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Wikisource:内閣府令
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/* 平成27年 */
243120
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text/x-wiki
[[w:日本|日本]]で[[w:公布|公布]]された[[w:府令#現在存在する府令|内閣府令]]の一覧。なお、内閣府令と[[w:省令|省令]]の複合体<!--適切な言葉が思いつきません。差し替え歓迎。-->については、[[内閣府令・省令]]を参照。
==平成13年==
*[[内閣府本府組織規則]]
*[[原子力安全委員会事務局組織規則]]
*[[国立公文書館組織規則]]
*[[沖縄総合事務局組織規則]]
*[[防衛施設庁組織規則]]
*[[独立行政法人国立公文書館の業務運営並びに財務及び会計に関する内閣府令]]
*[[証券会社の自己資本規制に関する内閣府令]]
*[[国立公文書館組織規則を廃止する内閣府令]]
*[[情報公開審査会事務局組織規則]]
*[[上場等株券の発行者である会社が行う上場等株券の売買等に関する内閣府令]]
*[[銀行法等の一部を改正する法律附則第二条第二項の届出に関する内閣府令]]
*[[独立行政法人駐留軍等労働者労務管理機構の業務運営並びに財務及び会計に関する省令]]
==平成14年==
*[[銀行等の株式等の保有の制限に関する内閣府令]]
*[[金融業に付随する業務及び金融業務に係る事業認定の申請等に関する内閣府令]]
*[[観光振興地域の区域内における特定民間観光関連施設である販売施設の指定申請に関する内閣府令]]
*[[自動車運転代行業の業務の適正化に関する法律の施行に伴う道路交通法施行規則の規定の読替えに関する内閣府令]]
*[[証券取引法及び金融先物取引法の一部を改正する法律の一部の施行に伴う経過措置に関する内閣府令]]
*[[開示用電子情報処理組織による手続の特例等に関する内閣府令]]
*[[道路関係四公団民営化推進委員会事務局組織規則]]
*[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置に関する内閣府令 (平成14年内閣府令第72号)]]
*[[金融商品取引清算機関等に関する内閣府令]]
*[[北朝鮮当局によって拉致された被害者等の支援に関する法律施行規則]]
*[[金融機関等の組織再編成の促進のための特別措置に関する内閣府令]]
==平成15年==
*[[預金保険法第五十八条の三第一項に規定する措置に関する内閣府令]]
*[[構造改革特別区域法施行規則]]
*[[内閣府の所管する金融関連法令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]]
*[[上場等株券の発行者である会社が行う上場等株券の売買等に関する内閣府令の特例に関する内閣府令]]
*[[内閣総理大臣の所管に属する公益信託の引受けの許可及び監督に関する内閣府令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]]
*[[金融機関等の更生手続の特例等に関する法律施行規則]]
*[[上場株式の議決権の代理行使の勧誘に関する内閣府令]]
*[[平成15年内閣府令第24号|民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律第二十条第二項の規定により読み替えて適用される商法第二百九十条第一項及び第二百九十三条ノ五第三項の内閣府令で定める場合及び内閣府令で定める金額等を定める内閣府令]]
*[[構造改革特別区域における内閣総理大臣の所掌に係る研究の交流促進に関する内閣府令]]
*[[各種勲章及び大勲位菊花章頸飾の制式及び形状を定める内閣府令]]
*[[褒章の制式及び形状を定める内閣府令]]
*[[食品安全委員会令第一条第一項の内閣府令で定めるときを定める内閣府令]]
*[[食品安全委員会事務局組織規則]]
*[[防衛省関係法令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]]
*[[東南海・南海地震に係る地震防災対策の推進に関する特別措置法施行規則]]
*[[独立行政法人国民生活センターの業務運営並びに財務及び会計に関する内閣府令]]
*[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置に関する内閣府令 (平成15年内閣府令第93号)]]
==平成16年==
*[[証券仲介業者に関する内閣府令]]
*[[外国証券取引所に関する内閣府令]]
*[[公認会計士・監査審査会の職員が検査の際に携帯すべき証票の様式を定める内閣府令]]
*[[公認会計士・監査審査会事務局組織規則]]
*[[日本公認会計士協会に関する内閣府令]]
*[[公認会計士法第二十八条に規定する研修に関する内閣府令]]
*[[公認会計士試験規則]]
*[[内閣府の所管する内閣府本府関係法令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]]
*[[金融機能の強化のための特別措置に関する内閣府令]]
*[[「故鈴木善幸」内閣・自由民主党合同葬儀における自衛隊の礼式に関する内閣府令]]
*[[武力攻撃事態等におけるアメリカ合衆国の軍隊の行動に伴い我が国が実施する措置に関する法律施行規則]]
*[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置に関する内閣府令 (平成16年内閣府令第85号)]]
*[[外国軍用品審判規則]]
*[[内閣府の所管する金融庁関係構造改革特別区域法第二条第三項に規定する内閣府令の特例に関する措置及びその適用を受ける特定事業を定める内閣府令]]
*[[信託業法施行規則]]
==平成17年==
*[[取扱有価証券に関する内閣府令]]
*[[証券取引法第七十九条の三及び第百十六条に規定する最終の価格がない場合にこれに相当するものを定める内閣府令]]
*[[武力攻撃事態における捕虜等の取扱いに関する法律施行規則]]
*[[捕虜収容所処遇規則]]
*[[捕虜資格認定審査規則]]
*[[捕虜等懲戒規則]]
*[[金融商品取引法第六章の二の規定による課徴金に関する内閣府令]]
*[[内閣府の所管する金融関連法令に係る民間事業者等が行う書面の保存等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]]
*[[情報公開・個人情報保護審査会事務局組織規則]]
*[[内閣総理大臣の所管に属する公益信託の引受けの許可及び監督に関する内閣府令に係る民間事業者等が行う書面の保存等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]]
*[[内閣府の所管する内閣府本府関係法令に係る民間事業者等が行う書面の保存等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]]
*[[地震防災対策特別措置法施行令第二条第二項の額の算定に関する内閣府令]]
*[[交付金の額の特例に係る算定方法及び沖縄振興特別措置法第百五条の三第二項に規定する交付金の交付に関する内閣府令]]
*[[地域再生法施行規則]]
*[[日本郵政公社による証券投資信託の受益証券の募集の取扱い等のための日本郵政公社の業務の特例等に関する法律の施行に関する内閣府令]]
*[[金融先物取引業者の自己資本規制に関する内閣府令]]
*[[独立行政法人沖縄科学技術研究基盤整備機構の財務及び会計に関する内閣府令]]
*[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置に関する内閣府令 (平成17年内閣府令第88号)]]
*[[日本学術会議法の一部を改正する法律附則第五条第一項に基づき日本学術会議会員候補者の内閣総理大臣への推薦手続を定める内閣府令]]
*[[日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に係る地震防災対策の推進に関する特別措置法施行規則]]
*[[日本学術会議会員候補者の内閣総理大臣への推薦手続を定める内閣府令]]
*[[道路関係四公団民営化推進委員会事務局組織規則を廃止する内閣府令]]
*[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置に関する内閣府令 (平成17年内閣府令第100号)]]
*[[証券取引法第百七十二条の二第一項第二号イに規定する市場価額の総額等を定める内閣府令]]
*[[実務補習規則]]
==平成18年==
*[[沖縄振興特別措置法に基づく特定跡地給付金の支給に関する省令]]
*[[防衛庁の職員の俸給の切替え及び切替えに伴う措置等に関する内閣府令]]
*[[特定目的会社の計算に関する規則]]
*[[特定目的会社の監査に関する規則]]
*[[会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律の特例旧特定目的会社に関する内閣府令]]
*[[投資法人の計算に関する規則]]
*[[投資法人の会計監査に関する規則]]
*[[社債の担保変更手続の特例に関する件及び銀行持株会社の創設のための銀行等に係る合併手続の特例等に関する法律施行規則を廃止する内閣府令]]
*[[特定目的会社の社員総会に関する規則]]
*[[特定目的信託の権利者集会等に関する規則]]
*[[平成18年内閣府令第57号|民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律第二十条第二項の規定により読み替えて適用される商法第二百九十条第一項及び第二百九十三条ノ五第三項の内閣府令で定める場合及び内閣府令で定める金額等を定める内閣府令を廃止する内閣府令]]
*[[防声具の制式に関する内閣府令]]
*[[防衛省職員の留学費用の償還に関する省令]]
*[[官民競争入札等監理委員会事務局組織規則]]
*[[防衛庁の職員の俸給の切替えに関する内閣府令]]
*[[「故橋本龍太郎」内閣・自由民主党合同葬儀における自衛隊の礼式に関する内閣府令]]
*[[中心市街地の活性化に関する法律施行規則]]
==平成19年==
*[[防衛省の所管に属する補助金等の事務委任の範囲及びその委任を受ける者を定める省令]]
*[[防衛省の主管に係る一般会計の歳入について証券をもって納付し得る種目を定める省令]]
*[[防衛省の所管に属する不動産及び船舶に関する権利の登記嘱託職員を指定する省令]]
*[[防衛大臣の所管に属する公益法人の設立及び監督に関する規則]]
*[[防衛大臣の所管に属する公益信託の引受けの許可及び監督に関する省令]]
*[[防衛大臣の所掌に係る研究の交流促進に関する省令]]
*[[防衛省聴聞手続規則]]
*[[防衛大臣の所管に属する公益信託の引受けの許可及び監督に関する省令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]]
*[[防衛大臣の所管に属する公益信託の引受けの許可及び監督に関する省令に係る民間事業者等が行う書面の保存等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]]
*[[道州制特別区域における広域行政の推進に関する法律施行規則]]
*[[消費者契約法施行規則]]
*[[探偵業の業務の適正化に関する法律施行規則]]
*[[公益認定等委員会事務局組織規則]]
*[[遺失物法施行規則を廃止する内閣府令]]
*[[国家公安委員会関係刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律施行規則]]
*[[貸付信託法施行規則]]
*[[担保付社債信託法施行規則]]
*[[金融商品取引業等に関する内閣府令]]
*[[金融商品取引業協会等に関する内閣府令]]
*[[金融商品取引所等に関する内閣府令]]
*[[有価証券に係る投資顧問業の規制等に関する法律施行規則等を廃止する内閣府令]]
*[[総合研究開発機構法を廃止する法律施行規則]]
*[[総合研究開発機構法施行規則及び総合研究開発機構の財務及び会計に関する内閣府令を廃止する内閣府令]]
*[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令]]
*[[財務計算に関する書類その他の情報の適正性を確保するための体制に関する内閣府令]]
*[[四半期財務諸表等の用語、様式及び作成方法に関する規則]]
*[[四半期連結財務諸表の用語、様式及び作成方法に関する規則]]
*[[公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律施行規則]]
*[[一般社団法人及び一般財団法人に関する法律及び公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律施行規則]]
*[[日本郵政株式会社が銀行持株会社等である場合の届出に関する手続を定める内閣府令]]
*[[出資の受入れ、預り金及び金利等の取締りに関する法律の一部を改正する法律附則第九項第一号に規定する小規模のものを定める内閣府令を廃止する内閣府令]]
*[[公認会計士法施行規則]]
*[[公認会計士法の規定による課徴金に関する内閣府令]]
*[[特定社員登録規則]]
==平成20年==
*[[外国監査法人等に関する内閣府令]]
*[[独立行政法人国民生活センター法施行規則]]
*[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成20年内閣府令第61号)]]
*[[内閣総理大臣の所掌に係る研究開発システムの改革の推進等による研究開発能力の強化及び研究開発等の効率的推進等に関する内閣府令]]
*[[内閣総理大臣の所管に属する公益法人の設立及び監督に関する規則を廃止する内閣府令]]
*[[証券情報等の提供又は公表に関する内閣府令]]
*[[職員の退職管理に関する内閣府令]]
*[[特定独立行政法人の役員の退職管理に関する内閣府令]]
*[[再就職等監視委員会事務局組織規則]]
*[[官民人材交流センター組織規則]]
*[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成20年内閣府令第88号)]]
==平成21年==
*[[標準的な官職を定める政令に規定する内閣府令で定める標準的な官職等を定める内閣府令]]
*[[人事評価の基準、方法等に関する内閣府令]]
*[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成21年内閣府令第11号)]]
*[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成21年内閣府令第42号)]]
*[[消費者委員会事務局組織規則]]
*[[消費生活用製品安全法の規定に基づく重大事故報告等に関する内閣府令]]
*[[消費者安全法施行規則]]
*[[不当景品類及び不当表示防止法第四条第二項の規定による資料の提出要求の手続に関する内閣府令]]
*[[不当景品類及び不当表示防止法第九条第一項の規定による立入検査をする職員の携帯する身分を示す証明書の様式を定める内閣府令]]
*[[農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律の規定に基づく飲食料品の区分等に関する内閣府令]]
*[[消費者安全法の規定に基づく立入調査等をする職員の携帯する身分を示す証明書の様式を定める内閣府令]]
*[[健康増進法に規定する特別用途表示の許可等に関する内閣府令]]
*[[消費者庁組織規則]]
*[[内閣府の所管する消費者庁関係法令に係る民間事業者等が行う書面の保存等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]]
*[[内閣府の所管する消費者庁関係法令に係る行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律施行規則]]
*[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成21年内閣府令第65号)]]
*[[中小企業者等に対する金融の円滑化を図るための臨時措置に関する内閣府令]]
*[[金融商品取引法第五章の五の規定による指定紛争解決機関に関する内閣府令]]
==平成22年==
*[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成22年内閣府令第2号)]]
*[[前払式支払手段に関する内閣府令]]
*[[資金移動業者に関する内閣府令]]
*[[資金清算機関に関する内閣府令]]
*[[認定資金決済事業者協会に関する内閣府令]]
*[[資金移動業の指定紛争解決機関に関する内閣府令]]
*[[子ども・若者育成支援推進法施行規則]]
*[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成22年内閣府令第26号)]]
*[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成22年内閣府令第38号)]]
*[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成22年内閣府令第47号)]]
==平成23年==
*[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成23年内閣府令第1号)]]
*[[国家公務員体育センターの管理運営等に関する内閣府令を廃止する内閣府令]]
*[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成23年内閣府令第20号)]]
*[[総合特別区域法施行規則]]
*[[食品衛生法第十九条第一項の規定に基づく表示の基準に関する内閣府令]]
*[[食品衛生法第十九条第一項の規定に基づく乳及び乳製品並びにこれらを主要原料とする食品の表示の基準に関する内閣府令]]
*[[特定非営利活動促進法施行規則]]
*[[沖縄科学技術大学院大学学園法施行規則]]
*[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成23年内閣府令第60号)]]
*[[民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律施行規則]]
*[[公共施設等運営権登録令施行規則]]
*[[東日本大震災復興特別区域法施行規則]]
==平成24年==
*[[貸金業の規制等に関する法律施行令の一部を改正する政令附則第二十条第二項第一号ハに規定する会社に関する内閣府令]]
*[[沖縄県における駐留軍用地跡地の有効かつ適切な利用の推進に関する特別措置法施行規則]]
*[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成24年内閣府令第37号)]]
*[[店頭デリバティブ取引等の規制に関する内閣府令]]
*[[死因究明等推進会議事務局組織規則]]
*[[簡易郵便局法第四条第一項に規定する受託者の銀行法第五十二条の三十九第一項又は第二項の規定による届出に関する内閣府令]]
*[[有価証券の取引等の規制に関する内閣府令の特例に関する内閣府令 (平成24年内閣府令第73号)]]
==平成27年==
*第72号:[[道路交通法施行規則の一部を改正する内閣府令 (平成27年内閣府令第72号)|道路交通法施行規則の一部を改正する内閣府令]]
==平成28年==
*第2号:[[障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律施行規則]]
*第6号:[[不当景品類及び不当表示防止法施行規則]]
*第38号:[[迎賓館の施設に係る参観料の徴収に関する内閣府令]]
==平成29年==
*第41号:[[衛星リモートセンシング記録の適正な取扱いの確保に関する法律施行規則]]
*第50号:[[人工衛星等の打上げ及び人工衛星の管理に関する法律施行規則]]
*第54号:[[金融商品取引法第二章の六の規定による重要情報の公表に関する内閣府令]]
==平成30年==
*第26号:[[地域における大学の振興及び若者の雇用機会の創出による若者の修学及び就業の促進に関する法律施行規則]]
*第32号:[[民間公益活動を促進するための休眠預金等に係る資金の活用に関する法律に基づく指定活用団体に関する内閣府令]]
*第39号:[[桂離宮の施設に係る参観料の徴収に関する内閣府令]]
*第57号:[[災害救助法に基づく救助実施市に関する内閣府令]]
==平成31年==
*第23号:[[宮内庁組織規則の一部を改正する内閣府令]]
*第25号:[[京都事務所の所掌事務を定める内閣府令及び宮内庁組織規則の一部を改正する内閣府令]]
*第26号:[[警察法施行規則の一部を改正する内閣府令]]
==令和元年==
*第1号:[[元号を改める政令の施行に伴う関係府令の整理に関する内閣府令]]
*第4号:[[アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律施行規則]]
*第22号:[[災害弔慰金の支給等に関する法律の規定に基づく災害援護資金の償還免除に関する内閣府令]]
*第49号:[[カジノ管理委員会事務局組織規則]]
==令和2年==
*第1号:[[特定複合観光施設区域整備法の一部の施行に伴う関係内閣府令の整備に関する内閣府令]]
*第57号:[[国家戦略特別区域法第二十五条の二の内閣府令で定める実証事業等を定める内閣府令]]
==令和3年==
*第35号:[[金融サービス仲介業者等に関する内閣府令]]
*第64号:[[内閣府の所管する法律の規定に基づく立入検査等の際に携帯する職員の身分を示す証明書の様式の特例に関する内閣府令]]
*第65号:[[消費者庁の所管する法律の規定に基づく立入検査等の際に携帯する職員の身分を示す証明書の様式の特例に関する内閣府令]]
*第73号:[[宇宙資源の探査及び開発に関する事業活動の促進に関する法律施行規則]]
==令和4年==
*第1号:[[預託等取引に関する法律施行規則]]
*第9号:[[取引デジタルプラットフォームを利用する消費者の利益の保護に関する法律施行規則]]
*第56号:[[重要施設周辺及び国境離島等における土地等の利用状況の調査及び利用の規制等に関する法律施行規則]]
==令和5年==
*第24号:[[法人等による寄附の不当な勧誘の防止等に関する法律第四条第四号の内閣府令で定める方法を定める内閣府令]]
*第38号:[[こども家庭庁組織規則]]
==令和6年==
*第1号:[[孤独・孤立対策推進法施行規則]]
*第10号:[[金融経済教育推進機構に関する内閣府令]]
*第15号:[[内閣府の所管する法令に係る情報通信技術を利用する方法による国の歳入等の納付に関する法律施行規則]]
*第27号:[[一時保護施設の設備及び運営に関する基準]]
*第55号:[[不当景品類及び不当表示防止法の規定に基づく確約手続に関する内閣府令]]
*第80号:[[官報の発行に関する内閣府令]]
*第90号:[[金融サービスの提供及び利用環境の整備等に関する法律施行令第二条の規定に基づき業務を定める内閣府令]]
*第95号:[[次世代育成支援対策推進法に基づく特定事業主行動計画の策定等に係る内閣府令]]
*第99号:[[金融庁関係国家戦略特別区域法第二十六条に規定する政令等規制事業に係る内閣府令の特例に関する措置を定める内閣府令]]
*第102号:[[金融商品の販売等に係る勧誘方針の公表の方法に関する内閣府令]]
*第114号:[[旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者等に対する補償金等の支給等に関する法律施行規則]]
*第115号:[[社会保険診療報酬支払基金の支援納付金関係業務に係る業務方法書に記載すべき事項を定める内閣府令]]
*第116号:[[社会保険診療報酬支払基金の支援納付金関係業務に係る財務及び会計に関する内閣府令]]
==令和7年==
*第1号:[[乳児等通園支援事業の設備及び運営に関する基準]]
*第21号:[[金融商品取引法の審判手続等における参考人及び鑑定人の旅費及び手当に関する内閣府令]]
*第22号:[[公認会計士法の審判手続における参考人及び鑑定人の旅費及び手当に関する内閣府令]]
*第58号:[[登録被災者援護協力団体に関する内閣府令]]
*第63号:[[公益信託に関する法律施行規則]]
*第67号:[[企業価値担保権に関する信託業務に関する内閣府令]]
*第90号:[[日本学術会議法附則第七条第二項に規定する内閣府令で定める事項を定める内閣府令]]
*第93号:[[子ども・子育て支援納付金の算定等に関する内閣府令]]
*第95号:[[特定乳児等通園支援事業の運営に関する基準]]
*第97号:[[会員予定者の候補者の内閣総理大臣への推薦手続を定める内閣府令]]
*第104号:[[学校設置者等及び民間教育保育等事業者による児童対象性暴力等の防止等のための措置に関する法律施行規則]]
==令和8年==
*第16号:[[一時保護委託者の登録等に関する基準]]
*第32号:[[サイバー通信情報監理委員会事務局組織規則]]
[[Category:内閣府令|*]]
[[カテゴリ:索引|ないかくふれい]]
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シリヤの聖イサアク全書
0
27402
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206655
2026-06-10T16:46:05Z
村田ラジオ
14210
カテゴリを加筆。
243115
wikitext
text/x-wiki
{{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}}
{{header
| title = シリヤの聖イサアク全書
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| year = 1909
| 年 = 明治四十二
| override_author = [[作者:シリアのイサアク|シリアのイサアク]] (7世紀)
| override_translator = [[作者:堀江復|堀江 {{r|復|ふく}}]]( -1914)
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| notes =
*底本: 堀江復 訳『シリヤの聖イサアク全書』,正教会編輯局,明42.8. {{NDLJP|824593}}
}}
== 目録 ==
=== 苦行的説教 ===
[[シリヤの聖イサアク全書/第一説教|第一説教]] {{r|世|よ}}を{{r|棄|す}}つる事及び修道士の生涯 / 1p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二説教|第二説教]] 神に感謝すること{{r|並|ならび}}に初等の{{r|教|おしえ}}の{{r|簡短|かんたん}}なる説明。 / 11p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三説教|第三説教]] 霊魂は{{r|世|よ}}と{{r|世慮|せいりょ}}に遠ざかりて沈黙するならば神の叡智と神の造物を{{r|易|たやす}}く認識するに至らんけだし{{r|其時|そのとき}}は己の性と己の内部に隠るる宝とを認識するを得るなり。 / 22p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四説教|第四説教]] 霊魂の事慾の事及び智の浄潔の事に{{r|就|つい}}ての問答。 / 25p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五説教|第五説教]] 感覚の事{{r|併|あわせ}}て誘惑の事。 / 33p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六説教|第六説教]] 主宰が尊威の高きより人間の弱きに{{r|降|くだ}}し{{r|給|たま}}ふ仁慈の事及び誘惑の事。 / 41p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七説教|第七説教]] 自由なる罪と自由ならざる罪の事、及び場合に依り犯す罪の事。 / 45p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八説教|第八説教]] 衰弱して怠慢なる人々より己を守りて自省すべき事、彼等と親むにより怠慢と衰弱が人に主となりて、種種なる不潔の慾に充たさるる事、放蕩なる思念を以て心を汚されざらんが{{r|為|ため}}少年と近づくより己を守るべき事。 / 50p
[[シリヤの聖イサアク全書/第九説教|第九説教]] 新進修道士の秩序、及び規則、及び彼等に適当なる行為の事。 / 60p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十説教|第十説教]] 聖なる人々の記事、及び彼等が聖なる訓言と奇異なる生涯。 / 65p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十一説教|第十一説教]] 高老なる老人の事。 / 67p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十二説教|第十二説教]] 他の老人の事 / 70p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十三説教|第十三説教]] {{r|或|ある}}{{r|兄弟|けいてい}}の問。 / 72p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十四説教|第十四説教]] {{r|詰責|きっせき}}を受けたる{{r|一兄弟|いちけいてい}}の事。 / 74p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十五説教|第十五説教]] 第十五説教 黙想の種々なる卓越の事、{{r|智|ち}}の{{r|権|けん}}の事、及び{{r|祈祷|きとう}}の各種類に対して智は{{r|其|その}}活動を起すに{{r|幾何|いくばく}}{{r|権|けん}}あるか、{{r|祈祷|きとう}}には如何なる{{r|界限|かいげん}}を天然に与へらるるか、汝は如何なる{{r|界限|かいげん}}{{r|迄|まで}}{{r|祈祷|きとう}}を以て{{r|願|ねが}}ふの{{r|権|けん}}あるか、{{r|其|その}}{{r|界限|かいげん}}を{{r|越|こ}}ゆれば汝が{{r|行|おこな}}ふ所は{{r|祈祷|きとう}}と{{r|名|な}}づけらるると{{r|雖|いえど}}も{{r|最早|もはや}}{{r|祈祷|きとう}}には{{r|非|あら}}ざる事。 / 81p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十六説教|第十六説教]] {{r|清潔|せいけつ}}なる{{r|祈祷|きとう}}。 / 82p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十七説教|第十七説教]] 物の記憶を以て喚起せらるる肉体の念を離れて深く直覚に入らんを{{r|尋|たず}}ぬる霊魂の{{r|仮定|かてい}}。 / 92p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十八説教|第十八説教]] 無形体なる者の本性を観察するに{{r|就|つい}}て問答。 / 98p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十九説教|第十九説教]] {{r|主日|しゅじつ}}の事及び「スボタ」の事に関する理論の標準及び{{r|其|その}}比喩的意義。 / 105p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十説教|第二十説教]] 常に{{r|庵中|あんちゅう}}に居りて独り己を省みんと決心せし者に{{r|最|もっとも}}必要にして{{r|最|もっとも}}有益なる日々の想起。 / 109p
第二十一説教 {{r|種々|しゅじゅ}}なる事項に{{r|就|つい}}ての問答。 / 111p
:[[シリヤの聖イサアク全書/第二十一説教の一|第二十一説教の一]] / 111p
:[[シリヤの聖イサアク全書/第二十一説教の二|第二十一説教の二]] / 122p
:[[シリヤの聖イサアク全書/第二十一説教の三|第二十一説教の三]] / 129p
:[[シリヤの聖イサアク全書/第二十一説教の四|第二十一説教の四]] / 142p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十二説教|第二十二説教]] {{r|試|し}}{{r|惑|わく}}を恐るる身体は罪の友となる。 / 150p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十三説教|第二十三説教]] 黙想を愛する{{r|一兄弟|いちけいてい}}に{{r|遣|つかわ}}す書。 / 152p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十四説教|第二十四説教]] 同胞にして同教なる{{r|兄弟|けいてい}}に{{r|遣|つかわ}}す書。彼は世に居りてイサアクに{{r|遇|あ}}はんと欲し、{{r|其|その}}{{r|来|きた}}らんことを{{r|書|しょ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|勤|つと}}め{{r|且|かつ}}{{r|懇願|こんがん}}したるによる。 / 159p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十五説教|第二十五説教]] 知識の{{r|三|みつ}}の方法の事、{{r|其|その}}作用と{{r|其|その}}意味の同じからざる事、心の信仰の事、信仰に{{r|隠|かく}}るる{{r|奥密|おうみつ}}なる{{r|富|とみ}}の事、{{r|此世|このよ}}の知識は{{r|其|その}}方法に{{r|於|おい}}て信仰の{{r|正直|せいちょく}}{{r|明白|めいはく}}と{{r|幾|いく}}ばく{{r|差異|さい}}ある事。 / 161p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十六説教|第二十六説教]] 知識の第一階級。 / 171p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十七説教|第二十七説教]] 知識の第二階級。 / 175p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十八説教|第二十八説教]] 知識の第三階級、{{r|即|すなわち}}完全の階級。 / 176p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十九説教|第二十九説教]] 知識の他の方法と{{r|其|その}}種々なる意味。 / 181p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十説教|第三十説教]] 祈祷の状態の事、及び{{r|其他|そのた}}読者が小心に守るならは、不断の記憶の為に必要にして多くの関係に有益なる者の事。 / 183p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十一説教|第三十一説教]] 遁世的生活の事、及び我等は{{r|畏|おそ}}れず{{r|驚|おどろ}}かず神に依頼して心を{{r|堅|かた}}むべく、確たる信仰を以て勇気なるべし、何となれば神を看守者と{{r|為|な}}し守護者と{{r|為|な}}せばなり。 / 191p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十二説教|第三十二説教]] 心中内部の{{r|奥密|おうみつ}}なる{{r|儆醒|けいせい}}は{{r|如何|いかん}}して守らるるか{{r|嗜眠|しみん}}と冷淡は{{r|何処|いづこ}}より心中に{{r|来|きた}}りて聖なる熱愛を{{r|霊底|れいてい}}に消し、霊界天上の事に熱心する精神を{{r|奪|うば}}ふて神に{{r|向|むか}}ふを{{r|減殺|げんさい}}するか。 / 196p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十三説教|第三十三説教]] 心中に{{r|続生|ぞくせい}}し、祈祷を{{r|以|もっ}}て試みらるる多くの変化の事。 / 200p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十四説教|第三十四説教]] 神に近づきて生存し、認識の生活にて日を送る事。 / 202p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十五説教|第三十五説教]] 世に服従する事。 / 205p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十六説教|第三十六説教]] {{r|或|あ}}る{{r|顕然|けんぜん}}なる{{r|奇徴|きちょう}}を己の手に有せんことを必要なくして願ひ{{r|且|かつ}}求むべからざる事。 / 210p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十七説教|第三十七説教]] 神は{{r|何故|なにゆえ}}神を愛する者に誘惑を放任するか。 / 214p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十八説教|第三十八説教]] 人に{{r|起|おこ}}る所の{{r|念頭|ねんとう}}により{{r|如何|いか}}なる階級にあるを察知すべし。 / 217p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十九説教|第三十九説教]] 霊に属する人々は、身体の肥満に準じ、他の霊界に属するものを知識により{{r|幾許|いくばく}}看破すべきか、{{r|如何|いかん}}して{{r|智|ち}}は{{r|其|その}}肥満より上に高めらるべきか、之より自由を{{r|得|え}}ざるは{{r|何故|なにゆえ}}なるか、智は{{r|何時|いつ}}{{r|如何|いか}}なる方法により祈祷の時、妄想なくして{{r|止|とど}}まるを{{r|得|う}}べきか。 / 225p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十説教|第四十説教]] {{r|叩拝|こうはい}}及び{{r|其他|そのた}}の事。 / 229p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十一説教|第四十一説教]] 沈黙の事。 / 234p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十二説教|第四十二説教]] {{r|是|こ}}れイサアクが愛する所の{{r|一人|ひとり}}に与ふる書にして、彼は{{r|此中|このうち}}に(ア)黙想の{{r|奥義|おうぎ}}に関する教訓を著し、多くの者が{{r|此|この}}{{r|奥義|おうぎ}}を知らざるに{{r|依|よ}}り、此の神妙なる練修を{{r|等閑|とうかん}}にし、往往修道士の間に行はるる伝説により{{r|庵中|あんちゅう}}に{{r|留|とど}}まることを{{r|述|の}}ぶ(カ)黙想のことに関する訓話の{{r|摘要|てきよう}}。 / 241p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十三説教|第四十三説教]] 種々なる予想の事、及び各予想の為に必要なる者の事。 / 248p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十四説教|第四十四説教]] 黙想を{{r|務|つと}}むるは思慮ある者に肝要なる事。 / 254p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十五説教|第四十五説教]] 精細なる思慮の階級。 / 259p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十六説教|第四十六説教]] 真実なる知識の事、{{r|試|し}}{{r|惑|わく}}の事、及び{{r|陋劣|ろうれつ}}{{r|薄弱|はくじゃく}}にして学ばざる人のみならず、{{r|一|いち}}{{r|時|じ}}{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}を{{r|賜|たま}}はり、思想の有様に{{r|於|おい}}ては完全に達して、死者の如くなれると共に{{r|一分|いちぶん}}は浄潔に近づきし者等も{{註|欲の上に高く立ちし者等も{{r|此|この}}{{r|世|よ}}にある間は{{r|其|その}}生命を慾なる肉体と結合するにより、神意により格闘の中に居りて肉体の故に慾より{{r|擾乱|じょうらん}}を受く、故に}}{{r|驕傲|きょうごう}}に陥りて滅ぶるが{{r|為|ため}}憐みによりて彼等に{{r|試|し}}{{r|惑|わく}}を{{r|遣|つか}}はさるるを確知するの緊要なる事。 / 265p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十七説教|第四十七説教]] {{r|此|この}}{{r|章|しょう}}の意義及び祈祷の事。 / 273p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十八説教|第四十八説教]] 道徳の各種及び{{r|凡|およそ}}の道の完備 / 279p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十九説教|第四十九説教]] 信仰と謙徳の事。 / 290p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十説教|第五十説教]] 遁世の益。 / 303p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十一説教|第五十一説教]] 人は何に{{r|由|よ}}りて生命の外部の状態の変ずると共に神秘なる思想にも変化を{{r|来|きた}}すか。 / 305p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十二説教|第五十二説教]] {{r|夜間|やかん}}の{{r|儆醒|けいせい}}及び{{r|其|その}}{{r|行為|こうい}}の{{r|種々|しゅじゅ}}なる方法。 / 311p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十三説教|第五十三説教]] 謙遜は如何なる尊敬を{{r|受|うく}}るか、{{r|其|その}}階級は{{r|如何|いか}}に{{r|高尚|こうしょう}}なるか。 / 314p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十四説教|第五十四説教]] 問答各種。 / 322p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十五説教|第五十五説教]] {{r|克肖|こくしょう}}なる父、奇蹟者シメオンに{{r|與|あた}}ふる書。 / 326p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十六説教|第五十六説教]] 神を愛する事、{{r|世|よ}}を{{r|避|さ}}くる事、及び神に{{r|於|おい}}て{{r|安|やす}}んずる事。 / 373p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十七説教|第五十七説教]] 世より遠ざかる事、及び{{r|凡|すべ}}て{{r|智|ち}}を{{r|擾|みだ}}すものより遠ざかる事、 / 391p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十八説教|第五十八説教]] 神は霊魂を{{r|益|えき}}するが{{r|為|ため}}{{r|慾|よく}}に{{r|近接|きんせつ}}するを{{r|許|ゆる}}す事、及び苦行的行為の事。 / 411p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十九説教|第五十九説教]] 修道士の生活の秩序及び{{r|其|その}}{{r|梗概|こうがい}}と区別、{{r|徳行|とくこう}}は{{r|如何|いか}}なる様子にて{{r|互|たがい}}に{{r|相|あい}}{{r|生|しょう}}ずるか。 / 428p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十説教|第六十説教]] {{r|世|よ}}より{{r|極|きわめ}}て{{r|上|うえ}}なる{{r|窄|せま}}き{{r|路|みち}}を{{r|進行|しんこう}}する者に対し{{r|魔鬼|まき}}の{{r|戦|たたか}}ふ{{r|種々|しゅじゅ}}なる手段の事。 / 430p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十一説教|第六十一説教]] 心を神に{{r|近|ちか}}づかしむる{{r|為|ため}}に人に益するものの事、{{r|如何|いか}}なる真実の{{r|源因|げんいん}}は人に{{r|助|たすけ}}を{{r|窃|ひそか}}に{{r|近|ちか}}づかしめて、{{r|如何|いか}}なる{{r|源因|げんいん}}は人を謙遜に導くか。 / 443p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十二説教|第六十二説教]] 神聖なる書の{{r|悔改|かいかい}}を{{r|奨励|しょうれい}}する{{r|諭言|ゆげん}}、及び人間の弱きに対して{{r|此|これ}}を{{r|陳|の}}べられしは人々生活の神より離れて亡ぶるを{{r|免|まぬか}}れんが{{r|為|ため}}なる事、及び之を転じて罪を犯す{{r|縁由|えんゆ}}と{{r|為|な}}すべからざる事。 / 450p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十三説教|第六十三説教]] 修道士の生涯の美は{{r|如何|いかん}}して保護せらるるか、神に{{r|栄|さかえ}}を{{r|帰|き}}するの順序。 / 453p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十四説教|第六十四説教]] 神より定められたる黙想の路を進行する者に如何なる転変変化を生ずるか。 / 456p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十五説教|第六十五説教]] 黙想者の事、黙想者が{{r|其|その}}{{r|行|こう}}{{r|為|い}}を{{r|以|もっ}}て{{r|無|む}}{{r|辺|へん}}の海に至る、即ち沈黙の生涯に至るを理会し始むるは{{r|何|なん}}の{{r|時|とき}}なるか、{{r|其|その}}労の結果を産するを多少望むを得るは{{r|何|なん}}の{{r|時|とき}}なるか。 / 457p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十六説教|第六十六説教]] {{r|世|よ}}に{{r|貧者|ひんしゃ}}となりて{{r|神|かみ}}を{{r|尋|たづ}}ぬる{{r|為|ため}}に出発したる神の{{r|僕|ぼく}}は真理の了解に達せざらんを恐れて{{r|尋|たづ}}ぬるを停止すべからず、又神聖なるものと神の{{r|奥義|おうぎ}}の研究を愛するにより生ずる熱愛を{{r|冷|ひややか}}にすべからざる事、及び{{r|智|ち}}は{{r|慾|よく}}の記憶により{{r|擾|みだ}}さるる事。 / 460p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十七説教|第六十七説教]] 神に{{r|倚頼|いらい}}する種類、当然に神に{{r|倚頼|いらい}}する者と無思慮に{{r|且|かつ}}無智にして{{r|倚頼|いらい}}する者の事。 / 462p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十八説教|第六十八説教]] 世を{{r|棄|すつ}}る事及び自由の交際を{{r|慎|つつし}}む事 / 468p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十九説教|第六十九説教]] {{r|掛念|けねん}}を有せざるは黙想者の為に有益にして{{r|其|その}}{{r|出入|しゅつにゅう}}は有害なる事。 / 472p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十説教|第七十説教]] {{r|夜間|やかん}}の{{r|儆醒|けいせい}}の{{r|行|おこない}}の{{r|愉快|ゆかい}}により神に接近し人に顕然たる者の{{r|行路|こうろ}}の事及び{{r|此|こ}}の本人は{{r|其|その}}生活の{{r|凡|すべ}}ての日を{{r|蜜|みつ}}にて{{r|養|やしな}}はるる事。 / 475p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十一説教|第七十一説教]] 罪なる{{r|敗壊|はいかい}}は{{r|如何|いかん}}して{{r|生|しょう}}じ{{r|如何|いかん}}して{{r|止|や}}むか、{{r|其|その}}{{r|力|ちから}}と勢力の事。 / 481p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十二説教|第七十二説教]] 心を守る事、及び幾微なる直覚の事。 / 489p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十三説教|第七十三説教]] 神を愛する表徴及び{{r|其|その}}{{r|働|はたらき}}の事。 / 491p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十四説教|第七十四説教]] 徳行の種類。 / 493p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十五説教|第七十五説教]] 不断の{{r|禁食|きんしょく}}の事、自己に集中して{{r|一所|いつしょ}}に{{r|止|とどま}}る事、{{r|其|その}}結果の事、及び{{r|凡|すべ}}て{{r|此|これ}}{{r|等|ら}}を正しく適用するを知識により区別するを学ぶ事。 / 496p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十六説教|第七十六説教]] 沈黙と黙想の事。 / 507p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十七説教|第七十七説教]] 肉体上の感動 / 508p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十八説教|第七十八説教]] 誘惑の各種類、及び真理の為に起る誘惑を忍耐するは{{r|幾許|いくば}}く愉快にして、善智なる人は如何なる階級により昇進するか。 / 512p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十九説教|第七十九説教]] {{r|驕傲|きょうごう}}の事、驕傲なる神の敵の{{r|試|し}}{{r|惑|わく}}。 / 517p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十説教|第八十説教]] {{r|徳行|とくこう}}の種類の説明及び彼等は各々如何なる価値と如何なる特質を有するか。 / 521p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十一説教|第八十一説教]] 肉体と霊魂と智の浄潔。 / 525p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十二説教|第八十二説教]] 霊的智慧に充たさるる有益なる主眼 / 526p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十三説教|第八十三説教]] 悔改の事。 / 527p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十四説教|第八十四説教]] 智識の尺度と信仰の尺度は{{r|如何|いか}}{{r|程|ほど}}{{r|大|だい}}なるか。 / 530p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十五説教|第八十五説教]] 謙遜にして{{r|聴|き}}く者に愛を{{r|以|もっ}}て{{r|告|つ}}ぐる有益なる教訓。 / 534p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十六説教|第八十六説教]] 心が霊界に進歩する{{r|為|ため}}神の{{r|照管|しょうかん}}に{{r|依|よ}}り我等に{{r|喚|かん}}{{r|起|き}}せらるる天使的行動。 / 546p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十七説教|第八十七説教]] 人に{{r|於|お}}ける第二の行為。 / 548p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十八説教|第八十八説教]] {{r|光|ひかり}}と{{r|暗|やみ}}の{{r|更迭|こうてつ}}は{{r|何|いづ}}れの時にも霊中に{{r|起|おこ}}る事、及び霊魂は右にも左にも傾く事。 / 550p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十九説教|第八十九説教]] 神聖なる熱心の仮面に{{r|覆|おお}}はるる無智なる熱心の有害なる事、温良及び{{r|其|その}}{{r|他|た}}の徳性より生ずる{{r|助|たすけ}}の事。 / 553p
[[シリヤの聖イサアク全書/第九十説教|第九十説教]] 心ならざる{{r|悪|あく}}なる{{r|念頭|ねんとう}}は{{r|之|これ}}に先だつ思念を{{r|等閑|とうかん}}にして注意せざるより生ず。 / 564p
[[シリヤの聖イサアク全書/第九十一説教|第九十一説教]] 神を愛するより生ずる忍耐の事、及び忍耐により{{r|助|たすけ}}を得らるる事。 / 571p - 574p
目録/終わり
== 出典 ==
: [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/824593 シリヤの聖イサアク全書] 国立国会図書館 デジタルコレクション
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[[Category:7世紀]]
[[Category:1909年]]
[[Category:キリスト教]]
[[Category:シリヤの聖イサアク全書|*]]
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シリヤの聖イサアク全書/第二十九説教
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2026-06-10T13:20:24Z
村田ラジオ
14210
現代語訳を加筆。
243108
wikitext
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*ウィキソースによる現代語訳
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== 第29説教 ==
<< {{r|知識|ちしき}}の{{r|他|た}}の{{r|方法|ほうほう}}と{{r|其|その}}{{r|種々|しゅじゅ}}なる{{r|意味|いみ}}。 >>
{{r|有形|ゆうけい}}なるものを{{r|学|まな}}び、{{r|或|あるい}}は{{r|有形|ゆうけい}}なるものより{{r|傳|つた}}へらるるを{{r|五官|ごかん}}にて{{r|受|うく}}る{{r|知識|ちしき}}は、{{r|自|し}}{{r|然|ぜん}}{{r|的|てき}}{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}と{{r|名|な}}づけらるるなり。{{r|然|しか}}して{{r|思想|しそう}}する{{r|者|もの}}の{{r|力|ちから}}を{{r|以|もっ}}て{{r|無|む}}{{r|形|けい}}なる{{r|霊物|れいぶつ}}の{{r|性|せい}}を{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}に{{r|於|おい}}て{{r|学|まな}}ぶ{{r|知識|ちしき}}は{{r|霊的|れいてき}}{{r|知識|ちしき}}と{{r|名|な}}づけらるべし、{{r|何|なん}}となれば{{r|精神|せいしん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|感受|かんじゅ}}して、{{r|五官|ごかん}}を{{r|以|もっ}}てせざればなり、{{r|而|しか}}して{{r|此|この}}{{r|二種類|にしゅるい}}はその{{r|観察|かんさつ}}の{{r|時|とき}}に{{r|際|さい}}し、{{r|外|そと}}より{{r|霊中|れいちゅう}}に{{r|来|きた}}るなり。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|力|ちから}}を{{r|以|もっ}}て{{r|與|あた}}へらるる{{r|知識|ちしき}}は{{r|超自然的|ちょうしぜんてき}}と{{r|名|な}}づけられ、{{r|殊|こと}}に{{r|不可思議|ふかしぎ}}なるものにして、{{r|知識|ちしき}}よりは{{r|一層上|いっそううえ}}にあり。{{r|而|しか}}して{{r|此|この}}{{r|知識|ちしき}}の{{r|直覚|ちょっかく}}を{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|受|うく}}るは、{{r|初|はじ}}め{{r|二|に}}{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}に{{r|於|おけ}}る{{r|如|ごと}}く{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|外|ほか}}にある{{r|物体|ぶったい}}より{{r|之|これ}}を{{r|受|うく}}るにあらず、{{r|却|かえっ}}て{{r|此|この}}{{r|直覚|ちょっかく}}は{{r|自己|じこ}}の{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}に{{r|於|おい}}て{{r|物体|ぶったい}}に{{r|拘|かか}}はらず、{{r|忽然|こつぜん}}、{{r|迅速|じゅんそく}}、{{r|且|かつ}}は{{r|望外|ぼうがい}}にその{{r|内面|ないめん}}より{{r|顕|あら}}はれ{{r|来|きた}}るなり、{{r|何|なん}}となれば<u>ハリストス</u>の{{r|言|い}}ふ{{r|如|ごと}}く『{{r|天国|てんごく}}は{{r|汝|なんぢ}}らの{{r|衷|うち}}にあり』〔[[ルカ傳福音書(文語訳)#17:21|ルカ十七の二十一]]〕、{{r|前表|ぜんひょう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|希望|きぼう}}を{{r|養|やしな}}ふによるに{{r|非|あら}}ず、{{r|顕然|けんぜん}}として{{r|来|きた}}るにあらず、{{r|神秘|しんぴ}}なる{{r|智力|ちりょく}}に{{r|印|いん}}せられたる{{r|形象|けいしょう}}の{{r|内部|ないぶ}}に{{r|於|おい}}て{{r|思|おも}}ふことなく{{r|自|し}}{{r|然|ぜん}}に{{r|顕|あら}}はるるなり、{{r|何|なん}}となれば{{r|智|ち}}は{{r|彼|かれ}}に{{r|於|おい}}て{{r|物体|ぶったい}}を{{r|尋|たづ}}ぬるに{{r|非|あら}}ざればなり。
{{r|第一|だいいち}}の{{r|知識|ちしき}}は{{r|不断|ふだん}}の{{r|研究|けんきゅう}}と{{r|勉焉|べんえん}}たる{{r|学習|がくしゅう}}の{{r|結果|けっか}}なり、{{r|第二|だいに}}は{{r|良善|りょうぜん}}なる{{r|生涯|しょうがい}}と{{r|合理的|ごうりてき}}{{r|信仰|しんこう}}の{{r|結果|けっか}}なり、{{r|然|しか}}して{{r|第三|だいさん}}は{{r|唯一|ゆいいつ}}の{{r|信仰|しんこう}}に{{r|[[wikt:鬮|䰗]]|くじ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|與|あた}}へらる、{{r|何|なん}}となれば{{r|信仰|しんこう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|知識|ちしき}}は{{r|空|むなし}}うせられ、{{r|活動|かつどう}}は{{r|終|おわり}}を{{r|告|つ}}げ、{{r|五感|ごかん}}は{{r|贅物|ぜいぶつ}}となりて{{r|不用|ふよう}}に{{r|属|ぞく}}すればなり。ゆえに{{r|此|この}}{{r|界限|かいげん}}より{{r|降|くだ}}れば{{r|降|くだ}}る{{r|程|ほど}}{{r|知識|ちしき}}は{{r|尊|たっと}}ばるべくして、いよいよ{{r|降|くだ}}ればいよいよ{{r|尊|たっと}}ばるべし。{{r|而|しか}}して{{r|地|ち}}と{{r|地|ち}}に{{r|属|ぞく}}するものに{{r|達|たっ}}する{{r|時|とき}}は、{{r|知識|ちしき}}は{{r|悉|ことごと}}くを{{r|管理|かんり}}し、{{r|知識|ちしき}}なくんばすべての{{r|行為|こうい}}は{{r|悪|あ}}しく{{r|且|かつ}}{{r|不十分|ふじゅうぶん}}なるべし。しかれども{{r|霊魂|れいこん}}がその{{r|直覚|ちょっかく}}を{{r|高|たか}}く{{r|挙|あ}}げ、その{{r|概念|がいねん}}を{{r|上天|じょうてん}}の{{r|事|こと}}に{{r|及|およ}}ぼして、{{r|有形|ゆうけい}}の{{r|目|め}}に{{r|見|み}}えざるものと{{r|肉体|にくたい}}の{{r|権|けん}}にあらざるものとを{{r|考|かんが}}ふる{{r|時|とき}}は、すべては{{r|信仰|しんこう}}により{{r|組織|そしき}}せらるべくして『{{r|世々|よよ}}に{{r|讃美|さんび}}せらるる』〔[[ロマ人への書(文語訳)#9:5|ロマ九の五]]〕{{r|主|しゅ}}<u>イイスス</u> <u>ハリストス</u>は{{r|此|この}}{{r|信仰|しんこう}}を{{r|我|われ}}らに{{r|賜|たま}}ふべし。「アミン」。
==現代語訳==
<< 知識のその他の方法と、その様々な意味 >>
目に見えるものに関わる知識、あるいは感覚を通してその秩序を認識する知識は、自然知識と呼ばれる。精神の領域に宿り、自らの力で非物質的なものの本質を理解する知識は、霊的知識と呼ばれる。なぜなら、霊的知識は感覚ではなく精神を通して感覚を受け取り、これら二つのものの誕生は外から魂に入り込み、霊的知識はそれらを理解するからである。しかし、神に到達する知識は超自然知識と呼ばれ、それは知識よりもさらに不可知で高次のものである。そして魂はこの知識の観想を、最初の2種類の知識のように、魂の外にある実体からではなく、非物質的に、魂自身の内側から、自由に、速やかに、そして予想を超えて現れ、啓示される。なぜなら、キリストの言葉によれば、天の国は「あなたがたの内にある」(ルカ17章21節 )からであり、特定の形で期待することはできず、観察によってもたらされるものでもないが、秘密の心に刻まれたイメージの中で、それについて考えることなく、それ自体で啓示される。なぜなら、心はその中に実体を見出さないからである。
第一の知識は絶え間ない研究と勤勉な研究から生まれ、第二の知識は善行と賢明な信仰から生まれ、第三の知識は信仰のみによって受け継がれる。なぜなら、信仰によって知識は廃止され、行為は終わり、感覚は不要となるからである。したがって、知識はこの限界から降りてくる限りにおいて尊ばれ、降りてくるほど尊ばれる。そして、知識が地上と世俗に及ぶとき、知識はすべてを支配し、知識がなければ、すべての行為は不完全でつまらないものとなる。魂が観想を高く上げ、思考を天にまで広げ、肉眼では見えず、肉体の力では及ばないものを望むとき、信仰はすべての事柄において活発に働く。「永遠に祝福される方」(ローマ9章5節)主イエス・キリストが、このことを私たちに授けてくださいますように。アーメン。
==関連項目==
*[[ニネベのイサアク神秘論文集/第52論文]]
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シリヤの聖イサアク全書/第二十一説教の一
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2026-06-10T13:59:22Z
村田ラジオ
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現代語訳を加筆。
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*ウィキソースによる現代語訳
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== 第21説教の1 ==
<< {{r|種々|しゅじゅ}}なる{{r|事|じ}}{{r|項|こう}}に{{r|就|つい}}て{{r|問答|もんどう}}。>>
問 {{r|人心|じんしん}}は{{r|悪|あく}}に{{r|向|むか}}はざらんが{{r|為|ため}}に{{r|如何|いか}}なる{{r|鏈鎖|れんさ}}にて{{r|縛|しば}}らるべきか。
答 {{r|恒|つね}}に{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}に{{r|従|したが}}ひ{{r|生命|せいめい}}の{{r|教|おし}}へに{{r|富|と}}むを{{r|以|もっ}}て{{r|縛|しば}}らるべし。けだし{{r|意|い}}の{{r|[[wikt:放恣|放恣]]|ほうし}}を{{r|抑|おさ}}へんがために、かくの{{r|如|ごと}}く{{r|有力|ゆうりょく}}なる{{r|鏈鎖|れんさ}}は{{r|他|た}}に{{r|之|これ}}あらざるなり。
問 {{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}に{{r|従|したが}}ふ{{r|者|もの}}の{{r|進行|しんこう}}の{{r|終極|しゅうきょく}}は{{r|何|なん}}の{{r|処|ところ}}に{{r|之|これ}}ありや、その{{r|学習|がくしゅう}}は{{r|如何|いかが}}して{{r|完|まっと}}うせらるべきか。
答 その{{r|進行|しんこう}}に{{r|於|おい}}て{{r|此|この}}{{r|終極|しゅうきょく}}に{{r|達|たっ}}せんことは、{{r|実|じつ}}に{{r|能|あた}}はず、{{r|何|なん}}となれば{{r|諸聖人|しょせいじん}}も{{r|此|この}}{{r|事|こと}}に{{r|於|おい}}ては{{r|完全|かんぜん}}に{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}{{r|達|たっ}}せざればなり。{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}の{{r|路|みち}}に{{r|終|おわり}}なし。{{r|之|これ}}に{{r|由|よ}}りて{{r|行|ゆ}}く{{r|者|もの}}が{{r|神|かみ}}と{{r|合|がっ}}するに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}は、上へ上へと{{r|進行|しんこう}}す。{{r|無限|むげん}}に{{r|彼|かれ}}を{{r|追求|ついきゅう}}するはこれその{{r|表徴|ひょうちょう}}なり、{{r|何|なん}}となれば{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}は{{r|神|かみ}}{{r|自|みづ}}からなればなり。
問 {{r|我|われ}}らを{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}に{{r|近|ちか}}づかしむる{{r|第一|だいいち}}の{{r|途|みち}}は{{r|如何|いか}}なるか、その{{r|途|みち}}の{{r|起首|はじめ}}は{{r|何|なに}}にあるか。
答 {{r|神|かみ}}の{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}の{{r|跡|あと}}を{{r|慕|した}}ひ、{{r|全力|ぜんりょく}}を{{r|以|もっ}}て{{r|進行|しんこう}}すると、{{r|此|こ}}の{{r|進向|しんこう}}に{{r|於|おい}}て{{r|生命|せいめい}}の{{r|終|おわり}}に{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}{{r|全霊|ぜんれい}}を{{r|以|もっ}}て{{r|急|いそ}}ぐと、もし{{r|必要|ひつよう}}あるときは{{r|生命|せいめい}}そのものをも{{r|脱|だっ}}し{{r|之|これ}}を{{r|自|みづ}}から{{r|抛|なげう}}つことをさへ{{r|神|かみ}}を{{r|愛|あい}}するにより{{r|等閑|とうかん}}{{r|視|し}}せざるとにあり。
問 {{r|誰|たれ}}か{{r|才|さい}}{{r|智|ち}}ある{{r|者|もの}}と{{r|当然|とうぜん}}に{{r|名|な}}づけらるべきか。
答 {{r|此|この}}{{r|生命|いのち}}に{{r|界限|かぎり}}のあるを{{r|真実|しんじつ}}に{{r|暁|さと}}る{{r|者|もの}}{{r|是|これ}}なり。{{r|彼|かれ}}は{{r|犯罪|はんざい}}にも{{r|界限|かぎり}}を{{r|置|お}}くを{{r|得|う}}べし。けだしいかなる{{r|知識|ちしき}}{{r|或|あるい}}は{{r|如何|いか}}なる{{r|通暁|さとり}}は{{r|之|これ}}より{{r|高尚|こうしょう}}なるか、{{r|即|すなはち}}{{r|人|ひと}}が{{r|智慧|ちえ}}{{r|附|つ}}けられ、{{r|欲望|よくぼう}}の{{r|悪臭|あくしゅう}}に{{r|汚|けが}}されたる{{r|一|ひとつ}}の{{r|部分|ぶぶん}}をも{{r|有|ゆう}}せず、{{r|又|また}}{{r|欲望|よくぼう}}の{{r|甘|あま}}きに{{r|留|とど}}めらるる{{r|霊魂|れいこん}}に{{r|何等|なにら}}の{{r|汚点|おてん}}をも{{r|有|ゆう}}せずして、{{r|此|この}}{{r|生命|せいめい}}より{{r|出|いで}}て{{r|不朽|ふきゅう}}に{{r|入|い}}るを{{r|暁|さと}}るより{{r|高尚|こうしょう}}なるものありや。けだしもし{{r|何人|なんびと}}か{{r|天|てん}}{{r|地|ち}}{{r|万物|ばんぶつ}}の{{r|奥秘|おうひ}}に{{r|透徹|とうてつ}}せんが{{r|為|ため}}に、その{{r|思想|しそう}}を{{r|練|ね}}り、{{r|発明|はつめい}}と{{r|観察|かんさつ}}とによりてもろもろの{{r|知識|ちしき}}に{{r|富|と}}むも、その{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|罪|つみ}}の{{r|汚|お}}{{r|穢|かい}}にけがされ、{{r|心中|しんちゅう}}の{{r|希望|きぼう}}に{{r|於|おい}}ては{{r|証明|しょうめい}}を{{r|受|う}}けざるに{{r|拘|かか}}はらず、{{r|希望|きぼう}}の{{r|湊|みなと}}に{{r|幸|さいわい}}に{{r|入|い}}りたりと{{r|思|おも}}ふならば、{{r|世|よ}}に{{r|彼|かれ}}より{{r|愚|ぐ}}なる{{r|人|ひと}}やある、{{r|何|なん}}となれば{{r|彼|かれ}}の{{r|行|こう}}{{r|為|い}}は{{r|世|よ}}に{{r|向|むかっ}}て{{r|不断|ふだん}}{{r|進行|しんこう}}するにより{{r|彼|かれ}}をただ{{r|此世|このよ}}の{{r|希望|きぼう}}にみちびきしのみなればなり。
問 {{r|誰|たれ}}か{{r|真実|しんじつ}}に{{r|最|もっとも}}{{r|剛|ごう}}なるか。
答 {{r|生命|せいめい}}と{{r|勝利|しょうり}}の{{r|栄|さかえ}}が{{r|隠|かく}}るる{{r|一時|いちじ}}の{{r|苦阨|くやく}}には{{r|心|こころ}}を{{r|慰|なぐさ}}めて、{{r|地|ぢ}}{{r|獄|ごく}}の{{r|悪臭|あくしゅう}}が{{r|潜伏|せんぷく}}し{{r|尋|たづ}}ぬる{{r|者|もの}}に{{r|嘆息|たんそく}}の{{r|分子|ぶんし}}を{{r|飲|の}}ましむる{{r|寛縦|かんしょう}}<ref>投稿者注:望むまま、自由に行動できること。</ref>を{{r|願|ねが}}はざる{{r|者|もの}}{{r|是|これ}}なり。
問 もし{{r|誰|たれ}}か{{r|誘惑|ゆうわく}}に{{r|因|よ}}りて{{r|善|ぜん}}なる{{r|行為|こうい}}より{{r|離|はな}}るるならば{{r|神|かみ}}に{{r|進行|しんこう}}するに{{r|如何|いか}}なる{{r|害|がい}}あるか。
答 {{r|患難|かんなん}}なくんば{{r|神|かみ}}に{{r|近|ちか}}づくあたはず、{{r|患難|かんなん}}なくんば{{r|人間|にんげん}}の{{r|正義|せいぎ}}も{{r|不変|ふへん}}{{r|不易|ふえき}}に{{r|守|まも}}られざるなり、もし{{r|人|ひと}}は{{r|正義|せいぎ}}を{{r|増殖|ぞうしょく}}する{{r|行為|こうい}}を{{r|棄|す}}つるならば、{{r|之|これ}}を{{r|保護|ほご}}する{{r|行為|こうい}}をも{{r|棄|す}}てん。されば{{r|彼|かれ}}は{{r|保護|ほご}}せられざる{{r|宝|たから}}と{{r|同|おな}}じかるべく、{{r|敵軍|てきぐん}}が{{r|囲繞|いぎょ}}せる{{r|時|とき}}{{r|武装|ぶそう}}を{{r|剝|は}}がれたる{{r|戦士|せんし}}と{{r|同|おな}}じかるべく、{{r|綱具|こうぐ}}を{{r|有|ゆう}}せざる{{r|船|ふね}}と{{r|同|おな}}じかるべく、{{r|渾々|こんこん}}として{{r|流|なが}}るる{{r|水|みづ}}の{{r|泉|いづみ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|多|おお}}く{{r|潤|うるお}}されざる{{r|園|その}}と{{r|同|おな}}じかるべし。
問 {{r|誰|たれ}}か{{r|悟性|ごせい}}を{{r|光照|こうしょう}}せられたるか。
答 {{r|世|よ}}の{{r|甘味|かんみ}}の{{r|中|うち}}に{{r|潜|ひそ}}まれる{{r|苦味|くみ}}を{{r|尋|たづ}}ぬるを{{r|能|よ}}くし、その{{r|口|くち}}に{{r|此|この}}{{r|盃|さかづき}}を{{r|飲|の}}むを{{r|禁|きん}}じ、{{r|如何|いかん}}してその{{r|霊|たましい}}を{{r|救|すく}}はんかと{{r|常|つね}}に{{r|捜索|そうさく}}し、{{r|此世|このよ}}を{{r|離|はな}}るるに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}はその{{r|進行|しんこう}}を{{r|止|とど}}めず、{{r|五感|ごかん}}の{{r|門|もん}}を{{r|閉|と}}ぢて、{{r|此|この}}{{r|生命|せいめい}}に{{r|対|たい}}する{{r|執着|しゅうじゃく}}の{{r|念|ねん}}を{{r|入|い}}らしめず、{{r|彼|かれ}}をしてその{{r|奥密|おうみつ}}なる{{r|宝|たから}}を{{r|奪|うば}}はしめざる{{r|者|もの}}{{r|是|これ}}なり。
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問 {{r|病|やまい}}と{{r|困難|こんなん}}とが{{r|身体|しんたい}}を{{r|囲|かこ}}み、{{r|之|これ}}と{{r|併|あわ}}せて{{r|意思|いし}}は{{r|善|ぜん}}なるものを{{r|願|ねが}}ふの{{r|望|のぞみ}}とその{{r|最初|さいしょ}}の{{r|堅|かた}}きとに{{r|於|おい}}て{{r|弱|よわ}}るときは、{{r|我|われ}}ら{{r|之|これ}}を{{r|如何|いか}}に{{r|為|な}}すべきか。
答 {{r|一半|いっぱん}}は{{r|主|しゅ}}の{{r|跡|あと}}を{{r|追|お}}ふて{{r|行|ゆ}}けども、{{r|他|た}}の{{r|一半|いっぱん}}は{{r|世|よ}}に{{r|止|とど}}まりて、その{{r|心|こころ}}は{{r|此世|このよ}}にあるものより{{r|脱|だっ}}せず、{{r|自己|じこ}}を{{r|分割|ぶんかつ}}して、{{r|或時|あるとき}}には{{r|前|まえ}}を{{r|望|のぞ}}めども、{{r|或時|あるとき}}には{{r|後|うしろ}}を{{r|顧|かえり}}みる{{r|者|もの}}らを{{r|見|み}}ること{{r|稀|まれ}}なりとせず。ゆえに{{r|智者|ちしゃ}}は『{{r|二心|ふたごころ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|主|しゅ}}に{{r|就|つ}}くなかれ』といひ〔[[ベン・シラの智慧 第一章|シラフ一の二十八]]〕{{r|蒔|ま}}く{{r|者|もの}}の{{r|如|ごと}}く{{r|穫|か}}る{{r|者|もの}}の{{r|如|ごと}}く{{r|就|つ}}くべしといへるは、{{r|思|おも}}ふに{{r|此|こ}}の{{r|自己|じこ}}を{{r|分割|ぶんかつ}}して{{r|神|かみ}}の{{r|睿智|えいち}}の{{r|路|みち}}に{{r|近|ちか}}づく{{r|者|もの}}らに{{r|教訓|きょうくん}}を{{r|與|あた}}ふるなり、{{r|主|しゅ}}も{{r|此|こ}}の{{r|不充分|ふじゅうぶん}}に{{r|世|よ}}を{{r|棄|す}}てて{{r|自己|じこ}}を{{r|分割|ぶんかつ}}したる{{r|者|もの}}らが{{r|肉体|にくたい}}の{{r|慾|よく}}を{{r|未|いま}}だ{{r|自|みづ}}から{{r|棄|す}}てざるにより、{{r|畏懼|いく}}と{{r|患難|かんなん}}とに{{r|口|くち}}を{{r|籍|か}}り、{{r|心意|しんい}}を{{r|以|もっ}}て、{{r|否|いな}}{{r|確言|かくげん}}すれば{{r|思念|しねん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|後|うしろ}}を{{r|顧|かえり}}みるを{{r|知|し}}り、{{r|此|こ}}の{{r|心意|しんい}}の{{r|衰弱|すいじゃく}}を{{r|彼|かれ}}らに{{r|擲|なげう}}たしめんと{{r|欲|ほっ}}し、{{r|彼|かれ}}らに{{r|一定|いってい}}の{{r|教訓|きょうくん}}を{{r|告|つ}}げていへり『{{r|我|われ}}に{{r|従|したが}}はんと{{r|欲|ほっ}}せば{{r|先|ま}}づ{{r|己|おのれ}}を{{r|棄|す}}つべし』{{r|云々|うんぬん}}といへり〔[[マタイ傳福音書(文語訳)#16:24|マトフェイ十六の二十四]]〕。
問 {{r|己|おのれ}}を{{r|棄|す}}つとは{{r|何|なに}}を{{r|謂|い}}ふか。
答 {{r|十字架|じゅうじか}}に{{r|上|のぼ}}らんと{{r|準備|じゅんび}}せし{{r|者|もの}}は、その{{r|心|こころ}}に{{r|死|し}}の{{r|一念|いちねん}}を{{r|有|ゆう}}し、かくの{{r|如|ごと}}くして{{r|十字架|じゅうじか}}に{{r|上|のぼ}}り、{{r|現世|げんせい}}の{{r|生命|いのち}}に{{r|再|ふたた}}び{{r|分|ぶん}}を{{r|有|ゆう}}するを{{r|思|おも}}はざるならん。{{r|己|おのれ}}を{{r|棄|す}}つることを{{r|実行|じっこう}}せんと{{r|欲|ほっ}}する{{r|者|もの}}も{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}し。けだし{{r|十字架|じゅうじか}}とは{{r|如何|いか}}なる{{r|患難|かんなん}}をも{{r|受|う}}けんとの{{r|意思|いし}}{{r|是|これ}}なり。{{r|主|しゅ}}は{{r|此事|このこと}}の{{r|何故|なにゆえ}}かくの{{r|如|ごと}}くなるべきかを{{r|教|おし}}へんと{{r|欲|ほっ}}するや、{{r|告|つ}}げていへり、{{r|此世|このよ}}に{{r|生|い}}きんと{{r|欲|ほっ}}する{{r|者|もの}}は{{r|真生命|しんせいめい}}の{{r|為|ため}}に{{r|己|おのれ}}を{{r|亡|ほろ}}ぼさん、しかれども{{r|此|この}}{{r|処|ところ}}に{{r|於|おい}}て{{r|我|わ}}が{{r|為|ため}}に{{r|己|おのれ}}を{{r|亡|ほろぼ}}す{{r|者|もの}}は、{{r|彼処|かしこ}}に{{r|於|おい}}て{{r|己|おのれ}}を{{r|得|え}}ん、〔[[マタイ傳福音書(文語訳)#10:25|マトフェイ十の二十五]]〕{{r|即|すなはち}}{{r|十字架|じゅうじか}}の{{r|路|みち}}を{{r|進行|しんこう}}してその{{r|足|あし}}を{{r|彼処|かしこ}}に{{r|於|おい}}て{{r|立|た}}つる{{r|者|もの}}は{{r|己|おのれ}}を{{r|得|え}}んと。されどもし{{r|誰|たれ}}か{{r|此|この}}{{r|生命|いのち}}のことを{{r|更|さら}}に{{r|慮|おもんばか}}るならば、これその{{r|出|い}}でて{{r|患難|かんなん}}に{{r|向|むか}}ひし{{r|希望|きぼう}}を{{r|彼|かれ}}は{{r|自|みづ}}から{{r|奪|うば}}へるなり。けだし{{r|此|この}}{{r|念慮|なんりょ}}は{{r|彼|かれ}}に{{r|神|かみ}}の{{r|為|ため}}に{{r|患難|かんなん}}に{{r|近|ちか}}づくを{{r|許|ゆる}}さずして、{{r|彼|かれ}}が{{r|此|この}}{{r|念慮|ねんりょ}}に{{r|従|したが}}ふにより、{{r|漸々|ぜんぜん}}{{r|彼|かれ}}を{{r|誘|いざな}}ふて、{{r|苦行的|くぎょうてき}}{{r|有福|ゆうふく}}なる{{r|生涯|しょうがい}}の{{r|中|うち}}より{{r|引|ひき}}{{r|去|さ}}るべくして、{{r|彼|かれ}}を{{r|征服|せいふく}}するに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}は{{r|此|この}}{{r|念慮|ねんりょ}}は{{r|彼|かれ}}に{{r|増々|ますます}}{{r|成長|せいちょう}}せん。{{r|我|われ}}を{{r|愛|あい}}するにより、『{{r|我|わ}}が{{r|為|ため}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|生命|せいめい}}をその{{r|心|こころ}}に{{r|於|おい}}て{{r|亡|ほろぼ}}す{{r|者|もの}}は、』{{r|間然|かんぜん}}する{{r|所|ところ}}なく{{r|傷|そこな}}はれずして、{{r|永遠|えいえん}}の{{r|生命|いのち}}に{{r|守|まも}}られん、『{{r|我|わ}}が{{r|為|ため}}に{{r|其|その}}{{r|生命|いのち}}を{{r|亡|ほろぼ}}す{{r|者|もの}}は{{r|之|これ}}を{{r|得|え}}ん』とは{{r|即|すなはち}}{{r|此義|このぎ}}を{{r|示|しめ}}すなり。されば{{r|猶|なお}}{{r|此世|このよ}}に{{r|於|おい}}て{{r|此|この}}{{r|生命|いのち}}の{{r|為|ため}}に{{r|己|おのれ}}の{{r|生命|いのち}}を{{r|全|まった}}く{{r|亡|ほろぼ}}すに{{r|自|みづ}}から{{r|備|そな}}へよ。もし{{r|此|こ}}の{{r|生命|いのち}}の{{r|為|ため}}に{{r|己|おのれ}}を{{r|亡|ほろぼ}}すならば、{{r|主|しゅ}}は{{r|亦|また}}{{r|同|おな}}じ{{r|意味|いみ}}にていへり、『{{r|汝|なんぢ}}に{{r|永遠|えいえん}}の{{r|生命|いのち}}を{{r|與|あた}}ふること』{{r|我|わ}}が{{r|汝|なんぢ}}に{{r|約|やく}}せし{{r|如|ごと}}くせん〔[[ヨハネ傳福音書(文語訳)#10:28|イオアン十の二十八]]〕。されど{{r|汝|なんぢ}}は{{r|此|こ}}の{{r|生命|いのち}}に{{r|留|とど}}まるならば、{{r|我|わ}}が{{r|約束|やくそく}}と{{r|未来|みらい}}の{{r|幸福|こうふく}}に{{r|於|おけ}}る{{r|保証|ほしょう}}とを{{r|猶|なお}}{{r|此|この}}{{r|処|ところ}}に{{r|実際|じっさい}}を{{r|以|もっ}}て{{r|汝|なんぢ}}らに{{r|示|しめ}}さん。{{r|此|この}}{{r|生命|いのち}}を{{r|軽|かろ}}んずるときは、{{r|永遠|えいえん}}の{{r|生命|いのち}}を{{r|得|え}}ん。{{r|此|こ}}の{{r|武装|ぶそう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|苦行|くぎょう}}に{{r|出発|しゅっぱつ}}する{{r|時|とき}}は、{{r|凡|すべ}}て{{r|患難|かんなん}}{{r|憂苦|ゆうく}}と{{r|思惟|しい}}せらるる{{r|所|ところ}}のものは、{{r|汝|なんぢ}}の{{r|眼中|がんちゅう}}に{{r|軽|かろ}}んぜられん。けだし心が{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}く{{r|武装|ぶそう}}せらるるときは、{{r|彼|かれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|戦|たたかい}}もなく、{{r|死|し}}の{{r|危|あやう}}きに{{r|臨|のぞ}}みて{{r|憂愁|ゆうしゅう}}することもあるなし。ゆえにもし{{r|人|ひと}}は{{r|未来|みらい}}の{{r|有福|ゆうふく}}なる{{r|生命|いのち}}を{{r|望|のぞ}}むが{{r|為|ため}}に{{r|此世|このよ}}に{{r|於|おけ}}る{{r|自己|じこ}}の{{r|生活|せいかつ}}を{{r|憎|にく}}まずんば、{{r|毎時|まいじ}}{{r|毎刻|まいこく}}{{r|来|きた}}る{{r|所|ところ}}の{{r|種々|しゅじゅ}}なる{{r|患難|かんなん}}と{{r|労苦|ろうく}}とを{{r|全|まった}}く{{r|忍耐|にんたい}}する{{r|能|あた}}はざる{{r|所以|ゆえん}}を{{r|確|かく}}として{{r|知|し}}らんこと{{r|肝要|かんよう}}なり。
問 {{r|如何|いかん}}して{{r|人|ひと}}は{{r|従前|じゅうぜん}}の{{r|習慣|しゅうかん}}をすてて、{{r|欠乏|けつぼう}}と{{r|苦行的生活|くぎょうてきせいかつ}}に{{r|慣|な}}るべきか。
答 {{r|身体|しんたい}}は{{r|奢侈|しゃし}}と{{r|懦弱|だじゃく}}とに{{r|資|たす}}くるものの{{r|為|ため}}に{{r|囲|かこ}}まるる{{r|間|あいだ}}は、その{{r|必要|ひつよう}}を{{r|充|み}}たさずして{{r|生活|せかつ}}するを{{r|甘|あま}}んぜざらん、{{r|而|しか}}して{{r|身体|しんたい}}が{{r|凡|すべ}}て{{r|懦弱|だじゃく}}を{{r|生|しょう}}ずるものより{{r|除|のぞ}}かれざる{{r|間|あいだ}}は、{{r|智|ち}}もその{{r|体|たい}}を{{r|奢侈|しゃし}}より{{r|止|とど}}むるあたはざるべし。けだし{{r|奢侈|しゃし}}と{{r|浮華|ふか}}との{{r|観場|かんじょう}}がその{{r|前|まえ}}に{{r|開|ひら}}かるるありて、{{r|懦弱|だじゃく}}に{{r|資|たす}}くる{{r|所|ところ}}のものを{{r|殆|ほとん}}ど{{r|毎時|まいじ}}{{r|見|み}}ざることなき{{r|時|とき}}は、{{r|火焔|かえん}}の{{r|如|ごと}}き{{r|欲望|よくぼう}}{{r|起|おこ}}りて、{{r|彼|かれ}}を{{r|衝動|しょうどう}}すること{{r|焼|や}}くが{{r|如|ごと}}くならん。{{r|故|ゆえ}}に{{r|贖罪者|しょくざいしゃ}}たる{{r|主|しゅ}}はその{{r|跡|あと}}に{{r|従|したがっ}}て{{r|行|ゆ}}かんことを{{r|約束|やくそく}}したる{{r|者|もの}}に、{{r|裸体|らたい}}にして{{r|世|よ}}より{{r|出|い}}づべきを{{r|最|いと}}{{r|善|よ}}く{{r|誡命|かいめい}}し{{r|給|たま}}へり、何となれば人は凡て{{r|懦弱|だじゃく}}に{{r|資|たす}}くる{{r|所|ところ}}のものを{{r|先|ま}}づ{{r|自|みづ}}から{{r|抛棄|ほうき}}して、その{{r|後|のち}}{{r|事|こと}}に{{r|着手|ちゃくしゅ}}せんを{{r|要|よう}}すればなり。{{r|主|しゅ}}も{{r|自|みづ}}から{{r|魔鬼|まき}}と{{r|戦|たたかい}}を{{r|始|はじ}}むるや、{{r|最|いと}}{{r|無趣味|むしゅみ}}なる{{r|野|の}}に{{r|於|おい}}て{{r|開戦|かいせん}}し{{r|給|たま}}へり。<u>パウェル</u>も<u>ハリストス</u>の{{r|十字架|じゅうじか}}を{{r|己|おの}}れに{{r|任|にな}}ふ{{r|者|もの}}に{{r|邑|ゆう}}より{{r|出|い}}づべきを{{r|勧告|かんこく}}す。いへらく『{{r|我|われ}}らは{{r|彼|かれ}}の{{r|辱|はずかしめ}}を{{r|任|にな}}ひ、{{r|邑外|ゆうがい}}に{{r|出|い}}でて{{r|彼|かれ}}に{{r|就|つ}}くべし』〔[[ヘブル人への書(文語訳)#13:13|エウレイ十三の十三]]〕、{{r|何|なん}}となれば{{r|主|しゅ}}は{{r|邑外|ゆうがい}}に{{r|於|おい}}て{{r|苦|くるしみ}}をうけたればなり。けだし{{r|人|ひと}}は{{r|世|よ}}とすべて{{r|世|よ}}にある{{r|所|ところ}}のものより{{r|己|おのれ}}を{{r|分離|ぶんり}}するや、その{{r|従前|じゅうぜん}}の{{r|習慣|しゅうかん}}と{{r|従前|じゅうぜん}}の{{r|生活|せいかつ}}の{{r|有様|ありさま}}とを{{r|速|すみやか}}に{{r|忘|わす}}れて、{{r|此|これ}}らの{{r|為|ため}}に{{r|永|なが}}く{{r|占有|せんゆう}}せられざらん。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|人|ひと}}を{{r|世|よ}}と{{r|世|よ}}の{{r|事物|じぶつ}}に{{r|近|ちか}}づかしむるにより、{{r|直|ただち}}にその{{r|智力|ちりょく}}を{{r|弱|よわ}}めん。ゆえに{{r|此|こ}}の{{r|救済的|きゅうさいてき}}{{r|及|およ}}び{{r|苦行的|くぎょうてき}}の{{r|戦|たたかい}}に{{r|大|だい}}なる{{r|進歩|しんぽ}}を{{r|為|な}}すが{{r|為|ため}}に、{{r|特|こと}}に{{r|協力|きょうりょく}}して{{r|之|これ}}を{{r|導|みちび}}くは{{r|何物|なにもの}}なるを{{r|知|し}}らんこと{{r|肝要|かんよう}}なり、{{r|修道士|しゅうどうし}}の{{r|庵|いおり}}の{{r|貧|まづ}}しく{{r|欠乏|けつぼう}}なる{{r|状態|じょうたい}}にあらんことと、{{r|修道士|しゅうどうし}}の{{r|為|ため}}に{{r|庵|いおり}}は{{r|空虚|くうきょ}}にして、{{r|安息|あんそく}}の{{r|望|のぞみ}}を{{r|挑発|ちょうはつ}}すべきものを{{r|一|いつ}}も{{r|蓄|たくは}}へざらんことは{{r|有益|ゆうえき}}にして、{{r|此|この}}{{r|戦|たたかい}}に{{r|助|たす}}くるなり。けだし{{r|人|ひと}}を{{r|懦弱|だじゃく}}ならしむる{{r|原因|げんいん}}より{{r|遠|とお}}ざかるときは、{{r|人|ひと}}は{{r|二様|によう}}の{{r|戦|たたかい}}に{{r|於|おい}}て、{{r|即|すなはち}}{{r|内部|ないぶ}}と{{r|外部|がいぶ}}の{{r|戦|たたかい}}に{{r|於|おい}}て{{r|危|あやう}}きを{{r|免|のが}}れん。かくの{{r|如|ごと}}く{{r|安逸|あんいつ}}に{{r|資|たす}}くるものを{{r|自|みづ}}から{{r|遠|とお}}ざくる{{r|人|ひと}}はその{{r|欲望|よくぼう}}を{{r|起|おこ}}すものの{{r|近|ちか}}きに{{r|居|お}}る{{r|者|もの}}に{{r|比|ひ}}すれば{{r|労|ろう}}せずして{{r|勝利|しょうり}}を{{r|得|え}}ん。けだしここには{{r|二倍|にばい}}の{{r|苦行|くぎょう}}あるなり。
{{r|人|ひと}}はその{{r|住所|じゅうしょ}}の{{r|整頓|せいとん}}{{r|設備|せつび}}の{{r|為|ため}}に{{r|必要|ひつよう}}なるものを{{r|欠|か}}く{{r|時|とき}}は、{{r|人|ひと}}の{{r|要求|ようきゅう}}も{{r|易|たや}}すく{{r|軽|かろ}}んぜらるべく、その{{r|要求|ようきゅう}}を{{r|適宜|てきぎ}}に{{r|充|み}}たさざる{{r|可|べか}}らざる{{r|緊要|きんよう}}の{{r|時|とき}}に{{r|於|おい}}ても、{{r|人|ひと}}は{{r|之|これ}}を{{r|視|み}}るに{{r|欲望|よくぼう}}を{{r|以|もっ}}てせず、{{r|何等|なんら}}の{{r|微物|びぶつ}}を{{r|以|もっ}}ても{{r|体|たい}}を{{r|悦|よろこ}}ばしめずして、{{r|之|これ}}を{{r|見|み}}ること{{r|或|あ}}る{{r|軽|かろ}}んずべきものを{{r|見|み}}るが{{r|如|ごと}}くし、{{r|食|しょく}}に{{r|近|ちか}}づくも{{r|之|これ}}を{{r|甘|あま}}んずるが{{r|為|ため}}にあらず、{{r|性|せい}}を{{r|助|たす}}けて{{r|之|これ}}を{{r|堅|かた}}むるが{{r|為|ため}}にせんとす。かくの{{r|如|ごと}}きの{{r|勉励|べんれい}}は{{r|速|すみやか}}に{{r|人|ひと}}を{{r|導|みちび}}きて{{r|憂|うれ}}ひず{{r|哀|かなし}}まざる{{r|意思|いし}}を{{r|以|もっ}}て{{r|苦行|くぎょう}}に{{r|着手|ちゃくしゅ}}せしむるに{{r|至|いた}}らん。ゆえに{{r|凡|すべ}}て{{r|修道士|しゅうどうし}}と{{r|戦|たたか}}ふものをば、{{r|之|これ}}を{{r|避|さ}}けんが{{r|為|ため}}に{{r|疾足|しっそく}}して、{{r|後|あと}}を{{r|顧|かえり}}みづ、{{r|彼|かれ}}と{{r|開戦|かいせん}}せんとするものと{{r|交通|こうつう}}せず、{{r|之|これ}}を{{r|一見|いっけん}}するだも{{r|節制|せっせい}}して、もし{{r|近|ちか}}づき{{r|来|きた}}るときは、{{r|出来得|できう}}るだけ{{r|之|これ}}に{{r|遠|とお}}ざかるは、{{r|勉励|べんれい}}なる{{r|修道士|しゅうどうし}}に{{r|適当|てきとう}}なり。{{r|予|よ}}が{{r|此事|このこと}}を{{r|言|い}}ふはただ{{r|腹|はら}}の{{r|為|ため}}に{{r|言|い}}ふにあらず、すべて{{r|修道士|しゅうどうし}}の{{r|自由|じゆう}}の{{r|誘|いざな}}はれ{{r|且|かつ}}{{r|試|こころ}}みらるべき{{r|誘惑|ゆうわく}}と{{r|戦|たたかい}}とにみちびき{{r|入|い}}れんとするものにつきて{{r|言|い}}ふなり。けだし{{r|人|ひと}}は{{r|神|かみ}}に{{r|来|きた}}るときは、すべて{{r|左|さ}}の{{r|件々|けんけん}}を{{r|節制|せっせい}}することを{{r|神|かみ}}と{{r|約束|やくそく}}するなり、{{r|即|すなはち}}{{r|婦人|ふじん}}の{{r|面|おもて}}を{{r|窺|うかが}}はざること、{{r|美|び}}なる{{r|容顔|ようがん}}を{{r|見|み}}ざること、{{r|何物|なにもの}}に{{r|対|たい}}しても{{r|願望|がんぼう}}を{{r|抱|いだ}}かざること、{{r|奢侈|しゃし}}に{{r|耽|ふけ}}らざること、{{r|装飾|そうしょく}}せる{{r|衣服|いふく}}を{{r|見|み}}ざること、{{r|俗人|ぞくじん}}が{{r|開設|かいせつ}}したるすべての{{r|陳列場|ちんれつじょう}}を{{r|窺|うかが}}はざること、{{r|彼|かれ}}らの{{r|言説|げんせつ}}を{{r|聴|き}}かざること、{{r|及|およ}}び{{r|之|これ}}を{{r|好着|こうちゃく}}せざらんことを{{r|約|やく}}す、{{r|何|なん}}となれば{{r|慾念|よくねん}}は{{r|凡|すべ}}て{{r|此|これ}}らのものと{{r|接近|せっきん}}するにより、{{r|大|おほい}}なる{{r|勢力|せいりょく}}を{{r|得|え}}て{{r|苦行者|くぎょうしゃ}}を{{r|懦弱|だじゃく}}にし、その{{r|思想|しそう}}と{{r|企図|きと}}とを{{r|変|へん}}ぜしむるによる。それ{{r|或|あ}}る{{r|善|ぜん}}なるものを{{r|一見|いっけん}}するは、{{r|真|しん}}の{{r|熱心者|ねっしんしゃ}}の{{r|同意|どうい}}を{{r|喚起|かんき}}して、{{r|善|ぜん}}を{{r|成|な}}すに{{r|傾|かたむ}}かしむるならば、{{r|之|これ}}と{{r|反対|はんたい}}なる{{r|所|ところ}}のものも{{r|心意|しんい}}を{{r|圧|あっ}}して、{{r|之|これ}}を{{r|奴隷|どれい}}にする{{r|勢力|せいりょく}}を{{r|有|ゆう}}すること{{r|明|あきらか}}なり。{{r|而|しか}}して{{r|黙想|もく}}する{{r|心意|しんい}}と{{r|遇会|ぐうかい}}するものは、{{r|或|あ}}る{{r|大|だい}}なるものには{{r|非|あら}}ずして、ただ{{r|之|これ}}を{{r|戦闘|せんとう}}{{r|苦行|くぎょう}}に{{r|陥|おとしい}}るるのみなるも、これ{{r|亦|また}}{{r|既|すで}}に{{r|大|だい}}なる{{r|損失|そんしつ}}なり、{{r|即|すなはち}}{{r|心意|しんい}}そのものを{{r|平安|へいあん}}なる{{r|状態|じょうたい}}より{{r|混乱|こんらん}}なる{{r|状態|じょうたい}}に{{r|随意|ずいい}}に{{r|陥|おとしい}}るるなり。
それ{{r|奮闘|ふんとう}}に{{r|於|おい}}て{{r|試|こころ}}みられたる{{r|老|ろう}}{{r|苦行者|くぎょうしゃ}}の{{r|一人|いちにん}}は、{{r|鬚|ひげ}}なくして{{r|婦人|ふじん}}の{{r|如|ごと}}くなる{{r|青年|せいねん}}を{{r|認|みと}}め、{{r|之|これ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|思念|しねん}}の{{r|為|ため}}に{{r|害|がい}}ありとなし、その{{r|苦行|くぎょう}}の{{r|為|ため}}に{{r|毒|どく}}なりとなせしならば、{{r|此聖人|このせいじん}}の{{r|入|い}}りて{{r|兄弟|けいてい}}を{{r|接吻|せっぷん}}するを{{r|躊躇|ちゅうちょ}}したりしを、{{r|誰|たれ}}か{{r|之|これ}}を{{r|等閑|とうかん}}{{r|視|し}}してこれ{{r|我|わ}}が{{r|事|こと}}にあらずと{{r|為|な}}すを{{r|得|え}}ん。{{r|賢|けん}}なる{{r|老人|ろうじん}}は{{r|熟々|つらつら}}{{r|思|おも}}ふやう『もしただ{{r|是夜|このよ}}に{{r|於|おい}}て{{r|此処|ここ}}に{{r|之|これ}}と{{r|相|あい}}{{r|類|るい}}する{{r|事|こと}}のあらんを{{r|少|すこ}}しにても{{r|思|おも}}ふならば、これ{{r|亦|また}}{{r|我|わ}}が{{r|為|ため}}に{{r|大|だい}}なる{{r|害|がい}}とならん』と。ゆえに{{r|彼|かれ}}は{{r|入|い}}らずして{{r|告|つ}}げていへり、『{{r|子|こ}}よ{{r|予|よ}}は{{r|恐|おそ}}れず、さりながら{{r|何|なん}}の{{r|為|ため}}に{{r|予|よ}}は{{r|徒|いたず}}らに{{r|自己|じこ}}に{{r|向|むか}}つて{{r|戦|たたかい}}を{{r|起|おこ}}すを{{r|願|ねが}}はんや。{{r|之|これ}}と{{r|相|あい}}{{r|類|るい}}する{{r|何事|なにごと}}をか{{r|想起|そうき}}するは、{{r|心|こころ}}に{{r|大|だい}}なる{{r|混乱|こんらん}}を{{r|生|しょう}}ぜん。{{r|餌|えば}}は{{r|此|この}}{{r|身|み}}の{{r|各|かく}}{{r|肢|し}}にかくるるありて、{{r|之|これ}}により{{r|大|だい}}なる{{r|戦|たたかい}}は{{r|人|ひと}}に{{r|臨|のぞ}}まん、されば{{r|人|ひと}}は{{r|自己|じこ}}を{{r|保護|ほご}}して、その{{r|来|きた}}らんとする{{r|戦|たたかい}}をば{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|緩|ゆる}}うして、{{r|逃走|とうそう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|救|すく}}はれんこと{{r|肝要|かんよう}}なり。{{r|然|しか}}れども{{r|人|ひと}}よ、{{r|何事|なにごと}}か{{r|接近|せっきん}}し{{r|来|きた}}るときは、たとひ{{r|己|おのれ}}を{{r|善|ぜん}}に{{r|強|し}}ゆといへども、{{r|常|つね}}に{{r|之|これ}}を{{r|見|み}}、{{r|且|かつ}}は{{r|之|これ}}を{{r|願|ねが}}ひつつ{{r|早|はや}}くも{{r|危|あやう}}きに{{r|瀕|ひん}}せん』。
{{r|地中|ちちゅう}}には{{r|多|おお}}くの{{r|埋没|まいぼつ}}せる{{r|薬物|やくぶつ}}を{{r|見|み}}るべきも、{{r|夏|なつ}}は{{r|炎熱|えんねつ}}の{{r|故|ゆえ}}に{{r|何人|なにびと}}もこれを{{r|知|し}}らず、{{r|然|しか}}るに{{r|滋潤|じじゅん}}{{r|至|いた}}りて{{r|清涼|せいりょう}}なる{{r|空気|くうき}}の{{r|力|ちから}}に{{r|触|ふ}}るる{{r|時|とき}}は、{{r|各|かく}}{{r|薬物|やくぶつ}}の{{r|地中|ちちゅう}}{{r|何処|いづこ}}にか{{r|埋|うづ}}まりしものあらはるるなり。かくの{{r|如|ごと}}く{{r|人|ひと}}も{{r|黙想|もくそう}}の{{r|恩寵|おんちょう}}と{{r|節制|せっせい}}の{{r|温暖|おんだん}}に{{r|居|お}}るときは、{{r|実|じつ}}に{{r|多|おお}}くの{{r|慾念|よくねん}}より{{r|休止|きゅうし}}せん、{{r|然|しか}}れどももし{{r|世事|せいじ}}に{{r|関渉|かんしょう}}するならば、その{{r|時各|ときかく}}{{r|慾念|よくねん}}は{{r|起|おこ}}りてその{{r|首|こうべ}}を{{r|昂|あぐ}}るを{{r|見|み}}ん、{{r|矧|いわん}}や{{r|安息|あんそく}}の{{r|香気|こうき}}に{{r|触|ふ}}るる{{r|時|とき}}に{{r|於|おい}}てをや、{{r|予|よ}}が{{r|之|これ}}を{{r|言|い}}ふは、{{r|此|この}}{{r|肉体|にくたい}}に{{r|居|お}}る{{r|間|あいだ}}、{{r|死|し}}せざる{{r|間|あいだ}}は、{{r|誰|たれ}}も{{r|自負|じふ}}に{{r|陥|おちい}}らざらんが{{r|為|ため}}なり、{{r|且|かつ}}{{r|予|よ}}はすべて{{r|邪|よこしま}}なる{{r|生活|せいかつ}}にみちびく{{r|所|ところ}}のものを{{r|避|さ}}け、{{r|且|かつ}}{{r|之|これ}}に{{r|遠|とお}}ざかり、{{r|苦行的|くぎょうてき}}{{r|戦闘|せんとう}}に{{r|於|おい}}て{{r|大|おほい}}に{{r|人|ひと}}に{{r|助|たす}}くる{{r|所|ところ}}のものを{{r|示|しめ}}さんと{{r|欲|ほっ}}するなり。{{r|或|あ}}る{{r|想起|そうき}}の{{r|我|われ}}らに{{r|耻|はぢ}}をかうむらしむるものを{{r|畏|おそ}}るること{{r|又|また}}{{r|之|これ}}と{{r|同|おな}}じく{{r|良心|りょうしん}}を{{r|蹂躙|じゅうりん}}せざることと{{r|之|これ}}を{{r|軽|かろ}}んぜざることは、{{r|常|つね}}に{{r|我|われ}}らに{{r|肝要|かんよう}}なり。{{r|終|つい}}に{{r|我|われ}}らは{{r|身体|しんたい}}を{{r|一時|いちじ}}{{r|野|の}}に{{r|遠|とお}}ざくるを{{r|試|こころ}}み、{{r|之|これ}}をして{{r|忍耐|にんたい}}を{{r|得|え}}せしめん。しかれども{{r|最|もっとも}}{{r|重要|じゅうよう}}なるは、おのおの{{註|{{r|此事|このこと}}は{{r|各人|かくじん}}の{{r|為|ため}}に{{r|心|こころ}}を{{r|痛|いた}}ましむべしといへども{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}に{{r|人|ひと}}は{{r|最早|もはや}}{{r|何|なに}}も{{r|恐|おそ}}るる{{r|所|ところ}}あらざるべし}}{{r|何処|いづこ}}にありとも、{{r|戦|たたかい}}の{{r|原因|げんいん}}となるものより{{r|遠|とお}}ざかるに{{r|尽力|じんりょく}}するにあるべし、これ{{r|需要|じゅよう}}が{{r|生|しょう}}じ{{r|来|きた}}らん{{r|時|とき}}、その{{r|要求|ようきゅう}}を{{r|充|み}}たすべきものの{{r|近|ちか}}きにあるがため{{r|之|これ}}に{{r|陥|おちい}}るを{{r|免|まぬか}}れん{{r|為|ため}}なり。
問 {{r|種々|しゅじゅ}}の{{r|引誘|いんゆう}}を{{r|自|みづ}}から{{r|絶|た}}ちて{{r|苦行|くぎょう}}に{{r|入|い}}る{{r|者|もの}}は、{{r|罪|つみ}}と{{r|戦|たたか}}ふに{{r|如何|いか}}なる{{r|起初|きしょ}}を{{r|為|な}}し{{r|如何|いか}}に{{r|奮闘|ふんとう}}し{{r|始|はじ}}むべきか。
答 すべて{{r|罪|つみ}}と{{r|欲望|よくぼう}}とに{{r|戦|たたか}}ふが{{r|為|ため}}に{{r|起初|きしょ}}となるべきものは、{{r|労苦|ろうく}}と{{r|儆醒|けいせい}}と{{r|禁食|きんしょく}}となることは{{r|衆人|しゅうじん}}の{{r|知|し}}る{{r|所|ところ}}なり、{{r|矧|いはん}}やもし{{r|誰|たれ}}か{{r|我|われ}}らが{{r|内部|ないぶ}}に{{r|居|お}}る{{r|所|ところ}}の{{r|罪|つみ}}と{{r|闘|たたか}}ふに{{r|於|おい}}てをや。{{r|此|こ}}の{{r|見|み}}えざる{{r|戦|たたかい}}を{{r|作|な}}す{{r|者|もの}}らが{{r|罪|つみ}}と{{r|欲望|よくぼう}}とに{{r|対|たい}}して{{r|之|これ}}を{{r|憎|にく}}むの{{r|徴候|ちょうこう}}は{{r|此|これ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|認|みとめ}}らるべくして、{{r|彼|かれ}}らは{{r|禁食|きんしょく}}を{{r|以|もっ}}て{{r|之|これ}}を{{r|始|はじ}}め、その{{r|後|のち}}{{r|夜間|やかん}}の{{r|儆醒|けいせい}}は{{r|苦行|くぎょう}}に{{r|助|たす}}くるなり。
== 脚注 ==
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==現代語訳==
<< さまざまな主題について。質疑応答の形で。 >>
質問:人間の心を悪に走らせないように結びつけている絆とは何でしょうか?
答え:常に知恵に従い、人生の教えを豊かに学ぶことによって。思考の混乱を抑えるための、これより強い絆はない。
質問:知恵を求める者の願望には限界があり、その学びはどこで終わるのですか?
答え:人生の旅路において、自分の限界に達することは真に不可能です。なぜなら、聖人ですら完全な境地には達していないからです。知恵の道には終わりがなく、その道を進む者は神と一体となるまで、ますます高みへと進んでいきます。知恵の真髄は、その達成が完全であるということです。なぜなら、知恵とは神そのものだからです。
質問:私たちを叡智へと導く最初の道とは何でしょうか?また、その始まりは何でしょうか?
答え:全力を尽くして神の知恵に従おうと努め、その努力において、たとえ神への愛ゆえにであっても、魂のすべてを尽くして人生の終わりまで急ぎ、必要であれば、命を捨ててそれを放棄することを怠ってはならない。
質問:誰が知的と呼ばれるに値するのですか?
答え:この世の限界を真に理解した者は、自らの罪にも限界を設けることができる。なぜなら、人がこの世を清らかに、情欲の悪臭に汚されることなく、情欲の甘美さによって魂に何の汚れも残されることなく去ることができること以上に偉大な知識や理解があるだろうか。もし人が、あらゆる自然の神秘を探求するために思考を磨き、あらゆる知識分野において発明や観察によって自らを豊かにしたとしても、その魂が罪の汚れに染まり、魂の希望の証拠を得ていないにもかかわらず、自分が信頼の港に安全に入港したと考えているならば、この世に彼ほど愚かな人間はいない。なぜなら、彼の行いは、世俗的なものへの絶え間ない努力によって、彼を世俗的な希望へと導いただけだからである。
質問:真に最強なのは誰ですか?
答え:一時的な悲しみに満足し、その中に勝利の生命と栄光が隠されている者、恥辱の悪臭が隠されている広大さを望まず、それを見つけた者に常にため息の杯を飲ませる者。
質問:誘惑のために善行を避けると、神への道のりにどのような害が生じるでしょうか?
答え:悲しみなしに神に近づくことは不可能です。悲しみがなければ、人間の義さえも損なわれてしまいます。義を増す行いを捨てる人は、義を守る行いも捨てることになります。そして、その人は、守られていない宝物、敵軍に囲まれて武器を奪われた戦士、索具のない船、水源を奪われた庭園のようになります。
質問:誰がその概念において啓蒙されているのか?
答え:この世の甘さの中に隠された苦さを見いだす者は、この杯から飲むことを唇に禁じ、魂を救う方法を絶えず模索し、この世を捨てるまで努力を止めず、この世への執着が入り込んで秘宝を盗み出さないように感覚の扉を閉ざす。
質問:世とは何か?私たちはどのようにして世を知るのか?そして、世を愛する人々にとって、世はどのように害となるのか?
答え:世は、その美しさに魅せられて恋に落ちる娼婦である。世への愛に少しでも心を奪われた者、世に囚われた者は、命を奪われるまでその束縛から逃れることはできない。世が人のすべてを奪い、死の日にその人を家から連れ去るとき、その人は世が真に人を欺き、人を惑わすものであることを知るだろう。この世の闇から抜け出そうと努力する者が、まだその中に隠れている限り、その束縛を見分けることはできない。このようにして、世は、その弟子や子、世に縛られた者だけでなく、無私無欲な者、禁欲的な者、そしてかつて世の束縛を断ち切り、世の上に立っていた者をも、自らの内に留めておく。こうして、世は様々な方法で彼らをその行いに絡め取り、足元に投げ捨て、踏みにじるのである。
質問:体が病気や重苦しさに包まれ、それに伴って善を求める意志や本来の力が弱まってしまったとき、私たちはどうすればよいのでしょうか?
答え:しばしば、半分の人が主に従い、残りの半分の人が世にとどまり、心はこの世を捨てていないのに、心の中で分裂し、時には前を向き、時には後ろを振り返るという状況が起こります。そして、心の中で分裂し、神の道に近づこうとする人々に、賢者はこう助言していると思います。「分裂した心で近づいてはならない」(シラ書 1章28節)、種を蒔く者のように、また刈り取る者のように近づきなさい(シラ書 6章19節参照)。そして主は、世を完全に捨てておらず、心の中で分裂しているこれらの人々が、悲しみを恐れ、肉欲をまだ捨てていないために、言葉、いやむしろ思いの中で背を向けていることを知って、彼らからこの心の弱さを取り除こうとして、はっきりとこう言われました。「わたしについて来たいと思う者は、まず自分を捨てなければならない」(マタイによる福音書 16章24節)。
質問:自己否定とはどういう意味ですか?
答え:十字架に登る覚悟のある人が、死のことだけを心に思い、この世の命に再びあずかることを思いもよらないように十字架に登るように、言われたことを成就したいと願う人もまた、同じように十字架にあずかるのです。十字架とは、あらゆる苦しみに耐える覚悟のことです。主は、なぜそうなのかを教えようとして、こう言われました。「この世に生きたいと願う者は、真の命のために自分を捨てるであろう。しかし、わたしのためにこの世で自分を捨てる者(マタイ10:39)は、そこで自分を見いだすであろう」。つまり、十字架の道を歩み、その上に足を踏み入れる者は、自分自身を見いだすのです。もし誰かが再びこの世の命を心配するならば、その人は苦しみに耐えようと決意した希望を自ら失ってしまうのです。この心配事は、彼が神のために悲しみに近づくことを許さず、この心配事に身を捧げることで、彼は次第に神聖で祝福された生活の闘いから遠ざかり、この考えは彼の中で大きくなり、ついには彼を征服します。「しかし、わたしのために命を捨てる者は、わたしへの愛ゆえに、永遠の命において罪なく無傷で守られるであろう」と心の中で思うのです。これが、 「わたしのために命を捨てる者は、それを見いだすであろう」という言葉の意味です。ですから、ここでも、この世の生活のために魂を完全に滅ぼす準備をしなさい。そして、この世の生活のために自らを滅ぼすならば、主は、このように考えるあなたに、 「わたしはあなたに永遠の命を与える」と約束したとおりに言われるでしょう(ヨハネ10章28節)。しかし、もしあなたがこの世の生活にとどまるならば、わたしはここでもわたしの約束と将来の祝福の保証を実証します。そして、あなたがこの世の生活を軽蔑するとき、あなたは永遠の命を見いだすでしょう。そして、このように準備を整えて闘いに臨むとき、それまで悲しく、嘆かわしいと思われていたあらゆる事柄は、あなたの目には軽蔑に値するものとなるでしょう。なぜなら、心がこのように準備されていれば、命の危険にさらされた時にも、心には苦悩も悲しみも存在しないからです。したがって、人が未来の幸福な人生への憧れからこの世での人生を憎まない限り、毎時間降りかかるあらゆる悲しみや苦しみを完全に耐え忍ぶことはできないということを、はっきりと理解しなければなりません。
質問:人はどのようにして古い習慣から抜け出し、人生の欠点や禁欲的な生き方に慣れることができるのでしょうか?
答え:肉体は快楽と安らぎをもたらすものに囲まれている限り、その欲求を満たさずに生きることを拒否し、肉体が安らぎをもたらすものすべてから取り除かれるまで、心はこれを抑えることができません。快楽と虚栄の光景が目の前に現れ、毎日毎時間、弱体化をもたらすものばかりを目にすると、それらに対する激しい欲望が肉体の中で目覚め、まるで燃え上がるように、肉体を苛立たせるのです。それゆえ、救い主である主は、ご自身に従うことを誓った者たちに、実に賢明かつ適切に、「裸になって世を去りなさい」(マタイ19章21節参照)と命じられました。人はまず、弱体化をもたらすものすべてを拒絶し、それから働きを始めなければならないからです。そして主ご自身も、悪魔との戦いを始められたとき、最も乾燥した砂漠で戦いを繰り広げられました。また、パウロはキリストの十字架を背負う者たちに、都を去るように勧めています。
「都の外に出て、主の辱めを共に負おう」 (ヘブライ13章12-13節)とパウロは言います。なぜなら、イエスは都の外で苦しまれたからです。人が世と世にあるすべてのものから離れると、以前の習慣や生き方をすぐに忘れ、長い間それらを実践しなくなります。また、世や世俗的なものに近づくと、精神力が急速に弱まります。ですから、この苦痛に満ちた救済の戦いにおいて、何が特に成功につながり、貢献するのかを知る必要があります。このように、修道士の独房が貧弱で不十分な状態であること、修道士の独房が空っぽで、平和への欲求を掻き立てるものが何もないことは、この戦いにふさわしく、貢献するのです。なぜなら、人を弱める原因が取り除かれると、人は内的な戦いと外的な戦いという二重の戦いにおいて危険に直面することがなくなるからです。したがって、遠く離れた場所に快楽をもたらすものを持っている人は、身近に欲望を掻き立てるものを持っている人に比べて、容易に勝利を手にすることができる。ここには二重の挑戦が潜んでいるのだ。
人が自分の身体を維持するために必要なものだけを望むようになると、その欲求は容易に無視されるようになる。適度な満足を得ている必要のある期間でさえ、彼はこれらの欲求を欲望の目で見ることはなく、身体をほとんど支配せず、それらを容易に無視できるものとみなすようになる。彼は食べ物をその甘さのためにではなく、自分の本性を助け、強化するために求める。このような手段は、人を速やかに苦行へと導き、悲しみも憂いもない心で禁欲生活へと向かわせる。したがって、熱心な僧侶は、自分と戦うものすべてから速やかに逃げ、振り返ることなく、自分に戦いを挑むものと接触せず、それらに一瞥すら与えず、できる限りそれらから距離を置くことがふさわしいのである。
そして、私がこう言うのは、腹のことだけではなく、誘惑と争いに繋がるあらゆるもの、すなわち修道士の自由が試されるものすべてについてです。なぜなら、人が神のもとに来るとき、彼は神と契約を結び、これらすべてのことを断つからです。すなわち、女性の顔をじろじろ見ないこと、美しい顔を見ないこと、何事にも欲情しないこと、贅沢にふけらないこと、優雅な衣服を見ないこと、在家者の間で確立されたいかなる秩序にも従わないこと、彼らの言葉に耳を傾けないこと、そして彼らについて好奇心を持たないことです。なぜなら、情欲はこうしたものすべてに近づくほど強くなり、禁欲者を弱らせ、その思考と意図を変えてしまうからです。そして、もし善いものを見ることが真の熱心者の意志を目覚めさせ、善行へと導くのであれば、明らかにその反対のものが心を捉える力を持っているのです。そして、もし静かな精神に何か偉大なことが起こらず、ただ軍事的偉業に身を投じるだけなら、それはすでに大きな損失である。平和な状態から自ら混乱へと身を投じるのだから。
そして、長老や修行者、苦行者の一人が、髭がなく女のような若者を見て、それが自分の思考に害を及ぼし、闘争に致命的だと考えたのなら、この聖人が兄弟に近づいて口づけをしなかった時以外に、誰が怠慢と言えるだろうか。賢明な長老はこう考えた。「もし今夜、このようなものがここにあると考えるだけでも、私にとって大きな害となるだろう。」そこで彼は入らず、彼らに言った。「私は恐れてはいない。しかし、なぜ無駄に自分自身と戦おうとするだろうか。このようなものの記憶は、心に無益な混乱をもたらす。この体のあらゆる部分に餌が隠されている。これによって大きな戦いが人を待ち受けており、人は身を守り、脅威となる戦いを和らげ、逃げることで身を守らなければならない。そして、このようなものが近づくと、人は善行をしようと努力しても、常にそれを見て欲しがるため、やはり危険にさらされるのだ。」
地中には多くの毒が隠されているが、夏の暑さのために誰もそれに気づかない。しかし、それらが湿って涼しい空気の力を感じると、それぞれの毒が地中のどこに埋められていたかが明らかになる。同様に、人が沈黙の恵みと禁欲の温かさの中にいるとき、彼は多くの情欲から真に解放され、平安を見いだす。しかし、世俗的な事柄に足を踏み入れると、それぞれの情欲がどのように増大し、特に平安の香りを嗅いだときに、彼の頭を高く上げるかが分かる。私がこれを述べたのは、この肉体に宿っている間、そして死ぬまで、誰も傲慢に陥らないようにするためである。また、邪悪な生活へと導くあらゆるものから逃れ、身を引くことが、禁欲的な努力において人を大いに助けることを示したかった。私たちは、記憶にさえ恥を感じるものを常に恐れ、良心を踏みにじったり、軽んじたりしてはならない。だから、しばらくの間、肉体を砂漠に移し、忍耐を身につけさせようではないか。そして最も重要なことは、誰もが(たとえそれが本人にとって悲しいことであっても、そうすれば何も恐れることはない)どこにいようとも、戦争の原因から距離を置くよう努めることである。そうすれば、必要が生じた時に、それらの原因に巻き込まれてしまうことはないだろう。
質問:あらゆる心配事を捨てて闘いに乗り出した人は、罪との戦いにおいて、どのような出発点に立ち、どのようにこの闘いを始めるのでしょうか?
答え:罪と欲望との闘いは、特に自分の中に潜む罪と闘う場合、徹夜の祈りと断食から始まることは誰もが知っています。これは、この目に見えない戦いを繰り広げる人々にとって、罪とその欲望に対する憎しみの表れと見なされます。彼らは断食から始め、その後、徹夜の祈りによって禁欲的な闘いをさらに深めていくのです。
==関連項目==
*[[ニネベのイサアク神秘論文集/第35論文]]
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[[Category:シリヤの聖イサアク全書|211]]
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シリヤの聖イサアク全書/第二十一説教の二
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218162
2026-06-10T14:16:07Z
村田ラジオ
14210
現代語訳を加筆。
243110
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*ウィキソースによる現代語訳
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== 第21説教の2 ==
<< {{r|種々|しゅじゅ}}なる{{r|事|じ}}{{r|項|こう}}に{{r|就|つい}}て{{r|問答|もんどう}}。>>
::{{r|禁食|きんしょく}}と{{r|儆醒|けいせい}}の{{r|事|こと}}。
{{r|畢生|ひっせい}}の{{r|間|あいだ}}、{{r|此|この}}{{r|一対|いっつい}}と{{r|交|まじわ}}ることを{{r|愛|あい}}する{{r|者|もの}}は、{{r|貞潔|ていけつ}}の{{r|友|とも}}とならん。{{r|腹|はら}}を{{r|安|やす}}んじ、{{r|睡眠|すいみん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|己|おのれ}}を{{r|懦弱|だじゃく}}にして{{r|淫欲|いんよく}}を{{r|燃|もや}}すは{{r|萬悪|ばんあく}}の{{r|始|はじめ}}なる{{r|如|ごと}}く、{{r|禁食|きんしょく}}と{{r|儆醒|けいせい}}と、{{r|眠|ねむ}}らずして{{r|神|かみ}}の{{r|奉事|ほうじ}}を{{r|行|おこな}}ひ、{{r|終日|しゅうじつ}}{{r|終夜|しゅうや}}{{r|身|み}}を{{r|十字架|じゅうじか}}に{{r|釘|くぎ}}して、{{r|睡眠|すいみん}}の{{r|甘|あま}}きに{{r|反対|はんたい}}するは{{r|神|かみ}}の{{r|聖|せい}}なる{{r|途|みち}}とすべての{{r|道徳|どうとく}}の{{r|基|もとい}}なり。{{r|禁食|きんしょく}}はすべての{{r|道徳|どうとく}}の{{r|保障|ほしょう}}なり、{{r|奮闘|ふんとう}}の{{r|始|はじめ}}なり、{{r|節制者|せっせいしゃ}}の{{r|冠|かんむり}}なり、「ハリステアニン」の{{r|首途|かどで}}なり、{{r|祈祷|きとう}}の{{r|母|はは}}なり、{{r|貞潔|ていけつ}}と{{r|善智|ぜんち}}の{{r|源|みなもと}}なり、{{r|黙想|もくそう}}の{{r|師|し}}なり、あらゆる{{r|善行|ぜんこう}}の{{r|率先者|そっせんしゃ}}なり。{{r|光|ひかり}}を{{r|願|ねが}}ふは{{r|健全|けんぜん}}の{{r|目|め}}に{{r|適|てき}}する{{r|如|ごと}}く、{{r|祈祷|きとう}}を{{r|願|ねが}}ふは{{r|思慮|しりょ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|守|まも}}らるる{{r|禁食|きんしょく}}に{{r|適|てき}}す。
もし{{r|誰|たれ}}か{{r|禁食|きんしょく}}し{{r|始|はじ}}むるならば、{{r|最早|もはや}}{{r|是時|このとき}}より{{r|智|ち}}を{{r|以|もっ}}て{{r|神|かみ}}とともに{{r|交|まじ}}はるを{{r|願望|がんぼう}}せん。けだし{{r|禁食|きんしょく}}する{{r|体|たい}}は{{r|全夜|ぜんや}}を{{r|床上|しょうじょう}}に{{r|寝|ね}}{{r|通|とお}}すに{{r|堪|た}}ふる{{r|能|あた}}はざればなり。{{r|人|ひと}}がその{{r|口|くち}}に{{r|禁食|きんしょく}}の{{r|印|いん}}を{{r|押|お}}さるるときは、その{{r|意思|いし}}は{{r|痛悔|つうかい}}を{{r|学|まな}}ぶべく、その{{r|心|こころ}}は{{r|祈祷|きとう}}を{{r|流|なが}}すべく、その{{r|面|おもて}}に{{r|憂色|ゆうしょく}}ありて、{{r|耻|は}}づべき{{r|思念|しねん}}は{{r|人|ひと}}より{{r|遠|とお}}ざかり、その{{r|眼中|がんちゅう}}に{{r|欣|きん}}{{r|喜|き}}の{{r|色|いろ}}は{{r|見|み}}えざるべし、{{r|彼|かれ}}は{{r|淫欲|いんよく}}と{{r|空談|くうだん}}の{{r|敵|てき}}なり、{{r|思慮|しりょ}}{{r|深|ぶか}}き{{r|禁食|きんしょく}}{{r|者|しゃ}}が{{r|悪慾|あくよく}}の{{r|奴隷|どれい}}となりしことは{{r|未|いま}}だ{{r|嘗|かつ}}て{{r|見|み}}たる{{r|者|もの}}あらざりき。{{r|思慮|しりょ}}を{{r|以|もっ}}てする{{r|禁食|きんしょく}}はもろもろの{{r|善|ぜん}}の{{r|為|ため}}に{{r|廣大|こうだい}}なる{{r|第宅|だいたく}}なり。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|禁食|きんしょく}}を{{r|等閑|とうかん}}にする{{r|者|もの}}はすべての{{r|善|ぜん}}を{{r|動揺|どうよう}}せしめん、{{r|何|なん}}となれば{{r|禁食|きんしょく}}は{{r|最初|さいしょ}}{{r|食|しょく}}を{{r|甞|な}}むるとき、{{r|預防|よぼう}}の{{r|為|ため}}に{{r|我|われ}}らが{{r|性|せい}}に{{r|與|あた}}へられたる{{r|誡命|かいめい}}にして、{{r|禁食|きんしょく}}を{{r|破|やぶ}}りし{{r|為|ため}}に、{{r|我|われ}}らが{{r|造成|ぞうせい}}の{{r|始|はじめ}}は{{r|堕落|だらく}}したりき。さりながら{{r|苦行|くぎょう}}{{r|者|しゃ}}らは{{r|神|かみ}}の{{r|法|ほう}}を{{r|守|まも}}るを{{r|始|はじ}}むるならば、{{r|最初|さいしょ}}の{{r|貶黜|べんちゅつ}}の{{r|成|な}}れるそのものよりして{{r|神|かみ}}を{{r|畏|おそ}}るるの{{r|畏|おそ}}れに{{r|大|おおい}}に{{r|進歩|しんぽ}}するを{{r|始|はじ}}めん。
{{r|救世|きゅうせい}}{{r|主|しゅ}}も{{r|世|よ}}に{{二重線|イオルダン}}の{{r|河濱|かひん}}に{{r|現|あら}}はるるや、{{r|此|これ}}より{{r|始|はじ}}めたまひき、けだし{{r|洗礼|せんれい}}の{{r|後|のち}}{{r|神|しん}}は{{r|彼|かれ}}を{{r|導|みちび}}きて{{r|野|の}}に{{r|至|いた}}り、{{r|彼処|かしこ}}に{{r|於|おい}}て{{r|彼|かれ}}は四十{{r|日|にち}}四十{{r|夜|や}}{{r|禁食|きんしょく}}せり。{{r|之|これ}}と{{r|同|おな}}じく{{r|凡|すべ}}て{{r|救世主|きゅうせいしゅ}}の{{r|跡|あと}}を{{r|慕|した}}ふて{{r|出|い}}づる{{r|者|もの}}らも、その{{r|苦行|くぎょう}}の{{r|始|はじめ}}を{{r|此|この}}{{r|基上|きじょう}}に{{r|確立|かくりつ}}せん、{{r|何|なん}}となれば{{r|禁食|きんしょく}}は{{r|神|かみ}}の{{r|備|そな}}ひ{{r|給|たま}}ひし{{r|武器|ぶき}}なればなり。ゆえにもし{{r|此|これ}}を{{r|等閑|とうかん}}にするならば、{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}にか{{r|叱責|しっせき}}を{{r|被|こう}}むらざらん。もし{{r|立法者|りっぽうしゃ}}が{{r|自|みづ}}から{{r|禁食|きんしょく}}するならば、その{{r|法|ほう}}を{{r|守|まも}}る{{r|者|もの}}は、{{r|誰|たれ}}か{{r|禁食|きんしょく}}せざるべけんや。{{r|此|これ}}に{{r|由|より}}て{{r|見|み}}るに{{r|人間|にんげん}}は{{r|禁食|きんしょく}}に{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}は、{{r|勝利|しょうり}}を{{r|知|し}}らずして{{r|魔鬼|まき}}も{{r|未|いま}}だ{{r|嘗|かつ}}て{{r|我|われ}}らの{{r|性|せい}}により{{r|攻撃|こうげき}}を{{r|試|こころ}}みざりしが、{{r|此|この}}{{r|武器|ぶき}}の{{r|為|ため}}に{{r|彼|かれ}}は{{r|先|ま}}づ{{r|弱|よわ}}りぬ。{{r|而|しか}}して{{r|我|われ}}らの{{r|主|しゅ}}が{{r|此|この}}{{r|勝利|しょうり}}の{{r|大将|たいしょう}}となり、{{r|及|およ}}び{{r|冢子|ちょうし}}となり{{r|給|たま}}ひしは、{{r|第一|だいいち}}{{r|勝利|しょうり}}の{{r|栄冠|えいかん}}を{{r|我|われ}}らの{{r|性|せい}}の{{r|首|かしら}}に{{r|加|くは}}へん{{r|為|ため}}なり。ゆえにもし{{r|魔鬼|まき}}は{{r|人類|じんるい}}{{r|中|ちゅう}}{{r|何人|なにびと}}に{{r|於|おい}}てか{{r|此|この}}{{r|武器|ぶき}}を{{r|見|み}}るならば、{{r|此|この}}{{r|反対者|はんたいしゃ}}と{{r|苦虐|くぎゃく}}{{r|者|しゃ}}は{{r|即時|そくじ}}に{{r|恐|おそれ}}を{{r|生|しょう}}ずべく、{{r|救世主|きゅうせいしゅ}}の{{r|為|ため}}{{r|野|の}}に{{r|於|おい}}て{{r|撃敗|げきはい}}せられしことに{{r|直|ただち}}に{{r|想到|そうとう}}し、{{r|之|これ}}を{{r|記憶|きおく}}して、その{{r|力|ちから}}は{{r|挫折|ざせつ}}せらるるべく、{{r|我|われ}}らが{{r|元帥|げんすい}}を{{r|以|もっ}}てわれらに{{r|與|あた}}へられたる{{r|武器|ぶき}}を{{r|望|のぞ}}むは{{r|彼|かれ}}を{{r|焼尽|やきつく}}さん。{{r|如何|いか}}なる{{r|武器|ぶき}}は{{r|之|これ}}より{{r|有力|ゆうりょく}}なるか、{{r|狠悪|こんあく}}の{{r|霊|れい}}と{{r|奮闘|ふんとう}}するに{{r|当|あた}}り、{{r|心|こころ}}に{{r|勇気|ゆうき}}を{{r|添|そ}}ふるは<u>ハリストス</u>の{{r|為|ため}}に{{r|飢|う}}うるに{{r|如|し}}くものありや。けだし{{r|魔鬼|まき}}の{{r|軍|ぐん}}の{{r|人|ひと}}を{{r|囲|かこ}}むに{{r|当|あたり}}ては、{{r|身体|しんたい}}を{{r|労|つか}}らし{{r|且|かつ}}{{r|苦|くる}}しむ{{r|程|ほど}}{{r|心|こころ}}は{{r|希望|きぼう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|満|み}}たさるるなり。{{r|禁食|きんしょく}}の{{r|武器|ぶき}}を{{r|着|つく}}るものは、{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}にも、{{r|熱心|ねっしん}}を{{r|以|もっ}}て、{{r|烈|はげ}}しく{{r|焼|や}}かるるなり。けだし{{r|熱心者|ねっしんしゃ}}<u>イリヤ</u>も{{r|神|かみ}}の{{r|法律|ほうりつ}}に{{r|熱心|ねっしん}}し{{r|始|はじ}}むるや、{{r|此|この}}{{r|行為|こうい}}を{{r|務|つと}}めたりき。{{r|禁食|きんしょく}}{{r|者|しゃ}}は{{r|之|これ}}を{{r|獲|え}}たる{{r|者|もの}}に{{r|神|しん}}の{{r|誡命|かいめい}}を{{r|想起|そうき}}せしむるなり。{{r|彼|かれ}}は{{r|旧|ふる}}き{{r|法律|ほうりつ}}と<u>ハリストス</u>を{{r|以|もっ}}て{{r|我|われ}}らに{{r|與|あた}}へられたる{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|間|あいだ}}の{{r|仲|ちゅう}}{{r|保|ほ}}{{r|者|しゃ}}なり。{{r|禁食|きんしょく}}に{{r|等閑|とうかん}}なる{{r|者|もの}}は{{r|他|た}}の{{r|苦行|くぎょう}}に{{r|於|おい}}ても{{r|懦弱|だじゃく}}、{{r|怠慢|たいまん}}、{{r|無力|むりょく}}にして、その{{r|霊魂|れいこん}}を{{r|弱|よわ}}らすの{{r|始|はじめ}}と{{r|悪|あ}}しき{{r|徴候|ちょうこう}}とをあらはすべく、{{r|彼|かれ}}と{{r|戦|たたか}}ふ{{r|者|もの}}に{{r|勝利|しょうり}}の{{r|機会|きかい}}を{{r|與|あた}}ふべし、{{r|何|なん}}となれば{{r|裸体|らたい}}にして{{r|武器|ぶき}}を{{r|持|も}}たず、{{r|苦行|くぎょう}}に{{r|出|い}}づればなり。ゆえに{{r|勝利|しょうり}}なくして{{r|戦闘|せんとう}}より{{r|退|しりぞ}}かんこと{{r|明|あきらか}}なり。{{r|何|なん}}となれば{{r|彼|かれ}}の{{r|肢体|したい}}は{{r|禁食|きんしょく}}に{{r|飢|うう}}るの{{r|温情|おんじょう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|包|つつ}}まれざればなり。{{r|禁食|きんしょく}}はかくの{{r|如|ごと}}し{{r|之|これ}}を{{r|務|つと}}むる{{r|者|もの}}の{{r|心|こころ}}は{{r|毅然|きぜん}}として、{{r|凡|およそ}}の{{r|猛烈|もうれつ}}なる{{r|慾|よく}}を{{r|逆|むか}}へて{{r|之|これ}}を{{r|反拒|はんきょ}}せんとす。{{r|多|おお}}くの{{r|致命|ちめい}}{{r|者|しゃ}}の{{r|事|こと}}を{{r|傳|つた}}へ{{r|言|い}}ふあり、{{r|彼|かれ}}らは{{r|致|ち}}{{r|命|めい}}の{{r|栄冠|えいかん}}を{{r|受|う}}けんを{{r|期|き}}する{{r|日|ひ}}に{{r|当|あた}}り{{r|或|あるい}}は{{r|黙示|もくし}}により、{{r|或|あるい}}はその{{r|朋友|ほうゆう}}{{r|中|ちゅう}}{{r|或者|あるもの}}の{{r|報告|ほうこく}}により{{r|之|これ}}を{{r|豫知|よち}}するや、{{r|全|ぜん}}{{r|夜|や}}{{r|何物|なにもの}}をも{{r|食|くら}}はず、{{r|晩|ばん}}より{{r|朝|あさ}}に{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}{{r|眠|ねむ}}らずして{{r|祈祷|きとう}}に{{r|立|た}}ち、{{r|詩|し}}{{r|頌|しょう}}{{r|歌|か}}{{r|章|しょう}}{{r|霊|れい}}{{r|賦|ふ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|神|かみ}}を{{r|讃栄|さんえい}}しつつ{{r|愉快|ゆかい}}と{{r|欣喜|きんき}}とを{{r|以|もっ}}てその{{r|時刻|じこく}}を{{r|待|ま}}ちしこと、{{r|或|あ}}る{{r|婚姻|こんいん}}に{{r|豫備|よび}}する{{r|者|もの}}の{{r|如|ごと}}くし、{{r|禁食|きんしょく}}に{{r|於|おい}}て{{r|剣|つるぎ}}を{{r|迎|むか}}へたりと。ゆえに{{r|見|み}}えざる{{r|致命|ちめい}}{{r|者|しゃ}}の{{r|行|おこない}}に{{r|召|め}}されたる{{r|我|われ}}らも、{{r|成聖|せいせい}}の{{r|冠|かんむり}}を{{r|受|う}}けんが{{r|為|ため}}に{{r|儆醒|けいせい}}すべく、{{r|我|わ}}が{{r|身|み}}の{{r|一|いつ}}{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}をも{{r|又|また}}{{r|一|いち}}{{r|部分|ぶぶん}}をも{{r|辞|じ}}する{{r|兆候|ちょうこう}}をその{{r|敵|てき}}に{{r|示|しめ}}さざるべし。
問 {{r|或者|あるもの}}は{{r|此|これ}}らの{{r|行為|こうい}}を{{r|屡|しばしば}}し、{{r|多|おお}}くの{{r|者|もの}}も{{r|多分|たぶん}}{{r|之|これ}}を{{r|行為|こうい}}しつつあらんも、{{r|寧静|ねいせい}}と{{r|慾|よく}}の{{r|鎮|ちん}}{{r|止|し}}と{{r|思念|しねん}}の{{r|平安|へいあん}}を{{r|感|かん}}ぜざるは{{r|何故|なにゆえ}}なるか。
答 {{r|兄弟|けいてい}}よ、{{r|霊底|れいてい}}にかくるる{{r|慾|よく}}は{{r|肉体|にくたい}}{{r|上|じょう}}の{{r|労苦|ろうく}}のみにては{{r|矯正|きょうせい}}せられず、{{r|肉体|にくたい}}{{r|上|じょう}}の{{r|労苦|ろうく}}は{{r|常|つね}}に{{r|五感|ごかん}}によりて{{r|起|おこ}}さるるものを{{r|思|おも}}ふ{{r|意思|いし}}を{{r|止|とど}}めざるべし。{{r|此|これ}}らの{{r|労苦|ろうく}}は{{r|人|ひと}}を{{r|欲望|よくぼう}}より{{r|保護|ほご}}して、{{r|之|これ}}に{{r|勝|か}}たしめず、{{r|魔鬼|まき}}の{{r|誘惑|ゆうわく}}よりも{{r|人|ひと}}を{{r|保護|ほご}}すれども、{{r|霊魂|れいこん}}に{{r|平安|へいあん}}と{{r|寧静|ねいせい}}とを{{r|得|え}}しめざるなり。けだし{{r|動作|どうさ}}と{{r|労苦|ろうく}}とは{{r|黙想|もくそう}}と{{r|連合|れんごう}}{{r|一致|いっち}}し、{{r|外部|がいぶ}}の{{r|感覚|かんかく}}に{{r|擾乱|じょうらん}}{{r|熄|や}}みて{{r|若干|ある}}{{r|時間|じかん}}{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}の{{r|行為|こうい}}に{{r|止|とど}}まる{{r|時|とき}}は、{{r|霊魂|れいこん}}に{{r|無欲|むよく}}を{{r|與|あた}}ふべく、<span style="border-bottom: dotted 2px">{{r|地|ち}}にある{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}</span>を{{r|殺|ころ}}して、{{r|思念|しねん}}の{{r|安息|あんそく}}を{{r|與|あた}}へん。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|人|ひと}}は{{r|人々|ひとびと}}と{{r|交際|こうさい}}し{{r|得|う}}ることを{{r|奪|うば}}はれずして、その{{r|肢体|したい}}をも{{r|自己|じこ}}をも{{r|意思|いし}}の{{r|衰弱|すいじゃく}}の{{r|為|ため}}に{{r|自己|じこ}}に{{r|集中|しゅうちゅう}}するに{{r|至|いた}}らざる{{r|間|あいだ}}は{{r|己|おのれ}}の{{r|慾|よく}}を{{r|確知|かくち}}する{{r|能|あた}}はざるべし。{{r|黙想|もくそう}}は{{r|聖|せい}}<u>ワシリイ</u>の{{r|言|い}}ふ{{r|如|ごと}}く{{r|霊魂|れいこん}}を{{r|浄潔|じょうけつ}}にするの{{r|始|はじめ}}なり。けだし{{r|外部|がいぶ}}の{{r|肢体|したい}}に{{r|於|おい}}て{{r|外部|がいぶ}}の{{r|擾乱|じょうらん}}と{{r|外部|がいぶ}}に{{r|於|おけ}}る{{r|引誘|いんゆう}}が{{r|熄|や}}む{{r|時|とき}}は、{{r|智|ち}}は{{r|外部|がいぶ}}の{{r|引誘|いんゆう}}と{{r|高超|こうちょう}}とより{{r|自己|じこ}}に{{r|帰|かえ}}りて{{r|自己|じこ}}に{{r|安|やす}}んじ、{{r|心|こころ}}は{{r|覚醒|かくせい}}して、{{r|内部|ないぶ}}{{r|心霊上|しんれいじょう}}の{{r|思|おもい}}を{{r|研究|けんきゅう}}せん。ゆえにもし{{r|人|ひと}}は{{r|善|よ}}く{{r|此|これ}}に{{r|堅立|けんりつ}}するならば、{{r|漸々|ぜんぜん}}{{r|心霊上|しんれいじょう}}の{{r|浄潔|じょうけつ}}に{{r|進行|しんこう}}するを{{r|得|う}}るに{{r|至|いた}}らん。
問 {{r|霊魂|れいこん}}は{{r|戸|こ}}{{r|外|がい}}に{{r|居|お}}る{{r|時|とき}}に{{r|於|おい}}ては{{r|潔|きよ}}めらるる{{r|能|あた}}はざるか。
答 {{r|樹|き}}は{{r|毎日|まいにち}}{{r|灌|そそ}}がるるならば、その{{r|根|ね}}は{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}か{{r|乾|かわ}}かん。{{r|器|き}}{{r|中|ちゅう}}に{{r|於|おい}}て{{r|毎日|まいにち}}{{r|加|くは}}へらるるならば、{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}か{{r|減|げん}}ぜん。それ{{r|浄潔|じょうけつ}}は{{r|人々|ひとびと}}と{{r|交|まじわ}}る{{r|自恣|じし}}の{{r|交際|こうさい}}を{{r|知|し}}らずして、{{r|此|この}}{{r|習慣|しゅうかん}}を{{r|棄|す}}つるに{{r|外|ほか}}ならずんば、{{r|旧|ふる}}き{{r|習慣|しゅうかん}}の{{r|記憶|きおく}}{{r|即|すなはち}}{{r|悪癖|あくへき}}の{{r|認識|にんしき}}を{{r|実際|じっさい}}{{r|自己|じこ}}を{{r|以|もっ}}て、{{r|或|あるい}}は{{r|他人|たにん}}を{{r|以|もっ}}て、{{r|五|ご}}{{r|感|かん}}に{{r|頼|よ}}り、{{r|之|これ}}を{{r|己|おの}}れに{{r|新|あらた}}にする{{r|者|もの}}は、{{r|何|なん}}の{{r|時|とき}}かその{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|清潔|せいけつ}}になるを{{r|望|のぞ}}むべけん。その{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}に{{r|之|これ}}より{{r|潔|きよ}}まるを{{r|得|う}}るか、{{r|或|あるい}}は{{r|彼|かれ}}は{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}{{r|外部|がいぶ}}の{{r|抵抗|ていこう}}より{{r|免|まぬか}}れて{{r|己|おのれ}}を{{r|察|さっ}}するを{{r|得|う}}るか{{r|心|こころ}}が{{r|日々|ひび}}{{r|汚|けが}}さるるならば、{{r|人|ひと}}は{{r|汚穢|おかい}}より{{r|潔|きよ}}めらるべきか。{{r|人|ひと}}は{{r|外部|がいぶ}}の{{r|勢力|せいりょく}}の{{r|運動|うんどう}}に{{r|対抗|たいこう}}する{{r|力|ちから}}あるなく、{{r|軍営|ぐんえい}}の{{r|中|うち}}にありて{{r|頻繁|ひんぱん}}の{{r|戦報|せんぽう}}を{{r|聞|き}}くを{{r|日々|ひび}}{{r|待|ま}}つあらば、{{r|心|こころ}}を{{r|潔|きよ}}むる{{r|能|あた}}はざるにあらずや。{{r|然|しか}}らば{{r|如何|いか}}にして{{r|人|ひと}}はその{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|為|ため}}に{{r|平和|へいわ}}を{{r|宣言|せんげん}}するを{{r|敢|あえ}}てすべきか。されどもし{{r|此|これ}}より{{r|遠|とお}}ざかるならば{{r|先|ま}}づ{{r|第一|だいいち}}に{{r|内部|ないぶ}}の{{r|怒涛|どとう}}を{{r|少|すこ}}しづつ{{r|鎮静|ちんせい}}するを{{r|得|え}}ん。{{r|川|かわ}}は{{r|上方|じょうほう}}を{{r|塞|ふさ}}がれざる{{r|間|あいだ}}は{{r|下方|かほう}}の{{r|水|みづ}}は{{r|涸|か}}れざらん。{{r|人|ひと}}は{{r|黙想|もくそう}}に{{r|入|い}}るときは、{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|諸慾|しょよく}}を{{r|弁別|べんべつ}}して、その{{r|智|ち}}{{r|慧|けい}}を{{r|聡明|そうめい}}に{{r|試|こころ}}みるを{{r|得|え}}ん。その{{r|時|とき}}は{{r|内部|ないぶ}}の{{r|人|ひと}}も{{r|霊的|れいてき}}{{r|行為|こうい}}に{{r|覚醒|かくせい}}せられて、{{r|霊中|れいちゅう}}に{{r|花|はな}}{{r|咲|さ}}く{{r|神秘|しんぴ}}なる{{r|智|ち}}{{r|慧|けい}}を{{r|日|ひ}}にますます{{r|感知|かんち}}せん。
問 {{r|人|ひと}}は{{r|如何|いか}}なる{{r|確実|かくじつ}}の{{r|指示|しじ}}{{r|又|また}}は{{r|近|ちか}}き{{r|徴候|ちょうこう}}により、{{r|霊中|れいちゅう}}に{{r|隠|かく}}れたる{{r|果|み}}を{{r|自|みづ}}から{{r|見|み}}るを{{r|始|はじ}}めたるを{{r|感知|かんち}}すべきか。
答 {{r|誰|たれ}}か{{r|強|し}}ふることなしに{{r|流|なが}}れ{{r|出|い}}づる{{r|多|た}}{{r|涙|るい}}の{{r|恩寵|おんちょう}}を{{r|惠|けい}}{{r|與|よ}}せらるる{{r|時|とき}}{{r|感|かん}}{{r|知|ち}}せん、けだし{{r|智|ち}}の{{r|為|ため}}に{{r|涙|なみだ}}を{{r|置|お}}かるるは、{{r|形体|けいたい}}に{{r|属|ぞく}}するものと、{{r|霊神|れいしん}}に{{r|属|ぞく}}するものと、{{r|慾|よく}}に{{r|従|したが}}ふ{{r|状態|じょうたい}}と、{{r|浄潔|じょうけつ}}との{{r|間|あいだ}}に{{r|置|お}}かれたる{{r|或|あ}}る{{r|界限|かいげん}}の{{r|如|ごと}}し。{{r|人|ひと}}は{{r|此|この}}{{r|賜|たまもの}}を{{r|受|う}}けざる{{r|間|あいだ}}は、その{{r|行|おこない}}は{{r|猶|なお}}{{r|外部|がいぶ}}の{{r|人|ひと}}に{{r|成|な}}るのみにて、{{r|内部|ないぶ}}の{{r|人|ひと}}に{{r|隠|かく}}れたる{{r|者|もの}}の{{r|勢力|せいりょく}}を{{r|人|ひと}}は{{r|未|いま}}だ{{r|全|まった}}く{{r|感|かん}}ぜざるなり。けだし{{r|人|ひと}}が{{r|此|この}}{{r|世|よ}}の{{r|形体|けいたい}}に{{r|属|ぞく}}するものを{{r|棄|す}}つるを{{r|始|はじ}}め、{{r|此|この}}{{r|界限|かいげん}}を{{r|踰|こ}}えて、{{r|性中|せいちゅう}}{{r|実|じつ}}に{{r|内部|ないぶ}}に{{r|属|ぞく}}する{{r|者|もの}}のあるを{{r|認|みと}}むる{{r|時|とき}}は、{{r|速|すみやか}}に{{r|此|こ}}の{{r|涙|なみだ}}の{{r|恩寵|おんちょう}}に{{r|達|たっ}}せん。{{r|此|この}}{{r|涙|なみだ}}は{{r|神秘|しんぴ}}なる{{r|生涯|しょうがい}}の{{r|第一|だいいち}}の{{r|院|いん}}に{{r|始|はじ}}まり、{{r|人|ひと}}をして{{r|神|かみ}}の{{r|愛|あい}}の{{r|完全|かんぜん}}に{{r|上|のぼ}}らしむべくして、{{r|人|ひと}}が{{r|漣々|れんれん}}たる{{r|流涕|りゅうてい}}により、{{r|食|しょく}}にも{{r|飲|いん}}にも{{r|涙|なみだ}}を{{r|交|まじ}}へて{{r|泣飲|きゅういん}}し{{r|始|はじ}}むるに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}は、いよいよ{{r|進歩|しんぽ}}する{{r|程|ほど}}{{r|益々|ますます}}{{r|此|この}}{{r|恩寵|おんちょう}}に{{r|富|と}}まさるるなり。
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::{{r|涙|なみだ}}の{{r|区別|くべつ}}
{{r|焼尽|やきつく}}す{{r|涙|なみだ}}あり、{{r|又|また}}{{r|肥太|こえふと}}らす{{r|涙|なみだ}}あり。ゆえにすべて{{r|罪|つみ}}を{{r|悲|かなし}}むにより{{r|心|こころ}}の{{r|真髄|しんずい}}より{{r|出|い}}づる{{r|涙|なみだ}}は、{{r|肉体|にくたい}}を{{r|乾|かわ}}かして{{r|之|これ}}を{{r|焼尽|やきつく}}さん、{{r|然|しか}}れども{{r|涙|なみだ}}を{{r|注|そそ}}ぐ{{r|時|とき}}に{{r|当|あた}}り、{{r|霊中|れいちゅう}}に{{r|主|しゅ}}たる{{r|所|ところ}}のそのものも{{r|之|これ}}より{{r|害|がい}}を{{r|感|かん}}ずること{{r|稀|まれ}}なりとせず。{{r|人|ひと}}は{{r|先|ま}}づ{{r|必|かなら}}ず{{r|涙|なみだ}}の{{r|此|この}}{{r|階段|かいだん}}に{{r|入|い}}らざるを{{r|得|え}}ざるべし、{{r|然|しか}}れども{{r|人|ひと}}の{{r|為|ため}}に{{r|第一|だいいち}}の{{r|階段|かいだん}}より{{r|更|さら}}に{{r|愈|まさ}}れる{{r|第二|だいに}}の{{r|階段|かいだん}}に{{r|入|い}}るの{{r|門戸|もんこ}}は、{{r|之|これ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|開|ひら}}かるべくして、{{r|此|この}}{{r|涙|なみだ}}は{{r|肉体|にくたい}}を{{r|飾|かざ}}りて{{r|之|これ}}を{{r|肥太|こえふと}}らすべく、{{r|強|し}}ひずして、{{r|自然|しぜん}}に{{r|流|なが}}れ{{r|出|い}}づるものにして、{{r|已|すで}}にいひし{{r|如|ごと}}く、こは{{r|人体|じんたい}}を{{r|肥太|こえふと}}らすのみならず、{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}に{{r|人|ひと}}の{{r|容|よう}}{{r|儀|ぎ}}も{{r|変|へん}}ぜられん。けだし{{r|録|ろく}}して{{r|言|い}}へり、『{{r|心|こころ}}に{{r|喜|き}}{{r|楽|らく}}あれば{{r|顔色|がんしょく}}よろこばし、{{r|心|こころ}}に{{r|憂|ゆう}}{{r|苦|く}}あれば{{r|気|き}}ふさぐ』〔[[箴言(文語訳)#15:13|{{r|箴言|しんげん}}十五の十三]]〕。
==現代語訳==
:::断食と徹夜について
生涯を通じてこの夫婦との対話を愛する者は、貞潔の友となる。あらゆる悪の始まりが子宮の静寂と睡眠の弛緩であり、それが情欲を燃え上がらせるように、神の聖なる道とあらゆる美徳の基盤は断食である。昼夜を問わず、睡眠の甘美さとは対照的に、神への奉仕において警戒し、覚醒し、肉体を十字架につけること。断食はあらゆる美徳の守護であり、禁欲の始まりであり、禁欲の冠であり、処女と聖性の美しさであり、貞潔の輝きであり、キリスト教の道の始まりであり、祈りの母であり、貞潔と理性の源であり、沈黙の教師であり、あらゆる善行の先駆者である。健康な目が自然に光を求めるように、賢明に守られた断食は自然に祈りを求める。
人が断食を始めると、その瞬間から、その人の心は神との対話を切望するようになる。断食中の体は、ベッドで一晩中眠ることに耐えられないからである。断食の印が人の唇に押されると、その人の思いは悔恨に満ち、心は祈りに満ち、顔は悲しみに染まり、恥ずべき思いは遠ざかり、目に喜びはなく、欲望と無益な会話の敵となる。賢明な断食者が邪悪な欲望の奴隷になったのを見た者は誰もいない。賢明な断食は、あらゆる善の広大な住処である。しかし、断食を怠る者は、あらゆる善を混乱に陥れる。なぜなら、断食はもともと、食べることへの警告として私たちの本性に与えられた戒めであり、断食を破ることによって、私たちの創造のまさに基礎が築かれたからである。しかし、最初の屈辱が何であったかによって、禁欲主義者たちは、神の律法を守り始めるとすぐに、神への畏敬の念において成功し始めるのである。
救い主がヨルダン川で世に現れた時、最初に始められたのはこのことでした。洗礼を受けた後、聖霊に導かれて荒野に行かれ、そこで四十日四十夜断食されました。同様に、救い主に従う者は皆、この土台の上に戦いを始めることを確信しています。なぜなら、断食は神によって備えられた武器だからです。断食を怠る者は、誰であれ非難されるでしょう。律法を与えられた方ご自身が断食されるのであれば、律法を守る者が断食をしないはずがありません。ですから、断食が始まる前は、人類は勝利を知らず、悪魔も人間の本性によって敗北を喫したことはありませんでした。しかし、この武器によって、悪魔は最初から弱体化していたのです。そして、私たちの主はこの勝利の先駆者であり、最初の勝利の冠を私たちの本性の頭に戴くために、その勝利の先駆者となられました。悪魔は、誰かがこの武器を身につけているのを見ると、たちまち恐怖に襲われ、救い主によって荒野で敗北したことを思い起こし、力が打ち砕かれ、私たちの司令官から与えられた武器の光景に焼き尽くされます。これ以上に強力な武器があるでしょうか。キリストのために飢え渇くことほど、悪霊との戦いにおいて心に勇気を与えるものがあるでしょうか。悪魔の群れに囲まれ、体が重荷を負い苦しめられるほど、心は希望に満たされるのです。断食という武器を身にまとえば、人は絶えず熱意に燃え上がります。熱心者エリヤでさえ、神の律法に熱心になったとき、まさにこのこと、すなわち断食に励んでいました。断食は、それを身につけた者に聖霊の戒めを思い出させます。それは、古い律法とキリストによって私たちに与えられた恵みとの仲介者なのです。断食を怠る者は、他の闘争においても弱く、不注意で、無力である。こうして彼は魂の衰えの始まりと悪しき兆候を露わにし、戦う者に勝利の機会を与えてしまう。なぜなら、彼は裸で武器も持たずに闘争に臨むからである。したがって、断食中の飢えの温かさに手足が覆われていないため、彼は闘争から勝利を得ることなく終わることは明らかである。これが断食である。断食を続ける者は揺るぎない精神を持ち、あらゆる激しい情欲に立ち向かい、撃退する準備ができている。
多くの殉教者について伝えられているように、殉教の冠を受ける日を予見していた者、あるいは啓示や友人からの言葉によってその日を予知していた者は、その夜は何も食べず、夕方から朝まで祈りを捧げ続けた。詩篇、賛美歌、霊歌で神を讃え、結婚式を控えた人々が断食の中で剣に直面する時を、喜びと歓喜をもって待ち望んだのである。それゆえ、私たちもまた、目に見えない殉教へと召され、聖性の冠を受けるために、慎み深くあり、体のどの部分においても、敵に放棄のしるしを与えてはならない。
質問:なぜ、このような行いをした人の中には、しばしば心の平安や情欲の鎮静、思考の平安を感じられない人がいるのでしょうか?
答え:兄弟よ、魂に隠された情欲は、肉体的な労働だけでは矯正されません。それらは、感覚によって常に目覚めさせられる考えを抑えることはできません。これらの労働は、人がそれらに打ち負かされる欲望や悪魔の誘惑から身を守ることはできますが、魂に平安と静穏をもたらすことはありません。なぜなら、行いや労働は、魂に無情をもたらし、「地上にある」肢体(コロサイ3章5節)を死に至らしめ、外的な感覚の混乱が止み、しばらくの間知恵の働きにとどまるときに、私たちが沈黙にあずかるときに、考えに静穏を与えるだけだからです。しかし、人が人と交わる機会を奪われ、自分の肢体と自分自身を考えの雑念から引き離すまでは、自分の情欲を認識することはできないでしょう。
聖バシレイオスが述べたように、沈黙は魂の浄化の始まりです。外的な混乱や外的な事柄への執着が外界の要素から消え去ると、外的な心配事や気晴らしから解放された心は本来の自分に戻り、安らぎを見出します。そして、心は内なる霊的な思考の探求へと目覚めます。もし人がこの状態を堅く守るならば、徐々に霊的な純粋さへと向かう段階へと到達するのです。
質問:魂は扉の外にいる間に浄化されることはできないのでしょうか?
答え:木に毎日水をやれば、その根は枯れるだろうか?毎日水を注がれる器は、朽ち果てるだろうか?もし清浄とは、自由な生活から身を引いて、この習慣を捨てることに他ならないのなら、自ら、あるいは他者を通して、感覚を通して、古い習慣の記憶、すなわち悪徳の再認識を積極的に心の中で蘇らせる者は、いつ、どのようにして魂を清めたいと願うだろうか?いつ、人は魂を清め、外的抵抗から解放され、自分自身を見ることができるようになるのだろうか?心が日々汚されているなら、いつ汚れから清められるだろうか?外的力の作用に抵抗できないのに、軍の陣営の中に立ち、毎日頻繁に戦闘の知らせを聞くことを覚悟しているような状況で、どうして心を清めることができるだろうか?そして、どうして彼は自分の魂に平和を宣言できるだろうか?もし彼がこの状況から身を引けば、徐々に内なる動揺を鎮めることができるだろう。川の上流にダムが建設されていない限り、下流の水は枯れることはない。人が静寂に達すると、魂は情念を見分け、自らの知恵を賢明に探求することができる。そして、内なる人は霊的な営みに目覚め、日ごとに、魂の中に花開く隠された知恵をますます深く感じ取るようになる。
質問:人が自分の魂の中に隠された実りを見出し始めたことを実感する、具体的な兆候やサインは何ですか?
答え:人が多くの涙の恵みを受けるに値すると認められるとき、それは強制されることなく流されます。なぜなら、涙は肉体と霊性、情熱的な状態と純粋さの間の境界として心に置かれているからです。人がこの賜物を受け取るまでは、その人の働きは外的な人間においてのみ達成され、霊的な人間の神秘の効力をまだ十分に感じ取っていません。人がこの世の肉体的な性質から離れ始め、自然界に見られる境界を超越し始めると、すぐにこの涙の恵みを得ます。そして、これらの涙は隠された生命の最初の住処から始まり、人を神の愛の完全性へと高めます。そして、人がさらに進歩するにつれて、この恵みによってますます豊かになり、絶え間なく溢れ出る涙を通して、食べ物や飲み物にそれらを組み込むようになるのです。
そしてこれは、心がこの世から離れ、霊的な世界を感知した確かな兆候です。しかし、人の心がこの世に近づくにつれて、これらの涙は減っていきます。そして、心が完全にこの世にあるとき、これらの涙は完全に消え去ります。これは、人が情欲に囚われている兆候です。
:::涙の違いについて
燃えるような涙もあれば、脂肪を蓄える涙もある。ゆえに、心の奥底から、罪への悔恨から流れ出る涙は、体を乾かし、燃え上がらせる。そして、涙を流すとき、魂の中で最も支配的な要素でさえ、しばしばその涙によって害を受ける。そして、人はまず、このレベルの涙へと導かれ、その涙を通して、第一段階よりも優れた第二段階へと進む扉が開かれる。それは、人が慈悲を受ける喜びの地である。これらはすでに分別に従って流される涙であり、体を飾り、脂肪を蓄え、自然に流れ出る。そして、先に述べたように、人間の体を脂肪で満たすだけでなく、人の容姿も変化する。なぜなら、「心が喜ぶとき、顔は花を咲かせる。悲しみが乾くとき、顔は嘆く」(箴言15章13節)とあるからである。
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*ウィキソースによる現代語訳
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== 第21説教の2 ==
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{{r|畢生|ひっせい}}の{{r|間|あいだ}}、{{r|此|この}}{{r|一対|いっつい}}と{{r|交|まじわ}}ることを{{r|愛|あい}}する{{r|者|もの}}は、{{r|貞潔|ていけつ}}の{{r|友|とも}}とならん。{{r|腹|はら}}を{{r|安|やす}}んじ、{{r|睡眠|すいみん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|己|おのれ}}を{{r|懦弱|だじゃく}}にして{{r|淫欲|いんよく}}を{{r|燃|もや}}すは{{r|萬悪|ばんあく}}の{{r|始|はじめ}}なる{{r|如|ごと}}く、{{r|禁食|きんしょく}}と{{r|儆醒|けいせい}}と、{{r|眠|ねむ}}らずして{{r|神|かみ}}の{{r|奉事|ほうじ}}を{{r|行|おこな}}ひ、{{r|終日|しゅうじつ}}{{r|終夜|しゅうや}}{{r|身|み}}を{{r|十字架|じゅうじか}}に{{r|釘|くぎ}}して、{{r|睡眠|すいみん}}の{{r|甘|あま}}きに{{r|反対|はんたい}}するは{{r|神|かみ}}の{{r|聖|せい}}なる{{r|途|みち}}とすべての{{r|道徳|どうとく}}の{{r|基|もとい}}なり。{{r|禁食|きんしょく}}はすべての{{r|道徳|どうとく}}の{{r|保障|ほしょう}}なり、{{r|奮闘|ふんとう}}の{{r|始|はじめ}}なり、{{r|節制者|せっせいしゃ}}の{{r|冠|かんむり}}なり、「ハリステアニン」の{{r|首途|かどで}}なり、{{r|祈祷|きとう}}の{{r|母|はは}}なり、{{r|貞潔|ていけつ}}と{{r|善智|ぜんち}}の{{r|源|みなもと}}なり、{{r|黙想|もくそう}}の{{r|師|し}}なり、あらゆる{{r|善行|ぜんこう}}の{{r|率先者|そっせんしゃ}}なり。{{r|光|ひかり}}を{{r|願|ねが}}ふは{{r|健全|けんぜん}}の{{r|目|め}}に{{r|適|てき}}する{{r|如|ごと}}く、{{r|祈祷|きとう}}を{{r|願|ねが}}ふは{{r|思慮|しりょ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|守|まも}}らるる{{r|禁食|きんしょく}}に{{r|適|てき}}す。
もし{{r|誰|たれ}}か{{r|禁食|きんしょく}}し{{r|始|はじ}}むるならば、{{r|最早|もはや}}{{r|是時|このとき}}より{{r|智|ち}}を{{r|以|もっ}}て{{r|神|かみ}}とともに{{r|交|まじ}}はるを{{r|願望|がんぼう}}せん。けだし{{r|禁食|きんしょく}}する{{r|体|たい}}は{{r|全夜|ぜんや}}を{{r|床上|しょうじょう}}に{{r|寝|ね}}{{r|通|とお}}すに{{r|堪|た}}ふる{{r|能|あた}}はざればなり。{{r|人|ひと}}がその{{r|口|くち}}に{{r|禁食|きんしょく}}の{{r|印|いん}}を{{r|押|お}}さるるときは、その{{r|意思|いし}}は{{r|痛悔|つうかい}}を{{r|学|まな}}ぶべく、その{{r|心|こころ}}は{{r|祈祷|きとう}}を{{r|流|なが}}すべく、その{{r|面|おもて}}に{{r|憂色|ゆうしょく}}ありて、{{r|耻|は}}づべき{{r|思念|しねん}}は{{r|人|ひと}}より{{r|遠|とお}}ざかり、その{{r|眼中|がんちゅう}}に{{r|欣|きん}}{{r|喜|き}}の{{r|色|いろ}}は{{r|見|み}}えざるべし、{{r|彼|かれ}}は{{r|淫欲|いんよく}}と{{r|空談|くうだん}}の{{r|敵|てき}}なり、{{r|思慮|しりょ}}{{r|深|ぶか}}き{{r|禁食|きんしょく}}{{r|者|しゃ}}が{{r|悪慾|あくよく}}の{{r|奴隷|どれい}}となりしことは{{r|未|いま}}だ{{r|嘗|かつ}}て{{r|見|み}}たる{{r|者|もの}}あらざりき。{{r|思慮|しりょ}}を{{r|以|もっ}}てする{{r|禁食|きんしょく}}はもろもろの{{r|善|ぜん}}の{{r|為|ため}}に{{r|廣大|こうだい}}なる{{r|第宅|だいたく}}なり。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|禁食|きんしょく}}を{{r|等閑|とうかん}}にする{{r|者|もの}}はすべての{{r|善|ぜん}}を{{r|動揺|どうよう}}せしめん、{{r|何|なん}}となれば{{r|禁食|きんしょく}}は{{r|最初|さいしょ}}{{r|食|しょく}}を{{r|甞|な}}むるとき、{{r|預防|よぼう}}の{{r|為|ため}}に{{r|我|われ}}らが{{r|性|せい}}に{{r|與|あた}}へられたる{{r|誡命|かいめい}}にして、{{r|禁食|きんしょく}}を{{r|破|やぶ}}りし{{r|為|ため}}に、{{r|我|われ}}らが{{r|造成|ぞうせい}}の{{r|始|はじめ}}は{{r|堕落|だらく}}したりき。さりながら{{r|苦行|くぎょう}}{{r|者|しゃ}}らは{{r|神|かみ}}の{{r|法|ほう}}を{{r|守|まも}}るを{{r|始|はじ}}むるならば、{{r|最初|さいしょ}}の{{r|貶黜|べんちゅつ}}の{{r|成|な}}れるそのものよりして{{r|神|かみ}}を{{r|畏|おそ}}るるの{{r|畏|おそ}}れに{{r|大|おおい}}に{{r|進歩|しんぽ}}するを{{r|始|はじ}}めん。
{{r|救世|きゅうせい}}{{r|主|しゅ}}も{{r|世|よ}}に{{二重線|イオルダン}}の{{r|河濱|かひん}}に{{r|現|あら}}はるるや、{{r|此|これ}}より{{r|始|はじ}}めたまひき、けだし{{r|洗礼|せんれい}}の{{r|後|のち}}{{r|神|しん}}は{{r|彼|かれ}}を{{r|導|みちび}}きて{{r|野|の}}に{{r|至|いた}}り、{{r|彼処|かしこ}}に{{r|於|おい}}て{{r|彼|かれ}}は四十{{r|日|にち}}四十{{r|夜|や}}{{r|禁食|きんしょく}}せり。{{r|之|これ}}と{{r|同|おな}}じく{{r|凡|すべ}}て{{r|救世主|きゅうせいしゅ}}の{{r|跡|あと}}を{{r|慕|した}}ふて{{r|出|い}}づる{{r|者|もの}}らも、その{{r|苦行|くぎょう}}の{{r|始|はじめ}}を{{r|此|この}}{{r|基上|きじょう}}に{{r|確立|かくりつ}}せん、{{r|何|なん}}となれば{{r|禁食|きんしょく}}は{{r|神|かみ}}の{{r|備|そな}}ひ{{r|給|たま}}ひし{{r|武器|ぶき}}なればなり。ゆえにもし{{r|此|これ}}を{{r|等閑|とうかん}}にするならば、{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}にか{{r|叱責|しっせき}}を{{r|被|こう}}むらざらん。もし{{r|立法者|りっぽうしゃ}}が{{r|自|みづ}}から{{r|禁食|きんしょく}}するならば、その{{r|法|ほう}}を{{r|守|まも}}る{{r|者|もの}}は、{{r|誰|たれ}}か{{r|禁食|きんしょく}}せざるべけんや。{{r|此|これ}}に{{r|由|より}}て{{r|見|み}}るに{{r|人間|にんげん}}は{{r|禁食|きんしょく}}に{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}は、{{r|勝利|しょうり}}を{{r|知|し}}らずして{{r|魔鬼|まき}}も{{r|未|いま}}だ{{r|嘗|かつ}}て{{r|我|われ}}らの{{r|性|せい}}により{{r|攻撃|こうげき}}を{{r|試|こころ}}みざりしが、{{r|此|この}}{{r|武器|ぶき}}の{{r|為|ため}}に{{r|彼|かれ}}は{{r|先|ま}}づ{{r|弱|よわ}}りぬ。{{r|而|しか}}して{{r|我|われ}}らの{{r|主|しゅ}}が{{r|此|この}}{{r|勝利|しょうり}}の{{r|大将|たいしょう}}となり、{{r|及|およ}}び{{r|冢子|ちょうし}}となり{{r|給|たま}}ひしは、{{r|第一|だいいち}}{{r|勝利|しょうり}}の{{r|栄冠|えいかん}}を{{r|我|われ}}らの{{r|性|せい}}の{{r|首|かしら}}に{{r|加|くは}}へん{{r|為|ため}}なり。ゆえにもし{{r|魔鬼|まき}}は{{r|人類|じんるい}}{{r|中|ちゅう}}{{r|何人|なにびと}}に{{r|於|おい}}てか{{r|此|この}}{{r|武器|ぶき}}を{{r|見|み}}るならば、{{r|此|この}}{{r|反対者|はんたいしゃ}}と{{r|苦虐|くぎゃく}}{{r|者|しゃ}}は{{r|即時|そくじ}}に{{r|恐|おそれ}}を{{r|生|しょう}}ずべく、{{r|救世主|きゅうせいしゅ}}の{{r|為|ため}}{{r|野|の}}に{{r|於|おい}}て{{r|撃敗|げきはい}}せられしことに{{r|直|ただち}}に{{r|想到|そうとう}}し、{{r|之|これ}}を{{r|記憶|きおく}}して、その{{r|力|ちから}}は{{r|挫折|ざせつ}}せらるるべく、{{r|我|われ}}らが{{r|元帥|げんすい}}を{{r|以|もっ}}てわれらに{{r|與|あた}}へられたる{{r|武器|ぶき}}を{{r|望|のぞ}}むは{{r|彼|かれ}}を{{r|焼尽|やきつく}}さん。{{r|如何|いか}}なる{{r|武器|ぶき}}は{{r|之|これ}}より{{r|有力|ゆうりょく}}なるか、{{r|狠悪|こんあく}}の{{r|霊|れい}}と{{r|奮闘|ふんとう}}するに{{r|当|あた}}り、{{r|心|こころ}}に{{r|勇気|ゆうき}}を{{r|添|そ}}ふるは<u>ハリストス</u>の{{r|為|ため}}に{{r|飢|う}}うるに{{r|如|し}}くものありや。けだし{{r|魔鬼|まき}}の{{r|軍|ぐん}}の{{r|人|ひと}}を{{r|囲|かこ}}むに{{r|当|あたり}}ては、{{r|身体|しんたい}}を{{r|労|つか}}らし{{r|且|かつ}}{{r|苦|くる}}しむ{{r|程|ほど}}{{r|心|こころ}}は{{r|希望|きぼう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|満|み}}たさるるなり。{{r|禁食|きんしょく}}の{{r|武器|ぶき}}を{{r|着|つく}}るものは、{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}にも、{{r|熱心|ねっしん}}を{{r|以|もっ}}て、{{r|烈|はげ}}しく{{r|焼|や}}かるるなり。けだし{{r|熱心者|ねっしんしゃ}}<u>イリヤ</u>も{{r|神|かみ}}の{{r|法律|ほうりつ}}に{{r|熱心|ねっしん}}し{{r|始|はじ}}むるや、{{r|此|この}}{{r|行為|こうい}}を{{r|務|つと}}めたりき。{{r|禁食|きんしょく}}{{r|者|しゃ}}は{{r|之|これ}}を{{r|獲|え}}たる{{r|者|もの}}に{{r|神|しん}}の{{r|誡命|かいめい}}を{{r|想起|そうき}}せしむるなり。{{r|彼|かれ}}は{{r|旧|ふる}}き{{r|法律|ほうりつ}}と<u>ハリストス</u>を{{r|以|もっ}}て{{r|我|われ}}らに{{r|與|あた}}へられたる{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|間|あいだ}}の{{r|仲|ちゅう}}{{r|保|ほ}}{{r|者|しゃ}}なり。{{r|禁食|きんしょく}}に{{r|等閑|とうかん}}なる{{r|者|もの}}は{{r|他|た}}の{{r|苦行|くぎょう}}に{{r|於|おい}}ても{{r|懦弱|だじゃく}}、{{r|怠慢|たいまん}}、{{r|無力|むりょく}}にして、その{{r|霊魂|れいこん}}を{{r|弱|よわ}}らすの{{r|始|はじめ}}と{{r|悪|あ}}しき{{r|徴候|ちょうこう}}とをあらはすべく、{{r|彼|かれ}}と{{r|戦|たたか}}ふ{{r|者|もの}}に{{r|勝利|しょうり}}の{{r|機会|きかい}}を{{r|與|あた}}ふべし、{{r|何|なん}}となれば{{r|裸体|らたい}}にして{{r|武器|ぶき}}を{{r|持|も}}たず、{{r|苦行|くぎょう}}に{{r|出|い}}づればなり。ゆえに{{r|勝利|しょうり}}なくして{{r|戦闘|せんとう}}より{{r|退|しりぞ}}かんこと{{r|明|あきらか}}なり。{{r|何|なん}}となれば{{r|彼|かれ}}の{{r|肢体|したい}}は{{r|禁食|きんしょく}}に{{r|飢|うう}}るの{{r|温情|おんじょう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|包|つつ}}まれざればなり。{{r|禁食|きんしょく}}はかくの{{r|如|ごと}}し{{r|之|これ}}を{{r|務|つと}}むる{{r|者|もの}}の{{r|心|こころ}}は{{r|毅然|きぜん}}として、{{r|凡|およそ}}の{{r|猛烈|もうれつ}}なる{{r|慾|よく}}を{{r|逆|むか}}へて{{r|之|これ}}を{{r|反拒|はんきょ}}せんとす。{{r|多|おお}}くの{{r|致命|ちめい}}{{r|者|しゃ}}の{{r|事|こと}}を{{r|傳|つた}}へ{{r|言|い}}ふあり、{{r|彼|かれ}}らは{{r|致|ち}}{{r|命|めい}}の{{r|栄冠|えいかん}}を{{r|受|う}}けんを{{r|期|き}}する{{r|日|ひ}}に{{r|当|あた}}り{{r|或|あるい}}は{{r|黙示|もくし}}により、{{r|或|あるい}}はその{{r|朋友|ほうゆう}}{{r|中|ちゅう}}{{r|或者|あるもの}}の{{r|報告|ほうこく}}により{{r|之|これ}}を{{r|豫知|よち}}するや、{{r|全|ぜん}}{{r|夜|や}}{{r|何物|なにもの}}をも{{r|食|くら}}はず、{{r|晩|ばん}}より{{r|朝|あさ}}に{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}{{r|眠|ねむ}}らずして{{r|祈祷|きとう}}に{{r|立|た}}ち、{{r|詩|し}}{{r|頌|しょう}}{{r|歌|か}}{{r|章|しょう}}{{r|霊|れい}}{{r|賦|ふ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|神|かみ}}を{{r|讃栄|さんえい}}しつつ{{r|愉快|ゆかい}}と{{r|欣喜|きんき}}とを{{r|以|もっ}}てその{{r|時刻|じこく}}を{{r|待|ま}}ちしこと、{{r|或|あ}}る{{r|婚姻|こんいん}}に{{r|豫備|よび}}する{{r|者|もの}}の{{r|如|ごと}}くし、{{r|禁食|きんしょく}}に{{r|於|おい}}て{{r|剣|つるぎ}}を{{r|迎|むか}}へたりと。ゆえに{{r|見|み}}えざる{{r|致命|ちめい}}{{r|者|しゃ}}の{{r|行|おこない}}に{{r|召|め}}されたる{{r|我|われ}}らも、{{r|成聖|せいせい}}の{{r|冠|かんむり}}を{{r|受|う}}けんが{{r|為|ため}}に{{r|儆醒|けいせい}}すべく、{{r|我|わ}}が{{r|身|み}}の{{r|一|いつ}}{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}をも{{r|又|また}}{{r|一|いち}}{{r|部分|ぶぶん}}をも{{r|辞|じ}}する{{r|兆候|ちょうこう}}をその{{r|敵|てき}}に{{r|示|しめ}}さざるべし。
問 {{r|或者|あるもの}}は{{r|此|これ}}らの{{r|行為|こうい}}を{{r|屡|しばしば}}し、{{r|多|おお}}くの{{r|者|もの}}も{{r|多分|たぶん}}{{r|之|これ}}を{{r|行為|こうい}}しつつあらんも、{{r|寧静|ねいせい}}と{{r|慾|よく}}の{{r|鎮|ちん}}{{r|止|し}}と{{r|思念|しねん}}の{{r|平安|へいあん}}を{{r|感|かん}}ぜざるは{{r|何故|なにゆえ}}なるか。
答 {{r|兄弟|けいてい}}よ、{{r|霊底|れいてい}}にかくるる{{r|慾|よく}}は{{r|肉体|にくたい}}{{r|上|じょう}}の{{r|労苦|ろうく}}のみにては{{r|矯正|きょうせい}}せられず、{{r|肉体|にくたい}}{{r|上|じょう}}の{{r|労苦|ろうく}}は{{r|常|つね}}に{{r|五感|ごかん}}によりて{{r|起|おこ}}さるるものを{{r|思|おも}}ふ{{r|意思|いし}}を{{r|止|とど}}めざるべし。{{r|此|これ}}らの{{r|労苦|ろうく}}は{{r|人|ひと}}を{{r|欲望|よくぼう}}より{{r|保護|ほご}}して、{{r|之|これ}}に{{r|勝|か}}たしめず、{{r|魔鬼|まき}}の{{r|誘惑|ゆうわく}}よりも{{r|人|ひと}}を{{r|保護|ほご}}すれども、{{r|霊魂|れいこん}}に{{r|平安|へいあん}}と{{r|寧静|ねいせい}}とを{{r|得|え}}しめざるなり。けだし{{r|動作|どうさ}}と{{r|労苦|ろうく}}とは{{r|黙想|もくそう}}と{{r|連合|れんごう}}{{r|一致|いっち}}し、{{r|外部|がいぶ}}の{{r|感覚|かんかく}}に{{r|擾乱|じょうらん}}{{r|熄|や}}みて{{r|若干|ある}}{{r|時間|じかん}}{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}の{{r|行為|こうい}}に{{r|止|とど}}まる{{r|時|とき}}は、{{r|霊魂|れいこん}}に{{r|無欲|むよく}}を{{r|與|あた}}ふべく、<span style="border-bottom: dotted 2px">{{r|地|ち}}にある{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}</span>を{{r|殺|ころ}}して、{{r|思念|しねん}}の{{r|安息|あんそく}}を{{r|與|あた}}へん。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|人|ひと}}は{{r|人々|ひとびと}}と{{r|交際|こうさい}}し{{r|得|う}}ることを{{r|奪|うば}}はれずして、その{{r|肢体|したい}}をも{{r|自己|じこ}}をも{{r|意思|いし}}の{{r|衰弱|すいじゃく}}の{{r|為|ため}}に{{r|自己|じこ}}に{{r|集中|しゅうちゅう}}するに{{r|至|いた}}らざる{{r|間|あいだ}}は{{r|己|おのれ}}の{{r|慾|よく}}を{{r|確知|かくち}}する{{r|能|あた}}はざるべし。{{r|黙想|もくそう}}は{{r|聖|せい}}<u>ワシリイ</u>の{{r|言|い}}ふ{{r|如|ごと}}く{{r|霊魂|れいこん}}を{{r|浄潔|じょうけつ}}にするの{{r|始|はじめ}}なり。けだし{{r|外部|がいぶ}}の{{r|肢体|したい}}に{{r|於|おい}}て{{r|外部|がいぶ}}の{{r|擾乱|じょうらん}}と{{r|外部|がいぶ}}に{{r|於|おけ}}る{{r|引誘|いんゆう}}が{{r|熄|や}}む{{r|時|とき}}は、{{r|智|ち}}は{{r|外部|がいぶ}}の{{r|引誘|いんゆう}}と{{r|高超|こうちょう}}とより{{r|自己|じこ}}に{{r|帰|かえ}}りて{{r|自己|じこ}}に{{r|安|やす}}んじ、{{r|心|こころ}}は{{r|覚醒|かくせい}}して、{{r|内部|ないぶ}}{{r|心霊上|しんれいじょう}}の{{r|思|おもい}}を{{r|研究|けんきゅう}}せん。ゆえにもし{{r|人|ひと}}は{{r|善|よ}}く{{r|此|これ}}に{{r|堅立|けんりつ}}するならば、{{r|漸々|ぜんぜん}}{{r|心霊上|しんれいじょう}}の{{r|浄潔|じょうけつ}}に{{r|進行|しんこう}}するを{{r|得|う}}るに{{r|至|いた}}らん。
問 {{r|霊魂|れいこん}}は{{r|戸|こ}}{{r|外|がい}}に{{r|居|お}}る{{r|時|とき}}に{{r|於|おい}}ては{{r|潔|きよ}}めらるる{{r|能|あた}}はざるか。
答 {{r|樹|き}}は{{r|毎日|まいにち}}{{r|灌|そそ}}がるるならば、その{{r|根|ね}}は{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}か{{r|乾|かわ}}かん。{{r|器|き}}{{r|中|ちゅう}}に{{r|於|おい}}て{{r|毎日|まいにち}}{{r|加|くは}}へらるるならば、{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}か{{r|減|げん}}ぜん。それ{{r|浄潔|じょうけつ}}は{{r|人々|ひとびと}}と{{r|交|まじわ}}る{{r|自恣|じし}}の{{r|交際|こうさい}}を{{r|知|し}}らずして、{{r|此|この}}{{r|習慣|しゅうかん}}を{{r|棄|す}}つるに{{r|外|ほか}}ならずんば、{{r|旧|ふる}}き{{r|習慣|しゅうかん}}の{{r|記憶|きおく}}{{r|即|すなはち}}{{r|悪癖|あくへき}}の{{r|認識|にんしき}}を{{r|実際|じっさい}}{{r|自己|じこ}}を{{r|以|もっ}}て、{{r|或|あるい}}は{{r|他人|たにん}}を{{r|以|もっ}}て、{{r|五|ご}}{{r|感|かん}}に{{r|頼|よ}}り、{{r|之|これ}}を{{r|己|おの}}れに{{r|新|あらた}}にする{{r|者|もの}}は、{{r|何|なん}}の{{r|時|とき}}かその{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|清潔|せいけつ}}になるを{{r|望|のぞ}}むべけん。その{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}に{{r|之|これ}}より{{r|潔|きよ}}まるを{{r|得|う}}るか、{{r|或|あるい}}は{{r|彼|かれ}}は{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}{{r|外部|がいぶ}}の{{r|抵抗|ていこう}}より{{r|免|まぬか}}れて{{r|己|おのれ}}を{{r|察|さっ}}するを{{r|得|う}}るか{{r|心|こころ}}が{{r|日々|ひび}}{{r|汚|けが}}さるるならば、{{r|人|ひと}}は{{r|汚穢|おかい}}より{{r|潔|きよ}}めらるべきか。{{r|人|ひと}}は{{r|外部|がいぶ}}の{{r|勢力|せいりょく}}の{{r|運動|うんどう}}に{{r|対抗|たいこう}}する{{r|力|ちから}}あるなく、{{r|軍営|ぐんえい}}の{{r|中|うち}}にありて{{r|頻繁|ひんぱん}}の{{r|戦報|せんぽう}}を{{r|聞|き}}くを{{r|日々|ひび}}{{r|待|ま}}つあらば、{{r|心|こころ}}を{{r|潔|きよ}}むる{{r|能|あた}}はざるにあらずや。{{r|然|しか}}らば{{r|如何|いか}}にして{{r|人|ひと}}はその{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|為|ため}}に{{r|平和|へいわ}}を{{r|宣言|せんげん}}するを{{r|敢|あえ}}てすべきか。されどもし{{r|此|これ}}より{{r|遠|とお}}ざかるならば{{r|先|ま}}づ{{r|第一|だいいち}}に{{r|内部|ないぶ}}の{{r|怒涛|どとう}}を{{r|少|すこ}}しづつ{{r|鎮静|ちんせい}}するを{{r|得|え}}ん。{{r|川|かわ}}は{{r|上方|じょうほう}}を{{r|塞|ふさ}}がれざる{{r|間|あいだ}}は{{r|下方|かほう}}の{{r|水|みづ}}は{{r|涸|か}}れざらん。{{r|人|ひと}}は{{r|黙想|もくそう}}に{{r|入|い}}るときは、{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|諸慾|しょよく}}を{{r|弁別|べんべつ}}して、その{{r|智|ち}}{{r|慧|けい}}を{{r|聡明|そうめい}}に{{r|試|こころ}}みるを{{r|得|え}}ん。その{{r|時|とき}}は{{r|内部|ないぶ}}の{{r|人|ひと}}も{{r|霊的|れいてき}}{{r|行為|こうい}}に{{r|覚醒|かくせい}}せられて、{{r|霊中|れいちゅう}}に{{r|花|はな}}{{r|咲|さ}}く{{r|神秘|しんぴ}}なる{{r|智|ち}}{{r|慧|けい}}を{{r|日|ひ}}にますます{{r|感知|かんち}}せん。
問 {{r|人|ひと}}は{{r|如何|いか}}なる{{r|確実|かくじつ}}の{{r|指示|しじ}}{{r|又|また}}は{{r|近|ちか}}き{{r|徴候|ちょうこう}}により、{{r|霊中|れいちゅう}}に{{r|隠|かく}}れたる{{r|果|み}}を{{r|自|みづ}}から{{r|見|み}}るを{{r|始|はじ}}めたるを{{r|感知|かんち}}すべきか。
答 {{r|誰|たれ}}か{{r|強|し}}ふることなしに{{r|流|なが}}れ{{r|出|い}}づる{{r|多|た}}{{r|涙|るい}}の{{r|恩寵|おんちょう}}を{{r|惠|けい}}{{r|與|よ}}せらるる{{r|時|とき}}{{r|感|かん}}{{r|知|ち}}せん、けだし{{r|智|ち}}の{{r|為|ため}}に{{r|涙|なみだ}}を{{r|置|お}}かるるは、{{r|形体|けいたい}}に{{r|属|ぞく}}するものと、{{r|霊神|れいしん}}に{{r|属|ぞく}}するものと、{{r|慾|よく}}に{{r|従|したが}}ふ{{r|状態|じょうたい}}と、{{r|浄潔|じょうけつ}}との{{r|間|あいだ}}に{{r|置|お}}かれたる{{r|或|あ}}る{{r|界限|かいげん}}の{{r|如|ごと}}し。{{r|人|ひと}}は{{r|此|この}}{{r|賜|たまもの}}を{{r|受|う}}けざる{{r|間|あいだ}}は、その{{r|行|おこない}}は{{r|猶|なお}}{{r|外部|がいぶ}}の{{r|人|ひと}}に{{r|成|な}}るのみにて、{{r|内部|ないぶ}}の{{r|人|ひと}}に{{r|隠|かく}}れたる{{r|者|もの}}の{{r|勢力|せいりょく}}を{{r|人|ひと}}は{{r|未|いま}}だ{{r|全|まった}}く{{r|感|かん}}ぜざるなり。けだし{{r|人|ひと}}が{{r|此|この}}{{r|世|よ}}の{{r|形体|けいたい}}に{{r|属|ぞく}}するものを{{r|棄|す}}つるを{{r|始|はじ}}め、{{r|此|この}}{{r|界限|かいげん}}を{{r|踰|こ}}えて、{{r|性中|せいちゅう}}{{r|実|じつ}}に{{r|内部|ないぶ}}に{{r|属|ぞく}}する{{r|者|もの}}のあるを{{r|認|みと}}むる{{r|時|とき}}は、{{r|速|すみやか}}に{{r|此|こ}}の{{r|涙|なみだ}}の{{r|恩寵|おんちょう}}に{{r|達|たっ}}せん。{{r|此|この}}{{r|涙|なみだ}}は{{r|神秘|しんぴ}}なる{{r|生涯|しょうがい}}の{{r|第一|だいいち}}の{{r|院|いん}}に{{r|始|はじ}}まり、{{r|人|ひと}}をして{{r|神|かみ}}の{{r|愛|あい}}の{{r|完全|かんぜん}}に{{r|上|のぼ}}らしむべくして、{{r|人|ひと}}が{{r|漣々|れんれん}}たる{{r|流涕|りゅうてい}}により、{{r|食|しょく}}にも{{r|飲|いん}}にも{{r|涙|なみだ}}を{{r|交|まじ}}へて{{r|泣飲|きゅういん}}し{{r|始|はじ}}むるに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}は、いよいよ{{r|進歩|しんぽ}}する{{r|程|ほど}}{{r|益々|ますます}}{{r|此|この}}{{r|恩寵|おんちょう}}に{{r|富|と}}まさるるなり。
これぞ{{r|智|ち}}が{{r|此|こ}}の{{r|世界|せかい}}より{{r|出|い}}でて{{r|彼|か}}の{{r|霊的|れいてき}}{{r|世界|せかい}}を{{r|感知|かんち}}したる{{r|確実|かくじつ}}の{{r|徴候|ちょうこう}}なる。{{r|然|しか}}れども{{r|人|ひと}}は{{r|智|ち}}を{{r|以|もっ}}て{{r|此|こ}}の{{r|世界|せかい}}に{{r|近|ちか}}づけば{{r|近|ちか}}づく{{r|程|ほど}}、{{r|此|この}}{{r|涙|なみだ}}は{{r|減少|げんしょう}}すべくして、{{r|智|ち}}が{{r|此|こ}}の{{r|世界|せかい}}に{{r|全|まった}}く{{r|止|とど}}まるときは{{r|此|この}}{{r|涙|なみだ}}は{{r|全|まった}}く{{r|奪|うば}}はるるなり。これぞ{{r|人|ひと}}が{{r|慾中|よくちゅう}}に{{r|葬|ほう}}むられたる{{r|徴候|ちょうこう}}なる。
::{{r|涙|なみだ}}の{{r|区別|くべつ}}
{{r|焼尽|やきつく}}す{{r|涙|なみだ}}あり、{{r|又|また}}{{r|肥太|こえふと}}らす{{r|涙|なみだ}}あり。ゆえにすべて{{r|罪|つみ}}を{{r|悲|かなし}}むにより{{r|心|こころ}}の{{r|真髄|しんずい}}より{{r|出|い}}づる{{r|涙|なみだ}}は、{{r|肉体|にくたい}}を{{r|乾|かわ}}かして{{r|之|これ}}を{{r|焼尽|やきつく}}さん、{{r|然|しか}}れども{{r|涙|なみだ}}を{{r|注|そそ}}ぐ{{r|時|とき}}に{{r|当|あた}}り、{{r|霊中|れいちゅう}}に{{r|主|しゅ}}たる{{r|所|ところ}}のそのものも{{r|之|これ}}より{{r|害|がい}}を{{r|感|かん}}ずること{{r|稀|まれ}}なりとせず。{{r|人|ひと}}は{{r|先|ま}}づ{{r|必|かなら}}ず{{r|涙|なみだ}}の{{r|此|この}}{{r|階段|かいだん}}に{{r|入|い}}らざるを{{r|得|え}}ざるべし、{{r|然|しか}}れども{{r|人|ひと}}の{{r|為|ため}}に{{r|第一|だいいち}}の{{r|階段|かいだん}}より{{r|更|さら}}に{{r|愈|まさ}}れる{{r|第二|だいに}}の{{r|階段|かいだん}}に{{r|入|い}}るの{{r|門戸|もんこ}}は、{{r|之|これ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|開|ひら}}かるべくして、{{r|此|この}}{{r|涙|なみだ}}は{{r|肉体|にくたい}}を{{r|飾|かざ}}りて{{r|之|これ}}を{{r|肥太|こえふと}}らすべく、{{r|強|し}}ひずして、{{r|自然|しぜん}}に{{r|流|なが}}れ{{r|出|い}}づるものにして、{{r|已|すで}}にいひし{{r|如|ごと}}く、こは{{r|人体|じんたい}}を{{r|肥太|こえふと}}らすのみならず、{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}に{{r|人|ひと}}の{{r|容|よう}}{{r|儀|ぎ}}も{{r|変|へん}}ぜられん。けだし{{r|録|ろく}}して{{r|言|い}}へり、『{{r|心|こころ}}に{{r|喜|き}}{{r|楽|らく}}あれば{{r|顔色|がんしょく}}よろこばし、{{r|心|こころ}}に{{r|憂|ゆう}}{{r|苦|く}}あれば{{r|気|き}}ふさぐ』〔[[箴言(文語訳)#15:13|{{r|箴言|しんげん}}十五の十三]]〕。
==現代語訳==
:::断食と徹夜について
生涯を通じてこの二つとの対話を愛する者は、貞潔の友となる。あらゆる悪の始まりが腹の静寂と睡眠の弛緩であり、それが情欲を燃え上がらせるように、神の聖なる道とあらゆる美徳の基盤は断食である。昼夜を問わず、睡眠の甘美さとは対照的に、神への奉仕において警戒し、覚醒し、肉体を十字架につけること。断食はあらゆる美徳の守護であり、禁欲の始まりであり、禁欲の冠であり、聖性の美しさであり、貞潔の輝きであり、キリスト教の道の始まりであり、祈りの母であり、貞潔と理性の源であり、沈黙の教師であり、あらゆる善行の先駆者である。健康な目が自然に光を求めるように、賢明に守られた断食は自然に祈りを求める。
人が断食を始めると、その瞬間から、その人の心は神との対話を切望するようになる。断食中の体は、ベッドで一晩中眠ることに耐えられないからである。断食の印が人の唇に押されると、その人の思いは悔恨に満ち、心は祈りに満ち、顔は悲しみに染まり、恥ずべき思いは遠ざかり、目に喜びはなく、欲望と無益な会話の敵となる。賢明な断食者が邪悪な欲望の奴隷になったのを見た者は誰もいない。賢明な断食は、あらゆる善の広大な住処である。しかし、断食を怠る者は、あらゆる善を混乱に陥れる。なぜなら、断食はもともと、食べることへの警告として私たちの本性に与えられた戒めであり、断食を破ることによって、私たちの創造のまさに基礎が築かれたからである。しかし、最初の屈辱が何であったかによって、禁欲主義者たちは、神の律法を守り始めるとすぐに、神への畏敬の念において成功し始めるのである。
救い主がヨルダン川で世に現れた時、最初に始められたのはこのことでした。洗礼を受けた後、聖霊に導かれて荒野に行かれ、そこで四十日四十夜断食されました。同様に、救い主に従う者は皆、この土台の上に戦いを始めることを確信しています。なぜなら、断食は神によって備えられた武器だからです。断食を怠る者は、誰であれ非難されるでしょう。律法を与えられた方ご自身が断食されるのであれば、律法を守る者が断食をしないはずがありません。ですから、断食が始まる前は、人類は勝利を知らず、悪魔も人間の本性によって敗北を喫したことはありませんでした。しかし、この武器によって、悪魔は最初から弱体化していたのです。そして、私たちの主はこの勝利の先駆者であり、最初の勝利の冠を私たちの本性の頭に戴くために、その勝利の先駆者となられました。悪魔は、誰かがこの武器を身につけているのを見ると、たちまち恐怖に襲われ、救い主によって荒野で敗北したことを思い起こし、力が打ち砕かれ、私たちの司令官から与えられた武器の光景に焼き尽くされます。これ以上に強力な武器があるでしょうか。キリストのために飢え渇くことほど、悪霊との戦いにおいて心に勇気を与えるものがあるでしょうか。悪魔の群れに囲まれ、体が重荷を負い苦しめられるほど、心は希望に満たされるのです。断食という武器を身にまとえば、人は絶えず熱意に燃え上がります。熱心者エリヤでさえ、神の律法に熱心になったとき、まさにこのこと、すなわち断食に励んでいました。断食は、それを身につけた者に聖霊の戒めを思い出させます。それは、古い律法とキリストによって私たちに与えられた恵みとの仲介者なのです。断食を怠る者は、他の闘争においても弱く、不注意で、無力である。こうして彼は魂の衰えの始まりと悪しき兆候を露わにし、戦う者に勝利の機会を与えてしまう。なぜなら、彼は裸で武器も持たずに闘争に臨むからである。したがって、断食中の飢えの温かさに手足が覆われていないため、彼は闘争から勝利を得ることなく終わることは明らかである。これが断食である。断食を続ける者は揺るぎない精神を持ち、あらゆる激しい情欲に立ち向かい、撃退する準備ができている。
多くの殉教者について伝えられているように、殉教の冠を受ける日を予見していた者、あるいは啓示や友人からの言葉によってその日を予知していた者は、その夜は何も食べず、夕方から朝まで祈りを捧げ続けた。詩篇、賛美歌、霊歌で神を讃え、結婚式を控えた人々が断食の中で剣に直面する時を、喜びと歓喜をもって待ち望んだのである。それゆえ、私たちもまた、目に見えない殉教へと召され、聖性の冠を受けるために、慎み深くあり、体のどの部分においても、敵に放棄のしるしを与えてはならない。
質問:なぜ、このような行いをした人の中には、しばしば心の平安や情欲の鎮静、思考の平安を感じられない人がいるのでしょうか?
答え:兄弟よ、魂に隠された情欲は、肉体的な労働だけでは矯正されません。それらは、感覚によって常に目覚めさせられる考えを抑えることはできません。これらの労働は、人がそれらに打ち負かされる欲望や悪魔の誘惑から身を守ることはできますが、魂に平安と静穏をもたらすことはありません。なぜなら、行いや労働は、魂に無情をもたらし、「地上にある」肢体(コロサイ3章5節)を死に至らしめ、外的な感覚の混乱が止み、しばらくの間知恵の働きにとどまるときに、私たちが沈黙にあずかるときに、考えに静穏を与えるだけだからです。しかし、人が人と交わる機会を奪われ、自分の肢体と自分自身を考えの雑念から引き離すまでは、自分の情欲を認識することはできないでしょう。
聖バシレイオスが述べたように、沈黙は魂の浄化の始まりです。外的な混乱や外的な事柄への執着が外界の要素から消え去ると、外的な心配事や気晴らしから解放された心は本来の自分に戻り、安らぎを見出します。そして、心は内なる霊的な思考の探求へと目覚めます。もし人がこの状態を堅く守るならば、徐々に霊的な純粋さへと向かう段階へと到達するのです。
質問:魂は扉の外にいる間に浄化されることはできないのでしょうか?
答え:木に毎日水をやれば、その根は枯れるだろうか?毎日水を注がれる器は、朽ち果てるだろうか?もし清浄とは、自由な生活から身を引いて、この習慣を捨てることに他ならないのなら、自ら、あるいは他者を通して、感覚を通して、古い習慣の記憶、すなわち悪徳の再認識を積極的に心の中で蘇らせる者は、いつ、どのようにして魂を清めたいと願うだろうか?いつ、人は魂を清め、外的抵抗から解放され、自分自身を見ることができるようになるのだろうか?心が日々汚されているなら、いつ汚れから清められるだろうか?外的力の作用に抵抗できないのに、軍の陣営の中に立ち、毎日頻繁に戦闘の知らせを聞くことを覚悟しているような状況で、どうして心を清めることができるだろうか?そして、どうして彼は自分の魂に平和を宣言できるだろうか?もし彼がこの状況から身を引けば、徐々に内なる動揺を鎮めることができるだろう。川の上流にダムが建設されていない限り、下流の水は枯れることはない。人が静寂に達すると、魂は情念を見分け、自らの知恵を賢明に探求することができる。そして、内なる人は霊的な営みに目覚め、日ごとに、魂の中に花開く隠された知恵をますます深く感じ取るようになる。
質問:人が自分の魂の中に隠された実りを見出し始めたことを実感する、具体的な兆候やサインは何ですか?
答え:人が多くの涙の恵みを受けるに値すると認められるとき、それは強制されることなく流されます。なぜなら、涙は肉体と霊性、情熱的な状態と純粋さの間の境界として心に置かれているからです。人がこの賜物を受け取るまでは、その人の働きは外的な人間においてのみ達成され、霊的な人間の神秘の効力をまだ十分に感じ取っていません。人がこの世の肉体的な性質から離れ始め、自然界に見られる境界を超越し始めると、すぐにこの涙の恵みを得ます。そして、これらの涙は隠された生命の最初の住処から始まり、人を神の愛の完全性へと高めます。そして、人がさらに進歩するにつれて、この恵みによってますます豊かになり、絶え間なく溢れ出る涙を通して、食べ物や飲み物にそれらを組み込むようになるのです。
そしてこれは、心がこの世から離れ、霊的な世界を感知した確かな兆候です。しかし、人の心がこの世に近づくにつれて、これらの涙は減っていきます。そして、心が完全にこの世にあるとき、これらの涙は完全に消え去ります。これは、人が情欲に囚われている兆候です。
:::涙の違いについて
燃えるような涙もあれば、脂肪を蓄える涙もある。ゆえに、心の奥底から、罪への悔恨から流れ出る涙は、体を乾かし、燃え上がらせる。そして、涙を流すとき、魂の中で最も支配的な要素でさえ、しばしばその涙によって害を受ける。そして、人はまず、このレベルの涙へと導かれ、その涙を通して、第一段階よりも優れた第二段階へと進む扉が開かれる。それは、人が慈悲を受ける喜びの地である。これらはすでに分別に従って流される涙であり、体を飾り、脂肪を蓄え、自然に流れ出る。そして、先に述べたように、人間の体を脂肪で満たすだけでなく、人の容姿も変化する。なぜなら、「心が喜ぶとき、顔は花を咲かせる。悲しみが乾くとき、顔は嘆く」(箴言15章13節)とあるからである。
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シリヤの聖イサアク全書/第十五説教
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村田ラジオ
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現代語訳を加筆。
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*ウィキソースによる現代語訳
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== 第15説教 ==
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{{r|光栄|こうえい}}はその{{r|賜|たまもの}}を{{r|豊|ゆたか}}に{{r|人々|ひとびと}}に{{r|注|そそ}}ぎ{{r|給|たま}}ひし{{r|者|もの}}に{{r|帰|き}}す。{{r|彼|かれ}}は{{r|有形|ゆうけい}}なる{{r|者|もの}}をして{{r|無形|むけい}}なる{{r|者|もの}}の{{r|天然|てんねん}}の{{r|秩序|ちつじょ}}により{{r|彼|かれ}}に{{r|事|つか}}ふるを{{r|得|え}}しめ、{{r|塵|ちり}}に{{r|属|ぞく}}する{{r|者|もの}}の{{r|天性|てんせい}}にかくの{{r|如|ごと}}き{{r|奥義|おうぎ}}を{{r|語|かた}}るを{{r|許|ゆる}}し{{r|給|たま}}へり。{{r|殊|こと}}に{{r|彼|かれ}}は{{r|我|われ}}らと{{r|同様|どうよう}}{{r|罪|つみ}}ある{{r|人々|ひとびと}}が{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}く{{r|語|かた}}るを{{r|聴|き}}くだに{{r|堪|た}}へざる{{r|時|とき}}はその{{r|恩寵|おんちょう}}を{{r|以|もつ}}て{{r|我|われ}}らが{{r|心|こころ}}の{{r|盲|めしい}}を{{r|開|ひら}}き、{{r|聖書|せいしょ}}の{{r|研究|けんきゅう}}と{{r|大|だい}}なる{{r|神父|しんぷ}}らの{{r|教|おしえ}}により{{r|之|これ}}を{{r|了解|りょうかい}}せしめ{{r|給|たま}}へり。けだし{{r|予|よ}}は{{r|自己|じこ}}の{{r|手|て}}を{{r|以|もつ}}てあらはせるものの{{r|千分|せんぶん}}の{{r|一|いち}}をも{{r|自己|じこ}}の{{r|苦|く}}{{r|行|ぎょう}}に{{r|因|よ}}り、{{r|実験的|じっけんてき}}に{{r|確知|かくち}}するに{{r|堪|た}}へざるなり、{{r|况|いはん}}や{{r|汝|なんぢ}}ら{{r|及|およ}}び{{r|凡|すべ}}て{{r|読者|どくしゃ}}の{{r|心|こころ}}を{{r|喚起|かんき}}し、{{r|且|かつ}}{{r|之|これ}}を{{r|照明|しょうめい}}せんが{{r|為|ため}}に{{r|述|のぶ}}る{{r|所|ところ}}の{{r|此文|このぶん}}に{{r|於|おい}}てをや、{{r|望|のぞ}}むらくは{{r|人々|ひとびと}}{{r|奮起|ふんき}}して{{r|之|これ}}を{{r|渇望|かつぼう}}し、{{r|実行|じっこう}}に{{r|着手|ちゃくしゅ}}せんことを。
{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}{{r|的|てき}}{{r|悦楽|えつらく}}と{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}{{r|的|てき}}{{r|直覚|ちょくかく}}とは{{r|各|おのおの}}{{r|同|おな}}じからず。{{r|後者|こうしゃ}}の{{r|前者|ぜんしゃ}}より{{r|一層|いっそう}}{{r|上|うえ}}なることは{{r|完全|かんぜん}}なる{{r|人|ひと}}の{{r|不|ふ}}{{r|完全|かんぜん}}なる{{r|童|どう}}{{r|子|じ}}より{{r|上|うえ}}なるが{{r|如|ごと}}し。{{r|或時|あるとき}}は{{r|詩|し}}の{{r|句|く}}の{{r|口|くち}}に{{r|甘|あま}}くして、{{r|祈祷|きとう}}に{{r|於|おい}}て{{r|一句|いっく}}を{{r|誦|しょう}}することが{{r|数|かぞ}}ふべからざる{{r|程|ほど}}{{r|続|つづ}}き、{{r|他句|たく}}に{{r|移|うつ}}るをゆるざずして、{{r|祈祷|きとう}}する{{r|者|もの}}の{{r|飽|あ}}くを{{r|知|し}}らざることあり。{{r|然|しか}}れども{{r|或時|あるとき}}は{{r|祈祷|きとう}}により{{r|或|あ}}る{{r|直覚|ちょくかく}}を{{r|生|しょう}}じて、{{r|口頭|こうとう}}の{{r|祈祷|きとう}}を{{r|断|た}}ち、{{r|直覚|ちょくかく}}によりて{{r|祈祷|きとう}}する{{r|者|もの}}の{{r|身体|しんたい}}{{r|麻痺|まひ}}して{{r|駭|がい}}{{r|異|い}}<ref>投稿者注:驚くこと。突然のできごとに対して激しく動揺すること。</ref>することあり。かくの{{r|如|ごと}}きの{{r|情況|じょうきょう}}を{{r|我|われ}}らは{{r|名|な}}づけて{{r|祈祷|きとう}}{{r|的|てき}}{{r|直覚|ちょくかく}}と{{r|曰|い}}ふ、{{r|然|しか}}れども{{r|之|これ}}を{{r|名|な}}づけて{{r|形状|けいじょう}}{{r|又|また}}は{{r|式様|しきよう}}とはいはず、{{r|或|あるい}}は{{r|又|また}}{{r|愚|ぐ}}{{r|者|しゃ}}の{{r|言|い}}ふ{{r|如|ごと}}く{{r|空想的|くうそうてき}}{{r|幻像|げんぞう}}ともいはざるなり。{{r|而|しか}}して{{r|又|また}}{{r|此|こ}}の{{r|祈祷|きとう}}{{r|的|てき}}{{r|直覚|ちょくかく}}にも{{r|程度|ていど}}とその{{r|賜|たまもの}}の{{r|等|とう}}{{r|差|さ}}とありて{{r|猶|なお}}{{r|是|こ}}れ{{r|祈祷|きとう}}なり、{{r|何|なん}}となれば{{r|智|ち}}{{r|力|りょく}}が{{r|最|も}}{{r|早|はや}}{{r|祈祷|きとう}}の{{r|有|あ}}らざる{{r|処|ところ}}に{{r|侵入|しんにゅう}}して{{r|祈祷|きとう}}より{{r|上|うえ}}なる{{r|情況|じょうきょう}}に{{r|在|あ}}るにあらざればなり。けだし{{r|祈祷|きとう}}に{{r|於|おい}}て{{r|舌|した}}と{{r|心|こころ}}の{{r|動|うご}}くは{{r|関|かん}}{{r|鍵|けん}}なり、されど{{r|是|これ}}より{{r|後|のち}}にあるものは{{r|最|も}}{{r|早|はや}}{{r|密室|みつしつ}}に{{r|入|い}}るなり。ここには{{r|何|なん}}らの{{r|口|くち}}も{{r|何|なん}}らの{{r|舌|した}}も{{r|黙|もく}}すべし、{{r|心|こころ}}{{r|即|すなはち}}{{r|此|こ}}の{{r|思念|しねん}}の{{r|指揮|しき}}{{r|者|しゃ}}も、{{r|智|ち}}{{r|力|りょく}}{{r|即|すなはち}}{{r|此|こ}}の{{r|感覚|かんかく}}の{{r|統御|とうぎょ}}{{r|者|しゃ}}も、{{r|意思|いし}}{{r|即|すなはち}}{{r|此|こ}}の{{r|疾|と}}く{{r|翔|かけ}}りて{{r|耻|はぢ}}を{{r|知|し}}らざる{{r|鳥|とり}}も{{r|黙|もく}}すべく、その{{r|悉|ことごと}}くの{{r|機|き}}{{r|謀|ぼう}}は{{r|廃|はい}}すべし。ここには{{r|尋|たづ}}ぬる{{r|者|もの}}も{{r|止|とど}}まるべし、{{r|何|なん}}となれば{{r|家|か}}{{r|宰|さい}}が{{r|来|きた}}りたるによる。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
==現代語訳==
<< 沈黙の様々な違い、心の力、そして心が様々な種類の祈りにおいて自らの動きを喚起する力がどれほどあるか、自然そのものが祈りにどのような限界を与えているか、あなたが行っていることが祈りと呼ばれていても、あなたの祈りがもはや祈りではなくなる限界はどこにあるか。 >>
人々に惜しみなく賜物を注ぎ込んでくださった神に栄光あれ!神は、肉体を持つ存在さえも非物質的な存在の列に仕えさせ、地上の存在にそのような神秘について語ることを許されました。特に、私たちのような罪深い人間、そのような言葉を聞くに値しない人間に語り聞かせてくださったのです。しかし、神は恵みによって、聖書と偉大な教父たちの教えを吟味することを通して、私たちの心の盲目さを解き、それらを理解できるようにしてくださいました。私自身の苦闘のために、この書物、特に私があなた方とこれを読むすべての人々の魂の覚醒と啓蒙のために捧げるこの書物の千分の一さえも、経験によって理解することは許されていません。もしかしたら、彼らが目覚め、それを望み、実践し始めるかもしれないという希望を抱いています。
祈りの喜びと祈りの黙想は全く別物である。後者は前者よりも、完璧な人間が不完全な子供よりも優れているのと同じくらい優れている。時には詩句が唇に心地よく響き、祈りの中で一節を唱え続けると、次の節に移ることができず、祈る者は飽きることがない。しかし、祈りからある種の黙想が生まれ、それが唇の祈りを中断させ、黙想の中で祈る者は恍惚とした生命のない体となる。私たちはそのような状態を祈りの黙想と呼び、愚か者が言うような幻影やイメージ、夢幻などとは呼ばない。そしてまた、この祈りの黙想にも、賜物には程度と差異がある。そしてそれはまだ祈りである。なぜなら、心はまだ祈りが存在しない場所、祈りよりも高次の状態へと移行していないからである。舌と心が祈りへと向かうことが鍵であり、それに続くものが隠された部屋への入り口となるのである。さあ、すべての口とすべての舌を静めよ。思考の守護者である心も静めよ。感覚の舵取り役である精神も静めよ。そして、素早く飛び回り、恥知らずな鳥である思考も静めよ。彼らの策略はすべて止むであろう。安息を求める者たちよ。家の主人が来られたのだから。
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シリヤの聖イサアク全書/第三説教
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2026-06-11T09:30:28Z
村田ラジオ
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現代語訳を加筆。
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*ウィキソースによる現代語訳
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== 第3説教 ==
<< {{r|霊魂|れいこん}}は{{r|世|よ}}と{{r|世慮|せいりょ}}に{{r|遠|とお}}ざかりて{{r|沈黙|ちんもく}}するならば、{{r|神|かみ}}の{{r|睿智|えいち}}と{{r|神|かみ}}の{{r|造物|ぞうぶつ}}を{{r|易|たやす}}く{{r|認識|にんしき}}するに{{r|至|いた}}らん、けだし{{r|其時|そのとき}}は{{r|己|おのれ}}の{{r|性|せい}}と{{r|己|おのれ}}の{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}に{{r|隠|かく}}るゝ{{r|宝|たから}}とを{{r|認識|にんしき}}するを{{r|得|う}}るなり。 >>
{{r|浮|うき}}{{r|世|よ}}の{{r|慮|おもんばか}}りの{{r|外|ほか}}より{{r|霊中|れいちゅう}}に{{r|入|い}}るあらずして。{{r|霊魂|れいこん}}が{{r|天性|てんせい}}{{r|自然|しぜん}}の{{r|状態|じょうたい}}に{{r|居|お}}るならば、その{{r|辛労|しんろう}}は{{r|久|ひさ}}しからずして、{{r|神|かみ}}の{{r|睿智|えいち}}を{{r|認識|にんしき}}するに{{r|達|たっ}}せん、{{r|何|なん}}となれば{{r|霊魂|れいこん}}が{{r|世|よ}}に{{r|遠|とお}}ざかるとその{{r|沈黙|ちんもく}}とは、{{r|彼|かれ}}をして{{r|自然|しぜん}}に{{r|神|かみ}}の{{r|造物|ぞうぶつ}}を{{r|認識|にんしき}}せしむべく、{{r|之|これ}}により{{r|彼|かれ}}は{{r|神|かみ}}に{{r|挙|あ}}げられ、{{r|驚嘆|きょうたん}}して{{r|神|かみ}}と{{r|共|とも}}に{{r|止|とど}}まらん。けだし{{r|心霊|しんれい}}の{{r|泉|いづみ}}に{{r|外|ほか}}より{{r|水|みづ}}の{{r|入|い}}り{{r|来|きた}}るあらざるときは{{r|彼|かれ}}に{{r|溢|あふ}}るゝ{{r|天然|てんねん}}の{{r|水|みづ}}は、{{r|神|かみ}}の{{r|奇蹟|きせき}}を{{r|考|かんが}}ふる{{r|思想|しそう}}を{{r|不断|ふだん}}{{r|霊中|れいちゅう}}に{{r|生|しょう}}ぜしめん。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|霊魂|れいこん}}が{{r|此|これ}}らの{{r|思想|しそう}}を{{r|有|ゆう}}せざるものとして{{r|現|あら}}はるゝならば、{{r|是|こ}}れ{{r|或|あるい}}は{{r|他|た}}の{{r|或|あ}}る{{r|記憶|きおく}}を{{r|以|もっ}}て{{r|或|あ}}る{{r|源因|げんいん}}を{{r|與|あた}}へられたると、{{r|或|あるい}}は{{r|五|ご}}{{r|感|かん}}が{{r|外物|がいぶつ}}と{{r|逢着|ほうちゃく}}したるにより、{{r|霊魂|れいこん}}に{{r|乱|みだ}}れを{{r|引越|ひきおこ}}したるとを{{r|示|しめ}}すなり。{{r|然|しか}}れども{{r|五|ご}}{{r|感|かん}}が{{r|沈黙|ちんもく}}を{{r|以|もっ}}て{{r|鎖|とざ}}され、{{r|外部|がいぶ}}に{{r|突出|とっしゅつ}}するを{{r|許|ゆる}}されずして、{{r|沈黙|ちんもく}}の{{r|助|たす}}けにより{{r|記憶|きおく}}の{{r|衰|おとろ}}ふる{{r|時|とき}}は、{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|天然|てんねん}}{{r|自然|しぜん}}の{{r|意志|いし}}は{{r|如何|いか}}なるか、{{r|霊性|れいせい}}そのものは{{r|如何|いか}}なるか、{{r|如何|いか}}なる{{r|宝|たから}}は{{r|之|これ}}に{{r|隠|かく}}るゝかを{{r|発見|はっけん}}せん。それ{{r|此|この}}{{r|宝|たから}}は{{r|無|む}}{{r|形体|けいたい}}なるものを{{r|識|し}}るの{{r|認識|にんしき}}にして、{{r|之|これ}}に{{r|先|さき}}だつの{{r|意志|いし}}あるなく、{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}に{{r|労|ろう}}することもあらずして、{{r|自|し}}{{r|然|ぜん}}に{{r|心|しん}}{{r|中|ちゅう}}に{{r|生|しょう}}ずるものなり。{{r|然|しか}}のみならず{{r|人|ひと}}はかくの{{r|如|ごと}}き{{r|思|し}}{{r|念|ねん}}の{{r|人|ひと}}の{{r|性中|せいちゅう}}に{{r|生|しょう}}ずるを{{r|知|し}}らざることさへ{{r|之|これ}}あり。けだし{{r|誰|たれ}}か{{r|人|ひと}}の{{r|為|ため}}に{{r|師|し}}となるか、{{r|或|あるい}}は{{r|智|ち}}{{r|力|りょく}}により{{r|想像|そうぞう}}しつつ{{r|他|た}}の{{r|為|ため}}に{{r|説明|せつめい}}し{{r|得|う}}べからざるものを{{r|人|ひと}}は{{r|如何|いか}}にして{{r|理|り}}{{r|会|かい}}するか、{{r|或|あるい}}は{{r|人|ひと}}が{{r|少|すこ}}しも{{r|他|た}}より{{r|学|まな}}ばざる{{r|所|ところ}}のものに{{r|於|おい}}て{{r|誰|たれ}}かその{{r|嚮|きょう}}{{r|導者|どうしゃ}}となるか。
{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|天性|てんせい}}はかくの{{r|如|ごと}}し。ゆえに{{r|慾|よく}}は{{r|或|あ}}る{{r|附加|ふか}}{{r|物|ぶつ}}にして{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|自|おのづ}}から{{r|之|これ}}が{{r|本源|ほんげん}}たるなり。けだし{{r|天性|てんせい}}によれば{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}なり。されば{{r|聖書|せいしょ}}に{{r|於|おい}}て{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|慾|よく}}と{{r|肉体|にくたい}}の{{r|慾|よく}}の{{r|事|こと}}を{{r|見|み}}るあらば、{{r|是|こ}}れ{{r|慾|よく}}の{{r|原因|げんいん}}に{{r|関|かん}}して{{r|言|い}}ふものなることは{{r|汝|なんぢ}}の{{r|為|ため}}に{{r|明白|めいはく}}なるべし。しかれども{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|天性|てんせい}}に{{r|依|よ}}れば{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}なり。{{r|外|がい}}{{r|部|ぶ}}{{r|的|てき}}{{r|哲学|てつがく}}を{{r|固守|こしゅ}}する{{r|者|もの}}{{r|等|ら}}は{{r|此説|このせつ}}を{{r|採|と}}らず、{{r|彼|かれ}}と{{r|同|おな}}じくその{{r|門|もん}}{{r|徒|と}}{{r|等|ら}}も{{r|亦|また}}{{r|然|しか}}り。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}して{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}は{{r|信|しん}}ず{{r|神|かみ}}は{{r|像|ぞう}}によりて{{r|造|つく}}る{{r|所|ところ}}のものを{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}に{{r|造|つく}}り{{r|給|たま}}ひしを。{{r|像|ぞう}}によりて{{r|造|つく}}る{{r|所|ところ}}のものとは{{r|肉体|にくたい}}に{{r|関|かん}}していふにあらずして、{{r|見|み}}えざる{{r|霊魂|れいこん}}につきて{{r|言|い}}ふなり。けだし{{r|凡|およそ}}の{{r|像|ぞう}}は{{r|眼前|がんぜん}}にある{{r|所|ところ}}の{{r|形状|けいじょう}}より{{r|描|えがき}}{{r|取|と}}らるべし。{{r|先|ま}}づ{{r|眼前|がんぜん}}にあらはれたる{{r|同形|どうけい}}なくんば、いかなる{{r|像|ぞう}}をあらはすを{{r|得|う}}べきか。ゆえに{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}が{{r|前文|ぜんぶん}}に{{r|述|の}}べし{{r|如|ごと}}く、{{r|慾|よく}}は{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|天性|てんせい}}に{{r|存|そん}}するに{{r|非|あら}}ずるを{{r|確信|かくしん}}すべし。もし{{r|誰|たれ}}か{{r|之|これ}}に{{r|抗言|こうげん}}するならば、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}は{{r|彼|かれ}}に{{r|疑|ぎ}}{{r|問|もん}}を{{r|提出|ていしゅつ}}せん、{{r|彼|かれ}}は{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}に{{r|答|こた}}ふべし。
問 {{r|霊魂|れいこん}}の{{r|性|せい}}は{{r|如何|いか}}なるか。{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}にして{{r|光|ひかり}}に{{r|満|み}}たさるものなるか、{{r|或|あるい}}は{{r|有慾|ゆうよく}}にして{{r|暗|くら}}まされたるものなるか。
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==現代語訳==
<< 魂が静寂であり、世俗や世俗的な心配事から離れていれば、神の知恵と神の被造物についての知識に容易に到達できる。なぜなら、そうすれば魂は自身の本質と、自身の中に隠された宝を知ることができるからである。 >>
世俗的な心配事が外から魂に入り込まず、魂が本来の自然な状態にとどまっているとき、その苦労は短く、神の知恵の知識を得る。なぜなら、魂が世俗から離れ、静寂を保つことで、自然と神の被造物についての知識へと導かれ、そこから神へと高められ、驚きをもって畏敬の念を抱き、神と共に留まるからである。外からの水が魂の源泉に入り込むと、魂の中に流れる自然の水は、絶えず神の驚異についての思いを魂に呼び起こす。しかし、魂がそのような思いを欠いていることに気づいたとき、それは何らかの異質な記憶がそうさせたか、あるいは感覚が対象物に遭遇して魂に反抗したかのどちらかである。感覚が静寂によって閉じ込められているとき、感覚は奔放に飛び出すことを許されず、静寂の助けによって記憶は古びていく。そうすれば、魂の自然な思いとは何か、魂の本質とは何か、そして魂の中にどのような宝が隠されているのかが分かるだろう。これらの宝は、魂の中に自然に、事前の思考や努力なしに生じる、非物質的なものについての知識から成る。人は、そのような考えが人間の本性の中に生じることさえ知らない。いったい誰が彼の教師だったのだろうか?あるいは、たとえ理解したとしても、他人に明らかにできないものを、彼はどのようにして理解したのだろうか?あるいは、彼が誰からも学んだことのないものを、誰が彼に教えたのだろうか?
これが魂の本質です。したがって、情欲は付随的なものであり、魂そのものが情欲の原因です。魂は本来、情欲を持たないからです。聖書の中で魂と肉体の情欲について聞くとき、これは情欲の原因について述べられていることを理解してください。魂は本来、情欲を持たないからです。外的な哲学に固執する人々も、その追随者たちも、このことを受け入れません。それどころか、私たちは、神はご自身の姿に似せて創造された者たちを情欲を持たない者として創造されたと信じています。ここで「神の姿に似せて創造された」とは、肉体についてではなく、目に見えない魂について言っているのです。なぜなら、すべての像は像そのものから取られているからです。まずその像を見たことのない人に像を見せることは不可能です。ですから、情欲は先に述べたように、魂の本質の一部ではないことを確信しなければなりません。もし誰かがこの言葉に反論するなら、私たちはその人に質問し、答えてもらいましょう。
質問:魂の本質とは何でしょうか?それは無感情で光に満ちたものなのか、それとも情熱的で暗いものなのか?
答え:もし魂の本質が、祝福された光を受けたことによってかつては明るく純粋であり、元の状態に戻った時にも同様にそうであるとすれば、教会の弟子たちが主張するように、魂が情欲に駆られた途端にその本質から外れることは確実です。したがって、情欲は後から魂に入り込んだものであり、情欲が魂の本質の一部であると言うのは、魂が情欲に駆られるとしても不当です。したがって、魂は自分自身のものではなく、外部の何かに駆り立てられていることは明らかです。そして、情欲が肉体の関与なしに魂を駆り立てるから霊的なものと呼ばれるのであれば、飢え、渇き、睡眠もまた霊的なものとなります。なぜなら、これらの症状において、また手足の切断、発熱、病気などにおいて、魂は肉体と共に苦しみ、ため息をつくからです。魂は肉体との交わりを通して肉体に共感し、肉体もまた魂に共感するのです。魂は肉体の喜びを喜び、その悲しみさえも自らに受け入れる。そして、我らの神に永遠に栄光と支配がありますように。アーメン。
==関連項目==
*[[ニネベのイサアク神秘論文集/第3論文]]
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シリヤの聖イサアク全書/第四説教
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2026-06-11T09:48:46Z
村田ラジオ
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現代語訳を加筆。
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*ウィキソースによる現代語訳
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== 第4説教 ==
<< {{r|霊魂|れいこん}}の{{r|事|こと}}、{{r|慾|よく}}の{{r|事|こと}}、{{r|及|およ}}び{{r|智|ち}}の{{r|浄潔|じょうけつ}}の{{r|事|こと}}に{{r|就|つい}}ての{{r|問答|もんどう}}。 >>
問 {{r|霊魂|れいこん}}の{{r|天然|てんねん}}の{{r|状態|じょうたい}}はいかなるか、{{r|天然|てんねん}}と{{r|反対|はんたい}}の{{r|状態|じょうたい}}はいかなるか、{{r|天然|てんねん}}{{r|以上|いじょう}}の{{r|状態|じょうたい}}はいかなるか。
答 {{r|霊魂|れいこん}}の{{r|天然|てんねん}}の{{r|状態|じょうたい}}とは{{r|感覚|かんかく}}に{{r|属|ぞく}}すると{{r|思|し}}{{r|想|そう}}に{{r|属|ぞく}}する{{r|神|かみ}}の{{r|造物|ぞうぶつ}}を{{r|認識|にんしき}}するなり。{{r|天然|てんねん}}{{r|以|い}}{{r|上|じょう}}の{{r|状態|じょうたい}}とは{{r|常|つね}}に{{r|萬物|ばんぶつ}}に{{r|先|さき}}だちて{{r|存在|そんざい}}する{{r|神性|しんせい}}を{{r|直覚|ちょくかく}}するが{{r|為|ため}}に{{r|喚|かん}}{{r|起|き}}せらるゝなり。{{r|然|しか}}して{{r|天然|てんねん}}と{{r|反対|はんたい}}なる{{r|状態|じょうたい}}とは{{r|慾|よく}}に{{r|乱|みだ}}さるゝものに{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|感動|かんどう}}するなり。{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|大|だい}}<u>ワシリイ</u>の{{r|言|い}}へる{{r|如|ごと}}し、{{r|曰|いは}}く{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|天性|てんせい}}に{{r|順応|じゅんのう}}してあらはるゝときは{{r|上方|じょうほう}}にあり、しかれどもその{{r|天性|てんせい}}の{{r|外|ほか}}にあらはるゝときは{{r|下|か}}{{r|方|ほう}}に{{r|地|ち}}にあらはるゝなり、{{r|上方|じょうほう}}にあるときは、{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}を{{r|以|もつ}}てあらはるれども、{{r|天性|てんせい}}がその{{r|固|こ}}{{r|有|ゆう}}の{{r|品|ひん}}{{r|位|い}}より{{r|下|くだ}}るときは、{{r|彼|かれ}}に{{r|慾|よく}}はあらはるゝなり。ゆえに{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|慾|よく}}は{{r|天性|てんせい}}のまま{{r|霊魂|れいこん}}に{{r|属|ぞく}}するものにあらざることは{{r|終|つい}}に{{r|明白|めいはく}}なり。もし{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|非|ひ}}{{r|難|なん}}せらるゝべき{{r|肉体|にくたい}}{{r|上|じょう}}の{{r|慾|よく}}に{{r|感動|かんどう}}すること{{r|飢|き}}{{r|渇|かつ}}に{{r|於|おけ}}ると{{r|同|おなじ}}くんば、{{r|飢|き}}{{r|渇|かつ}}に{{r|就|つい}}ては{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}に{{r|法|ほう}}を{{r|置|お}}かれざるにより、{{r|他|た}}の{{r|批|ひ}}{{r|責|せき}}に{{r|値|あたい}}する{{r|者|もの}}と{{r|同様|どうよう}}{{r|批|ひ}}{{r|責|せき}}をうくべきには{{r|非|あらざ}}るべし。{{r|時|とき}}として{{r|或者|あるもの}}には{{r|一見|いっけん}}したる{{r|所|ところ}}、{{r|或|あ}}る{{r|不|ふ}}{{r|適|てき}}{{r|宜|ぎ}}なることを{{r|遂|と}}ぐるを{{r|神|かみ}}より{{r|許|ゆる}}され、{{r|非|ひ}}{{r|難|なん}}と{{r|譴責|けんせき}}とに{{r|代|か}}えて{{r|善|ぜん}}なる{{r|報酬|ほうしゅう}}を{{r|與|あた}}へらるゝことあり、{{r|淫|いん}}{{r|婦|ぷ}}を{{r|妻|つま}}に{{r|娶|めと}}りたる{{r|預|よ}}{{r|言者|げんしゃ}}<u>オシヤ</u>の{{r|為|ため}}にもかくの{{r|如|ごと}}く、{{r|神|かみ}}に{{r|属|ぞく}}する{{r|熱心|ねっしん}}により、{{r|兇|きょう}}{{r|行|こう}}を{{r|遂|と}}げたる{{r|預|よ}}{{r|言者|げんしゃ}}<u>イリヤ</u>の{{r|為|ため}}にもかくの{{r|如|ごと}}く、<u>モイセイ</u>の{{r|命|めい}}によりその{{r|父母|ふぼ}}を{{r|刃殺|にんさつ}}したる{{r|者|もの}}の{{r|為|ため}}にもかくの{{r|如|ごと}}くなりき。その{{r|外|ほか}}{{r|霊魂|れいこん}}には{{r|肉体|にくたい}}の{{r|性|せい}}を{{r|俟|ま}}たざるも、{{r|天然|てんねん}}{{r|自|し}}{{r|然|ぜん}}に{{r|癖愛|へきあい}}と{{r|激|げき}}し{{r|易|やす}}き{{r|性|せい}}のあることは{{r|言|い}}ひ{{r|得|え}}らるべくして、{{r|是|こ}}れぞ{{r|即|すなはち}}{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|慾|よく}}なる。
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{{r|凡|すべ}}て{{r|利|り}}{{r|益|えき}}に{{r|資|たす}}くる{{r|所|ところ}}の{{r|慾|よく}}は{{r|神|かみ}}より{{r|賜|たま}}はりしなり。されば{{r|肉体|にくたい}}{{r|上|じょう}}の{{r|慾|よく}}は{{r|肉体|にくたい}}を{{r|益|えき}}し{{r|且|かつ}}{{r|成長|せいちょう}}せしむるが{{r|為|ため}}に{{r|付与|ふよ}}せられしものにして、{{r|心霊|しんれい}}{{r|上|じょう}}の{{r|慾|よく}}も{{r|亦|また}}{{r|然|しか}}るなり。さりながら{{r|肉体|にくたい}}がその{{r|固|こ}}{{r|有|ゆう}}するものを{{r|失|うしな}}ひて、{{r|強|しい}}てその{{r|安寧|あんねい}}の{{r|外|ほか}}に{{r|立|た}}ち、{{r|霊魂|れいこん}}に{{r|従|したが}}ふを{{r|余儀|よぎ}}なくせらるゝときは、{{r|肉体|にくたい}}は{{r|衰弱|すいじゃく}}して{{r|害|がい}}を{{r|被|こう}}むらん。{{r|又|また}}{{r|霊魂|れいこん}}も{{r|己|おの}}れに{{r|属|ぞく}}するものを{{r|棄|す}}てて{{r|肉体|にくたい}}に{{r|従|したが}}ふときは、{{r|彼|かれ}}も{{r|害|がい}}を{{r|受|う}}けん、{{r|使徒|しと}}の{{r|言|い}}ふ{{r|所|ところ}}によるに{{r|曰|いは}}く『{{r|肉|にく}}の{{r|欲|ほっ}}する{{r|所|ところ}}は{{r|神|しん}}に{{r|逆|さか}}ひ、{{r|神|しん}}の{{r|欲|ほっ}}する{{r|所|ところ}}は{{r|肉|にく}}に{{r|逆|さか}}ふ、{{r|斯|こ}}の{{r|二|ふたつ}}の{{r|者|もの}}{{r|相|あい}}{{r|敵|てき}}す』([[ガラテヤ人への書(文語訳)#5:17|ガラティヤ五の十七]])ゆえに{{r|誰|たれ}}も{{r|神|かみ}}を{{r|非|ひ}}{{r|難|なん}}して{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}の{{r|性|せい}}に{{r|慾|よく}}と{{r|罪|つみ}}とを{{r|付与|ふよ}}したる{{r|如|ごと}}く{{r|言|い}}ふなかれ、{{r|神|かみ}}は{{r|各|かく}}{{r|自|じ}}の{{r|性|せい}}にその{{r|成長|せいちょう}}に{{r|資|たす}}くべきものを{{r|付与|ふよ}}し{{r|給|たま}}へり、さりながら{{r|一|いつ}}の{{r|性|せい}}が{{r|他|た}}と{{r|合同|ごうどう}}するときは{{r|自己|じこ}}と{{r|親|した}}しきものに{{r|合同|ごうどう}}するにあらずして、{{r|反対|はんたい}}なるものに{{r|合同|ごうどう}}するなり。{{r|然|しか}}れどももし{{r|慾|よく}}は{{r|霊魂|れいこん}}に{{r|天然|てんねん}}に{{r|存|そん}}するならば、{{r|何故|なにゆえ}}{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|之|これ}}より{{r|害|がい}}をうくるか。{{r|本来|ほんらい}}{{r|性|せい}}に{{r|属|ぞく}}するものは{{r|之|これ}}を{{r|害|がい}}せざるなり。
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答 {{r|性|せい}}の{{r|外|ほか}}にあるものは{{r|性|せい}}を{{r|害|がい}}する{{r|所以|ゆえん}}を{{r|認|みと}}めざるか。けだし{{r|性|せい}}は{{r|各|おのおの}}{{r|己|おの}}れに{{r|属|ぞく}}するものに{{r|近|ちか}}づきて、{{r|楽|たのし}}みに{{r|満|み}}たさるゝなり。さりながら{{r|汝|なんぢ}}は{{r|此|これ}}{{r|等|ら}}{{r|各|かく}}{{r|自|じ}}の{{r|性|せい}}に{{r|属|ぞく}}する{{r|固|こ}}{{r|有|ゆう}}なるもののあるを{{r|知|し}}らんを{{r|願|ねが}}ふか。{{r|認|みと}}めよ、{{r|性|せい}}に{{r|助|たす}}くる{{r|所|ところ}}のものはその{{r|性|せい}}に{{r|属|ぞく}}するものにして、{{r|之|これ}}を{{r|害|がい}}するものは{{r|疎|そ}}{{r|遠|えん}}なるもの、{{r|外|ほか}}より{{r|輸|ゆ}}{{r|入|にゅう}}せしものなることを。ゆえに{{r|肉体|にくたい}}の{{r|慾|よく}}と{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|慾|よく}}とが{{r|互|たがい}}に{{r|反対|はんたい}}することは{{r|確|かく}}{{r|知|ち}}せられたるにより、{{r|凡|すべ}}て{{r|幾許|いくばく}}なりとも{{r|肉体|にくたい}}に{{r|助|たす}}けを{{r|為|な}}して{{r|之|これ}}に{{r|休安|きゅうあん}}を{{r|與|あた}}ふるものは{{r|既|すで}}に{{r|肉体|にくたい}}に{{r|固|こ}}{{r|有|ゆう}}なるものなり。しかれども{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|何物|なにもの}}と{{r|親|した}}しくなるともその{{r|物|もの}}は{{r|霊魂|れいこん}}に{{r|天然|てんねん}}なりとは{{r|言|い}}ひ{{r|得|え}}ざるなり。けだし{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|固|こ}}{{r|有|ゆう}}を{{r|成|な}}すものは{{r|肉体|にくたい}}の{{r|為|ため}}には{{r|死|し}}なればなり。さりながら{{r|前文|ぜんぶん}}に{{r|言|い}}ふ{{r|所|ところ}}のものは{{r|非|ひ}}{{r|固|こ}}{{r|有|ゆう}}{{r|的|てき}}に{{r|霊魂|れいこん}}に{{r|属|ぞく}}するも、{{r|霊魂|れいこん}}が{{r|自|みづ}}から{{r|肉体|にくたい}}を{{r|被|こう}}むる{{r|間|あいだ}}は、{{r|肉体|にくたい}}の{{r|弱|よわ}}きにより{{r|之|これ}}を{{r|脱|だっ}}して{{r|自由|じゆう}}にならんことは{{r|能|あた}}はざるなり、{{r|何|なん}}となれば{{r|測|はか}}る{{r|可|べか}}らざる{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}を{{r|以|もつ}}て{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|活動|かつどう}}と{{r|肉体|にくたい}}の{{r|活動|かつどう}}との{{r|間|あいだ}}に{{r|定|さだ}}められたる{{r|一致|いっち}}{{r|合同|ごうどう}}の{{r|故|ゆえ}}に{{r|依|よ}}り{{r|肉体|にくたい}}の{{r|為|ため}}に{{r|憂|うれ}}ふるものを{{r|天然|てんねん}}{{r|自然|しぜん}}に{{r|彼|かれ}}と{{r|共|とも}}とすればなり。{{r|然|しか}}れども{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|互|たがい}}にかくの{{r|如|ごと}}く{{r|共|とも}}に{{r|與|とも}}にすといへども、{{r|甲|こう}}の{{r|活動|かつどう}}は{{r|乙|おつ}}の{{r|活動|かつどう}}と{{r|異|こと}}なり、{{r|彼|かれ}}の{{r|望|のぞ}}みは{{r|此|これ}}の{{r|望|のぞ}}みと{{r|異|こと}}にして、{{r|之|これ}}と{{r|同|おなじ}}く{{r|体|たい}}は{{r|神|しん}}と{{r|異|こと}}なるなり。さりながら{{r|性|せい}}は{{r|変|へん}}せざるなり、{{r|却|かえっ}}て{{r|各|かく}}{{r|自|じ}}の{{r|性|せい}}は{{r|或|あるい}}は{{r|罪|つみ}}に{{r|或|あるい}}は{{r|道徳|どうとく}}に{{r|極|きわ}}めて{{r|傾|かたぶ}}くといへども、{{r|然|しか}}れどもその{{r|固|こ}}{{r|有|ゆう}}の{{r|望|のぞ}}みにより{{r|活動|かつどう}}するなり。されば{{r|霊魂|れいこん}}が{{r|肉体|にくたい}}のことの{{r|慮|おもんばか}}りより{{r|上|うえ}}に{{r|高|たか}}まるときは、その{{r|活動|かつどう}}により、{{r|全|まった}}く{{r|霊神|れいしん}}{{r|上|じょう}}に{{r|開|かい}}{{r|花|か}}して、{{r|天|てん}}の{{r|中央|ちゅうおう}}に{{r|測|はか}}るべからざる{{r|所|ところ}}に{{r|帯|おび}}{{r|去|さ}}られん。さりながら{{r|此|こ}}の{{r|状態|じょうたい}}に{{r|於|おい}}ても{{r|肉体|にくたい}}がその{{r|自己|じこ}}に{{r|属|ぞく}}する{{r|固|こ}}{{r|有|ゆう}}なるものを{{r|忘|わす}}れて{{r|想|そう}}{{r|起|き}}せざらんことをば{{r|許|ゆる}}さざるべくして、{{r|之|これ}}と{{r|同|おな}}じく{{r|肉体|にくたい}}が{{r|罪|つみ}}に{{r|於|おい}}てあらはるゝならば{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|思|おもい}}は{{r|心中|しんちゅう}}に{{r|流|なが}}れ{{r|出|いで}}て{{r|已|や}}まざるなり。
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:::{{r|思|し}}{{r|念|ねん}}の{{r|活動|かつどう}}は{{r|四|よつ}}ある{{r|事|こと}}。
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問 {{r|智|ち}}の{{r|浄潔|じょうけつ}}と{{r|心|こころ}}の{{r|浄潔|じょうけつ}}とは{{r|何|なに}}を{{r|以|もつ}}て{{r|異|こと}}なるか。
答 {{r|智|ち}}の{{r|浄潔|じょうけつ}}は{{r|別|べつ}}にして{{r|心|こころ}}の{{r|浄潔|じょうけつ}}は{{r|又|また}}{{r|別|べつ}}なり。けだし{{r|智|ち}}は{{r|心霊|しんれい}}{{r|上|じょう}}の{{r|感覚|かんかく}}の{{r|一|いつ}}なれども{{r|心|こころ}}は{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}の{{r|感覚|かんかく}}を{{r|包括|ほうかつ}}して{{r|之|これ}}をその{{r|権|けん}}{{r|中|ちゅう}}に{{r|持|ぢ}}すればなり。{{r|心|こころ}}は{{r|根|ね}}なり。もし{{r|根|ね}}が{{r|聖|せい}}ならば{{r|枝|えだ}}も{{r|聖|せい}}ならん、{{r|即|すなはち}}{{r|心|こころ}}が{{r|導|みちび}}かれて{{r|浄潔|じょうけつ}}に{{r|達|たっ}}するならば、{{r|悉|ことごと}}くの{{r|感覚|かんかく}}も{{r|清|きよ}}めらるゝこと{{r|明|あきらか}}なり。もし{{r|智|ち}}は{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|書|しょ}}を{{r|読|よ}}むに{{r|益々|ますます}}{{r|勉励|べんれい}}し、{{r|或|あるい}}は{{r|禁|きん}}{{r|食|しょく}}と{{r|儆醒|けいせい}}と{{r|静黙|せいもく}}とに{{r|多|た}}{{r|少|しょう}}{{r|苦|くるし}}んで、{{r|汚穢|おわい}}の{{r|品行|ひんこう}}に{{r|遠|とお}}ざかるならば、その{{r|従前|じゅうぜん}}の{{r|生涯|しょうがい}}を{{r|忘|わす}}れて{{r|浄潔|じょうけつ}}に{{r|達|たっ}}せん。{{r|然|しか}}れども{{r|恒久|こうきゅう}}なる{{r|浄潔|じょうけつ}}は{{r|有|ゆう}}せざるべし、{{r|何|なん}}となれば{{r|彼|かれ}}は{{r|速|すみやか}}に{{r|浄|きよ}}めらるれど{{r|亦|また}}{{r|速|すみやか}}に{{r|汚|けが}}さるればなり。ただ{{r|心|こころ}}は{{r|多|おお}}くの{{r|患難|かんなん}}と{{r|剥奪|はくだつ}}と、{{r|凡|すべ}}て{{r|世|よ}}に{{r|居|お}}る{{r|者|もの}}{{r|等|ら}}と{{r|世|せ}}{{r|間|けん}}{{r|的|てき}}{{r|交際|こうさい}}を{{r|為|な}}すより{{r|遠|とお}}ざかると、{{r|此|こ}}のすべての{{r|為|ため}}に{{r|己|おのれ}}を{{r|殺|ころ}}すとにより、{{r|浄潔|じょうけつ}}に{{r|達|たっ}}するなり、{{r|然|しか}}してもし{{r|彼|かれ}}は{{r|浄潔|じょうけつ}}に{{r|達|たっ}}するときは、その{{r|浄潔|じょうけつ}}は{{r|何|なん}}{{r|等|ら}}の{{r|小|しょう}}なるものの{{r|為|ため}}にも{{r|汚|けが}}されざるべく、{{r|大|だい}}なる{{r|顕然|けんぜん}}たる{{r|戦|たたかい}}をも{{r|恐|おそ}}れざるべし、{{r|即|すなはち}}{{r|寒心|かんしん}}すべき{{r|戦|たたかい}}をも{{r|恐|おそ}}れざるべし、{{r|何|なん}}となれば、{{r|薄弱|はくじゃく}}なる{{r|人々|ひとびと}}に{{r|於|おい}}て{{r|消|しょう}}{{r|化|か}}する{{r|能|あた}}はざる{{r|如何|いか}}なる{{r|食物|しょくもつ}}をも{{r|速|すみやか}}に{{r|消|しょう}}{{r|化|か}}し{{r|得|う}}べき{{r|強健|きょうけん}}なる{{r|胃|い}}を{{r|己|おの}}れに{{r|有|ゆう}}すればなり。けだし{{r|医|い}}は{{r|言|い}}へり、{{r|凡|すべ}}て{{r|肉食|にくしょく}}は{{r|消|しょう}}{{r|化|か}}し{{r|易|やす}}からず、{{r|然|しか}}れども{{r|強健|きょうけん}}なる{{r|胃|い}}が{{r|之|これ}}を{{r|受|う}}くるときは{{r|健康|けんこう}}なる{{r|体|たい}}に{{r|多|おお}}くの{{r|力|ちから}}を{{r|與|あた}}へんと。かくの{{r|如|ごと}}く{{r|凡|すべ}}て{{r|暫|ざん}}{{r|時|じ}}の{{r|間|あいだ}}に{{r|僅少|きんしょう}}なる{{r|労|ろう}}{{r|苦|く}}を{{r|以|もつ}}て{{r|速|すみやか}}に{{r|得|え}}たる{{r|浄潔|じょうけつ}}は{{r|速|すみやか}}に{{r|失|うしな}}はれ{{r|且|かつ}}{{r|汚|けが}}されん。{{r|然|しか}}れども{{r|多|おお}}くの{{r|患難|かんなん}}によりて{{r|達|たっ}}し、{{r|長久|ちょうきゅう}}の{{r|間|あいだ}}を{{r|以|もつ}}て{{r|得|え}}たる{{r|浄潔|じょうけつ}}は{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|或|あ}}る{{r|部|ぶ}}{{r|分|ぶん}}に{{r|対|たい}}する{{r|打|だ}}{{r|撃|げき}}の{{r|度|ど}}の{{r|優勢|ゆうせい}}にあらざるものをば{{r|恐|おそ}}れざるべし、{{r|何|なん}}となれば{{r|神|かみ}}は{{r|霊魂|れいこん}}を{{r|堅|かた}}むればなり。{{r|彼|かれ}}に{{r|光栄|こうえい}}は{{r|世々|よよ}}に{{r|帰|き}}す。「アミン」。
==現代語訳==
<< 魂について、情欲について、心の清らかさについての質問と回答。 >>
質問:魂の自然な状態とは何ですか?不自然な状態とは何ですか?超自然的な状態とは何ですか?
答え:魂の自然な状態とは、感覚的および知的な両面から、神の被造物についての知識を得ることである。超自然的な状態とは、至高の神性を深く考えることへの覚醒である。不自然な状態とは、魂が情欲の混乱の中で動いている状態であり、聖にして偉大なバシレイオスは次のように述べています。「魂がその本性に合致しているときは高みにとどまりますが、本性から外れているときは地上に現れます。高みにいるときは情欲がなく、本性が本来の秩序から外れると情欲がその中に現れます。このように、魂の情欲は本質的に魂のものではないことが最終的に明らかになります。もし魂が、非難されるべき肉体の情欲において、飢えや渇きと同じ動揺に陥るならば、後者の情欲に関しては魂に律法が定められていないため、非難に値する他の情欲ほど非難に値しません。神は時として、一見不適切なことをする人に許し、叱責や非難の代わりに、良い報いを与えます。これは、娼婦と結婚した預言者ホセアに起こったことです。神の熱意から殺人を犯したエリヤ、そしてモーセの命令で剣で両親を殺した者たち。しかし、肉体的な性質とは関係なく、魂には自然に情欲と苛立ちが存在し、これらが魂の情欲の本質であると言われている。
質問:魂の欲望が神によって燃え上がる時と、地上の物質的なものに向けられる時とでは、どちらが自然の摂理にかなっているのでしょうか?また、なぜ魂の本質は、いら立ちという形で嫉妬を露わにするのでしょうか?いら立ちはどのような時に自然なものとみなされるのでしょうか?魂が肉欲、嫉妬、虚栄心、あるいはこれらに類するものによっていら立つ時でしょうか?それとも、これらとは正反対のものによっていら立つ時でしょうか?答える権利のある方は、ぜひご回答ください。私たちはそれに従います。
答え:聖書には多くのことが書かれており、厳密には正しくない用語がしばしば用いられています。ある事柄は肉体に固有のものですが、魂について語られています。また逆に、魂に固有のものが肉体について語られています。聖書はこれらを区別していませんが、賢明な人はそれを理解しています。このように、主の神性から、人間の本性には当てはまらない事柄が、聖書の中で主の聖なる肉体について語られています。また逆に、主の人間性に固有の、軽蔑的な事柄が、主の神性について語られています。そして、多くの人々は神の言葉の意図を理解せず、このことに陥り、取り返しのつかない罪を犯してきました。このように、聖書は魂に固有のものと肉体に固有のものを厳密に区別していません。したがって、徳が本来魂の健康であるならば、魂の病は情欲、つまり偶発的なものが魂の本性に入り込み、本来の健康から遠ざけるものということになります。そして、このことから、健康は偶発的な病に先立つことが明らかです。もしこれが本当にそうであるならば(それは妥当なことだが)、それは徳が魂の自然な状態であり、魂の本質とは無関係な偶発的なものであることを意味する。
質問:肉体的な情念は、自然に肉体に帰属するものなのか、それとも偶発的に帰属するものなのか?また、魂に属する霊的な情念は、肉体とのつながりゆえに、自然に肉体に帰属するものなのか、それとも不適切に帰属するものなのか?
答え:肉体的な情欲について、それが不適切な意味で捉えられているなどと言う者はいないだろう。しかし、精神的な情欲については、純粋さが魂にとって自然なものであることが確立され、広く認められている以上、情欲は決して魂にとって自然なものではないと断言せざるを得ない。なぜなら、病気は健康よりも後に現れるからである。そして、同じ性質が善と悪の両方であることは不可能である。したがって、一方が他方に必ず先行し、他方に先行するものが自然なものである。なぜなら、あらゆる偶発的なものは自然ではなく、外部から生じたものだと言われているからである。そして、あらゆる偶発的かつ超越的なものは変化するが、自然は変化も変容もしない。
益となるすべての情欲は神によって与えられています。肉体の情欲は、肉体の益と成長のために肉体に植え付けられています。魂の情欲も同様です。しかし、肉体が本来のものを奪われ、本来の状態から外れて魂に従うことを強いられると、肉体は弱り、害を受けます。魂が本来のものを捨てて肉体に従うと、神の使徒の言葉にあるように、魂もまた害を受けます。「肉は霊に逆らい、霊は肉に逆らう。この二つは互いに敵対している」(ガラテヤ5章17節)。ですから、神が私たちの本性に情欲と罪を植え付けたかのように、神を冒涜してはなりません。神は、私たちのそれぞれの本性に、その成長に役立つものを植え付けたのです。
しかし、ある性質が別の性質と調和するとき、それは本来の自分ではなく、その正反対のものの中に身を置くことになる。もし情念が魂にとって自然なものであるならば、なぜ魂は情念によって害を受けるのだろうか?自然に固有のものは、魂に害を与えない。
質問:肉体を養い強化する肉体的情欲は、魂にふさわしくないにもかかわらず、なぜ魂を害するのでしょうか?また、なぜ徳は肉体を苦しめる一方で魂を養うのでしょうか?
答え:自然の外にあるものが、いかに自然を害するか、気づかないのですか?それぞれの自然は、自分に固有のものに近づくと喜びに満たされます。しかし、あなたはこれらのそれぞれの自然に固有のものとは何かを知りたいのですね?注:自然を助けるものはすべてその自然に固有のものですが、それを害するものはすべて異質で、外から入ってきたものです。したがって、肉体と魂の情念は互いに相反することが知られているので、何らかの形で肉体を助け、休息を与えるものはすべて肉体に固有のものです。しかし、魂がこれに慣れ親しむと、それが魂にとって自然なものであるとは言えなくなります。なぜなら、魂の本質に固有のものは肉体にとって死だからです。しかし、不適切な意味で、上で述べたことは魂に帰せられます。そして、魂は肉体の弱さのために、肉体がそれを支えている限り、そこから解放されることはできません。なぜなら、魂の動きと肉体の動きの間に理解しがたい知恵によって確立された結合のために、魂は自然に肉体にとって苦痛なものと交わりを持つようになったからです。しかし、それらは互いに密接に結びついているとはいえ、運動はやはり運動とは区別され、意志は意志とは区別され、肉体は精神とは区別される。
しかし、本質は変化しない。それどころか、それぞれの本質は、罪であろうと徳であろうと、大きく逸脱するとしても、やはり自らの意志によって動き出すのである。そして、魂が肉体への執着を超越するとき、霊は動きの中で完全に花開き、理解しがたい天空へと舞い上がる。しかし、この状態においても、肉体は自らにふさわしいことを思い出すことを禁じない。同様に、肉体が罪に陥ったとしても、魂の思いは心を通して流れ続けるのである。
質問:心の清らかさとは何ですか?
答え:心の清らかさとは、悪を知らない者(そのような者は獣のような者であろう)でも、生まれつき幼児の状態にある者でも、清らかさを装う者でもない。むしろ、心の清らかさとは、徳を積極的に実践することによって神から啓示を受けることである。そして、思考の誘惑なしにこれを得た者はいないと断言することはできない。そうでなければ、人は肉体をまとうことはないだろう。なぜなら、私たちの本性が死ぬまで争いもなく、傷つけられることもないとは断言できないからである。思考の誘惑とは、それに屈服することではなく、それと闘い始めることを意味する。
:::思考の活動は四つあること
人の思考の動きは、四つの原因から生じます。第一に、自然な肉欲から。第二に、人が聞いたり見たりする世俗的な対象の感覚的表象から。第三に、人が心に抱く先入観や霊的な傾向から。第四に、先に述べた理由から、私たちをあらゆる情欲に引きずり込む悪魔の攻撃から。したがって、人は死ぬまで、この肉体の命にある限り、思考と戦いを避けることはできません。考えてみてください。これら四つの原因のいずれかが、人がこの世を去る前、つまり死ぬ前に活動を停止することは可能でしょうか?あるいは、肉体が必要なものを求めず、世俗的なものを欲することを強いられないということは可能でしょうか?自然はそのようなものを必要とするので、このようなことを想像するのは不適切であるならば、肉体を持つすべての人において、本人の意思とは関係なく情欲が働いているということになります。したがって、肉体を持つ者すべては、自らの内に常に明確に作用している一つの情念から、あるいは二つの情念からではなく、多くの情念から身を守らなければならない。徳によって情念を克服した者は、たとえ思考や四つの原因の攻撃に悩まされても、自らに対する勝利を放棄することはない。なぜなら、彼らには力があり、その心は善き神聖な記憶に満たされているからである。
質問:心の清らかさと精神の清らかさの違いは何ですか?
答え:心の清らかさと魂の清らかさは別物です。心は霊的な感覚の一つですが、魂は内なる感覚を包み込み、その力で保持します。魂は根であり、根が聖なるものであれば、枝もまた聖なるものです。つまり、魂が清らかになれば、すべての感覚が清められるのは明らかです。心が聖典を熱心に読んだり、断食や徹夜の祈り、沈黙に少しでも励んだりすれば、不浄な生活から離れるやいなや、以前の考え方を忘れ、清らかさを得るでしょう。しかし、魂は常に清らかであるとは限りません。清められた途端、すぐに汚れてしまうからです。一方、魂は多くの悲しみ、欠乏、世俗的なものすべてとの接触からの離脱、そしてそれらすべてに対する苦行を通して清らかさを得るのです。純粋さを得た者は、些細なことでその純粋さを汚されることはなく、また、大きな、公然とした戦い、すなわち恐ろしい戦いをも恐れることはない。なぜなら、弱い者には消化しにくい食物でも速やかに消化できる強い胃袋を身につけているからである。医者によれば、肉は一般的に消化しにくいが、強い胃袋が受け入れれば、健康な体には大きな力を与えるという。このように、短期間で、わずかな努力で得られた純粋さは、すぐに失われ、汚されてしまう。しかし、多くの苦難を経て、長い年月をかけて得られた純粋さは、魂のいかなる部分への些細な攻撃も恐れない。なぜなら、神は魂を強くしてくださるからである。神に永遠に栄光あれ!アーメン。
==関連項目==
*[[ニネベのイサアク神秘論文集/第3論文]]
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シリヤの聖イサアク全書/第五十六説教
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2026-06-11T07:31:57Z
村田ラジオ
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現代語訳を加筆。
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*ウィキソースによる現代語訳
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== 第56説教 ==
<<{{r|神|かみ}}を{{r|愛|あい}}する事、{{r|世|よ}}を{{r|避|さ}}くる事、及び{{r|神|かみ}}に{{r|於|おい}}て{{r|安|やす}}んずる事。>>
{{r|神|かみ}}を{{r|愛|あい}}する{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|己|おのれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|安心|あんしん}}を{{r|神|かみ}}に、{{r|神独|かみひと}}りに{{r|於|おい}}て{{r|求|もと}}むるなり。{{r|如何|いか}}なる{{r|外部|がいぶ}}の{{r|関係|かんけい}}をも{{r|先|ま}}づ{{r|自|みづ}}から{{r|解|と}}くべし、その{{r|時|とき}}は{{r|心|こころ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|神|かみ}}と{{r|連合|れんごう}}するを{{r|得|え}}ん、{{r|何|なん}}となれば{{r|物体|ぶったい}}と{{r|分離|ぶんり}}するは{{r|神|かみ}}と{{r|親|しん}}{{r|與|よ}}するに{{r|先|さき}}{{r|立|だ}}てばなり。{{r|麺麭|パン}}は{{r|嬰児|おさなご}}が{{r|乳養|にゅうよう}}せられし{{r|後|のち}}{{r|食用|しょくよう}}として{{r|與|あた}}へらる、かくの{{r|如|ごと}}く{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|事|こと}}に{{r|大|おおい}}に{{r|発達|はったつ}}せんと{{r|企図|きと}}する{{r|人|ひと}}も{{r|先|ま}}づ{{r|自|みづ}}から{{r|世|よ}}より{{r|遠|とお}}ざからんを{{r|欲|ほっ}}すること{{r|嬰児|おさなご}}が{{r|母|はは}}の{{r|懐|ふところ}}と{{r|乳|ち}}{{r|房|ぶさ}}より{{r|遠|とお}}ざかる{{r|如|ごと}}くならん。{{r|身体|しんたい}}{{r|上|じょう}}の{{r|働|はたらき}}の{{r|心霊|しんれい}}{{r|上|じょう}}の{{r|働|はたらき}}に{{r|先|さき}}だつは{{r|塵|じん}}{{r|土|ど}}の<u>アダム</u>に{{r|吹|ふき}}{{r|入|いれ}}られたる{{r|生|せい}}{{r|気|き}}に{{r|先|さき}}だちし{{r|如|ごと}}し。{{r|身体|しんたい}}{{r|上|じょう}}の{{r|働|はたらき}}を{{r|求|もと}}めざる{{r|者|もの}}は{{r|心霊|しんれい}}{{r|上|じょう}}の{{r|働|はたらき}}をも{{r|有|ゆう}}する{{r|能|あた}}はず、{{r|何|なん}}となれば{{r|後者|こうしゃ}}の{{r|前者|ぜんしゃ}}より{{r|生|しょう}}ずるは、{{r|麦穂|むぎのほ}}の{{r|麦粒|むぎつぶ}}より{{r|生|しょう}}ずる{{r|如|ごと}}くなればなり。{{r|然|しか}}して{{r|心霊|しんれい}}{{r|上|じょう}}の{{r|働|はたらき}}を{{r|有|ゆう}}せざる{{r|者|もの}}は{{r|霊神|れいしん}}{{r|上|じょう}}の{{r|賜|たまもの}}をも{{r|奪|うば}}はるるなり。
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{{r|此事|このこと}}につきて{{r|或|あ}}る{{r|聖者|せいしゃ}}は{{r|次|つぎ}}の{{r|如|ごと}}く{{r|言|い}}へり、{{r|曰|いは}}く『{{r|慈悲|じひ}}{{r|者|しゃ}}はもし{{r|正当|せいとう}}ならざるときは{{r|盲|めしい}}なり、{{r|知|し}}るべし{{r|自己|じこ}}の{{r|尽力|じんりょく}}と{{r|労|ろう}}とを{{r|以|もっ}}て{{r|得|え}}たるものより{{r|他|た}}に{{r|與|あた}}ふべくして、{{r|詐偽|さぎ}}と{{r|不義|ふぎ}}と{{r|狡獪|こうかい}}とを{{r|以|もっ}}て{{r|得|え}}たるものよりすべからざることを。』{{r|彼|かれ}}は{{r|又|また}}{{r|他|た}}の{{r|処|ところ}}に{{r|於|おい}}て{{r|次|つぎ}}の{{r|如|ごと}}くいへり、{{r|曰|いは}}く『{{r|貧者|ひんしゃ}}に{{r|撒|ま}}かんと{{r|欲|ほっ}}せば{{r|自分|じぶん}}のものにより{{r|撒|ま}}くべし。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}してもし{{r|他人|たにん}}のものにより{{r|撒|ま}}かんと{{r|欲|ほっ}}するならば、これ{{r|最苦|いとにが}}き{{r|莠|はぐさ}}なり』と。{{r|予|よ}}は{{r|之|これ}}に{{r|加|くは}}へて{{r|言|い}}はん、もし{{r|慈悲|じひ}}{{r|者|しゃ}}は{{r|己|おのれ}}の{{r|義|ぎ}}よりも{{r|高|たか}}く{{r|立|た}}たずんば{{r|彼|かれ}}は{{r|無慈悲|むじひ}}なり、{{r|即|すなはち}}{{r|慈悲|じひ}}{{r|者|しゃ}}は{{r|己|おのれ}}のものにより{{r|人々|ひとびと}}に{{r|施|ほどこ}}すのみならず、{{r|他|た}}の{{r|人々|ひとびと}}より{{r|受|うく}}る{{r|所|ところ}}の{{r|不義|ふぎ}}は{{r|喜|よろこ}}んで{{r|忍耐|にんたい}}して{{r|彼|かれ}}らを{{r|憐|あわれ}}まん。{{r|施|ほどこし}}を{{r|以|もっ}}て{{r|義|ぎ}}に{{r|勝|か}}つならば、その{{r|時|とき}}{{r|加|くは}}へらるるものは{{r|義|ぎ}}{{r|人|じん}}らが{{r|受|う}}くる{{r|法|ほう}}{{r|下|か}}の{{r|冠|かんむり}}には{{r|非|あら}}ずして、{{r|福音的|ふくいんてき}}{{r|完全者|かんぜんしゃ}}の{{r|福音的|ふくいんてき}}{{r|栄冠|えいかん}}なり。けだし{{r|己|おのれ}}の{{r|所有|しょゆう}}により{{r|貧者|ひんしゃ}}に{{r|與|あた}}へ{{r|裸|ら}}{{r|者|しゃ}}に{{r|衣|き}}せ、{{r|人|ひと}}を{{r|愛|あい}}すること{{r|己|おのれ}}の{{r|如|ごと}}くし、{{r|侮|あなど}}らず、{{r|罵|ののし}}らざる{{r|等|とう}}の{{r|事|こと}}は{{r|旧|ふる}}き{{r|律法|りっぽう}}も{{r|之|これ}}を{{r|宣言|せんげん}}せり、されど{{r|福音的|ふくいんてき}}{{r|摂理|せつり}}の{{r|完全|かんぜん}}は{{r|命|めい}}ずること{{r|左|さ}}の{{r|如|ごと}}し、{{r|曰|いは}}く『{{r|凡|およ}}そ{{r|汝|なんじ}}に{{r|求|もと}}むる{{r|者|もの}}には{{r|與|あた}}へ、{{r|汝|なんじ}}の{{r|物|もの}}を{{r|取|と}}る{{r|者|もの}}には{{r|復|また}}{{r|之|これ}}を{{r|促|うなが}}すなかれ』〔[[ルカ傳福音書(文語訳)#6:30|ルカ六の三十]]〕。ゆえに{{r|或|あ}}る{{r|物品|ぶっぴん}}{{r|又|また}}は{{r|他|た}}の{{r|外部|がいぶ}}に{{r|属|ぞく}}するものを{{r|不|ふ}}{{r|正|せい}}に{{r|奪|うば}}はるるを{{r|喜|よろこ}}んで{{r|忍耐|にんたい}}するのみならず、{{r|生命|せいめい}}をも{{r|兄弟|けいてい}}の{{r|為|ため}}に{{r|犠牲|ぎせい}}となさんこと{{r|肝要|かんよう}}なり。これ{{r|慈悲|じひ}}{{r|者|しゃ}}なり、されどもただに{{r|施與|せよ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|兄弟|けいてい}}に{{r|慈悲|じひ}}をあらはす{{r|者|もの}}は{{r|慈悲|じひ}}{{r|者|しゃ}}にあらず。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}してその{{r|兄弟|けいてい}}を{{r|哀|かなし}}ましむるを{{r|見聞|けんもん}}して{{r|心|こころ}}の{{r|燃|も}}ゆる{{r|者|もの}}と{{r|兄弟|けいてい}}の{{r|為|ため}}に{{r|頬|ほお}}を{{r|打|う}}たるるや{{r|之|これ}}に{{r|報|むく}}ひて{{r|彼|かれ}}の{{r|心|こころ}}を{{r|哀|かなし}}ましむる{{r|程|ほど}}{{r|無耻|むち}}の{{r|心|こころ}}を{{r|有|も}}たざる{{r|者|もの}}も{{r|亦|また}}{{r|慈悲|じひ}}{{r|者|しゃ}}なり。
{{r|儆醒|けいせい}}の{{r|業|ぎょう}}を{{r|尊|たっと}}ぶべし、{{r|汝|なんじ}}の{{r|霊|れい}}に{{r|近|ちか}}く{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}を{{r|見|み}}ん{{r|為|ため}}なり。{{r|黙読|もくどく}}を{{r|練習|れんしゅう}}せよ、{{r|汝|なんじ}}の{{r|智|ち}}が{{r|常|つね}}に{{r|神|かみ}}の{{r|奇|き}}{{r|蹟|せき}}に{{r|昇|のぼ}}せられん{{r|為|ため}}なり。{{r|貧|まづ}}しきを{{r|忍耐|にんたい}}すると{{r|共|とも}}に{{r|之|これ}}を{{r|愛|あい}}せよ、その{{r|心|こころ}}を{{r|一|いつ}}に{{r|集中|しゅうちゅう}}して{{r|高|たか}}く{{r|飛|と}}ばざらしめん{{r|為|ため}}なり。{{r|廣|ひろ}}き{{r|生活|せいかつ}}を{{r|嫌|きら}}へよ、その{{r|思|おもい}}を{{r|擾|みだ}}さず{{r|守|まも}}らん{{r|為|ため}}なり。{{r|事|こと}}の{{r|多|た}}{{r|端|たん}}を{{r|制|せい}}して{{r|独|ひと}}り{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|れいこん}}を{{r|慮|おもんばか}}れ、{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}の{{r|安静|あんせい}}を{{r|濫|らん}}{{r|費|ぴ}}するより{{r|之|これ}}を{{r|救|すく}}はん{{r|為|ため}}なり。{{r|貞潔|ていけつ}}を{{r|愛|あい}}せよ、{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}の{{r|時|とき}}{{r|神|かみ}}の{{r|前|まえ}}に{{r|耻|はぢ}}ざらん{{r|為|ため}}なり。その{{r|行|おこない}}に{{r|浄潔|じょうけつ}}を{{r|求|もと}}めよ、{{r|汝|なんじ}}の{{r|霊魂|れいこん}}が{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}に{{r|於|おい}}て{{r|照|てら}}され、{{r|死|し}}の{{r|記|き}}{{r|憶|おく}}により{{r|汝|なんじ}}の{{r|心|こころ}}に{{r|喜|よろこび}}を{{r|点|てん}}{{r|火|か}}せん{{r|為|ため}}なり。{{r|小|しょう}}なるものを{{r|戒|いまし}}めよ、{{r|大|だい}}なるものに{{r|陥|おちい}}らざらん{{r|為|ため}}なり。{{r|汝|なんじ}}の{{r|業|ぎょう}}{{r|務|む}}に{{r|怠慢|たいまん}}なるなかれ、{{r|其友|そのとも}}の{{r|間|あいだ}}に{{r|立|た}}つ{{r|時|とき}}{{r|耻|はぢ}}ざらん{{r|為|ため}}なり、{{r|及|およ}}び{{r|路|みち}}の{{r|用|よう}}{{r|意|い}}を{{r|為|な}}さざる{{r|者|もの}}と{{r|認|みと}}められ、{{r|随|したがっ}}て{{r|友|とも}}が{{r|汝|なんじ}}を{{r|独|ひと}}り{{r|途|と}}{{r|中|ちゅう}}に{{r|棄|す}}てざらん{{r|為|ため}}なり。{{r|其|その}}{{r|行|こう}}{{r|為|い}}を{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}にて{{r|導|みちび}}くべし、{{r|凡|すべ}}ての{{r|進行|しんこう}}に{{r|非|ひ}}{{r|難|なん}}をうけざらん{{r|為|ため}}なり。{{r|其|その}}{{r|生活|せいかつ}}に{{r|自|じ}}{{r|由|ゆう}}を{{r|求|もと}}めよ、{{r|暴風|ぼうふう}}{{r|雨|う}}より{{r|免|のが}}れん{{r|為|ため}}なり。{{r|快楽|かいらく}}を{{r|資|たす}}くるものを{{r|以|もっ}}て{{r|己|おのれ}}の{{r|自|じ}}{{r|由|ゆう}}を{{r|縛|しば}}るなかれ、{{r|僕|ぼく}}の{{r|僕|ぼく}}とならざらん{{r|為|ため}}なり。{{r|其|その}}{{r|衣|き}}る{{r|所|ところ}}は{{r|貧|まづ}}しきを{{r|愛|あい}}せよ、{{r|汝|なんじ}}に{{r|生|しょう}}ずる{{r|思|おもい}}を{{r|貶|べん}}せん{{r|為|ため}}、{{r|即|すなはち}}{{r|心|こころ}}の{{r|高慢|こうまん}}を{{r|貶|べん}}せん{{r|為|ため}}なり。{{r|燦爛|さんらん}}を{{r|愛|あい}}する{{r|者|もの}}は{{r|謙遜|けんそん}}なる{{r|思|おもい}}を{{r|得|う}}ること{{r|能|あた}}はず、{{r|何|なん}}となれば{{r|心|こころ}}は{{r|外|がい}}{{r|部|ぶ}}の{{r|状態|じょうたい}}の{{r|如|ごと}}くに{{r|其|そ}}の{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}に{{r|印|いん}}せらるればなり。
{{r|空談|くうだん}}を{{r|愛|あい}}して{{r|浄|じょう}}{{r|智|ち}}を{{r|求|もと}}むるを{{r|能|よ}}くせし{{r|者|もの}}ありや。{{r|智|ち}}が{{r|五|ご}}{{r|感|かん}}に{{r|誘引|ゆういん}}せらるる{{r|時|とき}}は{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}と{{r|共|とも}}に{{r|禽|きん}}{{r|獣|じゅう}}の{{r|食|しょく}}を{{r|食|くら}}はん。{{r|然|しか}}れども{{r|五|ご}}{{r|感|かん}}が{{r|智|ち}}に{{r|誘引|ゆういん}}せらるる{{r|時|とき}}は{{r|彼|かれ}}と{{r|共|とも}}に{{r|天|てん}}{{r|使|し}}の{{r|糧|かて}}をうけん。
{{r|謙徳|けんとく}}には{{r|節制|せっせい}}とすべてに{{r|制限|せいげん}}あるとを{{r|伴|ともな}}ふ、{{r|然|しか}}れども{{r|虚|きょ}}{{r|誇|こ}}は{{r|淫行|いんこう}}の{{r|従者|じゅうしゃ}}にして{{r|驕傲|きょうごう}}の{{r|行|おこない}}なり。{{r|謙徳|けんとく}}は{{r|恒久|こうきゅう}}の{{r|自|じ}}{{r|制|せい}}により{{r|直覚|ちょくかく}}に{{r|達|たっ}}し、{{r|心霊|しんれい}}を{{r|貞潔|ていけつ}}に{{r|飾|かざ}}らん。{{r|然|しか}}れども{{r|虚|きょ}}{{r|誇|こ}}は{{r|思|し}}{{r|慮|りょ}}の{{r|間断|かんだん}}なき{{r|擾乱|じょうらん}}と{{r|動揺|どうよう}}とにより{{r|遇|あ}}ふ{{r|所|ところ}}のすべての{{r|者|もの}}より{{r|不|ふ}}{{r|潔|けつ}}の{{r|財|たから}}を{{r|集|あつ}}めて{{r|心|こころ}}を{{r|汚|けが}}す。{{r|彼|かれ}}は{{r|又|また}}{{r|邪|よこしま}}なる{{r|眼|め}}を{{r|以|もっ}}て{{r|物|もの}}の{{r|自|し}}{{r|然|ぜん}}を{{r|観|み}}て{{r|耻|は}}づべき{{r|想像|そうぞう}}を{{r|心|こころ}}に{{r|充|み}}たす、{{r|然|しか}}れども{{r|謙徳|けんとく}}は{{r|窃|ひそか}}に{{r|直覚|ちょくかく}}を{{r|以|もっ}}て{{r|己|おのれ}}を{{r|制限|せいげん}}して{{r|之|これ}}を{{r|得|え}}たる{{r|者|もの}}を{{r|讃栄|さんえい}}に{{r|喚|かん}}{{r|起|き}}す。
{{r|世|よ}}に{{r|休徴|きゅうちょう}}と{{r|奇|き}}{{r|蹟|せき}}と{{r|異|い}}{{r|能|のう}}を{{r|行|おこな}}ふ{{r|者|もの}}を{{r|黙識|もくしき}}{{r|心通|しんつう}}する{{r|者|もの}}に{{r|比|ひ}}するなかれ。{{r|世|よ}}に{{r|飢|うう}}る{{r|者|もの}}を{{r|飽|あ}}かしめ、{{r|多|おお}}くの{{r|民|たみ}}を{{r|神|かみ}}を{{r|拝|はい}}するに{{r|帰|き}}せしめんよりは{{r|黙想|もくそう}}の{{r|無為|むい}}を{{r|愛|あい}}せよ。{{r|己|おのれ}}を{{r|罪|つみ}}の{{r|械繋|かいけい}}より{{r|解|と}}くは{{r|奴|ど}}{{r|隷|れい}}を{{r|苦|く}}{{r|役|えき}}より{{r|脱|だっ}}せしむるに{{r|愈|まさ}}れり。{{r|汝|なんじ}}は{{r|三|みつ}}の{{r|成分|せいぶん}}の{{r|一致|いっち}}により、{{r|即|すなはち}}{{r|体|たい}}と{{r|霊|れい}}と{{r|神|しん}}との{{r|一致|いっち}}により{{r|汝|なんじ}}の{{r|霊魂|れいこん}}と{{r|相|あい}}{{r|和|わ}}するは、その{{r|教導|きょうどう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|意|い}}{{r|見|けん}}の{{r|異|こと}}なる{{r|者|もの}}を{{r|和|わ}}せしむるより{{r|愈|まさ}}れり。<u>グリゴリイ</u>{{r|言|い}}ふ『{{r|神|かみ}}の{{r|為|ため}}に{{r|神学|しんがく}}を{{r|教|おし}}ふるは{{r|善|よ}}し、{{r|然|しか}}れども{{r|人|ひと}}の{{r|為|ため}}に{{r|之|これ}}より{{r|愈|まさ}}るは{{r|神|かみ}}の{{r|為|ため}}に{{r|己|おのれ}}を{{r|浄|きよ}}き{{r|者|もの}}と{{r|為|な}}すこと{{r|是|これ}}なり』。{{r|熟達|じゅくたつ}}{{r|老練|ろうれん}}にして{{r|訥|とつ}}なるは{{r|其|その}}{{r|智|ち}}の{{r|頴鋒|えいほう}}により{{r|教道|きょうどう}}を{{r|川|かわ}}の{{r|如|ごと}}く{{r|流|なが}}すよりも{{r|汝|なんじ}}の{{r|為|ため}}に{{r|愈|まさ}}れり、{{r|其|その}}{{r|思|おもい}}を{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|事|こと}}に{{r|喚|かん}}{{r|起|き}}して、{{r|慾|よく}}の{{r|為|ため}}に{{r|汝|なんじ}}の{{r|霊|れい}}{{r|中|ちゅう}}に{{r|仆|たお}}れたるものを{{r|起|おこ}}すを{{r|慮|おもんばか}}るは{{r|死|し}}{{r|者|しゃ}}を{{r|復活|ふっかつ}}せしむるよりも{{r|汝|なんじ}}の{{r|為|ため}}に{{r|有益|ゆうえき}}なり。
{{r|異|い}}{{r|能|のう}}を{{r|行|おこな}}ひ、{{r|死|し}}{{r|者|しゃ}}を{{r|復活|ふっかつ}}し、{{r|迷|まよ}}ひし{{r|者|もの}}の{{r|反正|はんせい}}の{{r|為|ため}}に{{r|労|ろう}}して、{{r|大|だい}}なる{{r|奇|き}}{{r|蹟|せき}}を{{r|行|おこな}}ひ、その{{r|手|て}}により{{r|多|おお}}くの{{r|者|もの}}は{{r|神|かみ}}を{{r|識|し}}るに{{r|導|みちび}}かれしも、{{r|此|この}}すべての{{r|後|のち}}{{r|他|た}}の{{r|人々|ひとびと}}を{{r|復活|ふっかつ}}せしめたる{{r|自|じ}}{{r|分|ぶん}}は{{r|憎|にく}}らしく{{r|嫌|きら}}はしき{{r|慾|よく}}に{{r|陥|おちい}}り、{{r|自己|じこ}}を{{r|殺|ころ}}して、{{r|其|その}}{{r|行|おこない}}の{{r|顕然|けんぜん}}とあらはるや、{{r|多|おお}}くの{{r|人|ひと}}の{{r|為|ため}}にも{{r|誘惑|ゆうわく}}となる{{r|者|もの}}{{r|多|おお}}し、{{r|何|なん}}となれば{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|猶|なお}}{{r|心|こころ}}の{{r|病|やまい}}に{{r|在|あ}}りて、その{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|康健|こうけん}}のことを{{r|慮|おもんばか}}らず、{{r|未|いま}}だ{{r|自|みづ}}から{{r|薄弱|はくじゃく}}を{{r|免|まぬか}}れざるに{{r|他|た}}の{{r|人々|ひとびと}}の{{r|霊魂|れいこん}}を{{r|癒|いや}}さんと{{r|此|この}}{{r|世|よ}}の{{r|海|うみ}}に{{r|出発|しゅっぱつ}}したればなり、ゆえに{{r|予|よ}}が{{r|言|い}}ひし{{r|如|ごと}}く{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|自己|じこ}}の{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|為|ため}}に{{r|神|かみ}}に{{r|望|のぞみ}}を{{r|失|うしな}}へり。{{r|五|ご}}{{r|官|かん}}の{{r|薄弱|はくじゃく}}は{{r|慾|よく}}を{{r|常|つね}}に{{r|猛烈|もうれつ}}ならしむる{{r|火|か}}{{r|焔|えん}}を{{r|迎|むか}}へて{{r|之|これ}}に{{r|堪|た}}ふる{{r|力|ちから}}あらざるなり、ゆえに{{r|五|ご}}{{r|官|かん}}の{{r|為|ため}}に{{r|戒慎|かいしん}}するは{{r|更|さら}}に{{r|必要|ひつよう}}なり、{{r|即|すなはち}}すべて{{r|婦|ふ}}{{r|人|じん}}を{{r|見|み}}ざること、{{r|安息|あんそく}}に{{r|耽|ふけ}}らざることと、{{r|金銀|きんぎん}}{{r|及|およ}}び{{r|其|その}}{{r|他|た}}の{{r|物|もの}}を{{r|求|もと}}めざることと、{{r|他|た}}の{{r|人々|ひとびと}}を{{r|指揮|しき}}せざることと、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}に{{r|対|たい}}して{{r|誇|ほこ}}らざることは{{r|必要|ひつよう}}なり。
{{r|反論|はんろん}}する{{r|技|ぎ}}{{r|倆|りょう}}の{{r|汝|なんじ}}に{{r|足|た}}らざるが{{r|為|ため}}に{{r|人々|ひとびと}}{{r|汝|なんじ}}を{{r|不|ふ}}{{r|学者|がくしゃ}}と{{r|仮|か}}{{r|定|てい}}するは、{{r|無耻|むち}}の{{r|為|ため}}に{{r|智者|ちしゃ}}の{{r|一人|ひとり}}とするより{{r|愈|まさ}}るべし。{{r|謙遜|けんそん}}の{{r|為|ため}}に{{r|貧|まづ}}しくなれ、{{r|無耻|むち}}の{{r|為|ため}}に{{r|富|と}}むなかれ。{{r|汝|なんじ}}と{{r|反対|はんたい}}の{{r|教|おしえ}}を{{r|持|ぢ}}する{{r|者|もの}}をば{{r|自己|じこ}}の{{r|徳行|とくこう}}の{{r|力|ちから}}を{{r|以|もっ}}て{{r|責|せ}}めよ、{{r|言|ことば}}の{{r|説得|せっとく}}を{{r|以|もっ}}てするなかれ。{{r|汝|なんじ}}の{{r|口|くち}}の{{r|温恭|おんきょう}}と{{r|安静|あんせい}}とを{{r|以|もっ}}て{{r|悖逆|はいぎゃく}}{{r|者|しゃ}}の{{r|無耻|むち}}の{{r|口|くち}}を{{r|閉|と}}ぢ、{{r|彼|かれ}}をして{{r|黙|もく}}せしむべし。{{r|汝|なんじ}}の{{r|素|そ}}{{r|行|こう}}の{{r|貴|たっと}}きを{{r|以|もっ}}て{{r|放|ほう}}{{r|肆|し}}{{r|者|しゃ}}を{{r|責|せ}}めよ、{{r|然|しか}}して{{r|五|ご}}{{r|官|かん}}の{{r|耻|はぢ}}なき{{r|者|もの}}をば{{r|汝|なんじ}}の{{r|目|め}}の{{r|節制|せっせい}}を{{r|以|もっ}}て{{r|責|せ}}むべし。
その{{r|生涯|しょうがい}}の{{r|諸日|しょじつ}}{{r|汝|なんじ}}は{{r|何処|いづこ}}に{{r|至|いた}}るとも、{{r|己|おのれ}}を{{r|旅行|りょこう}}{{r|者|しゃ}}と{{r|認|みと}}めよ、{{r|交際|こうさい}}に{{r|恣|ほしいまま}}なるにより{{r|生|しょう}}ずる{{r|害|がい}}より{{r|救|すく}}はれん{{r|為|ため}}なり。{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}にも{{r|己|おのれ}}を{{r|何|なに}}も{{r|知|し}}らざる{{r|者|もの}}と{{r|思|おも}}ふべし、{{r|他|た}}の{{r|意見|いけん}}を{{r|自意|じい}}の{{r|如|ごと}}く{{r|定|さだ}}めんを{{r|欲|ほっ}}すとの{{r|疑|ぎ}}{{r|察|さつ}}{{r|非|ひ}}{{r|難|なん}}を{{r|避|さ}}けん{{r|為|ため}}なり。{{r|口|くち}}を{{r|以|もっ}}て{{r|常|つね}}に{{r|祈|き}}{{r|福|ふく}}せよ、{{r|然|しか}}らば{{r|汝|なんじ}}を{{r|悪言|あくげん}}せざらん、{{r|何|なん}}となれば{{r|悪言|あくげん}}は{{r|悪言|あくげん}}より{{r|生|しょう}}じ、{{r|祈|き}}{{r|福|ふく}}は{{r|祈|き}}{{r|福|ふく}}より{{r|生|しょう}}ずるによる。{{r|如何|いか}}なる{{r|事|こと}}に{{r|於|おい}}ても{{r|己|おのれ}}を{{r|教|おし}}ふるに{{r|足|た}}らざる{{r|者|もの}}と{{r|思|おも}}ふべし、{{r|然|しか}}らばそのすべての{{r|行|こう}}{{r|為|い}}は{{r|智|ち}}{{r|者|しゃ}}と{{r|認|みと}}められん。{{r|自|みづ}}から{{r|理|り}}{{r|会|かい}}せざることを{{r|人|ひと}}に{{r|傳|つた}}ふるなかれ、{{r|汝|なんじ}}{{r|己|おのれ}}を{{r|辱|はづか}}しめざらん{{r|為|ため}}なり、{{r|汝|なんじ}}の{{r|行|こう}}{{r|為|い}}を{{r|参照|さんしょう}}するにより、{{r|汝|なんじ}}の{{r|偽|いつわり}}のあらはれざらん{{r|為|ため}}なり。されどもし{{r|或|あ}}る{{r|有益|ゆうえき}}なることを{{r|人|ひと}}に{{r|告|つ}}げんと{{r|欲|ほっ}}するならば{{r|教|おし}}へらるる{{r|者|もの}}の{{r|様|よう}}{{r|子|す}}にて{{r|言|い}}ふべし、{{r|権|けん}}と{{r|無耻|むち}}とを{{r|以|もっ}}てせず、{{r|豫|あらかじ}}め{{r|自己|じこ}}を{{r|罪|つみ}}して{{r|汝|なんじ}}は{{r|彼|かれ}}より{{r|下|ひく}}きを{{r|示|しめ}}すべし、{{r|聴|き}}く{{r|所|ところ}}の{{r|者|もの}}に{{r|謙遜|けんそん}}の{{r|式|しき}}を{{r|示|しめ}}し、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}をして{{r|汝|なんじ}}の{{r|言|げん}}を{{r|傾聴|けいちょう}}して{{r|行|こう}}{{r|為|い}}に{{r|着手|ちゃくしゅ}}せしめん{{r|為|ため}}なり、さらば{{r|汝|なんじ}}は{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}の{{r|眼中|がんちゅう}}に{{r|尊|たっと}}ばれん。もし{{r|能|よ}}くするならば{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}き{{r|場|ば}}{{r|合|あい}}には{{r|涙|なみだ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|言|い}}ふべし、{{r|自己|じこ}}にも{{r|汝|なんじ}}に{{r|聴|き}}く{{r|者|もの}}にも{{r|益|えき}}を{{r|與|あた}}へん{{r|為|ため}}なり、{{r|神|かみ}}の{{r|恩寵|おんちょう}}は{{r|汝|なんじ}}と{{r|共|とも}}にせん。
もし{{r|汝|なんじ}}は{{r|神|かみ}}の{{r|恩寵|おんちょう}}を{{r|受|う}}けて、{{r|天命|てんめい}}と{{r|有形|ゆうけい}}{{r|造物|ぞうぶつ}}の{{r|命運|めいうん}}を{{r|観察|かんさつ}}するを{{r|楽|たのし}}む、いはゆる{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}の{{r|初等|しょとう}}なるものを{{r|賜|たま}}はりしならば、{{r|己|おのれ}}を{{r|預備|よび}}し、{{r|誹|ひ}}{{r|謗|ぼう}}の{{r|霊|れい}}に{{r|対|たい}}して{{r|自|みづ}}から{{r|武|ぶ}}{{r|装|そう}}せよ。さりながら{{r|武器|ぶき}}を{{r|持|も}}たずして、{{r|此|この}}{{r|方面|ほうめん}}に{{r|立|た}}つなかれ、{{r|恐|おそ}}らくは{{r|汝|なんじ}}は{{r|埋伏|まいふく}}して{{r|汝|なんじ}}を{{r|誘惑|ゆうわく}}する{{r|者|もの}}により{{r|速|すみやか}}に{{r|死|し}}せん。{{r|涙|なみだ}}と{{r|不|ふ}}{{r|断|だん}}の{{r|禁食|きんしょく}}は{{r|汝|なんじ}}の{{r|武器|ぶき}}となるべし。{{r|異|い}}{{r|端|たん}}{{r|者|しゃ}}の{{r|教|おしえ}}を{{r|講|こう}}ずるを{{r|自|みづ}}から{{r|戒慎|かいしん}}せよ、{{r|何|なん}}となればこは{{r|誹|ひ}}{{r|謗|ぼう}}の{{r|霊|れい}}を{{r|起|おこ}}して{{r|汝|なんじ}}に{{r|敵|てき}}せしむること{{r|屡々|しばしば}}これ{{r|有|あ}}ればなり。{{r|腹|はら}}を{{r|満|み}}たすときは、{{r|神聖|しんせい}}なるものの{{r|或|あ}}る{{r|帰|き}}{{r|趣|しゅ}}と{{r|旨意|しい}}とを{{r|無耻|むち}}に{{r|穿鑿|せんさく}}するなかれ、{{r|恐|おそ}}らくは{{r|汝|なんじ}}は{{r|悔|く}}ゆるあらん。{{r|汝|なんじ}}に{{r|言|い}}ふ{{r|所|ところ}}のものを{{r|理|り}}{{r|会|かい}}せよ、{{r|飽満|ほうまん}}せる{{r|腹|はら}}を{{r|以|もっ}}て{{r|神|かみ}}の{{r|奥|おう}}{{r|義|ぎ}}を{{r|識|し}}るは{{r|能|あた}}はざるものとす。{{r|神|かみ}}の{{r|照管|しょうかん}}のことに{{r|関|かん}}する{{r|師父等|しふら}}の{{r|書|しょ}}を{{r|頻|しき}}りに{{r|読|よ}}みて{{r|飽|あ}}くを{{r|知|し}}らざるべし、{{r|何|なん}}となれば{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|智|ち}}を{{r|神|かみ}}の{{r|造物|ぞうぶつ}}と{{r|神|かみ}}の{{r|為|ため}}に{{r|於|お}}ける{{r|大法|たいほう}}を{{r|窺|うかが}}ふにみちびきて、{{r|自|みづ}}から{{r|之|これ}}を{{r|堅|かた}}め、その{{r|精|せい}}{{r|微|び}}を{{r|以|もっ}}て{{r|之|これ}}を{{r|昭明|しょうめい}}なる{{r|思|し}}{{r|想|そう}}を{{r|求|もと}}むるに{{r|預備|よび}}し、{{r|潔浄|けつじょう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|神|かみ}}の{{r|造物|ぞうぶつ}}を{{r|了解|りょうかい}}するに{{r|適|てき}}せしむればなり。{{r|全|ぜん}}{{r|世|せ}}{{r|界|かい}}に{{r|識|し}}らしむる{{r|為|ため}}に{{r|神|かみ}}の{{r|遺|い}}{{r|詔|しょう}}し{{r|給|たま}}へる{{r|福音|ふくいん}}を{{r|読|よ}}むべし、{{r|萬姓|ばんせい}}{{r|諸族|しょぞく}}に{{r|於|お}}ける{{r|神|かみ}}の{{r|照管|しょうかん}}の{{r|力|ちから}}により{{r|路|ろ}}{{r|用|よう}}<ref>投稿者注:路用の本来の意味は旅費。</ref>を{{r|己|おの}}れに{{r|得|え}}ん{{r|為|ため}}なり、{{r|及|およ}}び{{r|汝|なんじ}}の{{r|智|ち}}は{{r|神|かみ}}の{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}に{{r|潜心|せんしん}}せん{{r|為|ため}}なり。{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}きの{{r|講読|こうどく}}は{{r|汝|なんじ}}の{{r|目的|もくてき}}と{{r|適合|てきごう}}す。{{r|汝|なんじ}}の{{r|講読|こうどく}}は{{r|何|なん}}の{{r|為|ため}}にも{{r|擾|みだ}}されざる{{r|安静|あんせい}}を{{r|以|もっ}}てすべく、{{r|肉体|にくたい}}のことを{{r|多|おお}}く{{r|慮|おもんばか}}ると{{r|浮|うき}}{{r|世|よ}}の{{r|動乱|どうらん}}とを{{r|免|まぬか}}れて{{r|自由|じゆう}}なるべし、すべての{{r|感触|かんしょく}}より{{r|極|きわめ}}て{{r|勝|まさ}}れる{{r|最|さい}}{{r|美|び}}なる{{r|趣|しゅ}}{{r|味|み}}を{{r|美|び}}なる{{r|了解|りょうかい}}によりその{{r|霊底|れいてい}}に{{r|感|かん}}ぜん{{r|為|ため}}なり、{{r|霊魂|れいこん}}が{{r|自|みづ}}から{{r|此|これ}}に{{r|恒|つね}}なるにより{{r|之|これ}}を{{r|感|かん}}ぜん{{r|為|ため}}なり。{{r|練達|れんたつ}}なる{{r|人々|ひとびと}}の{{r|言|ことば}}は{{r|汝|なんじ}}の{{r|為|ため}}に{{r|神|かみ}}の{{r|言|ことば}}を{{r|売買|ばいばい}}する{{r|虚飾|きょしょく}}{{r|者|しゃ}}の{{r|言|ことば}}とならざるべし、{{r|汝|なんじ}}その{{r|生命|いのち}}の{{r|終|おわり}}に{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}{{r|暗中|あんちゅう}}に{{r|止|とど}}まらずして、{{r|此|これ}}{{r|等|ら}}の{{r|言|ことば}}より{{r|生|しょう}}ずる{{r|利|り}}{{r|益|えき}}を{{r|奪|うば}}はれざらん{{r|為|ため}}、{{r|及|およ}}び{{r|戦|せん}}{{r|時|じ}}には{{r|狼狽|ろうばい}}する{{r|者|もの}}の{{r|如|ごと}}く{{r|動揺|どうよう}}を{{r|示|しめ}}さずして、{{r|看々|みすみす}}{{r|善|ぜん}}を{{r|尋|たづ}}ねつつ{{r|坑|あな}}に{{r|陥|おちい}}らざらん{{r|為|ため}}なり。
{{r|汝|なんじ}}は{{r|如何|いか}}に{{r|徹底|てってい}}せんと{{r|欲|ほっ}}すとも、{{r|汝|なんじ}}の{{r|為|ため}}に{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}に{{r|入|い}}りし{{r|證徴|しょうちょう}}となるべきものは{{r|左|さ}}の{{r|如|ごと}}くならん。{{r|向|むか}}ふ{{r|所|ところ}}の{{r|目的|もくてき}}を{{r|観|み}}てその{{r|真実|しんじつ}}を{{r|感|かん}}ずる{{r|為|ため}}に{{r|恩寵|おんちょう}}が{{r|汝|なんじ}}の{{r|目|め}}を{{r|開|ひら}}き{{r|始|はじ}}むる{{r|時|とき}}は、{{r|汝|なんじ}}の{{r|目|め}}は{{r|瞬間|しゅんかん}}に{{r|涙|なみだ}}の{{r|川|かわ}}を{{r|注|そそ}}ぎ{{r|始|はじ}}め、{{r|汝|なんじ}}の{{r|瞼|まぶた}}はその{{r|多|おお}}きを{{r|以|もっ}}て{{r|洗|あら}}はるることただ{{r|一回|いっかい}}のみにあらざるべし。その{{r|時|とき}}{{r|感覚|かんかく}}の{{r|戦|たたかい}}は{{r|鎮|しづ}}まりて{{r|汝|なんじ}}の{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}に{{r|収縮|しゅうしゅく}}せん。もし{{r|誰|たれ}}か{{r|此|これ}}に{{r|反対|はんたい}}して{{r|汝|なんじ}}を{{r|教|おし}}ふるならば{{r|信|しん}}ずるなかれ。{{r|涙|なみだ}}の{{r|外|ほか}}{{r|他|た}}の{{r|更|さら}}に{{r|顕然|けんぜん}}たる{{r|證徴|しょうちょう}}を{{r|身体|しんたい}}に{{r|於|おい}}て{{r|尋|たづ}}ぬるなかれ。されど{{r|智|ち}}が{{r|受造物|じゅぞうぶつ}}より{{r|一層|いっそう}}{{r|高|たか}}まる{{r|時|とき}}は、その{{r|体|たい}}にも{{r|涙|なみだ}}あらざるべく、{{r|何|なに}}{{r|等|ら}}の{{r|感動|かんどう}}も{{r|感触|かんしょく}}もあらざるべし。
『{{r|汝|なんじ}}は{{r|蜜|みつ}}を{{r|得|う}}るか、{{r|足|た}}る{{r|程|ほど}}に{{r|食|くら}}へ、{{r|恐|おそ}}らくは{{r|食|く}}ひ{{r|過|すご}}して{{r|之|これ}}を{{r|吐|はき}}{{r|出|いだ}}さん』〔[[箴言(文語訳)#25:16|箴言二十五の十六]]〕。{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|性|せい}}は{{r|動|うご}}かし{{r|易|やす}}くして{{r|軽快|けいかい}}なり、{{r|時|とき}}により{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|突出|とっしゅつ}}しつつ{{r|高|たか}}く{{r|昇|のぼ}}りて、その{{r|性|せい}}よりも{{r|極|きわめ}}て{{r|高|たか}}きものを{{r|確|かく}}{{r|知|ち}}せんを{{r|渇望|かつぼう}}し、{{r|聖書|せいしょ}}を{{r|読|よ}}み{{r|諸物|しょぶつ}}を{{r|観察|かんさつ}}するに{{r|由|より}}て{{r|或|あるい}}は{{r|理|り}}{{r|会|かい}}する{{r|所|ところ}}も{{r|往々|おうおう}}{{r|之|これ}}あらん、さりながら{{r|許|ゆる}}されて{{r|己|おのれ}}をその{{r|理|り}}{{r|会|かい}}したる{{r|所|ところ}}のものと{{r|比|ひ}}{{r|較|かく}}するならば、{{r|霊魂|れいこん}}はその{{r|観察|かんさつ}}の{{r|度|ど}}に{{r|於|おい}}てその{{r|知識|ちしき}}の{{r|到達|とうたつ}}する{{r|所|ところ}}のものより{{r|下|ひく}}く{{r|且|かつ}}{{r|小|しょう}}なることあらはれん、ゆえにその{{r|思|し}}{{r|念|ねん}}は{{r|恐|きょう}}{{r|懼|く}}と{{r|戦慄|せんりつ}}と{{r|畏怖|いふ}}の{{r|為|ため}}に{{r|襲|おそ}}はるること、{{r|恰|あたか}}もその{{r|高上|こうじょう}}なる{{r|霊界|れいかい}}の{{r|対象|たいしょう}}に{{r|触|ふ}}るるを{{r|敢|あえ}}てせしを{{r|自|みづ}}から{{r|耻|は}}ぢて{{r|再|ふたた}}び{{r|己|おの}}が{{r|虚|むな}}しきに{{r|帰|かえ}}るを{{r|急|いそ}}がんとするものの{{r|如|ごと}}し。{{r|対象|たいしょう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|暗|あん}}{{r|示|し}}せらるる{{r|恐|きょう}}{{r|懼|く}}の{{r|故|ゆえ}}に{{r|何|なに}}か{{r|畏|おそ}}るる{{r|念慮|ねんりょ}}の{{r|霊中|れいちゅう}}に{{r|惹起|ひきおこ}}さるるあらんに、{{r|理|り}}{{r|性|せい}}は{{r|霊|れい}}の{{r|智|ち}}{{r|覚|かく}}に{{r|暗号|あんごう}}し、{{r|沈黙|ちんもく}}を{{r|学|まな}}びて{{r|耻|はぢ}}ざる{{r|者|もの}}とならしめん、{{r|滅亡|めつぼう}}を{{r|免|まぬか}}れん{{r|為|ため}}なり、{{r|超絶|ちょうぜつ}}するものを{{r|尋|たづ}}ねずして、{{r|霊魂|れいこん}}より{{r|高上|こうじょう}}なるものを{{r|穿鑿|せんさく}}せざらん{{r|為|ため}}なり。{{r|故|ゆえ}}に{{r|汝|なんじ}}は{{r|理|り}}{{r|会|かい}}し{{r|得|う}}べきことを{{r|與|あた}}へらるるときは{{r|理|り}}{{r|会|かい}}せよ、{{r|無耻|むち}}を{{r|以|もっ}}て{{r|奥|おう}}{{r|義|ぎ}}に{{r|触|ふ}}るるなかれ、{{r|叩拝|こうはい}}せよ、{{r|讃栄|さんえい}}せよ、{{r|黙然|もくねん}}として{{r|感謝|かんしゃ}}せよ、{{r|蜜|みつ}}を{{r|多|おお}}く{{r|食|くら}}ふことの{{r|善|よ}}からざる{{r|如|ごと}}く、{{r|神|かみ}}の{{r|言|ことば}}の{{r|穿鑿|せんさく}}に{{r|耽|ふけ}}るなかれ、{{r|恐|おそ}}らくは{{r|懸隔|けんかく}}せる{{r|対象|たいしょう}}を{{r|視|み}}んを{{r|願|ねが}}ふや、{{r|未|いま}}だ{{r|彼|かれ}}に{{r|近|ちか}}づかざるに、その{{r|路|みち}}の{{r|不|ふ}}{{r|便|べん}}の{{r|為|ため}}に{{r|衰弱|すいじゃく}}して、{{r|汝|なんじ}}の{{r|視|し}}{{r|力|りょく}}は{{r|傷|そこな}}はれん。けだし{{r|或時|あるとき}}は{{r|真実|しんじつ}}に{{r|代|か}}へて{{r|或|あ}}る{{r|幻像|げんぞう}}を{{r|見|み}}ん、{{r|而|しか}}して{{r|智|ち}}も{{r|捜索|そうさく}}の{{r|為|ため}}に{{r|煩悶|はんもん}}するときは{{r|其|その}}{{r|目的|もくてき}}を{{r|忘|わす}}れん。{{r|此|これ}}により<u>ソロモン</u>は『{{r|垣|かき}}の{{r|無|な}}き{{r|壊|やぶ}}れたる{{r|城|しろ}}の{{r|如|ごと}}し』〔[[箴言(文語訳)#25:28|箴言二十五の二十九]]〕と{{r|美|び}}{{r|妙|みょう}}に{{r|言|い}}へり、{{r|忍耐|にんたい}}なき{{r|人|ひと}}も{{r|実|じつ}}に{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}し。{{r|故|ゆえ}}に{{r|人|ひと}}はその{{r|霊魂|れいこん}}を{{r|浄|きよ}}むべく、{{r|汝|なんじ}}の{{r|性|せい}}の{{r|外|ほか}}にあるものの{{r|為|ため}}の{{r|配慮|はいりょ}}を{{r|自|みづ}}から{{r|抛擲|ほうてき}}して、その{{r|概念|がいねん}}と{{r|感動|かんどう}}に{{r|貞潔|ていけつ}}と{{r|謙遜|けんそん}}の{{r|幕|まく}}を{{r|掛|か}}けよ、さらば{{r|此|これ}}によりて{{r|汝|なんじ}}は{{r|天性|てんせい}}の{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}にあるものを{{r|発見|はっけん}}せん、{{r|何|なん}}となれば{{r|奥|おう}}{{r|義|ぎ}}の{{r|啓|けい}}{{r|示|し}}は{{r|謙遜|けんそん}}なる{{r|者|もの}}に{{r|與|あた}}へらるればなり。
もし{{r|汝|なんじ}}はその{{r|霊魂|れいこん}}を{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}の{{r|行|こう}}{{r|為|い}}に{{r|専|もっぱら}}にして、{{r|智|ち}}を{{r|浄|きよ}}め、{{r|夜|や}}{{r|間|かん}}の{{r|儆醒|けいせい}}を{{r|守|まも}}りて、{{r|光明|こうみょう}}なる{{r|智慧|ちえ}}を{{r|得|え}}んと{{r|欲|ほっ}}せば、{{r|世|よ}}の{{r|観玩|かんがん}}に{{r|遠|とお}}ざかり、{{r|人々|ひとびと}}と{{r|面会|めんかい}}するを{{r|絶|た}}つべし、たとひ{{r|有益|ゆうえき}}に{{r|托|たく}}すとも、{{r|汝|なんじ}}と{{r|同|どう}}{{r|性情|せいじょう}}{{r|同|どう}}{{r|思想|しそう}}にして、{{r|汝|なんじ}}と{{r|共|とも}}に{{r|奥|おう}}{{r|義|ぎ}}を{{r|談|だん}}ずる{{r|者|もの}}の{{r|外|ほか}}は{{r|風習|ふうしゅう}}に{{r|依|よ}}り{{r|友|とも}}を{{r|己|おのれ}}の{{r|庵|あん}}に{{r|受|うく}}るなかれ、{{r|外的|がいてき}}{{r|談|だん}}{{r|話|わ}}を{{r|断絶|だんぜつ}}し、{{r|解除|かいじょ}}して、{{r|之|これ}}を{{r|全|まった}}く{{r|廃|はい}}したるが{{r|為|ため}}{{r|常|つね}}に{{r|心|こころ}}ならずして{{r|惹起|ひきおこ}}さるる{{r|心的|しんてき}}{{r|談|だん}}{{r|話|わ}}の{{r|混合|こんごう}}を{{r|恐|おそ}}れよ。{{r|汝|なんじ}}の{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}に{{r|施|し}}{{r|済|さい}}を{{r|結|むすび}}{{r|付|つ}}けよ、さらば{{r|汝|なんじ}}の{{r|霊|れい}}は{{r|真実|しんじつ}}の{{r|光|ひかり}}を{{r|観|み}}ん。けだし{{r|心|こころ}}が{{r|外物|がいぶつ}}に{{r|擾|みだ}}さるることの{{r|止|や}}むに{{r|随|したが}}ひ、{{r|智|ち}}は{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|思|し}}{{r|想|そう}}と{{r|行|こう}}{{r|為|い}}とを{{r|理|り}}{{r|会|かい}}するにより、{{r|通暁|つうぎょう}}と{{r|驚愕|きょうがく}}とに{{r|達|たっ}}するを{{r|得|う}}るなり。けだし{{r|少|すこ}}しく{{r|勉励|べんれい}}するならば、{{r|人間|にんげん}}の{{r|集会|しゅうかい}}を{{r|神|かみ}}と{{r|対談|たいだん}}すると{{r|神|かみ}}の{{r|言|ことば}}とに{{r|換|か}}へ、{{r|一|いつ}}の{{r|談|だん}}{{r|話|わ}}を{{r|他|た}}の{{r|談|だん}}{{r|話|わ}}に{{r|換|か}}へんことは{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|為|ため}}に{{r|常|つね}}に{{r|速|すみやか}}なるべし。ゆえに{{r|一|いつ}}の{{r|対談|たいだん}}を{{r|他|た}}の{{r|対談|たいだん}}に{{r|換|か}}へんと{{r|欲|ほっ}}せば、{{r|直覚|ちょくかく}}の{{r|機微|きび}}なる{{r|路|みち}}を{{r|汝|なんじ}}に{{r|啓|けい}}{{r|示|し}}する{{r|聖書|せいしょ}}と{{r|諸|しょ}}{{r|聖人|せいじん}}の{{r|傳|でん}}とを{{r|学|まな}}ぶべし、たとひ{{r|最初|さいしょ}}は{{r|近|ちか}}きを{{r|暗|くら}}ます{{r|物|もの}}の{{r|為|ため}}に{{r|愉|ゆ}}{{r|快|かい}}を{{r|感|かん}}ぜずといへども、{{r|之|これ}}を{{r|学|まな}}ぶべし。
{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}に{{r|立|た}}つてその{{r|規|き}}{{r|則|そく}}を{{r|行|おこな}}ふときは、{{r|世|よ}}に{{r|見聞|けんぶん}}したるものを{{r|思|おも}}ふに{{r|代|か}}へてその{{r|通読|つうどく}}したる{{r|神|かみ}}の{{r|書|しょ}}を{{r|思|おも}}ふことを{{r|得|う}}べく、{{r|此|この}}{{r|思|おもい}}により{{r|浮|うき}}{{r|世|よ}}の{{r|事|こと}}に{{r|就|つき}}て{{r|記|き}}{{r|憶|おく}}せし{{r|所|ところ}}のものを{{r|忘|わす}}るるに{{r|至|いた}}るべし、かくの{{r|如|ごと}}くして{{r|智|ち}}は{{r|潔浄|じょうけつ}}に{{r|達|たっ}}せん。{{r|読経|どくきょう}}は{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}に{{r|立|た}}つとき{{r|霊魂|れいこん}}に{{r|助|たす}}けんと{{r|書|しる}}されしも、{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|読経|どくきょう}}により{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|照明|しょうめい}}せられんと{{r|書|しる}}されしも{{r|此|こ}}の{{r|謂|いい}}なり。{{r|而|しか}}して{{r|読経|どくきょう}}は{{r|外的|がいてき}}{{r|混合|こんごう}}に{{r|代|か}}へて{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}の{{r|各|かく}}{{r|種類|しゅるい}}に{{r|糧|かて}}を{{r|給|きゅう}}するなり。ゆえに{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|読経|どくきょう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|照明|しょうめい}}せられて{{r|怠|おこた}}らず{{r|擾|みだ}}されずして{{r|常|つね}}に{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}せん。
{{r|霊的|れいてき}}{{r|対象|たいしょう}}を{{r|研究|けんきゅう}}するは{{r|肉体|にくたい}}を{{r|愛|あい}}する{{r|者|もの}}と{{r|腹|はら}}を{{r|喜|よろこ}}ばす{{r|者|もの}}との{{r|為|ため}}には{{r|不|ふ}}{{r|適当|てきとう}}なること、{{r|恰|あたか}}も{{r|貞潔|ていけつ}}の{{r|事|こと}}を{{r|談|だん}}ずるは{{r|淫|いん}}{{r|婦|ぷ}}に{{r|不|ふ}}{{r|適当|てきとう}}なるが{{r|如|ごと}}し。{{r|極|きわ}}めて{{r|薄弱|はくじゃく}}なる{{r|体|たい}}は{{r|膏|こう}}{{r|粱|りょう}}<ref>投稿者注:脂ののった肉と上等な穀物。贅沢な食事のこと。</ref>なる{{r|食物|しょくぶつ}}を{{r|厭|いと}}ひ{{r|且|かつ}}は{{r|之|これ}}に{{r|堪|た}}へざらん。{{r|浮|うき}}{{r|世|よ}}のことに{{r|占領|せんりょう}}せられたる{{r|智|ち}}も{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|事|こと}}の{{r|研究|けんきゅう}}に{{r|近|ちか}}づく{{r|能|あた}}はず。{{r|火|ひ}}は{{r|湿|しめ}}りたる{{r|薪|まき}}に{{r|燃|もえ}}{{r|付|つ}}かざらん、{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|熱愛|ねつあい}}も{{r|安佚|あんいつ}}を{{r|愛|あい}}する{{r|者|もの}}の{{r|心|こころ}}に{{r|燃|もえ}}{{r|付|つ}}かざるなり。{{r|淫|いん}}{{r|婦|ぷ}}は{{r|一人|いちにん}}に{{r|情|じょう}}{{r|誼|ぎ}}を{{r|守|まも}}らず、{{r|多|おお}}くの{{r|事|こと}}に{{r|絆|ほだ}}さるる{{r|霊魂|れいこん}}も{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|教訓|きょうくん}}に{{r|忠|ちゅう}}なるものとなりて{{r|存|そん}}せず。{{r|自己|じこ}}の{{r|目|め}}を{{r|以|もっ}}て{{r|太陽|たいよう}}を{{r|見|み}}ざる{{r|人|ひと}}はただ{{r|之|これ}}を{{r|聞|き}}くのみにて、その{{r|光|ひかり}}に{{r|触|ふ}}れざるにより、{{r|人|ひと}}にその{{r|光|ひかり}}を{{r|説明|せつめい}}する{{r|能|あた}}はざるべし、{{r|霊神|れいしん}}{{r|上|じょう}}の{{r|行|おこない}}の{{r|美|び}}を{{r|心|こころ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|味|あぢは}}へざる{{r|者|もの}}も{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}し。
{{r|日中|にっちゅう}}の{{r|需要|じゅよう}}の{{r|為|ため}}に{{r|余|あまり}}{{r|有|あ}}る{{r|時|とき}}は、{{r|之|これ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|貧者|ひんしゃ}}に{{r|頒|わか}}ち{{r|與|あた}}へよ、{{r|而|しか}}して{{r|行|ゆい}}て{{r|勇|ゆう}}{{r|気|き}}にして{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}を{{r|献|ささ}}げよ、{{r|即|すなはち}}{{r|神|かみ}}と{{r|談|だん}}{{r|話|わ}}すること{{r|子|こ}}の{{r|父|ちち}}と{{r|談|だん}}{{r|話|わ}}する{{r|如|ごと}}くせよ、{{r|施|し}}{{r|済|さい}}の{{r|如|ごと}}く{{r|心|こころ}}を{{r|神|かみ}}に{{r|近|ちか}}づくるものはある{{r|能|あた}}はざるべく、{{r|又|また}}{{r|任|にん}}{{r|意|い}}なる{{r|貧|ひん}}の{{r|如|ごと}}く{{r|安静|あんせい}}を{{r|心|こころ}}に{{r|生|しょう}}ずるものもあらざらん。{{r|質朴|しつぼく}}の{{r|為|ため}}に{{r|衆人|しゅうじん}}が{{r|汝|なんじ}}を{{r|無智|むち}}と{{r|名|な}}づくるは、{{r|名声|めいせい}}の{{r|為|ため}}に{{r|賢明|けんめい}}と{{r|名|な}}づけ{{r|才能|さいのう}}の{{r|完全|かんぜん}}なる{{r|者|もの}}と{{r|名|な}}づくるより{{r|愈|まさ}}れり。もし{{r|誰|たれ}}か{{r|馬|うま}}に{{r|座|ざ}}し{{r|施|ほどこし}}をうけんとして{{r|汝|なんじ}}に{{r|手|て}}を{{r|伸|のば}}さば{{r|否|いな}}むなかれ、{{r|何|なん}}となれば{{r|此時|このとき}}{{r|彼|かれ}}は{{r|貧|まづ}}しくして{{r|乞人|こじき}}の{{r|一|ひとり}}なることは{{r|疑|うたがい}}なければなり。{{r|然|しか}}して{{r|與|あた}}ふる{{r|時|とき}}は{{r|大量|たいりょう}}と[[wikt:慇懃|{{r|慇懃|いんぎん}}]]なる{{r|顔色|がんしょく}}とを{{r|以|もっ}}て{{r|與|あた}}へ、{{r|請|こ}}ふ{{r|所|ところ}}よりも{{r|多|おお}}く{{r|給|きゅう}}せよ。けだし{{r|言|い}}ふあり、{{r|汝|なんじ}}の{{r|砕片|さいへん}}を<span style="border-bottom: dotted 2px">{{r|貧者|ひんしゃ}}の{{r|面前|めんぜん}}に{{r|投|とう}}ぜよ</span>、{{r|然|しか}}らば{{r|多時|たじ}}ならずして{{r|報|むくい}}を{{r|得|え}}ん〔[[傳道之書(文語訳)#11:1|傳道之書十一の一]]〕。{{r|富者|ふうしゃ}}を{{r|貧者|ひんしゃ}}より{{r|区|く}}{{r|別|べつ}}するなかれ、{{r|適当|てきとう}}なる{{r|者|おの}}を{{r|不|ふ}}{{r|適当|てきとう}}なる{{r|者|もの}}より{{r|弁別|べんべつ}}するなかれ、{{r|尽|ことごと}}くの{{r|人|ひと}}は{{r|汝|なんじ}}の{{r|為|ため}}に{{r|善|ぜん}}なる{{r|行|おこない}}に{{r|因|よ}}りて{{r|一様|いちよう}}なるべし。けだし{{r|此|この}}{{r|方法|ほうほう}}により{{r|不|ふ}}{{r|適当|てきとう}}なる{{r|者|もの}}をも{{r|善|ぜん}}に{{r|誘引|ゆういん}}するを{{r|得|う}}べし、{{r|何|なん}}となれば{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|有形|ゆうけい}}{{r|上|じょう}}のものにより{{r|敬神|けいしん}}に{{r|誘引|ゆういん}}せらるればなり。{{r|主|しゅ}}が{{r|税|ぜい}}{{r|吏|り}}{{r|又|また}}は{{r|淫|いん}}{{r|婦|ぷ}}と{{r|食|しょく}}を{{r|共|とも}}にして{{r|不|ふ}}{{r|適当|てきとう}}なる{{r|者|もの}}を{{r|斥|しりぞ}}けざりしも、{{r|此|この}}{{r|方法|ほうほう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|不|ふ}}{{r|適当|てきとう}}なる{{r|者|もの}}を{{r|敬神|けいしん}}に{{r|誘引|ゆういん}}せん{{r|為|ため}}なり。{{r|又|また}}{{r|有形|ゆうけい}}{{r|上|じょう}}に{{r|頼|よ}}り{{r|無|む}}{{r|形|けい}}{{r|霊神|れいしん}}{{r|上|じょう}}に{{r|近|ちか}}づかしめん{{r|為|ため}}なり。ゆえに{{r|作善|さくぜん}}と{{r|尊敬|そんけい}}とを{{r|以|もっ}}て{{r|悉|ことごと}}くの{{r|人|ひと}}を{{r|平等|びょうどう}}{{r|視|し}}し、{{r|或|あるい}}は{{二重線|イウデヤ}}{{r|人|じん}}たり、{{r|或|あるい}}は{{r|不|ふ}}{{r|信者|しんしゃ}}たり、{{r|或|あるい}}は{{r|殺人|さつじん}}{{r|者|しゃ}}たるを{{r|問|と}}ふなかれ、{{r|矧|いは}}んや{{r|彼|かれ}}も{{r|汝|なんじ}}の{{r|為|ため}}に{{r|兄弟|けいてい}}たり、{{r|汝|なんじ}}と{{r|同性|どうせい}}にして{{r|識|し}}りつつ{{r|真|しん}}{{r|理|り}}を{{r|錯|あやま}}りしには{{r|非|あらざ}}るをや。
{{r|人|ひと}}に{{r|善|ぜん}}を{{r|為|な}}すときは{{r|彼|かれ}}より{{r|報酬|ほうしゅう}}を{{r|待|ま}}つなかれ、さらば{{r|彼|かれ}}の{{r|為|ため}}にも{{r|此|これ}}の{{r|為|ため}}にも{{r|神|かみ}}は{{r|汝|なんじ}}を{{r|賞|しょう}}{{r|賜|し}}せん。{{r|然|しか}}して{{r|汝|なんじ}}の{{r|為|ため}}に{{r|能|よ}}くするときは{{r|善|ぜん}}を{{r|為|な}}すべく、{{r|未来|みらい}}の{{r|報酬|ほうしゅう}}の{{r|為|ため}}に{{r|為|な}}すなかれ。もし{{r|極貧|ごくひん}}の{{r|規則|きそく}}をその{{r|心|こころ}}に{{r|課|か}}して、{{r|神|かみ}}の{{r|恩寵|おんちょう}}により{{r|憂慮|ゆうりょ}}を{{r|免|まぬか}}れ、{{r|極貧|ごくひん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|世|よ}}より{{r|高|たか}}く{{r|立|た}}つならば、{{r|慎|つつし}}めよ、{{r|貧者|ひんしゃ}}を{{r|愛|あい}}して{{r|施|ほどこし}}を{{r|為|な}}さん{{r|為|ため}}に{{r|獲|う}}るを{{r|嗜|たし}}むなかれ、{{r|一者|いつしゃ}}より{{r|取|と}}りて{{r|他者|たしゃ}}に{{r|與|あた}}へんが{{r|為|ため}}にその{{r|心|こころ}}を{{r|擾乱|じょうらん}}に{{r|投|とう}}ずるなかれ、{{r|人々|ひとびと}}に{{r|従属|じゅうぞく}}して{{r|己|おのれ}}の{{r|尊敬|そんけい}}を{{r|貶|おと}}すなかれ、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}に{{r|請願|せいがん}}して{{r|浮|うき}}{{r|世|よ}}の{{r|事|こと}}を{{r|慮|おもんばか}}るが{{r|為|ため}}にその{{r|智|ち}}の{{r|自由|じゆう}}と{{r|尊|そん}}{{r|貴|き}}とを{{r|失|うしな}}ふなかれ、{{r|何|なん}}となれば{{r|汝|なんじ}}の{{r|階段|かいだん}}は{{r|慈|じ}}{{r|恵者|けいしゃ}}の{{r|階段|かいだん}}より{{r|高|たか}}ければなり、{{r|汝|なんじ}}に{{r|願|ねが}}ふ{{r|如何|いかに}}しても{{r|従属|じゅうぞく}}せざらんことを。{{r|慈|じ}}{{r|恵|けい}}は{{r|子|こ}}を{{r|育|そだ}}つるに{{r|似|に}}たり。されど{{r|黙想|もくそう}}は{{r|完全|かんぜん}}の{{r|最巓|さいてん}}<ref>投稿者注:頂上。一番高い所。</ref>なり。もし{{r|汝|なんじ}}に{{r|財産|ざいさん}}あらば{{r|一|いち}}{{r|時|じ}}に{{r|之|これ}}を{{r|散|さん}}ぜよ。されど{{r|何物|なにもの}}をも{{r|有|ゆう}}せずんば、{{r|有|ゆう}}せんことを{{r|願|ねが}}ふなかれ。{{r|己|おのれ}}の{{r|庵|いおり}}を{{r|浄潔|じょうけつ}}にして、{{r|奢|しゃ}}{{r|侈|し}}と{{r|贅物|ぜいぶつ}}とを{{r|去|さ}}れ、{{r|何|なん}}となれば{{r|汝|なんじ}}の{{r|欲|ほっ}}せざるに{{r|拘|かか}}はらず、こは{{r|汝|なんじ}}を{{r|節制|せっせい}}にみちびくを{{r|余儀|よぎ}}なくせしむればなり。すべてのものに{{r|欠乏|けつぼう}}するは{{r|人|ひと}}に{{r|節制|せっせい}}を{{r|教|おし}}へん、{{r|然|しか}}れども{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|自|みづ}}から{{r|許|ゆる}}して{{r|彼|かれ}}と{{r|此|これ}}とを{{r|有|ゆう}}するときは{{r|己|おのれ}}を{{r|節制|せっせい}}する{{r|能|あた}}はざるべし。
{{r|外|がい}}{{r|部|ぶ}}の{{r|戦|たたかい}}に{{r|勝|しょう}}{{r|利|り}}を{{r|得|え}}たる{{r|者|もの}}は{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}の{{r|戦|たたかい}}を{{r|畏|おそ}}れざる{{r|勇|ゆう}}{{r|気|き}}を{{r|有|ゆう}}せん、されば{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}を{{r|危懼|きく}}せしむるものは{{r|一|いつ}}としてあるなく、{{r|前|ぜん}}{{r|後|ご}}より{{r|来|きた}}らんとする{{r|戦|たたかい}}に{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|動揺|どうよう}}せざらん、{{r|知|し}}るべし{{r|戦|たたかい}}とは{{r|感覚|かんかく}}により{{r|及|およ}}び{{r|不|ふ}}{{r|注意|ちゅうい}}により{{r|心中|しんちゅう}}に{{r|起|おこ}}る{{r|所|ところ}}の{{r|戦|たたかい}}にして、{{r|例|たと}}へば{{r|耳|みみ}}{{r|又|また}}{{r|舌|した}}により{{r|或|あるい}}は{{r|與|あた}}へ{{r|或|あるい}}は{{r|取|と}}るときに{{r|起|おこ}}る{{r|所|ところ}}のものをいふ。{{r|是|こ}}れ{{r|皆|みな}}{{r|心中|しんちゅう}}にて{{r|混迷|こんめい}}を{{r|生|しょう}}ぜん。ゆえに{{r|外|がい}}{{r|部|ぶ}}の{{r|擾乱|じょうらん}}の{{r|至|いた}}るに{{r|際|さい}}し{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|心中|しんちゅう}}に{{r|起|おこ}}る{{r|所|ところ}}の{{r|秘密|ひみつ}}なる{{r|戦|たたかい}}に{{r|自|みづ}}から{{r|注意|ちゅうい}}して、{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}に{{r|蜂|ほう}}{{r|起|き}}するものに{{r|安静|あんせい}}を{{r|以|もっ}}て{{r|克|か}}つ{{r|能|あた}}はざるべし。{{r|然|しか}}れども{{r|人|ひと}}はその{{r|城門|じょうもん}}を{{r|閉|と}}づるとき、{{r|即|すなはち}}{{r|感覚|かんかく}}を{{r|閉|と}}づるときは、{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}に{{r|戦|たたか}}ふべく、{{r|城外|じょうがい}}に{{r|悪|あく}}を{{r|謀|はか}}る{{r|者|もの}}{{r|等|ら}}を{{r|恐|おそ}}れざらん。
{{r|此|これ}}を{{r|知|し}}りて{{r|黙想|もくそう}}を{{r|務|つと}}め、{{r|事|こと}}の{{r|多|た}}{{r|端|たん}}を{{r|以|もっ}}て{{r|己|おのれ}}を{{r|煩|わづらは}}さずして、すべて{{r|身体|しんたい}}の{{r|精力|せいりょく}}を{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}の{{r|労|ろう}}に{{r|向|む}}け、{{r|神|かみ}}の{{r|為|ため}}に{{r|労|ろう}}して、{{r|日|にち}}{{r|夜|や}}{{r|神|かみ}}のことに{{r|配慮|はいりょ}}する{{r|間|あいだ}}は{{r|極|きわ}}めて{{r|緊要|きんよう}}なるものにも{{r|乏|とぼ}}しきを{{r|有|ゆう}}せざるべしと{{r|確信|かくしん}}する{{r|者|もの}}は{{r|福|さいわい}}なり、{{r|何|なん}}となれば{{r|神|かみ}}の{{r|為|ため}}に{{r|放心|ほうしん}}より{{r|又|また}}{{r|労|ろう}}よりも{{r|遠|とお}}ざかればなり。しかれどももし{{r|誰|たれ}}か{{r|手工|しゅこう}}せずしては{{r|黙想|もくそう}}を{{r|務|つと}}むる{{r|能|あた}}はざるときは、{{r|手工|しゅこう}}を{{r|補助|ほじょ}}とし{{r|用|もち}}ひて{{r|働|はたら}}くべし、{{r|利益|りえき}}の{{r|為|ため}}に{{r|慾心|よくしん}}よりするなかれ。{{r|手工|しゅこう}}は{{r|弱者|じゃくしゃ}}の{{r|為|ため}}に{{r|課|か}}せらる、{{r|然|しか}}れども{{r|最|いと}}{{r|完全|かんぜん}}なる{{r|者|もの}}の{{r|為|ため}}には{{r|彼|かれ}}は{{r|擾乱|じょうらん}}の{{r|因|いん}}とならん。けだし{{r|貧者|ひんしゃ}}と{{r|怠慢|たいまん}}{{r|者|しゃ}}の{{r|為|ため}}に{{r|神|しん}}{{r|父|ぷ}}{{r|等|ら}}は{{r|手工|しゅこう}}に{{r|従|じゅう}}{{r|事|じ}}すべきを{{r|定|さだ}}めたれども、{{r|緊要|きんよう}}なる{{r|行|おこない}}としたるには{{r|非|あら}}ず。
{{r|神|かみ}}が{{r|汝|なんじ}}の{{r|心|こころ}}を{{r|深|ふか}}く{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}に{{r|於|おい}}て{{r|感動|かんどう}}せしむる{{r|時|とき}}は{{r|拝|はい}}と{{r|跪|き}}とを{{r|断|た}}えず{{r|行|おこな}}ふべし。もし{{r|魔鬼|まき}}が{{r|汝|なんじ}}を{{r|勧|すす}}めて{{r|他|た}}の{{r|行|こう}}{{r|為|い}}に{{r|従|じゅう}}{{r|事|じ}}せしめんとするも、その{{r|心|こころ}}に{{r|何|なに}}を{{r|慮|おもんばか}}るをも{{r|許|ゆる}}すなかれ、{{r|而|しか}}してその{{r|時|とき}}{{r|此|これ}}により{{r|汝|なんじ}}に{{r|生|しょう}}ずるものの{{r|如何|いか}}なるを{{r|見|み}}て{{r|驚嘆|きょうたん}}せよ。もし{{r|誰|たれ}}か{{r|日|にち}}{{r|夜|や}}{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}して<u>ハリストス</u>の{{r|十字|じゅうじ}}{{r|架|か}}の{{r|前|まえ}}に{{r|己|おのれ}}を{{r|捧|ささ}}ぐること{{r|面縛|めんばく}}せられし{{r|者|もの}}の{{r|如|ごと}}くならば、{{r|苦行|くぎょう}}{{r|者|しゃ}}の{{r|戦|たたかい}}に{{r|於|おい}}てかくの{{r|如|ごと}}く{{r|重要|じゅうよう}}にして{{r|且|かつ}}{{r|難|かた}}きものは{{r|他|た}}に{{r|一|いつ}}もあらざるべく、{{r|又|また}}かくの{{r|如|ごと}}く{{r|魔鬼|まき}}の{{r|猜|さい}}{{r|疑|ぎ}}を{{r|起|おこ}}すものもあらざるべし。その{{r|熱愛|ねつあい}}の{{r|冷|ひややか}}ならずして{{r|涙|なみだ}}の{{r|乏|とぼ}}しからざらんを{{r|欲|ほっ}}するか、{{r|此|これ}}を{{r|練習|れんしゅう}}せよ、{{r|人|ひと}}よ、{{r|予|よ}}が{{r|汝|なんじ}}に{{r|告|つ}}ぐるものの{{r|為|ため}}に{{r|日|にち}}{{r|夜|や}}{{r|慮|おもんばか}}りて{{r|他|た}}の{{r|何事|なにごと}}をも{{r|願|ねが}}はずんば、{{r|汝|なんじ}}は{{r|福|さいわい}}なり。その{{r|時|とき}}{{r|光|ひかり}}は{{r|汝|なんじ}}の{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}に{{r|輝|かがや}}き、{{r|汝|なんじ}}の{{r|義|ぎ}}は{{r|速|すみやか}}に{{r|照|てら}}し{{r|始|はじ}}めて、{{r|爛漫|らんまん}}なる{{r|花園|はなぞの}}の{{r|如|ごと}}くなるべく、{{r|水|みづ}}に{{r|乏|とぼ}}しからざる{{r|泉|いづみ}}の{{r|如|ごと}}くなるべし。{{r|視|み}}よ、{{r|苦行|くぎょう}}により{{r|人|ひと}}に{{r|如何|いか}}なる{{r|幸福|こうふく}}の{{r|生|しょう}}ずるかを。{{r|人|ひと}}は{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}に{{r|膝|ひざ}}を{{r|屈|かが}}め、{{r|手|て}}を{{r|天|てん}}に{{r|挙|あ}}げ、{{r|面|おもて}}は<u>ハリストス</u>の{{r|十字|じゅうじ}}{{r|架|か}}に{{r|向|むか}}ひ、その{{r|悉|ことごと}}くの{{r|思|おもい}}を{{r|一|ひとつ}}に{{r|纏|まと}}めて{{r|神|かみ}}に{{r|祈|いの}}るに{{r|集中|しゅうちゅう}}すること{{r|屡々|しばしば}}{{r|之|これ}}あらん、{{r|而|しか}}して{{r|人|ひと}}が{{r|涙|なみだ}}と{{r|感動|かんどう}}とを{{r|以|もっ}}て{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}するやその{{r|間|あいだ}}に{{r|之|これ}}と{{r|同|どう}}{{r|時|じ}}に{{r|忽焉|こつえん}}としてその{{r|心|こころ}}に{{r|楽|たのし}}みを{{r|注|そそ}}ぐ{{r|泉|いづみ}}の{{r|沸騰|ふっとう}}するありて、その{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}は{{r|弱|よわ}}り、{{r|目|め}}は{{r|閉|と}}ぢ、{{r|面|おもて}}は{{r|地|ち}}に{{r|俯|ふ}}して、その{{r|所思|しょし}}は{{r|変|へん}}{{r|化|か}}す、よりて{{r|人|ひと}}はその{{r|全身|ぜんしん}}に{{r|惹起|ひきおこ}}さるる{{r|歓|かん}}{{r|喜|き}}の{{r|為|ため}}に{{r|叩拝|こうはい}}を{{r|為|な}}す{{r|能|あた}}はざることあらん。{{r|人|ひと}}よ{{r|読|よ}}む{{r|所|ところ}}のものに{{r|注意|ちゅうい}}せよ。けだし{{r|奮闘|ふんとう}}せずんば{{r|獲|う}}る{{r|所|ところ}}あらざるべく、{{r|熱心|ねっしん}}に{{r|門|もん}}を{{r|叩|たた}}き、その{{r|側|かたわら}}に{{r|不|ふ}}{{r|断|だん}}{{r|儆醒|けいせい}}して{{r|止|とど}}まらずんば{{r|聴|き}}かれざるべし。
{{r|黙想|もくそう}}を{{r|守|まも}}るに{{r|堪|た}}へざる{{r|者|もの}}の{{r|外|ほか}}{{r|誰|たれ}}か{{r|此|これ}}を{{r|聞|き}}きて{{r|外|がい}}{{r|部|ぶ}}の{{r|義|ぎ}}を{{r|欲|ほっ}}する{{r|者|もの}}ありや。されどもし{{r|誰|たれ}}か{{r|黙想|もくそう}}を{{r|練習|れんしゅう}}する{{r|能|あた}}はずんば〔けだし{{r|門|もん}}の{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}にあることは{{r|神|かみ}}の{{r|恩寵|おんちょう}}を{{r|以|もっ}}て{{r|人|ひと}}に{{r|與|あた}}へらるればなり〕{{r|他|た}}の{{r|路|みち}}を{{r|棄|す}}つるなかれ、{{r|然|しか}}らずんば{{r|生命|いのち}}の{{r|二|ふたつ}}の{{r|路|みち}}に{{r|於|おい}}てその{{r|一|いつ}}を{{r|失|うしな}}はん。{{r|外|がい}}{{r|部|ぶ}}の{{r|人|ひと}}がすべて{{r|世|よ}}に{{r|属|ぞく}}するものの{{r|為|ため}}に{{r|死|し}}せずただ{{r|罪|つみ}}の{{r|為|ため}}のみならず、すべて{{r|肉身的|にくしんてき}}{{r|行|こう}}{{r|為|い}}の{{r|為|ため}}にも{{r|死|し}}せずして、{{r|之|これ}}と{{r|同|おなじ}}く{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}の{{r|人|ひと}}も{{r|邪|よこしま}}なる{{r|思|おもい}}の{{r|為|ため}}に{{r|死|し}}せず、{{r|肉体|にくたい}}の{{r|自|し}}{{r|然|ぜん}}の{{r|感動|かんどう}}が{{r|弱|よわ}}りて、{{r|罪|つみ}}の{{r|甘|かん}}{{r|美|び}}が{{r|心中|しんちゅう}}に{{r|起|おこ}}らざるに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}は、{{r|神|かみ}}の{{r|神|しん}}の{{r|甘|かん}}{{r|美|び}}も{{r|人|ひと}}に{{r|起|おこ}}らざるべく、その{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}は{{r|此|この}}{{r|生命|いのち}}に{{r|於|おい}}て{{r|潔浄|けつじょう}}を{{r|受|う}}けざるべく、{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|思|おもい}}はその{{r|霊中|れいちゅう}}に{{r|入|い}}らずして{{r|感|かん}}じ{{r|得|え}}ざるものとなるべく、{{r|知|しり}}{{r|得|え}}ざるものとなりて{{r|存|そん}}せん。{{r|且|かつ}}{{r|人|ひと}}は{{r|天性|てんせい}}の{{r|免|まぬか}}る{{r|可|べか}}らざる{{r|要求|ようきゅう}}の{{r|外|ほか}}は{{r|生活|せいかつ}}の{{r|為|ため}}の{{r|慮|おもんばか}}りをその{{r|心中|しんちゅう}}に{{r|働|はたら}}かしめずして、{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}の{{r|配慮|はいりょ}}を{{r|神|かみ}}に{{r|托|たく}}するに{{r|至|いた}}らざる{{r|間|あいだ}}は{{r|霊的|れいてき}}{{r|酩酊|めいてい}}は{{r|人|ひと}}に{{r|起|おこ}}らずして、{{r|使徒|しと}}が{{r|自|みづ}}から{{r|慰|なぐさ}}めたる〔[[ガラテヤ人への書(文語訳)#2:20|ガラティヤ二の二十]]〕{{r|慰|い}}{{r|安|あん}}を{{r|知|し}}らざるべし。されど{{r|予|よ}}が{{r|此事|このこと}}を{{r|言|い}}ひしは{{r|失望|しつぼう}}せしには{{r|非|あら}}ず、もし{{r|誰|たれ}}か{{r|完全|かんぜん}}の{{r|最巓|さいてん}}に{{r|達|たっ}}せずんば{{r|神|かみ}}の{{r|恩寵|おんちょう}}を{{r|賜|たま}}はらずして{{r|神|かみ}}の{{r|慰|い}}{{r|安|あん}}を{{r|迎|むか}}へざらんといふには{{r|非|あら}}ず。けだし{{r|人|ひと}}は{{r|不|ふ}}{{r|適|てき}}{{r|宜|ぎ}}なるものを{{r|軽|かろ}}んじ、{{r|之|これ}}より{{r|全|まった}}く{{r|遠|とお}}ざかりて{{r|善|ぜん}}に{{r|帰|かえ}}るならば、{{r|実|じつ}}に{{r|速|すみやか}}に{{r|助|たすけ}}を{{r|感|かん}}ぜん。もし{{r|少|すこ}}しく{{r|尽力|じんりょく}}を{{r|用|もち}}ふるならば、その{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|為|ため}}に{{r|慰|い}}{{r|安|あん}}を{{r|見|み}}るべく、{{r|罪|つみ}}の{{r|赦|ゆる}}しを{{r|捉|とら}}ふべく、{{r|恩寵|おんちょう}}を{{r|賜|たま}}はりて{{r|多|おお}}くの{{r|幸福|こうふく}}をうけん。さりながら{{r|彼|かれ}}は{{r|世|よ}}を{{r|離|はな}}れたる{{r|者|もの}}の{{r|完全|かんぜん}}に{{r|比|ひ}}すれば、{{r|彼処|かしこ}}に{{r|福楽|ふくらく}}の{{r|奥|おう}}{{r|義|ぎ}}をその{{r|霊中|れいちゅう}}に{{r|発見|はっけん}}して<u>ハリストス</u>の{{r|来|きた}}りし{{r|所以|ゆえん}}を{{r|理|り}}{{r|会|かい}}すること{{r|更|さら}}に{{r|鮮少|せんしょう}}なり。{{r|彼|かれ}}に{{r|光栄|こうえい}}は{{r|父|ちち}}{{r|及|およ}}び{{r|聖神|せいしん}}と{{r|共|とも}}に{{r|今|いま}}も{{r|何時|いつ}}も{{r|世々|よよ}}に{{r|帰|き}}す。「アミン」。
== 脚注 ==
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==現代語訳==
<< 神への愛、世俗からの離脱、そして神への安息について >>
神を愛する魂は、神の中に、そして神の中にのみ安らぎを見出す。まず、あらゆる外的な結びつきを捨てなさい。そうすれば、心の中で神と結びつくことができる。なぜなら、神との結びつきは物質の放棄によって先行されるからである。乳で養われた後に、パンが乳児に与えられるように、神において進歩を望む者は、まず、乳児が母親の抱擁と乳房から離れるように、世俗から離れなければならない。肉体的な活動は霊的な活動に先行する。ちょうど塵がアダムに吹き込まれた魂に先行したように。肉体的な活動を得ていない者は、霊的な活動を得ることはできない。なぜなら、後者は前者から生まれるからである。麦の穂が麦の粒から生まれるように。そして、霊的な活動を欠く者は、霊的な賜物も奪われるのである。
この世で真理のために耐え忍ぶ苦しみは、善のために苦しむ人々のために用意された喜びに比べれば何でもない。涙を流して種を蒔く者には喜びの収穫が待っているように(詩篇126篇5、6節参照)、神のために苦しむ者にも喜びが待っている。汗水流して得たパンは農夫にとって甘いものである。キリストを知る心を持つ者にとって、義のために働くこともまた甘いものである。善意をもって、屈辱と謙遜に耐えなさい。そうすれば、神の前で大胆さを見いだすであろう。自分がその言葉を語った者に対して不正を行っていないのに、あらゆる厳しい言葉を承知の上で耐え忍ぶ人は、それによって茨の冠を頭にかぶることになるが、幸いである。なぜなら、彼は知らないうちに朽ちない冠を授けられるからである。
知識をもって虚栄から逃れる者は、来るべき時代を魂で感じ取っている。世俗を捨てたと主張しながら、心の平安を得るために何か不足するものがないかと、人々と争う者は、全く盲目である。なぜなら、自ら全身を捨てたにもかかわらず、その一部について争い、争うからである。この世の平安から逃れる者は、すでに来るべき時代を垣間見ている。しかし、貪欲に縛られている者は情欲の奴隷である。金銀の獲得だけを貪欲と考えてはならない。むしろ、あなたの意志が縛られているすべてのものを貪欲と考えるべきである。五感を自由に働かせた者、すなわち聴覚、口を開けて制御不能な唇、そして散漫な目を褒めてはならない。あなたが自分の魂に限界を設けて慈悲をもって自分を律するなら、他の事柄で正当化を求めないように魂を訓練しなさい。そうすれば、片手で行いながらもう一方の手で浪費するようなことにはならないでしょう。なぜなら、そこには慈悲と心の広さが必要だからです。
債務者の罪を赦すことは正義の問題であると知りなさい。そうすれば、あなたの心にはあらゆる場所に平和と明晰さが満ち溢れるでしょう。正義の道を超越したとき、あなたはあらゆる事柄において自由を掴むことができるでしょう。
ある聖人がこれについてこう言いました。「慈悲深い人は、正義を持たなければ盲目である。私は、慈悲深い人は、自分の努力と労働によって得たものから他人に施しを与えるべきであり、嘘や不正、策略によって得たものから与えるべきではないと理解している。」また別の箇所ではこう言いました。「貧しい人々の間に種を蒔きたいと願うなら、自分のものから蒔くべきである。しかし、他人のものから蒔こうとするなら、知っておきなさい。これは最も苦い毒麦である。」そして私は付け加えます。慈悲深い人が自分の正義を超越していなければ、慈悲深い人ではない。つまり、慈悲深い人は、自分のものから人々に施しを与えるだけでなく、他人の不正を喜んで耐え忍び、彼らに慈悲を示すのである。そして、施しによって正義が克服されるとき、彼は義人の法的冠ではなく、完全な者の福音的冠を授けられるのである。自分の持ち物から貧しい人に施し、裸の人に服を着せ、隣人を自分自身のように愛し、不正を働かず、嘘をつかないこと――これらは旧約聖書の律法によっても説かれていました。しかし、福音の教えの完全性はこう命じています。「あなたの持ち物を奪う者から強奪してはならない。求める者には誰にでも与えなさい」(ルカ6章30節)。人は、不当に何かを没収されることやその他の外的なものだけでなく、兄弟のために自分の命さえも喜んで耐え忍ぶべきです。これこそが慈悲深い行いであり、ただ与えることによって兄弟に慈悲を示す者ではありません。兄弟を悲しませるようなことを聞いたり見たりして、その心に同情する者もまた慈悲深い者であり、兄弟に平手打ちされても、厚かましくも言い返して兄弟の心を傷つけない者もまた慈悲深いのです。
徹夜の習慣を尊びなさい。そうすれば、魂のそばに慰めを見いだせるでしょう。静かに読書に励みなさい。そうすれば、あなたの心は常に神の驚異へと高められるでしょう。忍耐をもって貧しさを愛しなさい。そうすれば、あなたの心がさまようことから立ち返ることができるでしょう。空虚な生活を嫌いなさい。そうすれば、あなたの思考は乱されることなく保たれるでしょう。多くのことを控え、ただ自分の魂だけを大切にしなさい。そうすれば、あなたの魂は内なる平和の浪費から救われるでしょう。貞潔を愛しなさい。そうすれば、あなたは神の前で祈るときに恥じることはないでしょう。あなたの行いに清らかさを身につけなさい。そうすれば、あなたの魂は祈りの中で照らされ、死の記憶はあなたの心に喜びを燃え立たせるでしょう。小さなことに注意しなさい。さもないと、大きなことに陥ってしまうでしょう。仕事に怠惰であってはなりません。さもないと、友人たちの中に立っていて、旅の食料がなく、道に一人取り残されたときに恥をかくことになるでしょう。知識をもって物事を扱いなさい。さもないと、物事があなたの全進路からあなたを逸らしてしまうでしょう。人生において自由を手に入れ、嵐から身を解き放ちなさい。快楽のために自由を束縛してはならない。さもなければ、あなたは奴隷の奴隷となってしまうだろう。服装においては、質素な衣服を愛用しなさい。そうすることで、心に湧き上がる思い、すなわち心の傲慢さを抑えることができる。
輝きを愛する者は謙虚な考えを得ることができない。なぜなら、心は外的なイメージに似せて内的に刻印されているからである。
無駄話を愛する者が、清らかな心を得たことがあるだろうか。人間の栄光を追い求める者が、謙虚な思いを得たことがあるだろうか。あるいは、肉体的に放蕩で不摂生な者が、清らかな心と謙虚な精神を身につけることができるだろうか。心が感覚に支配されるとき、心もまた感覚と共に獣の食物を食する。しかし、感覚が心に支配されるとき、感覚もまた心と共に天使の食物を食する。
謙遜は自制と自己抑制を伴うが、虚栄は淫行のしもべであり、傲慢の産物である。謙遜は絶え間ない自己抑制を通して観想に到達し、魂を純潔で飾る。しかし虚栄は、絶え間ない不安と混乱した思考によって、出会うものすべてから汚れた宝を集め、心を汚す。また、物事の本質を不適切な視線で見つめ、恥ずべき空想で心を占領する。一方、謙遜は霊的に観想に留まり、それを身につけた者を称賛へと駆り立てる。
世で奇跡や不思議な業を行う者と、沈黙と知識を実践する者とを比べてはならない。世界の飢えた人々に食べ物を与え、多くの国々を神への礼拝へと改宗させることよりも、沈黙の無為を愛せ。奴隷を奴隷の身分から解放するよりも、罪の束縛から自らを解放する方があなたにとって良い。あなたの教えによって異なる考えを持つ人々をなだめるよりも、あなたの三つの構成要素、すなわち肉体、魂、霊の一体性において、あなたの魂と平和である方があなたにとって良い。神学者グレゴリウスはこう言っている。「神のために神学を論じることは良いことだが、人が神のために自らを清めることはもっと良いことだ」。知識と経験に恵まれたあなたにとって、鋭い知性から川のように教えを流すよりも、口ごもる方が良い。死者を蘇らせるよりも、神へと向かう思考の動きを通して、情欲から魂の死を蘇らせようと努力する方があなたにとってより有益である。
多くの人々は偉大な業を行い、死者をよみがえらせ、迷える者の回心のために働き、偉大な奇跡を行った。彼らの手によって多くの人々が神の知識に導かれたが、これらすべての後、他人に命を与えた彼ら自身は、卑劣で忌まわしい情欲に陥り、自らを殺し、彼らの行いが明らかになったとき、多くの人々のつまずきの石となった。なぜなら、彼らはまだ霊的な病にかかっており、魂の健康を気にかけず、自分自身がまだ弱く、神に対する魂の希望を失っているにもかかわらず、他人の魂を癒すためにこの世の海に漕ぎ出したからである。彼らの感覚の弱さは、通常情欲の激しさを引き起こすものの炎に立ち向かい、耐えることができなかった。彼らにも保護が必要であった。すなわち、女性を全く見ないこと、平和にふけらないこと、銀やその他の物を手に入れないこと、他人を支配しないこと、誰よりも優位に立たないことである。
反論する能力がないために無学だと見なされる方が、恥知らずなために賢いと見なされるよりもましだ。謙遜のために貧しくあれ、恥知らずのために金持ちになってはならない。言葉の説得力ではなく、徳の力によって、自分と異なる教義を持つ者を非難せよ。柔和さと穏やかな唇で、不従順な者の恥知らずな言動を黙らせ、沈黙させよ。節度を欠く者を、高潔な生き方で非難し、恥知らずな感情を持つ者を、抑制された目で非難せよ。
生涯を通じて、どこへ行っても、自分を異邦人として認めなさい。そうすれば、自由な振る舞いから生じる害を避けることができるでしょう。常に自分を無知だと考えなさい。そうすれば、自分のやり方で他人の意見を確立しようとして批判されることを避けることができるでしょう。常に口で祝福しなさい。そうすれば、非難されることはありません。非難は非難を生み、祝福は祝福を生むからです。あらゆることにおいて、自分は教えるには貧しすぎると考えなさい。そうすれば、生涯を通じて、あなたは賢いと示されるでしょう。自分が達成していないことを他人に教えてはいけません。そうすれば、あなたは恥じることになり、人生を振り返ったときに、あなたの偽りが明らかになるでしょう。誰かに役立つことを話し始めるときは、権威や厚かましさではなく、生徒のように話しなさい。まず自分自身を吟味し、自分が彼らより劣っていることを示しなさい。そうすれば、聞き手に謙虚さを示し、彼らがあなたの話に耳を傾け、実践し始めるように促すことができ、彼らの目にあなたは尊敬されるでしょう。もし可能であれば、そのような時は涙ながらに語りなさい。そうすれば、あなた自身とあなたの言葉を聞く人々の双方にとって益となり、神の恵みがあなたと共にあります。
もしあなたが神の恵みを受け、神の裁きと目に見える創造の光景を垣間見る特権を与えられたなら、それは知識の第一段階を構成するものである。それならば、冒涜の霊に備え、武装しなさい。しかし、この地で無防備に立ってはならない。さもないと、待ち伏せしてあなたを欺く者たちによって、あなたはすぐに死を迎えることになるだろう。あなたの武器は涙と絶え間ない断食であるべきだ。異端の教えを読むことには注意しなさい。なぜなら、それはしばしば冒涜の霊をあなたに向けさせるからである。そして、腹を満たした時、恥じることなく神聖な主題や概念を探求しなさい。さもないと、あなたは後悔することになるだろう。私があなたに言うことを理解しなさい。満腹の腹には、神の神秘についての知識はないのだ。神の摂理について教師たちが書いた書物を、飽きることなく頻繁に読みなさい。なぜなら、それらの書物は、神の被造物と御業の秩序を見分けるように心を導き、それらを力強くし、その巧妙さで光り輝く思考を得る準備をさせ、神の被造物の理解へと純粋に進むようにしてくれるからである。神が全宇宙の知識のために遺した福音書を読みなさい。そうすれば、あらゆるものに対する神の摂理の力からの導きを得ることができ、あなたの心は神の驚異に浸ることができる。そのような読書はあなたの意図を助ける。読書は邪魔されない静寂の中で行い、肉体への過度の心配や世俗的な不安から解放されなさい。そうすれば、あなたの魂は、あらゆる感情を超越する甘美な理解の最も甘美な味を味わい、あなたの魂は、そこに留まることによってこれを感じることができる。善良な人々の言葉を、偽善者や神の言葉を商売にする者たちの言葉として受け止めてはならない。そうすれば、あなたがたは残りの人生を闇の中にとどまらず、これらの言葉の益を失うこともなく、戦いの最中に悩める者のように混乱することもなく、善意のふりをして落とし穴に落ちることもない。
あなたが何を探求しようとも、次のことがあなたの内なる世界への入り口のしるしとなるでしょう。恵みがあなたの目を開き、物事をありのままに見る感覚に目覚めると、あなたの目はたちまち涙を流し始め、頬は幾度となくその無数の涙で洗い流されるでしょう。そして、感覚の葛藤は静まり、あなたの内側に隠れていきます。もし誰かがこれとは異なることを教えるなら、信じてはいけません。涙以外に、身体にこれ以上の明らかな兆候を求めてはいけません。心が被造物を超越すると、涙も、身体のあらゆる動揺や感覚も止まるのです。
「蜜を見つけたら、それをほどほどに食べなさい。食べ過ぎて吐き出してしまうことのないように。」(箴言25章16節)。魂の性質は容易に動揺し、軽やかです。時には、恍惚として、高みへと昇り、自分の性質を超えたものを発見したいと願います。聖書を読んだり、物事を観察したりすることで、魂はしばしば何かを理解します。しかし、許されて、自分が理解したものと自分を比較してみると、自分の理解の尺度において、自分の知識が到達した水準よりも低く、劣っていることに気づきます。そのため、魂は、自分の最も高次の霊的な対象に触れたことを恥じているかのように、恐れと震えと畏怖に覆われ、再び無へと急いで戻ります。対象物に対する畏怖の念から、ある種の恐れが心にのしかかり、分別は魂の心を沈黙へと導き、恥知らずにならず、滅びることのないように、また、より高次のものを求めたり、自分より上のものを探求したりしないように促します。ですから、理解する力が与えられたら、それを理解してください。そして、恥知らずに神秘に触れてはならず、静かに崇拝し、賛美し、感謝してください。蜂蜜を食べ過ぎては良くないように、神の言葉の研究に没頭しすぎると、遠い対象物を覗き見たいと思ったときに、道の不便さを経ずに近づく前に、視力が衰えてしまう恐れがあるのです。
時として、現実の代わりに幻影を見ることがあります。そして、心が真実を求めることに落胆すると、その目的を忘れてしまいます。そのため、ソロモンは「城壁のない町のように、せっかちな人は愚かである」(箴言25章28節)と美しく述べています。ですから、魂を清め、自分の本質以外の事柄への関心を捨て、清らかさと謙遜のベールを思考と行動にまとわせなさい。そうすれば、自分の本質の中にあるものを見出すことができるでしょう。なぜなら、奥義は謙遜な心にこそ明らかにされるからです。
もしあなたが、心を清める祈りの業に魂を捧げ、明晰な心を得るために夜も眠らずに過ごすつもりなら、世俗の目から身を隠し、人との会話をやめ、たとえ利益を口実にしたとしても、いつものように友人を独房に招き入れることを望まないでください。ただし、同じ精神を持ち、志を同じくする者、そして告解仲間は例外です。外的な会話を断ち切り、放棄し、完全に止めた後、通常は無意識のうちに生じる霊的な会話の中断を恐れてください。施しを祈りと組み合わせれば、あなたの魂は真理の光を見るでしょう。心が外的な事物によって乱されなくなる程度に、心は思考の理解を通して、神の御業を理解し、驚嘆することができるからです。私たちが少しでも熱心に取り組もうとすると、魂はすぐに一つの会話を別の会話に置き換えてしまう傾向があるからです。そして、一つの会話を別の会話に置き換えるために、聖書を読むことに専念しなさい。聖書は、繊細な瞑想への道を開き、聖人たちの生涯にも目を向けなさい。最初は、物事の近さゆえに、甘美さを感じられないかもしれないが。そして、祈りを始め、戒律を実践し始めると、世の中で見聞きしたことを思い巡らす代わりに、読んだ神聖な聖書について思い巡らすようになるだろう。この思い巡らしを通して、世俗的な事柄の記憶は忘れ去られ、心は清らかさを得る。こう書かれている。魂は祈りを始めるとき、読書から助けを受け、また読書を通して祈りによって啓発される。そして、読書は、外的な混乱の代わりに、様々な種類の祈りの糧を与え、それゆえ、読書を通して魂は啓発され、怠惰や混乱なく常に祈ることができるようになる。
肉欲と貪欲にふける者が霊的な事柄に踏み込むのは、娼婦が貞潔について語るのが不適切であるのと同様に不適切である。極度に病弱な体は脂っこい食べ物を嫌い、耐えられない。世俗的なことに心を奪われている者は、神の教えを学ぶことができない。湿った木には火がつかないように、平和を愛する心には神への熱情は燃え上がらない。娼婦は一つのことへの愛に留まることができず、多くのことに執着する魂は神の教えに留まることができない。自分の目で太陽を見たことのない者が、その光を聞いても、その光を感じても、人に説明できないように、魂で霊的な行いの甘美さを味わったことのない者もまた、同じように霊的な行いの甘美さを理解できないのである。
日々の必要以上のものがあれば、それを貧しい人々に分け与え、大胆に祈りを捧げに行きなさい。つまり、息子が父と語り合うように神と語り合いなさい。施しほど心を神に近づけるものはなく、自発的な貧しさほど心の平安をもたらすものはありません。あなたの素朴さゆえに多くの人から無知だと言われる方が、あなたの栄光ゆえに賢く、心の完全な人と呼ばれるよりも良いのです。もし誰かが馬に乗って施しを受けようと手を差し伸べてきたら、それを拒んではいけません。その時、彼は間違いなく物乞いの一人と同じくらい貧しいからです。
施しをするときは、惜しみなく、優しい顔で、求められたもの以上に与えなさい。なぜなら、「貧しい者の顔に一口の食べ物を与えれば、すぐに報いを受けるであろう」(伝道の書 11章1節)とあるからです。富める者と貧しい者を分け隔ててはならず、ふさわしい者とふさわしくない者を区別しようとしてはなりません。善のために、すべての人をあなたの目に平等にしなさい。こうして、ふさわしくない者さえも善に引きつけることができるからです。魂は肉体を通してすぐに神への畏れに引き寄せられるからです。主は徴税人や遊女たちと食事を共にし、ふさわしくない者を自分から排除しませんでした。こうして、すべての人が神への畏れに引き寄せられ、肉体を通して霊的なものに近づくためです。ですから、ユダヤ人であろうと、異教徒であろうと、殺人者であろうと、すべての人を慈しみと尊敬において平等にしなさい。特に、彼はあなたと同じ性質を持つ兄弟であり、知らず知らずのうちに真理から逸れたのではないからです。
誰かに善行を施したとき、その人から報酬を期待してはならない。神はあなたに両方に対して報いてくださる。もしあなたにそれができるならば、善行をしなさい。将来の報酬のためではなく。もしあなたが自分の魂に貧困の限界を課し、神の恵みによって心配事から解放され、貧困の中で世俗を超越するならば、施しをするために貧困を愛するあまり、財産を愛さないように注意しなさい。一方から受け取って他方に与えることで、自分の魂を混乱に陥れてはならない。人々に頼り、物乞いをすることで、自分の名誉を損なってはならない。世俗の事柄を気にして、心の自由と高貴さを失ってはならない。あなたの地位は慈悲深い者の地位よりも高いのだから。いいえ、お願いですから、依存してはいけません。
施しは子育てのようなもので、沈黙は至高の境地である。財産があれば、すぐに使い果たせ。何も持っていなければ、何も欲しがるな。贅沢と過剰を心の中から一掃すれば、たとえ望まなくても、自然と禁欲へと導かれるだろう。物が少ないと禁欲を身につけるが、物に耽溺してしまうと、自制心を保つことができなくなる。
外的な戦いに勝利した者は、内なる恐怖からも解放され、何ものにも苦しめられることはなく、前後から迫り来る戦いにも悩まされることはない。ここで言う戦いとは、聴覚や舌、あるいは与えたり受け取ったりする時など、感覚や無関心によって魂に仕掛けられる戦いのことである。これらすべてが魂に入り込むと、盲目が生じる。そして、外的な混乱が始まると、魂は自分に対して仕掛けられる秘密の戦いに気を配ることができず、沈黙によって内なる反乱を克服することもできない。そして、都市の門、すなわち感覚を閉ざすと、人は内側で戦い、都市の外で待ち伏せしている者たちを恐れることはない。
このことを知っていて、静かに暮らし、多くの仕事で自分を煩わせず、すべての肉体的な活動を祈りの労働に置き換え、神と共に働き、昼夜を問わず自分の世話を神に委ねている限り、必要なものに事欠くことはないと信じている人は幸いです。なぜなら、神のために、彼は気を散らすものや労働から遠ざかっているからです。もし誰かが手仕事なしでは静かに暮らせないなら、手仕事を補助として用い、利益や自己利益のために用いてはいけません。手仕事は弱い者のためのものですが、より進んだ者にとっては混乱の原因となります。父祖たちは貧しい者や気弱な者が働くように定めましたが、それは必要不可欠な仕事としてではありません。
神があなたの心を内なる悔恨へと導いている間は、絶えずひざまずき、頭を下げなさい。悪魔が他のことに心を奪われるよう促し始めたら、心を何にも奪われてはなりません。そして、その結果どうなるかを見守り、驚嘆しなさい。禁欲的な修行において、キリストの十字架の前にひれ伏し、両手を後ろ手に縛って昼夜祈りを捧げることほど重要で困難なことはなく、悪魔の羨望をこれほど掻き立てるものもありません。もしあなたが熱意を失い、涙に暮れて貧しくなりたくないなら、このことに専念しなさい。そして、あなたが昼夜を問わず、あなたに告げられたことに心を留め、他の何物も求めないならば、あなたは幸いである。そうすれば、あなたの内に光が輝き、あなたの義が速やかに輝き出し、あなたは繁栄する庭園、尽きることのない水の泉のようになるでしょう。
禁欲から生じる祝福について考えてみてください。人はしばしば、ひざまずいて祈り、両手を天に掲げ、顔をキリストの十字架に向け、すべての思いを神への祈りに注ぎ込みます。そして、涙と優しさをもって神に祈っているまさにその時、突然、喜びの泉が心の中に湧き上がってきます。手足は弱り、目は閉じ、顔は地面に伏し、思いは変容し、心に湧き上がる喜びのために頭を下げることさえできなくなります。おお、人よ、あなたが読んでいるものに注意を払いなさい。努力しなければ見いだすことはなく、熱心に戸を叩き、絶えず目を覚ましていなければ、あなたの声は届かないでしょう。
これを聞いて、沈黙を守ることができない者以外に、外的な義を望む者がいるだろうか。しかし、もし誰かが沈黙を実践できないならば(神の恵みによって人は門の中にいるように与えられているのだから)、人生の二つの道の両方を奪われないように、もう一方の道を捨ててはならない。外なる人が世俗的なものすべて、罪だけでなくあらゆる肉体的な活動に対して死に、内なる人が悪しき思いに対して死に、肉体の自然な動きが弱まり、罪深い甘美さが心に呼び起こされなくなるまで、それまでは、神の霊の甘美さは人の中に呼び起こされず、その人の体はこの世で清められず、神の思いは彼の魂に入り込まず、知覚できず目に見えないままとなる。そして、人が心の中で世俗的な事柄への関心を捨て、自然の必要不可欠な事柄を除いて、その世話を神に委ねるまでは、その人の中に霊的な歓喜は目覚めず、使徒が慰められた慰めを経験することもないでしょう(ガラテヤ2章20節)。
人が完全性の頂点に達しない限り、神の恵みを受けるに値しない、あるいは神の慰めを受けることができないと言うつもりはありません。希望を否定するつもりもありません。実際、人が不適切なものを軽蔑し、そこから完全に距離を置き、善に目を向けるとき、すぐに助けを感じるでしょう。そして、少し努力すれば、魂の慰めを見出し、罪の赦しを受け、恵みを受けるに値すると見なされ、数多くの祝福を受けるでしょう。しかし、彼は世俗から離れ、魂の中に至福の神秘を発見し、キリストが来られた目的を達成した人の完全性には及ばないのです。父と聖霊と共に、今も、そして永遠に、世々限りなく、彼に栄光がありますように。アーメン。
==関連項目==
*[[ニネベのイサアク神秘論文集/第4論文]]
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シリヤの聖イサアク全書/第二十一説教の四
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2026-06-10T15:20:30Z
村田ラジオ
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現代語訳を加筆。
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*ウィキソースによる現代語訳
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== 第21説教の4 ==
<< {{r|種々|しゅじゅ}}なる{{r|事|じ}}{{r|項|こう}}に{{r|就|つい}}て{{r|問答|もんどう}}。>>
問 {{r|此|こ}}の{{r|行|こう}}{{r|為|い}}、{{r|即|すなはち}}{{r|黙想|もくそう}}の{{r|行|こう}}{{r|為|い}}のすべての{{r|労|ろう}}に{{r|於|おい}}て{{r|首要|しゅよう}}なるものは{{r|何|なに}}なるか、けだし{{r|此|ここ}}に{{r|到達|とうたつ}}したる{{r|人|ひと}}は{{r|最早|もはや}}{{r|其|その}}{{r|生|しょう}}{{r|涯|がい}}に{{r|於|おい}}て{{r|完全|かんぜん}}に{{r|達|たつ}}したるを{{r|知|し}}るを{{r|得|え}}ん。
答 {{r|人|ひと}}が{{r|連綿|れんめん}}として{{r|断|た}}えず{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}に{{r|止|とど}}まるを{{r|賜|たま}}はるとき{{r|是|これ}}なり。けだし{{r|此|ここ}}に{{r|達|たつ}}せしならば、{{r|人|ひと}}はすべての{{r|道徳|どうとく}}の{{r|高点|こうてん}}に{{r|昇|のぼ}}り、{{r|最早|もはや}}{{r|聖神|せいしん}}の{{r|住所|ぢうしょ}}となれるなり。{{r|之|これ}}に{{r|反|はん}}してもし{{r|誰|たれ}}か{{r|撫|ぶ}}{{r|恤|じゅつ}}{{r|者|しゃ}}の{{r|此|この}}{{r|恩|おん}}{{r|寵|ちょう}}を{{r|疑|うたがい}}なく{{r|受|う}}けざりしならば、{{r|此|こ}}の{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}に{{r|止|とど}}まることを{{r|自由|じゆう}}に{{r|遂|と}}ぐる{{r|能|あた}}はざるべし。{{r|何|なん}}となればすでに{{r|言|い}}ひし{{r|如|ごと}}く{{r|人類|じんるい}}{{r|中|ちゅう}}{{r|何人|なんびと}}にか{{r|神|かみ}}の{{r|住|ぢう}}する{{r|時|とき}}は、{{r|彼|かれ}}は{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}を{{r|止|や}}めざるのみならず、{{r|神|かみ}}{{r|自|みづか}}らも{{r|常|つね}}に{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}すればなり〔[[ロマ人への書(文語訳)#8:26|ロマ八の二十六]]〕。{{r|其時|そのとき}}は{{r|人|ひと}}は{{r|睡眠|すいみん}}の{{r|状態|じょうたい}}に{{r|在|あ}}るも、{{r|覚醒|かくせい}}の{{r|状態|じょうたい}}に{{r|在|あ}}るも、{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}は{{r|其|その}}{{r|心中|しんちゅう}}に{{r|於|おい}}て{{r|断|た}}えざるべく、{{r|食|しょく}}するか、{{r|飲|の}}むか、{{r|寝|い}}ぬるか、{{r|何|なに}}を{{r|為|な}}すか、{{r|且|かつ}}は{{r|深睡|しんすい}}の{{r|中|うち}}にありとも、{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}の{{r|馨香|けいこう}}と{{r|其|その}}{{r|薫|くん}}{{r|蒸|じょう}}の{{r|気|き}}は{{r|其|その}}{{r|心中|しんちゅう}}に{{r|易|たや}}すく{{r|発出|はっしゅつ}}せん。{{r|其時|そのとき}}は{{r|人|ひと}}より{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}は{{r|離|はな}}れざるべく、{{r|如何|いか}}なる{{r|時|とき}}も{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}せざるなかるべく、たとひ{{r|外部|がいぶ}}は{{r|沈黙|ちんもく}}すとも、{{r|之|これ}}と{{r|同時|どうじ}}に{{r|人|ひと}}は{{r|神|かみ}}の{{r|奉|ほう}}{{r|事|じ}}を{{r|窃|ひそか}}に{{r|行|おこな}}ふなり、けだし<u>ハリストス</u>を{{r|懐抱|かいほう}}する{{r|人|じん}}{{r|士|し}}の{{r|一人|いちにん}}は{{r|清|きよ}}き{{r|者|もの}}の{{r|沈黙|ちんもく}}を{{r|名|な}}づけて{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}といへり、{{r|何|なん}}となれば{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}の{{r|思|し}}{{r|念|ねん}}は{{r|神聖|しんせい}}なる{{r|活動|かつどう}}にして、{{r|清|きよ}}き{{r|心|こころ}}と{{r|智|ち}}との{{r|活動|かつどう}}は{{r|神|しん}}{{r|秘|ぴ}}なる{{r|者|もの}}を{{r|神|しん}}{{r|秘|ぴ}}に{{r|讃|さん}}{{r|頌|しょう}}する{{r|物|もの}}{{r|静|しづか}}なる{{r|声|こえ}}なればなり。
問 {{r|霊的|れいてき}}{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}とは{{r|如何|いか}}なるか、{{r|且|かつ}}{{r|如何|いか}}{{r|様|よう}}に{{r|之|これ}}を{{r|苦|く}}{{r|行|ぎょう}}{{r|者|しゃ}}に{{r|賜|たま}}はるか。
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けだし{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}は{{r|聖|せい}}なる<u>アントニイ</u>が{{r|第|だい}}{{r|九時|くじ}}の{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}に{{r|立|た}}ちて、{{r|其|その}}{{r|智|ち}}{{r|力|りょく}}の{{r|上昇|じょうしょう}}を{{r|感|かん}}じたりしを{{r|知|し}}る、{{r|又|また}}{{r|他|た}}の{{r|或|ある}}{{r|神|しん}}{{r|父|ぷ}}は{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}に{{r|立|た}}つや、{{r|手|て}}を{{r|挙|あ}}ぐると{{r|共|とも}}に{{r|無|む}}{{r|限|げん}}の{{r|悦|よろこび}}に{{r|達|たつ}}して、{{r|之|これ}}に{{r|止|とどま}}ること{{r|四|よつ}}{{r|日|か}}{{r|間|かん}}なりき。{{r|其|その}}{{r|他|た}}{{r|多|おほ}}くの{{r|人々|ひとびと}}も、かくの{{r|如|ごと}}き{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}の{{r|時|とき}}に{{r|當|あた}}り、{{r|神|かみ}}を{{r|念|おも}}ふ{{r|強|つよ}}き{{r|記|き}}{{r|憶|おく}}と、{{r|神|かみ}}に{{r|対|たい}}する{{r|大|だい}}なる{{r|愛|あい}}とに{{r|捉|とら}}へられて{{r|無|む}}{{r|限|げん}}なる{{r|悦|よろこび}}に{{r|達|たつ}}したりき。{{r|然|しか}}れども{{r|人|ひと}}の{{r|之|これ}}を{{r|賜|たま}}はるは{{r|罪|つみ}}に{{r|反対|はんたい}}する{{r|主|しゅ}}の{{r|誡命|かいめい}}を{{r|守|まも}}るにより、{{r|内|ない}}{{r|部|ぶ}}に{{r|於|おい}}ても、{{r|外|がい}}{{r|部|ぶ}}に{{r|於|おい}}ても{{r|罪|つみ}}を{{r|脱|だつ}}するの{{r|時|とき}}にあるべし。もし{{r|誰|たれ}}か{{r|此|この}}{{r|誡命|かいめい}}を{{r|愛|あい}}して、{{r|秩序|ちつじょ}}{{r|正|ただ}}しく{{r|之|これ}}を{{r|益用|えきよう}}するならば、{{r|其者|そのもの}}の{{r|為|ため}}に{{r|人間|にんげん}}{{r|許|きょ}}{{r|多|た}}の{{r|行|こう}}{{r|為|い}}より{{r|免|まぬか}}れて{{r|自|じ}}{{r|由|ゆう}}を{{r|得|う}}るは{{r|緊要|きんよう}}の{{r|事|こと}}となるべし、{{r|是|これ}}{{r|即|すなはち}}{{r|言|い}}はば{{r|体|たい}}を{{r|脱|だつ}}して{{r|体|たい}}の{{r|外|そと}}に{{r|居|お}}ることにして、{{r|是|こ}}は{{r|性|せい}}につきて{{r|言|い}}ふにあらず。{{r|要|よう}}{{r|求|きゅう}}につきていふなり。{{r|誰|たれ}}か{{r|立法者|りっぽうしゃ}}の{{r|模|も}}{{r|範|はん}}にしたがひて{{r|生活|せいかつ}}し、{{r|其|その}}{{r|誡命|かいめい}}に{{r|導|みちび}}かるるならば{{r|其者|そのもの}}は{{r|罪|つみ}}に{{r|止|とど}}まること{{r|能|あた}}はざるべし。ゆえに{{r|主|しゅ}}は{{r|福音|ふくいん}}{{r|経|きょう}}に{{r|於|おい}}て{{r|誡命|かいめい}}を{{r|守|まも}}りし{{r|者|もの}}を{{r|住|ぢゅう}}{{r|所|しょ}}となさんことを{{r|其者|そのもの}}と{{r|約束|やくそく}}し{{r|給|たま}}へり。
問 {{r|神|しん}}の{{r|多|おほ}}くの{{r|果|み}}の{{r|完全|かんぜん}}は{{r|如何|いか}}なるか。
答 {{r|人|ひと}}が{{r|神|かみ}}の{{r|完全|かんぜん}}なる{{r|愛|あい}}を{{r|賜|たま}}はる{{r|是|これ}}なり。
問 {{r|之|これ}}を{{r|得|え}}たるを{{r|人|ひと}}は{{r|何|なに}}により{{r|確|かく}}{{r|知|ち}}するか。
答 {{r|人|ひと}}の{{r|智|ち}}{{r|覚|かく}}に{{r|神|かみ}}を{{r|念|おも}}ふ{{r|記|き}}{{r|憶|おく}}の{{r|起|おこ}}るあるや、{{r|其時|そのとき}}{{r|人|ひと}}の{{r|心|こころ}}は{{r|直|ただち}}に{{r|神|かみ}}を{{r|愛|あい}}するにより{{r|喚|かん}}{{r|起|き}}せられて、{{r|其|その}}{{r|目|め}}は{{r|豊|ゆたか}}に{{r|涙|なみだ}}をそそがん。けだし{{r|愛|あい}}は{{r|愛|あい}}せらるる{{r|者|もの}}を{{r|想|そう}}{{r|起|き}}するにより{{r|感涙|かんるい}}を{{r|起|おこ}}すを{{r|例|れい}}とす。{{r|然|しか}}して{{r|神|かみ}}の{{r|愛|あい}}に{{r|居|お}}る{{r|者|もの}}は{{r|決|けつ}}して{{r|涙|なみだ}}を{{r|奪|うば}}はれざるべし、{{r|何|なん}}となれば{{r|神|かみ}}の{{r|記|き}}{{r|憶|おく}}を{{r|涵養|かんよう}}する{{r|所|ところ}}のものに{{r|決|けつ}}して{{r|乏|とぼ}}しきを{{r|告|つ}}げざればなり、{{r|故|ゆえ}}に{{r|夢|む}}{{r|中|ちゅう}}にも{{r|神|かみ}}と{{r|談|だん}}{{r|話|わ}}す、けだし{{r|愛|あい}}は{{r|通|つう}}{{r|常|じょう}}かくのごときものを{{r|生|しょう}}じて、{{r|彼|かれ}}は{{r|此|この}}{{r|生活|せいかつ}}に{{r|於|おけ}}る{{r|人類|じんるい}}の{{r|完全|かんぜん}}なればなり。
問 {{r|人|ひと}}が{{r|求|もと}}め{{r|得|え}}たる{{r|多|おほ}}くの{{r|労|ろう}}{{r|苦|く}}、{{r|衰|すい}}{{r|弱|じゃく}}、{{r|及|およ}}び{{r|奮闘|ふんとう}}の{{r|後|のち}}にも、{{r|驕|きょう}}{{r|傲|ごう}}の{{r|念慮|ねんりょ}}は{{r|人|ひと}}を{{r|攻撃|こうげき}}するを{{r|憚|はばか}}らざらん、{{r|何|なん}}となれば{{r|彼|かれ}}は{{r|人|ひと}}の{{r|徳行|とくこう}}の{{r|美|び}}を{{r|借|か}}りて{{r|己|おのれ}}の{{r|食|しょく}}となし、{{r|人|ひと}}が{{r|任|なな}}ふ{{r|所|ところ}}の{{r|労|ろう}}の{{r|大|だい}}なるを{{r|計算|けいさん}}するによる、{{r|然|しか}}らば{{r|人|ひと}}は{{r|如何|いか}}にして{{r|其|その}}{{r|念慮|ねんりょ}}に{{r|勝|か}}ち、{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}に{{r|征服|せいふく}}せられざる{{r|程|ほど}}の{{r|堅|けん}}{{r|固|ご}}を{{r|其|その}}{{r|心|こころ}}に{{r|求|もと}}め{{r|得|う}}べきか。
答 {{r|誰|たれ}}か{{r|神|かみ}}より{{r|離|はな}}れ{{r|落|おち}}ること、{{r|枯|かれ}}{{r|葉|は}}の{{r|樹|き}}より{{r|落|お}}つる{{r|如|ごと}}くなるを{{r|認識|にんしき}}する{{r|時|とき}}は、{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|力|ちから}}を{{r|了|りょう}}{{r|解|かい}}せん、{{r|即|すなはち}}{{r|主|しゅ}}が{{r|其|その}}{{r|助|たすけ}}を{{r|止|とど}}め、{{r|彼|かれ}}をして{{r|独|ひと}}り{{r|魔鬼|まき}}との{{r|戦|たたかひ}}に{{r|入|い}}らしめ、{{r|通|つう}}{{r|常|じょう}}{{r|奮闘者|ふんとうしゃ}}と{{r|関係|かんけい}}して{{r|其|その}}{{r|戦|たたかひ}}に{{r|助|たす}}くる{{r|如|ごと}}く{{r|彼|かれ}}と{{r|共|とも}}にするを{{r|為|な}}さざると{{r|同|どう}}{{r|時|じ}}に、{{r|彼|かれ}}は{{r|自己|じこ}}の{{r|力|ちから}}を{{r|以|もつ}}て{{r|此|この}}{{r|徳行|とくこう}}を{{r|求|もと}}め{{r|得|え}}たるや、{{r|其|そ}}の{{r|悉|ことごと}}くの{{r|戦|たたかひ}}を{{r|耐忍|たいにん}}し{{r|得|え}}たるや{{r|否|いなや}}を{{r|認識|にんしき}}する{{r|時|とき}}は。{{r|彼|かれ}}の{{r|力|ちから}}は{{r|顕|あら}}はれん、{{r|之|これ}}を{{r|確言|かくげん}}すれば{{r|打|だ}}{{r|撃|げき}}と{{r|彼|かれ}}の{{r|困|こん}}{{r|苦|く}}とは{{r|明|めい}}{{r|了|りょう}}にあらはれん。けだし{{r|諸|しょ}}{{r|聖人|せいじん}}を{{r|保護|ほご}}して{{r|之|これ}}を{{r|固|かた}}むる{{r|神|かみ}}の{{r|照|しょう}}{{r|管|かん}}は{{r|常|つね}}に{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}と{{r|偕|とも}}にするなり。もし{{r|苦|く}}{{r|行|ぎょう}}と、{{r|致|ち}}{{r|命的|めいてき}}の{{r|苦|くるしみ}}と、{{r|其|その}}{{r|他|た}}{{r|神|かみ}}の{{r|為|ため}}に{{r|遭遇|そうぐう}}し{{r|神|かみ}}の{{r|為|ため}}に{{r|大|おほい}}に{{r|忍耐|にんたい}}する{{r|患難|かんなん}}に{{r|居|お}}るならば、{{r|此|この}}{{r|照|しょう}}{{r|管|かん}}を{{r|以|もつ}}て{{r|人類|じんるい}}の{{r|種々|しゅじゅ}}なる{{r|階|かい}}{{r|級|きゅう}}に{{r|打|うち}}{{r|勝|か}}たん。{{r|此事|このこと}}は{{r|明白|めいはく}}{{r|顕然|けんぜん}}{{r|疑|うたがひ}}なきなり。けだし{{r|人々|ひとびと}}の{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}に{{r|不|ふ}}{{r|断|だん}}{{r|起|おこ}}りて、{{r|之|これ}}に{{r|憂|うれひ}}をかうむらしめ、{{r|之|これ}}を{{r|打|うち}}{{r|負|まか}}すが{{r|為|ため}}に{{r|最|もっと}}も{{r|強|つよ}}き{{r|肉痒|にくよう}}の{{r|力|ちから}}を{{r|性|せい}}は{{r|如何|いか}}にして{{r|征服|せいふく}}するを{{r|得|う}}るか。それ{{r|他|た}}の{{r|人々|ひとびと}}は{{r|勝|しょう}}{{r|利|り}}を{{r|願|ねが}}ひ、{{r|且|かつ}}{{r|之|これ}}を{{r|愛|あい}}すれども{{r|其|その}}{{r|有|ゆう}}{{r|力|りょく}}なる{{r|抵抗|ていこう}}に{{r|際|さい}}しては{{r|勝|かち}}を{{r|奏|そう}}する{{r|能|あた}}はずして、{{r|返|かへ}}つて{{r|肉体|にくたい}}{{r|上|じょう}}の{{r|療|りょう}}{{r|感|かん}}より{{r|日々|ひび}}に{{r|打|だ}}{{r|撃|げき}}を{{r|受|う}}け、{{r|其|その}}{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|為|ため}}に{{r|困|くるし}}んで{{r|苦|く}}{{r|労|ろう}}と{{r|悲|ひ}}{{r|哀|あい}}と{{r|衰|すい}}{{r|弱|じゃく}}とに{{r|居|お}}れども、{{r|汝|なんぢ}}はかくの{{r|如|ごと}}き{{r|困|こん}}{{r|苦|く}}なる{{r|肉体|にくたい}}の{{r|引|いん}}{{r|力|りょく}}を{{r|易|たやす}}く{{r|忍耐|にんたい}}して、{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}に{{r|大|だい}}なる{{r|錯乱|さくらん}}に{{r|至|いた}}らざるを{{r|得|う}}るは{{r|何故|なにゆえ}}なるか。されば{{r|他|た}}の{{r|場|ば}}{{r|合|あい}}には{{r|苦|くるしみ}}を{{r|感|かん}}じ{{r|易|やす}}く、{{r|荊|い}}{{r|棘|ばら}}の{{r|刺|とげ}}の{{r|爪|つめ}}を{{r|刺|さ}}したる{{r|疵|きず}}にさへ{{r|堪|た}}ふる{{r|能|あた}}はざる{{r|肉体|にくたい}}は、もし{{r|天然|てんねん}}の{{r|力|ちから}}{{r|以|い}}{{r|外|がい}}に{{r|其|その}}{{r|苦|くるし}}みを{{r|反拒|はんきょ}}する{{r|他|た}}の{{r|力|ちから}}の{{r|他所|よそ}}より{{r|来|きた}}るあらずんば、{{r|鐵|てつ}}の{{r|断割|だんかつ}}に{{r|打|うち}}{{r|勝|か}}ち、{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}の{{r|挫|ざ}}{{r|折|せつ}}と{{r|種々|しゅじゅ}}なる{{r|苦|く}}{{r|痛|つう}}とを{{r|耐忍|たいにん}}し、{{r|人性|じんせい}}に{{r|常|つね}}なる{{r|如|ごと}}く、{{r|痛|つう}}{{r|苦|く}}の{{r|中|うち}}に{{r|在|あり}}て{{r|其|その}}{{r|差|さ}}{{r|別|べつ}}をさへ{{r|感|かん}}ずるあらずして、{{r|苦|く}}{{r|難|なん}}の{{r|為|ため}}に{{r|勝|か}}たれざることを{{r|如何|いか}}にして{{r|能|よく}}するか。{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}は{{r|神|かみ}}の{{r|照|しょう}}{{r|管|かん}}の{{r|事|こと}}に{{r|言|げん}}{{r|及|きゅう}}したるにより、{{r|奮闘|ふんとう}}を{{r|以|もつ}}て{{r|人|ひと}}に{{r|超|ちょう}}{{r|絶|ぜつ}}する{{r|一|いち}}{{r|報道|ほうどう}}の{{r|霊|たましひ}}に{{r|益|えき}}あるものを{{r|記|き}}{{r|憶|おく}}の{{r|為|ため}}に{{r|引證|いんしょう}}するを{{r|懈|おこた}}らざるべし。
<u>フェオドル</u>と{{r|名|な}}づくる{{r|一|いち}}{{r|少年|しょうねん}}あり、{{r|酷刑|こくけい}}に{{r|処|しょ}}せられて、{{r|全身|ぜんしん}}に{{r|苦|くるし}}みを{{r|受|う}}けたり、{{r|人|ひと}}あり{{r|問|と}}ふて「{{r|汝|なんぢ}}は{{r|苦|く}}{{r|痛|つう}}を{{r|感|かん}}じたるか」といひけるに、{{r|彼|かれ}}は{{r|答|こた}}へて{{r|次|つぎ}}の{{r|如|ごと}}くいへり、「{{r|最初|さいしょ}}は{{r|感|かん}}ぜり、{{r|然|しか}}れども{{r|後|のち}}に{{r|至|いた}}り、{{r|余|よ}}は{{r|或|あ}}る{{r|少年|しょうねん}}を{{r|認|みと}}めたり、{{r|彼|かれ}}は{{r|我|わ}}が{{r|奮闘|ふんとう}}の{{r|汗|あせ}}を{{r|拭|ぬぐ}}ひ、{{r|我|われ}}を{{r|堅|かた}}めて、{{r|苦|く}}{{r|行|ぎょう}}の{{r|時|とき}}{{r|我|われ}}に{{r|爽快|そうかい}}を{{r|得|え}}しめたり」といひき。{{r|吁|ああ}}{{r|神|かみ}}の{{r|惠|めぐみ}}は{{r|何|なん}}ぞ{{r|大|だい}}なるや。{{r|神|かみ}}の{{r|名|な}}の{{r|為|ため}}に{{r|奮闘|ふんとう}}する{{r|者|もの}}に{{r|臨|のぞ}}む{{r|神|かみ}}の{{r|恩|おん}}{{r|寵|ちょう}}は、{{r|彼|かれ}}をして{{r|神|かみ}}の{{r|為|ため}}に{{r|苦|く}}{{r|難|なん}}を{{r|喜|よろこ}}んで{{r|忍耐|にんたい}}せしむる{{r|為|ため}}に{{r|幾許|いくばく}}{{r|接近|せっきん}}するか。
{{r|故|ゆえ}}に{{r|人|ひと}}よ{{r|汝|なんぢ}}に{{r|於|おけ}}る{{r|神|かみ}}の{{r|照|しょう}}{{r|管|かん}}に{{r|感謝|かんしゃ}}せざる{{r|者|もの}}となるなかれ。{{r|畢竟|ひっきょう}}{{r|汝|なんぢ}}は{{r|勝|しょう}}{{r|利|り}}{{r|者|しゃ}}にはあらず、ただ{{r|器|き}}{{r|械|かい}}の{{r|如|ごと}}きのみにて、{{r|主|しゅ}}は{{r|汝|なんぢ}}に{{r|於|おい}}て{{r|勝|か}}ち、{{r|汝|なんぢ}}は{{r|勝利|しょうり}}の{{r|名|な}}を{{r|無|む}}{{r|報|ほう}}にして{{r|受|う}}くることの{{r|顕然|けんぜん}}{{r|明白|めいはく}}ならば、{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}にも{{r|同様|どうよう}}の{{r|力|ちから}}を{{r|願|ねが}}ひ、{{r|勝|か}}ちて{{r|賞讃|しょうさん}}を{{r|受|う}}けて、{{r|神|かみ}}を{{r|承認|しょうにん}}するを{{r|誰|たれ}}か{{r|汝|なんぢ}}に{{r|禁|きん}}ぜんや。{{r|人|ひと}}よ、{{r|汝|なんぢ}}は{{r|世|よ}}の{{r|造成|ぞうせい}}より{{r|以|い}}{{r|来|らい}}{{r|幾|いく}}{{r|多|た}}の{{r|苦|く}}{{r|行|ぎょう}}{{r|者|しゃ}}が{{r|此|この}}{{r|恩寵|おんちょう}}に{{r|感謝|かんしゃ}}せざる{{r|者|もの}}となりて、{{r|生命|せいめい}}の{{r|高|たか}}きとより{{r|落|おち}}たるを{{r|聞|き}}かざるか。{{r|人間|にんげん}}に{{r|於|おけ}}る{{r|神|かみ}}の{{r|賜|たまもの}}は{{r|本来|ほんらい}}{{r|数|すう}}{{r|多|た}}にして、{{r|種々|しゅじゅ}}{{r|同|おな}}じからざる{{r|程|ほど}}は、{{r|受|う}}くる{{r|所|ところ}}の{{r|賜|たまもの}}にも{{r|同|おな}}じからざるありて、{{r|之|これ}}を{{r|受|う}}くる{{r|者|もの}}の{{r|等級|とうきゅう}}と{{r|適合|てきごう}}するなり。{{r|神|かみ}}の{{r|賜|たまもの}}には{{r|縮小|しゅくしょう}}と{{r|卓越|たくえつ}}とあり、{{r|其|その}}{{r|賜|たまもの}}は{{r|皆|みな}}{{r|高尚|こうしょう}}にして{{r|奇異|きい}}なりと{{r|雖|いへど}}も、{{r|光栄|こうえい}}と{{r|尊敬|そんけい}}とに{{r|於|おい}}ては{{r|一|いつ}}は{{r|他|た}}に{{r|優越|ゆうえつ}}し{{r|一|いつ}}の{{r|等級|とうきゅう}}より{{r|高|たか}}し、{{r|而|しか}}して{{r|己|おのれ}}を{{r|神|かみ}}に{{r|献|ささ}}げて{{r|道徳|どうとく}}{{r|上|じょう}}に{{r|生活|せいかつ}}することも{{r|亦|また}}{{r|同|おな}}じくハリストスの{{r|大|だい}}なる{{r|賜|たまもの}}の{{r|一|いつ}}なり。けだし{{r|多|おほ}}くの{{r|者|もの}}は{{r|此|この}}{{r|恩寵|おんちょう}}により、{{r|人々|ひとびと}}に{{r|抽|ぬき}}んじて{{r|神|かみ}}に{{r|献|ささ}}げられし{{r|者|もの}}となり、{{r|神|かみ}}の{{r|賜|たまもの}}に{{r|参|さん}}{{r|與|よ}}して{{r|之|これ}}を{{r|受|うく}}る{{r|者|もの}}となり、{{r|選|えら}}ばれて{{r|神|かみ}}に{{r|奉|ほう}}{{r|事|じ}}し、{{r|聖|せい}}{{r|務|む}}を{{r|行|おこな}}ふに{{r|相當|そうとう}}する{{r|者|もの}}となるを{{r|賜|たま}}はりしを{{r|忘|わす}}れ、{{r|其|その}}{{r|口|くち}}を{{r|以|もつ}}て{{r|不|ふ}}{{r|断|だん}}{{r|神|かみ}}に{{r|感謝|かんしゃ}}するに{{r|代|か}}へて、{{r|驕|きょう}}{{r|傲|ごう}}と{{r|高慢|こうまん}}に{{r|離|はなれ}}{{r|去|さ}}りぬ、{{r|而|しか}}して{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|己|おのれ}}を{{r|以|もつ}}て{{r|清|きよ}}き{{r|生活|せいかつ}}と{{r|霊的|れいてき}}{{r|行|こう}}{{r|為|い}}とにより{{r|神|かみ}}に{{r|奉|ほう}}{{r|事|じ}}を{{r|勤|つと}}むる{{r|為|ため}}に{{r|聖|せい}}{{r|務|む}}を{{r|行|おこな}}ふの{{r|恩寵|おんちょう}}を{{r|受|う}}けし{{r|者|もの}}とは{{r|思|おも}}はず、{{r|却|かへつ}}て{{r|神|かみ}}に{{r|恩恵|おんけい}}をあらはす{{r|者|もの}}の{{r|如|ごと}}く{{r|思|おも}}ふ、{{r|然|しか}}らば{{r|神|かみ}}が{{r|人々|ひとびと}}の{{r|中|うち}}より{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}を{{r|抜|ぬ}}きて、{{r|神|かみ}}の{{r|奥|おう}}{{r|義|ぎ}}を{{r|識|し}}るにより{{r|其|その}}{{r|眞|しん}}{{r|子|し}}となせるを{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}の{{r|當然|とうぜん}}に{{r|思|し}}{{r|慮|りょ}}するは{{r|何|なん}}の{{r|時|とき}}なるべきか。{{r|而|しか}}してかく{{r|思|し}}{{r|慮|りょ}}するも{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|其|その}}{{r|全心|ぜんしん}}を{{r|震|しん}}{{r|攝|しょう}}せざるべし、{{r|矧|いは}}んや{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}の{{r|先|さき}}にもかく{{r|思|し}}{{r|慮|りょ}}せし{{r|者|もの}}{{r|等|ら}}が{{r|突然|とつぜん}}{{r|尊|そん}}{{r|位|い}}を{{r|奪|うば}}はれたると、{{r|主|しゅ}}が{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}を{{r|其|その}}{{r|有|ゆう}}したる{{r|大|だい}}なる{{r|光栄|こうえい}}と{{r|尊敬|そんけい}}とより{{r|瞬間|しゅんかん}}に{{r|貶黜|べんちゅつ}}したるを{{r|見|み}}るに{{r|於|おい}}てをや、{{r|而|しか}}して{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|不|ふ}}{{r|潔|けつ}}と{{r|放蕩|ほうとう}}と{{r|耻|は}}づべき{{r|行|こう}}{{r|為|い}}に{{r|離|はなれ}}{{r|去|さ}}りて{{r|禽獣|きんじゅう}}の{{r|如|ごと}}くなりぬ。けだし{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|己|おのれ}}の{{r|力|ちから}}を{{r|識|し}}らざるのみならず、{{r|神|かみ}}の{{r|前|まへ}}に{{r|奉|ほう}}{{r|事|じ}}を{{r|行|おこな}}ひ、{{r|其國|そのくに}}に{{r|入|い}}るを{{r|得|え}}て、{{r|天|てん}}{{r|使|し}}の{{r|共住|きょうじゅう}}{{r|者|しゃ}}となり、{{r|天|てん}}{{r|使|し}}の{{r|如|ごと}}くなる{{r|生涯|しょうがい}}を{{r|以|もつ}}て{{r|神|かみ}}に{{r|接近|せっきん}}するの{{r|恩寵|おんちょう}}を{{r|與|あた}}へし{{r|者|もの}}を{{r|不|ふ}}{{r|断|だん}}{{r|其|その}}{{r|記|き}}{{r|憶|おく}}に{{r|存|そん}}せざりしにより、{{r|神|かみ}}は{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}を{{r|其|その}}{{r|勤|つとめ}}より、{{r|黜|しりぞ}}けり、{{r|而|しか}}して{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}{{r|黙想|もくそう}}を{{r|棄|す}}てて{{r|其|その}}{{r|生活|せいかつ}}の{{r|有様|ありさま}}を{{r|変|へん}}ぜしは{{r|是|こ}}れ{{r|神|かみ}}は{{r|之|これ}}を{{r|以|もつ}}て{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}が{{r|生涯|しょうがい}}に{{r|善|よ}}き{{r|秩序|ちつじょ}}を{{r|守|まも}}り、{{r|自|し}}{{r|然|ぜん}}と{{r|魔鬼|まき}}と{{r|其|その}}{{r|他|た}}の{{r|反対|はんたい}}の{{r|圧迫|あっぱく}}も{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}を{{r|驚|おどろ}}かさざりしは、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}の{{r|力|ちから}}に{{r|依|よ}}るには{{r|非|あら}}ずして、{{r|神|かみ}}の{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|力|ちから}}なるを{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}に{{r|證|しょう}}{{r|示|し}}するものにして、{{r|此事|このこと}}の{{r|至|し}}{{r|難|なん}}なるにより、{{r|世|よ}}は{{r|容|い}}るる{{r|能|あた}}はず{{r|或|あるい}}は{{r|聞|き}}く{{r|能|あた}}はざる{{r|所|ところ}}のものに{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}が{{r|久|ひさ}}しく{{r|止|とど}}まりて、{{r|之|これ}}を{{r|守|まも}}り、{{r|勝|か}}つ{{r|所|ところ}}とならざりしを{{r|證|しょう}}したるなり、{{r|故|ゆえ}}に{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}には{{r|或|あ}}る{{r|力|ちから}}の{{r|伴|ともな}}ふありて、すべてに{{r|於|おい}}て{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}を{{r|助|たす}}け、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}を{{r|保護|ほご}}するが{{r|為|ため}}に{{r|充分|じゅうぶん}}なりし、ことは{{r|論|ろん}}を{{r|俟|ま}}たざるなり。しかれども{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|此|この}}{{r|力|ちから}}を{{r|忘|わす}}れたるにより、{{r|使徒|しと}}の{{r|言|い}}ふ{{r|所|ところ}}は{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}に{{r|應|おう}}ぜり、{{r|曰|いは}}く{{r|神的|しんてき}}{{r|勤|きん}}{{r|務|む}}の{{r|為|ため}}に{{r|塵|ちり}}を{{r|配合|はいごう}}せし{{r|主宰|しゅさい}}たる「{{r|神|かみ}}を{{r|其|その}}{{r|念|おもひ}}に{{r|存|そん}}するを{{r|願|ねが}}はざりしにより、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}を{{r|戻|もど}}れる{{r|心|こころ}}を{{r|懐|いだ}}くに{{r|任|まか}}せり」〔[[ロマ人への書(文語訳)#1:28|ロマ一の二十八]]〕されば{{r|其|その}}{{r|迷謬|めいびゅう}}の{{r|為|ため}}に{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}が{{r|汚|お}}{{r|辱|じょく}}を{{r|受|う}}けしは{{r|當然|とうぜん}}なりき。
問 {{r|人々|ひとびと}}と{{r|同|どう}}{{r|住|じゅう}}するを{{r|俄|にはか}}に{{r|全|まった}}く{{r|辞|じ}}して、{{r|善|ぜん}}なる{{r|熱心|ねっしん}}の{{r|為|ため}}に{{r|人|ひと}}の{{r|居|お}}らざる{{r|恐|おそ}}るべき{{r|野|の}}に{{r|突然|とつぜん}}{{r|離|はな}}れ{{r|去|さ}}るを{{r|敢|あへ}}てする{{r|者|もの}}は、{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}に{{r|被|ひ}}{{r|覆|ふく}}{{r|又|また}}は{{r|其|その}}{{r|他|た}}の{{r|需要|じゅよう}}を{{r|有|ゆう}}せざるに{{r|依|よ}}り、{{r|飢|う}}ゑて{{r|死|し}}するの{{r|時|とき}}あらざるか。
答 {{r|無|む}}{{r|言|ごん}}なる{{r|動物|どうぶつ}}さへ{{r|之|これ}}を{{r|造|つく}}るに{{r|先|さき}}だち、{{r|住所|ぢゅうしょ}}を{{r|備|そな}}へて、{{r|其|その}}{{r|需要|じゅよう}}の{{r|為|ため}}の{{r|慮|おもんばか}}る{{r|者|もの}}は{{r|其|その}}{{r|造成|ぞうせい}}を{{r|軽|かろ}}んぜざるべし、{{r|特|こと}}に{{r|神|かみ}}を{{r|畏|おそ}}れ、{{r|正直|せいちょく}}にして{{r|彼|かれ}}に{{r|従|したが}}ひ、{{r|好|こう}}{{r|奇|き}}の{{r|心|こころ}}を{{r|以|もつ}}てせざる{{r|者|もの}}を{{r|彼|かれ}}は{{r|軽|かろ}}んぜざるなり。{{r|己|おのれ}}の{{r|意思|いし}}を{{r|神|かみ}}に{{r|全|まった}}く{{r|犠|ぎ}}{{r|牲|せい}}にする{{r|者|もの}}は、{{r|肉体|にくたい}}の{{r|必要|ひつよう}}や{{r|艱難|かんなん}}{{r|不|ふ}}{{r|幸|こう}}の{{r|事|こと}}は{{r|最早|もはや}}{{r|慮|おもんばか}}らざるべく、{{r|隠|かく}}れたる{{r|生涯|しょうがい}}に{{r|居|お}}り、{{r|卑|いや}}しき{{r|生活|せいかつ}}を{{r|送|おく}}らんことを{{r|願|ねが}}ふべく、{{r|患難|かんなん}}を{{r|懼|おそ}}れずして、{{r|却|かへつ}}て{{r|清|きよ}}き{{r|生涯|しょうがい}}の{{r|為|ため}}に{{r|全|ぜん}}{{r|世|せ}}{{r|界|かい}}より{{r|遠|とお}}ざかるを{{r|以|もつ}}て{{r|愉|ゆ}}{{r|快|かい}}{{r|甘|かん}}{{r|美|び}}なる{{r|事|こと}}と{{r|思|おも}}ひ、{{r|丘陵|きゅうりょう}}{{r|山嶽|さんがく}}の{{r|間|あいだ}}に{{r|己|おのれ}}を{{r|労|つか}}らして、{{r|無|む}}{{r|言|ごん}}なる{{r|動物|どうぶつ}}の{{r|中|うち}}に{{r|漂|ひょう}}{{r|泊|はく}}{{r|者|しゃ}}の{{r|如|ごと}}くして{{r|居|お}}るべく、{{r|肉体|にくたい}}を{{r|安|やす}}んじて{{r|汚|お}}{{r|穢|かい}}に{{r|充|み}}たさるる{{r|生活|せいかつ}}を{{r|送|おく}}ることを{{r|肯|がえん}}ぜざるべし。{{r|而|しか}}して{{r|己|おのれ}}を{{r|死|し}}に{{r|付|わた}}して、{{r|神|かみ}}に{{r|属|ぞく}}する{{r|清|きよ}}き{{r|行|こう}}{{r|為|い}}を{{r|奪|うば}}はれざらんことを{{r|毎|まい}}{{r|時|じ}}{{r|毎刻|まいこく}}{{r|悲|かなし}}んで{{r|祈|き}}{{r|祷|とう}}する{{r|時|とき}}は、{{r|神|かみ}}より{{r|助|たすけ}}をうけん。{{r|神|かみ}}に{{r|光栄|こうえい}}と{{r|尊敬|そんけい}}は{{r|帰|き}}す。{{r|彼|かれ}}は{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}を{{r|清潔|せいけつ}}に{{r|守|まも}}り{{r|聖神|せいしん}}の{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|聖|せい}}なるを{{r|以|もつ}}て{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}を{{r|聖|せい}}にして、{{r|彼|かれ}}の{{r|名|な}}を{{r|栄|えい}}せしむべし、{{r|彼|かれ}}の{{r|聖|せい}}なる{{r|名|な}}は{{r|清潔|せいけつ}}を{{r|以|もつ}}て{{r|世々|よよ}}に{{r|讃|さん}}{{r|美|び}}せられん。「アミン。」
==現代語訳==
質問:この仕事のすべての努力の中で最も重要なこと、つまり沈黙とは何でしょうか?この境地に達した人が、人生において既に完璧を達成したと知るためには、沈黙が必要なのでしょうか?
答え:人が絶えず祈り続ける能力を授けられたとき、それは可能になります。なぜなら、いったんこの能力を身につけた人は、あらゆる徳の頂点に達し、すでに聖霊の住まいとなっているからです。しかし、慰め主のこの恵みを無条件に受け入れていない人は、自由に祈り続けることができません。なぜなら、聖霊が宿る人は祈りをやめないと言われているように、聖霊ご自身が常に祈っておられるからです(ローマ8章26節参照)。こうして、眠っているときも起きているときも、人の魂の中で祈りは途切れることがありません。食事をしているときも、飲んでいるときも、寝ているときも、何をしているときも、深い眠りの中でも、祈りの香りと蒸気が自然に心から流れ出ます。こうして祈りは彼から切り離されることなく、たとえ外見上は現れなくても、毎時間、密かに彼の内に神への奉仕を続けているのです。キリストを宿す者の一人は、清らかな祈りの沈黙をこう呼ぶ。なぜなら、彼らの思いは、隠れたお方へと密かに賛美を歌う、柔和な声だからである。
質問:霊的な祈りとは何ですか?また、信者はどのようにしてそれを体得できるのでしょうか?
答え:霊的な動きは、厳格な無垢と純粋さを通して、聖霊の働きにあずかる者となります。そして、何千人もの人の中で、この恵みを受けるのはたった一人だけです。なぜなら、これは未来の状態と生命の神秘だからです。彼は高められ、自然は静止したままで、この世のいかなる動きも記憶もありません。魂は祈りによって祈るのではなく、感覚によって次の時代の霊的な事柄を感知します。それは人間の理解を超え、聖霊の力によってのみ理解できるものです。そして、これは祈りの動きや追求ではなく、精神的な観想です。ただし、その起源は祈りから得ています。なぜなら、この観想を通して、これらの人々の中には既に純粋さの完成に達した者がいるからです。そして、先に述べたように、彼らの内なる動きが祈りの中にない時はありません。そして、聖霊が浸透するとき、聖霊は常に祈りの中にそのような人々を見つけます。そして、この祈りから、彼らは霊的ヴィジョンと呼ばれる観想へと高められるのです。彼らには、長時間の祈りの形式も、立ち続けることも、長時間の礼拝の儀式も必要ない。神を思い出すだけで十分であり、彼らはすぐに神の愛に心を奪われる。さらに、彼らは祈りを尊ぶときには、決して立ちながら祈ることを怠らず、絶え間ない祈りに加えて、定められた時間には立ち続ける。
聖アントニオスが第九時に祈りを捧げ、心の高揚を体験しているのが見られます。また、別の教父は両手を上げて祈りを捧げ、四日間恍惚状態に陥りました。そして、他にも多くの人々が、そのような祈りの最中に、神への力強い記憶と神への深い愛に心を奪われ、恍惚状態に陥りました。罪に抵抗する主の戒めを守ることによって、人は内面的にも外面的にも罪から解放されるとき、このような境地に至るのです。これらの戒めを愛し、正しく用いる者は、多くの人間の行いから解放される必要があります。つまり、いわば肉体を捨てて、肉体の外にいる必要があるのです。それは生まれつきではなく、必然的にです。律法を与えた方の姿に倣って生活し、その戒めに導かれる者には、罪が残ることはあり得ません。そのため、主は福音の中で、戒めを守る者と共に住まいを建てると約束されました(ヨハネ14章23節参照)。
質問:聖霊の多くの実の完成形とは何ですか?
答え:神の完全な愛を受けるに値すると認められた人です。
質問:では、人はどのようにして自分がそれを達成したと知るのでしょうか?
答え:神への思いが心に呼び覚まされると、たちまち神への愛が湧き上がり、涙が溢れ出る。愛は通常、愛する人々の思い出を通して涙を誘うものだからである。しかし、神への愛にとどまる者は、神への思いを育むものが尽きることがないから、涙が絶えることはない。だからこそ、彼は眠っている時でさえ神と語り合うのである。愛は通常、似たようなものを生み出すものであり、それはこの世における人々の完成形なのである。
質問:もし、人が多くの労力、苦しみ、そして闘争に耐えた後でも、傲慢の念が恥じることなくその人に取り憑くとしたら、それはその人の美徳の美しさから養分を得て、その人が耐えてきた努力の偉大さを頼りにしているからである。では、人はどのようにしてこの念を克服し、それに屈しないほどの強い精神力を身につけることができるのだろうか?
答え:人が、枯れ葉が木から落ちるように、自分が神から離れつつあることに気づいたとき、その人は自分の魂の強さを理解する。つまり、主が助けを差し控え、悪魔との戦いに一人で立ち向かわせ、普段のように共に歩んで助けるのではなく、自分の力でこれらの徳を身につけ、それらのためにあらゆる苦難に耐えてきたのか、ということである。その時、その人の強さが明らかになる。いや、むしろ、その人の敗北と困難が明らかになる。聖人は常に神の摂理の保護下にあり、神の保護と力によって守られている。神の摂理によって、あらゆる階層の人々が勝利する。それは、殉教者の苦難や、神のために、また神のために降りかかるその他の災難においてである。そしてこれは明白で、疑いようのない事実である。人間の手足に絶えず生じ、苦しみをもたらし、克服するには強すぎるくすぐったい感覚の力を、自然がどうやって克服できるだろうか?なぜ他の人々は勝利を望み、それを愛するにもかかわらず、自らの強い抵抗に直面して勝利を手にすることができず、それどころか、肉体の苦痛によって日々敗北を喫し、魂のために苦労し、泣き、疲れ果てているのに、あなたは肉体の激しい要求を容易に耐え忍び、大きな困惑も感じないのでしょうか? また、他の場合、苦痛に敏感で、棘が爪に刺さる傷さえも苦痛に感じない肉体が、鉄で切断され、手足が押しつぶされ、あらゆる種類の苦痛に耐え、苦痛に打ち負かされることなく、自然の摂理に従ってこの苦痛の違いさえ感じないのは、自然の力に加えて、別の力(あらゆる方向から、あらゆる方向から)が来て、苦痛の激しさを体から遠ざけているからではないでしょうか?そして、神の摂理について話している以上、苦難の中で人を高める、魂に益となる物語を一つ思い出すことを怠ってはならないでしょう。
全身が苦痛に苛まれていたテオドロスという名の青年が、ある人に「苦痛を感じますか?」と尋ねられた。彼は「最初は感じましたが、その後、ある青年が私の汗を拭い、私を力づけ、苦しみの中で私を慰めてくれました」と答えた。ああ、神の慈しみはなんと大きいことか!神の名のために戦う者たちに、神の恵みはなんと近いことか!彼らは喜んで神のために苦しみに耐えることができるのだ!
それゆえ、人よ、神の摂理に感謝を怠ってはならない。もし、あなたが征服者ではなく、ただの道具に過ぎず、主があなたの中で勝利を収め、あなたが自ら勝利者の称号を授かることが明らかになったとしても、誰があなたに常に同じ力を求め、勝利し、称賛を受け、神に告白することを禁じるだろうか。人よ、あなたは聞いたことがないのか。世界の始まり以来、この恵みに感謝せず、人生の高みから、また苦闘の高みから転落した苦行者がどれほど多かったかを。
神が人類に与えた賜物が数多く多様であるように、受け入れられる賜物とその受け手の程度もまた様々です。神の賜物には小さいものと大きいものがあり、どれも崇高で素晴らしいものですが、それぞれが栄光と誉れにおいて互いに勝り、その程度はそれぞれ異なります。また、神に身を捧げ、徳高く生きることは、キリストの偉大な賜物の一つです。多くの人々は、この恵みによって人間から追放され、神に捧げられるにふさわしい者とされ、神の賜物の分かち合いと継承者となり、神への奉仕と神聖な儀式に選ばれ、ふさわしい者とされたことを忘れ、このことについて口で絶えず神に感謝する代わりに、傲慢と高慢に陥り、神に清い生活と霊的な働きをもって仕えるために神聖な儀式の恵みを受けたのではなく、神に憐れみを示しているのだと考えています。しかし、彼らは、神が自分たちを人間の中から選び出し、神の奥義を知るために自分たちのものとしたのだと考えるべきなのです。そして彼らはこのように論じても、心底恐れることはない。特に、自分たちの前にこのように論じた者たちが、いかに突然その尊厳を奪われ、主が瞬く間に彼らを高い栄光と名誉から引きずり下ろしたかを見てもなお、恐れることはない。そして彼らは獣のように、不潔、好色、淫行に走った。彼らは自らの力に気づかず、恵みを与えてくださった神を常に心に留めていなかったため、神は彼らをその働きから引き離し、沈黙を捨てて生活様式を変えることで、彼らが生活の中で礼儀正しく振る舞い、自然の衝動や悪魔、その他の抵抗に惑わされなかったのは、彼ら自身の力によるのではなく、むしろ神の恵みの力によるものであり、その力によって、この世の困難さゆえにこの世が受け止めきれない、あるいは聞き取れないものが彼らの内に生み出され、彼らはその中に長い間、打ち負かされることなく生きていたのだと示された。したがって、当然のことながら、彼らの内には、あらゆる面で彼らを助け、守るのに十分な、ある種の付随する力が宿っていたのである。しかし、彼らはこの力を忘れてしまったので、使徒が語った言葉が彼らのうちに成就しました。「彼らは神の知識を試さなかったから」、霊的な奉仕のために塵をかぶった彼らの主は、「彼らを未熟な心に任せた」(ローマ1章27-28節)。そして、当然のことながら、彼らはその誤りのために不名誉を受けました。
質問:突然、人との同居を完全に放棄し、正義感から人里離れた恐ろしい砂漠に引きこもり、住居やその他の必需品が不足して飢え死にする人がいるでしょうか?
答え:創造以前から、言葉を話せない動物たちのために住まいを用意し、彼らの必要を満たしてこられた神は、ご自身の創造物を軽んじることはありません。特に、神を畏れ、素朴に、詮索することなく神に従う者たちを軽んじることはありません。あらゆることにおいて神に意志を委ねる者は、もはや肉体の必要や不幸、苦しみを気にかけず、ひっそりと暮らし、謙遜な生活を送ることを望みます。悲しみを恐れず、清らかな生活のために世俗から離れ、山々を巡り、言葉を話せない動物たちの中で放浪者のように暮らし、肉体に安住せず、汚れに満ちた生活を送ることを拒むことを、喜びと甘美さを感じます。そして、死に身を委ね、神の清らかな命を奪われないようにと、絶えず泣き、祈るとき、彼は神からの助けを受けます。神に栄光と誉れあれ!どうか主が私たちをその清らかさの中に保ち、聖霊の恵みの聖性によって私たちを聖化してくださいますように。主の御名に栄光を帰し、主の聖なる御名が永遠に清らかに崇められますように。アーメン。
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[[Category:シリヤの聖イサアク全書|214]]
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シリヤの聖イサアク全書/第二十一説教の三
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2026-06-10T14:31:38Z
村田ラジオ
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== 第21説教の3 ==
<< {{r|種々|しゅじゅ}}なる{{r|事|じ}}{{r|項|こう}}に{{r|就|つい}}て{{r|問答|もんどう}}。>>
問 {{r|使徒|しと}}が『<u>ハリストス</u>と{{r|共|とも}}に{{r|復活|ふっかつ}}せしならば』〔[[コロサイ人への書(文語訳)#3:1|コロサイ三の一]]〕といへる{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|復活|ふっかつ}}は{{r|如何|いか}}なる{{r|意味|いみ}}を{{r|含|ふく}}むか。
答 {{r|使徒|しと}}は『{{r|暗|やみ}}より{{r|光|ひかり}}の{{r|照|て}}るを{{r|命|めい}}ぜし{{r|神|かみ}}は{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}の{{r|心|こころ}}を{{r|照|てら}}せり』〔[[コリント人への後の書(文語訳)#4:6|コリンフ後四の六]]〕といひて、{{r|旧|ふる}}きより{{r|出|い}}づるを{{r|名|な}}づけて{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|復活|ふっかつ}}といふべきを{{r|示|しめ}}せり、{{r|是|これ}}{{r|即|すなはち}}{{r|旧|ふる}}き{{r|人|ひと}}に{{r|属|ぞく}}するものは{{r|一|いつ}}もあらざる{{r|新|あた}}らしき{{r|人|ひと}}の{{r|生出|せいしゅつ}}することなり、{{r|録|ろく}}していふ{{r|如|ごと}}し、{{r|彼|かれ}}に『{{r|新|あたら}}しき{{r|心|こころ}}と{{r|新|あたら}}しき{{r|神|しん}}とを{{r|與|あた}}ふ』と、〔[[エゼキエル書(文語訳)#36:26|<u>イエゼキイリ</u>三十六の二十六]]〕けだしその{{r|時|とき}}<u>ハリストス</u>は<u>ハリストス</u>を{{r|識|し}}る{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}と{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}の{{r|神|しん}}を{{r|以|もつ}}て{{r|我|われ}}らの{{r|中|うち}}に{{r|像|かたど}}らるるなり。
問 {{r|黙想|もくそう}}を{{r|勤|つと}}むるの{{r|力|ちから}}は({{r|簡短|かんたん}}に{{r|言|い}}へば){{r|如何|いか}}なるか。
答 {{r|黙想|もくそう}}は{{r|外部|がいぶ}}の{{r|感覚|かんかく}}を{{r|減殺|げんさい}}して{{r|内部|ないぶ}}の{{r|活動|かつどう}}を{{r|喚|かん}}{{r|起|き}}す。{{r|然|しか}}れども{{r|外部|がいぶ}}に{{r|属|ぞく}}するものを{{r|勤|つと}}むるは、{{r|之|これ}}と{{r|反対|はんたい}}なるものを{{r|生|しょう}}じ、{{r|外部|がいぶ}}の{{r|感覚|かんかく}}を{{r|喚|かん}}{{r|起|き}}して{{r|内部|ないぶ}}の{{r|活動|かつどう}}を{{r|減殺|げんさい}}せん。
問 {{r|何物|なにもの}}か{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}と{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}の{{r|原因|げんいん}}たるや、けだし{{r|或者|あるもの}}は{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}を{{r|有|ゆう}}すれども、{{r|或者|あるもの}}は{{r|多|おほ}}く{{r|労|ろう}}するに{{r|拘|かか}}はらず、{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}はそれ{{r|丈|だけ}}に{{r|彼|かれ}}には{{r|感徹|かんてつ}}せざるなり。
答 これが{{r|原因|げんいん}}は{{r|多|おほ}}く{{r|之|これ}}あり、その{{r|一|いつ}}は{{r|摂|せつ}}{{r|理|り}}{{r|的|てき}}{{r|原因|げんいん}}にして、{{r|一般|いっぱん}}の{{r|利|り}}{{r|益|えき}}を{{r|以|もつ}}て{{r|目的|もくてき}}とするなり、{{r|然|しか}}れども{{r|他|た}}の{{r|原因|げんいん}}は{{r|劣弱|れつじゃく}}{{r|者|しゃ}}の{{r|慰|い}}{{r|安|あん}}と{{r|奨励|しょうれい}}と{{r|訓|くん}}{{r|示|じ}}とを{{r|以|もつ}}て{{r|目的|もくてき}}と{{r|為|な}}す{{r|而|しか}}して{{r|第一|だいいち}}{{r|此|こ}}のすべては{{r|人類|じんるい}}に{{r|対|たい}}する{{r|神|かみ}}の{{r|憐|あわれみ}}により{{r|備|そな}}へらるるものなれど、{{r|多|おほ}}くは{{r|左|さ}}の{{r|三種|さんしゅ}}の{{r|人類|じんるい}}の{{r|為|ため}}に{{r|備|そな}}へらるるなり、{{r|或|ある}}ひは{{r|純僕|じゅんぼく}}にして{{r|至|いたつ}}て{{r|無|む}}{{r|悪|あく}}なる{{r|人|ひと}}の{{r|為|ため}}、{{r|或|あるい}}は{{r|完全|かんぜん}}にして{{r|聖|せい}}なる{{r|或者|あるもの}}の{{r|為|ため}}{{r|或|あるい}}は{{r|燃|も}}ゆるが{{r|如|ごと}}くなる{{r|神|かみ}}の{{r|熱心|ねっしん}}を{{r|有|ゆう}}する{{r|者|もの}}の{{r|為|ため}}に{{r|備|そな}}へらるるものにして、{{r|彼|かれ}}らは{{r|世|よ}}をすてて、{{r|之|これ}}より{{r|全|まつた}}く{{r|脱|だつ}}し、{{r|人々|ひとびと}}と{{r|共|とも}}に{{r|社会|しゃかい}}に{{r|住|じゅう}}するより{{r|遠|とお}}ざかり、{{r|一切|いっさい}}をすてて、{{r|有形物体|ゆうけいぶったい}}よりは{{r|何|なに}}{{r|等|ら}}の{{r|助|たすけ}}も{{r|待|ま}}たず、{{r|神|かみ}}の{{r|跡|あと}}を{{r|慕|した}}ふて{{r|行|ゆ}}きしによる。{{r|彼|かれ}}らはその{{r|状態|じょうたい}}の{{r|孤|こ}}{{r|独|どく}}なるにより、{{r|突然|とつぜん}}{{r|恐|おそ}}れを{{r|生|しょう}}ずべく、{{r|或|あるい}}は{{r|飢餓|きが}}の{{r|為|ため}}、{{r|疾病|しっぺい}}の{{r|為|ため}}、{{r|或|あるい}}は{{r|或|あ}}る{{r|事|じ}}{{r|情|じょう}}の{{r|為|ため}}、{{r|又|また}}は{{r|患難|かんなん}}の{{r|為|ため}}に{{r|死|し}}の{{r|危|あやう}}きは{{r|彼|かれ}}らを{{r|囲|かこ}}まん、よりて{{r|彼|かれ}}らは{{r|殆|ほとん}}ど{{r|失望|しつぼう}}せんとす。ゆえにかくの{{r|如|ごと}}き{{r|者|もの}}らには{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}の{{r|来|きた}}るあれども、{{r|労|ろう}}{{r|苦|く}}を{{r|以|もつ}}て{{r|彼|かれ}}らより{{r|大|おほい}}に{{r|超越|ちょうえつ}}する{{r|者|もの}}らに{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}のあらざるは、{{r|之|これ}}が{{r|第一|だいいち}}の{{r|原因|げんいん}}は{{r|欠点|けってん}}の{{r|有|あ}}ると{{r|無|な}}きとによる、{{r|即|すなわち}}{{r|良心|りょうしん}}の{{r|欠点|けってん}}の{{r|有|あ}}る{{r|無|な}}きによるなり。{{r|然|しか}}れども{{r|第|だい}}{{r|二|に}}の{{r|原因|げんいん}}は{{r|必|かなら}}ずや{{r|次|つぎ}}の{{r|如|ごと}}くなるべし、もし{{r|誰|たれ}}か{{r|人間|にんげん}}の{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}、{{r|或|あるい}}は{{r|何|なに}}か{{r|有形|ゆうけい}}{{r|物体|ぶったい}}よりする{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}を{{r|有|ゆう}}するならば、その{{r|者|もの}}には{{r|一般|いっぱん}}の{{r|益|えき}}の{{r|為|ため}}{{r|或|あるい}}は{{r|摂|せつ}}{{r|理|り}}に{{r|属|ぞく}}するものの{{r|外|ほか}}、かくの{{r|如|ごと}}きの{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}はあらざるべし。{{r|我|われ}}らは{{r|遁世|とんせい}}{{r|者|じゃ}}につきて{{r|言|げん}}を{{r|為|な}}す、ゆえに{{r|神|しん}}{{r|父|ぷ}}らの{{r|一人|いちにん}}を{{r|以|もつ}}て{{r|此事|このこと}}の{{r|證者|しょうしゃ}}とすべし、{{r|彼|かれ}}は{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}を{{r|祈|き}}{{r|願|がん}}したりしに、{{r|左|さ}}の{{r|言|げん}}をきけり、{{r|曰|いは}}く『{{r|汝|なんじ}}の{{r|為|ため}}には{{r|人間|にんげん}}の{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}と{{r|人々|ひとびと}}との{{r|会|かい}}{{r|話|わ}}にて{{r|足|た}}れり』と。
これと{{r|同様|どうよう}}{{r|他|た}}の{{r|或者|あるもの}}も{{r|遁世者|とんせいじゃ}}の{{r|身|み}}となりて、{{r|遁世的|とんせいてき}}{{r|生活|せいかつ}}を{{r|送|おく}}りしときは、{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}を{{r|以|もつ}}て{{r|日々|ひび}}{{r|自|みづ}}から{{r|楽|たのし}}めり、しかれども{{r|世|よ}}と{{r|接近|せっきん}}するや、{{r|例|れい}}の{{r|如|ごと}}く{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}を{{r|尋|たづ}}ねたりしも{{r|得|え}}ざりければ{{r|之|これ}}が{{r|理|り}}{{r|由|ゆう}}を{{r|示|しめ}}されんことを{{r|神|かみ}}に{{r|願|ねが}}ふて{{r|言|い}}ひけるは、『{{r|主|しゅ}}よ、{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|我|われ}}より{{r|離|はな}}れたるは{{r|主教|しゅきょう}}{{r|職|しょく}}の{{r|為|ため}}にあらざるか』と。{{r|然|しか}}るに{{r|彼|かれ}}に{{r|告|つ}}げていへり、『{{r|否|いな}}{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}にあらず、{{r|神|かみ}}は{{r|野|の}}に{{r|居|お}}る{{r|者|もの}}らを{{r|慮|おもんばか}}るによりかくの{{r|如|ごと}}きの{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}を{{r|彼|かれ}}らに{{r|賜|たま}}ふなり』と。けだし{{r|人類中|じんるいちゅう}}{{r|何人|なんびと}}か{{r|有形的|ゆうけいてき}}{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}を{{r|有|ゆう}}すると{{r|共|とも}}に{{r|恩寵|おんちょう}}に{{r|属|ぞく}}するものをも{{r|受|う}}くることは{{r|上|じょう}}{{r|文|ぶん}}にしるしし{{r|如|ごと}}く、かくの{{r|如|ごと}}き{{r|場|ば}}{{r|合|あい}}に{{r|於|おい}}て{{r|一|いつ}}の{{r|摂|せつ}}{{r|理|り}}する{{r|者|もの}}にのみ{{r|知|し}}らるる{{r|神|しん}}{{r|秘|ぴ}}なる{{r|摂|せつ}}{{r|理|り}}によるの{{r|外|ほか}}は{{r|能|あた}}はざるなり。
問 {{r|異|い}}{{r|象|しょう}}と{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}とは{{r|同|おな}}じきか、{{r|或|あるい}}は{{r|然|しか}}らざるか。
答 {{r|然|しか}}らず。{{r|却|かえつ}}て{{r|彼|かれ}}らには{{r|差異|さい}}あり。{{r|彼|かれ}}と{{r|此|これ}}とは{{r|共|とも}}に{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}と{{r|名|な}}づけらるることも{{r|屡々|しばしば}}{{r|之|これ}}あり。けだし{{r|神|しん}}{{r|秘|ぴ}}なるものを{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}によりて{{r|顕|あら}}はさるるにより、すべての{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}は{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}と{{r|名|な}}づけらる、{{r|然|しか}}れども{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}は{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}と{{r|名|な}}づけられざるなり。<span style="border-bottom: dotted 2px">{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}</span>といふ{{r|言|ことば}}は{{r|意|い}}{{r|識|しき}}せらるべきものと{{r|智|ち}}{{r|力|りょく}}を{{r|以|もつ}}て{{r|試|ため}}さるべきもの、{{r|且|かつ}}は{{r|想像|そうぞう}}せらるべきものに{{r|往々|おうおう}}{{r|用|もち}}ひらるるなり。されど{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}は{{r|種々|しゅじゅ}}の{{r|方法|ほうほう}}によりて{{r|之|これ}}あるべし、{{r|例|たと}}へばいにしへ{{r|旧約|きゅうやく}}の{{r|人々|ひとびと}}にありし{{r|如|ごと}}く{{r|形像|けいぞう}}{{r|又|また}}は{{r|豫|よ}}{{r|象|しょう}}に{{r|於|おい}}てするあり、{{r|深睡|しんすい}}に{{r|於|おい}}てし、{{r|或|あるい}}は{{r|覚醒|かくせい}}なる{{r|状態|じょうたい}}に{{r|於|おい}}てするあり、{{r|而|しか}}して{{r|或時|あるとき}}には{{r|全|まつた}}くの{{r|的確|てきかく}}を{{r|以|もつ}}てすれども、{{r|或時|あるとき}}にはたとへば{{r|幻影|げんえい}}に{{r|於|おい}}てする{{r|如|ごと}}く、{{r|多|た}}{{r|少|しょう}}{{r|明白|めいはく}}を{{r|欠|か}}くことあり、ゆえに{{r|覚醒|かくせい}}なる{{r|状態|じょうたい}}に{{r|於|おい}}て{{r|見|み}}るか{{r|或|あるい}}は{{r|睡眠|すいみん}}に{{r|於|おい}}て{{r|見|み}}るか、{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}を{{r|有|ゆう}}する{{r|者|もの}}{{r|自|みづ}}からも{{r|之|これ}}を{{r|知|し}}らざることしばしば{{r|之|これ}}あり。{{r|或|あるい}}は{{r|救助|きゅうじょ}}の{{r|声|こえ}}を{{r|聞|き}}くこともあるべく、{{r|時|とき}}としては{{r|最|もっとも}}{{r|顕然|けんぜん}}として{{r|面|まのあた}}り{{r|相対|あいたい}}して{{r|見|み}}{{r|且|かつ}}{{r|談|だん}}じ{{r|且|かつ}}{{r|問|と}}ふて、{{r|問|とひ}}の{{r|為|ため}}に{{r|答|こたえ}}を{{r|得|う}}ることもあるべし。{{r|聖|せい}}なる{{r|能力|のうりょく}}は{{r|之|これ}}に{{r|堪|た}}ふる{{r|者|もの}}にあらはれて、{{r|其者|そのもの}}に{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}を{{r|與|あた}}ふるなり。{{r|而|しか}}してかくの如きの{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}は、{{r|極|きは}}めて{{r|荒涼|こうりょう}}{{r|寂寞|せきばく}}たる{{r|原|げん}}{{r|野|や}}の{{r|地|ち}}の{{r|人類|じんるい}}に{{r|遠|とほ}}ざかりて、{{r|人|ひと}}の{{r|之|これ}}に{{r|必要|ひつよう}}を{{r|有|ゆう}}することの{{r|免|まぬか}}れざる{{r|処|ところ}}に{{r|於|おい}}て{{r|之|これ}}あり、{{r|何|なん}}となれば{{r|其|その}}{{r|処|ところ}}よりは{{r|彼|かれ}}に{{r|他|た}}の{{r|助|たす}}けも{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}もあらざればなり。{{r|然|しか}}れども{{r|智|ち}}{{r|力|りょく}}を{{r|以|もつ}}て{{r|感|かん}}{{r|知|ち}}せらるべき{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}は{{r|浄潔|じょうけつ}}に{{r|由|よ}}り{{r|易|たや}}すく受けらるべくして、ただ{{r|完全|かんぜん}}にして{{r|練達|れんたつ}}なる{{r|者|もの}}に{{r|之|これ}}あるなり。
問 {{r|誰|たれ}}か{{r|心|こころ}}の{{r|浄潔|じょうけつ}}に{{r|達|たっ}}せしならば、{{r|其|その}}{{r|徴證|ちょうしょう}}は{{r|如何|いか}}なるか、{{r|又|また}}{{r|其|その}}{{r|心|こころ}}の{{r|浄潔|じょうけつ}}に{{r|達|たっ}}したるを{{r|人|ひと}}は{{r|何時|いつ}}{{r|認識|にんしき}}するか。
答 {{r|誰|たれ}}か{{r|悉|ことごと}}くの{{r|人|ひと}}を{{r|善|ぜん}}{{r|視|し}}して、{{r|彼|かれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|何人|なんびと}}も{{r|不|ふ}}{{r|潔|けつ}}{{r|汚|お}}{{r|穢|かい}}なる{{r|者|もの}}と{{r|見|み}}へざる{{r|時|とき}}は、{{r|実|じつ}}に{{r|彼|かれ}}は{{r|心|こころ}}にて{{r|浄潔|じょうけつ}}なり。けだし{{r|善|ぜん}}なる{{r|目|め}}は{{r|悪|あく}}を{{r|見|み}}ず〔[[ハバクク書(文語訳)#1:13|アウワクム一の十三]]〕といへる{{r|言|ことば}}の{{r|如|ごと}}くならずんば、{{r|如何|いかん}}して{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}は{{r|誠実|せいじつ}}の{{r|心|こころ}}より{{r|衆人|しゅうじん}}を{{r|一様|いちよう}}に『{{r|尊|そん}}{{r|視|し}}して、{{r|己|おのれ}}より{{r|愈|まさ}}れりとせよ』〔[[ピリピ人への書(文語訳)#2:3|フィリッピ二の三]]〕といへる{{r|使徒|しと}}の{{r|言|ことば}}に{{r|的応|てきおう}}せんや。
問 {{r|浄潔|じょうけつ}}とは如何なるか、{{r|其|その}}{{r|界限|かいげん}}は{{r|何処|いづこ}}にありや。
答 {{r|浄潔|じょうけつ}}とは{{r|世|よ}}に{{r|人性|じんせい}}を{{r|以|もつ}}て{{r|想出|そうしゅつ}}せられたる{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}の{{r|[[wikt:悖|悖]]|はい}}{{r|理|り}}なる{{r|方法|ほうほう}}を{{r|忘|わす}}るる{{r|是|これ}}なり。{{r|然|しか}}れども{{r|此|これ}}{{r|等|ら}}より{{r|免|のが}}れて、{{r|其外|そのほか}}に{{r|立|た}}たんとせば、{{r|視|み}}よ{{r|其|その}}{{r|界限|かいげん}}は{{r|左|さ}}の如くなるべし、{{r|即|すなはち}}{{r|人|ひと}}が{{r|其性|そのせい}}の{{r|元|げん}}{{r|始|し}}の{{r|醇樸|じゅんぼく}}と{{r|元|げん}}{{r|始|し}}の{{r|無|む}}{{r|邪|じゃ}}{{r|気|き}}とに{{r|達|たつ}}して、{{r|恰|あたか}}も{{r|小児|しょうに}}の{{r|如|ごと}}くになり、ただ{{r|小児|しょうに}}の{{r|欠点|けってん}}のあらざること{{r|是|これ}}なり。
問 {{r|此|こ}}の{{r|階段|かいだん}}に{{r|誰|たれ}}か{{r|昇|のぼ}}ることを{{r|得|う}}るか。
答 {{r|然|しか}}り。けだし{{r|視|み}}よ、{{r|或者|あるもの}}{{r|等|ら}}は{{r|此|この}}{{r|度|ど}}に{{r|達|たつ}}せり、たとへば{{r|父|ちち}}<u>ソシイ</u>の{{r|如|ごと}}きも{{r|此|この}}{{r|度|ど}}に{{r|達|たつ}}して{{r|門|もん}}{{r|徒|と}}に{{r|左|さ}}の{{r|如|ごと}}く{{r|問|と}}ふに{{r|至|いた}}れり、{{r|言|い}}へらく『{{r|予|よ}}は{{r|食|しょく}}せしや、{{r|或|あるひ}}は{{r|食|しょく}}せざりしや』と。{{r|又|また}}{{r|他|た}}の{{r|或|ある}}{{r|神|しん}}{{r|父|ぷ}}も{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}きの{{r|醇樸|じゅんぼく}}に{{r|達|たつ}}して、{{r|殆|ほとん}}ど{{r|小児|しょうに}}の{{r|如|ごと}}き{{r|無|む}}{{r|罪|ざい}}に{{r|至|いた}}りぬ、けだし{{r|此|この}}{{r|世|よ}}にあるものをすべて{{r|全|まつた}}く{{r|忘|わす}}れたり、ゆえにもし{{r|門|もん}}{{r|徒|と}}{{r|等|ら}}が{{r|止|とど}}めざりしならば、{{r|領聖|りょうせい}}に{{r|先|さき}}だちても{{r|食|しょく}}せしならん、よりて{{r|門|もん}}{{r|徒|と}}{{r|等|ら}}は{{r|彼|かれ}}を{{r|小児|しょうに}}の{{r|如|ごと}}く{{r|領聖|りょうせい}}にみちびくに{{r|至|いた}}れり。しかれども{{r|彼|かれ}}は{{r|世|よ}}の{{r|為|ため}}には{{r|小児|しょうに}}なりしも、{{r|神|かみ}}の{{r|為|ため}}に{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|完全|かんぜん}}なりき。
問 {{r|黙想|もくそう}}の{{r|庵|いほり}}に在りて、{{r|黙想|もくそう}}に{{r|専|もっぱら}}なる{{r|苦行|くぎょう}}{{r|者|しゃ}}は、{{r|何|なに}}を{{r|業|ぎょう}}とし、{{r|何|なに}}を{{r|沈|ちん}}{{r|思|し}}するを{{r|要|よう}}するか、{{r|其|その}}{{r|智|ち}}を{{r|空想|くうそう}}の{{r|為|ため}}に{{r|暇|いとま}}あらしめざらん{{r|為|ため}}に{{r|彼|かれ}}は{{r|不|ふ}}{{r|断|だん}}{{r|何|なに}}を{{r|為|な}}すべきか。
答 {{r|人|ひと}}が{{r|庵中|あんちゅう}}に{{r|在|あり}}て{{r|死|し}}{{r|者|しゃ}}の{{r|如|ごと}}くなるを得るときは、{{r|業務|ぎょうむ}}と{{r|沈|ちん}}{{r|思|し}}とのことを{{r|問|と}}はんや。{{r|勉焉|べんえん}}として{{r|心|こころ}}の{{r|安定|あんてい}}なる{{r|人|ひと}}の{{r|独|ひと}}り{{r|自|みづか}}ら{{r|居|お}}るあるや、{{r|如何|いか}}に{{r|己|おのれ}}を{{r|導|みちび}}くべきを{{r|問|と}}ふの{{r|要|よう}}あらんや。{{r|修道|しゅうどう}}{{r|士|し}}には{{r|庵中|あんちゅう}}に{{r|在|あり}}て、{{r|哀泣|あいきゅう}}するの{{r|外|ほか}}、{{r|他|た}}の{{r|如何|いか}}なる{{r|業務|ぎょうむ}}ありや、{{r|彼|かれ}}には{{r|哀泣|あいきゅう}}より{{r|他|た}}の{{r|思|し}}{{r|想|そう}}に{{r|転|てん}}ずる{{r|遑|いとま}}ありや。{{r|且|かつ}}{{r|如何|いか}}なる{{r|業務|ぎょうむ}}は{{r|此|これ}}よりも{{r|更|さら}}に{{r|愈|まさ}}れるか。{{r|修道|しゅうどう}}{{r|士|し}}の{{r|寓居|ぐうきょ}}と{{r|其|その}}{{r|独棲|どくせい}}とは、{{r|人間|にんげん}}の{{r|喜|よろこび}}より{{r|遠|とほ}}ざかる{{r|墓|はか}}に{{r|居|お}}るに{{r|譬|たと}}ふべくして、{{r|其|その}}{{r|勤|つと}}めは{{r|即|すなはち}}{{r|哀泣|あいきゅう}}なるを{{r|彼|かれ}}に{{r|教|おし}}ふるなり。{{r|而|しか}}して{{r|其|その}}{{r|名|な}}の{{r|意義|いぎ}}も{{r|彼|かれ}}を{{r|同|どう}}{{r|時|じ}}に{{r|喚|かん}}{{r|起|き}}して、{{r|同|おなじ}}く{{r|之|これ}}を{{r|信|しん}}ぜしむるなり、{{r|何|なん}}となれば{{r|彼|かれ}}は{{r|悲|ひ}}{{r|嘆|たん}}する{{r|者|もの}}と{{r|名|な}}づけらる、{{r|即|すなはち}}{{r|心|こころ}}に{{r|悲|ひ}}{{r|哀|あい}}を{{r|満|み}}たさるる{{r|者|もの}}と{{r|名|な}}づけらるればなり。すべての{{r|聖人|せいじん}}は{{r|哀泣|あいきゅう}}に{{r|於|おい}}て{{r|此|この}}{{r|生命|いのち}}より{{r|移|うつ}}るに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}、{{r|其|その}}{{r|目|め}}は{{r|常|つね}}に{{r|涙|なみだ}}に{{r|満|み}}たされしならば、{{r|誰|たれ}}か{{r|哀泣|あいきゅう}}せざるべけんや。{{r|其|その}}{{r|目前|もくぜん}}に{{r|横|よこ}}たはる{{r|死|し}}{{r|者|しゃ}}ありて{{r|彼|かれ}}は{{r|自|みづ}}から{{r|罪|つみ}}の{{r|為|ため}}に{{r|殺|ころ}}されしものなるを{{r|目撃|もくげき}}する{{r|者|もの}}に、{{r|涙|なみだ}}を{{r|益用|えきよう}}すべきを{{r|教|おし}}ふるの{{r|要|よう}}ありや。{{r|汝|なんぢ}}の{{r|為|ため}}に{{r|全|ぜん}}{{r|世|せ}}{{r|界|かい}}よりも{{r|貴|たふと}}き{{r|汝|なんぢ}}の{{r|霊魂|れいこん}}が{{r|罪|つみ}}に{{r|殺|ころ}}されて、{{r|汝|なんぢ}}の{{r|目前|もくぜん}}に{{r|横|よこ}}たはらば、{{r|汝|なんぢ}}に{{r|哀泣|あいきゅう}}を{{r|催|もよほ}}さしめざらんや。{{r|故|ゆえ}}にもし{{r|黙想|もくそう}}を{{r|始|はじ}}め、{{r|忍耐|にんたい}}を{{r|以|もつ}}て{{r|之|これ}}に{{r|専|もっぱら}}ならば、{{r|哀泣|あいきゅう}}にも{{r|専|もっぱ}}らなるを{{r|能|よ}}くすべきは{{r|無|む}}{{r|論|ろん}}なり。ゆゑに{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}に{{r|哀泣|あいきゅう}}を{{r|賜|たま}}はらんが{{r|為|ため}}に{{r|其|その}}{{r|心中|しんちゅう}}に{{r|於|おい}}て{{r|屡|しばしば}}{{r|主|しゅ}}に{{r|祈|いの}}らん。けだし{{r|他|た}}の{{r|賜|たまもの}}よりも{{r|最|もっとも}}{{r|善|ぜん}}にして{{r|最|いと}}{{r|愈|まさ}}れる{{r|此|この}}{{r|恩寵|おんちょう}}を{{r|求|もと}}め{{r|得|え}}ば、{{r|其|その}}{{r|助|たすけ}}により{{r|浄潔|じょうけつ}}をも{{r|得|え}}ん。{{r|然|しか}}してもし{{r|此|これ}}を{{r|得|え}}ば{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}が{{r|此|この}}{{r|生命|せいめい}}より{{r|出|い}}づる{{r|迄|まで}}は{{r|最早|もはや}}{{r|浄潔|じょうけつ}}を{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}より{{r|奪|うば}}はれざるべし。
ゆゑに{{r|心|こころ}}の{{r|清|きよ}}き{{r|者|もの}}は{{r|福|さいわい}}なり、{{r|何|なん}}となれば{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|此|こ}}の{{r|涙|なみだ}}の{{r|甘|あま}}きを{{r|楽|たのし}}まざるの{{r|時|とき}}あるなく、{{r|之|これ}}によりて{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|常|つね}}に{{r|主|しゅ}}を{{r|見|み}}ればなり。{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}の{{r|目|め}}に{{r|涙|なみだ}}ある{{r|間|あいだ}}は、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|其|その}}{{r|祈祷|きとう}}の{{r|高|たか}}きを{{r|以|もつ}}て{{r|神|かみ}}の{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}を{{r|見|み}}るを{{r|賜|たま}}はるべくして、{{r|涙|なみだ}}なき{{r|祈祷|きとう}}は{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}に{{r|之|これ}}あらざるなり。「{{r|泣|な}}く{{r|者|もの}}は{{r|福|さいわい}}なり。{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|慰|なぐさ}}められんとすればなり」〔[[マタイ傳福音書(文語訳)#5:10|マトフェイ五の十]]〕と{{r|主|しゅ}}の{{r|述|の}}べられし{{r|言|ことば}}は{{r|亦|また}}{{r|此|この}}{{r|意味|いみ}}を{{r|含有|がんゆう}}す。けだし{{r|泣|な}}くによりて{{r|人|ひと}}は{{r|心霊|しんれい}}の{{r|清|きよ}}きに{{r|達|たつ}}せん。ゆゑに{{r|主|しゅ}}は「{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|慰|なぐさ}}められんとすればなり」と{{r|言|い}}ひて、{{r|其|その}}{{r|慰|なぐさめ}}の{{r|如何|いか}}なるを{{r|説明|せつめい}}せざりき。けだし{{r|修道|しゅうどう}}{{r|士|し}}が{{r|涙|なみだ}}の{{r|助|たすけ}}により、{{r|慾|よく}}の{{r|範|はん}}{{r|囲|い}}を{{r|踰|こ}}えて、{{r|心|こころ}}の{{r|清潔|せいけつ}}の{{r|平原|へいげん}}に{{r|入|い}}るときは、かくの{{r|如|ごと}}きの{{r|慰|なぐさめ}}は{{r|彼|かれ}}を{{r|迎|むか}}へん。ゆゑにもしここに{{r|慰|なぐさめ}}を{{r|尋|たづ}}ぬる{{r|者|もの}}{{r|等|ら}}の{{r|中|うち}}{{r|誰|たれ}}か{{r|此|この}}{{r|平原|へいげん}}に{{r|達|たつ}}し、{{r|此処|ここ}}に{{r|於|おい}}て{{r|得|え}}られざる{{r|慰|なぐさめ}}を{{r|彼処|かしこ}}に{{r|於|おい}}て{{r|迎|むか}}ふるならば、{{r|其時|そのとき}}{{r|彼|かれ}}は{{r|泣|な}}くによりて{{r|如何|いか}}なる{{r|慰|なぐさめ}}を{{r|自|みづ}}から{{r|期待|きたい}}したると、{{r|神|かみ}}は{{r|泣|な}}く{{r|者|もの}}の{{r|清潔|せいけつ}}の{{r|為|ため}}にいかなる{{r|慰|なぐさめ}}を{{r|與|あた}}ふるとを{{r|終|つい}}に{{r|了解|りょうかい}}せん、けだし{{r|不|ふ}}{{r|断|だん}}に{{r|泣|な}}く{{r|者|もの}}は{{r|慾|よく}}に{{r|擾|みだ}}さるるあたはざればなり。{{r|涙|なみだ}}を{{r|流|なが}}して{{r|哀泣|あいきゅう}}するは、これぞ{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}なる{{r|者|もの}}の{{r|賜|たまもの}}なる。{{r|而|しか}}して{{r|一|いち}}{{r|時|じ}}{{r|泣|ない}}て{{r|嘆息|たんそく}}する{{r|者|もの}}の{{r|涙|なみだ}}さへ{{r|彼|かれ}}を{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}にみちびくのみならず、{{r|智|ち}}{{r|力|りょく}}をも{{r|慾|よく}}の{{r|記|き}}{{r|憶|おく}}より{{r|全|まった}}く{{r|潔|きよ}}めて、{{r|彼|かれ}}を{{r|自|じ}}{{r|由|ゆう}}ならしむるならば、{{r|認識|にんしき}}と{{r|共|とも}}に{{r|日|にち}}{{r|夜|や}}{{r|此|この}}{{r|行|こう}}{{r|為|い}}を{{r|練習|れんしゅう}}する{{r|者|もの}}のことは{{r|之|これ}}を{{r|何|なに}}とかいはん。ゆゑに{{r|独|ひと}}り{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|れいこん}}を{{r|此|この}}{{r|行|こう}}{{r|為|い}}に{{r|供|そな}}へたる{{r|者|もの}}の{{r|外|ほか}}は{{r|何人|なんびと}}も{{r|哀泣|あいきゅう}}によりて{{r|生|しょう}}ずる{{r|助|たすけ}}を{{r|知|し}}らざるべし。{{r|凡|すべて}}の{{r|聖人|せいじん}}は{{r|此|この}}{{r|門|もん}}{{r|口|こう}}に{{r|向|むか}}ふ、{{r|何|なん}}となれば{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}の{{r|方面|ほうめん}}に{{r|入|い}}るが{{r|為|ため}}の{{r|門|もん}}は{{r|涙|なみだ}}を{{r|以|もつ}}て{{r|其|その}}{{r|前|まへ}}に{{r|開|ひら}}かるればなり、{{r|而|しか}}して{{r|至|し}}{{r|仁|じん}}にして{{r|救済|きゅうさい}}{{r|的|てき}}なる{{r|神|かみ}}の{{r|跡|あと}}は{{r|此|この}}{{r|方面|ほうめん}}に{{r|於|おい}}て{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}により{{r|顕|あら}}はさるるなり。
問 {{r|或者|あるもの}}は{{r|身体|しんたい}}の{{r|薄弱|はくじゃく}}の{{r|故|ゆえ}}に{{r|不|ふ}}{{r|断|だん}}に{{r|泣|な}}くことを{{r|得|え}}ず、{{r|智|ち}}を{{r|保護|ほご}}するが{{r|為|ため}}に{{r|何|なに}}を{{r|有|ゆう}}すべきか、けだし{{r|智|ち}}が{{r|何物|なにもの}}にも{{r|占有|せんゆう}}せられざる{{r|時|とき}}は、{{r|之|これ}}に{{r|対|たい}}して{{r|慾|よく}}は{{r|起|おこ}}らざればなり。
答 それ{{r|何|なに}}{{r|等|ら}}の{{r|放心|ほうしん}}にも{{r|遠|とお}}ざかる{{r|遁世|とんせい}}{{r|者|じゃ}}の{{r|身|み}}を{{r|以|もつ}}て、{{r|其|その}}{{r|心|こころ}}は{{r|生活|せいかつ}}{{r|上|じょう}}の{{r|為|ため}}に{{r|占有|せんゆう}}せられずんば、{{r|慾|よく}}は{{r|心|こころ}}に{{r|蜂|ほう}}{{r|起|き}}して、{{r|苦行|くぎょう}}{{r|者|しゃ}}を{{r|擾|みだ}}すあたはざるべし、ただ{{r|彼|かれ}}は{{r|怠慢|たいまん}}にして{{r|其|その}}{{r|本分|ほんぶん}}に{{r|不|ふ}}{{r|注意|ちゅうい}}なることはあらん。{{r|然|しか}}れどももし{{r|彼|かれ}}は{{r|神|かみ}}の{{r|書|しょ}}を{{r|研究|けんきゅう}}{{r|練習|れんしゅう}}するならば、{{r|其|その}}{{r|旨|し}}{{r|趣|しゅ}}の{{r|討求|とうきゅう}}に{{r|特|こと}}に{{r|心|こころ}}を{{r|奪|うば}}はれつつ、{{r|慾|よく}}の{{r|為|ため}}には{{r|少|すこ}}しも{{r|動揺|どうよう}}せざるものとなりて{{r|存|そん}}せん。けだし{{r|神|かみ}}の{{r|書|しょ}}に{{r|暁通|ぎょうつう}}することの{{r|益|ますます}}{{r|長|ちょう}}じて{{r|其|その}}{{r|根|ね}}を{{r|張|は}}るときは、{{r|空想|くうそう}}は{{r|彼|かれ}}より{{r|逃|のが}}るべくして、{{r|其|その}}{{r|智|ち}}は{{r|聖書|せいしょ}}を{{r|読|よ}}み、{{r|或|あるい}}は{{r|読|よ}}みし{{r|所|ところ}}を{{r|考|かんが}}へんと{{r|欲|ほつ}}するの{{r|望|のぞみ}}より{{r|離|はな}}るる{{r|能|あた}}はざるべし、されば{{r|深|ふか}}き{{r|原|げん}}{{r|野|や}}の{{r|沈黙|ちんもく}}の{{r|中|うち}}に{{r|在|あり}}て、{{r|聖書|せいしょ}}の{{r|為|ため}}に{{r|心|こころ}}を{{r|奪|うば}}はるる{{r|彼|かれ}}は、{{r|其|その}}{{r|業|ぎょう}}を{{r|楽|たのし}}む{{r|最大|さいだい}}なる{{r|悦楽|えつらく}}に{{r|因|よ}}り、{{r|現生|げんせい}}には{{r|少|すこ}}しの{{r|注意|ちゅうい}}も{{r|向|む}}けざるべし。{{r|此|これ}}により{{r|自己|じこ}}と{{r|其性|そのせい}}とを{{r|忘|わす}}れて、{{r|恰|あたか}}も{{r|憤心|ふんしん}}したる{{r|人|ひと}}の{{r|如|ごと}}くなるべく、{{r|此|この}}{{r|世|よ}}の{{r|事|こと}}はすべて{{r|記|き}}{{r|憶|おく}}せずして{{r|思|し}}{{r|想|そう}}は{{r|神|かみ}}の{{r|大|だい}}なることの{{r|為|ため}}に{{r|特|こと}}に{{r|占領|せんりょう}}せられん、されば{{r|心|こころ}}を{{r|此|これ}}に{{r|沈潜|ちんせん}}して{{r|言|い}}はん、『{{r|光栄|こうえい}}は{{r|彼|かれ}}の{{r|神性|しんせい}}に{{r|帰|き}}す』と。{{r|又|また}}{{r|言|い}}はん『{{r|光栄|こうえい}}は{{r|彼|かれ}}の{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}に{{r|帰|き}}す、{{r|奇異|きい}}なる{{r|哉|かな}}、{{r|非常|ひじょう}}なる{{r|哉|かな}}、{{r|彼|かれ}}のすべての{{r|行事|ぎょうじ}}よ、{{r|彼|かれ}}は{{r|予|よ}}の{{r|貧寒|ひんかん}}を{{r|如何|いか}}なる{{r|高処|こうしょ}}に{{r|昇|のぼ}}せたるか、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}に{{r|何|なに}}を{{r|学|まな}}ぶを{{r|賜|たま}}ひ、{{r|意思|いし}}を{{r|如何|いか}}に{{r|大胆|だいたん}}ならしめて、{{r|我|わ}}が{{r|霊|たましい}}を{{r|楽|たのし}}ましむるか』と。{{r|此|この}}{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}に{{r|意思|いし}}を{{r|向|む}}けて、{{r|常|つね}}に{{r|之|これ}}に{{r|驚|おどろ}}かさるる{{r|彼|かれ}}は、{{r|不|ふ}}{{r|断|だん}}{{r|酩酊|めいてい}}の{{r|中|うち}}にあること、{{r|復活|ふくかつ}}の{{r|後|のち}}の{{r|生命|せいめい}}を{{r|既|すで}}に{{r|味|あぢは}}ふ{{r|如|ごと}}くなるべし、{{r|何|なん}}となれば{{r|黙想|もくそう}}は{{r|此|この}}{{r|恩寵|おんちょう}}に{{r|最|いと}}{{r|大|おほい}}に{{r|助|たす}}くればなり。けだし{{r|彼|かれ}}の{{r|智力|ちりょく}}は{{r|黙想|もくそう}}に{{r|於|おい}}て{{r|求|もと}}め{{r|得|え}}たる{{r|平安|へいあん}}と{{r|共|とも}}に{{r|自|みづ}}から{{r|止|とど}}まるを{{r|得|う}}べきを{{r|看|かん}}{{r|破|ぱ}}するのみならず、{{r|併|あはせ}}て{{r|之|これ}}を{{r|以|もつ}}て{{r|喚|かん}}{{r|起|き}}せられて{{r|其|その}}{{r|生命|せいめい}}の{{r|秩序|ちつじょ}}と{{r|適応|てきおう}}せし{{r|所|ところ}}のものを{{r|記|き}}{{r|憶|おく}}せん。けだし{{r|来世|らいせい}}の{{r|光栄|こうえい}}と、{{r|彼|か}}の{{r|霊的|れいてき}}{{r|生命|せいめい}}と{{r|神|かみ}}とに{{r|止|とど}}まる{{r|義|ぎ}}{{r|人|じん}}{{r|等|ら}}の{{r|為|ため}}に{{r|其|その}}{{r|望|のぞみ}}の{{r|如|ごと}}く{{r|備|そな}}へらるる{{r|凡|すべ}}ての{{r|幸福|こうふく}}と、{{r|其|その}}{{r|新|あらた}}なる{{r|興復|こうふく}}とを{{r|心|こころ}}に{{r|想像|そうぞう}}しつつ{{r|此|この}}{{r|世|よ}}にあるものは{{r|思|おもひ}}にも{{r|記|き}}{{r|憶|おく}}にも{{r|存|そん}}せざるべし。{{r|然|しか}}れども{{r|此|これ}}を{{r|以|もつ}}て{{r|酔|よ}}はしめらるるや、{{r|更|さら}}に{{r|直|ちょく}}{{r|覚|かく}}を{{r|以|もつ}}て{{r|其|その}}{{r|処|ところ}}より{{r|彼|かれ}}が{{r|自|みづ}}から{{r|生在|せいざい}}する{{r|所|ところ}}の{{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|転回|てんかい}}し{{r|来|きた}}るときは、{{r|愕然|がくぜん}}として{{r|驚|おどろき}}て{{r|言|い}}はん、『{{r|嗚呼|ああ}}{{r|深|ふか}}い{{r|哉|かな}}、{{r|究|きは}}む{{r|可|べか}}らざる{{r|神|かみ}}の{{r|富|とみ}}と{{傍点|style=open circle|智恵}}と{{傍点|style=open circle|知識}}よ、{{r|聡明|そうめい}}と、{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}と{{r|摂理|せつり}}よ、{{r|其|その}}{{r|定|さだめ}}は{{r|如何|いか}}に{{r|測|はか}}り{{r|難|がた}}く、{{r|其|その}}{{r|道|みち}}は{{r|如何|いか}}に{{r|究|きは}}め{{r|難|がた}}きや』と〔[[ロマ人への書(文語訳)#11:33|ロマ十一の三十三]]〕。けだし{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}、{{r|彼|かれ}}はかくの{{r|如|ごと}}き{{r|奇異|きい}}なる{{r|別|べつ}}{{r|世界|せかい}}を{{r|備|そな}}へて、{{r|之|これ}}にすべての{{r|聡明|そうめい}}なる{{r|実体|じったい}}を{{r|導|みちび}}き{{r|入|い}}れ、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}を{{r|終|おわ}}りなき{{r|生命|いのち}}に{{r|守|まも}}り{{r|給|たま}}ふか、{{r|何|なん}}の{{r|故|ゆえ}}に{{r|彼|かれ}}は{{r|此|こ}}の{{r|第一|だいいち}}の{{r|世界|せかい}}を{{r|造|つく}}り、{{r|之|これ}}を{{r|拡大|かくだい}}にして、{{r|種類|しゅるい}}の{{r|群集|ぐんしゅう}}と{{r|万物|ばんぶつ}}の{{r|許|きょ}}{{r|多|た}}とを{{r|以|もつ}}て{{r|之|これ}}を{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}く{{r|富|と}}まし、{{r|彼処|かしこ}}に{{r|於|おい}}て{{r|多|おほ}}くの、{{r|慾|よく}}の{{r|原因|げんいん}}と、{{r|慾|よく}}を{{r|養|やしな}}ふものと、{{r|又|また}}{{r|之|これ}}に{{r|抵抗|ていこう}}するものとにも{{r|位置|いち}}を{{r|與|あた}}へたるか。{{r|而|しか}}して{{r|何|なん}}の{{r|故|ゆえ}}に{{r|最初|さいしょ}}より{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}を{{r|此|この}}{{r|世界|せかい}}に{{r|置|お}}き、{{r|世|よ}}に{{r|長寿|ちょうじゅ}}せんを{{r|愛|あい}}するの{{r|情|じょう}}を{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}に{{r|固|かた}}めたりしも{{r|俄|にわか}}に{{r|死|し}}を{{r|以|もつ}}て{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|之|これ}}より{{r|奪|うば}}ひ{{r|去|さ}}り、{{r|少|すくな}}からざる{{r|時|とき}}の{{r|間|あいだ}}{{r|無|む}}{{r|感覚|かんかく}}{{r|無|む}}{{r|動作|どうさ}}を{{r|以|もつ}}て{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}を{{r|守|まも}}り、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}の{{r|形像|けいぞう}}を{{r|滅|めつ}}し、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}を{{r|融解|ゆうかい}}し、{{r|掛|かき}}{{r|廻|まわ}}して、{{r|之|これ}}を{{r|土|つち}}と{{r|混|こん}}じ、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}が{{r|組織|そしき}}を{{r|破|は}}{{r|壊|かい}}し{{r|腐|ふ}}{{r|敗|はい}}{{r|滅尽|めつじん}}して、{{r|人|ひと}}の{{r|性|せい}}{{r|中|ちゅう}}{{r|一物|いちぶつ}}も{{r|全|まった}}く{{r|残|のこ}}らざるに{{r|至|いた}}るか、{{r|然|しか}}れども{{r|崇拝|すうはい}}せらるべき{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}を{{r|以|もつ}}て{{r|定|さだ}}めたまひし{{r|時|とき}}に{{r|至|いた}}り、{{r|欲|ほつ}}するあるや、ただ{{r|彼|かれ}}にのみ{{r|知|し}}らるる{{r|他|た}}の{{r|形像|けいぞう}}に{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}を{{r|再興|さいこう}}して、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}を{{r|他|た}}の{{r|状態|じょうたい}}に{{r|導|みちび}}き{{r|入|い}}るるは{{r|何故|なにゆえ}}なるか、こは{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|人々|ひとびと}}の{{r|希望|きぼう}}する{{r|所|ところ}}なるのみならず、{{r|此|この}}{{r|世界|せかい}}に{{r|必要|ひつよう}}を{{r|有|ゆう}}せずして、{{r|其性|そのせい}}の{{r|非|ひ}}{{r|常|じょう}}なるにより、{{r|僅|わづか}}に{{r|完全|かんぜん}}を{{r|欠|か}}くところの{{r|最|いと}}{{r|聖|せい}}なる{{r|天|てん}}{{r|使|し}}{{r|等|ら}}も、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|諸族|しょぞく}}の{{r|塵|ちり}}より{{r|起|お}}きて、{{r|其|その}}{{r|敗壊|はいかい}}の{{r|新|あらた}}にせらるるとき、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}が{{r|敗壊|はいかい}}より{{r|起|おこ}}るを{{r|待|ま}}つ、けだし、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}の{{r|為|ため}}に{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}も{{r|入|い}}るを{{r|禁|きん}}ぜられたれば、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}も{{r|新|しん}}{{r|世界|せかい}}の{{r|戸|と}}の{{r|一回|いっかい}}{{r|開|ひら}}かるるを{{r|待|ま}}つなり。{{r|而|しか}}して{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}を{{r|苦|くる}}しむる{{r|肉体|にくたい}}の{{r|重|おも}}きは{{r|釋|と}}かれたるにより、{{r|此|この}}{{r|受造物|じゅぞうぶつ}}({{r|天|てん}}{{r|使|し}}{{r|等|ら}})も{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}と{{r|共|とも}}に{{r|安|やす}}んずるを{{r|得|う}}ること{{r|使徒|しと}}のいふ{{r|如|ごと}}し、けだし{{r|此|この}}{{r|世|よ}}の{{r|構造|こうぞう}}はすべて{{r|全|まった}}く{{r|破|は}}{{r|壊|かい}}して、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}が{{r|性|せい}}は{{r|元|げん}}{{r|始|し}}の{{r|状|じょう}}{{r|態|たい}}に{{r|回復|かいふく}}するにより、『{{r|受造物|じゅぞうぶつ}}{{r|自|みづか}}らも{{r|神|かみ}}の{{r|諸|しょ}}{{r|子|し}}の{{r|顕|あら}}はるるを{{r|俟|ま}}つ、{{r|即|すなはち}}{{r|敗壊|はいかい}}の{{r|奴|ど}}より{{r|釋|と}}かれて{{r|神|かみ}}の{{r|諸|しょ}}{{r|子|し}}の{{r|光栄|こうえい}}の{{r|自由|じゆう}}に{{r|入|い}}らんこと{{r|是|これ}}なり』〔[[ロマ人への書(文語訳)#8:19|ロマ八の十九、二十一]]〕。
{{r|而|しか}}して{{r|此|これ}}より{{r|其|その}}{{r|智|ち}}{{r|力|りょく}}を{{r|以|もつ}}て{{r|昇|のぼ}}り、{{r|此|こ}}の{{r|世界|せかい}}の{{r|合成|ごうせい}}に{{r|先|さき}}だちて、{{r|如何|いか}}なる{{r|受造物|じゅぞうぶつ}}も、{{r|天|てん}}も{{r|地|ち}}も、{{r|天|てん}}{{r|使|し}}も、{{r|存在|そんざい}}にみちびかれたる{{r|何|なに}}{{r|等|ら}}の{{r|物|もの}}も{{r|未|いま}}だあらざる{{r|時|とき}}と、{{r|神|かみ}}が{{r|独一|どくいつ}}の{{r|恩恵|おんけい}}により、{{r|俄|にわか}}に{{r|一切|いっさい}}を{{r|無|む}}より{{r|有|ゆう}}となして、すべての{{r|物|もの}}が{{r|神|かみ}}の{{r|前|まへ}}に{{r|完全|かんぜん}}にあらはれたる{{r|時|とき}}に{{r|至|いた}}らん。{{r|然|しか}}るに{{r|彼|かれ}}は{{r|再|ふたた}}び{{r|其|その}}{{r|智|ち}}{{r|力|りょく}}を{{r|以|もつ}}て{{r|神|かみ}}の{{r|悉|ことごと}}くの{{r|造成|ぞうせい}}に{{r|下|くだ}}り、{{r|神|かみ}}より{{r|造|ぞう}}を{{r|受|う}}けたる{{r|物|もの}}の{{r|奇々|きき}}{{r|妙々|みょうみょう}}と{{r|神|かみ}}の{{r|所為|しわざ}}の{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}とに{{r|注意|ちゅうい}}を{{r|向|む}}け、{{r|愕然|がくぜん}}として{{r|自|みづ}}から{{r|判断|はんだん}}して{{r|言|い}}はん、『{{r|吁|ああ}}{{r|奇|き}}なる{{r|哉|かな}}{{r|彼|かれ}}の{{r|摂|せつ}}{{r|理|り}}と{{r|照|しょう}}{{r|管|かん}}は{{r|何|なに}}{{r|等|ら}}の{{r|概念|がいねん}}よりも{{r|高|たか}}きこと{{r|幾|いく}}ばくなる、{{r|此|こ}}の{{r|受造物|じゅぞうぶつ}}、{{r|即|すなはち}}{{r|此|こ}}の{{r|種々|しゅじゅ}}{{r|様々|さまざま}}なる{{r|物体|ぶったい}}の{{r|数|かぞ}}へ{{r|尽|つく}}されざるの{{r|多|おほ}}きを{{r|如何|いかん}}して{{r|彼|かれ}}は{{r|無|む}}より{{r|有|ゆう}}となしたるか。{{r|然|しか}}るに{{r|又|また}}{{r|此|こ}}の{{r|奇異|きい}}なる{{r|好|こう}}{{r|順序|じゅんじょ}}と、{{r|天|てん}}{{r|地|ち}}{{r|萬有|ばんゆう}}の{{r|此|この}}{{r|美|び}}{{r|麗|れい}}と、{{r|受造物|じゅぞうぶつ}}と、{{r|時|とき}}と{{r|年|とし}}の{{r|整然|せいぜん}}たる{{r|此|この}}{{r|運行|うんこう}}と、{{r|昼|ちゅう}}{{r|夜|や}}の{{r|此|この}}{{r|配合|はいごう}}と、{{r|年|とし}}と{{r|共|とも}}に{{r|合|がつ}}する{{r|空|くう}}{{r|気|き}}の{{r|変換|へんかん}}と、{{r|地|ち}}より{{r|発萌|はつほう}}する{{r|殊|しゅ}}{{r|異|い}}{{r|多|た}}{{r|様|よう}}なる{{r|此|この}}{{r|花卉|かき}}と、{{r|此|こ}}の{{r|都府|とふ}}の{{r|美|び}}{{r|麗|れい}}なる{{r|築造|ちくぞう}}と、{{r|其中|そのうち}}に{{r|最|いと}}{{r|荘厳|そうごん}}に{{r|飾|かざ}}られたる{{r|宮殿|きゅうでん}}と、{{r|此|こ}}の{{r|人類|じんるい}}の{{r|敏捷|びんしょう}}なる{{r|活動|かつどう}}と、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}が{{r|世界|せかい}}に{{r|入|い}}りしより{{r|出|い}}づるに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}、{{r|労|ろう}}{{r|苦|く}}を{{r|任|にな}}はしめられたる{{r|此|この}}{{r|存在|そんざい}}とを{{r|滅|ほろぼ}}して、{{r|此|こ}}の{{r|受造物|じゅぞうぶつ}}を{{r|破|は}}{{r|壊|かい}}するは{{r|何故|なにゆえ}}なるか。{{r|而|しか}}して{{r|此|こ}}の{{r|奇異|きい}}なる{{r|秩序|ちつじょ}}は{{r|俄|にわか}}に、{{r|熄|や}}んで、{{r|他|た}}の{{r|世界|せかい}}{{r|至|いた}}り、{{r|此|こ}}の{{r|最初|さいしょ}}の{{r|造物|ぞうぶつ}}に{{r|於|おけ}}る{{r|記|き}}{{r|憶|おく}}は{{r|何人|なにびと}}の{{r|心|こころ}}にも{{r|全|まった}}く{{r|浮|うか}}び{{r|来|きた}}らずして、{{r|他|た}}の{{r|之|これ}}と{{r|異|こと}}なる{{r|種類|しゅるい}}と{{r|他|た}}の{{r|所|しょ}}{{r|思|し}}と、{{r|他|た}}の{{r|配慮|はいりょ}}とを{{r|生|しょう}}ずるは{{r|何故|なにゆえ}}なるか。{{r|之|これ}}と{{r|同|おなじ}}く{{r|人性|じんせい}}は{{r|此|こ}}の{{r|世界|せかい}}の{{r|事|こと}}と{{r|其|その}}{{r|生活|せいかつ}}の{{r|最初|さいしょ}}の{{r|状態|じょうたい}}の{{r|事|こと}}とは{{r|全|まった}}く{{r|想|そう}}{{r|起|き}}せざらん、{{r|何|なん}}となれば{{r|人|じん}}{{r|智|ち}}は{{r|彼|か}}も{{r|状況|じょうきょう}}を{{r|直|ちょく}}{{r|覚|かく}}するに{{r|密着|みっちゃく}}して、{{r|人々|ひとびと}}の{{r|智|ち}}は{{r|血肉|けつにく}}の{{r|戦|たたかひ}}に{{r|再|ふたた}}び{{r|帰|かへ}}るの{{r|遑|いとま}}あらざればなり。けだし{{r|此|この}}{{r|世|よ}}の{{r|破|は}}{{r|壊|かい}}と{{r|共|とも}}に{{r|来世|らいせい}}は{{r|直|ただち}}に{{r|始|はじ}}まればなり。されば{{r|悉|ことごと}}くの{{r|人|ひと}}は{{r|其時|そのとき}}{{r|左|さ}}の{{r|如|ごと}}く{{r|言|い}}はん{{r|嗚呼|ああ}}{{r|母|はは}}よ、{{r|生|う}}み{{r|且|かつ}}{{r|養|やしな}}ひて{{r|智慧|ちえ}}{{r|附|つ}}けたる{{r|其|その}}{{r|子|こ}}の{{r|為|ため}}に{{r|忘|わす}}れられたる{{r|者|もの}}よ、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|瞬間|しゅんかん}}に{{r|他|た}}の{{r|懐|ふところ}}に{{r|集|あつ}}められて、{{r|孕|はら}}まざる{{r|者|もの}}と{{r|決|けつ}}して{{r|生|う}}まざる{{r|者|もの}}の{{r|眞|まこと}}の{{r|子|こ}}となれり。『{{r|孕|はら}}まず、{{r|生|う}}まざる{{r|者|もの}}よ、{{r|謳|おう}}{{r|歌|か}}せよ』〔[[イザヤ書(文語訳)#54:1|イサイヤ五十四の一]]〕{{r|地|ち}}が{{r|爾|なんぢ}}の{{r|為|ため}}に{{r|生|う}}みたる{{r|子|こ}}の{{r|為|ため}}にと{{r|言|い}}はんとす。
{{r|其時|そのとき}}{{r|彼|かれ}}は{{r|恰|あたか}}も{{r|大|だい}}なる{{r|熱中|ねっちゅう}}にあるものの{{r|如|ごと}}く、{{r|沈|ちん}}{{r|思|し}}して、{{r|左|さ}}の{{r|如|ごと}}く{{r|言|い}}はん、『{{r|此|この}}{{r|世|よ}}は{{r|猶|なお}}{{r|幾|いく}}{{r|時|じ}}{{r|存|そん}}するか、{{r|来世|らいせい}}は{{r|何時|いつ}}{{r|始|はじ}}まるか。{{r|此室|このしつ}}に{{r|此|こ}}の{{r|状態|じょうたい}}を{{r|以|もつ}}て{{r|寝|い}}ねて、{{r|肉体|にくたい}}が{{r|塵|ちり}}と{{r|混|こん}}ぜらるるは、{{r|猶|なお}}{{r|幾|いく}}{{r|時|じ}}あるか。{{r|彼|か}}の{{r|生命|せいめい}}は{{r|如何|いか}}なるか。{{r|此|こ}}の{{r|性|せい}}は{{r|如何|いか}}なる{{r|状態|じょうたい}}に{{r|復|ふく}}{{r|起|き}}して{{r|組|そ}}{{r|織|しき}}せらるるか。{{r|彼|かれ}}は{{r|新|あらた}}なる{{r|造物|ぞうぶつ}}に{{r|如何|いか}}{{r|様|よう}}{{r|変|へん}}{{r|化|か}}するか。』と{{r|此|これ}}{{r|等|ら}}の{{r|事|こと}}を{{r|沈|ちん}}{{r|思|し}}するや、{{r|彼|かれ}}は{{r|大悦|たいえつ}}、{{r|駭|がい}}{{r|異|い}}、{{r|寂然|せきぜん}}、{{r|沈黙|ちんもく}}に{{r|至|いた}}らん、{{r|而|しか}}して{{r|彼|かれ}}は{{r|此時|このとき}}に{{r|起|た}}つて{{r|膝|ひざ}}を{{r|屈|かが}}め、{{r|滂|ぼう}}{{r|沱|だ}}たる{{r|涙|なみだ}}と{{r|共|とも}}に{{r|独一|どくいつ}}{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}の{{r|神|かみ}}に{{r|感謝|かんしゃ}}し、{{r|常|つね}}に{{r|最|もっと}}も{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}なる{{r|作為|しわざ}}に{{r|於|おい}}て{{r|頌|しょう}}{{r|美|び}}せらるる{{r|者|もの}}に{{r|讃栄|さんえい}}を{{r|献|ささ}}げん。かくの{{r|如|ごと}}きことを{{r|賜|たま}}はりし{{r|者|もの}}は{{r|福|さいわい}}なる{{r|哉|かな}}、{{r|昼|ひる}}も{{r|夜|よる}}も{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}きの{{r|勤|きん}}{{r|行|ぎょう}}に{{r|専|もっぱ}}らなる{{r|者|もの}}は{{r|福|さいわい}}なる{{r|哉|かな}}。{{r|其|その}}{{r|生命|せいめい}}の{{r|日|につ}}{{r|子|し}}を{{r|挙|あ}}げて{{r|此|これ}}{{r|等|ら}}の{{r|事|こと}}を{{r|沈|ちん}}{{r|思|し}}する{{r|者|もの}}は{{r|福|さいわい}}なる{{r|哉|かな}}。{{r|然|しか}}るにもし{{r|人|ひと}}は{{r|其|その}}{{r|黙想|もくそう}}の{{r|始|はじ}}めに{{r|於|おい}}て、{{r|心|しん}}{{r|意|い}}の{{r|高|こう}}{{r|超|ちょう}}の{{r|故|ゆえ}}に、かくの{{r|如|ごと}}き{{r|直|ちょく}}{{r|覚|かく}}の{{r|力|ちから}}を{{r|感|かん}}ぜずして、{{r|上|じょう}}{{r|文|ぶん}}に{{r|述|の}}べたる{{r|如|ごと}}き{{r|神|かみ}}の{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}の{{r|力|ちから}}に{{r|上|じょう}}{{r|進|しん}}する{{r|能|あた}}はずんば、{{r|煩悶|はんもん}}を{{r|来|きた}}すなかれ、{{r|黙想|もくそう}}{{r|的|てき}}{{r|生活|せいかつ}}の{{r|安静|あんせい}}を{{r|棄|す}}つるなかれ。けだし{{r|農|のう}}{{r|夫|ふ}}も{{r|種子|たね}}を{{r|種|ま}}くと{{r|共|とも}}に、{{r|直|ただち}}に{{r|穂|ほ}}を{{r|見|み}}るべきには{{r|非|あら}}ずして、{{r|種|ま}}きし{{r|後|のち}}も、{{r|憂愁|ゆうしゅう}}と、{{r|労|ろう}}{{r|苦|く}}と、{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}の{{r|衰弱|すいじゃく}}と、{{r|同輩|どうはい}}に{{r|遠|とほ}}ざかると、{{r|家|か}}{{r|人|じん}}に{{r|分|わか}}るる{{r|等|とう}}の{{r|事|こと}}あるべし。{{r|然|しか}}れども{{r|此|これ}}を{{r|忍耐|にんたい}}するときは、{{r|當|とう}}{{r|時|じ}}{{r|者|しゃ}}が{{r|楽|たのし}}み、{{r|且|かつ}}{{r|躍|おど}}り、{{r|且|かつ}}{{r|喜|よろこ}}んで{{r|欣々|きんきん}}たる{{r|新|あらた}}なる{{r|時期|じき}}の{{r|至|いた}}るあらん。
{{r|然|しか}}るに{{r|是|こ}}は{{r|何|なん}}の{{r|時|とき}}なるか。{{r|彼|かれ}}が{{r|己|おのれ}}の{{r|汗|あせ}}を{{r|以|もつ}}て{{r|獲|え}}たる{{r|餅|パン}}を{{r|食|くら}}ひ、{{r|沈黙|ちんもく}}を{{r|以|もつ}}て{{r|其|そ}}の{{r|瞑想|めいそう}}を{{r|守|まも}}るを{{r|得|え}}るの{{r|時|とき}}ならん。けだし{{r|沈黙|ちんもく}}と、{{r|沈黙|ちんもく}}を{{r|以|もつ}}て{{r|忍耐|にんたい}}し{{r|得|う}}る{{r|此|この}}{{r|瞑想|めいそう}}とは、{{r|大|おほい}}にして{{r|終|おわり}}なき{{r|愉|ゆ}}{{r|快|かい}}を{{r|心|こころ}}に{{r|喚|かんき}}{{r|起|き}}して、{{r|其|その}}{{r|智|ち}}を{{r|言|い}}ふべからざる{{r|驚|けい}}{{r|異|い}}にみちびかん。ゆゑに{{r|忍耐|にんたい}}して{{r|此|これ}}に{{r|止|とど}}まる{{r|者|もの}}は{{r|福|さいわい}}なり、{{r|何|なん}}となれば{{r|此|こ}}の{{r|神|しん}}{{r|出|しゅつ}}なる{{r|泉|いづみ}}は{{r|其|その}}{{r|目前|もくぜん}}に{{r|開|ひら}}けて、{{r|彼|かれ}}は{{r|之|これ}}を{{r|飲|の}}みて{{r|楽|たのし}}むべく、{{r|昼|ちゅう}}{{r|夜|や}}{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}にも{{r|何|いづ}}れの{{r|刻|こく}}にも{{r|常|つね}}に{{r|之|これ}}を{{r|飲|の}}むをやめずして{{r|全|まった}}く{{r|暫|ざん}}{{r|時|じ}}なる{{r|此|この}}{{r|生命|いのち}}の{{r|終|おわり}}と{{r|最|さい}}{{r|後|ご}}の{{r|際|とき}}に{{r|至|いた}}るべければなり。
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[[Category:シリヤの聖イサアク全書|213]]
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243113
243112
2026-06-10T14:52:52Z
村田ラジオ
14210
現代語訳を加筆。
243113
wikitext
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|title=シリヤの聖イサアク全書
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*ウィキソースによる現代語訳
}}
== 第21説教の3 ==
<< {{r|種々|しゅじゅ}}なる{{r|事|じ}}{{r|項|こう}}に{{r|就|つい}}て{{r|問答|もんどう}}。>>
問 {{r|使徒|しと}}が『<u>ハリストス</u>と{{r|共|とも}}に{{r|復活|ふっかつ}}せしならば』〔[[コロサイ人への書(文語訳)#3:1|コロサイ三の一]]〕といへる{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|復活|ふっかつ}}は{{r|如何|いか}}なる{{r|意味|いみ}}を{{r|含|ふく}}むか。
答 {{r|使徒|しと}}は『{{r|暗|やみ}}より{{r|光|ひかり}}の{{r|照|て}}るを{{r|命|めい}}ぜし{{r|神|かみ}}は{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}の{{r|心|こころ}}を{{r|照|てら}}せり』〔[[コリント人への後の書(文語訳)#4:6|コリンフ後四の六]]〕といひて、{{r|旧|ふる}}きより{{r|出|い}}づるを{{r|名|な}}づけて{{r|霊魂|れいこん}}の{{r|復活|ふっかつ}}といふべきを{{r|示|しめ}}せり、{{r|是|これ}}{{r|即|すなはち}}{{r|旧|ふる}}き{{r|人|ひと}}に{{r|属|ぞく}}するものは{{r|一|いつ}}もあらざる{{r|新|あた}}らしき{{r|人|ひと}}の{{r|生出|せいしゅつ}}することなり、{{r|録|ろく}}していふ{{r|如|ごと}}し、{{r|彼|かれ}}に『{{r|新|あたら}}しき{{r|心|こころ}}と{{r|新|あたら}}しき{{r|神|しん}}とを{{r|與|あた}}ふ』と、〔[[エゼキエル書(文語訳)#36:26|<u>イエゼキイリ</u>三十六の二十六]]〕けだしその{{r|時|とき}}<u>ハリストス</u>は<u>ハリストス</u>を{{r|識|し}}る{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}と{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}の{{r|神|しん}}を{{r|以|もつ}}て{{r|我|われ}}らの{{r|中|うち}}に{{r|像|かたど}}らるるなり。
問 {{r|黙想|もくそう}}を{{r|勤|つと}}むるの{{r|力|ちから}}は({{r|簡短|かんたん}}に{{r|言|い}}へば){{r|如何|いか}}なるか。
答 {{r|黙想|もくそう}}は{{r|外部|がいぶ}}の{{r|感覚|かんかく}}を{{r|減殺|げんさい}}して{{r|内部|ないぶ}}の{{r|活動|かつどう}}を{{r|喚|かん}}{{r|起|き}}す。{{r|然|しか}}れども{{r|外部|がいぶ}}に{{r|属|ぞく}}するものを{{r|勤|つと}}むるは、{{r|之|これ}}と{{r|反対|はんたい}}なるものを{{r|生|しょう}}じ、{{r|外部|がいぶ}}の{{r|感覚|かんかく}}を{{r|喚|かん}}{{r|起|き}}して{{r|内部|ないぶ}}の{{r|活動|かつどう}}を{{r|減殺|げんさい}}せん。
問 {{r|何物|なにもの}}か{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}と{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}の{{r|原因|げんいん}}たるや、けだし{{r|或者|あるもの}}は{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}を{{r|有|ゆう}}すれども、{{r|或者|あるもの}}は{{r|多|おほ}}く{{r|労|ろう}}するに{{r|拘|かか}}はらず、{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}はそれ{{r|丈|だけ}}に{{r|彼|かれ}}には{{r|感徹|かんてつ}}せざるなり。
答 これが{{r|原因|げんいん}}は{{r|多|おほ}}く{{r|之|これ}}あり、その{{r|一|いつ}}は{{r|摂|せつ}}{{r|理|り}}{{r|的|てき}}{{r|原因|げんいん}}にして、{{r|一般|いっぱん}}の{{r|利|り}}{{r|益|えき}}を{{r|以|もつ}}て{{r|目的|もくてき}}とするなり、{{r|然|しか}}れども{{r|他|た}}の{{r|原因|げんいん}}は{{r|劣弱|れつじゃく}}{{r|者|しゃ}}の{{r|慰|い}}{{r|安|あん}}と{{r|奨励|しょうれい}}と{{r|訓|くん}}{{r|示|じ}}とを{{r|以|もつ}}て{{r|目的|もくてき}}と{{r|為|な}}す{{r|而|しか}}して{{r|第一|だいいち}}{{r|此|こ}}のすべては{{r|人類|じんるい}}に{{r|対|たい}}する{{r|神|かみ}}の{{r|憐|あわれみ}}により{{r|備|そな}}へらるるものなれど、{{r|多|おほ}}くは{{r|左|さ}}の{{r|三種|さんしゅ}}の{{r|人類|じんるい}}の{{r|為|ため}}に{{r|備|そな}}へらるるなり、{{r|或|ある}}ひは{{r|純僕|じゅんぼく}}にして{{r|至|いたつ}}て{{r|無|む}}{{r|悪|あく}}なる{{r|人|ひと}}の{{r|為|ため}}、{{r|或|あるい}}は{{r|完全|かんぜん}}にして{{r|聖|せい}}なる{{r|或者|あるもの}}の{{r|為|ため}}{{r|或|あるい}}は{{r|燃|も}}ゆるが{{r|如|ごと}}くなる{{r|神|かみ}}の{{r|熱心|ねっしん}}を{{r|有|ゆう}}する{{r|者|もの}}の{{r|為|ため}}に{{r|備|そな}}へらるるものにして、{{r|彼|かれ}}らは{{r|世|よ}}をすてて、{{r|之|これ}}より{{r|全|まつた}}く{{r|脱|だつ}}し、{{r|人々|ひとびと}}と{{r|共|とも}}に{{r|社会|しゃかい}}に{{r|住|じゅう}}するより{{r|遠|とお}}ざかり、{{r|一切|いっさい}}をすてて、{{r|有形物体|ゆうけいぶったい}}よりは{{r|何|なに}}{{r|等|ら}}の{{r|助|たすけ}}も{{r|待|ま}}たず、{{r|神|かみ}}の{{r|跡|あと}}を{{r|慕|した}}ふて{{r|行|ゆ}}きしによる。{{r|彼|かれ}}らはその{{r|状態|じょうたい}}の{{r|孤|こ}}{{r|独|どく}}なるにより、{{r|突然|とつぜん}}{{r|恐|おそ}}れを{{r|生|しょう}}ずべく、{{r|或|あるい}}は{{r|飢餓|きが}}の{{r|為|ため}}、{{r|疾病|しっぺい}}の{{r|為|ため}}、{{r|或|あるい}}は{{r|或|あ}}る{{r|事|じ}}{{r|情|じょう}}の{{r|為|ため}}、{{r|又|また}}は{{r|患難|かんなん}}の{{r|為|ため}}に{{r|死|し}}の{{r|危|あやう}}きは{{r|彼|かれ}}らを{{r|囲|かこ}}まん、よりて{{r|彼|かれ}}らは{{r|殆|ほとん}}ど{{r|失望|しつぼう}}せんとす。ゆえにかくの{{r|如|ごと}}き{{r|者|もの}}らには{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}の{{r|来|きた}}るあれども、{{r|労|ろう}}{{r|苦|く}}を{{r|以|もつ}}て{{r|彼|かれ}}らより{{r|大|おほい}}に{{r|超越|ちょうえつ}}する{{r|者|もの}}らに{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}のあらざるは、{{r|之|これ}}が{{r|第一|だいいち}}の{{r|原因|げんいん}}は{{r|欠点|けってん}}の{{r|有|あ}}ると{{r|無|な}}きとによる、{{r|即|すなわち}}{{r|良心|りょうしん}}の{{r|欠点|けってん}}の{{r|有|あ}}る{{r|無|な}}きによるなり。{{r|然|しか}}れども{{r|第|だい}}{{r|二|に}}の{{r|原因|げんいん}}は{{r|必|かなら}}ずや{{r|次|つぎ}}の{{r|如|ごと}}くなるべし、もし{{r|誰|たれ}}か{{r|人間|にんげん}}の{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}、{{r|或|あるい}}は{{r|何|なに}}か{{r|有形|ゆうけい}}{{r|物体|ぶったい}}よりする{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}を{{r|有|ゆう}}するならば、その{{r|者|もの}}には{{r|一般|いっぱん}}の{{r|益|えき}}の{{r|為|ため}}{{r|或|あるい}}は{{r|摂|せつ}}{{r|理|り}}に{{r|属|ぞく}}するものの{{r|外|ほか}}、かくの{{r|如|ごと}}きの{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}はあらざるべし。{{r|我|われ}}らは{{r|遁世|とんせい}}{{r|者|じゃ}}につきて{{r|言|げん}}を{{r|為|な}}す、ゆえに{{r|神|しん}}{{r|父|ぷ}}らの{{r|一人|いちにん}}を{{r|以|もつ}}て{{r|此事|このこと}}の{{r|證者|しょうしゃ}}とすべし、{{r|彼|かれ}}は{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}を{{r|祈|き}}{{r|願|がん}}したりしに、{{r|左|さ}}の{{r|言|げん}}をきけり、{{r|曰|いは}}く『{{r|汝|なんじ}}の{{r|為|ため}}には{{r|人間|にんげん}}の{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}と{{r|人々|ひとびと}}との{{r|会|かい}}{{r|話|わ}}にて{{r|足|た}}れり』と。
これと{{r|同様|どうよう}}{{r|他|た}}の{{r|或者|あるもの}}も{{r|遁世者|とんせいじゃ}}の{{r|身|み}}となりて、{{r|遁世的|とんせいてき}}{{r|生活|せいかつ}}を{{r|送|おく}}りしときは、{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}を{{r|以|もつ}}て{{r|日々|ひび}}{{r|自|みづ}}から{{r|楽|たのし}}めり、しかれども{{r|世|よ}}と{{r|接近|せっきん}}するや、{{r|例|れい}}の{{r|如|ごと}}く{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}を{{r|尋|たづ}}ねたりしも{{r|得|え}}ざりければ{{r|之|これ}}が{{r|理|り}}{{r|由|ゆう}}を{{r|示|しめ}}されんことを{{r|神|かみ}}に{{r|願|ねが}}ふて{{r|言|い}}ひけるは、『{{r|主|しゅ}}よ、{{r|恩寵|おんちょう}}の{{r|我|われ}}より{{r|離|はな}}れたるは{{r|主教|しゅきょう}}{{r|職|しょく}}の{{r|為|ため}}にあらざるか』と。{{r|然|しか}}るに{{r|彼|かれ}}に{{r|告|つ}}げていへり、『{{r|否|いな}}{{r|之|これ}}が{{r|為|ため}}にあらず、{{r|神|かみ}}は{{r|野|の}}に{{r|居|お}}る{{r|者|もの}}らを{{r|慮|おもんばか}}るによりかくの{{r|如|ごと}}きの{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}を{{r|彼|かれ}}らに{{r|賜|たま}}ふなり』と。けだし{{r|人類中|じんるいちゅう}}{{r|何人|なんびと}}か{{r|有形的|ゆうけいてき}}{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}を{{r|有|ゆう}}すると{{r|共|とも}}に{{r|恩寵|おんちょう}}に{{r|属|ぞく}}するものをも{{r|受|う}}くることは{{r|上|じょう}}{{r|文|ぶん}}にしるしし{{r|如|ごと}}く、かくの{{r|如|ごと}}き{{r|場|ば}}{{r|合|あい}}に{{r|於|おい}}て{{r|一|いつ}}の{{r|摂|せつ}}{{r|理|り}}する{{r|者|もの}}にのみ{{r|知|し}}らるる{{r|神|しん}}{{r|秘|ぴ}}なる{{r|摂|せつ}}{{r|理|り}}によるの{{r|外|ほか}}は{{r|能|あた}}はざるなり。
問 {{r|異|い}}{{r|象|しょう}}と{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}とは{{r|同|おな}}じきか、{{r|或|あるい}}は{{r|然|しか}}らざるか。
答 {{r|然|しか}}らず。{{r|却|かえつ}}て{{r|彼|かれ}}らには{{r|差異|さい}}あり。{{r|彼|かれ}}と{{r|此|これ}}とは{{r|共|とも}}に{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}と{{r|名|な}}づけらるることも{{r|屡々|しばしば}}{{r|之|これ}}あり。けだし{{r|神|しん}}{{r|秘|ぴ}}なるものを{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}によりて{{r|顕|あら}}はさるるにより、すべての{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}は{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}と{{r|名|な}}づけらる、{{r|然|しか}}れども{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}は{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}と{{r|名|な}}づけられざるなり。<span style="border-bottom: dotted 2px">{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}</span>といふ{{r|言|ことば}}は{{r|意|い}}{{r|識|しき}}せらるべきものと{{r|智|ち}}{{r|力|りょく}}を{{r|以|もつ}}て{{r|試|ため}}さるべきもの、{{r|且|かつ}}は{{r|想像|そうぞう}}せらるべきものに{{r|往々|おうおう}}{{r|用|もち}}ひらるるなり。されど{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}は{{r|種々|しゅじゅ}}の{{r|方法|ほうほう}}によりて{{r|之|これ}}あるべし、{{r|例|たと}}へばいにしへ{{r|旧約|きゅうやく}}の{{r|人々|ひとびと}}にありし{{r|如|ごと}}く{{r|形像|けいぞう}}{{r|又|また}}は{{r|豫|よ}}{{r|象|しょう}}に{{r|於|おい}}てするあり、{{r|深睡|しんすい}}に{{r|於|おい}}てし、{{r|或|あるい}}は{{r|覚醒|かくせい}}なる{{r|状態|じょうたい}}に{{r|於|おい}}てするあり、{{r|而|しか}}して{{r|或時|あるとき}}には{{r|全|まつた}}くの{{r|的確|てきかく}}を{{r|以|もつ}}てすれども、{{r|或時|あるとき}}にはたとへば{{r|幻影|げんえい}}に{{r|於|おい}}てする{{r|如|ごと}}く、{{r|多|た}}{{r|少|しょう}}{{r|明白|めいはく}}を{{r|欠|か}}くことあり、ゆえに{{r|覚醒|かくせい}}なる{{r|状態|じょうたい}}に{{r|於|おい}}て{{r|見|み}}るか{{r|或|あるい}}は{{r|睡眠|すいみん}}に{{r|於|おい}}て{{r|見|み}}るか、{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}を{{r|有|ゆう}}する{{r|者|もの}}{{r|自|みづ}}からも{{r|之|これ}}を{{r|知|し}}らざることしばしば{{r|之|これ}}あり。{{r|或|あるい}}は{{r|救助|きゅうじょ}}の{{r|声|こえ}}を{{r|聞|き}}くこともあるべく、{{r|時|とき}}としては{{r|最|もっとも}}{{r|顕然|けんぜん}}として{{r|面|まのあた}}り{{r|相対|あいたい}}して{{r|見|み}}{{r|且|かつ}}{{r|談|だん}}じ{{r|且|かつ}}{{r|問|と}}ふて、{{r|問|とひ}}の{{r|為|ため}}に{{r|答|こたえ}}を{{r|得|う}}ることもあるべし。{{r|聖|せい}}なる{{r|能力|のうりょく}}は{{r|之|これ}}に{{r|堪|た}}ふる{{r|者|もの}}にあらはれて、{{r|其者|そのもの}}に{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}を{{r|與|あた}}ふるなり。{{r|而|しか}}してかくの如きの{{r|異|い}}{{r|象|しょう}}は、{{r|極|きは}}めて{{r|荒涼|こうりょう}}{{r|寂寞|せきばく}}たる{{r|原|げん}}{{r|野|や}}の{{r|地|ち}}の{{r|人類|じんるい}}に{{r|遠|とほ}}ざかりて、{{r|人|ひと}}の{{r|之|これ}}に{{r|必要|ひつよう}}を{{r|有|ゆう}}することの{{r|免|まぬか}}れざる{{r|処|ところ}}に{{r|於|おい}}て{{r|之|これ}}あり、{{r|何|なん}}となれば{{r|其|その}}{{r|処|ところ}}よりは{{r|彼|かれ}}に{{r|他|た}}の{{r|助|たす}}けも{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}もあらざればなり。{{r|然|しか}}れども{{r|智|ち}}{{r|力|りょく}}を{{r|以|もつ}}て{{r|感|かん}}{{r|知|ち}}せらるべき{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}は{{r|浄潔|じょうけつ}}に{{r|由|よ}}り{{r|易|たや}}すく受けらるべくして、ただ{{r|完全|かんぜん}}にして{{r|練達|れんたつ}}なる{{r|者|もの}}に{{r|之|これ}}あるなり。
問 {{r|誰|たれ}}か{{r|心|こころ}}の{{r|浄潔|じょうけつ}}に{{r|達|たっ}}せしならば、{{r|其|その}}{{r|徴證|ちょうしょう}}は{{r|如何|いか}}なるか、{{r|又|また}}{{r|其|その}}{{r|心|こころ}}の{{r|浄潔|じょうけつ}}に{{r|達|たっ}}したるを{{r|人|ひと}}は{{r|何時|いつ}}{{r|認識|にんしき}}するか。
答 {{r|誰|たれ}}か{{r|悉|ことごと}}くの{{r|人|ひと}}を{{r|善|ぜん}}{{r|視|し}}して、{{r|彼|かれ}}の{{r|為|ため}}に{{r|何人|なんびと}}も{{r|不|ふ}}{{r|潔|けつ}}{{r|汚|お}}{{r|穢|かい}}なる{{r|者|もの}}と{{r|見|み}}へざる{{r|時|とき}}は、{{r|実|じつ}}に{{r|彼|かれ}}は{{r|心|こころ}}にて{{r|浄潔|じょうけつ}}なり。けだし{{r|善|ぜん}}なる{{r|目|め}}は{{r|悪|あく}}を{{r|見|み}}ず〔[[ハバクク書(文語訳)#1:13|アウワクム一の十三]]〕といへる{{r|言|ことば}}の{{r|如|ごと}}くならずんば、{{r|如何|いかん}}して{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}は{{r|誠実|せいじつ}}の{{r|心|こころ}}より{{r|衆人|しゅうじん}}を{{r|一様|いちよう}}に『{{r|尊|そん}}{{r|視|し}}して、{{r|己|おのれ}}より{{r|愈|まさ}}れりとせよ』〔[[ピリピ人への書(文語訳)#2:3|フィリッピ二の三]]〕といへる{{r|使徒|しと}}の{{r|言|ことば}}に{{r|的応|てきおう}}せんや。
問 {{r|浄潔|じょうけつ}}とは如何なるか、{{r|其|その}}{{r|界限|かいげん}}は{{r|何処|いづこ}}にありや。
答 {{r|浄潔|じょうけつ}}とは{{r|世|よ}}に{{r|人性|じんせい}}を{{r|以|もつ}}て{{r|想出|そうしゅつ}}せられたる{{r|知|ち}}{{r|識|しき}}の{{r|[[wikt:悖|悖]]|はい}}{{r|理|り}}なる{{r|方法|ほうほう}}を{{r|忘|わす}}るる{{r|是|これ}}なり。{{r|然|しか}}れども{{r|此|これ}}{{r|等|ら}}より{{r|免|のが}}れて、{{r|其外|そのほか}}に{{r|立|た}}たんとせば、{{r|視|み}}よ{{r|其|その}}{{r|界限|かいげん}}は{{r|左|さ}}の如くなるべし、{{r|即|すなはち}}{{r|人|ひと}}が{{r|其性|そのせい}}の{{r|元|げん}}{{r|始|し}}の{{r|醇樸|じゅんぼく}}と{{r|元|げん}}{{r|始|し}}の{{r|無|む}}{{r|邪|じゃ}}{{r|気|き}}とに{{r|達|たつ}}して、{{r|恰|あたか}}も{{r|小児|しょうに}}の{{r|如|ごと}}くになり、ただ{{r|小児|しょうに}}の{{r|欠点|けってん}}のあらざること{{r|是|これ}}なり。
問 {{r|此|こ}}の{{r|階段|かいだん}}に{{r|誰|たれ}}か{{r|昇|のぼ}}ることを{{r|得|う}}るか。
答 {{r|然|しか}}り。けだし{{r|視|み}}よ、{{r|或者|あるもの}}{{r|等|ら}}は{{r|此|この}}{{r|度|ど}}に{{r|達|たつ}}せり、たとへば{{r|父|ちち}}<u>ソシイ</u>の{{r|如|ごと}}きも{{r|此|この}}{{r|度|ど}}に{{r|達|たつ}}して{{r|門|もん}}{{r|徒|と}}に{{r|左|さ}}の{{r|如|ごと}}く{{r|問|と}}ふに{{r|至|いた}}れり、{{r|言|い}}へらく『{{r|予|よ}}は{{r|食|しょく}}せしや、{{r|或|あるひ}}は{{r|食|しょく}}せざりしや』と。{{r|又|また}}{{r|他|た}}の{{r|或|ある}}{{r|神|しん}}{{r|父|ぷ}}も{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}きの{{r|醇樸|じゅんぼく}}に{{r|達|たつ}}して、{{r|殆|ほとん}}ど{{r|小児|しょうに}}の{{r|如|ごと}}き{{r|無|む}}{{r|罪|ざい}}に{{r|至|いた}}りぬ、けだし{{r|此|この}}{{r|世|よ}}にあるものをすべて{{r|全|まつた}}く{{r|忘|わす}}れたり、ゆえにもし{{r|門|もん}}{{r|徒|と}}{{r|等|ら}}が{{r|止|とど}}めざりしならば、{{r|領聖|りょうせい}}に{{r|先|さき}}だちても{{r|食|しょく}}せしならん、よりて{{r|門|もん}}{{r|徒|と}}{{r|等|ら}}は{{r|彼|かれ}}を{{r|小児|しょうに}}の{{r|如|ごと}}く{{r|領聖|りょうせい}}にみちびくに{{r|至|いた}}れり。しかれども{{r|彼|かれ}}は{{r|世|よ}}の{{r|為|ため}}には{{r|小児|しょうに}}なりしも、{{r|神|かみ}}の{{r|為|ため}}に{{r|霊魂|れいこん}}は{{r|完全|かんぜん}}なりき。
問 {{r|黙想|もくそう}}の{{r|庵|いほり}}に在りて、{{r|黙想|もくそう}}に{{r|専|もっぱら}}なる{{r|苦行|くぎょう}}{{r|者|しゃ}}は、{{r|何|なに}}を{{r|業|ぎょう}}とし、{{r|何|なに}}を{{r|沈|ちん}}{{r|思|し}}するを{{r|要|よう}}するか、{{r|其|その}}{{r|智|ち}}を{{r|空想|くうそう}}の{{r|為|ため}}に{{r|暇|いとま}}あらしめざらん{{r|為|ため}}に{{r|彼|かれ}}は{{r|不|ふ}}{{r|断|だん}}{{r|何|なに}}を{{r|為|な}}すべきか。
答 {{r|人|ひと}}が{{r|庵中|あんちゅう}}に{{r|在|あり}}て{{r|死|し}}{{r|者|しゃ}}の{{r|如|ごと}}くなるを得るときは、{{r|業務|ぎょうむ}}と{{r|沈|ちん}}{{r|思|し}}とのことを{{r|問|と}}はんや。{{r|勉焉|べんえん}}として{{r|心|こころ}}の{{r|安定|あんてい}}なる{{r|人|ひと}}の{{r|独|ひと}}り{{r|自|みづか}}ら{{r|居|お}}るあるや、{{r|如何|いか}}に{{r|己|おのれ}}を{{r|導|みちび}}くべきを{{r|問|と}}ふの{{r|要|よう}}あらんや。{{r|修道|しゅうどう}}{{r|士|し}}には{{r|庵中|あんちゅう}}に{{r|在|あり}}て、{{r|哀泣|あいきゅう}}するの{{r|外|ほか}}、{{r|他|た}}の{{r|如何|いか}}なる{{r|業務|ぎょうむ}}ありや、{{r|彼|かれ}}には{{r|哀泣|あいきゅう}}より{{r|他|た}}の{{r|思|し}}{{r|想|そう}}に{{r|転|てん}}ずる{{r|遑|いとま}}ありや。{{r|且|かつ}}{{r|如何|いか}}なる{{r|業務|ぎょうむ}}は{{r|此|これ}}よりも{{r|更|さら}}に{{r|愈|まさ}}れるか。{{r|修道|しゅうどう}}{{r|士|し}}の{{r|寓居|ぐうきょ}}と{{r|其|その}}{{r|独棲|どくせい}}とは、{{r|人間|にんげん}}の{{r|喜|よろこび}}より{{r|遠|とほ}}ざかる{{r|墓|はか}}に{{r|居|お}}るに{{r|譬|たと}}ふべくして、{{r|其|その}}{{r|勤|つと}}めは{{r|即|すなはち}}{{r|哀泣|あいきゅう}}なるを{{r|彼|かれ}}に{{r|教|おし}}ふるなり。{{r|而|しか}}して{{r|其|その}}{{r|名|な}}の{{r|意義|いぎ}}も{{r|彼|かれ}}を{{r|同|どう}}{{r|時|じ}}に{{r|喚|かん}}{{r|起|き}}して、{{r|同|おなじ}}く{{r|之|これ}}を{{r|信|しん}}ぜしむるなり、{{r|何|なん}}となれば{{r|彼|かれ}}は{{r|悲|ひ}}{{r|嘆|たん}}する{{r|者|もの}}と{{r|名|な}}づけらる、{{r|即|すなはち}}{{r|心|こころ}}に{{r|悲|ひ}}{{r|哀|あい}}を{{r|満|み}}たさるる{{r|者|もの}}と{{r|名|な}}づけらるればなり。すべての{{r|聖人|せいじん}}は{{r|哀泣|あいきゅう}}に{{r|於|おい}}て{{r|此|この}}{{r|生命|いのち}}より{{r|移|うつ}}るに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}、{{r|其|その}}{{r|目|め}}は{{r|常|つね}}に{{r|涙|なみだ}}に{{r|満|み}}たされしならば、{{r|誰|たれ}}か{{r|哀泣|あいきゅう}}せざるべけんや。{{r|其|その}}{{r|目前|もくぜん}}に{{r|横|よこ}}たはる{{r|死|し}}{{r|者|しゃ}}ありて{{r|彼|かれ}}は{{r|自|みづ}}から{{r|罪|つみ}}の{{r|為|ため}}に{{r|殺|ころ}}されしものなるを{{r|目撃|もくげき}}する{{r|者|もの}}に、{{r|涙|なみだ}}を{{r|益用|えきよう}}すべきを{{r|教|おし}}ふるの{{r|要|よう}}ありや。{{r|汝|なんぢ}}の{{r|為|ため}}に{{r|全|ぜん}}{{r|世|せ}}{{r|界|かい}}よりも{{r|貴|たふと}}き{{r|汝|なんぢ}}の{{r|霊魂|れいこん}}が{{r|罪|つみ}}に{{r|殺|ころ}}されて、{{r|汝|なんぢ}}の{{r|目前|もくぜん}}に{{r|横|よこ}}たはらば、{{r|汝|なんぢ}}に{{r|哀泣|あいきゅう}}を{{r|催|もよほ}}さしめざらんや。{{r|故|ゆえ}}にもし{{r|黙想|もくそう}}を{{r|始|はじ}}め、{{r|忍耐|にんたい}}を{{r|以|もつ}}て{{r|之|これ}}に{{r|専|もっぱら}}ならば、{{r|哀泣|あいきゅう}}にも{{r|専|もっぱ}}らなるを{{r|能|よ}}くすべきは{{r|無|む}}{{r|論|ろん}}なり。ゆゑに{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}に{{r|哀泣|あいきゅう}}を{{r|賜|たま}}はらんが{{r|為|ため}}に{{r|其|その}}{{r|心中|しんちゅう}}に{{r|於|おい}}て{{r|屡|しばしば}}{{r|主|しゅ}}に{{r|祈|いの}}らん。けだし{{r|他|た}}の{{r|賜|たまもの}}よりも{{r|最|もっとも}}{{r|善|ぜん}}にして{{r|最|いと}}{{r|愈|まさ}}れる{{r|此|この}}{{r|恩寵|おんちょう}}を{{r|求|もと}}め{{r|得|え}}ば、{{r|其|その}}{{r|助|たすけ}}により{{r|浄潔|じょうけつ}}をも{{r|得|え}}ん。{{r|然|しか}}してもし{{r|此|これ}}を{{r|得|え}}ば{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}が{{r|此|この}}{{r|生命|せいめい}}より{{r|出|い}}づる{{r|迄|まで}}は{{r|最早|もはや}}{{r|浄潔|じょうけつ}}を{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}より{{r|奪|うば}}はれざるべし。
ゆゑに{{r|心|こころ}}の{{r|清|きよ}}き{{r|者|もの}}は{{r|福|さいわい}}なり、{{r|何|なん}}となれば{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|此|こ}}の{{r|涙|なみだ}}の{{r|甘|あま}}きを{{r|楽|たのし}}まざるの{{r|時|とき}}あるなく、{{r|之|これ}}によりて{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|常|つね}}に{{r|主|しゅ}}を{{r|見|み}}ればなり。{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}の{{r|目|め}}に{{r|涙|なみだ}}ある{{r|間|あいだ}}は、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|其|その}}{{r|祈祷|きとう}}の{{r|高|たか}}きを{{r|以|もつ}}て{{r|神|かみ}}の{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}を{{r|見|み}}るを{{r|賜|たま}}はるべくして、{{r|涙|なみだ}}なき{{r|祈祷|きとう}}は{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}に{{r|之|これ}}あらざるなり。「{{r|泣|な}}く{{r|者|もの}}は{{r|福|さいわい}}なり。{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|慰|なぐさ}}められんとすればなり」〔[[マタイ傳福音書(文語訳)#5:10|マトフェイ五の十]]〕と{{r|主|しゅ}}の{{r|述|の}}べられし{{r|言|ことば}}は{{r|亦|また}}{{r|此|この}}{{r|意味|いみ}}を{{r|含有|がんゆう}}す。けだし{{r|泣|な}}くによりて{{r|人|ひと}}は{{r|心霊|しんれい}}の{{r|清|きよ}}きに{{r|達|たつ}}せん。ゆゑに{{r|主|しゅ}}は「{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|慰|なぐさ}}められんとすればなり」と{{r|言|い}}ひて、{{r|其|その}}{{r|慰|なぐさめ}}の{{r|如何|いか}}なるを{{r|説明|せつめい}}せざりき。けだし{{r|修道|しゅうどう}}{{r|士|し}}が{{r|涙|なみだ}}の{{r|助|たすけ}}により、{{r|慾|よく}}の{{r|範|はん}}{{r|囲|い}}を{{r|踰|こ}}えて、{{r|心|こころ}}の{{r|清潔|せいけつ}}の{{r|平原|へいげん}}に{{r|入|い}}るときは、かくの{{r|如|ごと}}きの{{r|慰|なぐさめ}}は{{r|彼|かれ}}を{{r|迎|むか}}へん。ゆゑにもしここに{{r|慰|なぐさめ}}を{{r|尋|たづ}}ぬる{{r|者|もの}}{{r|等|ら}}の{{r|中|うち}}{{r|誰|たれ}}か{{r|此|この}}{{r|平原|へいげん}}に{{r|達|たつ}}し、{{r|此処|ここ}}に{{r|於|おい}}て{{r|得|え}}られざる{{r|慰|なぐさめ}}を{{r|彼処|かしこ}}に{{r|於|おい}}て{{r|迎|むか}}ふるならば、{{r|其時|そのとき}}{{r|彼|かれ}}は{{r|泣|な}}くによりて{{r|如何|いか}}なる{{r|慰|なぐさめ}}を{{r|自|みづ}}から{{r|期待|きたい}}したると、{{r|神|かみ}}は{{r|泣|な}}く{{r|者|もの}}の{{r|清潔|せいけつ}}の{{r|為|ため}}にいかなる{{r|慰|なぐさめ}}を{{r|與|あた}}ふるとを{{r|終|つい}}に{{r|了解|りょうかい}}せん、けだし{{r|不|ふ}}{{r|断|だん}}に{{r|泣|な}}く{{r|者|もの}}は{{r|慾|よく}}に{{r|擾|みだ}}さるるあたはざればなり。{{r|涙|なみだ}}を{{r|流|なが}}して{{r|哀泣|あいきゅう}}するは、これぞ{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}なる{{r|者|もの}}の{{r|賜|たまもの}}なる。{{r|而|しか}}して{{r|一|いち}}{{r|時|じ}}{{r|泣|ない}}て{{r|嘆息|たんそく}}する{{r|者|もの}}の{{r|涙|なみだ}}さへ{{r|彼|かれ}}を{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}にみちびくのみならず、{{r|智|ち}}{{r|力|りょく}}をも{{r|慾|よく}}の{{r|記|き}}{{r|憶|おく}}より{{r|全|まった}}く{{r|潔|きよ}}めて、{{r|彼|かれ}}を{{r|自|じ}}{{r|由|ゆう}}ならしむるならば、{{r|認識|にんしき}}と{{r|共|とも}}に{{r|日|にち}}{{r|夜|や}}{{r|此|この}}{{r|行|こう}}{{r|為|い}}を{{r|練習|れんしゅう}}する{{r|者|もの}}のことは{{r|之|これ}}を{{r|何|なに}}とかいはん。ゆゑに{{r|独|ひと}}り{{r|己|おのれ}}の{{r|霊魂|れいこん}}を{{r|此|この}}{{r|行|こう}}{{r|為|い}}に{{r|供|そな}}へたる{{r|者|もの}}の{{r|外|ほか}}は{{r|何人|なんびと}}も{{r|哀泣|あいきゅう}}によりて{{r|生|しょう}}ずる{{r|助|たすけ}}を{{r|知|し}}らざるべし。{{r|凡|すべて}}の{{r|聖人|せいじん}}は{{r|此|この}}{{r|門|もん}}{{r|口|こう}}に{{r|向|むか}}ふ、{{r|何|なん}}となれば{{r|慰|い}}{{r|藉|しゃ}}の{{r|方面|ほうめん}}に{{r|入|い}}るが{{r|為|ため}}の{{r|門|もん}}は{{r|涙|なみだ}}を{{r|以|もつ}}て{{r|其|その}}{{r|前|まへ}}に{{r|開|ひら}}かるればなり、{{r|而|しか}}して{{r|至|し}}{{r|仁|じん}}にして{{r|救済|きゅうさい}}{{r|的|てき}}なる{{r|神|かみ}}の{{r|跡|あと}}は{{r|此|この}}{{r|方面|ほうめん}}に{{r|於|おい}}て{{r|黙|もく}}{{r|示|し}}により{{r|顕|あら}}はさるるなり。
問 {{r|或者|あるもの}}は{{r|身体|しんたい}}の{{r|薄弱|はくじゃく}}の{{r|故|ゆえ}}に{{r|不|ふ}}{{r|断|だん}}に{{r|泣|な}}くことを{{r|得|え}}ず、{{r|智|ち}}を{{r|保護|ほご}}するが{{r|為|ため}}に{{r|何|なに}}を{{r|有|ゆう}}すべきか、けだし{{r|智|ち}}が{{r|何物|なにもの}}にも{{r|占有|せんゆう}}せられざる{{r|時|とき}}は、{{r|之|これ}}に{{r|対|たい}}して{{r|慾|よく}}は{{r|起|おこ}}らざればなり。
答 それ{{r|何|なに}}{{r|等|ら}}の{{r|放心|ほうしん}}にも{{r|遠|とお}}ざかる{{r|遁世|とんせい}}{{r|者|じゃ}}の{{r|身|み}}を{{r|以|もつ}}て、{{r|其|その}}{{r|心|こころ}}は{{r|生活|せいかつ}}{{r|上|じょう}}の{{r|為|ため}}に{{r|占有|せんゆう}}せられずんば、{{r|慾|よく}}は{{r|心|こころ}}に{{r|蜂|ほう}}{{r|起|き}}して、{{r|苦行|くぎょう}}{{r|者|しゃ}}を{{r|擾|みだ}}すあたはざるべし、ただ{{r|彼|かれ}}は{{r|怠慢|たいまん}}にして{{r|其|その}}{{r|本分|ほんぶん}}に{{r|不|ふ}}{{r|注意|ちゅうい}}なることはあらん。{{r|然|しか}}れどももし{{r|彼|かれ}}は{{r|神|かみ}}の{{r|書|しょ}}を{{r|研究|けんきゅう}}{{r|練習|れんしゅう}}するならば、{{r|其|その}}{{r|旨|し}}{{r|趣|しゅ}}の{{r|討求|とうきゅう}}に{{r|特|こと}}に{{r|心|こころ}}を{{r|奪|うば}}はれつつ、{{r|慾|よく}}の{{r|為|ため}}には{{r|少|すこ}}しも{{r|動揺|どうよう}}せざるものとなりて{{r|存|そん}}せん。けだし{{r|神|かみ}}の{{r|書|しょ}}に{{r|暁通|ぎょうつう}}することの{{r|益|ますます}}{{r|長|ちょう}}じて{{r|其|その}}{{r|根|ね}}を{{r|張|は}}るときは、{{r|空想|くうそう}}は{{r|彼|かれ}}より{{r|逃|のが}}るべくして、{{r|其|その}}{{r|智|ち}}は{{r|聖書|せいしょ}}を{{r|読|よ}}み、{{r|或|あるい}}は{{r|読|よ}}みし{{r|所|ところ}}を{{r|考|かんが}}へんと{{r|欲|ほつ}}するの{{r|望|のぞみ}}より{{r|離|はな}}るる{{r|能|あた}}はざるべし、されば{{r|深|ふか}}き{{r|原|げん}}{{r|野|や}}の{{r|沈黙|ちんもく}}の{{r|中|うち}}に{{r|在|あり}}て、{{r|聖書|せいしょ}}の{{r|為|ため}}に{{r|心|こころ}}を{{r|奪|うば}}はるる{{r|彼|かれ}}は、{{r|其|その}}{{r|業|ぎょう}}を{{r|楽|たのし}}む{{r|最大|さいだい}}なる{{r|悦楽|えつらく}}に{{r|因|よ}}り、{{r|現生|げんせい}}には{{r|少|すこ}}しの{{r|注意|ちゅうい}}も{{r|向|む}}けざるべし。{{r|此|これ}}により{{r|自己|じこ}}と{{r|其性|そのせい}}とを{{r|忘|わす}}れて、{{r|恰|あたか}}も{{r|憤心|ふんしん}}したる{{r|人|ひと}}の{{r|如|ごと}}くなるべく、{{r|此|この}}{{r|世|よ}}の{{r|事|こと}}はすべて{{r|記|き}}{{r|憶|おく}}せずして{{r|思|し}}{{r|想|そう}}は{{r|神|かみ}}の{{r|大|だい}}なることの{{r|為|ため}}に{{r|特|こと}}に{{r|占領|せんりょう}}せられん、されば{{r|心|こころ}}を{{r|此|これ}}に{{r|沈潜|ちんせん}}して{{r|言|い}}はん、『{{r|光栄|こうえい}}は{{r|彼|かれ}}の{{r|神性|しんせい}}に{{r|帰|き}}す』と。{{r|又|また}}{{r|言|い}}はん『{{r|光栄|こうえい}}は{{r|彼|かれ}}の{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}に{{r|帰|き}}す、{{r|奇異|きい}}なる{{r|哉|かな}}、{{r|非常|ひじょう}}なる{{r|哉|かな}}、{{r|彼|かれ}}のすべての{{r|行事|ぎょうじ}}よ、{{r|彼|かれ}}は{{r|予|よ}}の{{r|貧寒|ひんかん}}を{{r|如何|いか}}なる{{r|高処|こうしょ}}に{{r|昇|のぼ}}せたるか、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}に{{r|何|なに}}を{{r|学|まな}}ぶを{{r|賜|たま}}ひ、{{r|意思|いし}}を{{r|如何|いか}}に{{r|大胆|だいたん}}ならしめて、{{r|我|わ}}が{{r|霊|たましい}}を{{r|楽|たのし}}ましむるか』と。{{r|此|この}}{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}に{{r|意思|いし}}を{{r|向|む}}けて、{{r|常|つね}}に{{r|之|これ}}に{{r|驚|おどろ}}かさるる{{r|彼|かれ}}は、{{r|不|ふ}}{{r|断|だん}}{{r|酩酊|めいてい}}の{{r|中|うち}}にあること、{{r|復活|ふくかつ}}の{{r|後|のち}}の{{r|生命|せいめい}}を{{r|既|すで}}に{{r|味|あぢは}}ふ{{r|如|ごと}}くなるべし、{{r|何|なん}}となれば{{r|黙想|もくそう}}は{{r|此|この}}{{r|恩寵|おんちょう}}に{{r|最|いと}}{{r|大|おほい}}に{{r|助|たす}}くればなり。けだし{{r|彼|かれ}}の{{r|智力|ちりょく}}は{{r|黙想|もくそう}}に{{r|於|おい}}て{{r|求|もと}}め{{r|得|え}}たる{{r|平安|へいあん}}と{{r|共|とも}}に{{r|自|みづ}}から{{r|止|とど}}まるを{{r|得|う}}べきを{{r|看|かん}}{{r|破|ぱ}}するのみならず、{{r|併|あはせ}}て{{r|之|これ}}を{{r|以|もつ}}て{{r|喚|かん}}{{r|起|き}}せられて{{r|其|その}}{{r|生命|せいめい}}の{{r|秩序|ちつじょ}}と{{r|適応|てきおう}}せし{{r|所|ところ}}のものを{{r|記|き}}{{r|憶|おく}}せん。けだし{{r|来世|らいせい}}の{{r|光栄|こうえい}}と、{{r|彼|か}}の{{r|霊的|れいてき}}{{r|生命|せいめい}}と{{r|神|かみ}}とに{{r|止|とど}}まる{{r|義|ぎ}}{{r|人|じん}}{{r|等|ら}}の{{r|為|ため}}に{{r|其|その}}{{r|望|のぞみ}}の{{r|如|ごと}}く{{r|備|そな}}へらるる{{r|凡|すべ}}ての{{r|幸福|こうふく}}と、{{r|其|その}}{{r|新|あらた}}なる{{r|興復|こうふく}}とを{{r|心|こころ}}に{{r|想像|そうぞう}}しつつ{{r|此|この}}{{r|世|よ}}にあるものは{{r|思|おもひ}}にも{{r|記|き}}{{r|憶|おく}}にも{{r|存|そん}}せざるべし。{{r|然|しか}}れども{{r|此|これ}}を{{r|以|もつ}}て{{r|酔|よ}}はしめらるるや、{{r|更|さら}}に{{r|直|ちょく}}{{r|覚|かく}}を{{r|以|もつ}}て{{r|其|その}}{{r|処|ところ}}より{{r|彼|かれ}}が{{r|自|みづ}}から{{r|生在|せいざい}}する{{r|所|ところ}}の{{r|此|この}}{{r|世|よ}}に{{r|転回|てんかい}}し{{r|来|きた}}るときは、{{r|愕然|がくぜん}}として{{r|驚|おどろき}}て{{r|言|い}}はん、『{{r|嗚呼|ああ}}{{r|深|ふか}}い{{r|哉|かな}}、{{r|究|きは}}む{{r|可|べか}}らざる{{r|神|かみ}}の{{r|富|とみ}}と{{傍点|style=open circle|智恵}}と{{傍点|style=open circle|知識}}よ、{{r|聡明|そうめい}}と、{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}と{{r|摂理|せつり}}よ、{{r|其|その}}{{r|定|さだめ}}は{{r|如何|いか}}に{{r|測|はか}}り{{r|難|がた}}く、{{r|其|その}}{{r|道|みち}}は{{r|如何|いか}}に{{r|究|きは}}め{{r|難|がた}}きや』と〔[[ロマ人への書(文語訳)#11:33|ロマ十一の三十三]]〕。けだし{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}、{{r|彼|かれ}}はかくの{{r|如|ごと}}き{{r|奇異|きい}}なる{{r|別|べつ}}{{r|世界|せかい}}を{{r|備|そな}}へて、{{r|之|これ}}にすべての{{r|聡明|そうめい}}なる{{r|実体|じったい}}を{{r|導|みちび}}き{{r|入|い}}れ、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}を{{r|終|おわ}}りなき{{r|生命|いのち}}に{{r|守|まも}}り{{r|給|たま}}ふか、{{r|何|なん}}の{{r|故|ゆえ}}に{{r|彼|かれ}}は{{r|此|こ}}の{{r|第一|だいいち}}の{{r|世界|せかい}}を{{r|造|つく}}り、{{r|之|これ}}を{{r|拡大|かくだい}}にして、{{r|種類|しゅるい}}の{{r|群集|ぐんしゅう}}と{{r|万物|ばんぶつ}}の{{r|許|きょ}}{{r|多|た}}とを{{r|以|もつ}}て{{r|之|これ}}を{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}く{{r|富|と}}まし、{{r|彼処|かしこ}}に{{r|於|おい}}て{{r|多|おほ}}くの、{{r|慾|よく}}の{{r|原因|げんいん}}と、{{r|慾|よく}}を{{r|養|やしな}}ふものと、{{r|又|また}}{{r|之|これ}}に{{r|抵抗|ていこう}}するものとにも{{r|位置|いち}}を{{r|與|あた}}へたるか。{{r|而|しか}}して{{r|何|なん}}の{{r|故|ゆえ}}に{{r|最初|さいしょ}}より{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}を{{r|此|この}}{{r|世界|せかい}}に{{r|置|お}}き、{{r|世|よ}}に{{r|長寿|ちょうじゅ}}せんを{{r|愛|あい}}するの{{r|情|じょう}}を{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}に{{r|固|かた}}めたりしも{{r|俄|にわか}}に{{r|死|し}}を{{r|以|もつ}}て{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|之|これ}}より{{r|奪|うば}}ひ{{r|去|さ}}り、{{r|少|すくな}}からざる{{r|時|とき}}の{{r|間|あいだ}}{{r|無|む}}{{r|感覚|かんかく}}{{r|無|む}}{{r|動作|どうさ}}を{{r|以|もつ}}て{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}を{{r|守|まも}}り、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}の{{r|形像|けいぞう}}を{{r|滅|めつ}}し、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}を{{r|融解|ゆうかい}}し、{{r|掛|かき}}{{r|廻|まわ}}して、{{r|之|これ}}を{{r|土|つち}}と{{r|混|こん}}じ、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}が{{r|組織|そしき}}を{{r|破|は}}{{r|壊|かい}}し{{r|腐|ふ}}{{r|敗|はい}}{{r|滅尽|めつじん}}して、{{r|人|ひと}}の{{r|性|せい}}{{r|中|ちゅう}}{{r|一物|いちぶつ}}も{{r|全|まった}}く{{r|残|のこ}}らざるに{{r|至|いた}}るか、{{r|然|しか}}れども{{r|崇拝|すうはい}}せらるべき{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}を{{r|以|もつ}}て{{r|定|さだ}}めたまひし{{r|時|とき}}に{{r|至|いた}}り、{{r|欲|ほつ}}するあるや、ただ{{r|彼|かれ}}にのみ{{r|知|し}}らるる{{r|他|た}}の{{r|形像|けいぞう}}に{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}を{{r|再興|さいこう}}して、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}を{{r|他|た}}の{{r|状態|じょうたい}}に{{r|導|みちび}}き{{r|入|い}}るるは{{r|何故|なにゆえ}}なるか、こは{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|人々|ひとびと}}の{{r|希望|きぼう}}する{{r|所|ところ}}なるのみならず、{{r|此|この}}{{r|世界|せかい}}に{{r|必要|ひつよう}}を{{r|有|ゆう}}せずして、{{r|其性|そのせい}}の{{r|非|ひ}}{{r|常|じょう}}なるにより、{{r|僅|わづか}}に{{r|完全|かんぜん}}を{{r|欠|か}}くところの{{r|最|いと}}{{r|聖|せい}}なる{{r|天|てん}}{{r|使|し}}{{r|等|ら}}も、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}{{r|諸族|しょぞく}}の{{r|塵|ちり}}より{{r|起|お}}きて、{{r|其|その}}{{r|敗壊|はいかい}}の{{r|新|あらた}}にせらるるとき、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}が{{r|敗壊|はいかい}}より{{r|起|おこ}}るを{{r|待|ま}}つ、けだし、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}の{{r|為|ため}}に{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}も{{r|入|い}}るを{{r|禁|きん}}ぜられたれば、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}も{{r|新|しん}}{{r|世界|せかい}}の{{r|戸|と}}の{{r|一回|いっかい}}{{r|開|ひら}}かるるを{{r|待|ま}}つなり。{{r|而|しか}}して{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}を{{r|苦|くる}}しむる{{r|肉体|にくたい}}の{{r|重|おも}}きは{{r|釋|と}}かれたるにより、{{r|此|この}}{{r|受造物|じゅぞうぶつ}}({{r|天|てん}}{{r|使|し}}{{r|等|ら}})も{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}と{{r|共|とも}}に{{r|安|やす}}んずるを{{r|得|う}}ること{{r|使徒|しと}}のいふ{{r|如|ごと}}し、けだし{{r|此|この}}{{r|世|よ}}の{{r|構造|こうぞう}}はすべて{{r|全|まった}}く{{r|破|は}}{{r|壊|かい}}して、{{r|我|われ}}{{r|等|ら}}が{{r|性|せい}}は{{r|元|げん}}{{r|始|し}}の{{r|状|じょう}}{{r|態|たい}}に{{r|回復|かいふく}}するにより、『{{r|受造物|じゅぞうぶつ}}{{r|自|みづか}}らも{{r|神|かみ}}の{{r|諸|しょ}}{{r|子|し}}の{{r|顕|あら}}はるるを{{r|俟|ま}}つ、{{r|即|すなはち}}{{r|敗壊|はいかい}}の{{r|奴|ど}}より{{r|釋|と}}かれて{{r|神|かみ}}の{{r|諸|しょ}}{{r|子|し}}の{{r|光栄|こうえい}}の{{r|自由|じゆう}}に{{r|入|い}}らんこと{{r|是|これ}}なり』〔[[ロマ人への書(文語訳)#8:19|ロマ八の十九、二十一]]〕。
{{r|而|しか}}して{{r|此|これ}}より{{r|其|その}}{{r|智|ち}}{{r|力|りょく}}を{{r|以|もつ}}て{{r|昇|のぼ}}り、{{r|此|こ}}の{{r|世界|せかい}}の{{r|合成|ごうせい}}に{{r|先|さき}}だちて、{{r|如何|いか}}なる{{r|受造物|じゅぞうぶつ}}も、{{r|天|てん}}も{{r|地|ち}}も、{{r|天|てん}}{{r|使|し}}も、{{r|存在|そんざい}}にみちびかれたる{{r|何|なに}}{{r|等|ら}}の{{r|物|もの}}も{{r|未|いま}}だあらざる{{r|時|とき}}と、{{r|神|かみ}}が{{r|独一|どくいつ}}の{{r|恩恵|おんけい}}により、{{r|俄|にわか}}に{{r|一切|いっさい}}を{{r|無|む}}より{{r|有|ゆう}}となして、すべての{{r|物|もの}}が{{r|神|かみ}}の{{r|前|まへ}}に{{r|完全|かんぜん}}にあらはれたる{{r|時|とき}}に{{r|至|いた}}らん。{{r|然|しか}}るに{{r|彼|かれ}}は{{r|再|ふたた}}び{{r|其|その}}{{r|智|ち}}{{r|力|りょく}}を{{r|以|もつ}}て{{r|神|かみ}}の{{r|悉|ことごと}}くの{{r|造成|ぞうせい}}に{{r|下|くだ}}り、{{r|神|かみ}}より{{r|造|ぞう}}を{{r|受|う}}けたる{{r|物|もの}}の{{r|奇々|きき}}{{r|妙々|みょうみょう}}と{{r|神|かみ}}の{{r|所為|しわざ}}の{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}とに{{r|注意|ちゅうい}}を{{r|向|む}}け、{{r|愕然|がくぜん}}として{{r|自|みづ}}から{{r|判断|はんだん}}して{{r|言|い}}はん、『{{r|吁|ああ}}{{r|奇|き}}なる{{r|哉|かな}}{{r|彼|かれ}}の{{r|摂|せつ}}{{r|理|り}}と{{r|照|しょう}}{{r|管|かん}}は{{r|何|なに}}{{r|等|ら}}の{{r|概念|がいねん}}よりも{{r|高|たか}}きこと{{r|幾|いく}}ばくなる、{{r|此|こ}}の{{r|受造物|じゅぞうぶつ}}、{{r|即|すなはち}}{{r|此|こ}}の{{r|種々|しゅじゅ}}{{r|様々|さまざま}}なる{{r|物体|ぶったい}}の{{r|数|かぞ}}へ{{r|尽|つく}}されざるの{{r|多|おほ}}きを{{r|如何|いかん}}して{{r|彼|かれ}}は{{r|無|む}}より{{r|有|ゆう}}となしたるか。{{r|然|しか}}るに{{r|又|また}}{{r|此|こ}}の{{r|奇異|きい}}なる{{r|好|こう}}{{r|順序|じゅんじょ}}と、{{r|天|てん}}{{r|地|ち}}{{r|萬有|ばんゆう}}の{{r|此|この}}{{r|美|び}}{{r|麗|れい}}と、{{r|受造物|じゅぞうぶつ}}と、{{r|時|とき}}と{{r|年|とし}}の{{r|整然|せいぜん}}たる{{r|此|この}}{{r|運行|うんこう}}と、{{r|昼|ちゅう}}{{r|夜|や}}の{{r|此|この}}{{r|配合|はいごう}}と、{{r|年|とし}}と{{r|共|とも}}に{{r|合|がつ}}する{{r|空|くう}}{{r|気|き}}の{{r|変換|へんかん}}と、{{r|地|ち}}より{{r|発萌|はつほう}}する{{r|殊|しゅ}}{{r|異|い}}{{r|多|た}}{{r|様|よう}}なる{{r|此|この}}{{r|花卉|かき}}と、{{r|此|こ}}の{{r|都府|とふ}}の{{r|美|び}}{{r|麗|れい}}なる{{r|築造|ちくぞう}}と、{{r|其中|そのうち}}に{{r|最|いと}}{{r|荘厳|そうごん}}に{{r|飾|かざ}}られたる{{r|宮殿|きゅうでん}}と、{{r|此|こ}}の{{r|人類|じんるい}}の{{r|敏捷|びんしょう}}なる{{r|活動|かつどう}}と、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}が{{r|世界|せかい}}に{{r|入|い}}りしより{{r|出|い}}づるに{{r|至|いた}}る{{r|迄|まで}}、{{r|労|ろう}}{{r|苦|く}}を{{r|任|にな}}はしめられたる{{r|此|この}}{{r|存在|そんざい}}とを{{r|滅|ほろぼ}}して、{{r|此|こ}}の{{r|受造物|じゅぞうぶつ}}を{{r|破|は}}{{r|壊|かい}}するは{{r|何故|なにゆえ}}なるか。{{r|而|しか}}して{{r|此|こ}}の{{r|奇異|きい}}なる{{r|秩序|ちつじょ}}は{{r|俄|にわか}}に、{{r|熄|や}}んで、{{r|他|た}}の{{r|世界|せかい}}{{r|至|いた}}り、{{r|此|こ}}の{{r|最初|さいしょ}}の{{r|造物|ぞうぶつ}}に{{r|於|おけ}}る{{r|記|き}}{{r|憶|おく}}は{{r|何人|なにびと}}の{{r|心|こころ}}にも{{r|全|まった}}く{{r|浮|うか}}び{{r|来|きた}}らずして、{{r|他|た}}の{{r|之|これ}}と{{r|異|こと}}なる{{r|種類|しゅるい}}と{{r|他|た}}の{{r|所|しょ}}{{r|思|し}}と、{{r|他|た}}の{{r|配慮|はいりょ}}とを{{r|生|しょう}}ずるは{{r|何故|なにゆえ}}なるか。{{r|之|これ}}と{{r|同|おなじ}}く{{r|人性|じんせい}}は{{r|此|こ}}の{{r|世界|せかい}}の{{r|事|こと}}と{{r|其|その}}{{r|生活|せいかつ}}の{{r|最初|さいしょ}}の{{r|状態|じょうたい}}の{{r|事|こと}}とは{{r|全|まった}}く{{r|想|そう}}{{r|起|き}}せざらん、{{r|何|なん}}となれば{{r|人|じん}}{{r|智|ち}}は{{r|彼|か}}も{{r|状況|じょうきょう}}を{{r|直|ちょく}}{{r|覚|かく}}するに{{r|密着|みっちゃく}}して、{{r|人々|ひとびと}}の{{r|智|ち}}は{{r|血肉|けつにく}}の{{r|戦|たたかひ}}に{{r|再|ふたた}}び{{r|帰|かへ}}るの{{r|遑|いとま}}あらざればなり。けだし{{r|此|この}}{{r|世|よ}}の{{r|破|は}}{{r|壊|かい}}と{{r|共|とも}}に{{r|来世|らいせい}}は{{r|直|ただち}}に{{r|始|はじ}}まればなり。されば{{r|悉|ことごと}}くの{{r|人|ひと}}は{{r|其時|そのとき}}{{r|左|さ}}の{{r|如|ごと}}く{{r|言|い}}はん{{r|嗚呼|ああ}}{{r|母|はは}}よ、{{r|生|う}}み{{r|且|かつ}}{{r|養|やしな}}ひて{{r|智慧|ちえ}}{{r|附|つ}}けたる{{r|其|その}}{{r|子|こ}}の{{r|為|ため}}に{{r|忘|わす}}れられたる{{r|者|もの}}よ、{{r|彼|かれ}}{{r|等|ら}}は{{r|瞬間|しゅんかん}}に{{r|他|た}}の{{r|懐|ふところ}}に{{r|集|あつ}}められて、{{r|孕|はら}}まざる{{r|者|もの}}と{{r|決|けつ}}して{{r|生|う}}まざる{{r|者|もの}}の{{r|眞|まこと}}の{{r|子|こ}}となれり。『{{r|孕|はら}}まず、{{r|生|う}}まざる{{r|者|もの}}よ、{{r|謳|おう}}{{r|歌|か}}せよ』〔[[イザヤ書(文語訳)#54:1|イサイヤ五十四の一]]〕{{r|地|ち}}が{{r|爾|なんぢ}}の{{r|為|ため}}に{{r|生|う}}みたる{{r|子|こ}}の{{r|為|ため}}にと{{r|言|い}}はんとす。
{{r|其時|そのとき}}{{r|彼|かれ}}は{{r|恰|あたか}}も{{r|大|だい}}なる{{r|熱中|ねっちゅう}}にあるものの{{r|如|ごと}}く、{{r|沈|ちん}}{{r|思|し}}して、{{r|左|さ}}の{{r|如|ごと}}く{{r|言|い}}はん、『{{r|此|この}}{{r|世|よ}}は{{r|猶|なお}}{{r|幾|いく}}{{r|時|じ}}{{r|存|そん}}するか、{{r|来世|らいせい}}は{{r|何時|いつ}}{{r|始|はじ}}まるか。{{r|此室|このしつ}}に{{r|此|こ}}の{{r|状態|じょうたい}}を{{r|以|もつ}}て{{r|寝|い}}ねて、{{r|肉体|にくたい}}が{{r|塵|ちり}}と{{r|混|こん}}ぜらるるは、{{r|猶|なお}}{{r|幾|いく}}{{r|時|じ}}あるか。{{r|彼|か}}の{{r|生命|せいめい}}は{{r|如何|いか}}なるか。{{r|此|こ}}の{{r|性|せい}}は{{r|如何|いか}}なる{{r|状態|じょうたい}}に{{r|復|ふく}}{{r|起|き}}して{{r|組|そ}}{{r|織|しき}}せらるるか。{{r|彼|かれ}}は{{r|新|あらた}}なる{{r|造物|ぞうぶつ}}に{{r|如何|いか}}{{r|様|よう}}{{r|変|へん}}{{r|化|か}}するか。』と{{r|此|これ}}{{r|等|ら}}の{{r|事|こと}}を{{r|沈|ちん}}{{r|思|し}}するや、{{r|彼|かれ}}は{{r|大悦|たいえつ}}、{{r|駭|がい}}{{r|異|い}}、{{r|寂然|せきぜん}}、{{r|沈黙|ちんもく}}に{{r|至|いた}}らん、{{r|而|しか}}して{{r|彼|かれ}}は{{r|此時|このとき}}に{{r|起|た}}つて{{r|膝|ひざ}}を{{r|屈|かが}}め、{{r|滂|ぼう}}{{r|沱|だ}}たる{{r|涙|なみだ}}と{{r|共|とも}}に{{r|独一|どくいつ}}{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}の{{r|神|かみ}}に{{r|感謝|かんしゃ}}し、{{r|常|つね}}に{{r|最|もっと}}も{{r|睿|えい}}{{r|智|ち}}なる{{r|作為|しわざ}}に{{r|於|おい}}て{{r|頌|しょう}}{{r|美|び}}せらるる{{r|者|もの}}に{{r|讃栄|さんえい}}を{{r|献|ささ}}げん。かくの{{r|如|ごと}}きことを{{r|賜|たま}}はりし{{r|者|もの}}は{{r|福|さいわい}}なる{{r|哉|かな}}、{{r|昼|ひる}}も{{r|夜|よる}}も{{r|此|かく}}の{{r|如|ごと}}きの{{r|勤|きん}}{{r|行|ぎょう}}に{{r|専|もっぱ}}らなる{{r|者|もの}}は{{r|福|さいわい}}なる{{r|哉|かな}}。{{r|其|その}}{{r|生命|せいめい}}の{{r|日|につ}}{{r|子|し}}を{{r|挙|あ}}げて{{r|此|これ}}{{r|等|ら}}の{{r|事|こと}}を{{r|沈|ちん}}{{r|思|し}}する{{r|者|もの}}は{{r|福|さいわい}}なる{{r|哉|かな}}。{{r|然|しか}}るにもし{{r|人|ひと}}は{{r|其|その}}{{r|黙想|もくそう}}の{{r|始|はじ}}めに{{r|於|おい}}て、{{r|心|しん}}{{r|意|い}}の{{r|高|こう}}{{r|超|ちょう}}の{{r|故|ゆえ}}に、かくの{{r|如|ごと}}き{{r|直|ちょく}}{{r|覚|かく}}の{{r|力|ちから}}を{{r|感|かん}}ぜずして、{{r|上|じょう}}{{r|文|ぶん}}に{{r|述|の}}べたる{{r|如|ごと}}き{{r|神|かみ}}の{{r|奇|き}}{{r|跡|せき}}の{{r|力|ちから}}に{{r|上|じょう}}{{r|進|しん}}する{{r|能|あた}}はずんば、{{r|煩悶|はんもん}}を{{r|来|きた}}すなかれ、{{r|黙想|もくそう}}{{r|的|てき}}{{r|生活|せいかつ}}の{{r|安静|あんせい}}を{{r|棄|す}}つるなかれ。けだし{{r|農|のう}}{{r|夫|ふ}}も{{r|種子|たね}}を{{r|種|ま}}くと{{r|共|とも}}に、{{r|直|ただち}}に{{r|穂|ほ}}を{{r|見|み}}るべきには{{r|非|あら}}ずして、{{r|種|ま}}きし{{r|後|のち}}も、{{r|憂愁|ゆうしゅう}}と、{{r|労|ろう}}{{r|苦|く}}と、{{r|肢|し}}{{r|体|たい}}の{{r|衰弱|すいじゃく}}と、{{r|同輩|どうはい}}に{{r|遠|とほ}}ざかると、{{r|家|か}}{{r|人|じん}}に{{r|分|わか}}るる{{r|等|とう}}の{{r|事|こと}}あるべし。{{r|然|しか}}れども{{r|此|これ}}を{{r|忍耐|にんたい}}するときは、{{r|當|とう}}{{r|時|じ}}{{r|者|しゃ}}が{{r|楽|たのし}}み、{{r|且|かつ}}{{r|躍|おど}}り、{{r|且|かつ}}{{r|喜|よろこ}}んで{{r|欣々|きんきん}}たる{{r|新|あらた}}なる{{r|時期|じき}}の{{r|至|いた}}るあらん。
{{r|然|しか}}るに{{r|是|こ}}は{{r|何|なん}}の{{r|時|とき}}なるか。{{r|彼|かれ}}が{{r|己|おのれ}}の{{r|汗|あせ}}を{{r|以|もつ}}て{{r|獲|え}}たる{{r|餅|パン}}を{{r|食|くら}}ひ、{{r|沈黙|ちんもく}}を{{r|以|もつ}}て{{r|其|そ}}の{{r|瞑想|めいそう}}を{{r|守|まも}}るを{{r|得|え}}るの{{r|時|とき}}ならん。けだし{{r|沈黙|ちんもく}}と、{{r|沈黙|ちんもく}}を{{r|以|もつ}}て{{r|忍耐|にんたい}}し{{r|得|う}}る{{r|此|この}}{{r|瞑想|めいそう}}とは、{{r|大|おほい}}にして{{r|終|おわり}}なき{{r|愉|ゆ}}{{r|快|かい}}を{{r|心|こころ}}に{{r|喚|かんき}}{{r|起|き}}して、{{r|其|その}}{{r|智|ち}}を{{r|言|い}}ふべからざる{{r|驚|けい}}{{r|異|い}}にみちびかん。ゆゑに{{r|忍耐|にんたい}}して{{r|此|これ}}に{{r|止|とど}}まる{{r|者|もの}}は{{r|福|さいわい}}なり、{{r|何|なん}}となれば{{r|此|こ}}の{{r|神|しん}}{{r|出|しゅつ}}なる{{r|泉|いづみ}}は{{r|其|その}}{{r|目前|もくぜん}}に{{r|開|ひら}}けて、{{r|彼|かれ}}は{{r|之|これ}}を{{r|飲|の}}みて{{r|楽|たのし}}むべく、{{r|昼|ちゅう}}{{r|夜|や}}{{r|何|いづ}}れの{{r|時|とき}}にも{{r|何|いづ}}れの{{r|刻|こく}}にも{{r|常|つね}}に{{r|之|これ}}を{{r|飲|の}}むをやめずして{{r|全|まった}}く{{r|暫|ざん}}{{r|時|じ}}なる{{r|此|この}}{{r|生命|いのち}}の{{r|終|おわり}}と{{r|最|さい}}{{r|後|ご}}の{{r|際|とき}}に{{r|至|いた}}るべければなり。
==現代語訳==
質問:使徒が「もしあなたがたがキリストと共に復活したのなら」(コロサイ3章1節)と述べている魂の復活とはどういう意味ですか?
答え:使徒は、「『闇の中から光が輝き出よ』と言われた神が、私たちの心の中に光を輝かせてくださった」(コリント第二 4章6節)と述べ、魂の復活は古い人からの脱却、すなわち、古い人が全くない新しい人が生まれること、つまり、「わたしは彼らに新しい心と新しい霊を与える」(エゼキエル 36章26節)という言葉のとおり、新しい人が生まれることと呼ばなければならないことを示しました。なぜなら、その時、知恵の霊と、キリストを知る啓示によって、キリストが私たちのうちに形作られるからです。
質問:沈黙を実践することの力(簡潔に言うと)とは何ですか?
答え:沈黙は外界の感覚を鈍らせ、内的な動きを活性化させる。しかし、外界の事柄に気を取られると、その逆の効果が生じる。つまり、外界の感覚を刺激し、内的な動きを鈍らせるのである。
質問:幻と啓示の原因は何ですか?ある人は幻を見ますが、他の人は彼らよりも努力しても、幻はそれほど働きません。
答え:これには多くの理由があります。経済的な理由もあり、公共の利益を目的とするものもあります。また、弱い人々の慰め、勇気、教訓となるものもあります。そして何よりも、これらすべては神の慈悲によって人々に対して計画されています。主に、それは3種類の人々のために計画されています。すなわち、素朴で極めて心優しい人々のため、あるいは、ある種の完全で聖なる人々のため、あるいは、神への燃えるような熱意を持ち、世俗を捨て、完全に世俗から離れ、人との接触を断ち、すべてを後にし、目に見えるものからの助けを期待せず、神に従った人々のためです。彼らは孤独ゆえに恐怖に襲われたり、飢え、病気、あるいは何らかの状況や悲しみによって死の危険にさらされ、絶望に近づいています。したがって、努力によってそれを超える人々が慰めを得られない一方で、そのような慰めが見出されるとしたら、その第一の理由は、良心の無垢と堕落です。おそらく第二の理由はこうでしょう。人が人間的な慰め、あるいは目に見えるものを通して慰めを得ると、公共の利益のための特別な事情がない限り、同様の慰めは得られなくなるからです。隠修士についての記述がありますが、その証人として、慰めを求めて祈った教父の一人が、「人間的な慰めと人との会話で十分である」という言葉を聞いたという話があります。
また、この人と同じように、隠遁生活を送っていた人は、常に恵みの慰めを享受していました。しかし、世間と接触するようになると、いつものように慰めを求めましたが、見つからず、その理由を神に示してくださるよう祈り、「主よ、恵みが私から去ってしまったのは、司教職のせいではないのですか」と言いました。すると、「いいえ、神は荒野に住む人々にそのような慰めを与えてくださるからです」と言われました。なぜなら、目に見える慰めを得ながら、同時に目に見えない、神聖で神秘的な恵みを受けることは、前述の隠された摂理による場合を除いては不可能であり、そのような場合、その摂理は摂理を与える者だけが知っているからです。
質問:幻視と啓示は同じものですか、それとも違いますか?
答え:いいえ。それらは異なります。黙示録はしばしば両方と呼ばれます。なぜなら、それは秘密裏に啓示されるので、すべての幻は啓示と呼ばれます。しかし、啓示は幻とは呼ばれません。「啓示」という言葉は、主に知ることができるもの、つまり心によって経験され理解されるものに対して用いられます。幻はさまざまな形で現れます。例えば、古代旧約聖書の時代に起こったように、イメージや絵として、深い眠りの中や覚醒状態で、時には完全に正確に、時には幻影のようにやや不明瞭に現れます。そのため、幻を見た人でさえ、自分が覚醒状態で見ているのか睡眠状態で見ているのか分からないことがよくあります。また、声を通して執り成しについて聞いたり、時にはイメージを見たり、時にはよりはっきりと顔と顔を合わせて見たりすることもあります。幻、臨在、質問、そしてそれに伴う会話は、ふさわしい人々に見え、啓示を生み出す聖なる力です。こうした幻視は、人里離れた、最も寂しい場所で起こる。そこでは、人間は他に頼るものも慰めもないからこそ、必然的に幻視を必要とする。純粋な心によって知覚される啓示は、容易に受け入れられ、理解力のある完全な者だけが体験できるのである。
質問:もし誰かが心の清らかさを達成したとしたら、その兆候は何でしょうか?また、人はいつ自分の心が清らかさに達したことを知るのでしょうか?
答え:すべての人を善良な者と見なし、誰一人として汚れた者や不浄な者を見出さない人は、真に心の清い人です。使徒の言葉、すなわち「すべての人が、誠実な心から、自分にとって最も良いことを等しく行うべきである」(フィリピ2章3節参照)という言葉は、良い目は悪を見ない(ハバクク1章13節参照)という言葉に達しない限り、どうして成就できるでしょうか。
質問:純粋さとは何か、そしてその限界はどこにあるのか?
答え:純粋さとは、自然から借りた自然を導く方法を忘れることです。そして、それらから解放され、それらを超えるためには、限界があります。それは、人が本来の性質の単純さと謙虚さに戻り、赤ん坊のようになることです。ただし、赤ん坊のような欠点はありません。
質問:誰でもこの階級に昇格できるのでしょうか?
答え:はい。見なさい、アッバ・シソエスのように、弟子に「私は食事をしたか、していないか」と尋ねるなど、この境地に達した人々が他にもいる。また、ある教父は、この世のすべてを完全に忘れるほどの素朴さと、ほとんど幼児のような無邪気さに達した。弟子たちが止めなければ、聖体拝領の前に食事をしていただろう。そこで、弟子たちは赤子のように彼を聖体拝領へと導いた。このように、世間から見れば彼は赤子であったが、神にとっては魂において完全な存在であった。
質問:禁欲的な修行者は、静寂な独房で静かに生活する中で、どのような考えや思索を巡らせるべきでしょうか?また、心が無駄な考えにふける暇がないように、常に何をすべきでしょうか?
回答:あなたは思考や内省について尋ねています。人は独房の中でどのように死ぬのでしょうか? 勤勉で慎み深い人は、独房でどのように振る舞うべきかを問う必要があるのでしょうか? 僧侶は独房の中で、泣くこと以外にどのようなことをするのでしょうか?
彼は涙を流すことから別の考えに移る時間があるだろうか?そして、これ以上に良い仕事があるだろうか?人間の喜びから遠く離れた墓の中での滞在のように、僧侶の孤独と生活そのものが、彼の活動は涙を流すことだと教えている。そして、彼の名前の意味そのものが彼を呼び、確信させる。なぜなら彼は嘆き悲しむ者、つまり心に悲しみを抱く者と呼ばれているからだ。そして、すべての聖人は涙を流しながらこの世を去った。聖人たちが涙を流し、この世を去るまでその目は常に涙で満たされていたのなら、誰が涙を流さないだろうか?僧侶の慰めは、彼の涙から生まれる。そして、完全で勝利した者たちがこの世で涙を流したのなら、傷に満ちた者がどうして涙を流さずに耐えられるだろうか?自分の死体が目の前に横たわり、自分が罪によって苦しめられているのを見た者は、どのような思いで涙を使うべきかを教えられる必要があるだろうか?あなたにとって全世界よりも大切な魂は、目の前の罪と嘘によって生気を失っています。嘆き悲しむべきではないでしょうか。ですから、私たちが沈黙を受け入れ、忍耐強くその中に留まるならば、必ず嘆き悲しむことができるでしょう。ですから、絶えず心の中で主に嘆き悲しむ恵みを与えてくださるよう祈りましょう。なぜなら、他のすべての賜物よりも優れたこの恵みを受けるならば、その助けによって私たちは清らかさを得ることができるからです。そして、一度清らかさを得たならば、この世を去るその日まで、決して私たちから清らかさが奪われることはありません。
それゆえ、心の清い者は幸いである。彼らは涙の甘美さに喜びを見いださない時はなく、その涙の中に常に主を見るからである。彼らの目に涙が浮かんでいる間、彼らは祈りの極みにおいて主の啓示の幻を見ることが許される。そして、彼らは涙なしには祈りを捧げない。これが主の言葉「悲しむ者は幸いである。彼らは慰められるからである」(マタイによる福音書 5章4節)の意味である。なぜなら、人は悲しむことによって魂の清らかさを得るからである。それゆえ、主は「彼らは慰められるからである」と言われたが、どのような慰めなのかは説明されなかった。修道士が涙を通して情欲の領域を超越し、霊的な清らかさの境地に入ることが許された時、そのような慰めが見出されるのである。したがって、ここで慰めを受けた者がこの平原にまで身を伸ばせば、ここで見いだせない慰めをそこで見つけ、涙の終わりにどのような慰めを受けるのかを理解するでしょう。それは、清らかさを求めて涙を流す者に神が与える慰めです。なぜなら、絶えず涙を流す者は情欲に乱されることがないからです。涙を流し、泣くことは、情欲のない者の賜物です。一時的に泣き悲しむ者の涙が、情欲のない状態へと導くだけでなく、情欲の記憶から心を完全に清め、解放することができるならば、知識をもって昼夜を問わずこの行いを実践する者については、何と言えばよいでしょうか。したがって、この行いに魂を捧げた者以外には、涙から得られる助けを知る者はいません。すべての聖人はこの境地への入り口を目指して努力します。なぜなら、涙を通して慰めの地への入り口が開かれるからです。そしてこの地において、啓示は神の最も祝福され、救いをもたらす痕跡を描き出しています。
質問:身体の弱さのために絶えず泣くことができない人もいるが、何もしていない時に情欲が湧き上がらないように、どのように心を護るべきだろうか?
答え:もし禁欲者が孤独の中で、あらゆる雑念から離れて、世俗的な事柄に心を奪われていないならば、彼が怠惰で義務を怠らない限り、情欲が魂に湧き上がり、禁欲者を乱すことはない。
特に、彼が聖典の研究に励むならば、その意味を探求することに専念し、情欲に惑わされることはなくなる。なぜなら、聖典への理解が深まり、彼の中に根付くにつれて、無益な思いは彼から消え去り、彼の心は聖典を読み、読んだ内容を熟考したいという欲求を捨てることができず、その営みの大きな喜びゆえに、この世の生活に注意を払わなくなり、深い砂漠の静寂の中でこの世を超越するからである。それゆえ、彼は自分自身と自分の本性を忘れ、恍惚状態に陥った人のようになり、この世を完全に忘れ、主に神の偉大さについての思いに没頭し、心でそれに浸りながら、「神の神性に栄光あれ!」と唱えるのである。そしてまたこう言う。「神の奇跡に栄光あれ!神は私の惨めさをどれほど高めてくださったことか。神は私に何を学ぶことを許し、どんな考えを抱くことを許し、私の魂を喜ばせてくださったことか!」これらの奇跡に思いを馳せ、絶えず驚嘆しながら、彼は絶え間ない恍惚の中に留まり、いわば復活後の人生をすでに味わっている。沈黙はこの恵みに大きく貢献するからである。彼の心は、沈黙の中で得た平和と共に自分自身の中に留まる能力を見出すからである。そして同時に、これによって、彼の人生の秩序にふさわしいことを思い出すように促される。なぜなら、希望に従って、その霊的な生活と神の中に留まる義人のために用意された未来の時代の栄光と祝福、そしてその新しい回復を心の中で思い描くとき、彼はこの世のものを思考にも記憶にも留めないからである。そして、これに酔いしれるとき、彼は再び観想によってそこから自分がまだ生きているこの時代へと運ばれ、驚嘆してこう言う。「ああ、その深遠さは「測り知れない神の富と知恵、知識と理解力と理性と摂理は、なんと測り知れないことでしょう。その裁きと道は、なんと測り知れないことでしょう」(ローマ11章33節)! 神は、すべての理性的存在を導入し、永遠の命の中で彼らを存続させるために、また別の、なんと素晴らしい時代を用意されたのでしょう。では、なぜ神は、この最初の世界を創造し、それを拡大し、豊かさと多様な種と性質でそれを豊かにし、多くの情欲の原因と、それらを養うものとそれらに反対するものをそこに与えたのでしょうか?
なぜ神はまず私たちをこの世界に置き、この世界で長く生きることへの愛を私たちの中に植え付け、それから突然死によって私たちをこの世界から引き離し、かなりの期間、無感覚と不動の状態に私たちを留め、私たちの姿を破壊し、私たちの実体を溶解させ、それを土と混ぜ合わせ、私たちの構成要素が崩れ、腐敗し、消え去るのを許し、人間の性質が何も残らないようにしたのでしょうか。そして、神の尊い知恵によって定められた時、神が望む時に、神は私たちを神のみが知る別の姿に蘇らせ、別の状態へと導いてくださるのでしょうか。このことを望んでいるのは私たち人間だけではありません。この世界を必要とせず、その並外れた性質によってかろうじて完全性に達した聖なる天使たち自身も、私たちの種族が塵から立ち上がり、その腐敗が再び始まる時に、私たちの腐敗からの復活を待ち望んでいます。私たちのために、彼らでさえもこの世界に入ることを禁じられ、新しい時代の扉が開かれるのを待っているのです。そして、この被造物(天使たち)は、私たちを重くする肉体の重荷から私たちと共に休むでしょう。使徒が言うように、「被造物自身も、神の子らの顕現を待ち望んでいる。それは、被造物が滅びの束縛から解放され、神の子らの栄光の自由へと導かれるためである」(ローマ8章19、21節)。それは、この時代が構造全体において完全に滅び、私たちの本性が本来の状態に回復された後のことです。
そしてここから、心は世界の創造以前の時代へと昇華する。そこには生き物も、天も、地も、天使も、何も存在していなかった。そして、神がその唯一の善意によって、いかにして無から万物を突然存在させ、万物が完全な状態で神の前に現れたのか、という時代へと。
そして彼は再び心を神の創造物すべてへと向け、神の被造物の驚異と御業の知恵に注意を向け、驚きながら自問自答する。「なんと素晴らしいことか!神の摂理と計画は、いかに理解を超えていることか。神の驚くべき力は、いかにすべての被造物よりも強力であることか!神はどのようにしてこの創造物、この無数の多様なものを無から存在させたのか?そして、神はどのようにしてこれを再び破壊するのか。この驚くべき秩序、この自然の美しさ、生き物、時間と時間の調和のとれた流れ、昼と夜の組み合わせ、年々の変化、大地から芽生える多様な花々、美しい都市の建物とその装飾された宮殿、人々の急速な動き、この世に生まれてからこの世を去るまで労働に苦しむ彼らの存在を、どのようにして破壊するのか?そして、この驚くべき秩序はいかに突然に終わり、別の時代が到来し、この最初の創造の記憶はもはや誰の心にも刻まれず、異なる変容、異なる思考、異なる苦悩が蔓延するだろう!そして人間の本性もまた、この世界やその最初の生き方を全く思い出すことはないだろう。なぜなら、人間の心はその状態を熟考することに没頭し、人々の心は再び肉体と血との闘いに戻る時間などなくなるからだ。この時代の滅亡とともに、未来の時代が直ちに始まる。そして、すべての人はこう言うだろう。「ああ、母よ、あなたが産み育て、賢くした子供たちに忘れ去られた母よ。瞬く間に、その子供たちは他人の懐に集められ、子を産んだことのない不妊の者の真の子供となったのだ。『子を産んだことのない不妊の者よ、喜びなさい』(イザヤ書54章1節)、大地があなたのために産んだ子供たちのために。」
そして、まるで狂乱したかのように、彼は考え込み、こう言う。「この時代はいつまで続くのだろうか?そして、来るべき時代はいつ始まるのだろうか?これらの神殿はいつまでこの姿で眠り続け、その体は塵と混じり合うのだろうか?その人生はどのようなものになるのだろうか?この自然はどのような姿で立ち上がり、構成されるのだろうか?どのようにして新しい創造へと移行するのだろうか?」そして、彼がこのようなことや似たようなことを深く考えると、歓喜と驚きと静寂に包まれ、その時、彼は立ち上がり、ひざまずき、溢れる涙とともに、常にその全知全能の御業において栄光を現される唯一の全知全能の神に感謝と賛美を捧げる。
それゆえ、そのようなことを授けられた者は幸いである!昼も夜もそのような思いを抱く者は幸いである!生涯を通してこれやこれに類することを瞑想する者は幸いである!そして、もし沈黙の初めに、心が高揚しすぎてそのような瞑想の力を感じられず、先に述べた神のの奇跡の力にまだ達することができないとしても、落胆してはならないし、沈黙の生活の静けさを捨ててはならない!農夫でさえ、種を蒔いた後すぐに穀物の穂を見るわけではない。種を蒔いた後には落胆、労働、自分の体の疲労、仲間の離脱、愛する人との別れが続く。そして、彼がこれを耐え忍ぶと、労働者が喜び、跳びはね、歓喜し、喜ぶ別の時が来る。
これは何時でしょうか?それは、彼が自らの汗で得たパンを味わい、瞑想が静寂の中で保たれている時です。なぜなら、静寂、そして先に述べたように、静寂の中での忍耐強い瞑想は、心に偉大で尽きることのない甘美さを呼び覚まし、心に言い表せないほどの驚きをもたらすからです。そして、忍耐強く静寂の中に留まる者は幸いです。なぜなら、神から与えられたこの源泉が彼の前に開かれ、彼はそこから飲み、それを楽しみ、そして彼の全現世の終わりまで、昼夜を問わず、常に、いつでも、そこから飲み続けるからです。
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こんてむつすむんぢ抄 (新漢字)
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村田ラジオ
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{{resize|120%|このこんてむつすむんぢ◦{{r|日域|じちいき}}にをひて◦ぜすゝ のこんぱにやのすぺりおうれす{{r|御|ご}}{{r|発|ほつ}}{{r|機|き}}に依て◦らちんの{{r|証本|せうほん}}より確かに飜譯し◦{{r|校合|けうがう}}{{r|度々|どど}}に及んで◦{{r|深|じん}}{{r|旨|じ}}を和げて以て{{r|梓|し}}にちりばむ。これ でうす の道を{{r|行|ゆ}}き◦{{r|後|ご}}{{r|生|しやう}}を{{r|扶|たす}}かりたく思ふ人を◦躓かず導くこと最も大切なる義なれば◦{{r|当門|たうもん}}こんぱにやの使徒◦並びに世俗の輩をして◦{{r|読易|よみやす}}からしめんが為なり。{{r|然|しか}}るにこの書のうちにをひて◦徳深き事多しといへども◦わきて徳を求めんとの志願を以て◦之を{{r|読誦|どくじゆ}}せん人◦いづれのところをなりとも開き見ば◦今{{r|我為|わがため}}に肝要の{{r|理|ことわ}}りを記されたりと{{r|弁|わきま}}へざる事あるべからず。{{r|所詮|しよせん}}◦でうす の計りなき善の源にて在ますおん上より◦この{{r|賜|たまもの}}を与へ給へば◦{{r|歓|くわん}}{{r|喜|ぎ}}{{r|踊|ゆ}}{{r|躍|やく}}の心を以て◦この{{r|書|しよ}}{{r|巻|くわん}}を常に{{r|翫|もてあそ}}び◦読みては読み◦{{r|幾度|いくたび}}も読返して◦善の道の師範とあふぐべきもの也}}
:{{resize|120%|○世界の{{r|実|み}}の無き事をいやしめ{{r|御|おん}}{{r|主|あるじ}} ぜすきりしと を学び奉ること}}
{{resize|120%|{{r|御|おん}}{{r|主|あるじ}}の{{r|宣|のたまは}}く Qui sequitur me, non ambulat in tenebris, sed habebit lumen vitae. Ioan. 8. 我を慕ふ者は{{r|暗|やみ}}{{r|路|ぢ}}を行かず◦たゞ寿命の光を持つべしと也。心の{{r|暗|やみ}}を逃れ◦まことの光を受けんと思ふにをひては◦きりしと の{{r|御|ご}}{{r|行跡|かうせき}}と{{r|御|おん}}{{r|気|かた}}{{r|質|ぎ}}を学び奉れと◦この{{r|御|み}}{{r|言|こと}}{{r|葉|ば}}を以て勧め給ふ也。{{r|然|しか}}る時んば◦きりしと の御行跡の{{r|患難|かんなん}}を◦我等が第一の学問とすべし。きりしと の{{r|御|おん}}{{r|教|をしへ}}は諸々の善人の教に{{r|勝|すぐ}}れ給へり。善の道に立入りたらん人は◦{{r|御|ご}}{{r|教|をしへ}}にこもる不可思議の{{r|甘|かん}}{{r|味|み}}を覚ゆべし。{{r|然|しか}}るに多くの人◦きりしと の{{r|御|み}}{{r|法|のり}}を繁く{{r|聴|ちやう}}{{r|聞|もん}}すれども◦{{r|発|ほつ}}{{r|機|き}}少きことは◦きりしと の{{r|御|ご}}{{r|内|ない}}{{r|証|せう}}に{{r|値|ち}}{{r|遇|ぐう}}し奉らぬ故也。きりしと の{{r|御|み}}言葉を味ひ深く◦達して分別し奉らんと思ふにをひては◦{{r|我|わが}}{{r|身|み}}の{{r|行|ぎやう}}{{r|儀|ぎ}}を◦こと{{gu}}く きりしと に等しくし奉らんと{{r|歎|なげ}}くべし。へりくだる心なきによつて◦ちりんだあでの{{r|御|ご}}{{r|内証|ないせう}}を背き奉るにをひては◦そのちりんだあでの高きおん{{r|理|ことわ}}りを論じても何の益ぞ。まことに媚びたる言葉は◦人を善人にも正しき人にも為さず◦たゞ善の{{r|行|ぎやう}}{{r|儀|ぎ}}こそ◦人を でうす に親しませ奉るものなれ。こんちりさんといふ後悔の{{r|理|ことわ}}りを知るよりも◦このこんちりさんを心に覚ゆる事は◦なほ好ましき事也。びぶりやといふ{{r|尊|たつと}}き{{r|経|きやう}}{{r|文|もん}}の{{r|文|もん}}{{r|句|く}}をこと{{gu}}く{{r|暗|そら}}んじ◦諸々の{{r|学|がく}}{{r|匠|しやう}}の{{r|語|ご}}を皆知りても◦でうす の{{r|御|ご}}{{r|大切|たいせつ}}とその{{r|御|ご}}{{r|合|かふ}}{{r|力|りよく}}なくんば◦これ皆何の益かあらん。でうす {{r|御|ご}}{{r|一体|いつたい}}を大切に思ひ◦仕へ奉るよりほかは◦皆{{r|実|み}}もなき事の中の{{r|実|み}}もなき事也。この世を厭ひて◦天の{{r|御国|おんくに}}に志すこと◦最上の智恵なり。かくの如くある時んば◦{{r|過|すぎ}}{{r|去|さ}}る福徳をたづね求め◦それに頼みをかくる事は◦実もなき事也。位◦誉れを望み歎き◦身をたかぶる事も又◦実もなき事也。骨肉の欲するに任せ◦以後甚だ迷惑すべき事を望むは◦実もなき事也。行儀の正しからん事をば歎かずして◦長命を望むは◦実もなき事也。現在の事をのみ{{r|専|もっぱら}}として◦未来を覚悟せざること実もなき事也。さしも早く{{r|過|すぎ}}{{r|去|さ}}る事に{{r|愛|あい}}{{r|着|ぢやく}}して◦長き楽みのあるところへ急がざる事◦実もなき事也。 Oculus non vidit, nec auris audivit, nec in cor hominis ascendit, quae preparavit Deus his qui diligunt illum. ⅰ. Cor. 2. {{r|眼|まなこ}}は見る事に{{r|明|あ}}かず◦耳は聴くことを以て達せずといへる貴き経文の語を◦常に思出すべし。{{r|然|しか}}る時んば◦目前の事より心を離し◦目に見へざるところに心を移すやうに◦歎くべし。その故は{{r|色身|しきしん}}のみだりに望む事を慕ふ者は◦その身のこんしゑんしやを{{r|汚|けが}}し◦でうす の御加護なるがらさを失ひ奉る也}}
:{{resize|120%|○{{r|内証|ないせう}}の閑談の事}}
{{resize|120%|{{r|御|おん}}{{r|主|あるじ}}の{{r|御|み}}言葉に◦ Regnum Dei intra vos est. Luc. 17. でうす の御国は{{r|汝|なん}}{{r|達|だち}}の{{r|内|うち}}にありと宣ふ也。心より でうす に立帰り奉り◦この{{r|墓|はか}}なき世界を厭ふべし。然らば汝のあにま{{r|寬|くつろ}}ぎを得べし。{{r|外|ほか}}なる事を捨て◦{{r|内|うち}}の事を専らとする道を習ふにをひては◦でうす の{{r|御|み}}{{r|国|くに}}来り給ふを{{r|見|みる}}べし。その故は◦でうす の{{r|御|み}}{{r|国|くに}}は無事とすぴりつ◦さんとよりの喜びなり。是を罪人には与へられず。汝のうちに相応の御{{r|居所|きよしよ}}をととのゆるにをひては◦きりしと 汝に来り給ひ◦御身の喜びを覚えさせ給ふべし。御主の御威光とおんいつくしさは内証にあり◦また◦そこにをひて御感応をなし給ふ也。内証を専らとする{{r|輩|ともがら}}を常に{{r|音信|いんしん}}し給ひ◦{{r|睦|むつま}}しくともに語り給ひ◦感にたへたる喜びを{{r|抱|いだ}}かせ給ひ◦{{r|深甚|じんじん}}なる無事と有難き御懇切を彼に尽し給ふ也。さても二心なきあにま◦この御主汝に来り給ひてともに居住し給ふ様に◦心中を{{r|調|ととの}}へよ。その御言葉に Si quis diligit me, sermonem meum servabit ; et Pater meus diliget eum, et ad eum veniemus, et mansionem apud eum faciemus. Ioan. 4. 我を思ふ者は{{r|我|わが}}言葉を保つべし。又わが御親もその人を思ひ給ひ◦又御親と共に彼に至り◦居住すべしと也。}}
{{resize|120%|かるが故に◦きりしと の御ためには心中に道をあけ◦{{r|余|よ}}にはこと{{gu}}く門を閉ぢよ。きりしと を持ち奉るにをひては◦裕富の身となり◦足んぬすべし。万事について汝を{{r|貢|みつ}}ぎ給ひ◦おん{{r|頼|たの}}{{r|母|も}}しく御才覚を加へ給ふべきに依て◦人の{{r|合|かう}}{{r|力|りよく}}を待つに及ぶべからず。その故は◦人は早く変り◦困窮する事易しといへども◦きりしと は長く届き給ひ◦末まで変動し給ふ事なし。{{r|縱|たとひ}}{{r|得|とく}}ありても又は親しくても◦弱くあだなる人に頼みをかくべき事に非ず。又時として{{r|向|むか}}ふ{{r|指|ざ}}すとなり◦敵といふとも◦深く悼むべき事にあらず。{{r|今日|けふ}}は味方たるものゝ{{r|明日|あす}}は敵となり◦又敵と思ひしものゝ味方となる事もあれば◦風の変るに異らず。かるが故に◦汝の頼みを悉く でうす にかけ奉り◦即ち汝の恐れ奉るべきも◦大切に思ひ奉るべきも◦この君なるべし。御主汝が代りとして答へ給ひ◦汝が為によきやうにとゝのへ給ふべし。こゝには{{r|住|すみ}}{{r|果|は}}つべき住所なし。{{r|何処|いづく}}へ行きても旅人也。{{r|即今|そつこん}}より きりしと に合体し奉らんまでは◦{{r|寬|くつろ}}ぎといふ事あるべからず。こゝは汝の寬ぐべき所にあらざるに◦何に心を{{r|止|とど}}むるぞ。汝の住所は天なれば◦世界の事をば◦たゞ通り行く{{r|路次|ろし}}の如くに見るべき事也。万事は{{r|過|すぎ}}{{r|去|さ}}り◦汝も亦◦共に{{r|過|すぎ}}{{r|行|ゆ}}く也。これらに{{r|繫|け}}{{r|縛|ばく}}せられ亡ぼさるまじき為に◦彼に執着する事勿れ。汝の念慮をば高く上げ◦汝のおらしよをば{{r|絶|たえ}}ず きりしと へ捧げ奉るべし。天上の幽玄なる事を工夫する{{r|様|やう}}を知らずんば◦ぜすきりしと の{{r|御|ご}}ぱしよんに心を{{r|止|とど}}め◦{{r|尊|たつと}}き{{r|御傷|おんきづ}}に安住して◦そこを心の{{r|栖|すみ}}{{r|家|か}}とせよ。その故はかの価高き奇妙なる御傷に◦信心を以て近付き奉るにをひては◦難儀の時節◦大きなる力を{{r|得|え}}◦人のいやしむ事をも何とも思はず◦悪口する者の言葉をもたやすく堪忍すべし。ぜすきりしと も世界にをひて賤しめられ給ひ◦御難儀を凌がせられ◦人よりいやしめられ給ふに◦汝は何を{{r|述懐|しゆつくわい}}するぞ。きりしと は御身を{{r|嘲|あざけ}}り{{r|敵|てき}}{{r|対|た}}ふ者を持給ひしに◦汝は万民を味方となし◦諸人よりほめあがめられたく思ふや。{{r|敵|てき}}{{r|対|た}}ふ事いさゝかもなくば◦何を以てか堪忍のかむりを与へらるべきぞ。きりしと に対し奉りて{{r|敵|てき}}{{r|対|た}}ふ事を凌がずんば◦何を以てか きりしと の{{r|御|ご}}{{r|知|ち}}{{r|音|いん}}とはなり奉るべき◦きりしと ともに{{r|御代|みよ}}を保たんと思ふにをひては◦きりしと に対し奉りて◦諸共に難儀を忍ぶべし。たゞ一度なりとも◦ぜすきりしと の御内証に◦達して{{r|昵近|じつきん}}にし奉り◦その燃立ち給ふ御大切を{{r|些|いささ}}かも味ひ奉るにをひては◦汝の損徳に拘はる事なく◦却て人より恥辱をしかけらるゝなほ喜ぶべし。その故は◦ぜすゝ の御大切は、我と身をいやしめさせ給ふもの也。ぜすきりしと を真実に思ひ奉り◦妄執を離れて自由解脱に至りたる者は◦妨げなく でうす に{{r|逢|ぶ}}{{r|着|ぢやく}}し奉り◦善の催しによつて我と身を忘れ◦念慮を天に通じ◦甘味に{{r|貪|とん}}じて でうす に寬ぎ奉る事叶ふべし。万事を人の思ひさたする如くにはあらずして◦たゞありのまゝに知覚する{{r|輩|ともがら}}は◦まことの智者也。これ人の指南にあらず◦でうす より{{r|直|ぢき}}に教へられ奉る人也。心中に{{r|閉|とぢ}}こもり◦外なる事をないがしろにする道を知る者は◦信心の所作を勉むる為に◦所がらをも又時節をも選ばぬ也。内証に立入りたる人は◦外の事に全く心を散らす事なきが故に◦たやすく心中に引こもるもの也。肝要なる時は◦外の辛労も故障も妨げとならず◦たゞ物に応じ時に従つて{{r|変|へん}}{{r|化|げ}}する也。内心を丈夫にをさめ◦すはりたる者は◦変り易く{{r|奸|かん}}{{r|曲|きよく}}なる{{r|人間|にんげん}}{{r|気|き}}には{{r|拘|かかは}}らぬ也。外の事は身に{{r|寄付|よせつく}}る程心を散らし◦身の妨げとなる也。心正直に{{r|直|すぐ}}ならば◦万事は{{r|吉|きち}}{{r|事|じ}}となり◦{{r|得|とく}}と変ずべし。さりながら種々の気ざかひなる事◦心を乱す事の多きは。未だ汝の身に達して死せず◦世界の事に離れざる故也。{{r|御|ご}}{{r|作|さく}}の物に{{r|妄|みだり}}に{{r|執着|しゆうぢやく}}する程◦心を{{r|汚|けが}}し{{r|繫|け}}{{r|縛|ばく}}せらるゝ事なし。色身の{{r|墓|はか}}なき慰みを嫌ふにをひては◦さい{{ku}}天の御事を思案し奉り◦あにまの喜びに楽しむべき事◦叶ふべき者也}}
:{{resize|120%|○{{r|清浄|しやうじやう}}なる心と{{r|偏|ひとえ}}なる{{r|心|こゝろ}}{{r|宛|あて}}の事}}
{{resize|120%|人は二ツの翼を以て◦世界の事より{{r|飛上|とびあが}}るものなり。それといふは◦{{r|正|しやう}}{{r|直|ぢき}}なることと{{r|潔|いさぎよ}}きこと也。正直なる事は{{r|心|こゝろ}}{{r|宛|あて}}にあり◦{{r|潔|いさぎよ}}きことは好む所にあるべき也。正直なる心は でうす に{{r|眼|まなこ}}をつけ奉り{{r|潔|いさぎよ}}き{{r|心|こゝろ}}{{r|宛|あて}}を以て{{r|懐|いだき}}{{r|付|つ}}き味ひ奉る也。{{r|心|しん}}{{r|中|ぢゆう}}にをひて◦{{r|萬|よろ}}づの{{r|妄|まう}}{{r|執|しゆう}}を全く切断したるにをひては◦何たる{{r|善|ぜん}}{{r|作|さ}}も妨げとなることあるべからず。でうす の{{r|御|ご}}{{r|内証|ないせう}}に{{r|叶|かな}}ひ奉ること◦人の徳になる事より外を◦歎かず尋ねざるにをひては◦心中自由にあるべき也。汝の心すぐならば◦あるしきの御作のものは◦皆行儀の鏡◦{{r|尊|たつと}}き{{r|御|おん}}{{r|教|をしへ}}の経文となるべし。いかに小さく下賤なる御作のもの也とも◦でうす の御善徳を現し奉らぬはなし。汝の心善にして{{r|清浄|しやうじやう}}ならば◦{{r|何|なん}}の障りもなく万事よき{{r|方|かた}}に思ひとるべし。{{r|潔|いさぎよ}}き心は◦天をもいんへるのをも抜け通る也。面々の{{r|内証|ないせう}}の善徳に従つて◦世のものゝ上をも察する也。世界にをひて{{r|頼|たの}}{{r|母|も}}しといふ事あらば◦心の清き人之を持つ也。{{r|若|もし}}又汝◦{{r|心|こころ}}{{r|苦|ぐる}}しき事みちたる所ありと言はゞ◦心の悪しき人之を覚ゆる也。{{r|黒金|くろがね}}は火中にてその錆を落し{{r|輝|かがや}}く如く◦でうす に全く立帰り奉る人は◦ぬるき心はなれ◦新しき人に成変る也。人ぬるくなり始むる時は◦わづかの辛労を恐れ◦世界の喜びにうつらふ也。然りといへども◦達して{{r|我|わが}}{{r|身|み}}に克ち◦でうす の御奉公に精進になり始むる時は◦以前かたく思ひし事も◦たやすく覚ゆるもの也}}
:{{resize|120%|○智恵を{{r|明|あき}}らめ給はん為のおらしよの事}}
{{resize|120%|いかに ぜすきりしと 量りなき御光明の{{r|光|くわう}}{{r|曜|よう}}を以て◦わが心を{{r|明|あき}}らめ◦心の{{r|暗|やみ}}を{{r|輝|てら}}し給へ。妄想の散乱する事を払ひ給ひ◦我を責むるてんたさんの{{r|障|しやう}}{{r|礙|がい}}を滅し給へ。{{r|我|わが}}味方となり給ひて◦強く戦ひ給へ。{{r|獣|けだもの}}となる{{r|撫|ぶ}}{{r|育|いく}}の{{r|病|やまふ}}を従へ給へ。これ即ち{{r|御|おん}}力を以て無事を{{r|得|え}}◦{{r|尊|たつと}}き{{r|御|ご}}{{r|殿宅|でんたく}}となり清き心を以て御身を{{r|尊|たふと}}み奉る声をひゞかすべきため也。風波に御下知を為されよ。又大海に静まれと宣へ。又北風に吹く勿れと御下知なされよ。然らば即ち{{r|謐|しづ}}まるべし。御光りとまことを下し給ひて◦{{r|地|ち}}{{r|上|じよう}}を{{r|輝|かがや}}かし給へ。その故はおん身我を輝かし給はぬ間は◦我はたゞ{{r|益|やく}}なく空虚なり◦土なり。御身のがらさを上より下し給ひ◦{{r|我|わが}}心を強め◦{{r|勝|すぐ}}れてよき身を生ずべき為に地上を潤し◦信心を起し給へ。終りなき{{r|娛|ご}}{{r|楽|らく}}の甘露を{{r|甞|な}}めて◦現世の事の思案等を気苦しく思ふやうに◦{{r|罪科|つみとが}}の重荷をせおひたるあにまを引上げ給ひて◦{{r|我|わが}}望みを全く天の事につけ給へ。{{r|御|ご}}{{r|作|さく}}のものより来るほどの{{r|過|すぎ}}{{r|去|さ}}る喜びを◦我より引離し給へ◦その故が何たる御作のものも◦わが望みを達して{{r|寬|くつろ}}げ喜ばする事叶はず。解けがたき御大切の結びを以て◦御身に{{r|値|ち}}{{r|遇|ぐう}}させ給へ◦その故は御身{{r|御|ご}}{{r|一体|いつたい}}のみ思ひ奉る人の為に◦満足なり給ひ◦御身{{r|在|まし}}まさずしては◦万事も味なく益なし}}
:{{resize|120%|○{{r|実|み}}もなき世間の学問に対する心持の事}}
{{resize|120%|いかに子◦人間の面白くこびて連ねたる言葉に心を{{r|靡|なび}}くる事勿れ。その故は◦でうす の{{r|御|み}}{{r|国|くに}}は言葉にはなし◦たゞ善徳にあり。人の心を燃立たせ◦あにまを明らめ◦{{r|科|とが}}を悔い悲ませ◦誠の心の喜びを起す{{r|我|わが}}言葉を観ぜよ。学匠なりと見らるべき為に物を読む事なかれ。たゞ悪の根を切るべき道を修行せよ。その故は◦多くの{{r|問難|もんなん}}を{{r|知明|しりあき}}らめたるよりも◦これはなほ徳となるべし。多くの{{r|理|ことわ}}りを{{r|読誦|どくじゆ}}し{{r|識得|しきとく}}したらん時◦一ツの{{r|根本|こんぽん}}に立帰る事肝要也。我は人に学問を教へ◦人間の教ゆる事叶はざる明らかなる智慧を◦初心の者になほ与ゆる也。我より語りきかする者は即ち智識となり◦速かに善道に先へ行く也。でうす に{{r|仕|つか}}へ奉る道を心懸ずして◦{{r|当時|そのとき}}面白く消ゆる事をのみ好み◦人より習はんとする者は◦{{r|不|ふ}}{{r|便|びん}}なる事哉。諸々の師匠の師匠◦諸々のあんじよの御主にて在ます ぜすきりしと 面々の稽古◦学問の程を聞き給はん為にまみへ給ふ時節◦到来すべし。それと云ば◦人々のこんしゑんしやと{{r|行跡|かうせき}}を{{r|糺明|きうめい}}し給ひ◦又{{r|蠟燭|らうそく}}をともして◦いゑるされんとなる人の心中を訪ね探り給ふ時◦来るべきもの也。{{r|暗|やみ}}に隠れたる事も皆現れ◦諸人の問難皆口を閉づべし。我は{{r|謙|へりくだ}}りたる人の智恵を引上げ◦学校にて十年習ひたる学徳よりも◦刹那のうちに終りなきまことの道と学問を◦{{r|弁|わきま}}へさする也。我は言葉の音なく◦異説の心々なる乱れもなく◦我慢の規則もなく◦{{r|諍|じやう}}{{r|論|ろん}}の問難もいらずして教ゆる也。我は土の事を卑め◦現世の事を嫌ひ◦終りなき事を尋ね◦終りなき事をあまなひ◦{{r|誉|ほま}}れを逃げ◦妨げを凌ぎ◦全く我に頼みをかけ◦我より外何も望まず◦燃立つ心を以て万事に越へ◦我を大切に思ふ道を教ゆる也。その故は◦或人は◦我を{{r|発端|ほつたん}}より大切に思ふを以て◦妙なる理りを習ひ◦幽玄なる理りを学問するよりも◦万事を捨つるを以て◦なほ智徳を得さする也。或人には常の事を語り聞かせ◦或人には一かどなる事を言ひ聞かせ◦又人によりては{{r|仮|け}}{{r|相|さう}}のしるべ{{r|瑞|ずい}}{{r|験|げん}}を以て面白く現じ◦或人には隠れて深き{{r|理|ことは}}りを明かに{{r|告|つげ}}{{r|知|し}}らする也。{{r|経|きやう}}には同じ{{r|理|ことは}}りを{{r|書|か}}き{{r|顕|あらは}}はすといへども◦人に示す所は同じからず。その故は我は{{r|内証|ないせう}}のまことの{{r|教|をしへ}}{{r|手|て}}◦人の心の{{r|探|さぐり}}{{r|手|て}}◦{{r|正|しやう}}{{r|念|ねん}}の{{r|知|しり}}{{r|手|て}}◦所作の{{r|動|うごかし}}{{r|手|て}}◦面々の{{r|功|く}}{{r|力|りき}}に相当する分量を{{r|正|たゞ}}し{{r|明|あき}}らめ◦それに従て配当する者也}}
:{{resize|120%|○信心を以て{{r|尊|たつと}}きゑうかりすちやを申受け}}
::{{resize|120%|来る道を教へ給へと頼み奉る事}}
{{resize|120%|いかに御主◦御身の{{r|御|おん}}{{r|位|くらゐ}}とわが卑しさを思案いたす時は◦大きに{{r|振|ふる}}ひ◦{{r|詮方|せんかた}}なく赤面し奉る也。近付き申さゞれば命の源を逃げ◦又{{r|功|く}}{{r|力|りき}}に及ばぬ身として近付き奉れば◦罪に落る也。{{r|然|しか}}れば御身は{{r|我|わが}}{{r|御|ご}}{{r|合|かう}}{{r|力|りよく}}の為され手◦時に臨んでの御意見者にて在ませば◦何と{{r|仕|つかまつ}}りて然るべからんか。{{r|直|すぐ}}なる道を我に教へ給へ。ゑうかりすちやを申受け奉る為に◦似合の勤めを教へ給へ。その故はわが息災となる様に◦{{r|御|おん}}{{r|身|み}}のさからめんとを◦信心うやまひを以てとり行ひ奉る為に◦{{r|我|わが}}心を何と{{r|調|ととの}}へ奉らんかを知ること◦最も肝要也}}
== 脚注 ==
巻末附録「第三 欧語抄」 より
:○あにま Anima 「たましひ」 霊魂
:○あんじよ Anjo 「天人」 天神
:○いゑるされん Hierusalem 地名
:○いんへるの Inferno 「地獄」
:○ゑうかりすちや Eucharistia 「最上不思議のさからめんと」聖体、至聖秘蹟
:○おらしよ Oratio 祈念、経
:○がらさ graça 聖寵
:○こんしゑんしや Consciencia 良心
:○こんちりさん Contrição 痛悔
:○こんぱにや Companhia 門派
:○さからめんと Sacramento 秘蹟
:○すぴりつさんと Spiritus Sanctus, Espiritu Santo, Espirito Santo 聖神
:○すぺるおうれす Superiores 長老衆
:○ぜすゝ きりしと Jesu Christo
:○ちりんだあで Trindade 三位一体
:○でうす Deus 「真の主」「天主」「天帝」
:○てんたさん Tentação 誘惑
:○ぱしよん Passio, Paixão 受難
:○びぶりや Biblia 聖書
:○らちん Latim 拉丁語
巻末附録「第四 聖書引用句索引」 より
:○111頁 6行以下 約 8章12節
:○113頁 8行以下 哥前 2章 9節
:○114頁 3行以下 路 17章21節
:○115頁 3行以下 約 14章23節
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鳩の書
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村田ラジオ
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*底本: A.J. Wensinck, "Bar Hebraeus's ''Book of the Dove'' together with some chapters from his ''Ethikon''". 1919(ENGLISH FROM SYRIAC)
*ウィキソースによる日本語訳
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==目次==
*[[/はじめに|はじめに]]
*コンテンツ
*参照
*Introduction
=== 鳩の書 ===
*[[/序文|序文]] . . . . . . . . . . . . 3
*第1章 修道院での肉体的奉仕について. . . . . . 5
**[[/第1章/§1|§1]] 人が世の中に対して疎遠になることについて. . . 5
**[[/第1章/§2|§2]] 悔い改めについて. . . . . . . . . 6
**[[/第1章/§3|§3]] 放棄について. . . . . . . . . . . . 7
**[[/第1章/§4|§4]] 謙虚さについて. . . . . . . . . . . 8
**[[/第1章/§5|§5]] 忍耐について. . . . . . . . . . . . 9
**[[/第1章/§6|§6]] 兄弟愛について. . . . . . . . . . . 10
**[[/第1章/§7|§7]] 口が語る悪意について. . . . . . . . . 11
**[[/第1章/§8|§8]] 初心者が後ろ向きになることについて. . . 15
**[[/第1章/§9|§9]] 初心者の進路を導くことについて. . . . . . 16
**[[/第1章/§10|§10]] [良い]方向の印について. . . . . . . . . 18
*第2章 居室内で行われる霊的奉仕について. . . . . . 19
**[[/第2章/§1|§1]] 居室内での義務について. . . . . . . . . 19
**[[/第2章/§2|§2]] 孤独について. . . . . . . . . . . . 20
**[[/第2章/§3|§3]] 四つの修行について:祈り、祈願、朗誦、瞑想 . . . 22
**[[/第2章/§4|§4]] 典礼的な祈りと時間の区分について . . . 23
**[[/第2章/§5|§5]] 儀式的な祈りと時刻の区分について . . . 25
**[[/第2章/§6|§6]] 詩篇の朗読と徹夜祈祷について . . . 27
**[[/第2章/§7|§7]] 肉体労働について . . . . . . 28
**[[/第2章/§8|§8]] 外国に留まることについて . . . . 30
**[[/第2章/§9|§9]] 邪悪な情熱について . . . . . . 32
**[[/第2章/§10|§10]] 善良な資質について . . . . . . 40
*第3章 完璧な霊的安息について . . . . . . 46
**[[/第3章/§1|§1]] 完全性への傾向の始まりについて . . . . 46
**[[/第3章/§2|§2]] 完全性への傾向の進行について . . . 47
**[[/第3章/§3|§3]] 完全性への最終的な傾向について . . . 48
**[[/第3章/§4|§4]] 精神の統一について . . . . . . 49
**[[/第3章/§5|§5]] 愛の原因について . . . . . . 51
**[[/第3章/§6|§6]] 知識の喜びについて . . . . . . 52
**[[/第3章/§7|§7]] 神への愛の増大について . . . 53
**[[/第3章/§8|§8]] 神への知識について . . . . . 54
**[[/第3章/§9|§9]] 完了状態が経験しなければならない様々な状態について . . . 56
**[[/第3章/§10|§10]] 完了状態からの没落について . . . 58
*[[/第4章|第4章]] 著者の教えの進歩と、啓示の中で彼に伝えられたいくつかの文章についての物語. . . . . . 60
*''ETHIKON'', Book IV, Chapter XV. On the love of God . . . . 85
*Book I, Chapter V. On music. . . . . . . . . . . . . . . 118
————————————
目録/終わり
== 出典 ==
*底本: A.J. Wensinck, [https://ia601606.us.archive.org/26/items/barhebraeussbook00barh/barhebraeussbook00barh_bw.pdf "Bar Hebraeus's ''Book of the Dove'' together with some chapters from his ''Ethikon''"]. 1919(ENGLISH FROM SYRIAC)
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[[Category:1919年]]
[[Category:キリスト教]]
[[Category:キリスト教神学]]
[[Category:鳩の書|*]]
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蜂の書
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村田ラジオ
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*底本: Earnest A. Wallis Budge, "The Book of the Bee". Oxford, the Clarendon Press, 1886(ENGLISH FROM SYRIAC)
*ウィキソースによる日本語訳
}}
==目次==
*[[/タイトルページ|タイトルページ]]
*[[/はじめに|はじめに]]
===蜂の書===
*[[/序文|序文]]
:::(第1部)
*[[/第1章|第1章]] - 宇宙創造に関する神の永遠の意図について
*[[/第2章|第2章]] - 沈黙の中の七つの性質(実体)の創造について
*[[/第3章|第3章]] - 土、水、空気、火について
*[[/第4章|第4章]] - 天について
*[[/第5章|第5章]] - 天使たちについて
*[[/第6章|第6章]] - 闇について
*[[/第7章|第7章]] - 発散した(周囲の)光について
*[[/第8章|第8章]] - 大空について
*[[/第9章|第9章]] - 木や植物の創造、そして海や川の創造について
*[[/第10章|第10章]] - 輝きの誕生について
*[[/第11章|第11章]] - 海の怪物、魚、鳥、そして海に住む爬虫類の創造について
*[[/第12章|第12章]] - 獣と動物の創造について
*[[/第13章|第13章]] - アダムの形成について
*[[/第14章|第14章]] - エバの誕生について
*[[/第15章|第15章]] - 楽園について
*[[/第16章|第16章]] - アダムの罪について
*[[/第17章|第17章]] - アダムとエバの楽園からの追放について
*[[/第18章|第18章]] - アダムがエバを知ったことについて
*[[/第19章|第19章]] - 鉄加工用器具の発明について
*[[/第20章|第20章]] - ノアと洪水について
*[[/第21章|第21章]] - メルキゼデクについて
*[[/第22章|第22章]] - ノアの世代について
*[[/第23章|第23章]] - 洪水から現在までの世代の継承について
*[[/第24章|第24章]] - 塔の建設について
*[[/第25章|第25章]] - アブラハムについて
*[[/第26章|第26章]] - ヨブの誘惑について
*[[/第27章|第27章]] - イサクがヤコブに与えた祝福について
*[[/第28章|第28章]] - ヨセフについて
*[[/第29章|第29章]] - モーセとイスラエルの民について
*[[/第30章|第30章]] - モーセの杖について
*[[/第31章|第31章]] - ヌンの子ヨシュアについて、またイスラエルの子らの歴代の士師と王たちの記録
*[[/第32章|第32章]] - 預言者たちの死について:彼らはどのように亡くなり、それぞれどこに埋葬されたのか
:::(第2部)
*[[/第33章|第33章]] - メシア世代について
*[[/第34章|第34章]] - マリアに関するヨナキル(ヨアキム)への天使の受胎告知について
*[[/第35章|第35章]] - ガブリエルによるマリアへの主の受胎の告知について
*[[/第36章|第36章]] - 主が肉体を持って誕生したことについて
*[[/第37章|第37章]] - 我らの主に関するザラドシュトの預言
*[[/第38章|第38章]] - 主の誕生の日に東に現れた星について
*[[/第39章|第39章]] - ペルシャからの東方の三博士の到来について
*[[/第40章|第40章]] - 我らの主がエジプトに下って行かれたことについて
*[[/第41章|第41章]] - 洗礼者ヨハネと主の洗礼について
*[[/第42章|第42章]] - 主の断食について、そして主が悪魔と戦った戦いについて
*[[/第43章|第43章]] - 主の過越祭について
*[[/第44章|第44章]] - 主の受難について
*[[/第45章|第45章]] - 主の復活について
*[[/第46章|第46章]] - 主の昇天について
*[[/第47章|第47章]] - 上階の部屋における使徒たちへの聖霊降臨について
*[[/第48章|第48章]] - 使徒たちの教え、それぞれの居場所、そして死について
*[[/第49章|第49章]] - 使徒たちの名前の順序
*[[/第50章|第50章]] - いくつかの些細な事柄について
*[[/第51章|第51章]] - アッシリア東方総主教の名前と彼らが埋葬された場所について
*[[/第52章|第52章]] - 大洪水から現在まで世界を統治してきた王たちの名前
*[[/第53章|第53章]] - 終末と王国の交代について
*[[/第54章|第54章]] - 北に捕らえられたゴグとマゴグについて
*[[/第55章|第55章]] - 反キリスト、滅びの子の到来について
*[[/第56章|第56章]] - 死と魂の肉体からの離脱について
*[[/第57章|第57章]] - 生命の活性化と一般的な復活、物質世界の完成と新世界の始まりについて
*[[/第58章|第58章]] - 復活の日に人々が立ち上がる様子と状態について
*[[/第59章|第59章]] - 義人の幸福と罪人の苦しみ、そして彼らがそこでどのような状態にあるか
*[[/第60章|第60章]] - ゲヘナの罪人や悪魔たちは、拷問と苦しみと罰を受けた後、慈悲を示されるのでしょうか。また、もし慈悲が示されるとしたら、それはいつでしょうか。
目録/終わり
==出典==
*[https://www.sacred-texts.com/chr/bb/ The Book of the Bee edited and translated by Earnest A. Wallis Budge, M.A.] Sacred-Texts Christianity
*[https://ia600706.us.archive.org/17/items/bookofbee00solo/bookofbee00solo.pdf THE BOOK OF THE BEE EDITED BY ERNEST A. WALLIS BUDGE, M. A.] Digitized by the Internet Archive in 2019 with funding from Princeton Theological Seminary Library
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Solomon of Ahlat, Earnest A. Wallis Budge, "The Book of the Bee" を翻訳。
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