けられています。、または物質(物質は、前述の性質を持たずにその本来の性質上存在することが判明している)は、さまざまな種類の物体を生成します。この物質は、上で述べたように、その本来の性質上、性質を持たないものですが、性質なしで存在することはありません。そして、これほど多くの著名な人々が、この物質は非常に大きく、神が存在することを望んだ世界中のすべての物体に十分な特性を持ち、神がすべてのものに望むどんな形や種類に対しても創造主の従者であり奴隷となり、神が授けたいと望んだどんな性質もその中に受け取ることができるほどの特性を持っているのに、この物質は創造されていない、つまり、すべてのものの創造主である神自身によって形成されたのではなく、その性質と力は偶然の結果であると考えている理由が私には理解できません。そして、彼らが神の創造力や神の摂理的な世界管理のいずれかを否定する人々を非難し、世界のような偉大な作品が設計者や監督者なしで存在できると考えるのは不敬虔であると非難していることに私は驚いています。一方、彼ら自身も、物質は創造されておらず、創造されていない神と共存していると言って、同様の不敬虔の非難を受けています。この見解によれば、これらの人々が主張するように、議論のために物質が存在しないと仮定すると、神は何も存在しないときには何も創造できないと言うと、間違いなく神は活動する物質を持たず、怠惰であったでしょう。彼らの言うところ、その物質は神自身の計画ではなく偶然に神に与えられたものであり、偶然発見されたこの物質が、これほど広大な事業と神の力の顕現に十分であり、神のすべての知恵の計画を認めることで、世界を区別し形成することができたと彼らは考えています。しかし、これは私には非常にばかげているように思われ、創造されていない自然の力と知性についてまったく無知な人々の意見であるように思われます。しかし、物事の本質をもう少し明確に理解するために、少しの間物質が存在しなかったこと、そして、それ以前には何も存在しなかったときに神が望んだものを存在させたことを仮定しましょう。では、なぜ神は、それ以前には存在しなかったものが存在するように、自らの力と知恵によって作り出したものよりも優れた、あるいはより大きな、あるいは別の種類の物質を創造したと想定するのでしょうか。神は、より劣った劣った物質、あるいは彼らが創造されていないと呼ぶものと同じものを創造するのでしょうか。さて、より良い物質も劣った物質も、実際にそれらを帯びたものでなければ、世界の形態や種を帯びることはできなかっただろうことは、誰の目にも容易に明らかになると思います。では、神によって作られたと信じられるなら、彼らが創造されていないと呼ぶものと同じであることが間違いなくわかるであろうものを、創造されていないと呼ぶことは不敬虔に思えませんか。
===5===
しかし、聖書の権威によってそのような事実であると信じるために、7人の殉教者の母親が息子に拷問に耐えるよう勧めるマカバイ記で、この真実がどのように確認されているか聞いてみましょう。彼女はこう言っています。「息子よ、天と地と、その中にあるすべてのものを見て、神がこれらすべてのものが存在しなかったときに作ったことを知るように。」<ref>[[s:ja:マカビー第二書 第七章|マカバイ記第二 7:28]]</ref> また、羊飼いの書の第一の戒めの中で、彼は次のように語っています。「まず第一に、すべてのものを創造し、配置し、すべてのものを無の状態から存在させた唯一の神がいることを信じなさい。」<ref>ヘルマスの牧者 第2巻。[このシリーズの第 2 巻、20 ページを参照。S]</ref> おそらく、詩篇の表現もこれに関連しているのでしょう。「彼が語ると、それらは造られ、彼が命じると、それらは創造された。」<ref>詩篇 48:5</ref> 「彼が語ると、それらは造られた」という言葉は、存在するものの実体を意味していることを示しているように思われます。一方、「彼が命じると、それらは創造された」という他の部分は、物質自体が形作られた性質について語られているように思われます。
:::[[諸原理について/II/第1章#第1章|トップに戻る↑]]
==脚注==
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Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/II/Chapter 1" を翻訳
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諸原理について/第2巻/第2章
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村田ラジオ
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*底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/II/Chapter 2".
*[[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/II/Chapter 2|Origen De Principiis/II/Chapter 2]]
*ウィキソースによる日本語訳
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'''第2巻'''
==第2章==
::肉体の性質の永続性について
===1===
この問題に関して、父が創造されていない子を生み出し、聖霊を生み出すのと同じように、父が以前に存在していなかったわけではなく、父が子または聖霊の起源であり源泉であるため、それらの中に先後性が存在するとは理解できないのと同じように、理性的な性質と物質の間にも同様の結合または関係が存在すると理解できるかどうか、と尋ねる人がいます。そして、この点をより十分に徹底的に検討するために、議論の始まりは、生命を帯び、霊的および理性的な精神の動きを含むこの物質的な性質が、それらと同様に永遠であるか、または完全に滅びて破壊されるかという質問に向けられるのが一般的です。そして、この問題をより正確に決定するためには、まず第一に、理性的な性質が神聖さと幸福の頂点に達した後も完全に無形のままでいられるかどうか(これは私にとっては最も困難でほとんど不可能な達成に思える)それとも、理性的な性質は常に必然的に肉体と結びついていなければならないかどうかを調べる必要がある。では、理性的な性質が肉体を完全になくすことが可能である理由を誰かが示すことができれば、それは、時間の経過後に無から創造された肉体的な性質が存在しなかったときに生成されたのと同じように、それが果たしていた目的がなくなったときにも存在しなくなるということにつながると思われる。
===2===
しかし、この点、すなわち、父、子、聖霊以外のいかなる性質も肉体なしに生きることができるという主張がまったく不可能であるならば、論理的推論の必然性から、理性的な性質は確かに初めに創造されたが、物質的実体は思考と理解においてのみそれらから分離され、それらのために、またはそれらの後に形成されたようであり、それらはそれなしに生きたことはなく、今も生きていないことを理解せざるを得ない。なぜなら、無形の生命は三位一体のみの特権であると正しく考えられるからである。したがって、上で述べたように、この世界の物質的実体は、あらゆる変形を許容する性質を有し、より低い階級の存在に引きずり下ろされると、より粗野でより堅固な肉体の状態に成形され、世界の目に見えるさまざまな形態を区別する。しかし、それがより完全でより祝福された存在の召使となるとき、それは天体の輝きで輝き、神の天使たちか復活の子らを霊的体の衣で飾り、そのすべてから、一つの世界の多様で変化する状態が満たされるのであろう。しかし、これらの事柄についてより十分に議論したいと望む人がいるならば、神へのすべての敬意と畏れをもって、より大きな注意と勤勉さで聖書を調べ、それらの中の秘密で隠された意味がこれらの事柄に関して何かを明らかにするかどうかを確かめることが必要です。そして、まさにこの点に関して多くの証言が集められた後、ふさわしい人々への聖霊の示現を通して、難解で神秘的な言葉の中に何かが発見されるかもしれません。
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==脚注==
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Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/II/Chapter 2" を翻訳
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諸原理について/第2巻/第3章
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村田ラジオ
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*底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/II/Chapter 3".
*[[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/II/Chapter 3|Origen De Principiis/II/Chapter 3]]
*ウィキソースによる日本語訳
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'''第2巻'''
==第3章==
::世界の始まりとその原因について
===1===
次の調査対象は、現在存在する世界より前に別の世界があったかどうか、もしあったとしたら、それは現在の世界と同じようなものだったのか、それとも多少違ったもの、あるいはそれより劣るものだったのか。あるいは世界はまったく存在せず、すべてのものの終わりの後に王国が神、すなわち父に引き渡されるときに存在するであろうと私たちが理解しているような世界だったのか、それでもそれは別の世界の終わりだったかもしれない。つまり、この世界が始まった後の世界の終わりだったかもしれない。そして知的性質のさまざまな欠陥が、神がこの世界の多様で変化する状態を生み出すように仕向けたかどうかである。この点についても、同様に調査する必要があると私は考える。すなわち、この世の後に、保存と修正の(システム)があるかどうか、それは確かに厳しく、神の言葉に従うことを望まない人々には大きな苦痛を伴うが、教育と理性的な訓練によって、現世でこれらの追求に専念し、心を浄化した後、神の知恵を獲得できるようになるまで前進した人々が、真理をより完全に理解できるようになるためのプロセスであるかどうか。そして、この後すぐにすべてのものの終わりが続き、それを必要とする人々の矯正と改善のために、現在存在するものに似ているか、それよりも優れているか、またははるかに劣っている別の世界が再び存在するかどうか。そして、この後に来る世界が何であれ、その世界がどれくらい続くのか。そして、どこにも世界が存在しない時が来るのか、または世界がまったくなかった時があったのか、またはいくつかの世界があったのか、または今後あるのか。あるいは、ある物が他の物に似ていて、あらゆる点で似ていて、区別がつかないような物が存在するようになるのだろうか。
===2===
それでは、物質が時間間隔の間に存在できるかどうか、また、物質が作られる前に存在しなかったのと同じように、再び消滅するかどうかが、より明確に示されるために、まず第一に、人が肉体なしで生きることができるかどうかを見てみましょう。 なぜなら、もし一人の人が肉体なしで生きることができるなら、すべてのものも肉体を必要とせずに生きることができるからです。 以前の論文を見ると、すべてのものは一つの目的に向かうことが示されています。 さて、もしすべてのものが肉体なしで存在できるなら、疑いなく肉体は存在しないでしょう。なぜなら、それには用途がないからです。 しかし、死者の復活について論じている使徒の次の言葉をどのように理解すればよいのでしょうか。「この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬものは死なないものを着なければなりません。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が実現する。死は勝利に呑み込まれた。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげは呑み込まれた。死のとげは罪であり、罪の力は律法である。」<ref>1コリント 15:53-56; ホセア 13:14とイザヤ 25:8を参照。</ref> それで、使徒はこのような意味を示唆しているように思われる。というのは、彼が「この朽ちるべきもの」と「この死ぬべきもの」という表現を、あたかも触ったり指さしたりするような身振りで用いているが、この表現は肉体以外の何かに当てはまり得るだろうか。それで、今は朽ちるべきこの肉体の物質は、完全な魂、つまり朽ちない印<ref>ドグマチバス。シュニッツァーは、ここでの「独断」は意味をなさないと述べています。彼はδείγμασιを推測し、「証拠」、「痕跡」を与えています。</ref>を備えた者が住み始めるとき、朽ちないものを着るのである。そして、私たちが完全な魂を肉体の衣服(神の言葉と知恵により、現在は不朽と呼ばれています)と呼んでも驚かないでください。使徒の言葉によれば、魂の主であり創造主であるイエス・キリスト自身が聖徒たちの衣服であると言われています。「主イエス・キリストを着なさい。」<ref>ローマ 13:14</ref> キリストが魂の着物であるように、魂が肉体の着物であると言われるのには、十分に理解できる理由があります。魂は肉体の装飾であり、その死すべき性質を覆い隠すからです。したがって、「この朽ちるものは朽ちないものを着なければなりません」という表現は、あたかも使徒が、「この肉体の朽ちる性質は、朽ちないという着物、すなわち、それ自体に朽ちないものを持つ魂を着なければなりません」と言ったようなものです。なぜなら、魂は神の知恵であり言葉であるキリストを着せられているからです。しかし、私たちが将来、より栄光ある状態で持つことになるこの肉体が命の分け前を得ると、その肉体は不死であるだけでなく、朽ちないものにもなります。なぜなら、死ぬものは必ず朽ちるものでもあるからです。しかし、朽ちるものが死ぬものであると言うことはできません。私たちは石や木片について、それが朽ちるものであると言いますが、それが死ぬものであるということが必然的であるとは言いません。しかし、肉体は生命を帯びているので、生命は肉体から分離される可能性があり、実際に分離されているので、私たちは肉体を死すべきものと呼び、別の意味では、肉体を朽ちるものとも言います。したがって、聖なる使徒は、驚くべき洞察力で、肉体の物質の一般的な第一の原因、つまり、その物質に与えられた性質が何であれ(今は確かに肉体的ですが、やがてより洗練され純粋になり、霊的なものと呼ばれる)、魂が絶えず利用しているものについて、「この朽ちるものは朽ちないものを着なければなりません」と言います。そして第二に、肉体の特別な原因に目を向けて、「この死ぬものは不死を着なければなりません」と言います。さて、魂を形作り、着せ、飾る神の知恵と言葉と正義以外に、朽ちないものと不死なものは何でしょうか。そして、それゆえ、「朽ちるものは朽ちないものを着、死ぬものは不死を着る」と言われています。というのは、たとえ今は大きな能力を発揮しているとしても、私たちの知識も、預言も、部分的にしかなく、理解しているように見えることも、ぼんやりと鏡に映ったように見ているだけなので、この朽ちるべきものはまだ朽ちないものを着ておらず、この死ぬべきものはまだ不道徳をまとっていません。そして、私たちのこの肉体における訓練は、疑いなく、私たちを包んでいる肉体そのものが、神の言葉と神の知恵と完全な正義により、朽ちないものと不死を獲得する時まで、より長い期間まで延長されるので、「この朽ちるべきものは必ず朽ちないものを着、この死ぬべきものは必ず不死を着る」と言われているのです。
===3===
しかし、理性的な被造物はいつでも肉体から離れて存在することができると考える人々は、ここで次のような疑問を抱くかもしれない。もしこの腐敗するものが不朽のものをまとい、この死すべきものが不死のものをまとい、死が最後には飲み込まれるということが真実であるならば、これは、死が作用できるのは物質的性質以外には破壊されるものは何もないことを示しているが、肉体の中にいる人々の精神的鋭敏さは、物質の性質によって鈍くなっているようだ。しかし、もし彼らが肉体から離れているならば、彼らはそのような妨害から生じる煩わしさから完全に逃れるだろう。しかし、彼らはすぐにすべての肉体の衣服から逃れることはできないので、彼らはより洗練され、より純粋な肉体に住み、もはや死に打ち負かされず、その刺し傷によって傷つけられないという性質を持っているとみなされるべきである。そして最後に、物質的性質が徐々に消滅することによって、死は呑み込まれ、最後には絶滅さえされ、そのすべての刺し傷は、魂が受け取ることができるようになり、こうして不滅と不死を得るに値した神の恵みによって完全に鈍らされる。そしてその時、すべての人が当然こう言うだろう、「死よ、汝の勝利はどこにあるのか。死よ、汝の刺し傷はどこにあるのか。死の刺し傷は罪である」。これらの結論が正しいように思われるならば、私たちはいつか将来の時点で私たちの状態が無形であると信じなければならないということになる。そして、これが認められ、すべての人がキリストに服従していると言われるならば、この(無形性)は、キリストへの服従が及ぶすべての人に必然的に授けられなければならない。なぜなら、キリストに服従するすべての人は、最終的に父なる神に服従することになるからであり、キリストは父なる神に王国を引き渡すと言われている。そして、こうしてその時また肉体の必要性もなくなると思われる<ref>この一節は、ヒエロニムスの『アウィトゥスへの手紙』に記されており、文字通り翻訳すると、次のようになります。「これらの(見解)が信仰に反しないのであれば、私たちは将来、おそらく肉体を持たずに生きることになるでしょう。しかし、キリストに完全に服従する者は肉体を持たないと理解され、すべての人がキリストに服従するのであれば、私たちも完全にキリストに服従したときには肉体を持たないでしょう。すべての人が神に服従しているのであれば、すべての人が肉体を捨て去り、肉体の持つ性質はすべて無に帰するでしょう。しかし、第二に、必要が要求すれば、理性的な生き物の堕落により、再び存在するようになるでしょう。神は魂を闘争と格闘に任せ、彼らが自分の勇気ではなく、神の恩寵によって完全で完璧な勝利を得たことを理解できるようにしました。したがって、私はさまざまな原因で異なる世界が創造され、世界は互いに似ていると主張する人々の誤りが反駁されていると思います。」上記のギリシャ語の原文の断片は、コンスタンティノープル総主教へのユスティニアヌス帝の書簡の中に見いだされる。「キリストに従うものが最後には神にも従うならば、すべてのものはその肉体を捨て去るであろう。そしてそのとき、私の考えでは、肉体の性質は消滅 ( ἀνάλυσις ) して非存在 ( εἰς τὸ μὴ ὄν ) となり、理性的な存在が再び徐々に下がれば ( ὑποκαταβῇ ) 、再び存在するようになるであろう。」</ref>。 そしてそれが消滅すれば、物質は無に帰し、以前も存在しなかったのと同じである。
さて、これらの主張をする人たちに答えて何が言えるか見てみましょう。なぜなら、もし肉体の性質が消滅したら、それは再び回復され、創造されなければならないというのは必然的な帰結であるように思われるからです。なぜなら、自由意志の能力を決して奪われない理性的な性質が、主自身の特別な行為を通して、再び何らかの運動を受けることはあり得ることのように思われるからです。なぜなら、もし理性的な性質が常に不変の状態を占めるならば、彼らがその最終的な幸福の状態に置かれたのは神の恩寵によるのであって、彼ら自身の功績によるのではないということを知らないかもしれないからです。そして、これらの運動は、間違いなく再び、世界を常に飾っている物体の多様性と多様性を伴うでしょう。そして、世界は多様性と多様性以外では決して構成されません。これは、肉体がなければ生み出すことのできない効果です。
===4===
そして今、私は、互いに似ていないのではなく、すべての点で等しい世界が時々存在すると主張する人々が、どのような証拠によってその立場を維持できるのか理解できません。なぜなら、すべての点で(現在と)類似した世界があると言われるなら、アダムとイブは以前と同じことをするでしょう。同じ大洪水が再び起こり、同じモーセが再び 60万人近くの国民をエジプトから導きます。ユダはまた、再び主を裏切ります。パウロは、再びステファノを石打ちにした人々の衣服を保管します。そして、この人生で行われたすべてのことは繰り返されると言われるでしょう。魂が自由意志によって動かされ、意志の力に応じて前進または後退を維持するのであれば、この状態はいかなる推論によっても確立できないと思います。なぜなら、魂は、これをしたり、あれをしたりするために、何世代も後に同じ輪に戻るサイクルに駆り立てられるわけではないからです。しかし、彼ら自身の意志の自由が目指すところはどこでも、彼らはその点に行動の方向を指示する。なぜなら、これらの人々が言っていることは、一粒の穀物を地面に撒いた場合、その穀物の落下は二度目には一回目と全く同じであり、すべての個々の穀物は二度目には、前に撒かれた穀物のすぐそばに横たわり、そのようにしてその穀物は以前と同じ順序で、同じ跡をつけて散らばると主張するのとほとんど同じである。これは、たとえ何世紀にもわたって絶え間なく撒き散らされたとしても、無数の穀物の穀物では確かに不可能な結果である。したがって、世界が同じ順序で、同じ数の誕生、死、行動で二度目に回復することは私には不可能に思える。しかし、さまざまな世界が存在し、重要な変化を伴っている可能性があり、そのため、別の世界の状態は、何らかの明白な理由で(この世界よりも)優れている可能性があり、他の世界ではより劣っており、また他の世界では中間的である可能性があります。しかし、これが何の数または基準になるのか、私は無知であると認めますが、もし誰かがそれを知っているなら、喜んで学びます。
===5===
しかし、この世界はそれ自体が時代と呼ばれ、多くの時代の終わりであると言われています。さて、聖なる使徒は、キリストはこの前の時代には苦しまなかった、またさらにその前の時代にも苦しまなかったと教えています。そして、私は、キリストが苦しまなかった以前の時代の数を数えることができるかどうか知りません。しかし、私はパウロのどの言葉からこの理解に至ったかを示します。彼は言います、「しかし今、キリストは、世の終わりに、ご自身を犠牲にして罪を取り除くために、一度現れました。」<ref>ヘブル 9:26</ref> なぜなら、キリストは、一度犠牲となり、世の終わりに罪を取り除くために現れたと言っているからです。さて、他の時代の終わりのために作られたと言われているこの時代の後に、また他の時代が続くであろうことは、パウロ自身から明らかに学んでいます。彼はこう言っています、「それは、後の世に、私たちに対する慈愛において、神の恵みの非常に豊かなことを示そうとするためです。」<ref>エペソ 2:7</ref> イエスは「来たるべき世に」とも「来たるべき二つの世に」とも言われていないので、私は彼の言葉には多くの時代が示唆されていると推察する。さて、もし時代よりも大きなものがあり、被造物の中には一定の時代があると理解されるが、目に見える被造物を超え凌駕する他の存在の中には(さらに大きな時代)(おそらく万物の回復のとき、全宇宙が完全に終結するときであろう)あるとすれば、万物の完成が起こる時期は、時代以上の何かとして理解されるべきであろう。しかしここで、聖書の権威が私を動かしている。それは「一時代以上」と言っている<ref>In sæculum et adhuc. 永遠にいつまでも。</ref>。 さて、この「さらに」という言葉は、疑いなく時代以上の何かを意味する。そして、救い主の次の表現を見てみよ。「わたしがいる所に、これらの者もわたしと一緒にいることをわたしは望む。 「わたしとあなたが一つであるように、彼らもわたしたちのうちに一つとなるためです」<ref>ヨハネ17章24節、21節、22節を参照。</ref>という聖句は、一代、いや、何代にもわたる時代を超えた何か、つまり、万物がもはや一つの時代ではなく、神がすべての中におられる時代を意味しているようには思えない。
===6===
世界の性質に関するこれらの点について、できる限り議論してきたが、聖書ではしばしば異なる意味を持つことが示されている「世界」という用語の意味を問うのは場違いではないと思われる。ラテン語で mundus と呼ばれるものは、ギリシャ語ではκόσμοςと呼ばれ、κόσμος は 世界だけでなく装飾も意味する。最後に、イザヤ書では、シオンの娘たちに対する叱責の言葉が「黄金の頭飾りの代わりに、あなたの行いのせいであなたは禿げ頭になる」<ref>イザヤ 3:24を参照。 オリゲネスはここで、ヘブライ語ともウルガタ訳とも異なる七十人訳聖書を引用しています。 ἕξεις διὰ τὰ ἔργά σου. あなたの作品のために。</ref>と述べられており、装飾を表すのに世界を表すのと同じ用語、すなわち κόσμος が使われている。というのは、ソロモンの知恵書に見られるように、世界の計画は大祭司の衣服に含まれていると言われているからです。彼はこう言っています。「その長い衣の中に全世界があったからである。」<ref>[[s:ja:ソロモンの智慧 第十八章|ソロモンの知恵 18:24]]. Poderis、直訳すると「足元に届く」。</ref> 我々の地球とその住民もまた世界と呼ばれており、聖書にはこうあります。「全世界は悪の中に横たわっている。」<ref>ヨハネの手紙一 5章19節</ref> 実際、使徒の弟子であるクレメンス{{註|ローマのクレメンス}}は、ギリシャ人が ᾽Αντίχθονεςと呼んだ人々 や、我々の同胞の誰も近づくことのできない、またそこにいる誰も我々のところへ渡って来ることのできない地球の他の部分について言及しています。彼はまたそれらを世界と呼び、「海は人には渡れない。海とは向こう岸にある世界であり、支配する神の同じ計画によって支配されている。」と言っています<ref>[[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IX/The Epistles of Clement/The First Epistle of Clement to the Corinthians/Chapter 20|ローマのクレメンス『コリントの人々への手紙第一』C. 20]]。[このシリーズの第 10 巻を参照。S.]</ref>。 天と地に囲まれた宇宙もまた世界と呼ばれています。パウロはこう宣言しています。「この世の様式は過ぎ去ります。」<ref>1コリント7章31節</ref> 私たちの主であり救い主は、この目に見える世界の他に、確かに描写したり知らせたりすることが難しい別の世界があることを指摘しています。「私はこの世のものではありません。」<ref>ヨハネ17章16節</ref> というのは、まるで彼が別の世界から来ているかのように、彼は「私はこの世の者ではない」と言っているからである。さて、この世界については、説明が難しいと前に述べた。そして、この理由から、ギリシャ人が「イデア」と呼ぶ特定のイメージの存在を私たちが主張しているという仮定を、誰にも受け入れさせる機会を与えないようにするためである。想像の中だけ、あるいは思考のつかの間の世界にのみ存在する無形の世界について語ることは、確かに私たち(筆者)にとって馴染みのないことである。そして、彼らがどのようにして、救世主がそこから来るとか、聖徒たちがそこに行くとか主張できるのか、私には分からない。しかし、この現世よりも輝かしく優れた何かが救世主によって示され、信者たちがそこを目指すよう促していることは疑いない。しかし、彼が言及したいと望んでいるその世界が、状況、性質、栄光のいずれかによって、この世界から遠く離れ、分離されているかどうか。あるいは、栄光と質において優れているが、この世界の限界内に限定されているかどうか(私にはその方がより可能性が高いように思われる)は、それでも不確かであり、私の意見では、人間の思考には適さない主題です。しかし、クレメンスが「海とその背後の世界は人間には渡れない」と言ったときに示唆していると思われることから、彼は、その背後の世界の複数形について語り、それらが至高の神の同じ摂理によって管理され、統治されていることをほのめかしていることから、存在するものの全宇宙、天界と超天界、地上と地獄は一般に 1 つの完全な世界と呼ばれ、その中に、またはそれによって、他の世界(もし存在する場合)が含まれていると想定されるという見解の萌芽を私たちに投げかけているように思われます。この理由から、彼は太陽や月の球体、および惑星と呼ばれる他の天体の球体をそれぞれ世界と呼ぶことを望みました。いや、彼らが非流転(ἀπλανῆ)と呼ぶ卓越した球体自体でさえ、彼らはそれにもかかわらず、適切に世界と呼ばれることを望んでいる。最後に、彼らはこの主張の証拠として預言者バルクの書を引用する。なぜなら、その中で七つの世界または天がより明確に指摘されているからである。しかし、彼らが非流転(ἀπλανῆ )と呼ぶその球体の上には、)彼らは別の球体が存在すると信じている。それは、まさに我々の天がその下にあるすべてのものを包含しているように、その巨大な大きさと言い表せないほどの広さによって、そのより壮大な円周の内側にすべての球体の空間を包含している。したがって、我々のこの地球が天の下にあるように、すべてのものがその中にある。そして、これはまた、聖書の中で良い地、生ける者の地と呼ばれていると信じられており、それ自身の天体を持ち、その天体はより高く、聖人の名前が救世主によって書かれている、あるいは書かれていたと言われている。その天によって地球は閉じ込められ、閉じ込められており、福音書の中で救世主はそれを柔和で慈悲深い人々に約束している。彼らは、かつて「乾いた」と呼ばれていた我々のこの地球が、その地の名前からその呼び名に由来することを望んでいる。この天もまた、その天の名から大空と名付けられたのと同じである。しかし、そのような意見については、初めに「神は天と地を創造された」という宣言の意味を調べなければならなかったところで、より詳しく取り上げました。というのは、二日目以降に作られたと言われる「大空」、あるいは後に「地」と呼ばれるようになった「乾いた土地」のほかに、別の天と別の地が存在することが示されているからです。確かに、この世界は作られたので腐敗しやすいが、それを創造し、腐敗が支配しないように維持している神の意志が腐敗よりも強く、強力であるので腐敗しないという、ある人たちの言うことは、上で「非漂流」領域と呼んだ世界についてより正確に想定されるかもしれません。なぜなら、神の意志によって、それは腐敗の原因を一切認めていないため、まったく腐敗しないからです。なぜなら、それは私たちの世界のような悪人の世界ではなく、聖人や完全に清められた人々の世界だからです。さらに、使徒が「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠だからです。この幕屋という地上の住まいが崩れても、神の建物、人の手によらない、天にある永遠の住まいが私たちにはあることを私たちは知っています」と言っているのも、おそらくこれに関連しているのではと考えなければなりません<ref>2 コリント 4:18 – 5:1。</ref>。 また、使徒が他の箇所で「私はあなたの指のわざである天を見ます」と言っているのも、また神が預言者の口を通して「私の手はこれらすべてのものを造った」<ref>詩篇 8:3</ref>と言っているのも、このことに関連してではないかと考えなければなりません<ref>イザヤ66章2節</ref>。パウロは、聖徒たちに約束した天にある永遠の家は人の手で造られたのではないと断言し、見えるものと見えないものにおける創造の違いを指摘しているに違いない。「見えないもの」と「見えないもの」という表現は、同じことを意味しているわけではない。見えないものは、見えないだけでなく、可視性さえ持たず、ギリシア人がἀσώματα、つまり無形と呼ぶものである。一方、パウロが「見えない」と言うものは、確かに見える性質を持っているが、彼が説明しているように、約束された人々にはまだ見られない。
===7===
では、すべてのものの終わりと最高の祝福に関するこれら 3 つの意見を、理解できる限り概説したので、読者の皆さんは、これらの意見のうちのどれか 1 つでも承認して採用できるかどうかを、注意深く熱心に自分で判断してください<ref>この一節はヒエロニムスの『アウィトゥスへの手紙』に見られ、文字通り翻訳すると次のようになる。「それゆえ、終わりに関して三つの疑いが私たちに示されており、読者はどれが真実でより良いものであるかを検討することができる。私たちは肉体を持たずに生きるが、その場合、キリストに従いながら神に従い、神がすべてにおいてすべてとなる。あるいは、キリストに従うものがキリスト自身とともに神に従い、一つの契約で囲まれるように、すべての物質は最良の品質にまで低下し、より純粋で単純な性質のエーテルに溶解される。あるいは、少なくとも、上でἀπλανῆと呼んだ球体、およびその円周 ( circulo )内に含まれるものはすべて無に溶解されるが、反圏 ( ἀντιζώνη ) 自体がまとめられ取り囲まれているものは良い地と呼ばれる。さらに、この地球を回転しながら取り囲む天と呼ばれる別の球体が、聖徒たちの居住地として保存されるであろう。」</ref>。 というのは、すべてのものがキリストに従い、キリストを通して父なる神に従い、神がすべてであり、すべての中に存在するようになった後、無形の存在が可能になると想定しなければならない、と言われたからです。あるいは、すべてのものがキリストに従い、キリストを通して神に従った後 (霊は理性的な性質であるため、神と 1 つの霊を形成しました)、肉体自体も最も純粋で優れた霊と結合し、それを引き受ける人々の質や功績に応じて霊的な状態に変化して (使徒の言葉によれば、「私たちも変化する」)、輝きを放つだろう、と。あるいは、少なくとも、目に見えるものの流行が過ぎ去り、すべての腐敗が払い落とされ、浄化され、惑星の球体があると言われるこの世界が占める空間全体が背後と下方に残されたとき<ref> Omnique hoc mundi statu、in quo planarum dicuntur sphæræ、supergresso atque superato。</ref>、敬虔で善良な人々の定住地が、その球体の上にある、不放浪 ( ἀπλανής )と呼ばれ、良い国、生きている者の国のような場所に到達し、それは柔和で温厚な人々が受け継ぐであろう。その地には、真にそして何よりも天国と呼ばれる天国(その壮大な広がりによって、その地自体を取り囲み、包んでいる)が属しており、そこには万物の目的であり完成である天と地が、安全かつ最も確信を持って置かれることができる。すなわち、これらの人々は、浄化の過程で受けた罪に対する逮捕と懲罰の後、すべての義務を果たして果たした後、その地に住むにふさわしい者となることができる。一方、神の言葉に従順であり、従順によって知恵があることを示した人々は、その天国または天空の王国にふさわしいと言われている。こうして、「柔和な人々は幸いである、彼らは地を受け継ぐであろう」<ref>マタイ 5:5</ref>、「心の貧しい人々は幸いである、彼らは天の王国を受け継ぐであろう」という予言は、よりふさわしく成就する<ref>マタイ 5:3</ref>。そして詩篇には、「主はあなたを高く上げ、あなたは地を受け継ぐであろう」と宣言されています<ref>詩篇 37:34</ref>。 それはこの地上への下降と呼ばれていますが、高きところへの昇格と呼ばれています。したがって、このようにして、聖徒たちがあの地上からあの天界へ旅立つことによって、ある種の道が開かれるように見えます。そのため、彼らはあの地に留まるというよりも、彼らがその完成の度合いに達したときに、天国の相続財産に移るという意図を持ってそこに住んでいるように見えます。
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==脚注==
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諸原理について/第2巻/第4章
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*底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/II/Chapter 4".
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*ウィキソースによる日本語訳
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'''第2巻'''
==第4章==
::律法と預言者の神、そして私たちの主イエス・キリストの父は同じ神である
===1===
これらの点をできる限り簡潔に整理した結果、当初の意図どおり、私たちの主イエス・キリストの父は、私たちの父祖アブラハム、イサク、ヤコブの神であるモーセに律法の答えを与えた、あるいは預言者に任務を与えた神とは異なる神であると考える人々を論破することになります。なぜなら、この信仰箇条では、まず第一に、私たちはしっかりとした根拠を持たなければなりません。そこで、福音書に頻繁に繰り返され、私たちの主であり救い主である神のすべての行為に付随する「この預言者やあの預言者によって語られたことが実現するため」という表現を考慮する必要があります。預言者は世界を創造した神の預言者であることは明らかです。したがって、このことから、預言者を遣わした神自身が、キリストについて予言されることを予言したという結論を引き出します。そして、父自身であり、彼とは異なる別の人物ではないことが、これらの予言を述べたことに疑いの余地はありません。さらに、救世主やその使徒たちが旧約聖書の例え話を頻繁に引用する習慣は、彼らが権威を古代人に帰していることを示している。また、弟子たちに親切にするよう勧める救世主の次の教え、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全でありなさい。父は太陽を悪い人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」<ref>マタイ 5:48、45</ref>は 、理解力の弱い人に対してさえ、天を造り雨を降らせる神以外の神を弟子たちに見習うよう勧めているのではないことを、もっとも明白に示唆している。さらに、「天にいますわれらの父よ」<ref>マタイ 6:9</ref>と祈る人々が用いるべき表現 は、神は世界のより良い部分、すなわち神の創造物の中に求められるべきであるということ以外に、何を示しているように思われるだろうか。さらに、誓いに関して主が定めた、わたしたちは「天をさして誓ってはならない。そこは神の王座だからである。また、地をさして誓ってはならない。そこは神の足台だからである」<ref>マタイ 5:34-35</ref>という立派な原則は、預言者の言葉「天はわたしの王座、地はわたしの足台である」<ref>イザヤ 66:1</ref> ときわめて明瞭に調和しているのではないでしょうか。また、羊、牛、鳩を売る者たちを神殿から追い出し、両替人の台をひっくり返し、「これらのものを持って行きなさい。わたしの父の家を商売の家としてはならない」<ref>ヨハネ 2:16</ref>と言ったときも、主は疑いなく、ソロモンがその名のために壮麗な神殿を建てた方を父と呼んだのです。さらに、「神がモーセに言われたことを読んだことがないのか。わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。彼は死者の神ではなく、生きている者の神である」<ref>マタイ 22:31-32; 出エジプト 3:6を参照。</ref>最も明らかに教えられているのは、主が族長たちの神(彼らは聖なる者であり、生きていたから)を、生きている者の神と呼んだということ、すなわち、預言者たちの中で「わたしは神である。わたしのほかに神はいない」と言われた方と同じ神である、ということです<ref>イザヤ 45:6</ref>。 というのは、もし救い主が、律法に記されている方がアブラハムの神であり、「わたしは神である。わたしのほかに神はいない」と言っているのと同じ方であることを知っていながら、異端者たちが考えるように、自分より上の神の存在を知らない方を父と認めるなら、主は、より偉大な神を知らない方を父と宣言するのは不合理です。しかし、もし主が自分以外の神はいないと言うのが無知からではなく、欺瞞からであるなら、父が偽りの罪を犯していると告白するのは、はるかに不合理です。これらすべてから、彼は万物の創始者であり創造主である神以外の父を知らないという結論に達します。
===2===
福音書のすべての箇所から、律法の神と福音書の神が同一であることを示す証拠を集めるのは退屈な作業です。使徒行伝<ref>使徒行伝 7章</ref>について簡単に触れてみましょう。そこでは、ステファノと他の使徒たちが、天地を造り、聖なる預言者の口を通して「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と呼び、「エジプトの地から民を導き出した」神と呼んだ神に祈りを捧げています。これらの表現は、疑いなく私たちの理解を創造主への信仰へと明確に導き、敬虔に忠実に神について考えることを学んだ人々に神への愛情を植え付けます。救い主ご自身の言葉によれば、律法の中で最も重要な戒めは何かと尋ねられたとき、救い主はこう答えました。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二もこれと同様である、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』。」そして、これらに付け加えて言われた。「この二つの戒めに、律法と預言者とが全体的にかかっている。」<ref>マタイ 37,39,40</ref> それでは、なぜイエスは、教え、弟子の職に就くよう導いていた者に、他のすべての戒めよりも、律法の神に対する愛が彼の中に間違いなく燃え上がるはずのこの戒めを推奨したのだろうか。律法ではまさにこの言葉でそのようなことが宣言されていたのだから。しかし、これらすべての最も明白な証拠にもかかわらず、救い主が「あなたは心を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」などと言っているのは、他の知られていない神についてであると認めましょう。その場合、律法と預言者が、彼らが言うように、創造主からのものであり、つまり、彼が善と呼ぶ神とは別の神からのものであるとしたら、彼が付け加えている「律法と預言者は、この二つの戒めにかかっている」という言葉が、論理的にどのように見えるでしょうか。神にとって異質で異質なものが、どうして神に左右されるでしょうか。そしてパウロが「私は、私の先祖以来、清い良心をもって私の霊において仕えている私の神に感謝します」<ref>2テモテ 1:3</ref>と言うとき、彼は明らかに、彼が何か新しい神ではなく、キリストに来たことを示しています。パウロが「彼らはヘブライ人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです」と言う人々以外に、パウロの先祖が誰を指しているのかわかりません<ref>2コリント 11:22</ref>。 いや、ローマ人への手紙の序文自体が、パウロの手紙を理解する人々に、彼がどんな神を説いているのかを明らかに示しているのではないだろうか。彼の言葉はこうである。「私は、イエス・キリストの僕、パウロが使徒として召され、神の福音のために聖別された。神は、聖書の中で、神の御子について、その預言者たちによってあらかじめ約束しておられた。御子は、肉によればダビデの子孫であり、私たちの主キリスト・イエスの死人の中からの復活によって、聖なる霊によれば、力ある神の御子と宣言された。」<ref>ローマ 1:1-4</ref>など。さらに、次の聖句もあります。「脱穀する牛の口をふさいではならない。神は牛のことを気にかけてくださるのだろうか。それとも、すべて私たちのためにそう言われるのだろうか。確かに、こう書かれているのは私たちのためである。耕す者は望みをもって耕し、脱穀する者はその実にあずかる望みをもって。」<ref>1コリント 9:9-10; 申命記 25:4を参照。</ref> これによってパウロは、私たちのために、すなわち使徒たちのために律法をお与えになった神が、「脱穀する牛の口をふさいではならない」とおっしゃっていることを明らかにしている。神の気遣いは牛のためではなく、キリストの福音を宣べ伝えていた使徒たちのためであった。他の箇所でも、パウロは律法の約束を受け入れて、「あなたの父と母を敬いなさい。これは約束を伴った最初の戒めである。そうすれば、あなたは幸せになり、あなたの神、主があなたに与える良い土地で長く暮らすことができるであろう。」<ref>エペソ 6:2-3; 出エジプト記 20:12を参照。</ref> これによって彼は、律法と律法の神と神の約束が彼に喜ばれるものであることを明らかにした。
===3===
しかし、この異端を支持する人々は、ある種の欺瞞的な詭弁によって単純な人々の心を誤らせるのに慣れているので、彼らがいつもしている主張を持ち出して、彼らの欺瞞と虚偽を論駁するのは不適切だとは思いません。それで、彼らの主張は次のとおりです。「神を見た人は、いまだかつて一人もいない」と書かれています<ref>ヨハネ 1:18</ref>。 しかし、モーセが説教する神は、モーセ自身と彼以前の父祖によって見られました。一方、救世主によって告げられた神は、誰にも一度も見たことがありません。したがって、彼らと私たち自身に尋ねてみましょう。彼らが神であると認め、創造主とは異なる神であると主張する神は、目に見えるか、目に見えないか、彼らが主張しているかどうかです。そして、もし彼らが神は目に見えると言うなら、それは救い主について「彼は目に見えない神の似姿であり、すべての被造物の初子である」<ref>コロサイ 1:15</ref>と言っている聖書の宣言に反することが証明されるだけでなく、彼らは神が物質的であると主張するという不合理にも陥るでしょう。なぜなら、形、大きさ、色の助けがなければ何も見ることができないからです。これらは物体の特別な性質です。そして、もし神が物体であると宣言されるなら、すべての物体は物質でできているので、神は物質的であるともわかります。しかし、もし神が物質でできており、物質が間違いなく腐敗するのであれば、彼らによると、神は腐敗する傾向があるということです!私たちは彼らに2番目の質問をします。物質は作られたものですか、それとも創造されていない、つまり作られていないのですか?そして、もし彼らがそれは作られていない、つまり作られていないと答えるなら、私たちは彼らに、物質の一部が神であり、他の部分が世界であるかどうかを尋ねます。しかし、もし彼らが物質についてそれが造られたと言うなら、彼らが神であると宣言する神は造られたと告白することになるに違いありません。これは彼らの理性も私たちの理性も決して認めることができない結果です。しかし彼らは、神は目に見えないと言うでしょう。それであなたはどうしますか?あなたが、神は本来目に見えないと言うなら、神は救い主にも見えるべきではありません。それとは逆に、キリストの父である神は見えると言われています。なぜなら、「子を見る者は、父をも見る」と彼が言うからです<ref>ヨハネ 14:9</ref>。 この表現が、私たちがより正確に理解し、見るのではなく、理解することを理解していなければ、確かにこれは私たちにとって非常に厳しいものとなるでしょう。なぜなら、子を理解した者は、父をも理解するからです。このように、モーセも神を見たと想定されなければなりません。肉体の目で神を見るのではなく、心のビジョンと精神の知覚で神を理解し、ある程度理解したのです。なぜなら、モーセに答えた神がこう言ったことは明らかである。「あなたはわたしの顔を見ることはできないが、わたしの後ろ姿を見るだろう。」<ref>出エジプト記 33:20、23</ref> これらの言葉は、もちろん、神の言葉にふさわしい神秘的な意味で理解されるべきであり、神の前部と後部に関して無知な人々が作り出した古い妻の作り話は拒絶され、軽蔑されるべきである。救世主にとってさえ父は見えないと言うことで、私たちが不敬虔な気持ちに浸っていると誰も思わないでほしい。私たちが異端者を扱う際に用いる区別を考えてほしい。なぜなら、私たちは、見ることと見られることと、知ることと知られること、あるいは理解することと理解されることは別のことだと説明したからである<ref>Aliud sit videre et videri, et aliud nôsse et nosci, vel cognoscere atque cognosci. 見ることと見られること、そして知ることと知ること、あるいは知っていることと知られることは別のことです。</ref>。 したがって、見ることと見られることは物体の特性であり、それは確かに、父、子、聖霊の相互関係において適切には適用されないであろう。なぜなら、三位一体の性質は視覚の基準を超えており、物体の中にいる人々、すなわち他のすべての生き物に、互いに関して視覚の特性を与えるからである。しかし、無形で大部分が知的な性質には、知ることや知られること以外の属性は適切ではありません。救い主ご自身が、「父のほかに子を知る者はなく、子と子が父をあらわそうとする者のほかに、父を知る者はいない」と宣言しておられるとおりです<ref>マタイ 11:27</ref>。 ですから、主が「子のほかに父を見た者はいない」と言われたのではなく、「子のほかに父を知る者はいない」と言われたことは明らかです。
===4===
さて、もし旧約聖書に出てくる、神が怒っているとか悔い改めていると述べられているとき、あるいは他の人間の感情や情熱が描写されているときのような表現のせいで、(私たちの反対者たちは)神はまったく無情であり、そのような感情から完全に自由であると考える私たちを論破する根拠が自分たちにあると考えているなら、私たちは彼らに、同様の陳述が福音書のたとえ話の中にさえ見られることを示さなければなりません。例えば、ぶどう園を植えてそれを農夫たちに貸し、農夫たちは自分たちに遣わされた召使たちを殺し、最後には息子までも殺したと言われているとき、彼は怒って彼らからぶどう園を奪い取り、邪悪な農夫たちを破滅に引き渡し、季節に果実を収穫してくれる他の者たちにぶどう園を渡したと言われています。また、一家の主が王国を得るために出発したとき、使者を彼のあとに遣わして「この人に王位を継がせるのはいやだ」と言った町の人たちについても、同じことが言えます<ref>ルカ 19:14</ref>。一家の主は王国を手に入れた後、戻って来て、怒って彼らを自分の前で殺せと命じ、町を火で焼き払ったのです。しかし、旧約聖書でも新約聖書でも、神の怒りについて読むとき、私たちはそのような表現を文字通りに受け取るのではなく、そこに霊的な意味を求めます。そうすれば、神を、神が考えるべきとおりに考えることができるのです。これらの点について、詩篇第二篇の「そのとき、神は怒りをもって彼らに語り、憤りをもって彼らを悩ます」<ref>詩篇 2:5</ref>という節を解説したとき、私たちは、そのような表現がどのように理解されるべきかを、私たちの貧弱な能力の限り示しました。
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==脚注==
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村田ラジオ
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237930
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*底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/II/Chapter 5".
*[[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/II/Chapter 5|Origen De Principiis/II/Chapter 5]]
*ウィキソースによる日本語訳
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'''第2巻'''
==第5章==
::正義と善について
===1===
さて、この考察は、ある人たちにとって重要な意味を持つ。すなわち、(私たちが話してきた)異端の指導者たちは、正義は一つのものであり、善は別のものであると宣言し、この区別を神聖なものにまで適用し、私たちの主イエス・キリストの父は確かに善なる神だが公正な神ではない、一方、律法と預言者の神は公正だが善良ではないと主張している。そこで、私は、これらの主張に対して、できるだけ簡潔に答える必要があると思う。これらの人々は、善とは、たとえその受け手がどんな親切にも値しない、あるいは値しない人であっても、すべての人に恩恵が与えられるような愛情であると考えている。しかし、私の意見では、彼らは、苦しみや災難に見舞われた人には何の恩恵も与えられないと考えているため、その定義を正しく適用していない。一方、正義とは、各人にその功績に応じて報いる性質であると彼らは考えている。しかし、ここでもまた、彼らは自分たちの定義の意味を正しく解釈していません。なぜなら、彼らは、悪人に災いをもたらし、善人に恩恵をもたらすのが正しいと考えているからです。つまり、彼らの見解によれば、正義の神は悪人に幸運を願うのではなく、彼らに対する一種の憎しみによって動かされているように見えます。そして、彼らは、旧約聖書の中で、たとえば大洪水の罰、または大洪水で滅びるとされる人々の運命、火と硫黄の雨によるソドムとゴモラの滅亡、罪のために荒野ですべての人々が倒れ、ヨシュアとカレブを除いてエジプトを去った人々は誰も約束の地に入っていないことが判明した、などに関する歴史を見つけるたびに、この例を集めます。一方、彼らは新約聖書から慈悲と敬虔の言葉を集め、それを通して弟子たちは救世主によって訓練され、父なる神以外には善なる者はいないと宣言されているように思われる。そして、この手段によって彼らは救世主イエス・キリストの父を善なる神と称することを敢えて試みたが、世の神は別の神であり、彼らはその神を公正ではあるが善なる者とは呼ばない、と言っているのである。
===2===
さて、私は、まず第一に、彼らができるなら、彼ら自身の定義に従って、創造主が、洪水の時に死んだ人々、ソドムの住民、エジプトを去った人々を、それぞれの功績に応じて罰するのは正しいということを示さなければならないと思う。なぜなら、前述の人々が滅ぼされた罪よりも邪悪で忌まわしい犯罪が犯されるのを時々目にする一方で、すべての罪人がその悪行の罰を受けているのをまだ見ていないからである。彼らは、かつては正しかった神が善良になったと言うだろうか。それとも、むしろ、神は今も正しく、人間の罪を辛抱強く耐えているが、当時は、無実で乳飲み子を残酷で不敬虔な巨人とともに絶滅させたので、正しくさえなかったという意見を持つだろうか。さて、彼らがそのような意見を持っているのは、文字以上のものを理解する方法を知らないからである。そうでなければ、罪が三代、四代まで子孫に降りかかり、さらにその子孫にまで及ぶのが文字通りの正義であることを示したであろう。しかし、われわれはそのようなことを文字通り理解しない。エゼキエルがたとえ話を語るときに教えたように<ref>エゼキエル書 18章3節</ref>、われわれはそのたとえ話自体に含まれる内なる意味が何であるかを問う。さらに、彼らはまた、神が公正であり、各人にその功績に応じて報い、地上の心を持つ人々や悪魔を罰する、彼らが罰に値することを何もしていないのを見て罰する、ということも説明すべきである<ref>[Cum nihil dignum pœna commiserint. S.] 処罰に値する行為を何もしていないとき。</ref>。 なぜなら、彼らによれば、彼らが邪悪で破滅した性質を持っていたなら、彼らは何の善も行えなかったからである。なぜなら、彼らが神を裁判官と呼んでいるように、神は行為よりも性質の裁判官であるように思われるからである。そして、悪い性質が善を行うことができないなら、良い性質が悪を行うことはできない。それから、次に、彼らが善と呼ぶ神がすべての人に善であるなら、彼は間違いなく滅びる運命にある人々にも善である。では、なぜ神は彼らを救わないのでしょうか。もし神がそうすることを望まないなら、神はもはや善良ではないでしょう。もし神がそうすることを望んだとしても、それを成し遂げることができなければ、神は全能ではないでしょう。なぜ彼らはむしろ、福音書の中で私たちの主イエス・キリストの父が悪魔とその天使たちのために火を準備しているのを聞かないのでしょうか。そして、彼らの見解によれば、その行為は、罰せられるほど悲しいものですが、どうして善良な神の働きのように見えるのでしょうか。善良な神の子である救い主自身でさえ、福音書の中で抗議し、「もしティルスとシドンでしるしと不思議が行われていたなら、彼らは悔い改めたであろう」と宣言しています<ref>Pœnitentiam egissent. 彼らは苦行をしただろう。</ref>。昔、荒布をまとい灰の中に座っていた。」そして、イエスがそれらの町々に近づき、その領土に入ったとき、荒布をまとい灰の中に座って行われたしるしや不思議のあとで、彼らが悔い改めたことが確実であるなら、なぜイエスはそれらの町々に入って、彼らに多くのしるしや不思議を示すことを避けたのでしょうか。しかし、そうされないので、福音書の言葉では、彼らには悔い改めの能力があると述べられているので、邪悪な性質や破滅した性質ではなかったと示されている人々を、イエスは間違いなく破滅に委ねていることになります。また、福音書のあるたとえ話では、王が宴会で横になっている客を見に入ろうとしたとき、婚礼の着物を着ていない人を見て、彼に言いました、「友よ、どうして婚礼の着物を着ないでここに入って来たのか。」それから家来たちに命じて言いました、「彼の手足を縛って外の暗闇に投げ出し、泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするであろう」<ref>マタイ 22:12-13</ref>。 客を見るために中に入って、汚れた衣服を着た一人を見つけると、家来たちに縛らせて外の暗闇に追い出すように命じた王とは誰なのか、彼らに語らせなさい。彼らが正しいと呼ぶのはその王と同一人物でしょうか。では、どうして家来たちに彼らの功績を調べるように指示せずに、善人も悪人も同じように招待するように命じたのでしょうか。そのようなやり方によって示されるのは、彼らが主張するように、人々の功績に応じて報いる公正な神ではなく、すべての人に対して無差別な善良さを示す神の性質です。さて、これが必然的に善なる神、すなわちキリストまたはキリストの父のどちらかについて理解されなければならないのであれば、神の裁きの公正さに対して他にどのような異議を唱えることができるでしょうか。いや、律法の神に対して、善人と悪人を同様に招くために遣わされた僕たちから招かれた者が、汚れた衣服を着ていたという理由で、手足を縛られ、外の暗闇に投げ込まれるように命じたことほど不当なことが他にあろうか。
===3===
さて、私たちが聖書の権威から引き出したものは、異端者の議論を論駁するのに十分であるはずです。しかし、理性そのものの根拠に基づいて、この問題を彼らと簡単に議論しても不適切とは思われないでしょう。そこで私たちは彼らに、人間の間で美徳と悪の根拠と見なされているものを知っているかどうか、そして、神、または彼らが考えるように、この 2 つの神において美徳について語ることができるように見えるかどうかを尋ねます。また、善を美徳と見なすかどうかという質問にも答えてください。そして、彼らは間違いなくそうであることを認めるでしょうが、不正についてはどう言うでしょうか。私の意見では、彼らは決して、正義が美徳であることを否定するほど愚かではありません。したがって、美徳が祝福であり、正義が美徳であるならば、正義は間違いなく善です。しかし、正義は祝福ではないと彼らが言うなら、それは悪であるか、または無関心なものであるに違いありません。さて、正義は悪であると言う人々に答えるのは愚かなことだと私は思います。なぜなら、私は無意味な言葉、あるいは正気を失った人々に答えているように見えるからです。彼ら自身も認めているように、善人に祝福を報いることができるのに、それがどうして悪であるように見えるでしょうか。しかし、彼らがそれはどうでもいいことだと言うなら、正義がそうであるならば、節度や思慮深さ、その他のすべての美徳もどうでもいいことだということになります。そして、パウロが「もし徳があり、称賛されるものがあるなら、あなたがたが私から学び、受け、聞き、見たこれらのことを考えなさい」と言うとき、私たちは何と答えるべきでしょうか<ref>ピリピ 4:8-9</ref>。 ですから、聖書を調べて、個人の美徳とは何かを学んでください。そして、すべての人にその功績に応じて報いる神が、悪を憎むことによって悪人に悪で報いるのだ、などと言って自分を欺いてはいけません。それは、罪を犯した者たちはより厳しい処置を必要とするからではなく、神が彼らに、改善の見込みはあるものの、今のところは苦痛の感情を生じさせると思われる処置を施すからではないのです。彼らは、洪水で滅ぼされた人々の希望について書かれていることを読みません。その希望について、ペテロ自身も第一の手紙の中でこう語っています。「キリストは確かに肉体においては死に渡されましたが、"霊"によって生き返り、その"霊"によって獄に捕らわれていた霊たちのところに行って宣べ伝えました。彼らはかつて不信者であり、ノアの時代に神の寛容を待ち望んでいました。箱舟が造られていたころ、その箱舟の中で、わずか八人の魂が水によって救われました。今、同じような姿の人による洗礼も、あなたたちを救っているのです。」<ref>1ペテロ 3:18-21</ref> そしてソドムとゴモラに関しては、預言の言葉が創造主である神の言葉であると信じているかどうか、すなわち、火と硫黄の雨を彼らの上に降らせたと伝えられている神の言葉であると信じているかどうか、彼らに話してもらいましょう。預言者エゼキエルは彼らについて何と言っていますか?「ソドムは元の状態に戻る」と彼は言っています<ref>エゼキエル書 16章55節、53節を参照。</ref>。 しかし、罰に値する者を苦しめるとき、なぜ彼らの利益のために苦しめないのでしょうか?神はまたカルデアにこう言っています。「あなたは燃える炭火を持っている。その上に座りなさい。それはあなたの助けとなる。」<ref>イザヤ 17:14-15、ここでの七十人訳聖書はヘブライ語とは異なります。 βοήθεια.</ref> また砂漠で倒れた人々については、アサフの表題が付いている詩篇第78篇に語られていることを彼らに聞いてもらいましょう。「神が彼らを殺したとき、彼らは神を求めた。」<ref>詩篇 78:34</ref> 彼は、他の者が殺された後も神を求めた者がいたとは言わないが、殺された者たちの破滅は、死刑に処せられたときに神を求めたような性質のものであったと言っている。これらすべてによって、律法と福音書の神は同一であり、公正で善良な神であり、公正に恩恵を与え、慈悲深く罰するということを確立している。なぜなら、正義のない善良も、善良のない正義も、神の性質の(真の)尊厳を示すことはできないからである。
彼らの微妙なニュアンスに駆り立てられた以下のコメントを付け加えよう。正義が善とは異なるものであるならば、悪は善の反対であり、不正は正義の反対であるので、不正は間違いなく悪以外の何かであろう。そして、あなたの意見では、正義の人は善ではないのと同様に、不正な人も邪悪ではない。また、善人が正義ではないのと同様に、邪悪な人も不正ではない。しかし、善なる神に悪が反対されるのに、正義の神は善より劣ると彼らが主張するが、誰も反対されるべきではないという不合理さに気づかない人がいるだろうか! なぜなら、邪悪と呼ばれるサタンがいるように、不正と呼ばれることができる人はいないからである。では、私たちは何をすべきか? 私たちが擁護している立場を放棄しよう。なぜなら、彼らは、悪い人が不正ではないとは限らず、不正な人が邪悪であると主張することはできないからである。そして、もしこれらの性質が、悪の中に不正、あるいは不正の中に悪というように、これらの対立物に不可分に内在するならば、善人は正義の人から、正義の人は善人から切り離せないものであることは疑いようがない。したがって、悪意と不正の中にある悪は同じであると言うように、善と正義という美徳もまた同じであると考えることもできる。
===4===
しかし、彼らは再び、彼らの有名な質問を持ち出して、聖書の言葉に私たちを呼び戻します。聖書には、「悪い木が良い実を結ぶことはない。木はその実によってわかるからである」と書いてあると断言します<ref>マタイ 7:18、12章33節を参照。</ref>。 それでは、彼らの立場は何でしょうか。律法がどのような木であるかは、その実、つまりその戒めの言葉によって示されます。律法が善であるとわかれば、律法を与えた方は間違いなく善なる神であると信じられます。しかし、律法が善ではなく正義であるなら、神もまた正義の立法者とみなされるでしょう。使徒パウロは、「律法は善であり、戒めは聖であり、正義であり、善である」と言うとき、回りくどい表現を一切使っていません<ref>ローマ 7:12</ref>。 そこから、パウロは正義と善を切り離す人々の言葉を学んだのではなく、神によって教えられ、同時に聖であり、善であり、正義である神の霊によって照らされていたことが明らかです。そして、パウロは、その霊によって、律法の戒めは聖で、正しく、善いものであると宣言した。そして、律法の戒めには正義や神聖よりも善いものがあることをさらに明らかにするために、自分の言葉を繰り返し、これら3つの形容詞の代わりに、善いものだけを用いて言った。「それでは、善いものがわたしの死となったのか。そんなことはあり得ない。」<ref>ローマ 7:13</ref>パウロは、善が美徳の属であり、正義と神聖がその属に属する種である ことを知っていたので、前の節では属と種を一緒に挙げていたので、自分の言葉を繰り返すときには、属だけに頼った。しかし、次の節では、「罪は善いものによってわたしのうちに死をもたらした」<ref>ローマ 7:13</ref>と言っており、ここでパウロは、以前に具体的に説明したことを総括的に要約している。そして、次の宣言もこのように理解されるべきである。「善人は、その心の良い宝から良いものを出します。悪人は悪の宝から悪のものを取り出す」<ref>マタイ 12:35</ref> ここでも彼は、善でも悪でも、善良な人には正義、節制、思慮深さ、敬虔さ、そして善と呼べる、あるいは善であると理解できるすべてのものが備わっていることを疑いなく指摘した。同様に、不正、不純、不道徳、そして単独で悪人となるすべての要素を疑いなく備えている人は悪人であるとも言った。なぜなら、これらの悪の兆候がなければ誰も悪人だとは考えないのと同様に(実際、悪人になることはあり得ない)、これらの美徳がなければ誰も善人だとは考えられないことは確かだからである。しかし、彼らには、福音書にある主の言葉がまだ残っており、彼らはそれが盾として特別に与えられたと考えている。「父なる神以外に善なる者はいない」<ref>マタイ 19:17</ref> 。彼らは、この言葉はキリストの父に特有のものだと断言するが、父は万物の創造主である神とは別であり、神はその創造主に善という呼び名を与えなかった。さて、旧約聖書では、預言者の神であり、言葉の創造者であり、立法者である神が善と呼ばれていないかどうかを見てみましょう。詩篇にはどのような表現がありますか。「神はイスラエル、心の直き者にとってなんと善いことか!」<ref>詩篇 73:1</ref>そして、「イスラエルよ、今、神は善いと言え、その慈しみはとこしえに続くと。」<ref>詩篇 118:2</ref>エレミヤの哀歌では、「主は、主を待ち望む者、主を求める魂に、善い。」<ref>哀歌 3:25</ref> とあります。旧約聖書では神が頻繁に善と呼ばれているように、私たちの主イエス・キリストの父も福音書では正しいと称されています。最後に、ヨハネによる福音書では、私たちの主自身が父に祈るときに、「ああ、正しい父よ、世はあなたを知りませんでした。」と言います<ref>ヨハネ 17:25、Juste Pater. 正しい父よ。</ref>。 そして、彼らが、イエスが人間の肉体をまとったからこそ、世界の創造主を「父」と呼び、「正しい」と称したのだと言うかもしれないが、そのすぐ後に続く「世はあなたを知らない」という言葉によって、彼らはそのような避難所から除外されている。しかし、彼らによれば、世は善なる神だけを知らない。なぜなら、世は疑いなくその創造主を認めており、主ご自身が、世は自分のものを愛していると言っているからである。したがって、彼らが善なる神とみなす方は、福音書の中で正しいと呼ばれているのは明らかである。誰でも、新約聖書で私たちの主イエス・キリストの父が正しいと呼ばれている箇所や、旧約聖書で天地の創造主が善と呼ばれている箇所など、より多くの証拠をゆっくりと集めることができる。そうすれば、異端者たちは、多数の証言によって有罪とされ、おそらくいつかは恥をかくことになるだろう。
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==脚注==
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諸原理について/第2巻/第6章
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村田ラジオ
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*ウィキソースによる日本語訳
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'''第2巻'''
==第6章==
::キリストの受肉について
===1===
これらの点についてざっと触れたところで、今度は、主であり救い主である方の受肉、すなわち、主がどのようにして、あるいはなぜ人間になったのかという研究を再開するときです。したがって、私たちは、自分の感情からではなく、主ご自身の作品の観想から主の神性について、微力ながら精一杯考察し、それにもかかわらず、目に見える創造物を(目で)見ましたが、目に見えない創造物は信仰によって見ます。なぜなら、人間の弱さは、すべてのものを肉眼で見ることも、理性で理解することもできないからです。私たち人間は、他の理性的な存在(天にあるもの、あるいは天より上に存在するとされるものの方が優れている)よりも弱く、もろいからです。したがって、すべての被造物と神との中間に位置する存在、すなわち、使徒パウロが「すべての被造物の初子」と呼ぶ仲介者を求めることが残っています<ref>コロサイ 1:15</ref>。 また、聖書には、キリストの威厳について次のようなことが記されています。キリストは「見えない神の像、すべての被造物の初子」と呼ばれています。「すべてのものは、見えるものも見えないものも、王座も主権も支配も権威も、キリストにあって造られた。すべてのものはキリストによって造られ、キリストにあって成り立っている。キリストはすべてのものより先におられ、すべてのものはキリストによって成り立っている。」<ref>コロサイ 1:16-17</ref>キリストはすべてのものの頭であり、父なる神だけが頭としておられます。「キリストの頭は神である」と書いてあるからです<ref>1 コリント 11:3</ref>。 また、「子のほかに父を知る者はなく、父のほかに子を知る者もない」と書いてあることも明らかである<ref>マタイ 11:27</ref>。(知恵とは何かを、それを創造した者のほかに誰が知ることができるだろうか。あるいは、真理とは何かを、真理の父のほかに誰が明確に理解できるだろうか。神の言葉の普遍的な性質、そして神から発する神自身の普遍的な性質を、言葉が共にあった神のほかに誰が確実に調査できるだろうか)。この言葉、あるいは理性(そう呼ぶべきならば)、この知恵、この真理は、父以外には誰にも知られていないと私たちはみなすべきである。そして、神については、「私は、世界そのものも、書かれるべき書物を収めることができるとは思わない」と書かれている<ref>ヨハネ 21:25</ref>。すなわち、神の子の栄光と威厳についてである。というのは、救い主の栄光に属するそれらの詳細を(すべて)書き記すことは不可能だからである。神の子の存在に関するこのような重要な問題を考察した後、私たちは、他のすべてよりも卓越したそのような性質が、その威厳の条件を脱ぎ捨てて人間となり、人々の間に幕屋を張ったことに深い驚きを覚えます。それは、彼の唇に注がれた恵みが証言し、彼の天の父が彼に証言し、さまざまなしるしと不思議と奇跡によって告白されているとおりです<ref>Virtutibus(徳) おそらくδυνάμεσιν (強さ)のため。</ref>。これらはすべて、イエスが成し遂げたものであり、また、イエスが肉体をもって現われる前に、預言者たちを先駆者として、また来臨の使者として遣わされた。そして、イエスが昇天された後には、徴税人や漁師の中から選ばれた無知で無学な者たちを、イエスの神性の力に満ちた聖なる使徒たちとして世界中を巡回させ、あらゆる人種、あらゆる国からイエスを信じる大勢の敬虔な信者を集めるようにされた。
===2===
しかし、イエスについて語られているすべての驚くべき力強い行為の中で、神の威厳の力、父なる神の言葉、そして神の知恵、目に見えるものも見えないものもすべて創造されたその力強い力が、ユダヤに現れたあの人の限界内に存在していたと信じられ得ること、いや、神の知恵が女性の胎内に入り、幼児として生まれ、小さな子供の泣き声のような嘆きを発することができたということ、これは人間の感嘆をはるかに超えており、人間の弱さでは理解も感じることすらできないことです。そしてその後、イエスは死に際して非常に苦しみ、自ら「私の魂は悲しみのあまり死ぬほどです」と宣言したと語り、 最後には人間の中で最も恥ずべき死に至りましたが、三日目に復活しました<ref>マタイ 26:38</ref>。それで、私たちは彼の中に、人間によくある弱さと何ら変わらないような非常に人間的な部分と、神性の根源的で言い表せない性質以外には属さないような非常に神聖な部分とを見るので、人間の理解力の狭さは、はけ口を見つけることができません。しかし、強い感嘆の驚きに圧倒されて、どこに退くべきか、何をつかむべきか、どこに向かえばよいのかわかりません。神について考えると、人間が見えます。人間について考えると、死の王国を打倒した後、その戦利品を背負って墓から戻ってくる彼を見るのです。したがって、この光景は、両方の性質の真実が、一つの同じ存在の中に存在することを明らかに示すために、すべての恐れと畏敬の念をもって観察されなければなりません。そうすれば、その神聖で言い表せない実体には、価値のない、または不相応なものは何も認識されず、行われたことは想像上の現象の幻影であるとは考えられません。これらのことを人間の耳に伝え、言葉で説明するのは、我々の階級や知性、言語の能力をはるかに超えています。聖なる使徒の力さえも超えていると思います。いや、その神秘の説明は、おそらく天の力のすべてでも理解できないかもしれません。それでは、神に関して、人間の理性が主張しがちな主張ではなく、我々の信条の内容をできるだけ少ない言葉で述べましょう。これは軽率な精神からではなく、我々の取り決めの性質上、明確な断言よりもむしろ(いわゆる)我々の疑念を皆さんの前に提示するためです。
===3===
神の独り子は、これまでの議論で示したように、聖書の見解によれば、目に見えるものも見えないものも、すべてのものが彼を通して造られたのであり、すべてのものを造り、また、自分が造ったものを愛しておられる。なぜなら、彼自身が目に見えない神の目に見えない像であるので、彼は目に見えない形で、理性的なすべての被造物に自分自身の一部を伝え、その結果、各人は彼に対する愛情の量に正確に比例して、彼の一部を得たからである。しかし、自由意志の能力に従って、個々の魂は多様性と多彩さを特徴としており、あるものは創造主に温かい愛を抱き、他のものはより弱く、より弱い敬意を抱いていたため、イエスが「だれもわたしの命(アニマム)をわたしから奪い取ることはできない」<ref>ヨハネ 10:18。「人間の体に降りてきた魂は、以前の刻印の純粋で汚れのない類似性を自らに刻印したものはない。ただ、救い主が言われた刻印だけは例外である。『だれも私の魂を私から取り去ることはできない。私自身が自らそれを捨てるのだ。』」—ヒエロニムス、『アウィトゥスへの手紙』、763 ページ。</ref>と言われたその魂(アニマ) は、創造の初めから、そしてその後も、神の知恵と言葉、真理と真の光として、分離不可能に主に宿り、主を完全に受け入れ、その光と輝きの中に入って、卓越した程度に主と一つの霊とされた<ref>Principaliter 主(おも)に</ref>。これは、使徒がそれに倣うべき人々に約束した「主に結ばれた者は一つの霊である」という約束のとおりである<ref>1 コリント 6:17</ref>。 魂のこの実体は、神と肉体の中間にあるので、神の性質が中間の道具なしに肉体と混ざり合うことは不可能なので、すでに述べたように、神人となる実体はその本性とは相容れない媒介物である。しかし、他方では、魂が理性的な存在として神を受け入れることは、その魂の本性とは相容れない。魂は、すでに述べたように、言葉と知恵と真理の中に完全に入り込んでいたのである。したがって、魂は、魂が身に着けた肉体とともに、神の子、神の力、キリスト、神の知恵とも呼ばれる。それは、魂が完全に神の子の中にあったからか、神の子を完全に自分の中に受け入れたからである。また、万物が創造された神の子は、イエス・キリスト、人の子と呼ばれている。神の子もまた、死を許す性質に関連して、死んだと言われています。そして、彼は人の子と呼ばれ、父なる神の栄光のうちに聖なる天使たちとともに来られると告げられています。そして、この理由から、聖書全体を通して、神の性質が人間の言葉で語られているだけでなく、人の性質が神の尊厳の称号で飾られています。このことは、他のどのことよりも真実であると断言できます。「彼らは二人とも一体となり、もはや二つではなく、一体となるのです。」<ref>創世記 2:24;マルコ 10:8を参照。</ref> 神の言葉は、男がその妻と一体である以上に、魂と一体であると考えられるべきである。しかし、愛によって神と結びつき、正当に神と一体の霊であるとも言えるこの魂以上に、神と一体の霊となることがふさわしい者がいるだろうか。
===4===
彼の愛の完全さと、彼にふさわしい愛情の誠実さ<ref>Meriti affectus. 利点の感情。</ref>が、神とのこの不可分な結合を魂に形作り、その結果、その魂の受肉は偶然でも個人的な好みの結果でもなく、その美徳の報酬として与えられたものであると、預言者が次のように語るのを聞いてください。「あなたは正義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、あなたの神である神は、あなたの同胞にまさって、あなたに喜びの油を注いだ。」<ref>詩篇45篇7節</ref> ですから、その愛に対する報酬として、喜びの油が注がれるのです。つまり、キリストの魂は神の言葉とともにキリストとされるのです。喜びの油が注がれるということは、聖霊に満たされることに他ならないからです。そして、「汝の同胞よりも」と言われているのは、預言者たちに対するように聖霊の恵みが与えられたのではなく、使徒の言葉「神の満ちみちた全容が、形をとってキリストのうちに宿っていた」に従って、神自身の言葉の本質的な豊かさがそこにあったという意味です<ref>コロサイ 2:9</ref>。 最後に、この理由で、パウロは「あなたは正義を愛した」と言っただけでなく、「あなたは悪を憎んだ」とも付け加えています。悪を憎んだとは、聖書がキリストについて言っていることであり、「キリストは罪を犯さず、その口には偽りが見いだされなかった」<ref>イザヤ 53:9</ref>、「キリストは、罪を犯さずに、私たちと同じようにすべての点で試みに会われた」<ref>ヘブル 4:15</ref>とあります 。いや、主ご自身もこう言われました。「あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると認めさせてくれるのか」<ref>ヨハネ 8:46</ref>。 また、イエスはご自身についてこう言っています。「見よ、この世の君が来るが、わたしのうちに何も見いださない。」<ref>ヨハネ 14:30</ref> これらすべて(の節)は、イエスに罪の意識がなかったことを示しています。そして、預言者は、罪の意識がイエスに一度も入ったことがなかったことをより明確に示すために、「その子が父や母に祈ることをまだ知らないうちに、イエスは悪から遠ざかった。」<ref>この引用はイザヤ書の2つの異なる部分から成っています。第8章4節「子が『わが父よ、わが母よ』と叫ぶことを知る前に」と第7章16節「子が悪を拒み、善を選ぶことを知る前に」</ref>と言っています。
===5===
さて、これまで何度も、魂の本質は善と悪の両方になり得ると論じてきたので、キリストが理性的な魂を持っていたことを上で示したことが、誰かにとって困難を引き起こすならば、その困難は次のように説明されるだろう。確かに、キリストの魂の本質は他のすべての魂と同じであったことは疑う余地がなく、そうでなければ、それが本当に一つでなかったら、魂と呼ぶことはできない。しかし、善と悪を選択する力はすべての人の手の届くところにあるので、キリストに属するこの魂は正義を愛することを選び、その愛の大きさに比例して、魂は正義に不変かつ分離不能に固執し、目的の堅固さと愛情の大きさ、そして消えることのない愛の温かさが、変更や変化に対するすべての感受性 (感覚) を破壊し、以前は意志に依存していたものが、長年の習慣の力によって自然に変えられたのである。したがって、私たちは、キリストの中に人間的で理性的な魂が存在したと信じなければなりませんが、それが罪の感情や可能性を持っていたとは考えないでください。
===6===
この問題をさらに詳しく説明するために、例え話を使うのは不合理ではないだろう。もっとも、非常に難しい問題なので、適切な例え話を得るのは容易ではない。しかし、失礼のないように言えば、金属の鉄は冷たさと熱さを持つことができる。それでは、鉄の塊が絶えず火の中に入れられ、そのすべての気孔と脈を通して熱を受け取り、火が絶え間なく続き、鉄がそこから決して取り除かれなければ、鉄は完全に後者に変わる。本来鉄の塊であるこのものが、火の中に置かれ、絶え間なく燃えているとき、いつでも冷たさを受け入れることができると言えるだろうか。逆に、真実に即しているからこそ、炉の中でよく見られる現象、つまり、完全に火になり、その中には火しか見えない、と言うべきではないだろうか。そして、誰かがそれに触れたり扱おうとすると、鉄の作用ではなく、火の作用を経験するだろう。このように、火の中の鉄のように、絶えず御言葉の中に、絶えず知恵の中に、そして絶えず神の中に置かれているその魂は<ref>Semper in verbo, semper in sapientia, semper in Deo. 常に言葉の中に、常に知恵の中に、常に神の中に。</ref>、行い、感じ、理解するすべての点で神であり、したがって、絶えず熱せられているので、神の御言葉との結合から不変性を持っているので、変換可能でも可変的でもないと言うことができます。最後に、すべての聖徒に、神の御言葉からのいくらかの暖かさが伝わったと想定されなければなりません。そして、この魂の中には、神の火自体がとどまっていたと信じられなければなりません。そこからいくらかの暖かさが他の人々に伝わったのかもしれません。最後に、「このゆえに神、あなたの神は、あなたの仲間よりも、喜びの油をあなたに注いだ」<ref> 詩篇45篇7節</ref>という表現は、その魂が、喜びの油、すなわち神の言葉と知恵によって一方では油を注がれ、その仲間である聖なる預言者と使徒たちは、別の方法で油を注がれていることを示しています。というのは、彼らは「彼の香油のにおいの中を走った」と言われているからです<ref>Illi enim inodore unguentorum ejus circumire dicuntur. (彼らは彼の香水の匂いに包まれていると言われているからです) おそらく雅歌1:3 または 詩篇45:8 への言及でしょう。</ref>。そして、その魂は、すべての立派な預言者や使徒が分け与えられた香りの香油を入れた器でした。香油の本質と香りが別物であるように、キリストもその仲間と別物です。香油の本質を入れた器自体が、決して悪臭を放つことはありませんが、その香りを好む人々が、その香りから少しでも離れると、自分に降りかかる悪臭を感じる可能性があります。同じように、香油の本質を入れた器そのものであるキリストが、反対の種類の香りを受けることはあり得ません。一方、キリストの「仲間」である人々は、器に近いほど、キリストの香りに分け与えられ、受け取ることになります。
===7===
預言者エレミヤも、自分の中にある神の知恵の性質がどのようなものであるかを知っていたと思います。それは、彼が世界を救うために引き受けたのと同じものだったのです。「私たちの顔の息吹は主なるキリストです。私たちは、その陰の下で諸国民の中で生きると言いました。」<ref>哀歌 4:20</ref> そして、私たちの体の影は体から切り離すことができず、その動きや動作を必然的に実行し、繰り返すので、彼はキリストの魂の働きと、それに不可分に属し、キリストの動きと意志に従ってすべてを成し遂げる動きを指摘したいと思って、これを主なるキリストの影と呼び、その影の下で私たちは諸国民の中で生きることになるのだと思います。なぜなら、この引き受けの神秘の中で諸国民が生き、信仰を通してそれに倣い、救いに至るからです。ダビデもまた、「主よ、私のそしりを心に留めてください。彼らはあなたのキリストと引き換えに私をそしりました」<ref>詩篇 89篇50節-51節</ref>と言ったとき、私には同じことを示しているように思われます。またパウロは、「あなたの命はキリストとともに神の中に隠されています」<ref>コロサイ 3:3</ref>と言ったとき、また別の箇所で「あなたは、私の中で語るキリストの証拠を求めているのですか」<ref>2 コリント 13:3</ref> と言ったとき、他に何を意味しているのでしょうか。そして今、彼はキリストが神の中に隠されていると言っています。この表現の意味は、私たちが上で指摘したような「キリストの影」という言葉で預言者が意図したようなものであることが示されない限り、おそらく人間の心の理解を超えています。しかし、聖書には「影」という言葉の意味に関する他の多くの記述も見られます。よく知られているルカによる福音書では、ガブリエルがマリアに「主の霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを包むでしょう」と言います<ref>ルカ 1:35</ref>。 使徒は律法について、肉において割礼を受けた者は「天にあるものの似姿と影に仕える」と言っています<ref>ヘブル 8:5</ref>。 また別の箇所では、「地上における私たちの生活は影ではありませんか」と言っています<ref>ヨブ 8:9</ref>。 それで、地上の律法が影であるだけでなく、地上にある私たちの生活もすべて同じであり、私たちがキリストの影の下で諸国民の間で生活しているのであれば、これらのすべての影の真実が、もはや鏡を通してではなく、暗闇の中でではなく、顔と顔を合わせて、すべての聖徒が神の栄光と物事の原因と真実を見るにふさわしいようになるその啓示で知られるようになるかどうかを見なければなりません。そして、この真実の保証は聖霊を通してすでに受け取られているので、使徒は言いました、「そうです、私たちは肉によってキリストを知っていましたが、今はもう彼を知りません。」<ref>2 コリント 5:16</ref>
一方、上記は、キリストの受肉や神性といった難しい主題を扱う際に、私たちが考えたことです。もし、もっと良いものを発見でき、聖書からのより明確な証拠によって自分の主張を立証できる人がいるなら、その人の意見を私の意見よりも優先して受け入れてください。
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==脚注==
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*底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/II/Chapter 7".
*[[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/II/Chapter 7|Origen De Principiis/II/Chapter 7]]
*ウィキソースによる日本語訳
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'''第2巻'''
————————————
==第7章==
::聖霊について
===1===
冒頭で、状況の要請に従って父、子、聖霊について議論した後、私たちは再び歩みを戻して、同じ神が世界の創造主であり創始者であり、私たちの主イエス・キリストの父であることを示すのが正しいように思われました。つまり、律法と預言者と福音の神は同一であり、キリストに関しては、かつて神の言葉であり知恵であると証明された彼がどのようにして人間になったのかを示すべきであるように思われました。それでは、できるだけ簡潔に聖霊の主題に戻りましょう。
それでは、ヨハネによる福音書の中で私たちの主であり救い主が弁護者と名付けた聖霊について、私たちができる限りのことを少し述べるべき時が来ました。同じ神であり、同じキリストであるように、預言者や使徒、すなわちキリストの到来以前に神を信じていた人たち、あるいはキリストによって神に避難所を求めた人たちの中にいたのも、同じ聖霊なのです。確かに、ある異端者が二人の神と二人のキリストがいると大胆に言ったことは聞いたことがありますが、二人の聖霊の教義を誰かが説いたことは一度も聞いたことがありません<ref>パンフィロスの『弁明』 によれば、オリゲネスはテトス書 iii. 10 の注釈でこれと反対のことを述べています。彼の言葉はこうです。「しかし、預言者の中にいた聖霊は一つであり、私たちの主イエス・キリストの使徒の中にいた聖霊はもう一つであったと言う者もいる。」—ルエウス(Ruæus)。</ref>。 というのは、もし聖霊の定義や説明が見つかるとしても、彼らはどうして聖書からこれを主張することができようか、また聖霊と聖霊の間にどんな区別を置くことができようか。というのは、マルキオンやウァレンティヌスが、神性の問題について区別をしたり、善なる神の性質を一つ、正義なる神の性質を別のものとして描写したりすることは可能であると認めたとしても、聖霊に区別を導入するために、彼らは何を考案し、あるいは何を発見するだろうか。したがって、彼らはいかなる種類の区別も示唆するものを何も発見できないと私は考える。
===2===
さて、私たちは、理性あるすべての被造物は、区別なく、神の知恵と言葉と同じように、神の分け前を受けると考えています。しかし、私は、聖霊の主たる降臨は、キリストがこの世に来られる前ではなく、キリストが天に昇られた後に人々に告げられていることに気づきます。なぜなら、それ以前は、聖霊の賜物は預言者と、人々の中にそれを受けるにふさわしい人がいた場合のみ、少数の個人に与えられたからです。しかし、救い主の降臨後、預言者ヨエルの預言が成就したと書かれています。「終わりの日に、わたしはわたしの霊をすべての人に注ぐ。彼らは預言するであろう」<ref>ヨエル書 2:28</ref>これは、「すべての国民は彼に仕えるであろう」というよく知られた言葉に似ています<ref>詩篇 72:11</ref>。 それで、聖霊の恵みによって、他の多くの結果とともに、この最も栄光ある結果が明らかに証明されました。すなわち、預言者やモーセの律法に書かれていることに関して、当時は、単なる物質的な意味を超えて、律法や預言者の中に、より偉大なもの、つまり霊的なものを見出すことができたのは、預言者自身と、国民全体の中でほとんど一人もいなかったということです。しかし、今では、数え切れないほど多くの信者がいて、彼らは、霊的な理解の結果を系統立てて明確に展開することはできませんが<ref> 全員が命令の結果と霊的知性の液体を説明できるわけではないが。</ref>、それにもかかわらず、割礼も、安息日の残りも、動物の血を注ぐことも、これらの点について神がモーセに答えを与えたことも、文字通りに理解されるべきではないと、非常に固く確信しています。そして、この理解の方法は、聖霊の力によってすべての人の心に間違いなく示唆されています。
===3===
キリストを理解する方法は数多くありますが、キリストは知恵ではありますが、すべての人に対して知恵の役割を果たすわけではなく、知恵の学びに身を捧げる人に対してのみ知恵の力を発揮します。また、医者と呼ばれても、すべての人に対して医者として働くのではなく、自分の弱さや病弱さを理解し、健康を得るためにキリストの憐れみに逃げ込む人に対してのみ医者として働きます。聖霊についても、あらゆる賜物が内包されていると私は思います。ある人には聖霊によって知恵の言葉が、ある人には知識の言葉が、またある人には信仰が与えられます。そして、聖霊を受け入れる能力のある各個人に対して、聖霊自身がその資質となるか、あるいは参加するに値する個人に必要なものとして理解されるのです<ref>したがって、これは、彼を受け入れることができる個人を通じて達成されます、あるいは、これは、彼に参加するに値する彼が必要とする聖霊自身によって意味されます。シュニッツァー(Schnitzer)は、「したがって、それらの影響を受けやすいすべての人の中に、聖霊はまさにそれを受け取る人が主に必要とするものである。」と述べています。</ref>。 福音書の中でイエスがパラクレートと呼ばれているのを聞いた人々は、これらの分裂や相違に気づかず、また、どのような働きや行為の結果としてイエスがパラクレートと呼ばれているのかをきちんと考慮せずに、イエスを何らかの普通の霊に例え、こうしてキリスト教会をかき乱し、兄弟たちの間に少なからぬ規模の不和を起こそうとした。しかし、福音書はイエスが非常に力強く威厳のある方であることを示しており、使徒たちは、聖霊の降臨まで、救い主が教えようとしたことをまだ受け入れることができなかったと述べている。聖霊は彼らの魂に自らを注ぎ、三位一体の性質と信仰について彼らを啓発するかもしれない。しかし、これらの人々は、自分の理解力がないため、論理的に真理を述べることができないだけでなく、私たちが提案していることに注意を向けることさえできない。そして、神の神性について不当な考えを抱き、誤りと欺瞞に身を委ね、使徒の宣言に従って、聖霊の教えに導かれるのではなく、誤りの精神によって堕落しました。「彼らは、結婚を禁じ、多くの人を破滅させ、食物を断つという悪魔の教えに従い、より厳格な遵守を誇示して、無実の人々の魂を誘惑しようとしています。」<ref>1テモテ 4:1-3</ref>
===4===
それゆえ、弁護者は聖霊であり、言葉では言い表せない、いわば言葉にできない、「人が口にするのは許されていない」<ref>2コリント 12:4</ref>、つまり人間の言語では表せない真理を教える者であることを私たちは知らなければなりません。「許されていない」という表現は、使徒が「それはできない」の代わりに使っていると私たちは考えています。また、彼が「すべてのことはわたしに許されている。しかし、すべてのことは益になるわけではない。すべてのことはわたしに許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるわけではない。」<ref>1コリント 10:23</ref>と言う 箇所でも同様です。なぜなら、私たちが持つことができるものは、私たちにとって許されていると彼は言うからです。しかし、聖霊と呼ばれる弁護者は、その慰めの働きからそのように呼ばれており、 ラテン語ではパラクレシスはコンソラティオと呼ばれています。というのは、もし誰かが、聖霊の言い表せない奥義を知ることによって聖霊にあずかるにふさわしい者なら、その人は間違いなく心の慰めと喜びを得るからである。なぜなら、聖霊の教えによって、起こるすべてのことの理由、すなわち、それらがどのように、なぜ起こるのかを知るようになるので、その人の魂は、少しも悩むことも、悲しみを感じることもない。また、何事にも恐れることはない。なぜなら、神の言葉とその知恵にすがりつき、聖霊によってイエスを主と呼ぶからである。そして、私たちは弁護者について述べ、彼に関してどのような感情を抱くべきかをできる限り説明してきたので、また、私たちの救い主も、ヨハネの手紙の中で弁護者と呼ばれている。「もし私たちのうちの誰かが罪を犯すなら、父のもとには弁護者、すなわち、義なるイエス・キリストがおられます。この方は、私たちの罪のための償いなのです。」<ref>第一ヨハネ 2:1, 2</ref>このパラクレートという語が、救い主に適用されるときと聖霊に適用されるときとで、たまたまある意味を持つのかどうか考えてみましょう。さて、パラクレートは、救い主について語られるとき、執り成しをする者を意味するようです。というのは、ギリシャ語では、パラクレートには、執り成しをする者と慰め手という両方の意味があるからです。それで、彼が「そして彼は私たちの罪のためのなだめなのです」と言うときの次の句のために、パラクレートという名前は、私たちの救い主の場合、執り成しをする者を意味すると理解されているようです。なぜなら、彼は私たちの罪のために父に執り成しをすると言われているからです。聖霊の場合、パラクレートは、霊的な知識の理解を公に明らかにする魂に慰めを与えるので、慰め手の意味で理解されなければなりません。
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==脚注==
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諸原理について/第2巻/第8章
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*ウィキソースによる日本語訳
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'''第2巻'''
————————————
==第8章==
::魂(アニマ)について
===1===
これまでの主題の議論の後で、私たちの順序は、魂に関する一般的な調査を開始することを要求しています<ref>Anima. 魂。</ref>。そして、重要性の低い点から始めて、重要性の高い点へと上昇します。 さて、すべての生き物、水中に住む生き物にさえ魂があること<ref>Animæ. アニマ 魂。</ref>は、誰も疑わないと思います。 なぜなら、すべての人の一般的な意見がこれを支持し、聖書の権威による確認が加えられ、「神は大きな鯨と、水が種類に従って生み出したすべての動く生き物<ref>Animam animantium. 生き物の魂。</ref>を作った」と言われています<ref>創世記 1:21、πᾶσαν ψυχὴν ζώων(動物たちのすべての魂), Sept.</ref>。 これは、魂の定義を特定の言葉で定める人々によって、理性の一般的な知性によっても確認されています。魂は次のように定義される。 φανταστική とὁρμητικήという実体であり、これはラテン語に訳すと、それほど適切ではないが、sensibilis et mobilis {{註|敏感で機動性がある}}となる<ref>エラスムスは、imaginatíki はimaginitiva、つまり理解である ὁρμετική、 impulsiva と訳される可能性がある、と述べ 、これは愛情を指します (Schnitzer)。</ref>。 これは確かに、水中に住むものも含め、すべての生き物について適切に言えるだろう。また、翼のある生き物についても、この同じアニマの定義が当てはまることが示されるだろう。聖書はまた、第二の意見に権威を加えている。「あなたたちは血を食べてはならない。なぜなら、すべての肉なるものの命はその血であるからである<ref> Animam. 魂。</ref>。そして、あなたたちは肉とともに命を食べてはならない。」<ref>レビ記 17:14、ἡ ψυχὴ πάσης σαρκὸς αἶμα αὐτοῦ ἐστι(すべての肉の魂は彼の血である), Sept.</ref>という言葉で、あらゆる動物の血はその命であることを最も明確に示唆している。そして、もし誰かが、蜂、スズメバチ、蟻、そして水中にいる他の生物、牡蠣、ザルガイ、そして血を持たず、生き物であることが最も明白に示されている他のすべてのものに関して、「すべての肉の命は血である」と言えるのはなぜかと尋ねるならば、私たちは、その種の生き物の場合、赤い血の力によって他の動物に及ぼされる力が、たとえ色が異なっていても、その中の液体によって及ぼされると答えなければなりません。なぜなら、その物質に命が与えられている限り、色は重要ではないからです<ref>Vitalis. 重要な。</ref>。 荷物を運ぶ動物や小型の牛には魂が与えられている<ref> Animantia. (Animacy) 生物性</ref>ことには、一般的な同意により、何の疑いもありません。しかし、神が「地は生き物をその種類にしたがって生み出せ。四つ足の動物、這うもの、地の獣をその種類にしたがって生み出せ」と言うとき、聖書の意見は明白です<ref> 創世記第1章24節、生き物、アニマム。</ref>。 さて、人間に関して言えば、誰も疑問を抱かず、また調べる必要もないが、聖書は「神はその顔に命の息を吹き込まれた。そこで人は生きた魂となった」と述べている<ref>創世記 2:7、生きた魂。</ref>。 天使の階級に関しても魂を持っているのか、それとも魂であるのか、また他の神や天の力、さらに反対の種類の力についても調べなければならない。実際、聖書のどこにも、天使や神の使者である他の神聖な霊が魂を持っている、あるいは魂と呼ばれていると主張する根拠は見当たらないが、それでも非常に多くの人々が彼らに命が与えられていると感じている。しかし神に関しては、次のように書かれているのを見つける。「そして、血を食べた魂の上にわたしはわたしの魂を置き、その者を民の中から根絶する。」<ref>レビ記 17:10。 オリゲネスまたはその翻訳者が持っていたテキストでは、πρόσωπον(プロソーポン) ではなく ψυχή(プシュケー) と読まなければならなかったことは明らかです。そうでなければ、引用は不適切になります (Schnitzer)。</ref>また別の箇所では、「わたしはあなたがたの新月、安息日、大祭を拒み、あなたがたの断食、祝日、祭日を、わが魂は憎む。」<ref>イザヤ 1:13, 14</ref>とあります。 また詩編第22篇では、キリストに関して、福音書が証言しているように、この詩編がキリストについて語られていることは確かですが、次のような言葉が出てきます。「主よ。わたしを助けることを遠ざけないでください。わたしを守り、神よ。わたしの魂を剣から、わたしの愛する者を犬の手からお救いください。」<ref>詩篇 22:19, 20。ユニカム・ミーム、私の唯一の子。</ref>ただし、キリストが肉体をとって幕屋をとられたときの魂については、他にも多くの証言があります。
===2===
しかし、受肉の性質は、キリストの魂についてのいかなる調査も不要にするでしょう。なぜなら、キリストが本当に肉体を持っていたように、彼は本当に魂を持っていたからです。聖書で神の魂と呼ばれているものをどのように理解すべきかを感じ、述べることは確かに困難です。なぜなら、私たちはその性質が単純であり、混じり合ったり加えられたりしていないことを認めているからです。しかし、それがどのような方法で理解されるにせよ、それはその間、神の魂と呼ばれているようです。一方、キリストに関しては疑いの余地はありません。したがって、聖なる天使やその他の天の力に関してそのようなことを理解したり主張したりすることは、私には不合理ではないようです。なぜなら、魂のその定義は彼らにも当てはまると思われるからです。彼らが「感覚があり、動く」ことを理性的に否定できる人は誰でしょうか。しかし、魂が理性的に「感覚があり、動く」実体であると言われるその定義が正しいと思われるなら、同じ定義は天使にも当てはまると思われます。なぜなら、彼らの中には理性的な感覚と動き以外に何があるのでしょうか。さて、同じ定義で理解される存在は、疑いなく同じ実体を持っています。パウロは確かに、神の霊の事柄を受け入れることができない一種の動物人間<ref>Animalem. 動物。</ref>が存在することをほのめかしていますが、聖霊の教義は愚かに思われ、霊的に識別されるべきことを理解することはできないと述べています。別の箇所では、動物の体が蒔かれ、霊の体が生まれると述べ、義人の復活には動物の性質を持つものは何もないことを指摘しています。したがって、 アニマである点で不完全な実体が存在するかどうかを調査します。しかし、それが完全性から逸脱しているために不完全であるのか、それとも神によってそのように創造されたために不完全であるのかは、個々のトピックが順番に議論され始めるときに調査の対象になります。というのは、もし動物的な人間が神の霊の教えを受け入れず、また動物的であるがゆえに、よりよいもの、すなわち神の性質を理解することができないのであれば、おそらくパウロは、霊の教え、すなわち霊的なものを理解する手段が何であるかを私たちにもっとわかりやすく教えようとして、聖霊に魂ではなく理解力<ref>Mens (魂。理性的な精神作用の主体を指す。)</ref>を結び付けて関連付けたのでしょう<ref>Anima. 魂。</ref>。彼が「私は霊で祈り、理解力でも祈ります。私は霊で歌い、理解力でも歌います。」 <ref>1コリント 14:15</ref> と言うのは、このことを意味していると思います。 そして彼は、「私は魂で祈る」とは言わず、霊と理解で祈ります。また、「私は魂で歌う」とも言わず、霊と理解で歌います。
===3===
しかし、おそらく、次のような疑問が投げかけられるでしょう。「霊と共に祈り歌うのが知性であり、完全と救いの両方を受けるのが知性であるなら、どうしてペテロは、「信仰の終わり、すなわち、魂の救いを受けるのです」と言うのでしょうか。」<ref>1ペテロ 1:9</ref> 魂が霊と共に祈ることも歌うこともしないなら、どうして救いを期待できるでしょうか。あるいは、祝福に達したとき、それはもはや魂と呼ばれないのでしょうか<ref>これらの言葉は、ヒエロニムスの『 アウィトゥスへの手紙』 に書かれており、文字通り翻訳すると次のようになる。「したがって、魂が救いを得て祝福された後、魂が魂でなくなることのないよう、細心の注意を払わなければならない。われらの主であり救い主であるイエスは、失われたものを捜して救うために来られた。それは、失われた魂が失われないようにするためである。それと同じように、失われた魂は、主がその救いのために来られたのであるが、救われた後、魂でなくなる。この点も同様に、失われたものがかつては失われていなかったが、もはや失われない時が来るかどうかを検討しなければならない。同様に、魂はある時点では魂ではなかったかもしれないし、決して魂であり続けることはない時が来るかもしれない。」上記の一部は、元のギリシャ語では、コンスタンティノープル総主教メナスに宛てたユスティニアヌス帝の手紙にも見られる。</ref>。 おそらく、次のように答えられるのではないかと思います。救い主は失われたものを救うために来られたので、以前は失われたと言われていたものは、救われると失われません。同様に、おそらく、救われたものは魂と呼ばれ、それが救いの状態に置かれると、そのより完全な状態を表す名前が御言葉から与えられます。しかし、ある人たちには、これも付け加えられるべきであると思われる。すなわち、失われたものは、失われる前は確かに存在していたのであり、そのときには破壊されたものではなく、別のものであったのだから、もはや破壊された状態ではなくなったときもそうである。同様に、滅びたと言われる魂も、まだ滅びていなかったときには何かであったように見え、そのために魂と呼ばれ、再び破壊から解放されて、再び滅びる前の状態になり、魂と呼ばれるかもしれない。しかし、ギリシャ語が伝える魂という名前の意味そのものから、少数の好奇心旺盛な探究者たちには、少なからず重要な意味が示唆されるかもしれないと思われた。というのは、神聖な言葉では神は火と呼ばれており、聖書には「われらの神は焼き尽くす火である」とある<ref>申命記 4:24</ref>。 天使の本質についても、次のように語られている。「神はその天使たちを霊とし、その奉仕者たちを燃える火とする。」<ref>詩篇 104:4、ヘブル人への手紙1章7節を参照。</ref>また別の箇所では、「主の御使いが柴の中の燃える炎の中に現れた」とあります<ref>出エジプト記 3:2</ref>。 さらに、私たちは「霊に燃えよ」という戒めを受けています<ref>ローマ 12:11</ref>。この表現によって、神の言葉が熱く燃えるものであることが間違いなく示されています。預言者エレミヤも、神から「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉に火を与えた」という答えを聞きます<ref> エレミヤ書 1章9節を参照。「火」という言葉はヘブライ語にも七十人訳にも見当たりません。</ref>。 このように、神が火であり、御使いが火の炎であり、すべての聖徒が霊に燃えているように、逆に、神の愛から離れた人々は、神に対する愛情が冷え、冷たくなったと言われています。主はまた、「不法がはびこったので、多くの人の愛が冷える」とも言っています<ref> マタイ24章12節</ref>。 いや、聖書の中で敵対的な力と比較されているすべてのものは、悪魔が常に冷たさを感じると言われています。では、悪魔よりも冷たいものが見つかりますか?海では、竜が支配していると言われています。預言者<ref>エゼキエル書 32章2節以下を参照。</ref>は 、蛇と竜は確かに邪悪な霊の1つを指していますが、海にもいるとほのめかしています。また、他の箇所では、預言者はこう言っています。「私は、飛蛇である竜、曲がった蛇である竜に向かって聖なる剣を抜き、これを殺そう。」<ref>イザヤ 27:1</ref> また、彼はこう言っています。「たとえ彼らが私の目から隠れて海の深みに下っても、私はそこで蛇に命じ、蛇は彼らを噛む。」<ref>アモス 9:3</ref> ヨブ記でも、彼は水中のすべてのものの王であると言われています<ref>ヨブ 41:34 [LXX.]</ref>。 預言者<ref>エレミヤ 1:14</ref>は、地上に住むすべての人々に北風が災いをもたらすと脅しています。さて、北風は聖書の中で冷たいものとして描写されており、『知恵の書』にある「あの冷たい北風」という記述に従っています<ref>シラ書( Ecclus.) 43:20</ref>。この同じことが悪魔についても間違いなく理解されなければなりません。それで、神聖なものが火、光、熱烈と名付けられ、反対の性質のものが冷たいと言われ、多くの人の愛が冷えていくと言われるのであれば、ギリシャ語でψυχή (プシュケー)と呼ばれる魂という言葉は、より良く、より神聖な状態から冷えていくことからそのように名付けられ<ref> ψυχή from ψύχεσθαι. (魂から魂を与えられる。)</ref>、そこから派生したものであり、自然の神聖な暖かさから冷えたように思われ、それゆえに現在の位置に置かれ、現在の名前で呼ばれている。最後に、聖書の中で魂が称賛の言葉として適切に言及されている箇所を簡単に見つけられるかどうか見てみましょう。それどころか、魂は非難の表現を伴って頻繁に現れます。例えば、「悪い魂はそれを持つ者を滅ぼす」<ref>シラ書( Ecclus.) 6:4</ref>、「罪を犯す魂は死ぬ」<ref>エゼキエル 18:4、参照 20。</ref> という箇所です。なぜなら、「すべての魂は私のものである。父の魂がそうであるように、子の魂も私のものである」<ref>エゼキエル 18:4, 19</ref>と言われたあと、神は「義を行う魂は救われる」や「罪を犯す魂は死ぬ」と言われていると思われるからです。しかし、今や、神は非難されるべきものを魂と結び付け、称賛に値するものについては沈黙していることがわかります。したがって、私たちが言ったように、その名前自体が宣言しているように、魂は「悪」と呼ばれていたかどうかを見なければなりません。ψυχή (プシュケー)、すなわちアニマは、正義の熱情から冷め<ref>「霊的な生活から離れて冷たくなったことで、魂は今のような状態になったが、最初の状態に戻ることもできる。それは、預言者が『わが魂よ、汝の安息に帰れ』という言葉で暗示していると私は思う。そうすれば完全にこのようになるのだ。」—ユスティニアヌス帝からコンスタンティノープル総主教への手紙。</ref>。神の火への参加から冷めてしまったが、それでも最初の熱情の状態に戻る力を失ってはいない。そこから預言者はまた、「わが魂よ、汝の安息に帰れ」という言葉で、物事のそのような状態を指摘しているように思われる<ref>詩篇 116:7</ref>。 これらすべてから、知性はその地位と尊厳から落ちて魂と名付けられた、あるいは魂と名付けられたことが分かる。そして、修復され、修正されれば、知性の状態に戻る<ref>「それで、理解力 ( Νοῦς ) はどういうわけか魂となり、魂は回復されて理解力となる。理解力が失われて魂となり、魂は再び徳を与えられれば理解力となる。というのは、エサウの例を調べれば、彼は悪い人生の中で犯した昔の罪のために断罪されたことがわかるだろう。そして天体に関して、私たちは探究しなければならない。太陽の魂、あるいは何と呼ぶべきかは、世界が創造された時に存在し始めたのではなく、それ以前に、その輝く燃える体に入ったのである。月や星についても同様の意見を持つことができ、前述の理由により、それらは将来の報酬のために不本意ながら虚栄に服従せざるを得なかったというものである。 「そして、自分の意志ではなく、創造主の意志を行うように。創造主によって、彼らはそれぞれの職務に就かされた」―ヒエロニムスの『アウィトゥスへの手紙』 。これらの箇所や他の箇所から、ルフィヌスの翻訳が原文からどれほど大きく逸脱しているかが分かる。</ref>。
===4===
さて、もしこれが事実であるならば、この理解力の衰退と衰退は、すべてにおいて同じではなく、魂へのこの転換は、さまざまな場合に程度の差はあるものの、ある種の理解力は以前の活力さえいくらか保持し、他の理解力は、まったく、あるいはごくわずかしか保持しない、と私には思われる。したがって、ある人は、人生の最初からより活発な知性を持ち、またある人は、より鈍い思考習慣を持ち、ある人は、生まれつき完全に鈍く、まったく指導を受けることができない。しかし、理解力が魂に転換されるという私たちの主張、あるいは、そのような意味を持つと思われる他の何であれ、読者は、これらの見解を、私たちが独断的に主張したものではなく、調査と議論のスタイルで扱われた単なる意見として、慎重に検討し、自分で納得しなければならない。読者は、救い主の魂に関して、福音書に書かれていることのうち、あるものは魂という名で、他のものは霊魂という名で与えられていることにも留意してください。というのは、福音書が、主に影響を与えている苦しみや動揺を示したいときは、魂という名でそれを示しているからです。「今、わたしの魂は騒ぎ立てている」<ref> ヨハネ12章27節</ref>、「わたしの魂は悲しみで死ぬほどだ」<ref>マタイ26章38節</ref>、「だれも、わたしの魂をわたしから取り去ることはできない<ref>Animam. 魂。</ref>。わたしが、自らそれを捨てるのだ」 <ref>ヨハネ 10:18</ref>とあるとおりです。主は、ご自分の魂ではなく 、霊魂を父の手にゆだねられました。また、肉が弱いと言うときも、魂が意志を持っているとは言わず、霊魂がそうであると言っています。このことから、魂は弱い肉と意志を持つ霊魂の中間にあるものであることがわかります。
===5===
しかし、おそらく誰かが、私たちが述べたときに警告した反論の一つで私たちを迎え、「それでは、どうして神の魂もあると言われるのですか」と言うかもしれません。それに対して私たちは次のように答えます。指、手、腕、目、足、口など、神について語られているすべての物質的なものに関して、これらは人間の部分として理解されるべきではなく、神の力の特定のものがこれらの体の部分の名前によって示されていると私たちは言います。同様に、この称号、つまり神の魂によって指し示されているのは何か他のものだと私たちは考えるべきである。そして、もし私たちがこの主題についてさらに何かを言うことを敢えて許されるなら、神の魂はおそらく神の独り子を意味すると理解されるかもしれません。なぜなら、魂が体に植え付けられると、体内のすべてのものを動かし、それが作用するすべてのものにその力を及ぼすからです。同様に、神の言葉であり知恵である神の独り子も、神のあらゆる力に植え付けられて伸び、拡張します。そしておそらくこの神秘を示すために、神は聖書の中で肉体と呼ばれ、または描写されています。確かに、神の魂が独り子を意味すると理解されるのは、おそらくこのためではないかと私たちは考慮しなければなりません。なぜなら、彼自身がこの苦難の世界に来られ、この涙の谷に、そしてこの私たちの屈辱の場所に降りてこられたからです。詩篇で彼が言うように、「あなたが苦難の場所で私たちを辱められたからです」<ref>詩篇 44:19</ref> 最後に、福音書で救い主が使用した「私の魂は死ぬほど悲しんでいます」という言葉を説明する際に、一部の批評家が、彼が自分の魂と呼んだ使徒たちを自分の体の他の部分よりも優れていると解釈したことを私は知っています。というのは、信者の大群がキリストの体と呼ばれているように、使徒たちは体の残りの部分よりも優れているので、キリストの魂を意味すると理解されるべきだと彼らは言うからです。
私たちは、理性的な魂に関するこれらの点を、教条的で明確に定義された命題としてではなく、読者の皆さんの議論の話題として、できる限り提示してきました。動物やその他の口のきけない生き物の魂に関しては、上で一般的な言葉で述べたことで十分でしょう。
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==脚注==
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*ウィキソースによる日本語訳
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'''第2巻'''
————————————
==第9章==
::世界と、善悪を問わず理性的な生き物の運動、そしてその原因について
===1===
さて、ここで、私たちが提案した議論の順序に戻り、理解力が神の創造の始まりを見ることができる限り、創造の始まりを見てみましょう。その始まりにおいて<ref>この一節の原文は、ユスティニアヌスがコンスタンティノープル総主教メナスに宛てた書簡 apud finem にあります。「理解力によって認識できる始まりにおいて、神は自らの意志により、十分な数の知的存在を存在させました。なぜなら、神の力は有限であると言わなければならないので、神を称賛するふりをしてその限界を取り去ってはならないからです。神の力が無限であるなら、必然的に自分自身さえ理解できないはずです。なぜなら、本来無限であるものは理解できないからです。したがって、神は物事を非常に大きくし、把握してその力の下に保持し、摂理によって制御できるようにしました。同様に、神は装飾する力がある大きさ ( τοσαύτην ὕλην ) の物質も用意しました。」</ref>、神は、私たちが以前理解力と呼んでいた、非常に多くの理性的または知的な生き物(またはそれらを何と呼ぶにしても)を創造したと想定することになります。神がそれらを、神自身があらかじめ定めた一定の数に従って作ったことは確かです。なぜなら、ある人が言うように、生き物には限界がないと想像すべきではないからです。なぜなら、限界がなければ、理解も制限も存在しないからです。さて、もしこれが事実であるなら、確かに創造されたものは神によって制限も管理もできないでしょう。なぜなら、当然のことながら、無限なものは理解できないものでもあるからです。さらに、聖書が言うように、「神はすべてのものを数と量で配置した」のです<ref>知恵の書( Wisdom) 11:20、「あなたはすべてのものの寸法と数と重さを定められました。」</ref>。したがって、数は理性的な被造物や理解力に正しく適用され、それらは非常に多く、神によって配置、統治、制御される可能性がある。しかし、量は物質的な物体に適切に適用される。そして、この量は、神が世界を飾るのに十分であると知っていたように神によって創造されたと私たちは信じるべきである。したがって、これらは、神によって初めに、つまりすべてのものの前に創造されたと私たちが信じるべきものである。そして、これは、モーセがいくぶん曖昧な言葉で導入した「初めに神は天と地を創造された」という言葉の中にさえ示されていると私たちは考える<ref>創世記 1:1</ref>。 というのは、ここで言及されているのは大空や陸ではなく、後に私たちが目にするこの現在の天と地が名前を借りた天と地であることは確かだからである。
===2===
しかし、私たちが上で述べた理性的な性質は、初めに作られたものであり、それ以前には存在していなかったときに創造されたため、その非存在と存在の始まりというまさにこの事実の結果として、必然的に変化しやすく、変わりやすいものである。なぜなら、それらの本質にあった力は、自然によってそこにあったのではなく、創造主の善良さの結果であったからである。したがって、それらが何であるかは、それら自身のものではなく、永遠に続くものでもなく、神によって授けられたものである。なぜなら、それは常に存在していたわけではないからである。そして、賜物であるものはすべて、取り去られ、消え去ることもある。そして、取り除かれる理由は、魂の動きが正当かつ適切に従って行われないことにある。なぜなら、創造主は、彼によって創造された理解力に、自由で自発的な行動の力を与えたからである。それによって、それらの中にあった善は、彼ら自身の意志の行使によって保存され、彼ら自身のものになる可能性がある。しかし、怠惰、善を保つための労働を嫌うこと、そしてより良いものに対する嫌悪と無視は、善から離れる始まりとなった。しかし、善から離れることは、悪になることに他ならない。なぜなら、善を欲することは邪悪であることは確かだからである。したがって、人が善から離れるほど、同じ割合で邪悪に巻き込まれることになる。その状態では、それぞれの理解は、その行動に応じて、より大きく、またはより限定的に善を無視し、善の反対に引きずり込まれ、それは間違いなく悪である。そこから、万物の創造主は、理解の多様性、すなわち理性的な被造物の多様性に応じて多様性と多様性を創造するために、多様性と多様性の特定の種子と原因を認めたことが明らかである。その多様性は、私たちが上で述べた原因から彼らが思いついたと想定されなければならない。そして、多様性と多様性が何を意味するのかを、今説明したい。
===3===
さて、私たちは、天の上にあるもの、天にあるもの、地上にあるもの、または下層と呼ばれる場所にあるもの、あるいはどこにでも存在するすべての場所とその住民を世界と呼びます。したがって、この全体を世界と呼びます。その世界では、特定の存在が超天的であると言われています。つまり、より幸福な住居に配置され、天国の輝く体をまとっています。これらの中には多くの区別があることが示されています。たとえば、使徒は次のように述べています。「あるものは太陽の栄光であり、あるものは月の栄光であり、あるものは星の栄光です。星の栄光は星によって異なります。」<ref>1コリント 15:41</ref> 特定の存在は地上的と呼ばれ、それらの間、つまり人間の間には小さな違いはありません。彼らの中には野蛮人もいれば、ギリシャ人もいます。野蛮人の中には野蛮で凶暴な人もいれば、より温和な人もいます。そして、彼らの中には徹底的に承認された法律の下で生活している人もいます。また、ある者はより一般的で厳しい種類の法律の下にあり、またある者は、法律というよりは非人間的で野蛮な性質の慣習を持っています<ref> Vilioribus et asperioribus. 安くて粗い。</ref>。そして、彼らのうちの何人かは、生まれたときから屈辱と服従に貶められ、主人、君主、または暴君の支配下に置かれ、奴隷として育てられます。また、他の者は、より自由と理性に調和した方法で育てられます。ある者は健康な体を持ち、ある者は幼い頃から病気の体を持ちます。ある者は視覚に障害があり、ある者は聴覚と言語に障害があります。ある者はそのような状態で生まれ、ある者は生まれた直後に感覚を奪われ、または少なくとも成人するとそのような不幸を経験します。そして、ある者はそこから解放され、ある者は巻き込まれた人間の悲惨さの恐ろしさをすべて繰り返し列挙する必要があるでしょうか。各人が自分でそれらを評価して検討できるのですから。地上のものが管理するために委ねられている特定の目に見えない力もあります。そして、人間の間にも見られるように、彼らの間には小さな違いが存在すると信じられなければならない。使徒パウロは確かに、ある種のより低い力があることを暗示しており<ref> Inferna. (Hell) 地獄。</ref>、同様に、それらの中にも、間違いなく多様性の根拠が求められなければならない。口のきけない動物や鳥、水中に住む生き物に関しては、要求するのは不必要であるように思われる。なぜなら、これらは主要なものではなく、従属的な地位にあると見なされるべきであることは確かだからである。
===4===
ですから、すべての創造されたものはキリストを通して、またキリストにおいて造られたと言われています。使徒パウロは次のように極めて明確に述べています。「すなわち、すべてのものは、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座であれ権威であれ支配権であれ主権であれ主権であれ、すべては彼によって、また彼において造られたのです。」<ref>コロサイ 1:16</ref>また、福音書の中でヨハネも同じことを述べています。「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。言葉は初めに神とともにあった。すべてのものは彼によって造られた。彼によらないで造られたものは一つもなかった。」<ref>ヨハネ 1:1, 2</ref>また、詩篇にも、「あなたは知恵をもって、すべてを造られました。」と書かれています<ref>詩篇 104:24</ref>。それで、キリストがいわば言葉と知恵であり、また正義でもあるのを見ると、言葉と知恵によって創造されたものは、キリストであるその正義によっても創造されたと言われるのは疑いようがないであろう。つまり、創造されたものには不正や偶然は何一つなく、すべてのものが公平と正義の法則に従っていることがわかるのである。それでは、このように多種多様なもの、このように多様性が、まったく公正で正義であると理解されるにはどうしたらよいのか、私たちがひれ伏して嘆願者として、神の独り子であり、その恵みによって私たちの感覚にご自身を注ぎ、暗いものを照らし、隠されたものを明らかにし、秘密のものを明らかにしてくださる言葉と知恵と正義そのものに祈らない限り、人間の力や言葉では説明できないと私は確信している。実際に、私たちが、求めるときに受けとめられ、求めるときに見いだされ、たたくときに開かれるにふさわしいほど、ふさわしく求めたり、尋ねたり、たたいたりしているのがわかったとしたらどうでしょう。ですから、私たち自身の力に頼るのではなく、万物を創造したあの知恵と、そのすべての被造物にあると私たちが信じるあの正義の助けに頼りましょう。たとえ当面それを宣言することはできないとしても、それでも神の慈悲に信頼して、世界のその大きな多様性と多彩さが、すべての正義と理性とどのように一致しているように見えるのかを調べ、探究するよう努めましょう。もちろん、私が言っているのは、一般的な理性だけです。なぜなら、個々のケースごとに特別な理由を求めるのは無知のしるしであり、特別な理由を与えるのは愚かさのしるしだからです。
===5===
さて、この世界は、上で説明したように神によって創造された多様性をもって確立されたと我々が言うとき、そしてこの神は善であり、正義であり、最も公正であると言うとき、多くの個人、特にマルキオン、ヴァレンティヌス、バシレイデスの学派から来て、異なる性質の魂がいると聞いた人々は、我々に反対し、神が世界を創造した際に、その被造物の一部に天の住居を割り当て、そのようなより良い住居を与えるだけでなく、彼らにさらに高く、より名誉ある地位を与えることは、神の正義にかなわない、他の者に君主権を与え、ある者に権力を、他の者に領土を与え、ある者に天の法廷で最も名誉ある席を与え、ある者がより輝かしい栄光で輝き、星のような輝きで輝くようにすることは、神の正義にかなわない、と我々に反対する。ある者に太陽の栄光を与え、他の者に月の栄光を与え、他の者に星の栄光を与え、ある星の栄光を他の星と異ならせる。そして、最後に、そして簡潔に言えば、創造主である神が、善良で完全な仕事を遂行する意志も、それを完成する力も望んでいないのであれば、理性的な性質、すなわち神自身が存在の原因となっている存在の創造において、ある者を高位に、他の者を二番目、三番目、あるいは多くのより低く劣った等級に造る理由が何にあるだろうか。次に、地上の存在に関して、ある者は他の者よりもむしろ生まれつき幸福な運命をたどる、と彼らは我々に異議を唱える。例えば、ある人はアブラハムから生まれ、約束によって生まれたが、別の人はイサクとリベカから生まれ、まだ胎内にいる間に兄弟に取って代わり、生まれる前から神に愛されていたと言われている。いや、この状況自体、特に、ある人は神の法を教えられているヘブライ人の中に生まれ、別の人は彼ら自身も賢く、学識のあるギリシア人の中に生まれ、さらに別の人は人肉を食べる習慣のあるエチオピア人の中に生まれ、あるいは親殺しが法律で認められているスキタイ人の中に生まれ、あるいは外国人が犠牲に捧げられるタウルス人の中に生まれているという状況自体が、強い反対の根拠となっている。したがって、彼らの議論は次のようになる。このような大きな状況の多様性、そして自由意志の能力が及ばない出生による多様で変わりやすい状態(誰も自分がどこに、誰と、どのような状態で生まれるかを自分で選ぶことはできない)があるならば、それでは、これが魂の性質の違い、つまり、邪悪な性質の魂は邪悪な国に運命づけられ、善良な魂は正義の国に運命づけられていることによるものでなければ、これらのことは偶然と運によって制御されていると想定しなければならないという結論以外に何が残るだろうか。そして、もしそれが認められるなら、世界が神によって作られたとか、神の摂理によって管理されているということはもはや信じられなくなるだろう。そしてその結果、各個人の行為に対する神の裁きは、期待すべきものではないと思われる。実際、そのことに関して、物事の真実が何であるかは、すべてのこと、神の深遠なことさえも探究する神だけが知る特権である。
===6===
しかし、我々は人間に過ぎないが、沈黙することで異端者の傲慢さを助長しないために、能力の及ぶ限り、彼らの反論に対して思いつく限りの答えを返すつもりである。我々は、聖書から引き出すことができた宣言によって、万物の創造主である神は善であり、公正であり、全能であることを何度も示してきた。神が最初に創造したいと望んだ存在、すなわち理性的な性質を創造したとき、神は自らの善良さのため以外に、それらを創造する理由はなかった。したがって、神自身が創造されるべきものの存在の原因であり、それらにはいかなる変化も変化もなく、力の不足もなかったため、神は、自らの中に多様性や多様性を生み出す理由がなかったため、すべてを平等かつ類似したものとして創造したのである。しかし、理性的な被造物自身は、これまで何度も示してきたように、また適切な箇所で今後も示すように、自由意志の力を授けられていたので、この意志の自由は、各人を神を模倣して進歩させるか、怠慢によって失敗に導くかのどちらかであった。そして、すでに述べたように、これが理性的な被造物間の多様性の原因であり、その起源は創造主の意志や判断からではなく、個々の意志の自由から来ている。さて、神は、被造物をその功績に応じて配置することが正しいと考え、これらの異なる理解を一つの世界の調和の中に降ろし、いわば一つの住居を飾ろうとした。そこには、金や銀の器だけでなく、木や土の器(確かに、あるものは名誉を与え、あるものは不名誉を与える)も、それらの異なる器、魂、理解でなければならない。そして、これが、私が思うに、その世界が多様性の様相を呈する一方で、神の摂理が各個人の動きや感情や目的の多様性に応じて各個人を規制し続ける理由である。そのため、創造主は(すでに述べた理由により)各人の功績に応じて分配する際に不公平であるとは思われず、各人の誕生の幸福や不幸、あるいはその人に降りかかる運命が何であれ、偶然とはみなされず、異なる創造主や異なる性質の魂が存在するとは信じられない。
===7===
しかし、聖書でさえ、この秘密の性質について全く沈黙しているとは私には思えません。使徒パウロがヤコブとエサウの件について論じているとき、こう言っています。「子供たちはまだ生まれておらず、善も悪も行っていないのに、神の選びによる計画が、行いによるのではなく、召す方によるため、『兄が弟に仕える』と言われました。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」<ref>ローマ 9:11, 12</ref> そしてその後、パウロは自分自身に答えて言います。「それでは、何と言ったらよいでしょうか。神に不義があるのでしょうか。」 そして、これらの事柄について調べ、これらのことが理由なく起こるのではないことを確かめる機会を私たちに与えるために、パウロは自分自身に答えて言います。「決してそんなことはあり得ません。」<ref>本文は「Respondet sibi ipse, et ait」となっているが、これに対してルエウスは、この文は不完全であり、「absit」を補う必要があると述べている。この推測は翻訳に採用されている。</ref> というのは、ヤコブとエサウに関して提起されたのと同じ疑問が、すべての天界と地上の生き物、さらには下界の生き物に関しても提起される可能性があるように私には思えるからです。そして同じように、彼がそこで「子供たちはまだ生まれておらず、善も悪も行っていない」と言っているように、他のすべてのものについても、「彼らがまだ」創造されていなかったとき、「善も悪も行っていないとき、神の選びによる定めが成就する」と言えるのではないかと思います。つまり、(ある人たちが考えるように)一方ではあるものが天に創造され、他方ではあるものが地に創造され、さらに他のものは地の下にあり、「行いによるのではなく」(彼らの考えるように)「召す方による」と。では、もしこれらのことが本当であるなら、私たちは何と言うべきでしょうか。「神に不義があるのでしょうか。そんなことはありません。」したがって、ヤコブとエサウに関する聖書を注意深く調べると、彼らが生まれる前、あるいはこの人生で何かをする前、「兄が弟に仕える」と言われたこと自体が神に対して不義ではないことがわかります。また、ヤコブが前世の功績に応じて神にふさわしく愛され、兄よりも優先されるに値すると私たちが感じるのであれば、胎内でヤコブが兄に取って代わったことも不義ではないことがわかります。天の被造物についても、多様性は被造物の本来の状態ではなく、以前から存在していた原因により、創造主が各被造物の功績の度合いに応じて異なる職務を用意していることに気づけば、それは同じである。実際、神によって理解力、つまり理性的な精神として創造された各被造物は、その心の動きや魂の感情に応じて、多かれ少なかれ功績を獲得し、神に愛される対象になったり、あるいは神に嫌われる対象になったりしているのである。一方で、より偉大な功績を持つ者たちの中には、世の秩序を飾るため、またより低い位の被造物に対する義務を果たすために、他の人々と共に苦しむよう任命されている者もいる。使徒の言葉によれば、彼ら自身も創造主の忍耐にあずかるためである。「被造物はむなしいものとされたが、それは自ら望んでではなく、被造物を従わせた方の御心によるのである。」<ref>ローマ 3:20, 21</ref> そこで、使徒がエサウとヤコブの誕生について語るときに「神に不正があるだろうか。そんなはずはない」と言ったときの感情を念頭に置いて、この同じ感情を他のすべての被造物の場合に注意深く適用するのが正しいと私は考えます。なぜなら、前に述べたように、創造主の正義はすべてのものに現れるはずだからです。そして、天上、地上、地獄のいずれの生き物であっても、それぞれの多様性の原因は自分自身にあり、肉体の誕生に先立つものであると言われると、このことは最終的にもっと明確にわかるように思われます。すべてのものは神の言葉と神の知恵によって創造され、神の正義によって整えられたからです。そして、神はその慈悲の恵みによってすべての人々に備えを与え、治癒につながるあらゆる治療法を使用するようにすべての人を励まし、彼らを救いへと導きます。
===8===
審判の日に善人と悪人とが分けられ、正しい人と正しくない人が神の判決によってそれぞれがそれぞれの功績に応じて、ふさわしい場所に分配されることに疑いの余地はないのと同じように、私も、以前そのような状況があったと考えています。神のご意志があれば、以下で説明します。神は、すべてのことを、いつでも、神の判断に従って行い、秩序づけると信じられなければなりません。使徒が「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあり、あるものは尊ぶべきもの、あるものは卑しめるためのものである」と言うときの言葉は、神のご意志が、神のご意志によって、かつては存在していたことを示唆しています<ref>2テモテ 2:20</ref>。そして彼が付け加えた、「もし人が自分を清めるなら、彼は名誉のための器となり、聖別されて、主の御用に供し、あらゆる良い働きに用いられるであろう」<ref>2テモテ 2:21</ref>は、疑いなくこのことを指摘している。すなわち、この世にいる間に自分を清める者は、来世におけるあらゆる良い働きのために備えられるであろう。一方、自分を清めない者は、その不浄さの度合いに応じて、不名誉のための器、すなわち価値のない器となるであろう。したがって、清められたか否かにかかわらず、すなわち、自分を清めるかそうでないかにかかわらず、かつては理性的な器であった者もいたということ、そしてその結果、あらゆる器は、その清浄さや不浄さの度合いに応じて、この世で生まれながらにして場所、領域、または状態、あるいは果たすべき職務を与えられたということが理解できる。これらすべてを、最も卑しい者に至るまで、神はその知恵の力によって備え、区別し、最も公平な報復に従って、すべてのものをその支配的な判断によって配置し、各人がその功績に応じて支援され、世話されるべきである限りにおいて。そこには確かにあらゆる公平の原則が示されており、状況の不平等は功績に応じた報復の公正さを維持します。しかし、各個別の場合の功績の根拠は、神自身と、神の独り子の言葉、神の知恵、そして聖霊によってのみ真に明確に認識されます。
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==脚注==
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Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/II/Chapter 9" を翻訳
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諸原理について/第2巻/第10章
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村田ラジオ
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*底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/II/Chapter 10".
*[[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/II/Chapter 10|Origen De Principiis/II/Chapter 10]]
*ウィキソースによる日本語訳
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'''第2巻'''
————————————
==第10章==
::復活、審判、地獄の火、そして罰について
===1===
しかし、この講話は、聖書の警告と教会の教えの内容に従って、将来の審判と報復、そして罪人への罰という主題を私たちに思い起こさせたので、すなわち、審判の時が来たら、永遠の火、外の暗闇、牢獄、炉、および同様の性質の他の罰が罪人のために用意されているということなので、これらの点について私たちの意見がどうあるべきかを見てみましょう<ref> [解説I.]</ref>。 しかし、これらの主題に適切な順序で到達するためには、まず復活の性質について検討し、罰を受けるのか、休息を受けるのか、幸福を受けるのかを知る必要があるように思われます。この問題については、私たちが復活について書いた他の論文の中でより詳細に議論し、それに関する私たちの意見を示しました。しかし、今、私たちの論文の論理的秩序のために、そのような著作からいくつかの点を再度述べることは不合理ではないでしょう。特に、教会の信条に腹を立て、あたかも私たちの復活の信仰が愚かで、まったく意味をなさないかのように言う人がいるからです。そして、彼らは主に異端者であり、私は彼らに対して次のように答えるべきだと思います。もし彼らも死者の復活があることを認めるなら、こう答えましょう。死んだものは何ですか?それは体ではありませんか?それでは、復活は体から起こるのです。次に、彼らは私たちが体を使うべきだと思うかどうかを教えてください。使徒パウロが「自然の体が蒔かれると、霊の体が生まれます」と言ったとき、私はそう思います<ref>1コリント 15:44:自然、動物(ψυχικόν) 精神的に</ref>。彼らは、復活するのは肉体であること、あるいは復活において肉体を用いることを否定することはできない。では、どうなるのだろうか。もし私たちが肉体を用いることが確実であり、倒れた肉体が再びよみがえると宣言されているなら(なぜなら、以前に倒れたものだけが、再びよみがえると正しく言えるからである)、それらの肉体が再びよみがえり、復活のときに私たちが再びその肉体をまとうことは、誰にとっても疑う余地がない。この二つのことは密接に関連している。肉体が再びよみがえるなら、それは間違いなく私たちのための覆いとなるためによみがえるからである。そして、私たちが肉体をまとうことが必要であるなら、それは確かに必要であるが、私たちは自分自身の肉体以外のものをまとうべきではない。しかし、これらの肉体が再びよみがえり、それが「霊的な」肉体であることが真実であるなら、それらが腐敗を捨てて死すべき性質を捨てた後に死からよみがえると言われることに疑う余地はない。そうでなければ、誰かが死からよみがえって二度目に死ぬことは、無駄で不必要なことのように思われるだろう。そして最後に、動物の体の性質が何であるかを注意深く考えれば、それが土に蒔かれると霊的体の性質を取り戻すのかどうか、より明確に理解できるかもしれない。なぜなら、動物の体から霊的体を引き出すのは、復活の力と恵みそのもので、霊的体は屈辱の状態から栄光の状態へと変化するからである。
===2===
しかし、異端者たちは自分たちを非常に学識があり知恵のある人間だと思っているので、私たちは彼らに、すべての物体はなんらかの形を持っているか、つまり、なんらかの形に従って形作られているかと尋ねます。そして、もし彼らが、物体とは形に従って形作られていないものだと言うなら、彼らは人類の中で最も無知で愚かな人間であることを示すでしょう。まったく学識のない人を除いて、誰もこれを否定しないでしょう。しかし、当然のこととして、彼らがすべての物体は確かにある特定の形に従って形作られていると言うなら、私たちは彼らに、霊的な物体の形を指摘し、説明できるかと尋ねます。それは彼らには決してできないことです。さらに、私たちは彼らに、よみがえった人々の違いについて尋ねます。彼らは、鳥の肉、魚の肉があり、「天の体と地の体があり、天の体の栄光は一つであり、地の体の栄光は別である」という声明が真実であることをどのように証明するのでしょうか。 「一つは太陽の栄光、もう一つは月の栄光、もう一つは星の栄光である。一つの星は他の星と栄光において異なっている。死者の復活もそのようである。」<ref>1コリント 15:39-42</ref> それでは、天体の間に存在する段階に従って、復活する者の栄光の違いを私たちに示してください。そして、彼らが何らかの方法で天体の違いに一致する原理を考え出そうと努めたのであれば、私たちは彼らに、地上の体の比較によって復活の違いを割り当てるように求めます。実際、この箇所の私たちの理解は、使徒が栄光のうちに復活する者、つまり聖徒たちの間の大きな違いを説明したいと思って、天体からの比較を借りて、「一つは太陽の栄光、もう一つは月の栄光、もう一つは星の栄光である。」と言ったということです。そして、この世で自らを清めることなく復活に臨む人々、すなわち罪人の違いを私たちにもう一度教えようと、イエスは地上のものから例えを借りてこう言いました。「鳥の肉もあれば、魚の肉もある。」 というのは、天にあるものは聖人に、地上のものは罪人にふさわしい比較対象だからです。これらの発言は、死者の復活、すなわち肉体の復活を否定する人々への返答としてなされたものです。
===3===
ここで、私たちは、知力が弱いか、適切な指導を受けていないかのどちらかから、肉体の復活について非常に卑しく卑しい見解をとっている、私たち自身の(信者たち)の一部に注目します。私たちは、これらの人々に、動物の肉体が復活の恵みによって変化し、霊的なものになること、そして、弱さの中で蒔かれたものが力強く立ち上がること、不名誉の中で蒔かれたものが栄光の中で立ち上がること、そして、朽ち果てた状態で蒔かれたものが不朽の状態に変わることをどのように理解しているかを尋ねます。なぜなら、彼らが、栄光と力と不朽の中で立ち上がった肉体はすでに霊的なものになっているという使徒の言葉を信じているなら、使徒が「肉と血は神の国を受け継ぐことはなく、朽ち果てたものは朽ち果てないものを受け継ぐことはない」と明らかに宣言しているのを見て、その肉体が再び血肉の情熱に巻き込まれる可能性があると言うのは不合理で、彼の意図に反しているように思われるからです。しかし、彼らは使徒の「私たちはみな変えられる」という宣言をどのように理解しているのでしょうか。この変化は、上で教えた順序に従って、確かに期待されるべきものであり、その中で、疑いなく、神の恵みに値する何かを望むのが私たちにふさわしいものです。そして、これは、使徒が「裸の穀物、または他のどんな果物でも」地に蒔くと、穀物が枯れるとすぐに「神はご自分の望みどおりに体を与える」と述べている順序で起こると私たちは信じています。同じように、私たちの体も穀物のように地に落ちると考えられているからです。そして(その胚芽は肉体の実質を含んでおり)肉体は死に、腐敗し、散らばっても、神の言葉によって、肉体の実質の中に常に安全な胚芽が、肉体を地から蘇らせ、修復し、回復させる。それは、麦の粒にある力が、腐敗して死んだ後、その粒を茎と穂を持つ肉体に修復し、回復させるのと同じである。そして同様に、天の王国で相続財産を得るにふさわしい人々にとって、前に述べた肉体の修復の胚芽は、神の命令によって、地上の動物の肉体から、天に住むことのできる霊の肉体を回復させるのである。一方、より劣った功績の者、よりみじめな境遇の者、あるいは最も低い位の者、そして完全に押しのけられた者にも、その生命と魂の尊厳に応じて、肉体の栄光と尊厳が与えられている。しかし、永遠の火や厳しい罰を受ける運命にある者のよみがえる肉体は、復活の変化そのものによって不朽であり、厳しい罰によっても腐敗したり溶解したりできない。それでは、死からよみがえる肉体の性質がそのようなものであるならば、永遠の火の脅しの意味が何であるかを今から見てみよう。
===4===
預言者イザヤは、各人が罰せられる火は各自の火であると述べている。彼は「自分の火の光の中、自分のつけた炎の中を歩め」と言っているからである<ref>イザヤ 50:11</ref>。 これらの言葉は、すべての罪人が自分自身の火の炎を自分でつけるのであって、すでに他の人によってつけられた火、あるいは自分より前に存在していた火に投げ込まれるのではないことを示しているように思われる。この火の燃料と糧は私たちの罪であり、使徒パウロはそれを「薪、干し草、刈り株」と呼んでいる<ref>1コリント 3:12</ref>。 そして、食物の過剰と種類と量の反対の食料は体内に熱を生じさせ、集められた毒物<ref>Intemperies. 悪天候。</ref>が病気の材料と燃料を供給する割合に応じて、熱の種類と持続時間も異なると私は考える(さまざまな毒物から集められたこの材料の質は、より急性の病気またはより長引く病気の原因を証明する)。同じように、魂が悪行を数多く集め、自分自身に対して罪を重ねると、適切な時期に、その悪の集まりはすべて罰として煮え立ち、懲罰として燃やされます。心、つまり良心自体が、罪を犯した瞬間に自分自身に刻み込んだ特定のしるしや形を神の力によって記憶に取り込むと、自分が犯したすべての汚らわしい、恥ずべき、不道徳な行為の、いわば歴史のようなものが目の前にさらけ出されるのを見ることになります。そのとき、良心自体が悩まされ、自らの突き刺し棒に突き刺されて、自分自身に対して告発者や証人になります。そして、これは、使徒パウロ自身が「私の福音によれば、神がイエス・キリストによって人々の秘密を裁く日に、彼らの思いは互いに彼らを告発したり弁護したりする」と言ったときの意見だったと思います<ref>ローマ 2:15, 16</ref>。 そこから、魂の本質の周りには、罪そのものの有害な感情によってある種の拷問が生み出されていることがわかります。
===5===
そして、この問題の理解がそれほど難しくないように、ある魂に降りかかる情熱の悪影響から、いくつかの考察を引き出すことができます。たとえば、魂が愛の炎に焼かれたり、熱意や嫉妬に消耗したり、怒りの情熱が燃え上がったり、狂気や悲しみの激しさに焼かれたりしたときなどです。このような場合、一部の人々は、これらの悪の度合いが耐え難いと感じ、そのような拷問を永遠に受けるよりも、死を受け入れる方が耐えられると考えました。上に挙げた悪徳から生じる悪に巻き込まれ、この世に生きている間に自分自身で何の改善も得られず、この状態でこの世を去った人々の場合、その致命的な毒がこの世ではいかなる治療薬によっても軽減されなかった怒り、憤怒、狂気、悲しみといった有害な感情が残っていることで苦しめられることが罰として十分なのか、あるいは、これらの感情が変化した後、彼らは一般的な罰の苦痛を受けるのか、とあなたは確かに尋ねるでしょう。さて、私は別の種類の罰が存在すると理解できると思います。なぜなら、身体の手足が緩み、互いの支えから引き離されると、最も耐え難い痛みが生じることを私たちは感じるからです。同様に、魂が、善良で有益な行動と観察を目的として神によって創造された秩序、つながり、調和を外れ、その理性的な動きのつながりにおいて自分自身と調和していないことが判明した場合、魂は自身の不和の懲罰と拷問に耐え、自身の無秩序な状態の罰を感じるものとみなされなければなりません。そして、この魂の分解と引き裂きが火の適用によってテストされると、間違いなくより堅固な構造への凝固が起こり、修復が行われます。
===6===
他にも、私たちの目に留まらず、私たちの魂の医者である神だけが知っていることが数多くあります。というのは、私たちが飲食によって自分にもたらす悪影響のために、不快で痛みを伴う薬を服用し、時には病気の性質によっては、切断ナイフという厳しい処置を必要とする場合さえあると私たちが考えるなら、そして病気の毒性がこれらの治療法さえも超える場合は、最後には火でその悪を焼き尽くさなければならないなら、私たちの医者である神が、さまざまな罪や犯罪によって私たちの魂に生じた欠陥を取り除きたいと願って、このような刑罰を執行し、さらに健全な精神を失った人々には火の刑罰さえ適用するということは、どれほど理解すべきことなのでしょう。この処置法の描写は、聖書にも見出されます。申命記では、神の言葉は罪人たちに、熱病、風邪、黄疸<ref>Aurigine [aurugine]. 申命記 28章.</ref>、視力低下、精神の異変、麻痺、盲目、手綱の弱さなどの罰を与えると脅しています。したがって、罪人たちへの脅しの中で身体の病気として呼ばれている病気の列挙を聖書全体から暇なときに集めてみれば、魂の悪徳か罰が比喩的にそれらによって示されていることがわかるでしょう。医者が病人に薬を塗って、注意深い治療によって健康を取り戻すのと同じように、神は堕落して罪に陥った人々にも同じように対処することを今や理解することは、神の怒りの杯が預言者エレミヤを通して<ref>エレミヤ 25:15, 16 参照。</ref>すべての国民に提供され、彼らがそれを飲んで狂気の状態になり、吐き出すように命じられたことによって証明されます。そうすることで、神は彼らにこう脅して言います、「飲むことを拒む者は清められないであろう」<ref>エレミヤ 25:28, 29 参照。</ref>。 これによって確かに、神の復讐の怒りは魂の浄化に有益であることが理解されます。火によって加えられると言われている罰もまた、癒しの目的で加えられると理解されていることは、イスラエルについてこう語るイザヤによって教えられています。「主はシオンの息子や娘の汚れを洗い流し、裁きの霊と焼き尽くす霊によって、彼らのうちから血を清められる。」<ref> イザヤ4章4節</ref> カルデア人についてはこう語っています。「あなたは火の炭を持っている。その上に座りなさい。それはあなたの助けとなる。」<ref>イザヤ 47:14, 15;注を参照、chap. v. § 3</ref> また他の箇所では、「主は燃える火で聖別される。」<ref>イザヤ 10:17、47:16 を参照。</ref>マラキの預言ではこう言っています。「主は座して吹いて清め、清められたユダの子らを注ぎ出すであろう。」<ref>マラキ 3:3 を参照。</ref>
===7===
しかし、福音書に記されている不忠実な管理人たちに降りかかる運命もまた、分割され、彼らの一部は不信者たちと一緒に置かれ、あたかも彼らのものではない一部がどこか他の場所に送られるかのように扱われるというものですが、これは間違いなく、私の考えでは、魂から分離されていると示されている精神を持つ人々に対する何らかの罰を意味しています。というのは、もしこの霊が神の性質を持つものであるならば、すなわち聖霊であると理解されるならば、私たちは聖霊の賜物について次のことが言われていると理解するであろう。すなわち、洗礼によってであれ、あるいは聖霊の恵みによってであれ、知恵の言葉、知識の言葉、あるいは他の賜物が人に授けられ、正しく管理されず、すなわち地中に埋められたりナプキンにくるまれたりした場合、聖霊の賜物は必ずその人の魂から取り去られ、残った他の部分、すなわち魂の本質は、主と結びつくことによって一つの霊となるべきであったあの霊から分離され、離れたものとなり、不信者たちとともにその場所を割り当てられるであろう。さて、これが神の霊についてではなく、魂そのものの性質について理解されるべきであるならば、それは神のイメージと似姿に造られた魂のより良い部分と呼ばれるであろう。一方、他の部分、すなわち、その後、自由意志の行使による堕落によって、その本来の純粋さという状態の性質に反するものとされた部分は、物質の友であり愛されている部分として、不信者の運命で罰せられる。この分離には、第三の意味も理解できる。すなわち、教会で最も謙虚な信者であっても、天使が付き添っていると言われており、天使は、常に父なる神の顔を見るように救世主によって宣言されており、この天使は確かに彼の保護の対象と一体であった。したがって、後者が従順さを欠いて価値がなくなった場合、神の天使は彼から取り去られると言われ、そのとき、彼の一部、すなわち、彼の人間性に属する部分は、神聖な部分から引き裂かれ、神によって割り当てられた天使の警告を忠実に守らなかったため、不信者と同じ場所に割り当てられる。
===8===
しかし、私の判断では、外側の暗闇は、光のない暗い雰囲気というよりも、深い無知の暗闇に陥り、理解の光が届かないところに置かれている人々のものとして理解されるべきです。また、この表現の意味がおそらくこれにならないように、聖徒たちが、この世の住居で神聖で純粋に暮らしたあの体を、復活後には明るく輝かしいものとして受け取るのと同じように、この世で誤りの暗闇と無知の夜を愛した邪悪な人々も、復活後に暗く黒い体をまとい、この世で彼らの心を支配していた無知の霧そのものが、将来、体の外側を覆うものとして現れるかもしれないことを理解する必要があります。刑務所についても同様の見解が抱かれるべきです。その間、私たちの講演の秩序を保つために、できるだけ簡潔に述べたこれらの発言は、今回の機会には十分でしょう。
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==脚注==
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諸原理について/第2巻/第11章
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村田ラジオ
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*ウィキソースによる日本語訳
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'''第2巻'''
————————————
==第11章==
::反対側の約束について<ref>Repromissionibus. 約束する。</ref>
===1===
では、約束に関してどのような見解を持つべきかを簡単に見てみましょう。まったく無活動で動かない生き物はいないことは確かで、あらゆる種類の運動、絶え間ない活動と意志を喜びとします。そして、この性質は、すべての生き物に備わっていることは明らかだと思います。それなら、理性的な動物、つまり人間の性質は、絶え間ない運動と活動になければなりません。実際、人間が自分自身のことを忘れ、自分にふさわしいことを知らない場合、彼のすべての努力は身体の用途に役立つように向けられ、すべての動きは自分の快楽と肉体的な欲望で占められます。しかし、彼が一般の利益に配慮したり備えたりすることを学んでいる人である場合、国家の利益について相談したり、行政官に従ったりして、それが何であれ、公共の利益を促進すると思われるもののために努力します。そして、もし誰かが、物質的に見えるものよりも優れたものがあることを理解し、知恵と学問に労力を注ぐような性質の人であれば、疑いなく、真理を探求することによって物事の原因と理由を突き止めることができるように、そのような追求に全注意を向けるでしょう。したがって、この人生において、ある人は肉体的な快楽を楽しむことを最高の善と見なし、別の人は社会の利益のために相談することを、また別の人は研究と学問に注意を向けることを最高の善と見なします。それと同じように、真の人生(キリストとともに神の中に隠されていると言われている、すなわち永遠の人生)において、私たちにはそのような存在の秩序と状態があるかどうかを調べてみましょう。
===2===
そこで、ある人々は、考える労力を拒み、律法の文面を表面的にしか見ず、むしろある程度は自分の欲望や情欲に身を任せ、文面のみの信奉者として、将来の約束の実現は肉体の快楽と贅沢の中に期待されるべきであると考えます。そのため、彼らは特に、復活後に、食べたり飲んだり、肉と血のすべての機能を果たすことができるような肉体構造<ref>Carnes. 肉。</ref>を再び持つことを望み、霊的な体の復活に関する使徒パウロの意見には従いません。したがって、彼らは復活後に結婚や子供をもうけると言い、地上のエルサレムの町が再建され、その基礎は宝石で据えられ、その壁は碧玉で造られ、その胸壁は水晶で造られると想像します。そこには、碧玉、サファイア、玉髄、エメラルド、赤縞めのう、縞めのう、貴かんらん石、緑玉髄、ヒスイ、紫水晶などの多くの宝石で作られた城壁があること、さらに、他の国の原住民が自分たちの楽しみのための使者として与えられ、畑を耕したり城壁を築いたりして雇われ、彼らによって破壊され倒れた町が再び興されると考えている。また、諸国の富を受けて生活し、その富を管理すると考えている。ミディアンやケダルのラクダでさえやって来て、金や香や宝石を持ってくるだろうと考えている。そして、これらの見解は、エルサレムについて書かれた預言者たちの約束によって確立されると考えている。また、主に仕える者は食べたり飲んだりするが、罪人は飢え渇く、義人は喜びに満たされるが、悪人は悲しみに陥る、と書かれている箇所も引用しています。また、新約聖書からは、救い主が弟子たちにワインの喜びについて約束した「今後、わたしはこの杯を飲むことはない。わたしの父の王国であなたがたと新しい杯を飲むときまで。」という聖句も引用しています<ref>マタイ 26:29</ref>。 さらに、救い主が今飢え渇いている人々を幸いな者と呼ぶ次の宣言も付け加えています<ref>マタイ 5:6</ref>。彼らは、満足すると約束し、他の多くの聖書の例え話も挙げているが、その意味は比喩的にとらえるべきであるとは考えていない。また、この世の物事の形にしたがって、またこの世の尊厳や階級の段階、あるいは権力の偉大さに応じて、彼らは、現在存在する地上の君主のように、自分たちが王や君主になるべきだと考えている。それは主に、福音書にある「あなたは五つの都市を支配する」という表現によると思われる<ref>ルカ 19:19, 17 を参照。</ref>。 そして簡単に言えば、この世の物事のやり方に従って、同様のすべての事柄において、彼らは約束に期待されているすべてのことが実現すること、すなわち、今あるものが再び存在することを願っている。キリストを信じながら、神聖な聖書を一種のユダヤ人の意味で理解し、神聖な約束に値するものを聖書から何も引き出さない人々の見解はこのようなものである。
===3===
しかし、使徒たちの理解に従って聖書の表現を受け入れる人たちは、聖徒たちが食べるのは確かに命のパンであり、それは真理と知恵の食物で魂を養い、心を啓発し、聖書の宣言に従って神の知恵の杯から飲むようにさせるだろうという希望を抱いています。「知恵はその食卓を整え、その獣を殺し、その杯に酒を混ぜ、大声で叫ぶ。私のところに来なさい。私があなたのために用意したパンを食べ、私が混ぜた酒を飲みなさい。」<ref>箴言 9:1-5 参照。</ref> この知恵の食物によって、理解力は、人間が最初に造られたときのような完全で完璧な状態に養われ、神のイメージと似姿に回復されます。したがって、たとえ完全な教育を受けずにこの世を去ったとしても、認められる働きをした人は<ref>Opera probabilia. おそらく働く。</ref>、聖徒の都エルサレムで教育を受けることができ、すなわち、教育を受け、形作られ、生きた石、選ばれた尊い石とされるであろう。なぜなら、人生の苦闘と敬虔さの試練を堅固かつ不屈に耐えたからである。そして、すでにここで預言されていること、すなわち、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」という、より真実でより明確な知識に到達するであろう<ref>申命記 8:3</ref>。 そして、彼らはまた、より低い身分の人々を統治し、彼らに教え、教え、神聖な事柄について訓練する君主や支配者であると理解されるべきである。
===4===
しかし、もしこれらの見解が、そのような結果を期待する人々の心にふさわしい願望を満たさないようであれば、少し戻って、物事自体に対する心の自然な生来の憧れとは関係なく、いわば命のパンの形態、あのワインの品質、君主国の独特の性質を、すべて物事の精神的な見解に従って記述できるように調査してみましょう<ref>この文章はややわかりにくいですが、本文の表現は意図した意味を伝えているようです。</ref>。 さて、通常手作業によって行われる芸術の場合と同様に、物事が行われる理由、またはそれが特別な品質であるか、または特別な目的のためである理由は、心の調査の対象です<ref>Versatur in sensu. それは意味に関係します。</ref>。 一方、実際の作業自体は、手によって目に見えるように展開されます。同様に、神によって創造された神の作品の場合、神によって行われるのを見るものの理由と理解は明らかにされていないことに注意する必要があります。そして、芸術家の労働の成果を目にしたとき、私たちの心は、何か並外れた芸術的卓越性を知覚するとすぐに、それがどのような性質のものか、どのように形成されたか、あるいはどのような目的で作られたかを知りたいという欲望に燃えるのと同じように、はるかに大きな程度で、そして比較の余地のない程度で、心は、私たちが神によってなされたのを見るものの理由を知りたいという言い表せない欲望に燃える。この欲望、この切望は、疑いなく神によって私たちの中に植え付けられたものであると私たちは信じている。そして、目が自然に光と視覚を求め、私たちの体が自然に食べ物と飲み物を欲するように、私たちの心は、神の真実と物事の原因を知りたいという、ふさわしい自然な欲望を持っている。さて、私たちはこの欲望を神から受けたのだが、決して満たされず、それができないようにするためではない。満足の喜びです。そうでなければ、真理への愛は、神が私たちの心に植え付けたものの、決して満足の機会がなければ、何の役にも立たないものと思われてしまうでしょう。また、この世においてさえ、敬虔さと宗教の追求に多大な労力を捧げる人々は、神の知識という無数の膨大な宝物からほんのわずかな断片しか得られないとしても、心と魂がこれらの追求に従事し、熱心に欲望するあまり自分自身を超えているという状況によって、多くの利益を得ています。そして、彼らの心は真理の研究と探求への愛に向けられているので、彼らは来たるべき教えを受け入れるのにふさわしい者とされています。まるで、絵を描くとき、まず薄い鉛筆でこれから描く絵の輪郭をなぞり、後で加える特徴を受け入れるための印を準備するのと同じように、この輪郭の下絵は、絵の本当の色を塗るための下準備であることがわかります。同じように、ある程度、私たちの心の板の上に、主イエス・キリストの鉛筆によって輪郭とスケッチが描かれるかもしれません。そして、おそらくそれゆえに、「持つ者にはさらに与えられ、さらに加えられる」と言われているのでしょう<ref>ルカ19:26; マタイ25:29を参照。</ref>。 これによって、この世で真理と知識の輪郭のようなものを持っている人には、将来、完全なイメージの美しさが加えられるということが確立されます。
===5===
ある種のそのような願望は、次のように言った人によって示されたと私は理解します。「私は、この世を去ってキリストと共にいることを望んでいます。その方がはるかに良いのです。」<ref>ピリピ 1:23</ref>彼は、キリストのもとに戻れば、地上で行われるすべてのことの理由が、人間に関しても、人間の魂や精神に関しても、あるいは他のどんな主題に関しても、より明確にわかるだろうと知っていました。たとえば、働く霊とは何か、生命の霊とは何か、信者に与えられる聖霊の恵みとは何かなどです。そのとき、彼はまた、イスラエルがどのような国であるか、あるいは国々の多様性が何を意味するか、イスラエルの12部族が何を意味するか、そして各部族の個々の人々が何を意味するかを理解するでしょう。それから、祭司とレビ人、モーセに典型がある祭司の階級の理由、またヨベルの年と神と共にある週年の真の意味が何であるかを理解するでしょう。また、祭りの日、聖なる日、すべての犠牲と浄化の理由も理解するでしょう。また、らい病からの浄化の理由、らい病の種類の違い、子孫を失った人々の浄化の理由も理解するでしょう。さらに、良い影響とは何かを知るようになるでしょう<ref> Virtutes. 美徳。</ref>。 そして、それらの偉大さ、それらの特質、そしてまた、正反対の種類の特質、そして前者の愛情と後者の争いを引き起こす競争心が人間に対してどのようなものであるかを知るでしょう。彼はまた、魂の性質、動物の多様性(水中に住む動物、鳥、または野生の獣のいずれであっても)、そして各属がなぜそれほど多くの種に細分化されているか、そして創造主の意図、または彼の知恵の目的が個々のものに隠されている理由を知るでしょう。彼はまた、特定の特性がある根やハーブに関連している理由、そして一方では、他のハーブや根によって悪影響が回避される理由を知るでしょう。さらに、彼は背教した天使の性質、彼らが信仰の力全体で彼らを軽蔑しない人々をいくつかのことでお世辞を言う力を持っている理由、そして彼らが人々を欺き、迷わせるために存在する理由を知るでしょう。彼はまた、個々の事物に対する神の摂理の判断を学び、人々に起こる出来事のうち、偶然や偶然で起こるものは一つもなく、非常に注意深く考え抜かれた、驚くべき計画に従って起こるのであり、その計画は、聖人だけでなく、おそらくすべての人間の髪の毛の数さえも見逃さない。そして、その摂理の統治は、スズメが比喩的に理解されるか文字通りに理解されるかにかかわらず、スズメ二羽を一デナリオンで売ることにまで及ぶ。確かに、この摂理の統治は、いまだ調査の対象であるが、その時は完全に明らかになるであろう。これらすべてから、その間、地上にあるものだけの原因が、人生を去った後にふさわしい、ふさわしい人々に指摘されるまで、少なからぬ時間が経過し、これらすべての事物に関する知識と完全な知識の恩恵によって、彼らは言い表せないほどの喜びを享受するであろうと、私たちは推測するべきである。それで、もし天と地の間にある大気に、住民がいないわけではないのなら、そして使徒が言うように、理性的な種類の住民がいないわけではないのなら、「あなた方はかつて、この世の流れに従い、空中の権威を持つ君主、すなわち、今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、その中で歩んでいた。」<ref>エペソ人への手紙 2章2節。本文には「彼らはそこに入る」などの言葉が明らかに省略されている。</ref> そしてまた彼は言う、「私たちは雲に包まれて引き上げられ、空中でキリストに会い、こうして私たちはいつまでも主とともにいるであろう。」<ref> 1テサロニケ4章17節</ref>
===6===
したがって、聖徒たちは空中で行われる物事における二重の統治様式を認識するまで、そこに留まると想定すべきです。そして私が「二重の様式」と言うとき、私は次のことを意味します。私たちが地上にいたとき、動物や木々を見て、それらの違い、また人間の非常に大きな多様性を見ました。しかし、私たちはこれらのものを見たにもかかわらず、その理由を理解しませんでした。そして、目に見える多様性から、これらのものがどのような原理で創造されたか、または多様に配列されたかを調べ、調査する必要があるということだけが示唆されました。そして、この種の知識に対する熱意や欲求が地上で私たちに思い浮かぶと、その結果が私たちの期待どおりに続くならば、死後にそれに対する完全な理解と理解が与えられます。したがって、その性質を完全に理解すると、私たちは地上で見たものを二重の方法で理解するでしょう。それで、空中のこの住まいに関して、私たちはそのような見解を持つ必要があります。したがって、この世を去るすべての聖徒は、聖書が楽園と呼んでいる地上のどこかの場所に留まると私は考える。それは、彼らが地上で見たすべてのものについて教えを受ける場所、いわば魂の教室または学校のような場所であり、また、彼らがこの世で将来の出来事の兆候をある程度得ていたのと同じように、将来起こることに関する情報も受け取る。たとえ「暗い鏡を通して」ではあっても、そのすべては、適切な時期と場所で聖徒たちにもっとはっきりとはっきりと明らかにされる。もし誰かが本当に心が清く、精神が聖く、知覚がもっと訓練されているなら、その人はより急速に進歩して、空中の場所へと急速に昇り、ギリシャ人が球体、つまり球体と呼んだが聖書が天国と呼んでいるさまざまな場所にある、いわばあの邸宅を通って天国に到達するだろう。その一つ一つにおいて、人はまずそこで何が行われているのかをはっきりと見て、次に物事がなぜそのように行われているのかの理由を発見するでしょう。そしてこうして、天に昇った神の子イエスに従って、すべての段階を通過するのです。イエスは「わたしのおるところに、これらのものもあることを、わたしは望む」と言われました<ref> ヨハネ17章24節</ref>。 そして、この場所の多様性について、イエスは「わたしの父の家には、すまいがたくさんある」とおっしゃっています。イエスはどこにでもおられ、すべてのものを素早く通り抜けます。また、私たちはもはや、イエスがかつて私たちのために閉じ込められていた狭い範囲内、つまり、地上で人々の間に住んでいたときに占有していた限定された体の中にいるのではなく、ある場所に閉じ込められていると理解すべきではありません。
===7===
それで、聖徒たちが天の住まいにたどり着くと、彼らは星々の本質を一つ一つはっきりと見て、それらが生命を授けられているのか、あるいはその状態が何であれ、それを理解するであろう。そしてまた、神自身が彼らに明らかにするであろう、神の働きの他の理由も理解するであろう。なぜなら、神は彼らに、物事の原因と創造の力を子供のように示し<ref> Virtutem suæ conditionis. 彼の状態の美点。 Seine Schöpferkraft (彼の創造力), (Schnitzer).</ref>、その星がなぜ空のその特定の四分の一に配置され、なぜそれが他の星からそれほど大きな間隔で隔てられているのかを説明するであろう。たとえば、もしそれがもっと近くまたはもっと遠くにあったら、結果はどうなっていたか、あるいはその星がこれよりも大きかったら、物事の全体は同じままではなく、すべてが異なる存在状態に変化したであろうか。そして、星や天体の回転に関するすべての事柄を終えると、彼らは目に見えないもの、名前だけ聞いたことのあるもの、目に見えないもの、使徒パウロが私たちに教えてくれた数多くのもの、それらが何であるか、あるいはそれらの間にどのような違いが存在するのか、私たちの弱い知性では推測することさえできないものについて考えます。そしてこのように、理性的な性質は、個々のステップごとに成長しますが、この人生で肉、体、魂が成長したように成長するのではなく、理解力と知覚力が拡大され、すでに完全な知識に至るまでに完全な精神として育てられ、もはやそれらの肉の感覚によってまったく妨げられることなく、知的成長が増します。そして、常に純粋に、いわば物事の原因と向き合って見つめることで、第一に、それが(真理)に上昇するもの<ref>In id:物事の原因だけを純粋に見つめる魂の状態。</ref>、第二に、それがその中に留まるもの、問題と物事の理解、出来事の原因を、それが食べるための食物として持つことによって、完成に達する。なぜなら、この人生において、私たちの体は、若い頃に十分な食物を摂取することで成長の手段を供給され、現在の姿に成長するが、しかるべき高さに達した後は、もはや成長するために食物を使用するのではなく、生きるために、そしてそれによって生命を維持するために食物を使用するのと同じように、精神も、完成に達すると、適切で適切な食物を、何一つ不足したり余分になったりしない程度に摂取し利用すると私は考える。そして、すべてのものにおいて、この食物は、作られ創造されたこの性質に適切で適した程度の、神の観想と理解として理解されるべきである。そして、この基準は、神を見始めている人々、すなわち心の純粋さを通して神を理解し始めている人々全員が遵守すべきものである。
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==脚注==
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'''第2巻'''
————————————
==第11章==
::反対側の約束について<ref>Repromissionibus. 約束する。</ref>
===1===
では、約束に関してどのような見解を持つべきかを簡単に見てみましょう。まったく無活動で動かない生き物はいないことは確かで、あらゆる種類の運動、絶え間ない活動と意志を喜びとします。そして、この性質は、すべての生き物に備わっていることは明らかだと思います。それなら、理性的な動物、つまり人間の性質は、絶え間ない運動と活動になければなりません。実際、人間が自分自身のことを忘れ、自分にふさわしいことを知らない場合、彼のすべての努力は身体の用途に役立つように向けられ、すべての動きは自分の快楽と肉体的な欲望で占められます。しかし、彼が一般の利益に配慮したり備えたりすることを学んでいる人である場合、国家の利益について相談したり、行政官に従ったりして、それが何であれ、公共の利益を促進すると思われるもののために努力します。そして、もし誰かが、物質的に見えるものよりも優れたものがあることを理解し、知恵と学問に労力を注ぐような性質の人であれば、疑いなく、真理を探求することによって物事の原因と理由を突き止めることができるように、そのような追求に全注意を向けるでしょう。したがって、この人生において、ある人は肉体的な快楽を楽しむことを最高の善と見なし、別の人は社会の利益のために相談することを、また別の人は研究と学問に注意を向けることを最高の善と見なします。それと同じように、真の人生(キリストとともに神の中に隠されていると言われている、すなわち永遠の人生)において、私たちにはそのような存在の秩序と状態があるかどうかを調べてみましょう。
===2===
そこで、ある人々は、考える労力を拒み、律法の文面を表面的にしか見ず、むしろある程度は自分の欲望や情欲に身を任せ、文面のみの信奉者として、将来の約束の実現は肉体の快楽と贅沢の中に期待されるべきであると考えます。そのため、彼らは特に、復活後に、食べたり飲んだり、肉と血のすべての機能を果たすことができるような肉体構造<ref>Carnes. 肉。</ref>を再び持つことを望み、霊的な体の復活に関する使徒パウロの意見には従いません。したがって、彼らは復活後に結婚や子供をもうけると言い、地上のエルサレムの町が再建され、その基礎は宝石で据えられ、その壁は碧玉で造られ、その胸壁は水晶で造られると想像します。そこには、碧玉、サファイア、玉髄、エメラルド、赤縞めのう、縞めのう、貴かんらん石、緑玉髄、ヒスイ、紫水晶などの多くの宝石で作られた城壁があること、さらに、他の国の原住民が自分たちの楽しみのための使者として与えられ、畑を耕したり城壁を築いたりして雇われ、彼らによって破壊され倒れた町が再び興されると考えている。また、諸国の富を受けて生活し、その富を管理すると考えている。ミディアンやケダルのラクダでさえやって来て、金や香や宝石を持ってくるだろうと考えている。そして、これらの見解は、エルサレムについて書かれた預言者たちの約束によって確立されると考えている。また、主に仕える者は食べたり飲んだりするが、罪人は飢え渇く、義人は喜びに満たされるが、悪人は悲しみに陥る、と書かれている箇所も引用しています。また、新約聖書からは、救い主が弟子たちにワインの喜びについて約束した「今後、わたしはこの杯を飲むことはない。わたしの父の王国であなたがたと新しい杯を飲むときまで。」という聖句も引用しています<ref>マタイ 26:29</ref>。 さらに、救い主が今飢え渇いている人々を幸いな者と呼ぶ次の宣言も付け加えています<ref>マタイ 5:6</ref>。彼らは、満足すると約束し、他の多くの聖書の例え話も挙げているが、その意味は比喩的にとらえるべきであるとは考えていない。また、この世の物事の形にしたがって、またこの世の尊厳や階級の段階、あるいは権力の偉大さに応じて、彼らは、現在存在する地上の君主のように、自分たちが王や君主になるべきだと考えている。それは主に、福音書にある「あなたは五つの都市を支配する」という表現によると思われる<ref>ルカ 19:19, 17 を参照。</ref>。 そして簡単に言えば、この世の物事のやり方に従って、同様のすべての事柄において、彼らは約束に期待されているすべてのことが実現すること、すなわち、今あるものが再び存在することを願っている。キリストを信じながら、神聖な聖書を一種のユダヤ人の意味で理解し、神聖な約束に値するものを聖書から何も引き出さない人々の見解はこのようなものである。
===3===
しかし、使徒たちの理解に従って聖書の表現を受け入れる人たちは、聖徒たちが食べるのは確かに命のパンであり、それは真理と知恵の食物で魂を養い、心を啓発し、聖書の宣言に従って神の知恵の杯から飲むようにさせるだろうという希望を抱いています。「知恵はその食卓を整え、その獣を殺し、その杯に酒を混ぜ、大声で叫ぶ。私のところに来なさい。私があなたのために用意したパンを食べ、私が混ぜた酒を飲みなさい。」<ref>箴言 9:1-5 参照。</ref> この知恵の食物によって、理解力は、人間が最初に造られたときのような完全で完璧な状態に養われ、神のイメージと似姿に回復されます。したがって、たとえ完全な教育を受けずにこの世を去ったとしても、認められる働きをした人は<ref>Opera probabilia. おそらく働く。</ref>、聖徒の都エルサレムで教育を受けることができ、すなわち、教育を受け、形作られ、生きた石、選ばれた尊い石とされるであろう。なぜなら、人生の苦闘と敬虔さの試練を堅固かつ不屈に耐えたからである。そして、すでにここで預言されていること、すなわち、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」という、より真実でより明確な知識に到達するであろう<ref>申命記 8:3</ref>。 そして、彼らはまた、より低い身分の人々を統治し、彼らに教え、教え、神聖な事柄について訓練する君主や支配者であると理解されるべきである。
===4===
しかし、もしこれらの見解が、そのような結果を期待する人々の心にふさわしい願望を満たさないようであれば、少し戻って、物事自体に対する心の自然な生来の憧れとは関係なく、いわば命のパンの形態、あのワインの品質、君主国の独特の性質を、すべて物事の精神的な見解に従って記述できるように調査してみましょう<ref>この文章はややわかりにくいですが、本文の表現は意図した意味を伝えているようです。</ref>。 さて、通常手作業によって行われる芸術の場合と同様に、物事が行われる理由、またはそれが特別な品質であるか、または特別な目的のためである理由は、心の調査の対象です<ref>Versatur in sensu. それは意味に関係します。</ref>。 一方、実際の作業自体は、手によって目に見えるように展開されます。同様に、神によって創造された神の作品の場合、神によって行われるのを見るものの理由と理解は明らかにされていないことに注意する必要があります。そして、芸術家の労働の成果を目にしたとき、私たちの心は、何か並外れた芸術的卓越性を知覚するとすぐに、それがどのような性質のものか、どのように形成されたか、あるいはどのような目的で作られたかを知りたいという欲望に燃えるのと同じように、はるかに大きな程度で、そして比較の余地のない程度で、心は、私たちが神によってなされたのを見るものの理由を知りたいという言い表せない欲望に燃える。この欲望、この切望は、疑いなく神によって私たちの中に植え付けられたものであると私たちは信じている。そして、目が自然に光と視覚を求め、私たちの体が自然に食べ物と飲み物を欲するように、私たちの心は、神の真実と物事の原因を知りたいという、ふさわしい自然な欲望を持っている。さて、私たちはこの欲望を神から受けたのだが、決して満たされず、それができないようにするためではない。満足の喜びです。そうでなければ、真理への愛は、神が私たちの心に植え付けたものの、決して満足の機会がなければ、何の役にも立たないものと思われてしまうでしょう。また、この世においてさえ、敬虔さと宗教の追求に多大な労力を捧げる人々は、神の知識という無数の膨大な宝物からほんのわずかな断片しか得られないとしても、心と魂がこれらの追求に従事し、熱心に欲望するあまり自分自身を超えているという状況によって、多くの利益を得ています。そして、彼らの心は真理の研究と探求への愛に向けられているので、彼らは来たるべき教えを受け入れるのにふさわしい者とされています。まるで、絵を描くとき、まず薄い鉛筆でこれから描く絵の輪郭をなぞり、後で加える特徴を受け入れるための印を準備するのと同じように、この輪郭の下絵は、絵の本当の色を塗るための下準備であることがわかります。同じように、ある程度、私たちの心の板の上に、主イエス・キリストの鉛筆によって輪郭とスケッチが描かれるかもしれません。そして、おそらくそれゆえに、「持つ者にはさらに与えられ、さらに加えられる」と言われているのでしょう<ref>ルカ19:26; マタイ25:29を参照。</ref>。 これによって、この世で真理と知識の輪郭のようなものを持っている人には、将来、完全なイメージの美しさが加えられるということが確立されます。
===5===
ある種のそのような願望は、次のように言った人によって示されたと私は理解します。「私は、この世を去ってキリストと共にいることを望んでいます。その方がはるかに良いのです。」<ref>ピリピ 1:23</ref>彼は、キリストのもとに戻れば、地上で行われるすべてのことの理由が、人間に関しても、人間の魂や精神に関しても、あるいは他のどんな主題に関しても、より明確にわかるだろうと知っていました。たとえば、働く霊とは何か、生命の霊とは何か、信者に与えられる聖霊の恵みとは何かなどです。そのとき、彼はまた、イスラエルがどのような国であるか、あるいは国々の多様性が何を意味するか、イスラエルの12部族が何を意味するか、そして各部族の個々の人々が何を意味するかを理解するでしょう。それから、祭司とレビ人、モーセに典型がある祭司の階級の理由、またヨベルの年と神と共にある週年の真の意味が何であるかを理解するでしょう。また、祭りの日、聖なる日、すべての犠牲と浄化の理由も理解するでしょう。また、らい病からの浄化の理由、らい病の種類の違い、子孫を失った人々の浄化の理由も理解するでしょう。さらに、良い影響とは何かを知るようになるでしょう<ref> Virtutes. 美徳。</ref>。 そして、それらの偉大さ、それらの特質、そしてまた、正反対の種類の特質、そして前者の愛情と後者の争いを引き起こす競争心が人間に対してどのようなものであるかを知るでしょう。彼はまた、魂の性質、動物の多様性(水中に住む動物、鳥、または野生の獣のいずれであっても)、そして各属がなぜそれほど多くの種に細分化されているか、そして創造主の意図、または彼の知恵の目的が個々のものに隠されている理由を知るでしょう。彼はまた、特定の特性がある根やハーブに関連している理由、そして一方では、他のハーブや根によって悪影響が回避される理由を知るでしょう。さらに、彼は背教した天使の性質、彼らが信仰の力全体で彼らを軽蔑しない人々をいくつかのことでお世辞を言う力を持っている理由、そして彼らが人々を欺き、迷わせるために存在する理由を知るでしょう。彼はまた、個々の事物に対する神の摂理の判断を学び、人々に起こる出来事のうち、偶然や偶然で起こるものは一つもなく、非常に注意深く考え抜かれた、驚くべき計画に従って起こるのであり、その計画は、聖人だけでなく、おそらくすべての人間の髪の毛の数さえも見逃さない。そして、その摂理の統治は、スズメが比喩的に理解されるか文字通りに理解されるかにかかわらず、スズメ二羽を一デナリオンで売ることにまで及ぶ。確かに、この摂理の統治は、いまだ調査の対象であるが、その時は完全に明らかになるであろう。これらすべてから、その間、地上にあるものだけの原因が、人生を去った後にふさわしい、ふさわしい人々に指摘されるまで、少なからぬ時間が経過し、これらすべての事物に関する知識と完全な知識の恩恵によって、彼らは言い表せないほどの喜びを享受するであろうと、私たちは推測するべきである。それで、もし天と地の間にある大気に、住民がいないわけではないのなら、そして使徒が言うように、理性的な種類の住民がいないわけではないのなら、「あなた方はかつて、この世の流れに従い、空中の権威を持つ君主、すなわち、今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、その中で歩んでいた。」<ref>エペソ人への手紙 2章2節。本文には「彼らはそこに入る」などの言葉が明らかに省略されている。</ref> そしてまた彼は言う、「私たちは雲に包まれて引き上げられ、空中でキリストに会い、こうして私たちはいつまでも主とともにいるであろう。」<ref> 1テサロニケ4章17節</ref>
===6===
したがって、聖徒たちは空中で行われる物事における二重の統治様式を認識するまで、そこに留まると想定すべきです。そして私が「二重の様式」と言うとき、私は次のことを意味します。私たちが地上にいたとき、動物や木々を見て、それらの違い、また人間の非常に大きな多様性を見ました。しかし、私たちはこれらのものを見たにもかかわらず、その理由を理解しませんでした。そして、目に見える多様性から、これらのものがどのような原理で創造されたか、または多様に配列されたかを調べ、調査する必要があるということだけが示唆されました。そして、この種の知識に対する熱意や欲求が地上で私たちに思い浮かぶと、その結果が私たちの期待どおりに続くならば、死後にそれに対する完全な理解と理解が与えられます。したがって、その性質を完全に理解すると、私たちは地上で見たものを二重の方法で理解するでしょう。それで、空中のこの住まいに関して、私たちはそのような見解を持つ必要があります。したがって、この世を去るすべての聖徒は、聖書が楽園と呼んでいる地上のどこかの場所に留まると私は考える。それは、彼らが地上で見たすべてのものについて教えを受ける場所、いわば魂の教室または学校のような場所であり、また、彼らがこの世で将来の出来事の兆候をある程度得ていたのと同じように、将来起こることに関する情報も受け取る。たとえ「暗い鏡を通して」ではあっても、そのすべては、適切な時期と場所で聖徒たちにもっとはっきりとはっきりと明らかにされる。もし誰かが本当に心が清く、精神が聖く、知覚がもっと訓練されているなら、その人はより急速に進歩して、空中の場所へと急速に昇り、ギリシャ人が球体、つまり球体と呼んだが聖書が天国と呼んでいるさまざまな場所にある、いわばあの邸宅を通って天国に到達するだろう。その一つ一つにおいて、人はまずそこで何が行われているのかをはっきりと見て、次に物事がなぜそのように行われているのかの理由を発見するでしょう。そしてこうして、天に昇った神の子イエスに従って、すべての段階を通過するのです。イエスは「わたしのおるところに、これらのものもあることを、わたしは望む」と言われました<ref> ヨハネ17章24節</ref>。 そして、この場所の多様性について、イエスは「わたしの父の家には、すまいがたくさんある」とおっしゃっています。イエスはどこにでもおられ、すべてのものを素早く通り抜けます。また、私たちはもはや、イエスがかつて私たちのために閉じ込められていた狭い範囲内、つまり、地上で人々の間に住んでいたときに占有していた限定された体の中にいるのではなく、ある場所に閉じ込められていると理解すべきではありません。
===7===
それで、聖徒たちが天の住まいにたどり着くと、彼らは星々の本質を一つ一つはっきりと見て、それらが生命を授けられているのか、あるいはその状態が何であれ、それを理解するであろう。そしてまた、神自身が彼らに明らかにするであろう、神の働きの他の理由も理解するであろう。なぜなら、神は彼らに、物事の原因と創造の力を子供のように示し<ref> Virtutem suæ conditionis. 彼の状態の美点。 Seine Schöpferkraft (彼の創造力), (Schnitzer).</ref>、その星がなぜ空のその特定の四分の一に配置され、なぜそれが他の星からそれほど大きな間隔で隔てられているのかを説明するであろう。たとえば、もしそれがもっと近くまたはもっと遠くにあったら、結果はどうなっていたか、あるいはその星がこれよりも大きかったら、物事の全体は同じままではなく、すべてが異なる存在状態に変化したであろうか。そして、星や天体の回転に関するすべての事柄を終えると、彼らは目に見えないもの、名前だけ聞いたことのあるもの、目に見えないもの、使徒パウロが私たちに教えてくれた数多くのもの、それらが何であるか、あるいはそれらの間にどのような違いが存在するのか、私たちの弱い知性では推測することさえできないものについて考えます。そしてこのように、理性的な性質は、個々のステップごとに成長しますが、この人生で肉、体、魂が成長したように成長するのではなく、理解力と知覚力が拡大され、すでに完全な知識に至るまでに完全な精神として育てられ、もはやそれらの肉の感覚によってまったく妨げられることなく、知的成長が増します。そして、常に純粋に、いわば物事の原因と向き合って見つめることで、第一に、それが(真理)に上昇するもの<ref>In id:物事の原因だけを純粋に見つめる魂の状態。</ref>、第二に、それがその中に留まるもの、問題と物事の理解、出来事の原因を、それが食べるための食物として持つことによって、完成に達する。なぜなら、この人生において、私たちの体は、若い頃に十分な食物を摂取することで成長の手段を供給され、現在の姿に成長するが、しかるべき高さに達した後は、もはや成長するために食物を使用するのではなく、生きるために、そしてそれによって生命を維持するために食物を使用するのと同じように、精神も、完成に達すると、適切で適切な食物を、何一つ不足したり余分になったりしない程度に摂取し利用すると私は考える。そして、すべてのものにおいて、この食物は、作られ創造されたこの性質に適切で適した程度の、神の観想と理解として理解されるべきである。そして、この基準は、神を見始めている人々、すなわち心の純粋さを通して神を理解し始めている人々全員が遵守すべきものである。
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==脚注==
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Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/II/Chapter 11" を翻訳
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聖バルラームと聖ヨサファトの生涯2
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村田ラジオ
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ラテン語版 Wikisource, [[s:la:Vita SS. Barlaam et Josaphat]] 、J. P. Migne 1846 early modern edition の11章から14章までを翻訳
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*ウィキソースによる日本語訳
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==聖バルラームと聖ヨサファトの生涯==
===第11章===
――ヨサファトは彼に言った。「あなたのこれらの言葉は素晴らしく、称賛に値します。私はそれを信じてきましたし、今も信じています。そして、私は心から偶像崇拝を憎み、忌み嫌っています。」(0482B)あなたが私のところに来る前から、私は偶像崇拝に対して何らかの疑念を抱いていました。しかし今、あなたから偶像崇拝の虚しさと、偶像崇拝をする人々の愚かさを学んだ後、私はそれらを完全に憎み、真の神に仕えることを誓います。ただし、もし神ご自身が、価値のない人であるにもかかわらず、私の罪悪のために私を排除されることなく、あなたの教えに従って、その慈しみのすべてを赦し、私をその僕として受け入れてくださるならばです。ですから、私は今、洗礼を受け、あなたが定められたすべてのことを守る用意ができています。しかし、洗礼を受けた後、私は何をすべきでしょうか。信じて洗礼を受けるだけで救われるのでしょうか。それとも、何か他のことを付け加える必要があるのでしょうか。するとバルラームは彼に言った。「洗礼を受けた後、あなたがしなければならないことを聞きなさい。(0482C) すなわち、あらゆる罪とあらゆる悪しき情欲を避け、正統な信仰の土台の上に徳の探究を築くことです。行いを伴わない信仰は死んだものです。(ヤコブの手紙 1章) 信仰を伴わない行いも死んだものです。使徒パウロはこう言っています。(ガラテヤ人への手紙 5章) 御霊によって歩みなさい。肉の欲望を満たしてはいけません。」肉の行いは明らかです。それは、姦淫、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、口論、分裂、分派、そねみ、殺人、貪欲、中傷、快楽を好むこと、泥酔、浮かれ騒ぎ、および、その種のものです。このようなことを行う人たちは神の国を受け継ぐことはありません。私は以前から警告しておいたとおり、これらのことをあなたたちにも予告します。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、(0482D)魂と体の聖化、心の苦悩と痛悔、施し、傷ついたことの忘却、人間性、用心深さ、過去のすべての罪に対する真摯な悔い改め、良心の呵責の涙、自分の罪と他人の罪に対する嘆き、そしてその他これらに類するものである。これらは、階段や梯子のように、互いに繋がり合い、互いに支え合いながら、魂を天へと導く。見よ、これらは、洗礼を受けた後、私たちが受け入れるように命じられているものであり、これらと相反する他のものを避けるように命じられているのです。」
「しかし、もし私たちが真理の知識を受けた後、以前の死んだ行いを再び取り上げ、犬のように吐いた物に戻るならば(ペテロの手紙二 2章)、主は次のように言われています(0483A)(ルカによる福音書 11章)。汚れた霊が人から出て行くと(つまり、洗礼の恵みによって)、その人は休み場を求めて乾いた場所を歩き回るが、見つけることができない。しかし、長い間屋根も暖炉もない状態にいたことを非常に悔いて、『来た自分の家に帰ろう』と言う。そして帰って見ると、家は掃除され飾り付けられているが、空っぽで荒れ果てており、まるで礼拝と恵みの働きを受けておらず、徳の富で自らを積み上げていないかのようである。そして彼は出て行き、自分よりも邪悪な他の七つの霊を連れ、そこに入り込み、そこに住む。そして、その人の最後の状態は最初の状態よりもさらに悪い。実際、洗礼は、過去のすべての罪の記録を水で覆い尽くし、それらを完全に消し去り、消滅させます。(0483B)そして、将来、私たちにとって最も堅固な壁と塔となり、敵と戦うための武器となるかもしれません。しかし、それは選択の自由を奪うものではなく、洗礼後に犯した罪を赦すこともなく、また、再び池に浸されることもありません。私たちは唯一の洗礼を告白します。ですから、新たな汚れに陥らないように、主の戒めを守るように、細心の注意を払わなければなりません。イエスご自身が使徒たちに、『行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊の名によって彼らに洗礼を授けなさい』と言われたとき、そこで止まらず、『私があなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えなさい』(マルコ16章)と付け加えられました。」
「さらに、イエスは私たちに心の貧しい者となるよう命じられました(マタイ5章)。(なぜなら、そのような者は祝福され、天の御国にふさわしい者と宣言されているからです。)そして、この世において嘆き悲しむよう勧めています(0483C)。それは、すなわち、将来、慰めを受けるためです。まず、柔和になり、正義への飢え渇きに満たされるように。次に、慈悲深く寛大になり、同情心に傾倒するように。また、清い心を授かり、肉と霊のあらゆる汚れを避けるように。また、他者に対しても、また自分自身の魂に対しても平和でありなさい。すなわち、より悪いものをより優れたものに従わせ、正しい判断によって内なる絶え間ない争いを鎮めるように。最後に、正義のため、そして御名のために私たちに臨むあらゆる迫害、苦難、非難に耐え忍ぶように。そうすることで、私たちは、その栄光ある賜物の分配において永遠の喜びを得ることができるのです。いや、彼は、まだこの世にいたときから、民にこのように勧めました。『あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。そうすれば、人々はあなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるでしょう』(マタイ5章)。」
「昔のイスラエル人に与えられたモーセの律法はこう言っています。『殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽証してはならない』。しかしキリストはこう言っています。『兄弟に対して理由もなく怒る者はみな、裁きを受けなければならない。しかし、愚か者と言う者は地獄の火に投げ込まれる。』またこうも言っています。『もしあなたが祭壇に供え物をささげ、そこで兄弟があなたに対して何か恨みを抱いていることを思い出したなら、あなたの供え物を祭壇の前に残しておき、まず兄弟と和解しなさい。情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫を犯したのである(すなわち、魂の汚れと情欲の同意を姦淫と呼ぶ)。』(0484A)これらに加えて、律法が偽証を禁じているように、キリストは誓いを絶対に禁じ、『そうだ、そうだ』『いや、いや』以外のことは許さないのです。目には目、歯には歯。しかし、こちらではこうです。あなたの右の頬を打つ者には、左の頬をも向けなさい。もし、あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着も与えなさい。もし、あなたを一マイル行かせようとする者には、二マイル一緒に行きなさい。求める者には与えなさい。借りようとする者を拒んではいけません。」
「『隣人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、あなたがたを憎む者に善をなし、迫害し虐待する者のために祈りなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父の子どもとなることができる。父は、良い人にも悪い人にも、太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さる。(ルカによる福音書 6章)人を裁くな。あなたがたも裁かれないために。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されるであろう。自分のために、地上に宝を積んではならない。そこでは、さびも虫も食い尽くし、盗人らが押し入って盗み出す。むしろ、自分のために天に宝を積みなさい。そこでは、さびも虫も食い尽くさず、盗人らが押し入って盗み出すこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。自分の命のことで何を食べようか、自分の体のことで何を着ようかと思い煩うな。あなたがたの天の父は、あなたがたがこれらのものをみな必要としていることをご存じである。だから、命と体を与えた方は、食物と着るものをも必ず与えてくださいます。空の鳥を養い、野のユリを美しく飾ってくださる方に、まず神の国と神の義を求めなさい。(0484C)そうすれば、これらのものはみな加えて与えられます。明日のことについて思い煩うな。明日のことは明日で思い煩うのだ。(マタイ6章)」
「人々にしてもらいたいと思うことは何でも、同じように人々にもしなさい(ルカ18章)。狭い門から入りなさい。死に通じる門は大きく、その道も広い。そこから入って行く者が多い。命に通じる門は狭く、その道は細い。それを見出す者は少ない(マタイ7章、ルカ13章)。
わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が、みな天の御国に入るのではなく、天にいますわたしの父の御心を行う者だけが入るのである(マタイ7章)。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくありません。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくありません(0484D)。自分の十字架を負って[267]わたしに従って来ない者は、わたしにふさわしくありません(マタイ10章)。これらすべてのこと、そして同様のことを、救い主は使徒たちに命じ、信仰に恵まれた者たちに教えさせました。そして、もし私たちが完全を達成し、朽ちることのない義の冠を得たいと心から願うなら、これらすべてのことを私たちは守らなければなりません。義なる裁き主である主は、その日に、主の来臨を待ち望んでいたすべての人々に、その冠を与えてくださるのです(テモテへの手紙二 4章)。」
そこでヨサファトは彼に言った。「ですから、このような完全な教えは最も清い生活を求めるのですから、もし私が一つか二つの戒めから逸脱したら、全体の目的から逸脱し、私の希望はすべて無駄になってしまうのでしょうか?」
バルラームは答えた。「そう考える必要はありません。(0485A)私たちの救いのために人間性を帯びた言葉なる神は、私たちの本性の計り知れない弱さと悲惨さを探り、この部分において不治の病に苦しむことさえ許さなかったからです。むしろ、最も賢明な医師として、神は私たちの不安定で罪深い意志に悔い改めの薬を混ぜ、罪の赦しのためにそれを説いてくださいました。というのは、私たちは、真理の知識を受け、水と聖霊によって聖化され、いかなる労苦もなしにすべての罪と汚れからきよめられた後、もし罪に陥ることがあれば、もはや、聖霊によって池の水で与えられ、私たちを完全に回復させるバプテスマ(ヘブル書6章)による第二の再生はないからです(この恩恵は一度しか与えられないからです)。むしろ、私たちの神の憐れみの懐のゆえに、厳しい苦行と熱い涙と労苦と汗によって、私たちはきよめと罪の赦しを得るのです。主の恵みにより、バプテスマは涙の泉と呼ばれていますが、そうでなければ、それは労苦と時間を必要とするのです。そして、それは多くの罪から多くの人々を救い出しました。なぜなら、もし私たちがまず悔い改め、涙をもって罪の汚れを洗い流すならば、神の慈しみに打ち勝つ罪は一つもないからです。さもなければ、死が私たちの前に現れ、私たちを犯罪の汚れに汚されたままそこから投げ出すことになるでしょう。地獄には悔い改めも告白もありません(詩篇 6篇)。しかし、私たちが人生の利息を享受している限り、正統的な信仰の基盤がしっかりと保たれている限り、たとえ罪によって腐敗した梁やまっすぐなものが弱くなっていても、悔い改めの助けによってそれを修復し、新たにすることは許されています。神の慈しみは数え切れないほど多く、その慈しみの偉大さは測り知れません(詩篇 144篇)。一方、罪は、それが何であれ、測り知れず、数えられるものです。だからこそ、彼らは、量と数に陥ると、神の計り知れない慈悲と無数の慈悲に打ち勝つことができないのです。」
「ですから、私たちは罪の多さに落胆するのではなく、神の慈しみを認め、私たちの罪を断罪するように命じられているのです。私たちの罪の赦しは、私たちの罪のために血を流してくださったキリストの慈しみによって与えられているのです。さらに、聖書の多くの箇所、特に主イエス・キリストの行いとたとえ話から、悔い改めの力を学ぶことができます。彼はこう述べています。「その時から、イエスは教え始め、『悔い改めなさい。天の国は近づいた』と言われたのです」(マタイ3章)。さらに、彼はたとえ話の中で、ある息子について語っています(ルカ15章)。彼は父の財産を受け取って遠い国へ旅立ち、あらゆる贅沢と放蕩にそれを費やし、その後、その国で飢えに苦しみ、その国の住民の一人のところへ行き、身を寄せました。その人は彼を畑に送り、豚の世話をさせました。これは最も重く、忌み嫌われる罪です。こうして、多くの災難に見舞われ、豚の抜け殻で腹を満たすことさえ許されないほどの悲惨な境遇に陥った彼は、ついにこの重大な不名誉を認め、自分の命を嘆き、こう言った。「父の家には、パンに飽き足らない雇い人が何人もいるのに、私は飢えで死にそうです。起きて父のところへ行き、こう言おう。『お父様、私は天に対して罪を犯しました。あなたの目の前で、もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。私を雇い人の一人にしてください。』 そこで彼は起きて父のところへ行った。しかし、彼がまだ遠く離れていたのに、父は彼を見て哀れに思い、走り寄って彼の首を抱き、接吻し、彼を元の栄誉ある地位に戻し、肥えた子牛を屠って、彼が見つけたことに対する大変喜ばしい祝宴を催した。見よ、主は罪から立ち返り、悔い改めへと急ぐ人々のたとえ話を私たちに示されました。さらに、主は再びある良い羊飼い(ルカ福音書 (0486B)15章)を紹介しています。彼は百匹の羊を飼っていましたが、一匹を見失い、九十九匹を残して、迷い出た一匹を捜しに行き、ついに見つけました。そして、その一匹を肩に担ぎ、少しでも迷わなかった羊たちと一緒の羊飼いにしました。また、その羊を見つけたことを祝うため、友人や隣人をこの名で祝宴に招きました。このように、救い主は、悔い改める一人の罪人については、悔い改めを必要としない九十九人の義人についてよりも大きな喜びが天にあると語っています。」
「[268] こうして、信仰の岩であり、弟子たちの指導者であったペテロは、まさに救いに至る受難の時に、ある目的(すなわち、人間の弱さの卑しさと悲惨さをはっきりと見抜くため)のために、しばらくの間神に見捨てられ、罪に陥り(0486C)、主を捨て去りました(ルカ22章)。しかし、その直後、彼は主の言葉を思い出し、出て行って激しく泣き、その熱い涙によって受けた損失を癒し、勝利を別の方向へ転じたと述べています。彼は軍事に精通していたにもかかわらず、倒れたにもかかわらず、心は砕かれず、救いの希望も捨てませんでした。むしろ、立ち直り、苦しむ胸から激しい涙を流しました。敵がそれを見ると、彼の目は激しい炎のように燃え上がり、彼は足を引き返し、恐ろしい叫び声を上げながら遠くへ逃げ去りました。しかし彼は再び指導者に反抗しました。彼は全世界の教師に任命されたように、悔い改めの模範ともなりました。しかし復活後、キリストが彼に三度目(0486D)『ペテロよ、あなたは私を愛していますか』と尋ねられたとき、彼は三度も誓約した態度を改め、『はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです』と答えました。」
「これらすべて、そして他の多くの例、そして実に数え切れないほどの例から、私たちは涙と悔い改めの力を理解します。預言者ダビデが言うように、罪を非難し、憎しみをもって攻撃し、断罪し、涙を流す情熱をもって、理性に従って、すなわち、罪を非難し、涙を流す情熱をもって、その働きを行うべきです。『私はうめきながら働き、夜ごとに床を洗い、涙で寝床を濡らす』(詩篇6章)のです。そして、罪の清めは、キリストの血によって、その大いなる憐れみ(0487A)と豊かな慈しみによって実現します。主はこう言われます。『もしあなたの罪が緋のようであれば、雪のように白くなるでしょう。もし朱のようであれば、羊毛のように白くなるでしょう。』」
「ですから、真理の知識を受け、再生と子としての身分を得て、神の奥義を悟った後、私たちは、あらゆる努力と勤勉をもって、倒れないように注意するべきです。競技者が倒れることは、決して望ましいことではありません。なぜなら、倒れた多くの人は、立ち上がることができなかったからです。また、悪徳の扉を開き、それに深く縛られてしまったため、悔い改めることができなかった人もいます。さらに、悔い改めによって悪徳の汚れを洗い流す前に死に運ばれ、罪に定められた人もいます。ですから、どんな悪徳に陥ることも、それが何であれ、危険なのです。しかし、もし倒れてしまったら、すぐに立ち直り、再び栄光ある戦いに立ち向かうよう努めなければなりません。そして、倒れた時はいつも、たとえ人生の最後の日であっても、すぐに立ち上がり、準備を整えるように注意しなければなりません。わたしに頼りなさい。そうすれば、わたしもあなたに頼ろう、と主は言われます(ゼカリヤ書 1章)。」
===第12章===
――しかしヨサファトはこれらのことに対して言った。「では、洗礼を受けた後、いかなる理由で罪の汚れから身を清く保つことができるというのですか。あなたの言うように、悔い改めは罪人に開かれているとはいえ、労苦と涙と嘆きが必要です。それは、私には、容易に達成できる者が多くはないような気がする。それゆえ、私はむしろ、神の戒めを誠実かつ厳密に守り、それから逸脱することなく、また、以前の罪の赦しを得た後、かの最も甘美な主なる神の怒りを招くことのない道を見つけることができたらと願ったのです。」しかし、バルラームは答えた。「私の主君であり王様よ、あなたのおっしゃる通りです。これは私にとって非常に喜ばしいことです。しかし、火の中にいて煙に埋もれないというのは、不可能とは言わないまでも、難しいことです。同様に、この世の事柄に縛られ、ある種の束縛を受けている者にとって、その煩悩や騒乱から切り離され、富と快楽の中で暮らす者が、神の戒めの道を何の屈曲もなく歩み、それらから自らを清く安全に守ることは、困難で極めて困難です。主はこう言われます(マタイ6章)。『人は二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、一方に親しんで他方を蔑むからである。神と富とに仕えることはできない。』さらに、主の愛弟子であり福音記者であり神学者でもあるヨハネは、その手紙の中でこう言っています。『世も世にあるものも愛してはならない。すべて世にあるものは、肉の欲、目の欲、生活の誇りである。これらは父から出たものではなく、世から出たものである。世は過ぎ去ります。そして、世の欲も過ぎ去ります。しかし、神の御旨を行う者は永遠に生き続けます(ヨハネの手紙一 2章)。』」
「神に導かれた先祖たちがこれらのことを観察したとき、(0488A) また使徒たちが、多くの苦難を経て天の御国に入らなければならないと聞いたとき(使徒行伝14章)、彼らは洗礼の後、汚れのない、あらゆるしみのない不朽の衣を保つために、全力を尽くしてそれに専念しました。そして、それに応じて、彼らの中には、さらに別の洗礼、すなわち流血と殉教の洗礼を受けた者もいました。[269] なぜなら、ここでも洗礼は、実に最も優れたものであり、最大の崇敬に値するものと呼ばれているからです。それは、後の罪の汚れによって汚されることがないからです。そして、私の主も、洗礼を受けられたことを正しく「洗礼」と呼んだのです。そして、彼らはキリストに倣い、まず第一に傍観者、弟子、使徒となり、その後は聖なる殉教者の全聖歌隊となり、キリストの名のために偶像崇拝者、国王、暴君たちに身をさらしながら、野獣に投げ込まれ、火で焼かれ、剣で斬首されるなど、あらゆる罰に耐え抜いた。そして、栄光ある告白をし、走るべき道を完遂し、信仰を守り通した彼らは、義の棕櫚を得て、天使たちと同じ仲間となり、キリストと共同相続人となった。キリストの徳は非常に輝きを放ち、その声は全地に響き渡り、その輝きは世界の果てまで輝きました(詩篇18篇)。彼らは徳をもって正しくこれを行なった。彼らの言葉や行いだけでなく、血や骨自体もあらゆる{{r|聖|きよ}}さに満ちています。彼らは力ずくで悪霊を追い払い、信仰をもって近づく者たちの、本来なら治らない病を打ち砕きます。(0488C) いや、彼らの衣服そのものや、彼らの尊い身体に近づくものすべてさえも、皆から崇敬されています。」
「彼らの輝かしい功績を一つ一つ挙げるには、長々とした話が必要でしょう。しかし、残忍で獣のような暴君たちが、その悪行に相応しく惨めに滅び、迫害が終わり、敬虔な皇帝たちが全世界の帝国を掌握した後、他の者たちが後を継ぎ、彼らもその熱意と神聖なる願いを自らも模倣しようと試み、同じ恐怖によって魂を傷つけられながらも、彼らはあらゆる汚れから清められた魂と体を神に捧げることを、細心の注意を払って考え、見守ったのです。こうして、悪意に満ちた行為を全て断ち切り、肉体と精神のあらゆる汚れから自らを清める備えをしたのです。しかし、彼らは、キリストの戒律を守る以外に、自分たちだけでこれを達成する方法はないことを理解していたため、また、世の騒乱の中で戒律を守り、美徳を培うことはほとんど不可能であると悟ったため、自分たちのために新しい違った種類の生活を確立し、神の言葉に従って、両親、子供、友人、親戚、富、喜び、そしてこの世のあらゆる快適さなど、すべてを捨ててそれらを軽蔑し、まるで追放者、貧者、苦悩する者、苦しむ者、この世に値しない者(ヘブル人への手紙 11章)であるかのように荒野に行きました。彼らは荒野や山々、洞窟、地の洞穴をさまよい、(0489A) 地上のあらゆる喜びと楽しみから遠く離れ、パンと衣服の深刻な欠乏に苦しみました。」
「彼らがそうしたのには二つの理由がありました。一つは、悪しき情欲の源泉を一切見ないことで、魂から欲望を根絶し、その記憶を消し去り、神聖で天上のものへの愛と憧れを心に植え付けるためです。もう一つは、苦難を通して肉体を磨き、心と意志において殉教者となることで、殉教した者が得る栄光を欠くことなく、また、自らの力の及ぶ限りキリストの受難を体現することで、キリストの王国にあずかることができると考えたからでした。(0489B) こうして彼らは、最善の配慮をもって、修道生活と隠遁生活を送ったのです。」
「そして、太陽の下で耐え忍ぶ者たちは、太陽の熱や厳しい寒さや雨、そして旋風に苦しめられた。小屋を建てたり、洞窟や岩窟に身を隠したりして生活する者たちもいました。こうして徳を培い、あらゆる肉欲的な慰めや休息を極限まで拒絶し、生の野菜やハーブ、果物、あるいは乾いた非常に硬いパンだけで生活に耐えました。そして、甘い食べ物の質にメッセージを委ねるだけでなく、ある種の奔放な禁欲から、その精神の偉大さを量にまで広げました。なぜなら、彼らは最も安価で最も必要な食べ物からさえ、飢えに耐えるのに十分な量しか受け取らなかったからです。(0489C) 彼らの中には、一週間まるまる飢えを過ごし、ついに日曜日に食べ物を口にした者もいた。週に二度だけイエスを思い出す者もいれば、二日に一度の夕食を食べる者もいたので、食べ物を味わうことしかできなかった。そして彼らは祈りや徹夜の祈りに没頭し、天使たちとほとんど競い合い、金銀の所有や売買において完全に自由であることを命じられていたため、自分たちが人間の中にいることをすっかり忘れてしまったのです。」
「しかし、善行に通常伴う嫉妬や傲慢さは、彼らの間にはありませんでした。修道生活の修行において低い地位にある者は、徳が自分より優れている者に対して恨みを抱くことを心に抱かなかった。(0489D) また、徳に秀でた者も、弱い者に対して傲慢やプライドを高め、隣人を無に等しい者と見なし、宗教的修行を誇り、称賛に値する行いをしたことで自分を偉大に、傲慢に考えるように仕向けることはなかったのです。[270] 徳において他人を凌駕した者は、これを自分の努力によるものではなく、神の力によるものとし、謙虚な心で、自分は何も成し遂げていないが、主が言われたように、もっと多くのことを成し遂げなければならないと確信していました。『あなたがたに命じられたことをすべて行ったときには、「私たちは役に立たない僕です」と言いなさい。私たちはなすべきことをしたのです』(ルカ17章)。(0490A) また、ある人々は、神が命じられたことを全く行っていないどころか、すでに成し遂げたことよりも、まだ多くのことが欠けていると確信していました。また、おそらく肉体的な弱さのために宗教的な行いに劣る者は、自分を無力だと考え、惨めだと嘆き、自分の欠点を生まれつきの弱さではなく、心の怠惰のせいにしました。このように、他の人々も皆、自分を他の誰よりも謙虚に見せようとしました。さらに、虚栄心や人々の歓心を買おうとする気持ちなど、どうして彼らの中に存在し得たでしょうか。なぜなら、彼らはそのために世を逃れ、荒野に住み、人々にではなく神に自分の徳を示すために、そして神から徳の報いを受けることを期待していたからです。彼らは、虚栄心のために行われる宗教的行為は、神のためではなく人間の称賛のために行われるため、報いがないことをよく知っています。それゆえ、そのような人々は、確かに肉体を構成するが、何の報いも受けないという二重の損失を被ります。しかし、天の栄光への渇望に燃え、全速力でそれを目指して努力する人々は、地上のあらゆる栄光や人間の栄光を軽蔑するのです。」
「これらの人々の中には、隠遁生活を送り、孤独の中で敬虔な生活に励み、生涯を通じて人との交わりを断ち、神に近づく者もいます。また、遠く離れた場所に小さな家を建て、日曜日には同じ教会に通い、キリストの清らかな体と尊い血による無血の犠牲という神聖な秘蹟を受ける者もいます。(0490C) 主は、敬虔な人々に罪の赦しと、心身の啓示と聖化のために、この秘蹟を与えてくださったのです。そして、互いに神の啓示を実践し、素晴らしい助言や勧告を受け、敵の隠された戦いを明らかにし(つまり、戦いを知らない者がそれに打ち負かされないように)、それぞれが胸の蜜房に徳の蜜を蓄え、天の食卓にふさわしい最も甘い実を育てながら、家路につく者もいます。また、修道生活を送る者もいます。」
「実際、大勢で一つの共同体に強制的に集められ、一人の長官であり高位聖職者(徳においてすべての人に勝る方)の命令に服従し、服従の剣で自らの意志を完全に断ち切り、自らの意思で自由な奴隷とみなす人々は、(0490D) もはや自分のために生きるのではなく、キリストへの愛ゆえに服従した方のために生きます。より正確に言えば、もはや自分のために生きるのではなく、すべてのものを捨てて従ったキリストが彼らの内に生きているのです(ガラテヤ2章)。なぜなら、この世からの分離とは、本質的により崇高なものを求めるあまり、自ら進んで自己を憎み、本性を捨てることにあるからです。したがって、これらの人々は、調和のとれた魂で主への賛美歌を歌い、服従の闘いによって証人という名を得るなど、天使のように生きるのです。(0491A) また、この方において主のこの言葉が成就しました。『二、三人がわたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる』(マタイ18章)。この言葉によって、主は御名によって集まる人数をこの人数だけに限定したのではなく、二、三人とは不定の人数を意味していました。少人数であろうと大人数であろうと、主の聖なる御名のために一つとなって集まり、熱烈な愛をもって主を礼拝するならば、主がしもべたちの真ん中に臨在しておられることは疑いようがありません。」
「これらの例や集会や行動によって、彼らは天上の人々の地上の生活を模倣し、断食、祈り、徹夜の祈り、激しい涙と嘆き、あらゆる精神的な雑念からの解放、巡礼と死の記憶、怒りから離れた魂の優しさと愛情、沈黙、貧困と欠乏、貞潔と慎み、(0491B) 謙遜と静けさ、そして最後に神と隣人への完全な愛において、現世の歩みを全うし、その振る舞いにおいて天使を表現しました。このため、神は彼らを奇跡、しるし、様々な徳で飾り、彼らの素晴らしい生活の理由を地の果てまで歌わせました。彼らのうちの一人、すなわち修道生活の先駆者であり指導者であったとされるアントニウスの生涯を詳しくご説明すれば、同じ種類の木から実った果実の甘美さ、[271] 彼が築いた宗教的実践の基盤、彼が築き上げた頂点、そして彼が救い主から得た数々の恩寵を十分に理解していただけるでしょう。(0491C) 彼に続く多くの人々も、同じ苦闘を戦い、同じ栄冠と報いを得ました。」
「まことに幸いなのは、神の愛に燃え、その愛のためにすべてを無に等しいとみなした人々です。彼らは永遠の慰めを得るために涙を流し、昼も夜も嘆き悲しみ、高みへと引き上げられるために自ら謙遜になり、天国の喜びと歓喜に迎えられるために飢えと渇きと徹夜の苦行で肉体を消耗しました。聖霊は心の清さによって幕屋を造り、こう記されています。「わたしは彼らのうちに住み、彼らのうちに歩む」(コリント第二 6章)。彼らはキリストの右に立つために、世に対して自らを十字架につけ(エフェソ6章)、真理を腰帯として結び、(0491D) 不滅の花婿の到来を待ちわびて、常に灯火を灯していました(マタイ25章)。彼らは心の目を備えていたので、常にあの恐ろしい日を予見していました。そして、未来の幸福と未来の罰についての考察を、決してそこから引き離されることのないほど深く心に刻み込んでいました。そして、永遠の栄光を得るために、ここで努力を重ねました。彼らは天使と何ら変わらず、苦難とは無縁でした。そして今、彼らは自らが模範とした人々と共に踊っています。彼らは幸いであり、三倍の祝福を受けています。なぜなら、彼らは確固たる心の目で、現世の虚しさ、人間の繁栄の不確かさと移ろいやすさを見抜き、それらを拒絶して、自らのために永遠の幸福を築き上げ、(0492A) 決して人を殺さず、死によって中断されることのない命を{{r|掴|つか}}み取ったからです。」
「それゆえ、私たちもまた、ふさわしくない卑しい者でありながら、これらの立派で聖なる人々に倣おうと努めます。しかし、私たちは彼らの天上の生活の高みには達せず、私たちの弱さと惨めな能力に応じて彼らの生活を表現します。そして、たとえ彼らの行いに及ばなくても、彼らの衣を身にまといます。なぜなら、この神聖な信仰告白は罪を退け、神の洗礼によって私たちに与えられた不朽の恵みの伴侶であり助け手であることを私たちは知っているからです。そして、祝福された人々の言葉に導かれ、私たちはこの世の{{r|儚|はかな}}く朽ちゆくものを大いに非難します。この世には、確固として不変で、常に同じ状態を保つものは何も見出せません。(0492B) すべては空虚であり、心の苦しみです(伝道の書2章)。それらは一瞬のうちに多くの変化を伴います。夢や影、風のように、それらは弱いものだからです。そのささやかな、つかの間の喜び、いや、喜びではなく、世の邪悪さによるある種の欺瞞と偽りです。私たちは、そのような者を決して愛してはならないと教えられ、むしろ憎み、心から攻撃するように教えられています(ヨハネの手紙一 2章)。実際、彼は憎むべき者であり、忌み嫌われるべき者です。なぜなら、彼が友に贈り物として与えたものは何でも、彼は怒りに任せて奪い取り、あらゆる善きものを剥ぎ取り、恥辱をまとわせ、重い荷を負わせて永遠の災難へと送り出すからです。また、彼が高めた者を、彼はすぐに極度の屈辱と苦難に服従させ、敵の嘲笑にさらします。これが彼の益であり、彼の贈り物です。(0492C) 彼は友の敵であり、彼の意志に従う者すべてに罠を仕掛けます。すなわち、恐ろしい方法で、彼に頼る者を動揺させ、彼に信頼を置く者の神経をすべて打ち砕くのです。彼は愚か者たちと契約を結び、偽りの約束をして、彼らを自分に引き寄せようとしました。しかし、彼らが誠実な心で彼に加わると、彼は悪人で嘘つきであることが判明し、交わした約束を一つも果たさなかったのです。」
「今日、彼は彼らの口を美味しい食べ物で喜ばせたが、明日には彼らを敵に差し出して食い尽くさせます。今日、彼は王を創造したが、明日には彼を惨めな隷属状態に陥れます。今日、彼は彼を数えきれないほどの富で繁栄させたが、明日には彼を乞食にして奴隷の奴隷にします。(0492D) 今日、彼は彼の頭に壮麗な冠を載せたが、明日には彼の顔を地面に踏みにじるのです。今日、彼は彼の首を輝かしい栄誉の冠で飾ったが、明日には彼を鉄の鎖で縛り付けて突き落とします。彼はしばらくの間、すべての人々の愛と善意を勝ち取るが、少し後にはすべての人々の憎しみと非難を彼に浴びせます。今日、彼は彼を喜びで満たしたが、明日には彼を嘆きと悲嘆で満たします。しかし、彼が彼らにどのような結末を与えるのか、聞いてみてください。彼は、自分が愛した者たちを、地獄の住人として哀れな姿にします。これが常に彼の心であり考えであり、これが彼の計画でなのです。彼は亡くなった者たちを{{r|悼|いた}}むこともなく、残された者たちを哀れむこともない。彼らに甚大な危害を加え、(0493A) 自らの罠にかけた者たちを、再びその技を彼らに伝えようと企み、誰も彼の危険な罠から逃れられないようにと願っているのです。」
「それゆえ、私は、[272] そのような疫病的で残酷な主人に仕え、最大の狂気によって善と慈悲から身を遠ざけ、現在のことに没頭し、未来のことを全く考えず、絶え間なく肉体の快楽に身を捧げ、魂が飢えに蝕まれ、無数の悪に直面することを許す者たちを、怒り狂うユニコーンの顔から逃げる人に似ていると考えます。その人は、ユニコーンの鳴き声と恐ろしい咆哮に耐えられず、獲物にならないように必死に逃げます。(0493B) しかし、彼は急いで逃げるうちに、ある大きな穴に落ち、落ちながら手を伸ばしてある木をつかみ、それをしっかりと握りしめ、ある程度足場を確保したので、これからはすべてが平和で、自分はあらゆる危険から解放されたと考えます。しかし振り返ると、白いネズミと黒いネズミの二匹が、自分が掴んだ木の根を絶えずかじっていて、今にも切り倒しそうになっているのが見えた。さらに、一番下の穴に目をやると、恐ろしい竜が、視線だけで火を吐き、ギラギラした目で自分を見つめ、恐ろしく口を開けて自分を貪り食っているのが見えた。(また、足を乗せていた階段に目を凝らすと、自分が立っている壁から四つの毒蛇の頭が突き出ているのが見えた。(0493C) しかし、目を上に向けると、その木の枝から蜂蜜が滴り落ちているのが見えた。そのため、彼は四方八方から襲いかかってくる災難、すなわち、外側からは猛烈な怒りをむさぼり食おうとする一角獣に刺され、下からは苦い竜が激しく彼を飲み込もうとし、また、彼が掴んだ木は時折切り倒され、彼の足はついに滑りやすく危険な足場に落ち着く、といったことを顧みなかった。つまり、これらの大きな危険を忘れ、彼はその蜂蜜のささやかな甘さを感じることに専念したのです。」
「これは現世の娯楽に没頭する者たちの姿であり、その説明はすぐにあなたにお伝えしましょう。ユニコーンは、常に人間を追いかけ、捕らえようとする死の象徴です。(0493D) しかし、その奈落の世界は、あらゆる種類の悪と致命的な罠に満ちています。私たちが握りしめ、二つの壁に絶えずかじられている木は、各人の人生の歩みを表しています。それは昼夜を問わず消費され、終わりを迎え、徐々に消滅へと近づいていきます。しかし、四匹の毒蛇は、人間の身体が四つの滑りやすく不安定な要素で構成されていることを示しています。これらの要素が過度に振る舞い、乱されると、身体の構造は崩壊します。さらに、あの燃え盛る野蛮な竜は、未来の幸福よりも現在の快楽を好む者たちを迎え入れようとする、恐ろしい地獄の腹を象徴しています。しかし、滴り落ちる蜂蜜は世界の喜びと甘さを象徴しており、(0494A) 彼は友人たちを嘲笑しながら、彼らが自身の安全に目を向けることを決して許しません。」
===第13章===
――ヨサファトは、このたとえ話をさらに詳しく確証して言った。「この言葉はなんと真実で、実に調和に満ちていることか!ですから、どうか、このような例え話を私に繰り返し示してください。そうすれば、私たちの生活がどのようなものか、そして私たちが友人に何をもたらすのかを、私が確かに理解できるでしょう。」すると老人は言った。「また、この世の快楽に心を奪われ、その甘美さに慰められ、物事を将来にとって{{r|儚|はかな}}く弱いもの、他人の自慢話よりも古いものと考える者は、三人の友人がいた男のようなものです。彼はそのうち二人を深く愛し、激しく愛しました。(0494B) 彼らのためなら死をも厭わず、どんな危険にも身を投じました。しかし、三人目の友人を全く軽蔑し、彼にふさわしい名誉も、恩恵さえも与えず、ほんのわずかなものしか与えませんでした。しかも、その友情は偽りのものでした。しかしある日、恐ろしく残忍な兵士たちがやって来て、彼を急いで王のもとへ連れて行き、彼が負っている一万タラントの借金の返済を求めました。そのため、彼は極度の苦境に陥り、王に返済するのを手伝ってくれる人を探しました。そこで、彼は最初にして最も親しい友人のところへ駆け寄り、こう言いました。『友よ、私はあなたから逃げません。あなたのために私はいつも命を危険にさらしてきたのですから(0494C)。しかし今、この切迫した必要の日に、私はあなたの助けと援助を必要としています。あなたは私に援助を約束してくれるでしょうか?そして、最も親しい人よ、私はあなたにどんな希望を抱いているのでしょうか?』しかし、彼は答えて言いました。『私はあなたの友人ではありません。また、あなたが誰であるかも知りません。私には今日もてなさなければならない他の友人がおり、将来も友人となるでしょう。ですから、私はあなた方に二枚の毛布だけをお渡しします。それはあなたがこれから行く旅路で役立つものであり、それ自体はあなたに何の益ももたらさないでしょう。また、私から何かを期待してはいけません。』これを聞いて、彼から期待していた助けを諦めた彼は、二番目の友人に振り向いて言った。『友よ、あなたが私からどれほどの名誉と恩恵を受けてきたか覚えておきなさい。しかし今日(0494D)、私は最大の災難と苦難に陥り、助けが必要なのです。ですから、今、私にどんな援助ができるか教えてください。』しかし彼は言った。『今日はあなたと商売で競うことはできません。私はあらゆる方面から心配事と不安に押しつぶされ、苦難の中にいるからです。しかし、ここからあなたに良いことは何もないでしょうが、少しの間だけ一緒に行きましょう。そして家に帰ったらすぐに自分の仕事に専念します。』こうして男は何も得られず、何の助けも得られずにそこから戻り、裏切り者で恩知らずな友人に抱いていた空しい希望と、彼らへの愛情から引き受けた無駄な労力を嘆き悲しんだ。それから彼は、これまでどこにも会ったことがなく、喜びを分かち合ったこともない三人目の友人のところへ行きました。そして、恥ずかしそうにうつむいた顔で、彼にこう言いました。『彼は私にあなたと話す機会をほとんど与えてくれません。私はあなたに親切にしたことも、友好的に接したこともないことをよく知っています。しかし、非常に深刻な災難に見舞われ、他の友人たちにも救いの望みを見出せなかったので、あなたに近づき、もし少しでも助けていただけるなら、私の恩知らずを気にせず、どうか断らないでほしいと懇願します。』しかし彼は明るく穏やかな顔で言いました。『確かに、あなたは私の最も誠実な友人です。そして、あなたが私に示してくれたささやかな親切を心に留め、今日、利子をつけてあなたにお返しします。ですから、恐れたり怯えたりしないでください。私はあなたより先に進み、あなたの名において王に、あなたを敵の手に渡さないよう懇願します。ですから、お元気で、最も親愛なる友よ、悲しみに苦しむ必要はありません。』すると彼は、後悔の念に駆られ、涙を流しながら言いました。『ああ、哀れな人よ、なぜ私が先に泣き悲しむ必要があるのでしょう?忘れっぽく恩知らずな偽りの友に、私の無益な親切を非難すべきでしょうか?それとも、この真実で誠実な友に示した狂気じみた恩知らずを責めるべきでしょうか?』」
しかしヨサファトは感嘆せずにはいられず、この言葉を聞き、その説明を求めた。そこでバルラームは言った。「第一の友は富の豊かさと富への愛着です。これによって人は六百もの危険に陥り、多くの悲しみを経験するのです。(0495C) しかし人生の最後の日が終わるとき、葬儀に使う役に立たない布切れを除いて、その富のすべてから何も持って行くことはできません。第二の友は妻と子供、その他の親戚や友人です。私たちは彼らの愛情と慈しみによって支えられており、彼らから離れることはほとんど不可能です。そして彼らの愛ゆえに、私たちは自分の肉体はおろか魂さえも顧みなくなります。さらに、死の時に彼らから何の恩恵も受けません。ただ遺体を墓まで見送ってくれるだけで、すぐに家に帰ると、自分の心配事や仕事に専念し、かつて自分たちにとって大切な人であった人の記憶を、遺体と同じように忘れ去ってしまうのです。(0495D) しかし、軽蔑され、嫌われ、近づくと身震いして背を向ける第三の友は、信仰、希望、愛、慈悲、親切、そしてその他の美徳の集まりである、最も優れた行いの合唱隊です。この友は、私たちが肉体を離れる時、私たちの先を行き、私たちのために祈りをもって神を動かし、私たちの敵や恐ろしい強欲な者たちから私たちを救い出してくれるのです。彼らは、私たちが負うべき清算について空中で激しい論争を巻き起こし、残酷にも私たちを捕らえようと企んでいます。この友こそ、私たちのどんな小さな善行さえも覚えていて、利子をつけて私たちに報いてくれる、率直で誠実で感謝に満ちた友なのです。」
===第14章===
――そこで、ヨサファトは再び言った。「最も賢明な人よ、あなたの神、主から、すべてのことがあなたにとって幸運で喜ばしいものとなりますように。あなたは実に、あなたの優れた(0496A)的確な言葉で私の心を大いに高揚させてくれました。ですから、この世の虚しさをもう一度私に示し、私がこの人生を平和と安全の中で過ごすにはどうすればよいかを教えてください。」そこで、ヨサファトの言葉を聞いて、彼は言った。「この質問のたとえ話も聞いてください。ある大都市に、市民が次のような慣習と制度を持っていたと聞いています。それは、見知らぬ見知らぬ男、つまり都市の法律や慣習を全く知らず、教育も受けていない男を王として迎え入れ、その男に1年間すべての権力を委ね、何の妨げもなく自由に好きなようにさせるというものでした。しかしその後、彼は何の心配もなく、何の恐れもなく贅沢と喜びの中で暮らし、自分の王国は永遠に続くと思っていたところ、突然、人々が彼に反旗を翻し、王の衣を剥ぎ取り、まるで勝利を祝うかのように裸で街中を引き回した後、遠く離れた大きな島に追放した。そこで彼は、食べ物も衣服もなく、飢えと裸にひどく苦しめられ、それまで彼に与えられていた喜びと心の明るさは、再び、何の希望も期待もできない悲しみに変わってしまった。」
「そこで、古くからの慣習と市民の慣習に従い、非常に鋭敏な知性を持つある男が王国に任命された。彼は、突然の幸運に浮かれることもなく、(0496C) また、彼より先に王位に就き悲しんで追放された者たちの軽率さを真似ることもなく、いかにして最善の形で自分の事柄を処理すべきかを、不安と心配を抱きながら熟考していた。このように頻繁に熟考にふけっているうちに、彼は非常に賢明な顧問から市民の慣習と永久追放の場所について知らされ、自らがいかにして過ちを犯さずに身を守るべきかを理解した。このことを知り、彼がその島へ追放され、その異国の王国を他の人々に譲る日が近づくと、彼は当時自由に使えるようになった財宝を開放し、最も信頼できると考えた召使たちに莫大な量の金銀と宝石を託し、(0496D) 自分が連れて行かれる島へ先に送った。しかし、年が明けると、反乱に駆り立てられた市民たちは、以前の王たちと同じように、彼を裸にして追放した。実際、狂気に満ち、短命だった他の王たちは、極めて深刻な飢饉に苦しんだ。一方、彼は財産を前もって送り、常に豊かな生活を送り、限りない喜びを享受し、裏切り者で邪悪な市民たちの恐怖を完全に払拭し、自らの最も賢明な助言の名において、自らを祝福された者と宣言した。」
「ここでも、都とは、この虚しく欺瞞に満ちた世界を指します。しかし、市民とは、悪魔の支配者や権力者、この世の闇の支配者たちのことです。(0497A) 彼らは快楽の甘美さによって私たちを誘惑し、朽ち果てるものをあたかも不滅であるかのように、その実が私たちにとって永遠であるかのように、私たちの心に思いを巡らさせます。このようにして私たちは欺かれ、詐欺に陥り、確かな永遠の事柄について何の計画も立てず、来世のために何も蓄えなかったため、突然の死の滅びが私たちに臨んだのです(箴言1章)。しかし、ついにあの邪悪で残忍な闇の住人たちが、私たちを裸にしてこの世のすべてのものを奪い去り、まるで私たちが彼らとずっと一緒に過ごしてきたかのように、私たちを暗く陰鬱な土地、永遠の暗闇の土地へと連れ去ります。そこには光はなく、人間の生活を見ることも許されません(ヨブ記10章)。真の助言者、すなわち、(0497B) あの賢明で極めて聡明な王にすべてを明かし、その秘められた助言を伝えた方にかけて、私が卑しく謙虚な小男であることをご理解ください。私がここに来たのは、あらゆる誤りのない正しい道をあなたに示し、永遠に尽きることのない恵みへと導き、あなたの持ち物すべてをそこに隠すよう説得し、この世の偽善者からあなたを遠ざけるためです。実は、かつて私自身もその偽善者をひどく愛し、彼の快楽と娯楽に身を委ねていたのです。しかし、私は心の正しい目で、これらの事柄において人間の全生涯が引き裂かれ、ある者は生まれ、ある者は去り、確固たる安定した拠り所が全く確立されないことを観察した。すなわち、富裕で裕福な者にも、権力を持つ者にも、(0497C) 知恵を持つ者にも、物事が成功し繁栄する者にも、贅沢と快楽にふける者にも、自らの手で、しかも最も脆弱な安全の中で安全に暮らしているように見える者にも、称賛される他のいかなるものにも、確固たる拠り所はない。しかし、これは激流が海の深みへと流れ込むようなものである。なぜなら、現存するすべてのものは同じように儚く、脆いからである。それゆえ、私はこれらのものはすべて虚しく、何の役にも立たないことを悟った。いや、むしろ、かつて存在したすべてのものが忘却に覆われたように(あなたがそれを栄光、王国、威厳の輝き、権力の広大さ、暴君の大胆さ、その他同種の何と呼ぼうとも)、同様に、現在もいずれは時の流れによって忘れ去られるでしょう。(0497D) 私もまたその中の一人ですから、当然のことながら、この変化に完全に服従することになります。私より前に存在した人々が現在の快楽を永遠に享受することが許されなかったように、私にも許されないでしょう。私はこの専制的で騒乱に満ちた世界が人々をどのように扱うかを見てきました。人々をあちこちに転落させ、ある者は富から貧困へ、またある者は極度の貧困から栄光へと導き、彼らを人生から引きずり出し、また元の場所に人生へと連れ戻します。ある賢く才能のある人々を非難し拒絶し、名誉と栄光に輝いていた人々を軽蔑し蔑む者とします。愚かで無知な者とは対照的に、他の人々を栄光の座に就かせ、(0498A) 卑しく無名だった者を高め、すべての人から彼らに名誉を与えます。」
「そして、人類は残酷な専制政治の前に、確固たるものや安定したものが何もないように仕組まれていることは明らかです。鷲や鷹から逃れる鳩が、時折場所を変え、時にはこの木に、時にはあの茂みに、時には岩や様々な棘の洞窟に身を隠し、決して安全な避難場所を見つけられず、絶えず転げ回っているように、現在の物事に驚嘆して呆然としている人々もまた、ある種の無思慮な衝動に惨めに駆り立てられ、確固たるものや安定したものが何もないため、自分がどこに行き着くのかも理解していません。(0498B) また、不幸にも善よりも悪を選び、正直さよりも悪徳を追い求めて自らを服従させた虚しい人生がどこへ導くのかも理解していません。また、彼の数々の惨めな労働の冷たい果実を受け取るのは誰であれ、つまり、親族であろうと見知らぬ人であろうと、多くの場合、友人や知人ではなく、敵や{{r|仇敵|きゅうてき}}です。」
「これらすべて、そしてそれらと一致するすべてのことについて、私は自分の魂の場で自問自答した時、無益なことや地上の労苦に費やした人生全体に対する憎しみに囚われました。そして、それらへの愛を心から振り払い、追い払った時、真に善いもの、すなわち神を畏れ、神の御心に従うことが私の目に現れました。なぜなら、これこそがすべての善きものの頭であると私は悟ったからです。これは知恵の始まりであり、完全な知恵であると言われています。なぜなら、それは悲しみから解放され、それを受け入れ、主のように頼る者にとって、あらゆる罪から解放された人生であり、あらゆる危険から安全で守られた人生だからです。それゆえ、私は主の戒めの道に心を定めた。この道は誤りから完全に解放されている。私は確かに、この道には曲がりくねったところも、深い谷や岩、いばらや茨が満ちているところもなく、完全に平坦でまっすぐな道であることを発見した。実際、この道に入る者の目を最も輝かしい観想で喜ばせ、美しさで彼らの足をつかみ、平和の福音の備えで彼らの足に履かせるのです。(0498D) 私は以前の偽りや愚かな詐欺という名で自分を惨めな者と考え、そのまっすぐな道を歩み始めました。私はまた、この道を最も正しいこととしてすべてのものの前に置き、崩れ落ちて荒廃した私の魂の家を修復し始めました。」
「そこで、私がこのように自分の事柄について考え、心の不安定な状態を正そうと努めていたとき、ある賢明な教師の声が私に叫ぶのを聞きました。『救いを求める者は皆、出て行きなさい。そして、この世の虚栄から離れなさい。この世の形は過ぎ去るからです』(コリント第一 7章)。今、そして今、見よ、それはもはや存在しないでしょう。目を瞬かせずに進みなさい。しかし、空虚で空虚なのではなく、永遠の命の備えを携えて行きなさい。あなた方には長い旅があり、この世の多くの備えが必要となるでしょう。(0499A) そして、あなた方は永遠の場所にたどり着きます。そこには二つの領域があり、そこには多くの住まいがあります(コリント第一 2章)。そのうちの一つは、神への愛に燃え、神の戒めに従う人々のために神が確かに用意しておられるもので、彼らはあらゆる良いもので繁栄し、溢れんばかりです。」
「神の恵みによって受け入れられた者たち(イザヤ書35章)は、永遠の不朽の地に住む。そこでは、彼らはあらゆる滅びを経ることなく不死を享受し、苦しみ、悲しみ、うめき声はそこから逃れ去る。一方、暗闇、災難、悲しみに満ちたもう一つの地は、悪魔とその使いたちのために用意されている。そこには、悪行によってそれを勝ち取り、他人の永遠の幸福を滅びからの現世と交換し、自らを永遠の火の餌食とした者たちも投げ込まれる。」
「(0499B)私はこの声を聞き、その真理を理解したので、彼らがすべての悲しみや苦しみから解放され、そのような安全と善きものに満ちた住まいに到達できるように、この一つの仕事に専念してきました。私は霊的な年齢の意味ではまだ子供であり、鏡を通して未来の神秘的な事柄を知覚するだけなので、今はその知識を部分的にしか持っていません。しかし、完全なものが来て、私が顔と顔を合わせて知るとき、部分的なものはついに取り除かれるでしょう(コリント第一 13章)。このことについて、私は主イエス・キリストを通して神に感謝します。キリスト・イエスにある命の"霊"の律法が、私を罪と死の律法から解放し、私の目を開いて、肉の思いは死であり、"霊"の思いは命と平和であることをはっきりと見ることができるようにしてくれたからです(ローマ 8章)。(0499C)ですから、私が今のものの虚しさを知って、それらを完全に憎んだように、あなた方も同じように考えて、それらが異質で、すぐに消え去るものと何ら変わらない感情を抱くように勧めます。そして、あなた方が遅滞なく進まなければならない永遠の時代において、ここからすべての能力を奪い去り、盗みによって集めることのできない宝と、決して尽きることのない富(ルカ12章、マタイ6章)を蓄え、その時代に近づいたときには、不足に苦しむことなく、富に溢れるでしょう。私が先ほどあなた方に最も適切なイメージを提示したように。」
===第15章===
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==出典==
*[https://la.wikisource.org/wiki/Patrologia_Latina/73 Patrologia Latina/73]
*[https://la.wikisource.org/wiki/Vita_SS._Barlaam_et_Josaphat Vita SS. Barlaam et Josaphat] 『聖バルラームと聖ヨサファトの生涯』ダマスコのヨハネ
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ラテン語版 Wikisource, [[s:la:Vita SS. Barlaam et Josaphat]] 、J. P. Migne 1846 early modern edition の11章から14章までを翻訳
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Philip Schaff, Frederick Crombie, [[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/III/Chapter 1]] を翻訳
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*底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, [[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/III/Chapter 1|Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/III/Chapter 1]]
*ウィキソースによる日本語訳
{{DEFAULTSORT:しよけんりについて 301}}
[[Category:キリスト教]]
[[Category:諸原理について|301]]
}}
諸原理について
————————————
第3巻
==第1章==
ルフィヌスの序文
読者の皆様、どうか私のことを祈りの中で覚えていてください。私たちもまた、霊の模範となるにふさわしい者となれるよう。以前の『原理』に関する二冊の書は、四旬節の期間中、あなたの要請だけでなく、あなたの強い勧めによって翻訳しました<ref>四旬節の期間中。</ref>。敬虔な兄弟マカリウスであるあなたは、当時私の近くに住んでいただけでなく、今よりも多くの時間を自由に使うことができたので、私もより一層努力しました。一方、この後の二冊の書については、あなたが街の遠く離れた場所から私の作業を促しに来る頻度が減ったため、説明に時間がかかりました。さて、以前の序文で私が警告したことを覚えていらっしゃるでしょうか。オリゲネスについて私たちが何かを悪く言わなければ、憤慨する人がいるだろうと。おそらく、あなたはすぐにそれを経験されたことでしょう。しかし、人の舌を煽って中傷させる悪魔<ref>Dæmones.</ref>が、まだその秘密の企みを完全に明らかにしていないあの著作によって激怒したのなら、彼が人々の心に忍び込み、弱く不安定な魂を欺く暗く隠されたあらゆる手段を暴露するこの著作では、一体どうなると思いますか? たちまち、あらゆるものが混乱に陥り、反乱が引き起こされ、街中に騒ぎが起こり、福音の灯火<ref>福音の灯火は、無知という悪魔的な闇を払いのける。</ref>によって無知の悪魔的な闇を払拭しようとした者が、有罪判決を受けるために召喚されるのを目にするでしょう。しかし、カトリック信仰の規則<ref>Salvâ fidei Catholicæ regula.(カトリック信仰の規範を守れ)。 [ルフィヌスのこの抗議は率直な注目に値する。彼は著者に対して行った自由な解釈を2つの点に集約している。(1)オリゲネス自身が矛盾する部分を省略したこと、そして(2)偉大な名の下に自らの異端を表明した者たちが挿入した部分である。「我々の信仰に反する」とは、ニカイア公会議で形式的に表現された信仰、すなわちSalva regula fideiに反することを意味する可能性がある。以下の並列欄の例を参照のこと。]</ref>を完全に保ちながら、神の学問の訓練を受けたいと願う者は、そのようなことを軽んじるべきではありません。しかしながら、以前の書物で守られた原則、すなわちオリゲネスの他の見解や我々の信仰に反すると思われる箇所は翻訳せず、他者によって挿入・捏造されたと思われる箇所は無視するという原則が、これらの書物でも守られていることを改めてお伝えする必要があると考えます。しかし、もし彼が理性的な被造物に関する新たな見解(この主題は我々の信仰の本質とは関係ありません)を表明しているように見える場合、議論のため、また我々の知識を深めるために、あるいは我々がそのような順序でいくつかの異端的な見解に答える必要があった場合、私はこれらの見解を本書にも以前の書物にも言及することを怠りませんでした。ただし、彼が以前の書物ですでに述べたことを後の書物で繰り返したいと思った場合、簡潔さのために、これらの繰り返しの一部を省略するのが適切だと考えました。しかし、もし誰かが知識を深めたいという願望からこれらの箇所を読み、難癖をつけるつもりがないのであれば、熟練した人々に解説してもらう方が良いでしょう。詩の虚構や喜劇の滑稽な劇<ref>コメディ、ばかげた話。</ref>を文法学者に解釈させ、師や通訳なしに、神や天上の美徳、あるいは宇宙全体について語られている事柄、異教の哲学者や異端者の嘆かわしい誤りが論駁されている事柄を誰かが学ぶことができると考えるのは不条理であり、その結果、人々は難解で不明瞭な事柄の意味を勤勉に研究して確かめるよりも、軽率かつ無知に非難する方を好むようになります。
==脚注==
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Philip Schaff, Frederick Crombie, [[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/III/Chapter 1]] を翻訳
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十島村向け商品積出しの件
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Sakoppi
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ページの作成:「{{Header |title=十島村向け商品積出しの件 |noauthor=奄美地区合衆国民政府 |year=1951 |notes= * 奄美地区合衆国民政府命令 * 発令日:1951年6月19日 * 底本:[https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/searchs/img/kouhou//A-1951-07-05.pdf 奄美群島政府公報1951年94号] {{デフォルトソート:しつとうそんむけしようひんつみたしのけん}} [[Category:十島村]] Category:琉球列島米国軍政府の法…」
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* 奄美地区合衆国民政府命令
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[[Category:琉球列島米国軍政府の法令]]
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奄美群島知事殿
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一、近來相當の黒糖が名瀬から十島村向け積出されていることは明らかである。
一、同村住民の需要を遥に超過する多量の黒糖が同地域向け輸送されて居る以上、論理上當然の歸結として之は琉球諸島民と日本の闇商人の間に物交密貿易用に使用されて居ると論斷する外はない。
二、斯う云ふことを看過してはならない。日琉間には合法的貿易の道が開けて居るのであり日琉間の貿易を希望する者は何人も規定の手續に准據して之を行はなければならない。
四、本書簡に述べるところは、亦十島村と琉球諸島の他の地域との間に輸送される他の物資資材の上にも適用される。
五、一九四九年七月五日附特別布告第三十二號特に其の第二篇第二章第三十條、不法入國に關する項、並に第二篇第二章第一條三項不法貿易に關する項に御留意を願いたい。上記の罪に該當する者は、最大一年の懲役又は一万円の罰金又は其兩刑に處される。
六、日琉間の密貿易並に不法入國又は離國を取締り之をなくなす爲に必要なる措置を直に講じなければならない。
七、今後當民政府月報を提出して貴政府の本問題に關して取つた對策、及び密貿易者と不法入國者の検擧數を報告しなければならない。なほ同報告には十島向け荷送り人及び荷受人住所氏名、企業免許番號、品名數量を記載し、十島よりの輸入品に就ても同様の事項を報告しなければならない。
長官の命に依り
{{Left|副官歩兵大尉|2em}}
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金十丸無線電信取扱所の廃止
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Sakoppi
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ページの作成:「{{Header |title=金十丸無線電信取扱所の廃止 |noauthor=琉球政府 |year=1952 |notes= * 1952年琉球政府告示第22号 * 発令日:1952年7月11日 * 備考:7月1日に金十丸は日本にある三島村・十島村主導の乗っ取りにより、日本の鹿児島港に回航されている。 * 底本:[https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/searchs/img/kouhou//R-1952-07-21.pdf 琉球政府公報1951年第15号] {{デフォルトソート:…」
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* 1952年琉球政府告示第22号
* 発令日:1952年7月11日
* 備考:7月1日に金十丸は日本にある三島村・十島村主導の乗っ取りにより、日本の鹿児島港に回航されている。
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告示第二十二號
一九五二年七月一日限り次の無線電信取扱所を廃止した。
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|奄美商船所屬金十丸
|名瀬中央郵便局
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* 1952年琉球政府告示第22号
* 発令日:1952年7月11日
* 備考:7月1日に金十丸は日本にある三島村・十島村主導の乗っ取りにより、日本の鹿児島港に回航されている。
* 底本:[https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/searchs/img/kouhou//R-1952-07-21.pdf 琉球政府公報1951年第15号]
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[[Category:琉球政府の告示]]
[[Category:昭和27年の告示]]
[[Category:トカラ列島の本土復帰]]
}}
告示第二十二號
一九五二年七月一日限り次の無線電信取扱所を廃止した。
{{Left|一九五二年七月十一日|2em}}
{{Right|行政主席 [[:w:比嘉秀平|比嘉 秀平]]|2em}}
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|奄美商船所屬金十丸
|名瀬中央郵便局
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諸原理について/第3巻/第2章
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村田ラジオ
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Philip Schaff, Frederick Crombie, [[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/III/Chapter 2]] を翻訳
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*底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, [[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/III/Chapter 2|Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/III/Chapter 2]]
*ウィキソースによる日本語訳
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}}
諸原理について
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第3巻
==第2章==
第1章―自由意志について[1]
1. 永遠にして無限なる世界を深く考察し、その言い表せない喜びと至福を仰ぎ見る時、神の約束に関して、このような見解を抱くのは当然のことだと私たちは考えます。しかし、教会の教えには、将来における神の公正な裁きへの信仰が含まれており、この信仰は人々を善く徳のある生活へと促し、あらゆる手段を用いて罪を避けるよう説得します。そして、この信仰によって、称賛に値する生活を送るか、非難に値する生活を送るかは、私たち自身の力で決められることが明白に示されています。ですから、自由意志について少し述べておく必要があると考えます。このテーマは多くの著述家によって相当な筆致で論じられてきたからです。自由意志とは何かをより容易に理解するために、意志と欲望の本質について考察してみましょう[2]。
2. 動くものすべてにおいて、運動の原因が自身の中にあるものと、外部から運動の原因を受け取るものがある。そして、外部から運動するのは、石や木片、物質の構成や身体の実体によってのみ結合しているような性質を持つものなど、生命を持たないものだけである[3]。 腐敗による物体の崩壊を運動とみなす見解は、我々の現在の目的に関係がないため、確かに却下されなければならない。また、動物や木、自然の生命や魂によって結合しているものなど、運動の原因が自身の中にあるものもある。その中には、金属の鉱脈も含まれると考える人もいる。火もまた、自身の運動の原因であると考えられており、おそらく水の泉もそうである。そして、運動の原因が自身の中にあるもののうち、外部から運動するものと、自身の力で動くものもあると言われている。そして、両者を区別するのは、確かに生きているものの魂を持たないものは、自らの意思で動くからである[4]。
一方、魂を持つものは、空想[5]、すなわち欲求や刺激が与えられると、自らの意思で動く。その空想は、何かに向かって動くように促すのである。最後に、魂を持つものの中には、ある種の自然な本能によって呼び起こされ、秩序正しく規則的な動きへと駆り立てられるような空想、すなわち意志や感情[6]がある。クモの場合がまさにそうである。クモは、ある種の空想、すなわち織物への願望や欲望によって非常に秩序正しく刺激され、網を作るようになる。これは、間違いなく何らかの自然な動きが、この種の作業を行う努力を呼び起こすからである。この昆虫自身も、織物への自然な欲求以外の感情は持っていないことがわかっている。同様に、ミツバチも巣を作り、いわゆる空中蜜を集めることを望む[7]。
3. しかし、理性を持つ動物は、これらの自然な動きを内包しているだけでなく、他の動物よりもさらに理性の力を持っており、それによって自然な動きについて判断し決定し、あるものを不承認にして拒否し、あるものを承認して採用することができるので、この理性の判断によって人間の動きを統制し、称賛に値する生活へと導くことができる。そして、このことから、人間の中にあるこの理性の性質は、善悪を区別する力を内包しており、区別すると同時に承認したものを選択する能力も持っているので、善いものを選ぶことは正当に賞賛に値し、卑劣なものや邪悪なものに従うことは非難に値すると考えられる。実際、猟犬や軍馬のように、一部の無口な動物には他の動物よりも規則的な動き[8]が見られ、ある種の理性的な感覚によって動かされているように見えることがあるという事実は、決して見逃してはならない。しかし、これは理性というよりはむしろ、そのような目的のために大部分が与えられたある種の自然な本能の結果であると信じなければなりません[9]。 さて、すでに述べたように、理性的な動物の性質を考えると、私たち人間には外部から何かが起こることがあります。そして、これらの出来事は、私たちの視覚、聴覚、またはその他の感覚と接触し、私たちを良い行動へと駆り立てたり、その反対の行動へと駆り立てたりすることがあります。そして、それらは外部の源から来るので、私たちの力ではそれらの到来を防ぐことはできません。しかし、このように起こる出来事をどのように利用すべきかを決定し、承認するのは、私たちの中にある理性、つまり私たち自身の判断力の義務です。私たちは、その理性の決定によって、外部から来る刺激を、理性が承認する目的のために利用し、私たちの自然な行動は、その権威によって良い行動かその反対の行動かに決定されます。
4. もし今、誰かが、外的原因によって私たちに起こり、私たちの行動を促す事柄は、善であろうと悪であろうと、抵抗することが不可能な性質のものであると言うならば、この意見を持つ者は、少しの間自分自身に注意を向け、自分の心の動きを注意深く調べてみるべきである。なぜなら、何らかの欲望への誘惑が生じたとき、魂の同意が得られ、心の権威が邪悪な示唆に寛容を与えるまで何も成し遂げられないことを、すでに発見していない限り、そうである。したがって、私たちの心の法廷に住む裁判官に関して、2つの当事者が一定の蓋然性のある根拠に基づいて主張しているように思われ、理由の陳述の後、理性の判断から執行命令が下される可能性があるからである[10]。例えば、禁欲的で貞潔に生き、女性とのあらゆる不浄から身を遠ざけることを決意した男性に、たまたま女性が現れて、彼の目的に反する行動をするように彼を誘惑したとしても、その女性は彼の違反の完全かつ絶対的な原因や必然性ではない[11]。なぜなら、彼は自分の決意を思い出すことで情欲の誘惑を抑え、徳の厳しい戒めによって誘惑の快楽を抑えることができるからである。そうすれば、あらゆる放縦の感情が追い払われ、彼の決意は堅固で永続的なものとなる。最後に、神の教えによって強められた学識ある人々にそのような誘惑が現れたとしても、彼らはそれが何であるかを即座に思い出し、長年瞑想と教育の対象としてきたことを思い起こし、より神聖な教義の支えによって自らを強化し、快楽へのあらゆる誘惑を拒絶し、退け、彼らの内に植え付けられた理性の介入によって、反対の欲望を追い払うのである。
5. このように、これらの立場が一種の自然証拠によって確立されているのを見ると、私たちの行動の原因を外部から私たちに起こる事柄に押し付け、責任を私たち自身から転嫁するのは無駄ではないでしょうか。なぜなら、これは私たちが木片や石のように、それ自体には動きがなく、外部から動きの原因を受け取るだけだと言っているようなものだからです。このような主張は真実でも適切でもなく、意志の自由を否定するためだけに考案されたものです。そうでなければ、意志の自由とは、外部から私たちに起こるいかなることも、私たちを善悪に駆り立てることはできないということにあると考えることになります。また、もし誰かが私たちの過ちの原因を身体の自然な不調[12]に帰するならば、そのような理論はあらゆる教えの理に反することが証明されます[13]。なぜなら、多くの個人に見られるように、不貞で節度を欠いた生活を送り、贅沢と欲望の虜になった後、もし彼らが教えと訓戒の言葉によってより良い生活の道に進むよう促されると、贅沢で邪悪な人間から、慎み深く、最も貞潔で穏やかな人間へと変わるほどの大きな変化が起こるからです。また、静かで正直な人々の場合、落ち着きがなく恥知らずな人々と交わった後、彼らの善良な道徳は悪しき交わりによって堕落し、彼らは完全な悪人のようになるのを目にします[14]。 そして、これは時として成熟した男性にも当てはまり、若い頃はより貞潔に暮らしていたのに、年を重ねてより自由な生活様式にふけるようになった場合よりも、そのような男性の方が貞潔に暮らしていたことがあります。したがって、私たちの推論の結果は、外部から私たちに起こることは私たちの力ではどうにもならないことを示すことです。しかし、そうした出来事を善く使うか悪く使うかは、私たちの中に備わっている理性の助けによって、つまり、それらの出来事をどのように使うべきかを区別し決定することによって、私たちの力で決めることができるのです。
6. さて、聖書の権威によって理性の推論を裏付けるために、すなわち、正しく生きるかそうでないかは私たち自身の行いであり、外部から来る原因によっても、あるいは一部の人が考えるように運命の存在によっても強制されるのではないことを、預言者ミカの証言として挙げます。「人よ、何が良いことか、主があなたに何を求めておられるかがあなたに告げられたならば、正義を行い、慈しみを愛し、あなたの神、主と共に歩む用意をしなければならない。」[15] モーセもまた、次のように語っています。「わたしはあなたの前に命の道と死の道を置いた。良い道を選び、その道を歩みなさい。」[16] さらにイザヤは、次のように宣言しています。「もしあなたがたが望み、わたしに聞き従うならば、地の良いものを食べるであろう。しかし、もしあなたがたが望まず、わたしに聞き従わないならば、剣があなたがたを滅ぼすであろう。主がこう言われたのです。」[17] また詩篇にもこう書かれています。「もしわたしの民がわたしに聞き従い、イスラエルがわたしの道に従って歩んだならば、わたしはその敵を無に帰したであろう。」[18] これによって、民が神の言葉を聞き、神の道に従って歩む力を持っていたことが示されています。救い主もまた、「わたしはあなたがたに言う。悪に抵抗してはならない。」[19]、「兄弟に腹を立てる者は誰でも、裁きを受ける危険がある。」[20]、「女を見て情欲を抱く者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。」[21] と言い、他のいくつかの命令を発する際にも、命じられたことを守る力は私たち自身にあるということ以外に意味はありません。したがって、私たちが守ることができる戒めを破るならば、私たちは当然非難されることになります。それゆえ、主ご自身もこう宣言しておられます。「わたしの言葉を聞いて行う者は皆、だれに似ているか、わたしは示そう。岩の上に家を建てた賢い人に似ている」など[22]。また、「これらのことを聞いて行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」など[23]という宣言もあります。主の右にいる者たちに向けられた「わたしの父に祝福された者たちよ、皆わたしのところに来なさい」など、「わたしは飢えていたとき、あなたがたはわたしに食べ物を与え、渇いていたとき、あなたがたはわたしに飲み物を与えた」[24]という言葉も、命じられたことを行い約束されたものを受けたことで称賛に値する者と、反対のことを聞いたり受けたりして非難に値する者、すなわち「呪われた者たちよ、永遠の火の中へ去れ」と言われた者とに分かれることは、明らかに彼ら自身にかかっていたことを示しています。また、使徒パウロは、私たち自身が自分の意志をコントロールする力を持っていること、そして救いか破滅かの原因を自分自身の中に持っていることを指摘しています。「あなたは、神の恵みと忍耐と寛容の豊かさを軽んじているのですか。神の恵みがあなたを悔い改めに導くことを知らないのですか。しかし、あなたは頑なで悔い改めない心によって、裁きの日、すなわち神の正しい裁きが明らかにされる日に、自分自身のために怒りを積み重ねています。神は、各人にその行いに応じて報いを与えられます。忍耐強く善行を続け、栄光と不滅を求める者には永遠の命を[25]、 争いを好み、真理を信じず、不義を信じる者には、怒り、憤り、苦難、苦悩が、悪を行うすべての人の魂に、まずユダヤ人に、そして(その後)ギリシャ人に与えられます。しかし、栄光と「善を行うすべての人に栄誉と平和が与えられる。まずユダヤ人に、そして(その後)ギリシャ人に。」[26] また、聖書には、私たちが自由意志を持っていることを明白に示す無数の箇所があります。そうでなければ、戒めが与えられ、それを守ることによって救われ、それを破ることによって裁かれるという矛盾が生じます。もし私たちに戒めを守る力が植え付けられていないのであればです。
7. しかし、聖書自体に、これとは反対の意味が理解できると思われるような関連表現がいくつか見られるので、それらを私たちの前に示し、敬虔の規則に従って議論し[27]、それらを説明しましょう。そうすれば、今私たちが解説するいくつかの箇所から、それらに似ていて意志に対するいかなる力も排除されているように見える他の箇所の解決策が明らかになるでしょう。したがって、これらの表現は、神がファラオについて語る際に用いるもので、例えば、神がしばしば「私はファラオの心を頑なにする」[28]と言うときのように、非常に多くの人々に印象を与えます。なぜなら、もし彼が神によって頑なにされ、その結果として罪を犯すならば、彼の罪の原因は彼自身ではないからです。そしてもしそうならば、ファラオは自由意志を持っていないことが明らかになるでしょう。そして、この例えに照らして、滅びる他の人々も、自らの自由意志によって滅びる原因を負っているわけではない、と結論づけられるだろう。また、エゼキエル書で「わたしは彼らの石のような心を取り除き、肉の心を与え、わたしの戒めに従って歩み、わたしの道を守るようにする」[29]とある表現は、神の戒めを守ることの妨げとなる石のような心を取り除き[30]、より良く、より感化されやすい心、すなわち今[31]肉の心と呼ばれる心を授け、植え付けるならば、神の道に従って歩むこと、あるいは神の戒めを守ることは、神からの賜物であるように思われるので、ある人々に感銘を与えるかもしれない。また、福音書の中で、なぜ群衆にたとえ話で語られたのかと尋ねた人々に、主であり救い主であるイエスが答えた内容についても考えてみよう。彼の言葉はこうです。「彼らが見ても見えず、聞いても理解できないようにするためである。彼らが悔い改めて、罪が赦されることがないようにするためである。」[32] また、使徒パウロが用いた言葉に、「それは、意志する者によるのでもなく、走る者によるのでもなく、憐れみを示される神によるのである。」[33] また別の箇所では、「意志することと行うことは神によるものである。」[34] また別の箇所では、「それゆえ、神は、ご自分の望む者に憐れみをかけ、ご自分の望む者を頑なにする。あなたは私に言うであろう。『なぜ、なおも責めるのか。誰が神の意志に逆らうことができようか。』おお、人よ、あなたは神に反論する者、何者なのか。造られたものが、造った者に『なぜ私をこのように造ったのか』と言うだろうか。陶器師は、同じ粘土の塊から、尊い器と卑しい器を造る権限を持っていないのか。」[35]―これらと同様の宣言は、誰もが自分の意志を自由に決められるという考えを多くの人々が信じないようにする上で少なからぬ影響力を持っているようで、人が救われるか滅びるかは神の意志の結果であるかのように思わせる効果がある。
8. それでは、ファラオに語られた言葉から始めましょう。ファラオは、民を去らせないように神によって心を頑なにされたと言われています。そして、ファラオの事例とともに、使徒の言葉も考察します。使徒は、「それゆえ、神は、憐れむ者を憐れみ、心を頑なにする」と述べています[36]。 なぜなら、異端者たちは主にこれらの聖句に依拠し、救いは私たちの力によるものではなく、魂は必ず滅びるか救われるかのどちらかである性質のものであり、悪しき性質の魂が善くなることも、徳のある性質の魂が悪くなることも決してないと主張しているからです。そして、ファラオもまた、堕落した性質の持ち主であったため、地上の性質を持つ者を頑なにするが霊的な性質を持つ者には憐れみをかける神によって心を頑なにされたのだと主張しています。それでは、彼らの主張の意味を見てみましょう。まず最初に、ファラオの魂が、彼らが言うところの「失われた」ような地上的な性質のものであると主張するかどうかを尋ねてみましょう。彼らは間違いなく、地上的な性質のものであると答えるでしょう。もしそうであれば、彼の本性がそうすることに反対していたので、神を信じること、あるいは神に従うことは不可能でした。そして、これが彼の本性の状態であったならば、説得に屈服することが可能であったからでない限り、彼の心が頑なになる必要が、しかも一度ならず何度もあったのでしょうか。また、自ら頑固でない者以外は、他者によって頑なになったとは言えません。そして、彼が自ら頑固でないならば、彼は地上的な性質の者ではなく、しるしと不思議に圧倒されたときに屈服するような性質の者であったということになります[37]。しかし、彼は神の目的のために必要であった。それは、多くの人々を救うために、彼が数々の奇跡に抵抗し、神の意志に逆らうことで、神が彼の中にその力を現し、それによって彼の心が頑なになったと言われるためである。これが、まず第一に、これらの人々に対する私たちの答えである。そして、これによって、ファラオは悪しき性質の結果として滅びたという彼らの主張を覆すことができる[38]。 また、使徒パウロの言葉に関して、私たちは同様の方法で彼らに答えなければならない。あなた方の見解によれば、神が頑なにする人々とは誰なのか?すなわち、あなた方が堕落した性質を持つと呼んでいる人々であり、私が思うに、彼らは頑なになっていなければ別のことをしたであろう人々である。もし彼らが実際に頑なになった結果として滅びるならば、彼らはもはや自然に滅びるのではなく、彼らに降りかかる出来事によって滅びるのである。次に、神は誰に憐れみを示されるのか?すなわち、救われるべき人々である。そして、生まれながらにして一度救われ、自然に至福に至るはずの人々が、なぜ二度目の憐れみを必要とするのでしょうか。それは、彼らの事例からも、彼らが滅びる可能性があったからこそ、憐れみを受け、滅びることなく救済に至り、善の王国を所有することができると示される以外にありません。そして、善悪の性質、すなわち地上の魂か霊的な魂という寓話[39]を考案し、作り出した人々、つまり、彼らが言うように、それによって各人が救われるか滅びるかのどちらかであると主張する人々に対して、これが私たちの答えとなるでしょう。
9. さて、律法の神は正義のみであり、善ではないと考える人々にも答えなければなりません。そして、ファラオの心が神によってどのように頑なになったと考えているのか、どのような行為によって、あるいはどのような計画によってか、彼らに尋ねてみましょう[40]。 なぜなら、私たちの考えでは正義と善の両方を兼ね備えた神の概念[41]を、彼らには正義のみの神として捉えなければならないからです。そして、彼らも正義であると認める神が、いかにして人の心を頑なにし、その結果として罪を犯して滅びるという正義を、私たちに示してもらいましょう。また、神自身が、不信仰(心が頑なになったことによる)のために、後に裁判官の権威によって断罪した人々の滅びの原因であるならば、神の正義はどのようにして擁護されるのでしょうか。なぜ神はファラオを責めて、「しかし、あなたがわたしの民を行かせようとしないので、見よ、わたしはエジプトのすべての長子、すなわちあなたの長子を打つ」[42]などと言い、またモーセを通して神がファラオに語った他のすべてのことを言われたのでしょうか。聖書に記されていることの真実を主張し、律法と預言者の神が正義であることを示そうとする者は皆、これらのことすべてについて理由を説明し、神の正義を損なうようなことは何一つないことを示すべきです。なぜなら、彼らは神の善意を否定するものの、神が正義の裁き主であり、世界の創造主であることを認めているからです。しかし、この世界の創造主が悪意のある存在、すなわち悪魔であると主張する者に対する私たちの答え方は異なります。
10. しかし、モーセを通して語られた神は、正義であるだけでなく善でもあると認めるならば、正義と善なる神の性質に照らして、ファラオの心を頑なにしたのはどういうことなのかを注意深く考察してみよう。そして、使徒パウロの例にならって、いくつかの類似例を用いてこの難問を解決できるかどうか見てみよう。例えば、神は同一の行為によって、ある者には憐れみをかけ、別の者には心を頑なにするということを示すことができるだろうか。頑なになった者がそうなることを意図したり望んだりしているのではなく、神の善意と忍耐の現れにおいて、神の慈しみと寛容を軽蔑し傲慢に扱う者の心は、罪の罰が遅れることによって頑なになるのである。一方、神の善意と忍耐を悔い改めと改心のきっかけとする者は、憐れみを受けるのである。しかし、私たちの意図をより明確に示すために、使徒パウロがヘブライ人への手紙で用いた例えを取り上げてみましょう。彼はそこで、「雨が頻繁に降ってきて、それを吸い込み、耕す者にとってふさわしい草木を生やす地は、神から祝福を受ける。しかし、いばらやあざみを生やす地は捨てられ、呪いに近く、その最後は焼かれる。」[43]と述べています。さて、私たちが引用したパウロの言葉から、神の同じ行為、すなわち神が地上に雨を送ることによって、注意深く耕された地の一部は良い実を結び、放置され手入れされない別の地はいばらやあざみを生やすことが明確に示されています。そして、もし誰かが雨の立場に立って[44]、「良い実を作ったのは私、雨であり、いばらやあざみを生やしたのも私だ」と言うならば、その言葉がどれほど困難に思えようとも[45]、それは真実である。なぜなら、雨が降らなければ、実もいばらもあざみも生えず、雨が降ることで大地は両方を生み出したからである。さて、大地が両方の種類の草本を生み出したのは雨の有益な働きによるものであるが、草本の多様性は雨に正しく帰せられるべきではない。しかし、悪い種を蒔いた者たちには、正当な責任がある。彼らは、頻繁に耕して土を耕し、繰り返し耕うんして土塊を砕き、役に立たない有害な雑草をすべて根絶し、耕作に必要なあらゆる労力と苦労によって、来るべき雨に備えて畑をきれいに整えることができても、それを怠ったため、怠惰の最もふさわしい実であるイバラとトゲを刈り取ることになる。したがって、雨は慈しみと公平さをもって地球全体に平等に降るが[46]、雨の同じ働きによって、耕された土壌は勤勉で注意深い耕作者に祝福とともに有用な実りをもたらす一方、農夫の怠慢によって固くなった土壌はイバラとアザミしか生み出さない。したがって、神が行ったしるしと奇跡を、神が天から与えた雨と見なそう。そして人間の目的と欲望は、耕作された土壌と耕作されていない土壌のように、実際には同じ性質のものであり、他の土壌と比較するとすべての土壌は同じですが、耕作の状態は同じではありません。このことから、訓練されていない、凶暴で野蛮な意志は、神の奇跡と不思議によって硬化し[47]、これまで以上に野蛮で棘だらけになるか、悪徳から解放され、訓練を受けるならば、より柔軟になり、心全体で服従するようになるかのどちらかであることがわかります。
11. しかし、この点をより明確にするために、別の例を挙げても無駄ではないだろう。例えば、固めたり液状化したりするのは太陽であると言う場合、液状化と固化は正反対の性質のものである。太陽は、その熱の同じ力によって、確かに蝋を溶かし、泥を乾かして固めると言うのは間違いではない[48]。 太陽の力が泥に対しては一方的に作用し、蝋に対しては別の方法で作用するということではなく、泥と蝋の性質は異なるが、自然的には両者は地球から生じる同一のものであるということである[49]。このように、モーセがしるしと不思議によって行った神の働きは、ファラオが悪行の激しさの中で考えていた頑固さを明らかにしたが[50]、イスラエル人と混じり合っていた他のエジプト人の従順さを示し、彼らはヘブライ人と共にエジプトを去ったと記録されている。ファラオの心が徐々に屈服し、ある時には「遠くへ行ってはならない。三日間の旅路を進むが、妻と子供と家畜は残して行きなさい」[51]と言ったという記述、そして彼がしるしと不思議に徐々に屈服したように見える他の記述に関して、しるしと奇跡の力が彼に何らかの印象を与えていたが、それが本来与えるべきほどではなかったということ以外に、他に何が示されているだろうか。もしその硬化が多くの人が考えているような性質のものであったなら、彼はほんの数回でも譲歩することはなかっただろう。しかし、私は「硬化」という言葉が一般的に用いられるように比喩的、あるいは象徴的な[52]意味合いを持つと解釈することに、不合理はないと思う。奴隷に親切なことで知られる主人は、多くの忍耐と寛容によって奴隷が傲慢で無価値になったとき、しばしば奴隷にこう言うのが常である。「お前を今の姿にしたのは私だ。私がお前を甘やかしたのだ。私の寛容さがお前を役立たずにしたのだ。お前の歪んだ悪習は私の責任だ。お前の罪を、その行いに応じてすぐに罰しないからだ。」まず、言葉の比喩的、あるいは象徴的な意味に注意を払い、表現の力を理解し、その内なる意味が分からない言葉に欠点を見出さないようにしなければならない。最後に、明らかにそのようなことを扱っている使徒パウロは、罪の中にとどまっている者に対してこう言います。「あなたは神の恵みと寛容と忍耐の豊かさを軽んじ、神の恵みがあなたを悔い改めに導くことを知らないのか。それどころか、あなたの頑なさと悔い改めない心によって、神の正しい裁きが明らかにされる怒りの日に、あなた自身のために怒りを蓄えている。」[53] これは、罪の中にいる者に対する使徒の言葉です。これらの表現をファラオに当てはめて、彼についても適切に語られているかどうかを見てみましょう。なぜなら、彼の頑なさと悔い改めない心によって、彼は怒りの日にあなた自身のために怒りを蓄え、蓄積したからです。なぜなら、彼の頑なさは、これほど多くの壮大で奇跡的なしるしが行われなければ、決して明らかにされず、示されなかったからです。
12. しかし、私たちが挙げた証拠が十分でないように見え、使徒のたとえが適用性に欠けているように見えるならば[54]、預言者の権威の声を加え、最初は確かに正しい生活を送って、神の善意の多くの証拠を受けるに値するが、その後、人間であるゆえに迷いに陥った人々について、預言者が何を宣言しているかを見てみましょう。預言者は、彼らと自分も一つになって、こう言います。「主よ、なぜあなたは私たちをあなたの道から迷わせ、私たちの心を頑なにして、あなたの御名を恐れさせないようにされたのですか。あなたのしもべたちのために、あなたの嗣業の部族のために戻ってきてください。そうすれば、私たちもあなたの聖なる山から少しばかりの嗣業を得ることができるでしょう。」[55] エレミヤも同様の言葉を使っています。「主よ、あなたは私たちを欺き、私たちは欺かれました。あなたは私たちを捕らえ、「勝利した」[56] したがって、憐れみを祈った人々が用いた「主よ、なぜあなたは私たちの心を頑なにし、あなたの御名を恐れさせないのですか」という表現は、比喩的、道徳的な意味で解釈されるべきである[57]。それは、「なぜあなたは私たちをこれほど長い間許し、私たちが罪を犯したときには報いを与えず、私たちを見捨て、私たちの悪行が増し、罰が終わったときに罪を犯す自由が広がるようにしたのですか」と言うようなものである。同様に、馬は騎手の拍車[58]を絶えず感じ、口を{{r|銜|くつわ}}[59]で擦りむかなければ、心が硬くなる。少年もまた、絶えず懲罰によって訓練されなければ、傲慢な若者に成長し、悪に真っ逆さまに陥る者となる。神は、懲らしめを受けるに値しないと判断した者たちを、それゆえに見捨て、無視する。「主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子を鞭打たれる。」[60] このことから、主によって鞭打たれ、懲らしめられるに値する者たちが、子としての地位と愛情に受け入れられるべきであると推測される。それは、彼らもまた、試練と苦難に耐えることによって、「キリスト・イエスにある神の愛から、誰が私たちを引き離すことができるだろうか。苦難か、苦悩か、飢饉か、裸か、危険か、剣か。」[61] と言えるようになるためである。なぜなら、これらすべてによって、各人の決意が明らかにされ、示され、忍耐の堅固さが、すべてのことが起こる前にすべてを知っている神に対してというよりは、人間の救いを得る働きに一種の助手として参加している理性的で天上の徳[62]に対して知らされるからである。そして神に仕える者たち。一方、そのような揺るぎない愛情をもって神に身を捧げず、神に仕える準備もできておらず、試練に備えて魂を整える準備もできていない者たちは、神に見捨てられた、すなわち教えを受けないと言われる。なぜなら、彼らは教えを受ける準備ができていないため、彼らの訓練や世話は疑いなく後回しにされるからである。彼らは、まず恩恵を受けたいという願望を抱かない限り、神から何を得るのかを確かに知らない。そして、人がまず自分自身を知り、自分の欠点を感じ、誰から自分の欠点を補うべきか、あるいは補うことができるかを理解すれば、最終的にそうなるだろう。なぜなら、自分の弱さや病気を前もって知らなければ、医者を求めることはできないからである。あるいは少なくとも、健康を取り戻した後、最初に自分の病気の危険性を認識しなかった医者に感謝することはないだろう。ですから、人がまず自分の人生の欠点や罪の悪質さを認識し、それを自らの口から告白して明らかにしない限り、清められたり無罪放免されたりすることはないのです。なぜなら、自分が持っているものが恩恵によって与えられたものであることを知らずに、神の寛大さから生じるものを自分の所有物だと考えてしまう可能性があるからです。そのような考えは疑いなく傲慢な心とプライドを生み出し、最終的には個人の破滅の原因となるのです。そして、悪魔の場合もそうであったと信じなければなりません。悪魔は、自分が汚れのない時に保持していた優位性を[63]、神から与えられたものではなく、自分のものだと考えていました[64]。 こうして、悪魔において「自分を高める者は皆、低くされる」という宣言が成就しました[65]。 このことから、聖書の「いかなる肉なる者も神の前で誇ってはならない」[66]という記述に従って、神の奥義は賢者や思慮深い者には隠され、子供たち、すなわち、幼児や幼い子供に戻った後、つまり、子供の謙遜と単純さに戻って進歩する人々に明らかにされたように思われます。そして、完全に達したとき、彼らは自分の幸福の状態を自分の功績によってではなく、神の恵みと憐れみによって得たことを思い出すのです。
13. それゆえ、見捨てられるに値する者が見捨てられるのは神の裁きによるものであり、一方で神は一部の罪人に対して寛容を行使される。しかし、それは明確な行動原理なしに行われるのではない[67]。 いや、神が寛容であるという事実そのものが、まさにそのような人々の利益につながる。なぜなら、神がこの摂理的な配慮を行使される魂は不滅であり、不滅で永遠であるゆえに、すぐに配慮されないとしても、救いから除外されることはなく、より都合の良い時期に延期されるからである。おそらく、悪の毒に深く染まった人々にとっては、この救いを後になって得る方が都合が良いのだろう。医師は、傷の跡をすぐに覆うことができたとしても、より良く完全な回復を期待して、当面は治療を遅らせ、傷による腫れの場合、治療を遅らせて悪性の体液がしばらく流れ出るのを待つ方が、通常の出口から排除された病的な体液の毒を静脈内に閉じ込めて表面的な治癒を急ぐよりも有益であることを知っていたからです。病的な体液の毒は、間違いなく四肢の内部に忍び込み、内臓の生命の源にまで達し、もはや単なる病気ではなく、生命を破壊することになります。同様に、心の秘密を知っていて未来を予知する神もまた、寛容の心で、外から人々に降りかかる出来事が起こることを許し、それによって、内に隠されている情欲や悪徳が光の下に現れるようにする。それは、大きな怠慢や不注意によって罪の根源や種を自分の中に受け入れてしまった人々が、それによって清められ、癒されるようにするためである。そして、それらが外に追い出されて表面に現れるとき、ある程度は追い出されて散逸することができる[68]。 こうして、人は深刻な種類の悪に苦しめられ、全身に痙攣を起こしているように見えるかもしれないが、それでも将来いつか、苦しみから解放され、苦しみが止むかもしれない。そして、苦しみに飽きるまで耐えた後、多くの苦しみを経て、再び(本来の)状態に戻るかもしれない。神は、私たちの現在の人生という短い期間(60年以上[69]を含む)だけを考慮して魂を扱っているのではなく、永遠かつ終わりのない期間を念頭に置いて、不滅の魂に対して摂理的な配慮を行使しておられる。それは、神ご自身が永遠不滅であるのと同様である。神は、ご自身の姿と形に創造された理性的な性質を不朽のものとされた。したがって、不滅の魂は、現在の人生の短さによって神の救済と癒しから除外されることはない。
14. しかし、私たちが述べた事柄のたとえ話から、福音書にも同様のことが述べられている。そこには、表面に少し土がついた岩が描かれており、そこに種が落ちるとすぐに芽を出すとされている。しかし、芽を出した後、太陽が天に昇るにつれて枯れ、死んでしまう。それは、根を地中に深く張らなかったからである[70]。 この岩は、疑いなく人間の魂を表している。それは、自らの怠慢のために頑固になり、悪行のために石のように固くなったのである。神は創造の行為によって誰にも石のような心を与えたのではなく、各個人の心は、自らの悪行と不従順によって石のように固くなるのである。したがって、もし誰かが、他の岩だらけの土壌に蒔かれた種がすぐに芽を出すのを見て、農夫が岩だらけの土地に種を蒔くのが遅かったことを非難したとしたら、農夫はきっとこう答えるだろう。「私はこの土壌に種を蒔くのを遅らせている。それは、受け取った種を保持するためである。この土地には、ややゆっくりと種を蒔くのが適している。そうしないと、作物があまりにも早く芽を出し、浅い土壌の表面から出てきただけで、太陽の光に耐えられないかもしれないからだ。」かつて非難していた者も、農夫の理屈と優れた知識に納得し、以前は何の根拠もないように見えたことが、理にかなった根拠に基づいて行われたと認めるのではないだろうか。同様に、神は、その創造物すべてを熟知した農夫であり、私たちがもっと早く健康になるべきだと考えるものを、疑いなく別の時まで隠したり遅らせたりする。それは、物事の内側ではなく外側が癒される[71]ことがないようにするためである。しかし、もし今、ある種の種は岩だらけの地、すなわち固く石のような心にも落ちるのだと誰かが反論するならば、私たちは、それさえも神の摂理の取り決めなしには起こらないと答えるだろう。なぜなら、それがなければ、軽率な聞き方や無関心な調査によってどのような非難を受けるのか、また、秩序だった方法で訓練されることからどのような利益が得られるのかは、確かに知られないからである[72]。そして、それゆえ、魂は自分の欠点を知り、自らを責め、それと矛盾することなく、訓練に身を委ね、従うようになる。つまり、まず自分の欠点を取り除かなければならないこと、そして次に知恵の教えを受けなければならないことを理解するためである。したがって、魂は無数にあるので、その作法、目的、動き、欲求、動機もまた異なり、その多様性は人間の心では決して把握できない。したがって、このような取り決めの技術、知識、力は神のみに委ねられなければなりません。なぜなら、神だけが個々の魂に対する治療法を知っており、その治癒の時期を測ることができるからです。先に述べたように、個々の人間の道を認識し、ファラオをどのような道に導くべきかを決定し、彼を通して神の名が全地に知られるようにするため、以前に多くの打撃で彼を懲らしめ、最後に海に溺れさせたのは、神だけです。しかし、この溺死によって、ファラオに関する神の摂理が終わったと考えるべきではありません。なぜなら、彼が溺死したからといって、すぐに完全に滅びたと考えるべきではないからです。聖書が宣言しているように、「私たちも私たちの言葉も[73]、すべての知恵も、また、すべての技術の知識も、神の手の中にある」[74]のです。しかし、これらの点については、我々の能力に応じて議論し、神がファラオの心を頑なにしたと述べられている聖書の章[75]を取り上げ、また「神は憐れみたい者を憐れみ、頑なにしたい者を頑なにする」[76]という記述に従って論じた。
15. さて、エゼキエル書の「わたしは彼らから石のような心を取り除き、肉の心を与える。それは、彼らがわたしの律法に従って歩み、わたしの定めを守るためである」[77]という箇所を見てみましょう。神が御心にかなう時に石のような心を取り除き、肉の心を与えて、神の定めを守り、神の戒めに従うようにされるのであれば、悪を取り除くことは私たちの力ではできないことが明らかになります。石のような心を取り除くということは、神が取り除きたいと願う者から、人を頑なにしている悪を取り除くことと他ならぬようです。また、神の教えを守り、神の戒めに従うように肉の心を与えるということは、人が従順になり、真理に抵抗せず、徳のある行いをすることと他ならぬのです。ですから、神がこのことを約束し、そしてもし、神は石のような心を取り除いてくださるが、私たちはそれを自分自身から取り除くことはできない。したがって、悪を捨てることは私たちの力ではなく、神のみの力であるということになる。また、私たちの内に肉の心を形成することが私たちの行いではなく、神のみの働きであるならば、徳高く生きることは私たちの力ではなく、あらゆる点で神の恵みの働きであるように見えるだろう。これは、聖書の権威から、私たちの力でできることは何もないと証明しようとする人々の主張である。さて、私たちはこれらの聖句をそのように理解するのではなく、次のように理解すべきであると答える。無知で教えを受けていない人が、自分の無知の恥を感じ、誰かの勧めによって、あるいは他の賢人に倣いたいという願望によって、注意深く訓練され、適切に教えられると保証されている人に身を委ねる場合を考えてみよう。もし、以前は心を頑なにしていた人が、弟子が無知から解放され、先に述べたように、心を込めて師に身を委ね、あらゆることにおいて師に従うことを約束すれば、師は弟子の決意の固さをはっきりと見て、無知をすべて取り除き、知識を弟子の心に植え付けることを約束するでしょう。弟子が師の努力を拒否したり抵抗したりすれば師はそうするわけではありません。弟子が自らを捧げ、あらゆることにおいて従順であることを誓う場合にのみ、師はそうするのです。同様に、神の言葉も、神に近づく者たちに、彼らの石のような心を取り除いてくださると約束しています。それは、神の言葉に耳を傾けない者たちからではなく、神の教えの戒めを受け入れる者たちからです。福音書には、病人が救い主に近づき、健康を授けてくださるよう願い、ついに癒される場面が描かれています。盲人が癒されて視力を取り戻すためには、彼らの役割は救い主に嘆願し、救い主によって癒されると信じることであり、一方、神の役割は、彼らには、見る力がある。そして、このようにして、神の言葉は、石のような心を取り除くことによって、すなわち悪を取り除くことによって、教えを与えることを約束している。それによって、人々は神の教えに従って歩み、律法の戒めを守ることができるようになる。
16. 次に、救い主が福音の中で語られた次の宣言が私たちの前に提示されます。「彼らは見ても見えず、聞いても理解しない。彼らが回心して罪が赦されることがないようにするためである。」[78] これに対して、私たちの反対者は次のように述べるでしょう。「もし、よりはっきりと聞く者が必ず矯正され、回心し、罪の赦しを受けるにふさわしい方法で回心するのであれば、そして、彼ら自身の力で御言葉をはっきりと聞くことができないのであれば、教師がより公然と、はっきりと教える必要があるのであれば、教師は、彼らが聞いて理解し、回心し、救われることがないように、あえてはっきりと御言葉を告げないと宣言しているのであれば、彼らの救いは彼ら自身に依存しないということが確かに導き出されます。そして、もしそうであるならば、私たちは救いについても滅びについても自由意志を持たないことになります。」さて、「彼らが回心して、罪が赦されることがないように」という言葉が付け加えられていなければ、救い主は、善人にならないと予見した人々が天の御国の奥義を理解することを望まず、そのためたとえ話で彼らに語りかけたのだと答える傾向が強かったかもしれません。しかし、「彼らが回心して、罪が赦されることがないように」という言葉が付け加えられているため、説明はより難しくなります。そしてまず第一に、この箇所が、旧約聖書から、彼らの見解によれば創造主である神の厳しさや残酷さを暗示しているように見える表現を探し出すことに慣れている異端者たちに対してどのような弁護を提供しているかに注目しなければなりません。例えば、神が復讐心や罰の感情に駆られていると描写されている場合、あるいは、どのような名前で呼ばれていようとも、創造主の中に善が存在することを否定するような感情に駆られていると描写されている場合などです。なぜなら、彼らは福音書を同じ心構えと感情で判断せず、旧約聖書で非難し批判しているような記述が福音書にも見られるかどうかを吟味しないからである。明らかに、言及されている箇所では、彼ら自身も認めているように、救い主ははっきりと語らないことが示されている。それは、人々が回心せず、回心しても罪の赦しを受けないようにするためである。さて、もしこれらの言葉を文字通りに理解するならば、旧約聖書で彼らが非難している箇所と何ら変わらない内容が含まれていることは間違いない。そして、もし彼らが新約聖書でそのような文脈で出てくる表現は説明が必要だと考えるならば、旧約聖書で非難されている表現も同様に説明することで非難から解放され、それによって両聖書に見られる箇所が同一の神から発していることが示されることになる。しかし、できる限り元の問題に戻ろう。
17. ファラオの事例について議論した際に述べたように、病気が体の内側に閉じ込められてより激しく蔓延する場合、人があまりにも早く治癒すると良い結果にならないことがあります。そこで、秘密の事柄を知っておられ、すべてのことが起こる前に知っておられる神は、その偉大な慈悲によって、そのような人の治癒を遅らせ、回復をより遠い時期に延期し、いわば治癒しないことで治癒するのです。それは、健康状態が良すぎると治癒不能になるのを防ぐためです[79]。したがって、主であり救い主であるイエス・キリストの言葉が「外にいる」人々に向けて語られた場合、イエスは彼らの心と内臓を吟味して、彼らがまだより明確な教えを受け入れることができないと見て、より深遠な神秘の意味を言葉の覆いで覆い隠した可能性がある。それは、彼らが急速に回心し癒され、すなわち罪の赦しを速やかに得たとしても、何の苦労もなく癒されたはずの同じ病に再び容易に陥ってしまうことを防ぐためであった。もしそうであれば、罰が倍増し、悪の量が増えることは誰も疑う余地がない。なぜなら、赦されたように見えた罪が繰り返されるだけでなく、隠された悪で満たされた欺瞞的で汚れた存在[81]によって踏みにじられると、徳の法廷[80]も汚されるからである。不浄で汚れた悪の食物を食した後、徳の心地よさを味わい、その甘美さを口にしたにもかかわらず、再び罪の致命的で毒のある糧に身を委ねる者たちに、一体どんな救済策があり得るだろうか。そして、もし将来、彼らが悪に飽き足らず、今彼らが喜んでいる汚れが忌まわしいものとなったとしても、神の言葉がようやく彼らに適切に明らかにされ、聖なるものが犬に与えられず、真珠が豚の前に投げられることがないように、そして豚がそれらを踏みにじり、さらに向きを変えて、神の言葉を宣べ伝えた者たちを引き裂き、攻撃するようにならないよう、遅延や一時的な放棄が起こる方が良いと疑う者はいるだろうか。つまり、これらの人々は「外にいる」と言われている人々であり、疑いなく「内にいる」と言われている人々、つまり神の言葉をよりはっきりと聞く人々との対比としてそう言われているのです。しかし、「外にいる」人々も、たとえ話で覆われ、ことわざで覆い隠されていても、神の言葉を聞きます。また、外にいる人々の他に、ティルス人と呼ばれる人々がいますが、彼らは全く聞きません。救い主は、もし他の人々の間で行われた奇跡が彼らの間でも行われていたら、彼らはずっと前に粗布をまとい灰をかぶって悔い改めていただろうと知っていました。しかし、彼らは「外にいる」人々でさえ聞いていることを聞きません。そして、この理由から、私は、そのような人々の悪の位は、「外にいる」と言われる人々、つまり内にいる人々から遠くなく、たとえたとえ話であっても神の言葉を聞くに値する人々の悪の位よりもはるかに低く、悪かったと信じています。そしておそらく、彼らの救済が、記録されている奇跡が行われた人々よりも、審判の日に彼らにとってより耐えやすい時期まで遅れたからであり、そうして最終的に罪の重荷から解放された彼らは、より容易に、より強い忍耐力をもって安全な道へと進むことができるようになるためである。
そして、私がこれらのページを熟読する人々に強調したい点は、このような難解で不明瞭な主題に関して、私たちは、問題の解決策を明確に確認することよりも(聖霊が語らせるままに誰もがそうするでしょう)、最も紛れもない方法で信仰の規則を維持することに最大限の努力を払っているということです[82]。 すべてのものを公平に管理する神の摂理は、各個人の功績と動機に応じて最も公正な原則に基づいて不滅の魂も支配し(報いを与える)、現在の物事の経済[83]はこの世の生活に限定されるものではなく、前世の功績の状態は常に後に続く状態の基礎を提供し[84]、このようにして永遠不変の公平の法則と神の摂理の支配的な影響によって、不滅の魂は完全の頂点に導かれるのです。しかし、もし誰かが、説教の言葉が悪人で無価値な者たちによって故意に無視されたという我々の主張に異議を唱え、また、なぜ、確かに軽蔑されていたティルス人よりも優遇された人々に説教が行われたのか(そうすることで、確かに彼らの悪行は増し、信じようとしない彼らが説教を聞くことで彼らの裁きはより厳しくなった)と問うならば、次のように答えなければならない。すべての人間の心を創造された神は、特に「私たちは、他の人が見たものを見ず、他の人に説教された言葉を聞かなかったのに、どうして信じることができようか」と言う人々からの、ご自身の摂理に対する不満を予見しておられる。しかし、その言葉が告げられ、しるしが示された人々は、少しもためらうことなく、奇跡の力そのものに圧倒されて信者となったので、その点において、我々の非難は取り除かれるのである。このような不満の根拠をなくし、神の摂理が隠されているのではなく、人間の心の決定が彼らの破滅の原因であることを示そうと、神はふさわしくない者や不信仰な者にも恵みを与え、すべての口が閉じられ、すべての欠点は自分自身の側にあるのであって、神の側にはないことを人間の心が知るようにした。また、同時に、神の恵みを軽んじた者は、それを得る資格も聞く資格もない者よりも重い罰を受けること、そして、奇跡の力を目の当たりにし、その知恵の神秘を認識し聞いた後、それを軽蔑し無関心に扱うことで、不敬虔さゆえにさらに厳しい罰を受けることがないように、特定の個人から神の力の神秘を見たり聞いたりする機会を隠しておくことは、神の慈悲の特質であり、その執行の極めて公正さの証であることも理解され、認識されるべきである。
18. さて、「それは、意志する者によるのでもなく、走る者によるのでもなく、憐れみを示される神によるのです」[85]という表現を見てみましょう。私たちの反対者たちは、人が救われるかどうかは、意志する者によるのでもなく、走る者によるのでもなく、憐れみを示される神によるのであるならば、私たちの救いは私たち自身の力によるものではないと主張します。なぜなら、私たちの本性は、救われるか救われないかのどちらかを許容するものであり、そうでなければ、私たちの救いは、もしそれを望むならば憐れみを示し、救いを与える神の意志のみにかかっているからです。さて、まず最初に、そのような人々に、祝福を望むことは良い行為か悪い行為か、そして最終目標として善を追い求めることは称賛に値するか[86]尋ねてみましょう。もし彼らがそのような行為は非難に値すると答えるならば、彼らは明らかに狂っているでしょう。なぜなら、すべての聖なる人々は祝福を望み、それを追い求めますが、決して非難されるべきではないからです。それでは、救われていない者が、もし悪しき性質を持っているならば、祝福を望み、それを追い求めるのに、なぜ祝福を見つけられないのでしょうか。悪い木からは良い実がならないのに、祝福を望み求めることは良い実であると言う人がいます。では、悪い木の実がどうして良いのでしょうか。また、祝福を望み、それを追い求めることは無関心な行為、つまり善でも悪でもない行為であると主張する人がいますが、祝福を望み、それを追い求めることが無関心な行為[87]であるならば、その反対、すなわち悪を望み、それを追い求めることも無関心な行為となるでしょう。しかし、悪を望み、それを追い求めることは無関心な行為ではなく、明らかに邪悪な行為であることは確かです。したがって、祝福を望み、それを追い求めることは無関心な行為ではなく、徳のある行為であることが確立されます。
先ほど述べた答えによってこれらの反論を退けたので、主題そのものの議論に急ぎましょう。そこには、「それは、意志する者によるのでもなく、走る者によるのでもなく、憐れみを示される神によるのです」[88]とあります。詩篇、特にソロモンに帰せられる昇階の歌には、次のような記述があります。「主が家を建ててくださらなければ、建てる者の労苦はむなしい。主が都を守ってくださらなければ、見張り人の見張りはむなしい。」[89] この言葉は、私たちの内にある都を建てたり、守ったりすることをやめるべきだと言っているわけではありません。彼が指摘しているのは、神なしに建てられたもの、神なしに守られたものは、むなしく建てられ、何の役にも立たないということです。よく建てられ、よく守られているものすべてにおいて、主は、その建設または保護の原因であると考えられています。例えば、見事な建築技術で建てられた壮麗な建造物や巨大な建物を目にしたとしましょう。私たちは、それが人間の力ではなく、神の助けと力によって建てられたと、当然かつ当然に言うのではないでしょうか。しかし、そのような発言は、人間の努力の労苦や勤勉さが全く働かず、何も成果を上げなかったという意味ではありません。また、敵の厳しい封鎖によって都市が包囲され、城壁には脅威となる兵器が持ち込まれ、城壁、武器、火、そして破壊のためのあらゆる戦争の道具によって都市が厳しく圧迫されているのを見たとしましょう。もし敵が撃退され、敗走したならば、解放された都市の救済は神によって成し遂げられたと、当然かつ当然に言うのではないでしょうか。しかし、そう言うことによって、歩哨の警戒心や若者の機敏さ[90]、あるいは警備兵の保護が欠けていたという意味ではありません。使徒も同様に理解されるべきである。なぜなら、人間の意志だけでは救いを得るには不十分であり、いかなる人間が努力しても天の報いを得ることも、キリスト・イエスにおける神の崇高な召命の賞を得ることもできないからである[91]。私たちの善意と決意、そして私たちの中にあるどんな勤勉さも、神の助けによって支えられ、与えられる必要がある。それゆえ、使徒は最も論理的に「それは意志する者によるのでもなく、走る者によるのでもなく、憐れみを示される神によるのだ」[92]と言ったのである。農業について、実際に書かれていることを言うのと同じように、「私は種を蒔き、アポロは水をやったが、成長させてくれたのは神である。だから、種を蒔く者も水をやる者も何者でもなく、成長させてくださるのは神である」[93]。したがって、畑が豊かで良い作物を完全に成熟させたとき、農夫がそれらの実を作ったと敬虔かつ論理的に主張する人は誰もいないだろうし、それらは神によって生み出されたものだと認めるだろう。同様に、私たちの完全性も、私たちが怠惰で無為のままでいることによってもたらされるのではなく[94]、(私たちの側の何らかの活動によってもたらされる)、それでもその完成は私たちに帰せられるのではなく、その仕事の第一かつ主要な原因である神に帰せられるだろう。ですから、船が海の危険を乗り越えたとき、たとえその結果が船員たちの多大な努力、あらゆる航海術の助け、水先案内人の熱心さと注意深さ、追い風の影響、星の兆候の注意深い観察によって達成されたとしても、正気な人間であれば、波に翻弄され、うねりに疲れ果てた後、ついに無事に港にたどり着いた船の安全を、神の慈悲以外の何物にも帰することはないでしょう。船員や水先案内人でさえ、「私が船を救った」とはあえて言わず、すべては神の慈悲によるものだと言います。それは、自分たちが船を救うために何の技術や労力も費やしていないと感じているからではなく、自分たちが労力を費やした一方で、船の安全は神によって保証されていたことを知っているからです。同様に、私たちの人生という競争においても、私たち自身も努力を費やし、勤勉さと熱意を発揮しなければなりません。しかし、救いは私たちの努力の成果として神から期待されるべきものです。そうでなければ、神が私たちの努力を何も求めないのであれば、神の戒めは無意味なものに見えてしまうでしょう。パウロが真理から堕落した人々を責め、信仰にとどまった人々を称賛するのも無駄です。また、彼が教会に特定の戒めや制度を伝えるのも無意味です。私たち自身も善を望み、追い求めるのも無駄です。しかし、これらのことが無駄に行われることは決してありません。使徒たちが無駄に教えを与えることも、主が理由なく律法を制定することも決してありません。したがって、むしろ、異端者たちがこれらの善い宣言を悪く言うのは無駄であると私たちは宣言するのです。
19. この後に、「意志することと行うことは神から出ている」という点が続きます[95]。 私たちの反対者は、意志することが神から出ていて、行うことも神から出ている、あるいは善悪を問わず行動したり望んだりすることが神から出ているのであれば、その場合、私たちは自由意志を持っていないと主張します。これに対して私たちは、使徒の言葉は、悪を意志することが神から出ているとか、善を意志することが神から出ているとか、善悪を行うことが神から出ているとか言っているのではなく、意志することと行うことは神から出ているという一般的なことを述べているのだと答えなければなりません。なぜなら、私たちが人間であること[96]、呼吸すること、動くことという性質そのものを神から受け継いでいるように、私たちが意志する能力(能力)も神から受け継いでいるからです。あたかも、私たちの運動能力が神から出ている[97]とか、個々の身体部位によるこれらの義務の遂行とその運動が神から出ていると言うかのようです。確かに、そこから私が理解できるのは、例えば不当に罰したり、盗みを働いたりするために手が動くからといって、その行為が神のものであるということではなく、単に動きの力[98]が神から来ているということだけです。そして、神から与えられたその動きを実行する力を、善か悪のどちらかの目的に向けるのは私たちの義務です。ですから、使徒が言っているのは、私たちは確かに意志の力を受けていますが、その意志を善か悪の欲望のどちらかに誤用しているということです。同様に、私たちは結果についても判断しなければなりません。
20. しかし、使徒の宣言、「それゆえ、神は憐れもうと思われた者を憐れみ、頑なにされようと思われた者を頑なにされる。あなたは私に言うだろう、『なぜ神はなおも責めるのか。誰が神の意志に逆らったというのか。いや、人よ、あなたは神に反論する者、何者なのか。造られたものが、造った者に、『なぜ私をこのように造ったのか』と言うだろうか。陶工は粘土の塊から、尊い器と卑しい器を造る権限を持っていないのか。」[99] ある人は、陶工が同じ粘土の塊から尊い器と卑しい器を造るように、神はある人を滅びに、ある人を救いに創造し、したがって救われるか滅びるかは私たちの力ではどうにもならない、と言うかもしれない。この理屈によれば、私たちは自由意志を持っていないように見える。このような意見を持つ人々には、「使徒が自己矛盾を起こすことはあり得るだろうか?」と問いかけなければなりません。もし使徒がそのようなことをするとは考えられないのであれば、コリントで姦淫を犯した者、あるいは罪を犯したにもかかわらず、不貞、姦淫、不潔な行いを悔い改めなかった者を非難する使徒の正当性は、彼らにとってどうして明らかになるのでしょうか。また、彼はオネシフォロスの家のように正しく行動した人々を大いに称賛し、「主がオネシフォロスの家に憐れみを与えてくださいますように。彼はしばしば私を慰め、私の鎖を恥じることなく、ローマに来たときには熱心に私を探し出し、見つけ出してくれました。主がその日に彼に主の憐れみを与えてくださいますように」[100]と言っています。さて、非難されるべき者、つまり罪を犯した者を非難し、善行によって称賛に値する者を大いに称賛することは、使徒の厳粛さとは相容れません。また、善悪を行う力は誰にもないかのように、創造主が一人を尊ぶ器とし、別の一人を辱める器としているのだから、各人が徳高く行動するか悪事を働くかは創造主の仕業であると言うのも、矛盾しています。そして、どうして彼は「私たちは皆、キリストの裁きの座の前に立たなければならない。それは、私たち一人ひとりが、善であれ悪であれ、自分の行いに応じて、その体で罰を受けるためである」[101]という言葉を付け加えることができるだろうか。創造主によって悪を行うように造られた、悪を行うことができない人に、善の報いが与えられるだろうか。あるいは、創造主の創造行為の結果として善行を行うことができなかった者には、どのような罰が当然に下されるのでしょうか[102]。 また、これは、別の箇所にある「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあり、あるものは尊いもの、あるものは卑しいもの。それゆえ、人がこれらの器から身を清めるならば、尊い器となり、聖別され、主の御用にふさわしく、あらゆる善い行いのために備えられるであろう。」[103]という宣言と矛盾しないでしょうか。したがって、身を清める者は尊い器となり、不純さから身を清めることを軽んじた者は卑しい器となります。このような宣言から、私の意見では、私たちの行動の原因は、いかなる点においても創造主に帰することはできません。なぜなら、創造主である神は、ある器を尊い器とし、別の器を卑しい器とするからです。しかし、あらゆる不浄から自らを清めた器は、神は尊い器とし、悪徳の汚れで自らを汚した器は、不名誉な器とする。したがって、そこから導き出される結論は、各人の行為の原因は先在するものであり、そして各人は、その行いに応じて、神によって尊い器か不名誉な器のどちらかに造られるということである。ゆえに、個々の器は、自らから創造主に対して、尊い器か不名誉な器かに造られる原因と機会を提供しているのである。そして、もし、すべての器が神によって尊ぶため、あるいは辱めるために用意されるのは、以前の原因によるものであるという主張が、確かに正しく、すべての敬虔さと調和しているならば、同じ順序で同じ方法でより遠い原因を論じることで、魂の本質に関して同じ結論に達し、ヤコブがこの世に生まれる前から愛され、エサウがまだ母親の胎内にいる間に憎まれたのは、これが理由であると信じることも、不合理には思えない。
21. いや、同じ粘土の塊から、尊ぶための器と不名誉のための器が作られるというその宣言は、私たちを苦しめるものではありません。なぜなら、私たちは、陶工が扱う粘土の塊のように、すべての理性的魂の本質は同じであると断言するからです。このように、理性的被造物の本質は一つであると見なして、神は、前述の功績の根拠[104]に従って、陶工が一つの粘土の塊からある人々を尊ぶために、またある人々を不名誉にするために創造し、形作りました。さて、使徒が非難の調子で述べている「いや、しかし、人よ、あなたは神に反論する者、何者なのか」という言葉についてですが、彼が指摘したいのは、正しく公正に生き、神を信頼する信者、すなわち聖書に「モーセが語ると、神は声で彼に答えた」[105]とあるモーセのような信者には、そのような非難は向けられていないということだと思う。神がモーセに答えたように、すべての聖徒も神に答える。しかし、不信仰者であり、その生活や行いの不徳ゆえに神の前で答えることに自信を失い、これらの事柄に関して学び進歩しようとせず、反対し抵抗し、もっとはっきり言えば、使徒が「なぜ神はなおも責めるのか。誰が神の意志に逆らえるだろうか」と言うときに示している言葉を言うことができるような者に対して、使徒の非難「いや、人よ、神に反論するあなたは一体何者なのか」は正しく向けられるべきである。したがって、この非難は信者や聖人ではなく、不信者や悪人に向けられる。
さて、異なる性質の魂を持ち出し[106]、使徒のこの宣言を自分たちの意見の根拠にしている者たちに対して、私たちは次のように答えなければなりません。もし彼らでさえ、使徒の言うとおり、一つの塊から尊ぶべき者と不名誉な者、救われるべき性質と滅びるべき性質を持つ者の両方が形作られるということに同意するならば、もはや異なる性質の魂は存在せず、すべての人にとって一つの性質となるでしょう。また、もし彼らが、同一の陶工が疑いなく一人の創造主を指していると認めるならば、救われる者と滅びる者の創造主は別々ではなくなるでしょう。さて、彼らに、悪人や破滅する者を創造する善なる創造主を想定するか、善くない創造主で善人や尊ぶ用意のある者を創造するかを選ばせましょう。なぜなら、答えを返す必要性によって、彼らはこの二つの選択肢のうちどちらかを選ばざるを得なくなるからです。しかし、私たちの宣言によれば、神が尊厳を与える器と不名誉を与える器を創造するのは、先行する原因によるものであるとされていますが、神の正義の承認は、いかなる点においても限定されるものではありません。なぜなら、先行する原因によってこの世で尊厳を与える器として創造された者が、もし怠慢な行いをするならば、来世においてその行いに応じて不名誉を与える器へと変えられる可能性があるからです。同様に、先行する原因によってこの世で創造主によって不名誉を与える器として創造された者が、行いを改め、あらゆる汚れや悪徳から身を清めるならば、新しい世界では尊厳を与える器として、聖化され、有用となり、あらゆる善行を行う準備が整えられる可能性があるのです。最後に、この世で神によってイスラエル人として形作られたにもかかわらず、その民族の高貴さにふさわしくない生活を送り、その血統の偉大さから堕落した人々は、来世において、不信仰ゆえに、ある程度[107]名誉ある器から名誉のない器へと転じるでしょう。一方、この世でエジプト人やイドゥメア人の器とみなされていた多くの人々は、イスラエル人の信仰と慣習を採用し、イスラエル人の行いを成し遂げ、主の教会に入ったとき、神の子らの啓示において名誉ある器として存在するでしょう。敬虔の教えに照らして、すべての理性的存在は、その目的と生き方に応じて、時には悪から善へ、時には善から悪へと転じると信じるのがより適切である。ある者は善にとどまり、またある者はより良い状態へと進み、常に高みへと昇り、最終的にはすべての最高位に達する。一方、またある者は悪にとどまるか、あるいは彼らの内なる悪がさらに広がり始めると、より悪い状態に陥り、悪のどん底に沈んでいく。そこから、最初は小さな罪から始まったものの、悪を極限まで注ぎ込み、悪の熟練度を高め、その悪の度合いにおいて敵対勢力に匹敵する者もいるかもしれないと推測せざるを得ません。また、多くの厳しい罰によって、将来いつか正気を取り戻し、徐々に傷を癒そうと努力するならば、悪をやめることで善の状態に戻ることができるかもしれません。このように、これまで何度も述べてきたように、魂は不滅で永遠であるため、計り知れないほど多様な世界における無数の無限の期間において、最高の善から最低の悪へと堕ちることも、最低の悪から最高の善へと回復することもあり得ると私たちは考えています。
22. しかし、使徒の言葉は、尊い器と卑しい器について、「もし人が自分を清めるならば、尊い器となり、聖別されて主の奉仕にふさわしくなり、あらゆる良い働きのために備えられる」と述べているが、これは神の力には何ら関与せず、すべては私たち自身の力によるものとしているように見える。一方、「陶器師は粘土に対して力を持っており、同じ粘土の塊から尊い器と卑しい器を作ることができる」と述べている箇所では、すべてを神に委ねているように見える。これらの記述が矛盾していると理解すべきではなく、二つの意味は一致して理解されるべきであり、両方から一つの意味を引き出さなければならない。すなわち、私たち自身の力でできることは神の助けなしにはできないと考えるべきではなく、また神の手にあることは私たちの行為や願望や意図の介入なしには完成させられないと考えるべきでもないということである。なぜなら、私たちは自分の力で何かを意志したり行ったりすることはできないからであり、意志したり行ったりできるこの能力そのものが、先に述べた区別に従って神によって私たちに与えられたものであることを知らないわけにはいかないからである。あるいはまた、神が器を形作り、ある器を尊厳のために、またある器を不名誉のために形作るとき、神は私たちの意志、目的、あるいは功績を、あたかもそれらが、神が私たち一人ひとりの器を尊厳のために、あるいは不名誉のために形作ることのできる一種の物質であるかのように、尊厳や不名誉の原因とは考えていないと考えるべきである。それどころか、魂の動きそのもの、あるいは理解の目的そのものが、自分の心と精神の考えに無知でない者には、自分の器が尊厳のために形作られるべきか、不名誉のために形作られるべきかを示唆するかもしれない。しかし、意志の自由に関する問題について、私たちができる限り議論したこれらの点だけで十分であろう[108]。
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==脚注==
1. この章全体は原文のギリシア語で保存されており、各ページには対応する部分が逐語訳されているため、オリゲネス自身の言葉と、ルフィヌスの言い換えによる加筆や変更との違いが読者にすぐに明らかになるようになっている。
2. Natura ipsius arbitrii voluntatisque. (意志と選択そのものの本質)。
3. Quæcunque hujusmodi sunt, quæ solo habitu materiæ suæ vel corporum constant. (このようなものはすべて、その物質または物体の性質のみから成り立っている)。
4. Non tamen animantia sunt. (しかし、それらは生物ではない)。
5. Phantasia. (空想)。
6. Voluntas vel sensus. (意志か感覚か)。
7. Mella, ut aiunt, aeria congregandi. ルフィヌスは、原文では κηροπλαστεῖν ではなく ἀεροπλαστεῖν と読んでいたようだが、これは彼が一般に最悪の読み方(リデペンニング)に従っていた証拠である。
8. Ordinatior quidem motus. (確かに、より秩序だった動きだ)。
9. Incentivo quodam et naturali motu. (ある一定の動機と自然な流れによって)。
10. Ita ut etiam verisimilibus quibusdam causis intra cordis nostri tribunalia velut judici residenti ex utrâque parte adhiberi videatur assertio, ut causis prius expositis gerendi sententia de rationis judicio proferatur. (そのため、ある程度起こりうる場合においても、まるで私たちの心の法廷に座る裁判官に対して、原因を事前に説明した上で、行動の決定は理性の判断に基づいて下される、という主張が双方からなされているように思われる)。
11. Causa ei perfecta et absoluta vel necessitas prævaricandi. (彼にとっての完璧かつ絶対的な理由は、違反行為の必要性である)。
12. Naturalem corporis intemperiem (身体の自然な気質。); ψιλην την κατασκευήν. (生まれ持ったままの身体の構造)。
13. Contra rationem totius eruditionis. ギリシャ語では、「contra rationem」は παρὰ τὸ ἐναργές ἐστι で表され、単語 λόγου παιδευτικοῦ (Rufinus によって「totius eruditionis」と訳され、「contra rationem」と関連付けられている) は以下の条項に属します。
14. Quibus nihil ad turpitudinem deest. (彼らは恥じるべきことが何もない)。
15. ミカ書6章8節
16. 申命記30章15節
17. イザヤ書1章19、20節
18. 詩篇81篇13、14節
19. マタイ5章39節
20. マタイ5章22節
21. マタイ5章28節
22. マタイ7章24節
23. マタイ7章26節
24. マタイ25章34節以下
25. 本文中の言葉は次のとおりです。His qui secundum patientiam boni operis, gloria et incorruptio, qui quærunt vitam eternam. (善行を忍耐強く行い、栄光と不朽を求め、永遠の命を求める人々へ)。
26. ローマ人への手紙2章4-10節
27. Secundum pietatis regulam. (敬虔の規則に従って)。
28. 出エジプト記4章21節など
29. エゼキエル書11章19、20節
30. 義化
31. 「今」という言葉が加えられているのは、「肉」という言葉が新約聖書ではしばしば悪い意味で使われているからである(レデペニング)。
32. マルコ4章12節
33. ローマ9章16節
34. ピリピ2章13節
35. ローマ9章18節以下
36. ローマ9章18節
37. Obstupefactus. (驚いた)。
38. Naturaliter. (当然)。
39. Commentitias fabulas introducunt. (彼らは架空の物語を紹介する)。
40. Quid faciente vel quid prospiciente. (何が行われているのか、あるいは何が検討されているのか)。
41. Prospectus et intuitus Dei. (神の視点と洞察)。これが Rufinus による ἔννοια の解釈です。
42. 出エジプト記9章17節、参照、11章5節、12章12節。
43. ヘブライ6章7、8節
44. Ex personâ imbrium. (雨の視点から)。
45. Dure. (難しい)。
46. Bonitas et æquitas imbrium. (雨の恵みと公平さ)。
47. Propositum. (目的)。
48. Limum. (沈泥)
49. Cum utique secundum naturam unum sit. (もちろん、それは自然の摂理に沿ったものである)。
50. Malitiæ suæ intentione conceperat. (悪意の意図をもって(それを)構想していた)。
51. 参照、出エジプト記8章27-29節
52. Tropum vel figuram sermonis. (比喩表現、修辞技法)。
53. ローマ2章4、5節
54. Et apostolicæ similitudinis parum munimenti habere adhus videtur assertio. (そして、この主張は使徒たちの類似性からほとんど裏付けられていないように思われる)。
55. イザヤ書63章17節、18節。ここで七十人訳聖書はマソラ本文と異なっている。
56. エレミヤ書20章7節
57. Morali utique tropo accipiendum. (それは確かに道徳的な比喩として捉えるべきである)。
58. Ferratum calcem. (鉄で固められたかかと)。
59. Frenis ferratis. (鉄の手綱)。
60. ヘブライ12章6節
61. ローマ8章35節
62. Rationabilibus cœlestibusque virtutibus. (理性と天上の徳によって)。
63. Primatus. (優位性)。
64. Immaculatus. (完璧だ)。
65. ルカ18章14節
66. 1コリント1章29節
67. Non tamen sine certâ ratione. (しかし、それにはそれなりの理由がある)。
68. Digeri. (消化済み)。「分散した」という訳語が、伝えようとした意味に最も合致しているように思われる。
69. ギリシャ語では、この用語は πεντηκονταετίαν(50年間) です。
70. 参照。マタイ13章5、6節
71. Hæc. (これ)
72. Persecrutationis improbitas. (迫害の不公平さ)。
73. Substantialiter. (実質的に)。
74. 知恵書7章16節
75. Capitulum. (章)。
76. ローマ人への手紙9章18節
77. エゼキエル書 11章19、20節
78. マルコによる福音書 4章12節
79. Prospera sanitas. (健康に恵まれますように)。
80. Aula. (ホール)
81. Mentes. (心)。
82. Evidentissimâ assertione pietatis regulam teneamus. (敬虔さという規範を、最も明白な主張をもって堅持しよう)。
83. Dispensatio humana. (人間の裁量)。
84. Futuri status causam præstat semper anterior meritorum status. (未来の状態の原因は常に、過去の功績の状態にある)。
85. ローマ人への手紙9章16節
86. Ad finem boni. (善の終わりまで)。
87. Medium est velle bona. (中庸とは、良いものを望むことである)。
88. ローマ人への手紙9章16節
89. 詩篇127篇1節
90. Procinctum juvenum. (若者たちは準備万端だ)。
91. Supernæ vocationis. (天からの召命)。
92. Valde consequenter. (非常に一貫している)。
93. コリント人への手紙第一 3章6、7節
94. “Nostra perfectio non quidem nobis cessantibus et otiosis efficitur.”(「私たちが怠惰に過ごしていては、完璧は達成されない。」)。「しかし、我々の活動によって」といった単語が省略されている箇所がある。
95. フィリピ2章13節 を参照。
96. Hoc ipsum, quod homines sumus. (まさにそれこそが、私たちが人間であるということなのだ)。
97. Sicut dicamus, quod movemur, ex Deo est. (私たちが感動するものは、神からのものだとよく言われます)。
98. Hoc ipsum, quod movetur. (まさにこのものが動かされるのだ)。
99. ローマ人への手紙9章18-21節
100. テモテへの手紙第二 1章16-18節
101. コリント人への手紙第二 5章10節
102. Ex ipsâ conditoris creatione. (創造主の創造そのものから)。
103. テモテへの手紙第二 2章20、21節
104. Secundum præcedentes meritorum causas. (前述の功績事由に基づく)。
105. 出エジプト記19章19節
106. Diversas animarum naturas. (魂の様々な性質)。
107. Quodammodo. (ある意味では)。
108. [Elucidation II.] 【解説2】
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Philip Schaff, Frederick Crombie, [[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/III/Chapter 2]] を翻訳
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