Wikisource jawikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 MediaWiki 1.47.0-wmf.2 first-letter メディア 特別 トーク 利用者 利用者・トーク Wikisource Wikisource・トーク ファイル ファイル・トーク MediaWiki MediaWiki・トーク テンプレート テンプレート・トーク ヘルプ ヘルプ・トーク カテゴリ カテゴリ・トーク 作者 作者・トーク Page Page talk Index Index talk TimedText TimedText talk モジュール モジュール・トーク Event Event talk 宮さん宮さん 0 5848 242521 226671 2026-05-17T12:49:04Z ~2026-29815-15 45764 /* 歌詞 */ แก้คำผิด 242521 wikitext text/x-wiki {{header |title={{PAGENAME}} |notes= }} {{ウィキペディア|宮さん宮さん}} '''宮さん宮さん'''(みやさんみやさん) * 作詞:[[w:ja:品川弥二郎|品川弥二郎]] * 作曲:[[w:ja:大村益次郎|大村益次郎]] == 歌詞 == ;宮さん宮さん #宮さん宮さんお馬の前に<br />ヒラヒラするのは何じゃいな<br />トコトンヤレ、トンヤレナ<br />あれは朝敵征伐せよとの<br />錦の御旗じや知らないか<br />トコトンヤレ、トンヤレナ<br /> #一天萬乘の帝王に<br />手向ひする奴を<br />トコトンヤレ、トンヤレナ<br />覗ひ外さず、<br />どんどん撃ち出す薩長土<br />トコトンヤレ、トンヤレナ<br /> #伏見、鳥羽、淀<br />橋本、葛葉の戰は<br />トコトンヤレ、トンヤレナ<br />薩土長肥の 薩土長肥の<br />合ふたる手際ぢやないかいな<br />トコトンヤレ、トンヤレナ<br /> #音に聞えし關東武士<br />どつちへ逃げたと問ふたれば<br />トコトンヤレ、トンヤレナ<br />城も氣慨も<br />捨てて吾妻へ逃げたげな<br />トコトンヤレ、トンヤレナ<br /> #國を迫ふのも人を殺すも<br />誰も本意ぢやないけれど<br />トコトンヤレ、トンヤレナ<br />薩長土の先手に<br />手向ひする故に<br />トコトンヤレ、トンヤレナ<br /> #雨の降るよな<br />鐵砲の玉の來る中に<br />トコトンヤレ、トンヤレナ<br />命惜まず魁するのも<br />皆お主の爲め故ぢや<br />トコトンヤレ、トンヤレナ<br /> ;都風流トコトンヤレぶし<ref>{{Cite web | author = 不明| title = 都風流トコトンヤレぶし(早稲田大学図書館所蔵)| publisher = 不明 | date = 不明 | url = http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko10/bunko10_08280/index.html | accessdate = 2015-03-13}}</ref><ref>{{Cite web | author = 不明 | title = 都風流トコトンヤレぶし (国立国会図書館所蔵)| publisher = 不明 | date = 不明 | url = http://www.ndl.go.jp/site_nippon/kensei/shiryou/simage/Gazou_42_1.html| accessdate = 2015-03-13}}</ref><ref>{{Cite web | author = 片岡志道ほか | title = 越奥戦争見聞録 | publisher = 北信郷土叢書刊行会 | date = 1935 | url = http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1194335 | accessdate = 2015-03-13}}</ref> :注:原文にある変体仮名・繰り返し符号・カタカナを適宜修正した。 #一(いつ)てん万乗(ばんじゃう)のみかどに 手向(てむか)ひするやつを<br />トコトンヤレ トンヤレナ<br />ねらひはづさず どんどんうちだす薩長土(さっちゃうど)<br />トコトンヤレ トンヤレナ #宮(みや)さま宮さま御馬(おんま)の前(まへ)に びらびらするのはなんじゃいな<br/>トコトンヤレ トンヤレナ<br/>ありゃ朝敵征伐(てうてきせいばつ)せよとの 錦(にしき)の御旗(みはた)じゃしらなんか<br/>トコトンヤレ トンヤレナ #ふしみ鳥羽(とば)淀(よど)はし本くずはのたたかかひは<br/>トコトンヤレ トンヤレナ<br/>薩土長(さつどちゃう)とのなしたる手(て)ぎわじゃないかいな<br/>トコトンヤレ トンヤレナ #おとに聞(きこ)へし関東(くわんとう)ざむらひ どっちゃへにげたと問(と)ふたれば<br/>トコトンヤレ トンヤレナ<br/>城(しろ)もきがいも捨(すて)てあづまへにげたげな<br/>トコトンヤレ トンヤレナ #国(くに)をおふのも人(ひと)をころすも 誰(だれ)も本意(ほんい)じゃないけれど<br/>トコトンヤレ トンヤレナ<br/>薩長土の先手(さきて)に手向(てむか)ひするゆゑぞ<br/>トコトンヤレ トンヤレナ #雨(あめ)のふるよなてつぽの玉(たま)のくるなかに<br/>トコトンヤレ トンヤレナ<br/>命(いのち)もおしまずさきがけするのも みんなお主のためゆゑじゃ<br/>トコトンヤレ トンヤレナ ==脚注== {{reflist}} ---- {{DEFAULTSORT:みやさんみやさん}} [[Category:歌詞]] [[Category:唱歌・童謡]] [[Category:軍歌]] {{PD-old}} gdamt0tyeodk951sx6loa9w61wzidl5 Page:現代かなづかい.pdf/4 250 31612 242532 175175 2026-05-18T07:14:38Z AntiquatedMan2025 44229 242532 proofread-page text/x-wiki <noinclude><pagequality level="3" user="CES1596" /></noinclude><u>か</u>つどう({{r|活動|クワツドウ}}) こう<u>か</u>つ({{r|狡猾|カウクワツ|rtcstyle=ruby-position:under|rtc=××}}) <u>か</u>んげい({{r|歓迎|クワンゲイ}}) <u>か</u>んり({{r|官吏|クワンリ}}) き<u>か</u>ん({{r|帰還|キクワン}}) いっ<u>か</u>ん({{r|一貫|イツクワン}}) ====2,<u>ぐわ</u>を<u>が</u>と書くもの==== <u>が</u>れき({{r|瓦礫|グワレキ|rtcstyle=ruby-position:under|rtc=××}}) <u>が</u>しょう({{r|臥床|グワシヤウ|rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}) <u>が</u>いこく({{r|外国|グワイコク}})』 いち<u>が</u>つ({{r|一月|イチグワツ}})』 <u>が</u>んり({{r|元利|グワンリ}}) <u>が</u>んやく({{r|丸薬|グワンヤク}}) こん<u>が</u>ん({{r|懇願|コングワン}}) ===第3 <u>ぢ</u>,<u>づ</u>は<u>じ</u>,<u>ず</u>と書く。===   例 ====1,<u>ぢ</u>を<u>じ</u>と書くもの==== あ<u>じ</u>({{r|味|アヂ}}) ふ<u>じ</u>({{r|藤|フヂ|rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}) わら<u>じ</u>({{r|草鞋|ワラヂ|rtcstyle=ruby-position:under|rtc= ×}}) ね<u>じ</u>る({{r|捻|ネ|rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}ぢる) は<u>じ</u>る({{r|恥|ハ}}ぢる) よ<u>じ</u>る({{r|攀|ヨ|rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}ぢる)』 <u>じ</u>ぞく({{r|持続|ヂゾク}}) <u>じ</u>({{r|痔|ヂ|rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}})』 <u>じ</u>く({{r|軸|ヂク}}) <u>じ</u>んち({{r|陣地|ヂンチ}})』 <u>じ</u>ょせい({{r|女性|ヂヨセイ}}) さく<u>じ</u>ょ({{r|削除|サクヂヨ}}) ====2,<u>づ</u>を<u>ず</u>と書くもの==== う<u>ず</u>ら({{r|鶉|ウヅラ|rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}) う<u>ず</u>({{r|渦|ウヅ|rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}) み<u>ず</u>({{r|水|ミヅ}}) ゆ<u>ず</u>る({{r|譲|ユヅ}}る) う<u>ず</u>める({{r|埋|ウヅ}}める) さ<u>ず</u>ける({{r|授|サヅ}}ける)』 め<u>ず</u>らしい({{r|珍|メヅ}}らしい) は<u>ず</u>かしい({{r|恥|ハヅ}}かしい)』 し<u>ず</u>かに({{r|静|シヅ}}かに) ま<u>ず</u>({{r|先|マ}}づ)』 だい<u>ず</u>({{r|大豆|ダイヅ}}) <u>ず</u>じょう({{r|頭上|ヅジヤウ}}) さん<u>ず</u>のかわ({{r|三途|サンヅ}}の{{r|川|カハ}}) <u>ず</u>が({{r|図画|ヅグワ}}) ====たゞし==== =====(1)2語の連合によって生じた<u>ぢ</u>,<u>づ</u>は<u>ぢ</u>,<u>づ</u>と書く。=====   例<br /> はな<u>ぢ</u>(鼻血) もらい<u>ぢ</u>ち(もらひ乳)』 ひ<u>ぢ</u>りめん({{r|緋||rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}縮{{r|緬||rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}) ちか<u>ぢ</u>か(近々)』 みそ<u>づ</u>け(味{{r|噌||rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}{{r|漬||rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}) みか<u>づ</u>き(三日月)』 ひき<u>づ</u>な(引綱) つね<u>づ</u>ね(常々)』 いれ<u>ぢ</u>え(入{{r|智||rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}{{r|慧||rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}) ちゃのみ<u>ぢ</u>ゃわん(茶飲茶{{r|碗||rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}) =====(2)同音の連呼によって生じた<u>ぢ</u>,<u>づ</u>は,<u>ぢ</u>,<u>づ</u>と書く。=====   例<br /> ち<u>ぢ</u>み(縮み) ちぢ<u>む</u>(縮む)』 つ<u>づ</u>み(鼓) つ<u>づ</u>ら({{r|葛||rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}{{r|籠||rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}) つ<u>づ</u>く(続く) つ<u>づ</u>る({{r|綴||rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}る) ===第4 <u>ワ</u>に発音される<u>は</u>は,<u>わ</u>と書く。たゞし助詞の<u>は</u>は,<u>は</u>と書くことを本則とする。===   例<br /> か<u>わ</u>ら({{r|瓦|カハラ|rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}) か<u>わ</u>({{r|河|カハ}}) に<u>わ</u>({{r|庭|ニハ}})』 あら<u>わ</u>す({{r|著|アラハ}}す) ま<u>わ</u>る({{r|廻|マハ|rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}る) こ<u>わ</u>れる({{r|毀|コハ|rtcstyle=ruby-position:under|rtc=×}}れる)』 あら<u>わ</u>ない({{r|洗|アラ}}はない) あつか<u>わ</u>ない({{r|扱|アツカ}}はない) <noinclude></noinclude> lnmc3fcoi1w0kdjwf4xlhz8fygwnpp9 諸原理について/第1巻/第1章 0 48704 242526 242456 2026-05-18T03:49:21Z 村田ラジオ 14210 ヘッダー:previous, next 242526 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|諸原理について|hide=1}} {{header | title = 諸原理について | section = 第1章 |previous = [[諸原理について/第1巻|第1巻]] | next = [[諸原理について/第1巻/第2章|第2章]] | year = 1885 | 年 = | override_author = [[s:en:Author:Origen|オリゲネス]](2-3世紀) | override_translator = [[s:en:Author:Frederick Crombie|フレデリック・クロンビー]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] | noauthor = | notes = *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:しよけんりについて 101}} [[Category:オリゲネス]] [[Category:諸原理について|101]] }} '''第1巻''' ==第1章== ::神について ===1=== モーセの書には「われらの神は焼き尽くす火である」<ref>申命記 4:24</ref>とあり、(一方で)ヨハネの福音書には「神は霊です。神を礼拝する者は、霊と真理をもって神を礼拝しなければなりません」<ref>ヨハネ 4:24</ref>とあるため、私たちの聖書の言明に従ってさえ(なお)、神は物体であると主張する人がいることを私は知っています。彼らによれば、火と霊は物体にほかなりません。さて、私はこれらの人々に、神は光であると宣言されている箇所について、彼らが何と言うか尋ねたいと思います。ヨハネは手紙の中で「神は光であり、神には暗さが少しもありません」と書いています<ref>第一ヨハネ 1:5</ref>。実に、神は真理を受け入れる能力のある人々の理解全体を照らす光であり、詩篇第36篇には「あなたの光によって、私たちは光を見る」とあります<ref>詩篇 36:9</ref>。 神の影響力以外に、「だれでも光を見る」神の光と呼べるものは他に何があるでしょうか。それは、人が光に照らされて、すべてのものの真実を完全に見るか、真理と呼ばれる神自身を知るようになることです。「あなたの光の中で、私たちは光を見ます」という表現の意味はこれです。つまり、あなたの御言葉と知恵、すなわちあなたの御子の中に、私たちは父なるあなたを見るのです。光と呼ばれているからといって、太陽の光に似ていると考えられるでしょうか。あるいは、その物質的な光から誰かが知識の原因を引き出し、真理の理解に到達できるなどと想像する根拠が少しでもあるでしょうか。 ===2=== それで、もし彼らが、光の性質に関して理性自体が証明した私たちの主張に同意し、神は光のような意味で物体であると理解することはできないことを認めるならば、同様の推論が「焼き尽くす火」という表現にも当てはまるでしょう。なぜなら、神は火ですが、何を焼き尽くすのでしょうか。木や干し草や刈り株などの、物質を焼き尽くすと考えるべきでしょうか。また、この見方では、神がそのような(単に)物質を焼き尽くす火であるなら、何を神の栄光にふさわしいと言えるのでしょうか。しかし、神は確かに焼き尽くし、完全に破壊するということ、信者の心に悪の考え、邪悪な行為、罪深い欲望が入り込むと、それを焼き尽くすということ、そして、神自身の述べられる御言葉、「わたしと父が来て、わたしたちは彼と共に住む」に従って、神の言葉と知恵を受け入れる能力を与えられた魂に、神が息子と共に宿るということについて考えてみましょう<ref>ヨハネ 14:23</ref>。 神は、彼らの悪徳や情熱がすべて消え去った後、彼らを神にふさわしい聖なる神殿にします。さらに、「神は霊です」という表現のせいで、神を物体であると考える人たちには、次のように答えるべきでしょう。聖書では、この粗雑で固い物体に反するものを指し示すときは、それを霊と呼ぶのが慣例です。「文字は殺しますが、霊は生かします」という表現があります<ref>2 コリント 3:6</ref>。 ここで、「文字」とは肉体的(=物質的)なものであり、「霊」とは知的なものを意味し、私たちはそれを「霊的」とも呼んでいます。さらに使徒は、「今日に至るまで、モーセの書が読まれるとき、彼らの心には覆いがかけられている。しかし、主に向かうとき、覆いは取り去られる。主の霊のあるところには、自由がある」と言っています<ref>2 コリント 3:15-17</ref>。人は霊的な理解に改心していない限り、その人の心にはベールがかけられており、そのベール、つまり粗雑な理解によって、聖書そのものが覆われていると言われたり考えられたりしています。そして、モーセが人々に語ったとき、つまり律法が公に朗読されたとき、モーセの顔にベールがかけられたという発言の意味はこれです。しかし、私たちが主に立ち返るなら、そこには神の言葉があり、聖霊が霊的な知識を啓示するところであり、そのときベールは取り去られ、顔の覆いをとり去った状態で、私たちは聖書にある主の栄光を見るでしょう。 ===3=== 多くの聖徒が聖霊に与っているのだから、聖霊は物体であるとは理解することはできません。肉体は肉体の部分に分かれており、聖徒の一人ひとりがそれに与っています。聖霊は明らかに聖化の力であり、その恵みによって聖化されるに値するすべての人がその一部を持っていると言われています。そして、私たちの言っていることがより理解しやすいように、まったく異なる事柄から例を挙げてみましょう。医学の知識<ref>Disciplina.</ref>や技術に携わっている人は大勢います。では、そうした人々は目の前に置かれた薬と呼ばれる物質の粒子を自分自身に取り、このようにして同じこと(=霊的なことがら)に参加していると考えるべきでしょうか。それとも、むしろ、こう言えるのではないでしょうか。機敏で訓練された心で技術と知識自体を理解するようになった人は皆、治療の技術に与っていると。しかし、医学と聖霊を比較する上で、(この二つが)まったく同じ例であるとは考えられません。なぜなら、これらは、必ずしも聖霊を多くの人が所有する身体であると考えるべきではないことを明らかにするためだけに挙げられたからです。聖霊は、医学の方法や科学とは大きく異なり、聖霊は知的な存在であり<ref>Subsistentia.</ref>、独自の方法で存続し、存在しているのに対し、医学はそのような性質のものではありません。 ===4=== さて、私たちは福音書そのものの言葉に移らなければなりません。そこでは「神は霊です」と宣言されており、私たちが述べたことと一致してそれがどのように理解されるべきかを示さなければなりません。というのは、救い主がこれらの言葉をどのような機会に語ったのか、誰の前で語ったのか、そして調査の対象は何であったのかを調べてみるべきなのです。私たちは、疑いなく、神はサマリア人の見解と一致して、神はゲリジム山で礼拝されるべきであると考えていたサマリア人の女性に、神は「神は霊です」と語り、これらの言葉を語ったことがわかります。サマリア人の女性は、イエスがユダヤ人であると信じていたので、神はエルサレムで礼拝されるべきか、それともこの山で礼拝されるべきかを尋ねていました。彼女の言葉は、「私たちの先祖は皆この山で礼拝しました。そして、あなた方は、礼拝すべき場所はエルサレムであると言っています」でした<ref>ヨハネ 4:20</ref>。 サマリア人の女は、エルサレムのユダヤ人とゲリジム山のサマリア人では、各自の土地の特権に応じて、(自分たちの)神への礼拝が正しく、また(相手の神への礼拝が)不当に行われていると考えていましたが、このサマリア人の意見に対して、救い主は、主に従う者は、(礼拝において)特定の場所にこだわることを完全に捨て去らなければならないと答え、このように表現されました。「真の礼拝者が、エルサレムでもこの山でもないところで父を礼拝する時が来ます。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって神を礼拝しなければなりません。」<ref>ヨハネ 4:23-24</ref> 主が霊と真理をいかに論理的に結び付けたかに目を向けてください。主は神を霊と呼び、神を物体と区別し、神を真理と名付けました。それは、神を影や像と区別するためです。エルサレムで礼拝していた人たちは、天にあるものの影や像に服従していたため、真理でも霊でも神を礼拝していませんでした。ゲリジム山で礼拝していた人たちも同じでした。 ===5=== これにより、神を少しでも物質的なものと考えるべきだと示唆するかもしれないあらゆる考えをできる限り反駁しました。それゆえ、厳密な真実(の定義)により、私達はこのように述べるでしょう、神は(私達にとって)理解することは不可能であり、計り知ることも不可能である、と<ref>“Inæstimabilem.”</ref>。 知覚または熟考によって神について得られる知識が何であれ、私たちは必然的に、神は私たちが認識しているものよりも、はるかに優れていると信じなければなりません。なぜなら、光の火花や非常に小さなランプの炎に耐えられない人を見て、私たちが述べた以上の程度の光を受け入れることができない視力を持つ人に、太陽の明るさと輝きを伝えたいと望むのと同じように、太陽の輝きは彼が見たこのすべての光よりも言葉では言い表せないほど、計り知れないほど優れ、栄光に満ちていると彼に伝える必要があるのではないでしょうか。したがって、私たちの知性は、肉と血の束縛に閉じ込められ、そのような物質的実体に関与しているために、(元の能力よりも)鈍く、鈍感になっています。私たちの肉体の性質と比較すると、知性ははるかに優れていると評価されていますが、形の無いものを調べて見ようとする努力においては、火花やランプの役割を果たすことはほとんどありません。では、すべての知性、つまり形の無い命の中で、神ほど他のすべてよりも優れているもの、言い表せないほど、計り知れないほど優れているものは何でしょうか。その性質は、人間の知性、最も純粋で聡明知性でさえ、把握したり見たりすることはできません。 ===6=== さて、この問題をもっと明確にするために、別の例えを用いると、不合理に思われることはないでしょう。私たちの目は、しばしば光そのものの性質、つまり太陽それ自体を見ることはできません。しかし、窓や光が差し込む小さな開口部から差し込むその輝きや光線を見ると、物体の光の供給源と源がいかに大きいかを思い起こすことができます。同じように、神の摂理の働きとこの世界全体の計画は、神の実際の実体と存在と比較すると、いわば神の性質の一種の光線です。したがって、私たちの知性は、神自身をあるがままに見ることはできませんが、神の働きの美しさと被造物の美しさから世界の父を認識します。したがって、神は、物体であるとか、物体の中に存在するとかではなく、純粋な知的性質であると考えられるべきであり<ref>“Simplex intellectualis natura.”</ref>、いかなる種類の付加物も自身の中に認められません。だから、神はその内部に(物質のように)大きいものや小さいものがあるとは考えられません。神はすべての部分において 一(Monas)であり、また単一性(Henas)であり、すべての知的性質や精神の始まりとなる精神であり、(知的なものの)始源です。しかし、精神は、その運動や作用のために、物理的空間も、感覚的な大きさも、物体の形も、色も、その他の物体や物質の特性である付属物も必要としません。したがって、その純粋で完全に知的な性質<ref>“Natura illa simplex et tota mens.”</ref>は、その動きや働きに遅れやためらいを許してはなりません。そうしないと、神の性質の純粋さが、そのような付属物によって制限されたり、妨げられたりして、万物の始まりであるものが複合的で異なっていることになり、神の本質はただ一つのものであり、あらゆる物質的な混交から自由であるべきはずのものが、一つであるどころか、多くのものから構成されていることになるからです。さらに、心はその性質に従って働き続けるために空間を必要としないことは、私たち自身の心を観察すれば明らかです。なぜなら、心がその限界内にとどまり、いかなる原因によっても損害を受けなければ、状況の多様性によってその機能の遂行が遅れることは決してないからです。また、逆に、特定の場所の性質によって移動性が増加したりすることもないからです。ここで、たとえばを持ち出しましょう。「海上にあって波に揺られている人々の精神は、陸上にいるときよりもかなり衰弱している」と反論する人がいるとしたら、私たちは、(精神の置かれている)状況の違いではなく、精神が結びついている、あるいは結びついている身体の動揺や混乱が、このような状態になっていると信じるべきです。人間の身体が海上で生活することは、不自然であると思われます。そのため、人間の身体は、ある種の不平等によって、だらしなく不規則な方法で精神活動を開始し、陸上で熱病にかかっている人々と同じくらい鈍い感覚で知性の働きを行うように見えます。彼に関しては、病気のせいで精神が以前と同じようにその機能を果たさなくなった場合、その責めは場所ではなく、身体の病気に帰せられるべきであることは明白です。身体は乱れ、無秩序になり、決して自然な条件の下でではなく、(通例とは異なる条件下で)精神にいつもの奉仕を与えます。なぜなら、私たち人間は肉体と魂の結合体で構成された動物であり、このようにしてのみ、私たちは地球上で生きることができるです。しかし、万物の始まりである神は、複合的な存在とみなされるべきではありません。なぜなら、(神という)始まり自体より前に、複合物と呼ばれるものすべてを構成する要素が存在することが発見されるかもしれないからです。また、精神は、行為や働きを行うために身体の大きさを必要としません。例えば、目は、より大きな物体を見るときには拡張されるが、より小さな物体を見るときには圧縮され、収縮される。心は確かに知的な大きさを必要とします。なぜなら、心は身体の成長に合わせてではなく、知性に合わせて成長するからです。なぜなら、心は、身体の成長とともに、20歳や30歳になるまでは、身体的な成長によって大きくなるのではなく、学習の訓練によって知性が研ぎ澄まされるからです。そして、知的な目的のためにるものです。これらは、少年時代や誕生直後には、すぐに獲得されません。これは、精神が自らを訓練するための器官として用いる手足の仕組みが弱く脆弱であるためです。そのため、精神は自身の活動の重荷に耐えることができず、訓練を受け入れる能力を発揮することもできません。 ===7=== もし、心と魂自体が身体であると考える人がいるなら、私は彼らが答えとして、そのような重要で困難で微妙な主題について、それがどのようにして理由と主張を受け取るのかを私に教えてくれることを望みます。どこから記憶力を得るのか。そして、目に見えない<ref>「見える」と読むものもある。</ref>ものの直覚はどこから来るのか。身体はどのようにして形の無い存在を理解する能力を持つのか。身体の性質はどのようにしてさまざまな技術の過程を調査し、物事の理由を直覚するのか。また、明らかに無形である神の真理をどのようにして知覚し理解することができるのか。確かに、耳や目の身体の形状や形態自体が聴覚や視覚に何らかの貢献をしており、神によって形成された個々の部分は、その形状の質自体からさえ、それらが自然に割り当てられた目的に何らかの適応性を持っているという意見を持つ人がいるなら別ですが。同様に、魂や精神は、個々のものを知覚し理解するために、また生命の運動によって働かされるために、意図的に創造されたと理解するべきと考えることもできます。しかし、精神が理性であり、知的な存在として行動することに関して、精神の色彩が何であるかを誰が説明したり述べたりできるのか、私にはわかりません。さらに、精神や魂に関して私たちがすでに述べたこと、つまりそれが身体の全体よりも優れているという点について、確認し説明するため、次の言明を追加することができます。すべての身体感覚の根底には、ある特定の感覚的存在がある<ref>「固有の感覚存在」。</ref>。身体感覚が働く感覚。例えば、色、形、大きさは視覚の基盤であり、声や音は聴覚の基盤であり、匂いの良し悪しは嗅覚の基盤であり、味覚の基盤であり、熱さや冷たさ、硬さや柔らかさ、ざらつきや滑らかさは触覚の基盤です。上に挙げた感覚のうち、心の感覚が最も優れていることは誰の目にも明らかです。それなら、劣った感覚のもとに実体が置かれ、その力を発揮するのに、他のどの力よりも優れたこの力、すなわち心の感覚のもとには実体の性質の何ものも置かれず、知的性質の力が偶然、または物体に付随して生じるというのは、どうして不合理に思えないでしょうか。このように主張する人々は、疑いなく、自分たちの中にあるより優れた実体を軽視しています。いや、そうすることによって、彼らは神自身に対しても不正を行っています。なぜなら、彼らは神が肉体によって理解されると考え、彼らの見解によれば、神は物体であり、肉体によって理解または知覚されるものであると考えたからです。そして彼らは、心が神と一定の関係を持ち、心自体が神の知的似姿であり、これによって心は神の性質について何らかの知識に達する可能性があることを理解しようとしません。特に、心が肉体から分離され、浄化されることに関しては、なおさらです。 ===8=== さて、おそらくこれらの宣言は、聖書から神聖な事柄について教えられたいと望み、その源から、神の性質が物質の性質を超越していることを証明してもらいたいと望む人々にとっては、それほど重要ではないと思われるかもしれません。したがって、使徒がキリストについて語るとき、「彼は、見えない神の似姿であり、すべての被造物のなかで最初に生まれた者である」と宣言しているのと同じことを言っていないかどうかを見てください<ref>コロサイ 1:15</ref>。ある人が考えているように、神の性質はある人には見え、他の人には見えないということではありません。使徒は「人には見えない神の像」または「罪人には見えない」とは言わず、一貫して次の言葉で神の性質について宣言しています。「見えない神の似姿」と。さらに、ヨハネは福音書の中で、「いまだかつて神を見た者はいない」<ref>ヨハネ 1:18</ref>と主張するとき、理解力のあるすべての人に、神には目に見える性質などないということを明白に宣言しています。それは、神が本来目に見える存在であり、より弱い被造物の視界から単に逃れたり、混乱させたりしているのではなく、神の存在の性質上、神を見ることは不可能であるからです。そして、あなたが私に、独り子自身について、本来目に見えない神の性質は神にも見えないのかと尋ねるなら、そのような質問が馬鹿げているとか不敬虔だとは思う必要はありません。なぜなら、私たちがあなたに論理的な理由を与えるからです。見ることと、知ることと別のことです。見ることと見られることは物体の特性であり、知ることと知られることは知的存在の属性です。したがって、物体の特性であるものは何でも、父にも子にも当てはめることはできません。しかし、神性の性質に属するものは、父と子に共通です<ref>「それは父と子の間にあります」</ref>。最後に、イエス自身も、福音書の中で、「子を除いて父を見た者はなく、父を除いて子を見た者はいない」と述べるのではなく、むしろ、こう言っています。「父のほかに子を知る者はなく、子のほかに父を知る者はいない。」<ref>マタイ 11:27</ref>これによって、肉体の性質の中で見る、見られると呼ばれるものはすべて、父と子の間では、視覚の弱さではなく、知識の力によって知る、知られることと呼ばれていることが明確に示されています。したがって、見ることも見られることも、無形で目に見えない性質に適切に当てはめることはできないため、福音書では、父が子に見られたり、子が父に見られたりするのではなく、一方が他方に「知られる」と言われています。 ===9=== ここで、もし誰かが(私たちに反論するために)「心の清い人は幸いである。彼らは神を見るであろう」<ref>マタイ 5:8</ref>と書かれている箇所を私たちの前に示したとしたら、まさにその箇所のゆえに、私たちの立場はさらに強められるだろうと私は考えます。なぜなら、心で神を見るということは、上記の私たちの説明によれば、心で神を理解し知ること以外に何があるでしょうか。感覚器官の名前は、魂に頻繁に当てはめられ、魂は心の目で見る、つまり知性の力によって知的な行為を行うと言われることがあります。また、魂は、言葉のより深い意味を認識するとき、耳で聞くと言われています。また、天から下って来る命のパンを噛んで食べるとき、歯を使うとも言われます。同様に、魂は、他の器官の働きを利用すると言われ、それらは、肉体の名称から移され、魂の力に当てはめられ、ソロモンの言葉によれば、「あなたは神の感覚を見出すだろう」と言われています<ref>箴言 ii. 5を参照。</ref>。というのは、パウロは、私たちの中に二種類の感覚があることを知っていたからです。一つは死すべき、朽ちる、人間的な感覚で、もう一つは不死で知的な感覚で、パウロはこれを神的な感覚と名付けました。ですから、目ではなく、純粋な心、つまり知性によって、ふさわしい人々は神を見ることができるのです。確かに、聖書の古いものも新しいものもすべて、「心」という言葉が「知性」、つまり知力の代わりに何度も使われているのを見いだすでしょう。ですから、このようにして、たとえ主題の尊厳からは程遠いものであっても、私たちは、人間の理解力の限界の下でそれを理解する者として、神の本性について語ってきたのです。次に、キリストの名が何を意味するのかを見てみましょう。 :::[[諸原理について/I/第1章#第1章|トップに戻る↑]] ==脚注== {{Reflist}} ==出典== *底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/I/Chapter 1". *[[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De PrincipiisI/Chapter 1|Origen De Principiis/I/Chapter 1]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De PrincipiisI/Chapter 1" を翻訳 --> jw596tuxo2injqeksjzivvzddnwakq5 諸原理について/第1巻/第2章 0 48705 242527 242458 2026-05-18T03:51:05Z 村田ラジオ 14210 カテゴリを加筆。 242527 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|諸原理について|hide=1}} {{header | title = 諸原理について | section = 第2章 |previous = [[諸原理について/I/第1章|第1章]] | next = [[諸原理について/I/第3章|第3章]] | year = 1885 | 年 = | override_author = オリゲネス(2-3世紀) | override_translator = [[s:en:Author:Frederick Crombie|フレデリック・クロンビー]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] | noauthor = | notes = *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:しよけんりについて 102}} [[Category:オリゲネス]] [[Category:諸原理について|102]] }} '''第1巻''' ==第2章== ::キリストについて ===1=== まず第一に、キリストが神の独り子であるという点でキリストにある神性の性質と、この終わりの時代に神の摂理(恵みの)の目的のために彼が身につけた人間性は別のものであることに注意しなければなりません。したがって、神の独り子が個人の状況や見解に応じてさまざまな名前で呼ばれていることから、まずは神の独り子が何であるかを突き止めなければなりません。ソロモンの言葉によれば、彼は知恵と呼ばれています。「主は、その道の初め、その御業の初めに、私を創造された。主は、他のすべてのものを造る前に、世々の初めに私を創造された。初めに、地を形づくる前、水の源を湧き出させる前、山々が堅く立つ前、すべての丘が造られる前に、主は私を創造された。」<ref>[[s:ja:箴言(文語訳)#8:22|箴言8章22-25節]]。本文の読み方はウルガタ訳聖書の読み方とかなり異なります。</ref> 彼はまた、使徒が宣言したように、「すべての被造物の初子である」という長子とも呼ばれています<ref>コロサイ 1:15</ref>。 しかし、長子は本質的に知恵とは別の存在ではなく、同一人物です。最後に、使徒パウロは「キリストは神の力であり、神の知恵である」と述べています<ref>1 コリント 1:24</ref>。 ===2=== しかしながら、私たちが彼を神の知恵と呼ぶとき、私たちが非人格的な何か<ref>実体的な何か</ref>を意味していると想像してはいけません。つまり、たとえば、私たちが彼を知恵に恵まれた生き物ではなく、人々を賢くする何か、彼の美徳と知性を受け入れる能力を与えられた人々の心に自分自身を捧げ、植え付けるものであると理解していると仮定してください。したがって、神の独り子が彼の知恵の位格的存在である<ref>実質的に</ref>ことが一度正しく理解されると、私たちの好奇心がこれ以上進むべきかどうか、またはその ὑπόστασις {{註|ヒュポスタシス 実在}}または実体に何か物質的な性質が含まれているという疑いを抱くべきかどうかはわかりません。なぜなら、物質的なものはすべて、形、色、または大きさによって区別されるからです。そこで、健全な感覚を持つ人で、知恵が知恵であるかどうかに関して、知恵に形、色、または大きさを求める人が誰かいるでしょうか。そして、神について敬虔な思いや感情を抱くことのできる者であれば、父なる神がこの知恵を生み出さずに、一瞬たりとも存在したことがあるなどと想像したり信じたりできるでしょうか<ref>重要な点まで</ref>。 その場合、神は知恵を生み出す前に知恵を生み出すことができなかったので、以前は存在しなかった知恵を後から呼び起こした、あるいは――これは神に対して不敬なことであるが――確かに神はその力を持っていたが、それを使うことを望まなかった、と言わざるを得ない。どちらの仮定も、誰の目にも明らかであるが、同様に不合理で不敬な説である。なぜなら、それらは、神が無能な状態から有能な状態へと進歩したか、あるいは、力を持っていたにもかかわらず、それを隠し、知恵の創出を遅らせた、ということになるからである。それゆえ、私たちは常に、神は独り子の父であり、独り子は確かに神から生まれ、神から神であるものの、いかなる始まりもなく、時間の区分によって測定できるものだけでなく、心だけが自分自身の中で直覚できるもの、つまり、いわば理解力の裸の力で見ることができるものさえも、神から派生したものであると信じてきました。したがって、私たちは、理解または表現できるいかなる始まりよりも前に知恵が生成されたと信じなければなりません。そして、来たるべき創造の創造力のすべて<ref>未来の創造物のすべての美徳と奇形。</ref>は、知恵(元のものであろうと派生したものであろうと)の存在に含まれており、予知の力によって事前に形成され、配置されていました。知恵は、ソロモンの言葉を借りれば、知恵自身に描写され、予示されていたこれらの生き物のために、神の道の始源として創造されたと言っているのです。知恵は、すべての創造物の始源、形、種を自らの内に含んでいたということです。 ===3=== さて、知恵は神の道の始まりであり、創造され、すべての被造物の種と始源をあらかじめ形作り、その中に含んでいると言われていることを理解したのと同じように、知恵は神の言葉であると理解しなければなりません。なぜなら、知恵は他のすべての存在、つまり宇宙の創造物に、神の知恵に含まれる神秘と秘密の性質を明らかにするからです。この理由で知恵は言葉{{註|ロゴス}}と呼ばれています。それは、いわば心の秘密の解釈者だからです。したがって、『パウロ行伝』<ref>この作品は、エウセビオスの『伝道者の歴史』第 3 巻第 3 節と第 25 節で、教会で流布している偽書の一つとして言及されています。『パウロとテクラの行伝』は『パウロ行伝』とは別の作品です。引用されている「Hic est verbum animal vivens」という言葉は、ヘブライ語 iv. 12, ζῶν γὰρ ὁ λόγος τοῦ Θεοῦ の訛りと思われます。 [Jones on the Canon、第 2 巻、353~411 ページ、パウロとテクラについて。著者のこの引用については、Lardner, Credib .、ii. p. 539 を参照してください。]</ref>に見られる「ここに生きた言葉がある」という言葉は、私には正しく使用されているように思われます。しかし、ヨハネは、より崇高で適切な方法で、福音書の冒頭で、神を{{r|言葉|ロゴス}}であると特別な定義で定義する際に、「神は{{r|言|ことば}}であった<ref> あるいは、「そして{{r|言|ことば}}は神であった。」</ref>。これは初めに神と共にあった。」と言います。そこで、神の{{r|言葉|ロゴス}}や知恵に始まりを帰する者は、生まれざる父自身に対して不敬の罪を犯さないように注意すべきである。なぜなら、彼は、神が常に父であり、{{r|言葉|ロゴス}}を生成し、時代や年代、あるいはそのように称され得る他の何と呼ぼうと、それ以前のすべての時代において知恵を持っていたことを否定しているからです。 ===4=== したがって、この子は、存在するすべてのものの真理であり命でもある。そして理性がある。なぜなら、創造されたものは、命からその存在を引き出さなければ、どうして生きることができるだろうか。あるいは、存在するものは、真理から降りてこなければ、どうして真に存在することができるだろうか。あるいは、言葉や理性が以前に存在していなかったら、どうして理性的な存在が存在することができるだろうか。あるいは、知恵がなかったら、どうして賢くなれるだろうか。しかし、ある者たちも命から脱落し、衰退によって自ら死を招くことになるので(死は命からの離脱にほかならない)、かつて神によって命を楽しむために創造された存在が完全に滅びるはずはないので、死の前に、来たるべき死を滅ぼすような力が存在すること、そして、私たちの主であり救い主である復活の型があること、そして、この復活が神の知恵と言葉と命にその根拠があることが必要だった。そして次に、創造された人々の中には、彼らが所有する祝福を穏やかに適度に享受しながら、常に不変かつ不動のままでいることを望む者がいなかったため、彼らの中にあった善が、本性や本質によってではなく偶然に彼らのものとなった結果、歪められ、変化し、彼らの立場から外れてしまった者がいたため、神の言葉と知恵が道とされた。そして、それはそれに沿って歩む者を父に導くので、そのように名付けられた。 したがって、神の知恵について私たちが述べたことはすべて、神の子が生命であり、言葉であり、真理であり、復活であることによって、神の子について適切に適用され、理解されるであろう。なぜなら、これらすべての称号は神の力と働きから派生したものであり、そのどれにも、大きさ、形、または色のいずれかを示すと思われる物質的な性質の何かを理解するための根拠はわずかもないからである。私たちの間に現れる人間の子供たち、または他の生き物の子孫は、彼らが生み出された人々の種に対応しているか、彼らがその子宮で形成され、養われた母親から派生しており、それが何であれ、彼らがこの人生に持ち込み、生まれたときに一緒に運ぶものである<ref>“Quoniam hi qui videntur apud nos hominum filii, vel ceterorum animalium, semini eorum a quibus seminati sunt respondent, vel earum quarum in utero formantur ac nutriuntur, habent ex his quidquid illud est quod in lucem hanc assumunt, ac deferunt processuri.”おそらく最後の 2 つの単語は「deferunt processuris」、つまり「彼らから出てくる運命にある人々、つまり彼らの子孫にそれを引き渡す」であるべきです。</ref>。 しかし、父なる神を、その独り子の世代において、およびその本質<ref>Subsistentia。ここを「substantia」と読む人もいるでしょう。</ref>において、そのような行為に従事する人間または他の生き物と比較することは、恐るべきことであり、不法である。なぜなら、私たちは必然的に、神には、単に物においてだけではなく、思考によっても思い描くことも知覚によっても発見することさえできない、いかなる比較も許さない、何か例外的で価値のあるものがあると考えなければならないからです。そうすれば、人間の心は、生まれていない神がどのようにして独り子の父とされたかを理解できるはずです。なぜなら、神の生成は、太陽から生み出される輝きと同じくらい永遠で永久だからです。なぜなら、彼が息子とされるのは<ref>Per adoptionem Spiritus。ここでの元の言葉はおそらくεἰσποίησις τοῦ πνεύματοςであり、ルフィヌスは創世記2章7節への言及を誤解しているようです。専門的神学的な意味での「養子縁組」に対して、テキストの言葉はいかなる言及も持つことはできません。—シュニッツァー。</ref>、 命の息吹を受けることによってではなく、外的な行為によってではなく、神自身の性質によるからです。 ===5=== では、私たちが述べたこれらの主張が、聖書の権威によってどのように裏付けられているかを確かめてみましょう。使徒パウロは、独り子は「見えない神の似姿」であり、「すべての被造物の初子」であると述べています<ref>コロサイ 1:15</ref>。 また、ヘブライ人への手紙の中で、彼は独り子について「神の栄光の輝き、神の本質の完全な似姿」であると述べています<ref>ヘブル 1:3</ref>。 さて、[[s:ja:ソロモンの智慧 第七章|ソロモンの知恵]]と呼ばれる論文には、神の知恵について次のような記述があります。「知恵は神の力の息吹であり、全能者の栄光の最も純粋な流出物である<ref> ἀπόῤῥοια. 必然的に。結果。</ref>。」<ref>ソロモンの智慧 7:25</ref> したがって、汚れたものは何も知恵に降りかかることはできません。知恵は永遠の光の輝きであり、神の働きの汚れのない鏡であり、神の善良さの似姿だからです。さて、私たちは、以前と同じように、知恵は、すべてのものの始まりである彼の中にのみ存在すると言います。彼からは、すべての知恵が生まれます。なぜなら、彼自身が、生まれながらに息子である唯一の存在であり、したがって独り子と呼ばれているからです。 ===6=== では、「目に見えない像」という表現をどのように理解すべきかを見てみましょう。そうすれば、神がその子の父と呼ばれるのが当然であることがわかります。まず、人間の間で慣習的に像と呼ばれているものから結論を導きましょう。それは、木や石などの物質に描かれたり彫刻された像と呼ばれることがあります。また、子供の特徴が父親に似ていることをまったく裏切らない場合、子供が親の像と呼ばれることもあります。したがって、神の像と似姿に形作られたその人間は、最初の例え話によく似ていると思います。しかし、神の意志があれば、創世記の箇所を解説するときに、彼についてより正確に理解するでしょう。しかし、今私たちが話している神の子の像は、目に見えない神の目に見えない像であるという点でも、上記の例の2番目と比較することができます。これは、聖書によれば、アダムの像は彼の息子セトであると私たちが言うのと同じです。その言葉は、「そしてアダムは彼自身の似姿に、彼自身の像に従ってセトを生んだ。」です<ref>創世記 5:3</ref>。 さて、この像には、父と子に属する性質と実体の統一が含まれています。なぜなら、もし子が父が行うすべてのことを同じように行うなら、父と同じようにすべてのことを子が行うおかげで、父の像が子の中に形作られ、子は父から生まれ、心から生じる父の意志の行為のようになります。したがって、父の意志だけで、父が存在を望むものの存在に十分であるべきだと私は考えています。なぜなら、父は意志を実行する際に、彼の意志の助言によって知らされる方法以外の方法を使用しないからです。そして、このようにして、存在も<ref> Subsistentia.</ref>御子の創造は御子によってなされる。というのは、この点は、父なる神以外には何も生まれていないもの、すなわち生まれていないものはないと考える人たちによって、何よりもまず主張されなければならない。そして、神の性質をいくつかの部分に分割し、父なる神をできる限り分割するような、ある種の放出を自分たちに思い描く人たちの不合理に陥らないように注意しなければならない。なぜなら、無形の存在に関してそのようなことを少しでも疑うことは、不敬の極みであるだけでなく、最大の愚行のしるしであり、無形の性質に物理的な分割があるはずであるという、いかなる知的な概念からも最も遠いからである。それゆえ、むしろ、意志の行為が理解から生じ、いかなる部分も切り離したり、そこから分離したり、分けたりしないのと同様に、父は、御子を、御自身の似姿として生んだと想定されるべきである。すなわち、御子自身が本来目に見えないように、御子もまた、目に見えない似姿を生んだのである。なぜなら、御子は言葉であり、それゆえ、御子の中に感覚で認識できるものがあると理解すべきではないからです。御子は知恵であり、知恵には物質的なものを疑う余地はありません。御子は真の光であり、この世に来るすべての人を照らすものですが、この太陽の光とは何の共通点もありません。したがって、私たちの救い主は目に見えない神の似姿であり、父自身と比較すると真理です。そして、御子が父を啓示する私たちと比較すると、御子は私たちが父を知るための似姿です。御子は、御子と、御子が喜んで啓示する人以外には誰も知りません。そして、御子を啓示する方法は理解を通してです。御子自身を理解する人は、御子自身の言葉に従って、結果として父も理解します。「私を見た者は、父をも見たのです。」<ref>ヨハネ 14:9</ref> ===7=== しかし、私たちはパウロがキリストについて「神の栄光の輝きであり、神の本質の完全な現れである」<ref>ヘブル 1:3</ref>と言っている言葉を引用したので、このことからどのような考えを抱くべきかを見てみましょう。ヨハネによると、「神は光です」。したがって、独り子はこの光の栄光であり、輝きが光から生じるように、神自身から不可分に生じ、すべての被造物を照らします。なぜなら、彼が道であり、父に導く方法、彼が言葉であり、知恵の秘密と知識の奥義を解釈し、理性的な被造物にそれらを知らせる方法、そしてまた真理であり、命であり、復活である方法についてすでに説明したことと一致して、同じように、彼が輝きである意味も理解する必要があります。なぜなら、その輝きによって、私たちは光自体が何であるかを理解し、感じるからです。そしてこの輝きは、人間の弱くて脆い目に優しく優しく現れ、いわば徐々に訓練し、光の輝きに耐えられるように慣れさせ、主自身の教え「あなたの目から梁を追い出せ」<ref>ルカ 6:42</ref>に従って、視覚を妨げるものや妨害するものをすべて取り除くと、人間は光の輝きに耐えることができるようになり、この点でも人間と光との間の一種の仲介者にもなります。 ===8=== しかし使徒は、イエスをその栄光の輝きだけでなく、その人格や存在の明確な象徴として呼んでいるので<ref>ヘブル 1:3。本質または存在のこと</ref>、ペルソナと実体の意味が何であれ、神自身のペルソナ{{註|persona 位格}}のほかに、そのペルソナの別の姿があると言えるのかを問うことは、無意味ではないようです。それでは、神の子は、神の言葉であり知恵であり、父を知る唯一の存在であり、父が望む者(つまり、神の言葉と知恵を受け取る能力のある者)に父を明らかにするので、神を理解して認めさせるというまさにこの点に関して、神のペルソナと実体の姿と呼ばれることはできないでしょうか。つまり、神が他の人に認識され、理解される手段を知らせたいと願うその知恵が、まず自分自身を説明するとき、そのようにすることで、神のペルソナの明確な姿と呼ばれることができるのです。しかし、救世主が神の位格または実体の象徴である様子をより深く理解するために、私たちが扱っている主題を十分に、または適切に説明しているわけではないが、それでもこの目的のためだけに使われていると見なせる例を取り上げましょう。それは、神の形をとっていた神の子が、(その栄光を)脱ぎ捨て、まさにその脱ぎ捨てによって、神の神性の完全さを私たちに示すことをその目的とするということを示すためです。たとえば、全世界を埋め尽くすほど巨大な像があり、そのために誰にも見えないと仮定します。そして、手足の形、顔の特徴、形や材質が全く同じであるが、大きさがそれほど大きくない別の像が造られた。そのため、巨大な像を見ることができなかった者も、後者を見ると、前者を見たと認めるであろう。なぜなら、後者は手足や顔の特徴、さらには形や材質さえも、前者と全く区別がつかないほどよく保存しているからである。そのような類似性によって、神の子は、父と同等であることを捨て、神を知る道を我々に示すことにより、神のペルソナの明確な似姿とされる。そのため、神の偉大さの中に置かれたときにその驚くべき光の栄光を見ることができなかった我々は、神が我々にとって輝きとなられたことにより、その輝きを見ることによって神の光を見る手段を得ることができるのである。もちろん、この彫像を物質的なものとの比較として用いるのは、神の子が人間の体という取るに足らない形をとっているにもかかわらず、その働きと力が父に似ていることから、彼の中には計り知れない目に見えない偉大さがあることを示したということを示すためだけである。つまり、彼は弟子たちに「私を見る者は、父をも見る」また「私と父とは一つである」と言ったのである。そして、これらには「父は私の中におり、私は父の中にいる」という同様の表現も当てはまる。 ===9=== では、ソロモンの知恵に出てくる表現の意味を見てみましょう。知恵について、「それは神の力の息吹のようなもので、全能者の栄光の最も純粋な流出であり、永遠の光の輝きであり、神の働きや力の汚れのない鏡であり、神の善良さの像である」と言われています<ref>ソロモンの智慧 7:25-26</ref>。 これらは、ソロモンが神に与えた定義であり、それぞれによって神の知恵に属する特定の属性を指摘し、知恵を神の力、栄光、永遠の光、働き、善良さと呼んでいます。しかし、彼は、知恵が全能者の栄光の息吹、永遠の光の息吹、父の働きの息吹、父の善良さの息吹であるとは言っていません。これらのどれかに息吹を帰することは適切ではなかったからです。しかし、彼は、知恵は神の力の息吹であると、適切に述べています。さて、神の力とは、神が強くなる力、神が目に見えるもの、目に見えないものすべてを任命し、抑制し、支配する力、神が摂理において支配するすべてのものに十分な力、神がすべての中に、あたかも一人の人間として存在する力であると理解されるべきです。そして、このすべての強大で計り知れない力の息吹、そしていわばそれ自体の存在によって生み出される活力そのものは、意志が心から発するように、力自体から発せられますが、それでも神のこの意志さえも、神の力となるように作られているのです<ref>“Hujus ergo totius virtutis tantæ et tam immensæ vapor, et, ut ita dicam, vigor ipse in propriâ subsistentiâ effectus, quamvis ex ipsa virtute velut voluntas ex mente procedat, tamen et ipsa voluntas Dei nihilominus Dei virtus efficitur.”</ref>。 したがって、別の力が生み出され、それは独自の特性を持って存在し、聖書が言うように、神の根源的で生まれなかった力の一種の息吹であり、神からその存在を引き出し、決して存在しないことはない。なぜなら、もし誰かが、それが以前は存在せず、後から存在するようになったと主張するなら、それを存在させた父が以前にそうしなかった理由を説明するべきだ。そして、もし彼が、その息吹が神の力から生じたとき、かつて始まりがあったことを認めるなら、私たちは彼に、彼が認めた始まりよりも前になぜそうしなかったのか、と再び尋ねるだろう。このようにして、常により早い日付を要求し、質問を重ねていくと、神は常に力と意志を持っていたので、神が望んだその祝福を常に持っていなかった理由が適切であるかどうかにかかわらず、決してなかったという結論に達するだろう。それによって、神の力の息吹は常に存在し、神自身以外に始まりがなかったことが示される。また、神自身以外に何か他の始まりがあるというのはふさわしくありません。神からその誕生がもたらされるのですから。そして使徒の言葉によれば、キリストは「神の力である」<ref>1 コリント 1:24</ref>。それは神の力の息吹であるだけでなく、力から生まれた力とも呼ばれるべきです。 ===10=== では、「知恵は全能者の栄光の最も純粋な流出である」という表現を検討してみましょう。まず、全能の神の栄光とは何かを考えてみましょう。そうすれば、その流出が何であるかを理解できます。息子を持たない父親はおらず、召使いを持たない主人はいないのと同じように、神がその力を行使できる人々がいなければ、神でさえ全能であるとは言えません。したがって、神が全能であることを示すには、すべてのものが存在することが必要です。なぜなら、ある時代や時間の部分、あるいは何と呼ぼうと、その後に作られたものがまだ存在していない間に過ぎ去ったと望む人がいるとしたら、その人は間違いなく、それらの時代や期間の間、神は全能ではなく、後になって、つまり、神が権力を行使できる人々を持ち始めた時から全能になったことを示すでしょう。そしてこのようにして、神はある程度の増加を受け、低い状態から高い状態へと上昇したように見えるでしょう。なぜなら、全能である方がそうでないよりも良いことは疑いの余地がないからです。さて、神が所有するのにふさわしいものを何も所有していなかったときに、ある種の進歩によって、神が後にそれらを所有するようになったというのは、不合理以外の何物でもありません。しかし、神が全能でなかった時代が一度もなかったとしたら、必然的に、神がその称号を受け取るものも存在しなければなりません。そして、神は常に、王または君主として神によって統治され、権力を行使した者たちを持っていたに違いありません。これについては、適切な場所で、被造物について議論するときに、より詳しくお話しします。しかし、今でさえ、私は、たとえ大ざっぱであっても、警告の言葉を述べる必要があると思う。なぜなら、私たちの前に立ちはだかる問題は、知恵がいかにして全能者の栄光の最も純粋な流出物であるかということであるから、誰かが、全能者の称号が、知恵の誕生に先立って神に存在していたと考えないようにするためである。知恵を通して神は父と呼ばれている。神の子である知恵は、全能者の栄光の最も純粋な流出物であるからである。この疑いを抱きがちな人は、「あなたは知恵によってすべてを造られた」<ref>詩篇 104:24</ref>と宣言する聖書の疑いのない宣言と、「彼によってすべてのものが造られた。彼なしには何も造られなかった」<ref>ヨハネ 1:3</ref>という福音の教えを聞くべきである。そして、このことから、神の全能性の称号は父のそれより古いはずがないことを理解すべきである。なぜなら、父は子を通して全能だからである。しかし、「全能者の栄光」という表現から、知恵はその栄光の流出物であるが、これは、神が全能であると言われる知恵が全能者の栄光にあずかっていることを意味する。なぜなら、キリストである知恵を通して、神はすべてのものを支配する力を持つからである。それは、支配者の権威によってだけでなく、臣民の自発的な服従によってもである。そして、父と子の全能性が同一であり、神と主が父と同一であることを理解するために、ヨハネが黙示録で語る様子に耳を傾けなさい。「今いまし、昔いまし、やがて来られる全能者である主なる神がこう言われる。」<ref>黙示録 1:8</ref> キリスト以外の誰が「やがて来られる方」であっただろうか。そして、神が父であり、救い主も神であるのを見て、誰も腹を立てるべきではないのと同じように、父が全能と呼ばれているのだから、神の子も全能と呼ばれていることに腹を立てるべきではない。このようにして、イエスが父に語った言葉は真実になる。「わたしのものはすべてあなたのものであり、あなたのものはわたしのものであり、わたしはそれらによって栄光を受ける。」<ref>ヨハネ 17:10</ref> さて、父のものであるすべてのものがキリストのものでもあるなら、確かに存在するものの中には父の全能性があります。そして、子もまた父が所有するすべてのものを持つことができるように、独り子は全能であるべきです。「そして、わたしはそれらによって栄光を受ける」と彼は宣言します。「イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてがひざまずき、すべての舌が、主イエスは父なる神の栄光の中におられると告白する。」<ref>ピリピ 2:10-11</ref> したがって、この点において、彼は神の栄光の流出物であり、彼は全能であり、純粋で澄んだ知恵そのものであり、全能性または栄光の流出物として讃えられています。そして、全能性の栄光が何であるかをより明確に理解するために、次のことを付け加えましょう。父なる神は全能です。なぜなら、彼はすべてのもの、つまり、天と地、太陽、月、星、そしてその中にあるすべてのものに対する力を持っているからです。そして、彼は言葉によってそれらに対する力を行使します。なぜなら、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてがひざまずくからです。そして、すべてのひざがイエスにかがむなら、疑いなく、すべてのものはイエスに服従し、イエスがすべてのものに対して力を行使し、彼を通してすべてのものが父に服従するからです。なぜなら、知恵によって、つまり言葉と理性によって、力と必要性によってではなく、によって、すべてのものが服従するからです。それゆえ、神の栄光は、神がすべてのものを所有していることにほかならず、これこそ全能性の最も純粋で澄んだ栄光であり、すべてのものは力や必然ではなく理性と知恵によって従属している。さて、知恵の最も純粋で澄んだ栄光は、純粋で誠実とは言えない栄光と区別するのに便利な表現である。しかし、変換可能で変化する性質はすべて、正義や知恵の働きによって栄光を与えられたとしても、正義や知恵は偶然の性質であり、偶然のものも失われる可能性があるため、その栄光は誠実で純粋であるとは言えない。しかし、神の独り子である神の知恵は、あらゆる点で変化や改変が不可能であり、神のすべての良い性質は本質的であり、変更や改変が不可能であるため、神の栄光は純粋で誠実であると宣言される。 ===11=== 第三に、知恵は永遠の光の輝きと呼ばれます。この表現の力については、前のページで太陽の類似性とその光線の輝きを紹介し、これがどのように理解されるべきかをできる限り示したときに説明しました。その時述べたことに、次のコメントだけを追加しましょう。存在の始まりがなく、それがそのままであることをやめることもないものが、永遠または永遠であると適切に呼ばれます。そして、これがヨハネが「神は光である」と言ったときに伝えた考えです。さて、神の知恵はその光の輝きであり、光であるという点だけでなく、永遠の光であるという点でも輝きであり、したがって神の知恵は永遠で永遠の輝きです。これが完全に理解されれば、子の存在は父から派生したもので、時間から派生したものでも、他のいかなる始まりからも派生したものでもなく、私たちが言ったように神自身から派生したものであることが明確に示されます。 ===12=== しかし知恵は、神の働き、すなわち ἐνέργεια {{註|エネルゲイア}}の汚れのない鏡とも呼ばれています。では、まず神の力の働きがどのようなものかを理解する必要があります。それはいわば、神が創造、摂理、裁き、あるいは個々の物事の処分や配置において、それぞれの時期に働く力のようなものです。鏡に映った像が、それを見つめる人のすべての行為や動きを間違いなく映すように、知恵は父の力と働きの汚れのない鏡と呼ばれるとき、そのように理解されるべきです。神の知恵である主イエス・キリストも、自らについて、「父のなさる業は、子も同じようにするのである」と宣言しています<ref>ヨハネ 5:19</ref>。 また、子は父のなさることを見ること以外は、自分では何もできないとも言っています。したがって、御子は御業の力において父と何ら異なるところがなく、御子の御業は父の御業と異なるものではなく、いわばすべてのものにおいて一つの同じ動きであるので、神は御子を汚れのない鏡と名付け、そのような表現によって御子と父との間に何ら相違がないことを理解できるようにした。実際、弟子が師匠に似る、または真似るやり方で行われると一部の人が言うこと、または御父によって霊的本質が最初に形作られたものが御子によって肉体的な素材で作られるという見解に従って行われることが、福音書では御子は同様のことを行うのではなく、同様の方法で同じことをすると述べられているのに、どうして聖書の宣言と一致するのだろうか。 ===13=== 残るは「神の善の似姿」とは何かという問いかけです。ここで、鏡によって形作られた像について少し前に述べたのと同じことを理解しなければならないと思います。なぜなら、神は疑いなく根源的な善であり、子はそこから生まれ、子はあらゆる点で父の似姿であるため、当然のことながら、神の善の似姿とも呼ばれます。子には、父にある善以外には第二の善は存在しないからです。したがって、救い主ご自身も福音書の中で正しくこう言っています。「父なる神以外には善なる者はいない」<ref>ルカ 18:19</ref>この表現によって、子は別の善を持つわけではなく、父にある善のみから来ていることがわかります。子は父の似姿であると正しく呼ばれています。なぜなら、子は根源的な善以外には何も源がないからです。そうしないと、子には父にある善とは異なる善があるように思われるかもしれません。また、御子には善良さの相違や違いはありません。したがって、「ただひとり、父なる神以外に善なる者はいない」という言葉に、いわば冒涜的な意味があるとは考えるべきではありません。それによって、キリストまたは聖霊のどちらかが善良であったことが否定されるかのように考えるべきではありません。しかし、すでに述べたように、根源的な善良さは、御子が生まれ、聖霊を発する父なる神に宿ると理解されるべきであり、御子と聖霊は、その源泉にある善良さの性質を、疑いなく保持しています。そして、聖書で善良と呼ばれている他のもの、つまり天使、人、しもべ、宝、善い心、善い木などがあれば、これらすべては、偶発的な善良さを持ち、本質的な善良さを持っていない、型破りな意味でそう呼ばれています<ref> 乱用 [= 不適切に使用される。S.]</ref>。しかし、真の光、門、正義、聖化、贖罪など、神の子の称号をすべて集め、それぞれがどのような理由でそのように与えられているかを示すには、多くの時間と労力が必要です。したがって、私たちはすでに述べたことに満足し、次に続く他の事柄の調査に進みます。 :::[[諸原理について/I/第2章#第2章|トップに戻る↑]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/I/Chapter 2". を翻訳 --> 2ouej9ifoxudvg5mx8ybc61sppeax3t 242528 242527 2026-05-18T03:55:16Z 村田ラジオ 14210 ヘッダー 242528 wikitext text/x-wiki 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しかし、長子は本質的に知恵とは別の存在ではなく、同一人物です。最後に、使徒パウロは「キリストは神の力であり、神の知恵である」と述べています<ref>1 コリント 1:24</ref>。 ===2=== しかしながら、私たちが彼を神の知恵と呼ぶとき、私たちが非人格的な何か<ref>実体的な何か</ref>を意味していると想像してはいけません。つまり、たとえば、私たちが彼を知恵に恵まれた生き物ではなく、人々を賢くする何か、彼の美徳と知性を受け入れる能力を与えられた人々の心に自分自身を捧げ、植え付けるものであると理解していると仮定してください。したがって、神の独り子が彼の知恵の位格的存在である<ref>実質的に</ref>ことが一度正しく理解されると、私たちの好奇心がこれ以上進むべきかどうか、またはその ὑπόστασις {{註|ヒュポスタシス 実在}}または実体に何か物質的な性質が含まれているという疑いを抱くべきかどうかはわかりません。なぜなら、物質的なものはすべて、形、色、または大きさによって区別されるからです。そこで、健全な感覚を持つ人で、知恵が知恵であるかどうかに関して、知恵に形、色、または大きさを求める人が誰かいるでしょうか。そして、神について敬虔な思いや感情を抱くことのできる者であれば、父なる神がこの知恵を生み出さずに、一瞬たりとも存在したことがあるなどと想像したり信じたりできるでしょうか<ref>重要な点まで</ref>。 その場合、神は知恵を生み出す前に知恵を生み出すことができなかったので、以前は存在しなかった知恵を後から呼び起こした、あるいは――これは神に対して不敬なことであるが――確かに神はその力を持っていたが、それを使うことを望まなかった、と言わざるを得ない。どちらの仮定も、誰の目にも明らかであるが、同様に不合理で不敬な説である。なぜなら、それらは、神が無能な状態から有能な状態へと進歩したか、あるいは、力を持っていたにもかかわらず、それを隠し、知恵の創出を遅らせた、ということになるからである。それゆえ、私たちは常に、神は独り子の父であり、独り子は確かに神から生まれ、神から神であるものの、いかなる始まりもなく、時間の区分によって測定できるものだけでなく、心だけが自分自身の中で直覚できるもの、つまり、いわば理解力の裸の力で見ることができるものさえも、神から派生したものであると信じてきました。したがって、私たちは、理解または表現できるいかなる始まりよりも前に知恵が生成されたと信じなければなりません。そして、来たるべき創造の創造力のすべて<ref>未来の創造物のすべての美徳と奇形。</ref>は、知恵(元のものであろうと派生したものであろうと)の存在に含まれており、予知の力によって事前に形成され、配置されていました。知恵は、ソロモンの言葉を借りれば、知恵自身に描写され、予示されていたこれらの生き物のために、神の道の始源として創造されたと言っているのです。知恵は、すべての創造物の始源、形、種を自らの内に含んでいたということです。 ===3=== さて、知恵は神の道の始まりであり、創造され、すべての被造物の種と始源をあらかじめ形作り、その中に含んでいると言われていることを理解したのと同じように、知恵は神の言葉であると理解しなければなりません。なぜなら、知恵は他のすべての存在、つまり宇宙の創造物に、神の知恵に含まれる神秘と秘密の性質を明らかにするからです。この理由で知恵は言葉{{註|ロゴス}}と呼ばれています。それは、いわば心の秘密の解釈者だからです。したがって、『パウロ行伝』<ref>この作品は、エウセビオスの『伝道者の歴史』第 3 巻第 3 節と第 25 節で、教会で流布している偽書の一つとして言及されています。『パウロとテクラの行伝』は『パウロ行伝』とは別の作品です。引用されている「Hic est verbum animal vivens」という言葉は、ヘブライ語 iv. 12, ζῶν γὰρ ὁ λόγος τοῦ Θεοῦ の訛りと思われます。 [Jones on the Canon、第 2 巻、353~411 ページ、パウロとテクラについて。著者のこの引用については、Lardner, Credib .、ii. p. 539 を参照してください。]</ref>に見られる「ここに生きた言葉がある」という言葉は、私には正しく使用されているように思われます。しかし、ヨハネは、より崇高で適切な方法で、福音書の冒頭で、神を{{r|言葉|ロゴス}}であると特別な定義で定義する際に、「神は{{r|言|ことば}}であった<ref> あるいは、「そして{{r|言|ことば}}は神であった。」</ref>。これは初めに神と共にあった。」と言います。そこで、神の{{r|言葉|ロゴス}}や知恵に始まりを帰する者は、生まれざる父自身に対して不敬の罪を犯さないように注意すべきである。なぜなら、彼は、神が常に父であり、{{r|言葉|ロゴス}}を生成し、時代や年代、あるいはそのように称され得る他の何と呼ぼうと、それ以前のすべての時代において知恵を持っていたことを否定しているからです。 ===4=== したがって、この子は、存在するすべてのものの真理であり命でもある。そして理性がある。なぜなら、創造されたものは、命からその存在を引き出さなければ、どうして生きることができるだろうか。あるいは、存在するものは、真理から降りてこなければ、どうして真に存在することができるだろうか。あるいは、言葉や理性が以前に存在していなかったら、どうして理性的な存在が存在することができるだろうか。あるいは、知恵がなかったら、どうして賢くなれるだろうか。しかし、ある者たちも命から脱落し、衰退によって自ら死を招くことになるので(死は命からの離脱にほかならない)、かつて神によって命を楽しむために創造された存在が完全に滅びるはずはないので、死の前に、来たるべき死を滅ぼすような力が存在すること、そして、私たちの主であり救い主である復活の型があること、そして、この復活が神の知恵と言葉と命にその根拠があることが必要だった。そして次に、創造された人々の中には、彼らが所有する祝福を穏やかに適度に享受しながら、常に不変かつ不動のままでいることを望む者がいなかったため、彼らの中にあった善が、本性や本質によってではなく偶然に彼らのものとなった結果、歪められ、変化し、彼らの立場から外れてしまった者がいたため、神の言葉と知恵が道とされた。そして、それはそれに沿って歩む者を父に導くので、そのように名付けられた。 したがって、神の知恵について私たちが述べたことはすべて、神の子が生命であり、言葉であり、真理であり、復活であることによって、神の子について適切に適用され、理解されるであろう。なぜなら、これらすべての称号は神の力と働きから派生したものであり、そのどれにも、大きさ、形、または色のいずれかを示すと思われる物質的な性質の何かを理解するための根拠はわずかもないからである。私たちの間に現れる人間の子供たち、または他の生き物の子孫は、彼らが生み出された人々の種に対応しているか、彼らがその子宮で形成され、養われた母親から派生しており、それが何であれ、彼らがこの人生に持ち込み、生まれたときに一緒に運ぶものである<ref>“Quoniam hi qui videntur apud nos hominum filii, vel ceterorum animalium, semini eorum a quibus seminati sunt respondent, vel earum quarum in utero formantur ac nutriuntur, habent ex his quidquid illud est quod in lucem hanc assumunt, ac deferunt processuri.”おそらく最後の 2 つの単語は「deferunt processuris」、つまり「彼らから出てくる運命にある人々、つまり彼らの子孫にそれを引き渡す」であるべきです。</ref>。 しかし、父なる神を、その独り子の世代において、およびその本質<ref>Subsistentia。ここを「substantia」と読む人もいるでしょう。</ref>において、そのような行為に従事する人間または他の生き物と比較することは、恐るべきことであり、不法である。なぜなら、私たちは必然的に、神には、単に物においてだけではなく、思考によっても思い描くことも知覚によっても発見することさえできない、いかなる比較も許さない、何か例外的で価値のあるものがあると考えなければならないからです。そうすれば、人間の心は、生まれていない神がどのようにして独り子の父とされたかを理解できるはずです。なぜなら、神の生成は、太陽から生み出される輝きと同じくらい永遠で永久だからです。なぜなら、彼が息子とされるのは<ref>Per adoptionem Spiritus。ここでの元の言葉はおそらくεἰσποίησις τοῦ πνεύματοςであり、ルフィヌスは創世記2章7節への言及を誤解しているようです。専門的神学的な意味での「養子縁組」に対して、テキストの言葉はいかなる言及も持つことはできません。—シュニッツァー。</ref>、 命の息吹を受けることによってではなく、外的な行為によってではなく、神自身の性質によるからです。 ===5=== では、私たちが述べたこれらの主張が、聖書の権威によってどのように裏付けられているかを確かめてみましょう。使徒パウロは、独り子は「見えない神の似姿」であり、「すべての被造物の初子」であると述べています<ref>コロサイ 1:15</ref>。 また、ヘブライ人への手紙の中で、彼は独り子について「神の栄光の輝き、神の本質の完全な似姿」であると述べています<ref>ヘブル 1:3</ref>。 さて、[[s:ja:ソロモンの智慧 第七章|ソロモンの知恵]]と呼ばれる論文には、神の知恵について次のような記述があります。「知恵は神の力の息吹であり、全能者の栄光の最も純粋な流出物である<ref> ἀπόῤῥοια. 必然的に。結果。</ref>。」<ref>ソロモンの智慧 7:25</ref> したがって、汚れたものは何も知恵に降りかかることはできません。知恵は永遠の光の輝きであり、神の働きの汚れのない鏡であり、神の善良さの似姿だからです。さて、私たちは、以前と同じように、知恵は、すべてのものの始まりである彼の中にのみ存在すると言います。彼からは、すべての知恵が生まれます。なぜなら、彼自身が、生まれながらに息子である唯一の存在であり、したがって独り子と呼ばれているからです。 ===6=== では、「目に見えない像」という表現をどのように理解すべきかを見てみましょう。そうすれば、神がその子の父と呼ばれるのが当然であることがわかります。まず、人間の間で慣習的に像と呼ばれているものから結論を導きましょう。それは、木や石などの物質に描かれたり彫刻された像と呼ばれることがあります。また、子供の特徴が父親に似ていることをまったく裏切らない場合、子供が親の像と呼ばれることもあります。したがって、神の像と似姿に形作られたその人間は、最初の例え話によく似ていると思います。しかし、神の意志があれば、創世記の箇所を解説するときに、彼についてより正確に理解するでしょう。しかし、今私たちが話している神の子の像は、目に見えない神の目に見えない像であるという点でも、上記の例の2番目と比較することができます。これは、聖書によれば、アダムの像は彼の息子セトであると私たちが言うのと同じです。その言葉は、「そしてアダムは彼自身の似姿に、彼自身の像に従ってセトを生んだ。」です<ref>創世記 5:3</ref>。 さて、この像には、父と子に属する性質と実体の統一が含まれています。なぜなら、もし子が父が行うすべてのことを同じように行うなら、父と同じようにすべてのことを子が行うおかげで、父の像が子の中に形作られ、子は父から生まれ、心から生じる父の意志の行為のようになります。したがって、父の意志だけで、父が存在を望むものの存在に十分であるべきだと私は考えています。なぜなら、父は意志を実行する際に、彼の意志の助言によって知らされる方法以外の方法を使用しないからです。そして、このようにして、存在も<ref> Subsistentia.</ref>御子の創造は御子によってなされる。というのは、この点は、父なる神以外には何も生まれていないもの、すなわち生まれていないものはないと考える人たちによって、何よりもまず主張されなければならない。そして、神の性質をいくつかの部分に分割し、父なる神をできる限り分割するような、ある種の放出を自分たちに思い描く人たちの不合理に陥らないように注意しなければならない。なぜなら、無形の存在に関してそのようなことを少しでも疑うことは、不敬の極みであるだけでなく、最大の愚行のしるしであり、無形の性質に物理的な分割があるはずであるという、いかなる知的な概念からも最も遠いからである。それゆえ、むしろ、意志の行為が理解から生じ、いかなる部分も切り離したり、そこから分離したり、分けたりしないのと同様に、父は、御子を、御自身の似姿として生んだと想定されるべきである。すなわち、御子自身が本来目に見えないように、御子もまた、目に見えない似姿を生んだのである。なぜなら、御子は言葉であり、それゆえ、御子の中に感覚で認識できるものがあると理解すべきではないからです。御子は知恵であり、知恵には物質的なものを疑う余地はありません。御子は真の光であり、この世に来るすべての人を照らすものですが、この太陽の光とは何の共通点もありません。したがって、私たちの救い主は目に見えない神の似姿であり、父自身と比較すると真理です。そして、御子が父を啓示する私たちと比較すると、御子は私たちが父を知るための似姿です。御子は、御子と、御子が喜んで啓示する人以外には誰も知りません。そして、御子を啓示する方法は理解を通してです。御子自身を理解する人は、御子自身の言葉に従って、結果として父も理解します。「私を見た者は、父をも見たのです。」<ref>ヨハネ 14:9</ref> ===7=== しかし、私たちはパウロがキリストについて「神の栄光の輝きであり、神の本質の完全な現れである」<ref>ヘブル 1:3</ref>と言っている言葉を引用したので、このことからどのような考えを抱くべきかを見てみましょう。ヨハネによると、「神は光です」。したがって、独り子はこの光の栄光であり、輝きが光から生じるように、神自身から不可分に生じ、すべての被造物を照らします。なぜなら、彼が道であり、父に導く方法、彼が言葉であり、知恵の秘密と知識の奥義を解釈し、理性的な被造物にそれらを知らせる方法、そしてまた真理であり、命であり、復活である方法についてすでに説明したことと一致して、同じように、彼が輝きである意味も理解する必要があります。なぜなら、その輝きによって、私たちは光自体が何であるかを理解し、感じるからです。そしてこの輝きは、人間の弱くて脆い目に優しく優しく現れ、いわば徐々に訓練し、光の輝きに耐えられるように慣れさせ、主自身の教え「あなたの目から梁を追い出せ」<ref>ルカ 6:42</ref>に従って、視覚を妨げるものや妨害するものをすべて取り除くと、人間は光の輝きに耐えることができるようになり、この点でも人間と光との間の一種の仲介者にもなります。 ===8=== しかし使徒は、イエスをその栄光の輝きだけでなく、その人格や存在の明確な象徴として呼んでいるので<ref>ヘブル 1:3。本質または存在のこと</ref>、ペルソナと実体の意味が何であれ、神自身のペルソナ{{註|persona 位格}}のほかに、そのペルソナの別の姿があると言えるのかを問うことは、無意味ではないようです。それでは、神の子は、神の言葉であり知恵であり、父を知る唯一の存在であり、父が望む者(つまり、神の言葉と知恵を受け取る能力のある者)に父を明らかにするので、神を理解して認めさせるというまさにこの点に関して、神のペルソナと実体の姿と呼ばれることはできないでしょうか。つまり、神が他の人に認識され、理解される手段を知らせたいと願うその知恵が、まず自分自身を説明するとき、そのようにすることで、神のペルソナの明確な姿と呼ばれることができるのです。しかし、救世主が神の位格または実体の象徴である様子をより深く理解するために、私たちが扱っている主題を十分に、または適切に説明しているわけではないが、それでもこの目的のためだけに使われていると見なせる例を取り上げましょう。それは、神の形をとっていた神の子が、(その栄光を)脱ぎ捨て、まさにその脱ぎ捨てによって、神の神性の完全さを私たちに示すことをその目的とするということを示すためです。たとえば、全世界を埋め尽くすほど巨大な像があり、そのために誰にも見えないと仮定します。そして、手足の形、顔の特徴、形や材質が全く同じであるが、大きさがそれほど大きくない別の像が造られた。そのため、巨大な像を見ることができなかった者も、後者を見ると、前者を見たと認めるであろう。なぜなら、後者は手足や顔の特徴、さらには形や材質さえも、前者と全く区別がつかないほどよく保存しているからである。そのような類似性によって、神の子は、父と同等であることを捨て、神を知る道を我々に示すことにより、神のペルソナの明確な似姿とされる。そのため、神の偉大さの中に置かれたときにその驚くべき光の栄光を見ることができなかった我々は、神が我々にとって輝きとなられたことにより、その輝きを見ることによって神の光を見る手段を得ることができるのである。もちろん、この彫像を物質的なものとの比較として用いるのは、神の子が人間の体という取るに足らない形をとっているにもかかわらず、その働きと力が父に似ていることから、彼の中には計り知れない目に見えない偉大さがあることを示したということを示すためだけである。つまり、彼は弟子たちに「私を見る者は、父をも見る」また「私と父とは一つである」と言ったのである。そして、これらには「父は私の中におり、私は父の中にいる」という同様の表現も当てはまる。 ===9=== では、ソロモンの知恵に出てくる表現の意味を見てみましょう。知恵について、「それは神の力の息吹のようなもので、全能者の栄光の最も純粋な流出であり、永遠の光の輝きであり、神の働きや力の汚れのない鏡であり、神の善良さの像である」と言われています<ref>ソロモンの智慧 7:25-26</ref>。 これらは、ソロモンが神に与えた定義であり、それぞれによって神の知恵に属する特定の属性を指摘し、知恵を神の力、栄光、永遠の光、働き、善良さと呼んでいます。しかし、彼は、知恵が全能者の栄光の息吹、永遠の光の息吹、父の働きの息吹、父の善良さの息吹であるとは言っていません。これらのどれかに息吹を帰することは適切ではなかったからです。しかし、彼は、知恵は神の力の息吹であると、適切に述べています。さて、神の力とは、神が強くなる力、神が目に見えるもの、目に見えないものすべてを任命し、抑制し、支配する力、神が摂理において支配するすべてのものに十分な力、神がすべての中に、あたかも一人の人間として存在する力であると理解されるべきです。そして、このすべての強大で計り知れない力の息吹、そしていわばそれ自体の存在によって生み出される活力そのものは、意志が心から発するように、力自体から発せられますが、それでも神のこの意志さえも、神の力となるように作られているのです<ref>“Hujus ergo totius virtutis tantæ et tam immensæ vapor, et, ut ita dicam, vigor ipse in propriâ subsistentiâ effectus, quamvis ex ipsa virtute velut voluntas ex mente procedat, tamen et ipsa voluntas Dei nihilominus Dei virtus efficitur.”</ref>。 したがって、別の力が生み出され、それは独自の特性を持って存在し、聖書が言うように、神の根源的で生まれなかった力の一種の息吹であり、神からその存在を引き出し、決して存在しないことはない。なぜなら、もし誰かが、それが以前は存在せず、後から存在するようになったと主張するなら、それを存在させた父が以前にそうしなかった理由を説明するべきだ。そして、もし彼が、その息吹が神の力から生じたとき、かつて始まりがあったことを認めるなら、私たちは彼に、彼が認めた始まりよりも前になぜそうしなかったのか、と再び尋ねるだろう。このようにして、常により早い日付を要求し、質問を重ねていくと、神は常に力と意志を持っていたので、神が望んだその祝福を常に持っていなかった理由が適切であるかどうかにかかわらず、決してなかったという結論に達するだろう。それによって、神の力の息吹は常に存在し、神自身以外に始まりがなかったことが示される。また、神自身以外に何か他の始まりがあるというのはふさわしくありません。神からその誕生がもたらされるのですから。そして使徒の言葉によれば、キリストは「神の力である」<ref>1 コリント 1:24</ref>。それは神の力の息吹であるだけでなく、力から生まれた力とも呼ばれるべきです。 ===10=== では、「知恵は全能者の栄光の最も純粋な流出である」という表現を検討してみましょう。まず、全能の神の栄光とは何かを考えてみましょう。そうすれば、その流出が何であるかを理解できます。息子を持たない父親はおらず、召使いを持たない主人はいないのと同じように、神がその力を行使できる人々がいなければ、神でさえ全能であるとは言えません。したがって、神が全能であることを示すには、すべてのものが存在することが必要です。なぜなら、ある時代や時間の部分、あるいは何と呼ぼうと、その後に作られたものがまだ存在していない間に過ぎ去ったと望む人がいるとしたら、その人は間違いなく、それらの時代や期間の間、神は全能ではなく、後になって、つまり、神が権力を行使できる人々を持ち始めた時から全能になったことを示すでしょう。そしてこのようにして、神はある程度の増加を受け、低い状態から高い状態へと上昇したように見えるでしょう。なぜなら、全能である方がそうでないよりも良いことは疑いの余地がないからです。さて、神が所有するのにふさわしいものを何も所有していなかったときに、ある種の進歩によって、神が後にそれらを所有するようになったというのは、不合理以外の何物でもありません。しかし、神が全能でなかった時代が一度もなかったとしたら、必然的に、神がその称号を受け取るものも存在しなければなりません。そして、神は常に、王または君主として神によって統治され、権力を行使した者たちを持っていたに違いありません。これについては、適切な場所で、被造物について議論するときに、より詳しくお話しします。しかし、今でさえ、私は、たとえ大ざっぱであっても、警告の言葉を述べる必要があると思う。なぜなら、私たちの前に立ちはだかる問題は、知恵がいかにして全能者の栄光の最も純粋な流出物であるかということであるから、誰かが、全能者の称号が、知恵の誕生に先立って神に存在していたと考えないようにするためである。知恵を通して神は父と呼ばれている。神の子である知恵は、全能者の栄光の最も純粋な流出物であるからである。この疑いを抱きがちな人は、「あなたは知恵によってすべてを造られた」<ref>詩篇 104:24</ref>と宣言する聖書の疑いのない宣言と、「彼によってすべてのものが造られた。彼なしには何も造られなかった」<ref>ヨハネ 1:3</ref>という福音の教えを聞くべきである。そして、このことから、神の全能性の称号は父のそれより古いはずがないことを理解すべきである。なぜなら、父は子を通して全能だからである。しかし、「全能者の栄光」という表現から、知恵はその栄光の流出物であるが、これは、神が全能であると言われる知恵が全能者の栄光にあずかっていることを意味する。なぜなら、キリストである知恵を通して、神はすべてのものを支配する力を持つからである。それは、支配者の権威によってだけでなく、臣民の自発的な服従によってもである。そして、父と子の全能性が同一であり、神と主が父と同一であることを理解するために、ヨハネが黙示録で語る様子に耳を傾けなさい。「今いまし、昔いまし、やがて来られる全能者である主なる神がこう言われる。」<ref>黙示録 1:8</ref> キリスト以外の誰が「やがて来られる方」であっただろうか。そして、神が父であり、救い主も神であるのを見て、誰も腹を立てるべきではないのと同じように、父が全能と呼ばれているのだから、神の子も全能と呼ばれていることに腹を立てるべきではない。このようにして、イエスが父に語った言葉は真実になる。「わたしのものはすべてあなたのものであり、あなたのものはわたしのものであり、わたしはそれらによって栄光を受ける。」<ref>ヨハネ 17:10</ref> さて、父のものであるすべてのものがキリストのものでもあるなら、確かに存在するものの中には父の全能性があります。そして、子もまた父が所有するすべてのものを持つことができるように、独り子は全能であるべきです。「そして、わたしはそれらによって栄光を受ける」と彼は宣言します。「イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてがひざまずき、すべての舌が、主イエスは父なる神の栄光の中におられると告白する。」<ref>ピリピ 2:10-11</ref> したがって、この点において、彼は神の栄光の流出物であり、彼は全能であり、純粋で澄んだ知恵そのものであり、全能性または栄光の流出物として讃えられています。そして、全能性の栄光が何であるかをより明確に理解するために、次のことを付け加えましょう。父なる神は全能です。なぜなら、彼はすべてのもの、つまり、天と地、太陽、月、星、そしてその中にあるすべてのものに対する力を持っているからです。そして、彼は言葉によってそれらに対する力を行使します。なぜなら、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてがひざまずくからです。そして、すべてのひざがイエスにかがむなら、疑いなく、すべてのものはイエスに服従し、イエスがすべてのものに対して力を行使し、彼を通してすべてのものが父に服従するからです。なぜなら、知恵によって、つまり言葉と理性によって、力と必要性によってではなく、によって、すべてのものが服従するからです。それゆえ、神の栄光は、神がすべてのものを所有していることにほかならず、これこそ全能性の最も純粋で澄んだ栄光であり、すべてのものは力や必然ではなく理性と知恵によって従属している。さて、知恵の最も純粋で澄んだ栄光は、純粋で誠実とは言えない栄光と区別するのに便利な表現である。しかし、変換可能で変化する性質はすべて、正義や知恵の働きによって栄光を与えられたとしても、正義や知恵は偶然の性質であり、偶然のものも失われる可能性があるため、その栄光は誠実で純粋であるとは言えない。しかし、神の独り子である神の知恵は、あらゆる点で変化や改変が不可能であり、神のすべての良い性質は本質的であり、変更や改変が不可能であるため、神の栄光は純粋で誠実であると宣言される。 ===11=== 第三に、知恵は永遠の光の輝きと呼ばれます。この表現の力については、前のページで太陽の類似性とその光線の輝きを紹介し、これがどのように理解されるべきかをできる限り示したときに説明しました。その時述べたことに、次のコメントだけを追加しましょう。存在の始まりがなく、それがそのままであることをやめることもないものが、永遠または永遠であると適切に呼ばれます。そして、これがヨハネが「神は光である」と言ったときに伝えた考えです。さて、神の知恵はその光の輝きであり、光であるという点だけでなく、永遠の光であるという点でも輝きであり、したがって神の知恵は永遠で永遠の輝きです。これが完全に理解されれば、子の存在は父から派生したもので、時間から派生したものでも、他のいかなる始まりからも派生したものでもなく、私たちが言ったように神自身から派生したものであることが明確に示されます。 ===12=== しかし知恵は、神の働き、すなわち ἐνέργεια {{註|エネルゲイア}}の汚れのない鏡とも呼ばれています。では、まず神の力の働きがどのようなものかを理解する必要があります。それはいわば、神が創造、摂理、裁き、あるいは個々の物事の処分や配置において、それぞれの時期に働く力のようなものです。鏡に映った像が、それを見つめる人のすべての行為や動きを間違いなく映すように、知恵は父の力と働きの汚れのない鏡と呼ばれるとき、そのように理解されるべきです。神の知恵である主イエス・キリストも、自らについて、「父のなさる業は、子も同じようにするのである」と宣言しています<ref>ヨハネ 5:19</ref>。 また、子は父のなさることを見ること以外は、自分では何もできないとも言っています。したがって、御子は御業の力において父と何ら異なるところがなく、御子の御業は父の御業と異なるものではなく、いわばすべてのものにおいて一つの同じ動きであるので、神は御子を汚れのない鏡と名付け、そのような表現によって御子と父との間に何ら相違がないことを理解できるようにした。実際、弟子が師匠に似る、または真似るやり方で行われると一部の人が言うこと、または御父によって霊的本質が最初に形作られたものが御子によって肉体的な素材で作られるという見解に従って行われることが、福音書では御子は同様のことを行うのではなく、同様の方法で同じことをすると述べられているのに、どうして聖書の宣言と一致するのだろうか。 ===13=== 残るは「神の善の似姿」とは何かという問いかけです。ここで、鏡によって形作られた像について少し前に述べたのと同じことを理解しなければならないと思います。なぜなら、神は疑いなく根源的な善であり、子はそこから生まれ、子はあらゆる点で父の似姿であるため、当然のことながら、神の善の似姿とも呼ばれます。子には、父にある善以外には第二の善は存在しないからです。したがって、救い主ご自身も福音書の中で正しくこう言っています。「父なる神以外には善なる者はいない」<ref>ルカ 18:19</ref>この表現によって、子は別の善を持つわけではなく、父にある善のみから来ていることがわかります。子は父の似姿であると正しく呼ばれています。なぜなら、子は根源的な善以外には何も源がないからです。そうしないと、子には父にある善とは異なる善があるように思われるかもしれません。また、御子には善良さの相違や違いはありません。したがって、「ただひとり、父なる神以外に善なる者はいない」という言葉に、いわば冒涜的な意味があるとは考えるべきではありません。それによって、キリストまたは聖霊のどちらかが善良であったことが否定されるかのように考えるべきではありません。しかし、すでに述べたように、根源的な善良さは、御子が生まれ、聖霊を発する父なる神に宿ると理解されるべきであり、御子と聖霊は、その源泉にある善良さの性質を、疑いなく保持しています。そして、聖書で善良と呼ばれている他のもの、つまり天使、人、しもべ、宝、善い心、善い木などがあれば、これらすべては、偶発的な善良さを持ち、本質的な善良さを持っていない、型破りな意味でそう呼ばれています<ref> 乱用 [= 不適切に使用される。S.]</ref>。しかし、真の光、門、正義、聖化、贖罪など、神の子の称号をすべて集め、それぞれがどのような理由でそのように与えられているかを示すには、多くの時間と労力が必要です。したがって、私たちはすでに述べたことに満足し、次に続く他の事柄の調査に進みます。 :::[[諸原理について/I/第2章#第2章|トップに戻る↑]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/I/Chapter 2". を翻訳 --> afpatt62ecxcjvpnjrlz73wq0a72swl 諸原理について/第1巻/第3章 0 48710 242529 242460 2026-05-18T03:57:35Z 村田ラジオ 14210 ヘッダー 242529 wikitext 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次の点は、聖霊という主題をできるだけ簡単に調べることです。どのような方法であれ、摂理の存在を認識する人は皆、万物を創造し、配置した神は何かから生まれた者ではない{{註|自立存在者である}}と告白し、宇宙の親として神を認めます。さて、神に子が属するというのは、私たちだけが述べたことではありません。ギリシャ人や蛮族の間で哲学者として名声を得ている人たちにとっては、十分に驚異的で信じ難い主張に思えるかもしれませんが、彼らの中には、万物は神の言葉や理性によって創造されたことを認める中で、神の存在という考えを抱いていたようです。しかしながら、私たちは、その教義が神の霊感によるものであると確信しているという信念に従って、神の子としてのこのより高尚で神聖な理性を人間の知識の範囲内に説明し、もたらすには、聖霊の霊感を受けた聖書、すなわち、キリスト自身の宣言による福音書と書簡、律法と預言書のみを用いる以外に方法はないと信じている。律法と預言書に精通している者、またはキリストを信じていると公言する者を除いて、聖霊の存在については誰も疑念を抱くことはできない。なぜなら、父なる神について確実に語れる者はいないが、それでも、目に見える創造物と人間の心の自然な感情によって、神についてのある程度の知識を得ることは可能であり、さらに、そのような知識が聖書から限定されることも可能だからである。しかし、神の子に関しては、父以外には誰も子を知りませんが、人間の心は子についてどのように考えるべきかを聖書から教えられています。そして、それは新約聖書だけでなく旧約聖書からも教えられています。聖人たちによって行われたことですが、比喩的にキリストを指し示し、そこからキリストの神性と、キリストが引き受けた人間性の両方が発見されるのです。 ===2=== さて、聖霊が何であるかは、聖書の多くの箇所で教えられています。例えば、詩篇第51篇のダビデは「あなたの聖霊を私から取り去らないでください」と言っています<ref>詩篇第51篇11節</ref>。また、ダニエルは「あなたの中にある聖霊」と言っています<ref>ダニエル 4:8</ref>。 また、新約聖書には、聖霊がキリストの上に降臨したと描写されている箇所や、主が復活後に使徒たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたときの箇所<ref>ヨハネ 20:22</ref>、天使がマリアに「聖霊があなたに臨むでしょう」と言った箇所<ref>ルカ 1:35</ref>、パウロが「聖霊によらなければ、だれもイエスを主と呼ぶことはできない」と宣言した箇所など、豊富な証言があります<ref>1 コリント 12:3</ref>。 使徒行伝では、洗礼の際に使徒たちが手を置くことによって聖霊が与えられました<ref>使徒行伝 8:18</ref>。 これらすべてから、聖霊の位格がそのような権威と尊厳を持っていたこと、そして、救いの洗礼が、それらすべての中で最も優れた三位一体の権威、すなわち父、子、聖霊の名付けによって、そして、生まれざる父なる神とその独り子に聖霊の名を結びつけることによってでなければ、完成しなかったことがわかります。それでは、人の子に逆らって言葉を発する者は赦しを期待できるが、聖霊に対して冒涜の罪を犯した者は、この世でも来世でも赦しを得られないと聞いて、聖霊のこの上ない威厳に驚かない者がいるでしょうか<ref>マタイ伝12章32節とルカ伝12章10節を参照。</ref>。 ===3=== 万物は神によって創造され、神に由来しない生き物は存在しないということは、聖書の多くの宣言から立証されています。神と共存する物質や生まれていない魂の存在について、神が存在の力ではなく平等と秩序を植え付けたと主張する人々によって誤って主張された主張は、反駁され、拒否されています。ヘルマスによって書かれた「牧者または悔い改めの天使」と呼ばれる小論文でさえ、次のように書かれています。「まず第一に、万物を創造し、配置した唯一の神がいることを信じなさい。神は、以前は何も存在しなかったときに、万物を存在させました。神自身が万物を含んでいますが、神自身が何にも含まれていないことを。」<ref>[[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume II/The Pastor of Hermas/Book Second|ヘルマスの牧者]]、Vision v. Mandat. 1 を参照。[第2巻20ページを参照]</ref> エノク書にも同様の記述があります。しかし、現在まで、私たちは聖霊が作られたり創造されたりしたと言えるような記述を聖書の中に見つけることができていません<ref>Per quem Spiritus Sanctus fatura esse vel creatura diceretur.</ref>。ソロモンが神の知恵について語っていることを上で示した方法や、私たちが論じてきた表現が神の子の命、言葉、その他の呼び名について理解されるべきである方法でさえもです。したがって、世界の創造の初めに書かれているように、水に乗って運ばれた神の霊は、私が理解する限り、聖霊に他ならないと私は考えています。実際、私たちは歴史的解釈ではなく、霊的解釈方法に従って、聖句自体の解説で示しました。 ===4=== 確かに、私たちの先人たちの中には、新約聖書では、聖霊が、その性質を表す付加語なしで呼ばれる場合はいつでも、聖霊と理解されるべきであると指摘した人がいました。例えば、「さて、聖霊の実は、愛、喜び、平和です」<ref>ガラテヤ人への手紙 5章22節</ref>、そして「あなたがたは、聖霊において始まったのに、今は肉において全うされたのですか」<ref>ガラテヤ人への手紙 3章3節</ref>という表現です。私たちは、この区別は旧約聖書にも見られると考えており、「地に住む人々に霊を与え、地の上を歩く人々に霊を与える方」<ref>イザヤ書 42章5節</ref>と言われています。なぜなら、疑いなく、地の上を歩くすべての人(すなわち、地上の肉体を持つ存在)は、神から聖霊を受け、聖霊にあずかっているからです。私のヘブライ語の師匠も、イザヤ書に出てくる二人のセラフィムは、それぞれ六つの翼を持ち、互いに呼び合って「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神」<ref>イザヤ6章3節</ref>と言っているとよく言っていました。これは神の独り子と聖霊のことです。また、ハバクク書の賛美歌に出てくる「二つの生き物、二つの命の真ん中で、あなたは知られるであろう」<ref>ハバクク 3章2節</ref>という表現も、キリストと聖霊のことです。父に関するすべての知識は、聖霊を通じた子の啓示によって得られるので、預言者によれば「生き物」または「命」と呼ばれるこれらの存在は両方とも、父なる神に関する知識の根拠として存在するのです。というのは、子について、「子と子が父をあらわす者のほかには、だれも父を知る者はいない」<ref>ルカによる福音書 10章22節</ref>と言われているように、聖霊の使徒も、「神は聖霊によって、これらのことをわたしたちにあらわされた。聖霊はすべてのことを探り、神の深みにいたるまで探り知るからである」<ref>1コリント 2:10</ref>と宣言しています 。また、福音書の中では、救い主が、弟子たちがまだ受け入れることができなかった、教えの神聖で深遠な部分について語るとき、このように弟子たちに語りかけています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに耐えられない。しかし、助け主である聖霊が来ると、すべてのことを教え、わたしが話しておいたことをことごとく思い起こさせてくれるであろう。」<ref>ヨハネ16章12節、13節、14章26節を参照。</ref> ですから、私たちは、父を知る唯一の御子が、父が望む者に父を明らかにするのと同じように、神の深遠なことを探る唯一の"霊"が、神が望む者に神を明らかにすることを理解しなければなりません。「{{r|"霊"|みたま}}は思いのままに吹くからである。」<ref>ヨハネ 3章8節</ref> しかし、聖霊が御子からの啓示を通して知識を得ると想定してはならない。なぜなら、もし聖霊が御子の啓示を通して父を知るなら、無知の状態から知識の状態に移るからである。しかし、聖霊を告白しながらも、聖霊を無知であるとするのは、同様に不敬虔で愚かなことである。聖霊の前に何か他のものが存在していたとしても、聖霊が聖霊となったのは進歩的な進歩によるのではない。まるで、聖霊がまだ聖霊ではなかったときには父を知らなかったが、知識を得た後に聖霊になったと誰かがあえて言うようなものである。もしそうであるなら、聖霊が常に聖霊であったのでなければ、聖霊は三位一体の統一、すなわち不変の父とその子とともに数えられることは決してないであろう。実際、私たちが「常に」や「だった」などの言葉、あるいはその他の時間指定を使用する場合、それらを絶対的に受け取るのではなく、適切な考慮を払わなければなりません。なぜなら、これらの言葉の意味は時間に関係しており、私たちが話している主題は言葉の範囲を超えて時間内に存在するものとして話されているものの、それでもそれらの本質は有限の理解のあらゆる概念を超えているからです。 ===5=== それでもなお、神によって再生されて救いに至った者は、父と子と聖霊の両方と関係し、三位一体全体の協力なしには救いを得られないのはなぜか、また聖霊なしに父や子にあずかることがなぜ不可能なのかを問うのは適切であるように思われる。そしてこれらの主題を論じるには、聖霊と父と子の特別な働きを記述することが間違いなく必要となるだろう。そこで私は、父と子の働きは、聖人にも罪人にも、理性ある存在にも口のきけない動物にも同じように起こる、という意見である。いや、命のない物にも、普遍的に存在するすべての物にも起こる。しかし、命のない物、あるいは生きているけれども口のきけない物には、聖霊の働きはまったく起こらない。いや、確かに理性に恵まれていながら、悪の道に身を投じ、より良い生活にまったく転向していない人々の中にさえ、聖霊は見出されない。聖霊の働きは、すでにより良い生活に転向し、イエス・キリストへと導く道を歩んでいる人々、すなわち、善行の実行に従事し、神に留まっている人々においてのみ起こると私は考える。 ===6=== 父と子の働きが聖徒にも罪人にも働くことは、理性ある存在はすべて言葉、すなわち理性の分け前を受け、それによって知恵と正義の種を体内に植え付けられ、それがキリストであるということからも明らかです。さて、真に存在し、モーセを通して「わたしはある者である」<ref>出エジプト記 3:14</ref>と言われた彼には、すべてのものが、それが何であれ、分け前を受けます。父なる神へのこの分け前は、義人も罪人も、理性ある存在も非理性ある存在も、そして普遍的に存在するすべてのものも共有しています。使徒パウロもまた、すべての人がキリストに分け前を受けていることを、次のように言って真に示しています。「あなたは心の中で、『だれが天に上ろうか。(すなわち、キリストを上から引き下ろすために)だれが深みに下ろうか。(すなわち、キリストを死人の中から引き上げるために)』と言ってはならない。しかし、聖書は何と言っているか。御言葉はあなたの近くにある、あなたの口にあり、あなたの心にある。」<ref>ローマ 10:6-8</ref> これによって彼が言いたいのは、キリストは言葉や理性であり、皆が理性的な存在である限り、それらに与ることで、すべての人の心の中にいるということである。福音書の「もし私が来て彼らに語らなかったなら、彼らには罪がなかったであろう。しかし今、彼らには罪の弁解の余地がない。」<ref>ヨハネ 15:22</ref>という宣言は、人間が罪を犯さない期間がどれほど長く、どの期間から罪を犯すようになるかを理性的な知識を持つすべての人に明らかにし、明白にしている。つまり、理解力と知識を身につけた時から、つまり、内に植え付けられた理性が善と悪の違いを彼らに示唆した時から、人々は罪を犯したと言われている。そして、悪が何であるかをすでに知り始めた後でも、もし悪を犯せば、彼らは罪を犯すようになるのである。そして、これが「人間には罪の弁解の余地がない」という表現の意味です。つまり、神の言葉や理性が善と悪の違いを内面的に示し始めた時から、人間は邪悪なものを避け、警戒すべきであるということです。「善をなすべきことを知りながら行わない人は、その人にとって罪なのです。」<ref>ヤコブの手紙 4:17</ref> さらに、すべての人が神との交わりを持たないわけではないことは、福音書の中で救い主の言葉によって次のように教えられています。「神の国は人に見える形で来るのではない。また、見よ、ここにある、見よ、あそこにある、とも言わない。神の国はあなたの内にある。」<ref>ルカ 17:20-21</ref> しかし、ここで私たちは、これが創世記の表現と同じ意味を持たないかどうかを見なければなりません。「そして神は彼の顔に命の息を吹き込まれた。すると人は生きた魂となった。」<ref>創世記 2:7</ref> というのは、これが一般にすべての人間に当てはまると理解されるなら、すべての人間には神とのつながりがあることになるからです。 ===7=== しかし、もしこれが神の霊について語られていると理解されるなら、アダムもいくつかのことを預言していたことがわかっているので、これは一般的な適用としてではなく、聖徒たちに限定してとらえられるかもしれません。最後に、また、すべての肉なる者が神の前で堕落した洪水のとき、神はふさわしくない人々や罪人について次のように語ったと記録されています。「わたしの霊は、いつまでも彼らと共にとどまることはない。彼らは肉であるからだ。」<ref>創世記 6:3</ref> これによって、神の霊はふさわしくない人々から取り去られることが明確に示されています。詩篇にもこう書かれています。「あなたが彼らの霊を取り去ると、彼らは死に、土に帰ります。あなたがあなたの霊を送られると、彼らは創造され、あなたは地の面を新しくされます。」<ref>詩篇 104:29-30</ref>これは明らかに聖霊の働きによるものです。聖霊は、罪人や価値のない者が取り去られ、滅ぼされた後、ご自分のために新しい民を創り、地の面を新しくします。聖霊の恵みにより、人々は古い人間をその行いとともに脱ぎ捨て、新しいいのちに歩み始めます。したがって、この表現は聖霊に適切に当てはまります。なぜなら、聖霊はすべての人の中にではなく、肉なる人々の中にではなく、その土地<ref>Terra 大地、陸地</ref>が新しくされた人々の中に住まわれるからです。最後に、このために、洗礼後、使徒たちが按手することによって、聖霊の恵みと啓示が授けられました。私たちの救い主も、復活の後、古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなったとき、ご自身も新しい人、死人の中から最初に生まれた者となり、使徒たちも復活を信じる信仰によって新しくされて、「聖霊を受けなさい」と言われます<ref>ヨハネ 20:22</ref>。 これは、救い主である主が福音書の中で、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れることはできないと言い、皮袋を新しくするよう命じた時に伝えたかったことであることに疑いの余地はありません。つまり、人々は新しい命を歩み、新しいぶどう酒、つまり聖霊の恵みの新しいものを受けることができるようにするためです。このようにして、父なる神と子なる神の力の働きは、区別なくすべての被造物に及ぶのです。しかし、聖霊の分け前は聖徒だけが持っていることがわかります。そのため、「聖霊によらなければ、だれもイエスは主であるとは言えない」と言われています<ref>1 コリント 12:3</ref>。 そして、ある時、使徒たち自身でさえ、「あなたたちは聖霊の力があなたたちに降りかかるのを受けるでしょう」という言葉を聞くにふさわしいとはほとんど考えられませんでした<ref>使徒行伝 1:8</ref>。 また、この理由から、人の子に対して罪を犯した者は赦しを受けるに値すると私は考える。なぜなら、神の言葉や理性に与る者が理性に従って生きることをやめれば、無知や愚かさに陥ったように思われ、それゆえ赦しを受けるに値するからである。一方、聖霊の一部を得るにふさわしいとみなされ、逆戻りした者は、まさにこの行為と働きによって、聖霊に対する冒涜の罪を犯したと言われる。聖霊は聖徒だけに授けられるが、父と子の恩恵や働きは善と悪、正義と不正義に及ぶと私たちが言ったからといって、父と子よりも聖霊を優先したり、聖霊の尊厳の方が大きいと主張したりするなどと、誰も考えてはならない。それは確かに非常に非論理的な結論であろう。なぜなら、私たちが説明してきたのは、聖霊の恩恵と働きの特殊性だからである。さらに、三位一体において、大きいとか小さいとか呼ばれるものは何もありません。なぜなら、神性の源泉だけが、その言葉と理性によってすべてのものを含み、その口の霊によって、聖化に値するすべてのものを聖化するからです。詩篇にこう書かれています。「主の言葉によって、天は強くなり、そのすべての力は、その口の霊によって強められた。」<ref>詩篇 33:6</ref> 父なる神には、すべてのものに自然の命の賜物を授けた働きのほかに、特別な働きもあります。また、主イエス・キリストには、生まれながらに理性の賜物を授けた人々に対する特別な奉仕があり、それによって彼らは正しくあることができるようになります。また、聖霊の別の恵みがあり、それは、それを受け取ることができるようになった人々の功績に応じて、キリストの奉仕と父の働きを通して、ふさわしい人々に授けられます。このことは、使徒パウロが三位一体の力が一つで同じであることを示す際に、次のように最も明確に指摘されています。「賜物はいろいろあるが、{{r|"霊"|みたま}}は同じである。管理はいろいろあるが、主は同じである。働きはいろいろあるが、すべてのものにおいてすべてのものを働かせるのは同じ神である。しかし、{{r|"霊"|みたま}}の顕現は、すべての人に、それぞれ益をもたらすために与えられている。」<ref>1 コリント 12:4-7</ref> そこから、三位一体には違いはなく、"霊"の賜物と呼ばれるものは、御子を通して知らされ、父なる神によって働かされていることが最も明確にわかります。「しかし、これらすべては、一つの、同じ{{r|"霊"|みたま}}によって働いて、御心のままに、各自に分け与えてくださる。」<ref>1 コリント 12:11</ref> ===8=== 父と子と聖霊の一体性に関するこれらの宣言を行ったので、議論を始めた順序に戻りましょう。父なる神はすべてのものに存在を授けます。そして、キリストが理性の言葉であるという点で、キリストにあずかることで、彼らは理性的な存在になります。このことから、彼らは美徳と悪徳を持ち得るため、賞賛にも非難にも値します。したがって、この理由で聖霊の恵みがあり、本質的に聖でない存在は、聖霊にあずかることで聖化されます。まず、彼らはその存在を父なる神から、次に理性的な性質を言葉から、そして第三にその聖性を聖霊から得ていることを考えると、聖霊によって以前に聖化された人々は、キリストが神の正義であるという点で、再びキリストを受け入れることができるようになります。そして、聖霊の聖化によってこの段階まで昇進した人々は、それでもなお、神の霊の力と働きに応じて、知恵の賜物を得るでしょう。そして、これがパウロが「ある人には知恵の言葉が与えられ、ある人には知識の言葉が、同じ霊によって与えられている」と言うときの意味だと私は考えています。そして、賜物の個々の違いを指摘しながら、彼はそれらすべてを万物の源に関連付けて、「働きにはさまざまなものがありますが、すべてのものの中ですべてのものを働かせるのは唯一の神です」という言葉で述べています<ref>1 コリント 12:6</ref>。 そこから、すべてのものに存在を与える父の働きは、より栄光に満ち、より壮大であることがわかります。一方、それぞれは、知恵、知識、聖化としてキリストにあずかることによって進歩し、より高い完成の段階へと進みます。そして、聖霊を受けることによって、人はより清く、より聖なる者とされるのだから、ふさわしい者とされたとき、知恵と知識の恵みを得る。それは、汚れと無知の汚れがすべて清められ、取り除かれた後、神聖さと純粋さにおいて大いに進歩し、神から受けた性質が、それを清く、完全なものとするために与えた神にふさわしいものとなり、存在する存在が、それを存在させた神にふさわしいものとなるためである。このようにして、創造主が望んだような者には、常に存在し、永遠にとどまる力が神から与えられる。こうして、神が創造した者たちが、神と共に絶えず、切り離すことなく存在できるようにするためである。知恵の仕事は、彼らを教え訓練し、聖霊の確証と絶え間ない聖化によって彼らを完成に導くことであり、それによってのみ彼らは神を受け入れることができるのです。このようにして、父と子と聖霊が私たちの中で絶え間なく働き、そのさまざまな進歩の段階を更新することによって、私たちは将来、困難ではあっても、おそらく聖なる祝福された生活を見ることができるでしょう。私たちは(多くの苦労の後にのみそこに到達することができるので)その祝福に飽きることがないように、その生活を続けるべきです。その祝福を認識すればするほど、それに対する憧れは私たちの中でますます増し強められ、父と子と聖霊をますます熱心に自由に受け入れ、しっかりと保つべきです。しかし、最高かつ完璧な達成の頂点に立つ人々の誰かが飽くことを覚悟したとしても、そのような人が突然地位を追われ堕落することはなく、徐々に少しずつ衰退していくと私は思います。そのため、一時的な過失が起こり、その人がすぐに悔い改めて立ち返れば、完全に堕落することはなく、元の道をたどって元の地位に戻り、不注意によって失ったものを再び取り戻すことができるかもしれません。 :::[[諸原理について/I/第3章#第3章|トップに戻る↑]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, Frederick Crombie, "Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/I/Chapter 3" を翻訳 --> kx5zrgqxnoast584cb9mggln68uyr0l ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソゾメノス 0 49101 242534 222661 2026-05-18T11:56:41Z 村田ラジオ 14210 校正 242534 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|hide=1}} {{header | title = ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻 | section = ソゾメノス | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス|ソクラテス]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソゾメノス/タイトルページ|タイトルページ]] | year = 1885 | 年 = | override_author = | override_translator = | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] 他 | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, James Donaldson, "[[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Sozomen|Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Sozomen]]". *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にかいあきようふとにかいあこきようふ 202 3}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]] [[Category:教父]] [[Category:ニカイア教父とニカイア後教父]] }} *[[/タイトルページ|タイトルページ]] *[[/導入|導入]] *[[/ヴァレシウスの序文|ヴァレシウスの序文]] *[[/ソゾメノスの回想録|ソゾメノスの回想録]] *[[/テオドシウス帝への演説|テオドシウス帝への演説]] *[[/第1巻|第1巻]] *[[/第2巻|第2巻]] *[[/第3巻|第3巻]] *[[/第4巻|第4巻]] *[[/第5巻|第5巻]] *[[/第6巻|第6巻]] *[[/第7巻|第7巻]] *[[/第8巻|第8巻]] *[[/第9巻|第9巻]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, "Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Sozomen"を翻訳 --> 3244x7dost1oyl10a02cibzk2yc1q7m ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソゾメノス/タイトルページ 0 49102 242535 222662 2026-05-18T11:57:33Z 村田ラジオ 14210 ヘッダー:next 242535 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|hide=1}} {{header | title = ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソゾメノス | section = タイトルページ | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソゾメノス|ソゾメノス]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソゾメノス/導入|導入]] | year = 1885 | 年 = | override_author = | override_translator = | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] 他 | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, James Donaldson, "[[s:en:Nicene and 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*[[/第8章|第8章]] 150人の司教からなる教会会議がコンスタンティノープルで開催される。布告が可決される。ネクタリオスの叙階。 *[[/第9章|第9章]] コンスタンティノープル司教パウロの遺体が、流刑地から丁重に移送される。メレティウスの死。 *[[/第10章|第10章]] 皇帝は、あらゆる宗派からなる会議の開催を命じる。アルカディウスがアウグストゥスに即位する。 *[[/第11章|第11章]] 皇帝グラティアヌスは簒奪者マクシムスの裏切りによって殺害される。ユスティナはマクシムスを恐れ、アンブロシウスへの迫害をやめる。 *[[/第12章|第12章]] 皇帝テオドシウスがマクシムスに対する軍事準備を進めている最中に、息子ホノリウスが誕生する *[[/第13章|第13章]] アリウス派がコンスタンティノープルで騒乱を引き起こす *[[/第14章|第14章]] 簒奪者マクシムスの打倒と死 *[[/第15章|第15章]] アンティオキアのフラウィウス司教について *[[/第16章|第16章]] アレクサンドリアの偶像崇拝神殿の破壊と、それに伴う異教徒とキリスト教徒の間の紛争 *[[/第17章|第17章]] セラピス神殿で発見された象形文字について *[[/第18章|第18章]] テオドシウス帝によるローマにおける弊害の改革 *[[/第19章|第19章]] 懲役長老職と、その廃止について *[[/第20章|第20章]] アリウス派およびその他の異端者間の分裂 *[[/第21章|第21章]] ノヴァティアヌス派における特異な分裂 *[[/第22章|第22章]] 復活祭、洗礼、断食、結婚、聖体拝領、その他の教会儀式に関する著者の見解 *[[/第23章|第23章]] コンスタンティノープルにおけるアリウス派のさらなる分裂。プサテュロス派。 *[[/第24章|第24章]] エウノミオス派はいくつかの派閥に分かれる *[[/第25章|第25章]] 簒奪者エウゲニウスは小ウァレンティニアヌスの殺害を企てる。テオドシウスは彼に対して勝利を収める。 *[[/第26章|第26章]] テオドシウス大帝の病と死 :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第5巻#第5巻|先頭に戻る]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, "Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book V"を翻訳 --> gznbjgc1y9qmikc5eyc8bxedg5vikgq ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第2巻 0 56586 242522 2026-05-17T12:54:57Z 村田ラジオ 14210 Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book II]] を翻訳 242522 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|第2巻|hide=1}} {{header | title = ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス | section = 第2巻 | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第1巻|第1巻]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第3巻|第3巻]] | year = 1885 | 年 = | override_author = [[w:ja:コンスタンティノープルのソクラテス|コンスタンティノープルのソクラテス]] | override_translator = [[w:en:Andrew Constantinides Zenos|アンドリュー・コンスタンティニデス・ゼノス]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] 他 | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, James Donaldson, "[[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book II|Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book II]]". *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にかいあきようふとにかいあこきようふ 202 2 05}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]] [[Category:教父]] [[Category:ニカイア教父とニカイア後教父]] }} ソクラテス・スコラスティコス 『教会史』 ———————————— ==第2巻== *[[/第1章|第1章]] 著者が第1巻と第2巻を改訂した理由を述べた序論 *[[/第2章|第2章]] ニコメディアの司教エウセビオスとその一派は、再びアリウス派異端を導入しようと試み、教会に混乱を引き起こした *[[/第3章|第3章]] アタナシオスは、小コンスタンティヌスの手紙に励まされ、アレクサンドリアに戻る *[[/第4章|第4章]] エウセビオス・パンフィロスの死後、アカキオスがカイサリアの司教職を継承する *[[/第5章|第5章]] 小コンスタンティヌスの死 *[[/第6章|第6章]] コンスタンティノープル司教アレクサンデルは、臨終の際に、パウロかマケドニウスのどちらかを後継者として選出することを提案する *[[/第7章|第7章]] コンスタンティウス皇帝は、パウロが司教に選出された後、彼を追放し、ニコメディアのエウセビオスを呼び寄せ、コンスタンティノープルの司教に任命した *[[/第8章|第8章]] エウセビオスはシリアのアンティオキアで別の教会会議を招集し、新しい信条を公布させた *[[/第9章|第9章]] エメサのエウセビオスについて *[[/第10章|第10章]] エメサのエウセビオスがアレクサンドリアの司教職を受け入れることを拒否したため、アンティオキアに集まった司教たちはグレゴリウスを叙任し、ニカイア信条の文言を変更した *[[/第11章|第11章]] グレゴリウスが軍の護衛を伴ってアレクサンドリアに到着すると、アタナシオスは逃亡する *[[/第12章|第12章]] コンスタンティノープルの人々はエウセビオスの死後、パウロを再び大主教に復帰させる一方、アリウス派はマケドニウスを選出する *[[/第13章|第13章]] パウロは、将軍ヘルモゲネスの虐殺の結果、コンスタンティウスによって再び教会から追放される *[[/第14章|第14章]] アリウス派はグレゴリウスをアレクサンドリアの司教座から追放し、代わりにゲオルギオスを任命した *[[/第15章|第15章]] アタナシウスとパウロはローマへ行き、ユリウス司教からの書簡を入手した後、それぞれの教区を回復する *[[/第16章|第16章]] コンスタンティウス皇帝は、近衛長官フィリップへの命令により、パウロの追放とマケドニウスの司教座への就任を確実にした *[[/第17章|第17章]] 皇帝の脅迫を恐れたアタナシオスは、再びローマへ戻る *[[/第18章|第18章]] 西ローマ皇帝は、アタナシウスとパウロの罷免について説明できる3人の人物を派遣するよう兄弟に要請する *[[/第19章|第19章]] 東方教会の司教たちがイタリアの司教たちに送った信条、いわゆる長文信条について *[[/第20章|第20章]] サルディカ会議について *[[/第21章|第21章]] エウセビオス・パンフィロスの弁護 *[[/第22章|第22章]] サルディカ会議はパウロとアタナシウスをそれぞれの司教座に復帰させる *[[/第23章|第23章]] コンスタンティウスは弟の脅迫を恐れ、手紙でアタナシオスを呼び戻し、アレクサンドリアへ送る *[[/第24章|第24章]] アタナシオスはアレクサンドリアへの帰途、エルサレムを通りかかった際にマクシモスによって聖餐式に迎え入れられ、同市で招集された司教会議はニカイア信条を承認した *[[/第25章|第25章]] 簒奪者のマグネンティウスとヴェトラニオについて *[[/第26章|第26章]] 西ローマ皇帝コンスタンスの死後、パウロとアタナシオスは再びそれぞれの教区から追放される *[[/第27章|第27章]] マケドニオスはコンスタンティノープルの座を掌握すると、自分に反対する者たちに多くの害を及ぼした *[[/第28章|第28章]] アタナシオスによる、アリウス派のゲオルギオスがアレクサンドリアで犯した暴力行為の記録 *[[/第29章|第29章]] 異端の指導者フォティノスについて *[[/第30章|第30章]] コンスタンティウス帝臨席のもとシルミウムで公布された信条 *[[/第31章|第31章]] コルドバ司教ホシウスのこと *[[/第32章|第32章]] 簒奪者マグネンティウスの打倒 *[[/第33章|第33章]] パレスチナのディオ=カエサレアに住むユダヤ人について *[[/第34章|第34章]] ガルス・カエサルについて *[[/第35章|第35章]] エウノミオスの師、シリア人アエティウスについて *[[/第36章|第36章]] ミラノ会議について *[[/第37章|第37章]] アリミヌムの教会会議とそこで公布された信条について *[[/第38章|第38章]] マケドニオスの残虐行為と、彼が引き起こした騒乱 *[[/第39章|第39章]] イサウリアのセレウキアにおける教会会議について *[[/第40章|第40章]] カイサリアの司教アカキオスは、セレウキアの教会会議で新しい信条の形式を指示する *[[/第41章|第41章]] 皇帝が西方から帰還すると、アカキオス派はコンスタンティノープルに集まり、アリミヌムの信条に若干の修正を加えた後、それを再確認する *[[/第42章|第42章]] マケドニオスの廃位により、エウドクシオスはコンスタンティノープルの司教の地位を得る *[[/第43章|第43章]] セバステのエウスタティオス司教のこと *[[/第44章|第44章]] アンティオキアの司教メレティウスについて *[[/第45章|第45章]] マケドニオスの異端 *[[/第46章|第46章]] アポリナリオス派とその異端について *[[/第47章|第47章]] ユリアヌスの功績、コンスタンティウス帝の死 :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第2巻#第2巻|先頭に戻る]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book II]] を翻訳 --> np0qv5kjujtkeutt84z176n7i61sc3r ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第3巻 0 56587 242523 2026-05-17T13:23:28Z 村田ラジオ 14210 Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book III]] を翻訳 242523 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|第2巻|hide=1}} {{header | title = ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス | section = 第3巻 | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第2巻|第2巻]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第4巻|第4巻]] | year = 1885 | 年 = | override_author = [[w:ja:コンスタンティノープルのソクラテス|コンスタンティノープルのソクラテス]] | override_translator = [[w:en:Andrew Constantinides Zenos|アンドリュー・コンスタンティニデス・ゼノス]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] 他 | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, James Donaldson, "[[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book III|Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book III]]". *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にかいあきようふとにかいあこきようふ 202 2 06}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]] [[Category:教父]] [[Category:ニカイア教父とニカイア後教父]] }} ソクラテス・スコラスティコス 『教会史』 ———————————— ==第3巻== *[[/第1章|第1章]] ユリアヌスについて。彼の家系と教育。彼の王位への即位。彼の異教への背教。 *[[/第2章|第2章]] アレクサンドリアで起こった反乱と、ゲオルギオスが殺害された経緯について *[[/第3章|第3章]] 皇帝はゲオルギオスの殺害に憤慨し、書簡でアレクサンドリア市民を叱責する *[[/第4章|第4章]] ゲオルギオスの死後、アタナシオスはアレクサンドリアに戻り、司教座に就く *[[/第5章|第5章]] ルキフェルスとエウセビオスについて *[[/第6章|第6章]] ルキフェルスはアンティオキアに行き、パウリヌスを聖別する *[[/第7章|第7章]] エウセビオスとアタナシオスの協力により、アレクサンドリアで教会会議が開催され、そこで三位一体が同質であると宣言された *[[/第8章|第8章]] アタナシオスの『逃亡の弁明』からの引用 *[[/第9章|第9章]] アレクサンドリア教会会議の後、エウセビオスはアンティオキアに向かい、パウリヌスの聖別をめぐってカトリック教徒が分裂しているのを発見する *[[/第10章|第10章]] ポワティエの司教ヒラリウスについて *[[/第11章|第11章]] ユリアヌス帝はキリスト教徒から金銭を搾取する *[[/第12章|第12章]] カルケドン司教マリスについて *[[/第13章|第13章]] 異教徒がキリスト教徒に対して行った暴行について *[[/第14章|第14章]] アタナシオスの逃亡 *[[/第15章|第15章]] フリギアのメルムでユリアヌスのもとで殉教した人々 *[[/第16章|第16章]] 二人のアポリナリオスの文学的業績と、皇帝によるキリスト教徒へのギリシア文学教育の禁止について *[[/第17章|第17章]] ペルシア遠征の準備をしている皇帝はアンティオキアに到着するが、住民に嘲笑されたため、「ミソポゴン、または髭嫌い」と題する風刺的な出版物で反撃する *[[/第18章|第18章]] 皇帝が神託を仰ぐが、悪魔は殉教者バビラスの近さに畏敬の念を抱き、何の答えも返さない *[[/第19章|第19章]] 皇帝の怒りと告白者テオドロスの不屈の精神 *[[/第20章|第20章]] 皇帝に{{r|唆|そそのか}}されたユダヤ人たちは神殿の再建を試みるが、奇跡的な介入によってその試みは失敗に終わる *[[/第21章|第21章]] 皇帝のペルシャ侵攻と死 *[[/第22章|第22章]] ヨヴィアヌスが皇帝に即位する *[[/第23章|第23章]] ソフィストのリバニウスがユリアヌスについて述べたことへの反駁 *[[/第24章|第24章]] 司教たちはヨヴィアヌスの周りに集まり、それぞれが彼を自分の信条に引き込もうとする *[[/第25章|第25章]] マケドニオス派とアカキオス派がアンティオキアで会合し、ニカイア信条への同意を宣言する *[[/第26章|第26章]] ヨヴィアヌス帝の死 :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第3巻#第3巻|先頭に戻る]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book III]] を翻訳 --> bbnhti2ajsgicxpqozsub3zoybq11w4 ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第6巻 0 56588 242525 2026-05-17T16:47:31Z 村田ラジオ 14210 Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book VI]] を翻訳 242525 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|第2巻|hide=1}} {{header | title = ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス | section = 第6巻 | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第5巻|第5巻]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第7巻|第7巻]] | year = 1885 | 年 = | override_author = [[w:ja:コンスタンティノープルのソクラテス|コンスタンティノープルのソクラテス]] | override_translator = [[w:en:Andrew Constantinides Zenos|アンドリュー・コンスタンティニデス・ゼノス]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] 他 | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, James Donaldson, "[[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book VI|Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book VI]]". *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にかいあきようふとにかいあこきようふ 202 2 09}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]] [[Category:教父]] [[Category:ニカイア教父とニカイア後教父]] }} ソクラテス・スコラスティコス 『教会史』 ———————————— ==第6巻== *[[/導入|導入]] *[[/第1章|第1章]] テオドシウスの死後、彼の二人の息子が帝国を分割する。ルフィヌスはアルカディウスの足元で殺害される。 *[[/第2章|第2章]] ネクタリオスの死とヨハネの叙階 *[[/第3章|第3章]] コンスタンティノープル司教ヨハネの誕生と教育 *[[/第4章|第4章]] セラピオン助祭について― ヨハネが聖職者たちから嫌われるようになる理由 *[[/第5章|第5章]] ヨハネは多くの高位の権力者たちの不興を買う。宦官エウトロピウスについて。 *[[/第6章|第6章]] ゴート族のガイナスは主権を簒奪しようと企てるが、コンスタンティノープルを混乱に陥れた後、殺害される *[[/第7章|第7章]] アレクサンドリアの司教テオフィロスと砂漠の修道士たちの間の不和。オリゲネスの著作の非難。 *[[/第8章|第8章]] アリウス派と「ホモウシオン」の支持者たちは夜間集会を開き、イグナティウス(テオフォロスという名で知られる)に帰せられる作曲様式である交唱賛歌を歌う *[[/第9章|第9章]] テオフィロスとペトロの間の論争が、前者によるコンスタンティノープル司教ヨハネの罷免の試みにつながる *[[/第10章|第10章]] キプロスのエピファニオス司教がオリゲネスの書を非難するために教会会議を招集する *[[/第11章|第11章]] セヴェリアヌスとアンティオコスについて:ヨハネによる彼らの意見の相違 *[[/第12章|第12章]] エピファニオスはテオフィロスを喜ばせるために、ヨハネの許可なしにコンスタンティノープルで叙階式を行った *[[/第13章|第13章]] 著者によるオリゲネスの擁護 *[[/第14章|第14章]] エピファニオスはヨハネに会うよう求められるが、これを拒否すると、反正典的な訴訟について叱責される。これに驚いたエピファニウスはコンスタンティノープルを去る。 *[[/第15章|第15章]] ヨハネは女性を非難したことを理由に、カルケドンで開催された教会会議で教会から追放される *[[/第16章|第16章]] ヨハネス・クリュソストモスの追放をめぐる騒乱。彼は呼び戻される。 *[[/第17章|第17章]] ヘラクリデスをめぐるコンスタンティノープル市民とアレクサンドリア市民の間の紛争。テオフィロスとその一派の司教たちの逃亡。 *[[/第18章|第18章]] エウドクシアの銀像について。このため、ヨハネは二度目の追放処分を受ける。 *[[/第19章|第19章]] アルサキウスのヨハネの後継者としての叙任。カルケドン司教キュリヌスの体調不良。 *[[/第20章|第20章]] アルサキウスの死とアッティクスの叙階 *[[/第21章|第21章]] ヨハネは亡命先で死去する *[[/第22章|第22章]] ノヴァティアヌス派司教シシニウスについて。機転の利いた会話術。 *[[/第23章|第23章]] アルカディウス皇帝の死 :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第6巻#第6巻|先頭に戻る]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book VI]] を翻訳 --> 7y6ls3b64ypiw20j9i4v1csxdckgg03 242531 242525 2026-05-18T06:13:45Z 村田ラジオ 14210 校正 242531 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|第2巻|hide=1}} {{header | title = ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス | section = 第6巻 | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第5巻|第5巻]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第7巻|第7巻]] | year = 1885 | 年 = | override_author = [[w:ja:コンスタンティノープルのソクラテス|コンスタンティノープルのソクラテス]] | override_translator = [[w:en:Andrew Constantinides Zenos|アンドリュー・コンスタンティニデス・ゼノス]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] 他 | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, James Donaldson, "[[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book VI|Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book VI]]". *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にかいあきようふとにかいあこきようふ 202 2 09}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]] [[Category:教父]] [[Category:ニカイア教父とニカイア後教父]] }} ソクラテス・スコラスティコス 『教会史』 ———————————— ==第6巻== *[[/導入|導入]] *[[/第1章|第1章]] テオドシウスの死後、彼の二人の息子が帝国を分割する。ルフィヌスはアルカディウスの足元で殺害される。 *[[/第2章|第2章]] ネクタリオスの死とヨハネの叙階 *[[/第3章|第3章]] コンスタンティノープル司教ヨハネの誕生と教育 *[[/第4章|第4章]] セラピオン助祭について― ヨハネが聖職者たちから嫌われるようになる理由 *[[/第5章|第5章]] ヨハネは多くの高位の権力者たちの不興を買う。宦官エウトロピウスについて。 *[[/第6章|第6章]] ゴート族のガイナスは主権を簒奪しようと企てるが、コンスタンティノープルを混乱に陥れた後、殺害される *[[/第7章|第7章]] アレクサンドリアの司教テオフィロスと砂漠の修道士たちの間の不和。オリゲネスの著作の非難。 *[[/第8章|第8章]] アリウス派と「ホモイウシオン」の支持者たちは夜間集会を開き、イグナティウス(テオフォロスという名で知られる)に帰せられる作曲様式である交唱賛歌を歌う *[[/第9章|第9章]] テオフィロスとペトロの間の論争が、前者によるコンスタンティノープル司教ヨハネの罷免の試みにつながる *[[/第10章|第10章]] キプロスのエピファニオス司教がオリゲネスの書を非難するために教会会議を招集する *[[/第11章|第11章]] セヴェリアヌスとアンティオコスについて:ヨハネによる彼らの意見の相違 *[[/第12章|第12章]] エピファニオスはテオフィロスを喜ばせるために、ヨハネの許可なしにコンスタンティノープルで叙階式を行った *[[/第13章|第13章]] 著者によるオリゲネスの擁護 *[[/第14章|第14章]] エピファニオスはヨハネに会うよう求められるが、これを拒否すると、反正典的な訴訟について叱責される。これに驚いたエピファニウスはコンスタンティノープルを去る。 *[[/第15章|第15章]] ヨハネは女性を非難したことを理由に、カルケドンで開催された教会会議で教会から追放される *[[/第16章|第16章]] ヨハネス・クリュソストモスの追放をめぐる騒乱。彼は呼び戻される。 *[[/第17章|第17章]] ヘラクリデスをめぐるコンスタンティノープル市民とアレクサンドリア市民の間の紛争。テオフィロスとその一派の司教たちの逃亡。 *[[/第18章|第18章]] エウドクシアの銀像について。このため、ヨハネは二度目の追放処分を受ける。 *[[/第19章|第19章]] アルサキウスのヨハネの後継者としての叙任。カルケドン司教キュリヌスの体調不良。 *[[/第20章|第20章]] アルサキウスの死とアッティクスの叙階 *[[/第21章|第21章]] ヨハネは亡命先で死去する *[[/第22章|第22章]] ノヴァティアヌス派司教シシニウスについて。機転の利いた会話術。 *[[/第23章|第23章]] アルカディウス皇帝の死 :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第6巻#第6巻|先頭に戻る]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book VI]] を翻訳 --> f39agc2p61v2581hwyaufg7zf3h9jt5 諸原理について/第3巻/第4章 0 56589 242530 2026-05-18T06:09:32Z 村田ラジオ 14210 Philip Schaff, Frederick Crombie, [[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/III/Chapter 4]] を翻訳 242530 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|諸原理について|hide=1}} {{header | title = 諸原理について/第3巻 | section = 第4章 (第2章) |previous = [[諸原理について/第3巻/第3章|第3章]] | next = [[諸原理について/第3巻/第5章|第5章]] | year = 1885 | 年 = | override_author = [[s:en:Author:Origen|オリゲネス]](2-3世紀) | override_translator = [[s:en:Author:Frederick Crombie|フレデリック・クロンビー]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, Frederick Crombie, [[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/III/Chapter 4|Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/III/Chapter 4]] *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:しよけんりについて 304}} [[Category:キリスト教]] [[Category:オリゲネス]] [[Category:諸原理について|304]] }} 諸原理について &#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212; 第3巻 ==第4章== 第2章―対立する勢力について 1. ここで、聖書の記述に従って、敵対勢力、すなわち悪魔自身が人類と争い、人々を罪に誘い込む様子に注目しなければなりません。まず、創世記[1]では、蛇がエバを誘惑したと記されています。これに関して、使徒ユダが手紙の中で言及している小論文である『モーセの昇天』[2]の中で、大天使ミカエルは、モーセの遺体について悪魔と議論する際に、蛇が悪魔に唆されてアダムとエバの罪の原因となったと述べています。これもまた、一部の人々によって調査の対象となっている。すなわち、天からアブラハムに語りかけ、「今、わたしはあなたが神を畏れ、わたしのために、あなたが愛していた愛する息子を惜しまなかったことを知った」と言った天使は誰だったのか、という点である[3]。 なぜなら、聖書が述べているように、アブラハムが神を畏れ、愛する息子を惜しまなかったことを知ったと言った天使は明らかに描写されているが、アブラハムがこれをしたのが神のためではなく、彼自身の、つまり語り手の理由によると言っているからである。また、出エジプト記に、モーセがエジプトへ出発しようとしていたため[4]、モーセを殺そうとしたと記されている人物が誰なのか、そしてその後、滅ぼす天使[5]と呼ばれる人物、さらにレビ記でアポポンパイウス、すなわち転嫁者と呼ばれている人物が誰なのかも確認しなければなりません。聖書には、彼について「主のために一つのくじ、転嫁者アポポンパイウスのために一つのくじ」[6]と書かれています。列王記上巻にも、悪霊がサウルを絞め殺したと記されています[7]。そして第三の書で、預言者ミカヤはこう言います。「私はイスラエルの主がその玉座に座っておられるのを見た。天の軍勢は皆、主の右と左に立っておられた。主は言われた。『イスラエルの王アハブを欺いて、ラモト・ギレアデに攻め上って倒れさせるのは誰か。』ある者はこう言い、別の者はああ言った。すると、霊が現れて主の前に立ち、『私が彼を欺きます』と言った。主は彼に言われた。『どのように?』彼は言った。『私は出て行って、彼の預言者たちの口の中に偽りの霊となります。』主は言われた。『あなたは彼を欺き、また成功するであろう。出て行って、速やかにそうせよ。それゆえ、主はあなたの預言者たちの口の中に偽りの霊を置かれた。主はあなたについて災いを告げられた。』」[8] この最後の引用から、ある霊が自らの(自由)意志と選択によって、 (アハブを)欺き、嘘をつくことで、主が王を死に至らしめるようにするためであった。王は苦しみを受けるに値する者であったからである。歴代誌第一巻にも、「悪魔サタンがイスラエルに立ち向かい、ダビデを唆して民を数えさせた」とある[9]。 また、詩篇では、悪霊が特定の人々を苦しめるとされている[10]。 伝道の書でも、ソロモンは「支配者の霊があなたに立ち向かうなら、その地位を離れてはならない。健全さは多くの罪を抑えるからである」と述べている[11]。 ゼカリヤ書[12]には、悪魔がヨシュアの右手に立って彼に抵抗したと記されている。イザヤ書では、主の剣が竜、曲がった[13]蛇[14]に立ち向かうと述べている。では、エゼキエルについて何と言えばよいだろうか。彼は第二の幻の中で、敵対する勢力についてティルスの君主に非常に明確に預言し、また、竜がエジプトの川に住んでいるとも言っている[15]。 いや、ヨブについて書かれた全著作の内容は、ヨブの所有物すべて、息子たち、さらにはヨブ自身に対する権力を与えてほしいと願う悪魔の行い以外に何があるだろうか。しかし、悪魔はヨブの忍耐によって打ち負かされる。その書の中で、主は答えによって、私たちに敵対する竜の力について多くの情報を伝えておられる。一方、旧約聖書には、私たちが現在思い出す限り、敵対する勢力が聖書に名を記されているか、人類に敵対し、後に罰を受けると言われているという記述がある。 今度は新約聖書にも目を向けてみましょう。そこでは、サタンが救い主に近づき、誘惑します。また、そこには、多くの人々に取り憑いていた悪霊や汚れた悪魔が、救い主によって苦しむ人々の体から追い出され、彼らもまた救い主によって解放されたと記されています。ユダでさえ、悪魔がすでにキリストを裏切ることを心に思い描いていたにもかかわらず、その後、サタンを完全に受け入れました。なぜなら、パンを食べた後に「サタンが彼の中に入った」と書かれているからです[16]。 また、使徒パウロは、悪魔に機会を与えてはならないと教えています。しかし、「神の武具を身に着けなさい。そうすれば、悪魔の策略に抵抗することができる」[17]と聖書は述べており、聖徒たちは「血肉に対する戦いではなく、支配者、権威、この世の闇の支配者、天にある悪霊どもと戦う」[18]ことを指摘している。いや、救い主でさえ、滅びるこの世の支配者たちによって十字架につけられた[19]と聖書は述べており、彼らの知恵についても聖書は語っていない。したがって、聖書は、私たちに戦いを挑む目に見えない敵が存在し、それに対して武装するよう命じていることを教えている。また、主キリストを信じる者の中でも、より単純な人々は、人が犯したすべての罪は、罪人の心に及ぼされるこれらの敵対勢力の執拗な働きかけによって引き起こされたと考えている。なぜなら、その目に見えない戦いにおいて、これらの勢力は(人間よりも)優れていることが分かるからである。例えば、悪魔がいなければ、人間は一人も道に迷わないだろう[20]。 2. しかし、物事の理由をより明確に理解している私たちは、私たちの身体構造の必然的な結果として明らかに生じる罪を考慮に入れると、この意見は持ちません[21]。 悪魔が私たちの空腹や渇きの原因であると本当に考えなければならないのでしょうか。誰もそんなことを主張しようとはしないでしょう。もし、悪魔が私たちの空腹や渇きの原因ではないとしたら、各個人が思春期に達し、その時期に自然な熱の刺激が引き起こされたときの違いはどこにあるのでしょうか。悪魔が私たちの空腹や渇きの原因ではないのと同様に、成熟時に自然に生じる欲求、すなわち性交の欲求の原因でもないことは疑いようもなく導き出されます。さて、この原因が常に悪魔によって引き起こされるわけではないことは確かであり、悪魔が存在しなければ、人間はそのような交わりを求める欲求を持たないと考える必要はない。次に、すでに述べたように、人間が食物を欲するのは悪魔の唆しからではなく、ある種の自然な本能によるものだとすれば、悪魔が存在しない場合、人間の経験は食物摂取において適切な限度を超えないほどの自制心を発揮できるだろうか。つまり、誰も必要以上に食べたり、理性が許容する以上に食べたりしないということである。そして、その結果、人々は食事に関して適切な量と節度を守れば、決して過ちを犯さないことになるだろうか。実際、私は、たとえ悪魔の唆しがなかったとしても、人々が食物摂取において適切な限度と自制心を超えないほどの節度を守れるとは思わない。それは、長年の習慣と経験からそれを学ぶまで、誰も食物摂取において適切な限度と自制心を超えないということである。では、事の真相はどうでしょうか。飲食に関しては、悪魔の唆しがなくても、節度を欠いたり、注意力が不足したりすれば、私たちは道を誤る可能性があります。では、性交への欲求や自然な欲望の抑制に関して、私たちの状況は似たようなものではないと考えるべきでしょうか[22]。 実際、貪欲、怒り、悲しみ、あるいは一般的に不節制の悪徳によって節度の自然な限界を超えてしまうすべての自然な動きと同様に、同じ推論の道筋が他の自然な動きにも適用されると理解されるべきだと私は考えています。したがって、人間の意志は善いことに関してはそれ自体では善を成し遂げるには弱く(あらゆることにおいて完成されるのは神の助けによるためである)、という意見を持つ明白な理由があります。同様に、反対の性質を持つものにおいても、私たちは自然に従って用いるものからある種の初期要素、いわば罪の種を受け取ります[24]。 しかし、それらを適切な範囲を超えて耽溺し、最初の不節制への衝動に抵抗しなかったとき、敵対的な力は、この最初の違反の機会を捉え、あらゆる方法で私たちを煽り立て、強く押し付け、私たちの罪をより広い領域に広げようとし、私たち人間に罪の機会と始まりを与え、これらの敵対的な力はそれを遠く広く、可能であればあらゆる限界を超えて広めます。このように、人々が最初は少しのお金を欲しがると、情欲が増すにつれて貪欲が成長し始め、ついには強欲に陥ります。そしてその後、情欲が心の盲目さに取って代わり、敵対的な力がその暗示によって心を急がせると、お金はもはや欲しがられるのではなく、盗まれ、力ずくで、あるいは人間の血を流してさえも獲得されるのです。最後に、このような極悪非道な悪徳が悪魔から生じるという事実を裏付ける証拠は、過度の愛、制御不能な怒り、あるいは過度の悲しみによって苦しめられている人々が、悪魔によって肉体的に苦しめられている人々よりも苦しみが少ないわけではないという事実に容易に見出すことができる。なぜなら、ある歴史書には、愛の状態から狂気に陥った者、怒りの状態から狂気に陥った者、悲しみの状態から狂気に陥った者、さらには過度の喜びの状態から狂気に陥った者さえ記録されているからである。これは、私が思うに、これらの反対の力、すなわち悪魔が、すでに不節制によって開かれた彼らの心の中に居場所を得て、彼らの感受性のある性質を完全に支配しているからである[25]。 特に、徳の栄光に対する感情が彼らに抵抗を起こさせていない場合はなおさらである。 3. しかし、ある種の罪は、反対の力から生じるのではなく、体の自然な動きから始まることは、使徒パウロが次の箇所で明らかに述べています。「肉は御霊に逆らい、御霊は肉に逆らって欲する。この二つは互いに敵対しているので、あなたがたは自分のしたいことをすることができないのです。」[26] 肉が御霊に逆らい、御霊が肉に逆らうのであれば、私たちは時折、肉と血、すなわち、人間として肉に従って歩み、人間以上の誘惑に屈することができない者として、肉と血と戦わなければなりません。なぜなら、私たちについて「あなたがたに臨んだ試練は、人間が耐えられないような試練ではないものはない。神は真実な方であり、あなたがたが耐えられないほどの試練に遭わせることはない」[27]と言われているからである。公の競技会の会長が、競技者を無差別に、あるいは偶然にリストに入れるのではなく、慎重な審査の後、体格や年齢を最も公平に考慮して、この個人をあの個人とペアにする、例えば、少年は少年と、大人は大人と、年齢や力において互いに近い関係にある者同士をペアにするのと同じように、私たちも神の摂理の手順を理解しなければならない。それは、人間の心を見通す唯一の方だけが知っている各個人の力の性質に従って、この人間の生活の闘争に降り立つすべての人を最も公平な原則に基づいて配置する。そのため、ある個人は肉の誘惑の一つと戦い[28]、別の個人は別の誘惑と戦う。ある個人は、その影響に一定期間さらされ、別の個人は一定期間だけさらされる。肉の欲によって、ある人はこの誘惑に、またある人は別の誘惑に駆られる。ある人はこの敵対勢力に抵抗しなければならないが、別の人は同時に2つか3つの敵と戦わなければならない。あるいは、ある時はこの敵対勢力に、別の時はあの敵対勢力に抵抗しなければならない。ある特定の日には1つの敵に抵抗し、別の日には別の敵に抵抗しなければならない。ある行為を行った後には、ある敵の集団にさらされ、その後は別の敵にさらされる。そして、使徒の言葉が、このような状況を示しているかどうか注目してください。「神は真実な方ですから、あなたがたが耐えられないほどの誘惑に遭わせることはありません」[29]。つまり、各人は自分の力や抵抗力に応じて誘惑されるのです[30]。 さて、神の正しい裁きによって、各人は自分の力に応じて誘惑されると言ったが、だからといって、誘惑された人が必ずその戦いに勝利しなければならないと考えるべきではない。同様に、競技で戦う者は、正当な取り決めの原則に基づいて対戦相手と組まされたとしても、必ずしも勝利するとは限らない。しかし、戦う者の力が等しくなければ、勝者の賞は正当に得られるものではなく、敗者に正当な非難が向けられることもない。なぜなら、神は確かに私たちを誘惑に遭わせるが、「私たちの能力を超える」誘惑は許さないからである。誘惑は私たちの力に比例して行われる。そして、誘惑の中で、神は私たちがそれに耐えられるように逃れる道も設けるとは書かれていないが、私たちがそれに耐えることができるように逃れる道は設けると書かれている[31]。 しかし、神が私たちに与えてくださったこの力を、力強く使うか弱く使うかは、私たち自身にかかっている。なぜなら、与えられた力を適切に用いるならば、あらゆる誘惑の下で、私たちには耐える力があることは疑いないからである。しかし、征服する力を持つことと勝利することは同じではありません。使徒自身が非常に慎重な言葉で、「神はあなたがたがそれに耐えられるように逃れる道を備えてくださる」[32]と述べているように、あなたがたがそれに耐えられるということではありません。多くの人は誘惑に耐えられず、それに打ち負かされてしまうからです。神は私たちに(誘惑に)耐えられないようにするのではなく(そうでなければ闘争は存在しないように見えるでしょう)、それに耐える力を持たせてくださいます[33]。 しかし、私たちに征服できるように与えられたこの力は、私たちの自由意志の能力に応じて、勤勉に用いれば勝利を収め、怠惰に用いれば敗北します。 もし、私たちが必ず勝利し、決して敗北しないという力が完全に与えられていたとしたら、打ち負かされることのない者にとって、もはや戦う理由などあるだろうか?あるいは、抵抗する力[34]が奪われた勝利に、一体どんな価値があるだろうか?しかし、征服する可能性が私たち全員に平等に与えられ、その可能性をどのように使うか、つまり勤勉に使うか怠惰に使うかが私たち自身の力にかかっているならば、敗者は正当に非難され、勝者は当然称賛されるだろう。さて、私たちができる限り議論してきたこれらの点から、悪意ある勢力の圧力の下で決して犯さないある種の違反行為がある一方で、彼らの扇動によって過度で節度のない放縦へと駆り立てられる違反行為もあることは、明らかに明らかだと思う。したがって、私たちは、これらの対立する勢力がどのようにして私たちの中にこれらの扇動を生み出すのかを調査する必要がある。 4. 私たちの心から湧き出る考え、あるいは私たちが行ったことの思い出、あるいはあらゆる物事や原因についての考察に関して言えば、それらは時に私たち自身から生じ、時に反対の力によって生み出されることがわかっています。また、それらは神や聖なる天使によって示唆されることも少なくありません。さて、このような記述は、聖書の証言によって裏付けられない限り、おそらく信じがたいものに思えるでしょう[35]。ダビデは詩篇の中で、「人の思いはあなたに告白し、残りの思いはあなたの祭りの日を守るであろう」と証言している[36]。しかし、これが敵対する力によっても引き起こされることは、ソロモンが伝道の書で次のように示している。「支配者の霊があなたに立ち向かうなら、あなたの場所を離れてはならない。健全さは大きな罪を抑えるからである」[37]。使徒パウロもまた、「キリストの知識に逆らって高ぶったあらゆる高慢なものを打ち砕き」という言葉で同じ点を証言している[38]。しかし、それが神による結果であることは、ダビデが詩篇の中で、「主よ、あなたに助けを求める人は幸いです。あなたの高みがその心にあります」[39]と述べていることからも明らかである。そして使徒は、「神はそれをテトスの心。」[40] 善の天使または悪の天使によって人々の心に特定の考えが示唆されることは、トビアスに付き添った天使[41]と、預言者の言葉によって示されており、預言者は「そして私の中で語っていた天使が答えた」[42]と言っています。牧者の書[43]も同じことを宣言しており、各個人には2人の天使が付き添っており、私たちの心に良い考えが浮かぶときはいつでも、それは善の天使によって示唆され、反対の種類の考えが浮かぶときは、それは悪の天使の唆しであると言っています。バルナバも手紙[44]で同じことを宣言しており、光の道と闇の道の2つの道があり、それぞれに特定の天使が配置されていると述べています。すなわち、神の天使は光の道を、サタンの天使は闇の道を支配しています。しかしながら、私たちの心に示唆されることが、善悪を問わず、単なる(精神的な)動揺と、善悪どちらかに私たちを駆り立てる刺激以外に、他の結果をもたらすと考えるべきではありません。なぜなら、悪意ある力が私たちを悪に駆り立て始めたとき、邪悪な示唆を退け、卑劣な誘惑に抵抗し、非難されるべきことを一切行わないことは、私たちには十分に可能なことだからです。また、一方で、神の力が私たちをより良いものへと招くとき、その呼びかけに従わないことも可能です。いずれの場合も、私たちの自由意志は保たれているのです。前述のページで述べたように、善行や悪行の記憶は、神の摂理によるものか、あるいは反対勢力によるものかにかかわらず、私たちに思い起こさせることがあります。エステル記にその例が示されています。アルタクセルクセスは、正義の人モルデカイの功績を覚えていませんでしたが、夜通しの徹夜の祈りに疲れ果てた時、神によって、モルデカイの偉大な業績の記録を読み聞かせるように命じられました。そして、モルデカイから受けた恩恵を思い出し、敵であるハマンを絞首刑に処するよう命じましたが、同時に、モルデカイには輝かしい栄誉を与え、聖なる民全体には差し迫った危険からの免責を与えるよう命じました。しかし一方で、大祭司や律法学者たちがピラトのもとへ来て「先生、あの詐欺師がまだ生きていた時に『三日後に私は復活する』と言ったことを覚えています」と言ったのは、悪魔の敵対的な影響によるものだったと考えるべきでしょう[45]。 また、主であり救い主であるイエスを裏切るというユダの企みも、彼の心の悪意だけから生じたものではありませんでした。聖書は、「悪魔がすでに彼の心にイエスを裏切る思いを植え付けていた」と証言しています[46]。 それゆえ、ソロモンは正しく、「心を尽くして自分の心を守りなさい」と命じました[47]。 また、使徒パウロは、「ですから、私たちは聞いたことを、うっかり忘れてしまわないように、より一層注意深く心に留めておくべきです」と警告しています[48]。 そして、「悪魔に機会を与えてはならない」[49] と言っているのは、悪魔が入り込む余地は、ある種の行為、あるいは一種の精神的な怠惰によって生じることを示しています。そのため、悪魔が一度私たちの心に入り込むと、私たちを支配下に置くか、少なくとも、火の矢を私たちに投げつけて魂を汚すか、あるいは、完全に支配下に置かなくても、魂を汚すことになります。そして、これらのことによって、私たちは時に深く傷つき、時に火傷を負うだけです。実際、信仰の強く力強い盾に覆われているとき、これらの燃える矢が消えて、傷つける場所を見つけられないことはめったになく、ほんのわずかな場合だけです。実際、エフェソの信徒への手紙にある「私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、支配者、権威、この世の闇の支配者、天にある悪霊どもに対するものです」[50]という宣言は、「私たち」が「私パウロと、あなたたちエフェソの信徒、そして血肉に対する戦いを負っていないすべての人」を意味しているかのように理解されなければなりません。なぜなら、そのような人々は、支配者や権威、この世の闇の支配者と戦わなければならないからです。コリントの信徒たちとは異なり、彼らの戦いはまだ血肉に対するものであり、人間に共通するような誘惑以外には捕まっていませんでした。 5. しかし、各個人がこれらすべての敵と戦わなければならないと考えるべきではありません。なぜなら、たとえ聖人であっても、同時にこれらすべての敵と戦うことは不可能だからです。もしそれが何らかの形で事実であったとしたら、確かにそうであるはずがないのですが、人間の本性は完全に破壊されることなくそれに耐えることはできないでしょう[51]。 しかし、例えば、50人の兵士が50人の他の兵士と戦おうとしていると言ったとしても、そのうちの1人が50人全員と戦わなければならないという意味ではなく、それぞれが正しく「我々の戦いは50人との戦いだった」、つまり全員が全員と戦ったと言うでしょう。同様に、使徒の意図は、キリストのすべての運動選手と兵士は、列挙されたすべての敵と格闘し、戦わなければならないということであると理解されるべきである。実際、その戦いはすべての人に対して続けられなければならないが、個々の個人が個々の力によって、あるいは少なくとも戦いの正当な支配者である神によって定められた方法で行われる。なぜなら、私は人間の力には一定の限界があると考えているからである。たとえ「彼は私の選ばれた器である」[52]と言われるパウロや、地獄の門も打ち負かすことができないペテロがいるとしても。あるいは神の友であるモーセでさえも、彼らのうちの一人も、自らを滅ぼすことなく、これらの敵対勢力の同時攻撃に耐えることはできなかった[53]。 ただし、彼の中で「勇気を出しなさい。わたしは世に勝ったのだ」[54]と言われた方の力が働かない限りは。それゆえ、パウロは確信をもってこう叫ぶ。「わたしを強くしてくださるキリストによって、わたしはどんなことでもできるのです」[55]。また、「わたしは彼らすべてよりも多く働きました。しかし、それはわたしではなく、わたしと共にあった神の恵みによるのです」[56]。このように、確かに人間の起源ではないこの力が彼の中で働き、語っているので、パウロはこう言うことができた。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配者も、権力も、現在のものも、未来のものも、高さも、深さも、力も、その他いかなる被造物も、わたしたちを、わたしたちの主キリスト・イエスにある神の愛から引き離すことはできないのです」[57]。なぜなら、人間の性質だけでは、それに耐えることはできないと思うからです。天使や、高みや深淵の力[58]、その他の被造物との戦い。しかし、主が自分の内に宿っているのを感じると、神の助けに対する信頼から、「主は私の光、私の救い。誰を恐れようか。主は私の命の守護者。誰を恐れようか。敵が私の肉を食らおうと近づいてきても、私を苦しめる敵はつまずいて倒れた。たとえ軍勢が私を取り囲んでも、私の心は恐れない。たとえ戦いが私に迫っても、私は主に信頼を置く。」[59]と言うようになる。このことから、おそらく人は神の助けがなければ、反対勢力に打ち勝つことは決してできないだろうと推測される。そのため、天使がヤコブと格闘したと言われている。しかし、ここで著者が言いたいのは、天使がヤコブと格闘したことと、ヤコブと格闘したことは同じことではないということだと私は理解している。しかし、彼と格闘した天使は、彼の安全を確保するために彼と共にいた天使であり、彼の道徳的な進歩を知った後、さらに彼にイスラエルという名を与えた天使です。つまり、その天使は彼と共に闘い、戦いにおいて彼を助けたのです。なぜなら、彼が戦った、そして戦わなければならなかった別の天使が確かに存在したからです。最後に、パウロは、私たちが君主や権力と戦うのではなく、支配者や権力と戦うと言っているのです。したがって、ヤコブが格闘したとしても、それは間違いなく、パウロが言うように、人類、特に聖徒たちに抵抗し、争う権力のどれかと戦ったのです。そして最後に、聖書は彼について「彼は天使と格闘し、神に対して力を持った」と述べているのです。つまり、戦いは天使の助けによって支えられ、勝利の報酬は勝利者を神へと導くのです。 6. また、このような闘争が肉体の力やレスリングの技によって行われると考えるべきでもありません[60]。 パウロの宣言にあるように、霊は霊と戦い、私たちの闘争は支配者、権力者、この世の闇の支配者との戦いです。いいえ、闘争の性質として次のように理解されるべきです。例えば、損失や危険が私たちに降りかかったり、中傷や虚偽の告発を受けたりしたとき、敵対勢力の目的は、私たちがこれらの(試練)に苦しむことだけではなく、それらによって私たちが怒りや悲しみの極み、あるいは絶望の極みに追い込まれること、あるいは少なくとも、より大きな罪であるのですが、疲れ果ててあらゆる煩わしさに打ち負かされたときに、人間生活を公正かつ公平に管理していない神に対して不平を言うことを強いられることです。その結果、私たちの信仰が弱まったり、希望が裏切られたり、意見の真実を放棄せざるを得なくなったり、神に関して不信心な感情を抱くようになったりするかもしれません。悪魔がヨブの財産に対する権限を神に求めた後、ヨブについてそのようなことがいくつか書かれているからです。また、これによって、財産を失うようなことがあったとしても、それは偶然の攻撃によるものではなく、私たちの一人が捕虜になったり、愛する人が押しつぶされて死んだ家が廃墟になったりするのも偶然によるものではないということも教えられます。なぜなら、これらの出来事すべてに関して、すべての信者は「上から与えられなければ、あなたは私に対して何の力も持てなかった」と言うべきだからです[61]。 ヨブの家が息子たちに襲われたのは、まず悪魔が彼らに対して権限を得た後だったことに注目してください。また、騎馬隊が三つの隊列を組んで襲撃し[62]、ラクダや牛、その他の家畜を奪い去ろうとしたのは、彼らがその霊に唆され、その霊の意志のしもべとして身を委ねたからに他ならない。また、火のように見えた、あるいは雷と思われたあの出来事も、悪魔が神に「あなたは彼の家の内外、そして彼の財産のすべてに垣根を設けておられるのではありませんか。今、あなたの手を伸ばして、彼の持ち物すべてに触れてみてください。彼があなたの御前であなたを否認しないかどうか見てください」[63]と言うまでは、族長の羊の上には起こらなかったであろう。 7. 以上の考察からわかるのは、この世で起こるあらゆる出来事、悲惨なものであれそうでないものであれ、中間的なものとみなされるものは、確かに神によってもたらされたわけではないが、神なしには起こり得ないということである。神は、これらの出来事を起こそうとする邪悪で敵対的な勢力が目的を達成するのを阻止しないだけでなく、特定の機会や特定の個人に対してのみ、彼らがそうすることを許しておられる。ヨブ自身について、ある時期に他人の支配下に置かれ、不正な者たちによって家が略奪されたと述べられているように。したがって、聖書は、神なしにはいかなる出来事も起こらないことを知り、起こるすべてのことを神によって送られたものとして受け入れるようにと教えているのである。主であり救い主であるイエス・キリストが「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。その一羽も、天におられるあなたがたの父の御許によらずに地に落ちることはない」[64]と宣言されているのだから、神の意志なしには何も人にもたらされないということが真実であることを、どうして疑うことができようか。しかし、事の必然性から、敵対勢力が人間に対して繰り広げる闘争や、人間の生活に起こるより悲しい出来事、すなわち誘惑について長々と脱線してしまった。ヨブの言葉によれば、「地上における人間の生涯全体は誘惑ではないか」[65] というように、誘惑の発生の仕方と、私たちがそれらをどのように捉えるべきかを明確に示すためである。次に、人間がどのようにして偽りの知識の罪に陥るのか、あるいは敵対勢力がどのような目的でそのような事柄に関して私たちと争いを起こそうとするのかを見ていこう。 ::[[諸原理について/第3巻/第4章#第4章|先頭に戻る]] ==脚注== 1. 創世記 3章 2. この外典は、ヘブライ語ではהשמִ תריטפ、ギリシャ語では᾽Ανάληψιςまたは ᾽Ανάβασις Μωυσέως『モーセの昇天』と題され、古代の著述家数名によって言及されている。例えば、アタナシウスは『聖典要義 Synopsis Sacræ Scripturæ』の中で、ニケフォロス・コンスタンティノポリタヌスは 『 Chronicon of Eusebios』に付録として『Stichometria』の中で(そこで彼は᾽Ανάληψιςには 1400節が含まれていると述べている)、ニケ教会会議の議事録などで言及している(Ruæus)。 3. 創世記 22章12節。本文の読みは、挿入された「quem dilexisti」という語を除いて、七十人訳聖書とウルガタ訳聖書によるものです。 4. 出エジプト記4章24-26節を参照。 5. 出エジプト記12章23節、滅ぼす者。 percussor ペルクッソル(殺人者)、ウルガタ。 ὀλοθρεύων、七十人訳。 6. レビ記16章8節。 ᾽Αποπομπαῖος は、七十人訳の読み方です。 ウルガタ聖書では「Caper emissarius」、マソラ本文では לז「אזָעְַ」。 参照。フルストとゲゼニウス s.v. ルフィヌスは「アポポンパイウス」を「伝達者」と訳している。 7. サムエル記上 18:10、消し去る。七十人訳聖書には ἔπεσε: ウルガタ訳では、「invasit 侵入した」。マソラ本文 חלַצְתִּ。 8. 列王記上 22:19-23 9. 歴代誌上 21:1 10. Atterere. 弱らせる。すり減らす。 11. 伝道の書 10章4節、「屈服は大きな罪を鎮める」。本文中の言葉は「健康は多くの罪を制する」である。ウルガタ訳では「癒しは最大の罪を終わらせる」となっている。七十人訳では Ιαμα καταπαύσει ἁμαρτιας μεγολας と読み、マソラ本文では אפ"רְמ" (治癒) となっている。 12. ゼカリヤ書 3章1節 13. Perversum. 倒錯的だ。 14. イザヤ書 27章1節 15. エゼキエル書 28章12節以下 16. ヨハネの福音書 13章27節 を参照。 17. エフェソの信徒への手紙 6章13節 18. エフェソの信徒への手紙 6章12節 19. コリントの信徒への手紙一 2章6節を参照。 20. Nemo hominum omnino. (誰もいない)。 21. Ex corporali necessitate descendunt. (それらは身体的な必要性から生じる)。 22. Quod non simile aliquid pateremur? (我々が同じような目に遭わないとでも言うのか?)。 23. Propositum. (目的)。 24. Quæ in usu naturaliter habentur. (これらは、自然界で使用されているものばかりです)。 25. Sensum eorum penitus possederint. (彼らはその意味を完全に理解している)。 26. ガラテヤ5章17節 27. コリント人への手紙第一 10章13節 28. Carnem talem. (なんという肉だ)。 29. コリント人への手紙第一 10章13節 30. Pro virtutis suæ quantitate, vel possibilitate. (その力の量または可能性に応じて)。 31. Nec tamen scriptum est, quia faciet in tentatione etiam exitum sustinendi, sed exitum ut sustinere possimus. (しかし、試練の終わりに忍耐を強いるとは書かれていない。むしろ、私たちが耐え忍ぶことができるようにするためだと書かれているのだ)。 32. 1 コリント10章13節 33. Ut sustinere possimus. (私たちが耐え忍ぶことができるように)。 34. Repugnandi vincendique. (抵抗と征服について)。 35. Fabulosum. (素晴らしい)。 36. 詩篇76篇10節。これはウルガタ訳と七十人訳聖書の読み方である。公認訳はマソラ本文に従っている。 37. 伝道の書10章4節。注8、329ページ参照。 38. 2 コリント10章5節 39. 詩篇84篇5節。 本文中の単語は次のとおりです: Beatus vir、cujus est susceptio apud te、Domine、adscensus incorde ejus. (主よ、あなたに受け入れられ、心に昇天の思いを持つ人は幸いです)。ウルガタ訳には次のように書かれています: Beatus vir, cujus est auxilium abs te: ascensiones in corde suo disposuit. 七十人訳聖書も同様。マソラ本文には תוֹלּסִמְ (「祭りの行進または行列」フュルスト) があります。おそらく七十人訳聖書とウルガタ訳聖書にはその前に תוֹלעְַמַ があり、サメクとアインの類似性が転写の誤りの原因となっていると考えられます。 40. コリント第二 8章16節 41. [トビト記第5章6節を参照] 42. ゼカリヤ書 1章14節。ウルガタ訳、七十人訳、マソラ本文はいずれも「私の中に」となっているが、欽定訳では「私と共に」となっている。 43. 『ヘルマスの牧者』、戒律。vi. 2。第2巻、p. 24 を参照。 44. 『バルナバの手紙』第1巻、148、149 ページを参照。 45.マタイによる福音書 27章63節 46. ヨハネの福音書 13章2節 47. 箴言4章23節 48. ヘブライ人への手紙 2章1節 49. エフェソの信徒への手紙 4章27節 50. エフェソの信徒への手紙 6章12節 51. Sine maxima subversione sui. (最大の自己転覆なしに)。 52. 使徒行伝 9章15節 53. Sine aliquâ pernicie sui. (自己破壊することなく)。 54. ヨハネの手紙一 16章33節 55. フィリピ4章13節 56. コリント人への手紙第一 15章10節 57. ローマ人への手紙8章38、39節。本文中に登場する「virtus」、δύναμιςという語は、本文には見当たらない。ティッシェンドルフは、その箇所でΔύναμειςと読んでいる(編集7)。シナイ写本も同様である。 58. 高くて深い。 59. 詩篇27篇1-3節。 60. 体操の技の練習。 61. ヨハネの手紙一 19章11節 62. 三つの順序で。 63. ヨブ記 1章10、11節 参照。「Nisi in Face Blessed Tibi」。ヘブライ語の動詞ןְרַבָּ は「祝福」と「呪い」の二重の意味を持つ。デイヴィッドソンのヨブ記注解、7 ページ参照。七十人訳聖書。ὐλογήσει 64. マタイによる福音書 10章29節 65. 参照。ヨブ記7章1節。 七十人訳聖書には、ποτερον ουχὶ πειρατήριον (もう誘惑はない )などと書かれています。ウルガタ訳では「民兵」、マソラ本文では א בָצָとなっています。参照。デビッドソンのヨブに関する注解、loc。 {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, Frederick Crombie, [[s:en:Ante-Nicene Fathers/Volume IV/Origen/Origen De Principiis/III/Chapter 4]] を翻訳 --> apn9ulmupwngq1kovj0hu68nznho694 ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第7巻 0 56590 242533 2026-05-18T11:30:24Z 村田ラジオ 14210 Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book VII]] を翻訳を翻訳 242533 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|第2巻|hide=1}} {{header | title = ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス | section = 第7巻 | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第6巻|第6巻]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソゾメノス|ソゾメノス]] | year = 1885 | 年 = | override_author = [[w:ja:コンスタンティノープルのソクラテス|コンスタンティノープルのソクラテス]] | override_translator = [[w:en:Andrew Constantinides Zenos|アンドリュー・コンスタンティニデス・ゼノス]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] 他 | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, James Donaldson, "[[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book VII|Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book VII]]". *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にかいあきようふとにかいあこきようふ 202 2 10}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]] [[Category:教父]] [[Category:ニカイア教父とニカイア後教父]] }} ソクラテス・スコラスティコス 『教会史』 ———————————— ==第7巻== *[[/第1章|第1章]] 近衛長官アンテミウスは、若きテオドシウスに代わって東方統治を担う *[[/第2章|第2章]] コンスタンティノープル司教アッティクスの人柄と行動 *[[/第3章|第3章]] シナダの司教テオドシウスとアガペトスについて *[[/第4章|第4章]] 洗礼においてアッティクスによって癒された麻痺のユダヤ人 *[[/第5章|第5章]] かつてユダヤ人であった長老サバティウスは、ノヴァティアヌス派から離脱する *[[/第6章|第6章]] この時代のアリウス派の指導者たち *[[/第7章|第7章]] キュリロスはアレクサンドリアの司教テオフィロスの後を継ぐ *[[/第8章|第8章]] メソポタミアの司教マルタスによるペルシア人へのキリスト教の布教 *[[/第9章|第9章]] アンティオキアとローマの司教たち *[[/第10章|第10章]] アラリックによるローマの占領と略奪 *[[/第11章|第11章]] ローマ司教たち *[[/第12章|第12章]] コンスタンティノープルのノヴァティアヌス派の司教クリサントスについて *[[/第13章|第13章]] アレクサンドリアにおけるキリスト教徒とユダヤ人の間の対立、およびキュリロス司教とオレステス長官の間の亀裂 *[[/第14章|第14章]] ニトリアの修道士たちがやって来て、アレクサンドリアの長官に対して反乱を起こす *[[/第15章|第15章]] 女性哲学者ヒュパティアについて *[[/第16章|第16章]] ユダヤ人はキリスト教徒に対して再び暴行を加え、罰せられる *[[/第17章|第17章]] ノヴァティアヌス派のパウロ司教がユダヤ人の詐欺師の洗礼の際に行った奇跡 *[[/第18章|第18章]] ペルシア王イスディゲルデスの死後、ローマ人とペルシア人の間で敵対行為が再開される *[[/第19章|第19章]] パラディウス使者について *[[/第20章|第20章]] ローマ人によるペルシア人の二度目の打倒 *[[/第21章|第21章]] アミダの司教アカキウスによるペルシア人捕虜への親切な扱い *[[/第22章|第22章]] テオドシウス2世皇帝の美徳 *[[/第23章|第23章]] ホノリウス帝の死後、ヨハネスはローマの主権を簒奪する。彼はテオドシウス2世の祈りによって滅ぼされる *[[/第24章|第24章]] コンスタンティウスとプラキディア(テオドシウスの叔母)の息子であるウァレンティニアヌスが皇帝に即位する *[[/第25章|第25章]] コンスタンティノープル司教アッティクスのキリスト教的慈悲。彼はヨハネの名を二連祭壇画に記録する。 *[[/第26章|第26章]] シシンニオスはアッティクスの後継者として選ばれる *[[/第27章|第27章]] シデの長老フィリップの膨大な著作 *[[/第28章|第28章]] プロクロスはシシンニオスによってキュジコスの司教に叙任されたが、民衆によって拒否された *[[/第29章|第29章]] アンティオキアのネストリウス、コンスタンティノープル大司教に昇格。異端者迫害。 *[[/第30章|第30章]] ブルグント人はテオドシウス2世のもとでキリスト教を受け入れる *[[/第31章|第31章]] ネストリウスはマケドニア人を苦しめる *[[/第32章|第32章]] ネストリウスの信仰を歪めた長老アナスタシウスについて *[[/第33章|第33章]] 逃亡奴隷による大聖堂の祭壇の冒涜 *[[/第34章|第34章]] エフェソスにおけるネストリウスに対する教会会議。彼の罷免。 *[[/第35章|第35章]] マクシミアンがコンスタンティノープルの司教に選出されるが、プロクロスがその地位に就くことを望む者もいた *[[/第36章|第36章]] ある教区から別の教区への司教の転任の妥当性に関する著者の見解 *[[/第37章|第37章]] かつてフィリッポポリスの司教であったトロアスのシルヴァヌス司教によって行われた奇跡 *[[/第38章|第38章]] クレタ島のユダヤ人の多くはキリスト教信仰を受け入れた *[[/第39章|第39章]] ノヴァティアヌス教会の火災からの保護 *[[/第40章|第40章]] プロクロスがコンスタンティノープルのマクシミアン司教の後を継ぐ *[[/第41章|第41章]] プロクロスの優れた資質 *[[/第42章|第42章]] 若きテオドシウス帝への賛歌 *[[/第43章|第43章]] 簒奪者ヨハネの同盟者であった蛮族の災難 *[[/第44章|第44章]] 皇帝ウァレンティニアヌスとテオドシウスの娘エウドクシアの結婚 *[[/第45章|第45章]] ヨハネ・クリュソストモスの遺体は、プロクロスの働きかけにより皇帝によってコンスタンティノープルに移送され、使徒教会に安置された。 *[[/第46章|第46章]] ノヴァティアヌス司教パウロの死と、後継者としてのマルキアヌスの選出 *[[/第47章|第47章]] エウドキア皇后はエルサレムへ向かう。皇帝テオドシウスの命による。 *[[/第48章|第48章]] タラシオスはカッパドキアのカイサレア司教に任命される :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻/ソクラテス/第7巻#第7巻|先頭に戻る]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume II/Socrates/Book VII]] を翻訳を翻訳 --> srbw5qd0htisjx05sxqupjrsmag7do6