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はまやらわ2025
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{{header
|title = 宮城縣地方事務所處務規程
|year = 1942
|month = 7
|day = 1
|author =
|notes =
* 昭和17年宮城県訓令甲第33号
* 公布: 1942年(昭和17年)7月1日 → [[昭和17年宮城県公報号外]]
* 施行: 1942年(昭和17年)7月1日 → [[#article|本文]]
* 底本: 昭和17年宮城県公報号外
* 註: 原文は縦書きで記載されている。
{{異体字使用リスト|税|教|青}}
{{異体字セレクタ使用リスト}}
**所 → 所󠄁(U+6240 U+E0101)
**程 → 程󠄁(U+7A0B U+E0101)
**通 → 通󠄁(U+901A U+E0101)
**分 → 分󠄁(U+5206 U+E0101)
**服 → 服󠄁(U+670D U+E0101)
**文 → 文󠄁(U+6587 U+E0101)
**往 → 往󠄁(U+5F80 U+E0101)
**記 → 記󠄂(U+8A18 U+E0102)
**資 → 資󠄁(U+8CC7 U+E0101)
**翼 → 翼󠄂(U+7FFC U+E0102)
**運 → 運󠄁(U+904B U+E0101)
**神 → 神︀(U+793E U+FE00)
**社 → 社︀(U+793E U+FE00)
**視 → 視︀(U+8996 U+FE00)
**道 → 道󠄁(U+9053 U+E0101)
* 註: 新字新かな版については漢数字をアラビア数字に改め、以下の語句をこのように改めた。
** 墨西哥→メキシコ
** 依り→より
** 於て→おいて
** 其→その
** 為め→ため
** 茲に→ここに
** 如し→ごとし
** 得→う
** 但し→ただし
** 若し→もし
** 以て→もって
** 就き→つき
** 之→これ
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'''○宮城縣訓令甲第三十三號'''
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<div style="margin-right:1em;text-align:right;">
宮城縣地方事務所󠄁
</div>
<div>宮城縣地方事務所󠄁處務規程󠄁左ノ通󠄁定ム</div>
<div style="text-indent:1em;">昭和十七年七月一日</div>
<div style="text-indent:10em;">宮 城 縣 知 事 林 信 夫</div>
<div style="text-indent:5em;">宮城縣地方事務所󠄁處務規程󠄁</div>
'''第一條''' 地方事務所󠄁ニ總務課、兵事厚生課、經濟課及土木課ヲ置ク
'''第二條''' 各課(土木課ヲ除ク)ニ左ノ係ヲ置ク
<div style="text-indent:3em;">總 務 課</div>
<div style="text-indent:4em;">庶 務 係</div>
<div style="text-indent:4em;">學 務 係</div>
<div style="text-indent:4em;">稅 務 係</div>
<div style="text-indent:4em;">會 計 係</div>
<div style="text-indent:3em;">兵事厚生課</div>
<div style="text-indent:4em;">兵 事 係</div>
<div style="text-indent:4em;">厚 生 係</div>
<div style="text-indent:3em;">經 濟 課</div>
<div style="text-indent:4em;">農 林 係</div>
<div style="text-indent:4em;">商 工 係</div>
'''第三條''' 總務課ノ分󠄁掌事項左ノ如シ
<div style="text-indent:1em;">庶 務 係</div>
<div style="text-indent:2em;">一 官印及廳印ノ管守ニ關スル事項</div>
<div style="text-indent:2em;">二 廳員ノ身分󠄁及服󠄁務ニ關スル事項</div>
<div style="text-indent:2em;">三 文󠄁書ノ往󠄁復及記󠄂錄編纂ニ關スル事項</div>
<div style="text-indent:2em;">四 町村、町村組合及水利組合ノ指導及監査ニ關スル事項</div>
<div style="text-indent:2em;">五 町村常會、部落會、町内會等ノ整備指導ニ關スル事項</div>
<div style="text-indent:2em;">六 國民貯蓄奬勵ニ關スル事項</div>
<div style="text-indent:2em;">七 地方資󠄁源囘收ニ關スル事項</div>
<div style="text-indent:2em;">八 大政翼󠄂賛運󠄁動其の他國民運󠄁動ニ關スル事項</div>
<div style="text-indent:2em;">九 神︀社︀及ビ宗敎團體ニ關スル事項</div>
<div style="text-indent:1em;">一〇 廳内、他課係ノ主管ニ屬セザル事項</div>
<div style="text-indent:1em;">學 務 係</div>
<div style="text-indent:2em;">一 學事視︀察其の他敎育事務ノ指導監督ニ關スル事項</div>
<div style="text-indent:2em;">二 壯靑少年團ノ指導其ノ他社︀會敎育ニ關スル事項</div>
<div style="text-indent:2em;">三 體育及武道󠄁ニ關スル事項</div>
<div style="text-indent:1em;">稅 務 係</div>
<div style="text-indent:2em;">一 縣稅ノ賦課徴收及滯納處分󠄁ニ關スル事項</div>
<div style="text-indent:2em;">二 稅外諸收入ノ徴收ニ關スル事項</div>
<div style="text-indent:2em;">三 町村ニ於ケル縣稅事務ノ指導監督ニ關スル事項</div>
<div style="text-indent:1em;">會 計 係</div>
== 新字新かな版 ==
外務省令第3号<br>
明治21年11月30日帝国とメキシコ合衆国との間に締結したる修好通商条約によりメキシコ合衆国人民が帝国内において享有すべき権利を実行するに際しその国籍を証明するに便ならんかためここに国籍証明書規則を定むること左のごとし
{{rh| 明治22年7月29日||外務大臣 伯大隈重信 }}
{{left|'''国籍証明書規則'''|3em}}
; 第一条
: メキシコ合衆国人民は本規則の手続により地方庁を経て国籍証明書の交付を外務省に出願することをう
; 第二条
: 国籍証明書を得んことを欲する者は自ら地方庁に出頭しその国籍の証拠となるべき書類を添え国籍氏名年齢を記したる願書を地方長官に差出すべしただし本国領事の駐在する地に在りてはその願書に領事の裏書あるを要す
; 第三条
: 出願人もし国籍の証拠となるべき書類を所持せざる時はその願書に記載したる国籍に属することを書面をもって確言すべし
; 第四条
: 地方長官国籍証明書交付の願書を受領したる時は願書記載の事実につき取調を遂げ意見を具してその願書を外務省に送致すべし
; 第五条
: 国籍証明書は外務省より地方庁を経て出願人に交付すただしこれに対し手数料を要せず
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* 昭和17年宮城県訓令甲第33号
* 公布: 1942年(昭和17年)7月1日 → [[昭和17年宮城県公報号外]]
* 施行: 1942年(昭和17年)7月1日 → [[#article|本文]]
* 底本: 昭和17年宮城県公報号外
* 註: 原文は縦書きで記載されている。
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** 墨西哥→メキシコ
** 依り→より
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'''第一條''' 地方事務所󠄁ニ總務課、兵事厚生課、經濟課及土木課ヲ置ク
'''第二條''' 各課(土木課ヲ除ク)ニ左ノ係ヲ置ク
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== 新字新かな版 ==
外務省令第3号<br>
明治21年11月30日帝国とメキシコ合衆国との間に締結したる修好通商条約によりメキシコ合衆国人民が帝国内において享有すべき権利を実行するに際しその国籍を証明するに便ならんかためここに国籍証明書規則を定むること左のごとし
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; 第一条
: メキシコ合衆国人民は本規則の手続により地方庁を経て国籍証明書の交付を外務省に出願することをう
; 第二条
: 国籍証明書を得んことを欲する者は自ら地方庁に出頭しその国籍の証拠となるべき書類を添え国籍氏名年齢を記したる願書を地方長官に差出すべしただし本国領事の駐在する地に在りてはその願書に領事の裏書あるを要す
; 第三条
: 出願人もし国籍の証拠となるべき書類を所持せざる時はその願書に記載したる国籍に属することを書面をもって確言すべし
; 第四条
: 地方長官国籍証明書交付の願書を受領したる時は願書記載の事実につき取調を遂げ意見を具してその願書を外務省に送致すべし
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ニネベのイサアク神秘論文集
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2026-05-30T11:44:52Z
村田ラジオ
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校正
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| title = ニネベのイサアク神秘論文集
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| next=[[ニネベのイサアク神秘論文集/第1論文|第1論文]]
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| override_author = [[作者:シリアのイサアク|ニネベのイサアク]] (7世紀)
| override_translator = [[作者:アレント・ヤン・ヴェンシンク|A. J. ヴェンシンク]]
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| notes =
*底本: [[w:ru:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC)
*ウィキソースによる日本語訳
}}
==序文==
*[[/序文|序文]]. . . . . . p.05
*コンテンツ. . . . . . p.07
==導入==
*[[/導入|導入]]. . . . . . p.12
**[[/導入/本文とギリシャ語訳|本文とギリシャ語訳]]. . . . . . p.12
**[[/導入/イサアクの年齢と人物|イサアクの年齢と人物]]. . . . . . p.17
**[[/導入/イサアクの神秘的な思想のスケッチ|イサアクの神秘的な思想のスケッチ]]. . . . . . p.23
**[[/導入/オリエント思想におけるイサアクの位置|オリエント思想におけるイサアクの位置]]. . . . . . p.45
== 目録 ==
=== ニネベのイサアク神秘論文集 ===
論文1-6: 6つの論文、道徳の行動について。
*[[ニネベのイサアク神秘論文集/第1論文|第1論文]](シリア語 - [[:en:Paul Bedjan|ベジャン]]). . . . . . p.001
*[[ニネベのイサアク神秘論文集/第2論文|第2論文]]. . . . . . p.007
*[[ニネベのイサアク神秘論文集/第3論文|第3論文]]. . . . . . p.014
:*魂にとって自然な状態はどのようであるか。自然に反する状態はどのようであるか。その自然を超えた状態とは何か。
:*2番目の質問
:*3番目の質問
:*心の純粋さとは何か。
:*知性の純粋さと心の純粋さの違いは何か。
:*私たちが陥らないように祈らなければならない誘惑とは何か。
:*この件に関して、人間の弱さに応じて御言葉を計られる主の憐れみに感謝する。
*[[ニネベのイサアク神秘論文集/第4論文|第4論文]]. . . . . . p.028
*[[ニネベのイサアク神秘論文集/第5論文|第5論文]]. . . . . . p.042
*[[ニネベのイサアク神秘論文集/第6論文|第6論文]]. . . . . . p.055
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第7論文|第7論文]]: 他の主題については章ごとに短い段落で。神への信頼の性質と、どのような人に神への信頼が生まれるかについて。さらに人は神を信頼するとき、自分の心の状態に応じて力を持つようになること。そして愚かにも識別力もなく信じる者について。. . . . . . p.067
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第8論文|第8論文]]: 人が心から神に近づくのに役立つものは何であるか。助けが密かに近づくのはなぜであるか。人が謙虚さに近づくのは、どのような原因によって起こるか。. . . . . . p.070
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第9論文|第9論文]]: 意図的かつ悪意を持って[犯された]罪と、偶然に[犯された]罪について。. . . . . . p.074
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第10論文|第10論文]]: 人が生ける神を完全に放棄してしまわないように、病気の患者に対するように聖書の言葉がいわば節度をもって語られることについて。 しかし私たちが罪を犯すことにおいて、それが原因となってより自由になってはならないこと。. . . . . . p.078
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第11論文|第11論文]]: 修道士の生活の美しさがどのように保たれるのか。そしてそれがどのように神に栄誉を帰する原因となり得るのか。. . . . . . p.080
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第12論文|第12論文]]: この世を放棄し真理を探し求めに出た神の僕が、真理が見つからないのではないかという恐れから、あるいは欲望から生まれる熱のために真理を求めることをやめることは美しいことではないということ。神聖なものについて、あるいは神秘的に説明されるその奥義を探求することによって、心は邪悪な惑いや情念の想起から遠ざかることができること。. . . . . . p.082
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第13論文|第13論文]]: この[霊的]方法に関して神が正当に命じられたように、黙想生活に生きる人々に訪れるさまざまな状態について。悲しみと精神的な息苦しさ、そして突然現れる喜びと楽しみ、熱意と並外れた強さについて。私たちの道を命じた神に讃美を、アミン。. . . . . . p.084
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第14論文|第14論文]]: 孤独の中で修行する人たちが、黙想の生活という計り知れない海の中で自分たちがどのように奉仕して進歩してきたかを、わずかながらでも理解し始めるのはいつなのかということについて。そうすることで、彼らは自分たちの努力が実を結び始めることにある程度の自信を持つことができるということ。. . . . . . p.085
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第15論文|第15論文]]: 黙想生活における進歩の過程について、簡潔かつわかりやすく。そしてその美徳がどのようにしていつ生まれるのかという問題について。. . . . . . p.087
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第16論文|第16論文]]: 孤独の中で仕事から解放されることが魂にとってどれほど有益であるか、最近自分自身について洞察力を持ち始めたばかりの初心者の精神に他の人々との面会・交流がどれほど害を及ぼすか。そして肉体的な仕事が必然的に黙想者に神の業において欠乏をもたらすことがどのように明らかであるか。. . . . . . p.089
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第17論文|第17論文]]: 徹夜の甘美な行いを通して啓示される神への短い祈りについて、そして徹夜の行いに身を捧げる者は生涯を通じて蜜によって支えられるということについて。. . . . . . p.091
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第18論文a|第18論文(a)]]: 私が老人たちから聞いたこと。聖なる人々の話、彼らの敬虔な言葉と素晴らしい行動について。彼らの祈りによって神が私たちを守ってくだるように、アミン。. . . . . . p.095
:[[ニネベのイサアク神秘論文集/第18論文b|第18論文(b)]]: もう一人の隠修者について。
:[[ニネベのイサアク神秘論文集/第18論文c|第18論文(c)]]: 他のもう一人の隠修者について。
:[[ニネベのイサアク神秘論文集/第18論文d|第18論文(d)]]: 正しい独居修行に関するある師父の忠告。
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第19論文|第19論文]]: 心象の中で聖人たちに起こる力の啓示について。. . . . . . p.105
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第20論文|第20論文]]: 啓示や霊的ビジョンの作用に関連した、さまざまな理解可能な心の力について。. . . . . . p.109
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第21論文|第21論文]]: 独居修行の中で[生きる人々に]祈りの間に起こることについて。. . . . . . p.110
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第22論文|第22論文]]: 祈りの中でのさまざまな[経験]と精神の力の限界について。そして、祈りのさまざまな習慣によって、その恣意的な衝動をどこまで動かす力があるのか。そして、祈りの際に自然に規定された限界、つまり祈りが超えることが許されない限界とは何であるか。そして、それが過ぎてさらに進んだとき、起こっていることが祈りという名で呼ばれているとしても、それはもはや祈りではないということ。. . . . . . p.111
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第23論文|第23論文]]: 真の知識についての談話。. . . . . . p.118
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第24論文|第24論文]]: 兄弟が彼の居室で与えられるものについて。. . . . . . p.120
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第25論文|第25論文]] (a): 深い観想を求める魂がその観想に没頭し、想起された事柄から生じる身体的な観想から離れることの契機。. . . . . . p.124
::(b): 最高位の名称に関する別のより明確な[説明]。. . . . . . p.127
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第26論文|第26論文]]: 「もし神が善であるのなら、なぜ神はこれらのことを起こすのですか」と言う人たちに対して。. . . . . . p.128
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第27論文|第27論文]]: 無形の存在への視覚は、どのように様々な方法で人間の本性に受け止められているか。. . . . . . p.132
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第28論文|第28論文]]: スボタ{{註|聖土曜日}}と日曜日の理論に関する象徴的な実証。. . . . . . p.136
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第29論文|第29論文]]: 弟子を教育する際の賢明な摂理の様々な優れた方法について。. . . . . . p.138
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第30論文|第30論文]]: 罪の力と邪悪な働きについて。そして罪が維持されている人々と罪が消滅させられている人々について。. . . . . . p.141
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第31論文|第31論文]]: 賢明な働きが抱える苦難や堕落の危険について。. . . . . . p.145
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第32論文|第32論文]]: 心を守る目的と、心中の棲家への精緻な観察について。. . . . . . p.146
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第33論文|第33論文]]: 神の愛の働きについて。. . . . . . p.148
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第34論文|第34論文]]: 徳の種類などについて。. . . . . . p.149
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第35論文|第35論文]]: 絶え間ない行動とあらゆる種類の道徳を考慮した問答形式の論文。これらは、世間を脱ぎ捨てて荒野に住む人々、隠遁生活を送っている人々、そして常に自発的に屈辱を感じて義の栄冠を目指している人々にとって非常に有益である。. . . . . . p.152
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第36論文a|第36論文(a)]]: 世上の狭き道を歩む者たちに対して悪魔が戦いを仕掛ける様々な方法について。. . . . . . p.180
:[[ニネベのイサアク神秘論文集/第36論文b|第36論文(b)]]: 防御の装備を固めた者たちに対して悪魔が戦いを仕掛けるもう一つの方法。. . . . . . p.184
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第37論文|第37論文]]: 私が識別の知識によって学んだ、その正確な使用法について。. . . . . . p.188
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第38論文|第38論文]]: 心の衝動の区別に関する短い文章。. . . . . . p.194
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第39論文|第39論文]]: 愛に基づいた有益な助言。. . . . . . p.197
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第40論文|第40論文]]: 道の段階、すなわちそれぞれの務めの権限に関する解説。. . . . . . p.202
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第41論文|第41論文]]: 彼が孤独を愛する兄弟の一人に宛てて書いた手紙には、親類や名誉ある人々への愛を口実として、悪魔がどのようにして熱心な人たちを絶え間ない孤独からそらそうと画策しているかについて書かれていた。そして、私たちの祖先の例に見られるように、孤独の中で見出される神の知識と比較して、[孤独な人々の]目にはすべてが軽んじて見られるべきであると考えられている。. . . . . . p.205
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第42論文|第42論文]]: 彼は諭すために自然であり霊的な兄弟に手紙で回答を送った。彼はイサアクに会いたがったので彼の住む世界に行くべきだと説得しようとしたものであった。. . . . . . p.209
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第43論文|第43論文]]: 霊的な知恵に満ちた有益な言葉。. . . . . . p.210
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第44論文|第44論文]]: 知識の程度と信仰の程度について。. . . . . . p.212
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第45論文|第45論文]]: 有益な助言。. . . . . . p.215
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第46論文|第46論文]]: その他の考慮事項。. . . . . . p.221
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第47論文|第47論文]](a): 霊的な事柄における魂の教育のために神の摂理によって私たちの中に湧き上がる天使のような感情について。. . . . . . p.225
::(b): 人間への第二の働きについて。. . . . . . p.226
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第48論文|第48論文]]: 魂が常にさらされる光と闇の様々な状態と、右手と左手の事柄において魂が獲得する訓練について。. . . . . . p.227
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第49論文|第49論文]]: 知識の修練を歩む者に孤独の間に降りかかる暗い闇について。. . . . . . p.228
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第50論文|第50論文]]: 神への畏れを口実にした愚かな熱意によって引き起こされる損害と、静寂から生じる利益を示す。様々な考察を含む短い教訓集。 他の主題を含む。. . . . . . p.230
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第51論文|第51論文]]: 知識の3つの段階とその奉仕と衝動との区別、魂の信仰とその中に隠された神秘の宝について。そしてその手段における世俗の知識が信仰の単純さと比較して、どの程度反しているかについて。. . . . . . p.242
:第51論文(a): 知識の第一段階。
:第51論文(b): 知識の第二段階。
:第51論文(c): 知識の第三段階。つまり完全な段階。
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第52論文|第52論文]]: 知識の衝動の区別に関する別の主題に関する短いセクション。. . . . . . p.253
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第53論文|第53論文]]: 祈りと、絶えず思い出すことが必然的に求められ、人が区別して唱え、保持することが非常に有益であるその他の事柄について。. . . . . . p.254
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第54論文|第54論文]]: マゲナヌータ{{註|maggenanutha:助けと後見}}に関するその他の説明。. . . . . . p.261
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第55論文|第55論文]]: 魂の中に隠された警戒心をどのように保てばよいのか。 眠気と冷たさがどのようにして心に侵入し、魂から聖なる熱意を追い出し、霊的で天的に望ましいものに向かう神聖な願望を減殺してしまうか。. . . . . . p.263
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第56論文|第56論文]]: 人の生命に関する美しい考察。. . . . . . p.265
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第57論文|第57論文]]: 神の愛のための忍耐がどのようにして神の助けを得るのか。. . . . . . p.268
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第58論文|第58論文]]: 神の近くに住み、認識の生活の中で日々を過ごす人々について。. . . . . . p.273
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第59論文|第59論文]]: 有益な談話。. . . . . . p.278
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第60論文|第60論文]]: 必然性がなければ、何らかのしるしが私たちを通して、あるいは私たちに明らかに起こることを望んだり求めたりしてはならないこと。. . . . . . p.281
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第61論文|第61論文]]: 神は何のために神を愛する人たちへの誘惑を許すのか。. . . . . . p.286
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第62論文|第62論文]]: 人の中に湧き起こる思考によって、自分がどの段階に属し、どのような思考が続くかを知ることができるということ。. . . . . . p.288
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第63論文|第63論文]]: 認識の心理状態にある人々は、なぜ肉体の粗雑さに応じて霊的なことを考えるのか。また精神がそれを超えて高揚する可能性はどのようにあるのか。また私たちがそこから解放されない原因は何であるか。祈りのときに心はいつどのようにしてイメージなしでいることができるのか。. . . . . . p.293
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第64論文|第64論文]]: 心中に起こる、祈りによって浄化されるさまざまな状態について。. . . . . . p.296
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第65論文|第65論文]]: 心の警戒に関する指示、および人が高位の状態を獲得するための修行の方法に関する指示を与える良い助言。. . . . . . p.297
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第66論文|第66論文]]: 彼が友人に送った手紙での独居修行の神秘について。また多くの人がこの素晴らしい奉仕を知らないために、この奉仕を無視して彼らの主要な部分は居室に座ることに拘っているのはなぜか。これが現在の修道士の伝統である。独居修行を実践する人に役立つ短い名言集とともに。. . . . . . p.312
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第67論文|第67論文]]: 理解可能なものの識別に関して例をあげ、それぞれの使い方を示しての説明。. . . . . . p.316
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第68論文|第68論文]]: 短いセクション。. . . . . . p.318
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第69論文|第69論文]]: 思慮ある者はどのように黙想を務めるべきか。. . . . . . p.321
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第70論文|第70論文]]: 私たちは、自分の努力のさまざまな識別によって子供じみた判断をすることなく、精神のさまざまな状態によって自分の行動の程度を理解できるということ。ただ日々その中で密かに感じられる喜びによって自分の魂の程度を賢者として認識すべきであるということ。初期知識の微妙な順序。. . . . . . p.324
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第71論文|第71論文]]: 恩寵から生じる影響について。. . . . . . p.328
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第72論文|第72論文]]: 真の知識と誘惑について。弱くて取るに足らない、教育を受けていない人々だけでなく、一時的に無欲に値するとみなされ心の完成に達し、ここまで部分的純粋に近づいている人々においても死すべき運命と共存しており、情愛を超えた高揚感を獲得していること。この世界において感情的な肉体での生活と組み合わせることが神によって許されている限りにおいては、肉体のために苦しみ、情愛によって傷つけられなければならないのは、彼らにとっても同様である。ある程度の傲慢さの危険性と、何度も罪を犯し、再び受け入れてくれる悔い改めの恵みによって自分自身を癒すため、慈悲の中で[誘惑]を継続的に受けることが必要とされていること。. . . . . . p.332
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第73論文|第73論文]]: [前述の] セクションの簡潔な意味と、これまでに述べられた内容の説明。. . . . . . p.337
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第74論文|第74論文]]: 徳の識別、全過程の範囲、人類への愛の偉大さ、そして人類に注がれる豊かな愛によって聖人の中に神に似たものを創造している霊的目的について。. . . . . . p.341
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第75論文|第75論文]]: 隠された状態と、そこに存在する力と影響力について。. . . . . . p.348
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第76論文|第76論文]]: 短い言葉。. . . . . . p.350
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第77論文|第77論文]]: この章は生命力に満ちている。. . . . . . p.352
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第78論文|第78論文]]: 世俗からの逃避によって得られる利益について。その方法は師父たちが慎重な検討を通じて考え出したものである。. . . . . . p.360
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第79論文|第79論文]]: 隠れた衝動が外面的な行動の変化に応じてどのように変化するか。. . . . . . p.361
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第80論文|第80論文]]: 徹夜祷とその間の様々な種類の労働について。そして私たちの労働の目的は、量を達成することではなく、父とともに働く神の子として自由に識別をもって愛の警戒心に働くことになりつつあるということ。徹夜の労働が他のすべての義務よりもどれほど貴重であるかということ。そしてこの労働がそれを選択する人々に課すもの、その中でどのように歩まなければならないかということ。神によって価値があるとみなされる賜物について。この世界の主要な部分との戦いについて。. . . . . . p.366
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第81論文|第81論文]]: 私たちの主が慈悲を天の御父の偉大さに似たものと定義されたのに、なぜ独居修行者たちはそれ以上に孤独を重んじるのかと尋ねた兄弟への回答。そしてこの点と、苦しんでいる人や病人が近くにいるときに無視することはできないということの弁明。. . . . . . p.379
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第82論文|第82論文]]: 謙虚さはどれほどの名誉を持ち、その地位はどれほど高尚であるかということ。. . . . . . p.384
目録/終わり
== 出典 ==
*底本: A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC)
*https://syri.ac/brock/isaac
*https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf
== 参考文献 ==
*[[シリヤの聖イサアク全書]]
*[[w:en:The Ascetical Homilies of Isaac the Syrian]](英語版ウィキペディア)
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第3論文
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*底本: [[w:ru:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC)
*ウィキソースによる日本語訳
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::'''ニネベのイサアク神秘論文集'''
== 第3論文 ==
所有物を貪欲に求める性質を持たない魂は、神へと至る知恵の衝動を自らの内に見出すために、大きな努力を必要としない。世俗との繋がりから解放されることで、自然と直感の閃きが湧き上がり、そこから魂は神へと高みへと昇り、至福の境地に至ることができるからである。
外からの水が魂の源泉に流れ込まなければ、魂本来の水、すなわち常に神へと向かう素晴らしい直感が湧き上がるのである。
魂がこの状態にないときは、しばしば、魂は異国の記憶を起点としているか、感覚が外界の事物に触れて心を乱しているかのどちらかである。感覚が絶え間なく孤独に閉じ込められ、記憶がその有益な影響によって薄れていくとき、魂の思索の本質、魂の本質、そして魂に蓄えられた宝物が何であるかが分かるだろう。これらの宝物は、魂から生じる、何の努力も労力も費やさずに生じる非物質的な直観である。いや、人は、そのような思索が人間の本性に生じ得ることさえ知らず、誰が自分の師であったか、仲間に説明できないものをどのようにして見つけたか、あるいは誰からも学ばなかったものへと導いてくれたのかは誰かも知らないのだ<ref>この一節は、プロティノスが述べた啓示の自発的な性質を驚くほど彷彿とさせる。ツェラーは『ギリシャ哲学』第3巻、第2章、672ページで次のように述べている。「それは、何の仲介も準備もなく、突然の啓示によって魂の中に現れる。それがどこから来るのか、内側からなのか外側からなのかは分からない。実際、厳密に言えば、それは全く来るのではなく、即座にそこにあるのだ。」</ref>[1]。
これが魂の本質である。したがって、情念は(ある)原因によって魂に入り込む付加的なものである。しかし、魂は本来、情念に左右されない。
聖書の中で、精神的あるいは肉体的な情念について言及されている箇所を見かけることがあるが、それらはそれらの原因について述べられている。しかし、魂は本来、情念を持たない。
しかし、このことを知らない哲学者たちは信じません。彼らの追随者たちも同様です。しかし私たちは、神がご自身の似姿を影響を受けやすいものとはされなかったと信じています。ここで言う「神の似姿」とは、肉体ではなく、目に見えない魂のことです[1]。あらゆる像は、原型が描かれた複製です。そして、目に見える像は、目に見えないものの複製にはなり得ません。ですから、私たちは、魂の情念は彼らが言うような自然なものではないと信じています。もし誰かがこの点について議論したければ、私たちはこう問いかけます。「魂にとって自然なものとは何でしょうか?情念がなく、光に満ちていることでしょうか?それとも情念に動かされ、闇に染まっていることでしょうか?」もし魂の本質が清らかで、祝福された光の器であるならば、魂は本来の状態に戻った時に、その状態にあるはずです。しかし、情念に動かされる時、教会のすべての信徒は、魂がその本質を放棄したと告白します。したがって、情念は魂の本質に後から付加されたものです。そして、情念を心理的なものと考えるのは全くふさわしくありません。魂がそれらによって動かされるとしても、それは魂自身のものではなく、魂の外にある何かによって動かされていることは明らかである。そして、もしこれらの感情が、魂が肉体という媒介原因を通してそれらによって動かされるから自然なものだと考えられるならば、飢え、渇き、睡眠もまた、魂にとって自然なものとなるだろう。なぜなら、魂は肉体と共にそれらによって影響を受け、安らぎを得るからである。そして、これは手足の切断、発熱、痛み、病気などについても同様である。肉体は魂とのつながりによって影響を受け、魂も肉体とのつながりによって影響を受ける。肉体の経験によって喜びを感じ、肉体の苦痛と共に苦悩を受けるのである。
≪問い≫ 魂にとって自然なものとは何か、魂にとって外的なもの、そして魂にとっての本質を超えたものとは何か?<ref>この用語はストア派の著作に見られる。</ref>[2]
魂にとって自然なものとは、感覚的にも知的にもあらゆる被造物を理解することである。魂にとっての本質を超えたものとは、神への観想によって心が動かされることである。魂にとって外的なものとは、情欲によって感情的に揺さぶられることである。また、世界の光であり、勝利者バシレイオスは次のように述べている。魂が自然な秩序にあるとき、それは高みに存在し、その性質を捨てたとき、それは下、地上に存在する。魂の居場所とされる高みには情欲は存在しない。しかし、魂の性質がその秩序を捨てたとき、魂は情欲に左右されるようになる。では、魂の情欲は、もはや魂の本質に属さないように見える今、一体どこにあるのだろうか?
魂は、肉体に宿る非難されるべき情欲によって動かされることは明らかであり、肉体の飢えや渇きによっても動かされる。しかし、これらに関する律法は存在しないため、魂はこれらのことで非難されることはない。ちょうど、時に人は神によって非難されるべき行いを命じられ、非難や叱責の代わりに良い報いを受けることがある。例えば、不法な結婚をした預言者ホセア、神への熱意から殺戮を行ったエリヤ、モーセの命令で親族を剣で刺した者たちなどが挙げられる。
しかし、肉体の性質とは別に、魂にはその性質に属するもの、すなわち怒りや憤怒があり、これらは魂の情欲であると言われている。
≪第二の問い≫ 私たちは問います。魂の欲望が神聖なものによって燃え上がるとき、それは魂の本質に属するのでしょうか、それとも地上の物質的なものに向けられるときでしょうか。また、魂の本質は、その熱意を掻き立てるもののために燃え上がると言われるとき、この情熱は、肉体の欲望、嫉妬、栄光などと結びついているとき、あるいはそれらとは正反対の方向に向かうとき、本質的なものと言えるのでしょうか。
私たちはこの議論の的となっている問いに答え、また、それについて考察します。
聖書は多くのことを寓意的に述べており、しばしば比喩的な言葉を用いています。簡潔さを期すために、魂と肉体を区別することなく、魂に属するものを肉体に、魂に属するものを肉体に当てはめることがしばしばあります。さて、賢明な人々は、聖書の目的、すなわち、聖書が何を意味しているのかを理解しています。例えば、主の神性に関する事柄においては、高尚で崇高な方法で、人間の本性にそぐわないものが主の人間性に適用され、神性にそぐわないものが主の神性に適用される。そして、聖書の言葉の意図を理解できない多くの人々がここでつまずき、二度と立ち上がることができなかった。魂と肉体に関する事柄についても同様である。
徳が魂の自然な健康であるならば、情欲はいかにして魂を苦しめ、その健康を奪う病となるとしても、健康は偶発的な病気よりも本質的に先にあることは明らかである。そして、もしこれが真実であるならば、卓越性は必然的に魂にとって自然なものであり、偶発的なものはその本質から外れたものでなければならない。なぜなら、先にあるものが自然でないということはあり得ないからである。
≪第三の問い≫ 身体の情動は、身体に本来備わっているものなのか、それとも二次的なものなのか?身体を介して魂に影響を与える情動は、二次的なものなのか、それとも自然なものなのか。
身体の情動を自然なものではないと呼ぶことは不可能である。魂に関しては、純粋さがその本質に属することは周知の事実であり、広く認められているため、この事実を鑑みて、魂が本質的に影響を受けやすいと主張する者はいないだろう。なぜなら、病気は健康に二次的なものであり、同一のものが善悪両方の性質を持つことはあり得ないことは一般的に認められているからである。いずれにせよ、どちらか一方が他方より先に存在しなければならず、より古い方が自然なものである。偶発的なものは、自然で本質的なものであるとは言えず、外部からの侵入である。そして、あらゆる偶発的および侵入は、それがいつであれ、変化と変容を伴う。しかし、自然は変化も変容もしない。
存在するすべての情念は、それぞれが本来属する性質を助け、神によって与えられたその性質の成長のために与えられています。肉体の情念は、肉体の益と成長のために神によって肉体に与えられ、霊的な情念、すなわち霊的な力は、魂の成長と益のために与えられています。肉体が情念から身を引いて、魂の性質に従うことを強いられると、肉体は傷つきます。また、魂が自身の性質を捨てて肉体の性質に従うと、魂は傷つきます。なぜなら、使徒の言葉によれば、霊は肉体を害するものを望み、肉体は霊を害するものを望むからです<ref>ガラテヤ5章17節</ref>。そして、この二つは本来互いに正反対です。したがって、神が私たちの性質に情念と罪を植え付けたからといって、誰も神を侮辱してはなりません。なぜなら、神はそれぞれの性質を秩序立てた時、その性質に成長をもたらすものを植え付けたからである。しかし、もし一方が他方と結びつくならば、それはもはや本来の領域ではなく、異質な領域へと移ってしまうのである。
これらの感情が本来魂に属するものであるならば、なぜそれらを用いると魂が傷つくのでしょうか。自然の所有物であるものは、それを傷つけません。肉体の感情の成就は肉体にとって有益で役立つのに、魂の感情は、それが魂に属するものであるならば、なぜ魂を傷つけるのでしょうか。そして、もしこれが真実であるならば、なぜ徳は肉体を苦しめ、魂には有益となるのでしょうか。あなたは、それらの本性に反するものが、これらのすべての本性を傷つける様子を見ています。なぜなら、これらのすべての本性は、自分自身のものに近づくと喜びを感じるからです。もしあなたがこれらのすべての本性の性質を知りたいと願うならば、その性質とは、それを用いることで利益を得るものであることを観察しなければなりません。そして、もしそれがこれらのもののいずれかによって苦しめられるならば、それは自分の所有物ではないものによって影響を受けていることを知るべきです。結論として、これらの性質のそれぞれが互いに反対の性質を持つことが知られているならば、魂が用いることで肉体に利益と安らぎをもたらすものはすべて、魂に属するものとみなされるべきではない。なぜなら、魂にとって自然なものは、何らかの二次的な形で魂と結びついているものを除いて、肉体にとって致命的なものだからである。肉体の弱さゆえに、魂は肉体に覆われている限り、肉体の弱さから決して解放されることはない。なぜなら、魂の本質は、その衝動が肉的な感覚と結びついており、不可解な知恵によってそれらと織り合わされているために、肉体の苦悩と結びついているからである。そして、このように混じり合っているとはいえ、衝動は衝動と、意志は意志と、すなわち肉的なものと霊的なものと区別される。そして、本質は決して複合的なものではなく、また、その所有物を否定するものでもない。そして、人間は罪や善行によって、それらの衝動を高度に均衡させようとするが、ある時には、それぞれが自らの意志を行使し、その力を示すのである。
しかし、肉体的な思考がある程度高められると、その衝動は完全に霊的な領域に現れ、理解しがたい事柄と共に天の中心を漂うようになる。しかし、それでもなお、肉体は自らの記憶を完全に失うことはできない。ちょうど、衝動が罪の領域にあるときでも、魂の美しい感情が心の中で沈黙させられることはないのと同じように。
≪問い≫ 心の清らかさとは何か。
悪を知らない者が心の清らかさを持つというわけではない。それは獣に等しい。また、自然によって少年期に置かれた者を心の清らかさを持つ者と呼ぶこともない。それは人間が被造物の一員ではないと主張することになる。心の清らかさとは、神聖なものに心を奪われることであり、それは多くの徳を実践した者だけが到達できる境地である。
私たちは、それに到達した者が、相反する思索を経験することなくそれを獲得したとは断言しない。そうでなければ、肉体を持つことはなかっただろう。なぜなら、私たちは、来るべき世界の前で、本性から相反する傾向を完全に浄化することはできないと考えているからである。思索の誘惑とは、それに屈服することではなく、あらゆる情念の根源となる四つの基盤のために、心の中で始まる思索の葛藤の始まりであると私は考える。だから、この世においては、たとえ戦いの達人であり、パウロのように完全な者と評される者であっても、地上の記憶を超越する者は一人もいないのだ。
しかし、肉体は自然の秩序に従って衝動によって、世界は感覚を介してその性質によって、魂は熟慮、記憶、逸脱の力によって、悪魔は前述のものの協力する力によって、これらの四つの感情の力が彼によって経験されている間は、彼はわずかに悩まされるだけであり、直観によって見られる優れたものへと引き寄せられるだろう。世界の消滅の前に、あるいは死の際に起こる移行によって、これら四つのうちの1つが消滅する可能性があるかどうか、あるいは肉体が自然が世俗的なものを求めるように促すことなく、その必要性を完全に超越することができるかどうかを判断せよ。もしこれが不合理だと見なされるならば、これら(四つの力)が存在する限り、肉体を持つすべての存在において情念が動くことは必然であり、したがって誰もが用心深く行動しなければならない。情念とは、一つや二つの情念のことではなく、肉体を持つ存在に生じるあらゆる情念のことである。しかし、もし人が弱い衝動と無害な葛藤しか経験していないとあえて言うならば、そのような人々が誰であろうと、彼らには行いではなく、大いなる心の見張りが必要であると我々は言うだろう。
≪問い≫ 知性の清らかさと心の清らかさの違いは何ですか。
知性の清らかさは心の清らかさとは異なります。ちょうど体の一部と体全体との違いがあるように。知性は魂の感覚の一つです。心は内なる感覚の中心器官であり、感覚の中の感覚を意味します。なぜなら、心は根だからです。根が聖なるものであれば、すべての枝も聖なるものです。しかし、枝の一つだけが聖なるものであれば、そうではありません。さて、聖書に少し触れ、断食と静寂を少し実践するだけで、心は以前の営みを忘れ、清められ、異質な習慣から離れます。しかし、同時に容易に汚れてしまうものでもあります。
心は、大きな苦難と世俗とのあらゆる交わりからの断絶、そしてあらゆる点における完全な禁欲によって浄化される。そして、一度浄化された心は、取るに足らない世俗的なものに触れても汚されることはない。つまり、厳しい苦闘の前にも恐れを抱かないということである。なぜなら、心は健全な胃を持ち、内臓に病を抱える者には消化しにくいあらゆる種類の食物を容易に消化できるからである。医者は言う。「消化しにくい肉はすべて、健全な体の力を増す。なぜなら、それは強い胃によって吸収されるからである。」同様に、短期間で、わずかな努力で容易に得られた浄化は、再び容易に汚される。しかし、大きな苦難を通して、長い時間をかけて魂の最も高次の部分によって得られた浄化は、取るに足らない世俗的なものに触れても危険にさらされることはない。
静かな感覚は魂に平和をもたらす。なぜなら、静かな感覚は魂に争いを経験させないからである。しかし、魂が何の感覚も持たないとき、それは闘争のない勝利である。だが、魂が怠慢になると、不動の状態を保つことができなくなり、不安が生じた後にそれを取り除こうと努力すると、魂は以前の性質、すなわち平静と自然な完全性を破壊してしまう。大多数の人々、おそらく全世界が、この原因によって最初の状態を離れてしまう[1]。二番目の習慣を一度身につけた人のうち、最初の状態に戻るのはたった一人だけである。様々な種類の許しよりも、単純さの方がはるかに優れている。
人間の本性は、戒律の境界を越えないようにするためには畏怖を必要とし、善きものを求める気持ちを掻き立てるためには愛を必要とします。そして、人はその愛のために、美しい行いを急いで行うのです。
霊的な知識は、優れた行いの後に続くものです。愛と畏怖は、その両方に先立つものです。そして、畏怖は愛に先立つものです。前者よりも後に後者を得ようとする者は、疑いなく、魂に脆い土台を築くことになります。なぜなら、これらは神によって、そこから生じるような順序で定められているからです。隣人への愛を、世俗的なものへの愛と取り替えてはなりません。なぜなら、何よりも尊いものが、その中に隠されているからです。
肉眼の目にとっての指標となる物質的な対象は、隠された視覚能力にも影響を与える性質を持ち、第二の自然観想を曇らせる情念は、自然的堅固さに対しても同様に作用する。これらは、あらゆる種類の観想の流れが途絶えるところまで、互いに同じように関連している。心が自然的堅固さの状態にあるとき、それは天使的観想の状態にある。これは、裸の心とも呼ばれる、第一の自然観想である。心が第二の自然的知識の状態にあるとき、それは肉体の乳房から乳を吸い、それによって養われる。この状態は、前述の状態の最後の衣と呼ばれ、心が最初に入る純粋さの状態の後に置かれる。それは、名誉においては後であるが、知識の最初の段階であるため、存在においては先行する。したがって、このことは第二の境地とも呼ばれる。それはまた、精神が浄化され、第二の境地、すなわち知的衝動の完成、そして神聖な観想に近い段階へと昇華するための訓練の兆候を示すものでもある[1]。
精神の最後の衣は感覚である。その裸の状態とは、非物質的な観想によって心が動かされる状態である。尊いものを見出すために、些細なことを捨てなさい。
生きている間に死んでいれば、死においても生きることはない。罪悪感に囚われて生きるのではなく、清らかな心で死になさい。キリストへの信仰のために死を迎える者だけが殉教者ではなく、キリストの戒めを守るために死ぬ者もまた殉教者である。
祈りにおいて無知であってはならない。無知ゆえに神を悲しませることになるからである。
賢明に祈ることを学びなさい。そうすれば、あなたは栄光ある者にふさわしい者と認められるであろう。
惜しみなく与えてくださる神から、尊いものを求めなさい。そうすれば、あなたの賢明な意志の選択によって、神から栄誉を受けるであろう。
ソロモンは知恵を求めたが、それとは別に地上の王国を与えられた。なぜなら、彼は王に賢明に、すなわち偉大なことを求める方法を知っていたからである。
エリシャは師に宿る霊のほんの一部を求めたが、彼の願いは聞き届けられた。
卑しいものを求める者は、王の威厳を損なう。
イスラエルは卑しいものを求め、神の怒りを招いた。彼らは神の御業の働きと恐るべき結果を畏れ敬うことを怠り、自らの腹を満たす欲望に身を任せた。彼らがまだ口の中に食べ物を含んでいながら、神の怒りは彼らに及んだ。神の栄光ある御性質にふさわしく願い事をしなさい。そうすれば、神の御前であなたの栄誉は大きくなり、神はあなたを喜ばれるであろう。
人が王に糞の入った升を求めるなら、その卑しい願いゆえに軽蔑され、無知を露呈するだけでなく、その味気ない要求によって王を侮辱することになる。祈りの中で神に物質的なものを求める者もまた、これと同じである。
見よ、天使たちと大天使たち、すなわち天使たちの長たちは、あなたが主にどのような祈りを捧げるかを知るために、祈りの時にあなたを見つめている。そして人々は、肉体を持った者が糞溜めから出てきて天上のことを尋ねるのを見て、驚嘆する。
**
たとえ私たちが懇願しなくても、神が私たちに与えようと切望しておられるものを、神に求めてはなりません。神は、同居する者にも、神を全く知らない者にも、いや、神の存在すら知らない者にも、それを惜しみなく与えてくださるのです。
異邦人のように、むなしい繰り返しをしてはいけません[1]。「異邦人のように」とはどういう意味でしょうか。地上の人々は物質的なものを求めますが、あなたがたは「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」などと心配しません。あなたがたの父は、あなたがたがこれらのものすべてを必要としていることをご存じだからです[2]。
息子は父にパンを求めるのではなく、父の家に蓄えられている豊かな糧を求めて祈ります。主が日々の糧について命じられたこと、すなわち祈り求めることは、人々の心の弱さゆえに、一般の人々に与えられた祈りなのです。完全な知識と健全な精神を持つ者たちに彼が命じていることをよく考えなさい。すなわち、「食物や衣服のことを思い煩ってはならない」。あなたがたの父は、魂のない鳥にさえ配慮をなさるのだから、ましてあなたがたにはなおさらである。しかし、神に御国と義を求めなさい。そうすれば、神はこれらのものも与えてくださる。
もし神があなたの願いを叶えるのが遅く、あなたが願ってもすぐに叶えられないとしても、落胆してはならない。あなたは神より賢いわけではないのだから。あなたが現状のままでいるのは、あなたの行いが願いに合致していないか、あなたの心のあり方が祈りの目的から逸れているか、あるいはあなたの内面が、その偉大さに比べて幼稚だからである。
偉大なものが容易に私たちの手に渡ることは、ふさわしくない。神の賜物が、容易に得られるからといって、取るに足りないものだとみなされてはならないからである。
苦労して得たものはすべて、慎重に守られるべきである。
イエスを渇望しなさい。そうすれば、イエスはあなたの愛を満たしてくださる。世の貴重なものに目を閉ざしなさい。そうすれば、神が与えてくださる平安があなたの心に宿るにふさわしい者と認められるであろう。
**
目に映る誘惑から身を遠ざけなさい。そうすれば、あなたは霊的な喜びにふさわしい者と見なされるでしょう。
もしあなたの行いが神にふさわしくないなら、神に称賛されるべきことを求めてはなりません。さもないと、あなたは神を試す者と見なされるでしょう。
祈りは行いと厳密に一致します。
肉体の束縛によって意志が妨げられている限り、人は天上のものを望むことはありません。また、地上のことに心を奪われている限り、人は神のものを求めることはありません。すべての人の望みはその行いによって明らかになります。そして、人が大切に思うものは、祈りの中で熱心に求めます。また、祈りの中で求めるものを、外的な行いによって熱心に示そうとします。
偉大なことを望む者は、卑しい者とは交わらない。
肉体に縛られていても自由であり、キリストのためにその自由の中で従順を示しなさい。そして、惑わされないように、無垢な心で賢明でありなさい。
謙遜を愛し、謙遜な者が歩む道の脇に常に潜んでいる、目に見えない罠から解放されなさい。
(未完)
== 出典 ==
*底本: A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC)
*https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf
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*ウィキソースによる日本語訳
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::'''ニネベのイサアク神秘論文集'''
== 第3論文 ==
所有物を貪欲に求める性質を持たない魂は、神へと至る知恵の衝動を自らの内に見出すために、大きな努力を必要としない。世俗との繋がりから解放されることで、自然と直感の閃きが湧き上がり、そこから魂は神へと高みへと昇り、至福の境地に至ることができるからである。
外からの水が魂の源泉に流れ込まなければ、魂本来の水、すなわち常に神へと向かう素晴らしい直感が湧き上がるのである。
魂がこの状態にないときは、しばしば、魂は異国の記憶を起点としているか、感覚が外界の事物に触れて心を乱しているかのどちらかである。感覚が絶え間なく孤独に閉じ込められ、記憶がその有益な影響によって薄れていくとき、魂の思索の本質、魂の本質、そして魂に蓄えられた宝物が何であるかが分かるだろう。これらの宝物は、魂から生じる、何の努力も労力も費やさずに生じる非物質的な直観である。いや、人は、そのような思索が人間の本性に生じ得ることさえ知らず、誰が自分の師であったか、仲間に説明できないものをどのようにして見つけたか、あるいは誰からも学ばなかったものへと導いてくれたのかは誰かも知らないのだ<ref>この一節は、プロティノスが述べた啓示の自発的な性質を驚くほど彷彿とさせる。ツェラーは『ギリシャ哲学』第3巻、第2章、672ページで次のように述べている。「それは、何の仲介も準備もなく、突然の啓示によって魂の中に現れる。それがどこから来るのか、内側からなのか外側からなのかは分からない。実際、厳密に言えば、それは全く来るのではなく、即座にそこにあるのだ。」</ref>[1]。
これが魂の本質である。したがって、情念は(ある)原因によって魂に入り込む付加的なものである。しかし、魂は本来、情念に左右されない。
聖書の中で、精神的あるいは肉体的な情念について言及されている箇所を見かけることがあるが、それらはそれらの原因について述べられている。しかし、魂は本来、情念を持たない。
しかし、このことを知らない哲学者たちは信じません。彼らの追随者たちも同様です。しかし私たちは、神がご自身の似姿を影響を受けやすいものとはされなかったと信じています。ここで言う「神の似姿」とは、肉体ではなく、目に見えない魂のことです[1]。あらゆる像は、原型が描かれた複製です。そして、目に見える像は、目に見えないものの複製にはなり得ません。ですから、私たちは、魂の情念は彼らが言うような自然なものではないと信じています。もし誰かがこの点について議論したければ、私たちはこう問いかけます。「魂にとって自然なものとは何でしょうか?情念がなく、光に満ちていることでしょうか?それとも情念に動かされ、闇に染まっていることでしょうか?」もし魂の本質が清らかで、祝福された光の器であるならば、魂は本来の状態に戻った時に、その状態にあるはずです。しかし、情念に動かされる時、教会のすべての信徒は、魂がその本質を放棄したと告白します。したがって、情念は魂の本質に後から付加されたものです。そして、情念を心理的なものと考えるのは全くふさわしくありません。魂がそれらによって動かされるとしても、それは魂自身のものではなく、魂の外にある何かによって動かされていることは明らかである。そして、もしこれらの感情が、魂が肉体という媒介原因を通してそれらによって動かされるから自然なものだと考えられるならば、飢え、渇き、睡眠もまた、魂にとって自然なものとなるだろう。なぜなら、魂は肉体と共にそれらによって影響を受け、安らぎを得るからである。そして、これは手足の切断、発熱、痛み、病気などについても同様である。肉体は魂とのつながりによって影響を受け、魂も肉体とのつながりによって影響を受ける。肉体の経験によって喜びを感じ、肉体の苦痛と共に苦悩を受けるのである。
≪問い≫ 魂にとって自然なものとは何か、魂にとって外的なもの、そして魂にとっての本質を超えたものとは何か?<ref>この用語はストア派の著作に見られる。</ref>[2]
魂にとって自然なものとは、感覚的にも知的にもあらゆる被造物を理解することである。魂にとっての本質を超えたものとは、神への観想によって心が動かされることである。魂にとって外的なものとは、情欲によって感情的に揺さぶられることである。また、世界の光であり、勝利者バシレイオスは次のように述べている。魂が自然な秩序にあるとき、それは高みに存在し、その性質を捨てたとき、それは下、地上に存在する。魂の居場所とされる高みには情欲は存在しない。しかし、魂の性質がその秩序を捨てたとき、魂は情欲に左右されるようになる。では、魂の情欲は、もはや魂の本質に属さないように見える今、一体どこにあるのだろうか?
魂は、肉体に宿る非難されるべき情欲によって動かされることは明らかであり、肉体の飢えや渇きによっても動かされる。しかし、これらに関する律法は存在しないため、魂はこれらのことで非難されることはない。ちょうど、時に人は神によって非難されるべき行いを命じられ、非難や叱責の代わりに良い報いを受けることがある。例えば、不法な結婚をした預言者ホセア、神への熱意から殺戮を行ったエリヤ、モーセの命令で親族を剣で刺した者たちなどが挙げられる。
しかし、肉体の性質とは別に、魂にはその性質に属するもの、すなわち怒りや憤怒があり、これらは魂の情欲であると言われている。
≪第二の問い≫ 私たちは問います。魂の欲望が神聖なものによって燃え上がるとき、それは魂の本質に属するのでしょうか、それとも地上の物質的なものに向けられるときでしょうか。また、魂の本質は、その熱意を掻き立てるもののために燃え上がると言われるとき、この情熱は、肉体の欲望、嫉妬、栄光などと結びついているとき、あるいはそれらとは正反対の方向に向かうとき、本質的なものと言えるのでしょうか。
私たちはこの議論の的となっている問いに答え、また、それについて考察します。
聖書は多くのことを寓意的に述べており、しばしば比喩的な言葉を用いています。簡潔さを期すために、魂と肉体を区別することなく、魂に属するものを肉体に、魂に属するものを肉体に当てはめることがしばしばあります。さて、賢明な人々は、聖書の目的、すなわち、聖書が何を意味しているのかを理解しています。例えば、主の神性に関する事柄においては、高尚で崇高な方法で、人間の本性にそぐわないものが主の人間性に適用され、神性にそぐわないものが主の神性に適用される。そして、聖書の言葉の意図を理解できない多くの人々がここでつまずき、二度と立ち上がることができなかった。魂と肉体に関する事柄についても同様である。
徳が魂の自然な健康であるならば、情欲はいかにして魂を苦しめ、その健康を奪う病となるとしても、健康は偶発的な病気よりも本質的に先にあることは明らかである。そして、もしこれが真実であるならば、卓越性は必然的に魂にとって自然なものであり、偶発的なものはその本質から外れたものでなければならない。なぜなら、先にあるものが自然でないということはあり得ないからである。
≪第三の問い≫ 身体の情動は、身体に本来備わっているものなのか、それとも二次的なものなのか?身体を介して魂に影響を与える情動は、二次的なものなのか、それとも自然なものなのか。
身体の情動を自然なものではないと呼ぶことは不可能である。魂に関しては、純粋さがその本質に属することは周知の事実であり、広く認められているため、この事実を鑑みて、魂が本質的に影響を受けやすいと主張する者はいないだろう。なぜなら、病気は健康に二次的なものであり、同一のものが善悪両方の性質を持つことはあり得ないことは一般的に認められているからである。いずれにせよ、どちらか一方が他方より先に存在しなければならず、より古い方が自然なものである。偶発的なものは、自然で本質的なものであるとは言えず、外部からの侵入である。そして、あらゆる偶発的および侵入は、それがいつであれ、変化と変容を伴う。しかし、自然は変化も変容もしない。
存在するすべての情念は、それぞれが本来属する性質を助け、神によって与えられたその性質の成長のために与えられています。肉体の情念は、肉体の益と成長のために神によって肉体に与えられ、霊的な情念、すなわち霊的な力は、魂の成長と益のために与えられています。肉体が情念から身を引いて、魂の性質に従うことを強いられると、肉体は傷つきます。また、魂が自身の性質を捨てて肉体の性質に従うと、魂は傷つきます。なぜなら、使徒の言葉によれば、霊は肉体を害するものを望み、肉体は霊を害するものを望むからです<ref>ガラテヤ5章17節</ref>。そして、この二つは本来互いに正反対です。したがって、神が私たちの性質に情念と罪を植え付けたからといって、誰も神を侮辱してはなりません。なぜなら、神はそれぞれの性質を秩序立てた時、その性質に成長をもたらすものを植え付けたからである。しかし、もし一方が他方と結びつくならば、それはもはや本来の領域ではなく、異質な領域へと移ってしまうのである。
これらの感情が本来魂に属するものであるならば、なぜそれらを用いると魂が傷つくのでしょうか。自然の所有物であるものは、それを傷つけません。肉体の感情の成就は肉体にとって有益で役立つのに、魂の感情は、それが魂に属するものであるならば、なぜ魂を傷つけるのでしょうか。そして、もしこれが真実であるならば、なぜ徳は肉体を苦しめ、魂には有益となるのでしょうか。あなたは、それらの本性に反するものが、これらのすべての本性を傷つける様子を見ています。なぜなら、これらのすべての本性は、自分自身のものに近づくと喜びを感じるからです。もしあなたがこれらのすべての本性の性質を知りたいと願うならば、その性質とは、それを用いることで利益を得るものであることを観察しなければなりません。そして、もしそれがこれらのもののいずれかによって苦しめられるならば、それは自分の所有物ではないものによって影響を受けていることを知るべきです。結論として、これらの性質のそれぞれが互いに反対の性質を持つことが知られているならば、魂が用いることで肉体に利益と安らぎをもたらすものはすべて、魂に属するものとみなされるべきではない。なぜなら、魂にとって自然なものは、何らかの二次的な形で魂と結びついているものを除いて、肉体にとって致命的なものだからである。肉体の弱さゆえに、魂は肉体に覆われている限り、肉体の弱さから決して解放されることはない。なぜなら、魂の本質は、その衝動が肉的な感覚と結びついており、不可解な知恵によってそれらと織り合わされているために、肉体の苦悩と結びついているからである。そして、このように混じり合っているとはいえ、衝動は衝動と、意志は意志と、すなわち肉的なものと霊的なものと区別される。そして、本質は決して複合的なものではなく、また、その所有物を否定するものでもない。そして、人間は罪や善行によって、それらの衝動を高度に均衡させようとするが、ある時には、それぞれが自らの意志を行使し、その力を示すのである。
しかし、肉体的な思考がある程度高められると、その衝動は完全に霊的な領域に現れ、理解しがたい事柄と共に天の中心を漂うようになる。しかし、それでもなお、肉体は自らの記憶を完全に失うことはできない。ちょうど、衝動が罪の領域にあるときでも、魂の美しい感情が心の中で沈黙させられることはないのと同じように。
≪問い≫ 心の清らかさとは何か。
悪を知らない者が心の清らかさを持つというわけではない。それは獣に等しい。また、自然によって少年期に置かれた者を心の清らかさを持つ者と呼ぶこともない。それは人間が被造物の一員ではないと主張することになる。心の清らかさとは、神聖なものに心を奪われることであり、それは多くの徳を実践した者だけが到達できる境地である。
私たちは、それに到達した者が、相反する思索を経験することなくそれを獲得したとは断言しない。そうでなければ、肉体を持つことはなかっただろう。なぜなら、私たちは、来るべき世界の前で、本性から相反する傾向を完全に浄化することはできないと考えているからである。思索の誘惑とは、それに屈服することではなく、あらゆる情念の根源となる四つの基盤のために、心の中で始まる思索の葛藤の始まりであると私は考える。だから、この世においては、たとえ戦いの達人であり、パウロのように完全な者と評される者であっても、地上の記憶を超越する者は一人もいないのだ。
しかし、肉体は自然の秩序に従って衝動によって、世界は感覚を介してその性質によって、魂は熟慮、記憶、逸脱の力によって、悪魔は前述のものの協力する力によって、これらの四つの感情の力が彼によって経験されている間は、彼はわずかに悩まされるだけであり、直観によって見られる優れたものへと引き寄せられるだろう。世界の消滅の前に、あるいは死の際に起こる移行によって、これら四つのうちの1つが消滅する可能性があるかどうか、あるいは肉体が自然が世俗的なものを求めるように促すことなく、その必要性を完全に超越することができるかどうかを判断せよ。もしこれが不合理だと見なされるならば、これら(四つの力)が存在する限り、肉体を持つすべての存在において情念が動くことは必然であり、したがって誰もが用心深く行動しなければならない。情念とは、一つや二つの情念のことではなく、肉体を持つ存在に生じるあらゆる情念のことである。しかし、もし人が弱い衝動と無害な葛藤しか経験していないとあえて言うならば、そのような人々が誰であろうと、彼らには行いではなく、大いなる心の見張りが必要であると我々は言うだろう。
≪問い≫ 知性の清らかさと心の清らかさの違いは何ですか。
知性の清らかさは心の清らかさとは異なります。ちょうど体の一部と体全体との違いがあるように。知性は魂の感覚の一つです。心は内なる感覚の中心器官であり、感覚の中の感覚を意味します。なぜなら、心は根だからです。根が聖なるものであれば、すべての枝も聖なるものです。しかし、枝の一つだけが聖なるものであれば、そうではありません。さて、聖書に少し触れ、断食と静寂を少し実践するだけで、心は以前の営みを忘れ、清められ、異質な習慣から離れます。しかし、同時に容易に汚れてしまうものでもあります。
心は、大きな苦難と世俗とのあらゆる交わりからの断絶、そしてあらゆる点における完全な禁欲によって浄化される。そして、一度浄化された心は、取るに足らない世俗的なものに触れても汚されることはない。つまり、厳しい苦闘の前にも恐れを抱かないということである。なぜなら、心は健全な胃を持ち、内臓に病を抱える者には消化しにくいあらゆる種類の食物を容易に消化できるからである。医者は言う。「消化しにくい肉はすべて、健全な体の力を増す。なぜなら、それは強い胃によって吸収されるからである。」同様に、短期間で、わずかな努力で容易に得られた浄化は、再び容易に汚される。しかし、大きな苦難を通して、長い時間をかけて魂の最も高次の部分によって得られた浄化は、取るに足らない世俗的なものに触れても危険にさらされることはない。
静かな感覚は魂に平和をもたらす。なぜなら、静かな感覚は魂に争いを経験させないからである。しかし、魂が何の感覚も持たないとき、それは闘争のない勝利である。だが、魂が怠慢になると、不動の状態を保つことができなくなり、不安が生じた後にそれを取り除こうと努力すると、魂は以前の性質、すなわち平静と自然な完全性を破壊してしまう。大多数の人々、おそらく全世界が、この原因によって最初の状態を離れてしまう<ref>油断。</ref>[1]。二番目の習慣を一度身につけた人のうち、最初の状態に戻るのはたった一人だけである。様々な種類の許しよりも、単純さの方がはるかに優れている。
人間の本性は、戒律の境界を越えないようにするためには畏怖を必要とし、善きものを求める気持ちを掻き立てるためには愛を必要とします。そして、人はその愛のために、美しい行いを急いで行うのです。
霊的な知識は、優れた行いの後に続くものです。愛と畏怖は、その両方に先立つものです。そして、畏怖は愛に先立つものです。前者よりも後に後者を得ようとする者は、疑いなく、魂に脆い土台を築くことになります。なぜなら、これらは神によって、そこから生じるような順序で定められているからです。隣人への愛を、世俗的なものへの愛と取り替えてはなりません。なぜなら、何よりも尊いものが、その中に隠されているからです。
肉眼の目にとっての指標となる物質的な対象は、隠された視覚能力にも影響を与える性質を持ち、第二の自然観想を曇らせる情念は、自然的堅固さに対しても同様に作用する。これらは、あらゆる種類の観想の流れが途絶えるところまで、互いに同じように関連している。心が自然的堅固さの状態にあるとき、それは天使的観想の状態にある。これは、裸の心とも呼ばれる、第一の自然観想である。心が第二の自然的知識の状態にあるとき、それは肉体の乳房から乳を吸い、それによって養われる。この状態は、前述の状態の最後の衣と呼ばれ、心が最初に入る純粋さの状態の後に置かれる。それは、名誉においては後であるが、知識の最初の段階であるため、存在においては先行する。したがって、このことは第二の境地とも呼ばれる。それはまた、精神が浄化され、第二の境地、すなわち知的衝動の完成、そして神聖な観想に近い段階へと昇華するための訓練の兆候を示すものでもある<ref>上記の箇所は、フィロンの思想との関連性を、フィロンの著作(176頁以降、981頁、179頁、270頁)によく出てくる「裸の心」という用語によってすぐに明らかにしている。さらに、両者の間には一致点もあるが、相違点もある。両者とも、裸の状態を3種類に区別している。一方、フィロンによれば、それは、幼稚な状態、自然な純粋さの状態、そして浄化された状態である。フィロンによれば(176頁以降)、それは、幼稚な状態、魂が能力を失ったノアの酩酊状態、魂が地上のあらゆるものを捨てた純粋さの状態である。</ref>[1]。
精神の最後の衣は感覚である。その裸の状態とは、非物質的な観想によって心が動かされる状態である。尊いものを見出すために、些細なことを捨てなさい。
生きている間に死んでいれば、死においても生きることはない。罪悪感に囚われて生きるのではなく、清らかな心で死になさい。キリストへの信仰のために死を迎える者だけが殉教者ではなく、キリストの戒めを守るために死ぬ者もまた殉教者である。
祈りにおいて無知であってはならない。無知ゆえに神を悲しませることになるからである。
賢明に祈ることを学びなさい。そうすれば、あなたは栄光ある者にふさわしい者と認められるであろう。
惜しみなく与えてくださる神から、尊いものを求めなさい。そうすれば、あなたの賢明な意志の選択によって、神から栄誉を受けるであろう。
ソロモンは知恵を求めたが、それとは別に地上の王国を与えられた。なぜなら、彼は王に賢明に、すなわち偉大なことを求める方法を知っていたからである。
エリシャは師に宿る霊のほんの一部を求めたが、彼の願いは聞き届けられた。
卑しいものを求める者は、王の威厳を損なう。
イスラエルは卑しいものを求め、神の怒りを招いた。彼らは神の御業の働きと恐るべき結果を畏れ敬うことを怠り、自らの腹を満たす欲望に身を任せた。彼らがまだ口の中に食べ物を含んでいながら、神の怒りは彼らに及んだ。神の栄光ある御性質にふさわしく願い事をしなさい。そうすれば、神の御前であなたの栄誉は大きくなり、神はあなたを喜ばれるであろう。
人が王に糞の入った升を求めるなら、その卑しい願いゆえに軽蔑され、無知を露呈するだけでなく、その味気ない要求によって王を侮辱することになる。祈りの中で神に物質的なものを求める者もまた、これと同じである。
見よ、天使たちと大天使たち、すなわち天使たちの長たちは、あなたが主にどのような祈りを捧げるかを知るために、祈りの時にあなたを見つめている。そして人々は、肉体を持った者が糞溜めから出てきて天上のことを尋ねるのを見て、驚嘆する。
**
たとえ私たちが懇願しなくても、神が私たちに与えようと切望しておられるものを、神に求めてはなりません。神は、同居する者にも、神を全く知らない者にも、いや、神の存在すら知らない者にも、それを惜しみなく与えてくださるのです。
異邦人のように、むなしい繰り返しをしてはいけません<ref>マタイ6章7節</ref>[1]。「異邦人のように」とはどういう意味でしょうか。地上の人々は物質的なものを求めますが、あなたがたは「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」などと心配しません。あなたがたの父は、あなたがたがこれらのものすべてを必要としていることをご存じだからです<ref>マタイ6章31節以下</ref>[2]。
息子は父にパンを求めるのではなく、父の家に蓄えられている豊かな糧を求めて祈ります。主が日々の糧について命じられたこと、すなわち祈り求めることは、人々の心の弱さゆえに、一般の人々に与えられた祈りなのです。完全な知識と健全な精神を持つ者たちに彼が命じていることをよく考えなさい。すなわち、「食物や衣服のことを思い煩ってはならない」。あなたがたの父は、魂のない鳥にさえ配慮をなさるのだから、ましてあなたがたにはなおさらである。しかし、神に御国と義を求めなさい。そうすれば、神はこれらのものも与えてくださる。
もし神があなたの願いを叶えるのが遅く、あなたが願ってもすぐに叶えられないとしても、落胆してはならない。あなたは神より賢いわけではないのだから。あなたが現状のままでいるのは、あなたの行いが願いに合致していないか、あなたの心のあり方が祈りの目的から逸れているか、あるいはあなたの内面が、その偉大さに比べて幼稚だからである。
偉大なものが容易に私たちの手に渡ることは、ふさわしくない。神の賜物が、容易に得られるからといって、取るに足りないものだとみなされてはならないからである。
苦労して得たものはすべて、慎重に守られるべきである。
イエスを渇望しなさい。そうすれば、イエスはあなたの愛を満たしてくださる。世の貴重なものに目を閉ざしなさい。そうすれば、神が与えてくださる平安があなたの心に宿るにふさわしい者と認められるであろう。
**
目に映る誘惑から身を遠ざけなさい。そうすれば、あなたは霊的な喜びにふさわしい者と見なされるでしょう。
もしあなたの行いが神にふさわしくないなら、神に称賛されるべきことを求めてはなりません。さもないと、あなたは神を試す者と見なされるでしょう。
祈りは行いと厳密に一致します。
肉体の束縛によって意志が妨げられている限り、人は天上のものを望むことはありません。また、地上のことに心を奪われている限り、人は神のものを求めることはありません。すべての人の望みはその行いによって明らかになります。そして、人が大切に思うものは、祈りの中で熱心に求めます。また、祈りの中で求めるものを、外的な行いによって熱心に示そうとします。
偉大なことを望む者は、卑しい者とは交わらない。
肉体に縛られていても自由であり、キリストのためにその自由の中で従順を示しなさい。そして、惑わされないように、無垢な心で賢明でありなさい。
謙遜を愛し、謙遜な者が歩む道の脇に常に潜んでいる、目に見えない罠から解放されなさい。
(未完)
==脚注==
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== 出典 ==
*底本: A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC)
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::'''ニネベのイサアク神秘論文集'''
== 第3論文 ==
所有物を貪欲に求める性質を持たない魂は、神へと至る知恵の衝動を自らの内に見出すために、大きな努力を必要としない。世俗との繋がりから解放されることで、自然と直感の閃きが湧き上がり、そこから魂は神へと高みへと昇り、至福の境地に至ることができるからである。
外からの水が魂の源泉に流れ込まなければ、魂本来の水、すなわち常に神へと向かう素晴らしい直感が湧き上がるのである。
魂がこの状態にないときは、しばしば、魂は異国の記憶を起点としているか、感覚が外界の事物に触れて心を乱しているかのどちらかである。感覚が絶え間なく孤独に閉じ込められ、記憶がその有益な影響によって薄れていくとき、魂の思索の本質、魂の本質、そして魂に蓄えられた宝物が何であるかが分かるだろう。これらの宝物は、魂から生じる、何の努力も労力も費やさずに生じる非物質的な直観である。いや、人は、そのような思索が人間の本性に生じ得ることさえ知らず、誰が自分の師であったか、仲間に説明できないものをどのようにして見つけたか、あるいは誰からも学ばなかったものへと導いてくれたのかは誰かも知らないのだ<ref>この一節は、プロティノスが述べた啓示の自発的な性質を驚くほど彷彿とさせる。ツェラーは『ギリシャ哲学』第3巻、第2章、672ページで次のように述べている。「それは、何の仲介も準備もなく、突然の啓示によって魂の中に現れる。それがどこから来るのか、内側からなのか外側からなのかは分からない。実際、厳密に言えば、それは全く来るのではなく、即座にそこにあるのだ。」</ref>。
これが魂の本質である。したがって、情念は(ある)原因によって魂に入り込む付加的なものである。しかし、魂は本来、情念に左右されない。
聖書の中で、精神的あるいは肉体的な情念について言及されている箇所を見かけることがあるが、それらはそれらの原因について述べられている。しかし、魂は本来、情念を持たない。
しかし、このことを知らない哲学者たちは信じません。彼らの追随者たちも同様です。しかし私たちは、神がご自身の似姿を影響を受けやすいものとはされなかったと信じています。ここで言う「神の似姿」とは、肉体ではなく、目に見えない魂のことです。あらゆる像は、原型が描かれた複製です。そして、目に見える像は、目に見えないものの複製にはなり得ません。ですから、私たちは、魂の情念は彼らが言うような自然なものではないと信じています。もし誰かがこの点について議論したければ、私たちはこう問いかけます。「魂にとって自然なものとは何でしょうか?情念がなく、光に満ちていることでしょうか?それとも情念に動かされ、闇に染まっていることでしょうか?」もし魂の本質が清らかで、祝福された光の器であるならば、魂は本来の状態に戻った時に、その状態にあるはずです。しかし、情念に動かされる時、教会のすべての信徒は、魂がその本質を放棄したと告白します。したがって、情念は魂の本質に後から付加されたものです。そして、情念を心理的なものと考えるのは全くふさわしくありません。魂がそれらによって動かされるとしても、それは魂自身のものではなく、魂の外にある何かによって動かされていることは明らかである。そして、もしこれらの感情が、魂が肉体という媒介原因を通してそれらによって動かされるから自然なものだと考えられるならば、飢え、渇き、睡眠もまた、魂にとって自然なものとなるだろう。なぜなら、魂は肉体と共にそれらによって影響を受け、安らぎを得るからである。そして、これは手足の切断、発熱、痛み、病気などについても同様である。肉体は魂とのつながりによって影響を受け、魂も肉体とのつながりによって影響を受ける。肉体の経験によって喜びを感じ、肉体の苦痛と共に苦悩を受けるのである。
≪問い≫ 魂にとって自然なものとは何か、魂にとって外的なもの、そして魂にとっての本質を超えたものとは何か?<ref>この用語はストア派の著作に見られる。</ref>
魂にとって自然なものとは、感覚的にも知的にもあらゆる被造物を理解することである。魂にとっての本質を超えたものとは、神への観想によって心が動かされることである。魂にとって外的なものとは、情欲によって感情的に揺さぶられることである。また、世界の光であり、勝利者バシレイオスは次のように述べている。魂が自然な秩序にあるとき、それは高みに存在し、その性質を捨てたとき、それは下、地上に存在する。魂の居場所とされる高みには情欲は存在しない。しかし、魂の性質がその秩序を捨てたとき、魂は情欲に左右されるようになる。では、魂の情欲は、もはや魂の本質に属さないように見える今、一体どこにあるのだろうか?
魂は、肉体に宿る非難されるべき情欲によって動かされることは明らかであり、肉体の飢えや渇きによっても動かされる。しかし、これらに関する律法は存在しないため、魂はこれらのことで非難されることはない。ちょうど、時に人は神によって非難されるべき行いを命じられ、非難や叱責の代わりに良い報いを受けることがある。例えば、不法な結婚をした預言者ホセア、神への熱意から殺戮を行ったエリヤ、モーセの命令で親族を剣で刺した者たちなどが挙げられる。
しかし、肉体の性質とは別に、魂にはその性質に属するもの、すなわち怒りや憤怒があり、これらは魂の情欲であると言われている。
≪第二の問い≫ 私たちは問います。魂の欲望が神聖なものによって燃え上がるとき、それは魂の本質に属するのでしょうか、それとも地上の物質的なものに向けられるときでしょうか。また、魂の本質は、その熱意を掻き立てるもののために燃え上がると言われるとき、この情熱は、肉体の欲望、嫉妬、栄光などと結びついているとき、あるいはそれらとは正反対の方向に向かうとき、本質的なものと言えるのでしょうか。
私たちはこの議論の的となっている問いに答え、また、それについて考察します。
聖書は多くのことを寓意的に述べており、しばしば比喩的な言葉を用いています。簡潔さを期すために、魂と肉体を区別することなく、魂に属するものを肉体に、魂に属するものを肉体に当てはめることがしばしばあります。さて、賢明な人々は、聖書の目的、すなわち、聖書が何を意味しているのかを理解しています。例えば、主の神性に関する事柄においては、高尚で崇高な方法で、人間の本性にそぐわないものが主の人間性に適用され、神性にそぐわないものが主の神性に適用される。そして、聖書の言葉の意図を理解できない多くの人々がここでつまずき、二度と立ち上がることができなかった。魂と肉体に関する事柄についても同様である。
徳が魂の自然な健康であるならば、情欲はいかにして魂を苦しめ、その健康を奪う病となるとしても、健康は偶発的な病気よりも本質的に先にあることは明らかである。そして、もしこれが真実であるならば、卓越性は必然的に魂にとって自然なものであり、偶発的なものはその本質から外れたものでなければならない。なぜなら、先にあるものが自然でないということはあり得ないからである。
≪第三の問い≫ 身体の情動は、身体に本来備わっているものなのか、それとも二次的なものなのか?身体を介して魂に影響を与える情動は、二次的なものなのか、それとも自然なものなのか。
身体の情動を自然なものではないと呼ぶことは不可能である。魂に関しては、純粋さがその本質に属することは周知の事実であり、広く認められているため、この事実を鑑みて、魂が本質的に影響を受けやすいと主張する者はいないだろう。なぜなら、病気は健康に二次的なものであり、同一のものが善悪両方の性質を持つことはあり得ないことは一般的に認められているからである。いずれにせよ、どちらか一方が他方より先に存在しなければならず、より古い方が自然なものである。偶発的なものは、自然で本質的なものであるとは言えず、外部からの侵入である。そして、あらゆる偶発的および侵入は、それがいつであれ、変化と変容を伴う。しかし、自然は変化も変容もしない。
存在するすべての情念は、それぞれが本来属する性質を助け、神によって与えられたその性質の成長のために与えられています。肉体の情念は、肉体の益と成長のために神によって肉体に与えられ、霊的な情念、すなわち霊的な力は、魂の成長と益のために与えられています。肉体が情念から身を引いて、魂の性質に従うことを強いられると、肉体は傷つきます。また、魂が自身の性質を捨てて肉体の性質に従うと、魂は傷つきます。なぜなら、使徒の言葉によれば、霊は肉体を害するものを望み、肉体は霊を害するものを望むからです<ref>ガラテヤ5章17節</ref>。そして、この二つは本来互いに正反対です。したがって、神が私たちの性質に情念と罪を植え付けたからといって、誰も神を侮辱してはなりません。なぜなら、神はそれぞれの性質を秩序立てた時、その性質に成長をもたらすものを植え付けたからである。しかし、もし一方が他方と結びつくならば、それはもはや本来の領域ではなく、異質な領域へと移ってしまうのである。
これらの感情が本来魂に属するものであるならば、なぜそれらを用いると魂が傷つくのでしょうか。自然の所有物であるものは、それを傷つけません。肉体の感情の成就は肉体にとって有益で役立つのに、魂の感情は、それが魂に属するものであるならば、なぜ魂を傷つけるのでしょうか。そして、もしこれが真実であるならば、なぜ徳は肉体を苦しめ、魂には有益となるのでしょうか。あなたは、それらの本性に反するものが、これらのすべての本性を傷つける様子を見ています。なぜなら、これらのすべての本性は、自分自身のものに近づくと喜びを感じるからです。もしあなたがこれらのすべての本性の性質を知りたいと願うならば、その性質とは、それを用いることで利益を得るものであることを観察しなければなりません。そして、もしそれがこれらのもののいずれかによって苦しめられるならば、それは自分の所有物ではないものによって影響を受けていることを知るべきです。結論として、これらの性質のそれぞれが互いに反対の性質を持つことが知られているならば、魂が用いることで肉体に利益と安らぎをもたらすものはすべて、魂に属するものとみなされるべきではない。なぜなら、魂にとって自然なものは、何らかの二次的な形で魂と結びついているものを除いて、肉体にとって致命的なものだからである。肉体の弱さゆえに、魂は肉体に覆われている限り、肉体の弱さから決して解放されることはない。なぜなら、魂の本質は、その衝動が肉的な感覚と結びついており、不可解な知恵によってそれらと織り合わされているために、肉体の苦悩と結びついているからである。そして、このように混じり合っているとはいえ、衝動は衝動と、意志は意志と、すなわち肉的なものと霊的なものと区別される。そして、本質は決して複合的なものではなく、また、その所有物を否定するものでもない。そして、人間は罪や善行によって、それらの衝動を高度に均衡させようとするが、ある時には、それぞれが自らの意志を行使し、その力を示すのである。
しかし、肉体的な思考がある程度高められると、その衝動は完全に霊的な領域に現れ、理解しがたい事柄と共に天の中心を漂うようになる。しかし、それでもなお、肉体は自らの記憶を完全に失うことはできない。ちょうど、衝動が罪の領域にあるときでも、魂の美しい感情が心の中で沈黙させられることはないのと同じように。
≪問い≫ 心の清らかさとは何か。
悪を知らない者が心の清らかさを持つというわけではない。それは獣に等しい。また、自然によって少年期に置かれた者を心の清らかさを持つ者と呼ぶこともない。それは人間が被造物の一員ではないと主張することになる。心の清らかさとは、神聖なものに心を奪われることであり、それは多くの徳を実践した者だけが到達できる境地である。
私たちは、それに到達した者が、相反する思索を経験することなくそれを獲得したとは断言しない。そうでなければ、肉体を持つことはなかっただろう。なぜなら、私たちは、来るべき世界の前で、本性から相反する傾向を完全に浄化することはできないと考えているからである。思索の誘惑とは、それに屈服することではなく、あらゆる情念の根源となる四つの基盤のために、心の中で始まる思索の葛藤の始まりであると私は考える。だから、この世においては、たとえ戦いの達人であり、パウロのように完全な者と評される者であっても、地上の記憶を超越する者は一人もいないのだ。
しかし、肉体は自然の秩序に従って衝動によって、世界は感覚を介してその性質によって、魂は熟慮、記憶、逸脱の力によって、悪魔は前述のものの協力する力によって、これらの四つの感情の力が彼によって経験されている間は、彼はわずかに悩まされるだけであり、直観によって見られる優れたものへと引き寄せられるだろう。世界の消滅の前に、あるいは死の際に起こる移行によって、これら四つのうちの1つが消滅する可能性があるかどうか、あるいは肉体が自然が世俗的なものを求めるように促すことなく、その必要性を完全に超越することができるかどうかを判断せよ。もしこれが不合理だと見なされるならば、これら(四つの力)が存在する限り、肉体を持つすべての存在において情念が動くことは必然であり、したがって誰もが用心深く行動しなければならない。情念とは、一つや二つの情念のことではなく、肉体を持つ存在に生じるあらゆる情念のことである。しかし、もし人が弱い衝動と無害な葛藤しか経験していないとあえて言うならば、そのような人々が誰であろうと、彼らには行いではなく、大いなる心の見張りが必要であると我々は言うだろう。
≪問い≫ 知性の清らかさと心の清らかさの違いは何ですか。
知性の清らかさは心の清らかさとは異なります。ちょうど体の一部と体全体との違いがあるように。知性は魂の感覚の一つです。心は内なる感覚の中心器官であり、感覚の中の感覚を意味します。なぜなら、心は根だからです。根が聖なるものであれば、すべての枝も聖なるものです。しかし、枝の一つだけが聖なるものであれば、そうではありません。さて、聖書に少し触れ、断食と静寂を少し実践するだけで、心は以前の営みを忘れ、清められ、異質な習慣から離れます。しかし、同時に容易に汚れてしまうものでもあります。
心は、大きな苦難と世俗とのあらゆる交わりからの断絶、そしてあらゆる点における完全な禁欲によって浄化される。そして、一度浄化された心は、取るに足らない世俗的なものに触れても汚されることはない。つまり、厳しい苦闘の前にも恐れを抱かないということである。なぜなら、心は健全な胃を持ち、内臓に病を抱える者には消化しにくいあらゆる種類の食物を容易に消化できるからである。医者は言う。「消化しにくい肉はすべて、健全な体の力を増す。なぜなら、それは強い胃によって吸収されるからである。」同様に、短期間で、わずかな努力で容易に得られた浄化は、再び容易に汚される。しかし、大きな苦難を通して、長い時間をかけて魂の最も高次の部分によって得られた浄化は、取るに足らない世俗的なものに触れても危険にさらされることはない。
静かな感覚は魂に平和をもたらす。なぜなら、静かな感覚は魂に争いを経験させないからである。しかし、魂が何の感覚も持たないとき、それは闘争のない勝利である。だが、魂が怠慢になると、不動の状態を保つことができなくなり、不安が生じた後にそれを取り除こうと努力すると、魂は以前の性質、すなわち平静と自然な完全性を破壊してしまう。大多数の人々、おそらく全世界が、この原因によって最初の状態を離れてしまう<ref>油断。</ref>。二番目の習慣を一度身につけた人のうち、最初の状態に戻るのはたった一人だけである。様々な種類の許しよりも、単純さの方がはるかに優れている。
人間の本性は、戒律の境界を越えないようにするためには畏怖を必要とし、善きものを求める気持ちを掻き立てるためには愛を必要とします。そして、人はその愛のために、美しい行いを急いで行うのです。
霊的な知識は、優れた行いの後に続くものです。愛と畏怖は、その両方に先立つものです。そして、畏怖は愛に先立つものです。前者よりも後に後者を得ようとする者は、疑いなく、魂に脆い土台を築くことになります。なぜなら、これらは神によって、そこから生じるような順序で定められているからです。隣人への愛を、世俗的なものへの愛と取り替えてはなりません。なぜなら、何よりも尊いものが、その中に隠されているからです。
肉眼の目にとっての指標となる物質的な対象は、隠された視覚能力にも影響を与える性質を持ち、第二の自然観想を曇らせる情念は、自然的堅固さに対しても同様に作用する。これらは、あらゆる種類の観想の流れが途絶えるところまで、互いに同じように関連している。心が自然的堅固さの状態にあるとき、それは天使的観想の状態にある。これは、裸の心とも呼ばれる、第一の自然観想である。心が第二の自然的知識の状態にあるとき、それは肉体の乳房から乳を吸い、それによって養われる。この状態は、前述の状態の最後の衣と呼ばれ、心が最初に入る純粋さの状態の後に置かれる。それは、名誉においては後であるが、知識の最初の段階であるため、存在においては先行する。したがって、このことは第二の境地とも呼ばれる。それはまた、精神が浄化され、第二の境地、すなわち知的衝動の完成、そして神聖な観想に近い段階へと昇華するための訓練の兆候を示すものでもある<ref>上記の箇所は、フィロンの思想との関連性を、フィロンの著作(176頁以降、981頁、179頁、270頁)によく出てくる「裸の心」という用語によってすぐに明らかにしている。さらに、両者の間には一致点もあるが、相違点もある。両者とも、裸の状態を3種類に区別している。一方、フィロンによれば、それは、幼稚な状態、自然な純粋さの状態、そして浄化された状態である。フィロンによれば(176頁以降)、それは、幼稚な状態、魂が能力を失ったノアの酩酊状態、魂が地上のあらゆるものを捨てた純粋さの状態である。</ref>。
精神の最後の衣は感覚である。その裸の状態とは、非物質的な観想によって心が動かされる状態である。尊いものを見出すために、些細なことを捨てなさい。
生きている間に死んでいれば、死においても生きることはない。罪悪感に囚われて生きるのではなく、清らかな心で死になさい。キリストへの信仰のために死を迎える者だけが殉教者ではなく、キリストの戒めを守るために死ぬ者もまた殉教者である。
祈りにおいて無知であってはならない。無知ゆえに神を悲しませることになるからである。
賢明に祈ることを学びなさい。そうすれば、あなたは栄光ある者にふさわしい者と認められるであろう。
惜しみなく与えてくださる神から、尊いものを求めなさい。そうすれば、あなたの賢明な意志の選択によって、神から栄誉を受けるであろう。
ソロモンは知恵を求めたが、それとは別に地上の王国を与えられた。なぜなら、彼は王に賢明に、すなわち偉大なことを求める方法を知っていたからである。
エリシャは師に宿る霊のほんの一部を求めたが、彼の願いは聞き届けられた。
卑しいものを求める者は、王の威厳を損なう。
イスラエルは卑しいものを求め、神の怒りを招いた。彼らは神の御業の働きと恐るべき結果を畏れ敬うことを怠り、自らの腹を満たす欲望に身を任せた。彼らがまだ口の中に食べ物を含んでいながら、神の怒りは彼らに及んだ。神の栄光ある御性質にふさわしく願い事をしなさい。そうすれば、神の御前であなたの栄誉は大きくなり、神はあなたを喜ばれるであろう。
人が王に糞の入った升を求めるなら、その卑しい願いゆえに軽蔑され、無知を露呈するだけでなく、その味気ない要求によって王を侮辱することになる。祈りの中で神に物質的なものを求める者もまた、これと同じである。
見よ、天使たちと大天使たち、すなわち天使たちの長たちは、あなたが主にどのような祈りを捧げるかを知るために、祈りの時にあなたを見つめている。そして人々は、肉体を持った者が糞溜めから出てきて天上のことを尋ねるのを見て、驚嘆する。
たとえ私たちが懇願しなくても、神が私たちに与えようと切望しておられるものを、神に求めてはなりません。神は、同居する者にも、神を全く知らない者にも、いや、神の存在すら知らない者にも、それを惜しみなく与えてくださるのです。
異邦人のように、むなしい繰り返しをしてはいけません<ref>マタイ6章7節</ref>。「異邦人のように」とはどういう意味でしょうか。地上の人々は物質的なものを求めますが、あなたがたは「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」などと心配しません。あなたがたの父は、あなたがたがこれらのものすべてを必要としていることをご存じだからです<ref>マタイ6章31節以下</ref>。
息子は父にパンを求めるのではなく、父の家に蓄えられている豊かな糧を求めて祈ります。主が日々の糧について命じられたこと、すなわち祈り求めることは、人々の心の弱さゆえに、一般の人々に与えられた祈りなのです。完全な知識と健全な精神を持つ者たちに彼が命じていることをよく考えなさい。すなわち、「食物や衣服のことを思い煩ってはならない」。あなたがたの父は、魂のない鳥にさえ配慮をなさるのだから、ましてあなたがたにはなおさらである。しかし、神に御国と義を求めなさい。そうすれば、神はこれらのものも与えてくださる。
もし神があなたの願いを叶えるのが遅く、あなたが願ってもすぐに叶えられないとしても、落胆してはならない。あなたは神より賢いわけではないのだから。あなたが現状のままでいるのは、あなたの行いが願いに合致していないか、あなたの心のあり方が祈りの目的から逸れているか、あるいはあなたの内面が、その偉大さに比べて幼稚だからである。
偉大なものが容易に私たちの手に渡ることは、ふさわしくない。神の賜物が、容易に得られるからといって、取るに足りないものだとみなされてはならないからである。
苦労して得たものはすべて、慎重に守られるべきである。
イエスを渇望しなさい。そうすれば、イエスはあなたの愛を満たしてくださる。世の貴重なものに目を閉ざしなさい。そうすれば、神が与えてくださる平安があなたの心に宿るにふさわしい者と認められるであろう。
目に映る誘惑から身を遠ざけなさい。そうすれば、あなたは霊的な喜びにふさわしい者と見なされるでしょう。
もしあなたの行いが神にふさわしくないなら、神に称賛されるべきことを求めてはなりません。さもないと、あなたは神を試す者と見なされるでしょう。
祈りは行いと厳密に一致します。
肉体の束縛によって意志が妨げられている限り、人は天上のものを望むことはありません。また、地上のことに心を奪われている限り、人は神のものを求めることはありません。すべての人の望みはその行いによって明らかになります。そして、人が大切に思うものは、祈りの中で熱心に求めます。また、祈りの中で求めるものを、外的な行いによって熱心に示そうとします。
偉大なことを望む者は、卑しい者とは交わらない。
肉体に縛られていても自由であり、キリストのためにその自由の中で従順を示しなさい。そして、惑わされないように、無垢な心で賢明でありなさい。
謙遜を愛する行いを心がけなさい。そうすれば、謙遜な者が歩む道の脇に絶えず潜んでいる、目に見えない罠から解放されるでしょう。
苦難を拒んではならない。苦難を通してこそ、あなたは知識へと導かれるのだから。
誘惑を恐れてはならない。誘惑を通してこそ、あなたは貴重なものを見いだすことができるのだから。
魂の誘惑に陥らないよう祈りなさい。肉体の誘惑に対しては、全力を尽くして備え、全身全霊をかけてその中に身を投じなさい。なぜなら、肉体の誘惑なしには、神に近づくことは不可能だからである。肉体の誘惑の先には、神の安息があるのだから。
誘惑から逃れる者は、優れたものから逃れる。欲望の誘惑からではなく、苦難の誘惑から逃れるのである。
「誘惑に陥らないように祈りなさい」<ref>マタイ26章41節</ref>という聖句は、「狭い門から入るように努めなさい」<ref>ルカ13章24節</ref>、そして「体を殺す者たちを恐れてはならない」<ref>マタイ10章28節</ref>、さらに「わたしのために命を失う者は、それを見いだすであろう」<ref>マタイ10章39節</ref>と、どのように調和するのだろうか。
主はこれらの箇所すべてにおいて、私たちに誘惑を勧めておられます。しかし同時に、誘惑に陥らないよう祈るようにと命じておられます。誘惑なしに、どのような優れた行いが成し遂げられるでしょうか。あるいは、主がご自身のために私たちに命じられた誘惑よりも強い誘惑が、他にどのようなものがあるでしょうか。「自分の十字架を負ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」<ref>マタイ10章38節</ref>。「誘惑に陥らないように祈りなさい」とありますが、主の教えには至るところに誘惑への誘惑が出てきます。そして主は、「誘惑なしには天の御国は見いだせない」と仰せられました。
ああ、主よ、あなたの教えの道はなんと狭いことでしょう。知識をもって吟味しない者は、理解力という点においては、いつまでも知識を持たないままです。
ゼベダイの子らとその母が、イエスに王国で共に座ることを願ったとき、イエスはこう問いかけました。「あなたがたは、試練の杯を喜んで受け入れることができるか。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか。」<ref>マタイ20章22節</ref> 主よ、あなたはここでどのように命じられるのですか。あなたがたが誘惑に陥らないように祈ってください。
「私たちが誘惑に陥らないように祈るべき誘惑とは何ですか。」
信仰についての誘惑に陥らないように祈りなさい。
心の思い上がりによって、悪口と傲慢の悪魔に誘惑されないように祈りなさい。
神の許しのもとで、あなたが抱いてきた愚かな思いのために、サタンが神の許可を得てあなたに植え付けることができる、明白な感覚の誘惑に陥らないように祈りなさい。
貞潔の証しがあなたから奪われないように祈りなさい。さもなければ、あなたは彼なしに罪の炎に誘惑されるでしょう。
何事も悪用する誘惑に陥らないように祈りなさい。
それゆえ、霊的な誘惑、すなわち魂を葛藤、疑念、誘惑へと導く誘惑に陥らないよう祈りなさい。しかし、肉体的な誘惑には全身全霊で備え、涙を流しながら、全身全霊でその中に身を投じ、守護者と共に誘惑の真っただ中にいることを願いなさい。誘惑を経験せずに神の配慮を悟ることはできず、神との親密な対話を得ることもできず、霊的な知恵を学ぶこともできず、神への愛を魂に植え付けることもできないからです。
誘惑を経験する前は、人は神に見知らぬ者として祈ります。しかし、愛ゆえに苦難に身を投じ、変わらぬ心でいるならば、神に借りを負った者のように、神の同居人、神の友として、神の意志のために敵の大群と戦った者として認められるのです。これが、「誘惑に陥らないよう祈りなさい」という言葉の意味です。
さらに、あなたが誘惑に陥るのは、自己を高めるためではなく、神への愛のためであり、神の力があなたの中に現れるように祈りなさい。また、あなたの思いや行いの愚かさゆえに誘惑に陥るのではなく、あなたが神の友であることを証明し、あなたの忍耐によって神の力が栄光を受けるように祈りなさい。
「この点において、主の慈悲は偉大である。主は人間の弱さに合わせて御言葉を定めてくださる。」
さらに、主はこの点においても私たちに慈悲深く接してくださいます。肉体的な事柄を考えてみれば、神はこの点においても人間の弱さを心に留めておられることが分かります。肉体の弱さゆえに、誘惑の力が現れるたびに、私たちはそれに耐える力を持たず、結果として苦難に打ち負かされて真理の道を外れてしまう可能性があったのです。それゆえ、彼は私たちに、できる限り故意に誘惑に陥らないようにと命じている。それだけでなく、こうも言っている。「もし誘惑に遭わずに神を喜ばせることができるならば、正当な理由もなく誘惑に陥らないように祈りなさい。」
しかし、非常に優れた徳が望まれ、誘惑が襲いかかり、しかもそれが極めて恐ろしい場合、そしてその徳が人が誘惑に耐えなければ達成できないのであれば、自分自身や誰かを惜しむのはふさわしくない。恐れのために、魂の命がかかっているその偉大なことから逃げ出し、怠惰の言い訳として「誘惑に陥らないように祈りなさい」などと言ってはならない。なぜなら、戒めを守ることによって密かに罪を犯していると言われるのは、まさにそのような人々だからである。
神の戒めの一つが人から離れてしまうと、それが貞潔の状態であれ、聖潔の習慣であれ、信仰の告白であれ、神の言葉に関する証言であれ、律法の他の規定を注意深く守ることであれ、誘惑を恐れるならば、その人が堕落しないということはあり得ません。したがって、彼は完全な信頼をもって肉体を軽んじ、その魂を神に委ね、主の名において行動しなければなりません。また、ヨセフと共にエジプトの地にいて、彼の貞潔の証人であり、ダニエルと共に獅子の穴にいて、ハナニヤとその仲間と共に炉にいて、エレミヤと共に泥の穴にいて彼を救い、カルデア人の陣営の中で彼を憐れみの対象とし、ペテロと共に牢獄にいて、閉ざされた門を通って彼をそこから連れ出し、パウロと共にユダヤ人の会堂にいた方です。要するに、あらゆる世代において常にどこにいてもしもべたちと共にいて、彼らのうちに御自身の力を示し、彼らを勝利に導き、奇跡的に彼らを守り、苦難の時にも明らかに御自身の救いを彼らに示してくださった神は、彼を取り巻く嵐の真っただ中で彼を強め、守ってくださるでしょう。それゆえ、彼はマカバイ家の人々や、恐ろしい場所や困難で恐ろしい誘惑の中で神の律法と霊的な戒めを守り、世俗と肉体を捨て去り、肉体と魂の両方を圧迫する束縛に屈することなく真理にしがみつき、英雄として耐え忍んだ他の聖なる預言者、使徒、殉教者、証聖者、隠修士たちの熱意をもって、目に見えない敵とその軍勢に立ち向かうでしょう。つまり、彼らの名は主の再臨まで命の書に記されているのです。そして彼らの行いは、祝福された使徒の証言に従って、私たちの教訓と励ましのために神の定めによって書物に保存されています。それによって私たちは彼らから洞察を得て神の道を学び、彼らの物語を生き生きとしたイメージとして心に思い描き、彼らに似て、古代の人々の模範に倣って私たちの行動様式を彼らに合わせることができるのです。
知性を備えた魂にとって、神の言葉は、健康な人の舌を肥やす油分を含んだ食物のように、体を豊かにする喜びである。
義人の物語は、完全な者の耳にとって、若い木々に絶えず水をやるように、望ましいものである。
古代の人々の摂理的な導きに耳を傾けることは、弱った目にとって貴重な薬であると考えよ。そして、その記憶を一日中、常に心に留めておきなさい。それを黙想し、深く考え、そこから知恵を学びなさい。そうすれば、あなたは神の偉大さを敬虔に心に刻み、神と人との仲介者であり、二つの性質において一つであったイエス・キリストにおいて、永遠の命を見いだすことができるであろう。天使の軍勢でさえ、その威厳ある玉座を取り囲む栄光を見ることはできないが、あなたのために、彼はこの世に最も卑しく、最も謙遜な人として現れた。姿も美しさも持たない者として。そして、神の目に見えない性質は被造物の理解の及ばないところにあったが、神はすべての人の命を救うために、私たちの手足でできたベールで身を覆うことによって、摂理的な働きを成し遂げられた。
この方こそ、主が多くの民を清められた方であり<ref>イザヤ52章15節、ペシッタ訳</ref>、また、イザヤが言うように、主は私たちすべての罪をこの方に負わせられました<ref>イザヤ53章6節</ref>。主は彼を謙遜させ、苦しみに遭わせることをよしとされました<ref>イザヤ53章10節</ref>。
罪を知らない方に罪が負わされました<ref>2コリント5章21節</ref>。私たちのために、あらゆる世代にわたって摂理をもって働かれたこの方に、今も、そしていつまでも、すべての人々から栄光と賛美と感謝と崇敬が捧げられますように。アーメン。
==脚注==
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== 出典 ==
*底本: A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC)
*https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf
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*ウィキソースによる日本語訳
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::'''ニネベのイサアク神秘論文集'''
== 第3論文 ==
所有物を貪欲に求める性質を持たない魂は、神へと至る知恵の衝動を自らの内に見出すために、大きな努力を必要としない。世俗との繋がりから解放されることで、自然と直感の閃きが湧き上がり、そこから魂は神へと高みへと昇り、至福の境地に至ることができるからである。
外からの水が魂の源泉に流れ込まなければ、魂本来の水、すなわち常に神へと向かう素晴らしい直感が湧き上がるのである。
魂がこの状態にないときは、しばしば、魂は異国の記憶を起点としているか、感覚が外界の事物に触れて心を乱しているかのどちらかである。感覚が絶え間なく孤独に閉じ込められ、記憶がその有益な影響によって薄れていくとき、魂の思索の本質、魂の本質、そして魂に蓄えられた宝物が何であるかが分かるだろう。これらの宝物は、魂から生じる、何の努力も労力も費やさずに生じる非物質的な直観である。いや、人は、そのような思索が人間の本性に生じ得ることさえ知らず、誰が自分の師であったか、仲間に説明できないものをどのようにして見つけたか、あるいは誰からも学ばなかったものへと導いてくれたのかは誰かも知らないのだ<ref>この一節は、プロティノスが述べた啓示の自発的な性質を驚くほど彷彿とさせる。ツェラーは『ギリシャ哲学』第3巻、第2章、672ページで次のように述べている。「それは、何の仲介も準備もなく、突然の啓示によって魂の中に現れる。それがどこから来るのか、内側からなのか外側からなのかは分からない。実際、厳密に言えば、それは全く来るのではなく、即座にそこにあるのだ。」</ref>。
これが魂の本質である。したがって、情念は(ある)原因によって魂に入り込む付加的なものである。しかし、魂は本来、情念に左右されない。
聖書の中で、精神的あるいは肉体的な情念について言及されている箇所を見かけることがあるが、それらはそれらの原因について述べられている。しかし、魂は本来、情念を持たない。
しかし、このことを知らない哲学者たちは信じません。彼らの追随者たちも同様です。しかし私たちは、神がご自身の似姿を影響を受けやすいものとはされなかったと信じています。ここで言う「神の似姿」とは、肉体ではなく、目に見えない魂のことです。あらゆる像は、原型が描かれた複製です。そして、目に見える像は、目に見えないものの複製にはなり得ません。ですから、私たちは、魂の情念は彼らが言うような自然なものではないと信じています。もし誰かがこの点について議論したければ、私たちはこう問いかけます。「魂にとって自然なものとは何でしょうか?情念がなく、光に満ちていることでしょうか?それとも情念に動かされ、闇に染まっていることでしょうか?」もし魂の本質が清らかで、祝福された光の器であるならば、魂は本来の状態に戻った時に、その状態にあるはずです。しかし、情念に動かされる時、教会のすべての信徒は、魂がその本質を放棄したと告白します。したがって、情念は魂の本質に後から付加されたものです。そして、情念を心理的なものと考えるのは全くふさわしくありません。魂がそれらによって動かされるとしても、それは魂自身のものではなく、魂の外にある何かによって動かされていることは明らかである。そして、もしこれらの感情が、魂が肉体という媒介原因を通してそれらによって動かされるから自然なものだと考えられるならば、飢え、渇き、睡眠もまた、魂にとって自然なものとなるだろう。なぜなら、魂は肉体と共にそれらによって影響を受け、安らぎを得るからである。そして、これは手足の切断、発熱、痛み、病気などについても同様である。肉体は魂とのつながりによって影響を受け、魂も肉体とのつながりによって影響を受ける。肉体の経験によって喜びを感じ、肉体の苦痛と共に苦悩を受けるのである。
≪問い≫ 魂にとって自然なものとは何か、魂にとって外的なもの、そして魂にとっての本質を超えたものとは何か。<ref>この用語はストア派の著作に見られる。</ref>
魂にとって自然なものとは、感覚的にも知的にもあらゆる被造物を理解することである。魂にとっての本質を超えたものとは、神への観想によって心が動かされることである。魂にとって外的なものとは、情欲によって感情的に揺さぶられることである。また、世界の光であり、勝利者バシレイオスは次のように述べている。魂が自然な秩序にあるとき、それは高みに存在し、その性質を捨てたとき、それは下、地上に存在する。魂の居場所とされる高みには情欲は存在しない。しかし、魂の性質がその秩序を捨てたとき、魂は情欲に左右されるようになる。では、魂の情欲は、もはや魂の本質に属さないように見える今、一体どこにあるのだろうか?
魂は、肉体に宿る非難されるべき情欲によって動かされることは明らかであり、肉体の飢えや渇きによっても動かされる。しかし、これらに関する律法は存在しないため、魂はこれらのことで非難されることはない。ちょうど、時に人は神によって非難されるべき行いを命じられ、非難や叱責の代わりに良い報いを受けることがある。例えば、不法な結婚をした預言者ホセア、神への熱意から殺戮を行ったエリヤ、モーセの命令で親族を剣で刺した者たちなどが挙げられる。
しかし、肉体の性質とは別に、魂にはその性質に属するもの、すなわち怒りや憤怒があり、これらは魂の情欲であると言われている。
≪第二の問い≫ 私たちは問います。魂の欲望が神聖なものによって燃え上がるとき、それは魂の本質に属するのでしょうか、それとも地上の物質的なものに向けられるときでしょうか。また、魂の本質は、その熱意を掻き立てるもののために燃え上がると言われるとき、この情熱は、肉体の欲望、嫉妬、栄光などと結びついているとき、あるいはそれらとは正反対の方向に向かうとき、本質的なものと言えるのでしょうか。
私たちはこの議論の的となっている問いに答え、また、それについて考察します。
聖書は多くのことを寓意的に述べており、しばしば比喩的な言葉を用いています。簡潔さを期すために、魂と肉体を区別することなく、魂に属するものを肉体に、魂に属するものを肉体に当てはめることがしばしばあります。さて、賢明な人々は、聖書の目的、すなわち、聖書が何を意味しているのかを理解しています。例えば、主の神性に関する事柄においては、高尚で崇高な方法で、人間の本性にそぐわないものが主の人間性に適用され、神性にそぐわないものが主の神性に適用される。そして、聖書の言葉の意図を理解できない多くの人々がここでつまずき、二度と立ち上がることができなかった。魂と肉体に関する事柄についても同様である。
徳が魂の自然な健康であるならば、情欲はいかにして魂を苦しめ、その健康を奪う病となるとしても、健康は偶発的な病気よりも本質的に先にあることは明らかである。そして、もしこれが真実であるならば、卓越性は必然的に魂にとって自然なものであり、偶発的なものはその本質から外れたものでなければならない。なぜなら、先にあるものが自然でないということはあり得ないからである。
≪第三の問い≫ 身体の情動は、身体に本来備わっているものなのか、それとも二次的なものなのか?身体を介して魂に影響を与える情動は、二次的なものなのか、それとも自然なものなのか。
身体の情動を自然なものではないと呼ぶことは不可能である。魂に関しては、純粋さがその本質に属することは周知の事実であり、広く認められているため、この事実を鑑みて、魂が本質的に影響を受けやすいと主張する者はいないだろう。なぜなら、病気は健康に二次的なものであり、同一のものが善悪両方の性質を持つことはあり得ないことは一般的に認められているからである。いずれにせよ、どちらか一方が他方より先に存在しなければならず、より古い方が自然なものである。偶発的なものは、自然で本質的なものであるとは言えず、外部からの侵入である。そして、あらゆる偶発的および侵入は、それがいつであれ、変化と変容を伴う。しかし、自然は変化も変容もしない。
存在するすべての情念は、それぞれが本来属する性質を助け、神によって与えられたその性質の成長のために与えられています。肉体の情念は、肉体の益と成長のために神によって肉体に与えられ、霊的な情念、すなわち霊的な力は、魂の成長と益のために与えられています。肉体が情念から身を引いて、魂の性質に従うことを強いられると、肉体は傷つきます。また、魂が自身の性質を捨てて肉体の性質に従うと、魂は傷つきます。なぜなら、使徒の言葉によれば、霊は肉体を害するものを望み、肉体は霊を害するものを望むからです<ref>ガラテヤ5章17節</ref>。そして、この二つは本来互いに正反対です。したがって、神が私たちの性質に情念と罪を植え付けたからといって、誰も神を侮辱してはなりません。なぜなら、神はそれぞれの性質を秩序立てた時、その性質に成長をもたらすものを植え付けたからである。しかし、もし一方が他方と結びつくならば、それはもはや本来の領域ではなく、異質な領域へと移ってしまうのである。
≪問い≫ これらの感情が本来魂に属するものであるならば、なぜそれらを用いると魂が傷つくのでしょうか。
自然の所有物であるものは、それを傷つけません。肉体の感情の成就は肉体にとって有益で役立つのに、魂の感情は、それが魂に属するものであるならば、なぜ魂を傷つけるのでしょうか。そして、もしこれが真実であるならば、なぜ徳は肉体を苦しめ、魂には有益となるのでしょうか。あなたは、それらの本性に反するものが、これらのすべての本性を傷つける様子を見ています。なぜなら、これらのすべての本性は、自分自身のものに近づくと喜びを感じるからです。もしあなたがこれらのすべての本性の性質を知りたいと願うならば、その性質とは、それを用いることで利益を得るものであることを観察しなければなりません。そして、もしそれがこれらのもののいずれかによって苦しめられるならば、それは自分の所有物ではないものによって影響を受けていることを知るべきです。結論として、これらの性質のそれぞれが互いに反対の性質を持つことが知られているならば、魂が用いることで肉体に利益と安らぎをもたらすものはすべて、魂に属するものとみなされるべきではない。なぜなら、魂にとって自然なものは、何らかの二次的な形で魂と結びついているものを除いて、肉体にとって致命的なものだからである。肉体の弱さゆえに、魂は肉体に覆われている限り、肉体の弱さから決して解放されることはない。なぜなら、魂の本質は、その衝動が肉的な感覚と結びついており、不可解な知恵によってそれらと織り合わされているために、肉体の苦悩と結びついているからである。そして、このように混じり合っているとはいえ、衝動は衝動と、意志は意志と、すなわち肉的なものと霊的なものと区別される。そして、本質は決して複合的なものではなく、また、その所有物を否定するものでもない。そして、人間は罪や善行によって、それらの衝動を高度に均衡させようとするが、ある時には、それぞれが自らの意志を行使し、その力を示すのである。
しかし、肉体的な思考がある程度高められると、その衝動は完全に霊的な領域に現れ、理解しがたい事柄と共に天の中心を漂うようになる。しかし、それでもなお、肉体は自らの記憶を完全に失うことはできない。ちょうど、衝動が罪の領域にあるときでも、魂の美しい感情が心の中で沈黙させられることはないのと同じように。
≪問い≫ 心の清らかさとは何ですか。
悪を知らない者が心の清らかさを持つというわけではない。それは獣に等しい。また、自然によって少年期に置かれた者を心の清らかさを持つ者と呼ぶこともない。それは人間が被造物の一員ではないと主張することになる。心の清らかさとは、神聖なものに心を奪われることであり、それは多くの徳を実践した者だけが到達できる境地である。
私たちは、それに到達した者が、相反する思索を経験することなくそれを獲得したとは断言しない。そうでなければ、肉体を持つことはなかっただろう。なぜなら、私たちは、来るべき世界の前で、本性から相反する傾向を完全に浄化することはできないと考えているからである。思索の誘惑とは、それに屈服することではなく、あらゆる情念の根源となる四つの基盤のために、心の中で始まる思索の葛藤の始まりであると私は考える。だから、この世においては、たとえ戦いの達人であり、パウロのように完全な者と評される者であっても、地上の記憶を超越する者は一人もいないのだ。
しかし、肉体は自然の秩序に従って衝動によって、世界は感覚を介してその性質によって、魂は熟慮、記憶、逸脱の力によって、悪魔は前述のものの協力する力によって、これらの四つの感情の力が彼によって経験されている間は、彼はわずかに悩まされるだけであり、直観によって見られる優れたものへと引き寄せられるだろう。世界の消滅の前に、あるいは死の際に起こる移行によって、これら四つのうちの1つが消滅する可能性があるかどうか、あるいは肉体が自然が世俗的なものを求めるように促すことなく、その必要性を完全に超越することができるかどうかを判断せよ。もしこれが不合理だと見なされるならば、これら(四つの力)が存在する限り、肉体を持つすべての存在において情念が動くことは必然であり、したがって誰もが用心深く行動しなければならない。情念とは、一つや二つの情念のことではなく、肉体を持つ存在に生じるあらゆる情念のことである。しかし、もし人が弱い衝動と無害な葛藤しか経験していないとあえて言うならば、そのような人々が誰であろうと、彼らには行いではなく、大いなる心の見張りが必要であると我々は言うだろう。
≪問い≫ 知性の清らかさと心の清らかさの違いは何ですか。
知性の清らかさは心の清らかさとは異なります。ちょうど体の一部と体全体との違いがあるように。知性は魂の感覚の一つです。心は内なる感覚の中心器官であり、感覚の中の感覚を意味します。なぜなら、心は根だからです。根が聖なるものであれば、すべての枝も聖なるものです。しかし、枝の一つだけが聖なるものであれば、そうではありません。さて、聖書に少し触れ、断食と静寂を少し実践するだけで、心は以前の営みを忘れ、清められ、異質な習慣から離れます。しかし、同時に容易に汚れてしまうものでもあります。
心は、大きな苦難と世俗とのあらゆる交わりからの断絶、そしてあらゆる点における完全な禁欲によって浄化される。そして、一度浄化された心は、取るに足らない世俗的なものに触れても汚されることはない。つまり、厳しい苦闘の前にも恐れを抱かないということである。なぜなら、心は健全な胃を持ち、内臓に病を抱える者には消化しにくいあらゆる種類の食物を容易に消化できるからである。医者は言う。「消化しにくい肉はすべて、健全な体の力を増す。なぜなら、それは強い胃によって吸収されるからである。」同様に、短期間で、わずかな努力で容易に得られた浄化は、再び容易に汚される。しかし、大きな苦難を通して、長い時間をかけて魂の最も高次の部分によって得られた浄化は、取るに足らない世俗的なものに触れても危険にさらされることはない。
静かな感覚は魂に平和をもたらす。なぜなら、静かな感覚は魂に争いを経験させないからである。しかし、魂が何の感覚も持たないとき、それは闘争のない勝利である。だが、魂が怠慢になると、不動の状態を保つことができなくなり、不安が生じた後にそれを取り除こうと努力すると、魂は以前の性質、すなわち平静と自然な完全性を破壊してしまう。大多数の人々、おそらく全世界が、この原因によって最初の状態を離れてしまう<ref>油断。</ref>。二番目の習慣を一度身につけた人のうち、最初の状態に戻るのはたった一人だけである。様々な種類の許しよりも、単純さの方がはるかに優れている。
人間の本性は、戒律の境界を越えないようにするためには畏怖を必要とし、善きものを求める気持ちを掻き立てるためには愛を必要とします。そして、人はその愛のために、美しい行いを急いで行うのです。
霊的な知識は、優れた行いの後に続くものです。愛と畏怖は、その両方に先立つものです。そして、畏怖は愛に先立つものです。前者よりも後に後者を得ようとする者は、疑いなく、魂に脆い土台を築くことになります。なぜなら、これらは神によって、そこから生じるような順序で定められているからです。隣人への愛を、世俗的なものへの愛と取り替えてはなりません。なぜなら、何よりも尊いものが、その中に隠されているからです。
肉眼の目にとっての指標となる物質的な対象は、隠された視覚能力にも影響を与える性質を持ち、第二の自然観想を曇らせる情念は、自然的堅固さに対しても同様に作用する。これらは、あらゆる種類の観想の流れが途絶えるところまで、互いに同じように関連している。心が自然的堅固さの状態にあるとき、それは天使的観想の状態にある。これは、裸の心とも呼ばれる、第一の自然観想である。心が第二の自然的知識の状態にあるとき、それは肉体の乳房から乳を吸い、それによって養われる。この状態は、前述の状態の最後の衣と呼ばれ、心が最初に入る純粋さの状態の後に置かれる。それは、名誉においては後であるが、知識の最初の段階であるため、存在においては先行する。したがって、このことは第二の境地とも呼ばれる。それはまた、精神が浄化され、第二の境地、すなわち知的衝動の完成、そして神聖な観想に近い段階へと昇華するための訓練の兆候を示すものでもある<ref>上記の箇所は、フィロンの思想との関連性を、フィロンの著作(176頁以降、981頁、179頁、270頁)によく出てくる「裸の心」という用語によってすぐに明らかにしている。さらに、両者の間には一致点もあるが、相違点もある。両者とも、裸の状態を3種類に区別している。一方、フィロンによれば、それは、幼稚な状態、自然な純粋さの状態、そして浄化された状態である。フィロンによれば(176頁以降)、それは、幼稚な状態、魂が能力を失ったノアの酩酊状態、魂が地上のあらゆるものを捨てた純粋さの状態である。</ref>。
精神の最後の衣は感覚である。その裸の状態とは、非物質的な観想によって心が動かされる状態である。尊いものを見出すために、些細なことを捨てなさい。
生きている間に死んでいれば、死においても生きることはない。罪悪感に囚われて生きるのではなく、清らかな心で死になさい。キリストへの信仰のために死を迎える者だけが殉教者ではなく、キリストの戒めを守るために死ぬ者もまた殉教者である。
祈りにおいて無知であってはならない。無知ゆえに神を悲しませることになるからである。
賢明に祈ることを学びなさい。そうすれば、あなたは栄光ある者にふさわしい者と認められるであろう。
惜しみなく与えてくださる神から、尊いものを求めなさい。そうすれば、あなたの賢明な意志の選択によって、神から栄誉を受けるであろう。
ソロモンは知恵を求めたが、それとは別に地上の王国を与えられた。なぜなら、彼は王に賢明に、すなわち偉大なことを求める方法を知っていたからである。
エリシャは師に宿る霊のほんの一部を求めたが、彼の願いは聞き届けられた。
卑しいものを求める者は、王の威厳を損なう。
イスラエルは卑しいものを求め、神の怒りを招いた。彼らは神の御業の働きと恐るべき結果を畏れ敬うことを怠り、自らの腹を満たす欲望に身を任せた。彼らがまだ口の中に食べ物を含んでいながら、神の怒りは彼らに及んだ。神の栄光ある御性質にふさわしく願い事をしなさい。そうすれば、神の御前であなたの栄誉は大きくなり、神はあなたを喜ばれるであろう。
人が王に糞の入った升を求めるなら、その卑しい願いゆえに軽蔑され、無知を露呈するだけでなく、その味気ない要求によって王を侮辱することになる。祈りの中で神に物質的なものを求める者もまた、これと同じである。
見よ、天使たちと大天使たち、すなわち天使たちの長たちは、あなたが主にどのような祈りを捧げるかを知るために、祈りの時にあなたを見つめている。そして人々は、肉体を持った者が糞溜めから出てきて天上のことを尋ねるのを見て、驚嘆する。
たとえ私たちが懇願しなくても、神が私たちに与えようと切望しておられるものを、神に求めてはなりません。神は、同居する者にも、神を全く知らない者にも、いや、神の存在すら知らない者にも、それを惜しみなく与えてくださるのです。
異邦人のように、むなしい繰り返しをしてはいけません<ref>マタイ6章7節</ref>。「異邦人のように」とはどういう意味でしょうか。地上の人々は物質的なものを求めますが、あなたがたは「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」などと心配しません。あなたがたの父は、あなたがたがこれらのものすべてを必要としていることをご存じだからです<ref>マタイ6章31節以下</ref>。
息子は父にパンを求めるのではなく、父の家に蓄えられている豊かな糧を求めて祈ります。主が日々の糧について命じられたこと、すなわち祈り求めることは、人々の心の弱さゆえに、一般の人々に与えられた祈りなのです。完全な知識と健全な精神を持つ者たちに彼が命じていることをよく考えなさい。すなわち、「食物や衣服のことを思い煩ってはならない」。あなたがたの父は、魂のない鳥にさえ配慮をなさるのだから、ましてあなたがたにはなおさらである。しかし、神に御国と義を求めなさい。そうすれば、神はこれらのものも与えてくださる。
もし神があなたの願いを叶えるのが遅く、あなたが願ってもすぐに叶えられないとしても、落胆してはならない。あなたは神より賢いわけではないのだから。あなたが現状のままでいるのは、あなたの行いが願いに合致していないか、あなたの心のあり方が祈りの目的から逸れているか、あるいはあなたの内面が、その偉大さに比べて幼稚だからである。
偉大なものが容易に私たちの手に渡ることは、ふさわしくない。神の賜物が、容易に得られるからといって、取るに足りないものだとみなされてはならないからである。
苦労して得たものはすべて、慎重に守られるべきである。
イエスを渇望しなさい。そうすれば、イエスはあなたの愛を満たしてくださる。世の貴重なものに目を閉ざしなさい。そうすれば、神が与えてくださる平安があなたの心に宿るにふさわしい者と認められるであろう。
目に映る誘惑から身を遠ざけなさい。そうすれば、あなたは霊的な喜びにふさわしい者と見なされるでしょう。
もしあなたの行いが神にふさわしくないなら、神に称賛されるべきことを求めてはなりません。さもないと、あなたは神を試す者と見なされるでしょう。
祈りは行いと厳密に一致します。
肉体の束縛によって意志が妨げられている限り、人は天上のものを望むことはありません。また、地上のことに心を奪われている限り、人は神のものを求めることはありません。すべての人の望みはその行いによって明らかになります。そして、人が大切に思うものは、祈りの中で熱心に求めます。また、祈りの中で求めるものを、外的な行いによって熱心に示そうとします。
偉大なことを望む者は、卑しい者とは交わらない。
肉体に縛られていても自由であり、キリストのためにその自由の中で従順を示しなさい。そして、惑わされないように、無垢な心で賢明でありなさい。
謙遜を愛する行いを心がけなさい。そうすれば、謙遜な者が歩む道の脇に絶えず潜んでいる、目に見えない罠から解放されるでしょう。
苦難を拒んではならない。苦難を通してこそ、あなたは知識へと導かれるのだから。
誘惑を恐れてはならない。誘惑を通してこそ、あなたは貴重なものを見いだすことができるのだから。
魂の誘惑に陥らないよう祈りなさい。肉体の誘惑に対しては、全力を尽くして備え、全身全霊をかけてその中に身を投じなさい。なぜなら、肉体の誘惑なしには、神に近づくことは不可能だからである。肉体の誘惑の先には、神の安息があるのだから。
誘惑から逃れる者は、優れたものから逃れる。欲望の誘惑からではなく、苦難の誘惑から逃れるのである。
≪問い≫ 「誘惑に陥らないように祈りなさい」<ref>マタイ26章41節</ref>という聖句は、「狭い門から入るように努めなさい」<ref>ルカ13章24節</ref>、そして「体を殺す者たちを恐れてはならない」<ref>マタイ10章28節</ref>、さらに「わたしのために命を失う者は、それを見いだすであろう」<ref>マタイ10章39節</ref>と、どのように調和するのでしょうか。
主はこれらの箇所すべてにおいて、私たちに誘惑を勧めておられます。しかし同時に、誘惑に陥らないよう祈るようにと命じておられます。誘惑なしに、どのような優れた行いが成し遂げられるでしょうか。あるいは、主がご自身のために私たちに命じられた誘惑よりも強い誘惑が、他にどのようなものがあるでしょうか。「自分の十字架を負ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」<ref>マタイ10章38節</ref>。「誘惑に陥らないように祈りなさい」とありますが、主の教えには至るところに誘惑への誘惑が出てきます。そして主は、「誘惑なしには天の御国は見いだせない」と仰せられました。
ああ、主よ、あなたの教えの道はなんと狭いことでしょう。知識をもって吟味しない者は、理解力という点においては、いつまでも知識を持たないままです。
ゼベダイの子らとその母が、イエスに王国で共に座ることを願ったとき、イエスはこう問いかけました。「あなたがたは、試練の杯を喜んで受け入れることができるか。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか。」<ref>マタイ20章22節</ref> 主よ、あなたはここでどのように命じられるのですか。あなたがたが誘惑に陥らないように祈ってください。
≪問い≫ 「私たちが誘惑に陥らないように祈るべき誘惑とは何ですか。」
信仰に関する誘惑に陥らないように祈りなさい。
心の思い上がりによって、悪口と傲慢の悪魔に誘惑されないように祈りなさい。
神の許しのもとで、あなたが抱いてきた愚かな思いのために、サタンが神の許可を得てあなたに植え付けることができる、明白な感覚の誘惑に陥らないように祈りなさい。
貞潔の証しがあなたから奪われないように祈りなさい。さもなければ、あなたは彼なしに罪の炎に誘惑されるでしょう。
何事も悪用する誘惑に陥らないように祈りなさい。
それゆえ、霊的な誘惑、すなわち魂を葛藤、疑念、誘惑へと導く誘惑に陥らないよう祈りなさい。しかし、肉体的な誘惑には全身全霊で備え、涙を流しながら、全身全霊でその中に身を投じ、守護者と共に誘惑の真っただ中にいることを願いなさい。誘惑を経験せずに神の配慮を悟ることはできず、神との親密な対話を得ることもできず、霊的な知恵を学ぶこともできず、神への愛を魂に植え付けることもできないからです。
誘惑を経験する前は、人は神に見知らぬ者として祈ります。しかし、愛ゆえに苦難に身を投じ、変わらぬ心でいるならば、神に借りを負った者のように、神の同居人、神の友として、神の意志のために敵の大群と戦った者として認められるのです。これが、「誘惑に陥らないよう祈りなさい」という言葉の意味です。
さらに、あなたが誘惑に陥るのは、自己を高めるためではなく、神への愛のためであり、神の力があなたの中に現れるように祈りなさい。また、あなたの思いや行いの愚かさゆえに誘惑に陥るのではなく、あなたが神の友であることを証明し、あなたの忍耐によって神の力が栄光を受けるように祈りなさい。
「この点において、主の慈悲は偉大である。主は人間の弱さに合わせて御言葉を定めてくださる。」
さらに、主はこの点においても私たちに慈悲深く接してくださいます。肉体的な事柄を考えてみれば、神はこの点においても人間の弱さを心に留めておられることが分かります。肉体の弱さゆえに、誘惑の力が現れるたびに、私たちはそれに耐える力を持たず、結果として苦難に打ち負かされて真理の道を外れてしまう可能性があったのです。それゆえ、彼は私たちに、できる限り故意に誘惑に陥らないようにと命じている。それだけでなく、こうも言っている。「もし誘惑に遭わずに神を喜ばせることができるならば、正当な理由もなく誘惑に陥らないように祈りなさい。」
しかし、非常に優れた徳が望まれ、誘惑が襲いかかり、しかもそれが極めて恐ろしい場合、そしてその徳が人が誘惑に耐えなければ達成できないのであれば、自分自身や誰かを惜しむのはふさわしくない。恐れのために、魂の命がかかっているその偉大なことから逃げ出し、怠惰の言い訳として「誘惑に陥らないように祈りなさい」などと言ってはならない。なぜなら、戒めを守ることによって密かに罪を犯していると言われるのは、まさにそのような人々だからである。
神の戒めの一つが人から離れてしまうと、それが貞潔の状態であれ、聖潔の習慣であれ、信仰の告白であれ、神の言葉に関する証言であれ、律法の他の規定を注意深く守ることであれ、誘惑を恐れるならば、その人が堕落しないということはあり得ません。したがって、彼は完全な信頼をもって肉体を軽んじ、その魂を神に委ね、主の名において行動しなければなりません。また、ヨセフと共にエジプトの地にいて、彼の貞潔の証人であり、ダニエルと共に獅子の穴にいて、ハナニヤとその仲間と共に炉にいて、エレミヤと共に泥の穴にいて彼を救い、カルデア人の陣営の中で彼を憐れみの対象とし、ペテロと共に牢獄にいて、閉ざされた門を通って彼をそこから連れ出し、パウロと共にユダヤ人の会堂にいた方です。要するに、あらゆる世代において常にどこにいてもしもべたちと共にいて、彼らのうちに御自身の力を示し、彼らを勝利に導き、奇跡的に彼らを守り、苦難の時にも明らかに御自身の救いを彼らに示してくださった神は、彼を取り巻く嵐の真っただ中で彼を強め、守ってくださるでしょう。それゆえ、彼はマカバイ家の人々や、恐ろしい場所や困難で恐ろしい誘惑の中で神の律法と霊的な戒めを守り、世俗と肉体を捨て去り、肉体と魂の両方を圧迫する束縛に屈することなく真理にしがみつき、英雄として耐え忍んだ他の聖なる預言者、使徒、殉教者、証聖者、隠修士たちの熱意をもって、目に見えない敵とその軍勢に立ち向かうでしょう。つまり、彼らの名は主の再臨まで命の書に記されているのです。そして彼らの行いは、祝福された使徒の証言に従って、私たちの教訓と励ましのために神の定めによって書物に保存されています。それによって私たちは彼らから洞察を得て神の道を学び、彼らの物語を生き生きとしたイメージとして心に思い描き、彼らに似て、古代の人々の模範に倣って私たちの行動様式を彼らに合わせることができるのです。
知性を備えた魂にとって、神の言葉は、健康な人の舌を肥やす油分を含んだ食物のように、体を豊かにする喜びである。
義人の物語は、完全な者の耳にとって、若い木々に絶えず水をやるように、望ましいものである。
古代の人々の摂理的な導きに耳を傾けることは、弱った目にとって貴重な薬であると考えよ。そして、その記憶を一日中、常に心に留めておきなさい。それを黙想し、深く考え、そこから知恵を学びなさい。そうすれば、あなたは神の偉大さを敬虔に心に刻み、神と人との仲介者であり、二つの性質において一つであったイエス・キリストにおいて、永遠の命を見いだすことができるであろう。天使の軍勢でさえ、その威厳ある玉座を取り囲む栄光を見ることはできないが、あなたのために、彼はこの世に最も卑しく、最も謙遜な人として現れた。姿も美しさも持たない者として。そして、神の目に見えない性質は被造物の理解の及ばないところにあったが、神はすべての人の命を救うために、私たちの手足でできたベールで身を覆うことによって、摂理的な働きを成し遂げられた。
この方こそ、主が多くの民を清められた方であり<ref>イザヤ52章15節、ペシッタ訳</ref>、また、イザヤが言うように、主は私たちすべての罪をこの方に負わせられました<ref>イザヤ53章6節</ref>。主は彼を謙遜させ、苦しみに遭わせることをよしとされました<ref>イザヤ53章10節</ref>。
罪を知らない方に罪が負わされました<ref>2コリント5章21節</ref>。私たちのために、あらゆる世代にわたって摂理をもって働かれたこの方に、今も、そしていつまでも、すべての人々から栄光と賛美と感謝と崇敬が捧げられますように。アーメン。
==脚注==
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== 出典 ==
*底本: A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC)
*https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf
==関連項目==
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同志社国際高等学校の研修旅行等について (これまでの把握事項と文部科学省の見解)
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ページの作成:「{{Header |title=同志社国際高等学校の研修旅行等について (これまでの把握事項と文部科学省の見解) |year=2026 |month=5 |day=22 |notes= * 出典:[https://www.mext.go.jp/content/202600525-ope_dev02-000050128_1.pdf 文部科学省ウェブサイト] {{DEFAULTSORT:とうししやこくさいこうとうかっこうのけんしゆうりよこうとうについて_(これまてのはあくしこうともんふかかくしようのけん…」
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|title=同志社国際高等学校の研修旅行等について (これまでの把握事項と文部科学省の見解)
|year=2026
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* 出典:[https://www.mext.go.jp/content/202600525-ope_dev02-000050128_1.pdf 文部科学省ウェブサイト]
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[[カテゴリ:文部科学省報道発表]]
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__TOC__
<div style="text-align:right;">令和8年5月22日<br>
文部科学省</div>
<div style="text-align:center;margin-top:3em;">同志社国際高等学校の研修旅行等について<br>(これまでの把握事項と文部科学省の見解)</div>
<div style="margin-top:3em; margin-bottom:1em;"> 文部科学省では、本年3月16日に沖縄県名護市の辺野古沖で発生した、同志社国際高等学校における研修旅行中の重大な事故に関し、事案発生以降、所轄庁である京都府を通じて累次の確認を行ってきた。また、学校法人同志社を所轄する行政機関として、4月24日に京都府と連携して現地調査を行った。これらを通じて、これまでに把握した事項及び文部科学省の見解は、以下のとおりである。</div>
==1.研修旅行について==
===(1) 辺野古への訪問の経緯===
;【これまで確認した事項】
* 2012年以前も、一部コースで、辺野古テント村を見学することはあったこと
* 2015年から2018年までの間、一部コースで、辺野古テント村への訪問を実施したこと
* コロナ禍後、2023年3月の研修旅行初日に行う開会礼拝を牧師(「不屈」の船長と同一人物。以下「牧師」という。)に依頼した際、牧師から辺野古でのボート乗船の提案を受け、ボートに係る事前下見を行うことなく、校内で検討の上、2023年3月からコース別学習においてボート乗船を開始したこと
* 2023年3月の乗船と同様、2024年3月、2025年3月(2025年3月は当日雨天で中止)、2026年3月の乗船に関しても、事前の下見を行っていないこと
* 牧師には、キリスト教のつながりから、2018年3月の研修旅行より開会礼拝を依頼していたこと
* 各年度の研修旅行の計画は、学年の担任会、教職員会議の合議で決定・承認され、最終的には校長の責任の下、実施していたこと
;【学校からの説明】
* 2015年から辺野古テント村への訪問を開始した理由は、辺野古の問題が社会的に大きな関心事となっており、沖縄の現状を知る観点から、見識を深めさせたいと考えたため
* 2023年からボート乗船を始めたことについては、牧師への信頼が、牧師が船長を務めている船であれば、安全であるという過信へと行き過ぎた結果、旅行会社を通じた手配で安全確保等の万全の体制をとるという考えに至らなかった
===(2) 2025年度(2026年3月)の研修旅行の計画・事前準備等===
;【これまで確認した事項】
* 研修旅行に参加した259名のうち、当日は35名(欠席を含めると37名)の生徒が「辺野古をボートに乗り海から見るコース」(以下「辺野古コース」という。)に参加していたこと
* ボートへの乗船に関して、2025年度についても、学校側が、牧師と那覇市内で「例年通り」と確認したのみであり、事前下見が行われていないこと
* 転覆時、引率教員は同行していなかったこと。当初乗船予定であった教員は、当日、体調不良と乗り物酔い体質等により乗船を見送ったこと。また、2隻の船に対し、1名の引率教員しか配置されていなかったこと
* どのような船に乗るのかについて、生徒や保護者への事前説明がなされていなかったこと
* ボートへの乗船については、学校が牧師に対して直接依頼をしているが、契約書は締結しておらず、依頼文を送付するのみであり、その上で謝礼を支払っているものであること。ボート乗船に際し、牧師以外の2名の船員に対しては、学校は直接依頼をしていないが、これら船員にも謝礼を支払う予定であったこと
;【学校からの説明】
* 事前下見が行われていなかったことについて、安全管理意識が欠如していた
* 引率教員が同行していなかったことについては、重大な判断ミスであり、そのような判断を現場のみで実施できる体制を容認していたことや、バックアップ体制が不十分であったことについて、学校として落ち度があった
* 生徒や保護者に対し十分な説明ができていなかったとの指摘は重く受け止めている
<div style="margin:1em 0em 1em 0em;padding:1em;border: 1px solid black;">
;【文部科学省の見解】
* 修学旅行等(旅行・集団宿泊的行事)は、校外において集団で行動すること等に伴い、絶えず事故等の発生の可能性をはらんだものである。特に今回のように海上で抗議活動を行っているボートへの乗船という危険性の高い行為であったこと等を踏まえると、事前に下見を行う中で安全性を確認し、教職員間でその状況等を共有し乗船の必要性を吟味するとともに、当日の引率に当たって必要十分な教職員が同行する必要性があったことは言うまでもなく、加えて引率教員が同行しないとの重大な判断ミスや教職員の体調不良により対応できなかった場合の体制等を構築していなかったことなど、研修旅行の事前の計画や当日の対応が不適切であったと考える。
* また、生徒や保護者に対して事前にプログラムの詳細について十分な説明がなされず、理解の徹底が図られなかったことについても学校としての対応は不適切であったと考える。
* さらに、牧師や船員への依頼について、信用度等に関し十分な調査を行った事実や、学校としての依頼事項の明確な提示などが確認できず、牧師に対する信頼に基づき依頼をし、学校が主体性を持って安全確保を図っていたとは言えないことから、その点においても不適切であったと考える。
* 以上、学校の対応は、「修学旅行における安全確保の徹底について」(昭和63年文部事務次官通達)や、高等学校学習指導要領解説(特別活動編)等に沿ったものとは言えず、生徒が死亡するという重大な事故につながったことを踏まえれば、著しく不適切であったと考えられ、是正を図る必要がある。
</div>
==2.安全管理について==
;【これまで確認した事項】
* 学校が策定していた危機管理マニュアルの記載は、事故発生時の連絡体制等のみであり、校外活動時の事前の安全確保の検討・対策に関する記載がなかったこと
* 文部科学省が示す「学校の危機管理マニュアル作成の手引」等における校外活動時の事前の安全確保の検討・対策の項目について、学校の当初の回答では、項目の多くが「文書では作成されていないが、事前の打ち合わせ及び現地での打ち合わせでは、原則確認をしている」とのことであったが、項目に沿って対応の詳細を確認したところ以下のとおりであったこと
* 事前の現地の状況や天候把握について、今回のプログラムを想定した確認がされておらず、当日の波浪注意報の気象情報についても確認していなかったこと
* 悪天候などによる活動の変更・中止を想定した代案について、学校において事前に決めていなかったこと
* 安全面における現地固有の状況や乗船に伴うリスク(海上運送法上の事業登録の有無、航路、船の形状、通常の船着き場ではなく危険な護岸からの乗船など)について、事前に下見や実地調査などにおいて把握・確認しておらず、リスクを可能な限り軽減する取組や想定される事故等が発生した場合の対策が講じられていないこと
* 今回のプログラムは旅行会社における下見等の確認対象に入っていないにもかかわらず、学校は事前の下見等を行っておらず、現地で事故等が発生した際の対応や救護・通報にかかる施設・設備等の調査・確認を行っていないこと、また、これらの内容を今回の研修旅行の諸注意資料に記載・反映していないこと、加えて、生徒が引率教員と離れて乗船する中で、転覆時の海上保安部への通報も生徒自ら調べて通報するに至ったこと
* 訪問先の船の運航関係者との安全確保に関する事前調整を十分に行っていないこと
* 学校において、今回のプログラムに参加する生徒に対して、ライフジャケットの着用方法等の事前の安全指導・教育がなされていなかったこと
;【学校からの説明】
* 今回のプログラムの危険性について認識が甘かったこと、ボートそのものの安全性の検討や乗船に当たってのリスク分析、対策の必要性について意識が及ばなかったことは事実であり、深く反省するところである
* 現場の教員のいずれも事故の前日及び当日に波浪注意報の情報を把握していなかったことについては、危機管理マニュアルの整備・運用状況等に不備があったことが原因であると考えている
* 事前下見が行われていなかったことについて、安全管理意識が欠如していた
* 生徒が海上保安部に通報した。生徒によれば、船員もすぐに番号が分からずにおり、生徒のスマートフォンに番号が表示されたので、それで生徒が通報した
* 今回のプログラムにおける訪問先とは、安全確保について十分に事前調整できていなかった
* 今回のプログラムに参加する生徒に対して、事前に安全に関する具体的な指導はしておらず、教員がライフジャケットの着用方法等について指導していなかったことは把握している
<div style="margin:1em 0em 1em 0em;padding:1em;border: 1px solid black;">
;【文部科学省の見解】
* まず、学校保健安全法に基づいて学校ごとに策定することとされている危機管理マニュアルに関して、文部科学省が示す「学校の危機管理マニュアル作成の手引」(平成30年2月)、「学校の『危機管理マニュアル』等の評価・見直しガイドライン」(令和3年6月)、「「生きる力」をはぐくむ学校での安全教育」(平成31年3月)等における校外活動時の事前の安全確保の検討・対策についての項目・内容が、学校の危機管理マニュアルに記載されておらず、不適切であったと考える。
* また、学校における今回のプログラムの実施に当たっては、
** 本プログラムを想定して事前の現地の状況や天候把握の確認をしていなかったことや、悪天候などによる活動の変更・中止を想定した代案について事前に決めていなかったこと、
** 本プログラムは旅行会社における下見等の確認対象に入っていないにもかかわらず、安全面における現地固有の状況や乗船に伴うリスク(海上運送法上の事業登録の有無、航路、船の形状、通常の船着き場ではなく危険な護岸からの乗船など)、救護・通報にかかる施設等について、事前に下見や実地調査などにおいて把握・確認しておらず、想定される事故等が発生した場合の対策等が講じられていないこと、
** 訪問先の船の運航関係者との安全確保に関する事前調整を十分に行っていないこと、
** プログラムに参加する生徒に対して、学校からライフジャケットの着用方法等の事前の安全指導・教育が行われていないこと
:などから、文部科学省が「学校の危機管理マニュアル作成の手引」等で示す安全管理・安全確保の取組が不適切であったと考える。
*したがって、今回の研修旅行のプログラムにおける学校の安全管理・安全確保の取組は、著しく不適切であったと考えられ、是正を図る必要がある。
</div>
==3. 教育活動の状況について==
;【これまで確認した事項】
* 今年度の研修旅行の3日目は、7つの選択コースが用意されており、辺野古コースについては、教員から生徒に対し、「主たる目的は「きれいな海を見る」ことではなく、基地建設と、それに反対する人が対峙する「現場」を見ること」であるとのメッセージが送られており、生徒だけでなく、学年主任、担任が見られるものとなっていたこと
* 2026年3月の研修旅行初日の開会礼拝のメッセージにおいて、牧師より「米軍基地建設に抗議する船の船長をずっと今やっています」、「基地建設に反対し、抗議して声を上げ、ここから入るなよっていうエリアがあります(略)ここから入ったら、法律違反、法令違反、逮捕する、捕まえる、そういう線引きされるんです。あえてそこを越えて入っていって抗議します。だから当然、陸では警察機動隊に拘束される。海では海上保安庁に拘束されます。」との発言があったこと
* 2025年3月の研修旅行初日の開会礼拝のメッセージにおいて、牧師より「研修旅行で去年、グループ別で辺野古に来てくださった方々に辺野古の抗議船に乗っていただいた」、「海は危険な場所でもあるんですね。みなさんの船も極力安全にありたいけど、注意を払って船長は船を出します。外から来たお客さんが乗っていない中で抗議活動をするときも、もちろん、それを考えています(略)そういう活動の一端を見ていただけたらと思います」との発言があったこと
* 2019年3月の研修旅行初日の開会礼拝のメッセージにおいて、牧師より「牧師ですが、こうして長靴で午前中、船に乗っていたんです。辺野古の新基地建設が進められているところで私は12年、ずっとそこで海からこの工事を食い止める活動をしています。牧師ですけど、そっちで船長をしています。今日も早朝から海に出ていました」、「こんな海の格好のまま来てしまいました」との発言があったこと
* 辺野古への移設工事について扱う際に、沖縄県の見解を学習させていたことや、ワークシートで「県は何を訴えたのか」という観点で扱っていたことは確認できたこと。一方で、これ以外の様々な見解について十分な事前又は事後の学習を行っていたことが確認できないこと
* 2025年の研修旅行における謝礼の領収書の名義人の一部が「ヘリ基地反対協議会」となっていること
* 2015年から2018年にかけて作成・配布された生徒向けの研修旅行のしおりにおいて、現地のガイドからの依頼を受け、ヘリ基地反対協議会による座り込みをお願いする内容(「辺野古新基地建設反対に賛同して、この座り込み現場に来てくださったことを歓迎いたします。共に闘うために」(2015年、2016年)、「ここでの闘いは「座り込み」です。私たちの行動に賛同いただける方は、まず一緒に座り込んでください」(2015年~2018年))を掲載していたこと
* 2015年の辺野古コースに参加した生徒の感想の中には、「ヘリ基地反対協議会の共同代表」の名前を具体的に挙げた上で、その方から基地に反対する理由を聞いたと記述があること
* 平成27年通知(政治的中立性の確保)について、校内では、通知発出時点でのメールでの形式的な周知にとどまっており、今回問題になった諸事案の意思決定プロセスにおいて同通知が一度も参照されていなかったこと
;【学校からの説明】
* 高校2年の教員を中心とした一部の引率教員が、牧師が抗議活動を行っていることを事前に認識していたものの、生徒を乗船させる船が「抗議活動を行っている船(抗議船)」であるという認識を持っていた教員はごく一部にとどまっていた
* ボートへの乗船については、生徒を抗議活動に参加させるわけではなく、あくまでも平和学習のためにボートの運航を牧師に依頼したものであり、いわゆる「抗議船」としての運航ではないため、問題ないと判断した
* 一方で、抗議活動で使われているボートに生徒を乗船させること自体が、客観的に見て政治的な意味を帯びているように見える恐れがあることについて、十分な検討及び配慮ができていなかったという点については、重く受け止めている
* 開会礼拝については、信頼している牧師に開会礼拝を依頼したという認識で、特別な意図をもってメッセージをお願いしたわけではない
* 年間を通じた平和学習全体として基地問題以外にも様々な内容も扱っており、政治的中立性は確保していたと考えるが、沖縄研修旅行の辺野古コースの実施に当たっては、事前学習も含め辺野古への移設工事の扱いにバランスが取れていたかという点について、対立する意見について両方の視点が提示できていなかったことに疑いを持たれてもやむを得ない活動となっていたことは、至らない点があった
* ヘリ基地反対協議会による座り込みをお願いする文書については、生徒向けではなく、一般向けのものを掲載したものであり、現地のガイドから「辺野古テント村」がどういう場所であるかを生徒に知らせておいてほしいとの意向を受けてそのまま書き写したものであったが、生徒に依頼したと受け取られる可能性に思いが至っていなかった
* 生徒や教職員が座り込みを含む抗議活動に参加したことはなかった
<div style="margin:1em 0em 1em 0em;padding:1em;border: 1px solid black;">
;【文部科学省の見解】
* 多様な見方や考え方のできる事柄、未確定な事柄、現実の利害等の対立のある事柄等を取り上げる場合には、生徒の考えや議論が深まるよう様々な見解を提示することなどが重要であり、特定の事柄を強調しすぎたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げたりするなど、特定の見方や考え方に偏った取扱いにより、生徒が主体的に考え、判断することを妨げることのないようにすることが求められる。
* この点、同志社国際高等学校の研修旅行における辺野古への移設工事に関する学習について、これまで把握した限りでは、事前及び事後の学習を含めて、様々な見解を十分に提示していたことが確認できず、特定の見方・考え方に偏った取扱いであったと考えられる。
* また、研修旅行冒頭の開会礼拝で牧師自身が行っている辺野古への移設工事に反対する抗議活動の説明が少なくとも 2019年、2025年、2026年の複数年にわたり行われていたこと、2025年の研修旅行における謝礼の領収書の名義人の一部が「ヘリ基地反対協議会」となっていること、主たる目的として、「「きれいな海を見る」ことではなく、基地建設と、それに反対する人が対峙する「現場」を見ること」であるとのメッセージが生徒だけでなく、学年主任や担任も見られるものであったことなどから、教員の相当数が、船長が抗議船で日常的に抗議活動を行うとともに、生徒らを乗せる船が抗議船であるという認識を持っていたと考えざるを得ない。<br> その上で、当該プログラムを含む研修旅行は、同志社国際高等学校の公式の学校行事であり、研修旅行の研修内容は、教職員会議で決定・承認され、最終的には校長の責任の下、実施されたものであって、当該プログラムも、その決定プロセスで研修旅行に組み込まれ、行われたものである。学校は、生徒を乗船させる船が抗議船であるという認識を持っていた教員はごく一部にとどまっていたと述べているが、当該プログラムの具体的内容は、担当教員で計画し、当日は引率教員により実施されたものであり、当該教育活動は学校の教育活動として実施されたものであることは明らかである。
* 学校は、辺野古への移設工事に関する学習は、平和に関する学習の一環であり、政治的中立性を確保していたと説明しているが、上記のとおり様々な見解を十分に提示しておらず、教員の相当数は、船長が日常的に抗議活動を行い、生徒らを乗せる船が抗議船であるという認識を持っていたと考えざるを得ない中で、学校の研修旅行の選択プログラムの一つとして、辺野古テント村への訪問や、辺野古沖での抗議船として日常的に使用される船による見学のプログラムを組み実施していたこと、研修旅行初日の開会礼拝のメッセージにおいて牧師より複数年にわたって抗議活動に関する説明が行われていたこと、2015年から 2018年までの研修旅行のしおりの中で、ヘリ基地反対協議会による座り込みをお願いする文書を掲載していたこと、2015年の辺野古コースに参加した生徒の感想の中には、「ヘリ基地反対協議会の共同代表」の名前を具体的に挙げた上で、その方から基地に反対する理由を聞いたと記述があることなどが明らかになった。
* 以上のことを総合的に勘案すれば、現時点で把握した情報からは、辺野古への移設工事に関する学習について、政治的活動を禁じる教育基本法第14条第2項に反するものであったと考えられ、是正を図る必要がある。
* 平和に関する学習については、学習指導要領等に基づき、小中高等学校段階を通じ、児童生徒の発達段階に応じて主として社会科や地理歴史科、公民科等において指導することとされており、例えば、高等学校段階では第二次世界大戦について扱う中で、我が国においても沖縄戦などで戦禍を被ったことに着目させ、平和で民主的な国際社会の実現に努めることの重要性を自覚させるようにすることとしている。<br> 各学校が行う沖縄における平和に関する学習についても、こうした観点から教育基本法や学習指導要領等の関係法令、「高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について」(平成27年文部科学省初等中等教育局長通知)、「学校における校外活動の安全確保の徹底等について(令和8年文部科学省初等中等教育局長・総合教育政策局長・高等教育局長通知)を踏まえ、適切に行われることが必要である。
</div>
==4. 学校法人及び学校としての対応について==
===(1) 学校法人同志社としての対応===
;【これまで確認した事項】
* 研修旅行の実施日程は学校から事前に報告を受けて把握しているが、研修旅行のプログラムの詳細については、学校法人としては、事前又は事後にかかわらず把握していなかったこと
* 3月28日、学校法人同志社と利害関係を有しない第三者である弁護士により構成される特別調査委員会の設置を決定。詳細な調査項目は同委員会において検討中であるが、事実関係の認定、事実関係に基づく法的評価や原因分析、再発防止策の提言等が調査項目となる見込み。最終的な調査結果は夏頃を目途に取りまとめの見込みであるが、調査結果は、完了次第、速やかに公表を予定
* 今般の平和に関する学習の内容や過去の教育プログラム等も含めた教育活動の適切性については、特別調査委員会による調査とは別に、同委員会で解明された事実関係等も踏まえ、学校法人同志社において改めて外部の教育専門家等を含めて検証していくことを想定していること。本年8月を目途に見解を公表する予定であること
* 今後、本年10月を目途に、学校法人内に「安全管理室(仮称)」を設置し、各設置校の教育活動のリスク評価・分析するための統一基準の設定、学外活動を含むリスクへの対応状況の点検・確認や改善指示等を行うなど、学校法人としての安全管理体制の強化に取り組むこと
;【学校法人からの説明】
* これまで、学校法人としては各設置校の自主性を尊重し、行事の詳細は各設置校の判断に委ねていたが、各設置校の教育活動に関する安全管理上のリスクを設置者として把握し、必要な指導・監督をする体制が十分ではなかったことを反省しており、今後、「安全管理室(仮称)」の設置等により、学校法人としての危機管理及び安全管理体制の強化に取り組む
* また、各学校で開催される各種行事の教育内容等についても、今後は、学校長会や事務責任者会の規程を制定し、権限を伴う法人のハンドリングを明確化していく
* 同志社国際高等学校では、教職員は一度就職すると退職するまで同じ学校で勤務することが一般的であったが、それが教職員間のなれ合い、相互に干渉しない風土を生じさせていたことを踏まえ、今後は学校法人・設置校間の人事交流等を進めることにより、教職員間のチェック機能をより有効にしていくことを検討している
===(2) 学校としての対応===
;【これまで確認した事項】
* 2023年からボートへの乗船が行われる中で、
** 安全管理面においては、事前の下見や研修旅行当日の引率教員の同行、通常の船着き場ではなく護岸からの乗船、事後の生徒の感想において、警備中の船から注意を受けたり、船に乗ることに恐怖を感じたりした者がいたこと
** 教育活動面においては、抗議船として日常的に使われている船への乗船や、開会礼拝における牧師のメッセージにおいて、牧師自身が行っている辺野古への移設工事に反対する抗議活動の説明が行われていたこと、2015~2018年の研修旅行のしおりにおいて、座り込みをお願いする文書を掲載していたこと
: といった事項について、校長や管理職、教職員の間で疑問が呈されたり、議論がなされたりしたことはないこと
* 教育基本法反対及び辺野古の米軍新基地建設反対を宣教基本方策に掲げる日本基督教団京都教区のホームページ上で、関連諸団体として、同志社国際中学・高等学校が位置付けられていること
;【学校からの説明】
* 過去の研修旅行において乗船時の恐怖を生徒が感想文に記載していたことや、生徒への依頼の意図はなかったものの「辺野古テント村」への座り込み依頼を教員が軽率に掲載してしまっていたことについて、これまで教職員会議等で疑問が呈されずに前例踏襲が続き、校長の責任で止めることがなかったことについてはガバナンスの不備であると考えている。今回の研修旅行においても、校内における平和に関する学習は、これまで校内で作り上げられてきたものを、敢えて積極的に変えていくことが必要であるという考えに至らなかった
* 日本基督教団京都教区のホームページで同志社国際高等学校が関連諸団体として位置付けられているが、許諾なく掲載されているものであり、同志社国際高等学校は日本基督教団京都教区の関連諸団体ではない。また、同志社国際高等学校には、日本基督教団京都教区に所属する牧師でもある教員が在籍しているものの、同志社国際高等学校において学校教育の在り方を決定づける権限はなく、外部団体による教育内容への直接的な影響はなかった
<div style="margin:1em 0em 1em 0em;padding:1em;border: 1px solid black;">
;【文部科学省の見解】
* 「修学旅行における安全確保の徹底について」(昭和63年文部事務次官通達)において、「学校の管理機関等においては、平素から、各学校に対して、修学旅行のもつ意義と留意点についての理解の徹底を図るとともに、各学校の修学旅行の計画実施が児童生徒の安全と健康の保持上無理なく適切なものであるかにつき、十分な実態の把握と必要な指導を行うこと」とされていることも踏まえれば、まず、設置者である学校法人としての管理体制が不十分であったと考える。
* 学校が今回の事案のような教育活動を行うに当たっては、外部団体との関係の有無にかかわらず、安全性の確保はもとより、教育基本法や平成 27 年通知等を踏まえた対応が求められることはいうまでもない。しかし、学年の担任会、教職員会議、最終的には校長の責任の下での意思決定の過程において、これらの法令等を踏まえた議論が全く行われず、過去の研修旅行後の感想文で参加生徒が危険性や不安を申し述べていたことも一顧だにされず、結果として必要な見直し等が行われることなく、今回の事案に至った。<br> これらを踏まえれば、学校運営の責任者である校長の責任の下、学校組織として適切な内部チェック体制が整っていたとは言えず、適切な意思決定を行うためのガバナンスに極めて大きな問題があったと考えられ、是正を図る必要がある。<br> また、生徒や保護者に対して、事前に研修旅行のプログラムの詳細について十分な説明が行われていなかった点についても、学校としての組織的な対応が不適切であったと考える。
* 以上のことから、今回の事案に関して、設置校における安全管理も含めた教育活動の最終的な責任を負う設置者たる学校法人及び学校の責任は極めて重い。
</div>
==<今後の対応>==
* 文部科学省としては、同志社国際高等学校における研修旅行に関し、特別調査委員会や、教育の中立性に関し法人設置予定の外部有識者による検証の状況等について確認を求めつつ、学校の所轄庁である京都府とも連携し、本事案に関する保護者等への説明責任等も求めながら、検証を進めていく。
==【参考】==
=== 修学旅行における安全確保の徹底について(昭和63年3月31日付け文部事務次官通達)(抜粋)===
今回、海外を修学旅行中の生徒に多数の死傷者を出す事故が発生したことは、誠に遺憾に堪えない。<br>
小学校、中学校、高等学校等における修学旅行については、かねてから、事故の絶無を期し、安全確保のために適切な措置が講ぜられるよう配慮願っているところであるが、この際、これまでの指導の在り方を見直し、安全確保の徹底につき特段の措置が必要であると考える。<br>
ついては、特に下記の諸点について留意の上、修学旅行が安全でかつ有意義に実施されるよう特段の御配慮を願いたい。<br>
おって、貴管下の市町村教育委員会及び学校に対しこの趣旨の徹底が図られるようよろしく取り計らい願いたい。
<div style="text-align:center;margin:1em;0em;1em;0em;">記</div>
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">一 修学旅行は、平素と異なる生活環境の中にあって見聞を広げ、集団生活のきまりを守り、公衆道徳について望ましい体験を得ることなどを目的とする意義ある教育活動であるが、一方で、校外を集団で行動すること等に伴い、絶えず事故等の発生の余地をはらんだものであることを再認識する必要があること。このため、学校においては、修学旅行の計画実施に当たり、その実施のねらい、教育的意義を明らかにするとともに、旅行経路、交通機関、現地の状況等についての事前の実地調査の実施、引率体制等の充実、万一の事故発生等緊急時の連絡体制・医療体制等の点検、保護者の理解の徹底等、細心かつ周到な準備を整え、関係業者に過度に依存することなく主体性をもって修学旅行の安全確保につき万全を期すること。</div>
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">二 学校の管理機関等においては、平素から、各学校に対して、修学旅行のもつ意義と留意点についての理解の徹底を図るとともに、各学校の修学旅行の計画実施が児童生徒の安全と健康の保持上無理なく適切なものであるかにつき、十分な実態の把握と必要な指導を行うこと。また、万一、事故等緊急の対応が必要な場合、すみやかな対応のとれる体制を整えること。</div>
=== 学校保健安全法(昭和33年法律第56号)(抄)===
:(危険等発生時対処要領の作成等)
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">第29条 学校においては、児童生徒等の安全の確保を図るため、当該学校の実情に応じて、危険等発生時において当該学校の職員がとるべき措置の具体的内容及び手順を定めた対処要領(次項において「危険等発生時対処要領」という。)を作成するものとする。</div>
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">2 校長は、危険等発生時対処要領の職員に対する周知、訓練の実施その他の危険等発生時において職員が適切に対処するために必要な措置を講ずるものとする。</div>
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">3 学校においては、事故等により児童生徒等に危害が生じた場合において、当該児童生徒等及び当該事故等により心理的外傷その他の心身の健康に対する影響を受けた児童生徒等その他の関係者の心身の健康を回復させるため、これらの者に対して必要な支援を行うものとする。この場合においては、第十条の規定を準用する。</div>
=== 学校の危機管理マニュアル作成の手引」(平成30年2月)(抜粋)===
* 校外での活動を行う場合は、事前に現地の状況や気象情報などを十分に把握すること
* 悪天候などで活動を変更又は中止する場合を想定し、事前に代案を決めておくとともに、活動中は気象情報に配慮すること
* 児童生徒等が教職員から離れて活動する場合などは、児童生徒等から教職員への報告体制や学校、保護者、関係機関等への緊急連絡体制を整備すること(以上、第3章-2【2】校外活動時に事故等が発生した場合の留意点における事前の対策を参照)
* 障害のある児童生徒等が在籍する場合には、伝達方法の整備や避難経路・避難体制の整備など、障害のある児童生徒等の特性に応じた内容となるよう留意すること(第3章-10 特別支援学校等における留意点を参照)
=== 学校の『危機管理マニュアル』等の評価・見直しガイドライン」(令和3年6月)(抜粋)===
<div>◆ 校外活動における危機未然防止対策</div>
<div>(1) 事前の検討・対策</div>
<div>遠足、社会科見学、移動教室、修学旅行、その他の校外活動について、児童の安全確保の観点から以下の点についての事前の検討・対策を講じることとする。</div>
* 校外活動先における地域固有のリスク(津波・土砂災害などの自然災害、その他の事故・災害の危険性)を調査し、これを可能な限り軽減するとともに、想定される事故・災害等が発生した場合の対応を検討すること
* 事前の下見で、現地で被災した場合の様々なリスクや、活動場所近くの利用可能な施設・設備等(AED 配置場所、病院・警察署等)を調査するとともに、これを活動計画や活動のしおりに反映させること
* 訪問先・宿泊先・旅行代理店等関係者との安全確保に関する事前調整を行うこと
* 引率教職員間での連絡方法、引率教職員と在校教職員との定期的な連絡の方法について検討すること
* 災害発生時の避難経路・避難場所、情報収集手段等について確認し、全引率教職員間の共通認識とすること
* 緊急時の連絡体制(医療機関、学校、保護者)を整備し、確実に機能するかを事前に確認すること
* 一人で避難できない児童への対応について検討すること
=== 学校安全資料「生きる力」をはぐくむ学校での安全教育」(平成31年3月改訂2版)(抜粋)===
* 校外学習や学校行事については、綿密な計画の作成と安全の確認、児童生徒等への事前の安全に関する指導の十分な実施及び教職員体制が通常と異なる場合の役割分担、緊急事態が発生した場合の連絡方法等の確立などについて検討し、必要な対策を実施すること(第3章第3節2(2)校外活動時等における事故等発生時の留意点)
=== 教育基本法(平成18年法律第120号)(抄)===
:(政治教育)
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">第14条 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。</div>
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。</div>
=== 学校教育法(昭和22年法律第26号)(抄)===
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">第52条 高等学校の学科及び教育課程に関する事項は、前二条の規定及び第六十二条において読み替えて準用する第三十条第二項の規定に従い、文部科学大臣が定める。</div>
=== 学校教育法施行規則(昭和22年文部省令11号)(抄)===
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">第84条 高等学校の教育課程については、この章に定めるもののほか、教育課程の基準として文部科学大臣が別に公示する高等学校学習指導要領によるものとする。</div>
=== 高等学校学習指導要領(平成30年3月告示)(抜粋)===
<div>第2章 各学科に共通する各教科</div>
<div>第2節 地理歴史</div>
<div>第3款 各科目にわたる指導計画の作成と内容の取扱い</div>
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">2 内容の取扱いに当たっては,次の事項に配慮するものとする。
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">(3) 社会的事象については,生徒の考えが深まるよう様々な見解を提示するよう配慮し,多様な見解のある事柄,未確定な事柄を取り上げる場合には,有益適切な教材に基づいて指導するとともに,特定の事柄を強調し過ぎたり,一面的な見解を十分な配慮なく取り上げたりするなどの偏った取扱いにより,生徒が多面的・多角的に考察したり,事実を客観的に捉え,公正に判断したりすることを妨げることのないよう留意すること。</div>
</div>
<div>第3節 公民</div>
<div>第3款 各科目にわたる指導計画の作成と内容の取扱い</div>
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">2 内容の取扱いに当たっては,次の事項に配慮するものとする。
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">(3) 社会的事象等については,生徒の考えが深まるよう様々な見解を提示するよう配慮し,多様な見解のある事柄,未確定な事柄を取り上げる場合には,有益適切な教材に基づいて指導するとともに,特定の事柄を強調し過ぎたり,一面的な見解を十分な配慮なく取り上げたりするなどの偏った取扱いにより,生徒が多面的・多角的に考察したり,事実を客観的に捉え,公正に判断したりすることを妨げることのないよう留意すること。</div>
</div>
<div>第5章 特別活動</div>
<div>第2 各活動・学校行事の目標及び内容</div>
<div>〔学校行事〕</div>
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">2 内容
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">(4) 旅行・集団宿泊的行事<br> 平素と異なる生活環境にあって,見聞を広め,自然や文化などに親しむとともに,よりよい人間関係を築くなどの集団生活の在り方や公衆道徳などについての体験を積むことができるようにすること。</div>
</div>
=== 高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 特別活動編(抜粋)===
<div>第3章 各活動・学校行事の目標と内容</div>
<div>第3節 学校行事</div>
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">2 内容
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">(4)旅行・集団宿泊的行事
:(前略)
: 旅行・集団宿泊的行事としては,遠足,修学旅行,集団宿泊,野外活動などが考えられる。
: ② 実施上の留意点
: (ア~エ 略)
: オ 生徒の心身の発達の段階,安全,環境,交通事情,経済的な負担,天候,不測の事故,事故の発生時における対応策などに十分配慮し,学校や生徒の実態を踏まえた活動となるよう工夫すること。特に,教師の適切な管理の下での生徒の活動が助長されるように事故防止のための万全な配慮をすること。また,自然災害などの不測の事態に対しても,自校との連絡体制を整えるなど適切な対応ができるようにすること。(なお,計画の実施に関しては,「小学校,中学校,高等学校等の遠足・修学旅行について」(昭和43年10月2日付け,文初中第450号文部省初等中等教育局長通達),「修学旅行における安全確保の徹底について」(昭和63年3月31日付け,文初高第139号文部事務次官通達)などを参照すること。)
</div>
</div>
=== 高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について(平成27年10月29日付け初等中等教育局長通知)(抜粋)===
:第1 高等学校等における政治的教養の教育
: 教育基本法第14条第1項には「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。」とある。このことは、国家・社会の形成者として必要な資質を養うことを目標とする学校教育においては、当然要請されていることであり、日本国憲法の下における議会制民主主義など民主主義を尊重し、推進しようとする国民を育成するに当たって欠くことのできないものであること。
: また、この高等学校等における政治的教養の教育を行うに当たっては、教育基本法第14条第2項において、「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動」は禁止されていることに留意することが必要であること。
:第2 政治的教養の教育に関する指導上の留意事項
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">1. 政治的教養の教育は、学習指導要領に基づいて、校長を中心に学校として指導のねらいを明確にし、系統的、計画的な指導計画を立てて実施すること。また、教科においては公民科での指導が中心となるが、総合的な学習の時間や特別活動におけるホームルーム活動、生徒会活動、学校行事なども活用して適切な指導を行うこと。指導に当たっては、教員は個人的な主義主張を述べることは避け、公正かつ中立な立場で生徒を指導すること。</div>
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">2. 政治的教養の教育においては、議会制民主主義など民主主義の意義とともに、選挙や投票が政策に及ぼす影響などの政策形成の仕組みや選挙の具体的な投票方法など、政治や選挙についての理解を重視すること。あわせて、学校教育全体を通じて育むことが求められる、論理的思考力、現実社会の諸課題について多面的・多角的に考察し、公正に判断する力、現実社会の諸課題を見いだし、協働的に追究し解決する力、公共的な事柄に自ら参画しようとする意欲や態度を身に付けさせること。</div>
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">3. 指導に当たっては、学校が政治的中立性を確保しつつ、現実の具体的な政治的事象も取り扱い、生徒が有権者として自らの判断で権利を行使することができるよう、より一層具体的かつ実践的な指導を行うこと。<br> また、現実の具体的な政治的事象については、種々の見解があり、一つの見解が絶対的に正しく、他のものは誤りであると断定することは困難である。加えて、一般に政治は意見や信念、利害の対立状況から発生するものである。そのため、生徒が自分の意見を持ちながら、異なる意見や対立する意見を理解し、議論を交わすことを通して、自分の意見を批判的に検討し、吟味していくことが重要である。したがって、学校における政治的事象の指導においては、一つの結論を出すよりも結論に至るまでの冷静で理性的な議論の過程が重要であることを理解させること。<br> さらに、多様な見方や考え方のできる事柄、未確定な事柄、現実の利害等の対立のある事柄等を取り上げる場合には、生徒の考えや議論が深まるよう様々な見解を提示することなどが重要であること。<br> その際、特定の事柄を強調しすぎたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げたりするなど、特定の見方や考え方に偏った取扱いにより、生徒が主体的に考え、判断することを妨げることのないよう留意すること。また、補助教材の適切な取扱いに関し、同様の観点から発出された平成27年3月4日付け26文科初第1257号「学校における補助教材の適正な取扱いについて」にも留意すること。</div>
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">4. 生徒が有権者としての権利を円滑に行使することができるよう、選挙管理委員会との連携などにより、具体的な投票方法など実際の選挙の際に必要となる知識を得たり、模擬選挙や模擬議会など現実の政治を素材とした実践的な教育活動を通して理解を深めたりすることができるよう指導すること。<br> なお、多様な見解があることを生徒に理解させることなどにより、指導が全体として特定の政治上の主義若しくは施策又は特定の政党や政治的団体等を支持し、又は反対することとならないよう留意すること。</div>
<div style="margin-left:1em;text-indent:-1em;">5. 教員は、公職選挙法第137条及び日本国憲法の改正手続に関する法律(平成19年法律第51号)第103条第2項においてその地位を利用した選挙運動及び国民投票運動が禁止されており、また、その言動が生徒の人格形成に与える影響が極めて大きいことに留意し、学校の内外を問わずその地位を利用して特定の政治的立場に立って生徒に接することのないよう、また不用意に地位を利用した結果とならないようにすること。</div>
=== 学校における校外活動の安全確保の徹底等について(令和8年4月7日付け初等中等教育局長・総合教育政策局長・高等教育局長通知)(抜粋)===
: 令和8年3月16日、京都府内の高等学校における校外活動中に生徒に死傷者が出る重大な事故が発生しました。学校の管理下での教育活動の最中に、決してあってはならない事故が起きてしまったことは極めて遺憾です。
: 学校における校外活動を実施するに当たっては、事故防止等に万全の措置が必要です。学校における校外活動時を含めた児童生徒の安全の確保については、学校保健安全法第29条において各学校で「危機管理マニュアル」を作成することが義務付けられており、文部科学省としてはこれまでに、学校のマニュアル作成の参考となる「学校の危機管理マニュアル作成の手引」(平成30年2月)等を示してきたところです。また、修学旅行等における安全確保にあたり留意いただきたい点等については、関係の通知等において示してきたところです。
: 上記の事故については、現在、その詳細な調査等が進められているところでありますが、今後の各学校における校外活動の実施に当たり、今回の事故を受け、改めて、安全の確保のために配慮いただきたい点や教育活動として適切に計画・実施していただくに当たって留意いただきたい点等を下記のとおり通知しますので、今回のような痛ましい事故が二度と発生することの無いよう、対応の徹底をお願いします。
: 各学校の設置者におかれましては、本通知の趣旨を踏まえ、本年度の学校における校外活動の実施に当たり、改めて安全性が確保されているか、その実施内容が適切であるかについて確認いただくとともに、必要に応じて見直しを図っていただくようお願いいたします。
: 高等学校等については、社会全体で高校教育の支援を行っていく観点から、本年4月に新たな高等学校等就学支援金制度が開始され、その適切な実施とともに、その教育活動や学校運営に対し期待と責任が求められています。各都道府県知事にあっては所轄の私立学校及び学校法人において適切な運営がなされるよう、必要な指導・助言を行っていただきますようお願いいたします。
: 加えて、都道府県知事において上記の対応等を行う上では、地方教育行政の組織及び運営に関する法律(昭和31年法律第162号)第27条の5の規定により、教育委員会に対し、学校教育に関する専門的事項について助言又は援助を求めることができることから、必要に応じ、教育委員会の助言又は援助も得つつ、適切に対応いただくようお願いします。
: これらのことについて、各都道府県・指定都市教育委員会にあっては所管の学校及び域内の市区町村教育委員会に対して、各都道府県知事にあっては所轄の学校及び学校法人に対して、国公立大学法人の長にあっては設置する附属学校に対して、各文部科学大臣所轄学校法人理事長にあっては設置する学校に対して、株式会社立学校を認定した地方公共団体の長にあっては認可した学校に対して周知いただきますとともに、適切な対応がなされるよう、特段のご配慮をお願いします。
<div style="text-align:center;margin:1em;0em;1em;0em;">記</div>
====1. 学校における校外活動時の安全の確保について====
: 学校における校外活動時を含めた児童生徒の安全の確保については、学校保健安全法に基づき、危機管理マニュアルの作成が義務付けられており、文部科学省としては、特に校外活動等の安全の確保について、以下の通り参考資料等を示している。
: 改めて、以下資料等を参考に、各学校の「危機管理マニュアル」の記載内容を点検いただき、必要に応じて改定等を行っていただきたい。その際、「学校の『危機管理マニュアル』等の評価・見直しガイドライン」及び同ガイドラインに掲載されているチェックリストも活用しながら、各学校の「危機管理マニュアル」に沿った実際の学校における活動を徹底し、校外活動時の安全確保に万全を期していただきたい。
<div style="margin:1em 0em 1em 0em;padding:1em;border: 1px solid black;">
※「学校安全資料「生きる力」をはぐくむ学校での安全教育」(平成31年3月改訂2版)・校外学習や学校行事については、綿密な計画の作成と安全の確認、児童生徒等への事前の安全に関する指導の十分な実施及び教職員体制が通常と異なる場合の役割分担、緊急事態が発生した場合の連絡方法等の確立などについて検討し、必要な対策を実施すること</div>
<div style="margin:1em 0em 1em 0em;padding:1em;border: 1px solid black;">
:(第3章第3節2(2)校外活動時等における事故等発生時の留意点)
<div>※「学校の危機管理マニュアル作成の手引」(平成30年2月)</div>
* 校外での活動を行う場合は、事前に現地の状況や気象情報などを十分に把握すること
* 悪天候などで活動を変更又は中止する場合を想定し、事前に代案を決めておくとともに、活動中は気象情報に配慮すること
* 児童生徒等が教職員から離れて活動する場合などは、児童生徒等から教職員への報告体制や学校、保護者、関係機関等への緊急連絡体制を整備すること(以上、第3章-2【2】校外活動時に事故等が発生した場合の留意点における事前の対策を参照)
* 障害のある児童生徒等が在籍する場合には、伝達方法の整備や避難経路・避難体制の整備など、障害のある児童生徒等の特性に応じた内容となるよう留意すること(第3章-10特別支援学校等における留意点を参照)
<div>※「学校の『危機管理マニュアル』等の評価・見直しガイドライン」(令和3年6月)</div>
<div>◆ 校外活動における危機未然防止対策</div>
:(1)事前の検討・対策
: 遠足、社会科見学、移動教室、修学旅行、その他の校外活動について、児童の安全確保の観点から以下の点についての事前の検討・対策を講じることとする。
* 校外活動先における地域固有のリスク(津波・土砂災害などの自然災害、その他の事故・災害の危険性)を調査し、これを可能な限り軽減するとともに、想定される事故・災害等が発生した場合の対応を検討すること
* 事前の下見で、現地で被災した場合の様々なリスクや、活動場所近くの利用可能な施設・設備等(AED配置場所、病院・警察署等)を調査するとともに、これを活動計画や活動のしおりに反映させること
* 訪問先・宿泊先・旅行代理店等関係者との安全確保に関する事前調整を行うこと
* 引率教職員間での連絡方法、引率教職員と在校教職員との定期的な連絡の方法について検討すること
* 災害発生時の避難経路・避難場所、情報収集手段等について確認し、全引率教職員間の共通認識とすること
* 緊急時の連絡体制(医療機関、学校、保護者)を整備し、確実に機能するかを事前に確認すること
* 一人で避難できない児童への対応について検討すること
</div>
: 加えて、今般の事案を踏まえ、修学旅行等においては、利用する旅客運送の安全確保(例:関係事業者における業務運営上必要な登録や保険加入の有無等)について、予め確認すること等も重要である。
: 特に、船舶により旅客を運送する事業には、海上運送法の許認可の取得が必要となっているところである。海上運送法の許認可を取得した事業者については、安全管理規程において発航基準等を定め地方運輸局等に届出し、経営の責任者、運航管理者、船長等は安全管理規程を遵守することが義務づけられている。このため、特に修学旅行等において船舶を利用する場合には、海上運送法の許認可を取得した事業者を選定すべきである。船舶運航事業者に係る海上運送法の許認可の取得の有無については、船舶を運航する地域の地方運輸局等にお尋ねいただければ確認することが可能であり、また、船舶運航事業者の安全対策への取組状況を検索できる「旅客船事業者の安全情報検索サイト」を活用することで確認することも可能である。なお、船舶の利用時点では情報が変更となっている場合があるため、最新の情報については、地方運輸局等又は事業者へ確認することが望ましい。
====2. 旅行・集団宿泊的行事(※)における留意点について====
<div style="font-size:small;text-align:right;">(※)中学校・高等学校学習指導要領では「旅行・集団宿泊的行事」、小学校学習指導要領では「遠足・集団宿泊的行事」と規定されている</div>
: 学習指導要領上、「特別活動」の中の「学校行事」に位置づけられる修学旅行等の「旅行・集団宿泊的行事」に該当するものは、平素と異なる生活環境の中にあって、見聞を広め、自然や文化などに親しむとともに、校外における多様な集団活動を通して、よりよい人間関係を築くなどの集団生活の在り方や公衆道徳などについての体験を積むことができるようにすることを目的とする意義ある教育活動であるが、一方で、このような多様な活動の重要性を踏まえつつ、校外を集団で行動すること等に伴い、絶えず事故等の発生の余地をはらんだものであることを改めて教職員間で強く認識し、児童生徒等の安全を確保するための対応を徹底する必要がある。
: このことから、学校においては、前記1に加え、その実施に当たり、特に以下のことに留意いただきたい。
* 計画・実施に当たり、その実施のねらい、教育的意義を明らかにするとともに、これらの内容や行程等の詳細について、児童生徒や保護者に対し予め十分に説明し、不利益が生じることがないようにすること。
* 事前の実地調査や関係者間での打合せなどにより、経路、交通機関、行程の確認や現地の最新の情報等の把握に努め、安全に実施するために必要十分な情報を予め確認すること。
* 引率教職員の数は、必要十分な体制とするとともに、引率責任者を明確にするなど、その指導組織や事務分担を明らかにし、常に児童生徒を掌握し、秩序ある行動と安全が保てるよう、配慮すること。引率責任者は、計画作成の中心となり、また、その実施にあたっては、的確に状況を判断し、予期しない事情の変化に際しては、日程、経路、目的地を変更することや、引率教員の体制を見直すこと等、臨機応変の措置を取ること。
* 関係業者を利用する場合には、関係業者に過度に依存することなく、学校が主体性をもって旅行・集団宿泊的行事の安全確保につき万全を期すること。なお、関係業者については信用度等を十分に調査したうえで利用し、また、これと不明朗な関係をもつことのないよう厳に注意すること。
* 加えて、旅行・集団宿泊的行事の実施に当たっては、児童生徒への事前の安全指導の徹底を図ること。
: 学校の設置者においては、平素から、各学校に対して、旅行・集団宿泊的行事のもつ意義と留意点についての理解の徹底を図るとともに、各学校が作成した計画について、その日程、目的地、見学先、経路、交通機関等を十分検討し、特に、児童生徒の安全と健康の保持上無理なく適切なものとなるよう必要な指導を行っていただきたい。さらに、万一、事故等緊急の対応が必要な場合、すみやかな対応がとれる体制を整えていただきたい。
: その他、小学校、中学校、高等学校の学習指導要領解説(特別活動編)や、「小学校、中学校、高等学校等の遠足・修学旅行について」(昭和43年10月2日付け、文初中第450号文部省初等中等教育局長通達)、「修学旅行における安全確保の徹底について」(昭和63年3月31日付け、文初高第 139 号文部事務次官通達)などを参照いただきたい。
====3.適切な教育活動の実施について====
: 高等学校等における教育活動については、これまで教育基本法第14条第2項で「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動」が禁止されていることに留意することや、多様な見方や考え方のできる事柄、未確定な事柄、現実の利害等の対立のある事柄等を取り上げる場合には、生徒の考えや議論が深まるよう様々な見解を提示することなどが重要であり、特定の事柄を強調し過ぎたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げたりするなど、特定の見方や考え方に偏った取扱いにより、生徒が主体的に考え、判断することを妨げることのないよう留意することなどを示している(「高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について(平成27年10月29日付け、27文科初第933号初等中等教育局長通知)」)ところであるが、これらの考え方に基づき教育活動を行う必要があることは、義務教育諸学校等においても同様であることは言うまでもない。
: このことを踏まえ、各学校においては、旅行・集団宿泊的行事等を含む教育活動について、上記の趣旨に照らして適切に行われているか、適切に計画されているかについて、改めて確認し、必要に応じて見直しを図るとともに、児童生徒や保護者等の十分な理解を得るために、教育活動の趣旨や具体的な内容等について事前に十分な説明を行っていただきたい。
: また、学校の設置者においては、こうしたことが各学校において適切に行われるよう、必要な指導を行っていただきたい。
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ニネベのイサアク神秘論文集/第3論文
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242785
2026-05-30T11:49:52Z
村田ラジオ
14210
A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". の第3論文を翻訳。
242785
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|title=ニネベのイサアク神秘論文集
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*底本: [[w:ru:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC)
*ウィキソースによる日本語訳
{{DEFAULTSORT:にねへのいさあくしんひろんふんしゆう03}}
<!--[[Category:1923年]]
[[Category:キリスト教]]
[[Category:ニネベのイサアク神秘論文集|03]]-->
}}
::'''ニネベのイサアク神秘論文集'''
== 第3論文 ==
所有物を貪欲に求める性質を持たない魂は、神へと至る知恵の衝動を自らの内に見出すために、大きな努力を必要としない。世俗との繋がりから解放されることで、自然と直感の閃きが湧き上がり、そこから魂は神へと高みへと昇り、至福の境地に至ることができるからである。
外からの水が魂の源泉に流れ込まなければ、魂本来の水、すなわち常に神へと向かう素晴らしい直感が湧き上がるのである。
魂がこの状態にないときは、しばしば、魂は異国の記憶を起点としているか、感覚が外界の事物に触れて心を乱しているかのどちらかである。感覚が絶え間なく孤独に閉じ込められ、記憶がその有益な影響によって薄れていくとき、魂の思索の本質、魂の本質、そして魂に蓄えられた宝物が何であるかが分かるだろう。これらの宝物は、魂から生じる、何の努力も労力も費やさずに生じる非物質的な直観である。いや、人は、そのような思索が人間の本性に生じ得ることさえ知らず、誰が自分の師であったか、仲間に説明できないものをどのようにして見つけたか、あるいは誰からも学ばなかったものへと導いてくれたのかは誰かも知らないのだ<ref>この一節は、プロティノスが述べた啓示の自発的な性質を驚くほど彷彿とさせる。ツェラーは『ギリシャ哲学』第3巻、第2章、672ページで次のように述べている。「それは、何の仲介も準備もなく、突然の啓示によって魂の中に現れる。それがどこから来るのか、内側からなのか外側からなのかは分からない。実際、厳密に言えば、それは全く来るのではなく、即座にそこにあるのだ。」</ref>。
これが魂の本質である。したがって、情念は(ある)原因によって魂に入り込む付加的なものである。しかし、魂は本来、情念に左右されない。
聖書の中で、精神的あるいは肉体的な情念について言及されている箇所を見かけることがあるが、それらはそれらの原因について述べられている。しかし、魂は本来、情念を持たない。
しかし、このことを知らない哲学者たちは信じません。彼らの追随者たちも同様です。しかし私たちは、神がご自身の似姿を影響を受けやすいものとはされなかったと信じています。ここで言う「神の似姿」とは、肉体ではなく、目に見えない魂のことです。あらゆる像は、原型が描かれた複製です。そして、目に見える像は、目に見えないものの複製にはなり得ません。ですから、私たちは、魂の情念は彼らが言うような自然なものではないと信じています。もし誰かがこの点について議論したければ、私たちはこう問いかけます。「魂にとって自然なものとは何でしょうか?情念がなく、光に満ちていることでしょうか?それとも情念に動かされ、闇に染まっていることでしょうか?」もし魂の本質が清らかで、祝福された光の器であるならば、魂は本来の状態に戻った時に、その状態にあるはずです。しかし、情念に動かされる時、教会のすべての信徒は、魂がその本質を放棄したと告白します。したがって、情念は魂の本質に後から付加されたものです。そして、情念を心理的なものと考えるのは全くふさわしくありません。魂がそれらによって動かされるとしても、それは魂自身のものではなく、魂の外にある何かによって動かされていることは明らかである。そして、もしこれらの感情が、魂が肉体という媒介原因を通してそれらによって動かされるから自然なものだと考えられるならば、飢え、渇き、睡眠もまた、魂にとって自然なものとなるだろう。なぜなら、魂は肉体と共にそれらによって影響を受け、安らぎを得るからである。そして、これは手足の切断、発熱、痛み、病気などについても同様である。肉体は魂とのつながりによって影響を受け、魂も肉体とのつながりによって影響を受ける。肉体の経験によって喜びを感じ、肉体の苦痛と共に苦悩を受けるのである。
≪問い≫ 魂にとって自然なものとは何か、魂にとって外的なもの、そして魂にとっての本質を超えたものとは何か。<ref>この用語はストア派の著作に見られる。</ref>
魂にとって自然なものとは、感覚的にも知的にもあらゆる被造物を理解することである。魂にとっての本質を超えたものとは、神への観想によって心が動かされることである。魂にとって外的なものとは、情欲によって感情的に揺さぶられることである。また、世界の光であり、勝利者バシレイオスは次のように述べている。魂が自然な秩序にあるとき、それは高みに存在し、その性質を捨てたとき、それは下、地上に存在する。魂の居場所とされる高みには情欲は存在しない。しかし、魂の性質がその秩序を捨てたとき、魂は情欲に左右されるようになる。では、魂の情欲は、もはや魂の本質に属さないように見える今、一体どこにあるのだろうか?
魂は、肉体に宿る非難されるべき情欲によって動かされることは明らかであり、肉体の飢えや渇きによっても動かされる。しかし、これらに関する律法は存在しないため、魂はこれらのことで非難されることはない。ちょうど、時に人は神によって非難されるべき行いを命じられ、非難や叱責の代わりに良い報いを受けることがある。例えば、不法な結婚をした預言者ホセア、神への熱意から殺戮を行ったエリヤ、モーセの命令で親族を剣で刺した者たちなどが挙げられる。
しかし、肉体の性質とは別に、魂にはその性質に属するもの、すなわち怒りや憤怒があり、これらは魂の情欲であると言われている。
≪第二の問い≫ 私たちは問います。魂の欲望が神聖なものによって燃え上がるとき、それは魂の本質に属するのでしょうか、それとも地上の物質的なものに向けられるときでしょうか。また、魂の本質は、その熱意を掻き立てるもののために燃え上がると言われるとき、この情熱は、肉体の欲望、嫉妬、栄光などと結びついているとき、あるいはそれらとは正反対の方向に向かうとき、本質的なものと言えるのでしょうか。
私たちはこの議論の的となっている問いに答え、また、それについて考察します。
聖書は多くのことを寓意的に述べており、しばしば比喩的な言葉を用いています。簡潔さを期すために、魂と肉体を区別することなく、魂に属するものを肉体に、魂に属するものを肉体に当てはめることがしばしばあります。さて、賢明な人々は、聖書の目的、すなわち、聖書が何を意味しているのかを理解しています。例えば、主の神性に関する事柄においては、高尚で崇高な方法で、人間の本性にそぐわないものが主の人間性に適用され、神性にそぐわないものが主の神性に適用される。そして、聖書の言葉の意図を理解できない多くの人々がここでつまずき、二度と立ち上がることができなかった。魂と肉体に関する事柄についても同様である。
徳が魂の自然な健康であるならば、情欲はいかにして魂を苦しめ、その健康を奪う病となるとしても、健康は偶発的な病気よりも本質的に先にあることは明らかである。そして、もしこれが真実であるならば、卓越性は必然的に魂にとって自然なものであり、偶発的なものはその本質から外れたものでなければならない。なぜなら、先にあるものが自然でないということはあり得ないからである。
≪第三の問い≫ 身体の情動は、身体に本来備わっているものなのか、それとも二次的なものなのか?身体を介して魂に影響を与える情動は、二次的なものなのか、それとも自然なものなのか。
身体の情動を自然なものではないと呼ぶことは不可能である。魂に関しては、純粋さがその本質に属することは周知の事実であり、広く認められているため、この事実を鑑みて、魂が本質的に影響を受けやすいと主張する者はいないだろう。なぜなら、病気は健康に二次的なものであり、同一のものが善悪両方の性質を持つことはあり得ないことは一般的に認められているからである。いずれにせよ、どちらか一方が他方より先に存在しなければならず、より古い方が自然なものである。偶発的なものは、自然で本質的なものであるとは言えず、外部からの侵入である。そして、あらゆる偶発的および侵入は、それがいつであれ、変化と変容を伴う。しかし、自然は変化も変容もしない。
存在するすべての情念は、それぞれが本来属する性質を助け、神によって与えられたその性質の成長のために与えられています。肉体の情念は、肉体の益と成長のために神によって肉体に与えられ、霊的な情念、すなわち霊的な力は、魂の成長と益のために与えられています。肉体が情念から身を引いて、魂の性質に従うことを強いられると、肉体は傷つきます。また、魂が自身の性質を捨てて肉体の性質に従うと、魂は傷つきます。なぜなら、使徒の言葉によれば、霊は肉体を害するものを望み、肉体は霊を害するものを望むからです<ref>ガラテヤ5章17節</ref>。そして、この二つは本来互いに正反対です。したがって、神が私たちの性質に情念と罪を植え付けたからといって、誰も神を侮辱してはなりません。なぜなら、神はそれぞれの性質を秩序立てた時、その性質に成長をもたらすものを植え付けたからである。しかし、もし一方が他方と結びつくならば、それはもはや本来の領域ではなく、異質な領域へと移ってしまうのである。
≪問い≫ これらの感情が本来魂に属するものであるならば、なぜそれらを用いると魂が傷つくのでしょうか。
自然の所有物であるものは、それを傷つけません。肉体の感情の成就は肉体にとって有益で役立つのに、魂の感情は、それが魂に属するものであるならば、なぜ魂を傷つけるのでしょうか。そして、もしこれが真実であるならば、なぜ徳は肉体を苦しめ、魂には有益となるのでしょうか。あなたは、それらの本性に反するものが、これらのすべての本性を傷つける様子を見ています。なぜなら、これらのすべての本性は、自分自身のものに近づくと喜びを感じるからです。もしあなたがこれらのすべての本性の性質を知りたいと願うならば、その性質とは、それを用いることで利益を得るものであることを観察しなければなりません。そして、もしそれがこれらのもののいずれかによって苦しめられるならば、それは自分の所有物ではないものによって影響を受けていることを知るべきです。結論として、これらの性質のそれぞれが互いに反対の性質を持つことが知られているならば、魂が用いることで肉体に利益と安らぎをもたらすものはすべて、魂に属するものとみなされるべきではない。なぜなら、魂にとって自然なものは、何らかの二次的な形で魂と結びついているものを除いて、肉体にとって致命的なものだからである。肉体の弱さゆえに、魂は肉体に覆われている限り、肉体の弱さから決して解放されることはない。なぜなら、魂の本質は、その衝動が肉的な感覚と結びついており、不可解な知恵によってそれらと織り合わされているために、肉体の苦悩と結びついているからである。そして、このように混じり合っているとはいえ、衝動は衝動と、意志は意志と、すなわち肉的なものと霊的なものと区別される。そして、本質は決して複合的なものではなく、また、その所有物を否定するものでもない。そして、人間は罪や善行によって、それらの衝動を高度に均衡させようとするが、ある時には、それぞれが自らの意志を行使し、その力を示すのである。
しかし、肉体的な思考がある程度高められると、その衝動は完全に霊的な領域に現れ、理解しがたい事柄と共に天の中心を漂うようになる。しかし、それでもなお、肉体は自らの記憶を完全に失うことはできない。ちょうど、衝動が罪の領域にあるときでも、魂の美しい感情が心の中で沈黙させられることはないのと同じように。
≪問い≫ 心の清らかさとは何ですか。
悪を知らない者が心の清らかさを持つというわけではない。それは獣に等しい。また、自然によって少年期に置かれた者を心の清らかさを持つ者と呼ぶこともない。それは人間が被造物の一員ではないと主張することになる。心の清らかさとは、神聖なものに心を奪われることであり、それは多くの徳を実践した者だけが到達できる境地である。
私たちは、それに到達した者が、相反する思索を経験することなくそれを獲得したとは断言しない。そうでなければ、肉体を持つことはなかっただろう。なぜなら、私たちは、来るべき世界の前で、本性から相反する傾向を完全に浄化することはできないと考えているからである。思索の誘惑とは、それに屈服することではなく、あらゆる情念の根源となる四つの基盤のために、心の中で始まる思索の葛藤の始まりであると私は考える。だから、この世においては、たとえ戦いの達人であり、パウロのように完全な者と評される者であっても、地上の記憶を超越する者は一人もいないのだ。
しかし、肉体は自然の秩序に従って衝動によって、世界は感覚を介してその性質によって、魂は熟慮、記憶、逸脱の力によって、悪魔は前述のものの協力する力によって、これらの四つの感情の力が彼によって経験されている間は、彼はわずかに悩まされるだけであり、直観によって見られる優れたものへと引き寄せられるだろう。世界の消滅の前に、あるいは死の際に起こる移行によって、これら四つのうちの1つが消滅する可能性があるかどうか、あるいは肉体が自然が世俗的なものを求めるように促すことなく、その必要性を完全に超越することができるかどうかを判断せよ。もしこれが不合理だと見なされるならば、これら(四つの力)が存在する限り、肉体を持つすべての存在において情念が動くことは必然であり、したがって誰もが用心深く行動しなければならない。情念とは、一つや二つの情念のことではなく、肉体を持つ存在に生じるあらゆる情念のことである。しかし、もし人が弱い衝動と無害な葛藤しか経験していないとあえて言うならば、そのような人々が誰であろうと、彼らには行いではなく、大いなる心の見張りが必要であると我々は言うだろう。
≪問い≫ 知性の清らかさと心の清らかさの違いは何ですか。
知性の清らかさは心の清らかさとは異なります。ちょうど体の一部と体全体との違いがあるように。知性は魂の感覚の一つです。心は内なる感覚の中心器官であり、感覚の中の感覚を意味します。なぜなら、心は根だからです。根が聖なるものであれば、すべての枝も聖なるものです。しかし、枝の一つだけが聖なるものであれば、そうではありません。さて、聖書に少し触れ、断食と静寂を少し実践するだけで、心は以前の営みを忘れ、清められ、異質な習慣から離れます。しかし、同時に容易に汚れてしまうものでもあります。
心は、大きな苦難と世俗とのあらゆる交わりからの断絶、そしてあらゆる点における完全な禁欲によって浄化される。そして、一度浄化された心は、取るに足らない世俗的なものに触れても汚されることはない。つまり、厳しい苦闘の前にも恐れを抱かないということである。なぜなら、心は健全な胃を持ち、内臓に病を抱える者には消化しにくいあらゆる種類の食物を容易に消化できるからである。医者は言う。「消化しにくい肉はすべて、健全な体の力を増す。なぜなら、それは強い胃によって吸収されるからである。」同様に、短期間で、わずかな努力で容易に得られた浄化は、再び容易に汚される。しかし、大きな苦難を通して、長い時間をかけて魂の最も高次の部分によって得られた浄化は、取るに足らない世俗的なものに触れても危険にさらされることはない。
静かな感覚は魂に平和をもたらす。なぜなら、静かな感覚は魂に争いを経験させないからである。しかし、魂が何の感覚も持たないとき、それは闘争のない勝利である。だが、魂が怠慢になると、不動の状態を保つことができなくなり、不安が生じた後にそれを取り除こうと努力すると、魂は以前の性質、すなわち平静と自然な完全性を破壊してしまう。大多数の人々、おそらく全世界が、この原因によって最初の状態を離れてしまう<ref>油断。</ref>。二番目の習慣を一度身につけた人のうち、最初の状態に戻るのはたった一人だけである。様々な種類の許しよりも、単純さの方がはるかに優れている。
人間の本性は、戒律の境界を越えないようにするためには畏怖を必要とし、善きものを求める気持ちを掻き立てるためには愛を必要とします。そして、人はその愛のために、美しい行いを急いで行うのです。
霊的な知識は、優れた行いの後に続くものです。愛と畏怖は、その両方に先立つものです。そして、畏怖は愛に先立つものです。前者よりも後に後者を得ようとする者は、疑いなく、魂に脆い土台を築くことになります。なぜなら、これらは神によって、そこから生じるような順序で定められているからです。隣人への愛を、世俗的なものへの愛と取り替えてはなりません。なぜなら、何よりも尊いものが、その中に隠されているからです。
肉眼の目にとっての指標となる物質的な対象は、隠された視覚能力にも影響を与える性質を持ち、第二の自然観想を曇らせる情念は、自然的堅固さに対しても同様に作用する。これらは、あらゆる種類の観想の流れが途絶えるところまで、互いに同じように関連している。心が自然的堅固さの状態にあるとき、それは天使的観想の状態にある。これは、裸の心とも呼ばれる、第一の自然観想である。心が第二の自然的知識の状態にあるとき、それは肉体の乳房から乳を吸い、それによって養われる。この状態は、前述の状態の最後の衣と呼ばれ、心が最初に入る純粋さの状態の後に置かれる。それは、名誉においては後であるが、知識の最初の段階であるため、存在においては先行する。したがって、このことは第二の境地とも呼ばれる。それはまた、精神が浄化され、第二の境地、すなわち知的衝動の完成、そして神聖な観想に近い段階へと昇華するための訓練の兆候を示すものでもある<ref>上記の箇所は、フィロンの思想との関連性を、フィロンの著作(176頁以降、981頁、179頁、270頁)によく出てくる「裸の心」という用語によってすぐに明らかにしている。さらに、両者の間には一致点もあるが、相違点もある。両者とも、裸の状態を3種類に区別している。一方、フィロンによれば、それは、幼稚な状態、自然な純粋さの状態、そして浄化された状態である。フィロンによれば(176頁以降)、それは、幼稚な状態、魂が能力を失ったノアの酩酊状態、魂が地上のあらゆるものを捨てた純粋さの状態である。</ref>。
精神の最後の衣は感覚である。その裸の状態とは、非物質的な観想によって心が動かされる状態である。尊いものを見出すために、些細なことを捨てなさい。
生きている間に死んでいれば、死においても生きることはない。罪悪感に囚われて生きるのではなく、清らかな心で死になさい。キリストへの信仰のために死を迎える者だけが殉教者ではなく、キリストの戒めを守るために死ぬ者もまた殉教者である。
祈りにおいて無知であってはならない。無知ゆえに神を悲しませることになるからである。
賢明に祈ることを学びなさい。そうすれば、あなたは栄光ある者にふさわしい者と認められるであろう。
惜しみなく与えてくださる神から、尊いものを求めなさい。そうすれば、あなたの賢明な意志の選択によって、神から栄誉を受けるであろう。
ソロモンは知恵を求めたが、それとは別に地上の王国を与えられた。なぜなら、彼は王に賢明に、すなわち偉大なことを求める方法を知っていたからである。
エリシャは師に宿る霊のほんの一部を求めたが、彼の願いは聞き届けられた。
卑しいものを求める者は、王の威厳を損なう。
イスラエルは卑しいものを求め、神の怒りを招いた。彼らは神の御業の働きと恐るべき結果を畏れ敬うことを怠り、自らの腹を満たす欲望に身を任せた。彼らがまだ口の中に食べ物を含んでいながら、神の怒りは彼らに及んだ。神の栄光ある御性質にふさわしく願い事をしなさい。そうすれば、神の御前であなたの栄誉は大きくなり、神はあなたを喜ばれるであろう。
人が王に糞の入った升を求めるなら、その卑しい願いゆえに軽蔑され、無知を露呈するだけでなく、その味気ない要求によって王を侮辱することになる。祈りの中で神に物質的なものを求める者もまた、これと同じである。
見よ、天使たちと大天使たち、すなわち天使たちの長たちは、あなたが主にどのような祈りを捧げるかを知るために、祈りの時にあなたを見つめている。そして人々は、肉体を持った者が糞溜めから出てきて天上のことを尋ねるのを見て、驚嘆する。
たとえ私たちが懇願しなくても、神が私たちに与えようと切望しておられるものを、神に求めてはなりません。神は、同居する者にも、神を全く知らない者にも、いや、神の存在すら知らない者にも、それを惜しみなく与えてくださるのです。
異邦人のように、むなしい繰り返しをしてはいけません<ref>マタイ6章7節</ref>。「異邦人のように」とはどういう意味でしょうか。地上の人々は物質的なものを求めますが、あなたがたは「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」などと心配しません。あなたがたの父は、あなたがたがこれらのものすべてを必要としていることをご存じだからです<ref>マタイ6章31節以下</ref>。
息子は父にパンを求めるのではなく、父の家に蓄えられている豊かな糧を求めて祈ります。主が日々の糧について命じられたこと、すなわち祈り求めることは、人々の心の弱さゆえに、一般の人々に与えられた祈りなのです。完全な知識と健全な精神を持つ者たちに彼が命じていることをよく考えなさい。すなわち、「食物や衣服のことを思い煩ってはならない」。あなたがたの父は、魂のない鳥にさえ配慮をなさるのだから、ましてあなたがたにはなおさらである。しかし、神に御国と義を求めなさい。そうすれば、神はこれらのものも与えてくださる。
もし神があなたの願いを叶えるのが遅く、あなたが願ってもすぐに叶えられないとしても、落胆してはならない。あなたは神より賢いわけではないのだから。あなたが現状のままでいるのは、あなたの行いが願いに合致していないか、あなたの心のあり方が祈りの目的から逸れているか、あるいはあなたの内面が、その偉大さに比べて幼稚だからである。
偉大なものが容易に私たちの手に渡ることは、ふさわしくない。神の賜物が、容易に得られるからといって、取るに足りないものだとみなされてはならないからである。
苦労して得たものはすべて、慎重に守られるべきである。
イエスを渇望しなさい。そうすれば、イエスはあなたの愛を満たしてくださる。世の貴重なものに目を閉ざしなさい。そうすれば、神が与えてくださる平安があなたの心に宿るにふさわしい者と認められるであろう。
目に映る誘惑から身を遠ざけなさい。そうすれば、あなたは霊的な喜びにふさわしい者と見なされるでしょう。
もしあなたの行いが神にふさわしくないなら、神に称賛されるべきことを求めてはなりません。さもないと、あなたは神を試す者と見なされるでしょう。
祈りは行いと厳密に一致します。
肉体の束縛によって意志が妨げられている限り、人は天上のものを望むことはありません。また、地上のことに心を奪われている限り、人は神のものを求めることはありません。すべての人の望みはその行いによって明らかになります。そして、人が大切に思うものは、祈りの中で熱心に求めます。また、祈りの中で求めるものを、外的な行いによって熱心に示そうとします。
偉大なことを望む者は、卑しい者とは交わらない。
肉体に縛られていても自由であり、キリストのためにその自由の中で従順を示しなさい。そして、惑わされないように、無垢な心で賢明でありなさい。
謙遜を愛する行いを心がけなさい。そうすれば、謙遜な者が歩む道の脇に絶えず潜んでいる、目に見えない罠から解放されるでしょう。
苦難を拒んではならない。苦難を通してこそ、あなたは知識へと導かれるのだから。
誘惑を恐れてはならない。誘惑を通してこそ、あなたは貴重なものを見いだすことができるのだから。
魂の誘惑に陥らないよう祈りなさい。肉体の誘惑に対しては、全力を尽くして備え、全身全霊をかけてその中に身を投じなさい。なぜなら、肉体の誘惑なしには、神に近づくことは不可能だからである。肉体の誘惑の先には、神の安息があるのだから。
誘惑から逃れる者は、優れたものから逃れる。欲望の誘惑からではなく、苦難の誘惑から逃れるのである。
≪問い≫ 「誘惑に陥らないように祈りなさい」<ref>マタイ26章41節</ref>という聖句は、「狭い門から入るように努めなさい」<ref>ルカ13章24節</ref>、そして「体を殺す者たちを恐れてはならない」<ref>マタイ10章28節</ref>、さらに「わたしのために命を失う者は、それを見いだすであろう」<ref>マタイ10章39節</ref>と、どのように調和するのでしょうか。
主はこれらの箇所すべてにおいて、私たちに誘惑を勧めておられます。しかし同時に、誘惑に陥らないよう祈るようにと命じておられます。誘惑なしに、どのような優れた行いが成し遂げられるでしょうか。あるいは、主がご自身のために私たちに命じられた誘惑よりも強い誘惑が、他にどのようなものがあるでしょうか。「自分の十字架を負ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」<ref>マタイ10章38節</ref>。「誘惑に陥らないように祈りなさい」とありますが、主の教えには至るところに誘惑への誘惑が出てきます。そして主は、「誘惑なしには天の御国は見いだせない」と仰せられました。
ああ、主よ、あなたの教えの道はなんと狭いことでしょう。知識をもって吟味しない者は、理解力という点においては、いつまでも知識を持たないままです。
ゼベダイの子らとその母が、イエスに王国で共に座ることを願ったとき、イエスはこう問いかけました。「あなたがたは、試練の杯を喜んで受け入れることができるか。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか。」<ref>マタイ20章22節</ref> 主よ、あなたはここでどのように命じられるのですか。あなたがたが誘惑に陥らないように祈ってください。
≪問い≫ 「私たちが誘惑に陥らないように祈るべき誘惑とは何ですか。」
信仰に関する誘惑に陥らないように祈りなさい。
心の思い上がりによって、悪口と傲慢の悪魔に誘惑されないように祈りなさい。
神の許しのもとで、あなたが抱いてきた愚かな思いのために、サタンが神の許可を得てあなたに植え付けることができる、明白な感覚の誘惑に陥らないように祈りなさい。
貞潔の証しがあなたから奪われないように祈りなさい。さもなければ、あなたは彼なしに罪の炎に誘惑されるでしょう。
何事も悪用する誘惑に陥らないように祈りなさい。
それゆえ、霊的な誘惑、すなわち魂を葛藤、疑念、誘惑へと導く誘惑に陥らないよう祈りなさい。しかし、肉体的な誘惑には全身全霊で備え、涙を流しながら、全身全霊でその中に身を投じ、守護者と共に誘惑の真っただ中にいることを願いなさい。誘惑を経験せずに神の配慮を悟ることはできず、神との親密な対話を得ることもできず、霊的な知恵を学ぶこともできず、神への愛を魂に植え付けることもできないからです。
誘惑を経験する前は、人は神に見知らぬ者として祈ります。しかし、愛ゆえに苦難に身を投じ、変わらぬ心でいるならば、神に借りを負った者のように、神の同居人、神の友として、神の意志のために敵の大群と戦った者として認められるのです。これが、「誘惑に陥らないよう祈りなさい」という言葉の意味です。
さらに、あなたが誘惑に陥るのは、自己を高めるためではなく、神への愛のためであり、神の力があなたの中に現れるように祈りなさい。また、あなたの思いや行いの愚かさゆえに誘惑に陥るのではなく、あなたが神の友であることを証明し、あなたの忍耐によって神の力が栄光を受けるように祈りなさい。
「この点において、主の慈悲は偉大である。主は人間の弱さに合わせて御言葉を定めてくださる。」
さらに、主はこの点においても私たちに慈悲深く接してくださいます。肉体的な事柄を考えてみれば、神はこの点においても人間の弱さを心に留めておられることが分かります。肉体の弱さゆえに、誘惑の力が現れるたびに、私たちはそれに耐える力を持たず、結果として苦難に打ち負かされて真理の道を外れてしまう可能性があったのです。それゆえ、彼は私たちに、できる限り故意に誘惑に陥らないようにと命じている。それだけでなく、こうも言っている。「もし誘惑に遭わずに神を喜ばせることができるならば、正当な理由もなく誘惑に陥らないように祈りなさい。」
しかし、非常に優れた徳が望まれ、誘惑が襲いかかり、しかもそれが極めて恐ろしい場合、そしてその徳が人が誘惑に耐えなければ達成できないのであれば、自分自身や誰かを惜しむのはふさわしくない。恐れのために、魂の命がかかっているその偉大なことから逃げ出し、怠惰の言い訳として「誘惑に陥らないように祈りなさい」などと言ってはならない。なぜなら、戒めを守ることによって密かに罪を犯していると言われるのは、まさにそのような人々だからである。
神の戒めの一つが人から離れてしまうと、それが貞潔の状態であれ、聖潔の習慣であれ、信仰の告白であれ、神の言葉に関する証言であれ、律法の他の規定を注意深く守ることであれ、誘惑を恐れるならば、その人が堕落しないということはあり得ません。したがって、彼は完全な信頼をもって肉体を軽んじ、その魂を神に委ね、主の名において行動しなければなりません。また、ヨセフと共にエジプトの地にいて、彼の貞潔の証人であり、ダニエルと共に獅子の穴にいて、ハナニヤとその仲間と共に炉にいて、エレミヤと共に泥の穴にいて彼を救い、カルデア人の陣営の中で彼を憐れみの対象とし、ペテロと共に牢獄にいて、閉ざされた門を通って彼をそこから連れ出し、パウロと共にユダヤ人の会堂にいた方です。要するに、あらゆる世代において常にどこにいてもしもべたちと共にいて、彼らのうちに御自身の力を示し、彼らを勝利に導き、奇跡的に彼らを守り、苦難の時にも明らかに御自身の救いを彼らに示してくださった神は、彼を取り巻く嵐の真っただ中で彼を強め、守ってくださるでしょう。それゆえ、彼はマカバイ家の人々や、恐ろしい場所や困難で恐ろしい誘惑の中で神の律法と霊的な戒めを守り、世俗と肉体を捨て去り、肉体と魂の両方を圧迫する束縛に屈することなく真理にしがみつき、英雄として耐え忍んだ他の聖なる預言者、使徒、殉教者、証聖者、隠修士たちの熱意をもって、目に見えない敵とその軍勢に立ち向かうでしょう。つまり、彼らの名は主の再臨まで命の書に記されているのです。そして彼らの行いは、祝福された使徒の証言に従って、私たちの教訓と励ましのために神の定めによって書物に保存されています。それによって私たちは彼らから洞察を得て神の道を学び、彼らの物語を生き生きとしたイメージとして心に思い描き、彼らに似て、古代の人々の模範に倣って私たちの行動様式を彼らに合わせることができるのです。
知性を備えた魂にとって、神の言葉は、健康な人の舌を肥やす油分を含んだ食物のように、体を豊かにする喜びである。
義人の物語は、完全な者の耳にとって、若い木々に絶えず水をやるように、望ましいものである。
古代の人々の摂理的な導きに耳を傾けることは、弱った目にとって貴重な薬であると考えよ。そして、その記憶を一日中、常に心に留めておきなさい。それを黙想し、深く考え、そこから知恵を学びなさい。そうすれば、あなたは神の偉大さを敬虔に心に刻み、神と人との仲介者であり、二つの性質において一つであったイエス・キリストにおいて、永遠の命を見いだすことができるであろう。天使の軍勢でさえ、その威厳ある玉座を取り囲む栄光を見ることはできないが、あなたのために、彼はこの世に最も卑しく、最も謙遜な人として現れた。姿も美しさも持たない者として。そして、神の目に見えない性質は被造物の理解の及ばないところにあったが、神はすべての人の命を救うために、私たちの手足でできたベールで身を覆うことによって、摂理的な働きを成し遂げられた。
この方こそ、主が多くの民を清められた方であり<ref>イザヤ52章15節、ペシッタ訳</ref>、また、イザヤが言うように、主は私たちすべての罪をこの方に負わせられました<ref>イザヤ53章6節</ref>。主は彼を謙遜させ、苦しみに遭わせることをよしとされました<ref>イザヤ53章10節</ref>。
罪を知らない方に罪が負わされました<ref>2コリント5章21節</ref>。私たちのために、あらゆる世代にわたって摂理をもって働かれたこの方に、今も、そしていつまでも、すべての人々から栄光と賛美と感謝と崇敬が捧げられますように。アーメン。
==脚注==
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== 出典 ==
*底本: A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC)
*https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf
==関連項目==
*[[シリヤの聖イサアク全書/第三説教]]
*[[シリヤの聖イサアク全書/第四説教]]
*[[シリヤの聖イサアク全書/第五説教]]
*[[シリヤの聖イサアク全書/第六説教]]
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村田ラジオ
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*ウィキソースによる日本語訳
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::'''ニネベのイサアク神秘論文集'''
== 第3論文 ==
所有物を貪欲に求める性質を持たない魂は、神へと至る知恵の衝動を自らの内に見出すために、大きな努力を必要としない。世俗との繋がりから解放されることで、自然と直感の閃きが湧き上がり、そこから魂は神へと高みへと昇り、至福の境地に至ることができるからである。
外からの水が魂の源泉に流れ込まなければ、魂本来の水、すなわち常に神へと向かう素晴らしい直感が湧き上がるのである。
魂がこの状態にないときは、しばしば、魂は異国の記憶を起点としているか、感覚が外界の事物に触れて心を乱しているかのどちらかである。感覚が絶え間なく孤独に閉じ込められ、記憶がその有益な影響によって薄れていくとき、魂の思索の本質、魂の本質、そして魂に蓄えられた宝物が何であるかが分かるだろう。これらの宝物は、魂から生じる、何の努力も労力も費やさずに生じる非物質的な直観である。いや、人は、そのような思索が人間の本性に生じ得ることさえ知らず、誰が自分の師であったか、仲間に説明できないものをどのようにして見つけたか、あるいは誰からも学ばなかったものへと導いてくれたのかは誰かも知らないのだ<ref>この一節は、プロティノスが述べた啓示の自発的な性質を驚くほど彷彿とさせる。ツェラーは『ギリシャ哲学』第3巻、第2章、672ページで次のように述べている。「それは、何の仲介も準備もなく、突然の啓示によって魂の中に現れる。それがどこから来るのか、内側からなのか外側からなのかは分からない。実際、厳密に言えば、それは全く来るのではなく、即座にそこにあるのだ。」</ref>。
これが魂の本質である。したがって、情念は(ある)原因によって魂に入り込む付加的なものである。しかし、魂は本来、情念に左右されない。
聖書の中で、精神的あるいは肉体的な情念について言及されている箇所を見かけることがあるが、それらはそれらの原因について述べられている。しかし、魂は本来、情念を持たない。
しかし、このことを知らない哲学者たちは信じません。彼らの追随者たちも同様です。しかし私たちは、神がご自身の似姿を影響を受けやすいものとはされなかったと信じています。ここで言う「神の似姿」とは、肉体ではなく、目に見えない魂のことです。あらゆる像は、原型が描かれた複製です。そして、目に見える像は、目に見えないものの複製にはなり得ません。ですから、私たちは、魂の情念は彼らが言うような自然なものではないと信じています。もし誰かがこの点について議論したければ、私たちはこう問いかけます。「魂にとって自然なものとは何でしょうか?情念がなく、光に満ちていることでしょうか?それとも情念に動かされ、闇に染まっていることでしょうか?」もし魂の本質が清らかで、祝福された光の器であるならば、魂は本来の状態に戻った時に、その状態にあるはずです。しかし、情念に動かされる時、教会のすべての信徒は、魂がその本質を放棄したと告白します。したがって、情念は魂の本質に後から付加されたものです。そして、情念を心理的なものと考えるのは全くふさわしくありません。魂がそれらによって動かされるとしても、それは魂自身のものではなく、魂の外にある何かによって動かされていることは明らかである。そして、もしこれらの感情が、魂が肉体という媒介原因を通してそれらによって動かされるから自然なものだと考えられるならば、飢え、渇き、睡眠もまた、魂にとって自然なものとなるだろう。なぜなら、魂は肉体と共にそれらによって影響を受け、安らぎを得るからである。そして、これは手足の切断、発熱、痛み、病気などについても同様である。肉体は魂とのつながりによって影響を受け、魂も肉体とのつながりによって影響を受ける。肉体の経験によって喜びを感じ、肉体の苦痛と共に苦悩を受けるのである。
≪問い≫ 魂にとって自然なものとは何か、魂にとって外的なもの、そして魂にとっての本質を超えたものとは何か。<ref>この用語はストア派の著作に見られる。</ref>
魂にとって自然なものとは、感覚的にも知的にもあらゆる被造物を理解することである。魂にとっての本質を超えたものとは、神への観想によって心が動かされることである。魂にとって外的なものとは、情欲によって感情的に揺さぶられることである。また、世界の光であり、勝利者バシレイオスは次のように述べている。魂が自然な秩序にあるとき、それは高みに存在し、その性質を捨てたとき、それは下、地上に存在する。魂の居場所とされる高みには情欲は存在しない。しかし、魂の性質がその秩序を捨てたとき、魂は情欲に左右されるようになる。では、魂の情欲は、もはや魂の本質に属さないように見える今、一体どこにあるのだろうか?
魂は、肉体に宿る非難されるべき情欲によって動かされることは明らかであり、肉体の飢えや渇きによっても動かされる。しかし、これらに関する律法は存在しないため、魂はこれらのことで非難されることはない。ちょうど、時に人は神によって非難されるべき行いを命じられ、非難や叱責の代わりに良い報いを受けることがある。例えば、不法な結婚をした預言者ホセア、神への熱意から殺戮を行ったエリヤ、モーセの命令で親族を剣で刺した者たちなどが挙げられる。
しかし、肉体の性質とは別に、魂にはその性質に属するもの、すなわち怒りや憤怒があり、これらは魂の情欲であると言われている。
≪第二の問い≫ 私たちは問います。魂の欲望が神聖なものによって燃え上がるとき、それは魂の本質に属するのでしょうか、それとも地上の物質的なものに向けられるときでしょうか。また、魂の本質は、その熱意を掻き立てるもののために燃え上がると言われるとき、この情熱は、肉体の欲望、嫉妬、栄光などと結びついているとき、あるいはそれらとは正反対の方向に向かうとき、本質的なものと言えるのでしょうか。
私たちはこの議論の的となっている問いに答え、また、それについて考察します。
聖書は多くのことを寓意的に述べており、しばしば比喩的な言葉を用いています。簡潔さを期すために、魂と肉体を区別することなく、魂に属するものを肉体に、魂に属するものを肉体に当てはめることがしばしばあります。さて、賢明な人々は、聖書の目的、すなわち、聖書が何を意味しているのかを理解しています。例えば、主の神性に関する事柄においては、高尚で崇高な方法で、人間の本性にそぐわないものが主の人間性に適用され、神性にそぐわないものが主の神性に適用される。そして、聖書の言葉の意図を理解できない多くの人々がここでつまずき、二度と立ち上がることができなかった。魂と肉体に関する事柄についても同様である。
徳が魂の自然な健康であるならば、情欲はいかにして魂を苦しめ、その健康を奪う病となるとしても、健康は偶発的な病気よりも本質的に先にあることは明らかである。そして、もしこれが真実であるならば、卓越性は必然的に魂にとって自然なものであり、偶発的なものはその本質から外れたものでなければならない。なぜなら、先にあるものが自然でないということはあり得ないからである。
≪第三の問い≫ 身体の情動は、身体に本来備わっているものなのか、それとも二次的なものなのか?身体を介して魂に影響を与える情動は、二次的なものなのか、それとも自然なものなのか。
身体の情動を自然なものではないと呼ぶことは不可能である。魂に関しては、純粋さがその本質に属することは周知の事実であり、広く認められているため、この事実を鑑みて、魂が本質的に影響を受けやすいと主張する者はいないだろう。なぜなら、病気は健康に二次的なものであり、同一のものが善悪両方の性質を持つことはあり得ないことは一般的に認められているからである。いずれにせよ、どちらか一方が他方より先に存在しなければならず、より古い方が自然なものである。偶発的なものは、自然で本質的なものであるとは言えず、外部からの侵入である。そして、あらゆる偶発的および侵入は、それがいつであれ、変化と変容を伴う。しかし、自然は変化も変容もしない。
存在するすべての情念は、それぞれが本来属する性質を助け、神によって与えられたその性質の成長のために与えられています。肉体の情念は、肉体の益と成長のために神によって肉体に与えられ、霊的な情念、すなわち霊的な力は、魂の成長と益のために与えられています。肉体が情念から身を引いて、魂の性質に従うことを強いられると、肉体は傷つきます。また、魂が自身の性質を捨てて肉体の性質に従うと、魂は傷つきます。なぜなら、使徒の言葉によれば、霊は肉体を害するものを望み、肉体は霊を害するものを望むからです<ref>ガラテヤ5章17節</ref>。そして、この二つは本来互いに正反対です。したがって、神が私たちの性質に情念と罪を植え付けたからといって、誰も神を侮辱してはなりません。なぜなら、神はそれぞれの性質を秩序立てた時、その性質に成長をもたらすものを植え付けたからである。しかし、もし一方が他方と結びつくならば、それはもはや本来の領域ではなく、異質な領域へと移ってしまうのである。
≪問い≫ これらの感情が本来魂に属するものであるならば、なぜそれらを用いると魂が傷つくのでしょうか。
自然の所有物であるものは、それを傷つけません。肉体の感情の成就は肉体にとって有益で役立つのに、魂の感情は、それが魂に属するものであるならば、なぜ魂を傷つけるのでしょうか。そして、もしこれが真実であるならば、なぜ徳は肉体を苦しめ、魂には有益となるのでしょうか。あなたは、それらの本性に反するものが、これらのすべての本性を傷つける様子を見ています。なぜなら、これらのすべての本性は、自分自身のものに近づくと喜びを感じるからです。もしあなたがこれらのすべての本性の性質を知りたいと願うならば、その性質とは、それを用いることで利益を得るものであることを観察しなければなりません。そして、もしそれがこれらのもののいずれかによって苦しめられるならば、それは自分の所有物ではないものによって影響を受けていることを知るべきです。結論として、これらの性質のそれぞれが互いに反対の性質を持つことが知られているならば、魂が用いることで肉体に利益と安らぎをもたらすものはすべて、魂に属するものとみなされるべきではない。なぜなら、魂にとって自然なものは、何らかの二次的な形で魂と結びついているものを除いて、肉体にとって致命的なものだからである。肉体の弱さゆえに、魂は肉体に覆われている限り、肉体の弱さから決して解放されることはない。なぜなら、魂の本質は、その衝動が肉的な感覚と結びついており、不可解な知恵によってそれらと織り合わされているために、肉体の苦悩と結びついているからである。そして、このように混じり合っているとはいえ、衝動は衝動と、意志は意志と、すなわち肉的なものと霊的なものと区別される。そして、本質は決して複合的なものではなく、また、その所有物を否定するものでもない。そして、人間は罪や善行によって、それらの衝動を高度に均衡させようとするが、ある時には、それぞれが自らの意志を行使し、その力を示すのである。
しかし、肉体的な思考がある程度高められると、その衝動は完全に霊的な領域に現れ、理解しがたい事柄と共に天の中心を漂うようになる。しかし、それでもなお、肉体は自らの記憶を完全に失うことはできない。ちょうど、衝動が罪の領域にあるときでも、魂の美しい感情が心の中で沈黙させられることはないのと同じように。
≪問い≫ 心の清らかさとは何ですか。
悪を知らない者が心の清らかさを持つというわけではない。それは獣に等しい。また、自然によって少年期に置かれた者を心の清らかさを持つ者と呼ぶこともない。それは人間が被造物の一員ではないと主張することになる。心の清らかさとは、神聖なものに心を奪われることであり、それは多くの徳を実践した者だけが到達できる境地である。
私たちは、それに到達した者が、相反する思索を経験することなくそれを獲得したとは断言しない。そうでなければ、肉体を持つことはなかっただろう。なぜなら、私たちは、来るべき世界の前で、本性から相反する傾向を完全に浄化することはできないと考えているからである。思索の誘惑とは、それに屈服することではなく、あらゆる情念の根源となる四つの基盤のために、心の中で始まる思索の葛藤の始まりであると私は考える。だから、この世においては、たとえ戦いの達人であり、パウロのように完全な者と評される者であっても、地上の記憶を超越する者は一人もいないのだ。
しかし、肉体は自然の秩序に従って衝動によって、世界は感覚を介してその性質によって、魂は熟慮、記憶、逸脱の力によって、悪魔は前述のものの協力する力によって、これらの四つの感情の力が彼によって経験されている間は、彼はわずかに悩まされるだけであり、直観によって見られる優れたものへと引き寄せられるだろう。世界の消滅の前に、あるいは死の際に起こる移行によって、これら四つのうちの1つが消滅する可能性があるかどうか、あるいは肉体が自然が世俗的なものを求めるように促すことなく、その必要性を完全に超越することができるかどうかを判断せよ。もしこれが不合理だと見なされるならば、これら(四つの力)が存在する限り、肉体を持つすべての存在において情念が動くことは必然であり、したがって誰もが用心深く行動しなければならない。情念とは、一つや二つの情念のことではなく、肉体を持つ存在に生じるあらゆる情念のことである。しかし、もし人が弱い衝動と無害な葛藤しか経験していないとあえて言うならば、そのような人々が誰であろうと、彼らには行いではなく、大いなる心の見張りが必要であると我々は言うだろう。
≪問い≫ 知性の清らかさと心の清らかさの違いは何ですか。
知性の清らかさは心の清らかさとは異なります。ちょうど体の一部と体全体との違いがあるように。知性は魂の感覚の一つです。心は内なる感覚の中心器官であり、感覚の中の感覚を意味します。なぜなら、心は根だからです。根が聖なるものであれば、すべての枝も聖なるものです。しかし、枝の一つだけが聖なるものであれば、そうではありません。さて、聖書に少し触れ、断食と静寂を少し実践するだけで、心は以前の営みを忘れ、清められ、異質な習慣から離れます。しかし、同時に容易に汚れてしまうものでもあります。
心は、大きな苦難と世俗とのあらゆる交わりからの断絶、そしてあらゆる点における完全な禁欲によって浄化される。そして、一度浄化された心は、取るに足らない世俗的なものに触れても汚されることはない。つまり、厳しい苦闘の前にも恐れを抱かないということである。なぜなら、心は健全な胃を持ち、内臓に病を抱える者には消化しにくいあらゆる種類の食物を容易に消化できるからである。医者は言う。「消化しにくい肉はすべて、健全な体の力を増す。なぜなら、それは強い胃によって吸収されるからである。」同様に、短期間で、わずかな努力で容易に得られた浄化は、再び容易に汚される。しかし、大きな苦難を通して、長い時間をかけて魂の最も高次の部分によって得られた浄化は、取るに足らない世俗的なものに触れても危険にさらされることはない。
静かな感覚は魂に平和をもたらす。なぜなら、静かな感覚は魂に争いを経験させないからである。しかし、魂が何の感覚も持たないとき、それは闘争のない勝利である。だが、魂が怠慢になると、不動の状態を保つことができなくなり、不安が生じた後にそれを取り除こうと努力すると、魂は以前の性質、すなわち平静と自然な完全性を破壊してしまう。大多数の人々、おそらく全世界が、この原因によって最初の状態を離れてしまう<ref>油断。</ref>。二番目の習慣を一度身につけた人のうち、最初の状態に戻るのはたった一人だけである。様々な種類の許しよりも、単純さの方がはるかに優れている。
人間の本性は、戒律の境界を越えないようにするためには畏怖を必要とし、善きものを求める気持ちを掻き立てるためには愛を必要とします。そして、人はその愛のために、美しい行いを急いで行うのです。
霊的な知識は、優れた行いの後に続くものです。愛と畏怖は、その両方に先立つものです。そして、畏怖は愛に先立つものです。前者よりも後に後者を得ようとする者は、疑いなく、魂に脆い土台を築くことになります。なぜなら、これらは神によって、そこから生じるような順序で定められているからです。隣人への愛を、世俗的なものへの愛と取り替えてはなりません。なぜなら、何よりも尊いものが、その中に隠されているからです。
肉眼の目にとっての指標となる物質的な対象は、隠された視覚能力にも影響を与える性質を持ち、第二の自然観想を曇らせる情念は、自然的堅固さに対しても同様に作用する。これらは、あらゆる種類の観想の流れが途絶えるところまで、互いに同じように関連している。心が自然的堅固さの状態にあるとき、それは天使的観想の状態にある。これは、裸の心とも呼ばれる、第一の自然観想である。心が第二の自然的知識の状態にあるとき、それは肉体の乳房から乳を吸い、それによって養われる。この状態は、前述の状態の最後の衣と呼ばれ、心が最初に入る純粋さの状態の後に置かれる。それは、名誉においては後であるが、知識の最初の段階であるため、存在においては先行する。したがって、このことは第二の境地とも呼ばれる。それはまた、精神が浄化され、第二の境地、すなわち知的衝動の完成、そして神聖な観想に近い段階へと昇華するための訓練の兆候を示すものでもある<ref>上記の箇所は、フィロンの思想との関連性を、フィロンの著作(176頁以降、981頁、179頁、270頁)によく出てくる「裸の心」という用語によってすぐに明らかにしている。さらに、両者の間には一致点もあるが、相違点もある。両者とも、裸の状態を3種類に区別している。一方、フィロンによれば、それは、幼稚な状態、自然な純粋さの状態、そして浄化された状態である。フィロンによれば(176頁以降)、それは、幼稚な状態、魂が能力を失ったノアの酩酊状態、魂が地上のあらゆるものを捨てた純粋さの状態である。</ref>。
精神の最後の衣は感覚である。その裸の状態とは、非物質的な観想によって心が動かされる状態である。尊いものを見出すために、些細なことを捨てなさい。
生きている間に死んでいれば、死においても生きることはない。罪悪感に囚われて生きるのではなく、清らかな心で死になさい。キリストへの信仰のために死を迎える者だけが殉教者ではなく、キリストの戒めを守るために死ぬ者もまた殉教者である。
祈りにおいて無知であってはならない。無知ゆえに神を悲しませることになるからである。
賢明に祈ることを学びなさい。そうすれば、あなたは栄光ある者にふさわしい者と認められるであろう。
惜しみなく与えてくださる神から、尊いものを求めなさい。そうすれば、あなたの賢明な意志の選択によって、神から栄誉を受けるであろう。
ソロモンは知恵を求めたが、それとは別に地上の王国を与えられた。なぜなら、彼は王に賢明に、すなわち偉大なことを求める方法を知っていたからである。
エリシャは師に宿る霊のほんの一部を求めたが、彼の願いは聞き届けられた。
卑しいものを求める者は、王の威厳を損なう。
イスラエルは卑しいものを求め、神の怒りを招いた。彼らは神の御業の働きと恐るべき結果を畏れ敬うことを怠り、自らの腹を満たす欲望に身を任せた。彼らがまだ口の中に食べ物を含んでいながら、神の怒りは彼らに及んだ。神の栄光ある御性質にふさわしく願い事をしなさい。そうすれば、神の御前であなたの栄誉は大きくなり、神はあなたを喜ばれるであろう。
人が王に糞の入った升を求めるなら、その卑しい願いゆえに軽蔑され、無知を露呈するだけでなく、その味気ない要求によって王を侮辱することになる。祈りの中で神に物質的なものを求める者もまた、これと同じである。
見よ、天使たちと大天使たち、すなわち天使たちの長たちは、あなたが主にどのような祈りを捧げるかを知るために、祈りの時にあなたを見つめている。そして人々は、肉体を持った者が糞溜めから出てきて天上のことを尋ねるのを見て、驚嘆する。
たとえ私たちが懇願しなくても、神が私たちに与えようと切望しておられるものを、神に求めてはなりません。神は、同居する者にも、神を全く知らない者にも、いや、神の存在すら知らない者にも、それを惜しみなく与えてくださるのです。
異邦人のように、むなしい繰り返しをしてはいけません<ref>マタイ6章7節</ref>。「異邦人のように」とはどういう意味でしょうか。地上の人々は物質的なものを求めますが、あなたがたは「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」などと心配しません。あなたがたの父は、あなたがたがこれらのものすべてを必要としていることをご存じだからです<ref>マタイ6章31節以下</ref>。
息子は父にパンを求めるのではなく、父の家に蓄えられている豊かな糧を求めて祈ります。主が日々の糧について命じられたこと、すなわち祈り求めることは、人々の心の弱さゆえに、一般の人々に与えられた祈りなのです。完全な知識と健全な精神を持つ者たちに彼が命じていることをよく考えなさい。すなわち、「食物や衣服のことを思い煩ってはならない」。あなたがたの父は、魂のない鳥にさえ配慮をなさるのだから、ましてあなたがたにはなおさらである。しかし、神に御国と義を求めなさい。そうすれば、神はこれらのものも与えてくださる。
もし神があなたの願いを叶えるのが遅く、あなたが願ってもすぐに叶えられないとしても、落胆してはならない。あなたは神より賢いわけではないのだから。あなたが現状のままでいるのは、あなたの行いが願いに合致していないか、あなたの心のあり方が祈りの目的から逸れているか、あるいはあなたの内面が、その偉大さに比べて幼稚だからである。
偉大なものが容易に私たちの手に渡ることは、ふさわしくない。神の賜物が、容易に得られるからといって、取るに足りないものだとみなされてはならないからである。
苦労して得たものはすべて、慎重に守られるべきである。
イエスを渇望しなさい。そうすれば、イエスはあなたの愛を満たしてくださる。世の貴重なものに目を閉ざしなさい。そうすれば、神が与えてくださる平安があなたの心に宿るにふさわしい者と認められるであろう。
目に映る誘惑から身を遠ざけなさい。そうすれば、あなたは霊的な喜びにふさわしい者と見なされるでしょう。
もしあなたの行いが神にふさわしくないなら、神に称賛されるべきことを求めてはなりません。さもないと、あなたは神を試す者と見なされるでしょう。
祈りは行いと厳密に一致します。
肉体の束縛によって意志が妨げられている限り、人は天上のものを望むことはありません。また、地上のことに心を奪われている限り、人は神のものを求めることはありません。すべての人の望みはその行いによって明らかになります。そして、人が大切に思うものは、祈りの中で熱心に求めます。また、祈りの中で求めるものを、外的な行いによって熱心に示そうとします。
偉大なことを望む者は、卑しい者とは交わらない。
肉体に縛られていても自由であり、キリストのためにその自由の中で従順を示しなさい。そして、惑わされないように、無垢な心で賢明でありなさい。
謙遜を愛する行いを心がけなさい。そうすれば、謙遜な者が歩む道の脇に絶えず潜んでいる、目に見えない罠から解放されるでしょう。
苦難を拒んではならない。苦難を通してこそ、あなたは知識へと導かれるのだから。
誘惑を恐れてはならない。誘惑を通してこそ、あなたは貴重なものを見いだすことができるのだから。
魂の誘惑に陥らないよう祈りなさい。肉体の誘惑に対しては、全力を尽くして備え、全身全霊をかけてその中に身を投じなさい。なぜなら、肉体の誘惑なしには、神に近づくことは不可能だからである。肉体の誘惑の先には、神の安息があるのだから。
誘惑から逃れる者は、優れたものから逃れる。欲望の誘惑からではなく、苦難の誘惑から逃れるのである。
≪問い≫ 「誘惑に陥らないように祈りなさい」<ref>マタイ26章41節</ref>という聖句は、「狭い門から入るように努めなさい」<ref>ルカ13章24節</ref>、そして「体を殺す者たちを恐れてはならない」<ref>マタイ10章28節</ref>、さらに「わたしのために命を失う者は、それを見いだすであろう」<ref>マタイ10章39節</ref>と、どのように調和するのでしょうか。
主はこれらの箇所すべてにおいて、私たちに誘惑を勧めておられます。しかし同時に、誘惑に陥らないよう祈るようにと命じておられます。誘惑なしに、どのような優れた行いが成し遂げられるでしょうか。あるいは、主がご自身のために私たちに命じられた誘惑よりも強い誘惑が、他にどのようなものがあるでしょうか。「自分の十字架を負ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」<ref>マタイ10章38節</ref>。「誘惑に陥らないように祈りなさい」とありますが、主の教えには至るところに誘惑への誘惑が出てきます。そして主は、「誘惑なしには天の御国は見いだせない」と仰せられました。
ああ、主よ、あなたの教えの道はなんと狭いことでしょう。知識をもって吟味しない者は、理解力という点においては、いつまでも知識を持たないままです。
ゼベダイの子らとその母が、イエスに王国で共に座ることを願ったとき、イエスはこう問いかけました。「あなたがたは、試練の杯を喜んで受け入れることができるか。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか。」<ref>マタイ20章22節</ref> 主よ、あなたはここでどのように命じられるのですか。あなたがたが誘惑に陥らないように祈ってください。
≪問い≫ 「私たちが誘惑に陥らないように祈るべき誘惑とは何ですか。」
信仰に関する誘惑に陥らないように祈りなさい。
心の思い上がりによって、悪口と傲慢の悪魔に誘惑されないように祈りなさい。
神の許しのもとで、あなたが抱いてきた愚かな思いのために、サタンが神の許可を得てあなたに植え付けることができる、明白な感覚の誘惑に陥らないように祈りなさい。
貞潔の証しがあなたから奪われないように祈りなさい。さもなければ、あなたは彼なしに罪の炎に誘惑されるでしょう。
何事も悪用する誘惑に陥らないように祈りなさい。
それゆえ、霊的な誘惑、すなわち魂を葛藤、疑念、誘惑へと導く誘惑に陥らないよう祈りなさい。しかし、肉体的な誘惑には全身全霊で備え、涙を流しながら、全身全霊でその中に身を投じ、守護者と共に誘惑の真っただ中にいることを願いなさい。誘惑を経験せずに神の配慮を悟ることはできず、神との親密な対話を得ることもできず、霊的な知恵を学ぶこともできず、神への愛を魂に植え付けることもできないからです。
誘惑を経験する前は、人は神に見知らぬ者として祈ります。しかし、愛ゆえに苦難に身を投じ、変わらぬ心でいるならば、神に借りを負った者のように、神の同居人、神の友として、神の意志のために敵の大群と戦った者として認められるのです。これが、「誘惑に陥らないよう祈りなさい」という言葉の意味です。
さらに、あなたが誘惑に陥るのは、自己を高めるためではなく、神への愛のためであり、神の力があなたの中に現れるように祈りなさい。また、あなたの思いや行いの愚かさゆえに誘惑に陥るのではなく、あなたが神の友であることを証明し、あなたの忍耐によって神の力が栄光を受けるように祈りなさい。
「この点において、主の慈悲は偉大である。主は人間の弱さに合わせて御言葉を定めてくださる。」
さらに、主はこの点においても私たちに慈悲深く接してくださいます。肉体的な事柄を考えてみれば、神はこの点においても人間の弱さを心に留めておられることが分かります。肉体の弱さゆえに、誘惑の力が現れるたびに、私たちはそれに耐える力を持たず、結果として苦難に打ち負かされて真理の道を外れてしまう可能性があったのです。それゆえ、彼は私たちに、できる限り故意に誘惑に陥らないようにと命じている。それだけでなく、こうも言っている。「もし誘惑に遭わずに神を喜ばせることができるならば、正当な理由もなく誘惑に陥らないように祈りなさい。」
しかし、非常に優れた徳が望まれ、誘惑が襲いかかり、しかもそれが極めて恐ろしい場合、そしてその徳が人が誘惑に耐えなければ達成できないのであれば、自分自身や誰かを惜しむのはふさわしくない。恐れのために、魂の命がかかっているその偉大なことから逃げ出し、怠惰の言い訳として「誘惑に陥らないように祈りなさい」などと言ってはならない。なぜなら、戒めを守ることによって密かに罪を犯していると言われるのは、まさにそのような人々だからである。
神の戒めの一つが人から離れてしまうと、それが貞潔の状態であれ、聖潔の習慣であれ、信仰の告白であれ、神の言葉に関する証言であれ、律法の他の規定を注意深く守ることであれ、誘惑を恐れるならば、その人が堕落しないということはあり得ません。したがって、彼は完全な信頼をもって肉体を軽んじ、その魂を神に委ね、主の名において行動しなければなりません。また、ヨセフと共にエジプトの地にいて、彼の貞潔の証人であり、ダニエルと共に獅子の穴にいて、ハナニヤとその仲間と共に炉にいて、エレミヤと共に泥の穴にいて彼を救い、カルデア人の陣営の中で彼を憐れみの対象とし、ペテロと共に牢獄にいて、閉ざされた門を通って彼をそこから連れ出し、パウロと共にユダヤ人の会堂にいた方です。要するに、あらゆる世代において常にどこにいてもしもべたちと共にいて、彼らのうちに御自身の力を示し、彼らを勝利に導き、奇跡的に彼らを守り、苦難の時にも明らかに御自身の救いを彼らに示してくださった神は、彼を取り巻く嵐の真っただ中で彼を強め、守ってくださるでしょう。それゆえ、彼はマカバイ家の人々や、恐ろしい場所や困難で恐ろしい誘惑の中で神の律法と霊的な戒めを守り、世俗と肉体を捨て去り、肉体と魂の両方を圧迫する束縛に屈することなく真理にしがみつき、英雄として耐え忍んだ他の聖なる預言者、使徒、殉教者、証聖者、隠修士たちの熱意をもって、目に見えない敵とその軍勢に立ち向かうでしょう。つまり、彼らの名は主の再臨まで命の書に記されているのです。そして彼らの行いは、祝福された使徒の証言に従って、私たちの教訓と励ましのために神の定めによって書物に保存されています。それによって私たちは彼らから洞察を得て神の道を学び、彼らの物語を生き生きとしたイメージとして心に思い描き、彼らに似て、古代の人々の模範に倣って私たちの行動様式を彼らに合わせることができるのです。
知性を備えた魂にとって、神の言葉は、健康な人の舌を肥やす油分を含んだ食物のように、体を豊かにする喜びである。
義人の物語は、完全な者の耳にとって、若い木々に絶えず水をやるように、望ましいものである。
古代の人々の摂理的な導きに耳を傾けることは、弱った目にとって貴重な薬であると考えよ。そして、その記憶を一日中、常に心に留めておきなさい。それを黙想し、深く考え、そこから知恵を学びなさい。そうすれば、あなたは神の偉大さを敬虔に心に刻み、神と人との仲介者であり、二つの性質において一つであったイエス・キリストにおいて、永遠の命を見いだすことができるであろう。天使の軍勢でさえ、その威厳ある玉座を取り囲む栄光を見ることはできないが、あなたのために、彼はこの世に最も卑しく、最も謙遜な人として現れた。姿も美しさも持たない者として。そして、神の目に見えない性質は被造物の理解の及ばないところにあったが、神はすべての人の命を救うために、私たちの手足でできたベールで身を覆うことによって、摂理的な働きを成し遂げられた。
この方こそ、主が多くの民を清められた方であり<ref>イザヤ52章15節、ペシッタ訳</ref>、また、イザヤが言うように、主は私たちすべての罪をこの方に負わせられました<ref>イザヤ53章6節</ref>。主は彼を謙遜させ、苦しみに遭わせることをよしとされました<ref>イザヤ53章10節</ref>。
罪を知らない方に罪が負わされました<ref>2コリント5章21節</ref>。私たちのために、あらゆる世代にわたって摂理をもって働かれたこの方に、今も、そしていつまでも、すべての人々から栄光と賛美と感謝と崇敬が捧げられますように。アーメン。
==脚注==
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== 出典 ==
*底本: A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC)
*https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf
==関連項目==
*[[シリヤの聖イサアク全書/第三説教]]
*[[シリヤの聖イサアク全書/第四説教]]
*[[シリヤの聖イサアク全書/第五説教]]
*[[シリヤの聖イサアク全書/第六説教]]
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