Wikisource jawikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 MediaWiki 1.47.0-wmf.3 first-letter メディア 特別 トーク 利用者 利用者・トーク Wikisource Wikisource・トーク ファイル ファイル・トーク MediaWiki MediaWiki・トーク テンプレート テンプレート・トーク ヘルプ ヘルプ・トーク カテゴリ カテゴリ・トーク 作者 作者・トーク Page Page talk Index Index talk TimedText TimedText talk モジュール モジュール・トーク Event Event talk 枕草子 (Wikisource)/第一段 0 6449 242635 242559 2026-05-22T12:42:23Z ~2026-30757-42 45800 242635 wikitext text/x-wiki {{header | title = 枕草子 (Wikisource) 第一段 | author = 清少納言 | section = | previous = | translator = | next = [[枕草子 (Wikisource)/第二段]] | notes = }} == 原文 ==  春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。  夏は、夜。月の頃はさらなり。闇もなほ螢の多く飛び違ひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。  秋は、夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの列ねたるがいと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。  冬は、つとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎ熾して、炭もて渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし。 ---- [[Category:枕草子 (Wikisource)|001]] 3345231ogq4z59vivcik08g6jun8gew ハイチ国際平和協力隊の設置等に関する政令 0 7884 242640 113470 2026-05-23T04:57:27Z HTDFPC 45275 242640 wikitext text/x-wiki {{header |title={{PAGENAME}} |year=2010 |notes= < [[Wikisource:政令#平成22年|Wikisource:政令]] {{現行法令掲載}} *平成二十二年二月五日政令第十号 }} ==制定文== 内閣は、国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(平成四年法律第七十九号)第三条第三号レ、第五条第八項及び第十六条第二項の規定に基づき、この政令を制定する。 ==本則== <span id="1">(国際平和協力隊の設置)</span> ;第一条 :国際平和協力本部に、国際連合平和維持活動であってハイチにおいて紛争に対処して国際の平和及び安全を維持するために行われているもの(以下「ハイチ国際連合平和維持活動」という。)のため、次に掲げる業務及び事務を行う組織として、平成二十五年三月三十一日までの間、ハイチ国際平和協力隊(以下「協力隊」という。)を置く。 ::一 [http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H04/H04HO079.html#1000000000000000000000000000000000000000000000000300000000000000000000000000000 国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(以下「法」という。)第三条]第三号ワに掲げる業務(ハイチ地震(平成二十二年一月十二日にハイチにおいて発生した大規模な地震及びこれに引き続いて発生した余震をいう。以下同じ。)の被災者であるものの収容に係るものに限る。)及び同号タに掲げる業務並びに次条第一号に掲げる業務(以下「震災復旧業務」と総称する。)に関する企画及び調整並びに同条同条第二号から第四号までに掲げる業務に係る国際平和協力業務であって、国際連合ハイチ安定化ミッション軍事部門司令部において行われるもの ::二 震災復旧業務、法第三条第三号ヌに掲げる業務及び同号ヲに掲げる業務(ハイチ地震の被災者であるものに対するものに限る。)のうち、派遣先国の政府その他の関係機関とこれらの業務に従事する自衛隊の部隊等との間の連絡調整に係る国際平和協力業務 ::三 [http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H04/H04HO079.html#1000000000000000000000000000000000000000000000000400000000000000000000000000000 法第四条]第二項第三号に掲げる事務 <span id="2">(政令で定める業務)</span> ;第二条 :ハイチ国際連合平和維持活動に係る[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H04/H04HO079.html#1000000000000000000000000000000000000000000000000300000000000000000000000000000 法第三条]第三号レの規定により同号カに掲げる業務に類するものとして政令で定める業務は次の第一号に掲げる業務とし、ハイチ国際連合平和維持活動に係る同条第三号レの規定により同号タに掲げる業務に類するものとして政令で定める業務は次の第二号から第四号までに掲げる業務とする。 ::一 ハイチ地震によって被害を受けた施設又は設備であってその被災者の生活上必要なものの復旧又は整備のための措置 ::二 物資の調達に関する企画及び調整 ::三 飲食物の調製に関する企画及び調整 ::四 宿泊又は作業のための施設の維持管理に関する企画及び調整 <span id="3">(国際平和協力手当)</span> ;第三条 #ハイチ国際連合平和維持活動のために実施される国際平和協力業務に従事する協力隊の隊員及び[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H04/H04HO079.html#1000000000000000000000000000000000000000000000000900000000000000000000000000000 法第九条]第五項に規定する自衛隊員(第三項において「部隊派遣自衛隊員」という。)に、この条の定めるところに従い、[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H04/H04HO079.html#1000000000000000000000000000000000000000000000001600000000000000000000000000000 法第十六条]第一項に規定する国際平和協力手当(以下「手当」という。)を支給する。 #手当は、国際平和協力業務に従事した日一日につき、[[#別表|別表]]の中欄に掲げる区分に応じ、それぞれ同表の下欄に定める額とする。 #前項に定めるもののほか、手当の支給に関しては、協力隊の隊員(部隊派遣自衛隊員の身分を併せ有する者を除く。)については[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO095.html 一般職の職員の給与に関する法律](昭和二十五年法律第九十五号)に基づく特殊勤務手当の支給の例により、部隊派遣自衛隊員については[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S27/S27HO266.html 防衛省の職員の給与等に関する法律](昭和二十七年法律第二百六十六号)に基づく特殊勤務手当の支給の例による。 ==附則== 附則 :この政令は、公布の日から施行する。 附則(平成二二年一一月一九日政令第二二九号、ネパール国際平和協力隊の設置等に関する政令及びハイチ国際平和協力隊の設置等に関する政令の一部を改正する政令) :この政令は、公布の日から施行する。 附則(平成二四年一月二五日政令第一五号、ゴラン高原国際平和協力隊の設置等に関する政令及びハイチ国際平和協力隊の設置等に関する政令の一部を改正する政令) :この政令は、公布の日から施行する。 附則(平成二四年一二月二一日政令第三〇二号、ハイチ国際平和協力隊の設置等に関する政令の一部を改正する政令) :この政令は、公布の日から施行する。 ==別表== 別表([[#3|第三条]]関係) <table class="wikitable"><tr><th id="l1">一</th><td style="vertical-align:top">ポルトー・プランス市の区域において業務を行う場合([[#l4|四の項]]、[[#l6|六の項]](二)本文及び(三)並びに[[#l8|八の項]](二)に規定する場合を除く。)</td><td style="vertical-align:top">一万六千円</td></tr> <tr><th id="l2">二</th><td style="vertical-align:top">西県の区域([[#l1|一の項]]に規定する区域を除く。)において業務を行う場合([[#l5|五の項]]、[[#l7|七の項]](一)本文及び(二)並びに[[#l8|八の項]](二)に規定する場合を除く。)</td><td style="vertical-align:top">一万二千円</td></tr> <tr><th id="l3">三</th><td style="vertical-align:top">ハイチ内の地域([[#l1|一の項]]及び[[#l2|二の項]]に規定する地域を除く。)において業務を行う場合([[#l6|六の項]](一)、[[#l7|七の項]](一)本文及び(二)並びに[[#l8|八の項]](二)に規定する場合を除く。)</td><td style="vertical-align:top">一万円</td></tr> <tr><th id="l4">四</th><td style="vertical-align:top">ポルトー・プランス市の区域において、[[#1|第一条]]第一号に掲げる業務(派遣先国の政府その他の関係機関と当該業務に従事する協力隊の隊員との間の連絡調整に係るものに限る。)又は同条第二号に掲げる業務(以下「連絡調整業務」という。)を行う場合</td><td style="vertical-align:top">六千円</td></tr> <tr><th id="l5">五</th><td style="vertical-align:top">西県の区域([[#l1|一の項]]に規定する区域を除く。)において連絡調整業務を行う場合</td><td style="vertical-align:top">五千円</td></tr> <tr><th id="l6">六</th><td style="vertical-align:top">(一) ハイチ内の地域([[#l1|一の項]]及び[[#l2|二の項]]に規定する地域を除く。)において連絡調整業務を行う場合<br>(二) ポルトー・プランス市に所在する空港の区域において、震災復旧業務に附帯する業務として、空路により震災復旧業務に従事する人員の輸送又は震災復旧業務に必要な物資の補給を行う場合。ただし、陸上の場所に留まって行う場合に限る。<br>(三) ポルトー・プランス市の区域において、震災復旧業務に附帯する業務として、海路により震災復旧業務に従事する人員の輸送又は震災復旧業務に必要な物資の補給を行う場合。ただし、ポルトー・プランス市の区域の沿岸において、エアクッション艇を使用して艦船と陸地との間の輸送を行う場合に限る。</td><td style="vertical-align:top">四千円</td></tr> <tr><th id="l7">七</th><td style="vertical-align:top">(一) ハイチに所在する空港の区域([[#l6|六の項]](二)に規定する区域を除く。)において、震災復旧業務に附帯する業務として、空路により震災復旧業務に従事する人員の輸送又は震災復旧業務に必要な物資の補給を行う場合。ただし、陸上の場所に留まって行う場合に限る。<br>(二) ハイチ内の地域([[#l1|一の項]]に規定する地域を除く。以下この項において同じ。)において、震災復旧業務に附帯する業務として、海路により震災復旧業務に従事する人員の輸送又は震災復旧業務に必要な物資の補給を行う場合。ただし、ハイチ内の地域の沿岸において、エアクッション艇を使用して艦船と陸地との間の輸送を行う場合に限る。</td><td style="vertical-align:top">三千円</td></tr> <tr><th id="l8">八</th><td style="vertical-align:top">(一) ドミニ力共和国に所在する空港の区域において、震災復旧業務に附帯する業務として、空路により震災復旧業務に従事する人員の輸送又は震災復旧業務に必要な物資の補給を行う場合。ただし、陸上の場所に留まって行う場合に限る。<br>(二) ハイチ内の地域において、震災復旧業務に附帯する業務として、海路により震災復旧業務に従事する人員の輸送又は震災復旧業務に必要な物資の補給を行う場合([[#l6|六の項]](三)及び[[#l7|七の項]](二)に規定する場合を除く。)</td><td style="vertical-align:top">千四百円</td></tr></table> {{DEFAULTSORT:はいちこくさいへいわきようりよくたいのせつちとうにかんするせいれい}} [[Category:平成22年の政令]] [[Category:行政組織法]] {{PD-JapanGov}} 7wrkvvvgog3josfs8t12rgcui0p4fve ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第18章 0 56628 242634 2026-05-22T12:10:02Z 村田ラジオ 14210 Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 18]] を翻訳 242634 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|第1巻|エウセビオスの教会史|hide=1}} {{header | title = ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻 | section = 第18章 | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第17章|第17章]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第19章|第19章]] | year = 1885 | 年 = | override_author = | override_translator = [[s:en:Author:Arthur Cushman McGiffert|アーサー・クシュマン・マクギファート]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] 他 | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, "[[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 18|Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 18]]". *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にかいあきようふとにかいあこきようふ 201 3 07 18}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]] [[Category:教父]] [[Category:ニカイア教父とニカイア後教父]] }} ===エウセビオスの教会史=== 第2巻 ——————————— '''第18章''' — 私たちに伝わっているフィロンの著作<ref>フィロンの著作については、Schürer著『ユダヤ人の歴史』第2巻、831頁以下を参照。フィロンの著作の最良の完全版(ただし、多くの点で改善の余地がある)は、Mangeyによる2巻、フォリオ判、ロンドン、1742年版である。フィロンの著作の英訳はYongeによる4巻、ロンドン、1854~55年版である。フィロンの生涯については、上記の第4~6章を参照。エウセビオスは『福音の準備』の中でフィロンの著作を広く引用しており、そうでなければ知ることのできない断片もいくつか保存している。</ref>。 1. 豊かな言葉遣い、包括的な思想、そして聖書に対する崇高で高尚な見解を持つフィロンは、聖書に関する多種多様な解説書を著しました。一方では、『聖なる律法の寓話』<ref>νόμων ἱερῶν ἀλληγορίαι. (神聖な法の寓話)。この著作は現存しており、シューラーによれば、マンジェ版の第1巻に含まれるすべての著作(ただし、『De Opificio Mundi』は除く。これについてはシューラー、846ページ以降および下記の注11を参照)を含み、16の異なるタイトルから成る。この著作はモーセ五書に関する著作の第二の大きなグループを形成し、創世記に対する非常に詳細で寓意的な注釈であり、第2章から始まり、第4章まで逐語的に続く。しかし、それ以降は特定の箇所が選ばれ、特別なタイトルの下で詳しく扱われており、シューラーの意見では、フィロンはこれらのタイトルの下で、実際には一つの完全な全体の一部を成しているにもかかわらず、別々の著作として出版した。このことから多くの混乱が生じた。エウセビオスは、第4章の終わりまでのすべての著作 (Mangey の 5つのタイトルを含む) を 1 つの一般的なタイトルで引用しているが、それ以降は、彼も個別の作品を特別なタイトルで引用しているが、最後に (以下の §5) でそれらすべてを「創世記に関する現存する作品」としてまとめている。注釈の多くの部分は現在失われている。Schürer、ibid. pp. 838–846 を参照。</ref>と題された書物の中で、創世記に記された出来事を順序立てて解説しています。他方では、『創世記と出エジプト記に関する問答』<ref>ζητήματα καὶ λύσεις: Quaestiones et solutiones. (質問と解決策)。シューラー(同書836頁以降)によれば、モーセ五書に関する比較的簡潔な問答形式の教理問答的解釈は、創世記に関する6巻と出エジプト記に関する5巻からなり、モーセ五書に関する最初の大きな著作群を形成した。エウセビオスが知っていた限りでは、それらは創世記と出エジプト記のみを扱っており、我々が確信しているのはこれだけであるが、モーセ五書の残りの部分も含まれていたと考える者もいる。彼の著作の約半分(創世記に関する4巻と出エジプト記に関する2巻)はアルメニア語版で現存しており(オーチャーが1822年と1826年にヴェネツィアで2巻で出版、リッターがフィロンの著作集の第6巻と第7巻でラテン語版を出版)、多数のラテン語とギリシャ語の断片が今も残っている(シューラー、837頁以降を参照)。</ref>と題された書物の中で、研究対象となる聖書の章を段階的に区分し、反論と解答を提示しています。 2. これらに加えて、フィロンは特定の主題について特別に著した論文もいくつか残しています。例えば、『農業論』<ref>περὶ γεωργίας δύο: De Agricultura duo (so Jerome, de vir. ill. 11). 創世記 9章20節以降について上記の大規模な解説書 νόμων ἱερῶν ἀλληγορίαι の一部を形成しています (モーセ五書に関する第3グループの著作に属する、「三つの美徳について」と「不文法について」を除く、§§2 ~ 4 で言及されているすべての著作と同様) (注 2)。この作品はまだ現存しており、Mangey, I. 300–356 によって、別個のタイトルを持つ 2つの作品として与えられています: περὶ γεωργίας と περὶ φυτουργίας Νῶε τὸ δεύτερον (Schürer、p. 843)。</ref>と『酩酊論』<ref>περὶ μέθης τοσαῦτα: De ebrietate duo (so Jerome, ibid.). 創世記9章21節について。現存するのは第二巻のみであるが(Mangey、I. 357–391)、その冒頭から、元々は別の巻が先行していたことは明らかである(Schürer、p. 843)。</ref>の2巻、そして内容に応じて異なる題名を持つ他の著作などです。例えば、『冷静な心が望むことと呪うことについて』<ref>περὶ ὧν νήψας ὁ νοῦς εὔχεται καὶ καταρᾶται. (Jerome, 『de vir. ill.』 11.) de his quæ sensu precamur et detestamur. 『私たちが祈り求め、同時に五感で嫌悪する事柄について』創世記 9. 24 に基づく。現存しており、マンジェ (I. 392–403) によって紹介されているが、彼はこの作品を περὶ τοῦ ἐξένηψε Νῶε: De Sobrietate という題名で印刷している。ただし、最良の写本のうち 2 つ (マンジェ I. 392、注による) では、題名はエウセビオスが付けたものとほぼ一致している (シューラー、p. 843)。 </ref>、『言語の混乱について』<ref>περὶ συγκύσεως τῶν διαλέκτων. 『方言の混乱について』創世記11章1-9節に基づく。現存しており、マンジー著、I.404-435に掲載されている(シューラー著、844頁)。</ref>、『逃亡と発見について』<ref>περὶ φυγῆς καὶ εὑρέσεως. 『逃亡と発見について』同じ題名はヨハネス・モナクス(マンゲイ、I. 546、注)にも見られ、おそらく正しいだろう。なぜなら、この書物はハガルの逃亡と発見(創世記 xvi: 6–14)を扱っているからである。この書物は現在も現存しており、マンゲイ(I. 546–577)は περὶ φυγ€δων、「逃亡者について」という題名で掲載している。エウセビオスのこの箇所の本文は大きく改変されている。私が提示する読みは信頼できる写本によって裏付けられており、ヴァレシウス、ストロート、ラエマーによって採用されている。しかしニケフォロスはπερὶ φυγῆς καὶ αἱρέσεως καὶ ὁ περὶ φύσεως καὶ εὑρέσεωςと読んでおり、これは写本の権威によっても裏付けられ、バートン、シュヴェーグラー、ハイニヒェンによって採用されている。しかしヨハネス・モナコスが与えた作品のタイトルとフィロンの様々な写本に見られるタイトルを作品自体の内容と比較すると、短い読みの正しさにほとんど疑いの余地はない。長い読みがエウセビオスの本文に導入する第二の作品については何も知られておらず、フィロンがそれを書いたとは考えにくい。短い読みを採用しているシューラーは非常に強く主張している(845ページ、注34)。</ref>、『教訓のための集会について』<ref> περὶ τῆς πρὸς τὰ παιδεύματα συνόδου, “On Assembly for the sake of instruction.”『子供たちのための会合について』創世記16章1-6節に基づき、これは、より高度な知識(サラ)に進む前に、より低い知識(ハガル)を習得し、そこから実り、すなわち徳(イサク)を得る必要があるという意味に解釈される。現在も現存し、マンジー著、I. 519-545(シューラー、844頁以降)に掲載されている。</ref>、『神のものを誰が相続するのか?』という問いについて、あるいは『物事を平等と不平等に分けることについて』<ref>περὶ τε τοῦ, τίς ὁ τῶν θείων ἐστὶ κληρονόμος, ἢ περὶ τῆς εἰς τὰ ἴσα καὶ ἐναντία τομῆς. 『神々の後継者は誰か、あるいは平等で相反する部分への分割について』この二重タイトルから、ヒエロニムス (『de vir. ill.』 11) は間違って 2 つの作品を作っています。この文書は現在も現存しており、マンゲイ (I. 473–518) によって περὶ τοῦ τίς ὁ τῶν θείων πραγμ€των κληρονομος というタイトルで与えられています (Schürer, 844)。</ref>、さらにモーセが他のものと共に述べた三つの徳についての著作<ref>περὶ τῶν τριῶν ἀρετῶν, ἃς σὺν ἄλλαις ἀνέγραψε Μωυσῆς. 『モーセが他の徳目とともに書き記した、三つの徳目について』この著作は現在も現存しており、マンゲイによって περὶ τριῶν ἀρετῶν ἤτοι περὶ ἀνδρείας καὶ φιλανθρωπίας καὶ というタイトルで与えられている。 μετανοίας: περὶ ἀνδρείας、II。 375–383; περὶ φιλανθρωπίας、Ⅱ. 383–405; περὶ μετανοίας、II。 405–407。ヒエロニムスは『De tribus virtutibus liber unus』というシンプルなタイトルを付けています。シューラーによれば(852頁以降)、これはモーセ五書に関する第三の大きな著作群の付録であり、十戒のいずれにも属さないが、一般的な枢要徳の範疇に属する律法を収録している。シューラーによれば(846頁)、第三の著作群は非ユダヤ人にモーセの律法の全体像を示すことを目的としており、第一に、天地創造に関する著作(フィロンの写本や版では、偉大な寓意的注釈に関連して誤って冒頭に置かれており、そのためエウセビオスはフィロンの著作リストにこれを含めているため、特に言及していない)、第二に、偉大で善良な人々の生涯、生きた不文律、第三に、モーセの律法そのもの(1. 十戒、2. それぞれの戒律に関連する特別な律法)を収録している。そして最後に、いくつかの主要な美徳、そして報いと罰について論じた付録がある。この部分は、他の2つの部分に比べて歴史的要素が強く、寓話的な要素は少ない。他の2つの部分は、どちらかというと難解で科学的な内容である。</ref>などがある。 3. これらに加えて、『名前を変えられた人々、そしてなぜ名前を変えられたのか』<ref>περὶ τῶν μετονομαζομένων καὶ ὧν ἓνεκα μετονομ€ζονται (De Mutatione nominum)『改名されるもの、そして改名されるものについて』創世記第17章1~22節に基づく。この著作は現存しており、マンジー著、第1巻、578~619ページに収録されている。シューラー著、485ページを参照。</ref>という著作があり、その中で彼は契約についての二冊の書物も書いたと述べている<ref>ἐν ᾧ φησι συντεταχέναι καὶ περι διαθηκῶν πρῶτον καὶ δεύτερον. 『それらは、第一の聖書と第二の聖書について構成されていると言われている』ほぼすべての写本。一部の編集者がそれに倣い、πρώτης καὶ δεύτερας と読み、πρῶτον καὶ δεύτερον と読み替えたため、エウセビオスは「第一の契約と第二の契約について」という著作に言及したのであって、「契約について」という第一と第二の書に言及したわけではない。フィロン自身がこの著作に言及していること(マンジー版の586ページ)から明らかなように、彼は「契約について」という2冊の書を書いたのであって、「二つの契約について」という著作を書いたのではない。したがって、私はハイニヒェンや他の編集者たちと同様に πρῶτον καὶ δεύτερον と読むことが妥当だと感じた。διαθηκῶν に冠詞がないことを考えると、この読みの方が自然であり、ニケフォロス・カリストスもこれを裏付けている。エウセビオスがフィロンを誤読したと仮定しない限り、この解釈は正しいに違いない。ファブリキウスは、エウセビオスはおそらく ὰ καὶ β' と書いたが、写字生がこれを書物の数ではなく「契約」と誤って解釈し、そのため中性形ではなく女性形を与えたのではないかと示唆している。この著作「契約について」、あるいは(フィロンによれば)「契約に関する議論全体について」は、エウセビオスの時代には既に失われていたため、現在では失われている。少なくともエウセビオスは、フィロンの言及を通してのみその存在を知っていた。シューラー、845頁を参照。</ref>。 4. また、彼の著作には『移住論』<ref>περὶ ἀποικίας: De Migratione Abrahami. 『植民地について:アブラハムの移住について』創世記12章1-6節に基づく。この著作は現存しており、マンジー著、I巻436-472頁に掲載されている。シューラー著、844頁を参照。</ref>、『義において完全になった賢者の生涯について』、あるいは『不文律について』<ref>βιοῦ σοφοῦ τοῦ κατὰ δικαιοσύνην τελειωθέντος, ἢ νόμων ἀγρ€φων. 『正義において完成された賢者の生涯、あるいは成文法』(シューラーによれば、ここでの δικαιόσινην は δικασίανην の間違いであり、これが原題の正しい読み方です。)現存するこの著作は、マンジーのII. 1–40に、同じ題名(ただし、δικαιοσύνηνではなくδιδασκαλίαν)で掲載されており、ὁ ἐστὶ περὶ ᾽Αβρα€μ: De Abrahamoという注釈が付け加えられている。これは、モーセ五書に関する第三の大きな著作群の第二部(上記注11参照)の冒頭を飾るものであり、エノス、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブに言及しているが、主にアブラハムを扱っている。イサクとヤコブの伝記はおそらくこれに続いたと思われるが、それらは失われており、痕跡も残っていないため、写本ではヨセフの生涯(下記注26参照)がアブラハムの生涯の直後に続く(シューラー、848頁以下)。</ref>、さらに『巨人論』、あるいは『神の不変性について』<ref>περὶ γιγ€ντων, ἢ περὶ τοῦ μὴ τρέπεσθαι τὸ θεῖον. 『巨人について、あるいは神が動じないことについて』創世記 6 章 1-4 節と 4-12 節について。この作品の 2 つの部分は、どちらも現存しており、実際には 1 冊の本を形成しています。たとえば、ヨハネス モナクス (未出版) は、後者の部分から περὶ γιγ€ντων というタイトルで引用しています (マンゲイ、I. 262、注釈、および 272、注釈による)。しかし、マンゲイの版では 2 つの部分が分かれており、前者は περὶ γιγ€ντων (I. 262-272) というタイトルで、後者は ὅτι ἄτρεπτον (I. 272-299) というタイトルで掲載されています。シューラー、p. 843 を参照。タイトルは、この注釈の冒頭に示されている形式で、すべての写本に見られます。エウセビオスの著作のうち、2つを除いては、ἤ の代わりに καὶ が用いられており、2つの別々の著作となっている。この読み方はハイニヒェンとクロスによって採用されているが、写本の権威による裏付けは乏しく、既に述べたように、2つのタイトルは1つの著作のみを対象としているため、καὶ よりも ἤ の方が自然である。</ref>、そして『モーセの夢は神によって送られるという命題について』<ref>περὶ τε τοῦ κατὰ Μωϋσέα θεοπέμπτους εἶναι τοὺς ὀνείρους πρῶτον, δεύτερον, κ.τ.λ. 『モーセによれば、5番目に関しては、夢は1番目、2番目、…の順である』現存する書物は2巻あり、1巻目は創世記28章12節以降と創世記31章11節以降(マンジェ著、I. 620–658)、2巻目は創世記37章と41章~41章(マンジェ著、I. 659–699)である。ヒエロニムス(『de vir. ill.』11)はエウセビオスに倣って5巻と述べており、この報告を疑う余地はない。シューラーは、現存する2巻は元々の5巻のうちの2番目と3番目だと考えている(シューラー著、845頁以降)。</ref>の第一、第二、第三、第四、第五の書がある。これらは、創世記に関する書物で、現在まで伝わっているものである。 5. しかし、出エジプト記に関しては、第一、第二、第三、第四、第五の問答集<ref>ζητήματα καὶ λύσεις 『課題と解決策』上記注3を参照。エウセビオスは出エジプト記に関する書物を5巻しか知らず、それ以上あったと考える理由はない。</ref>、幕屋に関する書<ref>フィロンは『περὶ βίου Μωσέως: Vita Mosis』という著作を著しており、これは現存しているが、エウセビオスの目録には記載されていない。この著作には幕屋に関する詳細な記述が含まれており、したがってシューラーは、エウセビオスがここで言及している著作(περὶ τῆς σκήνης)は、より大きな著作の一部であると結論付けている。もしそうであれば、エウセビオスが使用した写本の部分は、著作の残りの部分から切り離され、独立した書物として成立していた可能性がある。シューラーが指摘するように、より大きな著作の題名が省略されているのは、エウセビオスの目録の本文の伝承が不完全であったためであることは疑いない。シューラー、855頁参照。</ref>、十戒に関する書<ref>περὶ τῶν δέκα λογίων De Decalogo. 『10人の学者について』現存しており、マンジェー著、II. 180–209 に記載されている。ヒエロニムスは de tabernaculo et decalogo libri quattuor という簡略化されたタイトルを持ち、これはモーセ五書に関する第三の一般グループの第三の区分を導入するものであり (上記注 11 を参照)、シューラーによれば、直接 βίος πολιτικός、すなわちヨセフの生涯に結び付けられるべきであり、このグループに属さないモーセの生涯を挿入することによって分離されるべきではない (マンジェーが行っているように) (シューラー、p. 849 sqq.)。</ref>、十戒の主要な区分を特に扱った律法に関する四つの書<ref>τὰ περὶ τῶν ἀναφερομένων ἐν εἴδει νόμων εἰς τὰ συντείνοντα κεφ€λαια τῶν δέκα λόγων, α'β'γ'δ' (10の講義の対応する章、a'b'c'dで言及されている法律について)。: De specialibus legibus. 第三総括作品群の第三区分の一部(上記注11参照)。現在も4冊の書物として残っており、それぞれに特別な題名があり、各書物には多くの細分が含まれている。マンジーによれば、第1巻、II. 210–269は7つの部分からなり、de circumcisione、de monarchia Liber I.、de monarchia Liber II.、de præmiis sacerdotum、de victimis、de sacrificantibus、またはde victimis offerentibus、de mercede meretricis non accipienda in sacrarium、第2巻、270–298はマンジーでは不完全だが、ティッシェンドルフのPhilonea、p. 1–83には完全な形で収録されている、第3巻、299–334、第4巻、335–374:特定の主題に関する多数の小冊子の最初のもののように構成されている。フィロンはこの著作の中で、モーセの律法すべてを十戒の10の項目にまとめようと試みている。例えば、最初の2つの戒めには祭司と犠牲に関する律法が、4番目の戒めには安息日に関する律法などがまとめられている。詳細はシューラー著、850ページ以降を参照。</ref>、犠牲に捧げる動物に関する書と犠牲の種類に関する書<ref>περὶ τῶν εἰς τὰς ἱερουργίας ζώων, καὶ τίνα τὰ τῶν θυσιῶν εἴδη. 『神聖な儀式で用いられる動物の種類や、どのような種類の犠牲が捧げられるかについて』これは、先ほど述べた作品の第1巻の一部に過ぎず、マンジェでは『de victimis』(II. 237–250)という題名で出版されている。これらの様々な部分、あるいは少なくともこの部分は別々に流通していた可能性があり、そのためエウセビオスはこれを独立した作品とみなしたのかもしれない。シューラー著、851ページを参照。</ref>、善人に対する律法に定められた報いと悪人に対する罰と呪いに関する書<ref>περὶ τῶν προκειμένων ἐν τῷ νόμω τοῖς μὲν ἀγαθοῖς ἄθλων, τοῖς δὲ πονηροῖς ἐπιτιμίων καὶ ἀρῶν 『上記の法律に関して言えば、善人にはスポーツが与えられ、悪人には名誉と報酬が与えられる』これはまだ現存しており、マンゲイによって(誤って 2 つの別々の作品として)「περὶ ἄθλων καὶ ἐπιτιμίων, de præmiis et pœnis (II. 408–428)」および「περὶ ἀρῶν, de」というタイトルで与えられています。処刑 (II. 429–437)。この文章は、モザイク法に関する研究への一種のエピローグを形成しています。シューラー、p. 854。</ref>が知られています。 6. これらに加えて、彼の単巻の著作もいくつか現存しています。例えば、『摂理について』<ref>τὸ περὶ προνοίας 『福祉について』De providentia. この著作はアルメニア語版のみが現存しており、Aucher によるラテン語訳付きで第 I 巻 1–121 ページ (上記注 3 を参照) および Ritter によるラテン語版 (第 VIII 巻) が出版されている。ギリシャ語の断片が 2 つあり、そのうち 1 つはかなりの長さである。エウセビオスは『福音の準備』VII. 21 と VIII. 14 に保存している。アルメニア語版ではこの著作は 2巻から成るが、最初の巻の真正性は疑わしく、エウセビオスは 1 つしか知らなかったようである。『福音の準備』の引用はどちらもこの第2巻からのものであり、この著作は単数形で引用されている。また、この箇所でも τὸ と読むべきであるが、一部の写本では τὰ となっている。この作品(マンジー版には収録されていない)は、フィロンの独立した著作の一つであり、モーセ五書に関する三つのグループのいずれにも属さない。</ref>、彼が著した『ユダヤ人について』<ref>περὶ ᾽Ιουδαίων 『ユダヤ人について』 は、おそらく ἡ ὑπὲρ ᾽Ιουδαίων ἀπολογία と同一視されるもので、これは現存しないが、エウセビオスが言及し、彼の『福音の準備』VIII. 2 で引用している。エウセビオスが提示した断片は、マンゲイによって第2巻の 632–634 ページに印刷されており、デーネの意見 (Theol. Studien und Kritiken, 1883, p. 990) では、マンゲイが提示した前の二つの断片 (p. 626 以降) もこの弁明書に属する。de nobilitate と題された作品 (マンゲイ、II. 437–444) は、おそらく弁明書の一部であった。これはデーネの意見である(同書990、1037頁参照)。シューラーもこれに同意する。弁明書の真正性は一般的に認められているが、グレーツ(『ユダヤ人の歴史』第3巻680頁、第3版)は不十分な根拠に基づいて異議を唱えており、ヒルゲンフェルト(『知恵神学雑誌』1832年275頁以降、および『原始キリスト教の歴史』87頁以降)もこれに倣っている。これもまた、前述のものと同様に、フィロンの独立した著作の一つである。シューラー861頁以降を参照。</ref>、『政治家』<ref>ὁ πολιτικός (政治家)。現存しており、マンジー (II. 41–79) は βίος πολιτικὸς ὅπερ ἐστὶ περὶ ᾿Ιωσήφ: De Josepho という題名で与えている。フォティオス、Bib. Cod. 103 は περὶ βίου πολιτικοῦ という題名を与えている。これはモーセ五書に関する第三の大グループの第二区分の一部を形成し (上記注 11 を参照)、アブラハムの生涯の直後に続く。イサクとヤコブの生涯は恐らく別々に書かれたものと思われる (上記注 15 と比較)。この著作は、賢者が国家や政治生活においてどのように振る舞うべきかを示すことを目的としている。シューラー、p. 849 を参照。</ref>、さらに『アレクサンダー、あるいは非理性動物による理性の獲得について』<ref>どう思おうと構わないが、タイトルはヒエロニムス(『獣人について』第11章)が「De Alexandro et quod propriam rationem muta animalia having」としている。この作品はアルメニア語版のみが現存しており、Aucher著、第1巻、123~172ページに、ラテン語版はRitter著、第7巻に掲載されている。また、Schürerによれば、レオンティウスとヨハネの『Florilegium』にも2つの短いギリシア語断片が見られる。この本はフィロンの独立した作品の一つでもあり、彼の後期の著作に属する。Schürer著、860ページ以降を参照。</ref>などがあります。これらに加えて、「すべての悪人は奴隷である」という命題に関する著作があり、これに「すべての悪人は自由である」という命題に関する著作が付随している<ref>ὁ περὶ τοῦ δοῦλον εἶναι π€ντα φαῦλον, ᾧ ἐξῆς ἐστιν ὁ περὶ τοῦ π€ντα σπούδαῖον ἐλεύθερον εἶναι (奴隷は五重の悪であり、そこから解放されることは五重の偉業である)。これら 2つの作品は、もともと 1 つの作品の 2 つの部分を形成しており、その主題は、悪人の奴隷制と善人の自由という 2 つの側面から扱われていました。前半は負けてしまいました。しかし後半は現存しており、マンゲイ (II. 445–470) によって与えられています。現存する後半部分の長い断片は、エウセビオスによる『Præp』にも記載されている。エヴァン。 Ⅷ. 12. この作品の真正性については一部で異論が唱えられているが、ルキウス著『エッセニズム』(ストラスブール、1881年、13-23頁)(シューラー、85頁)でその正当性が擁護されている。</ref>。 7. これらの著作の後、彼は『観想生活について』、あるいは『嘆願者について』<ref>前章を参照のこと。また、作品については、同章の注2を参照のこと。</ref>を著しました。この著作から、使徒たちの生活に関する事実が明らかになっています。さらに、律法と預言書におけるヘブライ語名の解釈も、彼の努力の賜物であると言われています<ref>τῶν ἐν νόμῳ δὲ και προφήταις ᾽Εβραϊκῶν ὀνομ€των αἱ ἑρμηνεῖαι (律法と預言書におけるヘブライ語名の解釈)。エウセビオスがこの作品について語る方法 (τοῦ αὐτοῦ σπουδαῖ εἰναι λέγονται) は、この作品が匿名の作品として彼の前にあったことを示していますが、それは「フィロの産業の成果であると言われています」。ヒエロニムスも、同じ作品について(彼自身の作品『De nominibus Hebraicis』の冒頭で)、オリゲネスの証言によると、それはフィロンの作品であると述べています。したがって、ジェロームにとっても、それは匿名の作品でした。シューラーによれば、オリゲネスのこの証言は現存する著作には見当たらないが、ヨハネ福音書第2巻27章(ロンマッツシュ編、第1巻50ページ)の注釈の中で、著者は不明だが同じ主題の著作について述べている。したがって、この書物に関する伝承の現状から、通常はフィロン以外の著者の著作と考えられている。原本はもはや現存しておらず(原本がないため著者の特定は不可能である)、この失われた原本を基にしたと思われる同じ主題の著作がいくつか存在する。例えば、ヒエロニムスは、彼の『ヘブライ語名辞典』(ミーニュ編、第3巻771ページ)が、この書物の改訂版であると述べている。シューラー、865ページ以降を参照。</ref>。 8. また、彼はクラウディウス帝の治世中<ref>「この報告は非常に信憑性に欠ける。ローマ人への憎悪とカリグラ帝への侮蔑的な言及に満ちた作品が、特に著者がユダヤ人であったことを考えると、ローマ元老院で朗読されるはずがないからだ」(クロス)。実際、フィロンがクラウディウス帝の治世中にローマにいた可能性は極めて低い(上記、第17章、注1参照)。エウセビオスがここで述べている報告は、おそらくフィロンがクラウディウス帝の治世中にローマにいたと想定した人物(既に言及した別の伝承に基づく)の想像から生まれたものであり、その人物の想像力によって、フィロンが当時、カリグラ帝にこのような劇的な方法で復讐を果たしたと描かれたのだろう。この辛辣で生々しい作品が公の場で朗読されることを意図していたと想像するのは難しくなく、元老院が聴衆であったという説は魅力的なものであった。</ref>、ローマ元老院全体の前で、ガイウス帝の治世下でローマに来た際に書いた著作を朗読したと言われています。この著作は、ガイウス帝の神々への憎悪について論じたもので、皮肉を込めて『徳について』という題名が付けられていました<ref>上記、第5章、注1を参照。</ref>。彼の説教は非常に高く評価され、図書館に収蔵されるに値するとみなされました。 9. この頃、パウロが「エルサレムからイリュリクム周辺へ」<ref>ローマ人への手紙15章19節</ref>の旅を終えようとしていた時、クラウディウス帝はユダヤ人をローマから追放しました。そしてアキラとプリスキラは他のユダヤ人たちと共にローマを離れ、アジアへ行き、そこで使徒パウロのもとに滞在した。パウロはその地域の教会の基礎を新たに築いていたのである。聖書使徒言行録にもこれらのことが記されている<ref>使徒行伝18章2節、18節、19節以降を参照。</ref>。 :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第18章#エウセビオスの教会史|先頭に戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 18]] を翻訳 --> cj5yc6s9c21g1yh9sowz5dv2uhb8mv7 ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第19章 0 56629 242636 2026-05-22T14:30:27Z 村田ラジオ 14210 Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 19]] を翻訳 242636 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|第1巻|エウセビオスの教会史|hide=1}} {{header | title = ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻 | section = 第19章 | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第18章|第18章]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第20章|第20章]] | year = 1885 | 年 = | override_author = | override_translator = [[s:en:Author:Arthur Cushman McGiffert|アーサー・クシュマン・マクギファート]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] 他 | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, "[[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 19|Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 19]]". *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にかいあきようふとにかいあこきようふ 201 3 07 19}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]] [[Category:教父]] [[Category:ニカイア教父とニカイア後教父]] }} ===エウセビオスの教会史=== 第2巻 ——————————— '''第19章''' — 過越の日にエルサレムのユダヤ人に起こった災難。 クラウディウスは西暦41年1月24日から54年10月13日まで統治した。 1. クラウディウス帝の治世中、過越祭の祭りの際、エルサレムで大混乱と騒乱が起こり、神殿の門に押し寄せたユダヤ人だけでも3万人が互いに踏みつけられて命を落とした<ref>この騒乱(ヨセフス『ユダヤ戦記』第2巻12章1節、および『ユダヤ古代誌』第20巻5章3節に記述されている)は、紀元48年、クマヌスがユダヤ総督を務めていた時に起こった。過越祭の期間中、総督は慣例に従い、大勢の人々の間で起こりうる騒乱に備えてエルサレムに増援部隊を派遣した。兵士の一人がユダヤ人を侮辱する目的で、彼らの前で不適切な振る舞いをしたため、大騒ぎとなり、総督は神殿の丘に部隊を集結させざるを得なくなった。しかし、兵士の出現はそこに集まっていた大勢の人々をひどく驚かせ、彼らは四方八方に逃げ散り、逃げようと必死になるあまり互いに押しつぶし合って死んでしまった。ヨセフスは『ユダヤ戦記』で死者数を1万人と記し、『ユダヤ古代誌』では2万人と記している。後者の著作は最後に書かれたが、ヨセフスが数字を誇張する傾向があったことを考えると、訂正が真実に近づいたとは考えにくい。エウセビオスが3万としているからといって、彼の誠実さを疑う必要はない。20という数字は確かに十分大きかったので、彼が「20」を「30」に変える理由はなかったはずだ。単に、数字が転写の際にいかに簡単に変わってしまうかを覚えておけばよい。ヴァレシウスは、この混乱は西暦52年にクァドラトゥスの治世下で起こったと述べている(ピアソンの『Ann. Paull.』11ページ以降とタキトゥスの『Ann. XII. 54』を引用)。しかし、エウセビオスは『年代記 Chron.』でクラウディウスの治世8年目(西暦48年)とし、オロシウスは『歴史』VII. 4.で7年目としている。ヨストとエヴァルトは日付に関してエウセビオスと意見が一致している。</ref>。こうして祭りは全国民にとって悲しみの時となり、どの家でも嘆き悲しむ声が響いた。これらの出来事はヨセフスによって文字通りに記されている<ref>エウセビオスは、ヨセフスが半ページにわたって書いていることを、たった一文で簡潔にまとめている。</ref>。 2. しかしクラウディウス帝は、アグリッパの子アグリッパをユダヤ人の王に任命し<ref>ヘロデ・アグリッパ 2世は、ヘロデ・アグリッパ 1世の息子である。父の死去時 (西暦44 年) にはわずか17歳であったため、クラウディウスは父の王国を彼に与えることを躊躇し、そのため王国は再びローマ属州となり、ファドゥスが財務官として派遣された。西暦49年、アグリッパは叔父のヘロデ (アグリッパ 1世の兄弟) が所有していたカルキス王国を与えられ、西暦53年、王の称号とともにフィリッポスとリサニアスの四分領に移された。ユダヤは彼の治世中ずっとローマ属州のままであり、彼の支配はパレスチナの北東部のみであったため、彼は父と同じ意味でユダヤ人の王になることはなかった。しかし、彼は大祭司を任命および解任する権利を有しており、ネロの治世下ではガリラヤとペレアのいくつかの都市が加わり、彼の支配領域はいくらか拡大した。彼はユダヤ戦争でローマ側に味方し、その後ローマへ行き、西暦100年にヘロデ王朝最後の君主としてそこで亡くなった。使徒行伝26章に記されているパウロの弁明は、このアグリッパの前で行われたものである。</ref>、フェリックス<ref>クラウディウスの解放奴隷であったフェリックスは、紀元52年(またはヴィーゼラーによれば53年)にクマヌスの後を継いでユダヤの総督となった。彼が統治した地域にはサマリアとガリラヤとペレアの大部分が含まれており、ヨセフスによればユダヤはネロによってその地域に加えられた。タキトゥス『年代記』第12巻54節とヨセフス『 ユダヤ古代誌』第20巻2章~7章1節(前者はクマヌスとフェリックスをそれぞれ属州の一部を統治する同時代の総督とし、後者はフェリックスをクマヌスの後継者とする)を調和させようとしたエヴァルトは、フェリックスはクマヌスの補佐としてユダヤに派遣され、クマヌスの追放に伴い総督になったと結論づけている。これは不可能ではないが、それを裏付ける証拠はない。ヴィーゼラー、67ページ、注を参照。 59年から61年の間(ヴィーゼラーによれば60年。下記第22章注1参照)に、フェリックスの後を継いだのはポルキウス・フェストゥスであった。この二人の総督と使徒パウロとの関係については、使徒行伝20章以降を参照。エウセビオスは『年代記』の中で、フェリックスの就任をクラウディウス帝の治世11年目(西暦51年)、フェストゥスの就任を14年目(西暦54年)としているが、これらの日付はどちらも明らかに誤りである(ヴィーゼラー、68ページ注参照)。</ref>をサマリアとガリラヤ全土、そしてペレアと呼ばれる地の総督として派遣した<ref>エウセビオスは明らかに、この時のローマ属州はサマリア、ガリラヤ、ペレアに限られていたと考えていたが、これは間違いで、属州にはユダヤも含まれていた(前の注を参照)。アグリッパ2世は、上記のテトラルキア(注3)とガリラヤとペレアのいくつかの都市のみを支配下に置いていた。しかし、彼は神殿に対する権限と大祭司を任命する権限を持っていた(ヨセフス『ユダヤ古代誌』第20巻8章11節、第9巻1章4節、6章、7節を参照)。これはクラウディウスが彼の叔父であるカルキスの王に与えたものであった(ヨセフス『ユダヤ古代誌』第20巻1章3節)。</ref>。アグリッパは13年8ヶ月の治世の後<ref>クラウディウスは西暦41年1月24日から54年10月13日まで統治した。</ref>死去し、ネロが後継者として帝位に就いた。 :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第19章#エウセビオスの教会史|先頭に戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 19]] を翻訳 --> q48g01sjxtyzb3il5gq83spgp44dzbu ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第20章 0 56630 242637 2026-05-22T16:32:52Z 村田ラジオ 14210 Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 20]] を翻訳 242637 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|第1巻|エウセビオスの教会史|hide=1}} {{header | title = ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻 | section = 第20章 | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第19章|第19章]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第21章|第21章]] | year = 1885 | 年 = | override_author = | override_translator = [[s:en:Author:Arthur Cushman McGiffert|アーサー・クシュマン・マクギファート]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] 他 | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, "[[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 20|Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 20]]". *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にかいあきようふとにかいあこきようふ 201 3 07 20}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]] [[Category:教父]] [[Category:ニカイア教父とニカイア後教父]] }} ===エウセビオスの教会史=== 第2巻 ——————————— '''第20章''' — ネロの治世中にエルサレムで起こった出来事。 1. ヨセフスは『ユダヤ古代誌』第20巻で、ネロ帝の治世中、フェリクスがユダヤ総督を務めていた時期に祭司たちの間で起こった争いについて再び述べている。 2. 彼の言葉は次のとおりです<ref>ヨセフス『ユダヤ古代誌』 第20巻第8章第8節。フェリックスは終始非常に卑劣で残酷な人物であり、彼の総督在任期間は絶え間ない混乱に満ちていた。</ref>:「一方には大祭司たち、他方にはエルサレムの祭司たちと民の指導者たちの間で争いが起こった<ref>この騒動は、フェリックスの任期末期、アグリッパによってその少し前に任命された大祭司イシュマエルの時代に起こった。ヨセフスはこの争いの原因については何も述べていない。</ref>。彼らはそれぞれ最も大胆で落ち着きのない者たちを集め、自らをその先頭に立たせ、会うたびに互いに罵詈雑言と石を投げ合った。仲裁する者は誰もいなかった。まるで支配者のいない町のように、これらのことはやりたい放題に行われた。 3. 大祭司たちの厚顔無恥と大胆さは甚だしく、彼らは召使たちを脱穀場に送り込み、祭司たちに納めるべき十分の一税を奪わせた。こうして貧しい祭司たちは飢えに苦しむことになった。このようにして、派閥の暴力がすべての正義を凌駕した。」 4. また、同じ著者は、ほぼ同時期にエルサレムに一群の強盗が現れたと述べている<ref>ヨセフス『ユダヤ戦記』II. 13. 3. この時期にエルサレムで発生したこれらの公然たる強盗殺人事件は、フェリックス自身がヨナタンを殺害した行為が一因であった(次の注釈を参照)。少なくともこの事件における彼の行為が、当時多数存在した悪党たちによって熱心に続けられた犯罪行為の始まりとなったのである。</ref>。彼らは「昼間」に、町の真ん中で出会った人々を殺害したという。 5. 特に祭りの際には、彼らは群衆に紛れ込み、衣服の下に隠した短剣で、最も地位の高い人々を刺し殺した。そして、彼らが倒れると、殺人者自身も憤慨する人々の列に加わった。このように、皆が彼らを信頼していたため、彼らは正体を現さずに済んだ。 6. 最初に彼らに殺されたのは大祭司ヨナタンであった<ref>この大祭司ヨナタンは、フェリックスを総督に任命する際に影響力を行使し、そのためフェリックスと親密な関係にあり、自由に助言したり叱責したりしていた。ついにフェリックスにとってヨナタンがあまりにも重荷になったため、フェリックスはヨナタンの信頼する友人に賄賂を贈ってヨナタンを殺害させた。友人は、正体不明の強盗を街に送り込み、人々に紛れ込ませてヨナタンとその他多くの人々を殺害し、犯罪の標的に対する疑いをそらすことでそれを成し遂げた。ヨセフス『ユダヤ古代誌』第20巻第8章第5節を参照。ヨセフスはヨナタンが大祭司に任命されたことを言及しておらず、そのためヴァレシウスはヨナタンは実際には大祭司ではなく、単に上層階級の祭司の一人であったと結論づけている。しかし、この結論は根拠がない。ヨセフスは、言及されている箇所で明確に彼を大祭司と呼んでいるからである(ヨセフスのハーバーキャンプ版912ページに引用されているリランドのコメントも参照)。ヴィーゼラー(77ページ、注)は、ヨナタンはこの時大祭司ではなかったが、大祭司であったためそう呼ばれていたと考えている。彼は、アンガーの『De temporum in Act. Ap. ratione』を引用して、アナニアスを48年から57年まで大祭司とした。</ref>。その後、毎日多くの人が殺され、恐怖は悪そのものよりもひどくなり、人々はまるで戦場にいるかのように、常に死を覚悟していた。 :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第20章#エウセビオスの教会史|先頭に戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 20]] を翻訳 --> nftlo598hbm1iubnb5d2mm05d9sy56p ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第21章 0 56631 242638 2026-05-22T19:57:49Z 村田ラジオ 14210 Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 21]] を翻訳 242638 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|第1巻|エウセビオスの教会史|hide=1}} {{header | title = ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻 | section = 第21章 | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第20章|第20章]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第22章|第22章]] | year = 1885 | 年 = | override_author = | override_translator = [[s:en:Author:Arthur Cushman McGiffert|アーサー・クシュマン・マクギファート]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] 他 | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, "[[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 21|Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 21]]". *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にかいあきようふとにかいあこきようふ 201 3 07 21}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]] [[Category:教父]] [[Category:ニカイア教父とニカイア後教父]] }} ===エウセビオスの教会史=== 第2巻 ——————————— '''第21章''' — 使徒言行録にも登場するエジプト人。 1. 他の事柄の後、彼は次のように述べている<ref>ヨセフス『ユダヤ戦記』第2巻13. 5.</ref>。「しかし、ユダヤ人はエジプトの偽預言者によって、これよりもさらに大きな災いに見舞われた<ref>エジプト系ユダヤ人。この世紀に現れた数多くの魔術師や偽預言者の一人。彼は、異教の都市となったエルサレムは、神がエリコの城壁を崩したように、エルサレムの城壁も崩して滅ぼすだろうと予言した。そして、彼と彼の信奉者たちは、真のイスラエルであり神の軍隊として、圧制者たちに勝利し、世界を支配するだろうと主張した。この目的のために、彼は信奉者たちをオリーブ山に集め、そこから城壁の崩壊を目撃し、攻撃を開始することになっていた。</ref>。その地に、自らを預言者と称して人々を信仰に陥れ、騙した約3万人を集め、砂漠からいわゆるオリーブ山へと導いた。彼はそこからエルサレムに武力で侵入し、ローマ軍の駐屯地を制圧して民の政権を奪取しようと企て、同行者を護衛として利用した。 2. しかし、フェリックスは彼の攻撃を予見し、ローマ軍団を率いて迎え撃ち、民衆も皆、防衛に加わった。戦闘が始まると、エジプト人は少数の従者とともに逃走したが、大部分は滅ぼされるか捕虜となった。」 3. ヨセフスはこれらの出来事を『歴史』第二巻に記している<ref>ヨセフスはこの出来事について2つの異なる記述を残している。『ユダヤ戦記』では、このエジプト人が3万人の兵士を率いて砂漠からオリーブ山に向かったが、フェリックスが彼らを攻撃し、エジプト人は「わずかな者と共に逃げ延びた」ものの、彼の部下のほとんどは殺されるか捕虜になったと述べている。後に書かれた『ユダヤ古代誌』第20巻第8章第6節では、エジプト人が大勢の兵士を率いて「エルサレムから」オリーブ山に向かい、フェリックスに攻撃された際に400人が殺され、200人が捕虜になったと述べている。ここには明らかな矛盾があるように思われるが、エジプト人が砂漠から大勢の盗賊を連れてきて、そこにエルサレムからの大勢の暴徒が加わり、総勢が3万人に達したと仮定すれば、この2つの記述を調和させることができる。そして、攻撃を受けた際に暴徒は散り散りになったが、フェリックスは攻撃対象としていた600人の盗賊を殺害または捕虜にし、エジプト人は少数の者(つまり3万人に比べれば少数)を連れて逃げた。この少数の者こそ、エウセビオスが以下に引用している箇所で使徒言行録の著者が言及している4000人であった可能性が高い。したがって、この場合、使徒言行録とヨセフスの記述を調和させることは、ヨセフス自身を調和させることよりも難しくはない。また、どちらかに誤りがあったと考える理由はない。ただし、既に述べたように、数字は転写の際に非常に紛らわしいので、実際の差は元々はもっと小さかった可能性もある。二つの記述の主要な要素が実質的に一致している場合、数値の相違をそれほど重視する必要はない。(Tholuck, Glaubwürdigkeit, p. 169(Hackett, Com. on Acts, p. 254より引用)参照)</ref>。しかし、ここで述べたエジプト人の話と使徒言行録に記されている話を比較してみる価値はある。フェリックスの時代に、エルサレムの百人隊長は、ユダヤ人の群衆が使徒に対して騒ぎを起こした際に、パウロにこう言った。「あなたは、数日前に騒ぎを起こし、殺人者である四千人を荒野に連れ出した者ではないか。」<ref>使徒言行録21章38節</ref> これらはフェリックスの時代に起こった出来事である<ref>ヴァレシウスとハイニヒェンは、エウセビオスがエジプト人によって引き起こされたこの騒乱をネロの治世に帰しているのは誤りだと主張しているが、彼らの主張は全く根拠がない。なぜなら、ヨセフスは両方の記述において、この騒乱をネロの治世に明確に帰している出来事の中に含めており、彼が示した出来事の順序が間違っていると考える理由はないからである。ヴァレシウスとハイニヒェンは、フェストゥスがネロの治世2年目にフェリックスの後を継いだという誤った前提に基づいており、したがって、パウロがフェリックスの召還前にカイサリアに2年間滞在していたことから、パウロの逮捕時、そしてカイサリアへ連行される直前に言及されたエジプト人の反乱は、クラウディウスの治世の終わりまでに起こったに違いないと主張している。しかし、フェリックスの後を継いだフェストゥスが早くてもネロの治世6年目であるのは事実である(下記第22章注2参照)。したがって、本件においてヨセフスまたはエウセビオスのいずれも誤りを犯したと非難する根拠はない。</ref>。 :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第21章#エウセビオスの教会史|先頭に戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 21]] を翻訳 --> p62goaezo7vt9mt0w9vizbzepuoporm ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第22章 0 56632 242639 2026-05-22T20:47:39Z 村田ラジオ 14210 Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 22]] を翻訳 242639 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II|第1巻|エウセビオスの教会史|hide=1}} {{header | title = ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻 | section = 第22章 | previous = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第21章|第21章]] | next = [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第23章|第23章]] | year = 1885 | 年 = | override_author = | override_translator = [[s:en:Author:Arthur Cushman McGiffert|アーサー・クシュマン・マクギファート]] | override_editor = [[s:en:Author:Philip Schaff|フィリップ・シャフ]] 他 | noauthor = | notes = *底本: Philip Schaff, "[[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 22|Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 22]]". *ウィキソースによる日本語訳 {{DEFAULTSORT:にかいあきようふとにかいあこきようふ 201 3 07 22}} [[Category:キリスト教]] [[Category:キリスト教の歴史]] [[Category:教父]] [[Category:ニカイア教父とニカイア後教父]] }} ===エウセビオスの教会史=== 第2巻 ——————————— '''第22章''' — パウロはユダヤからローマに拘束されて送られ、弁明を行い、すべての容疑から無罪となった。 1. フェストゥス<ref>フェストゥスの即位の正確な年は不明ですが、彼の死は西暦62年の夏より前に起こったことがわかっています。なぜなら、その頃には後継者のアルビヌスがすでに総督になっていたからです。これはヨセフスの『ユダヤ戦記』第6巻第5章第3節からわかります。しかし、ヨセフスが彼の在任中に起こったと記録した出来事から、彼が少なくとも1年間は総督を務めていたことがわかります。したがって、彼の即位は確実に西暦61年には行われ、おそらく少なくとも1年前、つまりヴィーゼラーが定めた西暦60年に行われたと考えられます。彼の即位の最も広い範囲は59年から61年です。この問題全体については、ヴィーゼラーの66ページ以降を参照してください。フェストゥスは在任中に亡くなりました。彼は公正で有能な総督であったようで、この点では前任者とは全く対照的です。</ref>はネロによってフェリックスの後継者として派遣されました。彼の指揮下で、パウロは弁明を終えると、縛られてローマへ送られました<ref>使徒言行録 25章以降。パウロが囚人としてローマに送られた年を特定するには、フェストゥスの就任年を特定することが部分的に必要となる。パウロはネロの迫害(紀元64年6月)の少なくとも2年前にはローマにいた(春に到着した)。したがって、紀元62年には既にローマにいたことになる。パウロは前年の秋にカイサリアから送られたので、紀元61年の秋には既にローマにいたことになる。フェストゥスが61年に総督になったのであれば、その年がその日付であったに違いない。しかし、おそらくそうであるように、フェストゥスが60年に総督になったのであれば、パウロはその年の秋にローマに送られ、61年の春にローマに到着したことになる。これが現在一般的に受け入れられている日付であるが、62年を排除することはできない(ヴィーゼラー、前掲書参照)。ヴィーゼラーは、フェストゥスが西暦60年以前に総督に就任することは不可能であり、したがってパウロも同年秋以前にローマに連れて行かれることは不可能であることを決定的に示している。</ref>。アリスタルコスもパウロと共にいました。パウロは手紙の中で、彼をごく自然に「囚人仲間」と呼んでいます<ref>コロサイ4章10節</ref>。使徒言行録を著したルカ<ref>下記、第3巻第4章を参照。</ref>は、パウロがローマで丸二年間、自由身分の囚人として過ごし、何の制約もなく神の言葉を説いたと述べて、この記述を締めくくっています<ref>使徒言行録28章30節を参照。</ref>。 2. 弁明を終えた後、使徒は再び宣教の任務に就き<ref>エウセビオスは、パウロが最初の投獄から釈放され、二度目のローマでの投獄中に殉教したことを最初に記録した著述家である。彼はこの記述を「λόγος žχει(理由がある)」という表現で始めているが、これはおそらく彼が口頭伝承のみを権威としていることを示しており、解釈上の議論によって事実を確立しようとした彼の努力は、その伝承がいかに脆弱であったかを示している。多くの人は、エウセビオスはここで伝承に従っているのではなく、牧会書簡の研究から得た彼自身の結論を記録しているだけだと主張している。その研究は明らかに二度目の投獄を必要とする。しかし、もしそうであれば、彼は「λόγος žχει」という表現を使うことはまずなかっただろう。この報告は解釈上の根拠のみに基づいて生じたのかもしれないが、エウセビオス自身が発案したとは考えにくい。この伝承に従って、エウセビオスは『年代記』の中でパウロの死を西暦67年としている。ヒエロニムス(『高名な人々について』第5章)や後世の著述家はエウセビオスに従っている(ただしヒエロニムスは日付を67年ではなく68年としている)ため、この伝承はすぐに確固たるものとなった(下記第25章注5参照)。2度目の投獄の事実については、学者の間で意見が大きく分かれている。牧会書簡の真正性を擁護するほぼ全員が2度目の投獄を前提としているが、一部の学者(例えばヴィーゼラー、エブラルト、ロイスなど)は1度目の投獄のみを前提として書簡を擁護している。しかし、これは非常に難しい。一方、書簡の反対者の大多数(例えばテュービンゲン批評家や新批評学派の大多数)は2度目の投獄を否定している。パウロが釈放されたと仮定して、その期間をどこで過ごしたかについても、意見の相違がある。牧会書簡が真正であると仮定すると、東方への別の訪問が必要になるように思われる。しかし、そのような訪問に関する古代の伝承は存在しない。もっとも、パウロ自身はフィリピ人への手紙の中で、そのような訪問を期待していたと述べている。一方、彼がスペインを訪れたという古い伝承がある(最初の投獄前にスペインに到着していなかったので、当然この期間であったに違いない)。ムラトリ断片(2世紀末)はこの伝承を記録しており、それが広く知られていたことを示唆している。ローマのクレメンス(コリント人への手紙、第5章)もそのような訪問の証人として挙げられているが、彼の言葉の解釈は疑わしく、彼の発言にはほとんど重みがない。後世になると、このスペイン訪問の伝承は教会から消え去った。訪問に反対する最も有力な論拠は、スペイン自体にその痕跡が全くないことである。もしスペインのどこかの教会が、異邦人への偉大な使徒を創始者と主張できたとすれば、その教会は自らの主張を表明し、少なくともその教会では伝承が保存されていたはずである。これは、筆者にとってスペインへの旅に対する致命的な反論のように思われる。一方、東方への別の旅に関する伝承が全く存在しないことは、そのような訪問を否定するものではない。なぜなら、どの場所の伝承も、使徒の訪問の事実を容易に保存し、もし複数回訪問があったとしても、訪問回数の正確な記録を保存しない可能性があるからである。牧会書簡の擁護者で、二度目の投獄を認める者の中には、単に東方への旅を想定している者もいれば、スペインへの旅も想定している者もいる。西暦63年の春、彼が釈放されたとすればおそらく釈放された時期と、彼の死の日付(早くても64年の夏)の間には、両方の旅をするのに十分な時間があるが、ぎりぎりである。パウロの死の日付をエウセビオスやヒエロニムスと同時期に設定すれば(多くの現代の批評家がそうしているように)、もちろん時間は十分である。様々なパウロ伝、注解などを比較し、特に最近の著作では、シャフの『教会史』第1巻 231ページ以降、ヴァイスの『新約聖書入門』 283ページ以降、ホルツマンの『入門』 295ページ以降、ヴァイツゼッカーの『使徒時代』 453ページ以降を参照されたい。</ref>、二度目に同じ都市に到着した際に殉教したと伝えられています<ref>下記、第25章、注6を参照。</ref>。この投獄中に、パウロはテモテへの第二の手紙<ref>エウセビオスは牧会書簡を疑いなく真正なものとみなし、ホモログメナ(Homologumena)、すなわち議論の余地のない文書の中に位置づけた(第3巻第3章と第25章を参照)。外的証拠は非常に強力であるが、その真正性は今世紀に入ってから、内部的根拠に基づいてかなり広く否定されている。ドイツの進歩的な批判的学者は、パウロ以外の著者によるものであることを完全に確立したものとみなしており、他の多くの保守的な学者もそれに倣っている。ここでその真正性に対する賛成論と反対論の様々な議論を述べることは不可能である。読者は、特にホルツマンの『牧会書簡、批判的および釈義的に扱う』 (1880年)と『入門』 (1886年)を参照し、真正性に対する反対論の最も完全な提示について、またヴァイスの『新約聖書入門』(1886年)を参照されたい。 286頁以降、また、その真正性を擁護するマイヤー シリーズ第5版の牧会書簡に関する彼の注解、さらに、この主題に関する簡潔でやや一般向けの議論については、 1886年10月のAndover Reviewに掲載された Woodruff の記事を参照されたい。第二の手紙は、パウロのすべての手紙の中で最も遅く、彼の死の直前、つまり、彼の2回目の捕囚の終わり、あるいは、2回目の捕囚が否定される場合は、1回目の捕囚の終わりに書かれたに違いない。</ref>を書き、その中で最初の弁明と迫りくる死について述べています。 3. しかし、これらのことに関する彼の証言を聞いてください。「私が最初に答えたとき、誰も私の味方をしてくれず、皆私を見捨てました。どうか、このことが彼らの責任にならないように神に祈ります。しかし、主は私と共に立ち、私を力づけてくださいました。それは、私を通して福音の宣教が完全に知られ、すべての異邦人が聞くためでした。そして私は獅子の口から救い出されました。」<ref>テモテへの手紙第二 4章16、17節</ref> 4. 彼はこれらの言葉で、以前の出来事において、説教が彼によって成就されるために、自分がライオンの口から救い出されたことを明確に示している。この表現は、ネロを指していると思われる。ネロの残虐さを考えれば、そう考えるのが妥当だろう。したがって、彼はその後、「主は私をライオンの口から救い出してくださる」という同様の言葉を付け加えなかった。なぜなら、彼は霊において、自分の最期が長く遅れないことを悟っていたからである。 5. それゆえ、彼は「主は私をライオンの口から救い出してくださった」という言葉に、「主は私をあらゆる悪事から救い出し、天の御国へと導いてくださる」<ref>テモテへの手紙第二 4章18節</ref>という一節を付け加えている。これは、彼が間もなく殉教することを暗示している。彼は同じ手紙の中で、さらに明確にこう予言しています。「わたしは今やささげられる準備ができており、わたしの旅立ちの時が近づいています。」<ref>同上4章6節</ref> 6. さらに、テモテへの第二の手紙の中で、彼は執筆時にはルカが同席していたと述べていますが<ref>テモテへの手紙第二 4章11節を参照。</ref>、最初の弁明の時にはルカさえも同席していませんでした<ref>テモテへの手紙第二 4章16節を参照。</ref>。このことから、ルカは使徒言行録をその頃に執筆し、パウロと共にいた時期まで物語を書き続けたと考えられます<ref>これは保守派の解説者の間で広く受け入れられている見解であり、彼らはネロの迫害とパウロの死について言及されていないことをこのように説明している。一方、使徒言行録の著者がルカであると認める者の中には、その執筆時期を19世紀後半とし、パウロの迫害と死が作品の主題から省略されていると説明する者もいる。例えばヴァイスはルカによる福音書の執筆時期を70年から80年としており、使徒言行録はさらに後の時代に書かれたとしている(彼の序論、 585ページ以降を参照)。現在では、ルカによる福音書はエルサレムの破壊後に書かれたことが広く認められつつあり、もしそうであれば、使徒言行録はさらに後の時代に書かれたに違いない。実際、使徒言行録がパウロの記述が途切れている時点で書かれたと考える理由はない。本書の意図(本文は第1章第8節にある)は、教会がエルサレムからローマへと発展していく過程を記述することであり、パウロの生涯を記すことではなかった。本書の最後にパウロの死を記すことは、この意図とは全く相容れず、著者が賢明にも理解していたように、決定的な盛り上がりを欠くものとなっただろう。著者は、パウロの生涯、あるいは使徒や使徒の集団の生涯を記すのではなく、キリストの教会の設立の歴史を記していたのである。使徒言行録がパウロの弟子によって書かれたことを否定する進歩的な批評家たちは、当然ながらその成立時期をはるかに後、ドミティアヌス帝の時代、多くは2世紀としている。しかし、そのような批評家でさえ、本書のある部分(有名な「私たち」の箇所)の信憑性を認めており、著者が意図的に事実を歪曲したとする古いテュービンゲン説は、最も過激な批評家の間でさえ支持を失いつつある。</ref>。 7. しかし、これらの事柄は、パウロの殉教がルカが記したローマ滞在の時期に起こったのではないことを示すために、我々が挙げたものである。 8. 確かに、ネロは当初は比較的穏健な態度をとっていたため、パウロの教義擁護は比較的容易に受け入れられたであろう。しかし、彼が大胆不敵な無法行為に及ぶようになると、使徒たちをはじめとする人々をも攻撃の対象としたのである<ref>エウセビオスの結論が正しいかどうかはともかく、ネロが治世後半に著しく残忍で専制的になったのは事実である。有名な「最初の5年間」は、その記述がどれほど誇張されているにせよ、少なくとも治世の残りの期間とは全く異なる性格を持っていたに違いない。しかし、その寛容と正義の5年間は、パウロがローマに到着する前に過ぎ去っていた。</ref>。 :::[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第2巻/第22章#エウセビオスの教会史|先頭に戻る]] ==脚注== {{Reflist}} {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Philip Schaff, [[s:en:Nicene and Post-Nicene Fathers: Series II/Volume I/Church History of Eusebius/Book II/Chapter 22]] を翻訳 --> fzv9w0khnev4byfx3w4ynzhz0xtms1m ユダヤ古代誌/第5巻 0 56633 242641 2026-05-23T08:17:31Z 村田ラジオ 14210 Flavius Josephus, William Whiston [[s:en:The Antiquities of the Jews]] の第5巻 1章-4章を翻訳。 242641 wikitext text/x-wiki {{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}} {{header | title = ユダヤ古代誌 | section = 第5巻 | previous = [[ユダヤ古代誌/第4巻b|第4巻b]] | next = [[ユダヤ古代誌/第5巻b|第5巻b]] | year = | 年 = | override_author = [[s:en:Author:Author:Josephus|フラウィウス・ヨセフス]] | override_translator = [[s:en:Author:William Whiston|ウィリアム・ウィストン]] | noauthor = | notes = *底本: Flavius Josephus, William Whiston [[s:en:The Antiquities of the Jews/Book IV|The Antiquities of the Jews/Book V]] *ウィキソースによる日本語訳 }} {{center|ユダヤ古代誌}} {{center|————————————}} ==第5巻== 476年間の出来事。 モーセの死からエリの死まで。 {{center|————————————}} ===第1章=== ヘブライ人の指揮官ヨシュアがカナン人と戦い、彼らを打ち破り、滅ぼし、くじによって彼らの土地をイスラエルの部族に分け与えた経緯。 1. モーセが既に述べたように人々の中から天に召され、彼の死を悼むすべての儀式が終わり、悲しみが癒えたとき、ヨシュアは民衆に遠征の準備をするよう命じた。彼はまた、敵の兵力と意図を探るため、エリコに斥候を送った。そして、適切な時期にヨルダン川を渡るつもりで、陣営を整えた。そして、ルベン族の長たち、ガド族の長たち、マナセ族の半部族の長たちを呼び集めた。この部族の半数は、カナンの地の七分の一にあたるアモリ人の地に住むことを許されていたからである。(1) 彼には、彼らがモーセに約束したことを思い出させ、モーセが彼らのために尽くすことを決して怠らず、死ぬ間際でさえもそうであった彼らの世話をしてくれたこと、そして公共の福祉のために、彼らは準備をし、約束したことをすぐに実行するだろうと彼らを励ました。そこで彼は、自分に従う五万人を連れて、アビラからヨルダンまで六十スタディオンを進軍した。 2. 彼が陣営を張ると、{{r|斥候|せっこう}}たちはすぐに彼のところにやって来た。彼らはカナンの民の状況を熟知していた。というのも、彼らはまず、全く発見される前に、邪魔されることなくエリコの町をくまなく見回し、城壁のどの部分が堅固で、どの部分がそうではなく、実際には安全ではなく、どの門が彼らの軍隊が侵入できるほど脆弱であるかを見ていたからである。さて、彼らに会った人々は、彼らを見ても気に留めず、町中のあらゆるものを観察することに非常に好奇心旺盛なただの旅人だと思い、敵とは考えなかった。しかし夕方になると、彼らは城壁の近くにある宿屋に退き、そこで夕食をとった。彼らが夕食を終え、どうやって逃げようかと考えていた時、王が夕食をとっていたところに、ヘブライ人の陣営からスパイとして町を偵察に来た者たちがいて、ラハブが経営する宿屋にいて、見つからないように非常に気を遣っているという情報が伝えられた。そこで王はすぐに使者を送り、彼らを捕らえて連れてくるように命じ、拷問によって尋問し、彼らがそこで何をしているのかを聞き出そうとした。ラハブは使者が来ることを知るとすぐに、家の屋根に干してあった亜麻の茎の下にスパイたちを隠し、王から送られてきた使者たちに、日が暮れる少し前に見知らぬ見知らぬ者たちが彼女と夕食をとり、立ち去ったので、もし彼らが町にとって脅威であったり、王に危険をもたらす可能性があるなら、簡単に捕らえることができるだろうと言った。こうして使者たちは女に騙され、(2)何の欺瞞も疑わず、宿屋を捜索することもなく立ち去った。しかし、彼らは使者たちが行ったと思われる道、特に川に通じる道をすぐに追跡したが、彼らの消息は分からず、それ以上の追跡は諦めた。騒動が収まると、ラハブは男たちを降ろし、カナンの地を手に入れたら、自分が彼らを救ったことへの償いをすることができるようになったら、自分が彼らのためにどれほどの危険を冒したかを思い出してほしいと頼んだ。もし彼女が彼らを匿っているところを捕まっていたら、彼女と家族全員が恐ろしい破滅を免れることはできなかっただろうから、家に帰るようにと言い、彼らが決めたように町を占領し、住民を皆殺しにするときには、彼女と家族を守ってくれると誓ってほしいと頼んだ。彼女は、これまで自分が聞かされてきた神の奇跡によって、確信を得ていたと述べた。 そこで、これらのスパイたちは、彼女がこれまでにしてくれたことに対して感謝の意を表し、言葉だけでなく行動でも彼女の親切に報いることを誓った。そして、彼女はこう忠告した。「町が陥落しようとしていると分かったら、安全のために家財道具と家族全員を宿屋に入れ、戸口(または窓)に緋色の糸を垂らして、ヘブライ人の指揮官が彼女の家を知って、彼女に危害を加えないように注意するように。なぜなら、あなたが私たちを守るために尽力してくださったので、私たちはこのことを指揮官に知らせるつもりだからだ。だが、もしあなたの家族の誰かが戦いで倒れたとしても、私たちを責めないでほしい。そして、私たちが誓いを立てた神に、私たちが誓いを破ったかのように怒らないでほしいと懇願する。」こうして、この男たちはこの約束を交わすと、壁からロープで降りて逃げ出し、この町に来るまでの道のりで自分たちがしたことを、それぞれの民に話した。ヨシュアはまた、大祭司エレアザルと元老院にも、斥候たちがラハブに誓ったことを伝え、ラハブはその誓いを守り続けた。 3. さて、指揮官ヨシュアは、ヨルダン川を渡ることを恐れていた。川の流れが速く、橋を架けて渡ることは不可能だったからである。これまで一度も橋が架けられたことがなかったからである。また、もし橋を架けようとしても、敵が完成させるのを許さないだろうと疑っていた。渡し舟もなかった。しかし、神は川の流れを変え、川の大部分の水を取り除くことで、彼らが渡れるようにすると約束された。そこでヨシュアは二日後、軍隊と全民を次のように渡らせた。まず祭司たちが契約の箱を持って進み、次にレビ人たちが幕屋と犠牲の器を担いで進んだ。その後、全民が部族ごとに続き、子供や妻が流れに流されないようにと心配して、彼らを真ん中に置いた。しかし、祭司たちが最初に川に入ると、水深が浅くなり、底に砂が見えたため、川は渡れるように見えた。流れはそれほど強くも速くもなかったので、彼らを押し流すことはできなかったからである。こうして彼らは皆、恐れることなく川を渡り、川が神が預言した通りの状態であることを確認した。しかし祭司たちは、群衆が渡り終えて岸に無事に着くまで、川の真ん中にじっと立っていた。そして全員が渡り終えると、祭司たちも川から出て、以前のように流れを自由にさせた。すると、ヘブライ人たちが川から出るとすぐに、川は再び勢いを取り戻し、以前のような本来の規模に戻った。 4. こうしてヘブライ人たちはさらに50スタディオン進み、エリコから10スタディオンのところに陣営を張った。ヨシュアは、預言者たちの命令によって各部族の長たちが深淵から汲み出した石で祭壇を築き、後にこの川の流れが分かれたことを記念するものとして、その上で神にいけにえを捧げた。そしてその場所で過越祭を祝い、それまで不足していたすべてのものが豊かになった。彼らはカナン人の穀物を刈り取り、また他のものを戦利品として得たからである。彼らが40年間食べてきたマナという以前の食物が、その時になって尽きてしまったのである。 5. イスラエル人がこのようにして過ごし、カナン人が彼らを攻撃せず、城壁の中に留まっている間に、ヨシュアは彼らを包囲することを決意した。こうして過越祭の初日、祭司たちは契約の箱を担いで町を巡り、武装した兵士の一部がそれを守った。祭司たちは七つのラッパを吹き鳴らしながら進み、軍隊に勇気を奮い立たせるよう励まし、元老院が後に続く中、町を巡った。祭司たちはラッパを吹き鳴らしただけで、それ以上のことは何もせず、陣営に戻った。彼らがこれを六日間続けた後、七日目にヨシュアは武装した兵士と民衆全員を集め、この町は今や陥落するであろうという吉報を伝えた。神がその日に、城壁を崩して町を彼らに与えてくださるからである。しかも、それは彼らの労働なしに、彼ら自身の意志で起こるのである。しかし、彼は彼らに、捕らえた者はすべて殺し、疲れや憐れみから敵の殺戮を控えてはならない、また、戦利品に気を取られて逃げる敵の追撃を怠ってはならない、すべての動物を滅ぼし、自分たちの利益のために何も取ってはならないと命じた。彼はまた、最初に占領した町から得た銀と金をすべて集めて、この輝かしい功績から神への初穂として捧げるように命じた。ただし、斥候たちがラハブに誓った誓いのゆえに、ラハブとその親族だけは生かしておかなければならないとした。 6. こう言って、彼は軍隊を整え、町に攻め寄せた。契約の箱を先頭に、祭司たちが民を励まして熱心に作業するように促しながら、彼らは再び町を一周した。七周して少し立ち止まった時、ヘブライ人たちが何の武器も、他の力も用いていないのに、城壁が崩れ落ちた。 7. こうして彼らはエリコに入り、城壁が突然崩れ落ちたことに恐れおののき、勇気を失い、抵抗する術もなかった男たちを皆殺しにした。道端で、あるいは家の中で捕らえられて、皆殺しにされ、喉を切り裂かれた。助けを求める術はなく、女子供も含め、皆滅びた。町は死体で埋め尽くされ、一人も生き残った者はいなかった。彼らは町全体と周辺地域を焼き払った。しかし、彼らは宿屋に逃げ込んでいたラハブとその家族を救い出した。ラハブがヨシュアのもとに連れてこられると、ヨシュアは彼女に、斥候たちを救ってくれたことへの感謝を述べ、彼女への恩恵を惜しまないことを約束した。そして、すぐに彼女に土地を与え、その後もずっと彼女を高く評価した。 8. また、町の一部が火を免れた場合、ヨシュアはそれを基礎から破壊し、もし誰かが町を再建しようとするならば、その住民に呪いをかけると告げた。(3)城壁の基礎を築いた途端に長男を失い、完成させた途端に末息子を失うだろうと。しかし、この後の出来事については、後ほど述べることにしよう。 9. さて、町が陥落した時、銀と金、そして青銅の膨大な量が積み上げられていました。誰も法令に違反したり、自分の利益のために盗んだりしなかったからです。ヨシュアはこれらの戦利品を祭司たちに渡し、彼らの宝物庫に保管させました。こうしてエリコは滅びました。 10. しかし、ユダ族のゼベディアの子、カルミの子であるアカルという男がいました。彼は、金で織られた王の衣と、重さ200シェケルの金貨を見つけました。 (5)ヨシュアは、危険を冒して手に入れた戦利品を、それを必要としない神に捧げなければならないのに、それを必要とする自分がそれなしで過ごさなければならないのは、実に辛いことだと考え、自分の天幕に深い溝を掘り、そこに戦利品を隠した。こうして、仲間の兵士たちだけでなく、神からも身を隠そうとしたのである。 11.ヨシュアが陣を張った場所はギルガルと呼ばれた。ギルガルとは「自由」を意味する。(6)ヨルダン川を渡ったことで、彼らはエジプト人との戦争や荒野での苦難から解放されたと感じていたからである。 12. さて、エリコに災難が降りかかってから数日後、ヨシュアはエリコの北にあるアイという町を攻略するために三千人の兵士を派遣した。しかし、アイの住民の姿を見た途端、彼らは撃退され、36人の兵士を失った。このことがイスラエル人に伝えられると、彼らは非常に悲しみ、ひどく落胆した。それは、殺された者たちが彼らと血縁関係にあったからというよりも、むしろその出来事がもたらした絶望感によるものだった。彼らは、神が前もって約束されたように、すでに事実上その地を支配しており、軍を無傷で戦場から帰還させることができると信じていたのに、思いがけず敵が大胆に勝利を収めたのを目にしたからである。そこで彼らは粗布を衣服の上にまとい、一日中涙と嘆きに暮れ、食べ物を求めることさえせず、起こった出来事を深く心に刻み込んだ。 13. ヨシュアは軍隊がひどく苦しみ、遠征全体に対する不吉な予感に苛まれているのを見て、神に自由に祈って言った。「私たちは、自分たちの武器でこの地を征服できると考えたような無謀さからここまで来たのではありません。あなたのしもべモーセの勧めによって来たのです。あなたは多くのしるしをもって、この地を私たちに与え、私たちの軍隊を常に敵に対して戦勝させると約束してくださいました。そして、あなたの約束どおり、すでにいくらかの成功を収めています。しかし、今や思いがけず敗北し、兵士を何人か失ってしまったので、私たちは悲しんでいます。あなたが私たちに約束してくださったこと、モーセが私たちに予言したことを、私たちは頼りにできないのではないかと恐れているからです。そして、この最初の遠征でこのような災難に見舞われたので、私たちの将来への期待はますます不安になっています。」試みは試みられた。しかし主よ、どうか私たちをこれらの疑念から解放してください。あなたは私たちに勝利を与えることによって、これらの心の乱れを癒すことができるからです。勝利は、私たちが今抱えている悲しみを取り除き、これから起こることへの不信感をも防いでくれるでしょう。」 14. ヨシュアは顔を地に伏せて、これらのことを神に祈願した。すると神は彼に答えて言われた。「立ち上がって、軍勢に生じた汚れを清めなさい。『わたしに聖別されたものが厚かましくも盗まれた』こと、そして『これが彼らに敗北が起こった理由である』こと、そして彼らが犯人を探し出して罰するとき、必ず彼らが敵に勝利するように配慮する。」ヨシュアはこれを民に告げ、大祭司エレアザルと権威ある者たちを呼び集め、部族ごとにくじを引いた。くじの結果、この悪行がユダ族の一人によって行われたことが分かると、ヨシュアは再びその部族に属する各家族にくじを引かせた。こうして、この悪行の真実はザカル族に属することが分かった。そして、一人ずつ尋問を行った結果、アカルが捕らえられた。彼は神によって極限まで追い詰められ、事実を否定することができなかった。そこで彼は盗みを自白し、盗んだ物を彼らの前に突き出した。すると彼は即座に処刑され、夜のうちに屈辱的な方法で埋葬された。それはまさに死刑囚にふさわしいものであった。 15. ヨシュアはこうして軍勢を清めた後、アイに向けて進軍した。夜のうちに町の周囲に伏兵を配置し、夜が明けるとすぐに敵を攻撃した。しかし、敵は以前の勝利に酔いしれて大胆にイスラエル軍に攻め寄せてきたため、ヨシュアは退却したと見せかけ、彼らを町から遠く引き離した。敵は依然として追撃していると思い込み、以前の戦いと同じ状況であるかのように軽蔑した。その後、ヨシュアは軍勢に方向転換を命じ、敵の正面に陣取った。彼は待ち伏せしていた者たちに事前に決めておいた合図を送り、彼らを戦わせた。すると彼らは突然町に駆け込んだ。住民たちは城壁の上にいたが、中には戸惑って門の外にいる者たちを見に来た者もいた。こうして彼らは町を占領し、出会った者を皆殺しにした。しかしヨシュアは彼に立ち向かってきた者たちを接近戦に持ち込み、彼らを打ち負かし、逃走させた。彼らは町に追い詰められ、町は手つかずだと思っていたが、町が占領され、妻や子供たちと共に焼かれていることに気づくと、散り散りになって野原をさまよい、自分たちを養う者がいなかったので、どうすることもできなかった。さて、この災難がアイの人々に降りかかったとき、そこには大勢の子供、女性、召使い、そして膨大な量のその他の家具があった。ヘブライ人たちはまた、牛の群れと多額の金銭も持ち去った。ここは豊かな土地だったからである。ヨシュアがギルガルに着くと、彼はこれらの戦利品をすべて兵士たちの間で分け与えた。 16. しかし、エルサレムのすぐ近くに住んでいたギベオン人は、エリコの住民やアイの住民に起こった悲惨な出来事を見て、自分たちにも同じようなひどい災難が降りかかるのではないかと疑い、ヨシュアに慈悲を乞うのは適切ではないと考えました。なぜなら、彼らは、カナン人を完全に滅ぼすために戦争を起こしたヨシュアから慈悲を得られるはずがないと思ったからです。しかし、彼らは隣人であるケフィラとキリアテ・エアリムの人々を仲間に加えるよう誘い、イスラエル人が彼らを阻止して捕らえれば、自分たちも危険から逃れることはできないと告げました。こうして彼らを説得すると、彼らはイスラエル人の軍勢から逃れることを決意しました。そこで、彼らは提案に同意し、ヨシュアと友好の盟約を結ぶために使者をヨシュアのもとへ送った。使者は市民の中で最も評判が良く、民衆にとって最も有益なことを成し遂げられる能力のある者たちであった。これらの使者は、自分たちがカナン人であることを告白するのは危険だと考えたが、次のような策略で危険を回避できると考えた。すなわち、自分たちはカナン人とは全く関係がなく、彼らから非常に遠く離れたところに住んでいると言うことである。さらに彼らは、ヨシュアの徳の高さで得た評判のために、はるばるやって来たと言った。そして、自分たちの言葉が真実である証拠として、着ている服を見せた。彼らの服は出発時は新品であったが、長い旅路でひどく擦り切れていた。実際、彼らはヨシュアにそう信じ込ませるために、わざと破れた服を持ってきたのである。そこで彼らは民衆の真ん中に立ち、ギベオンの人々と、彼らが今いる土地から非常に遠く離れた周辺の町々の人々から遣わされて、彼らと友好の同盟を結ぶために来たのだと告げた。その条件は彼らの先祖の間で慣習となっていたものであった。彼らは、神の恵みと賜物によってカナンの地を所有することになるのだと理解したとき、それを聞いて非常に喜び、自分たちの市民の一員として迎え入れてもらいたいと願ったのである。このように使者たちは語り、長い旅の痕跡を見せながら、ヘブライ人に友好の同盟を結ぶよう懇願した。そこでヨシュアは、彼らがカナンの民ではないという彼らの言葉を信じ、彼らと友好関係を結んだ。そして大祭司エレアザルは元老院と共に、彼らを友人や仲間とみなし、彼らに対して不当なことは何も企てないと誓った。群衆もまた、彼らになされた誓いに同意した。こうして、これらの人々はイスラエル人を欺いて望みを叶え、家に帰った。しかしヨシュアが軍隊を率いてカナンのこの地方の山麓の地に着いたとき、ギベオン人がエルサレムからそう遠くないところに住んでおり、彼らがカナン人の一族であることを知った。そこで彼は彼らの総督を呼び出し、彼らが自分にした欺きを非難した。しかし彼らは自分たちのために、他に自分たちを救う方法がなかったので、そうせざるを得なかったと主張した。そこで彼は大祭司エレアザルと元老院を呼び、彼らは彼らが自分たちに誓ったことを破らないように、彼らを公務員にするのが正しいと考えた。そして彼らはそうするように定めた。そしてこれが、彼らが迫りくる災厄の中で安全と安心を見いだす方法だった。 17. しかしエルサレムの王はギベオン人がヨシュアの側に寝返ったことを重く受け止め、近隣諸国の王たちに団結してギベオン人と戦うよう呼びかけた。ギベオン人はエルサレムの王の他に4人の王がいて、彼らが自分たちの町からそう遠くない泉のほとりに陣を張り、町を包囲する準備をしているのを見て、ヨシュアに助けを求めた。彼らはカナンの民に滅ぼされることを覚悟していたが、カナンの民を滅ぼすために来た者たちが、カナンの民との友好関係ゆえに自分たちを救ってくれるだろうと考えていたからである。そこでヨシュアは全軍を率いて急いで彼らを助けに行き、昼夜を問わず行軍し、朝になると包囲に向かう敵を襲った。そしてヨシュアは彼らを打ち負かした後、彼らを追いかけ、丘の斜面を下って追い詰めた。その場所はベトホロンと呼ばれ、そこでヨシュアは神が自分を助けてくださったことを悟り、雷鳴と稲妻、そして普段より大きな雹が降ることでそれを宣言した。さらに、夜が早く訪れてヘブライ人が敵を追撃する熱意を妨げないように、日が長くなった(7)。そのためヨシュアはマケダの洞窟に隠れていた王たちを捕らえ、殺した。この地で日が長くなり、普段より長かったことは、神殿に保管されている書物に記されている(8)。 18. ギベオン人と戦い、戦う準備をしていたこれらの王たちは、このように打ち倒されたので、ヨシュアは再びカナンの山岳地帯に戻り、そこで大勢の人々を殺し、彼らの戦利品を奪ってから、ギルガルの陣営に着いた。こうして、ヘブライ人の勇気についての評判が近隣の人々の間に広まり、どれほどの人が殺されたかを聞いた人々は、大いに恐れおののいた。そこで、レバノス山の周辺に住んでいたカナン人の王たちと、平野に住んでいたカナン人たちは、ペリシテ人の地から援軍を得て、上ガリラヤのベロトという町に陣営を張った。ベロトはカデシュからそう遠くないところにあり、カデシュ自体もガリラヤにある。全軍の数は、武装した歩兵30万人、騎兵1万人、戦車2万台であった。敵の大群はヨシュア自身とイスラエル人を恐れさせ、彼らは成功を期待するどころか、大きな恐怖に襲われ、迷信的に臆病になった。そこで神は彼らの恐れを叱責し、神が与えることのできる以上の助けを望むのかと尋ね、敵に打ち勝つことを約束し、さらに敵の馬を役に立たなくし、戦車を焼き払うように命じた。こうしてヨシュアは神のこれらの約束によって勇気に満ち、突然敵に向かって出陣した。そして五日間行軍した後、敵に遭遇し、戦いを挑んだ。激しい戦いとなり、聞いた者には信じがたいほどの死者が出た。彼はまた大行軍を続け、ごく少数の例外を除いて敵の全軍を滅ぼし、すべての王が戦いで倒れた。そのため、殺すべき人間がいたときには、ヨシュアは彼らの馬を殺し、戦車を焼き払い、抵抗を受けることなく彼らの国中を通り過ぎ、誰も彼に戦いを挑む勇気を持たなかった。しかし彼はなおも進み続け、彼らの都市を包囲して占領し、捕らえた者を再び殺した。 19. 5年目が過ぎ、カナンの民はもはや一人も残っていなかった。ただ、強固な地に退いた者たちを除いては。そこでヨシュアは陣営を山地に移し、シロの町に幕屋を置いた。そこは立地が美しく、幕屋を置くのにふさわしい場所と思われたからである。彼らの事情が許す限り、神殿を建てることにした。それからヨシュアは民全員と共にシェケムに行き、モーセが前もって指示した場所に祭壇を築いた。それからヨシュアは軍を二手に分け、半分をゲリジム山に、残りの半分をエバル山に配置した。エバル山には祭壇があった。ヨシュアはまたレビ族と祭司たちもそこに配置した。彼らは犠牲を捧げ、祝福と呪いを宣告し、それらを祭壇に刻み残した後、シロに戻った。 20. さて、ヨシュアは年老いて、カナンの町々が容易には陥落しないことに気づいた。それは、町々が堅固な場所に位置しているからだけでなく、周囲に築かれた城壁自体の強さと、町々が建っている土地の自然の強さが相まって、敵の包囲を撃退し、敵に町々を陥落させることを諦めさせる力を持っていたからである。カナンの人々は、イスラエル人が自分たちを滅ぼすためにエジプトから出てきたことを知ると、その間ずっと町々を堅固にするために尽力していた。そこでヨシュアは民をシロに集めて集会を開いた。民が熱心に急いでそこに着くと、ヨシュアは彼らに、これまでどれほどの成功を収めてきたか、どれほど輝かしいことを成し遂げてきたか、そして、それらのことを成し遂げさせてくれた神にふさわしく、また、彼らが従ってきた律法の徳にふさわしい人々を語った。彼はまた、彼らに戦いを挑んだ31人の王が敗北し、いかに大軍であろうとも、自らの力に信頼を置いて彼らと戦った軍隊は完全に滅ぼされ、子孫は一人も残らなかったことにも気づいた。そして都市については、いくつかは陥落したが、残りは城壁の堅固さと住民の信頼ゆえに、長期間の包囲戦を経てようやく陥落させなければならなかったため、ヨルダン川の向こう側から彼らと共にやって来て、彼らが経験した危険を分かち合った部族は、彼らと同じ親族である以上、今や解散させて故郷に送り返し、共に苦労したことに対して感謝すべきだと彼は考えた。また、彼は各部族から一人ずつ、並外れた徳の証を持つ者を派遣し、その者が土地を正確に測量し、いかなる誤りや欺瞞もなく、その実際の大きさを彼らに知らせるのが妥当だと考えた。 21. ヨシュアはこうして彼らに話した後、群衆が彼の提案に賛成していることを知った。そこで彼は、彼らの土地を測量するために人を遣わし、その技術に長けた幾人組も同行させた。幾人組は、その技術の巧みさゆえに、真実を見誤ることはまずないだろう。彼はまた、最も肥沃な土地とそうでない土地の面積を測るように命じた。カナンの地の性質は、広大な平野や、非常に実り豊かな土地が見られるが、それらは国の他の地域と比べれば非常に肥沃であると言える。しかし、エリコ周辺の畑やエルサレムの畑と比べると、全く取るに足りないように見える。そして、この民はこのような土地をほんのわずかしか持っておらず、しかも大部分は山地であるにもかかわらず、その土地の肥沃さと美しさゆえに、他の地域に劣ることはない。そのため、ヨシュアは、土地をその広さではなく、その良さに基づいて部族に分配すべきだと考えた。というのも、ある種の土地の1エーカーが、他の土地の1000エーカーに相当することがしばしばあったからである。さて、派遣された10人の人々は、各地を巡り、土地を査定し、7か月目に、幕屋を建てていたシロの町にヨシュアのもとにやって来た。 22. そこでヨシュアはエレアザルと元老院、そして各部族の長たちを連れて行き、土地を九部族とマナセの半部族に分配し、各部族の規模に応じて土地の寸法を定めた。こうしてヨシュアがくじを引くと、ユダ族はくじによって、エルサレムまで達するユダの北部と、ソドムの湖まで広がる土地をヨシュアに割り当てた。この部族のくじには、アシュケロンとガザの町があった。第二のくじであるシメオン族のくじには、エジプトとアラビアに接するイドゥメアの一部が含まれていた。ベニヤミン族のくじは、長さはヨルダン川から海まで、幅はエルサレムとベテルで区切られた土地であった。このくじは、土地が肥沃であったため、エリコとエルサレムの町を含んでおり、最も狭い土地であった。エフライム族は、ヨルダン川からゲゼルまでの長さの土地をくじで得た。幅はベテルから大平原までであった。マナセ族の半部族は、ヨルダン川からドラの町までの土地を得た。幅はベトシャム(現在のスキトポリス)までであった。そして、その次にイッサカル族がいた。長さの境界はカルメル山と川であったが、幅の境界はタボル山であった。ゼブルン族のくじには、ゲネサレ湖までの土地と、カルメル山と海に属する土地が含​​まれていた。アセル族は、谷と呼ばれる部分と、シドンに面したすべての部分を持っていました。アルケの町は彼らの分け前であり、アクティポスとも呼ばれています。ナフタリ族は、ダマスカス市と上ガリラヤ地方の東部、レバノス山、そしてその山から湧き出るヨルダン川の源流までを領有した。すなわち、隣接するアルケ市に属する地域である。ダン族の領地は、日没の方向にある谷の全域を含み、アゾトス山とドラ山に囲まれていた。また、エクロンからユダ族の居住地が始まる山まで、ヤムニアとガトの全域も領有していた。 23. こうしてヨシュアは、カナンの子孫の名を冠する六つの民族とその土地を、九部族半に分配した。モーセが既に先手を打って、アモリ人の土地を二部族半に分配していたからである。アモリ人の土地もまた、カナンの子孫の一人にちなんで名付けられていた。しかし、シドン周辺の地域、そしてアルキ人、アマテ人、アラディア人の土地は、まだ正式に分配されていなかった。 24. しかし、ヨシュアは高齢のため、計画していたことを実行に移すことができなかった(彼に続く統治者たちも同様に、民の利益となることにはほとんど注意を払わなかった)。そこで彼は、くじによって分配された土地に、カナンの子孫を一人も残さないようにと、各部族に命じた。モーセは前もって彼らに保証していたので、彼らは完全に安心できるだろう、自分たちの安全と自分たちの律法の遵守は完全にそれに依存しているのだ、と。さらに、彼はレビ人に38の町を与えるように命じた。彼らはすでにアモリ人の地で10の町を受け取っていたからである。そして、そのうち3つを、人殺しから逃れてそこに住むことになる者たちに割り当てた。彼は、モーセが定めたことが何一つおろそかにされないように非常に気を配っていたからである。これらの町は、ユダ族のヘブロン、エフライム族のシェケム、ナフタリ族のカデシュであり、これは上ガリラヤの地である。彼はまた、まだ分配されていない残りの戦利品を彼らに分配した。それは非常に多く、それによって彼らは全体としても、また個々人としても、莫大な富を得た。そしてこれらは金や衣服、その他の家具類に加え、数えきれないほどの家畜であった。 25. このことが終わると、彼は軍隊を集会に集め、ヨルダン川の向こう側のアモリ人の地に住んでいた部族たちにこう語った。彼らのうち五万人は武装して、彼らと共に戦いに出ていた。「ヘブライ民族の父であり主である神が、この地を我々の所有地として与え、我々がそれを永遠に我々のものとして享受できるように守ってくださると約束してくださった。また、あなたがたは、神の命令に従い、我々が助けを必要とするたびに、いつでも快く助けを申し出てくれた。今や我々の困難はすべて終わったのだから、あなたがたが休息を享受することを許し、我々があなたがたの快く助けてくださることにこれ以上迷惑をかけないようにするのは当然のことである。そうすれば、もし我々が再び助けを必要とする事態になったとしても、将来の緊急事態にすぐに助けを得ることができ、今あなたがたを疲れさせて、次の助けが遅くなることもないだろう。それゆえ、我々はあなたがたが我々を助けてくれたことに感謝する。」私たちはあなたと共に苦難を経験し、あなたに対してだけでなく、常にこのような心構えでいます。どうか私たちの友人を覚えていてください。そして、私たちがあなたから受けた恩恵を心に留めておいてください。あなた方は私たちのために自分の幸福の享受を後回しにし、神の恵みによって私たちが今得ているもののために働き、私たちに援助を与えるまでは自分の繁栄を享受しないと決意しました。しかし、あなた方は私たちの労働に加わることで莫大な富を得て、金銀をはじめとする多くの戦利品を持ち帰るでしょう。そして何よりも、あなた方に対する私たちの善意と、あなた方が望むならばいつでも喜んで恩返しをしようという私たちの心構えがあります。なぜなら、あなた方はモーセが前もって要求したことを何一つ怠らず、モーセが死んで去ったからといって彼を軽んじることもなかったからです。ですから、あなた方への感謝の念は何も減ることはありません。ですから、私たちはあなた方を喜びのうちに送り出します。相続財産について、そして、私たちの間の親密な関係には限界がないと考えていただきたいのです。また、この川が私たちの間に流れているからといって、あなたがたが私たちとは異なる民族であり、ヘブライ人ではないなどと想像しないでください。ここに住む私たちも、あそこに住むあなた方も、皆アブラハムの子孫なのです。私たちの先祖とあなた方の先祖をこの世に生み出したのも同じ神であり、私たちが守るべき礼拝と統治の形式は、神が定めたものであり、最も注意深く守るべきものです。なぜなら、あなたがたがこれらの律法を守り続ける限り、神はあなたがたに慈悲深く助けてくださるからです。しかし、あなたがたが他の民族を真似てこれらの律法を捨てるならば、神はあなたがたの民族を拒絶されるでしょう。」ヨシュアはこのように語り、権力者たち一人一人と群衆全体に挨拶した後、その場にとどまりました。しかし、人々は涙を流しながらも、それらの部族を旅へと送り出した。そして実際、彼らは部族同士をどうやって別れさせればいいのか、ほとんど分からなかった。 26. さて、ルベン族とガド族、そして彼らに続いたマナセ族の人々が川を渡ったとき、彼らはヨルダン川の岸辺に祭壇を築き、後世への記念碑として、また向こう岸に住む人々との関係のしるしとした。しかし、向こう岸の人々は、追放された者たちが祭壇を築いたと聞いたが、彼らがそれをどのような意図で築いたのかは聞かず、異端の神々を導入するための革新だと考え、それを疑う気はなかった。むしろ、この中傷的な報告が、あたかも神を崇拝するために築かれたかのように信じ、祭壇を築いた者たちに復讐するかのように武装して現れた。そして彼らは川を渡って、彼らの国の法律を覆した彼らを罰しようとした。彼らは、彼らの血縁関係や、この機会を与えた人々の地位を理由に彼らを敬うのは適切ではないと考え、神の意志と、神が礼拝されることを望んでおられる方法に目を向けた。そこで、これらの人々は戦いの準備を整えた。しかし、ヨシュアと大祭司エレアザルと元老院は彼らを制止し、まず言葉で彼らの意図を確かめ、その後、彼らの意図が悪意に満ちていると分かった場合にのみ、彼らと戦うように説得した。そこで彼らは、エレアザルの子ピネアスと、ヘブライ人の間で尊敬されていた他の10人を使者として彼らのもとに送り、川を渡った際にその岸辺に祭壇を築いた彼らの心中を探らせた。そして、使者たちが通り過ぎて彼らのところへ着き、会衆が集まるとすぐに、ピネアスは立ち上がって言った。「彼らが犯した罪は、言葉だけで罰したり、将来だけ改心させたりできるほど軽率なものではありません。しかし、彼らはその罪の凶悪さを、直ちに武器を取り、戦いを挑んで罰しようとはせず、親族関係と、彼らが改心する可能性を考慮して、使者を送るという方法をとった。「あなたがたがこの祭壇を建てるに至った真の理由がわかったとき、あなたがたが正当な理由で祭壇を建てたことが証明されれば、我々が戦争の武器で攻撃したことが軽率であったとは見なされず、告発が真実であれば正当に罰することができるでしょう。なぜなら、あなたがたが神の意志を知り、神自身が我々に与えた律法を聞いていたとは到底考えられないからです。今、あなたがたは我々から離れ、神の恵みと、神があなたがたに及ぼす摂理によってくじで得た、あなたがたの先祖伝来の地へ行ったのですから、神を忘れ、あの箱舟と祭壇を捨て去ることができるとは到底考えられません。あなた方は我々に特有のものであり、異国の神々を導入し、カナン人の邪悪な慣習を模倣することができる。もし今悔い改め、狂気をこれ以上進めず、祖国の法律を敬い、心に留めるならば、これは小さな罪であったように思えるだろう。しかし、もしあなた方が罪を犯し続けるならば、我々は法律を守るために労力を惜しまないだろう。我々はヨルダン川を渡って法律を守り、神をも守り、あなた方をカナン人と何ら変わらない人間とみなし、彼らを滅ぼしたのと同じようにあなた方を滅ぼすだろう。川を渡ったからといって、神の力の及ばないところにいると考えてはならない。あなた方は至る所に神の領域におり、神の力と、それによって神が人々に下す罰を覆すことは不可能である。しかし、もしあなた方がここに定住することが、善への改心の妨げになると考えるならば、我々が土地を新たに分割し、この古い土地を去ることを妨げるものは何もない。羊の餌やりのためであっても、あなた方は職務に戻り、これらの新たな犯罪をやめるべきです。そして、あなた方の子供と妻にかけて、私たちにあなた方を罰せざるを得ない状況に追い込まないよう懇願します。ですから、この集会において、あなた方自身の安全、そしてあなた方にとって最も大切な人々の安全がかかっていると考えて行動し、言葉によって屈服する方が、自らの目的を貫き、その結果として行為や戦争を経験するよりもましだと信じてください。 27. ピネアスがこのように話した後、集会の指導者たちと群衆全体は、自分たちが告発されたことについて弁明し始め、こう言った。「私たちは彼らとの関係を断つつもりはありませんし、革新によって祭壇を建てたわけでもありません。私たちはすべてのヘブライ人と同じ共通の神を信じており、幕屋の前にある青銅の祭壇で犠牲を捧げるつもりです。」彼らが疑われている原因となった祭壇についてですが、それは礼拝のために建てたのではなく、「あなた方との永遠の関係のしるしと記念碑として、また、賢明に行動し、この国の法律を守り続けるための必要な戒めとして建てたのであって、あなた方が疑っているように、法律を破るための道具として建てたのではありません。そして、これが私たちがこの祭壇を建てた理由であることを、神が私たちの確かな証人となってくださいますように。ですから、どうか私たちのことをもっと良い目で見ていただき、もしアブラハムの子孫が新しい儀式、しかも私たちの通常の慣習とは異なる儀式を持ち込もうとしたとしても、彼らが滅びに値するようなことを私たちに帰さないでください。」 28. 彼らがこのように答えると、ピネアスはそれを褒め称え、ヨシュアのもとへ行き、民の前で彼らが受けた答えを説明した。ヨシュアは、彼らを整列させたり、血を流させたり、同胞と戦わせたりする必要がないことを喜んだ。そして、それに対して神に感謝のいけにえを捧げた。その後、ヨシュアはこの大集会を解散させ、彼らをそれぞれの相続地に帰らせ、自分はシェケムに住んだ。しかし、その20年後、ヨシュアが高齢になったとき、彼は各都市の最も高位の者たち、権力者たち、元老院、そして出席できる限りの一般民を呼び集めた。彼らが来ると、ヨシュアは、神が彼らに与えたすべての恵みを思い起こさせた。彼らは低い身分からこれほど大きな栄光と豊かさにまで昇り詰めたのだから、その恵みは数えきれないほど多いに違いない。そしてヨシュアは、彼らに神の恵み深い御心に目を留めるよう勧め、神は彼らの敬虔さ以外には彼らの友であり続けることはできないと告げました。そして、自分がこの世を去ろうとしている今、このような訓戒を彼らに残すのは当然のことだと述べ、この訓戒を心に留めておくよう彼らに願いました。 29. こうしてヨシュアは彼らに語り終えると、百十歳で亡くなりました。そのうち四十年はモーセと共に過ごし、後々の自分のためになることを学びました。モーセの死後、彼は二十五年間、彼らの指揮官となりました。彼は知恵と雄弁さを兼ね備え、人々に自分の意図を伝えるのに全く不向きではなく、むしろその両方において非常に優れた人物でした。彼は行動においても危険においても大きな勇気と寛大さを持ち、民の平和を保つことに非常に賢明で、あらゆる場面で優れた徳を備えていました。彼はエフライム族のティムナブの町に埋葬された。(9) ほぼ同時期に大祭司エレアザルが亡くなり、大祭司職は息子のピネアスに引き継がれた。彼の記念碑と墓もガバタの町にある。 ===第2章=== ヨシュアの死後、イスラエル人はいかにして祖国の律法を破り、甚大な苦難を経験したか。そして、反乱が起こった時、ベニヤミン族はわずか600人を除いて滅ぼされた。 1. ヨシュアとエレアザルの死後、ピネアスは預言した。(10)神の御心によってユダ族に統治権が委ねられ、この部族がカナン人を滅ぼすであろうと。当時、民は神の御心を知ることに心を砕いていたからである。彼らはまたシメオン族にも協力を求めたが、その条件は、ユダ族に貢納していた者たちが殺されたら、シメオン族にも同じようにするというものであった。 2. しかし、この時カナン人の勢力は繁栄しており、ベゼクの町でイスラエル軍が大軍を率いて攻めてくるのを待ち構えていた。彼らは統治権をアドニベゼク(ベゼクの主を意味する。ヘブライ語でアドニは主を意味する)に委ねていた。ヨシュアが死んだので、イスラエル軍は手がつけられないだろうと彼らは考えていたのである。しかし、イスラエル人が彼らと戦いを挑んだとき、すなわち先に述べた二つの部族との戦いでは、彼らは見事に戦い、一万人以上を殺し、残りを敗走させた。追撃の際、彼らはアドニベゼクを捕らえた。アドニベゼクは指とつま先を切り落とされたとき、「いや、私はいつまでも神から隠れていなければならないとは思っていなかった。今私が受けている苦しみを見れば分かる。七十二人の王に同じことをしても恥じることはなかったのに」と言った。(11)こうして彼らはアドニベゼクをエルサレムまで生きたまま運び、彼が死ぬと土に埋め、さらに都市の攻略を続けた。そして都市の大部分を攻略すると、エルサレムを包囲した。下町はそれほど長い時間をかけずに占領できたが、彼らはそこに住む者を皆殺しにした。しかし上町は、堅固な城壁と地形のため、容易には攻略できなかった。 3. そのため、彼らは陣営をヘブロンに移し、そこを占領すると、住民を皆殺しにした。当時、巨人族が残っていた。彼らは体が非常に大きく、顔立ちも他の人間とは全く異なっていたため、見る者を驚かせ、聞く者を畏怖させた。これらの人々の骨は、他の人間の信頼できる記録とは全く異なり、今日に至るまで展示されている。さて、彼らはこの町をレビ人に特別な褒美として与え、その周辺に二千の町を置いた。しかし、その土地はモーセの命令に従ってカレブに無償で与えた。このカレブは、モーセがカナンの地に送った斥候の一人であった。彼らはまた、モーセの義父であるミディアン人イテロの子孫に居住地を与えた。彼らは故郷を離れ、彼らに従い、荒野で彼らに同行したからである。 4. ユダ族とシメオン族は、カナンの山地にある町々、そして海に近い町々のうちアシュケロンとアシュドドを占領した。しかし、ガザとエクロンは平地にあり、多くの戦車を持っていたため、攻撃してきた者たちを大いに苦しめ、難を逃れた。こうして、これらの部族は戦争によって大いに富を得ると、自分たちの町々に退き、武器を捨てた。 5. しかし、エルサレムを所有していたベニヤミン族は、エルサレムの住民に貢納を納めることを許した。こうして、殺し合いをやめ、危険に身を晒すことをやめ、耕作に専念するようになった。他の部族もベニヤミン族に倣い、同じように貢納を受け入れ、カナンの民が平和に暮らせるようにした。 6. しかし、エフライム族はベテルを包囲したが、進軍もせず、費やした時間と労力に見合う成果も上げなかった。それでも彼らは、多大な苦労を強いられながらも、町の前に座り込み、包囲を続けた。しばらくして、生活必需品を取りに来た住民の一人を捕らえ、町を明け渡せば彼とその親族の命は助けると約束した。彼はその条件で町を明け渡すことを承諾した。こうして、町を裏切った彼は家族とともに命を助けられ、イスラエル人は住民を皆殺しにして町を奪い取った。 7. その後、イスラエル人は敵と戦うことに関しては女々しくなり、土地の耕作に専念し、それによって莫大な富と豊かさを得たが、定住地の規則正しい配置を怠り、贅沢と快楽にふけった。また、もはや自分たちの政治政府に属する法律を聞くことに注意を払わなくなった。そこで神は怒りを覚え、まず、神の指示に反してカナン人を助けたこと、そして次に、カナン人が機会に彼らを非常に残酷に扱ったことを思い出させた。しかし、イスラエル人は神からのこれらの警告に心を痛めたが、それでもなお戦争に行くことを非常に嫌がった。そして彼らはカナン人から多額の貢物を受け取っていたため、贅沢にふけって苦労をすることを嫌い、貴族階級も堕落させてしまい、かつて法律で義務付けられていた元老院やその他の官吏を任命せず、富を得るために畑を耕すことに非常に熱心であった。彼らのこの大きな怠惰は、恐ろしい反乱を招き、次のような出来事をきっかけに、彼らは互いに争うまでに至った。 8. エフライム族に属し、そこに住んでいたレビ人(12)という下層階級の男がいた。この男はユダ族に属するベツレヘムから妻を娶った。彼は妻をとても愛し、その美しさに心を奪われた。しかし、妻からは同じような愛情を得られず、不幸だった。妻は彼に反感を抱いていたため、彼の妻への情熱はますます燃え上がり、二人は絶えず喧嘩ばかりしていた。ついに妻はこうした喧嘩にうんざりし、4か月目に夫のもとを離れ、実家へ帰った。夫は妻の出発をとても心配し、妻への愛情ゆえに、義父母のところへ行き、喧嘩を仲直りして妻と和解し、義父母に親切にされて4日間そこで暮らした。五日目に彼は家に帰ることを決意し、夕方に出発した。妻の両親は娘と別れることを嫌がり、日が暮れるまで出発を遅らせたからである。彼らには一人の召使いが付き添い、妻はロバに乗っていた。エルサレムに近づき、すでに三十スタディオン進んだところで、召使いはどこかで宿を取るように勧めた。夜に旅をすれば何か不幸に見舞われるかもしれないから、特に敵が近くにいるこの時期は、友人からさえ危険を疑う理由がしばしばあるからである。しかし夫はこの助言を気に入らず、見知らぬ人の間に宿を取ることも望まなかった。なぜならその町はカナン人のものであったからである。むしろ彼は二十スタディオン先まで進み、イスラエル人の町で宿を取りたいと望んだ。こうして彼は目的を達成し、ちょうど日が暮れた頃にベニヤミン族の町ギベアに到着した。市場に住む者で彼を泊めてくれる者はいなかったが、エフライム族の者でギベアに住む老人が野原から出てきて、彼に会って、何者か、なぜこんな遅い時間に来たのか、なぜ暗くなってから夕食の食料を探しているのかと尋ねた。すると彼は、自分はレビ人で、妻を実家から連れてきて家に帰るところだと答えた。そして、自分の住まいはエフライム族にあると告げた。老人は、血縁関係があること、同じ部族に住んでいること、そして偶然出会ったこともあり、彼を泊めてくれた。さて、ギベアの住民の若い男たちが、市場でその女を見て、その美しさに感嘆し、彼女が老人の家に滞在していることを知ると、老人の家族の弱さと少なさを軽蔑して戸口にやって来た。老人が彼らに立ち去り、そこで暴力や侮辱をしないように頼むと、彼らは老人にその見知らぬ女を引き渡せば危害を加えないと言った。老人がレビ人は自分の親族であり、もし彼らが快楽に負けて律法に違反すれば恐ろしい悪事を働くことになると主張したが、彼らは老人の正しい忠告を軽蔑し、彼を嘲笑した。 彼らはまた、彼が自分たちの欲望の邪魔になるなら殺すと脅した。そこで彼は大変困ったが、客を無視して虐待されるのを見過ごすわけにはいかないと思い、自分の娘を彼らに見せ、客を虐待するよりは娘で欲望を満たす方が法律違反は少ないと言い、こうすれば客に危害が及ぶのを防げるだろうと考えた。彼らは見知らぬ女への熱意を少しも減らさず、どうしても彼女を手に入れたいと主張したので、彼はそのような不正行為をしないよう懇願したが、彼らは力ずくで彼女を連れ去り、さらに欲望に駆られて彼女を自分たちの家に連れて行き、一晩中彼女で欲望を満たした後、夜明け頃に彼女を解放した。こうして彼女は、起こったことにひどく苦しみながら、もてなされていた場所に戻ってきた。そして、彼女は自分が受けた苦しみを非常に悲しみ、夫が自分のしたことを決して許してくれないだろうと確信していたため、恥ずかしさから夫の顔を見る勇気もありませんでした。それで彼女は倒れ、息を引き取りました。しかし、夫は妻がぐっすり眠っているだけだと思い、もっと悲惨なことが起こったとは考えず、彼女を起こそうとしました。彼女は自ら進んで男たちの欲望に身をさらしたのではなく、無理やり彼らの家に連れて行かれたのだから、慰めの言葉をかけようと決心したのです。しかし、彼女が死んだと分かるとすぐに、彼は自分の不幸の大きさが許す限り慎重に行動し、死んだ妻を獣の上に寝かせ、家に運びました。そして、彼女の体を12個に切り分け、それぞれの部族に送り、それを運ぶ者たちに、妻の死の原因となった部族と、彼らが彼女に与えた暴力について知らせるよう託しました。 9. これを受けて、人々は見たこと、聞いたことにひどく動揺し、これまでこのようなことを経験したことがなかった。そこで彼らは、途方もない正当な怒りからシロに集まり、幕屋の前に大勢で集まって、すぐに武器を取り、ギベアの住民を敵として扱うことを決意した。しかし、元老院は彼らを制止し、自分たちに向けられた告発について言葉で話し合う前に、同じ民族の人々に性急に戦争を仕掛けるべきではないと説得した。彼らの律法には、外国人が害を及ぼしたと思われる場合、まず使者を送って悔い改めるかどうかを試さずに、自ら軍隊を派遣してはならないと定められていた。そこで彼らは、自分たちの律法に従ってなすべきこと、すなわちギベアの住民に使者を送って、罪人を自分たちに引き渡すかどうか尋ね、もし引き渡すなら、その罪人の処罰に満足するように、しかしもし送った使者を軽んじるなら、武器を取って彼らを罰するようにと、彼らに勧めた。そこで彼らはギベアの住民に使者を送り、若者たちをレビ人の妻の件で犯した罪で告発し、律法に反することを行った者たちに、その行いに対して当然死刑に値する罰を与えるように要求した。しかしギベアの住民たちは若者たちを引き渡そうとはせず、戦争を恐れて他人の要求に従うのはあまりにも不名誉だと考えた。彼らは、数においても勇気においても、自分たちは誰にも劣らないと豪語していた。彼らの部族の残りの者たちもまた、戦争に向けて大々的な準備を進めていた。なぜなら、彼らはあまりにも傲慢で、力には力で対抗しようと決意していたからである。 10. ギベアの住民が決めたことがイスラエル人に伝えられると、彼らは誰も娘をベニヤミン族に嫁がせないと誓い、先祖がカナン人と戦った時よりも激しい怒りでベニヤミン族と戦うことを決意した。そして、すぐに40万人の軍隊を派遣した。一方、ベニヤミン族の軍隊は2万5600人で、そのうち500人は左手で石を投げるのが得意だった。そのため、ギベアで戦いが始まると、ベニヤミン族はイスラエル人を打ち負かし、2000人が倒れた。夜が来て戦いが中断されなければ、おそらくもっと多くの死者が出ていたであろう。こうしてベニヤミン族は喜び勇んで町に戻り、イスラエル人は起こったことにひどく怯えて陣営に戻った。翌日、再び戦ったとき、ベニヤミン族はイスラエル人を打ち負かした。イスラエル人のうち1万8千人が殺され、残りの者はさらなる虐殺を恐れて宿営地を放棄した。そこで彼らは宿営地の近くにあるベテル(13)という町に行き、翌日断食をして、大祭司ピネアスを通して神に、神の怒りが彼らに対して収まり、この2度の敗北で満足して、敵に対する勝利と力を与えてくださるよう祈った。そこで神はピネアスの預言によって、そのようにすると約束された。 11. そこで彼らは軍を二分し、一方の半数を夜のうちにギベアの町の周辺に伏兵として配置し、もう一方の半数はベニヤミン族を攻撃した。ベニヤミン族は攻撃を受けて退却したが、ベニヤミン族は彼らを追撃し、ヘブライ人は彼らを町から完全に引き出そうと、徐々に退却した。そして、退却する彼らを追撃した。町に残っていた老人も若者も、戦うには弱り切っていたので、敵を倒そうと、彼らと一緒に走り出てきた。しかし、彼らが町からかなり離れたところで、ヘブライ人はもはや逃げずに引き返し、待ち伏せしていた者たちに事前に決めていた合図を送った。すると彼らは立ち上がり、大きな音を立てて敵に襲いかかった。さて、彼らは自分たちが騙されたことに気づくと、どうしたらよいか分からなかった。そして、彼らが谷にある窪地に追い詰められたとき、彼らを取り囲む者たちから銃撃を受け、六百人を除いて全員が滅ぼされた。六百人は密集隊形を組み、敵の真ん中を強引に通り抜け、近隣の山々に逃げ込み、そこに留まった。しかし、残りの約2万五千人は殺された。それからイスラエル人はギベアを焼き払い、女と未成年の男を殺した。また、ベニヤミン族の他の町々でも同じことをした。そして、彼らは非常に激怒し、軍隊から1万2千人を派遣し、ヤベシュ・ギレアデがベニヤミン族との戦いに加わらなかったため、ヤベシュ・ギレアデを滅ぼすよう命じた。そこで派遣された者たちは、4百人の処女を除いて、兵士たちとその子供と妻を殺した。彼らがこれほどまでに怒りに駆られていたのは、レビ人の妻の苦しみに対する復讐だけでなく、自分たちの兵士たちの虐殺に対する復讐も必要だったからである。 12. しかし、彼らはその後、自分たちがベニヤミン族にもたらした災難を悔い、そのために断食を定めた。もっとも、彼らはベニヤミン族が律法に違反したのだから当然の報いを受けたと考えていた。そこで彼らは使者を通して、逃げ延びた600人を呼び戻した。彼らは荒野にあるリモンと呼ばれる岩の上に身を潜めていた。使者たちはベニヤミン族に降りかかった災難だけでなく、同族の滅亡によって自分たち自身も悲しんでいることを嘆き、彼らに辛抱強く耐えるように、そして自分たちと合流するように、そしてできる限りベニヤミン族の完全な滅亡に加担しないように説得した。そして彼らに言った。「ベニヤミンの地全体をあなた方に与え、持ち帰れるだけの戦利品を持って行ってよい。」そこで、これらの人々は悲しみながら、なされたことは神の定めによるものであり、自分たちの悪行のせいで起こったのだと告白し、彼らを招いた者たちに同意して、自分たちの部族に下って行った。イスラエル人はまた、ヤベシュ・ギレアデの処女400人を彼らに妻として与えたが、残りの200人については、どうすれば彼らに十分な妻を集め、彼女たちとの間に子供をもうけることができるかについて話し合った。彼らは戦争が始まる前に、誰も自分の娘をベニヤミン族に妻として与えないという誓いを立てていたが、誓いは熟慮して賢明に立てたものではなく、感情に任せて立てたものなので、誓ったことは気にしなくてよいと助言する者もいた。彼らは、滅びの危機に瀕している部族全体を救うことができるなら、神に逆らうことは何もないと考えた。そして、偽証は、必要に迫られて行う場合ではなく、悪意をもって行う場合に、悲しく危険な行為であると教えられました。しかし、元老院が偽証という言葉を聞くだけで恐れおののいたとき、ある人物が、ベニヤミン族の妻を十分に確保しつつ、誓いを守る方法を示すことができると彼らに告げました。彼らはその人物に、どのような提案をするのかと尋ねました。彼は、「年に3回、シロで集まる際に、妻と娘たちも同行します。その際、ベニヤミン族にはこっそり抜け出して、捕まえた女性と結婚することを許します。私たちは彼らを唆したり、禁じたりはしません。そして、彼らの両親がそれを不快に思い、罰を与えるよう求めてきたら、娘たちを守ることを怠ったのは彼ら自身の責任であり、ベニヤミン族に対してこれ以上怒るべきではない、なぜなら彼らの怒りはすでに高まりすぎているからだと告げます」と答えました。そこでイスラエル人はこの助言に従うよう説得され、ベニヤミン族がこのようにして妻を奪うことを許すよう布告した。祭りが近づくと、この200人のベニヤミン族は町の前に2人か3人ずつで待ち伏せし、ぶどう畑や身を隠せる他の場所で処女たちが来るのを待った。すると処女たちは遊びながらやって来て、自分たちに何が起こるか全く疑わず、警戒せずに歩いていた。道に散らばっていた者たちは立ち上がり、彼女たちを捕まえた。こうしてベニヤミン族は彼女たちを妻にし、農業に従事し、以前の幸福な生活を取り戻すために尽力した。こうして、ベニヤミン族は滅びの危機に瀕していたが、前述のようにイスラエル人の知恵によって救われ、たちまち繁栄し、すぐに大勢の民となり、あらゆる幸福を享受するようになった。そして、これがこの戦争の結末だった。 ===第3章=== この災難の後、イスラエル人はいかにして邪悪になり、アッシリア人に仕えるようになったか。そして、神はいかにして40年間統治したオトニエルを通して彼らを救い出したか。 1. さて、ダン族もベニヤミン族と同様に苦難を経験した。それは次のような出来事がきっかけであった。イスラエル人がすでに戦争のための武力行使をやめ、農耕に専念していた時、カナン人は彼らを軽蔑し、軍隊を編成した。それは、イスラエル人に苦しめられることを期待したからではなく、いつでも好きな時にヘブライ人を虐待できる確実な見込みを得て、それによって今後、自分たちの町々でより安全に暮らせるようにするためであった。そこで彼らは戦車を準備し、兵士を集め、都市も合流させ、ユダ族の領地にあったアスケロンとエクロン、そして平野に点在する多くの都市を味方につけた。彼らはまたダン族を山岳地帯に追いやり、平野の地には足を踏み入れる場所を一切残さなかった。ダン族は彼らと戦うことができず、生活を支えるだけの土地もなかったので、移住できる土地を探すために、5人の男を内陸の地に送った。こうして彼らは、シドンの大平野にあるリバヌス山と小ヨルダン川の源流付近まで行った。そこは町から一日の道のりであった。そして彼らはその土地を視察し、それが良質で非常に肥沃な土地であることを知って、自分たちの部族にそのことを知らせた。すると彼らは軍隊を率いて遠征を行い、そこにダンという町を建てた。その町名はヤコブの息子と同じ名前であり、彼ら自身の部族と同じ名前であった。 2. イスラエル人は怠惰になり、努力を惜しむようになったため、災難が彼らに重くのしかかりました。これは、彼らが神への崇拝を軽んじたことにも一部起因していました。彼らは一度政治の秩序を乱すと、自分たちの快楽と意志に従って生きることにますますふけり、ついにはカナン人の間で一般的だった悪行に染まってしまいました。そのため、神は彼らに怒り、彼らは無数の労働によって得た幸福な状態を贅沢によって失いました。アッシリアの王クシャンが彼らに戦いを挑んだとき、彼らは戦いで多くの兵士を失い、包囲されたときには力ずくで捕らえられました。いや、中には恐怖から自ら彼に服従し、課せられた貢ぎ物が耐え難いほどであったにもかかわらずそれを支払い、8年間あらゆる種類の抑圧に耐えた者もいました。その後、彼らは次のような方法で解放されました。 3. ユダ族のケナズの子オトニエルという名の者がいました。彼は行動力があり、非常に勇敢な人物でした。彼は神から、イスラエル人が今のような苦境に陥っているのを見過ごしてはならない、大胆に彼らの自由を勝ち取るよう命じられました。そこで彼は、この危険な企てに協力してくれる者を募りました(現状を恥じる者、あるいは現状を変えたいという願望から、彼を助けようと説得できた者はごくわずかでした)。まず彼は、クシャンが彼らのために配置した守備隊を壊滅させました。しかし、最初の試みが失敗に終わらなかったことが分かると、さらに多くの人々が彼を助けに来ました。こうして彼らはアッシリア軍と戦い、彼らを完全に追い払い、ユーフラテス川を渡らせました。こうして、その勇猛さを証明したオトニエルは、民衆から民を裁く権威を授けられ、40年間統治した後、死去した。 ===第4章=== イスラエルの民はいかにしてモアブ人に18年間仕え、その後、エフドという王によって奴隷状態から解放され、80年間支配を続けたか。 1. オトニエルが亡くなると、イスラエル人の政情は再び混乱に陥った。彼らは神にふさわしい敬意を払わず、律法にも従わなかったため、苦難は増すばかりであった。モアブの王エグロンは、イスラエル人の政治体制の混乱を非常に軽蔑し、彼らに戦いを挑んだ。幾度もの戦いで彼らを打ち破り、最も勇敢な者たちさえも服従させ、彼らの軍隊を完全に征服し、貢納を命じた。エグロンはエリコに王宮を建てると、(14)あらゆる手段を講じて彼らを苦しめ、18年間もの間、彼らを貧困に陥れた。しかし、神はイスラエル人の苦難を憐れみ、彼らの嘆願に心を動かされて同情の念を抱き、モアブ人の下で受けていた過酷な仕打ちから彼らを解放した。神は次のような方法で彼らにこの自由をもたらした。 2. ベニヤミン族の若者で、ゲラの息子エフドという名の者がいた。彼は大胆な企てに非常に勇気があり、体も非常に強く、重労働にも適していたが、左手を使うのが最も得意で、そこに全力を注いでいた。彼もまたエリコに住んでいた。さて、この男は贈り物によってエグロンと親しくなり、彼の好意を得て、彼の好意をもてなした。そのため、彼は王の周りの者たちからも愛されていた。さて、ある時、彼は王に贈り物を届け、二人の召使いを連れて行った。彼は密かに右の太ももに短剣を刺し、王のところへ入った。それは夏の真昼で、暑さと昼食のために衛兵たちが厳重に見張っていなかった。そこで若者は、暑さを避けるのに都合の良い小さな居間にいた王に贈り物を捧げると、王と話をし始めた。王は従者たちにそれぞれの道へ行くように命じ、エフドと話したいと思っていたので、今は二人きりだった。王は玉座に座っていた。エフドは、攻撃を外して致命傷を与えられないのではないかと恐れ、身を起こして、神の命令で王に伝えたい夢があると言った。すると王は夢に喜び、玉座から飛び降りた。そこでエフドは王の心臓を刺し、短剣を王の体に刺したまま出て行き、ドアを閉めた。王の従者たちは、王が眠りについたと思い、静まり返っていた。 3. そこでエフドはエリコの人々に自分のしたことを内密に伝え、自由を取り戻すよう勧めた。人々は喜んでそれを聞き、武器を取り、羊の角笛を吹く使者を国中に送った。羊の角笛で人々を集めるのが我々の習慣であったからである。さて、エグロンの従者たちはしばらくの間、彼に何が起こったのか知らなかったが、夕方近くになって、何か異常な事故が起こったのではないかと恐れて彼の居間に入ったところ、彼が死んでいるのを見つけ、ひどく混乱し、どうしたらよいかわからなかった。そして、警備兵を集める前に、イスラエル人の大群が彼らに襲いかかり、彼らのうち何人かはすぐに殺され、何人かは逃げ出して、身を守るためにモアブの国へ逃げた。彼らの数は1万人を超えていた。イスラエル人はヨルダン川の渡し場を占領し、彼らを追跡して殺した。渡し場で多くの者が殺され、一人も逃げられなかった。こうしてヘブライ人はモアブ人の支配から解放された。エフドもこの功績により全民の統治を任され、80年間統治した後、死去した。(15) 彼は前述の行為による功績に加え、称賛に値する人物であった。彼の後、アナトの子シャムガトが総督に選ばれたが、統治の最初の年に死去した。 〔[[ユダヤ古代誌/第5巻b|第5巻b]]に続く〕 :::[[ユダヤ古代誌/第5巻#第5巻|先頭に戻る↑]] {{DEFAULTSORT:ゆたやこたいし05}} [[Category:歴史]] [[Category:1世紀]] [[Category:ユダヤの歴史書]] {{translation license | original = {{PD-old}} | translation = {{新訳}} }} <!-- Flavius Josephus, William Whiston [[s:en:The Antiquities of the Jews]] の第5巻 1章-4章を翻訳。 --> aw1hri2gu56w121kiax9rmepywu28nu