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| notes =革命歌の一つ。ソビエト連邦の国歌でもあった。原文はフランス語 ({{lang|fr|L’Internationale}})。
}}
== 小塚空谷による訳詞 ==
1903年制作。
* 単なる詞として訳されたものであり、曲に沿って唄うことを想定したものではない。
== [[w:小牧近江|小牧近江]]・[[w:佐々木孝丸|佐々木孝丸]]による訳詞 ==
1922年制作。
*最後に没した佐々木孝丸の没年が1986年であり、日本の著作権法では2056年まで、同米国では2024年まで権利が存続しているため、掲載を控えた。
== [[w:佐々木孝丸|佐々木孝丸]]・[[w:佐野碩|佐野碩]]による訳詞 ==
1929年制作。
*最後に没した佐々木孝丸の没年が1986年であり、日本の著作権法では2056年まで、同米国では2024年まで権利が存続しているため、掲載を控えた。
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== 小塚空谷による訳詞 ==
1903年制作。
* 単なる詞として訳されたものであり、曲に沿って唄うことを想定したものではない。
== [[w:小牧近江|小牧近江]]・[[w:佐々木孝丸|佐々木孝丸]]による訳詞 ==
1922年制作。
*最後に没した佐々木孝丸の没年が1986年であり、日本の著作権法では2056年まで、同米国では2024年まで権利が存続しているため、掲載を控えた。
== [[w:佐々木孝丸|佐々木孝丸]]・[[w:佐野碩|佐野碩]]による訳詞 ==
1929年制作。
*最後に没した佐々木孝丸の没年が1986年であり、日本の著作権法では2056年まで、同米国では2024年まで権利が存続しているため、掲載を控えた。
== 伊藤龍樹訳 ==
* ウィキソース利用者の伊藤龍樹による、ウィキソース独自の訳。
;1.
:起て、地に伏す者よ 起て、飢えたる者
:{{ruby|理|ことわり}}轟きて 噴炎を上ぐ
:過去を叩きのめせ 奴隷たちよ
:起て 世を覆せ 不可能の在れや
::最終闘争 団結せよ 連帯こそは 普遍なれ
::最終闘争 団結せよ インターナショナル 永遠なれ
;2.
:救い主、神、皇帝、煽動家は去れ
:造り手 身を護れ 底辺よ叫べ
:盗人の財吐かせ 救え監獄の{{ruby|魂|たま}}
:我らの{{ruby|鞴|たたら}}吹け 鉄は熱いうちに打て
::最終闘争 団結せよ 連帯こそは 普遍なれ
::最終闘争 団結せよ インターナショナル 永遠なれ
;3.
:国は諸悪に満ち 血税を奪う
:義務、富裕層になく 権利、貧者になし
:平等は新しき法を要求する
:義務なき権利なく 権利なき義務なし
::最終闘争 団結せよ 連帯こそは 普遍なれ
::最終闘争 団結せよ インターナショナル 永遠なれ
;4.
:醜悪極まれり 産業の王らの
:労働の搾取のほか 何をか成せり
:連帯の金庫の許 製品融け合いて
:返却の布告せば 己を勝ち得ん
::最終闘争 団結せよ 連帯こそは 普遍なれ
::最終闘争 団結せよ インターナショナル 永遠なれ
;5.
:我等に平和あれ 暴君に戦乱あれ!
:兵役をば拒否せよ 階級打破だ!
:生血啜る者の 執着の在らば
:英霊の{{ruby|魂|たま}}となりて 玉と砕けん
::最終闘争 団結せよ 連帯こそは 普遍なれ
::最終闘争 団結せよ インターナショナル 永遠なれ
;6.
:働く者を統べ 徒党の人となれ
:大地は人間のもの 有閑者失せよ
:我等、肉の犠牲ぞ {{ruby|幾許|いくばく}}なれど
:鴉消ゆる明日には 太陽輝かん
::最終闘争 団結せよ 連帯こそは 普遍なれ
::最終闘争 団結せよ インターナショナル 永遠なれ
{{スタブ}}
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[[Category:国歌]]
[[Category:フランスの文学]]
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シリヤの聖イサアク全書
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2026-10-20T21:00:25Z
村田ラジオ
14210
関連項目
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{{header
| title = シリヤの聖イサアク全書
| section =
| year = 1909
| 年 = 明治四十二
| override_author = [[作者:シリアのイサアク|シリアのイサアク]] (7世紀)
| override_translator = [[作者:堀江復|堀江 {{r|復|ふく}}]]( -1914)
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| notes =
*底本: 堀江復 訳『シリヤの聖イサアク全書』,正教会編輯局,明42.8. {{NDLJP|824593}}
}}
== 目録 ==
=== 苦行的説教 ===
[[シリヤの聖イサアク全書/第一説教|第一説教]] {{r|世|よ}}を{{r|棄|す}}つる事及び修道士の生涯 / 1p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二説教|第二説教]] 神に感謝すること{{r|並|ならび}}に初等の{{r|教|おしえ}}の{{r|簡短|かんたん}}なる説明。 / 11p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三説教|第三説教]] 霊魂は{{r|世|よ}}と{{r|世慮|せいりょ}}に遠ざかりて沈黙するならば神の叡智と神の造物を{{r|易|たやす}}く認識するに至らんけだし{{r|其時|そのとき}}は己の性と己の内部に隠るる宝とを認識するを得るなり。 / 22p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四説教|第四説教]] 霊魂の事慾の事及び智の浄潔の事に{{r|就|つい}}ての問答。 / 25p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五説教|第五説教]] 感覚の事{{r|併|あわせ}}て誘惑の事。 / 33p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六説教|第六説教]] 主宰が尊威の高きより人間の弱きに{{r|降|くだ}}し{{r|給|たま}}ふ仁慈の事及び誘惑の事。 / 41p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七説教|第七説教]] 自由なる罪と自由ならざる罪の事、及び場合に依り犯す罪の事。 / 45p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八説教|第八説教]] 衰弱して怠慢なる人々より己を守りて自省すべき事、彼等と親むにより怠慢と衰弱が人に主となりて、種種なる不潔の慾に充たさるる事、放蕩なる思念を以て心を汚されざらんが{{r|為|ため}}少年と近づくより己を守るべき事。 / 50p
[[シリヤの聖イサアク全書/第九説教|第九説教]] 新進修道士の秩序、及び規則、及び彼等に適当なる行為の事。 / 60p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十説教|第十説教]] 聖なる人々の記事、及び彼等が聖なる訓言と奇異なる生涯。 / 65p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十一説教|第十一説教]] 高老なる老人の事。 / 67p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十二説教|第十二説教]] 他の老人の事 / 70p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十三説教|第十三説教]] {{r|或|ある}}{{r|兄弟|けいてい}}の問。 / 72p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十四説教|第十四説教]] {{r|詰責|きっせき}}を受けたる{{r|一兄弟|いちけいてい}}の事。 / 74p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十五説教|第十五説教]] 第十五説教 黙想の種々なる卓越の事、{{r|智|ち}}の{{r|権|けん}}の事、及び{{r|祈祷|きとう}}の各種類に対して智は{{r|其|その}}活動を起すに{{r|幾何|いくばく}}{{r|権|けん}}あるか、{{r|祈祷|きとう}}には如何なる{{r|界限|かいげん}}を天然に与へらるるか、汝は如何なる{{r|界限|かいげん}}{{r|迄|まで}}{{r|祈祷|きとう}}を以て{{r|願|ねが}}ふの{{r|権|けん}}あるか、{{r|其|その}}{{r|界限|かいげん}}を{{r|越|こ}}ゆれば汝が{{r|行|おこな}}ふ所は{{r|祈祷|きとう}}と{{r|名|な}}づけらるると{{r|雖|いえど}}も{{r|最早|もはや}}{{r|祈祷|きとう}}には{{r|非|あら}}ざる事。 / 81p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十六説教|第十六説教]] {{r|清潔|せいけつ}}なる{{r|祈祷|きとう}}。 / 82p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十七説教|第十七説教]] 物の記憶を以て喚起せらるる肉体の念を離れて深く直覚に入らんを{{r|尋|たず}}ぬる霊魂の{{r|仮定|かてい}}。 / 92p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十八説教|第十八説教]] 無形体なる者の本性を観察するに{{r|就|つい}}て問答。 / 98p
[[シリヤの聖イサアク全書/第十九説教|第十九説教]] {{r|主日|しゅじつ}}の事及び「スボタ」の事に関する理論の標準及び{{r|其|その}}比喩的意義。 / 105p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十説教|第二十説教]] 常に{{r|庵中|あんちゅう}}に居りて独り己を省みんと決心せし者に{{r|最|もっとも}}必要にして{{r|最|もっとも}}有益なる日々の想起。 / 109p
第二十一説教 {{r|種々|しゅじゅ}}なる事項に{{r|就|つい}}ての問答。 / 111p
:[[シリヤの聖イサアク全書/第二十一説教の一|第二十一説教の一]] / 111p
:[[シリヤの聖イサアク全書/第二十一説教の二|第二十一説教の二]] / 122p
:[[シリヤの聖イサアク全書/第二十一説教の三|第二十一説教の三]] / 129p
:[[シリヤの聖イサアク全書/第二十一説教の四|第二十一説教の四]] / 142p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十二説教|第二十二説教]] {{r|試|し}}{{r|惑|わく}}を恐るる身体は罪の友となる。 / 150p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十三説教|第二十三説教]] 黙想を愛する{{r|一兄弟|いちけいてい}}に{{r|遣|つかわ}}す書。 / 152p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十四説教|第二十四説教]] 同胞にして同教なる{{r|兄弟|けいてい}}に{{r|遣|つかわ}}す書。彼は世に居りてイサアクに{{r|遇|あ}}はんと欲し、{{r|其|その}}{{r|来|きた}}らんことを{{r|書|しょ}}を{{r|以|もっ}}て{{r|勤|つと}}め{{r|且|かつ}}{{r|懇願|こんがん}}したるによる。 / 159p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十五説教|第二十五説教]] 知識の{{r|三|みつ}}の方法の事、{{r|其|その}}作用と{{r|其|その}}意味の同じからざる事、心の信仰の事、信仰に{{r|隠|かく}}るる{{r|奥密|おうみつ}}なる{{r|富|とみ}}の事、{{r|此世|このよ}}の知識は{{r|其|その}}方法に{{r|於|おい}}て信仰の{{r|正直|せいちょく}}{{r|明白|めいはく}}と{{r|幾|いく}}ばく{{r|差異|さい}}ある事。 / 161p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十六説教|第二十六説教]] 知識の第一階級。 / 171p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十七説教|第二十七説教]] 知識の第二階級。 / 175p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十八説教|第二十八説教]] 知識の第三階級、{{r|即|すなわち}}完全の階級。 / 176p
[[シリヤの聖イサアク全書/第二十九説教|第二十九説教]] 知識の他の方法と{{r|其|その}}種々なる意味。 / 181p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十説教|第三十説教]] 祈祷の状態の事、及び{{r|其他|そのた}}読者が小心に守るならは、不断の記憶の為に必要にして多くの関係に有益なる者の事。 / 183p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十一説教|第三十一説教]] 遁世的生活の事、及び我等は{{r|畏|おそ}}れず{{r|驚|おどろ}}かず神に依頼して心を{{r|堅|かた}}むべく、確たる信仰を以て勇気なるべし、何となれば神を看守者と{{r|為|な}}し守護者と{{r|為|な}}せばなり。 / 191p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十二説教|第三十二説教]] 心中内部の{{r|奥密|おうみつ}}なる{{r|儆醒|けいせい}}は{{r|如何|いかん}}して守らるるか{{r|嗜眠|しみん}}と冷淡は{{r|何処|いづこ}}より心中に{{r|来|きた}}りて聖なる熱愛を{{r|霊底|れいてい}}に消し、霊界天上の事に熱心する精神を{{r|奪|うば}}ふて神に{{r|向|むか}}ふを{{r|減殺|げんさい}}するか。 / 196p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十三説教|第三十三説教]] 心中に{{r|続生|ぞくせい}}し、祈祷を{{r|以|もっ}}て試みらるる多くの変化の事。 / 200p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十四説教|第三十四説教]] 神に近づきて生存し、認識の生活にて日を送る事。 / 202p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十五説教|第三十五説教]] 世に服従する事。 / 205p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十六説教|第三十六説教]] {{r|或|あ}}る{{r|顕然|けんぜん}}なる{{r|奇徴|きちょう}}を己の手に有せんことを必要なくして願ひ{{r|且|かつ}}求むべからざる事。 / 210p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十七説教|第三十七説教]] 神は{{r|何故|なにゆえ}}神を愛する者に誘惑を放任するか。 / 214p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十八説教|第三十八説教]] 人に{{r|起|おこ}}る所の{{r|念頭|ねんとう}}により{{r|如何|いか}}なる階級にあるを察知すべし。 / 217p
[[シリヤの聖イサアク全書/第三十九説教|第三十九説教]] 霊に属する人々は、身体の肥満に準じ、他の霊界に属するものを知識により{{r|幾許|いくばく}}看破すべきか、{{r|如何|いかん}}して{{r|智|ち}}は{{r|其|その}}肥満より上に高めらるべきか、之より自由を{{r|得|え}}ざるは{{r|何故|なにゆえ}}なるか、智は{{r|何時|いつ}}{{r|如何|いか}}なる方法により祈祷の時、妄想なくして{{r|止|とど}}まるを{{r|得|う}}べきか。 / 225p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十説教|第四十説教]] {{r|叩拝|こうはい}}及び{{r|其他|そのた}}の事。 / 229p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十一説教|第四十一説教]] 沈黙の事。 / 234p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十二説教|第四十二説教]] {{r|是|こ}}れイサアクが愛する所の{{r|一人|ひとり}}に与ふる書にして、彼は{{r|此中|このうち}}に(ア)黙想の{{r|奥義|おうぎ}}に関する教訓を著し、多くの者が{{r|此|この}}{{r|奥義|おうぎ}}を知らざるに{{r|依|よ}}り、此の神妙なる練修を{{r|等閑|とうかん}}にし、往往修道士の間に行はるる伝説により{{r|庵中|あんちゅう}}に{{r|留|とど}}まることを{{r|述|の}}ぶ(カ)黙想のことに関する訓話の{{r|摘要|てきよう}}。 / 241p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十三説教|第四十三説教]] 種々なる予想の事、及び各予想の為に必要なる者の事。 / 248p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十四説教|第四十四説教]] 黙想を{{r|務|つと}}むるは思慮ある者に肝要なる事。 / 254p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十五説教|第四十五説教]] 精細なる思慮の階級。 / 259p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十六説教|第四十六説教]] 真実なる知識の事、{{r|試|し}}{{r|惑|わく}}の事、及び{{r|陋劣|ろうれつ}}{{r|薄弱|はくじゃく}}にして学ばざる人のみならず、{{r|一|いち}}{{r|時|じ}}{{r|無|む}}{{r|慾|よく}}を{{r|賜|たま}}はり、思想の有様に{{r|於|おい}}ては完全に達して、死者の如くなれると共に{{r|一分|いちぶん}}は浄潔に近づきし者等も{{註|欲の上に高く立ちし者等も{{r|此|この}}{{r|世|よ}}にある間は{{r|其|その}}生命を慾なる肉体と結合するにより、神意により格闘の中に居りて肉体の故に慾より{{r|擾乱|じょうらん}}を受く、故に}}{{r|驕傲|きょうごう}}に陥りて滅ぶるが{{r|為|ため}}憐みによりて彼等に{{r|試|し}}{{r|惑|わく}}を{{r|遣|つか}}はさるるを確知するの緊要なる事。 / 265p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十七説教|第四十七説教]] {{r|此|この}}{{r|章|しょう}}の意義及び祈祷の事。 / 273p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十八説教|第四十八説教]] 道徳の各種及び{{r|凡|およそ}}の道の完備 / 279p
[[シリヤの聖イサアク全書/第四十九説教|第四十九説教]] 信仰と謙徳の事。 / 290p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十説教|第五十説教]] 遁世の益。 / 303p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十一説教|第五十一説教]] 人は何に{{r|由|よ}}りて生命の外部の状態の変ずると共に神秘なる思想にも変化を{{r|来|きた}}すか。 / 305p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十二説教|第五十二説教]] {{r|夜間|やかん}}の{{r|儆醒|けいせい}}及び{{r|其|その}}{{r|行為|こうい}}の{{r|種々|しゅじゅ}}なる方法。 / 311p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十三説教|第五十三説教]] 謙遜は如何なる尊敬を{{r|受|うく}}るか、{{r|其|その}}階級は{{r|如何|いか}}に{{r|高尚|こうしょう}}なるか。 / 314p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十四説教|第五十四説教]] 問答各種。 / 322p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十五説教|第五十五説教]] {{r|克肖|こくしょう}}なる父、奇蹟者シメオンに{{r|與|あた}}ふる書。 / 326p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十六説教|第五十六説教]] 神を愛する事、{{r|世|よ}}を{{r|避|さ}}くる事、及び神に{{r|於|おい}}て{{r|安|やす}}んずる事。 / 373p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十七説教|第五十七説教]] 世より遠ざかる事、及び{{r|凡|すべ}}て{{r|智|ち}}を{{r|擾|みだ}}すものより遠ざかる事、 / 391p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十八説教|第五十八説教]] 神は霊魂を{{r|益|えき}}するが{{r|為|ため}}{{r|慾|よく}}に{{r|近接|きんせつ}}するを{{r|許|ゆる}}す事、及び苦行的行為の事。 / 411p
[[シリヤの聖イサアク全書/第五十九説教|第五十九説教]] 修道士の生活の秩序及び{{r|其|その}}{{r|梗概|こうがい}}と区別、{{r|徳行|とくこう}}は{{r|如何|いか}}なる様子にて{{r|互|たがい}}に{{r|相|あい}}{{r|生|しょう}}ずるか。 / 428p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十説教|第六十説教]] {{r|世|よ}}より{{r|極|きわめ}}て{{r|上|うえ}}なる{{r|窄|せま}}き{{r|路|みち}}を{{r|進行|しんこう}}する者に対し{{r|魔鬼|まき}}の{{r|戦|たたか}}ふ{{r|種々|しゅじゅ}}なる手段の事。 / 430p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十一説教|第六十一説教]] 心を神に{{r|近|ちか}}づかしむる{{r|為|ため}}に人に益するものの事、{{r|如何|いか}}なる真実の{{r|源因|げんいん}}は人に{{r|助|たすけ}}を{{r|窃|ひそか}}に{{r|近|ちか}}づかしめて、{{r|如何|いか}}なる{{r|源因|げんいん}}は人を謙遜に導くか。 / 443p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十二説教|第六十二説教]] 神聖なる書の{{r|悔改|かいかい}}を{{r|奨励|しょうれい}}する{{r|諭言|ゆげん}}、及び人間の弱きに対して{{r|此|これ}}を{{r|陳|の}}べられしは人々生活の神より離れて亡ぶるを{{r|免|まぬか}}れんが{{r|為|ため}}なる事、及び之を転じて罪を犯す{{r|縁由|えんゆ}}と{{r|為|な}}すべからざる事。 / 450p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十三説教|第六十三説教]] 修道士の生涯の美は{{r|如何|いかん}}して保護せらるるか、神に{{r|栄|さかえ}}を{{r|帰|き}}するの順序。 / 453p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十四説教|第六十四説教]] 神より定められたる黙想の路を進行する者に如何なる転変変化を生ずるか。 / 456p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十五説教|第六十五説教]] 黙想者の事、黙想者が{{r|其|その}}{{r|行|こう}}{{r|為|い}}を{{r|以|もっ}}て{{r|無|む}}{{r|辺|へん}}の海に至る、即ち沈黙の生涯に至るを理会し始むるは{{r|何|なん}}の{{r|時|とき}}なるか、{{r|其|その}}労の結果を産するを多少望むを得るは{{r|何|なん}}の{{r|時|とき}}なるか。 / 457p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十六説教|第六十六説教]] {{r|世|よ}}に{{r|貧者|ひんしゃ}}となりて{{r|神|かみ}}を{{r|尋|たづ}}ぬる{{r|為|ため}}に出発したる神の{{r|僕|ぼく}}は真理の了解に達せざらんを恐れて{{r|尋|たづ}}ぬるを停止すべからず、又神聖なるものと神の{{r|奥義|おうぎ}}の研究を愛するにより生ずる熱愛を{{r|冷|ひややか}}にすべからざる事、及び{{r|智|ち}}は{{r|慾|よく}}の記憶により{{r|擾|みだ}}さるる事。 / 460p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十七説教|第六十七説教]] 神に{{r|倚頼|いらい}}する種類、当然に神に{{r|倚頼|いらい}}する者と無思慮に{{r|且|かつ}}無智にして{{r|倚頼|いらい}}する者の事。 / 462p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十八説教|第六十八説教]] 世を{{r|棄|すつ}}る事及び自由の交際を{{r|慎|つつし}}む事 / 468p
[[シリヤの聖イサアク全書/第六十九説教|第六十九説教]] {{r|掛念|けねん}}を有せざるは黙想者の為に有益にして{{r|其|その}}{{r|出入|しゅつにゅう}}は有害なる事。 / 472p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十説教|第七十説教]] {{r|夜間|やかん}}の{{r|儆醒|けいせい}}の{{r|行|おこない}}の{{r|愉快|ゆかい}}により神に接近し人に顕然たる者の{{r|行路|こうろ}}の事及び{{r|此|こ}}の本人は{{r|其|その}}生活の{{r|凡|すべ}}ての日を{{r|蜜|みつ}}にて{{r|養|やしな}}はるる事。 / 475p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十一説教|第七十一説教]] 罪なる{{r|敗壊|はいかい}}は{{r|如何|いかん}}して{{r|生|しょう}}じ{{r|如何|いかん}}して{{r|止|や}}むか、{{r|其|その}}{{r|力|ちから}}と勢力の事。 / 481p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十二説教|第七十二説教]] 心を守る事、及び幾微なる直覚の事。 / 489p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十三説教|第七十三説教]] 神を愛する表徴及び{{r|其|その}}{{r|働|はたらき}}の事。 / 491p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十四説教|第七十四説教]] 徳行の種類。 / 493p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十五説教|第七十五説教]] 不断の{{r|禁食|きんしょく}}の事、自己に集中して{{r|一所|いつしょ}}に{{r|止|とどま}}る事、{{r|其|その}}結果の事、及び{{r|凡|すべ}}て{{r|此|これ}}{{r|等|ら}}を正しく適用するを知識により区別するを学ぶ事。 / 496p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十六説教|第七十六説教]] 沈黙と黙想の事。 / 507p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十七説教|第七十七説教]] 肉体上の感動 / 508p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十八説教|第七十八説教]] 誘惑の各種類、及び真理の為に起る誘惑を忍耐するは{{r|幾許|いくば}}く愉快にして、善智なる人は如何なる階級により昇進するか。 / 512p
[[シリヤの聖イサアク全書/第七十九説教|第七十九説教]] {{r|驕傲|きょうごう}}の事、驕傲なる神の敵の{{r|試|し}}{{r|惑|わく}}。 / 517p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十説教|第八十説教]] {{r|徳行|とくこう}}の種類の説明及び彼等は各々如何なる価値と如何なる特質を有するか。 / 521p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十一説教|第八十一説教]] 肉体と霊魂と智の浄潔。 / 525p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十二説教|第八十二説教]] 霊的智慧に充たさるる有益なる主眼 / 526p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十三説教|第八十三説教]] 悔改の事。 / 527p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十四説教|第八十四説教]] 智識の尺度と信仰の尺度は{{r|如何|いか}}{{r|程|ほど}}{{r|大|だい}}なるか。 / 530p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十五説教|第八十五説教]] 謙遜にして{{r|聴|き}}く者に愛を{{r|以|もっ}}て{{r|告|つ}}ぐる有益なる教訓。 / 534p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十六説教|第八十六説教]] 心が霊界に進歩する{{r|為|ため}}神の{{r|照管|しょうかん}}に{{r|依|よ}}り我等に{{r|喚|かん}}{{r|起|き}}せらるる天使的行動。 / 546p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十七説教|第八十七説教]] 人に{{r|於|お}}ける第二の行為。 / 548p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十八説教|第八十八説教]] {{r|光|ひかり}}と{{r|暗|やみ}}の{{r|更迭|こうてつ}}は{{r|何|いづ}}れの時にも霊中に{{r|起|おこ}}る事、及び霊魂は右にも左にも傾く事。 / 550p
[[シリヤの聖イサアク全書/第八十九説教|第八十九説教]] 神聖なる熱心の仮面に{{r|覆|おお}}はるる無智なる熱心の有害なる事、温良及び{{r|其|その}}{{r|他|た}}の徳性より生ずる{{r|助|たすけ}}の事。 / 553p
[[シリヤの聖イサアク全書/第九十説教|第九十説教]] 心ならざる{{r|悪|あく}}なる{{r|念頭|ねんとう}}は{{r|之|これ}}に先だつ思念を{{r|等閑|とうかん}}にして注意せざるより生ず。 / 564p
[[シリヤの聖イサアク全書/第九十一説教|第九十一説教]] 神を愛するより生ずる忍耐の事、及び忍耐により{{r|助|たすけ}}を得らるる事。 / 571p - 574p
目録/終わり
== 出典 ==
: [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/824593 シリヤの聖イサアク全書] 国立国会図書館 デジタルコレクション
==関連項目==
*[[禁欲的説教 (1854年ロシア語訳)]]
*[[ニネベのイサアク神秘論文集]]
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[[Category:7世紀]]
[[Category:1909年]]
[[Category:キリスト教]]
[[Category:シリヤの聖イサアク全書|*]]
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利用者:村田ラジオ
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2026-10-20T20:46:31Z
村田ラジオ
14210
イサアク禁欲的説教 (1854年ロシア語訳)
246786
wikitext
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===1. 聖イサク===
[[Wikisource:宗教]]<
* [[シリヤの聖イサアク全書]]
* [[禁欲的説教 (1854年ロシア語訳)]]
* [[ニネベのイサアク神秘論文集]](A. J. ヴェンシンク)
{|
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:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第1論文|第1論文]] 物事への気遣いが存在する限り、魂の中に安住することはできないこと
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第2論文|第2論文]] あなたの内にある宝物庫に入ることに熱心でありなさい
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第3論文|第3論文]] 魂は本来、情念に左右されない
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第4論文|第4論文]] 神を愛する魂は神の中にのみ安らぎを見出す
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第5論文|第5論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第6論文|第6論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第7論文|第7論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第8論文|第8論文]] 人が心から神に近づくのに役立つものは何であるか
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第9論文|第9論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第10論文|第10論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第11論文|第11論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第12論文|第12論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第13論文|第13論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第14論文|第14論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第15論文|第15論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第16論文|第16論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第17論文|第17論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第19論文|第19論文]] 幻視の中で聖人たちに起こる力の啓示について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第20論文|第20論文]] 啓示と霊的ビジョンに関連した、精神の様々な知覚可能な力について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第21論文|第21論文]] 独居修行の中で祈りの間に起こることについて
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第22論文|第22論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第23論文|第23論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第24論文|第24論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第25論文|第25論文]] 深い観想を求める魂がその観想に没頭し、想起された事柄から生じる身体的な観想から離れることの契機
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第26論文|第26論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第27論文|第27論文]] 人間性はどのように多様な方法で非物質的存在を知覚するのか
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第30論文|第30論文]] 罪の力と邪悪な働き
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第31論文|第31論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第32論文|第32論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第33論文|第33論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第34論文|第34論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第35論文|第35論文]] 絶え間ない行動とあらゆる種類の道徳を考慮した問答形式の論文
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第36論文a|第36論文a]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第37論文|第37論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第38論文|第38論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第39論文|第39論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第40論文|第40論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第43論文|第43論文]] 霊的な知恵に満ちた有益な言葉
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第44論文|第44論文]] 知識の程度と信仰の程度について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第45論文|第45論文]] 有益な助言
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第46論文|第46論文]] その他の考慮事項
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第47論文|第47論文]] 霊的な事柄における魂の教育という神の摂理に
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第48論文|第48論文]] 魂が常にさらされる光と闇の様々な状態
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第50論文|第50論文]] 様々な考察をまとめた短い教訓集
|valign=top|
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第51論文|第51論文]] 知識の3つの段階とその奉仕と衝動との区別、魂の信仰とその中に隠された神秘の宝について
::(a) 知識の第一段階
::(b) 知識の第二段階
::(c) 知識の第三段階。つまり完全な段階
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第53論文|第53論文]] 祈りと、絶えず思い出すことが必然的に求められ、人が区別して唱え、保持することが非常に有益であるその他の事柄について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第54論文|第54論文]] マゲナヌータに関するその他の説明
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第55論文|第55論文]] 魂の中に隠された警戒心を
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第56論文|第56論文]] 人の生命に関する美しい考察
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第57論文|第57論文]] 神の愛のための忍耐がどのようにして神の助けを得るのか
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第58論文|第58論文]] 神の近くに住み、認識の生活の中で日々を過ごす人々について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第59論文|第59論文]] 有益な談話
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第60論文|第60論文]] 必然性がなければ、何らかのしるしを望んだり求めたりしてはならないこと
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第61論文|第61論文]] 神は何のために神を愛する人たちへの誘惑を許すのか
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第62論文|第62論文]] 人の中に湧き起こる思考によって、自分がどの段階に属し、どのような思考が続くかを知ることができるということ
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第63論文|第63論文]] 認識の心理状態にある人々は、なぜ肉体の粗雑さに応じて霊的なことを考えるのか
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第64論文|第64論文]] 心中に起こる、祈りによって浄化されるさまざまな状態について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第65論文|第65論文]] 心の警戒に関する指示
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第66論文|第66論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第67論文|第67論文]] 理解可能なものの区別に関して例をあげ、それぞれの使い方を示しての説明
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第68論文|第68論文]] 短いセクション
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第69論文|第69論文]] 思慮ある者はどのように黙想を務めるべきか
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第70論文|第70論文]] 初期知識の微妙な順序
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第71論文|第71論文]] 恩寵から生じる影響について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第72論文|第72論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第73論文|第73論文]] これまでに述べられた内容の説明
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第74論文|第74論文]] 聖人の中に神に似たものを創造している霊的目的について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第75論文|第75論文]] 隠された状態と、そこに存在する力と影響力
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第76論文|第76論文]] 短い言葉
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第77論文|第77論文]] この章は生命力に満ちている
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第78論文|第78論文]] 世俗からの逃避によって得られる…
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第79論文|第79論文]]
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第80論文|第80論文]] 徹夜祷とその間の様々な種類の労働について
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第81論文|第81論文]] なぜ独居修行者たちはそれ以上に孤独を重んじるのか
:* [[ニネベのイサアク神秘論文集/第82論文|第82論文]] 謙虚さはどれほどの名誉を持ち、その地位は
|}
===2. マカリオス===
* [[埃及マカリイ全書]]
* [[50の霊的講話]] [https://azbyka.ru/otechnik/Makarij_Velikij/duhovnye-besedy-1-50/ Духовные беседы (1–50)]
* [[マカリオス大書簡]] [https://azbyka.ru/otechnik/Makarij_Velikij/poslanie/ преподобный Макарий Великий, Египетский Послание]
* [[エジプトのマカリオス50の霊的説教]] (完)
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教1|説教1]] 預言者エゼキエルに記された幻の寓話的解釈。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教2|説教2]] 暗黒の王国、すなわち罪の王国について、そして神だけが私たちから罪を取り除き、邪悪な君主の束縛から私たちを救い出すことができるということについて。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教3|説教3]] 兄弟たちは互いに誠実、単純、愛、平和のうちに生きるべきであり、心の中では競争と戦いを続けるべきである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教4|説教4]] キリスト教徒は、神と天使たちから天の賞賛を得るために、この世での競争を注意深く慎重に成し遂げるべきである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教5|説教5]] キリスト教徒とこの世の人々の間には大きな違いがある。この世の精神を持つ人々は心と精神において地上の束縛に縛られているが、他の人々は天の父の愛を切望し、ただ目の前に父を待ち望んでいる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教6|説教6]] 神を喜ばせたいと願う者は、平穏と静寂、優しさと知恵をもって祈りを捧げるべきであり、大声で叫んで他人に迷惑をかけるべきではない。説教には、王座と冠が実際に創造されたものであるかどうか、そしてイスラエルの12の王座についてという2つの質問も含まれている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教7|説教7]] キリストの人間に対する慈愛について。説教にはいくつかの質問と答えも含まれている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教8|説教8]] 祈りの中でキリスト教徒に起こること、そして完全さの尺度について、キリスト教徒が完全な尺度に達することは可能かどうか。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教9|説教9]] 神の約束と預言は、さまざまな試練と誘惑を通して成就し、神のみに従う者は悪魔の誘惑から救われる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教10|説教10]] 謙虚な心と真摯さによって神の恵みの賜物は保存されるが、傲慢さと怠惰によってそれらは破壊される。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教11|説教11]] 聖霊の力は人の心の中で火のようであること、心に湧き上がる考えを見分けるために何が必要か、そしてモーセが柱のてっぺんに立てた死んだ蛇がキリストの象徴であることなど。説教には二つの対話があり、一つはキリストと悪魔、サタンとの対話、もう一つは罪人と同じ罪人との対話である。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教12|説教12]] アダムが神の戒めを破る前、そして自分の姿と天の姿の両方を失った後のアダムの状態について。説教には、非常に有益な質問がいくつか含まれている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教13|説教13]] 神がキリスト信徒に期待する成果。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教14|説教14]] 神に思いと心を捧げる人々は、心の目が開かれ、神が彼らに最も神聖で純粋な神秘を与え、神が恵みを授けてくれることを望みながらそうするのである。天国の善いものを手に入れたいと願う私たちがすべきこと。そして使徒と預言者は窓から差し込む太陽の光にたとえられる。説教ではまた、サタンの「地」と天使の「地」とは何か、そしてどちらも無形で目に見えないものであることを教えている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教15|説教15]] この説教は、世界の救い主であるキリスト・イエスの配偶者に対して、魂がいかに聖潔と貞潔と純潔をもってふるまうべきかを広く教えている。また、復活のときにすべての部分がよみがえるかどうか、悪、恩寵、自由意志、人間の尊厳など、多くの重要な教えに満ちた議論も含まれている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教16|説教16]] 霊的な人は最初の罪から生じる誘惑や逆境にさらされる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教17|説教17]] キリスト教徒の霊的塗油とその栄光について、そしてキリストなしには救われることも永遠の命にあずかることも不可能であることについて。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教18|説教18]] キリスト教徒の宝であるキリストと聖霊について、キリストと聖霊はそれを様々な方法で実践して完成に至る。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教19|説教19]] 進歩し成長したいと願うキリスト教徒は、内在する罪から解放され、聖霊に満たされるために、あらゆる善いことに自らを駆り立てるべきである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教20|説教20]] 内なる人の真の医者であるキリストだけが、魂を癒し、恵みの衣でそれを飾ることができるのである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教21|説教21]] キリスト教徒には、内なる戦いと外なる戦いという二つの戦いが待ち受けている。後者は、地上の煩いから身を引くためのものであり、前者は、心の中で、邪悪な霊の誘惑に対抗するためのものである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教22|説教22]] この世を去る人々の二通りの状態について。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教23|説教23]] 王家の血統から生まれた者だけが高価な王家の真珠を身につけることができるように、神の子だけが天国の真珠を身につけることが許されている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教24|説教24]] キリスト教徒の状態は、商品やパン種のようなものである。商人が地上の利益を蓄えるように、キリスト教徒は世界中に散らばった思いを集める。パン種が塊全体をパン種に変えるように、罪のパン種はアダムの種族全体に浸透する。しかしキリストは、忠実な魂には天の善のパン種を入れる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教25|説教25]] この説教は、キリストによって強められなければ、誰も悪魔の妨害を克服することはできないこと、そして神の栄光を望む者がしなければならないことを教えている。また、アダムの不従順によって私たちは肉欲の束縛に陥ったが、十字架の神秘によってそこから解放されたことも教えている。さらに、涙と神の火の力は偉大であることを教えてくれる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教26|説教26]] 不滅の魂の価値と大切さ、力と効力、そしてそれがいかにしてサタンに誘惑され、誘惑から解放されるかについて。また、非常に素晴らしい教えに満ちたいくつかの質問も含まれている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教27|説教27]] この説教は、前述の説教と同様に、キリスト教徒の尊厳と地位について長々と説明している。そして、神の知恵に満ちたいくつかの質問を織り交ぜながら、自由意志に関する多くの有益なことを教えている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教28|説教28]] この説教は、罪のせいで主が魂の中に住まわれないという魂の災難を描写し嘆き、また、洗礼者ヨハネに関して、女から生まれた者の中で彼より偉大な者はいないと述べている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教29|説教29]] 神は人類に恵みの分配を二通りの方法で行い、公正な裁きによってその成果を要求することを意図している。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教30|説教30]] 人の魂が神の王国に入るには聖霊によって生まれなければならない。そして、それがどのように実現されるかについて。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教31|説教31]] 信者は心を変え、すべての思いを神に集めるべきである。なぜなら、神への奉仕はすべてこれにかかっているからである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教32|説教32]] キリスト教徒の栄光は今も彼らの魂の中に留まり、復活の時に現れ、彼らの敬虔さに応じて彼らの体を栄光に輝かせるであろう。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教33|説教33]] 私たちは神に絶えず注意深く祈るべきである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教34|説教34]] キリスト教徒の栄光については、復活の時に彼らの体に与えられ、彼らは魂と共に啓蒙されるであろう。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教35|説教35]] 古い安息日と新しい安息日について。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教36|説教36]] 魂と肉体の二重の復活と復活した者の様々な栄光について。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教37|説教37]] 楽園と霊的法則について。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教38|説教38]] 真のキリスト教徒を見分けるには、またそれが誰であるかを見分けるには、非常に正確な判断力と知性が求められる。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教39|説教39]] 聖書が神から私たちに与えられた理由。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教40|説教40]] すべての美徳とすべての悪徳は互いに結びついており、鎖のように互いにつながっている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教41|説教41]] 魂の秘密の部屋は非常に深く、それは恩恵や邪悪さの成長に比例して成長する。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教42|説教42]] 外的なものではなく、内的なものが人間を前進させたり傷つけたりする。つまり、恵みの霊か邪悪の霊かである。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教43|説教43]] キリスト教徒の進歩については、その力の全てが心次第であり、ここでは様々な方法で説明されている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教44|説教44]] 魂の苦しみと病を{{r|癒|いや}}したキリストによって、キリスト教徒の内にどのような変化と再生がもたらされるであろうか。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教45|説教45]] この世のいかなる芸術も富でもなく、ただキリストの出現だけが人間を癒すことができる。この説教は人間と神との偉大な親族関係を説いている。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教46|説教46]] 神の言葉とこの世の言葉、そして神の子らとこの世の子らの違いについて。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教47|説教47]] 律法のもとで行われた事柄の寓話的解釈。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教48|説教48]] 神への完全な信仰について。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教49|説教49]] この世の快楽を捨て去ったとしても、あの世の祝福を得なければ十分ではない。
:*[[エジプトのマカリオス50の霊的説教/説教50|説教50]] 神は聖徒たちを通して奇跡を起こす。
===3. クリソストモス===
[[Wikisource:宗教]]<
* [[マタイ福音書に関する説教]] 目録(クリソストムス)(未完)
{|
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:* [[マタイ福音書に関する説教/説教13|説教13]]
:* [[マタイ福音書に関する説教/説教14|説教14]]
:* [[マタイ福音書に関する説教/説教15|説教15]]
:* [[マタイ福音書に関する説教/説教15-2|説教15-2]]
:* [[マタイ福音書に関する説教/説教16|説教16]]
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:* [[マタイ福音書に関する説教/説教19|説教19]]
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:* [[マタイ福音書に関する説教/説教24|説教24]]
:* [[マタイ福音書に関する説教/説教25|説教25]]
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:* [[マタイ福音書に関する説教/説教33|説教33]]
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:* [[マタイ福音書に関する説教/説教35|説教35]]
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:* [[マタイ福音書に関する説教/説教73|説教73]]
:* [[マタイ福音書に関する説教/説教74|説教74]]
|}
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第14巻/ヨハネ福音書注解|ヨハネ福音書注解]](クリソストモス) (未完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第11巻/使徒行伝の注解|使徒行伝の注解]] (クリソストモス) (未完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第11巻/ローマ人への手紙注解|ローマ人への手紙注解]](完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第12巻/コリント人への手紙第一の注解|コリント人への手紙第一の注解]](未完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ガラテヤとエペソについて/ガラテヤ人への手紙注解|ガラテヤ人への手紙注解]] (完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ガラテヤとエペソについて/エペソ人への手紙注解|エペソ人への手紙注解]] (完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/ピリピ人への手紙注解|ピリピ人への手紙注解]](未完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/コロサイ人への手紙注解|コロサイ人への手紙注解]](完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第13巻/ピリピ、コロサイ、テサロニケについて/テサロニケ人への第一の手紙注解|テサロニケ人への第一の手紙注解]](完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/マタイ26章39節についての説教|マタイ26章39節についての説教]](完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/屋根を突き破って降ろされた中風の患者についての説教|屋根を突き破って降ろされた中風の患者についての説教]](完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/オリンピアスへの手紙|オリンピアスへの手紙]]
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第9巻/アンティオキアの人々への彫像に関する説教|アンティオキアの人々への彫像に関する説教]](未完)
===4. オリゲネス===
* [[諸原理について]](オリゲネス)
:* [[諸原理について/序説]]
:* [[諸原理について/第1巻|第1巻]]
:* [[諸原理について/第2巻|第2巻]]
:* [[諸原理について/第3巻|第3巻]]
{|
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:* [[諸原理について/第3巻/第1章|第3巻/第1章]]
:* [[諸原理について/第3巻/第2章|第3巻/第2章]]
:* [[諸原理について/第3巻/第3章|第3巻/第3章]]
:* [[諸原理について/第3巻/第4章|第3巻/第4章]]
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:* [[諸原理について/第3巻/第5章|第3巻/第5章]]
:* [[諸原理について/第3巻/第6章|第3巻/第6章]]
:* [[諸原理について/第3巻/第7章|第3巻/第7章]]
:* [[諸原理について/第3巻/第8章|第3巻/第8章]]
|}
:* [[諸原理について/第4巻|第4巻]]
:* [[諸原理について/第4巻/第1章|第4巻/第1章]]
:* [[諸原理について/第4巻/第2章|第4巻/第2章]]
:* [[諸原理について/解説|解説]]
*[[言葉の受肉について]] [[s:la:De incarnatione Verbi|De incarnatione Verbi]](完)
*[[エレミヤ書とエゼキエル書に関する説教の翻訳]] [[s:la:Translatio Homiliarum in Ieremiam et Ezechielem|Translatio Homiliarum in Ieremiam et Ezechielem]](未完)
*[[イザヤの幻視に関する説教の翻訳]] [[s:la:Translatio homiliarum in visiones Isaiae|Translatio homiliarum in visiones Isaiae]](完)
*[[39の説教の翻訳]] [[s:la:Translatio XXXIX Homiliarum|Translatio XXXIX Homiliarum]]
===5. ニカイア教父シリーズ===
*[[ニカイア以前の教父たち]]
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I]]
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II]]
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻|第1巻]] – エウセビオス: 紀元1年から324年までの教会史、コンスタンティヌス大帝の生涯、コンスタンティヌスを讃える演説
***[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第1巻/エウセビオスの教会史/第1巻|エウセビオスの教会史/第1巻]]
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第2巻|第2巻]] – ソクラテス: 西暦305年から438年までの教会史、ソゾメノス ([[w:en:Sozomen|en]]): 西暦323年から425年までの教会史
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻|第3巻]] – テオドレトス、ヒエロニムスとゲンナディウス、ルフィヌス ([[w:en:Tyrannius Rufinus|en]])とヒエロニムス
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第4巻|第4巻]] – アタナシオス: 選集と手紙
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第5巻|第5巻]] – ニュッサのグレゴリオス: 教義論文、選集および書簡
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第6巻|第6巻]] – ヒエロニムス: 手紙と選集
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻|第7巻]] – エルサレムのキュリロス、ナジアンゾスのグレゴリオス
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第8巻|第8巻]] – バシレイオス: 手紙と選集
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻|第9巻]] – ポワティエのヒラリウス、ダマスコのヨアンネス
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第10巻|第10巻]] – アンブロシウス: 選集と手紙
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第11巻|第11巻]] – スルピティウス・セウェルス、レランスのウィンケンティウス、ヨハネス・カッシアヌス
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第12巻|第12巻]] – レオ1世、グレゴリウス1世
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第13巻|第13巻]] – グレゴリウス1世 (パート2)、シリアのエフレム、アフラハト
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第14巻|第14巻]] – 七つの全地公会議
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻|第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻]]
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:*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第1章|第1巻/第1章]]
:*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第2章|第1巻/第2章]]
:*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/テオドレトス/教会史/第1巻/第3章|第1巻/第3章]]
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|}
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について|第3巻/高名な人々について]](著名人列伝)
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について/ヒエロニムス|ヒエロニムス]](135人)
**[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/高名な人々について/ゲンナディウス|ゲンナディウス]](99人)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第3巻/ルフィヌス/使徒信条の解説|第3巻/ルフィヌス/使徒信条の解説]](ルフィヌス)(未完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/ナジアンゾスのグレゴリオス演説|第7巻/ナジアンゾスのグレゴリオス演説]] (未完)
*[[原ニカイア信条]](325年)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第14巻/第二回公会議/聖なる信条|第14巻/第二回公会議/聖なる信条]](374 - 381年)
*[[ニカイア以前の教父たち/第2巻/ヘルマスの牧者]] (完)
===6. ユスティノス===
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/殉教者ユスティノス/トリュフォンとの対話|トリュフォンとの対話]](完)
===7. エイレナイオス 他===
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第1巻|異端反駁:第1巻]](エイレナイオス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第2巻|異端反駁:第2巻]](エイレナイオス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第3巻|異端反駁:第3巻]](エイレナイオス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第4巻|異端反駁:第4巻]](エイレナイオス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第1巻/イレナイオス/異端反駁:第5巻|異端反駁:第5巻]](エイレナイオス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第3巻/護教的論文/偶像崇拝について|偶像崇拝について]](テルトゥリアヌス)(完)
*[[ニカイア以前の教父たち/第5巻/キプリアヌス/キプリアヌスの論文/主の祈りについて|主の祈りについて]] (キプリアヌス) (完)
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/エルサレムのキュリロス/教理講義|教理講義]] (キュリロス) (完)
**[[教理講義4]] 《教義の10の要点について》
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/エルサレムのキュリロス/序説|エルサレムのキュリロス/序説]]
*[[神の言葉の誕生について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス) (完)
:::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]]
===8. ヒラリウス===
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ポワティエのヒラリウス/三位一体論|三位一体論]] (ヒラリウス) (未完)
* [[詩篇の論考]](未完)
** [[詩篇の論考/序文|序文]]
** [[詩篇の論考/詩篇第1篇|詩篇第1篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇2篇|詩篇2篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇9篇|詩篇9篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇13篇|詩篇13篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇14篇|詩篇14篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇51篇|詩篇51篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇61篇|詩篇61篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇62篇|詩篇62篇]]
** [[詩篇の論考/詩篇67篇|詩篇67篇]]
===9. アンブロシウス===
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第10巻/著作/キリスト教信仰の解説|ニカイア後教父: シリーズ II/信仰について]](アンブロシウス)入力中
* [[信仰について (アンブロシウス)]](完)
* [[ルカ福音書の解説 (アンブロシウス)]](完)
* [[ヘクサエメロン (アンブロシウス)]](第5巻のみが未完)
* [[楽園について (アンブロシウス)]](完)
* [[カインとアベルについて (アンブロシウス)]](完)
* [[ノアと箱舟について (アンブロシウス)]](完)
* [[アブラハムについて (アンブロシウス)]](完)
* [[イサクと魂について]](完)
* [[死の善について]](完)
* [[世界からの逃避について]](完)
* [[ヤコブと祝福された人生について]](未完)
* [[族長ヨセフについて]](未完)
* [[ダビデの詩篇十二篇の解説]](完)
* [[ダビデの詩篇118篇の解説]](未完)
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/プロローグ|プロローグ]]
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/1番目の言葉|1番目の言葉]] アレフ
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/2番目の言葉|2番目の言葉]] ベト
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/3番目の言葉|3番目の言葉]] ギメル
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/4番目の言葉|4番目の言葉]] ダレト
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/5番目の言葉|5番目の言葉]] ヘー
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/6番目の言葉|6番目の言葉]] ワウ
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/7番目の言葉|7番目の言葉]] ザイン
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/8番目の言葉|8番目の言葉]] ヘト
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/9番目の言葉|9番目の言葉]] テト
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/10番目の言葉|10番目の言葉]] ヨド
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/11番目の言葉|11番目の言葉]] カフ
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/12番目の言葉|12番目の言葉]] ラメド
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/13番目の言葉|13番目の言葉]] メム
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/14番目の言葉|14番目の言葉]] ヌン
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/15番目の言葉|15番目の言葉]] サメク
** [[ダビデの詩篇118篇の解説/16番目の言葉|16番目の言葉]] アイン
* [[ローマ人への手紙注解 (アンブロシアステル)]](完)
* [[コリント人への第一の手紙注解 (アンブロシアステル)]](完)
* [[コリント人への第二の手紙注解 (アンブロシアステル)]](完)
===10. アウグスティヌス===
* [[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ I/第7巻/ヨハネ福音書論考|ヨハネ福音書論考]] 入力中
* [[三位一体論 (アウグスティヌス)]] 入力中
===11. レオ1世===
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第12巻/レオ1世/説教|第12巻/レオ1世/説教]](レオ1世)入力中
===12. ダマスコのヨハネ===
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻|正教信仰の正確な解説/第1巻]](ヨハネ・ダマスキン)入力中
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:*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第1巻/第1章|第1章]]
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|}
*[[ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第9巻/ダマスコのヨハネ/正教信仰の正確な解説/第4巻|正教信仰の正確な解説/第4巻]]
:::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]]
===13. フィロカリア===
*[[ドブロトリュビエ]] (Philokalia)
*[[ドブロトリュビエ/第1巻|第1巻]]
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/大アントニオスの言葉と彼に関する伝説|大アントニオスの言葉と彼に関する伝説]]
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/大アントニオスの名言の解説|大アントニオスの名言の解説]]
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/アバ・イザヤが弟子たちに語った言葉|アバ・イザヤが弟子たちに語った言葉]](アバ・イザヤ)
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/新米修道士へのルールとアドバイス|新米修道士へのルールとアドバイス]](アバ・イザヤ)
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/アバ・イザヤの言葉|アバ・イザヤの言葉]](アバ・イザヤ)
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/心を守ることについて27章|心を守ることについて27章]](アバ・イザヤ)
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/修道士ニコラスへのメッセージ|修道士ニコラスへのメッセージ]](修行者マルコ)
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/修行者マルコの著作に対するニコラス修道士の反応|修行者マルコの著作に対するニコラス修道士の反応]]
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/霊的法則に関する200章|霊的法則に関する200章]](修行者マルコ)
**[[ドブロトリュビエ/第1巻/行いによって義とされると考える人々について|行いによって義とされると考える人々について]](修行者マルコ)
*[[ドブロトリュビエ/第2巻|第2巻]]
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/霊的生活の完成度について|霊的生活の完成度について]](ヨハネス・カッシアヌス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/悔い改めの働きの終了について|悔い改めの働きの終了について]](ヨハネス・カッシアヌス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/テオドロスへ 覚醒と祈りについて|テオドロスへ 覚醒と祈りについて]](ヘシュキオス長老)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/祈りに関する153章|祈りに関する153章]](シナイのニール)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/悪の八魂について|悪の八魂について]](シナイのニール)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/悔い改めについて|悔い改めについて]](ヨハネ・クリマクス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/美徳と情熱について–また情熱との戦いについて|美徳と情熱について–また情熱との戦いについて]](ヨハネ・クリマクス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/8つの主要な情熱との戦いについて|8つの主要な情熱との戦いについて]](ヨハネ・クリマクス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/平静さについて|平静さについて]](ヨハネ・クリマクス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/バルサヌフィオスの禁欲的教え|バルサヌフィオスの禁欲的教え]](大バルサヌフィオス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/アバ・ドロテオスの禁欲的教え|アバ・ドロテオスの禁欲的教え]](アバ・ドロテオス)
**[[ドブロトリュビエ/第2巻/シリアの聖イサクの禁欲的教え|シリアの聖イサクの禁欲的教え]](シリアのイサク)
*[[ドブロトリュビエ/第3巻|第3巻]]
**[[ドブロトリュビエ/第3巻/霊的知識と識別についての100章|霊的知識と識別についての100章]](フォティケのディアドコス)
**[[ドブロトリュビエ/第3巻/愛についての400章|愛についての400章]](告白者マクシモス)
**[[ドブロトリュビエ/第3巻/愛・禁欲・霊的生活について400章|愛・禁欲・霊的生活について400章]](アバ・タラシオス)
**[[ドブロトリュビエ/第3巻/最も魂をたすける100の章|最も魂をたすける100の章]](エデッサのテオドロス)
**[[ドブロトリュビエ/第3巻/覚醒についての40章|覚醒についての40章]](シナイのフィロテオス)
*[[ドブロトリュビエ/第4巻|第4巻]]
**[[ドブロトリュビエ/第4巻/修道士への禁欲的な指導|修道士への禁欲的な指導]](ストゥディオスのテオドロス)
*[[ドブロトリュビエ/第5巻|第5巻]]
:::新神学者シメオン
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/新神学者シメオンの略歴|新神学者シメオンの略歴]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/実践的および神学的な章|実践的および神学的な章]](新神学者シメオン)
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/敬虔なる長老シメオンの禁欲的な説教|敬虔なる長老シメオンの禁欲的な説教]](彼の師、敬虔者シメオン)
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/信仰について、そしてこの世に生きる人間が完璧を達成するのは不可能だと言う人々へ|信仰について、そしてこの世に生きる人間が完璧を達成するのは不可能だと言う人々へ]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/三つの注意と祈りについて|三つの注意と祈りについて]]
:::ニケタス・ステタトス
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ニケタス・ステタトスの略歴|ニケタス・ステタトスの略歴]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/最初の100の実践的な章|最初の100の実践的な章]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/次の100の自然心理学的章 – 精神の浄化について|次の100の自然心理学的章 – 精神の浄化について]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/最後の100の思索的な章 – 愛と人生の完成について|最後の100の思索的な章 – 愛と人生の完成について
]]
:::シナイのグレゴリオス
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/戒めと教義・警告と約束についての137章|戒めと教義・警告と約束についての137章]](シナイのグレゴリオス)
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/沈黙行者たちへの指示|沈黙行者たちへの指示]](シナイのグレゴリオス)
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/静寂と祈りについての15章|静寂と祈りについての15章]](シナイのグレゴリオス)
:::修道士ニケフォロス
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/覚醒と心を守ることについて|覚醒と心を守ることについて]](修道士ニケフォロス)
:::グレゴリオス・パラマス
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/名誉ある修道女クセニアに|名誉ある修道女クセニアに]](グレゴリオス・パラマス)
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/キリスト教法に基づく十戒|キリスト教法に基づく十戒]](グレゴリオス・パラマス)
:::ダマスコのペトロ
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロ序文|ダマスコのペトロ序文]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロの第1巻|ダマスコのペトロの第1巻]]
:*[[ドブロトリュビエ/第5巻/ダマスコのペトロの第2巻|ダマスコのペトロの第2巻]]
————————————
===14. 神学的著作===
*[[主の祈り、洗礼、聖体に関する注釈]](モプスエスティアのテオドロス) (完)
* [[口語訳旧約聖書 目次]]{{ext scan link|1=http://jco.ibibles.net/index.htm#%C2%A0%3E%C2%A0}}
* [[口語訳新約聖書 目次]]{{ext scan link|1=http://jco.ibibles.net/index.htm#%C2%A0%3E%C2%A0}}
* [[KJV 旧約聖書続編 目録]] (King James Bible, 1769)
* [[フィラレートのカテキズム]](モスクワの聖フィラレート、1913)(完)
** [[フィラレートのカテキズム 2]]
* [[英国国教会の39箇条についての教理問答]](ジェームズ・ビーヴン、1853)(未完)
* [[短い信条]](ガザーリー、1903英訳ダンカン・B・マクドナルド)(完)
* [[アル・ガザーリーの宗教的・道徳的教え]](ガザーリー、1921英訳サイード・ナワーブ・アリ)(導入のみ)
* [[鳩の書]](''Book of the Dove'' [[w:ja:バル・ヘブラエウス|バル・ヘブラエウス]]、1919英訳 A.J. ヴェンシンク)(入力中)
* [[蜂の書]](''The Book of the Bee'' アフラトのソロモン、英訳 [[w:ja:ウォーリス・バッジ|ウォーリス・バッジ]])(入力中)
* [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作]](ジョン・パーカー、1897)(目録)
** [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作/神名論|神名論]](完)
** [[ディオニュシオス・アレオパギテスの著作/神秘神学|神秘神学]](完)
* [[修道院の制度について]] "De coenobiorum institutis"(ヨハネス・カッシアヌス)
* [[コラティオネス]](ヨハネス・カッシアヌス)(未完)
* [[信仰について (アンブロシウス)]](完)
* [[マルコ福音書注解 (アンセルムス・ラウドゥン)]](グロッサ・オルディナリア)(未完)
* [[聖バルラームと聖ヨサファトの生涯]](ダマスコのヨハネ)(未完)
* [[神の言葉の誕生について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス)(完)
* [[ホモウシオスの受容について]](ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス)(完)
* [[砂漠を讃えて]](リヨンのエウケリウス)(完)
* [[聖書霊的解釈の定式]](リヨンのエウケリウス)(未完)
* [[神の統治について]](マルセイユのサルヴィアヌス)(完)
* [[論考 (ヴェローナのゼノ)]](完)
* [[言葉の受肉について]] [[s:la:De incarnatione Verbi|De incarnatione Verbi]](オリゲネス)(完)
* [[観想生活について]] [[s:la:De vita contemplativa|De vita contemplativa]](ユリアヌス・ポメリウス)
* [[歴史 (オロシウス)]] [[s:la:Historiae (Orosius)|Historiae (Orosius)]](オロシウス)
* [[詩篇の解説 (カッシオドルス)]] [[s:la:Expositio in Psalterium (Cassiodorus)|Expositio in Psalterium (Cassiodorus)]](カッシオドルス)
* [[説教 (アマセアのアステリウス)]]
**[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教1|説教1]] 金持ちとラザロ
**[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教2|説教2]] 不正な管理人
**[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教3|説教3]] 貪欲に対する戒め
**[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教4|説教4]] カレンダ祭について
**[[説教 (アマセアのアステリウス)/説教5|説教5]] 離婚について
*[[実証2 (アフラハト)]] デモンストレーション/愛について(完)
*[[実証7 (アフラハト)]] デモンストレーション/悔悛について
*[[はしご (ヨハネ・クリマコス)]] (楽園への梯子)(未完)
:::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]]
————————————
* [[イェルサリム大主教聖キリール教訓]](エルサレムのキュリロス)
* [[聖金口イオアン教訓下]](ヨハネ・クリュソストモス)
* [[シリヤの聖エフレム教訓]]
* [[正教要理問答]]
* [[通俗正教教話]](府主教フィラレート)
* [[聖詠講話上編]](ヨハネ・クリュソストモス)
* [[聖詠講話中編]]
* [[新約聖書譬喩略解]]
* [[祈祷惺々集]] {{註|祈りと清醒の教訓集。隠修者フェオファン編集。}}
*#[[祈祷惺々集/我等が聖神父階梯著者イオアンの教訓(1)]]
*#[[祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書(1)]]
*#[[祈祷惺々集/克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教(1)]]
*#[[祈祷惺々集/シリヤの聖イサアクの教訓(1)]]
*#[[祈祷惺々集/聖なる大老ワルソノフィイ及びイオアンの教訓(1)]]
:(ヨハネ・クリマクス、シナイのヘシュキオス、シナイのフィロテオス、シリアのイサアク、ガザのバルサヌフィオス)
* [[埃及マカリイ全書]](著者は擬マカリオス)
* [[ニケア信経]](ニケア・コンスタンチノープル信経)
* [[使徒信経(天主公教会1911年)]]
* [[使徒信経(日本聖公会1941年)]]
* [[アタナシオ信経]]
* [[信経問答]]
* [[十誡問答]]
* [[吉利支丹文学抄/吉利支丹文学概説及び原本の解題]]
* [[さんぺいとろの御作業 (新漢字)]]
* [[さんふらんしすこの御作業 (新漢字)]]
* [[さんゑうすたきよの御作業]]
* [[こんてむつすむんぢ抄 (新漢字)]](『キリストに倣いて』)
* [[でうすの御性体と御善徳の事 (新漢字)]](『ぎや・ど・ぺかどる』)
* [[御扶けの御恩の事 (新漢字)]]( 同 ){{註|ぎやどぺかどるは興味深い。}}
* [[善人達のよきこんしゑんしやの悦びの事 (新漢字)]]( 同 )
* [[世界と悪の執着に引るゝ人の迷ひを導く事 (新漢字)]]( 同 )
* [[瞋恚に対する了簡の事 (新漢字)]]( 同 )
* [[ほるたれざといふ強き心の事 (新漢字)]]( 同 )
* [[けれいど並びにひいですのあるちごの事 (新漢字)]](『どちりな・きりしたん』)
* [[でうすの御掟十のまだめんとすの事 (新漢字)]]( 同 )
* [[詩四篇・三十一篇・九十一篇(日本聖公会訳)]](+詩百三十四)
* [[詩九十二篇・九十五篇・九十八篇・百篇(日本聖公会訳)]]
* [[詩七十一篇・百十六篇(日本聖公会訳)]](+詩百二十七、詩百三十)
* [[詩二十三篇・三十九篇・九十篇(日本聖公会訳)]]
* [[詩五十一篇]](詩篇第五十一、第五十聖詠)
* [[人類の忘恩に対する償の祈祷]]
:::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]]
===15. 典礼・奉神礼===
* [[ミサ通常文・キリエ・グロリア]](カトリック)
::(+クレド・サンクトゥス・ベネディクトゥス・アニュスデイ)
* [[神聖なる聖体礼儀の歌章の次第]](正教会)
* [[大齋の晩課及び先備聖体礼儀の「主よ爾に籲ぶ」]](正教会)
* [[八調の品第詞(ステペンナ)]](正教会){{註|聖詠119~133を題材にした祈祷文}}
* [[大斎第一週間奉事式略]](おおものいみだいいっしゅうかんほうじしき)
**[[大斎第一週間奉事式略 2]](火曜日)
**[[大斎第一週間奉事式略 3]](水曜日)
**[[大斎第一週間奉事式略 4]](木曜日)(未完)
* [[聖パスハの奉事]](未完)
* [[信経]](正教会)
* [[聖詠経]] ([[w:日本ハリストス正教会|日本正教会]]翻訳)
* [[マトフェイ伝06]]
* [[マトフェイ伝07]]
————————————
===16. 仏教===
* [[正信念仏偈 (意訳聖典)]]
* [[歎異抄 (意訳聖典)]]
** [[歎異抄 (意訳聖典 新漢字)]]
* [[蓮如上人御文章 (意訳聖典)]]
* [[七箇條の起請文 (浄土宗全書)]](別名:念仏行者訓條)
* [[横川法語]]{{註|恵心僧都、源信}}
* [[十二問答]]
* [[十二箇條問答]]{{註|法然上人の人柄が優しい。}}
* [[黒田の聖人へつかはす御文]](別名:一紙小消息)
* [[或女房に示されける法語]]
* [[常に仰られける御詞 (法然上人全集)]]
* [[平重衡に示す御詞 (法然上人全集)]]
* [[甘糟太郎忠綱に示す御詞 (法然上人全集)]]
* [[元强盜の張本なりし教阿に示す御詞 (法然上人全集)]]
* [[御臨終の時門弟等に示されける御詞 (法然上人全集)]]
* [[消息法語 (一遍上人語録)]]
* [[門人伝説 (一遍上人語録)]]{{註|興味深い。}}
* [[仏説阿弥陀経 (昭和新纂経典部)]]
===17. イスラム教===
* [[短い信条]](ガザーリー、1903英訳ダンカン・B・マクドナルド)(完)
* [[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え]](ガザーリー、1921英訳サイード・ナワーブ・アリ)(未完)
**[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第1章|1. 人間の本質]]
**[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第2章|2. 人間の自由と責任]]
**[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第3章|3. プライドと虚栄心]]
**[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第4章|4. 友情と誠実さ]]
**[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第5章|5. 愛の本質と人間の最高の幸福]]
**[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第6章|6. 神の唯一性]]
**[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第7章|7. 神の愛とそのしるし]]
**[[アル・ガザーリーの宗教と道徳の教え/第8章|8. リザ、すなわち神の意志への喜びに満ちた服従]]
===18. ユダヤ教===
* [[ユダヤ古代誌]] [[s:en:The Antiquities of the Jews|The Antiquities of the Jews]](フラウィウス・ヨセフ)(未完)
===19. ギリシャ・ローマ哲学===
* [[トゥスクルム荘対談集]](キケロ)(完)
* [[新プラトン主義哲学者断片集/サッカス (ブイエ訳)]](アンモニオス・サッカス)
==その他==
* [[皇室典範 (令和8年7月24日)]]
==加筆項目==
{{resize|120%|この利用者が加筆したもの}}
* [[聖詠経]](ふりがなを付加)
** [[第一「カフィズマ」]]
** [[第二「カフィズマ」]]
** [[第三「カフィズマ」]]
** [[第四「カフィズマ」]]
** [[第五「カフィズマ」]]
** [[第六「カフィズマ」]]
** [[第十七「カフィズマ」]]
** [[第十八「カフィズマ」]]
** [[第十九「カフィズマ」]]
** [[第二十「カフィズマ」他]]
* [[コンチリサンの略]]{{註|Contrição/Contrition:悔い改め、懺悔という意味}}
* [[白骨の御文]]
* [[主の祈り]]
==リダイレクト==
* [[ディダケー (Riddle translation)]] → [[ニカイア以前の教父たち/第7巻/十二使徒の教訓/十二使徒の教訓]]
{{resize|120%|サブページ}}
* [[利用者:村田ラジオ/sandbox]] ウェブスター改訂聖書
* [[利用者:村田ラジオ/sandbox2]] マカリオス 大書簡
* [[利用者:村田ラジオ/sandbox3]] ばるらあんと聖じょさはつの御作業 <strike>信仰について 第5巻、ルカ福音書の解説 第8巻</strike>
* [[利用者:村田ラジオ/sandbox4]] 第6論文 <strike>第5論文</strike> <strike>第4論文</strike> <strike>第3論文</strike> <strike>トゥスクルム荘対談集</strike> <strike>聖バルラームと聖ヨサファトの生涯</strike>
* [[利用者:村田ラジオ/common.js]]
:::[[利用者:村田ラジオ#1. 聖イサク|トップに戻る]]
-----
===忘備録===
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ニネベのイサアク神秘論文集
0
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2026-10-20T21:03:52Z
村田ラジオ
14210
関連項目
246789
wikitext
text/x-wiki
{{Pathnav|Wikisource:宗教|hide=1}}
{{header
| title = ニネベのイサアク神秘論文集
| section =
| next=[[ニネベのイサアク神秘論文集/第1論文|第1論文]]
| year = 1923
| 年 =
| override_author = [[作者:シリアのイサアク|ニネベのイサアク]] (7世紀)
| override_translator = [[作者:アレント・ヤン・ヴェンシンク|A. J. ヴェンシンク]]
| noauthor =
| notes =
*底本: [[w:ru:Arent Jan Wensinck|A. J. Wensinck]], "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC)
*ウィキソースによる日本語訳
}}
==序文==
*[[/序文|序文]]. . . . . . p.05
*コンテンツ. . . . . . p.07
==導入==
*[[/導入|導入]]. . . . . . p.12
**[[/導入/本文とギリシャ語訳|本文とギリシャ語訳]]. . . . . . p.12
**[[/導入/イサアクの年齢と人物|イサアクの年齢と人物]]. . . . . . p.17
**[[/導入/イサアクの神秘的な思想のスケッチ|イサアクの神秘的な思想のスケッチ]]. . . . . . p.23
**[[/導入/オリエント思想におけるイサアクの位置|オリエント思想におけるイサアクの位置]]. . . . . . p.45
== 目録 ==
=== ニネベのイサアク神秘論文集 ===
論文1-6: 6つの論文、{{r|優|すぐ}}れた行いについて。
*[[ニネベのイサアク神秘論文集/第1論文|第1論文]](シリア語 - [[:en:Paul Bedjan|ベジャン]]). . . . . . p.001
*[[ニネベのイサアク神秘論文集/第2論文|第2論文]]. . . . . . p.007
*[[ニネベのイサアク神秘論文集/第3論文|第3論文]]. . . . . . p.014
:*魂にとって自然な状態はどのようであるか。自然に反する状態はどのようであるか。その自然を超えた状態とは何か。
:*2番目の質問
:*3番目の質問
:*心の純粋さとは何か。
:*知性の純粋さと心の純粋さの違いは何か。
:*私たちが陥らないように祈らなければならない誘惑とは何か。
:*この件に関して、人間の弱さに応じて御言葉を計られる主の憐れみに感謝する。
*[[ニネベのイサアク神秘論文集/第4論文|第4論文]]. . . . . . p.028
*[[ニネベのイサアク神秘論文集/第5論文|第5論文]]. . . . . . p.042
*[[ニネベのイサアク神秘論文集/第6論文|第6論文]]. . . . . . p.055
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第7論文|第7論文]]: 他の主題については章ごとに短い段落で。神への信頼の性質と、どのような人に神への信頼が生まれるかについて。さらに人は神を信頼するとき、自分の心の状態に応じて力を持つようになること。そして愚かにも識別力もなく信じる者について。. . . . . . p.067
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第8論文|第8論文]]: 人が心から神に近づくのに役立つものは何であるか。助けが{{r|密|ひそ}}かに近づくのはなぜであるか。人が謙虚さに近づくのは、どのような原因によって起こるか。. . . . . . p.070
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第9論文|第9論文]]: 意図的かつ悪意を持って[犯された]罪と、偶然に[犯された]罪について。. . . . . . p.074
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第10論文|第10論文]]: 人が生ける神を完全に放棄してしまわないように、病気の患者に対するように聖書の言葉がいわば節度をもって語られることについて。 しかし私たちが罪を犯すことにおいて、それが原因となってより自由になってはならないこと。. . . . . . p.078
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第11論文|第11論文]]: 修道士の生活の美しさがどのように保たれるのか。そしてそれがどのように神に栄誉を帰する原因となり得るのか。. . . . . . p.080
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第12論文|第12論文]]: この世を放棄し真理を探し求めに出た神の僕が、真理が見つからないのではないかという恐れから、あるいは欲望から生まれる熱のために真理を求めることをやめることは美しいことではないということ。神聖なものについて、あるいは神秘的に説明されるその奥義を探求することによって、心は邪悪な惑いや情念の想起から遠ざかることができること。. . . . . . p.082
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第13論文|第13論文]]: この[霊的]方法に関して神が正当に命じられたように、黙想生活に生きる人々に訪れるさまざまな状態について。悲しみと精神的な息苦しさ、そして突然現れる喜びと楽しみ、熱意と並外れた強さについて。私たちの道を命じた神に讃美を、アミン。. . . . . . p.084
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第14論文|第14論文]]: 孤独の中で修行する人たちが、黙想の生活という計り知れない海の中で自分たちがどのように奉仕して進歩してきたかを、わずかながらでも理解し始めるのはいつなのかということについて。そうすることで、彼らは自分たちの努力が実を結び始めることにある程度の自信を持つことができるということ。. . . . . . p.085
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第15論文|第15論文]]: 黙想生活における進歩の過程について、簡潔かつわかりやすく。そしてその美徳がどのようにしていつ生まれるのかという問題について。. . . . . . p.087
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第16論文|第16論文]]: 孤独の中で仕事から解放されることが魂にとってどれほど有益であるか、最近自分自身について洞察力を持ち始めたばかりの初心者の精神に他の人々との面会・交流がどれほど害を及ぼすか。そして肉体的な仕事が必然的に黙想者に神の業において欠乏をもたらすことがどのように明らかであるか。. . . . . . p.089
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第17論文|第17論文]]: 徹夜の甘美な行いを通して啓示される神への短い祈りについて、そして徹夜の行いに身を捧げる者は生涯を通じて蜜によって支えられるということについて。. . . . . . p.091
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第18論文a|第18論文(a)]]: 私が老人たちから聞いたこと。聖なる人々の話、彼らの敬虔な言葉と素晴らしい行動について。彼らの祈りによって神が私たちを守ってくだるように、アミン。. . . . . . p.095
:[[ニネベのイサアク神秘論文集/第18論文b|第18論文(b)]]: もう一人の隠修者について。
:[[ニネベのイサアク神秘論文集/第18論文c|第18論文(c)]]: 他のもう一人の隠修者について。
:[[ニネベのイサアク神秘論文集/第18論文d|第18論文(d)]]: 正しい独居修行に関するある師父の忠告。
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第19論文|第19論文]]: 幻視の中で聖人たちに起こる力の啓示について。. . . . . . p.105
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第20論文|第20論文]]: 啓示や霊的ビジョンの作用に関連した、さまざまな理解可能な心の力について。. . . . . . p.109
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第21論文|第21論文]]: 独居修行の中で[生きる人々に]祈りの間に起こることについて。. . . . . . p.110
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第22論文|第22論文]]: 祈りの中でのさまざまな[経験]と精神の力の限界について。そして、祈りのさまざまな習慣によって、その恣意的な衝動をどこまで動かす力があるのか。そして、祈りの際に自然に規定された限界、つまり祈りが超えることが許されない限界とは何であるか。そして、それが過ぎてさらに進んだとき、起こっていることが祈りという名で呼ばれているとしても、それはもはや祈りではないということ。. . . . . . p.111
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第23論文|第23論文]]: 真の知識についての談話。. . . . . . p.118
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第24論文|第24論文]]: 兄弟が彼の居室で与えられるものについて。. . . . . . p.120
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第25論文|第25論文]] (a): 深い瞑想を求める魂が、それに没入し、想起された事物から生じる肉体的な思索から離れる契機。. . . . . . p.124
::(b): 最高位の名称に関する別のより明確な[説明]。. . . . . . p.127
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第26論文|第26論文]]: 「もし神が善であるのなら、なぜ神はこれらのことを起こすのですか」と言う人たちに対して。. . . . . . p.128
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第27論文|第27論文]]: 人間性はどのように多様な方法で非物質的存在を知覚するのか。. . . . . . p.132
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第28論文|第28論文]]: スボタ{{註|聖土曜日}}と日曜日の理論に関する象徴的な実証。. . . . . . p.136
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第29論文|第29論文]]: 弟子を教育する際の賢明な摂理の様々な優れた方法について。. . . . . . p.138
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第30論文|第30論文]]: 罪の力と邪悪な働きについて。そして罪が維持されている人々と罪が消滅させられている人々について。. . . . . . p.141
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第31論文|第31論文]]: 賢明な働きが抱える苦難や堕落の危険について。. . . . . . p.145
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第32論文|第32論文]]: 心を守る目的と、心中の棲家への精緻な観察について。. . . . . . p.146
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第33論文|第33論文]]: 神の愛の働きについて。. . . . . . p.148
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第34論文|第34論文]]: 徳の種類などについて。. . . . . . p.149
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第35論文|第35論文]]: 絶え間ない行動とあらゆる種類の道徳を考慮した問答形式の論文。これらは、世間を脱ぎ捨てて荒野に住む人々、隠遁生活を送っている人々、そして常に自発的に屈辱を感じて義の栄冠を目指している人々にとって非常に有益である。. . . . . . p.152
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第36論文a|第36論文(a)]]: 世上の狭き道を歩む者たちに対して悪魔が戦いを仕掛ける様々な方法について。. . . . . . p.180
:[[ニネベのイサアク神秘論文集/第36論文b|第36論文(b)]]: 防御の装備を固めた者たちに対して悪魔が戦いを仕掛けるもう一つの方法。. . . . . . p.184
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第37論文|第37論文]]: 私が識別の知識によって学んだ、その正確な使用法について。. . . . . . p.188
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第38論文|第38論文]]: 心の衝動の区別に関する短い文章。. . . . . . p.194
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第39論文|第39論文]]: 愛に基づいた有益な助言。. . . . . . p.197
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第40論文|第40論文]]: 道の段階、すなわちそれぞれの務めの権限に関する解説。. . . . . . p.202
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第41論文|第41論文]]: 彼が孤独を愛する兄弟の一人に宛てて書いた手紙には、親類や名誉ある人々への愛を口実として、悪魔がどのようにして熱心な人たちを絶え間ない孤独からそらそうと画策しているかについて書かれていた。そして、私たちの祖先の例に見られるように、孤独の中で見出される神の知識と比較して、[孤独な人々の]目にはすべてが軽んじて見られるべきであると考えられている。. . . . . . p.205
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第42論文|第42論文]]: 彼が、この地に訪ねてくるよう手紙で説得しようとした、同胞で精神的にも兄弟である人物に送った返答。. . . . . . p.209
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第43論文|第43論文]]: 霊的な知恵に満ちた有益な言葉。. . . . . . p.210
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第44論文|第44論文]]: 知識の程度と信仰の程度について。. . . . . . p.212
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第45論文|第45論文]]: 有益な助言。. . . . . . p.215
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第46論文|第46論文]]: その他の考慮事項。. . . . . . p.221
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第47論文|第47論文]](a): 霊的な事柄における魂の教育のために神の摂理によって私たちの中に湧き上がる天使のような感情について。. . . . . . p.225
::(b): 人間への第二の働きについて。. . . . . . p.226
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第48論文|第48論文]]: 魂が常にさらされる光と闇の様々な状態と、右手と左手の事柄において魂が獲得する訓練について。. . . . . . p.227
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第49論文|第49論文]]: 知識の修練を歩む者に孤独の間に降りかかる暗い闇について。. . . . . . p.228
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第50論文|第50論文]]: 神への畏れを口実にした愚かな熱意によって引き起こされる損害と、静寂から生じる利益を示す。様々な考察を含む短い教訓集。 他の主題を含む。. . . . . . p.230
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第51論文|第51論文]]: 知識の3つの段階とその奉仕と衝動との区別、魂の信仰とその中に隠された神秘の宝について。そしてその手段における世俗の知識が信仰の単純さと比較して、どの程度反しているかについて。. . . . . . p.242
:第51論文(a): 知識の第一段階。
:第51論文(b): 知識の第二段階。
:第51論文(c): 知識の第三段階。つまり完全な段階。
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第52論文|第52論文]]: 知識の衝動の区別に関する別の主題に関する短いセクション。. . . . . . p.253
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第53論文|第53論文]]: 祈りと、絶えず思い出すことが必然的に求められ、人が区別して唱え、保持することが非常に有益であるその他の事柄について。. . . . . . p.254
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第54論文|第54論文]]: マゲナヌータ{{註|maggenanutha:助けと後見}}に関するその他の説明。. . . . . . p.261
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第55論文|第55論文]]: 魂の中に隠された警戒心をどのように保てばよいのか。 眠気と冷たさがどのようにして心に侵入し、魂から聖なる熱意を追い出し、霊的で天的に望ましいものに向かう神聖な願望を減殺してしまうか。. . . . . . p.263
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第56論文|第56論文]]: 人の生命に関する美しい考察。. . . . . . p.265
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第57論文|第57論文]]: 神の愛のための忍耐がどのようにして神の助けを得るのか。. . . . . . p.268
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第58論文|第58論文]]: 神の近くに住み、認識の生活の中で日々を過ごす人々について。. . . . . . p.273
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第59論文|第59論文]]: 有益な談話。. . . . . . p.278
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第60論文|第60論文]]: 必然性がなければ、何らかのしるしが私たちを通して、あるいは私たちに明らかに起こることを望んだり求めたりしてはならないこと。. . . . . . p.281
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第61論文|第61論文]]: 神は何のために神を愛する人たちへの誘惑を許すのか。. . . . . . p.286
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第62論文|第62論文]]: 人の中に湧き起こる思考によって、自分がどの段階に属し、どのような思考が続くかを知ることができるということ。. . . . . . p.288
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第63論文|第63論文]]: 認識の心理状態にある人々は、なぜ肉体の粗雑さに応じて霊的なことを考えるのか。また精神がそれを超えて高揚する可能性はどのようにあるのか。また私たちがそこから解放されない原因は何であるか。祈りのときに心はいつどのようにしてイメージなしでいることができるのか。. . . . . . p.293
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第64論文|第64論文]]: 心中に起こる、祈りによって浄化されるさまざまな状態について。. . . . . . p.296
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第65論文|第65論文]]: 心の警戒に関する指示、および人が高位の状態を獲得するための修行の方法に関する指示を与える良い助言。. . . . . . p.297
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第66論文|第66論文]]: 彼が友人に送った手紙での独居修行の神秘について。また多くの人がこの素晴らしい奉仕を知らないために、この奉仕を無視して彼らの主要な部分は居室に座ることに拘っているのはなぜか。これが現在の修道士の伝統である。独居修行を実践する人に役立つ短い名言集とともに。. . . . . . p.312
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第67論文|第67論文]]: 理解可能なものの識別に関して例をあげ、それぞれの使い方を示しての説明。. . . . . . p.316
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第68論文|第68論文]]: 短いセクション。. . . . . . p.318
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第69論文|第69論文]]: 思慮ある者はどのように黙想を務めるべきか。. . . . . . p.321
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第70論文|第70論文]]: 私たちは、自分の努力のさまざまな識別によって子供じみた判断をすることなく、精神のさまざまな状態によって自分の行動の程度を理解できるということ。ただ日々その中で密かに感じられる喜びによって自分の魂の程度を賢者として認識すべきであるということ。初期知識の微妙な順序。. . . . . . p.324
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第71論文|第71論文]]: 恩寵から生じる影響について。. . . . . . p.328
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第72論文|第72論文]]: 真の知識と誘惑について。弱くて取るに足らない、教育を受けていない人々だけでなく、一時的に無欲に値するとみなされ心の完成に達し、ここまで部分的純粋に近づいている人々においても死すべき運命と共存しており、情愛を超えた高揚感を獲得していること。この世界において感情的な肉体での生活と組み合わせることが神によって許されている限りにおいては、肉体のために苦しみ、情愛によって傷つけられなければならないのは、彼らにとっても同様である。ある程度の傲慢さの危険性と、何度も罪を犯し、再び受け入れてくれる悔い改めの恵みによって自分自身を癒すため、慈悲の中で[誘惑]を継続的に受けることが必要とされていること。. . . . . . p.332
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第73論文|第73論文]]: [前述の] セクションの簡潔な意味と、これまでに述べられた内容の説明。. . . . . . p.337
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第74論文|第74論文]]: 徳の識別、全過程の範囲、人類への愛の偉大さ、そして人類に注がれる豊かな愛によって聖人の中に神に似たものを創造している霊的目的について。. . . . . . p.341
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第75論文|第75論文]]: 隠された状態と、そこに存在する力と影響力について。. . . . . . p.348
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第76論文|第76論文]]: 短い言葉。. . . . . . p.350
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第77論文|第77論文]]: この章は生命力に満ちている。. . . . . . p.352
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第78論文|第78論文]]: 世俗からの逃避によって得られる利益について。その方法は師父たちが慎重な検討を通じて考え出したものである。. . . . . . p.360
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第79論文|第79論文]]: 隠れた衝動が外面的な行動の変化に応じてどのように変化するか。. . . . . . p.361
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第80論文|第80論文]]: 徹夜祷とその間の様々な種類の労働について。そして私たちの労働の目的は、量を達成することではなく、父とともに働く神の子として自由に識別をもって愛の警戒心に働くことになりつつあるということ。徹夜の労働が他のすべての義務よりもどれほど貴重であるかということ。そしてこの労働がそれを選択する人々に課すもの、その中でどのように歩まなければならないかということ。神によって価値があるとみなされる賜物について。この世界の主要な部分との戦いについて。. . . . . . p.366
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第81論文|第81論文]]: 私たちの主が慈悲を天の御父の偉大さに似たものと定義されたのに、なぜ独居修行者たちはそれ以上に孤独を重んじるのかと尋ねた兄弟への回答。そしてこの点と、苦しんでいる人や病人が近くにいるときに無視することはできないということの弁明。. . . . . . p.379
[[ニネベのイサアク神秘論文集/第82論文|第82論文]]: 謙虚さはどれほどの名誉を持ち、その地位はどれほど高尚であるかということ。. . . . . . p.384
目録/終わり
== 出典 ==
*底本: A. J. Wensinck, "Mystic Treatises by Isaac of Nineveh". Amsterdam: De Akademie, 1923(ENGLISH FROM SYRIAC)
*https://syri.ac/brock/isaac
*https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Isaac_of_Nineveh_-_Mystic_Treatises.pdf
== 関連項目 ==
*[[シリヤの聖イサアク全書]]
*[[禁欲的説教 (1854年ロシア語訳)]]
== 参考文献 ==
*[[w:ja:シリア人イサクの禁欲的説教]]
*[[w:en:The Ascetical Homilies of Isaac the Syrian]](英語版ウィキペディア)
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*底本:
成島司直 等編 [他]『徳川実紀』第4編,経済雑誌社,明治37. {{NDLJP|1917856}}}}
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*底本:
成島司直 等編 [他]『徳川実紀』第4編,経済雑誌社,明治37. {{NDLJP|1917856}}}}
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*[[/卷卅七|卷卅七]]○元祿十一年正月―六月
*[[/卷卅八|卷卅八]]○元祿十一年七月―十二月
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東照宮御実紀
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| notes = [[:w:江戸時代|江戸時代]]後期、幕府編纂の史書。総裁は[[:w:林述斎|林述斎]]、編述は[[:w:成島司直|成島司直]]ほか。江戸幕府の初代将軍[[:w:徳川家康|徳川家康]](在職:慶長8年(1603年) - 慶長10年(1605年))の記録 - 10巻/(附録25巻),全書は編年体で、徳川家康時代を知る上で重要な史料である。ただし、本書の一部の記述は批判的に参考にすべきである。
*底本:
成島司直 等編 [他]『徳川実紀』第1編,経済雑誌社,明治37. {{NDLJP|1917811}}}}
{{検索|東照宮御実紀}}
*[[/卷一|卷一]] 世系 自天文十一年至同十八年
*[[/卷二|卷二]] 自弘治二年至天正五年
*[[/卷三|卷三]] 自天正六年至同十六年
*[[/卷四|卷四]] 自天正十七年至慶長八年正月
*[[/卷五|卷五]] 自慶長八年二月至同年四月
*[[/卷六|卷六]] 自慶長八年五月至同年九月
*[[/卷七|卷七]] 自慶長八年十月至同年十二月
*[[/卷八|卷八]] 自慶長九年正月至同年六月
*[[/卷九|卷九]] 自慶長九年七月至同年十二月
*[[/卷十|卷十]] 自慶長十年正月至同年四月
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国際刑事裁判所に関するローマ規程/目次
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| year = 1998
| wikipedia = 国際刑事裁判所に関するローマ規程
| portal = 司法制度
| notes =
'''国際刑事裁判所に関するローマ規程'''の目次。
* [https://www.icc-cpi.int/sites/default/files/2025-05/Rome-Statute-EN-2025.pdf 2025年英語版目次]の翻案 __NOTOC__
{{現行法令掲載}}
}}
=== [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#前文|前文]] ===
=== 第1部 裁判所の設立(第1条 – 第4条)===
:: [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a1|裁判所]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a2|裁判所と国際連合との連携関係]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a3|裁判所の所在地]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a4|裁判所の法的地位及び権限]]
===第2部 管轄権、受理許容性及び適用される法(第5条 – 第21条)===
:: [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a5|裁判所の管轄権の範囲内にある犯罪]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a6|集団殺害犯罪]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a7|人道に対する犯罪]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a8|戦争犯罪]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ#a8bis|侵略犯罪]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a9|犯罪の構成要件に関する文書]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a10|時間についての管轄権]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a12|管轄権を行使する前提条件]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a13|管轄権の行使]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a14|締約国による事態の付託]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a15|検察官]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ#a15bis|侵略犯罪に関する裁判実務(国家による付託、職権による付託)]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ#a15tar|侵略犯罪に関する裁判実務(安全保障理事会による付託)]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a16|捜査又は訴追の延期]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a17|受理許容性の問題]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a18|受理許容性についての予備的な決定]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a19|裁判所の管轄権又は事件の受理許容性についての異議の申立て]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a20|一事不再理]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a21|適用される法]]
=== 第3部 刑法の一般原則(第22条 – 第33条) ===
:: [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a22|「法なくして犯罪なし」]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a23|「法なくして刑罰なし」]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a24|人に関する不遡及]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a25|個人の刑事責任]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a26|十八歳未満の者についての管轄権の除外]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a27|公的資格の無関係]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a28|指揮官その他の上官の責任]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a29|出訴期限の不適用]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a30|主観的な要素]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a31|刑事責任の阻却事由]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a32|事実の錯誤又は法律の錯誤]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a33|上官の命令及び法律の規定]]
===第4部 裁判所の構成及び運営(第34条 – 第52条)===
:: [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a34|裁判所の機関]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a35|裁判官の職務の遂行]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a36|裁判官の資格、指名及び選挙]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a37|裁判官の空席]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a38|裁判所長会議]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a39|裁判部]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a40|裁判官の独立]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a41|裁判官の回避及び除斥]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a42|検察局]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a43|書記局]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a44|職員]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a45|厳粛な約束]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a46|解任]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a47|懲戒処分]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a48|特権及び免除]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a49|俸給、手当及び経費]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a50|公用語及び常用語]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a51|手続及び証拠に関する規則]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a52|裁判所規則]]
===第5部 捜査及び訴追(第53条 – 第61条)===
:: [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a53|捜査の開始]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a54|捜査についての検察官の責務及び権限]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a55|捜査における被疑者の権利]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a56|得難い捜査の機会に関する予審裁判部の役割]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a57|予審裁判部の任務及び権限]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a58|予審裁判部による逮捕状又は召喚状の発付]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a59|拘束を行う国における逮捕の手続]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a60|裁判所における最初の手続]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a61|公判前の犯罪事実の確認]]
===第6部 公判(第62条 - 第76条)===
:: [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a62|公判の場所]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a63|被告人の在廷による公判]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a64|第一審裁判部の任務及び権限]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a65|有罪の自認についての公判手続]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a66|無罪の推定]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a67|被告人の権利]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a68|被害者及び証人の保護及び公判手続への参加]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a69|証拠]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a70|裁判の運営に対する犯罪]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a71|裁判所における不当行為に対する制裁]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a72|国家の安全保障に関する情報の保護]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a73|第三者の情報又は文書]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a74|判決のための要件]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a75|被害者に対する賠償]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a76|刑の言渡し]]
===第7部 刑罰(第77条 – 第80条)===
:: [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a77|適用される刑罰]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a78|刑の量定]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a79|信託基金]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a80|国内における刑罰の適用及び国内法への影響の否定]]
===第8部 上訴及び再審(第81条 – 第85条)===
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===第9部 国際協力及び司法上の援助(第86条 – 第102条)===
:: [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a86|協力を行う一般的義務]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a87|協力の請求についての一般規定]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a88|国内法の手続の確保]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a89|裁判所への人の引渡し]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a90|請求の競合]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a91|逮捕及び引渡しの請求の内容]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a92|仮逮捕]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a93|他の形態の協力]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a94|進行中の捜査又は訴追に関する請求内容の実施の延期]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a95|受理許容性についての異議の申立ての際の請求内容の実施の延期]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a96|第93条に規定する他の形態の援助についての請求の内容]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a97|協議]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a98|免除の放棄及び引渡しへの同意に関する協力]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a99|第93条及び第96条の規定に基づく請求内容の実施]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a100|費用]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a101|特定性の原則]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a102|用語]] {{Mdash}}
===第10部 刑の執行(第103条 – 第111条)===
:: [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a103|拘禁刑の執行における国の役割]] {{Mdash}}[[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a104|刑を執行する国の指定の変更]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a105|刑の執行]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a106|刑の執行の監督及び拘禁の条件]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a107|刑を終えた者の移送]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a108|他の犯罪の訴追又は処罰の制限]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a109|罰金及び没収に係る措置の実施]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a110|減刑に関する裁判所の再審査]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a111|逃亡]]
===第11部 締約国会議(112条)===
:: [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a112|締約国会議]]
===第12部 財政(第113条 – 第118条)===
:: [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a113|財政規則]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a114|費用の支払]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a115|裁判所及び締約国会議の資金]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a116|任意拠出金]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a117|分担金の額の決定]] {{Mdash}} [[国際刑事裁判所に関するローマ規程#a118|年次会計検査]]
=== 第13部 最終規定(第119条 – 第128条) ===
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住居表示の実施についての告示 (平成16年仙台市告示第577号)
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| title = 住居表示の実施についての告示
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'''住居表示の実施についての告示'''(じゅうきょひょうじのじっしについての告示)
* 平成16年仙台市告示第577号
* 告示: 2004年(平成16年)5月10日 → [[#article|本文]]
* 底本: [https://web.archive.org/web/20060522013600/http://www.city.sendai.jp/soumu/bunsyo/kouhou/h160521/h160521.html 『仙台市公報』第1871号(2006年5月22日時点のアーカイブ)]
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<div>仙台市告示第577号</div>
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<div id="article">
<div style="text-indent:1em;">[[住居表示に関する法律#a3_2|住居表示に関する法律(昭和37年法律第119号)第3条第2項]]の規定により,街区符号及び住居番号をつけましたので,[[住居表示に関する法律#a3_3|同条第3項]]の規定により,[[#a_1|次]]のとおり告示します。</div>
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|-
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|-
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'''住居表示の実施についての告示'''(じゅうきょひょうじのじっしについてのこくじ)
* 平成16年仙台市告示第577号
* 告示: 2004年(平成16年)5月10日 → [[#article|本文]]
* 底本: [https://web.archive.org/web/20060522013600/http://www.city.sendai.jp/soumu/bunsyo/kouhou/h160521/h160521.html 『仙台市公報』第1871号(2006年5月22日時点のアーカイブ)]
* 関連告示: [[町の区域をあらたに画することについての告示 (平成16年仙台市告示第592号)|町の区域をあらたに画することについての告示]]
| category = 平成16年の仙台市告示
| category2 = 仙台市の町・字
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<div>仙台市告示第577号</div>
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<div id="article">
<div style="text-indent:1em;">[[住居表示に関する法律#a3_2|住居表示に関する法律(昭和37年法律第119号)第3条第2項]]の規定により,街区符号及び住居番号をつけましたので,[[住居表示に関する法律#a3_3|同条第3項]]の規定により,[[#a_1|次]]のとおり告示します。</div>
<div style="margin-left:1.5em;">平成16年5月10日</div>
<div style="text-align:right; margin-right:42px;">仙台市長 [[w:藤井黎|藤井 黎]]</div>
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| style="padding:0" |住居表示を実施すべき区域
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| style="padding:0" |住居表示の方法
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| style="padding:0" |街区符号及び住居番号
|-
| style="padding:0; text-indent:1em;" |別添の住居表示新旧(旧新)対照表及び住居表示案内図のとおり。
|-
| style="padding:0; text-indent:1em;" |ただし,住居表示新旧(旧新)対照表及び住居表示案内図の添付は省略し,仙台市市民局市民部区政課において備え付けます。
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<div style="text-align:right; margin-top:1em;">(市民局市民部区政課)</div>
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相対性理論
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|title=相対性理論
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|author=アルベルト・アインシュタイン
|translator=石原純
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* 書誌情報の詳細は[[{{TALKPAGENAME}}|議論ページ]]をご覧ください。
{{DEFAULTSORT:そうたいせいりろん}}
[[Category:青空文庫からインポートしたテキスト]]
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}}
<div class="jisage_10" style="margin-left: 10em"><span class="sho1" style="font-size: small;">(一九一一年一月一六日チューリッヒの自然科学会席上の講義)</span></div>
「相対性理論」と名づけられる理論が倚りかかっている大黒柱はいわゆる相対性原理{{註|[#「相対性原理」は底本では「相対性理論]}}です。私はまず相対性原理とは何であるかを明らかにしておこうと思います。私たちは二人の物理学者を考えてみましょう。この二人の物理学者はどんな物理器械をも用意しています。そして各々一つの実験室をもっています。一人の物理学者の実験室はどこか普通の場所にあるとし、もう一人の実験室は一定の方向に一様な速さで動く汽車の箱のなかにあるとします。相対性原理は次のことを主張するのです。もしこの二人の物理学者が彼等のすべての器械を用いて、一人は静止せる実験室のなかで、もう一人は汽車のなかで、すべての自然法則を研究するならば、汽車が動揺せずに一様に走る限り、彼等は全く同じ自然法則を見出すでありましょう。幾らか抽象的にこう云うことも出来ます。自然法則は相対性原理によれば基準体系の併移運動に関しません。
私達は今この相対性原理が旧来の力学でどんな役目をもっていたかをみましょう。旧来の力学は第一にガリレイの原理の上に安坐しています。この原理に従えば、ある物体は他の物体の作用を受けない限り、直線的な一様な運動にあります。もしこの法則が上に云うた実験室の一方に対して成り立つ{{註|[#「成り立つ」は底本では「成リ立つ」]}}ならば、それはまた第二に対しても成り立ちます。私達はそのことを直接に直観から取り出すことが出来ます。私達はそれをしかしまたニウトン力学の方程式からも引き出すことが出来るのです。私達はその方程式をもとの基準体系に対して一様に動いているものへ転換させればよいのです。
私はここで実験室と云っていますが、数理的物理学では事柄を一定の実験室に関係させる代りに坐標系に関係させるのが普通です。このようにある何かに関係させるという場合に本質的なのは次の事柄です。私達が一点の位置について何か云おうとするときには、いつも私達はこの点とある他の物体系の一点との合致を示し与えます。もし私が例えば自分をこの質点であると取り、そうして、私はこの部屋のなかのこの場所に居ると云いますなら、私は自分を空間的の関係でこの部屋のある点と合致させたのです。あるいは私はこの合致を云いあらわしたのです。数理的物理学ではこれを云い表わすのに、三つの数、すなわちいわゆる坐標によりて、場所を示そうとした点が坐標系と称えられる剛体体系のどの点と合致するかを云い表わします。
これは相対性原理について最も一般的のものであったのでしょう。もし私達が、十八世紀もしくは十九世紀前半の物理学者に、この原理を疑うかどうかを尋ねたとしましたなら、彼はきっとこの質問を断然否定したに違いありません。その当時は各の自然現象をすべて旧来の力学の方則に帰せしめられることが確かであるとしていましたから、それを疑う理由をちっとも持っていなかったのです。私はここで、物理学者が経験によってどうしてこの原理に矛盾する物理学的論理を立てるようになったかを説明しようと思います。そのために私達は光学及び電気力学の発展を、それらが前世紀において、漸次是認せられた限りにおいて、相対性原理の立場から簡単に考察してみなければなりません。
光はちょうど音波のように干渉や𢌞折を示します。ですから私達は光を一の波動としてもしくは一般にある媒質の週期的に変化する状態として見做さなくてはならないように感じさせられます。この媒質をエーテルと名づけました。かような媒質の存在は近頃までは物理学者に絶対に確かであるように見えました。次に述べる理論はエーテル仮説とは相容れないものですが、しかししばらく私達はこれに依ることにしましょう。私達は今この媒質に関してどんな考え方が発展されて来たか、またこのエーテルを仮定する物理学的理論を導き入れたためにどんな問題が起ったかをみようと思います。私達は既に、光がこの媒質の振動から成ると考えたこと、すなわちこの媒質は光及び熱の振動の伝播を引き受けていると考えた事を述べました。{{傍点|静止}}物体の光学的現象だけを取り扱っている間は、光がこの媒質の運動を起すと云う外に、それの別の運動を問題にするには及ばなかったのでした。単にこの媒質はそこで見ている物体と同様に――光が起すはずであった振動を取り除けば――静止の状態にあると仮定されました。
{{傍点|運動}}物体の光学的現象、並に――それと関聯して――運動物体の電磁気的性質を考察するようになったときに、私達はその観察する物理学的体系のなかで、物体に種々の速度を与えたならばエーテルはどうなるかと云う問題に向わなければなりませんでした。エーテルは物体と一緒に動くのでしょうか。すなわち各の場所でエーテルはそこにある物質と同じ様に動くでしょうか。またはそうではないのでしょうか。最も簡単な仮定はエーテルがどこでも物質と全く同じ様に動くと云うことです。第二の可能な仮定は、これもやはりかなりな簡単さを示すものですが、こうです。すなわちエーテルは物体の運動に全然与からないと云うのです。それからまた中間の場合も可能でありましょう。この中間の場合と云うのは、エーテルがある度まで物質と無関係に空間内に動くのです。私達は今、この問題の解答を得るためにどう云うことが試みられたかをみようと思います。最初に得られた重要な説明は仏国の物理学者フィゾーの行った大切の意味のある実験から来ています。この実験は次の問題から起されました。
[[File:Fig50328 01.png|thumb|第一図]]
図に示した管はその前後を硝子板で閉じてあり、両端の接続管から管を通じて軸の方向に液体を流すことが出来るようにしてあります。管を流れる液体の速度はやはり軸の方向に管を通る光線の伝播速度に、どう影響するでしょうか。エーテルが管を流れる物質と一緒に動くことが本当であるなら、次のように考えられます。静止した水のなかで光の進む速さが V であるとします。つまり V は水に対する光の速度であるとし、また <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}管に対する水の速度であるとしますと、私達はこう云わなくてはなりますまい。水に対する光の速度は、もしエーテルが水に固着しているなら水が動いていてもまたは動かずにいても、それには関せずにいつも同じであります。それですから管に対する光の伝播速度は液体が動いている場合には、これが静止している場合よりも、<math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math>だけ」]}}大きいと予期されます。フィゾーの実験では、二つの干渉し得る光線束が上述のように管を通りました。液体の運動速度が干渉の縞の処置に及ぼす影響からして、水の運動速度 <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}静止管に対する光の伝播速度にどれほどな影響を及ぼしたかを計算することが出来ました。フィゾーは、管に対する光速が液体の運動のために <math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math> だけ」]}}増されずに、かえってただその分数(<math>n</math> を液体の屈折率としますと <math>v(1-\frac{1}{n})</math> だけしか増さないことを見出しました。この屈折率がほとんど 1 に等しく、すなわち光が液体のなかでほとんど真空におけると同じ速さで進むとしますと、液体の運動はほとんど影響をもちません。この事から、光が水に対していつも同じ速度で進むと云う考え方は、経験と一致しないと結論しなければなりませんでした。
次に簡単な仮説は、エーテルが物質の運動に少しも与からないと云うことでした。この仮説に基づいては、光学的現象が物質の運動によってどう影響されるかを、そう簡単に導き出すわけにはゆきません。しかしローレンツは一八九〇年代の中頃に、全く動かないエーテルの仮定に基づく一つの理論を立てることに成功しました。彼の理論は運動体の光学及び電気学のほとんどすべての知られた現象を、その中にまた今述べたフィゾーの実験をも含めて、全く正しく与えます。私がすぐここで注意したいのは、ローレンツのと根本的に異った理論で、しかも簡単な判り易い仮定に基づき、そして同じことを為し遂げるようなものは、決して立てられなかったと云うことです。それですから、この範囲では静止エーテルの理論を、経験の全部と一致する唯一のものとして承け容れなければならなかったのでした。
私達はこの静止エーテルの理論を相対性原理の立場から観察しましょう。外力を受けない質点がある体系に関して一様に動いているならば、そう云うすべての体系を私達は非加速的のものとして云い表わします。そうしますと、相対性原理はこう主張するのです。自然法則はすべての非加速的体系に関しては同一であると、静止エーテルに関するローレンツの根本仮説は他方に、あらゆる可能な非加速的運動体系のうちで、一定の運動状態のもの、すなわちこの光の媒質に対して静止せる体系を特別に徴しづけます。それですから、たとえこの考えに従っても、哲学上の意味でのある絶対運動が存在するとは云うことは出来ませんけれども、――なぜならそれは全然見限られたことで、私達はただ物体の相対的な位置変化を考えることが出来るだけですけれども、――しかし私達が今一つの運動状態、すなわちエーテルに対する静止を特別に扱ったと云うことで、物理学的の意味で一つの絶対運動が形づくられます。私達はエーテルに関して静止する各の物体をどうにか絶対静止のものと云うことが出来ます。エーテルに対して静止せる基準系はあらゆるその他の加速しない基準系に対して特別のものとせられます。この意味でローレンツの静止エーテルの根本観念は相対性原理に適いません。静止エーテルの根本観念は次の一般的考察に導きます。一つの基準系 K がエーテルに対して静止しており、もう一つの他の基準系 K' はエーテルに対して一様に動いているとします。エーテルに関する K' の相対運動は K' に対して成り立つところの自然法則にある影響を及ぼすと云うことが期待せられるわけです。つまり K' に関する自然法則は K' のエーテル内における運動のために K に関する法則とは異っている事が期待せられるのでした。その上にまた地球は私達の実験室と共に一年全体の間この光の媒質に対して静止していることは出来ないので、それはすなわち K' なる基準系の役目をするはずであると云わなければなりませんでした。従ってこの運動の影響が私達の実験室における実験にあらわれるような何等かの現象が見出されることを仮定しなければならないのでした。私達の物理的空間は、これを地球上に在るとする限り、この相対運動のために方向によって異った性質をもつと信ずべきはずでした。けれども何等この様な事を実証することはどんな場合にも決して成功しませんでした。
ところでこのエーテルに対してはおもしろく思われませんでした。フィゾーの実験はエーテルが物質と一緒に動かないことを云いあらわします。すなわち光の媒質の物質に対する運動があるわけです。けれども、この相対運動を確立しようとするすべての実験は否定的の結果を与えました。つまりそこにはお互に矛盾する様に見える二つの結果があります。そしてこの不愉快な乖離を解放することが出来なかったことは、物理学者にとりて非常に痛ましい事でした。私達は、どんなにしても取り除けを見出すことの出来なかった相対性原理を、どうにかしてローレンツの理論と一致させることは出来ないであろうかと云うことを考究しなければなりませんでした。今それへ入り込む前に私たちは静止エーテルのローレンツ理論から最も本質的な部分を抽き出してみましょう。静止エーテルが存在すると云うことは物理学的に何を意味しているでしょうか。この仮説の最も大切な内容は次のように云いあらわすことが出来ます。それはここに一つの基準体系(ローレンツの理論で「エーテルに対して静止せる体系」と名づけられる)が存在していて、それに関しては真空中の各の光線が普遍的な速度 c をもって伝播すると云うことです。そしてこれは光を発する物体が静止していてもまたは動いていても、それに無関係に成立つと云う事です。この主張を私達は光速一定の原理と名づけましょう。そこで上に述べた問題はまた次の様な形式にすることも出来ます。取り除けなしに満足されるように見える相対性原理をこの光速一定の原理と結合させることは出来ないでありましょうか。次のように、ちょっと考えると、まずこれが否定されます。基準体系 K に対して各光線が速度 c で進むとしますと、これは K に対して運動している基準系 K' に対してもはや成り立ちません。すなわち K' が光線の進む方向に速度 <math>v</math> で{{註|[#「速度 <math>v</math> で」は底本では「速度 <math>V</math>で」]}}動いているならば普通の見方では K' に対する光線の速度は <math>c-v</math> に等しいとおかれるはずです。つまり K' に対する光の伝播の法則は K に対する速度と異なることになり、相対性原理が損われます。これは恐ろしいディレンマです。ところがよく考えると自然はこのディレンマには全く負い目をもってはいないので、むしろこのディレンマは私達がその考察のなかに、従ってまた私の今述べたもののなかにも、黙って勝手に仮定をつくっていたことから起るのです。私達は事がらを矛盾なしにかつ簡単に考えるようにするために、それを取り去ってしまわなくてはなりません。
私はこの勝手な仮定、すなわち私達の物理学的思考の根本に横わっているものを説明してみようと思います。この勝手な仮定のうちの第一のかつ最も大切なものは時間概念に関するものであって、私はどこにこの勝手さが存立するかを述べてみましょう。それをうまく行るために、私はまず空間について論じ、その上で時間をこれと平行に置こうと思います。もし私達が空間における一点の位置、すなわちある坐標系に対する一点の位置を云い表わそうと思うならば私達はその直交坐標 <math>x, y, z</math> を与えます。この坐標の意味は次の如くです。よく知られた規則に従って坐標面に垂直線を立て、一つの与えられた単位物指がこの垂直線上に幾囘運ばれたるかをごらんなさい。この囘数を数えた結果が坐標です。坐標で空間を指定するのはそれゆえ一定の操作の結果です。私が指示する坐標は従って全く一定の物理的意味をもっています。私達は一定の与えられた点が実際に指示された坐標をもつかどうかを試験することが出来ます。
この関係は時間ではどうなるでしょうか。そこでは私達はそれほどうまく行かないのを見るでしょう。従来私達はいつもこう云うて満足していました。時間は出来事の独立変数であると、かような定義では誰れもそれに基づいて事実上存在する出来事の時間値を測ることは出来ません。ですから私達は、その定義に基づいて時間測定が可能であるように、時間を定義するように行ってみなければなりません。私達はある坐標系 K の原点に一つの時計(例えばゼンマイ時計)をおくとしましょう。この時計で直接にこの点ならびにそのごく近所に起っている出来事を時間的に値いづけられることが出来ます。K の他の点で起る出来事はしかしこの時計で直接に時を定めるわけにはゆきません。K の原点には時計の傍にいる観測者が光線に依ってその出来事の報知を受けとる時刻をしるすとしますと、この時刻は出来事自身の時ではなくて、出来事から時計に達するまでの光線の伝播時間だけ出来事の時刻から遅れて{{註|[#「遅れて」は底本では「運れて」]}}いるのです。もし私達が K 系に対するその方向の光の伝播速度を知っているとすれば、出来事の時刻はその時計で定めることが出来るのでしょう。けれども光の伝播速度の測定は私達の取り扱っている時間決定の問題がすでに解かれたときにのみ可能なのです。すなわち一定の方向における光の速度を測るためには、光線の伝わる二点 A 及び B の間の距離と、その外 A において光を送り出した時刻ならびに B において光の到着した時刻とを測らなければならなかったでしょう。つまり諸処での時間測定が必要であるわけですが、それは私達の求める時間の定義が既に与えられた時にのみ実行し得るのでしょう。しかし一つの速度特に光の速度を測ることが、任意の指定なしには原理的に不可能であると云うならば、私達は光の伝播速度に関してなお任意な指定をなしてもよいのです。そこで私達は真空中の光の伝播速度は一点 A から一点 B へゆく途で B から A への光線の伝播速度と同じ大きさであると定めます。この指定のお蔭で私達は K 系に対し種々の点に静止して列べられた同じ性質の時計を実際に合わせることが出来るようになります。例えば二点 A と B とにある時計を次のことが成り立つように合わせましょう。A において時刻 <math>t</math>(A の時計で測って)に一つの光線を B に向けて送り、それが時刻 <math>t+a</math>(B の時計で計って)に B に到着するとしますと、逆に時刻 <math>t</math>(B の時計で測って)B から A の方へ送られた光線は時刻 <math>t+a</math>(A の時計で測って)に A に来なければなりません。これが K 系に配置されたすべての時計を合わせるための規定なのです。もし私達がこの規定を満足させたなら、それで私達は実測物理学者の立場から一つの時間決定を求め得たのです。ある出来事の時刻はすなわちかように与えられた規定に従って合わされた時計のうちで、その出来事の場処にあるものの示す時に等しいのです。
ところで、私達はそれによって特に目立った何ものを得たのであろうかと云う疑問が起るでしょう。なぜなればそのすべては自明の事がらのように聞えるからです。目立った事柄と云うのは、全く決った意味の時間指示に達するためのこの規定が全く一定の坐標系 K に対して静止する時の一体系に関係していると云うことにあります。私達は単に一つの時を得たのではなくて、坐標系 K に関した時、すなわち K に対して静止して列べられた時計を含めて坐標系 K に関した時を得たのです。私達はもちろん、K に対して一様に動いているような第二坐標系 K' を{{註|[#「第二坐標系 K' を」は底本では「第二坐標系 K を」]}}もつならば、全く同じことをこれに関して行うことが出来ます。この坐標系 K' に対しても一つの時計体系をその空間に配置し、それらをすべて K' と一緒に動いているようにしますと、私達はこの K' に関して静止している時計を全く上に与えた規定に従って合わせることが出来ます。そうした上で私達は K' 系に関してもまた一つの時を得ます。
ところがアプリオリにはまるでこう云われません。もし二つの出来事が基準系 K ――私はそれで時計を含めた坐標系を意味させます――に関して同時刻であるなら、同じ出来事は基準系 K' に関してもまた同時刻的であると。つまり時間は一の絶対な、すなわち基準系の運動状態に無関係な意味をもっているとは云われません。それは私達の運動学に含まれていた一つの任意さなのです。
ここにやはり従来の運動学において任意的であった第二の事情があらわれます。私達は一つの物体の形、例えば一つの棒の長さについて話しますが、その長さが幾らであるかを、精密に知っていると信じています。そしてそれが、私達の現象をしるしている基準系に関して運動している場合にもまたそうです。しかし少しく考えて見ますと、その事は私達がこれを本能的に想っているほど、決してそんなに簡単な概念ではないことが判ります。一つの棒がその長い方向に基準系に対して動いているとしましょう。この棒はどれだけ長いかと尋ねてみましょう。この問は{{註|[#「この問は」は底本では「この間は」]}}ただ次の意をもち得るだけです。すなわち棒がどれほど長いかを知るために私達はどんな実験を行わなければならないかと云うことです。私達はある物指をもった一人の人間を取りて、これを衝き動かし、棒と同じ速度をもたせます。そうすればこの人は棒に対して静止していますから、彼の物指を繰返して棒と並べて、ちょうど実際に静止体の長さを測るのと同じ様にして、その長さを見出すことが出来ます。そこに彼は全く一定の数を得、そして彼がこの棒の長さを測ったと云うことをある権利をもって言明することが出来ます。
しかしながらもし棒と一緒に動いていないで、すべてある基準系に静止しているような観測者のみがあるとしたならば、私達は次の様にすることが出来ます。私達は動いている棒の軌道に沿うて非常にたくさんの時計を配置し、その各に観測者が附き添うているとします。時計は上に与えられた手段に従って光の信号で合わされ、その全体で基準系に属する時間を示すようにします。これらの観測者は K 系に関して棒の前後両端がある一定の与えられた時刻 <math>t</math> に存在する二つの場処を見出します。すなわち棒の前後両端がそこを通過するとき時刻 <math>t</math> を示すような二つの時計を見出すと云っても同じことです。こうして求められた二つの場処(もしくは時計)のお互の距離は基準系 K に対して静止せるある物指を結合線の上に繰り返して列べて測る事が出来ます。この二段の処置の結果を私達は動いている棒の長さとして正当に云いあらわすことが出来るのです。けれどもこの二つの取扱いが必然的に同じ結果に到達するとは限りません。言葉を換えて云えば、一つの物体の幾何学的の容量は、これが見出される基準系の運動状態に必ずしも無関係ではありません。
もし私達がこの二つの任意の仮定をしないならば、私達はもはや次の初等的の問題をも解くことがすぐには出来ないのです。すなわち一つの出来事の坐標 <math>x, y, z,</math> 及び時刻 <math>t</math> が K 系に関して与えられているとき、K 系に対して既知の一様な併移運動にあるような他の系 K' に関する同じ出来事の空間時間坐標 <math>x, y, z, t,</math> を求めると云う事です。つまり従来この問題の簡単な解を得たのは、私達が今任意的と云った仮定をしていたのに依ることが判ります。
どう云う風にして私達は再び運動学を立てなおしたらよいのでしょうか。そこにおのずから次の答が生じます。ちょうど私達に以前痛ましい困難を与えていた事情が私達を踏み歩み得る道に導きます。もちろん今述べた任意的の仮定を取り除いてもっと多くの余地を収得した上です。つまり経験が、私達を強要した二つの外見的には結合し得られないような基礎法則、すなわち相対性原理と光速度一定の原理とがちょうど空間時間転換の問題の一定の解に導くことが判ります。そこで私達は通常の思想と一部分はなはだしく矛盾するような結果に到着します。これに導くところの数学的考察ははなはだ簡単ですが、ここではそれに立ち入りますまい。
<math>x, y, z, t</math> ならびに <math>x', y', z', t'</math> が両基準系 K 及び K' に関する空間及び時間坐標であるならば、基礎とした両原理は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2=c^2 t^2</math>}}
及び
{{equation|<math>x'^2+y'^2+z'^2=c^2 t'^2</math>}}
なる二つの方程式各が他のものを帰結するように変換方程式を作らなくてはならないことを要求します。ここには説明しない理由からして変換方程式は一次的でなければなりませんから、これで変換法則が決定されることが少しく研究すれば判ります。(例えば Jahrb. d. Radioakt. und. Elektronik 4. (1907), 418 参照)
むしろ私は、この様にしてその外の仮定なしに全く論理的に進めて達せられる最も主要な帰結に立ち入ることにしましょう。
まず最初は純粋に運動学的のものです。私達は坐標と時間とを一定の方法で物理学的に定義しましたから、空間的ならびに時間的の量の間のどんな関係もある全く一定の物理的内容をもつでありましょう。まず次のことが出ます。もし私達が考察の基礎となした坐標系 K に関して一様に動いているところの一つの固体をもつならば、この物体は、それがこの体系に関して静止の状態でもっているような形に対してその運動方向に一定の割合に縮まって見えます。私達が物体の運動速度を <math>v</math> で、光の速度を <math>c</math> であらわすならば、各の運動方向に測られた長さは、物体の動かない状態で <math>l</math> に等しいものが、運動を共にしない観測者に関しては運動のために
{{equation|<math>l\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}</math>}}
なる大きさに短縮されます。
もし物体が静止状態で球形であるなら、それを一定の方向に動かす場合に、これは扁平な楕円体の形を取ります。もし速度が光速度に達するならば、物体は一平面にひしゃげてしまいます。しかし共に動いている観測者から判断すれば、物体は前と同じくその球形を保っているでしょう。他方でこの物体と共に動いている観測者には運動を共にしないすべての対象は全く同様に相対運動の方向に縮まって見えるのです。この結果は奇妙さを示していますが、しかし運動物体の形と云うものは、実際上述のことによれば、ただ時間決定の助けによって始めて見出されるものであって、はなはだ複雑な意味をもっていますから、それを考慮すれば肯かれるわけです。
この「運動物体の形」なる概念が直接に明らかな内容をもっていると云う感じは、そもそも私達が日常の経験では単に光速度に対し実際上無限に小さいような運動速度のみを見るのに慣れていることを思い合わせると、それから得られるでしょう。
次にこの理論の第二の純粋に運動学的の帰結であって、もっと目立った事柄はこうです。ある基準系 K に対して静止して配置されており、これの時間を指示することの出来る一つの時計が与えられていると考えましょう。そうしますと、もしこの時計が基準系に関して一様な運動におかれるならば、K 系から判断して進みが遅れるようになり、この時計の時間指示が 1 だけ進む間に体系 K の時計は K に関して
{{equation|<math>\frac{1}{\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}}</math>}}
だけの時間を経過するようになると云うことが証明出来ます。つまり動いている時計は、それが K に関して静止の状態になるときよりも遅く進むのです。運動状態における時計の進む速さは、この時計の指針の位置を、K に対して静止しておりかつ K に関しての時間を測るような時計のうちでちょうど今考に取った運動時計がその傍を通り過ぎるようなものの指針位置といつも比較して見出されると考えなければなりません。もし私達が時計を光速度で動かすことが出来たとしたならば――充分に力を加えるなら私達は時計をほとんど光速度で動かすことが出来たでもありましょう――時計の指針は、K から判断して、無限に遅く進むでしょう。
もし次のことが実現されたと考えるなら、事柄は最もおかしくなります。この時計に非常に大きい速度(ほとんど <math>c</math> に等しいような)を与え、これを一様な運動を続けて飛ばせ、それが遠い距離を飛んだ後で反対の方向に衝撃を与えてもと出発した場処へ再び戻るようにします。そうすれば、この時計の指針の位置はその全旅行の間にほとんど変りはしなかったのですが、これに反してその間出発の場処に静止状態に残された全く同じ構造の時計はその指針の位置をすっかり変えてしまっていると云うことになります。これに附言しなけばならないことは、私達がすべての物理的出来事の簡単な一代表として導き入れたこの時計に対して成り立つところのものはまたどんなその外の性質のそれ自身完閉した物理学的体系に対しても成り立つと云うことです。例えば私達がある生物を箱に入れて上に時計のなしたと同様な往復運動をさせますと、この生物は任意に長く旅行した後でどれほども変らずにその最初の場処に戻って来ることが出来たでもありましょう。ところがまるで同じ生物がもとの場処に止っているならば、既に久しい前に新たな子孫に代らせたにちがいありません。運動している生物にはこの旅行の長い時間は、その運動がほとんど光速度で行われたとすれば、ただ一瞬時にすぎないのです。これは経験が私達を強要して私達の基礎におかしめた原理の否定し難い一つの帰結なのです。
ところで物理学に対する相対性理論の意味についてもう一言しよう。この理論の要求する処は、ある任意の速度に対して成立する自然法則の数学的表式は、この法則をあらわす式のなかに転換式によりて新しい空間時間坐標を引き入れてもその形を変えないと云うことです。それによりて可能性の多様さは著しく制限せられます。静止せるもしくは遅く動いている物体に対して法則が知られているなら、それから簡単な転換によりて任意に速く動いている物体に対する法則を導き出す事が出来ます。かようにして例えば速い陰極線に対する運動法則を出すことが出来ます。その場合にニウトンの式は任意に速く動く質点には成り立たないで、これはやや複雑の構造の運動方程式で置き換えられなくてはならないことが判ります。陰極線の屈曲に関してこの法則は全く満足的に経験と一致することが示されました。
相対性理論の物理学的に最も大切な結論のうちで次のことが記されなくてはなりますまい。私達は前に、動いている時計が相対性理論に従えば静止している同じ時計よりも遅く進むことを見ました。私達がこれを懐中時計で実験して確証しようとすることはたぶんいつまでも見込のないことでありましょう。なぜなら私達がかようなものに与え得る速度は光速度に対して無視せられるほど小さいものであるからです。けれども自然は私達に全く時計の性質をもちかつ非常に速く動かされ得るような物を提供します。これはスペクトル線を送り出す原子であって、私達はこれに電気の場によって数千キロメートルの速度を与えることが出来ます。(カナル線)理論によれば、これ等の原子の振動数はその運動によって、ちょうど動いている時計に対して導き出されるのと全く同様の方法で、影響されて見えることが期待せられます。この実験は大きな困難に出遇いはしますが、それでも私達は、この方法で将来の十年間のうちには相対性理論の重要な確証もしくは反駁を得ることを望むことが出来るでしょう。
理論は更に、物体の惰性的質量がそのエネルギー内容に関係すると云う大切な結果に導きます。ただしこれははなはだわずかの程度であって、直接にこれを証明することは全く望みないことです。しかし物体のエネルギーが E だけ増せば、惰性的質量は <math>\frac{E}{c^2}</math> だけ増します。この法則によって質量保存の法則は倒壊されたので、云い換えればエネルギー保存の法則と唯一のものに融合したのです。この結果はかなり著しく響くかもしれませんが、しかし相対性理論なしにもまたある特殊の場合には経験的に知られた事実からして、惰性的質量がエネルギー内容と共に増すことを確実に結論することは出来ます。
もう一言この理論が主として、悼ましくも余りに早く逝いた数学者ミンコウスキーによって得たところのはなはだ興味ある数学的補助について述べましょう。相対性理論の変換方程式は、それが
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2-c^2 t^2</math>}}
なる式を不変量としてもつように作られています。時間 <math>t</math> の代りに虚数的変数 <math>ct\sqrt{-1}=\tau</math>を時間変数として導き入れますと、この不変量は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2+\tau^2</math>}}
なる形を取ります。この際空間的坐標ならびに時間坐標は同じ役目をなします。この空間及び時間坐標の形式的等値性を相対性理論において更に押し進めますと、この理論のはなはだ見易い説明に達し、その応用をより容易くするのです。物理的出来事はある四次元間において云い表わされ、また出来事の空間的関係はこの四次元空間における幾何学的法則としてあらわれます。
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[[Category:青空文庫からインポートしたテキスト]]
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<div class="jisage_10" style="margin-left: 10em"><span class="sho1" style="font-size: small;">(一九一一年一月一六日チューリッヒの自然科学会席上の講義)</span></div>
「相対性理論」と名づけられる理論が倚りかかっている大黒柱はいわゆる相対性原理{{註|[#「相対性原理」は底本では「相対性理論」]}}です。私はまず相対性原理とは何であるかを明らかにしておこうと思います。私たちは二人の物理学者を考えてみましょう。この二人の物理学者はどんな物理器械をも用意しています。そして各々一つの実験室をもっています。一人の物理学者の実験室はどこか普通の場所にあるとし、もう一人の実験室は一定の方向に一様な速さで動く汽車の箱のなかにあるとします。相対性原理は次のことを主張するのです。もしこの二人の物理学者が彼等のすべての器械を用いて、一人は静止せる実験室のなかで、もう一人は汽車のなかで、すべての自然法則を研究するならば、汽車が動揺せずに一様に走る限り、彼等は全く同じ自然法則を見出すでありましょう。幾らか抽象的にこう云うことも出来ます。自然法則は相対性原理によれば基準体系の併移運動に関しません。
私達は今この相対性原理が旧来の力学でどんな役目をもっていたかをみましょう。旧来の力学は第一にガリレイの原理の上に安坐しています。この原理に従えば、ある物体は他の物体の作用を受けない限り、直線的な一様な運動にあります。もしこの法則が上に云うた実験室の一方に対して成り立つ{{註|[#「成り立つ」は底本では「成リ立つ」]}}ならば、それはまた第二に対しても成り立ちます。私達はそのことを直接に直観から取り出すことが出来ます。私達はそれをしかしまたニウトン力学の方程式からも引き出すことが出来るのです。私達はその方程式をもとの基準体系に対して一様に動いているものへ転換させればよいのです。
私はここで実験室と云っていますが、数理的物理学では事柄を一定の実験室に関係させる代りに坐標系に関係させるのが普通です。このようにある何かに関係させるという場合に本質的なのは次の事柄です。私達が一点の位置について何か云おうとするときには、いつも私達はこの点とある他の物体系の一点との合致を示し与えます。もし私が例えば自分をこの質点であると取り、そうして、私はこの部屋のなかのこの場所に居ると云いますなら、私は自分を空間的の関係でこの部屋のある点と合致させたのです。あるいは私はこの合致を云いあらわしたのです。数理的物理学ではこれを云い表わすのに、三つの数、すなわちいわゆる坐標によりて、場所を示そうとした点が坐標系と称えられる剛体体系のどの点と合致するかを云い表わします。
これは相対性原理について最も一般的のものであったのでしょう。もし私達が、十八世紀もしくは十九世紀前半の物理学者に、この原理を疑うかどうかを尋ねたとしましたなら、彼はきっとこの質問を断然否定したに違いありません。その当時は各の自然現象をすべて旧来の力学の方則に帰せしめられることが確かであるとしていましたから、それを疑う理由をちっとも持っていなかったのです。私はここで、物理学者が経験によってどうしてこの原理に矛盾する物理学的論理を立てるようになったかを説明しようと思います。そのために私達は光学及び電気力学の発展を、それらが前世紀において、漸次是認せられた限りにおいて、相対性原理の立場から簡単に考察してみなければなりません。
光はちょうど音波のように干渉や𢌞折を示します。ですから私達は光を一の波動としてもしくは一般にある媒質の週期的に変化する状態として見做さなくてはならないように感じさせられます。この媒質をエーテルと名づけました。かような媒質の存在は近頃までは物理学者に絶対に確かであるように見えました。次に述べる理論はエーテル仮説とは相容れないものですが、しかししばらく私達はこれに依ることにしましょう。私達は今この媒質に関してどんな考え方が発展されて来たか、またこのエーテルを仮定する物理学的理論を導き入れたためにどんな問題が起ったかをみようと思います。私達は既に、光がこの媒質の振動から成ると考えたこと、すなわちこの媒質は光及び熱の振動の伝播を引き受けていると考えた事を述べました。{{傍点|静止}}物体の光学的現象だけを取り扱っている間は、光がこの媒質の運動を起すと云う外に、それの別の運動を問題にするには及ばなかったのでした。単にこの媒質はそこで見ている物体と同様に――光が起すはずであった振動を取り除けば――静止の状態にあると仮定されました。
{{傍点|運動}}物体の光学的現象、並に――それと関聯して――運動物体の電磁気的性質を考察するようになったときに、私達はその観察する物理学的体系のなかで、物体に種々の速度を与えたならばエーテルはどうなるかと云う問題に向わなければなりませんでした。エーテルは物体と一緒に動くのでしょうか。すなわち各の場所でエーテルはそこにある物質と同じ様に動くでしょうか。またはそうではないのでしょうか。最も簡単な仮定はエーテルがどこでも物質と全く同じ様に動くと云うことです。第二の可能な仮定は、これもやはりかなりな簡単さを示すものですが、こうです。すなわちエーテルは物体の運動に全然与からないと云うのです。それからまた中間の場合も可能でありましょう。この中間の場合と云うのは、エーテルがある度まで物質と無関係に空間内に動くのです。私達は今、この問題の解答を得るためにどう云うことが試みられたかをみようと思います。最初に得られた重要な説明は仏国の物理学者フィゾーの行った大切の意味のある実験から来ています。この実験は次の問題から起されました。
[[File:Fig50328 01.png|thumb|第一図]]
図に示した管はその前後を硝子板で閉じてあり、両端の接続管から管を通じて軸の方向に液体を流すことが出来るようにしてあります。管を流れる液体の速度はやはり軸の方向に管を通る光線の伝播速度に、どう影響するでしょうか。エーテルが管を流れる物質と一緒に動くことが本当であるなら、次のように考えられます。静止した水のなかで光の進む速さが V であるとします。つまり V は水に対する光の速度であるとし、また <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}管に対する水の速度であるとしますと、私達はこう云わなくてはなりますまい。水に対する光の速度は、もしエーテルが水に固着しているなら水が動いていてもまたは動かずにいても、それには関せずにいつも同じであります。それですから管に対する光の伝播速度は液体が動いている場合には、これが静止している場合よりも、<math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math>だけ」]}}大きいと予期されます。フィゾーの実験では、二つの干渉し得る光線束が上述のように管を通りました。液体の運動速度が干渉の縞の処置に及ぼす影響からして、水の運動速度 <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}静止管に対する光の伝播速度にどれほどな影響を及ぼしたかを計算することが出来ました。フィゾーは、管に対する光速が液体の運動のために <math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math> だけ」]}}増されずに、かえってただその分数(<math>n</math> を液体の屈折率としますと <math>v(1-\frac{1}{n})</math> だけしか増さないことを見出しました。この屈折率がほとんど 1 に等しく、すなわち光が液体のなかでほとんど真空におけると同じ速さで進むとしますと、液体の運動はほとんど影響をもちません。この事から、光が水に対していつも同じ速度で進むと云う考え方は、経験と一致しないと結論しなければなりませんでした。
次に簡単な仮説は、エーテルが物質の運動に少しも与からないと云うことでした。この仮説に基づいては、光学的現象が物質の運動によってどう影響されるかを、そう簡単に導き出すわけにはゆきません。しかしローレンツは一八九〇年代の中頃に、全く動かないエーテルの仮定に基づく一つの理論を立てることに成功しました。彼の理論は運動体の光学及び電気学のほとんどすべての知られた現象を、その中にまた今述べたフィゾーの実験をも含めて、全く正しく与えます。私がすぐここで注意したいのは、ローレンツのと根本的に異った理論で、しかも簡単な判り易い仮定に基づき、そして同じことを為し遂げるようなものは、決して立てられなかったと云うことです。それですから、この範囲では静止エーテルの理論を、経験の全部と一致する唯一のものとして承け容れなければならなかったのでした。
私達はこの静止エーテルの理論を相対性原理の立場から観察しましょう。外力を受けない質点がある体系に関して一様に動いているならば、そう云うすべての体系を私達は非加速的のものとして云い表わします。そうしますと、相対性原理はこう主張するのです。自然法則はすべての非加速的体系に関しては同一であると、静止エーテルに関するローレンツの根本仮説は他方に、あらゆる可能な非加速的運動体系のうちで、一定の運動状態のもの、すなわちこの光の媒質に対して静止せる体系を特別に徴しづけます。それですから、たとえこの考えに従っても、哲学上の意味でのある絶対運動が存在するとは云うことは出来ませんけれども、――なぜならそれは全然見限られたことで、私達はただ物体の相対的な位置変化を考えることが出来るだけですけれども、――しかし私達が今一つの運動状態、すなわちエーテルに対する静止を特別に扱ったと云うことで、物理学的の意味で一つの絶対運動が形づくられます。私達はエーテルに関して静止する各の物体をどうにか絶対静止のものと云うことが出来ます。エーテルに対して静止せる基準系はあらゆるその他の加速しない基準系に対して特別のものとせられます。この意味でローレンツの静止エーテルの根本観念は相対性原理に適いません。静止エーテルの根本観念は次の一般的考察に導きます。一つの基準系 K がエーテルに対して静止しており、もう一つの他の基準系 K' はエーテルに対して一様に動いているとします。エーテルに関する K' の相対運動は K' に対して成り立つところの自然法則にある影響を及ぼすと云うことが期待せられるわけです。つまり K' に関する自然法則は K' のエーテル内における運動のために K に関する法則とは異っている事が期待せられるのでした。その上にまた地球は私達の実験室と共に一年全体の間この光の媒質に対して静止していることは出来ないので、それはすなわち K' なる基準系の役目をするはずであると云わなければなりませんでした。従ってこの運動の影響が私達の実験室における実験にあらわれるような何等かの現象が見出されることを仮定しなければならないのでした。私達の物理的空間は、これを地球上に在るとする限り、この相対運動のために方向によって異った性質をもつと信ずべきはずでした。けれども何等この様な事を実証することはどんな場合にも決して成功しませんでした。
ところでこのエーテルに対してはおもしろく思われませんでした。フィゾーの実験はエーテルが物質と一緒に動かないことを云いあらわします。すなわち光の媒質の物質に対する運動があるわけです。けれども、この相対運動を確立しようとするすべての実験は否定的の結果を与えました。つまりそこにはお互に矛盾する様に見える二つの結果があります。そしてこの不愉快な乖離を解放することが出来なかったことは、物理学者にとりて非常に痛ましい事でした。私達は、どんなにしても取り除けを見出すことの出来なかった相対性原理を、どうにかしてローレンツの理論と一致させることは出来ないであろうかと云うことを考究しなければなりませんでした。今それへ入り込む前に私たちは静止エーテルのローレンツ理論から最も本質的な部分を抽き出してみましょう。静止エーテルが存在すると云うことは物理学的に何を意味しているでしょうか。この仮説の最も大切な内容は次のように云いあらわすことが出来ます。それはここに一つの基準体系(ローレンツの理論で「エーテルに対して静止せる体系」と名づけられる)が存在していて、それに関しては真空中の各の光線が普遍的な速度 c をもって伝播すると云うことです。そしてこれは光を発する物体が静止していてもまたは動いていても、それに無関係に成立つと云う事です。この主張を私達は光速一定の原理と名づけましょう。そこで上に述べた問題はまた次の様な形式にすることも出来ます。取り除けなしに満足されるように見える相対性原理をこの光速一定の原理と結合させることは出来ないでありましょうか。次のように、ちょっと考えると、まずこれが否定されます。基準体系 K に対して各光線が速度 c で進むとしますと、これは K に対して運動している基準系 K' に対してもはや成り立ちません。すなわち K' が光線の進む方向に速度 <math>v</math> で{{註|[#「速度 <math>v</math> で」は底本では「速度 <math>V</math>で」]}}動いているならば普通の見方では K' に対する光線の速度は <math>c-v</math> に等しいとおかれるはずです。つまり K' に対する光の伝播の法則は K に対する速度と異なることになり、相対性原理が損われます。これは恐ろしいディレンマです。ところがよく考えると自然はこのディレンマには全く負い目をもってはいないので、むしろこのディレンマは私達がその考察のなかに、従ってまた私の今述べたもののなかにも、黙って勝手に仮定をつくっていたことから起るのです。私達は事がらを矛盾なしにかつ簡単に考えるようにするために、それを取り去ってしまわなくてはなりません。
私はこの勝手な仮定、すなわち私達の物理学的思考の根本に横わっているものを説明してみようと思います。この勝手な仮定のうちの第一のかつ最も大切なものは時間概念に関するものであって、私はどこにこの勝手さが存立するかを述べてみましょう。それをうまく行るために、私はまず空間について論じ、その上で時間をこれと平行に置こうと思います。もし私達が空間における一点の位置、すなわちある坐標系に対する一点の位置を云い表わそうと思うならば私達はその直交坐標 <math>x, y, z</math> を与えます。この坐標の意味は次の如くです。よく知られた規則に従って坐標面に垂直線を立て、一つの与えられた単位物指がこの垂直線上に幾囘運ばれたるかをごらんなさい。この囘数を数えた結果が坐標です。坐標で空間を指定するのはそれゆえ一定の操作の結果です。私が指示する坐標は従って全く一定の物理的意味をもっています。私達は一定の与えられた点が実際に指示された坐標をもつかどうかを試験することが出来ます。
この関係は時間ではどうなるでしょうか。そこでは私達はそれほどうまく行かないのを見るでしょう。従来私達はいつもこう云うて満足していました。時間は出来事の独立変数であると、かような定義では誰れもそれに基づいて事実上存在する出来事の時間値を測ることは出来ません。ですから私達は、その定義に基づいて時間測定が可能であるように、時間を定義するように行ってみなければなりません。私達はある坐標系 K の原点に一つの時計(例えばゼンマイ時計)をおくとしましょう。この時計で直接にこの点ならびにそのごく近所に起っている出来事を時間的に値いづけられることが出来ます。K の他の点で起る出来事はしかしこの時計で直接に時を定めるわけにはゆきません。K の原点には時計の傍にいる観測者が光線に依ってその出来事の報知を受けとる時刻をしるすとしますと、この時刻は出来事自身の時ではなくて、出来事から時計に達するまでの光線の伝播時間だけ出来事の時刻から遅れて{{註|[#「遅れて」は底本では「運れて」]}}いるのです。もし私達が K 系に対するその方向の光の伝播速度を知っているとすれば、出来事の時刻はその時計で定めることが出来るのでしょう。けれども光の伝播速度の測定は私達の取り扱っている時間決定の問題がすでに解かれたときにのみ可能なのです。すなわち一定の方向における光の速度を測るためには、光線の伝わる二点 A 及び B の間の距離と、その外 A において光を送り出した時刻ならびに B において光の到着した時刻とを測らなければならなかったでしょう。つまり諸処での時間測定が必要であるわけですが、それは私達の求める時間の定義が既に与えられた時にのみ実行し得るのでしょう。しかし一つの速度特に光の速度を測ることが、任意の指定なしには原理的に不可能であると云うならば、私達は光の伝播速度に関してなお任意な指定をなしてもよいのです。そこで私達は真空中の光の伝播速度は一点 A から一点 B へゆく途で B から A への光線の伝播速度と同じ大きさであると定めます。この指定のお蔭で私達は K 系に対し種々の点に静止して列べられた同じ性質の時計を実際に合わせることが出来るようになります。例えば二点 A と B とにある時計を次のことが成り立つように合わせましょう。A において時刻 <math>t</math>(A の時計で測って)に一つの光線を B に向けて送り、それが時刻 <math>t+a</math>(B の時計で計って)に B に到着するとしますと、逆に時刻 <math>t</math>(B の時計で測って)B から A の方へ送られた光線は時刻 <math>t+a</math>(A の時計で測って)に A に来なければなりません。これが K 系に配置されたすべての時計を合わせるための規定なのです。もし私達がこの規定を満足させたなら、それで私達は実測物理学者の立場から一つの時間決定を求め得たのです。ある出来事の時刻はすなわちかように与えられた規定に従って合わされた時計のうちで、その出来事の場処にあるものの示す時に等しいのです。
ところで、私達はそれによって特に目立った何ものを得たのであろうかと云う疑問が起るでしょう。なぜなればそのすべては自明の事がらのように聞えるからです。目立った事柄と云うのは、全く決った意味の時間指示に達するためのこの規定が全く一定の坐標系 K に対して静止する時の一体系に関係していると云うことにあります。私達は単に一つの時を得たのではなくて、坐標系 K に関した時、すなわち K に対して静止して列べられた時計を含めて坐標系 K に関した時を得たのです。私達はもちろん、K に対して一様に動いているような第二坐標系 K' を{{註|[#「第二坐標系 K' を」は底本では「第二坐標系 K を」]}}もつならば、全く同じことをこれに関して行うことが出来ます。この坐標系 K' に対しても一つの時計体系をその空間に配置し、それらをすべて K' と一緒に動いているようにしますと、私達はこの K' に関して静止している時計を全く上に与えた規定に従って合わせることが出来ます。そうした上で私達は K' 系に関してもまた一つの時を得ます。
ところがアプリオリにはまるでこう云われません。もし二つの出来事が基準系 K ――私はそれで時計を含めた坐標系を意味させます――に関して同時刻であるなら、同じ出来事は基準系 K' に関してもまた同時刻的であると。つまり時間は一の絶対な、すなわち基準系の運動状態に無関係な意味をもっているとは云われません。それは私達の運動学に含まれていた一つの任意さなのです。
ここにやはり従来の運動学において任意的であった第二の事情があらわれます。私達は一つの物体の形、例えば一つの棒の長さについて話しますが、その長さが幾らであるかを、精密に知っていると信じています。そしてそれが、私達の現象をしるしている基準系に関して運動している場合にもまたそうです。しかし少しく考えて見ますと、その事は私達がこれを本能的に想っているほど、決してそんなに簡単な概念ではないことが判ります。一つの棒がその長い方向に基準系に対して動いているとしましょう。この棒はどれだけ長いかと尋ねてみましょう。この問は{{註|[#「この問は」は底本では「この間は」]}}ただ次の意をもち得るだけです。すなわち棒がどれほど長いかを知るために私達はどんな実験を行わなければならないかと云うことです。私達はある物指をもった一人の人間を取りて、これを衝き動かし、棒と同じ速度をもたせます。そうすればこの人は棒に対して静止していますから、彼の物指を繰返して棒と並べて、ちょうど実際に静止体の長さを測るのと同じ様にして、その長さを見出すことが出来ます。そこに彼は全く一定の数を得、そして彼がこの棒の長さを測ったと云うことをある権利をもって言明することが出来ます。
しかしながらもし棒と一緒に動いていないで、すべてある基準系に静止しているような観測者のみがあるとしたならば、私達は次の様にすることが出来ます。私達は動いている棒の軌道に沿うて非常にたくさんの時計を配置し、その各に観測者が附き添うているとします。時計は上に与えられた手段に従って光の信号で合わされ、その全体で基準系に属する時間を示すようにします。これらの観測者は K 系に関して棒の前後両端がある一定の与えられた時刻 <math>t</math> に存在する二つの場処を見出します。すなわち棒の前後両端がそこを通過するとき時刻 <math>t</math> を示すような二つの時計を見出すと云っても同じことです。こうして求められた二つの場処(もしくは時計)のお互の距離は基準系 K に対して静止せるある物指を結合線の上に繰り返して列べて測る事が出来ます。この二段の処置の結果を私達は動いている棒の長さとして正当に云いあらわすことが出来るのです。けれどもこの二つの取扱いが必然的に同じ結果に到達するとは限りません。言葉を換えて云えば、一つの物体の幾何学的の容量は、これが見出される基準系の運動状態に必ずしも無関係ではありません。
もし私達がこの二つの任意の仮定をしないならば、私達はもはや次の初等的の問題をも解くことがすぐには出来ないのです。すなわち一つの出来事の坐標 <math>x, y, z,</math> 及び時刻 <math>t</math> が K 系に関して与えられているとき、K 系に対して既知の一様な併移運動にあるような他の系 K' に関する同じ出来事の空間時間坐標 <math>x, y, z, t,</math> を求めると云う事です。つまり従来この問題の簡単な解を得たのは、私達が今任意的と云った仮定をしていたのに依ることが判ります。
どう云う風にして私達は再び運動学を立てなおしたらよいのでしょうか。そこにおのずから次の答が生じます。ちょうど私達に以前痛ましい困難を与えていた事情が私達を踏み歩み得る道に導きます。もちろん今述べた任意的の仮定を取り除いてもっと多くの余地を収得した上です。つまり経験が、私達を強要した二つの外見的には結合し得られないような基礎法則、すなわち相対性原理と光速度一定の原理とがちょうど空間時間転換の問題の一定の解に導くことが判ります。そこで私達は通常の思想と一部分はなはだしく矛盾するような結果に到着します。これに導くところの数学的考察ははなはだ簡単ですが、ここではそれに立ち入りますまい。
<math>x, y, z, t</math> ならびに <math>x', y', z', t'</math> が両基準系 K 及び K' に関する空間及び時間坐標であるならば、基礎とした両原理は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2=c^2 t^2</math>}}
及び
{{equation|<math>x'^2+y'^2+z'^2=c^2 t'^2</math>}}
なる二つの方程式各が他のものを帰結するように変換方程式を作らなくてはならないことを要求します。ここには説明しない理由からして変換方程式は一次的でなければなりませんから、これで変換法則が決定されることが少しく研究すれば判ります。(例えば Jahrb. d. Radioakt. und. Elektronik 4. (1907), 418 参照)
むしろ私は、この様にしてその外の仮定なしに全く論理的に進めて達せられる最も主要な帰結に立ち入ることにしましょう。
まず最初は純粋に運動学的のものです。私達は坐標と時間とを一定の方法で物理学的に定義しましたから、空間的ならびに時間的の量の間のどんな関係もある全く一定の物理的内容をもつでありましょう。まず次のことが出ます。もし私達が考察の基礎となした坐標系 K に関して一様に動いているところの一つの固体をもつならば、この物体は、それがこの体系に関して静止の状態でもっているような形に対してその運動方向に一定の割合に縮まって見えます。私達が物体の運動速度を <math>v</math> で、光の速度を <math>c</math> であらわすならば、各の運動方向に測られた長さは、物体の動かない状態で <math>l</math> に等しいものが、運動を共にしない観測者に関しては運動のために
{{equation|<math>l\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}</math>}}
なる大きさに短縮されます。
もし物体が静止状態で球形であるなら、それを一定の方向に動かす場合に、これは扁平な楕円体の形を取ります。もし速度が光速度に達するならば、物体は一平面にひしゃげてしまいます。しかし共に動いている観測者から判断すれば、物体は前と同じくその球形を保っているでしょう。他方でこの物体と共に動いている観測者には運動を共にしないすべての対象は全く同様に相対運動の方向に縮まって見えるのです。この結果は奇妙さを示していますが、しかし運動物体の形と云うものは、実際上述のことによれば、ただ時間決定の助けによって始めて見出されるものであって、はなはだ複雑な意味をもっていますから、それを考慮すれば肯かれるわけです。
この「運動物体の形」なる概念が直接に明らかな内容をもっていると云う感じは、そもそも私達が日常の経験では単に光速度に対し実際上無限に小さいような運動速度のみを見るのに慣れていることを思い合わせると、それから得られるでしょう。
次にこの理論の第二の純粋に運動学的の帰結であって、もっと目立った事柄はこうです。ある基準系 K に対して静止して配置されており、これの時間を指示することの出来る一つの時計が与えられていると考えましょう。そうしますと、もしこの時計が基準系に関して一様な運動におかれるならば、K 系から判断して進みが遅れるようになり、この時計の時間指示が 1 だけ進む間に体系 K の時計は K に関して
{{equation|<math>\frac{1}{\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}}</math>}}
だけの時間を経過するようになると云うことが証明出来ます。つまり動いている時計は、それが K に関して静止の状態になるときよりも遅く進むのです。運動状態における時計の進む速さは、この時計の指針の位置を、K に対して静止しておりかつ K に関しての時間を測るような時計のうちでちょうど今考に取った運動時計がその傍を通り過ぎるようなものの指針位置といつも比較して見出されると考えなければなりません。もし私達が時計を光速度で動かすことが出来たとしたならば――充分に力を加えるなら私達は時計をほとんど光速度で動かすことが出来たでもありましょう――時計の指針は、K から判断して、無限に遅く進むでしょう。
もし次のことが実現されたと考えるなら、事柄は最もおかしくなります。この時計に非常に大きい速度(ほとんど <math>c</math> に等しいような)を与え、これを一様な運動を続けて飛ばせ、それが遠い距離を飛んだ後で反対の方向に衝撃を与えてもと出発した場処へ再び戻るようにします。そうすれば、この時計の指針の位置はその全旅行の間にほとんど変りはしなかったのですが、これに反してその間出発の場処に静止状態に残された全く同じ構造の時計はその指針の位置をすっかり変えてしまっていると云うことになります。これに附言しなけばならないことは、私達がすべての物理的出来事の簡単な一代表として導き入れたこの時計に対して成り立つところのものはまたどんなその外の性質のそれ自身完閉した物理学的体系に対しても成り立つと云うことです。例えば私達がある生物を箱に入れて上に時計のなしたと同様な往復運動をさせますと、この生物は任意に長く旅行した後でどれほども変らずにその最初の場処に戻って来ることが出来たでもありましょう。ところがまるで同じ生物がもとの場処に止っているならば、既に久しい前に新たな子孫に代らせたにちがいありません。運動している生物にはこの旅行の長い時間は、その運動がほとんど光速度で行われたとすれば、ただ一瞬時にすぎないのです。これは経験が私達を強要して私達の基礎におかしめた原理の否定し難い一つの帰結なのです。
ところで物理学に対する相対性理論の意味についてもう一言しよう。この理論の要求する処は、ある任意の速度に対して成立する自然法則の数学的表式は、この法則をあらわす式のなかに転換式によりて新しい空間時間坐標を引き入れてもその形を変えないと云うことです。それによりて可能性の多様さは著しく制限せられます。静止せるもしくは遅く動いている物体に対して法則が知られているなら、それから簡単な転換によりて任意に速く動いている物体に対する法則を導き出す事が出来ます。かようにして例えば速い陰極線に対する運動法則を出すことが出来ます。その場合にニウトンの式は任意に速く動く質点には成り立たないで、これはやや複雑の構造の運動方程式で置き換えられなくてはならないことが判ります。陰極線の屈曲に関してこの法則は全く満足的に経験と一致することが示されました。
相対性理論の物理学的に最も大切な結論のうちで次のことが記されなくてはなりますまい。私達は前に、動いている時計が相対性理論に従えば静止している同じ時計よりも遅く進むことを見ました。私達がこれを懐中時計で実験して確証しようとすることはたぶんいつまでも見込のないことでありましょう。なぜなら私達がかようなものに与え得る速度は光速度に対して無視せられるほど小さいものであるからです。けれども自然は私達に全く時計の性質をもちかつ非常に速く動かされ得るような物を提供します。これはスペクトル線を送り出す原子であって、私達はこれに電気の場によって数千キロメートルの速度を与えることが出来ます。(カナル線)理論によれば、これ等の原子の振動数はその運動によって、ちょうど動いている時計に対して導き出されるのと全く同様の方法で、影響されて見えることが期待せられます。この実験は大きな困難に出遇いはしますが、それでも私達は、この方法で将来の十年間のうちには相対性理論の重要な確証もしくは反駁を得ることを望むことが出来るでしょう。
理論は更に、物体の惰性的質量がそのエネルギー内容に関係すると云う大切な結果に導きます。ただしこれははなはだわずかの程度であって、直接にこれを証明することは全く望みないことです。しかし物体のエネルギーが E だけ増せば、惰性的質量は <math>\frac{E}{c^2}</math> だけ増します。この法則によって質量保存の法則は倒壊されたので、云い換えればエネルギー保存の法則と唯一のものに融合したのです。この結果はかなり著しく響くかもしれませんが、しかし相対性理論なしにもまたある特殊の場合には経験的に知られた事実からして、惰性的質量がエネルギー内容と共に増すことを確実に結論することは出来ます。
もう一言この理論が主として、悼ましくも余りに早く逝いた数学者ミンコウスキーによって得たところのはなはだ興味ある数学的補助について述べましょう。相対性理論の変換方程式は、それが
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2-c^2 t^2</math>}}
なる式を不変量としてもつように作られています。時間 <math>t</math> の代りに虚数的変数 <math>ct\sqrt{-1}=\tau</math>を時間変数として導き入れますと、この不変量は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2+\tau^2</math>}}
なる形を取ります。この際空間的坐標ならびに時間坐標は同じ役目をなします。この空間及び時間坐標の形式的等値性を相対性理論において更に押し進めますと、この理論のはなはだ見易い説明に達し、その応用をより容易くするのです。物理的出来事はある四次元間において云い表わされ、また出来事の空間的関係はこの四次元空間における幾何学的法則としてあらわれます。
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}}
<div class="jisage_10" style="margin-left: 10em"><span class="sho1" style="font-size: small;">(一九一一年一月一六日チューリッヒの自然科学会席上の講義)</span></div>
「相対性理論」と名づけられる理論が倚りかかっている大黒柱はいわゆる相対性原理{{註|[#「相対性原理」は底本では「相対性理論」]}}です。私はまず相対性原理とは何であるかを明らかにしておこうと思います。私たちは二人の物理学者を考えてみましょう。この二人の物理学者はどんな物理器械をも用意しています。そして各々一つの実験室をもっています。一人の物理学者の実験室はどこか普通の場所にあるとし、もう一人の実験室は一定の方向に一様な速さで動く汽車の箱のなかにあるとします。相対性原理は次のことを主張するのです。もしこの二人の物理学者が彼等のすべての器械を用いて、一人は静止せる実験室のなかで、もう一人は汽車のなかで、すべての自然法則を研究するならば、汽車が動揺せずに一様に走る限り、彼等は全く同じ自然法則を見出すでありましょう。幾らか抽象的にこう云うことも出来ます。自然法則は相対性原理によれば基準体系の併移運動に関しません。
私達は今この相対性原理が旧来の力学でどんな役目をもっていたかをみましょう。旧来の力学は第一にガリレイの原理の上に安坐しています。この原理に従えば、ある物体は他の物体の作用を受けない限り、直線的な一様な運動にあります。もしこの法則が上に云うた実験室の一方に対して成り立つ{{註|[#「成り立つ」は底本では「成リ立つ」]}}ならば、それはまた第二に対しても成り立ちます。私達はそのことを直接に直観から取り出すことが出来ます。私達はそれをしかしまたニウトン力学の方程式からも引き出すことが出来るのです。私達はその方程式をもとの基準体系に対して一様に動いているものへ転換させればよいのです。
私はここで実験室と云っていますが、数理的物理学では事柄を一定の実験室に関係させる代りに坐標系に関係させるのが普通です。このようにある何かに関係させるという場合に本質的なのは次の事柄です。私達が一点の位置について何か云おうとするときには、いつも私達はこの点とある他の物体系の一点との合致を示し与えます。もし私が例えば自分をこの質点であると取り、そうして、私はこの部屋のなかのこの場所に居ると云いますなら、私は自分を空間的の関係でこの部屋のある点と合致させたのです。あるいは私はこの合致を云いあらわしたのです。数理的物理学ではこれを云い表わすのに、三つの数、すなわちいわゆる坐標によりて、場所を示そうとした点が坐標系と称えられる剛体体系のどの点と合致するかを云い表わします。
これは相対性原理について最も一般的のものであったのでしょう。もし私達が、十八世紀もしくは十九世紀前半の物理学者に、この原理を疑うかどうかを尋ねたとしましたなら、彼はきっとこの質問を断然否定したに違いありません。その当時は各の自然現象をすべて旧来の力学の方則に帰せしめられることが確かであるとしていましたから、それを疑う理由をちっとも持っていなかったのです。私はここで、物理学者が経験によってどうしてこの原理に矛盾する物理学的論理を立てるようになったかを説明しようと思います。そのために私達は光学及び電気力学の発展を、それらが前世紀において、漸次是認せられた限りにおいて、相対性原理の立場から簡単に考察してみなければなりません。
光はちょうど音波のように干渉や𢌞折を示します。ですから私達は光を一の波動としてもしくは一般にある媒質の週期的に変化する状態として見做さなくてはならないように感じさせられます。この媒質をエーテルと名づけました。かような媒質の存在は近頃までは物理学者に絶対に確かであるように見えました。次に述べる理論はエーテル仮説とは相容れないものですが、しかししばらく私達はこれに依ることにしましょう。私達は今この媒質に関してどんな考え方が発展されて来たか、またこのエーテルを仮定する物理学的理論を導き入れたためにどんな問題が起ったかをみようと思います。私達は既に、光がこの媒質の振動から成ると考えたこと、すなわちこの媒質は光及び熱の振動の伝播を引き受けていると考えた事を述べました。{{傍点|静止}}物体の光学的現象だけを取り扱っている間は、光がこの媒質の運動を起すと云う外に、それの別の運動を問題にするには及ばなかったのでした。単にこの媒質はそこで見ている物体と同様に――光が起すはずであった振動を取り除けば――静止の状態にあると仮定されました。
{{傍点|運動}}物体の光学的現象、並に――それと関聯して――運動物体の電磁気的性質を考察するようになったときに、私達はその観察する物理学的体系のなかで、物体に種々の速度を与えたならばエーテルはどうなるかと云う問題に向わなければなりませんでした。エーテルは物体と一緒に動くのでしょうか。すなわち各の場所でエーテルはそこにある物質と同じ様に動くでしょうか。またはそうではないのでしょうか。最も簡単な仮定はエーテルがどこでも物質と全く同じ様に動くと云うことです。第二の可能な仮定は、これもやはりかなりな簡単さを示すものですが、こうです。すなわちエーテルは物体の運動に全然与からないと云うのです。それからまた中間の場合も可能でありましょう。この中間の場合と云うのは、エーテルがある度まで物質と無関係に空間内に動くのです。私達は今、この問題の解答を得るためにどう云うことが試みられたかをみようと思います。最初に得られた重要な説明は仏国の物理学者フィゾーの行った大切の意味のある実験から来ています。この実験は次の問題から起されました。
[[File:Fig50328 01.png|thumb|第一図]]
図に示した管はその前後を硝子板で閉じてあり、両端の接続管から管を通じて軸の方向に液体を流すことが出来るようにしてあります。管を流れる液体の速度はやはり軸の方向に管を通る光線の伝播速度に、どう影響するでしょうか。エーテルが管を流れる物質と一緒に動くことが本当であるなら、次のように考えられます。静止した水のなかで光の進む速さが V であるとします。つまり V は水に対する光の速度であるとし、また <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}管に対する水の速度であるとしますと、私達はこう云わなくてはなりますまい。水に対する光の速度は、もしエーテルが水に固着しているなら水が動いていてもまたは動かずにいても、それには関せずにいつも同じであります。それですから管に対する光の伝播速度は液体が動いている場合には、これが静止している場合よりも、<math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math>だけ」]}}大きいと予期されます。フィゾーの実験では、二つの干渉し得る光線束が上述のように管を通りました。液体の運動速度が干渉の縞の処置に及ぼす影響からして、水の運動速度 <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}静止管に対する光の伝播速度にどれほどな影響を及ぼしたかを計算することが出来ました。フィゾーは、管に対する光速が液体の運動のために <math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math> だけ」]}}増されずに、かえってただその分数(<math>n</math> を液体の屈折率としますと <math>v(1-\frac{1}{n})</math> )だけしか増さないことを見出しました。この屈折率がほとんど 1 に等しく、すなわち光が液体のなかでほとんど真空におけると同じ速さで進むとしますと、液体の運動はほとんど影響をもちません。この事から、光が水に対していつも同じ速度で進むと云う考え方は、経験と一致しないと結論しなければなりませんでした。
次に簡単な仮説は、エーテルが物質の運動に少しも与からないと云うことでした。この仮説に基づいては、光学的現象が物質の運動によってどう影響されるかを、そう簡単に導き出すわけにはゆきません。しかしローレンツは一八九〇年代の中頃に、全く動かないエーテルの仮定に基づく一つの理論を立てることに成功しました。彼の理論は運動体の光学及び電気学のほとんどすべての知られた現象を、その中にまた今述べたフィゾーの実験をも含めて、全く正しく与えます。私がすぐここで注意したいのは、ローレンツのと根本的に異った理論で、しかも簡単な判り易い仮定に基づき、そして同じことを為し遂げるようなものは、決して立てられなかったと云うことです。それですから、この範囲では静止エーテルの理論を、経験の全部と一致する唯一のものとして承け容れなければならなかったのでした。
私達はこの静止エーテルの理論を相対性原理の立場から観察しましょう。外力を受けない質点がある体系に関して一様に動いているならば、そう云うすべての体系を私達は非加速的のものとして云い表わします。そうしますと、相対性原理はこう主張するのです。自然法則はすべての非加速的体系に関しては同一であると、静止エーテルに関するローレンツの根本仮説は他方に、あらゆる可能な非加速的運動体系のうちで、一定の運動状態のもの、すなわちこの光の媒質に対して静止せる体系を特別に徴しづけます。それですから、たとえこの考えに従っても、哲学上の意味でのある絶対運動が存在するとは云うことは出来ませんけれども、――なぜならそれは全然見限られたことで、私達はただ物体の相対的な位置変化を考えることが出来るだけですけれども、――しかし私達が今一つの運動状態、すなわちエーテルに対する静止を特別に扱ったと云うことで、物理学的の意味で一つの絶対運動が形づくられます。私達はエーテルに関して静止する各の物体をどうにか絶対静止のものと云うことが出来ます。エーテルに対して静止せる基準系はあらゆるその他の加速しない基準系に対して特別のものとせられます。この意味でローレンツの静止エーテルの根本観念は相対性原理に適いません。静止エーテルの根本観念は次の一般的考察に導きます。一つの基準系 K がエーテルに対して静止しており、もう一つの他の基準系 K' はエーテルに対して一様に動いているとします。エーテルに関する K' の相対運動は K' に対して成り立つところの自然法則にある影響を及ぼすと云うことが期待せられるわけです。つまり K' に関する自然法則は K' のエーテル内における運動のために K に関する法則とは異っている事が期待せられるのでした。その上にまた地球は私達の実験室と共に一年全体の間この光の媒質に対して静止していることは出来ないので、それはすなわち K' なる基準系の役目をするはずであると云わなければなりませんでした。従ってこの運動の影響が私達の実験室における実験にあらわれるような何等かの現象が見出されることを仮定しなければならないのでした。私達の物理的空間は、これを地球上に在るとする限り、この相対運動のために方向によって異った性質をもつと信ずべきはずでした。けれども何等この様な事を実証することはどんな場合にも決して成功しませんでした。
ところでこのエーテルに対してはおもしろく思われませんでした。フィゾーの実験はエーテルが物質と一緒に動かないことを云いあらわします。すなわち光の媒質の物質に対する運動があるわけです。けれども、この相対運動を確立しようとするすべての実験は否定的の結果を与えました。つまりそこにはお互に矛盾する様に見える二つの結果があります。そしてこの不愉快な乖離を解放することが出来なかったことは、物理学者にとりて非常に痛ましい事でした。私達は、どんなにしても取り除けを見出すことの出来なかった相対性原理を、どうにかしてローレンツの理論と一致させることは出来ないであろうかと云うことを考究しなければなりませんでした。今それへ入り込む前に私たちは静止エーテルのローレンツ理論から最も本質的な部分を抽き出してみましょう。静止エーテルが存在すると云うことは物理学的に何を意味しているでしょうか。この仮説の最も大切な内容は次のように云いあらわすことが出来ます。それはここに一つの基準体系(ローレンツの理論で「エーテルに対して静止せる体系」と名づけられる)が存在していて、それに関しては真空中の各の光線が普遍的な速度 c をもって伝播すると云うことです。そしてこれは光を発する物体が静止していてもまたは動いていても、それに無関係に成立つと云う事です。この主張を私達は光速一定の原理と名づけましょう。そこで上に述べた問題はまた次の様な形式にすることも出来ます。取り除けなしに満足されるように見える相対性原理をこの光速一定の原理と結合させることは出来ないでありましょうか。次のように、ちょっと考えると、まずこれが否定されます。基準体系 K に対して各光線が速度 c で進むとしますと、これは K に対して運動している基準系 K' に対してもはや成り立ちません。すなわち K' が光線の進む方向に速度 <math>v</math> で{{註|[#「速度 <math>v</math> で」は底本では「速度 <math>V</math>で」]}}動いているならば普通の見方では K' に対する光線の速度は <math>c-v</math> に等しいとおかれるはずです。つまり K' に対する光の伝播の法則は K に対する速度と異なることになり、相対性原理が損われます。これは恐ろしいディレンマです。ところがよく考えると自然はこのディレンマには全く負い目をもってはいないので、むしろこのディレンマは私達がその考察のなかに、従ってまた私の今述べたもののなかにも、黙って勝手に仮定をつくっていたことから起るのです。私達は事がらを矛盾なしにかつ簡単に考えるようにするために、それを取り去ってしまわなくてはなりません。
私はこの勝手な仮定、すなわち私達の物理学的思考の根本に横わっているものを説明してみようと思います。この勝手な仮定のうちの第一のかつ最も大切なものは時間概念に関するものであって、私はどこにこの勝手さが存立するかを述べてみましょう。それをうまく行るために、私はまず空間について論じ、その上で時間をこれと平行に置こうと思います。もし私達が空間における一点の位置、すなわちある坐標系に対する一点の位置を云い表わそうと思うならば私達はその直交坐標 <math>x, y, z</math> を与えます。この坐標の意味は次の如くです。よく知られた規則に従って坐標面に垂直線を立て、一つの与えられた単位物指がこの垂直線上に幾囘運ばれたるかをごらんなさい。この囘数を数えた結果が坐標です。坐標で空間を指定するのはそれゆえ一定の操作の結果です。私が指示する坐標は従って全く一定の物理的意味をもっています。私達は一定の与えられた点が実際に指示された坐標をもつかどうかを試験することが出来ます。
この関係は時間ではどうなるでしょうか。そこでは私達はそれほどうまく行かないのを見るでしょう。従来私達はいつもこう云うて満足していました。時間は出来事の独立変数であると、かような定義では誰れもそれに基づいて事実上存在する出来事の時間値を測ることは出来ません。ですから私達は、その定義に基づいて時間測定が可能であるように、時間を定義するように行ってみなければなりません。私達はある坐標系 K の原点に一つの時計(例えばゼンマイ時計)をおくとしましょう。この時計で直接にこの点ならびにそのごく近所に起っている出来事を時間的に値いづけられることが出来ます。K の他の点で起る出来事はしかしこの時計で直接に時を定めるわけにはゆきません。K の原点には時計の傍にいる観測者が光線に依ってその出来事の報知を受けとる時刻をしるすとしますと、この時刻は出来事自身の時ではなくて、出来事から時計に達するまでの光線の伝播時間だけ出来事の時刻から遅れて{{註|[#「遅れて」は底本では「運れて」]}}いるのです。もし私達が K 系に対するその方向の光の伝播速度を知っているとすれば、出来事の時刻はその時計で定めることが出来るのでしょう。けれども光の伝播速度の測定は私達の取り扱っている時間決定の問題がすでに解かれたときにのみ可能なのです。すなわち一定の方向における光の速度を測るためには、光線の伝わる二点 A 及び B の間の距離と、その外 A において光を送り出した時刻ならびに B において光の到着した時刻とを測らなければならなかったでしょう。つまり諸処での時間測定が必要であるわけですが、それは私達の求める時間の定義が既に与えられた時にのみ実行し得るのでしょう。しかし一つの速度特に光の速度を測ることが、任意の指定なしには原理的に不可能であると云うならば、私達は光の伝播速度に関してなお任意な指定をなしてもよいのです。そこで私達は真空中の光の伝播速度は一点 A から一点 B へゆく途で B から A への光線の伝播速度と同じ大きさであると定めます。この指定のお蔭で私達は K 系に対し種々の点に静止して列べられた同じ性質の時計を実際に合わせることが出来るようになります。例えば二点 A と B とにある時計を次のことが成り立つように合わせましょう。A において時刻 <math>t</math>(A の時計で測って)に一つの光線を B に向けて送り、それが時刻 <math>t+a</math>(B の時計で計って)に B に到着するとしますと、逆に時刻 <math>t</math>(B の時計で測って)B から A の方へ送られた光線は時刻 <math>t+a</math>(A の時計で測って)に A に来なければなりません。これが K 系に配置されたすべての時計を合わせるための規定なのです。もし私達がこの規定を満足させたなら、それで私達は実測物理学者の立場から一つの時間決定を求め得たのです。ある出来事の時刻はすなわちかように与えられた規定に従って合わされた時計のうちで、その出来事の場処にあるものの示す時に等しいのです。
ところで、私達はそれによって特に目立った何ものを得たのであろうかと云う疑問が起るでしょう。なぜなればそのすべては自明の事がらのように聞えるからです。目立った事柄と云うのは、全く決った意味の時間指示に達するためのこの規定が全く一定の坐標系 K に対して静止する時の一体系に関係していると云うことにあります。私達は単に一つの時を得たのではなくて、坐標系 K に関した時、すなわち K に対して静止して列べられた時計を含めて坐標系 K に関した時を得たのです。私達はもちろん、K に対して一様に動いているような第二坐標系 K' を{{註|[#「第二坐標系 K' を」は底本では「第二坐標系 K を」]}}もつならば、全く同じことをこれに関して行うことが出来ます。この坐標系 K' に対しても一つの時計体系をその空間に配置し、それらをすべて K' と一緒に動いているようにしますと、私達はこの K' に関して静止している時計を全く上に与えた規定に従って合わせることが出来ます。そうした上で私達は K' 系に関してもまた一つの時を得ます。
ところがアプリオリにはまるでこう云われません。もし二つの出来事が基準系 K ――私はそれで時計を含めた坐標系を意味させます――に関して同時刻であるなら、同じ出来事は基準系 K' に関してもまた同時刻的であると。つまり時間は一の絶対な、すなわち基準系の運動状態に無関係な意味をもっているとは云われません。それは私達の運動学に含まれていた一つの任意さなのです。
ここにやはり従来の運動学において任意的であった第二の事情があらわれます。私達は一つの物体の形、例えば一つの棒の長さについて話しますが、その長さが幾らであるかを、精密に知っていると信じています。そしてそれが、私達の現象をしるしている基準系に関して運動している場合にもまたそうです。しかし少しく考えて見ますと、その事は私達がこれを本能的に想っているほど、決してそんなに簡単な概念ではないことが判ります。一つの棒がその長い方向に基準系に対して動いているとしましょう。この棒はどれだけ長いかと尋ねてみましょう。この問は{{註|[#「この問は」は底本では「この間は」]}}ただ次の意をもち得るだけです。すなわち棒がどれほど長いかを知るために私達はどんな実験を行わなければならないかと云うことです。私達はある物指をもった一人の人間を取りて、これを衝き動かし、棒と同じ速度をもたせます。そうすればこの人は棒に対して静止していますから、彼の物指を繰返して棒と並べて、ちょうど実際に静止体の長さを測るのと同じ様にして、その長さを見出すことが出来ます。そこに彼は全く一定の数を得、そして彼がこの棒の長さを測ったと云うことをある権利をもって言明することが出来ます。
しかしながらもし棒と一緒に動いていないで、すべてある基準系に静止しているような観測者のみがあるとしたならば、私達は次の様にすることが出来ます。私達は動いている棒の軌道に沿うて非常にたくさんの時計を配置し、その各に観測者が附き添うているとします。時計は上に与えられた手段に従って光の信号で合わされ、その全体で基準系に属する時間を示すようにします。これらの観測者は K 系に関して棒の前後両端がある一定の与えられた時刻 <math>t</math> に存在する二つの場処を見出します。すなわち棒の前後両端がそこを通過するとき時刻 <math>t</math> を示すような二つの時計を見出すと云っても同じことです。こうして求められた二つの場処(もしくは時計)のお互の距離は基準系 K に対して静止せるある物指を結合線の上に繰り返して列べて測る事が出来ます。この二段の処置の結果を私達は動いている棒の長さとして正当に云いあらわすことが出来るのです。けれどもこの二つの取扱いが必然的に同じ結果に到達するとは限りません。言葉を換えて云えば、一つの物体の幾何学的の容量は、これが見出される基準系の運動状態に必ずしも無関係ではありません。
もし私達がこの二つの任意の仮定をしないならば、私達はもはや次の初等的の問題をも解くことがすぐには出来ないのです。すなわち一つの出来事の坐標 <math>x, y, z,</math> 及び時刻 <math>t</math> が K 系に関して与えられているとき、K 系に対して既知の一様な併移運動にあるような他の系 K' に関する同じ出来事の空間時間坐標 <math>x, y, z, t,</math> を求めると云う事です。つまり従来この問題の簡単な解を得たのは、私達が今任意的と云った仮定をしていたのに依ることが判ります。
どう云う風にして私達は再び運動学を立てなおしたらよいのでしょうか。そこにおのずから次の答が生じます。ちょうど私達に以前痛ましい困難を与えていた事情が私達を踏み歩み得る道に導きます。もちろん今述べた任意的の仮定を取り除いてもっと多くの余地を収得した上です。つまり経験が、私達を強要した二つの外見的には結合し得られないような基礎法則、すなわち相対性原理と光速度一定の原理とがちょうど空間時間転換の問題の一定の解に導くことが判ります。そこで私達は通常の思想と一部分はなはだしく矛盾するような結果に到着します。これに導くところの数学的考察ははなはだ簡単ですが、ここではそれに立ち入りますまい。
<math>x, y, z, t</math> ならびに <math>x', y', z', t'</math> が両基準系 K 及び K' に関する空間及び時間坐標であるならば、基礎とした両原理は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2=c^2 t^2</math>}}
及び
{{equation|<math>x'^2+y'^2+z'^2=c^2 t'^2</math>}}
なる二つの方程式各が他のものを帰結するように変換方程式を作らなくてはならないことを要求します。ここには説明しない理由からして変換方程式は一次的でなければなりませんから、これで変換法則が決定されることが少しく研究すれば判ります。(例えば Jahrb. d. Radioakt. und. Elektronik 4. (1907), 418 参照)
むしろ私は、この様にしてその外の仮定なしに全く論理的に進めて達せられる最も主要な帰結に立ち入ることにしましょう。
まず最初は純粋に運動学的のものです。私達は坐標と時間とを一定の方法で物理学的に定義しましたから、空間的ならびに時間的の量の間のどんな関係もある全く一定の物理的内容をもつでありましょう。まず次のことが出ます。もし私達が考察の基礎となした坐標系 K に関して一様に動いているところの一つの固体をもつならば、この物体は、それがこの体系に関して静止の状態でもっているような形に対してその運動方向に一定の割合に縮まって見えます。私達が物体の運動速度を <math>v</math> で、光の速度を <math>c</math> であらわすならば、各の運動方向に測られた長さは、物体の動かない状態で <math>l</math> に等しいものが、運動を共にしない観測者に関しては運動のために
{{equation|<math>l\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}</math>}}
なる大きさに短縮されます。
もし物体が静止状態で球形であるなら、それを一定の方向に動かす場合に、これは扁平な楕円体の形を取ります。もし速度が光速度に達するならば、物体は一平面にひしゃげてしまいます。しかし共に動いている観測者から判断すれば、物体は前と同じくその球形を保っているでしょう。他方でこの物体と共に動いている観測者には運動を共にしないすべての対象は全く同様に相対運動の方向に縮まって見えるのです。この結果は奇妙さを示していますが、しかし運動物体の形と云うものは、実際上述のことによれば、ただ時間決定の助けによって始めて見出されるものであって、はなはだ複雑な意味をもっていますから、それを考慮すれば肯かれるわけです。
この「運動物体の形」なる概念が直接に明らかな内容をもっていると云う感じは、そもそも私達が日常の経験では単に光速度に対し実際上無限に小さいような運動速度のみを見るのに慣れていることを思い合わせると、それから得られるでしょう。
次にこの理論の第二の純粋に運動学的の帰結であって、もっと目立った事柄はこうです。ある基準系 K に対して静止して配置されており、これの時間を指示することの出来る一つの時計が与えられていると考えましょう。そうしますと、もしこの時計が基準系に関して一様な運動におかれるならば、K 系から判断して進みが遅れるようになり、この時計の時間指示が 1 だけ進む間に体系 K の時計は K に関して
{{equation|<math>\frac{1}{\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}}</math>}}
だけの時間を経過するようになると云うことが証明出来ます。つまり動いている時計は、それが K に関して静止の状態になるときよりも遅く進むのです。運動状態における時計の進む速さは、この時計の指針の位置を、K に対して静止しておりかつ K に関しての時間を測るような時計のうちでちょうど今考に取った運動時計がその傍を通り過ぎるようなものの指針位置といつも比較して見出されると考えなければなりません。もし私達が時計を光速度で動かすことが出来たとしたならば――充分に力を加えるなら私達は時計をほとんど光速度で動かすことが出来たでもありましょう――時計の指針は、K から判断して、無限に遅く進むでしょう。
もし次のことが実現されたと考えるなら、事柄は最もおかしくなります。この時計に非常に大きい速度(ほとんど <math>c</math> に等しいような)を与え、これを一様な運動を続けて飛ばせ、それが遠い距離を飛んだ後で反対の方向に衝撃を与えてもと出発した場処へ再び戻るようにします。そうすれば、この時計の指針の位置はその全旅行の間にほとんど変りはしなかったのですが、これに反してその間出発の場処に静止状態に残された全く同じ構造の時計はその指針の位置をすっかり変えてしまっていると云うことになります。これに附言しなけばならないことは、私達がすべての物理的出来事の簡単な一代表として導き入れたこの時計に対して成り立つところのものはまたどんなその外の性質のそれ自身完閉した物理学的体系に対しても成り立つと云うことです。例えば私達がある生物を箱に入れて上に時計のなしたと同様な往復運動をさせますと、この生物は任意に長く旅行した後でどれほども変らずにその最初の場処に戻って来ることが出来たでもありましょう。ところがまるで同じ生物がもとの場処に止っているならば、既に久しい前に新たな子孫に代らせたにちがいありません。運動している生物にはこの旅行の長い時間は、その運動がほとんど光速度で行われたとすれば、ただ一瞬時にすぎないのです。これは経験が私達を強要して私達の基礎におかしめた原理の否定し難い一つの帰結なのです。
ところで物理学に対する相対性理論の意味についてもう一言しよう。この理論の要求する処は、ある任意の速度に対して成立する自然法則の数学的表式は、この法則をあらわす式のなかに転換式によりて新しい空間時間坐標を引き入れてもその形を変えないと云うことです。それによりて可能性の多様さは著しく制限せられます。静止せるもしくは遅く動いている物体に対して法則が知られているなら、それから簡単な転換によりて任意に速く動いている物体に対する法則を導き出す事が出来ます。かようにして例えば速い陰極線に対する運動法則を出すことが出来ます。その場合にニウトンの式は任意に速く動く質点には成り立たないで、これはやや複雑の構造の運動方程式で置き換えられなくてはならないことが判ります。陰極線の屈曲に関してこの法則は全く満足的に経験と一致することが示されました。
相対性理論の物理学的に最も大切な結論のうちで次のことが記されなくてはなりますまい。私達は前に、動いている時計が相対性理論に従えば静止している同じ時計よりも遅く進むことを見ました。私達がこれを懐中時計で実験して確証しようとすることはたぶんいつまでも見込のないことでありましょう。なぜなら私達がかようなものに与え得る速度は光速度に対して無視せられるほど小さいものであるからです。けれども自然は私達に全く時計の性質をもちかつ非常に速く動かされ得るような物を提供します。これはスペクトル線を送り出す原子であって、私達はこれに電気の場によって数千キロメートルの速度を与えることが出来ます。(カナル線)理論によれば、これ等の原子の振動数はその運動によって、ちょうど動いている時計に対して導き出されるのと全く同様の方法で、影響されて見えることが期待せられます。この実験は大きな困難に出遇いはしますが、それでも私達は、この方法で将来の十年間のうちには相対性理論の重要な確証もしくは反駁を得ることを望むことが出来るでしょう。
理論は更に、物体の惰性的質量がそのエネルギー内容に関係すると云う大切な結果に導きます。ただしこれははなはだわずかの程度であって、直接にこれを証明することは全く望みないことです。しかし物体のエネルギーが E だけ増せば、惰性的質量は <math>\frac{E}{c^2}</math> だけ増します。この法則によって質量保存の法則は倒壊されたので、云い換えればエネルギー保存の法則と唯一のものに融合したのです。この結果はかなり著しく響くかもしれませんが、しかし相対性理論なしにもまたある特殊の場合には経験的に知られた事実からして、惰性的質量がエネルギー内容と共に増すことを確実に結論することは出来ます。
もう一言この理論が主として、悼ましくも余りに早く逝いた数学者ミンコウスキーによって得たところのはなはだ興味ある数学的補助について述べましょう。相対性理論の変換方程式は、それが
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2-c^2 t^2</math>}}
なる式を不変量としてもつように作られています。時間 <math>t</math> の代りに虚数的変数 <math>ct\sqrt{-1}=\tau</math>を時間変数として導き入れますと、この不変量は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2+\tau^2</math>}}
なる形を取ります。この際空間的坐標ならびに時間坐標は同じ役目をなします。この空間及び時間坐標の形式的等値性を相対性理論において更に押し進めますと、この理論のはなはだ見易い説明に達し、その応用をより容易くするのです。物理的出来事はある四次元間において云い表わされ、また出来事の空間的関係はこの四次元空間における幾何学的法則としてあらわれます。
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}}
<div class="jisage_10" style="margin-left: 10em"><span class="sho1" style="font-size: small;">(一九一一年一月一六日チューリッヒの自然科学会席上の講義)</span></div>
「相対性理論」と名づけられる理論が倚りかかっている大黒柱はいわゆる相対性原理{{註|[#「相対性原理」は底本では「相対性理論」]}}です。私はまず相対性原理とは何であるかを明らかにしておこうと思います。私たちは二人の物理学者を考えてみましょう。この二人の物理学者はどんな物理器械をも用意しています。そして各々一つの実験室をもっています。一人の物理学者の実験室はどこか普通の場所にあるとし、もう一人の実験室は一定の方向に一様な速さで動く汽車の箱のなかにあるとします。相対性原理は次のことを主張するのです。もしこの二人の物理学者が彼等のすべての器械を用いて、一人は静止せる実験室のなかで、もう一人は汽車のなかで、すべての自然法則を研究するならば、汽車が動揺せずに一様に走る限り、彼等は全く同じ自然法則を見出すでありましょう。幾らか抽象的にこう云うことも出来ます。自然法則は相対性原理によれば基準体系の併移運動に関しません。
私達は今この相対性原理が旧来の力学でどんな役目をもっていたかをみましょう。旧来の力学は第一にガリレイの原理の上に安坐しています。この原理に従えば、ある物体は他の物体の作用を受けない限り、直線的な一様な運動にあります。もしこの法則が上に云うた実験室の一方に対して成り立つ{{註|[#「成り立つ」は底本では「成リ立つ」]}}ならば、それはまた第二に対しても成り立ちます。私達はそのことを直接に直観から取り出すことが出来ます。私達はそれをしかしまたニウトン力学の方程式からも引き出すことが出来るのです。私達はその方程式をもとの基準体系に対して一様に動いているものへ転換させればよいのです。
私はここで実験室と云っていますが、数理的物理学では事柄を一定の実験室に関係させる代りに坐標系に関係させるのが普通です。このようにある何かに関係させるという場合に本質的なのは次の事柄です。私達が一点の位置について何か云おうとするときには、いつも私達はこの点とある他の物体系の一点との合致を示し与えます。もし私が例えば自分をこの質点であると取り、そうして、私はこの部屋のなかのこの場所に居ると云いますなら、私は自分を空間的の関係でこの部屋のある点と合致させたのです。あるいは私はこの合致を云いあらわしたのです。数理的物理学ではこれを云い表わすのに、三つの数、すなわちいわゆる坐標によりて、場所を示そうとした点が坐標系と称えられる剛体体系のどの点と合致するかを云い表わします。
これは相対性原理について最も一般的のものであったのでしょう。もし私達が、十八世紀もしくは十九世紀前半の物理学者に、この原理を疑うかどうかを尋ねたとしましたなら、彼はきっとこの質問を断然否定したに違いありません。その当時は各の自然現象をすべて旧来の力学の方則に帰せしめられることが確かであるとしていましたから、それを疑う理由をちっとも持っていなかったのです。私はここで、物理学者が経験によってどうしてこの原理に矛盾する物理学的論理を立てるようになったかを説明しようと思います。そのために私達は光学及び電気力学の発展を、それらが前世紀において、漸次是認せられた限りにおいて、相対性原理の立場から簡単に考察してみなければなりません。
光はちょうど音波のように干渉や𢌞折を示します。ですから私達は光を一の波動としてもしくは一般にある媒質の週期的に変化する状態として見做さなくてはならないように感じさせられます。この媒質をエーテルと名づけました。かような媒質の存在は近頃までは物理学者に絶対に確かであるように見えました。次に述べる理論はエーテル仮説とは相容れないものですが、しかししばらく私達はこれに依ることにしましょう。私達は今この媒質に関してどんな考え方が発展されて来たか、またこのエーテルを仮定する物理学的理論を導き入れたためにどんな問題が起ったかをみようと思います。私達は既に、光がこの媒質の振動から成ると考えたこと、すなわちこの媒質は光及び熱の振動の伝播を引き受けていると考えた事を述べました。{{傍点|静止}}物体の光学的現象だけを取り扱っている間は、光がこの媒質の運動を起すと云う外に、それの別の運動を問題にするには及ばなかったのでした。単にこの媒質はそこで見ている物体と同様に――光が起すはずであった振動を取り除けば――静止の状態にあると仮定されました。
{{傍点|運動}}物体の光学的現象、並に――それと関聯して――運動物体の電磁気的性質を考察するようになったときに、私達はその観察する物理学的体系のなかで、物体に種々の速度を与えたならばエーテルはどうなるかと云う問題に向わなければなりませんでした。エーテルは物体と一緒に動くのでしょうか。すなわち各の場所でエーテルはそこにある物質と同じ様に動くでしょうか。またはそうではないのでしょうか。最も簡単な仮定はエーテルがどこでも物質と全く同じ様に動くと云うことです。第二の可能な仮定は、これもやはりかなりな簡単さを示すものですが、こうです。すなわちエーテルは物体の運動に全然与からないと云うのです。それからまた中間の場合も可能でありましょう。この中間の場合と云うのは、エーテルがある度まで物質と無関係に空間内に動くのです。私達は今、この問題の解答を得るためにどう云うことが試みられたかをみようと思います。最初に得られた重要な説明は仏国の物理学者フィゾーの行った大切の意味のある実験から来ています。この実験は次の問題から起されました。
[[File:Fig50328 01.png|thumb|第一図]]
図に示した管はその前後を硝子板で閉じてあり、両端の接続管から管を通じて軸の方向に液体を流すことが出来るようにしてあります。管を流れる液体の速度はやはり軸の方向に管を通る光線の伝播速度に、どう影響するでしょうか。エーテルが管を流れる物質と一緒に動くことが本当であるなら、次のように考えられます。静止した水のなかで光の進む速さが V であるとします。つまり V は水に対する光の速度であるとし、また <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}管に対する水の速度であるとしますと、私達はこう云わなくてはなりますまい。水に対する光の速度は、もしエーテルが水に固着しているなら水が動いていてもまたは動かずにいても、それには関せずにいつも同じであります。それですから管に対する光の伝播速度は液体が動いている場合には、これが静止している場合よりも、<math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math>だけ」]}}大きいと予期されます。フィゾーの実験では、二つの干渉し得る光線束が上述のように管を通りました。液体の運動速度が干渉の縞の処置に及ぼす影響からして、水の運動速度 <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}静止管に対する光の伝播速度にどれほどな影響を及ぼしたかを計算することが出来ました。フィゾーは、管に対する光速が液体の運動のために <math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math> だけ」]}}増されずに、かえってただその分数(<math>n</math> を液体の屈折率としますと <math>v(1-\frac{1}{n})</math> )だけしか増さないことを見出しました。この屈折率がほとんど 1 に等しく、すなわち光が液体のなかでほとんど真空におけると同じ速さで進むとしますと、液体の運動はほとんど影響をもちません。この事から、光が水に対していつも同じ速度で進むと云う考え方は、経験と一致しないと結論しなければなりませんでした。
次に簡単な仮説は、エーテルが物質の運動に少しも与からないと云うことでした。この仮説に基づいては、光学的現象が物質の運動によってどう影響されるかを、そう簡単に導き出すわけにはゆきません。しかしローレンツは一八九〇年代の中頃に、全く動かないエーテルの仮定に基づく一つの理論を立てることに成功しました。彼の理論は運動体の光学及び電気学のほとんどすべての知られた現象を、その中にまた今述べたフィゾーの実験をも含めて、全く正しく与えます。私がすぐここで注意したいのは、ローレンツのと根本的に異った理論で、しかも簡単な判り易い仮定に基づき、そして同じことを為し遂げるようなものは、決して立てられなかったと云うことです。それですから、この範囲では静止エーテルの理論を、経験の全部と一致する唯一のものとして承け容れなければならなかったのでした。
私達はこの静止エーテルの理論を相対性原理の立場から観察しましょう。外力を受けない質点がある体系に関して一様に動いているならば、そう云うすべての体系を私達は非加速的のものとして云い表わします。そうしますと、相対性原理はこう主張するのです。自然法則はすべての非加速的体系に関しては同一であると、静止エーテルに関するローレンツの根本仮説は他方に、あらゆる可能な非加速的運動体系のうちで、一定の運動状態のもの、すなわちこの光の媒質に対して静止せる体系を特別に徴しづけます。それですから、たとえこの考えに従っても、哲学上の意味でのある絶対運動が存在するとは云うことは出来ませんけれども、――なぜならそれは全然見限られたことで、私達はただ物体の相対的な位置変化を考えることが出来るだけですけれども、――しかし私達が今一つの運動状態、すなわちエーテルに対する静止を特別に扱ったと云うことで、物理学的の意味で一つの絶対運動が形づくられます。私達はエーテルに関して静止する各の物体をどうにか絶対静止のものと云うことが出来ます。エーテルに対して静止せる基準系はあらゆるその他の加速しない基準系に対して特別のものとせられます。この意味でローレンツの静止エーテルの根本観念は相対性原理に適いません。静止エーテルの根本観念は次の一般的考察に導きます。一つの基準系 K がエーテルに対して静止しており、もう一つの他の基準系 K' はエーテルに対して一様に動いているとします。エーテルに関する K' の相対運動は K' に対して成り立つところの自然法則にある影響を及ぼすと云うことが期待せられるわけです。つまり K' に関する自然法則は K' のエーテル内における運動のために K に関する法則とは異っている事が期待せられるのでした。その上にまた地球は私達の実験室と共に一年全体の間この光の媒質に対して静止していることは出来ないので、それはすなわち K' なる基準系の役目をするはずであると云わなければなりませんでした。従ってこの運動の影響が私達の実験室における実験にあらわれるような何等かの現象が見出されることを仮定しなければならないのでした。私達の物理的空間は、これを地球上に在るとする限り、この相対運動のために方向によって異った性質をもつと信ずべきはずでした。けれども何等この様な事を実証することはどんな場合にも決して成功しませんでした。
ところでこのエーテルに対してはおもしろく思われませんでした。フィゾーの実験はエーテルが物質と一緒に動かないことを云いあらわします。すなわち光の媒質の物質に対する運動があるわけです。けれども、この相対運動を確立しようとするすべての実験は否定的の結果を与えました。つまりそこにはお互に矛盾する様に見える二つの結果があります。そしてこの不愉快な乖離を解放することが出来なかったことは、物理学者にとりて非常に痛ましい事でした。私達は、どんなにしても取り除けを見出すことの出来なかった相対性原理を、どうにかしてローレンツの理論と一致させることは出来ないであろうかと云うことを考究しなければなりませんでした。今それへ入り込む前に私たちは静止エーテルのローレンツ理論から最も本質的な部分を抽き出してみましょう。静止エーテルが存在すると云うことは物理学的に何を意味しているでしょうか。この仮説の最も大切な内容は次のように云いあらわすことが出来ます。それはここに一つの基準体系(ローレンツの理論で「エーテルに対して静止せる体系」と名づけられる)が存在していて、それに関しては真空中の各の光線が普遍的な速度 c をもって伝播すると云うことです。そしてこれは光を発する物体が静止していてもまたは動いていても、それに無関係に成立つと云う事です。この主張を私達は光速一定の原理と名づけましょう。そこで上に述べた問題はまた次の様な形式にすることも出来ます。取り除けなしに満足されるように見える相対性原理をこの光速一定の原理と結合させることは出来ないでありましょうか。次のように、ちょっと考えると、まずこれが否定されます。基準体系 K に対して各光線が速度 c で進むとしますと、これは K に対して運動している基準系 K' に対してもはや成り立ちません。すなわち K' が光線の進む方向に速度 <math>v</math> で{{註|[#「速度 <math>v</math> で」は底本では「速度 <math>V</math>で」]}}動いているならば普通の見方では K' に対する光線の速度は <math>c-v</math> に等しいとおかれるはずです。つまり K' に対する光の伝播の法則は K に対する速度と異なることになり、相対性原理が損われます。これは恐ろしいディレンマです。ところがよく考えると自然はこのディレンマには全く負い目をもってはいないので、むしろこのディレンマは私達がその考察のなかに、従ってまた私の今述べたもののなかにも、黙って勝手に仮定をつくっていたことから起るのです。私達は事がらを矛盾なしにかつ簡単に考えるようにするために、それを取り去ってしまわなくてはなりません。
私はこの勝手な仮定、すなわち私達の物理学的思考の根本に横わっているものを説明してみようと思います。この勝手な仮定のうちの第一のかつ最も大切なものは時間概念に関するものであって、私はどこにこの勝手さが存立するかを述べてみましょう。それをうまく行るために、私はまず空間について論じ、その上で時間をこれと平行に置こうと思います。もし私達が空間における一点の位置、すなわちある坐標系に対する一点の位置を云い表わそうと思うならば私達はその直交坐標 <math>x, y, z</math> を与えます。この坐標の意味は次の如くです。よく知られた規則に従って坐標面に垂直線を立て、一つの与えられた単位物指がこの垂直線上に幾囘運ばれたるかをごらんなさい。この囘数を数えた結果が坐標です。坐標で空間を指定するのはそれゆえ一定の操作の結果です。私が指示する坐標は従って全く一定の物理的意味をもっています。私達は一定の与えられた点が実際に指示された坐標をもつかどうかを試験することが出来ます。
この関係は時間ではどうなるでしょうか。そこでは私達はそれほどうまく行かないのを見るでしょう。従来私達はいつもこう云うて満足していました。時間は出来事の独立変数であると、かような定義では誰れもそれに基づいて事実上存在する出来事の時間値を測ることは出来ません。ですから私達は、その定義に基づいて時間測定が可能であるように、時間を定義するように行ってみなければなりません。私達はある坐標系 K の原点に一つの時計(例えばゼンマイ時計)をおくとしましょう。この時計で直接にこの点ならびにそのごく近所に起っている出来事を時間的に値いづけられることが出来ます。K の他の点で起る出来事はしかしこの時計で直接に時を定めるわけにはゆきません。K の原点には時計の傍にいる観測者が光線に依ってその出来事の報知を受けとる時刻をしるすとしますと、この時刻は出来事自身の時ではなくて、出来事から時計に達するまでの光線の伝播時間だけ出来事の時刻から遅れて{{註|[#「遅れて」は底本では「運れて」]}}いるのです。もし私達が K 系に対するその方向の光の伝播速度を知っているとすれば、出来事の時刻はその時計で定めることが出来るのでしょう。けれども光の伝播速度の測定は私達の取り扱っている時間決定の問題がすでに解かれたときにのみ可能なのです。すなわち一定の方向における光の速度を測るためには、光線の伝わる二点 A 及び B の間の距離と、その外 A において光を送り出した時刻ならびに B において光の到着した時刻とを測らなければならなかったでしょう。つまり諸処での時間測定が必要であるわけですが、それは私達の求める時間の定義が既に与えられた時にのみ実行し得るのでしょう。しかし一つの速度特に光の速度を測ることが、任意の指定なしには原理的に不可能であると云うならば、私達は光の伝播速度に関してなお任意な指定をなしてもよいのです。そこで私達は真空中の光の伝播速度は一点 A から一点 B へゆく途で B から A への光線の伝播速度と同じ大きさであると定めます。この指定のお蔭で私達は K 系に対し種々の点に静止して列べられた同じ性質の時計を実際に合わせることが出来るようになります。例えば二点 A と B とにある時計を次のことが成り立つように合わせましょう。A において時刻 <math>t</math>(A の時計で測って)に一つの光線を B に向けて送り、それが時刻 <math>t+a</math>(B の時計で計って)に B に到着するとしますと、逆に時刻 <math>t</math>(B の時計で測って)B から A の方へ送られた光線は時刻 <math>t+a</math>(A の時計で測って)に A に来なければなりません。これが K 系に配置されたすべての時計を合わせるための規定なのです。もし私達がこの規定を満足させたなら、それで私達は実測物理学者の立場から一つの時間決定を求め得たのです。ある出来事の時刻はすなわちかように与えられた規定に従って合わされた時計のうちで、その出来事の場処にあるものの示す時に等しいのです。
ところで、私達はそれによって特に目立った何ものを得たのであろうかと云う疑問が起るでしょう。なぜなればそのすべては自明の事がらのように聞えるからです。目立った事柄と云うのは、全く決った意味の時間指示に達するためのこの規定が全く一定の坐標系 K に対して静止する時の一体系に関係していると云うことにあります。私達は単に一つの時を得たのではなくて、坐標系 K に関した時、すなわち K に対して静止して列べられた時計を含めて坐標系 K に関した時を得たのです。私達はもちろん、K に対して一様に動いているような第二坐標系 K' を{{註|[#「第二坐標系 K' を」は底本では「第二坐標系 K を」]}}もつならば、全く同じことをこれに関して行うことが出来ます。この坐標系 K' に対しても一つの時計体系をその空間に配置し、それらをすべて K' と一緒に動いているようにしますと、私達はこの K' に関して静止している時計を全く上に与えた規定に従って合わせることが出来ます。そうした上で私達は K' 系に関してもまた一つの時を得ます。
ところがアプリオリにはまるでこう云われません。もし二つの出来事が基準系 K ――私はそれで時計を含めた坐標系を意味させます――に関して同時刻であるなら、同じ出来事は基準系 K' に関してもまた同時刻的であると。つまり時間は一の絶対な、すなわち基準系の運動状態に無関係な意味をもっているとは云われません。それは私達の運動学に含まれていた一つの任意さなのです。
ここにやはり従来の運動学において任意的であった第二の事情があらわれます。私達は一つの物体の形、例えば一つの棒の長さについて話しますが、その長さが幾らであるかを、精密に知っていると信じています。そしてそれが、私達の現象をしるしている基準系に関して運動している場合にもまたそうです。しかし少しく考えて見ますと、その事は私達がこれを本能的に想っているほど、決してそんなに簡単な概念ではないことが判ります。一つの棒がその長い方向に基準系に対して動いているとしましょう。この棒はどれだけ長いかと尋ねてみましょう。この問は{{註|[#「この問は」は底本では「この間は」]}}ただ次の意をもち得るだけです。すなわち棒がどれほど長いかを知るために私達はどんな実験を行わなければならないかと云うことです。私達はある物指をもった一人の人間を取りて、これを衝き動かし、棒と同じ速度をもたせます。そうすればこの人は棒に対して静止していますから、彼の物指を繰返して棒と並べて、ちょうど実際に静止体の長さを測るのと同じ様にして、その長さを見出すことが出来ます。そこに彼は全く一定の数を得、そして彼がこの棒の長さを測ったと云うことをある権利をもって言明することが出来ます。
しかしながらもし棒と一緒に動いていないで、すべてある基準系に静止しているような観測者のみがあるとしたならば、私達は次の様にすることが出来ます。私達は動いている棒の軌道に沿うて非常にたくさんの時計を配置し、その各に観測者が附き添うているとします。時計は上に与えられた手段に従って光の信号で合わされ、その全体で基準系に属する時間を示すようにします。これらの観測者は K 系に関して棒の前後両端がある一定の与えられた時刻 <math>t</math> に存在する二つの場処を見出します。すなわち棒の前後両端がそこを通過するとき時刻 <math>t</math> を示すような二つの時計を見出すと云っても同じことです。こうして求められた二つの場処(もしくは時計)のお互の距離は基準系 K に対して静止せるある物指を結合線の上に繰り返して列べて測る事が出来ます。この二段の処置の結果を私達は動いている棒の長さとして正当に云いあらわすことが出来るのです。けれどもこの二つの取扱いが必然的に同じ結果に到達するとは限りません。言葉を換えて云えば、一つの物体の幾何学的の容量は、これが見出される基準系の運動状態に必ずしも無関係ではありません。
もし私達がこの二つの任意の仮定をしないならば、私達はもはや次の初等的の問題をも解くことがすぐには出来ないのです。すなわち一つの出来事の坐標 <math>x, y, z,</math> 及び時刻 <math>t</math> が K 系に関して与えられているとき、K 系に対して既知の一様な併移運動にあるような他の系 K' に関する同じ出来事の空間時間坐標 <math>x, y, z, t,</math> を求めると云う事です。つまり従来この問題の簡単な解を得たのは、私達が今任意的と云った仮定をしていたのに依ることが判ります。
どう云う風にして私達は再び運動学を立てなおしたらよいのでしょうか。そこにおのずから次の答が生じます。ちょうど私達に以前痛ましい困難を与えていた事情が私達を踏み歩み得る道に導きます。もちろん今述べた任意的の仮定を取り除いてもっと多くの余地を収得した上です。つまり経験が、私達を強要した二つの外見的には結合し得られないような基礎法則、すなわち相対性原理と光速度一定の原理とがちょうど空間時間転換の問題の一定の解に導くことが判ります。そこで私達は通常の思想と一部分はなはだしく矛盾するような結果に到着します。これに導くところの数学的考察ははなはだ簡単ですが、ここではそれに立ち入りますまい。
<math>x, y, z, t</math> ならびに <math>x', y', z', t'</math> が両基準系 K 及び K' に関する空間及び時間坐標であるならば、基礎とした両原理は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2=c^2 t^2</math>}}
及び
{{equation|<math>x'^2+y'^2+z'^2=c^2 t'^2</math>}}
なる二つの方程式各が他のものを帰結するように変換方程式を作らなくてはならないことを要求します。ここには説明しない理由からして変換方程式は一次的でなければなりませんから、これで変換法則が決定されることが少しく研究すれば判ります。(例えば Jahrb. d. Radioakt. und. Elektronik 4. (1907), 418 参照)
むしろ私は、この様にしてその外の仮定なしに全く論理的に進めて達せられる最も主要な帰結に立ち入ることにしましょう。
まず最初は純粋に運動学的のものです。私達は坐標と時間とを一定の方法で物理学的に定義しましたから、空間的ならびに時間的の量の間のどんな関係もある全く一定の物理的内容をもつでありましょう。まず次のことが出ます。もし私達が考察の基礎となした坐標系 K に関して一様に動いているところの一つの固体をもつならば、この物体は、それがこの体系に関して静止の状態でもっているような形に対してその運動方向に一定の割合に縮まって見えます。私達が物体の運動速度を <math>v</math> で、光の速度を <math>c</math> であらわすならば、各の運動方向に測られた長さは、物体の動かない状態で <math>l</math> に等しいものが、運動を共にしない観測者に関しては運動のために
{{equation|<math>l\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}</math>}}
なる大きさに短縮されます。
もし物体が静止状態で球形であるなら、それを一定の方向に動かす場合に、これは扁平な楕円体の形を取ります。もし速度が光速度に達するならば、物体は一平面にひしゃげてしまいます。しかし共に動いている観測者から判断すれば、物体は前と同じくその球形を保っているでしょう。他方でこの物体と共に動いている観測者には運動を共にしないすべての対象は全く同様に相対運動の方向に縮まって見えるのです。この結果は奇妙さを示していますが、しかし運動物体の形と云うものは、実際上述のことによれば、ただ時間決定の助けによって始めて見出されるものであって、はなはだ複雑な意味をもっていますから、それを考慮すれば肯かれるわけです。
この「運動物体の形」なる概念が直接に明らかな内容をもっていると云う感じは、そもそも私達が日常の経験では単に光速度に対し実際上無限に小さいような運動速度のみを見るのに慣れていることを思い合わせると、それから得られるでしょう。
次にこの理論の第二の純粋に運動学的の帰結であって、もっと目立った事柄はこうです。ある基準系 K に対して静止して配置されており、これの時間を指示することの出来る一つの時計が与えられていると考えましょう。そうしますと、もしこの時計が基準系に関して一様な運動におかれるならば、K 系から判断して進みが遅れるようになり、この時計の時間指示が 1 だけ進む間に体系 K の時計は K に関して
{{equation|<math>\frac{1}{\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}}</math>}}
だけの時間を経過するようになると云うことが証明出来ます。つまり動いている時計は、それが K に関して静止の状態になるときよりも遅く進むのです。運動状態における時計の進む速さは、この時計の指針の位置を、K に対して静止しておりかつ K に関しての時間を測るような時計のうちでちょうど今考に取った運動時計がその傍を通り過ぎるようなものの指針位置といつも比較して見出されると考えなければなりません。もし私達が時計を光速度で動かすことが出来たとしたならば――充分に力を加えるなら私達は時計をほとんど光速度で動かすことが出来たでもありましょう――時計の指針は、K から判断して、無限に遅く進むでしょう。
もし次のことが実現されたと考えるなら、事柄は最もおかしくなります。この時計に非常に大きい速度(ほとんど <math>c</math> に等しいような)を与え、これを一様な運動を続けて飛ばせ、それが遠い距離を飛んだ後で反対の方向に衝撃を与えてもと出発した場処へ再び戻るようにします。そうすれば、この時計の指針の位置はその全旅行の間にほとんど変りはしなかったのですが、これに反してその間出発の場処に静止状態に残された全く同じ構造の時計はその指針の位置をすっかり変えてしまっていると云うことになります。これに附言しなけばならないことは、私達がすべての物理的出来事の簡単な一代表として導き入れたこの時計に対して成り立つところのものはまたどんなその外の性質のそれ自身完閉した物理学的体系に対しても成り立つと云うことです。例えば私達がある生物を箱に入れて上に時計のなしたと同様な往復運動をさせますと、この生物は任意に長く旅行した後でどれほども変らずにその最初の場処に戻って来ることが出来たでもありましょう。ところがまるで同じ生物がもとの場処に止っているならば、既に久しい前に新たな子孫に代らせたにちがいありません。運動している生物にはこの旅行の長い時間は、その運動がほとんど光速度で行われたとすれば、ただ一瞬時にすぎないのです。これは経験が私達を強要して私達の基礎におかしめた原理の否定し難い一つの帰結なのです。
ところで物理学に対する相対性理論の意味についてもう一言しよう。この理論の要求する処は、ある任意の速度に対して成立する自然法則の数学的表式は、この法則をあらわす式のなかに転換式によりて新しい空間時間坐標を引き入れてもその形を変えないと云うことです。それによりて可能性の多様さは著しく制限せられます。静止せるもしくは遅く動いている物体に対して法則が知られているなら、それから簡単な転換によりて任意に速く動いている物体に対する法則を導き出す事が出来ます。かようにして例えば速い陰極線に対する運動法則を出すことが出来ます。その場合にニウトンの式は任意に速く動く質点には成り立たないで、これはやや複雑の構造の運動方程式で置き換えられなくてはならないことが判ります。陰極線の屈曲に関してこの法則は全く満足的に経験と一致することが示されました。
相対性理論の物理学的に最も大切な結論のうちで次のことが記されなくてはなりますまい。私達は前に、動いている時計が相対性理論に従えば静止している同じ時計よりも遅く進むことを見ました。私達がこれを懐中時計で実験して確証しようとすることはたぶんいつまでも見込のないことでありましょう。なぜなら私達がかようなものに与え得る速度は光速度に対して無視せられるほど小さいものであるからです。けれども自然は私達に全く時計の性質をもちかつ非常に速く動かされ得るような物を提供します。これはスペクトル線を送り出す原子であって、私達はこれに電気の場によって数千キロメートルの速度を与えることが出来ます。(カナル線)理論によれば、これ等の原子の振動数はその運動によって、ちょうど動いている時計に対して導き出されるのと全く同様の方法で、影響されて見えることが期待せられます。この実験は大きな困難に出遇いはしますが、それでも私達は、この方法で将来の十年間のうちには相対性理論の重要な確証もしくは反駁を得ることを望むことが出来るでしょう。
理論は更に、物体の惰性的質量がそのエネルギー内容に関係すると云う大切な結果に導きます。ただしこれははなはだわずかの程度であって、直接にこれを証明することは全く望みないことです。しかし物体のエネルギーが E だけ増せば、惰性的質量は <math>\frac{E}{c^2}</math> だけ増します。この法則によって質量保存の法則は倒壊されたので、云い換えればエネルギー保存の法則と唯一のものに融合したのです。この結果はかなり著しく響くかもしれませんが、しかし相対性理論なしにもまたある特殊の場合には経験的に知られた事実からして、惰性的質量がエネルギー内容と共に増すことを確実に結論することは出来ます。
もう一言この理論が主として、悼ましくも余りに早く逝いた数学者ミンコウスキーによって得たところのはなはだ興味ある数学的補助について述べましょう。相対性理論の変換方程式は、それが
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2-c^2 t^2</math>}}
なる式を不変量としてもつように作られています。時間 <math>t</math> の代りに虚数的変数 <math>ct\sqrt{-1}=\tau</math>を時間変数として導き入れますと、この不変量は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2+\tau^2</math>}}
なる形を取ります。この際空間的坐標ならびに時間坐標は同じ役目をなします。この空間及び時間坐標の形式的等値性を相対性理論において更に押し進めますと、この理論のはなはだ見易い説明に達し、その応用をより容易くするのです。物理的出来事はある四次元間において云い表わされ、また出来事の空間的関係はこの四次元空間における幾何学的法則としてあらわれます。
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}}
<div class="jisage_10" style="margin-left: 10em"><span class="sho1" style="font-size: small;">(一九一一年一月一六日チューリッヒの自然科学会席上の講義)</span></div>
「相対性理論」と名づけられる理論が倚りかかっている大黒柱はいわゆる相対性原理{{註|[#「相対性原理」は底本では「相対性理論」]}}です。私はまず相対性原理とは何であるかを明らかにしておこうと思います。私たちは二人の物理学者を考えてみましょう。この二人の物理学者はどんな物理器械をも用意しています。そして各々一つの実験室をもっています。一人の物理学者の実験室はどこか普通の場所にあるとし、もう一人の実験室は一定の方向に一様な速さで動く汽車の箱のなかにあるとします。相対性原理は次のことを主張するのです。もしこの二人の物理学者が彼等のすべての器械を用いて、一人は静止せる実験室のなかで、もう一人は汽車のなかで、すべての自然法則を研究するならば、汽車が動揺せずに一様に走る限り、彼等は全く同じ自然法則を見出すでありましょう。幾らか抽象的にこう云うことも出来ます。自然法則は相対性原理によれば基準体系の併移運動に関しません。
私達は今この相対性原理が旧来の力学でどんな役目をもっていたかをみましょう。旧来の力学は第一にガリレイの原理の上に安坐しています。この原理に従えば、ある物体は他の物体の作用を受けない限り、直線的な一様な運動にあります。もしこの法則が上に云うた実験室の一方に対して成り立つ{{註|[#「成り立つ」は底本では「成リ立つ」]}}ならば、それはまた第二に対しても成り立ちます。私達はそのことを直接に直観から取り出すことが出来ます。私達はそれをしかしまたニウトン力学の方程式からも引き出すことが出来るのです。私達はその方程式をもとの基準体系に対して一様に動いているものへ転換させればよいのです。
私はここで実験室と云っていますが、数理的物理学では事柄を一定の実験室に関係させる代りに坐標系に関係させるのが普通です。このようにある何かに関係させるという場合に本質的なのは次の事柄です。私達が一点の位置について何か云おうとするときには、いつも私達はこの点とある他の物体系の一点との合致を示し与えます。もし私が例えば自分をこの質点であると取り、そうして、私はこの部屋のなかのこの場所に居ると云いますなら、私は自分を空間的の関係でこの部屋のある点と合致させたのです。あるいは私はこの合致を云いあらわしたのです。数理的物理学ではこれを云い表わすのに、三つの数、すなわちいわゆる坐標によりて、場所を示そうとした点が坐標系と称えられる剛体体系のどの点と合致するかを云い表わします。
これは相対性原理について最も一般的のものであったのでしょう。もし私達が、十八世紀もしくは十九世紀前半の物理学者に、この原理を疑うかどうかを尋ねたとしましたなら、彼はきっとこの質問を断然否定したに違いありません。その当時は各の自然現象をすべて旧来の力学の方則に帰せしめられることが確かであるとしていましたから、それを疑う理由をちっとも持っていなかったのです。私はここで、物理学者が経験によってどうしてこの原理に矛盾する物理学的論理を立てるようになったかを説明しようと思います。そのために私達は光学及び電気力学の発展を、それらが前世紀において、漸次是認せられた限りにおいて、相対性原理の立場から簡単に考察してみなければなりません。
光はちょうど音波のように干渉や𢌞折を示します。ですから私達は光を一の波動としてもしくは一般にある媒質の週期的に変化する状態として見做さなくてはならないように感じさせられます。この媒質をエーテルと名づけました。かような媒質の存在は近頃までは物理学者に絶対に確かであるように見えました。次に述べる理論はエーテル仮説とは相容れないものですが、しかししばらく私達はこれに依ることにしましょう。私達は今この媒質に関してどんな考え方が発展されて来たか、またこのエーテルを仮定する物理学的理論を導き入れたためにどんな問題が起ったかをみようと思います。私達は既に、光がこの媒質の振動から成ると考えたこと、すなわちこの媒質は光及び熱の振動の伝播を引き受けていると考えた事を述べました。{{傍点|静止}}物体の光学的現象だけを取り扱っている間は、光がこの媒質の運動を起すと云う外に、それの別の運動を問題にするには及ばなかったのでした。単にこの媒質はそこで見ている物体と同様に――光が起すはずであった振動を取り除けば――静止の状態にあると仮定されました。
{{傍点|運動}}物体の光学的現象、並に――それと関聯して――運動物体の電磁気的性質を考察するようになったときに、私達はその観察する物理学的体系のなかで、物体に種々の速度を与えたならばエーテルはどうなるかと云う問題に向わなければなりませんでした。エーテルは物体と一緒に動くのでしょうか。すなわち各の場所でエーテルはそこにある物質と同じ様に動くでしょうか。またはそうではないのでしょうか。最も簡単な仮定はエーテルがどこでも物質と全く同じ様に動くと云うことです。第二の可能な仮定は、これもやはりかなりな簡単さを示すものですが、こうです。すなわちエーテルは物体の運動に全然与からないと云うのです。それからまた中間の場合も可能でありましょう。この中間の場合と云うのは、エーテルがある度まで物質と無関係に空間内に動くのです。私達は今、この問題の解答を得るためにどう云うことが試みられたかをみようと思います。最初に得られた重要な説明は仏国の物理学者フィゾーの行った大切の意味のある実験から来ています。この実験は次の問題から起されました。
[[File:Fig50328 01.png|thumb|第一図]]
図に示した管はその前後を硝子板で閉じてあり、両端の接続管から管を通じて軸の方向に液体を流すことが出来るようにしてあります。管を流れる液体の速度はやはり軸の方向に管を通る光線の伝播速度に、どう影響するでしょうか。エーテルが管を流れる物質と一緒に動くことが本当であるなら、次のように考えられます。静止した水のなかで光の進む速さが V であるとします。つまり V は水に対する光の速度であるとし、また <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}管に対する水の速度であるとしますと、私達はこう云わなくてはなりますまい。水に対する光の速度は、もしエーテルが水に固着しているなら水が動いていてもまたは動かずにいても、それには関せずにいつも同じであります。それですから管に対する光の伝播速度は液体が動いている場合には、これが静止している場合よりも、<math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math>だけ」]}}大きいと予期されます。フィゾーの実験では、二つの干渉し得る光線束が上述のように管を通りました。液体の運動速度が干渉の縞の処置に及ぼす影響からして、水の運動速度 <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}静止管に対する光の伝播速度にどれほどな影響を及ぼしたかを計算することが出来ました。フィゾーは、管に対する光速が液体の運動のために <math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math> だけ」]}}増されずに、かえってただその分数(<math>n</math> を液体の屈折率としますと <math>v(1-\frac{1}{n})</math> )だけしか増さないことを見出しました。この屈折率がほとんど 1 に等しく、すなわち光が液体のなかでほとんど真空におけると同じ速さで進むとしますと、液体の運動はほとんど影響をもちません。この事から、光が水に対していつも同じ速度で進むと云う考え方は、経験と一致しないと結論しなければなりませんでした。
次に簡単な仮説は、エーテルが物質の運動に少しも与からないと云うことでした。この仮説に基づいては、光学的現象が物質の運動によってどう影響されるかを、そう簡単に導き出すわけにはゆきません。しかしローレンツは一八九〇年代の中頃に、全く動かないエーテルの仮定に基づく一つの理論を立てることに成功しました。彼の理論は運動体の光学及び電気学のほとんどすべての知られた現象を、その中にまた今述べたフィゾーの実験をも含めて、全く正しく与えます。私がすぐここで注意したいのは、ローレンツのと根本的に異った理論で、しかも簡単な判り易い仮定に基づき、そして同じことを為し遂げるようなものは、決して立てられなかったと云うことです。それですから、この範囲では静止エーテルの理論を、経験の全部と一致する唯一のものとして承け容れなければならなかったのでした。
私達はこの静止エーテルの理論を相対性原理の立場から観察しましょう。外力を受けない質点がある体系に関して一様に動いているならば、そう云うすべての体系を私達は非加速的のものとして云い表わします。そうしますと、相対性原理はこう主張するのです。自然法則はすべての非加速的体系に関しては同一であると、静止エーテルに関するローレンツの根本仮説は他方に、あらゆる可能な非加速的運動体系のうちで、一定の運動状態のもの、すなわちこの光の媒質に対して静止せる体系を特別に徴しづけます。それですから、たとえこの考えに従っても、哲学上の意味でのある絶対運動が存在するとは云うことは出来ませんけれども、――なぜならそれは全然見限られたことで、私達はただ物体の相対的な位置変化を考えることが出来るだけですけれども、――しかし私達が今一つの運動状態、すなわちエーテルに対する静止を特別に扱ったと云うことで、物理学的の意味で一つの絶対運動が形づくられます。私達はエーテルに関して静止する各の物体をどうにか絶対静止のものと云うことが出来ます。エーテルに対して静止せる基準系はあらゆるその他の加速しない基準系に対して特別のものとせられます。この意味でローレンツの静止エーテルの根本観念は相対性原理に適いません。静止エーテルの根本観念は次の一般的考察に導きます。一つの基準系 K がエーテルに対して静止しており、もう一つの他の基準系 K' はエーテルに対して一様に動いているとします。エーテルに関する K' の相対運動は K' に対して成り立つところの自然法則にある影響を及ぼすと云うことが期待せられるわけです。つまり K' に関する自然法則は K' のエーテル内における運動のために K に関する法則とは異っている事が期待せられるのでした。その上にまた地球は私達の実験室と共に一年全体の間この光の媒質に対して静止していることは出来ないので、それはすなわち K' なる基準系の役目をするはずであると云わなければなりませんでした。従ってこの運動の影響が私達の実験室における実験にあらわれるような何等かの現象が見出されることを仮定しなければならないのでした。私達の物理的空間は、これを地球上に在るとする限り、この相対運動のために方向によって異った性質をもつと信ずべきはずでした。けれども何等この様な事を実証することはどんな場合にも決して成功しませんでした。
ところでこのエーテルに対してはおもしろく思われませんでした。フィゾーの実験はエーテルが物質と一緒に動かないことを云いあらわします。すなわち光の媒質の物質に対する運動があるわけです。けれども、この相対運動を確立しようとするすべての実験は否定的の結果を与えました。つまりそこにはお互に矛盾する様に見える二つの結果があります。そしてこの不愉快な乖離を解放することが出来なかったことは、物理学者にとりて非常に痛ましい事でした。私達は、どんなにしても取り除けを見出すことの出来なかった相対性原理を、どうにかしてローレンツの理論と一致させることは出来ないであろうかと云うことを考究しなければなりませんでした。今それへ入り込む前に私たちは静止エーテルのローレンツ理論から最も本質的な部分を抽き出してみましょう。静止エーテルが存在すると云うことは物理学的に何を意味しているでしょうか。この仮説の最も大切な内容は次のように云いあらわすことが出来ます。それはここに一つの基準体系(ローレンツの理論で「エーテルに対して静止せる体系」と名づけられる)が存在していて、それに関しては真空中の各の光線が普遍的な速度 c をもって伝播すると云うことです。そしてこれは光を発する物体が静止していてもまたは動いていても、それに無関係に成立つと云う事です。この主張を私達は光速一定の原理と名づけましょう。そこで上に述べた問題はまた次の様な形式にすることも出来ます。取り除けなしに満足されるように見える相対性原理をこの光速一定の原理と結合させることは出来ないでありましょうか。次のように、ちょっと考えると、まずこれが否定されます。基準体系 K に対して各光線が速度 c で進むとしますと、これは K に対して運動している基準系 K' に対してもはや成り立ちません。すなわち K' が光線の進む方向に速度 <math>v</math> で{{註|[#「速度 <math>v</math> で」は底本では「速度 <math>V</math>で」]}}動いているならば普通の見方では K' に対する光線の速度は <math>c-v</math> に等しいとおかれるはずです。つまり K' に対する光の伝播の法則は K に対する速度と異なることになり、相対性原理が損われます。これは恐ろしいディレンマです。ところがよく考えると自然はこのディレンマには全く負い目をもってはいないので、むしろこのディレンマは私達がその考察のなかに、従ってまた私の今述べたもののなかにも、黙って勝手に仮定をつくっていたことから起るのです。私達は事がらを矛盾なしにかつ簡単に考えるようにするために、それを取り去ってしまわなくてはなりません。
私はこの勝手な仮定、すなわち私達の物理学的思考の根本に横わっているものを説明してみようと思います。この勝手な仮定のうちの第一のかつ最も大切なものは時間概念に関するものであって、私はどこにこの勝手さが存立するかを述べてみましょう。それをうまく行るために、私はまず空間について論じ、その上で時間をこれと平行に置こうと思います。もし私達が空間における一点の位置、すなわちある坐標系に対する一点の位置を云い表わそうと思うならば私達はその直交坐標 <math>x, y, z</math> を与えます。この坐標の意味は次の如くです。よく知られた規則に従って坐標面に垂直線を立て、一つの与えられた単位物指がこの垂直線上に幾囘運ばれたるかをごらんなさい。この囘数を数えた結果が坐標です。坐標で空間を指定するのはそれゆえ一定の操作の結果です。私が指示する坐標は従って全く一定の物理的意味をもっています。私達は一定の与えられた点が実際に指示された坐標をもつかどうかを試験することが出来ます。
この関係は時間ではどうなるでしょうか。そこでは私達はそれほどうまく行かないのを見るでしょう。従来私達はいつもこう云うて満足していました。時間は出来事の独立変数であると、かような定義では誰れもそれに基づいて事実上存在する出来事の時間値を測ることは出来ません。ですから私達は、その定義に基づいて時間測定が可能であるように、時間を定義するように行ってみなければなりません。私達はある坐標系 K の原点に一つの時計(例えばゼンマイ時計)をおくとしましょう。この時計で直接にこの点ならびにそのごく近所に起っている出来事を時間的に値いづけられることが出来ます。K の他の点で起る出来事はしかしこの時計で直接に時を定めるわけにはゆきません。K の原点には時計の傍にいる観測者が光線に依ってその出来事の報知を受けとる時刻をしるすとしますと、この時刻は出来事自身の時ではなくて、出来事から時計に達するまでの光線の伝播時間だけ出来事の時刻から遅れて{{註|[#「遅れて」は底本では「運れて」]}}いるのです。もし私達が K 系に対するその方向の光の伝播速度を知っているとすれば、出来事の時刻はその時計で定めることが出来るのでしょう。けれども光の伝播速度の測定は私達の取り扱っている時間決定の問題がすでに解かれたときにのみ可能なのです。すなわち一定の方向における光の速度を測るためには、光線の伝わる二点 A 及び B の間の距離と、その外 A において光を送り出した時刻ならびに B において光の到着した時刻とを測らなければならなかったでしょう。つまり諸処での時間測定が必要であるわけですが、それは私達の求める時間の定義が既に与えられた時にのみ実行し得るのでしょう。しかし一つの速度特に光の速度を測ることが、任意の指定なしには原理的に不可能であると云うならば、私達は光の伝播速度に関してなお任意な指定をなしてもよいのです。そこで私達は真空中の光の伝播速度は一点 A から一点 B へゆく途で B から A への光線の伝播速度と同じ大きさであると定めます。この指定のお蔭で私達は K 系に対し種々の点に静止して列べられた同じ性質の時計を実際に合わせることが出来るようになります。例えば二点 A と B とにある時計を次のことが成り立つように合わせましょう。A において時刻 <math>t</math>(A の時計で測って)に一つの光線を B に向けて送り、それが時刻 <math>t+a</math>(B の時計で計って)に B に到着するとしますと、逆に時刻 <math>t</math>(B の時計で測って)B から A の方へ送られた光線は時刻 <math>t+a</math>(A の時計で測って)に A に来なければなりません。これが K 系に配置されたすべての時計を合わせるための規定なのです。もし私達がこの規定を満足させたなら、それで私達は実測物理学者の立場から一つの時間決定を求め得たのです。ある出来事の時刻はすなわちかように与えられた規定に従って合わされた時計のうちで、その出来事の場処にあるものの示す時に等しいのです。
ところで、私達はそれによって特に目立った何ものを得たのであろうかと云う疑問が起るでしょう。なぜなればそのすべては自明の事がらのように聞えるからです。目立った事柄と云うのは、全く決った意味の時間指示に達するためのこの規定が全く一定の坐標系 K に対して静止する時の一体系に関係していると云うことにあります。私達は単に一つの時を得たのではなくて、坐標系 K に関した時、すなわち K に対して静止して列べられた時計を含めて坐標系 K に関した時を得たのです。私達はもちろん、K に対して一様に動いているような第二坐標系 K' を{{註|[#「第二坐標系 K' を」は底本では「第二坐標系 K を」]}}もつならば、全く同じことをこれに関して行うことが出来ます。この坐標系 K' に対しても一つの時計体系をその空間に配置し、それらをすべて K' と一緒に動いているようにしますと、私達はこの K' に関して静止している時計を全く上に与えた規定に従って合わせることが出来ます。そうした上で私達は K' 系に関してもまた一つの時を得ます。
ところがアプリオリにはまるでこう云われません。もし二つの出来事が基準系 K ――私はそれで時計を含めた坐標系を意味させます――に関して同時刻であるなら、同じ出来事は基準系 K' に関してもまた同時刻的であると。つまり時間は一の絶対な、すなわち基準系の運動状態に無関係な意味をもっているとは云われません。それは私達の運動学に含まれていた一つの任意さなのです。
ここにやはり従来の運動学において任意的であった第二の事情があらわれます。私達は一つの物体の形、例えば一つの棒の長さについて話しますが、その長さが幾らであるかを、精密に知っていると信じています。そしてそれが、私達の現象をしるしている基準系に関して運動している場合にもまたそうです。しかし少しく考えて見ますと、その事は私達がこれを本能的に想っているほど、決してそんなに簡単な概念ではないことが判ります。一つの棒がその長い方向に基準系に対して動いているとしましょう。この棒はどれだけ長いかと尋ねてみましょう。この問は{{註|[#「この問は」は底本では「この間は」]}}ただ次の意をもち得るだけです。すなわち棒がどれほど長いかを知るために私達はどんな実験を行わなければならないかと云うことです。私達はある物指をもった一人の人間を取りて、これを衝き動かし、棒と同じ速度をもたせます。そうすればこの人は棒に対して静止していますから、彼の物指を繰返して棒と並べて、ちょうど実際に静止体の長さを測るのと同じ様にして、その長さを見出すことが出来ます。そこに彼は全く一定の数を得、そして彼がこの棒の長さを測ったと云うことをある権利をもって言明することが出来ます。
しかしながらもし棒と一緒に動いていないで、すべてある基準系に静止しているような観測者のみがあるとしたならば、私達は次の様にすることが出来ます。私達は動いている棒の軌道に沿うて非常にたくさんの時計を配置し、その各に観測者が附き添うているとします。時計は上に与えられた手段に従って光の信号で合わされ、その全体で基準系に属する時間を示すようにします。これらの観測者は K 系に関して棒の前後両端がある一定の与えられた時刻 <math>t</math> に存在する二つの場処を見出します。すなわち棒の前後両端がそこを通過するとき時刻 <math>t</math> を示すような二つの時計を見出すと云っても同じことです。こうして求められた二つの場処(もしくは時計)のお互の距離は基準系 K に対して静止せるある物指を結合線の上に繰り返して列べて測る事が出来ます。この二段の処置の結果を私達は動いている棒の長さとして正当に云いあらわすことが出来るのです。けれどもこの二つの取扱いが必然的に同じ結果に到達するとは限りません。言葉を換えて云えば、一つの物体の幾何学的の容量は、これが見出される基準系の運動状態に必ずしも無関係ではありません。
もし私達がこの二つの任意の仮定をしないならば、私達はもはや次の初等的の問題をも解くことがすぐには出来ないのです。すなわち一つの出来事の坐標 <math>x, y, z,</math> 及び時刻 <math>t</math> が K 系に関して与えられているとき、K 系に対して既知の一様な併移運動にあるような他の系 K' に関する同じ出来事の空間時間坐標 <math>x, y, z, t,</math> を求めると云う事です。つまり従来この問題の簡単な解を得たのは、私達が今任意的と云った仮定をしていたのに依ることが判ります。
どう云う風にして私達は再び運動学を立てなおしたらよいのでしょうか。そこにおのずから次の答が生じます。ちょうど私達に以前痛ましい困難を与えていた事情が私達を踏み歩み得る道に導きます。もちろん今述べた任意的の仮定を取り除いてもっと多くの余地を収得した上です。つまり経験が、私達を強要した二つの外見的には結合し得られないような基礎法則、すなわち相対性原理と光速度一定の原理とがちょうど空間時間転換の問題の一定の解に導くことが判ります。そこで私達は通常の思想と一部分はなはだしく矛盾するような結果に到着します。これに導くところの数学的考察ははなはだ簡単ですが、ここではそれに立ち入りますまい。
<math>x, y, z, t</math> ならびに <math>x', y', z', t'</math> が両基準系 K 及び K' に関する空間及び時間坐標であるならば、基礎とした両原理は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2=c^2 t^2</math>}}
及び
{{equation|<math>x'^2+y'^2+z'^2=c^2 t'^2</math>}}
なる二つの方程式各が他のものを帰結するように変換方程式を作らなくてはならないことを要求します。ここには説明しない理由からして変換方程式は一次的でなければなりませんから、これで変換法則が決定されることが少しく研究すれば判ります。(例えば Jahrb. d. Radioakt. und. Elektronik 4. (1907), 418 参照)
むしろ私は、この様にしてその外の仮定なしに全く論理的に進めて達せられる最も主要な帰結に立ち入ることにしましょう。
まず最初は純粋に運動学的のものです。私達は坐標と時間とを一定の方法で物理学的に定義しましたから、空間的ならびに時間的の量の間のどんな関係もある全く一定の物理的内容をもつでありましょう。まず次のことが出ます。もし私達が考察の基礎となした坐標系 K に関して一様に動いているところの一つの固体をもつならば、この物体は、それがこの体系に関して静止の状態でもっているような形に対してその運動方向に一定の割合に縮まって見えます。私達が物体の運動速度を <math>v</math> で、光の速度を <math>c</math> であらわすならば、各の運動方向に測られた長さは、物体の動かない状態で <math>l</math> に等しいものが、運動を共にしない観測者に関しては運動のために
{{equation|<math>l\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}</math>}}
なる大きさに短縮されます。
もし物体が静止状態で球形であるなら、それを一定の方向に動かす場合に、これは扁平な楕円体の形を取ります。もし速度が光速度に達するならば、物体は一平面にひしゃげてしまいます。しかし共に動いている観測者から判断すれば、物体は前と同じくその球形を保っているでしょう。他方でこの物体と共に動いている観測者には運動を共にしないすべての対象は全く同様に相対運動の方向に縮まって見えるのです。この結果は奇妙さを示していますが、しかし運動物体の形と云うものは、実際上述のことによれば、ただ時間決定の助けによって始めて見出されるものであって、はなはだ複雑な意味をもっていますから、それを考慮すれば肯かれるわけです。
この「運動物体の形」なる概念が直接に明らかな内容をもっていると云う感じは、そもそも私達が日常の経験では単に光速度に対し実際上無限に小さいような運動速度のみを見るのに慣れていることを思い合わせると、それから得られるでしょう。
次にこの理論の第二の純粋に運動学的の帰結であって、もっと目立った事柄はこうです。ある基準系 K に対して静止して配置されており、これの時間を指示することの出来る一つの時計が与えられていると考えましょう。そうしますと、もしこの時計が基準系に関して一様な運動におかれるならば、K 系から判断して進みが遅れるようになり、この時計の時間指示が 1 だけ進む間に体系 K の時計は K に関して
{{equation|<math>\frac{1}{\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}}</math>}}
だけの時間を経過するようになると云うことが証明出来ます。つまり動いている時計は、それが K に関して静止の状態になるときよりも遅く進むのです。運動状態における時計の進む速さは、この時計の指針の位置を、K に対して静止しておりかつ K に関しての時間を測るような時計のうちでちょうど今考に取った運動時計がその傍を通り過ぎるようなものの指針位置といつも比較して見出されると考えなければなりません。もし私達が時計を光速度で動かすことが出来たとしたならば――充分に力を加えるなら私達は時計をほとんど光速度で動かすことが出来たでもありましょう――時計の指針は、K から判断して、無限に遅く進むでしょう。
もし次のことが実現されたと考えるなら、事柄は最もおかしくなります。この時計に非常に大きい速度(ほとんど <math>c</math> に等しいような)を与え、これを一様な運動を続けて飛ばせ、それが遠い距離を飛んだ後で反対の方向に衝撃を与えてもと出発した場処へ再び戻るようにします。そうすれば、この時計の指針の位置はその全旅行の間にほとんど変りはしなかったのですが、これに反してその間出発の場処に静止状態に残された全く同じ構造の時計はその指針の位置をすっかり変えてしまっていると云うことになります。これに附言しなけばならないことは、私達がすべての物理的出来事の簡単な一代表として導き入れたこの時計に対して成り立つところのものはまたどんなその外の性質のそれ自身完閉した物理学的体系に対しても成り立つと云うことです。例えば私達がある生物を箱に入れて上に時計のなしたと同様な往復運動をさせますと、この生物は任意に長く旅行した後でどれほども変らずにその最初の場処に戻って来ることが出来たでもありましょう。ところがまるで同じ生物がもとの場処に止っているならば、既に久しい前に新たな子孫に代らせたにちがいありません。運動している生物にはこの旅行の長い時間は、その運動がほとんど光速度で行われたとすれば、ただ一瞬時にすぎないのです。これは経験が私達を強要して私達の基礎におかしめた原理の否定し難い一つの帰結なのです。
ところで物理学に対する相対性理論の意味についてもう一言しよう。この理論の要求する処は、ある任意の速度に対して成立する自然法則の数学的表式は、この法則をあらわす式のなかに転換式によりて新しい空間時間坐標を引き入れてもその形を変えないと云うことです。それによりて可能性の多様さは著しく制限せられます。静止せるもしくは遅く動いている物体に対して法則が知られているなら、それから簡単な転換によりて任意に速く動いている物体に対する法則を導き出す事が出来ます。かようにして例えば速い陰極線に対する運動法則を出すことが出来ます。その場合にニウトンの式は任意に速く動く質点には成り立たないで、これはやや複雑の構造の運動方程式で置き換えられなくてはならないことが判ります。陰極線の屈曲に関してこの法則は全く満足的に経験と一致することが示されました。
相対性理論の物理学的に最も大切な結論のうちで次のことが記されなくてはなりますまい。私達は前に、動いている時計が相対性理論に従えば静止している同じ時計よりも遅く進むことを見ました。私達がこれを懐中時計で実験して確証しようとすることはたぶんいつまでも見込のないことでありましょう。なぜなら私達がかようなものに与え得る速度は光速度に対して無視せられるほど小さいものであるからです。けれども自然は私達に全く時計の性質をもちかつ非常に速く動かされ得るような物を提供します。これはスペクトル線を送り出す原子であって、私達はこれに電気の場によって数千キロメートルの速度を与えることが出来ます。(カナル線)理論によれば、これ等の原子の振動数はその運動によって、ちょうど動いている時計に対して導き出されるのと全く同様の方法で、影響されて見えることが期待せられます。この実験は大きな困難に出遇いはしますが、それでも私達は、この方法で将来の十年間のうちには相対性理論の重要な確証もしくは反駁を得ることを望むことが出来るでしょう。
理論は更に、物体の惰性的質量がそのエネルギー内容に関係すると云う大切な結果に導きます。ただしこれははなはだわずかの程度であって、直接にこれを証明することは全く望みないことです。しかし物体のエネルギーが <math>E</math> だけ増せば、惰性的質量は <math>\frac{E}{c^2}</math> だけ増します。この法則によって質量保存の法則は倒壊されたので、云い換えればエネルギー保存の法則と唯一のものに融合したのです。この結果はかなり著しく響くかもしれませんが、しかし相対性理論なしにもまたある特殊の場合には経験的に知られた事実からして、惰性的質量がエネルギー内容と共に増すことを確実に結論することは出来ます。
もう一言この理論が主として、悼ましくも余りに早く逝いた数学者ミンコウスキーによって得たところのはなはだ興味ある数学的補助について述べましょう。相対性理論の変換方程式は、それが
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2-c^2 t^2</math>}}
なる式を不変量としてもつように作られています。時間 <math>t</math> の代りに虚数的変数 <math>ct\sqrt{-1}=\tau</math>を時間変数として導き入れますと、この不変量は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2+\tau^2</math>}}
なる形を取ります。この際空間的坐標ならびに時間坐標は同じ役目をなします。この空間及び時間坐標の形式的等値性を相対性理論において更に押し進めますと、この理論のはなはだ見易い説明に達し、その応用をより容易くするのです。物理的出来事はある四次元間において云い表わされ、また出来事の空間的関係はこの四次元空間における幾何学的法則としてあらわれます。
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}}
<div class="jisage_10" style="margin-left: 10em"><span class="sho1" style="font-size: small;">(一九一一年一月一六日チューリッヒの自然科学会席上の講義)</span></div>
「相対性理論」と名づけられる理論が倚りかかっている大黒柱はいわゆる相対性原理{{註|[#「相対性原理」は底本では「相対性理論」]}}です。私はまず相対性原理とは何であるかを明らかにしておこうと思います。私たちは二人の物理学者を考えてみましょう。この二人の物理学者はどんな物理器械をも用意しています。そして各々一つの実験室をもっています。一人の物理学者の実験室はどこか普通の場所にあるとし、もう一人の実験室は一定の方向に一様な速さで動く汽車の箱のなかにあるとします。相対性原理は次のことを主張するのです。もしこの二人の物理学者が彼等のすべての器械を用いて、一人は静止せる実験室のなかで、もう一人は汽車のなかで、すべての自然法則を研究するならば、汽車が動揺せずに一様に走る限り、彼等は全く同じ自然法則を見出すでありましょう。幾らか抽象的にこう云うことも出来ます。自然法則は相対性原理によれば基準体系の併移運動に関しません。
私達は今この相対性原理が旧来の力学でどんな役目をもっていたかをみましょう。旧来の力学は第一にガリレイの原理の上に安坐しています。この原理に従えば、ある物体は他の物体の作用を受けない限り、直線的な一様な運動にあります。もしこの法則が上に云うた実験室の一方に対して成り立つ{{註|[#「成り立つ」は底本では「成リ立つ」]}}ならば、それはまた第二に対しても成り立ちます。私達はそのことを直接に直観から取り出すことが出来ます。私達はそれをしかしまたニウトン力学の方程式からも引き出すことが出来るのです。私達はその方程式をもとの基準体系に対して一様に動いているものへ転換させればよいのです。
私はここで実験室と云っていますが、数理的物理学では事柄を一定の実験室に関係させる代りに坐標系に関係させるのが普通です。このようにある何かに関係させるという場合に本質的なのは次の事柄です。私達が一点の位置について何か云おうとするときには、いつも私達はこの点とある他の物体系の一点との合致を示し与えます。もし私が例えば自分をこの質点であると取り、そうして、私はこの部屋のなかのこの場所に居ると云いますなら、私は自分を空間的の関係でこの部屋のある点と合致させたのです。あるいは私はこの合致を云いあらわしたのです。数理的物理学ではこれを云い表わすのに、三つの数、すなわちいわゆる坐標によりて、場所を示そうとした点が坐標系と称えられる剛体体系のどの点と合致するかを云い表わします。
これは相対性原理について最も一般的のものであったのでしょう。もし私達が、十八世紀もしくは十九世紀前半の物理学者に、この原理を疑うかどうかを尋ねたとしましたなら、彼はきっとこの質問を断然否定したに違いありません。その当時は各の自然現象をすべて旧来の力学の方則に帰せしめられることが確かであるとしていましたから、それを疑う理由をちっとも持っていなかったのです。私はここで、物理学者が経験によってどうしてこの原理に矛盾する物理学的論理を立てるようになったかを説明しようと思います。そのために私達は光学及び電気力学の発展を、それらが前世紀において、漸次是認せられた限りにおいて、相対性原理の立場から簡単に考察してみなければなりません。
光はちょうど音波のように干渉や𢌞折を示します。ですから私達は光を一の波動としてもしくは一般にある媒質の週期的に変化する状態として見做さなくてはならないように感じさせられます。この媒質をエーテルと名づけました。かような媒質の存在は近頃までは物理学者に絶対に確かであるように見えました。次に述べる理論はエーテル仮説とは相容れないものですが、しかししばらく私達はこれに依ることにしましょう。私達は今この媒質に関してどんな考え方が発展されて来たか、またこのエーテルを仮定する物理学的理論を導き入れたためにどんな問題が起ったかをみようと思います。私達は既に、光がこの媒質の振動から成ると考えたこと、すなわちこの媒質は光及び熱の振動の伝播を引き受けていると考えた事を述べました。{{傍点|静止}}物体の光学的現象だけを取り扱っている間は、光がこの媒質の運動を起すと云う外に、それの別の運動を問題にするには及ばなかったのでした。単にこの媒質はそこで見ている物体と同様に――光が起すはずであった振動を取り除けば――静止の状態にあると仮定されました。
{{傍点|運動}}物体の光学的現象、並に――それと関聯して――運動物体の電磁気的性質を考察するようになったときに、私達はその観察する物理学的体系のなかで、物体に種々の速度を与えたならばエーテルはどうなるかと云う問題に向わなければなりませんでした。エーテルは物体と一緒に動くのでしょうか。すなわち各の場所でエーテルはそこにある物質と同じ様に動くでしょうか。またはそうではないのでしょうか。最も簡単な仮定はエーテルがどこでも物質と全く同じ様に動くと云うことです。第二の可能な仮定は、これもやはりかなりな簡単さを示すものですが、こうです。すなわちエーテルは物体の運動に全然与からないと云うのです。それからまた中間の場合も可能でありましょう。この中間の場合と云うのは、エーテルがある度まで物質と無関係に空間内に動くのです。私達は今、この問題の解答を得るためにどう云うことが試みられたかをみようと思います。最初に得られた重要な説明は仏国の物理学者フィゾーの行った大切の意味のある実験から来ています。この実験は次の問題から起されました。
[[File:Fig50328 01.png|thumb|第一図]]
図に示した管はその前後を硝子板で閉じてあり、両端の接続管から管を通じて軸の方向に液体を流すことが出来るようにしてあります。管を流れる液体の速度はやはり軸の方向に管を通る光線の伝播速度に、どう影響するでしょうか。エーテルが管を流れる物質と一緒に動くことが本当であるなら、次のように考えられます。静止した水のなかで光の進む速さが <math>V</math> であるとします。つまり <math>V</math> は水に対する光の速度であるとし、また <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}管に対する水の速度であるとしますと、私達はこう云わなくてはなりますまい。水に対する光の速度は、もしエーテルが水に固着しているなら水が動いていてもまたは動かずにいても、それには関せずにいつも同じであります。それですから管に対する光の伝播速度は液体が動いている場合には、これが静止している場合よりも、<math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math>だけ」]}}大きいと予期されます。フィゾーの実験では、二つの干渉し得る光線束が上述のように管を通りました。液体の運動速度が干渉の縞の処置に及ぼす影響からして、水の運動速度 <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}静止管に対する光の伝播速度にどれほどな影響を及ぼしたかを計算することが出来ました。フィゾーは、管に対する光速が液体の運動のために <math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math> だけ」]}}増されずに、かえってただその分数(<math>n</math> を液体の屈折率としますと <math>v(1-\frac{1}{n})</math> )だけしか増さないことを見出しました。この屈折率がほとんど 1 に等しく、すなわち光が液体のなかでほとんど真空におけると同じ速さで進むとしますと、液体の運動はほとんど影響をもちません。この事から、光が水に対していつも同じ速度で進むと云う考え方は、経験と一致しないと結論しなければなりませんでした。
次に簡単な仮説は、エーテルが物質の運動に少しも与からないと云うことでした。この仮説に基づいては、光学的現象が物質の運動によってどう影響されるかを、そう簡単に導き出すわけにはゆきません。しかしローレンツは一八九〇年代の中頃に、全く動かないエーテルの仮定に基づく一つの理論を立てることに成功しました。彼の理論は運動体の光学及び電気学のほとんどすべての知られた現象を、その中にまた今述べたフィゾーの実験をも含めて、全く正しく与えます。私がすぐここで注意したいのは、ローレンツのと根本的に異った理論で、しかも簡単な判り易い仮定に基づき、そして同じことを為し遂げるようなものは、決して立てられなかったと云うことです。それですから、この範囲では静止エーテルの理論を、経験の全部と一致する唯一のものとして承け容れなければならなかったのでした。
私達はこの静止エーテルの理論を相対性原理の立場から観察しましょう。外力を受けない質点がある体系に関して一様に動いているならば、そう云うすべての体系を私達は非加速的のものとして云い表わします。そうしますと、相対性原理はこう主張するのです。自然法則はすべての非加速的体系に関しては同一であると、静止エーテルに関するローレンツの根本仮説は他方に、あらゆる可能な非加速的運動体系のうちで、一定の運動状態のもの、すなわちこの光の媒質に対して静止せる体系を特別に徴しづけます。それですから、たとえこの考えに従っても、哲学上の意味でのある絶対運動が存在するとは云うことは出来ませんけれども、――なぜならそれは全然見限られたことで、私達はただ物体の相対的な位置変化を考えることが出来るだけですけれども、――しかし私達が今一つの運動状態、すなわちエーテルに対する静止を特別に扱ったと云うことで、物理学的の意味で一つの絶対運動が形づくられます。私達はエーテルに関して静止する各の物体をどうにか絶対静止のものと云うことが出来ます。エーテルに対して静止せる基準系はあらゆるその他の加速しない基準系に対して特別のものとせられます。この意味でローレンツの静止エーテルの根本観念は相対性原理に適いません。静止エーテルの根本観念は次の一般的考察に導きます。一つの基準系 K がエーテルに対して静止しており、もう一つの他の基準系 K' はエーテルに対して一様に動いているとします。エーテルに関する K' の相対運動は K' に対して成り立つところの自然法則にある影響を及ぼすと云うことが期待せられるわけです。つまり K' に関する自然法則は K' のエーテル内における運動のために K に関する法則とは異っている事が期待せられるのでした。その上にまた地球は私達の実験室と共に一年全体の間この光の媒質に対して静止していることは出来ないので、それはすなわち K' なる基準系の役目をするはずであると云わなければなりませんでした。従ってこの運動の影響が私達の実験室における実験にあらわれるような何等かの現象が見出されることを仮定しなければならないのでした。私達の物理的空間は、これを地球上に在るとする限り、この相対運動のために方向によって異った性質をもつと信ずべきはずでした。けれども何等この様な事を実証することはどんな場合にも決して成功しませんでした。
ところでこのエーテルに対してはおもしろく思われませんでした。フィゾーの実験はエーテルが物質と一緒に動かないことを云いあらわします。すなわち光の媒質の物質に対する運動があるわけです。けれども、この相対運動を確立しようとするすべての実験は否定的の結果を与えました。つまりそこにはお互に矛盾する様に見える二つの結果があります。そしてこの不愉快な乖離を解放することが出来なかったことは、物理学者にとりて非常に痛ましい事でした。私達は、どんなにしても取り除けを見出すことの出来なかった相対性原理を、どうにかしてローレンツの理論と一致させることは出来ないであろうかと云うことを考究しなければなりませんでした。今それへ入り込む前に私たちは静止エーテルのローレンツ理論から最も本質的な部分を抽き出してみましょう。静止エーテルが存在すると云うことは物理学的に何を意味しているでしょうか。この仮説の最も大切な内容は次のように云いあらわすことが出来ます。それはここに一つの基準体系(ローレンツの理論で「エーテルに対して静止せる体系」と名づけられる)が存在していて、それに関しては真空中の各の光線が普遍的な速度 c をもって伝播すると云うことです。そしてこれは光を発する物体が静止していてもまたは動いていても、それに無関係に成立つと云う事です。この主張を私達は光速一定の原理と名づけましょう。そこで上に述べた問題はまた次の様な形式にすることも出来ます。取り除けなしに満足されるように見える相対性原理をこの光速一定の原理と結合させることは出来ないでありましょうか。次のように、ちょっと考えると、まずこれが否定されます。基準体系 K に対して各光線が速度 c で進むとしますと、これは K に対して運動している基準系 K' に対してもはや成り立ちません。すなわち K' が光線の進む方向に速度 <math>v</math> で{{註|[#「速度 <math>v</math> で」は底本では「速度 <math>V</math>で」]}}動いているならば普通の見方では K' に対する光線の速度は <math>c-v</math> に等しいとおかれるはずです。つまり K' に対する光の伝播の法則は K に対する速度と異なることになり、相対性原理が損われます。これは恐ろしいディレンマです。ところがよく考えると自然はこのディレンマには全く負い目をもってはいないので、むしろこのディレンマは私達がその考察のなかに、従ってまた私の今述べたもののなかにも、黙って勝手に仮定をつくっていたことから起るのです。私達は事がらを矛盾なしにかつ簡単に考えるようにするために、それを取り去ってしまわなくてはなりません。
私はこの勝手な仮定、すなわち私達の物理学的思考の根本に横わっているものを説明してみようと思います。この勝手な仮定のうちの第一のかつ最も大切なものは時間概念に関するものであって、私はどこにこの勝手さが存立するかを述べてみましょう。それをうまく行るために、私はまず空間について論じ、その上で時間をこれと平行に置こうと思います。もし私達が空間における一点の位置、すなわちある坐標系に対する一点の位置を云い表わそうと思うならば私達はその直交坐標 <math>x, y, z</math> を与えます。この坐標の意味は次の如くです。よく知られた規則に従って坐標面に垂直線を立て、一つの与えられた単位物指がこの垂直線上に幾囘運ばれたるかをごらんなさい。この囘数を数えた結果が坐標です。坐標で空間を指定するのはそれゆえ一定の操作の結果です。私が指示する坐標は従って全く一定の物理的意味をもっています。私達は一定の与えられた点が実際に指示された坐標をもつかどうかを試験することが出来ます。
この関係は時間ではどうなるでしょうか。そこでは私達はそれほどうまく行かないのを見るでしょう。従来私達はいつもこう云うて満足していました。時間は出来事の独立変数であると、かような定義では誰れもそれに基づいて事実上存在する出来事の時間値を測ることは出来ません。ですから私達は、その定義に基づいて時間測定が可能であるように、時間を定義するように行ってみなければなりません。私達はある坐標系 K の原点に一つの時計(例えばゼンマイ時計)をおくとしましょう。この時計で直接にこの点ならびにそのごく近所に起っている出来事を時間的に値いづけられることが出来ます。K の他の点で起る出来事はしかしこの時計で直接に時を定めるわけにはゆきません。K の原点には時計の傍にいる観測者が光線に依ってその出来事の報知を受けとる時刻をしるすとしますと、この時刻は出来事自身の時ではなくて、出来事から時計に達するまでの光線の伝播時間だけ出来事の時刻から遅れて{{註|[#「遅れて」は底本では「運れて」]}}いるのです。もし私達が K 系に対するその方向の光の伝播速度を知っているとすれば、出来事の時刻はその時計で定めることが出来るのでしょう。けれども光の伝播速度の測定は私達の取り扱っている時間決定の問題がすでに解かれたときにのみ可能なのです。すなわち一定の方向における光の速度を測るためには、光線の伝わる二点 A 及び B の間の距離と、その外 A において光を送り出した時刻ならびに B において光の到着した時刻とを測らなければならなかったでしょう。つまり諸処での時間測定が必要であるわけですが、それは私達の求める時間の定義が既に与えられた時にのみ実行し得るのでしょう。しかし一つの速度特に光の速度を測ることが、任意の指定なしには原理的に不可能であると云うならば、私達は光の伝播速度に関してなお任意な指定をなしてもよいのです。そこで私達は真空中の光の伝播速度は一点 A から一点 B へゆく途で B から A への光線の伝播速度と同じ大きさであると定めます。この指定のお蔭で私達は K 系に対し種々の点に静止して列べられた同じ性質の時計を実際に合わせることが出来るようになります。例えば二点 A と B とにある時計を次のことが成り立つように合わせましょう。A において時刻 <math>t</math>(A の時計で測って)に一つの光線を B に向けて送り、それが時刻 <math>t+a</math>(B の時計で計って)に B に到着するとしますと、逆に時刻 <math>t</math>(B の時計で測って)B から A の方へ送られた光線は時刻 <math>t+a</math>(A の時計で測って)に A に来なければなりません。これが K 系に配置されたすべての時計を合わせるための規定なのです。もし私達がこの規定を満足させたなら、それで私達は実測物理学者の立場から一つの時間決定を求め得たのです。ある出来事の時刻はすなわちかように与えられた規定に従って合わされた時計のうちで、その出来事の場処にあるものの示す時に等しいのです。
ところで、私達はそれによって特に目立った何ものを得たのであろうかと云う疑問が起るでしょう。なぜなればそのすべては自明の事がらのように聞えるからです。目立った事柄と云うのは、全く決った意味の時間指示に達するためのこの規定が全く一定の坐標系 K に対して静止する時の一体系に関係していると云うことにあります。私達は単に一つの時を得たのではなくて、坐標系 K に関した時、すなわち K に対して静止して列べられた時計を含めて坐標系 K に関した時を得たのです。私達はもちろん、K に対して一様に動いているような第二坐標系 K' を{{註|[#「第二坐標系 K' を」は底本では「第二坐標系 K を」]}}もつならば、全く同じことをこれに関して行うことが出来ます。この坐標系 K' に対しても一つの時計体系をその空間に配置し、それらをすべて K' と一緒に動いているようにしますと、私達はこの K' に関して静止している時計を全く上に与えた規定に従って合わせることが出来ます。そうした上で私達は K' 系に関してもまた一つの時を得ます。
ところがアプリオリにはまるでこう云われません。もし二つの出来事が基準系 K ――私はそれで時計を含めた坐標系を意味させます――に関して同時刻であるなら、同じ出来事は基準系 K' に関してもまた同時刻的であると。つまり時間は一の絶対な、すなわち基準系の運動状態に無関係な意味をもっているとは云われません。それは私達の運動学に含まれていた一つの任意さなのです。
ここにやはり従来の運動学において任意的であった第二の事情があらわれます。私達は一つの物体の形、例えば一つの棒の長さについて話しますが、その長さが幾らであるかを、精密に知っていると信じています。そしてそれが、私達の現象をしるしている基準系に関して運動している場合にもまたそうです。しかし少しく考えて見ますと、その事は私達がこれを本能的に想っているほど、決してそんなに簡単な概念ではないことが判ります。一つの棒がその長い方向に基準系に対して動いているとしましょう。この棒はどれだけ長いかと尋ねてみましょう。この問は{{註|[#「この問は」は底本では「この間は」]}}ただ次の意をもち得るだけです。すなわち棒がどれほど長いかを知るために私達はどんな実験を行わなければならないかと云うことです。私達はある物指をもった一人の人間を取りて、これを衝き動かし、棒と同じ速度をもたせます。そうすればこの人は棒に対して静止していますから、彼の物指を繰返して棒と並べて、ちょうど実際に静止体の長さを測るのと同じ様にして、その長さを見出すことが出来ます。そこに彼は全く一定の数を得、そして彼がこの棒の長さを測ったと云うことをある権利をもって言明することが出来ます。
しかしながらもし棒と一緒に動いていないで、すべてある基準系に静止しているような観測者のみがあるとしたならば、私達は次の様にすることが出来ます。私達は動いている棒の軌道に沿うて非常にたくさんの時計を配置し、その各に観測者が附き添うているとします。時計は上に与えられた手段に従って光の信号で合わされ、その全体で基準系に属する時間を示すようにします。これらの観測者は K 系に関して棒の前後両端がある一定の与えられた時刻 <math>t</math> に存在する二つの場処を見出します。すなわち棒の前後両端がそこを通過するとき時刻 <math>t</math> を示すような二つの時計を見出すと云っても同じことです。こうして求められた二つの場処(もしくは時計)のお互の距離は基準系 K に対して静止せるある物指を結合線の上に繰り返して列べて測る事が出来ます。この二段の処置の結果を私達は動いている棒の長さとして正当に云いあらわすことが出来るのです。けれどもこの二つの取扱いが必然的に同じ結果に到達するとは限りません。言葉を換えて云えば、一つの物体の幾何学的の容量は、これが見出される基準系の運動状態に必ずしも無関係ではありません。
もし私達がこの二つの任意の仮定をしないならば、私達はもはや次の初等的の問題をも解くことがすぐには出来ないのです。すなわち一つの出来事の坐標 <math>x, y, z,</math> 及び時刻 <math>t</math> が K 系に関して与えられているとき、K 系に対して既知の一様な併移運動にあるような他の系 K' に関する同じ出来事の空間時間坐標 <math>x, y, z, t,</math> を求めると云う事です。つまり従来この問題の簡単な解を得たのは、私達が今任意的と云った仮定をしていたのに依ることが判ります。
どう云う風にして私達は再び運動学を立てなおしたらよいのでしょうか。そこにおのずから次の答が生じます。ちょうど私達に以前痛ましい困難を与えていた事情が私達を踏み歩み得る道に導きます。もちろん今述べた任意的の仮定を取り除いてもっと多くの余地を収得した上です。つまり経験が、私達を強要した二つの外見的には結合し得られないような基礎法則、すなわち相対性原理と光速度一定の原理とがちょうど空間時間転換の問題の一定の解に導くことが判ります。そこで私達は通常の思想と一部分はなはだしく矛盾するような結果に到着します。これに導くところの数学的考察ははなはだ簡単ですが、ここではそれに立ち入りますまい。
<math>x, y, z, t</math> ならびに <math>x', y', z', t'</math> が両基準系 K 及び K' に関する空間及び時間坐標であるならば、基礎とした両原理は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2=c^2 t^2</math>}}
及び
{{equation|<math>x'^2+y'^2+z'^2=c^2 t'^2</math>}}
なる二つの方程式各が他のものを帰結するように変換方程式を作らなくてはならないことを要求します。ここには説明しない理由からして変換方程式は一次的でなければなりませんから、これで変換法則が決定されることが少しく研究すれば判ります。(例えば Jahrb. d. Radioakt. und. Elektronik 4. (1907), 418 参照)
むしろ私は、この様にしてその外の仮定なしに全く論理的に進めて達せられる最も主要な帰結に立ち入ることにしましょう。
まず最初は純粋に運動学的のものです。私達は坐標と時間とを一定の方法で物理学的に定義しましたから、空間的ならびに時間的の量の間のどんな関係もある全く一定の物理的内容をもつでありましょう。まず次のことが出ます。もし私達が考察の基礎となした坐標系 K に関して一様に動いているところの一つの固体をもつならば、この物体は、それがこの体系に関して静止の状態でもっているような形に対してその運動方向に一定の割合に縮まって見えます。私達が物体の運動速度を <math>v</math> で、光の速度を <math>c</math> であらわすならば、各の運動方向に測られた長さは、物体の動かない状態で <math>l</math> に等しいものが、運動を共にしない観測者に関しては運動のために
{{equation|<math>l\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}</math>}}
なる大きさに短縮されます。
もし物体が静止状態で球形であるなら、それを一定の方向に動かす場合に、これは扁平な楕円体の形を取ります。もし速度が光速度に達するならば、物体は一平面にひしゃげてしまいます。しかし共に動いている観測者から判断すれば、物体は前と同じくその球形を保っているでしょう。他方でこの物体と共に動いている観測者には運動を共にしないすべての対象は全く同様に相対運動の方向に縮まって見えるのです。この結果は奇妙さを示していますが、しかし運動物体の形と云うものは、実際上述のことによれば、ただ時間決定の助けによって始めて見出されるものであって、はなはだ複雑な意味をもっていますから、それを考慮すれば肯かれるわけです。
この「運動物体の形」なる概念が直接に明らかな内容をもっていると云う感じは、そもそも私達が日常の経験では単に光速度に対し実際上無限に小さいような運動速度のみを見るのに慣れていることを思い合わせると、それから得られるでしょう。
次にこの理論の第二の純粋に運動学的の帰結であって、もっと目立った事柄はこうです。ある基準系 K に対して静止して配置されており、これの時間を指示することの出来る一つの時計が与えられていると考えましょう。そうしますと、もしこの時計が基準系に関して一様な運動におかれるならば、K 系から判断して進みが遅れるようになり、この時計の時間指示が 1 だけ進む間に体系 K の時計は K に関して
{{equation|<math>\frac{1}{\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}}</math>}}
だけの時間を経過するようになると云うことが証明出来ます。つまり動いている時計は、それが K に関して静止の状態になるときよりも遅く進むのです。運動状態における時計の進む速さは、この時計の指針の位置を、K に対して静止しておりかつ K に関しての時間を測るような時計のうちでちょうど今考に取った運動時計がその傍を通り過ぎるようなものの指針位置といつも比較して見出されると考えなければなりません。もし私達が時計を光速度で動かすことが出来たとしたならば――充分に力を加えるなら私達は時計をほとんど光速度で動かすことが出来たでもありましょう――時計の指針は、K から判断して、無限に遅く進むでしょう。
もし次のことが実現されたと考えるなら、事柄は最もおかしくなります。この時計に非常に大きい速度(ほとんど <math>c</math> に等しいような)を与え、これを一様な運動を続けて飛ばせ、それが遠い距離を飛んだ後で反対の方向に衝撃を与えてもと出発した場処へ再び戻るようにします。そうすれば、この時計の指針の位置はその全旅行の間にほとんど変りはしなかったのですが、これに反してその間出発の場処に静止状態に残された全く同じ構造の時計はその指針の位置をすっかり変えてしまっていると云うことになります。これに附言しなけばならないことは、私達がすべての物理的出来事の簡単な一代表として導き入れたこの時計に対して成り立つところのものはまたどんなその外の性質のそれ自身完閉した物理学的体系に対しても成り立つと云うことです。例えば私達がある生物を箱に入れて上に時計のなしたと同様な往復運動をさせますと、この生物は任意に長く旅行した後でどれほども変らずにその最初の場処に戻って来ることが出来たでもありましょう。ところがまるで同じ生物がもとの場処に止っているならば、既に久しい前に新たな子孫に代らせたにちがいありません。運動している生物にはこの旅行の長い時間は、その運動がほとんど光速度で行われたとすれば、ただ一瞬時にすぎないのです。これは経験が私達を強要して私達の基礎におかしめた原理の否定し難い一つの帰結なのです。
ところで物理学に対する相対性理論の意味についてもう一言しよう。この理論の要求する処は、ある任意の速度に対して成立する自然法則の数学的表式は、この法則をあらわす式のなかに転換式によりて新しい空間時間坐標を引き入れてもその形を変えないと云うことです。それによりて可能性の多様さは著しく制限せられます。静止せるもしくは遅く動いている物体に対して法則が知られているなら、それから簡単な転換によりて任意に速く動いている物体に対する法則を導き出す事が出来ます。かようにして例えば速い陰極線に対する運動法則を出すことが出来ます。その場合にニウトンの式は任意に速く動く質点には成り立たないで、これはやや複雑の構造の運動方程式で置き換えられなくてはならないことが判ります。陰極線の屈曲に関してこの法則は全く満足的に経験と一致することが示されました。
相対性理論の物理学的に最も大切な結論のうちで次のことが記されなくてはなりますまい。私達は前に、動いている時計が相対性理論に従えば静止している同じ時計よりも遅く進むことを見ました。私達がこれを懐中時計で実験して確証しようとすることはたぶんいつまでも見込のないことでありましょう。なぜなら私達がかようなものに与え得る速度は光速度に対して無視せられるほど小さいものであるからです。けれども自然は私達に全く時計の性質をもちかつ非常に速く動かされ得るような物を提供します。これはスペクトル線を送り出す原子であって、私達はこれに電気の場によって数千キロメートルの速度を与えることが出来ます。(カナル線)理論によれば、これ等の原子の振動数はその運動によって、ちょうど動いている時計に対して導き出されるのと全く同様の方法で、影響されて見えることが期待せられます。この実験は大きな困難に出遇いはしますが、それでも私達は、この方法で将来の十年間のうちには相対性理論の重要な確証もしくは反駁を得ることを望むことが出来るでしょう。
理論は更に、物体の惰性的質量がそのエネルギー内容に関係すると云う大切な結果に導きます。ただしこれははなはだわずかの程度であって、直接にこれを証明することは全く望みないことです。しかし物体のエネルギーが <math>E</math> だけ増せば、惰性的質量は <math>\frac{E}{c^2}</math> だけ増します。この法則によって質量保存の法則は倒壊されたので、云い換えればエネルギー保存の法則と唯一のものに融合したのです。この結果はかなり著しく響くかもしれませんが、しかし相対性理論なしにもまたある特殊の場合には経験的に知られた事実からして、惰性的質量がエネルギー内容と共に増すことを確実に結論することは出来ます。
もう一言この理論が主として、悼ましくも余りに早く逝いた数学者ミンコウスキーによって得たところのはなはだ興味ある数学的補助について述べましょう。相対性理論の変換方程式は、それが
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2-c^2 t^2</math>}}
なる式を不変量としてもつように作られています。時間 <math>t</math> の代りに虚数的変数 <math>ct\sqrt{-1}=\tau</math>を時間変数として導き入れますと、この不変量は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2+\tau^2</math>}}
なる形を取ります。この際空間的坐標ならびに時間坐標は同じ役目をなします。この空間及び時間坐標の形式的等値性を相対性理論において更に押し進めますと、この理論のはなはだ見易い説明に達し、その応用をより容易くするのです。物理的出来事はある四次元間において云い表わされ、また出来事の空間的関係はこの四次元空間における幾何学的法則としてあらわれます。
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}}
<div class="jisage_10" style="margin-left: 10em"><span class="sho1" style="font-size: small;">(一九一一年一月一六日チューリッヒの自然科学会席上の講義)</span></div>
「相対性理論」と名づけられる理論が倚りかかっている大黒柱はいわゆる相対性原理{{註|[#「相対性原理」は底本では「相対性理論」]}}です。私はまず相対性原理とは何であるかを明らかにしておこうと思います。私たちは二人の物理学者を考えてみましょう。この二人の物理学者はどんな物理器械をも用意しています。そして各々一つの実験室をもっています。一人の物理学者の実験室はどこか普通の場所にあるとし、もう一人の実験室は一定の方向に一様な速さで動く汽車の箱のなかにあるとします。相対性原理は次のことを主張するのです。もしこの二人の物理学者が彼等のすべての器械を用いて、一人は静止せる実験室のなかで、もう一人は汽車のなかで、すべての自然法則を研究するならば、汽車が動揺せずに一様に走る限り、彼等は全く同じ自然法則を見出すでありましょう。幾らか抽象的にこう云うことも出来ます。自然法則は相対性原理によれば基準体系の併移運動に関しません。
私達は今この相対性原理が旧来の力学でどんな役目をもっていたかをみましょう。旧来の力学は第一にガリレイの原理の上に安坐しています。この原理に従えば、ある物体は他の物体の作用を受けない限り、直線的な一様な運動にあります。もしこの法則が上に云うた実験室の一方に対して成り立つ{{註|[#「成り立つ」は底本では「成リ立つ」]}}ならば、それはまた第二に対しても成り立ちます。私達はそのことを直接に直観から取り出すことが出来ます。私達はそれをしかしまたニウトン力学の方程式からも引き出すことが出来るのです。私達はその方程式をもとの基準体系に対して一様に動いているものへ転換させればよいのです。
私はここで実験室と云っていますが、数理的物理学では事柄を一定の実験室に関係させる代りに坐標系に関係させるのが普通です。このようにある何かに関係させるという場合に本質的なのは次の事柄です。私達が一点の位置について何か云おうとするときには、いつも私達はこの点とある他の物体系の一点との合致を示し与えます。もし私が例えば自分をこの質点であると取り、そうして、私はこの部屋のなかのこの場所に居ると云いますなら、私は自分を空間的の関係でこの部屋のある点と合致させたのです。あるいは私はこの合致を云いあらわしたのです。数理的物理学ではこれを云い表わすのに、三つの数、すなわちいわゆる坐標によりて、場所を示そうとした点が坐標系と称えられる剛体体系のどの点と合致するかを云い表わします。
これは相対性原理について最も一般的のものであったのでしょう。もし私達が、十八世紀もしくは十九世紀前半の物理学者に、この原理を疑うかどうかを尋ねたとしましたなら、彼はきっとこの質問を断然否定したに違いありません。その当時は各の自然現象をすべて旧来の力学の方則に帰せしめられることが確かであるとしていましたから、それを疑う理由をちっとも持っていなかったのです。私はここで、物理学者が経験によってどうしてこの原理に矛盾する物理学的論理を立てるようになったかを説明しようと思います。そのために私達は光学及び電気力学の発展を、それらが前世紀において、漸次是認せられた限りにおいて、相対性原理の立場から簡単に考察してみなければなりません。
光はちょうど音波のように干渉や𢌞折を示します。ですから私達は光を一の波動としてもしくは一般にある媒質の週期的に変化する状態として見做さなくてはならないように感じさせられます。この媒質をエーテルと名づけました。かような媒質の存在は近頃までは物理学者に絶対に確かであるように見えました。次に述べる理論はエーテル仮説とは相容れないものですが、しかししばらく私達はこれに依ることにしましょう。私達は今この媒質に関してどんな考え方が発展されて来たか、またこのエーテルを仮定する物理学的理論を導き入れたためにどんな問題が起ったかをみようと思います。私達は既に、光がこの媒質の振動から成ると考えたこと、すなわちこの媒質は光及び熱の振動の伝播を引き受けていると考えた事を述べました。{{傍点|静止}}物体の光学的現象だけを取り扱っている間は、光がこの媒質の運動を起すと云う外に、それの別の運動を問題にするには及ばなかったのでした。単にこの媒質はそこで見ている物体と同様に――光が起すはずであった振動を取り除けば――静止の状態にあると仮定されました。
{{傍点|運動}}物体の光学的現象、並に――それと関聯して――運動物体の電磁気的性質を考察するようになったときに、私達はその観察する物理学的体系のなかで、物体に種々の速度を与えたならばエーテルはどうなるかと云う問題に向わなければなりませんでした。エーテルは物体と一緒に動くのでしょうか。すなわち各の場所でエーテルはそこにある物質と同じ様に動くでしょうか。またはそうではないのでしょうか。最も簡単な仮定はエーテルがどこでも物質と全く同じ様に動くと云うことです。第二の可能な仮定は、これもやはりかなりな簡単さを示すものですが、こうです。すなわちエーテルは物体の運動に全然与からないと云うのです。それからまた中間の場合も可能でありましょう。この中間の場合と云うのは、エーテルがある度まで物質と無関係に空間内に動くのです。私達は今、この問題の解答を得るためにどう云うことが試みられたかをみようと思います。最初に得られた重要な説明は仏国の物理学者フィゾーの行った大切の意味のある実験から来ています。この実験は次の問題から起されました。
[[File:Fig50328 01.png|thumb|第一図]]
図に示した管はその前後を硝子板で閉じてあり、両端の接続管から管を通じて軸の方向に液体を流すことが出来るようにしてあります。管を流れる液体の速度はやはり軸の方向に管を通る光線の伝播速度に、どう影響するでしょうか。エーテルが管を流れる物質と一緒に動くことが本当であるなら、次のように考えられます。静止した水のなかで光の進む速さが <math>V</math> であるとします。つまり <math>V</math> は水に対する光の速度であるとし、また <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}管に対する水の速度であるとしますと、私達はこう云わなくてはなりますまい。水に対する光の速度は、もしエーテルが水に固着しているなら水が動いていてもまたは動かずにいても、それには関せずにいつも同じであります。それですから管に対する光の伝播速度は液体が動いている場合には、これが静止している場合よりも、<math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math>だけ」]}}大きいと予期されます。フィゾーの実験では、二つの干渉し得る光線束が上述のように管を通りました。液体の運動速度が干渉の縞の処置に及ぼす影響からして、水の運動速度 <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}静止管に対する光の伝播速度にどれほどな影響を及ぼしたかを計算することが出来ました。フィゾーは、管に対する光速が液体の運動のために <math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math> だけ」]}}増されずに、かえってただその分数(<math>n</math> を液体の屈折率としますと <math>v(1-\frac{1}{n})</math> )だけしか増さないことを見出しました。この屈折率がほとんど 1 に等しく、すなわち光が液体のなかでほとんど真空におけると同じ速さで進むとしますと、液体の運動はほとんど影響をもちません。この事から、光が水に対していつも同じ速度で進むと云う考え方は、経験と一致しないと結論しなければなりませんでした。
次に簡単な仮説は、エーテルが物質の運動に少しも与からないと云うことでした。この仮説に基づいては、光学的現象が物質の運動によってどう影響されるかを、そう簡単に導き出すわけにはゆきません。しかしローレンツは一八九〇年代の中頃に、全く動かないエーテルの仮定に基づく一つの理論を立てることに成功しました。彼の理論は運動体の光学及び電気学のほとんどすべての知られた現象を、その中にまた今述べたフィゾーの実験をも含めて、全く正しく与えます。私がすぐここで注意したいのは、ローレンツのと根本的に異った理論で、しかも簡単な判り易い仮定に基づき、そして同じことを為し遂げるようなものは、決して立てられなかったと云うことです。それですから、この範囲では静止エーテルの理論を、経験の全部と一致する唯一のものとして承け容れなければならなかったのでした。
私達はこの静止エーテルの理論を相対性原理の立場から観察しましょう。外力を受けない質点がある体系に関して一様に動いているならば、そう云うすべての体系を私達は非加速的のものとして云い表わします。そうしますと、相対性原理はこう主張するのです。自然法則はすべての非加速的体系に関しては同一であると、静止エーテルに関するローレンツの根本仮説は他方に、あらゆる可能な非加速的運動体系のうちで、一定の運動状態のもの、すなわちこの光の媒質に対して静止せる体系を特別に徴しづけます。それですから、たとえこの考えに従っても、哲学上の意味でのある絶対運動が存在するとは云うことは出来ませんけれども、――なぜならそれは全然見限られたことで、私達はただ物体の相対的な位置変化を考えることが出来るだけですけれども、――しかし私達が今一つの運動状態、すなわちエーテルに対する静止を特別に扱ったと云うことで、物理学的の意味で一つの絶対運動が形づくられます。私達はエーテルに関して静止する各の物体をどうにか絶対静止のものと云うことが出来ます。エーテルに対して静止せる基準系はあらゆるその他の加速しない基準系に対して特別のものとせられます。この意味でローレンツの静止エーテルの根本観念は相対性原理に適いません。静止エーテルの根本観念は次の一般的考察に導きます。一つの基準系 K がエーテルに対して静止しており、もう一つの他の基準系 K' はエーテルに対して一様に動いているとします。エーテルに関する K' の相対運動は K' に対して成り立つところの自然法則にある影響を及ぼすと云うことが期待せられるわけです。つまり K' に関する自然法則は K' のエーテル内における運動のために K に関する法則とは異っている事が期待せられるのでした。その上にまた地球は私達の実験室と共に一年全体の間この光の媒質に対して静止していることは出来ないので、それはすなわち K' なる基準系の役目をするはずであると云わなければなりませんでした。従ってこの運動の影響が私達の実験室における実験にあらわれるような何等かの現象が見出されることを仮定しなければならないのでした。私達の物理的空間は、これを地球上に在るとする限り、この相対運動のために方向によって異った性質をもつと信ずべきはずでした。けれども何等この様な事を実証することはどんな場合にも決して成功しませんでした。
ところでこのエーテルに対してはおもしろく思われませんでした。フィゾーの実験はエーテルが物質と一緒に動かないことを云いあらわします。すなわち光の媒質の物質に対する運動があるわけです。けれども、この相対運動を確立しようとするすべての実験は否定的の結果を与えました。つまりそこにはお互に矛盾する様に見える二つの結果があります。そしてこの不愉快な乖離を解放することが出来なかったことは、物理学者にとりて非常に痛ましい事でした。私達は、どんなにしても取り除けを見出すことの出来なかった相対性原理を、どうにかしてローレンツの理論と一致させることは出来ないであろうかと云うことを考究しなければなりませんでした。今それへ入り込む前に私たちは静止エーテルのローレンツ理論から最も本質的な部分を抽き出してみましょう。静止エーテルが存在すると云うことは物理学的に何を意味しているでしょうか。この仮説の最も大切な内容は次のように云いあらわすことが出来ます。それはここに一つの基準体系(ローレンツの理論で「エーテルに対して静止せる体系」と名づけられる)が存在していて、それに関しては真空中の各の光線が普遍的な速度 c をもって伝播すると云うことです。そしてこれは光を発する物体が静止していてもまたは動いていても、それに無関係に成立つと云う事です。この主張を私達は光速一定の原理と名づけましょう。そこで上に述べた問題はまた次の様な形式にすることも出来ます。取り除けなしに満足されるように見える相対性原理をこの光速一定の原理と結合させることは出来ないでありましょうか。次のように、ちょっと考えると、まずこれが否定されます。基準体系 K に対して各光線が速度 c で進むとしますと、これは K に対して運動している基準系 K' に対してもはや成り立ちません。すなわち K' が光線の進む方向に速度 <math>v</math> で{{註|[#「速度 <math>v</math> で」は底本では「速度 <math>V</math>で」]}}動いているならば普通の見方では K' に対する光線の速度は <math>c-v</math> に等しいとおかれるはずです。つまり K' に対する光の伝播の法則は K に対する速度と異なることになり、相対性原理が損われます。これは恐ろしいディレンマです。ところがよく考えると自然はこのディレンマには全く負い目をもってはいないので、むしろこのディレンマは私達がその考察のなかに、従ってまた私の今述べたもののなかにも、黙って勝手に仮定をつくっていたことから起るのです。私達は事がらを矛盾なしにかつ簡単に考えるようにするために、それを取り去ってしまわなくてはなりません。
私はこの勝手な仮定、すなわち私達の物理学的思考の根本に横わっているものを説明してみようと思います。この勝手な仮定のうちの第一のかつ最も大切なものは時間概念に関するものであって、私はどこにこの勝手さが存立するかを述べてみましょう。それをうまく行るために、私はまず空間について論じ、その上で時間をこれと平行に置こうと思います。もし私達が空間における一点の位置、すなわちある坐標系に対する一点の位置を云い表わそうと思うならば私達はその直交坐標 <math>x, y, z</math> を与えます。この坐標の意味は次の如くです。よく知られた規則に従って坐標面に垂直線を立て、一つの与えられた単位物指がこの垂直線上に幾囘運ばれたるかをごらんなさい。この囘数を数えた結果が坐標です。坐標で空間を指定するのはそれゆえ一定の操作の結果です。私が指示する坐標は従って全く一定の物理的意味をもっています。私達は一定の与えられた点が実際に指示された坐標をもつかどうかを試験することが出来ます。
この関係は時間ではどうなるでしょうか。そこでは私達はそれほどうまく行かないのを見るでしょう。従来私達はいつもこう云うて満足していました。時間は出来事の独立変数であると、かような定義では誰れもそれに基づいて事実上存在する出来事の時間値を測ることは出来ません。ですから私達は、その定義に基づいて時間測定が可能であるように、時間を定義するように行ってみなければなりません。私達はある坐標系 K の原点に一つの時計(例えばゼンマイ時計)をおくとしましょう。この時計で直接にこの点ならびにそのごく近所に起っている出来事を時間的に値いづけられることが出来ます。K の他の点で起る出来事はしかしこの時計で直接に時を定めるわけにはゆきません。K の原点には時計の傍にいる観測者が光線に依ってその出来事の報知を受けとる時刻をしるすとしますと、この時刻は出来事自身の時ではなくて、出来事から時計に達するまでの光線の伝播時間だけ出来事の時刻から遅れて{{註|[#「遅れて」は底本では「運れて」]}}いるのです。もし私達が K 系に対するその方向の光の伝播速度を知っているとすれば、出来事の時刻はその時計で定めることが出来るのでしょう。けれども光の伝播速度の測定は私達の取り扱っている時間決定の問題がすでに解かれたときにのみ可能なのです。すなわち一定の方向における光の速度を測るためには、光線の伝わる二点 A 及び B の間の距離と、その外 A において光を送り出した時刻ならびに B において光の到着した時刻とを測らなければならなかったでしょう。つまり諸処での時間測定が必要であるわけですが、それは私達の求める時間の定義が既に与えられた時にのみ実行し得るのでしょう。しかし一つの速度特に光の速度を測ることが、任意の指定なしには原理的に不可能であると云うならば、私達は光の伝播速度に関してなお任意な指定をなしてもよいのです。そこで私達は真空中の光の伝播速度は一点 A から一点 B へゆく途で B から A への光線の伝播速度と同じ大きさであると定めます。この指定のお蔭で私達は K 系に対し種々の点に静止して列べられた同じ性質の時計を実際に合わせることが出来るようになります。例えば二点 A と B とにある時計を次のことが成り立つように合わせましょう。A において時刻 <math>t</math>(A の時計で測って)に一つの光線を B に向けて送り、それが時刻 <math>t+a</math>(B の時計で計って)に B に到着するとしますと、逆に時刻 <math>t</math>(B の時計で測って)B から A の方へ送られた光線は時刻 <math>t+a</math>(A の時計で測って)に A に来なければなりません。これが K 系に配置されたすべての時計を合わせるための規定なのです。もし私達がこの規定を満足させたなら、それで私達は実測物理学者の立場から一つの時間決定を求め得たのです。ある出来事の時刻はすなわちかように与えられた規定に従って合わされた時計のうちで、その出来事の場処にあるものの示す時に等しいのです。
ところで、私達はそれによって特に目立った何ものを得たのであろうかと云う疑問が起るでしょう。なぜなればそのすべては自明の事がらのように聞えるからです。目立った事柄と云うのは、全く決った意味の時間指示に達するためのこの規定が全く一定の坐標系 K に対して静止する時の一体系に関係していると云うことにあります。私達は単に一つの時を得たのではなくて、坐標系 K に関した時、すなわち K に対して静止して列べられた時計を含めて坐標系 K に関した時を得たのです。私達はもちろん、K に対して一様に動いているような第二坐標系 K' を{{註|[#「第二坐標系 K' を」は底本では「第二坐標系 K を」]}}もつならば、全く同じことをこれに関して行うことが出来ます。この坐標系 K' に対しても一つの時計体系をその空間に配置し、それらをすべて K' と一緒に動いているようにしますと、私達はこの K' に関して静止している時計を全く上に与えた規定に従って合わせることが出来ます。そうした上で私達は K' 系に関してもまた一つの時を得ます。
ところがアプリオリにはまるでこう云われません。もし二つの出来事が基準系 K ――私はそれで時計を含めた坐標系を意味させます――に関して同時刻であるなら、同じ出来事は基準系 K' に関してもまた同時刻的であると。つまり時間は一の絶対な、すなわち基準系の運動状態に無関係な意味をもっているとは云われません。それは私達の運動学に含まれていた一つの任意さなのです。
ここにやはり従来の運動学において任意的であった第二の事情があらわれます。私達は一つの物体の形、例えば一つの棒の長さについて話しますが、その長さが幾らであるかを、精密に知っていると信じています。そしてそれが、私達の現象をしるしている基準系に関して運動している場合にもまたそうです。しかし少しく考えて見ますと、その事は私達がこれを本能的に想っているほど、決してそんなに簡単な概念ではないことが判ります。一つの棒がその長い方向に基準系に対して動いているとしましょう。この棒はどれだけ長いかと尋ねてみましょう。この問は{{註|[#「この問は」は底本では「この間は」]}}ただ次の意をもち得るだけです。すなわち棒がどれほど長いかを知るために私達はどんな実験を行わなければならないかと云うことです。私達はある物指をもった一人の人間を取りて、これを衝き動かし、棒と同じ速度をもたせます。そうすればこの人は棒に対して静止していますから、彼の物指を繰返して棒と並べて、ちょうど実際に静止体の長さを測るのと同じ様にして、その長さを見出すことが出来ます。そこに彼は全く一定の数を得、そして彼がこの棒の長さを測ったと云うことをある権利をもって言明することが出来ます。
しかしながらもし棒と一緒に動いていないで、すべてある基準系に静止しているような観測者のみがあるとしたならば、私達は次の様にすることが出来ます。私達は動いている棒の軌道に沿うて非常にたくさんの時計を配置し、その各に観測者が附き添うているとします。時計は上に与えられた手段に従って光の信号で合わされ、その全体で基準系に属する時間を示すようにします。これらの観測者は K 系に関して棒の前後両端がある一定の与えられた時刻 <math>t</math> に存在する二つの場処を見出します。すなわち棒の前後両端がそこを通過するとき時刻 <math>t</math> を示すような二つの時計を見出すと云っても同じことです。こうして求められた二つの場処(もしくは時計)のお互の距離は基準系 K に対して静止せるある物指を結合線の上に繰り返して列べて測る事が出来ます。この二段の処置の結果を私達は動いている棒の長さとして正当に云いあらわすことが出来るのです。けれどもこの二つの取扱いが必然的に同じ結果に到達するとは限りません。言葉を換えて云えば、一つの物体の幾何学的の容量は、これが見出される基準系の運動状態に必ずしも無関係ではありません。
もし私達がこの二つの任意の仮定をしないならば、私達はもはや次の初等的の問題をも解くことがすぐには出来ないのです。すなわち一つの出来事の坐標 <math>x, y, z,</math> 及び時刻 <math>t</math> が K 系に関して与えられているとき、K 系に対して既知の一様な併移運動にあるような他の系 K' に関する同じ出来事の空間時間坐標 <math>x, y, z, t,</math> を求めると云う事です。つまり従来この問題の簡単な解を得たのは、私達が今任意的と云った仮定をしていたのに依ることが判ります。
どう云う風にして私達は再び運動学を立てなおしたらよいのでしょうか。そこにおのずから次の答が生じます。ちょうど私達に以前痛ましい困難を与えていた事情が私達を踏み歩み得る道に導きます。もちろん今述べた任意的の仮定を取り除いてもっと多くの余地を収得した上です。つまり経験が、私達を強要した二つの外見的には結合し得られないような基礎法則、すなわち相対性原理と光速度一定の原理とがちょうど空間時間転換の問題の一定の解に導くことが判ります。そこで私達は通常の思想と一部分はなはだしく矛盾するような結果に到着します。これに導くところの数学的考察ははなはだ簡単ですが、ここではそれに立ち入りますまい。
<math>x, y, z, t</math> ならびに <math>x', y', z', t'</math> が両基準系 K 及び K' に関する空間及び時間坐標であるならば、基礎とした両原理は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2=c^2 t^2</math>}}
及び
{{equation|<math>x'^2+y'^2+z'^2=c^2 t'^2</math>}}
なる二つの方程式各が他のものを帰結するように変換方程式を作らなくてはならないことを要求します。ここには説明しない理由からして変換方程式は一次的でなければなりませんから、これで変換法則が決定されることが少しく研究すれば判ります。(例えば Jahrb. d. Radioakt. und Elektronik 4. (1907), 418 参照)
むしろ私は、この様にしてその外の仮定なしに全く論理的に進めて達せられる最も主要な帰結に立ち入ることにしましょう。
まず最初は純粋に運動学的のものです。私達は坐標と時間とを一定の方法で物理学的に定義しましたから、空間的ならびに時間的の量の間のどんな関係もある全く一定の物理的内容をもつでありましょう。まず次のことが出ます。もし私達が考察の基礎となした坐標系 K に関して一様に動いているところの一つの固体をもつならば、この物体は、それがこの体系に関して静止の状態でもっているような形に対してその運動方向に一定の割合に縮まって見えます。私達が物体の運動速度を <math>v</math> で、光の速度を <math>c</math> であらわすならば、各の運動方向に測られた長さは、物体の動かない状態で <math>l</math> に等しいものが、運動を共にしない観測者に関しては運動のために
{{equation|<math>l\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}</math>}}
なる大きさに短縮されます。
もし物体が静止状態で球形であるなら、それを一定の方向に動かす場合に、これは扁平な楕円体の形を取ります。もし速度が光速度に達するならば、物体は一平面にひしゃげてしまいます。しかし共に動いている観測者から判断すれば、物体は前と同じくその球形を保っているでしょう。他方でこの物体と共に動いている観測者には運動を共にしないすべての対象は全く同様に相対運動の方向に縮まって見えるのです。この結果は奇妙さを示していますが、しかし運動物体の形と云うものは、実際上述のことによれば、ただ時間決定の助けによって始めて見出されるものであって、はなはだ複雑な意味をもっていますから、それを考慮すれば肯かれるわけです。
この「運動物体の形」なる概念が直接に明らかな内容をもっていると云う感じは、そもそも私達が日常の経験では単に光速度に対し実際上無限に小さいような運動速度のみを見るのに慣れていることを思い合わせると、それから得られるでしょう。
次にこの理論の第二の純粋に運動学的の帰結であって、もっと目立った事柄はこうです。ある基準系 K に対して静止して配置されており、これの時間を指示することの出来る一つの時計が与えられていると考えましょう。そうしますと、もしこの時計が基準系に関して一様な運動におかれるならば、K 系から判断して進みが遅れるようになり、この時計の時間指示が 1 だけ進む間に体系 K の時計は K に関して
{{equation|<math>\frac{1}{\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}}</math>}}
だけの時間を経過するようになると云うことが証明出来ます。つまり動いている時計は、それが K に関して静止の状態になるときよりも遅く進むのです。運動状態における時計の進む速さは、この時計の指針の位置を、K に対して静止しておりかつ K に関しての時間を測るような時計のうちでちょうど今考に取った運動時計がその傍を通り過ぎるようなものの指針位置といつも比較して見出されると考えなければなりません。もし私達が時計を光速度で動かすことが出来たとしたならば――充分に力を加えるなら私達は時計をほとんど光速度で動かすことが出来たでもありましょう――時計の指針は、K から判断して、無限に遅く進むでしょう。
もし次のことが実現されたと考えるなら、事柄は最もおかしくなります。この時計に非常に大きい速度(ほとんど <math>c</math> に等しいような)を与え、これを一様な運動を続けて飛ばせ、それが遠い距離を飛んだ後で反対の方向に衝撃を与えてもと出発した場処へ再び戻るようにします。そうすれば、この時計の指針の位置はその全旅行の間にほとんど変りはしなかったのですが、これに反してその間出発の場処に静止状態に残された全く同じ構造の時計はその指針の位置をすっかり変えてしまっていると云うことになります。これに附言しなけばならないことは、私達がすべての物理的出来事の簡単な一代表として導き入れたこの時計に対して成り立つところのものはまたどんなその外の性質のそれ自身完閉した物理学的体系に対しても成り立つと云うことです。例えば私達がある生物を箱に入れて上に時計のなしたと同様な往復運動をさせますと、この生物は任意に長く旅行した後でどれほども変らずにその最初の場処に戻って来ることが出来たでもありましょう。ところがまるで同じ生物がもとの場処に止っているならば、既に久しい前に新たな子孫に代らせたにちがいありません。運動している生物にはこの旅行の長い時間は、その運動がほとんど光速度で行われたとすれば、ただ一瞬時にすぎないのです。これは経験が私達を強要して私達の基礎におかしめた原理の否定し難い一つの帰結なのです。
ところで物理学に対する相対性理論の意味についてもう一言しよう。この理論の要求する処は、ある任意の速度に対して成立する自然法則の数学的表式は、この法則をあらわす式のなかに転換式によりて新しい空間時間坐標を引き入れてもその形を変えないと云うことです。それによりて可能性の多様さは著しく制限せられます。静止せるもしくは遅く動いている物体に対して法則が知られているなら、それから簡単な転換によりて任意に速く動いている物体に対する法則を導き出す事が出来ます。かようにして例えば速い陰極線に対する運動法則を出すことが出来ます。その場合にニウトンの式は任意に速く動く質点には成り立たないで、これはやや複雑の構造の運動方程式で置き換えられなくてはならないことが判ります。陰極線の屈曲に関してこの法則は全く満足的に経験と一致することが示されました。
相対性理論の物理学的に最も大切な結論のうちで次のことが記されなくてはなりますまい。私達は前に、動いている時計が相対性理論に従えば静止している同じ時計よりも遅く進むことを見ました。私達がこれを懐中時計で実験して確証しようとすることはたぶんいつまでも見込のないことでありましょう。なぜなら私達がかようなものに与え得る速度は光速度に対して無視せられるほど小さいものであるからです。けれども自然は私達に全く時計の性質をもちかつ非常に速く動かされ得るような物を提供します。これはスペクトル線を送り出す原子であって、私達はこれに電気の場によって数千キロメートルの速度を与えることが出来ます。(カナル線)理論によれば、これ等の原子の振動数はその運動によって、ちょうど動いている時計に対して導き出されるのと全く同様の方法で、影響されて見えることが期待せられます。この実験は大きな困難に出遇いはしますが、それでも私達は、この方法で将来の十年間のうちには相対性理論の重要な確証もしくは反駁を得ることを望むことが出来るでしょう。
理論は更に、物体の惰性的質量がそのエネルギー内容に関係すると云う大切な結果に導きます。ただしこれははなはだわずかの程度であって、直接にこれを証明することは全く望みないことです。しかし物体のエネルギーが <math>E</math> だけ増せば、惰性的質量は <math>\frac{E}{c^2}</math> だけ増します。この法則によって質量保存の法則は倒壊されたので、云い換えればエネルギー保存の法則と唯一のものに融合したのです。この結果はかなり著しく響くかもしれませんが、しかし相対性理論なしにもまたある特殊の場合には経験的に知られた事実からして、惰性的質量がエネルギー内容と共に増すことを確実に結論することは出来ます。
もう一言この理論が主として、悼ましくも余りに早く逝いた数学者ミンコウスキーによって得たところのはなはだ興味ある数学的補助について述べましょう。相対性理論の変換方程式は、それが
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2-c^2 t^2</math>}}
なる式を不変量としてもつように作られています。時間 <math>t</math> の代りに虚数的変数 <math>ct\sqrt{-1}=\tau</math>を時間変数として導き入れますと、この不変量は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2+\tau^2</math>}}
なる形を取ります。この際空間的坐標ならびに時間坐標は同じ役目をなします。この空間及び時間坐標の形式的等値性を相対性理論において更に押し進めますと、この理論のはなはだ見易い説明に達し、その応用をより容易くするのです。物理的出来事はある四次元間において云い表わされ、また出来事の空間的関係はこの四次元空間における幾何学的法則としてあらわれます。
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}}
<div class="jisage_10" style="margin-left: 10em"><span class="sho1" style="font-size: small;">(一九一一年一月一六日チューリッヒの自然科学会席上の講義)</span></div>
「相対性理論」と名づけられる理論が倚りかかっている大黒柱はいわゆる相対性原理{{註|[#「相対性原理」は底本では「相対性理論」]}}です。私はまず相対性原理とは何であるかを明らかにしておこうと思います。私たちは二人の物理学者を考えてみましょう。この二人の物理学者はどんな物理器械をも用意しています。そして各々一つの実験室をもっています。一人の物理学者の実験室はどこか普通の場所にあるとし、もう一人の実験室は一定の方向に一様な速さで動く汽車の箱のなかにあるとします。相対性原理は次のことを主張するのです。もしこの二人の物理学者が彼等のすべての器械を用いて、一人は静止せる実験室のなかで、もう一人は汽車のなかで、すべての自然法則を研究するならば、汽車が動揺せずに一様に走る限り、彼等は全く同じ自然法則を見出すでありましょう。幾らか抽象的にこう云うことも出来ます。自然法則は相対性原理によれば基準体系の併移運動に関しません。
私達は今この相対性原理が旧来の力学でどんな役目をもっていたかをみましょう。旧来の力学は第一にガリレイの原理の上に安坐しています。この原理に従えば、ある物体は他の物体の作用を受けない限り、直線的な一様な運動にあります。もしこの法則が上に云うた実験室の一方に対して成り立つ{{註|[#「成り立つ」は底本では「成リ立つ」]}}ならば、それはまた第二に対しても成り立ちます。私達はそのことを直接に直観から取り出すことが出来ます。私達はそれをしかしまたニウトン力学の方程式からも引き出すことが出来るのです。私達はその方程式をもとの基準体系に対して一様に動いているものへ転換させればよいのです。
私はここで実験室と云っていますが、数理的物理学では事柄を一定の実験室に関係させる代りに坐標系に関係させるのが普通です。このようにある何かに関係させるという場合に本質的なのは次の事柄です。私達が一点の位置について何か云おうとするときには、いつも私達はこの点とある他の物体系の一点との合致を示し与えます。もし私が例えば自分をこの質点であると取り、そうして、私はこの部屋のなかのこの場所に居ると云いますなら、私は自分を空間的の関係でこの部屋のある点と合致させたのです。あるいは私はこの合致を云いあらわしたのです。数理的物理学ではこれを云い表わすのに、三つの数、すなわちいわゆる坐標によりて、場所を示そうとした点が坐標系と称えられる剛体体系のどの点と合致するかを云い表わします。
これは相対性原理について最も一般的のものであったのでしょう。もし私達が、十八世紀もしくは十九世紀前半の物理学者に、この原理を疑うかどうかを尋ねたとしましたなら、彼はきっとこの質問を断然否定したに違いありません。その当時は各の自然現象をすべて旧来の力学の方則に帰せしめられることが確かであるとしていましたから、それを疑う理由をちっとも持っていなかったのです。私はここで、物理学者が経験によってどうしてこの原理に矛盾する物理学的論理を立てるようになったかを説明しようと思います。そのために私達は光学及び電気力学の発展を、それらが前世紀において、漸次是認せられた限りにおいて、相対性原理の立場から簡単に考察してみなければなりません。
光はちょうど音波のように干渉や𢌞折を示します。ですから私達は光を一の波動としてもしくは一般にある媒質の週期的に変化する状態として見做さなくてはならないように感じさせられます。この媒質をエーテルと名づけました。かような媒質の存在は近頃までは物理学者に絶対に確かであるように見えました。次に述べる理論はエーテル仮説とは相容れないものですが、しかししばらく私達はこれに依ることにしましょう。私達は今この媒質に関してどんな考え方が発展されて来たか、またこのエーテルを仮定する物理学的理論を導き入れたためにどんな問題が起ったかをみようと思います。私達は既に、光がこの媒質の振動から成ると考えたこと、すなわちこの媒質は光及び熱の振動の伝播を引き受けていると考えた事を述べました。{{傍点|静止}}物体の光学的現象だけを取り扱っている間は、光がこの媒質の運動を起すと云う外に、それの別の運動を問題にするには及ばなかったのでした。単にこの媒質はそこで見ている物体と同様に――光が起すはずであった振動を取り除けば――静止の状態にあると仮定されました。
{{傍点|運動}}物体の光学的現象、並に――それと関聯して――運動物体の電磁気的性質を考察するようになったときに、私達はその観察する物理学的体系のなかで、物体に種々の速度を与えたならばエーテルはどうなるかと云う問題に向わなければなりませんでした。エーテルは物体と一緒に動くのでしょうか。すなわち各の場所でエーテルはそこにある物質と同じ様に動くでしょうか。またはそうではないのでしょうか。最も簡単な仮定はエーテルがどこでも物質と全く同じ様に動くと云うことです。第二の可能な仮定は、これもやはりかなりな簡単さを示すものですが、こうです。すなわちエーテルは物体の運動に全然与からないと云うのです。それからまた中間の場合も可能でありましょう。この中間の場合と云うのは、エーテルがある度まで物質と無関係に空間内に動くのです。私達は今、この問題の解答を得るためにどう云うことが試みられたかをみようと思います。最初に得られた重要な説明は仏国の物理学者フィゾーの行った大切の意味のある実験から来ています。この実験は次の問題から起されました。
[[File:Fig50328 01.png|thumb|第一図]]
図に示した管はその前後を硝子板で閉じてあり、両端の接続管から管を通じて軸の方向に液体を流すことが出来るようにしてあります。管を流れる液体の速度はやはり軸の方向に管を通る光線の伝播速度に、どう影響するでしょうか。エーテルが管を流れる物質と一緒に動くことが本当であるなら、次のように考えられます。静止した水のなかで光の進む速さが <math>V</math> であるとします。つまり <math>V</math> は水に対する光の速度であるとし、また <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}管に対する水の速度であるとしますと、私達はこう云わなくてはなりますまい。水に対する光の速度は、もしエーテルが水に固着しているなら水が動いていてもまたは動かずにいても、それには関せずにいつも同じであります。それですから管に対する光の伝播速度は液体が動いている場合には、これが静止している場合よりも、<math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math>だけ」]}}大きいと予期されます。フィゾーの実験では、二つの干渉し得る光線束が上述のように管を通りました。液体の運動速度が干渉の縞の処置に及ぼす影響からして、水の運動速度 <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}静止管に対する光の伝播速度にどれほどな影響を及ぼしたかを計算することが出来ました。フィゾーは、管に対する光速が液体の運動のために <math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math> だけ」]}}増されずに、かえってただその分数(<math>n</math> を液体の屈折率としますと <math>v(1-\frac{1}{n})</math> )だけしか増さないことを見出しました。この屈折率がほとんど 1 に等しく、すなわち光が液体のなかでほとんど真空におけると同じ速さで進むとしますと、液体の運動はほとんど影響をもちません。この事から、光が水に対していつも同じ速度で進むと云う考え方は、経験と一致しないと結論しなければなりませんでした。
次に簡単な仮説は、エーテルが物質の運動に少しも与からないと云うことでした。この仮説に基づいては、光学的現象が物質の運動によってどう影響されるかを、そう簡単に導き出すわけにはゆきません。しかしローレンツは一八九〇年代の中頃に、全く動かないエーテルの仮定に基づく一つの理論を立てることに成功しました。彼の理論は運動体の光学及び電気学のほとんどすべての知られた現象を、その中にまた今述べたフィゾーの実験をも含めて、全く正しく与えます。私がすぐここで注意したいのは、ローレンツのと根本的に異った理論で、しかも簡単な判り易い仮定に基づき、そして同じことを為し遂げるようなものは、決して立てられなかったと云うことです。それですから、この範囲では静止エーテルの理論を、経験の全部と一致する唯一のものとして承け容れなければならなかったのでした。
私達はこの静止エーテルの理論を相対性原理の立場から観察しましょう。外力を受けない質点がある体系に関して一様に動いているならば、そう云うすべての体系を私達は非加速的のものとして云い表わします。そうしますと、相対性原理はこう主張するのです。自然法則はすべての非加速的体系に関しては同一であると、静止エーテルに関するローレンツの根本仮説は他方に、あらゆる可能な非加速的運動体系のうちで、一定の運動状態のもの、すなわちこの光の媒質に対して静止せる体系を特別に徴しづけます。それですから、たとえこの考えに従っても、哲学上の意味でのある絶対運動が存在するとは云うことは出来ませんけれども、――なぜならそれは全然見限られたことで、私達はただ物体の相対的な位置変化を考えることが出来るだけですけれども、――しかし私達が今一つの運動状態、すなわちエーテルに対する静止を特別に扱ったと云うことで、物理学的の意味で一つの絶対運動が形づくられます。私達はエーテルに関して静止する各の物体をどうにか絶対静止のものと云うことが出来ます。エーテルに対して静止せる基準系はあらゆるその他の加速しない基準系に対して特別のものとせられます。この意味でローレンツの静止エーテルの根本観念は相対性原理に適いません。静止エーテルの根本観念は次の一般的考察に導きます。一つの基準系 K がエーテルに対して静止しており、もう一つの他の基準系 K' はエーテルに対して一様に動いているとします。エーテルに関する K' の相対運動は K' に対して成り立つところの自然法則にある影響を及ぼすと云うことが期待せられるわけです。つまり K' に関する自然法則は K' のエーテル内における運動のために K に関する法則とは異っている事が期待せられるのでした。その上にまた地球は私達の実験室と共に一年全体の間この光の媒質に対して静止していることは出来ないので、それはすなわち K' なる基準系の役目をするはずであると云わなければなりませんでした。従ってこの運動の影響が私達の実験室における実験にあらわれるような何等かの現象が見出されることを仮定しなければならないのでした。私達の物理的空間は、これを地球上に在るとする限り、この相対運動のために方向によって異った性質をもつと信ずべきはずでした。けれども何等この様な事を実証することはどんな場合にも決して成功しませんでした。
ところでこのエーテルに対してはおもしろく思われませんでした。フィゾーの実験はエーテルが物質と一緒に動かないことを云いあらわします。すなわち光の媒質の物質に対する運動があるわけです。けれども、この相対運動を確立しようとするすべての実験は否定的の結果を与えました。つまりそこにはお互に矛盾する様に見える二つの結果があります。そしてこの不愉快な乖離を解放することが出来なかったことは、物理学者にとりて非常に痛ましい事でした。私達は、どんなにしても取り除けを見出すことの出来なかった相対性原理を、どうにかしてローレンツの理論と一致させることは出来ないであろうかと云うことを考究しなければなりませんでした。今それへ入り込む前に私たちは静止エーテルのローレンツ理論から最も本質的な部分を抽き出してみましょう。静止エーテルが存在すると云うことは物理学的に何を意味しているでしょうか。この仮説の最も大切な内容は次のように云いあらわすことが出来ます。それはここに一つの基準体系(ローレンツの理論で「エーテルに対して静止せる体系」と名づけられる)が存在していて、それに関しては真空中の各の光線が普遍的な速度 c をもって伝播すると云うことです。そしてこれは光を発する物体が静止していてもまたは動いていても、それに無関係に成立つと云う事です。この主張を私達は光速一定の原理と名づけましょう。そこで上に述べた問題はまた次の様な形式にすることも出来ます。取り除けなしに満足されるように見える相対性原理をこの光速一定の原理と結合させることは出来ないでありましょうか。次のように、ちょっと考えると、まずこれが否定されます。基準体系 K に対して各光線が速度 c で進むとしますと、これは K に対して運動している基準系 K' に対してもはや成り立ちません。すなわち K' が光線の進む方向に速度 <math>v</math> で{{註|[#「速度 <math>v</math> で」は底本では「速度 <math>V</math>で」]}}動いているならば普通の見方では K' に対する光線の速度は <math>c-v</math> に等しいとおかれるはずです。つまり K' に対する光の伝播の法則は K に対する速度と異なることになり、相対性原理が損われます。これは恐ろしいディレンマです。ところがよく考えると自然はこのディレンマには全く負い目をもってはいないので、むしろこのディレンマは私達がその考察のなかに、従ってまた私の今述べたもののなかにも、黙って勝手に仮定をつくっていたことから起るのです。私達は事がらを矛盾なしにかつ簡単に考えるようにするために、それを取り去ってしまわなくてはなりません。
私はこの勝手な仮定、すなわち私達の物理学的思考の根本に横わっているものを説明してみようと思います。この勝手な仮定のうちの第一のかつ最も大切なものは時間概念に関するものであって、私はどこにこの勝手さが存立するかを述べてみましょう。それをうまく行るために、私はまず空間について論じ、その上で時間をこれと平行に置こうと思います。もし私達が空間における一点の位置、すなわちある坐標系に対する一点の位置を云い表わそうと思うならば私達はその直交坐標 <math>x, y, z</math> を与えます。この坐標の意味は次の如くです。よく知られた規則に従って坐標面に垂直線を立て、一つの与えられた単位物指がこの垂直線上に幾囘運ばれたるかをごらんなさい。この囘数を数えた結果が坐標です。坐標で空間を指定するのはそれゆえ一定の操作の結果です。私が指示する坐標は従って全く一定の物理的意味をもっています。私達は一定の与えられた点が実際に指示された坐標をもつかどうかを試験することが出来ます。
この関係は時間ではどうなるでしょうか。そこでは私達はそれほどうまく行かないのを見るでしょう。従来私達はいつもこう云うて満足していました。時間は出来事の独立変数であると、かような定義では誰れもそれに基づいて事実上存在する出来事の時間値を測ることは出来ません。ですから私達は、その定義に基づいて時間測定が可能であるように、時間を定義するように行ってみなければなりません。私達はある坐標系 K の原点に一つの時計(例えばゼンマイ時計)をおくとしましょう。この時計で直接にこの点ならびにそのごく近所に起っている出来事を時間的に値いづけられることが出来ます。K の他の点で起る出来事はしかしこの時計で直接に時を定めるわけにはゆきません。K の原点には時計の傍にいる観測者が光線に依ってその出来事の報知を受けとる時刻をしるすとしますと、この時刻は出来事自身の時ではなくて、出来事から時計に達するまでの光線の伝播時間だけ出来事の時刻から遅れて{{註|[#「遅れて」は底本では「運れて」]}}いるのです。もし私達が K 系に対するその方向の光の伝播速度を知っているとすれば、出来事の時刻はその時計で定めることが出来るのでしょう。けれども光の伝播速度の測定は私達の取り扱っている時間決定の問題がすでに解かれたときにのみ可能なのです。すなわち一定の方向における光の速度を測るためには、光線の伝わる二点 A 及び B の間の距離と、その外 A において光を送り出した時刻ならびに B において光の到着した時刻とを測らなければならなかったでしょう。つまり諸処での時間測定が必要であるわけですが、それは私達の求める時間の定義が既に与えられた時にのみ実行し得るのでしょう。しかし一つの速度特に光の速度を測ることが、任意の指定なしには原理的に不可能であると云うならば、私達は光の伝播速度に関してなお任意な指定をなしてもよいのです。そこで私達は真空中の光の伝播速度は一点 A から一点 B へゆく途で B から A への光線の伝播速度と同じ大きさであると定めます。この指定のお蔭で私達は K 系に対し種々の点に静止して列べられた同じ性質の時計を実際に合わせることが出来るようになります。例えば二点 A と B とにある時計を次のことが成り立つように合わせましょう。A において時刻 <math>t</math>(A の時計で測って)に一つの光線を B に向けて送り、それが時刻 <math>t+a</math>(B の時計で計って)に B に到着するとしますと、逆に時刻 <math>t</math>(B の時計で測って)B から A の方へ送られた光線は時刻 <math>t+a</math>(A の時計で測って)に A に来なければなりません。これが K 系に配置されたすべての時計を合わせるための規定なのです。もし私達がこの規定を満足させたなら、それで私達は実測物理学者の立場から一つの時間決定を求め得たのです。ある出来事の時刻はすなわちかように与えられた規定に従って合わされた時計のうちで、その出来事の場処にあるものの示す時に等しいのです。
ところで、私達はそれによって特に目立った何ものを得たのであろうかと云う疑問が起るでしょう。なぜなればそのすべては自明の事がらのように聞えるからです。目立った事柄と云うのは、全く決った意味の時間指示に達するためのこの規定が全く一定の坐標系 K に対して静止する時の一体系に関係していると云うことにあります。私達は単に一つの時を得たのではなくて、坐標系 K に関した時、すなわち K に対して静止して列べられた時計を含めて坐標系 K に関した時を得たのです。私達はもちろん、K に対して一様に動いているような第二坐標系 K' を{{註|[#「第二坐標系 K' を」は底本では「第二坐標系 K を」]}}もつならば、全く同じことをこれに関して行うことが出来ます。この坐標系 K' に対しても一つの時計体系をその空間に配置し、それらをすべて K' と一緒に動いているようにしますと、私達はこの K' に関して静止している時計を全く上に与えた規定に従って合わせることが出来ます。そうした上で私達は K' 系に関してもまた一つの時を得ます。
ところがアプリオリにはまるでこう云われません。もし二つの出来事が基準系 K ――私はそれで時計を含めた坐標系を意味させます――に関して同時刻であるなら、同じ出来事は基準系 K' に関してもまた同時刻的であると。つまり時間は一の絶対な、すなわち基準系の運動状態に無関係な意味をもっているとは云われません。それは私達の運動学に含まれていた一つの任意さなのです。
ここにやはり従来の運動学において任意的であった第二の事情があらわれます。私達は一つの物体の形、例えば一つの棒の長さについて話しますが、その長さが幾らであるかを、精密に知っていると信じています。そしてそれが、私達の現象をしるしている基準系に関して運動している場合にもまたそうです。しかし少しく考えて見ますと、その事は私達がこれを本能的に想っているほど、決してそんなに簡単な概念ではないことが判ります。一つの棒がその長い方向に基準系に対して動いているとしましょう。この棒はどれだけ長いかと尋ねてみましょう。この問は{{註|[#「この問は」は底本では「この間は」]}}ただ次の意をもち得るだけです。すなわち棒がどれほど長いかを知るために私達はどんな実験を行わなければならないかと云うことです。私達はある物指をもった一人の人間を取りて、これを衝き動かし、棒と同じ速度をもたせます。そうすればこの人は棒に対して静止していますから、彼の物指を繰返して棒と並べて、ちょうど実際に静止体の長さを測るのと同じ様にして、その長さを見出すことが出来ます。そこに彼は全く一定の数を得、そして彼がこの棒の長さを測ったと云うことをある権利をもって言明することが出来ます。
しかしながらもし棒と一緒に動いていないで、すべてある基準系に静止しているような観測者のみがあるとしたならば、私達は次の様にすることが出来ます。私達は動いている棒の軌道に沿うて非常にたくさんの時計を配置し、その各に観測者が附き添うているとします。時計は上に与えられた手段に従って光の信号で合わされ、その全体で基準系に属する時間を示すようにします。これらの観測者は K 系に関して棒の前後両端がある一定の与えられた時刻 <math>t</math> に存在する二つの場処を見出します。すなわち棒の前後両端がそこを通過するとき時刻 <math>t</math> を示すような二つの時計を見出すと云っても同じことです。こうして求められた二つの場処(もしくは時計)のお互の距離は基準系 K に対して静止せるある物指を結合線の上に繰り返して列べて測る事が出来ます。この二段の処置の結果を私達は動いている棒の長さとして正当に云いあらわすことが出来るのです。けれどもこの二つの取扱いが必然的に同じ結果に到達するとは限りません。言葉を換えて云えば、一つの物体の幾何学的の容量は、これが見出される基準系の運動状態に必ずしも無関係ではありません。
もし私達がこの二つの任意の仮定をしないならば、私達はもはや次の初等的の問題をも解くことがすぐには出来ないのです。すなわち一つの出来事の坐標 <math>x, y, z,</math> 及び時刻 <math>t</math> が K 系に関して与えられているとき、K 系に対して既知の一様な併移運動にあるような他の系 K' に関する同じ出来事の空間時間坐標 <math>x, y, z, t,</math> を求めると云う事です。つまり従来この問題の簡単な解を得たのは、私達が今任意的と云った仮定をしていたのに依ることが判ります。
どう云う風にして私達は再び運動学を立てなおしたらよいのでしょうか。そこにおのずから次の答が生じます。ちょうど私達に以前痛ましい困難を与えていた事情が私達を踏み歩み得る道に導きます。もちろん今述べた任意的の仮定を取り除いてもっと多くの余地を収得した上です。つまり経験が、私達を強要した二つの外見的には結合し得られないような基礎法則、すなわち相対性原理と光速度一定の原理とがちょうど空間時間転換の問題の一定の解に導くことが判ります。そこで私達は通常の思想と一部分はなはだしく矛盾するような結果に到着します。これに導くところの数学的考察ははなはだ簡単ですが、ここではそれに立ち入りますまい。
<math>x, y, z, t</math> ならびに <math>x', y', z', t'</math> が両基準系 K 及び K' に関する空間及び時間坐標であるならば、基礎とした両原理は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2=c^2 t^2</math>}}
及び
{{equation|<math>x'^2+y'^2+z'^2=c^2 t'^2</math>}}
なる二つの方程式各が他のものを帰結するように変換方程式を作らなくてはならないことを要求します。ここには説明しない理由からして変換方程式は一次的でなければなりませんから、これで変換法則が決定されることが少しく研究すれば判ります。(例えば Jahrb. d. Radioakt. und Elektronik 4. (1907), 418 参照)
むしろ私は、この様にしてその外の仮定なしに全く論理的に進めて達せられる最も主要な帰結に立ち入ることにしましょう。
まず最初は純粋に運動学的のものです。私達は坐標と時間とを一定の方法で物理学的に定義しましたから、空間的ならびに時間的の量の間のどんな関係もある全く一定の物理的内容をもつでありましょう。まず次のことが出ます。もし私達が考察の基礎となした坐標系 K に関して一様に動いているところの一つの固体をもつならば、この物体は、それがこの体系に関して静止の状態でもっているような形に対してその運動方向に一定の割合に縮まって見えます。私達が物体の運動速度を <math>v</math> で、光の速度を <math>c</math> であらわすならば、各の運動方向に測られた長さは、物体の動かない状態で <math>l</math> に等しいものが、運動を共にしない観測者に関しては運動のために
{{equation|<math>l\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}</math>}}
なる大きさに短縮されます。
もし物体が静止状態で球形であるなら、それを一定の方向に動かす場合に、これは扁平な楕円体の形を取ります。もし速度が光速度に達するならば、物体は一平面にひしゃげてしまいます。しかし共に動いている観測者から判断すれば、物体は前と同じくその球形を保っているでしょう。他方でこの物体と共に動いている観測者には運動を共にしないすべての対象は全く同様に相対運動の方向に縮まって見えるのです。この結果は奇妙さを示していますが、しかし運動物体の形と云うものは、実際上述のことによれば、ただ時間決定の助けによって始めて見出されるものであって、はなはだ複雑な意味をもっていますから、それを考慮すれば肯かれるわけです。
この「運動物体の形」なる概念が直接に明らかな内容をもっていると云う感じは、そもそも私達が日常の経験では単に光速度に対し実際上無限に小さいような運動速度のみを見るのに慣れていることを思い合わせると、それから得られるでしょう。
次にこの理論の第二の純粋に運動学的の帰結であって、もっと目立った事柄はこうです。ある基準系 K に対して静止して配置されており、これの時間を指示することの出来る一つの時計が与えられていると考えましょう。そうしますと、もしこの時計が基準系に関して一様な運動におかれるならば、K 系から判断して進みが遅れるようになり、この時計の時間指示が 1 だけ進む間に体系 K の時計は K に関して
{{equation|<math>\frac{1}{\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}}</math>}}
だけの時間を経過するようになると云うことが証明出来ます。つまり動いている時計は、それが K に関して静止の状態になるときよりも遅く進むのです。運動状態における時計の進む速さは、この時計の指針の位置を、K に対して静止しておりかつ K に関しての時間を測るような時計のうちでちょうど今考に取った運動時計がその傍を通り過ぎるようなものの指針位置といつも比較して見出されると考えなければなりません。もし私達が時計を光速度で動かすことが出来たとしたならば――充分に力を加えるなら私達は時計をほとんど光速度で動かすことが出来たでもありましょう――時計の指針は、K から判断して、無限に遅く進むでしょう。
もし次のことが実現されたと考えるなら、事柄は最もおかしくなります。この時計に非常に大きい速度(ほとんど <math>c</math> に等しいような)を与え、これを一様な運動を続けて飛ばせ、それが遠い距離を飛んだ後で反対の方向に衝撃を与えてもと出発した場処へ再び戻るようにします。そうすれば、この時計の指針の位置はその全旅行の間にほとんど変りはしなかったのですが、これに反してその間出発の場処に静止状態に残された全く同じ構造の時計はその指針の位置をすっかり変えてしまっていると云うことになります。これに附言しなけばならないことは、私達がすべての物理的出来事の簡単な一代表として導き入れたこの時計に対して成り立つところのものはまたどんなその外の性質のそれ自身完閉した物理学的体系に対しても成り立つと云うことです。例えば私達がある生物を箱に入れて上に時計のなしたと同様な往復運動をさせますと、この生物は任意に長く旅行した後でどれほども変らずにその最初の場処に戻って来ることが出来たでもありましょう。ところがまるで同じ生物がもとの場処に止っているならば、既に久しい前に新たな子孫に代らせたにちがいありません。運動している生物にはこの旅行の長い時間は、その運動がほとんど光速度で行われたとすれば、ただ一瞬時にすぎないのです。これは経験が私達を強要して私達の基礎におかしめた原理の否定し難い一つの帰結なのです。
ところで物理学に対する相対性理論の意味についてもう一言しよう。この理論の要求する処は、ある任意の速度に対して成立する自然法則の数学的表式は、この法則をあらわす式のなかに転換式によりて新しい空間時間坐標を引き入れてもその形を変えないと云うことです。それによりて可能性の多様さは著しく制限せられます。静止せるもしくは遅く動いている物体に対して法則が知られているなら、それから簡単な転換によりて任意に速く動いている物体に対する法則を導き出す事が出来ます。かようにして例えば速い陰極線に対する運動法則を出すことが出来ます。その場合にニウトンの式は任意に速く動く質点には成り立たないで、これはやや複雑の構造の運動方程式で置き換えられなくてはならないことが判ります。陰極線の屈曲に関してこの法則は全く満足的に経験と一致することが示されました。
相対性理論の物理学的に最も大切な結論のうちで次のことが記されなくてはなりますまい。私達は前に、動いている時計が相対性理論に従えば静止している同じ時計よりも遅く進むことを見ました。私達がこれを懐中時計で実験して確証しようとすることはたぶんいつまでも見込のないことでありましょう。なぜなら私達がかようなものに与え得る速度は光速度に対して無視せられるほど小さいものであるからです。けれども自然は私達に全く時計の性質をもちかつ非常に速く動かされ得るような物を提供します。これはスペクトル線を送り出す原子であって、私達はこれに電気の場によって数千キロメートルの速度を与えることが出来ます。(カナル線)理論によれば、これ等の原子の振動数はその運動によって、ちょうど動いている時計に対して導き出されるのと全く同様の方法で、影響されて見えることが期待せられます。この実験は大きな困難に出遇いはしますが、それでも私達は、この方法で将来の十年間のうちには相対性理論の重要な確証もしくは反駁を得ることを望むことが出来るでしょう。
理論は更に、物体の惰性的質量がそのエネルギー内容に関係すると云う大切な結果に導きます。ただしこれははなはだわずかの程度であって、直接にこれを証明することは全く望みないことです。しかし物体のエネルギーが <math>E</math> だけ増せば、惰性的質量は <math>\frac{E}{c^2}</math> だけ増します。この法則によって質量保存の法則は倒壊されたので、云い換えればエネルギー保存の法則と唯一のものに融合したのです。この結果はかなり著しく響くかもしれませんが、しかし相対性理論なしにもまたある特殊の場合には経験的に知られた事実からして、惰性的質量がエネルギー内容と共に増すことを確実に結論することは出来ます。
もう一言この理論が主として、悼ましくも余りに早く逝いた数学者ミンコウスキーによって得たところのはなはだ興味ある数学的補助について述べましょう。相対性理論の変換方程式は、それが
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2-c^2 t^2</math>}}
なる式を不変量としてもつように作られています。時間 <math>t</math> の代りに虚数的変数 <math>ct\sqrt{-1}=\tau</math>を時間変数として導き入れますと、この不変量は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2+\tau^2</math>}}
なる形を取ります。この際空間的坐標ならびに時間坐標は同じ役目をなします。この空間及び時間坐標の形式的等値性を相対性理論において更に押し進めますと、この理論のはなはだ見易い説明に達し、その応用をより容易くするのです。物理的出来事はある四次元間において云い表わされ、また出来事の空間的関係はこの四次元空間における幾何学的法則としてあらわれます。
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}}
<div class="jisage_10" style="margin-left: 10em"><span class="sho1" style="font-size: small;">(一九一一年一月一六日チューリッヒの自然科学会席上の講義)</span></div>
「相対性理論」と名づけられる理論が倚りかかっている大黒柱はいわゆる相対性原理{{註|[#「相対性原理」は底本では「相対性理論」]}}です。私はまず相対性原理とは何であるかを明らかにしておこうと思います。私たちは二人の物理学者を考えてみましょう。この二人の物理学者はどんな物理器械をも用意しています。そして各々一つの実験室をもっています。一人の物理学者の実験室はどこか普通の場所にあるとし、もう一人の実験室は一定の方向に一様な速さで動く汽車の箱のなかにあるとします。相対性原理は次のことを主張するのです。もしこの二人の物理学者が彼等のすべての器械を用いて、一人は静止せる実験室のなかで、もう一人は汽車のなかで、すべての自然法則を研究するならば、汽車が動揺せずに一様に走る限り、彼等は全く同じ自然法則を見出すでありましょう。幾らか抽象的にこう云うことも出来ます。自然法則は相対性原理によれば基準体系の併移運動に関しません。
私達は今この相対性原理が旧来の力学でどんな役目をもっていたかをみましょう。旧来の力学は第一にガリレイの原理の上に安坐しています。この原理に従えば、ある物体は他の物体の作用を受けない限り、直線的な一様な運動にあります。もしこの法則が上に云うた実験室の一方に対して成り立つ{{註|[#「成り立つ」は底本では「成リ立つ」]}}ならば、それはまた第二に対しても成り立ちます。私達はそのことを直接に直観から取り出すことが出来ます。私達はそれをしかしまたニウトン力学の方程式からも引き出すことが出来るのです。私達はその方程式をもとの基準体系に対して一様に動いているものへ転換させればよいのです。
私はここで実験室と云っていますが、数理的物理学では事柄を一定の実験室に関係させる代りに坐標系に関係させるのが普通です。このようにある何かに関係させるという場合に本質的なのは次の事柄です。私達が一点の位置について何か云おうとするときには、いつも私達はこの点とある他の物体系の一点との合致を示し与えます。もし私が例えば自分をこの質点であると取り、そうして、私はこの部屋のなかのこの場所に居ると云いますなら、私は自分を空間的の関係でこの部屋のある点と合致させたのです。あるいは私はこの合致を云いあらわしたのです。数理的物理学ではこれを云い表わすのに、三つの数、すなわちいわゆる坐標によりて、場所を示そうとした点が坐標系と称えられる剛体体系のどの点と合致するかを云い表わします。
これは相対性原理について最も一般的のものであったのでしょう。もし私達が、十八世紀もしくは十九世紀前半の物理学者に、この原理を疑うかどうかを尋ねたとしましたなら、彼はきっとこの質問を断然否定したに違いありません。その当時は各の自然現象をすべて旧来の力学の方則に帰せしめられることが確かであるとしていましたから、それを疑う理由をちっとも持っていなかったのです。私はここで、物理学者が経験によってどうしてこの原理に矛盾する物理学的論理を立てるようになったかを説明しようと思います。そのために私達は光学及び電気力学の発展を、それらが前世紀において、漸次是認せられた限りにおいて、相対性原理の立場から簡単に考察してみなければなりません。
光はちょうど音波のように干渉や𢌞折を示します。ですから私達は光を一の波動としてもしくは一般にある媒質の週期的に変化する状態として見做さなくてはならないように感じさせられます。この媒質をエーテルと名づけました。かような媒質の存在は近頃までは物理学者に絶対に確かであるように見えました。次に述べる理論はエーテル仮説とは相容れないものですが、しかししばらく私達はこれに依ることにしましょう。私達は今この媒質に関してどんな考え方が発展されて来たか、またこのエーテルを仮定する物理学的理論を導き入れたためにどんな問題が起ったかをみようと思います。私達は既に、光がこの媒質の振動から成ると考えたこと、すなわちこの媒質は光及び熱の振動の伝播を引き受けていると考えた事を述べました。{{傍点|静止}}物体の光学的現象だけを取り扱っている間は、光がこの媒質の運動を起すと云う外に、それの別の運動を問題にするには及ばなかったのでした。単にこの媒質はそこで見ている物体と同様に――光が起すはずであった振動を取り除けば――静止の状態にあると仮定されました。
{{傍点|運動}}物体の光学的現象、並に――それと関聯して――運動物体の電磁気的性質を考察するようになったときに、私達はその観察する物理学的体系のなかで、物体に種々の速度を与えたならばエーテルはどうなるかと云う問題に向わなければなりませんでした。エーテルは物体と一緒に動くのでしょうか。すなわち各の場所でエーテルはそこにある物質と同じ様に動くでしょうか。またはそうではないのでしょうか。最も簡単な仮定はエーテルがどこでも物質と全く同じ様に動くと云うことです。第二の可能な仮定は、これもやはりかなりな簡単さを示すものですが、こうです。すなわちエーテルは物体の運動に全然与からないと云うのです。それからまた中間の場合も可能でありましょう。この中間の場合と云うのは、エーテルがある度まで物質と無関係に空間内に動くのです。私達は今、この問題の解答を得るためにどう云うことが試みられたかをみようと思います。最初に得られた重要な説明は仏国の物理学者フィゾーの行った大切の意味のある実験から来ています。この実験は次の問題から起されました。
[[File:Fig50328 01.png|thumb|第一図]]
図に示した管はその前後を硝子板で閉じてあり、両端の接続管から管を通じて軸の方向に液体を流すことが出来るようにしてあります。管を流れる液体の速度はやはり軸の方向に管を通る光線の伝播速度に、どう影響するでしょうか。エーテルが管を流れる物質と一緒に動くことが本当であるなら、次のように考えられます。静止した水のなかで光の進む速さが <math>V</math> であるとします。つまり <math>V</math> は水に対する光の速度であるとし、また <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}管に対する水の速度であるとしますと、私達はこう云わなくてはなりますまい。水に対する光の速度は、もしエーテルが水に固着しているなら水が動いていてもまたは動かずにいても、それには関せずにいつも同じであります。それですから管に対する光の伝播速度は液体が動いている場合には、これが静止している場合よりも、<math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math>だけ」]}}大きいと予期されます。フィゾーの実験では、二つの干渉し得る光線束が上述のように管を通りました。液体の運動速度が干渉の縞の処置に及ぼす影響からして、水の運動速度 <math>v</math> が{{註|[#「<math>v</math> が」は底本では「<math>V</math> が」]}}静止管に対する光の伝播速度にどれほどな影響を及ぼしたかを計算することが出来ました。フィゾーは、管に対する光速が液体の運動のために <math>v</math> だけ{{註|[#「<math>v</math> だけ」は底本では「<math>V</math> だけ」]}}増されずに、かえってただその分数(<math>n</math> を液体の屈折率としますと <math>v(1-\frac{1}{n})</math> )だけしか増さないことを見出しました。この屈折率がほとんど 1 に等しく、すなわち光が液体のなかでほとんど真空におけると同じ速さで進むとしますと、液体の運動はほとんど影響をもちません。この事から、光が水に対していつも同じ速度で進むと云う考え方は、経験と一致しないと結論しなければなりませんでした。
次に簡単な仮説は、エーテルが物質の運動に少しも与からないと云うことでした。この仮説に基づいては、光学的現象が物質の運動によってどう影響されるかを、そう簡単に導き出すわけにはゆきません。しかしローレンツは一八九〇年代の中頃に、全く動かないエーテルの仮定に基づく一つの理論を立てることに成功しました。彼の理論は運動体の光学及び電気学のほとんどすべての知られた現象を、その中にまた今述べたフィゾーの実験をも含めて、全く正しく与えます。私がすぐここで注意したいのは、ローレンツのと根本的に異った理論で、しかも簡単な判り易い仮定に基づき、そして同じことを為し遂げるようなものは、決して立てられなかったと云うことです。それですから、この範囲では静止エーテルの理論を、経験の全部と一致する唯一のものとして承け容れなければならなかったのでした。
私達はこの静止エーテルの理論を相対性原理の立場から観察しましょう。外力を受けない質点がある体系に関して一様に動いているならば、そう云うすべての体系を私達は非加速的のものとして云い表わします。そうしますと、相対性原理はこう主張するのです。自然法則はすべての非加速的体系に関しては同一であると、静止エーテルに関するローレンツの根本仮説は他方に、あらゆる可能な非加速的運動体系のうちで、一定の運動状態のもの、すなわちこの光の媒質に対して静止せる体系を特別に徴しづけます。それですから、たとえこの考えに従っても、哲学上の意味でのある絶対運動が存在するとは云うことは出来ませんけれども、――なぜならそれは全然見限られたことで、私達はただ物体の相対的な位置変化を考えることが出来るだけですけれども、――しかし私達が今一つの運動状態、すなわちエーテルに対する静止を特別に扱ったと云うことで、物理学的の意味で一つの絶対運動が形づくられます。私達はエーテルに関して静止する各の物体をどうにか絶対静止のものと云うことが出来ます。エーテルに対して静止せる基準系はあらゆるその他の加速しない基準系に対して特別のものとせられます。この意味でローレンツの静止エーテルの根本観念は相対性原理に適いません。静止エーテルの根本観念は次の一般的考察に導きます。一つの基準系 K がエーテルに対して静止しており、もう一つの他の基準系 K' はエーテルに対して一様に動いているとします。エーテルに関する K' の相対運動は K' に対して成り立つところの自然法則にある影響を及ぼすと云うことが期待せられるわけです。つまり K' に関する自然法則は K' のエーテル内における運動のために K に関する法則とは異っている事が期待せられるのでした。その上にまた地球は私達の実験室と共に一年全体の間この光の媒質に対して静止していることは出来ないので、それはすなわち K' なる基準系の役目をするはずであると云わなければなりませんでした。従ってこの運動の影響が私達の実験室における実験にあらわれるような何等かの現象が見出されることを仮定しなければならないのでした。私達の物理的空間は、これを地球上に在るとする限り、この相対運動のために方向によって異った性質をもつと信ずべきはずでした。けれども何等この様な事を実証することはどんな場合にも決して成功しませんでした。
ところでこのエーテルに対してはおもしろく思われませんでした。フィゾーの実験はエーテルが物質と一緒に動かないことを云いあらわします。すなわち光の媒質の物質に対する運動があるわけです。けれども、この相対運動を確立しようとするすべての実験は否定的の結果を与えました。つまりそこにはお互に矛盾する様に見える二つの結果があります。そしてこの不愉快な乖離を解放することが出来なかったことは、物理学者にとりて非常に痛ましい事でした。私達は、どんなにしても取り除けを見出すことの出来なかった相対性原理を、どうにかしてローレンツの理論と一致させることは出来ないであろうかと云うことを考究しなければなりませんでした。今それへ入り込む前に私たちは静止エーテルのローレンツ理論から最も本質的な部分を抽き出してみましょう。静止エーテルが存在すると云うことは物理学的に何を意味しているでしょうか。この仮説の最も大切な内容は次のように云いあらわすことが出来ます。それはここに一つの基準体系(ローレンツの理論で「エーテルに対して静止せる体系」と名づけられる)が存在していて、それに関しては真空中の各の光線が普遍的な速度 <math>c</math> をもって伝播すると云うことです。そしてこれは光を発する物体が静止していてもまたは動いていても、それに無関係に成立つと云う事です。この主張を私達は光速一定の原理と名づけましょう。そこで上に述べた問題はまた次の様な形式にすることも出来ます。取り除けなしに満足されるように見える相対性原理をこの光速一定の原理と結合させることは出来ないでありましょうか。次のように、ちょっと考えると、まずこれが否定されます。基準体系 K に対して各光線が速度 <math>c</math> で進むとしますと、これは K に対して運動している基準系 K' に対してもはや成り立ちません。すなわち K' が光線の進む方向に速度 <math>v</math> で{{註|[#「速度 <math>v</math> で」は底本では「速度 <math>V</math>で」]}}動いているならば普通の見方では K' に対する光線の速度は <math>c-v</math> に等しいとおかれるはずです。つまり K' に対する光の伝播の法則は K に対する速度と異なることになり、相対性原理が損われます。これは恐ろしいディレンマです。ところがよく考えると自然はこのディレンマには全く負い目をもってはいないので、むしろこのディレンマは私達がその考察のなかに、従ってまた私の今述べたもののなかにも、黙って勝手に仮定をつくっていたことから起るのです。私達は事がらを矛盾なしにかつ簡単に考えるようにするために、それを取り去ってしまわなくてはなりません。
私はこの勝手な仮定、すなわち私達の物理学的思考の根本に横わっているものを説明してみようと思います。この勝手な仮定のうちの第一のかつ最も大切なものは時間概念に関するものであって、私はどこにこの勝手さが存立するかを述べてみましょう。それをうまく行るために、私はまず空間について論じ、その上で時間をこれと平行に置こうと思います。もし私達が空間における一点の位置、すなわちある坐標系に対する一点の位置を云い表わそうと思うならば私達はその直交坐標 <math>x, y, z</math> を与えます。この坐標の意味は次の如くです。よく知られた規則に従って坐標面に垂直線を立て、一つの与えられた単位物指がこの垂直線上に幾囘運ばれたるかをごらんなさい。この囘数を数えた結果が坐標です。坐標で空間を指定するのはそれゆえ一定の操作の結果です。私が指示する坐標は従って全く一定の物理的意味をもっています。私達は一定の与えられた点が実際に指示された坐標をもつかどうかを試験することが出来ます。
この関係は時間ではどうなるでしょうか。そこでは私達はそれほどうまく行かないのを見るでしょう。従来私達はいつもこう云うて満足していました。時間は出来事の独立変数であると、かような定義では誰れもそれに基づいて事実上存在する出来事の時間値を測ることは出来ません。ですから私達は、その定義に基づいて時間測定が可能であるように、時間を定義するように行ってみなければなりません。私達はある坐標系 K の原点に一つの時計(例えばゼンマイ時計)をおくとしましょう。この時計で直接にこの点ならびにそのごく近所に起っている出来事を時間的に値いづけられることが出来ます。K の他の点で起る出来事はしかしこの時計で直接に時を定めるわけにはゆきません。K の原点には時計の傍にいる観測者が光線に依ってその出来事の報知を受けとる時刻をしるすとしますと、この時刻は出来事自身の時ではなくて、出来事から時計に達するまでの光線の伝播時間だけ出来事の時刻から遅れて{{註|[#「遅れて」は底本では「運れて」]}}いるのです。もし私達が K 系に対するその方向の光の伝播速度を知っているとすれば、出来事の時刻はその時計で定めることが出来るのでしょう。けれども光の伝播速度の測定は私達の取り扱っている時間決定の問題がすでに解かれたときにのみ可能なのです。すなわち一定の方向における光の速度を測るためには、光線の伝わる二点 A 及び B の間の距離と、その外 A において光を送り出した時刻ならびに B において光の到着した時刻とを測らなければならなかったでしょう。つまり諸処での時間測定が必要であるわけですが、それは私達の求める時間の定義が既に与えられた時にのみ実行し得るのでしょう。しかし一つの速度特に光の速度を測ることが、任意の指定なしには原理的に不可能であると云うならば、私達は光の伝播速度に関してなお任意な指定をなしてもよいのです。そこで私達は真空中の光の伝播速度は一点 A から一点 B へゆく途で B から A への光線の伝播速度と同じ大きさであると定めます。この指定のお蔭で私達は K 系に対し種々の点に静止して列べられた同じ性質の時計を実際に合わせることが出来るようになります。例えば二点 A と B とにある時計を次のことが成り立つように合わせましょう。A において時刻 <math>t</math>(A の時計で測って)に一つの光線を B に向けて送り、それが時刻 <math>t+a</math>(B の時計で計って)に B に到着するとしますと、逆に時刻 <math>t</math>(B の時計で測って)B から A の方へ送られた光線は時刻 <math>t+a</math>(A の時計で測って)に A に来なければなりません。これが K 系に配置されたすべての時計を合わせるための規定なのです。もし私達がこの規定を満足させたなら、それで私達は実測物理学者の立場から一つの時間決定を求め得たのです。ある出来事の時刻はすなわちかように与えられた規定に従って合わされた時計のうちで、その出来事の場処にあるものの示す時に等しいのです。
ところで、私達はそれによって特に目立った何ものを得たのであろうかと云う疑問が起るでしょう。なぜなればそのすべては自明の事がらのように聞えるからです。目立った事柄と云うのは、全く決った意味の時間指示に達するためのこの規定が全く一定の坐標系 K に対して静止する時の一体系に関係していると云うことにあります。私達は単に一つの時を得たのではなくて、坐標系 K に関した時、すなわち K に対して静止して列べられた時計を含めて坐標系 K に関した時を得たのです。私達はもちろん、K に対して一様に動いているような第二坐標系 K' を{{註|[#「第二坐標系 K' を」は底本では「第二坐標系 K を」]}}もつならば、全く同じことをこれに関して行うことが出来ます。この坐標系 K' に対しても一つの時計体系をその空間に配置し、それらをすべて K' と一緒に動いているようにしますと、私達はこの K' に関して静止している時計を全く上に与えた規定に従って合わせることが出来ます。そうした上で私達は K' 系に関してもまた一つの時を得ます。
ところがアプリオリにはまるでこう云われません。もし二つの出来事が基準系 K ――私はそれで時計を含めた坐標系を意味させます――に関して同時刻であるなら、同じ出来事は基準系 K' に関してもまた同時刻的であると。つまり時間は一の絶対な、すなわち基準系の運動状態に無関係な意味をもっているとは云われません。それは私達の運動学に含まれていた一つの任意さなのです。
ここにやはり従来の運動学において任意的であった第二の事情があらわれます。私達は一つの物体の形、例えば一つの棒の長さについて話しますが、その長さが幾らであるかを、精密に知っていると信じています。そしてそれが、私達の現象をしるしている基準系に関して運動している場合にもまたそうです。しかし少しく考えて見ますと、その事は私達がこれを本能的に想っているほど、決してそんなに簡単な概念ではないことが判ります。一つの棒がその長い方向に基準系に対して動いているとしましょう。この棒はどれだけ長いかと尋ねてみましょう。この問は{{註|[#「この問は」は底本では「この間は」]}}ただ次の意をもち得るだけです。すなわち棒がどれほど長いかを知るために私達はどんな実験を行わなければならないかと云うことです。私達はある物指をもった一人の人間を取りて、これを衝き動かし、棒と同じ速度をもたせます。そうすればこの人は棒に対して静止していますから、彼の物指を繰返して棒と並べて、ちょうど実際に静止体の長さを測るのと同じ様にして、その長さを見出すことが出来ます。そこに彼は全く一定の数を得、そして彼がこの棒の長さを測ったと云うことをある権利をもって言明することが出来ます。
しかしながらもし棒と一緒に動いていないで、すべてある基準系に静止しているような観測者のみがあるとしたならば、私達は次の様にすることが出来ます。私達は動いている棒の軌道に沿うて非常にたくさんの時計を配置し、その各に観測者が附き添うているとします。時計は上に与えられた手段に従って光の信号で合わされ、その全体で基準系に属する時間を示すようにします。これらの観測者は K 系に関して棒の前後両端がある一定の与えられた時刻 <math>t</math> に存在する二つの場処を見出します。すなわち棒の前後両端がそこを通過するとき時刻 <math>t</math> を示すような二つの時計を見出すと云っても同じことです。こうして求められた二つの場処(もしくは時計)のお互の距離は基準系 K に対して静止せるある物指を結合線の上に繰り返して列べて測る事が出来ます。この二段の処置の結果を私達は動いている棒の長さとして正当に云いあらわすことが出来るのです。けれどもこの二つの取扱いが必然的に同じ結果に到達するとは限りません。言葉を換えて云えば、一つの物体の幾何学的の容量は、これが見出される基準系の運動状態に必ずしも無関係ではありません。
もし私達がこの二つの任意の仮定をしないならば、私達はもはや次の初等的の問題をも解くことがすぐには出来ないのです。すなわち一つの出来事の坐標 <math>x, y, z,</math> 及び時刻 <math>t</math> が K 系に関して与えられているとき、K 系に対して既知の一様な併移運動にあるような他の系 K' に関する同じ出来事の空間時間坐標 <math>x, y, z, t,</math> を求めると云う事です。つまり従来この問題の簡単な解を得たのは、私達が今任意的と云った仮定をしていたのに依ることが判ります。
どう云う風にして私達は再び運動学を立てなおしたらよいのでしょうか。そこにおのずから次の答が生じます。ちょうど私達に以前痛ましい困難を与えていた事情が私達を踏み歩み得る道に導きます。もちろん今述べた任意的の仮定を取り除いてもっと多くの余地を収得した上です。つまり経験が、私達を強要した二つの外見的には結合し得られないような基礎法則、すなわち相対性原理と光速度一定の原理とがちょうど空間時間転換の問題の一定の解に導くことが判ります。そこで私達は通常の思想と一部分はなはだしく矛盾するような結果に到着します。これに導くところの数学的考察ははなはだ簡単ですが、ここではそれに立ち入りますまい。
<math>x, y, z, t</math> ならびに <math>x', y', z', t'</math> が両基準系 K 及び K' に関する空間及び時間坐標であるならば、基礎とした両原理は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2=c^2 t^2</math>}}
及び
{{equation|<math>x'^2+y'^2+z'^2=c^2 t'^2</math>}}
なる二つの方程式各が他のものを帰結するように変換方程式を作らなくてはならないことを要求します。ここには説明しない理由からして変換方程式は一次的でなければなりませんから、これで変換法則が決定されることが少しく研究すれば判ります。(例えば Jahrb. d. Radioakt. und Elektronik 4. (1907), 418 参照)
むしろ私は、この様にしてその外の仮定なしに全く論理的に進めて達せられる最も主要な帰結に立ち入ることにしましょう。
まず最初は純粋に運動学的のものです。私達は坐標と時間とを一定の方法で物理学的に定義しましたから、空間的ならびに時間的の量の間のどんな関係もある全く一定の物理的内容をもつでありましょう。まず次のことが出ます。もし私達が考察の基礎となした坐標系 K に関して一様に動いているところの一つの固体をもつならば、この物体は、それがこの体系に関して静止の状態でもっているような形に対してその運動方向に一定の割合に縮まって見えます。私達が物体の運動速度を <math>v</math> で、光の速度を <math>c</math> であらわすならば、各の運動方向に測られた長さは、物体の動かない状態で <math>l</math> に等しいものが、運動を共にしない観測者に関しては運動のために
{{equation|<math>l\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}</math>}}
なる大きさに短縮されます。
もし物体が静止状態で球形であるなら、それを一定の方向に動かす場合に、これは扁平な楕円体の形を取ります。もし速度が光速度に達するならば、物体は一平面にひしゃげてしまいます。しかし共に動いている観測者から判断すれば、物体は前と同じくその球形を保っているでしょう。他方でこの物体と共に動いている観測者には運動を共にしないすべての対象は全く同様に相対運動の方向に縮まって見えるのです。この結果は奇妙さを示していますが、しかし運動物体の形と云うものは、実際上述のことによれば、ただ時間決定の助けによって始めて見出されるものであって、はなはだ複雑な意味をもっていますから、それを考慮すれば肯かれるわけです。
この「運動物体の形」なる概念が直接に明らかな内容をもっていると云う感じは、そもそも私達が日常の経験では単に光速度に対し実際上無限に小さいような運動速度のみを見るのに慣れていることを思い合わせると、それから得られるでしょう。
次にこの理論の第二の純粋に運動学的の帰結であって、もっと目立った事柄はこうです。ある基準系 K に対して静止して配置されており、これの時間を指示することの出来る一つの時計が与えられていると考えましょう。そうしますと、もしこの時計が基準系に関して一様な運動におかれるならば、K 系から判断して進みが遅れるようになり、この時計の時間指示が 1 だけ進む間に体系 K の時計は K に関して
{{equation|<math>\frac{1}{\sqrt{1-\frac{v^2}{c^2}}}</math>}}
だけの時間を経過するようになると云うことが証明出来ます。つまり動いている時計は、それが K に関して静止の状態になるときよりも遅く進むのです。運動状態における時計の進む速さは、この時計の指針の位置を、K に対して静止しておりかつ K に関しての時間を測るような時計のうちでちょうど今考に取った運動時計がその傍を通り過ぎるようなものの指針位置といつも比較して見出されると考えなければなりません。もし私達が時計を光速度で動かすことが出来たとしたならば――充分に力を加えるなら私達は時計をほとんど光速度で動かすことが出来たでもありましょう――時計の指針は、K から判断して、無限に遅く進むでしょう。
もし次のことが実現されたと考えるなら、事柄は最もおかしくなります。この時計に非常に大きい速度(ほとんど <math>c</math> に等しいような)を与え、これを一様な運動を続けて飛ばせ、それが遠い距離を飛んだ後で反対の方向に衝撃を与えてもと出発した場処へ再び戻るようにします。そうすれば、この時計の指針の位置はその全旅行の間にほとんど変りはしなかったのですが、これに反してその間出発の場処に静止状態に残された全く同じ構造の時計はその指針の位置をすっかり変えてしまっていると云うことになります。これに附言しなけばならないことは、私達がすべての物理的出来事の簡単な一代表として導き入れたこの時計に対して成り立つところのものはまたどんなその外の性質のそれ自身完閉した物理学的体系に対しても成り立つと云うことです。例えば私達がある生物を箱に入れて上に時計のなしたと同様な往復運動をさせますと、この生物は任意に長く旅行した後でどれほども変らずにその最初の場処に戻って来ることが出来たでもありましょう。ところがまるで同じ生物がもとの場処に止っているならば、既に久しい前に新たな子孫に代らせたにちがいありません。運動している生物にはこの旅行の長い時間は、その運動がほとんど光速度で行われたとすれば、ただ一瞬時にすぎないのです。これは経験が私達を強要して私達の基礎におかしめた原理の否定し難い一つの帰結なのです。
ところで物理学に対する相対性理論の意味についてもう一言しよう。この理論の要求する処は、ある任意の速度に対して成立する自然法則の数学的表式は、この法則をあらわす式のなかに転換式によりて新しい空間時間坐標を引き入れてもその形を変えないと云うことです。それによりて可能性の多様さは著しく制限せられます。静止せるもしくは遅く動いている物体に対して法則が知られているなら、それから簡単な転換によりて任意に速く動いている物体に対する法則を導き出す事が出来ます。かようにして例えば速い陰極線に対する運動法則を出すことが出来ます。その場合にニウトンの式は任意に速く動く質点には成り立たないで、これはやや複雑の構造の運動方程式で置き換えられなくてはならないことが判ります。陰極線の屈曲に関してこの法則は全く満足的に経験と一致することが示されました。
相対性理論の物理学的に最も大切な結論のうちで次のことが記されなくてはなりますまい。私達は前に、動いている時計が相対性理論に従えば静止している同じ時計よりも遅く進むことを見ました。私達がこれを懐中時計で実験して確証しようとすることはたぶんいつまでも見込のないことでありましょう。なぜなら私達がかようなものに与え得る速度は光速度に対して無視せられるほど小さいものであるからです。けれども自然は私達に全く時計の性質をもちかつ非常に速く動かされ得るような物を提供します。これはスペクトル線を送り出す原子であって、私達はこれに電気の場によって数千キロメートルの速度を与えることが出来ます。(カナル線)理論によれば、これ等の原子の振動数はその運動によって、ちょうど動いている時計に対して導き出されるのと全く同様の方法で、影響されて見えることが期待せられます。この実験は大きな困難に出遇いはしますが、それでも私達は、この方法で将来の十年間のうちには相対性理論の重要な確証もしくは反駁を得ることを望むことが出来るでしょう。
理論は更に、物体の惰性的質量がそのエネルギー内容に関係すると云う大切な結果に導きます。ただしこれははなはだわずかの程度であって、直接にこれを証明することは全く望みないことです。しかし物体のエネルギーが <math>E</math> だけ増せば、惰性的質量は <math>\frac{E}{c^2}</math> だけ増します。この法則によって質量保存の法則は倒壊されたので、云い換えればエネルギー保存の法則と唯一のものに融合したのです。この結果はかなり著しく響くかもしれませんが、しかし相対性理論なしにもまたある特殊の場合には経験的に知られた事実からして、惰性的質量がエネルギー内容と共に増すことを確実に結論することは出来ます。
もう一言この理論が主として、悼ましくも余りに早く逝いた数学者ミンコウスキーによって得たところのはなはだ興味ある数学的補助について述べましょう。相対性理論の変換方程式は、それが
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2-c^2 t^2</math>}}
なる式を不変量としてもつように作られています。時間 <math>t</math> の代りに虚数的変数 <math>ct\sqrt{-1}=\tau</math>を時間変数として導き入れますと、この不変量は
{{equation|<math>x^2+y^2+z^2+\tau^2</math>}}
なる形を取ります。この際空間的坐標ならびに時間坐標は同じ役目をなします。この空間及び時間坐標の形式的等値性を相対性理論において更に押し進めますと、この理論のはなはだ見易い説明に達し、その応用をより容易くするのです。物理的出来事はある四次元間において云い表わされ、また出来事の空間的関係はこの四次元空間における幾何学的法則としてあらわれます。
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はしご (ヨハネ・クリマコス)/第26章
0
58339
246770
2026-10-20T12:51:55Z
村田ラジオ
14210
オプティナ・プスティン兄弟団訳、ヨハネ・クリマコス "Лествица" の第26章を翻訳。
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wikitext
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*底本: [https://azbyka.ru/otechnik/Ioann_Lestvichnik/lestvitsa-ili-skrizhali-dukhovnye/ Лествица はしご] ヨハネ・クリマコス(ロシア語)
*ウィキソースによる日本語訳
{{DEFAULTSORT:はしこ よはね くりまこす26}}
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'''はしご (ヨハネ・クリマコス)'''
== 第26章 ==
<< 思考、情欲、徳の識別について >>
1. 初心者の識別力とは、自分自身の霊的な構成を真に理解することです。中級者においては、真に善いものと自然なもの、そして善に反するものとを確実に区別する知的な感覚です。完全者においては、識別力とは、神の啓示によって与えられた、彼らの内にある霊的な理解であり、その光によって、他者の魂の暗闇さえも照らすことができます。
2. あるいは、より一般的に言えば、理性とは、あらゆる時、あらゆる場所、あらゆる事物において、神の意志を正確かつ的確に理解することであり、またそのように理解することである。これは、心、体、そして唇が清らかな者のみに見られるものである。
3. 敬虔に最初の 3 つの主要な情欲を克服した者は、残りの 5 つの情欲も克服しているが、最初の情欲を克服することを怠った者は、それらのどれも克服できない。
4. 理性は汚れのない良心であり、純粋な感情である。
5. 誰も、自分の愚かさゆえに、修道生活において自然を超越した出来事を見たり聞いたりして、不信仰に陥ってはならない。なぜなら、自然を超越した神がその存在を現すところには、自然を超越した多くのことが起こるからである。
6. 悪魔との戦いはすべて、主に三つの原因から生じる。それは、我々の怠慢、傲慢、あるいは悪魔の嫉妬のいずれかである。最初の原因は呪われ、二番目の原因は極めて呪われ、三番目の原因は三倍の祝福を受ける。
7. 良心をあらゆる場合の目標と規範とし、風向きをわきまえた上で、その方向に従って帆を広げよう。
8. 神を喜ばせようと努めるあらゆる営みにおいて、悪霊たちは我々のために三つの落とし穴を掘る。第一に、彼らは我々が良い行いをすることを妨げようと画策する。第二に、その最初の試みが失敗に終わると、彼らは、我々が行ったことが神の御心にかなったものにならないように仕向けようとする。そして、もし彼ら「盗人」たちがこの企てにも失敗すれば、今度は巧妙なやり方で魂に近づき、「自分は完全に神を喜ばせる生き方をしている」と思わせて、我々をおだてるのである。第一の誘惑には勤勉さと絶えざる死の記憶をもって対抗し、第二の誘惑には従順さと謙遜(自己を低くすること)をもって、そして第三の誘惑には絶えず自分を省みて咎めること(自己批判)をもって対抗する。この戦いは、我々が神の「聖所」に入るまで、すなわち神の火が我々の内に宿るまで続く(詩篇73篇17節)。その時、悪しき習慣の強制力はもはや我々を支配しなくなる。なぜなら、「我々の神は焼き尽くす火である」からだ(ヘブライ人への手紙12章29節)。この火は、情欲のあらゆる火種や衝動、あらゆる悪しき習慣、そして心の硬化や霊的な暗闇のすべてを――それが内的なものであれ外的なものであれ、目に見える形であれ心の中に抱かれたものであれ――焼き尽くしてしまうのである。
9. 一方、悪魔たちは、私たちが今述べたことと正反対のことをするのが常です。彼らが魂を支配し、心の光を暗くすると、私たちのような哀れな者には、もはや冷静な注意も、識別力も、意識も、恥の意識もなく、その代わりに不注意、無感覚、識別力の欠如、そして心の盲目が現れるのです。
10. 今述べたことは、淫行から正気に戻り、大胆さを抑え、恥知らずから慎み深くなった人々にとっては非常に明白です。彼らは正気に戻り、盲目から、あるいはもっと正確に言えば、害から解放された後、盲目であった間に言ったり行ったりしたことを、心の中で恥じるのです。
11. 私たちの魂の昼がまず薄れて暗くならなければ、目に見えない泥棒たちは盗んだり、殺したり、破壊したりはしないでしょう。魂を奪うとは、良いことを良いことではないと考えることです。奪うとは、霊的な富を気づかぬうちに奪うことであり、魂を知らないうちに囚われの身にすることです。魂を殺すとは、不道徳な行いに陥ることで言葉の心を滅ぼすことであり、魂を滅ぼすとは、悪事を働いた後に絶望に陥ることです。
12. 自分の弱さを理由に福音の戒めを守れなかったことを正当化する人は誰もいません。戒めが要求する以上のことをした魂もあるからです。主の命令を受けていないにもかかわらず、自分よりも隣人を愛し、隣人のために命を捨てた人が、このことの真実をあなた方に証明してくれるでしょう(ヨハネ15章13節)。その時、私たちは彼の言葉の意味を理解しました。「わたしは支配する」。彼は友のために命を捨て、確かに支配したのです。
13. 謙遜な心を持つ情熱的な人々は、勇気を持ちなさい。彼らはあらゆる種類の落とし穴に落ち、あらゆる種類の罠にかかり、あらゆる種類の苦難に苦しめられてきましたが、回復すると、すべての人にとって光明となり、医者となり、導き手となり、教師となり、それぞれの苦難の本質と性質を明らかにし、自らの経験によって、陥りそうな人々を救うのです。
14. もし、以前に身についた習慣に苦しめられている人が、簡単な言葉で他人に教えることができるなら、教えさせなさい。ただし、支配してはならない。いつか、自分の言葉を恥じながらも、徳を実践し始めるかもしれない。こうして、私が泥沼に陥った人々に起こったのを見たように、彼らにも起こるだろう。泥沼の不純さを経験した彼らは、通りすがりの人々に、どのように泥沼に陥ったかを語った。これは、彼らも同じ道を辿って泥沼に沈まないようにするためであった。そして、他の人々の救いのために、全能の神は彼らをも罪の泥沼から救い出した。もし情欲に苦しむ人々が、自ら進んで快楽に身を委ねるなら、沈黙によって教えを実践しなさい。聖書にはこうある。「イエスは行いと教えを始められた」(使徒行伝1章1節)。
15. 実に獰猛で不屈の我々謙虚な僧侶は、多くの風と岩、渦潮、盗賊、竜巻と浅瀬、怪物と猛烈な波に満ちた海を渡る。魂の中の岩は、激しく突然の怒りである。渦潮は絶望であり、心を包み込み、絶望の深淵へと引きずり込む。浅瀬は無知であり、善の仮面の下に悪を宿している。怪物は、この粗野で獰猛な肉体の情欲である。盗賊は虚栄心の最も獰猛な僕であり、我々の重荷と徳の労苦を盗む。波は、満腹で膨れ上がった傲慢な腹であり、その欲望によって我々を獣の餌食にする。そして竜巻は天から投げ落とされた傲慢であり、我々を(天に)高め、深淵へと引きずり下ろす。
16. 学問を修める者は、初心者にはどのような教えがふさわしく、中級者には何が、そして指導者自身には何が適しているのかを心得ている。私たちは、長い間学んできたにもかかわらず、いまだに初歩的な原則の段階にとどまってはいないだろうか。年老いた者が子供の学校に通っているのを見れば、誰もがそれを恥ずべきこととみなすだろう。誰にとっても優れた「アルファベット(基本)」とは、次のようなものである。すなわち、従順、断食、粗末な衣をまとうこと、灰をかぶること、涙、告白、沈黙、謙遜、徹夜の祈り、勇気、寒さに耐えること、労働、苦難、自らを低くすること、悔い改め、恨みを抱かないこと、兄弟愛、柔和、単純で疑うことのない信仰、世俗的な事柄からの離脱、肉親に対する非難されるべきことのない「憎しみ」(執着を断つという意味での)、公平さ、単純さと純真さ、そして自ら進んで選ぶ厳格な生活である。
17. 進歩している人々に現れる徴(しるし)や兆候は、次のようなものである。虚栄心がないこと、怒りから自由であること、揺るぎない希望、沈黙、識別力、最後の審判を鮮明に心に留めていること、慈悲、歓待の心、適切な忠告、情念に乱されない祈り、そして金銭への執着から自由であること。
18. 肉体にあるままで敬虔の完成に達した魂と体にとっての基準、証し、そして法とは、次のようなものである。何ものにも囚われることのない心、完全な愛、謙遜の泉、神に捉えられた精神、キリストの内に宿ること、絶え間ない光と祈りの霊、豊かな神の照らし、死への憧れ、この儚い生への嫌悪、肉体からの離脱。また、全世界のために執り成しを行い――いわば神を憐れみへと動かすような――存在であり、天使たちの同僚、理解の深淵、神秘の住まい、言い表しがたい啓示の宝庫、人々の救い手、悪魔にとっての恐怖、情欲の主、肉体の支配者、自然を統御する者、罪とは無縁の者、不動心(アパテイア)の宿る場所。そして、主の助けによって、主ご自身に倣う者である。
19. 私たちの体が弱っている時は、少なからず注意が必要です。なぜなら、悪魔たちは私たちが地面に倒れ、疲労のためにもはや体力で身を守ることができないのを見て、特に残酷な攻撃を仕掛けてくるからです。
20. 病に苦しむ時、世に住む者は怒りの悪魔に襲われ、時には冒涜の霊にも襲われる。世の外に住む者は、あらゆる必需品に恵まれていれば、暴食と淫行の悪魔に苦しめられる。しかし、慰めから遠く離れた禁欲的な場所に住む者は、落胆と不遜の悪魔に誘惑される。
21. 私は、時として淫行する狼が病人の病状を悪化させ、病状そのものに動きや分泌物を引き起こすことに気づいた。激しい苦しみの中で、肉体が狂乱し、狂乱しているのを見るのは恐ろしいことだった。そして私は振り返って、ベッドに横たわっている人々を見た。彼らは苦しみの中でも、神の恵みの働きや悔恨の念によって慰められていた。そしてこの慰めによって、彼らは苦痛な感覚を遠ざけ、苦しみから解放されることを決して望まないような精神状態にあった。そして私は再び振り返って、ひどく苦しんでいる人々を見た。彼らは肉体の苦しみを通して、まるで何らかの苦行によって、魂の情欲から解放されていた。そして私は、粘土で粘土を癒す神を賛美した。
22. 霊的な理解を得た心は確かに霊的な感情に包まれています。それが私たちの中にあるかどうかに関わらず、私たちは常にそれを気遣い、自分自身の中にそれを探し求めなければなりません。なぜなら、それが現れると、外的な感覚はあらゆる面で魂を誘惑するのをやめるからです。そして、このことを知って、賢者の一人は言いました。「そうすれば、あなたは神の感情を見いだすでしょう」(箴言 2章5節)。
23.修道生活は、その行いと言葉、思考と行動において、心の感情をもって行われなければならない。そうでなければ、それは修道生活とは言えず、ましてや天使のような生活などあり得ない。
24. 神の摂理は一つのことであり、神の助けは別のことであり、神の保護は別のことであり、神の憐れみは別のことであり、神の慰めはまた別のことである。神の摂理はすべての被造物に及ぶ。神の助けは信仰深い者にのみ与えられる。神の保護は真に信仰深い者に与えられる。神のために働く者は神の憐れみを受けるにふさわしいとされ、神を愛する者は慰めを受けるにふさわしいとされる。
25. ある人にとって薬となるものが、別の人にとっては毒となることもある。また、同じものでも、適切な時期に与えれば同じ人にとって薬となるが、間違った時期に与えれば毒となることもある。
26. 私は、悲しみに暮れる患者を侮辱し、絶望の淵に突き落としただけの未熟な医師を見たことがある。また、傲慢な心を屈辱で切り裂き、そこからすべての膿を絞り出した熟練の医師も見たことがある。
27. 私は、同じ病人が、時には従順という薬を飲んで汚れを清め、動き回り、歩き回り、眠らないのを見た。しかし、またある時は、霊的な目が病んでいるため、動かず、静止したまま沈黙しているのを見た。聞く耳のある者は聞きなさい。
28. 私には理由は分かりませんが(私自身、神の賜物を自分の心で探求し吟味することを学んでいないので)、ある人々は、いわば生まれつき節制、沈黙、清らかさ、謙遜、柔和、あるいは良心の呵責といった性質に傾倒しています。しかし、他の人々においては、自然そのものがこれらの良い性質にほとんど抵抗しているにもかかわらず、彼らは自らを奮い立たせてそれらを身につけようとします。そして、たとえ時として打ち負かされることがあったとしても、私は自然の力の行使者として、前者よりも彼らを称賛します。
29. 人間よ、努力せずに得た富を自慢しすぎてはならない。しかし、贈り物をくださる方は、あなたの大きな害、あなたの弱さ、あなたの破滅を予見し、少なくともあなたにはふさわしくないこれらの素晴らしい贈り物によって、あなたを救おうと望まれたのだと知っなさい。
30. 幼少期から受けた教え、育て方、そして成人してからの学習は、徳の獲得や修道生活において、私たちを助けたり妨げたりする。
31. 修道士たちの光は天使たちであり、すべての人にとっての光は修道生活である。それゆえ、修道士たちはあらゆることにおいて良い模範となるよう努め、「行いによっても言葉によっても、だれにもつまずきを与えないように」すべきである(コリントの信徒への手紙二 6章3節)。もしこの光が闇であるならば、その闇、すなわち世にいる者たちは、なおさら暗くなる。
32. ですから、もしあなたが私に服従するなら、服従する者、あるいはむしろ服従したいと願う者よ、人生において気まぐれにならず、このようにして私たちの貧弱な魂を引き裂き、何千何万もの目に見えない敵と戦いに身を投じない方が、私たちにとってより有益であることを知ってください。なぜなら、私たちは彼らのすべての策略を知ることも、見分けることもできないからです。
33. 聖三位一体の助けを借りて、三つの主要な情欲に対して三つの徳をもって武装しよう。さもなければ、私たちは自ら多くの苦労を背負うことになるだろう。
34. もし「海を乾いた地に変えられる方」(詩篇66篇6節)が私たちの内におられるなら、疑いなく私たちのイスラエル、すなわち神を見る心は、動揺することなく情欲の海を渡り、これらの精神的なエジプト人が涙の水に溺れるのを見るでしょう。しかし、もしその到来が私たちの内におられないなら、この海、すなわちこの肉体の単なる「波の騒音」に対して、「誰が耐えられるでしょうか」?(詩篇64篇8節)
35. もし神が私たちの行いによって復活するならば、神の敵は散らされるでしょう。また、もし私たちが幻によって神に近づくならば、神と私たちを憎む者たちは神の顔と私たちの顔から逃げ去るでしょう。
36. ですから、何よりもまず、言葉だけではなく、神の真理の知識を学ぶよう努めましょう。なぜなら、出エジプトの時に示さなければならないのは言葉ではなく行いだからです。
37. ある場所に宝が隠されていると聞いた者はそれを探し求め、苦労して見つけると、見つけたものを大切に守る。しかし、努力せずに富を得た者は浪費する。
38. 以前の罪深い習慣や情欲を克服するのは容易ではありません。そして、それらに新たな習慣や情欲を加え続ける者は、救いを諦めたか、修道生活から何の益も得ていないかのどちらかです。しかし、私は神がすべてを成し遂げられることを知っています。 「神にとって不可能なことは何もない」(ヨブ記42章2節)。
39. 困惑した者たちが、私のような者には到底理解できない、そして私がこれまで手にしたどの書物にも論じられていない、解決不可能な問題を私に持ちかけてきた。彼らは、八つの主要な情念の産物は一体何であり、三つの主要な情念のうちどれが他の五つの情念のそれぞれの親なのか、と尋ねた。この困惑に対し、私は称賛に値する無知を装った。すると、あの最も敬虔な人々から、次のような訓戒を受けた。「淫行の母は貪欲であり、落胆の母は虚栄心であり、悲しみと怒りは三つの主要な情念から生まれ、傲慢の母は虚栄心である。」
40. これらの尊い方々の説法に対し、私は彼らに、八つの主要な情欲から生じる罪はどれか、また、どの情欲から生じるのかを教えていただきたいと尋ねました。これらの冷静な教父たちは好意的に答えて、無分別な情欲には秩序も理性もなく、むしろあらゆる無秩序と混乱があると述べました。祝福された教父たちは、非常に説得力のある証拠を示し、多くの信頼できる例を挙げてこれを裏付けました。そのいくつかは、他の事柄について正しい判断を下すための啓蒙となるよう、この説法にも含めています。
41. 例えば、不適切な笑いは、姦淫の悪魔から生じることもあれば、人が恥知らずにも心の中で自分を褒め称える虚栄心から生じることもあり、また、食べ物を楽しむことから生じることもあります。
42. 睡眠は満腹から来ることもあれば、断食によって来ることもあり、断食する人は高揚感を覚える。また、落胆から来ることもあり、単に自然の摂理によることもある。
43. 冗長さは、時には貪欲さから、時には虚栄心から生じる。
44. 落胆は時に快楽から生じ、また時にその人に神への畏れがないことから生じる。
45. 冒涜は実際には傲慢の産物であり、しばしば同じことで隣人を非難したという事実から、あるいは悪魔の時期尚早な嫉妬から生まれる。
46. 心の頑なさは、満腹から生じることもあれば、無感覚から生じることもあり、また情熱から生じることもある。情熱もまた、姦淫から生じることもあれば、貪欲から生じることもあれば、暴食から生じることもあり、虚栄心から生じることもあり、その他多くの原因から生じることもある。
47.悪は傲慢と怒りから生まれる。
48. 偽善は自己満足と自己満足から生まれる。
49. これらに反する美徳は、正反対の親から生まれる。しかし、一つ一つを個別に論じる時間はないだろうから、簡潔に、そして概括的に述べておこう。上述のすべての情欲を抑えることは謙遜であり、この美徳を身につけた者はすべてを克服したのである。
50. 情欲と悪はあらゆる悪の根源である。これらにとらわれている者は主を見ることができない。しかし、情欲だけを避けても、悪を避けなければ、何の益も得られない。
51. 支配者や野獣に対する畏れを、主への畏れの模範とし、肉体の美しさへの愛を、神への愛の象徴としなさい。なぜなら、徳に反する行いから徳の模範を学ぶことは、何ら妨げにならないからである。
52.今の時代はひどく堕落し、傲慢と偽善に満ちています。古代の先祖たちの模範に倣って肉体労働を行うかもしれませんが、彼らが与えてくれた賜物は与えられません。もっとも、人間は今ほど賜物を求める時代はかつてなかったと私は信じています。しかし、私たちはこれを当然のこととして耐え忍んでいます。なぜなら、神は労働を通してではなく、質素さと謙遜を通してご自身を現されるからです。主の力は弱さの中にあっても完全に現れるとはいえ、主は謙遜でない働き人を退けられるでしょう。
53. キリストにある私たちの戦士の一人が肉体的な苦しみや病気に苦しんでいるのを見たとき、私たちは彼の病気の原因を偽って自分に言い聞かせるのではなく、素直で無思慮な愛をもって彼を受け入れ、彼を私たち自身の体の一員として、また戦いで傷ついた戦士として癒そうと努めましょう。
54. 病気は時に罪を清めるために、時に傲慢さを謙虚にするために送られる。
55. 私たちの善良で至高の師であり主は、ある者が苦行に非常に怠惰であるのを見て、最も喜ばしい苦行として、その肉体を病によって謙遜させ、時には魂を邪悪な情欲や考えから清めます。
56. 私たちに起こるすべての出来事、目に見えるものも目に見えないものも、三つの方法で受け入れることができます。私たちがそうあるべきように、偏りなく、そしてその中間で。私は、無駄に苦しむ三人の兄弟を見ました。一人は憤慨し、もう一人は悲しみを表さず、三人目はそれを大いに喜んで受け入れました。
57. 私は農夫たちが同じ種を地に蒔いているのを見たが、それぞれ思いが異なっていた。ある者は借金を返済しようと考え、ある者は金持ちになろうとし、ある者は主を贈り物で敬おうとし、ある者はこの世を通った人々から善行を褒め称えられようとし、ある者は自分を妬む敵を困らせようとし、またある者は怠け者と罵られないように働いていた。これらの農夫たちの蒔いた種は、断食、徹夜、施し、奉仕など、実に様々である。兄弟たちよ、主に蒔く様々な思いをよく考えてみよう。
58. 泉から水を汲むとき、知らず知らずのうちにヒキガエルを一緒にすくい上げてしまうことがあるように、善行を行うときも、しばしばそれに絡み合った情欲に密かに耽ってしまう。例えば、貪食はもてなしと、姦淫は愛と、欺瞞は慎重さと、狡猾さは知恵と、巧妙な欺瞞、怠惰と怠け、矛盾、わがままと不従順は柔和さと、教える傲慢さは沈黙と、傲慢さは喜びと、傲慢さは希望と、弱さとは愛と、また隣人を非難することと、落胆と怠惰は沈黙と、悲しみは純粋さと、傲慢さは謙遜さと絡み合っている。虚栄心は、まるで一般的なコリュリオン、あるいはもっと正確に言えば毒のように、これらすべての美徳にまとわりついている。
59. 主への祈りがしばらくの間聞き届けられないとしても、嘆き悲しんではならない。主はすべての人が一瞬にして情欲を捨てることを望んでおられるからである。
60. 神に何かを求めても受けられない者は、疑いなく、次のいずれかの理由で受けられないのです。時期尚早に求めたから。尊厳を欠き、虚栄心から求めたから。求めたものを受け取った後、傲慢になったり、怠慢になったりするから。
61. 悪魔や情欲が魂から去っていくことは誰も疑わないと思うが、時には一時的に、時には永遠に。しかし、それらが私たちから去っていく理由を知っている人は多くない。
62. 信仰深い者だけでなく、信仰の浅い者の中にも、すべての情欲が消え去った者がいるが、ただ一つだけ残っている。彼らはこの情欲を最も悪しきものとして保持し、他のすべての情欲の代わりとしている。なぜなら、それは非常に有害であり、人を天国からさえも引きずり下ろすほどだからである。
63. 情念の実体は、神聖な火によって焼き尽くされ、消滅する。この実体が根絶やしにされ、魂が浄化されるにつれて、情念そのものも去っていく。ただし、人が物質的なものへの執着や怠惰な生き方を通じて、それらを再び引き寄せてしまう場合は別である。
64. 時には悪魔は自ら退却して私たちを油断させ、それから突然哀れな魂を攻撃し、略奪し、悪徳に慣れさせ、その結果、魂は自らを中傷し、抵抗するようになる。
65. 私は、これらの獣が退却する別の方法を知っています。それは、魂が罪深い習慣に完全に囚われているときに起こります。その例として、母親の乳首を与えられなかった乳児が、長年の習慣から指を吸う様子が挙げられます。
66. 私はまた、第五の無情さについても知っています。それは、魂の素朴さと称賛に値する柔和さから生じるものです。そのような人々が「心の正しい者を救われる神からの助け」(詩篇7篇11節)を受けるのは当然のことです。神は彼らを情欲から、彼ら自身も気づかないほどに、気づかないうちに救い出してくださいます。ちょうど、赤ん坊が服を脱がされても、自分の裸にほとんど気づかないように。
67. 悪と情欲は人間に本来備わっているものではありません。なぜなら、神は情欲の創造主ではないからです。神は私たちの本性に多くの美徳を与えてくださり、その中でも以下のものはよく知られています。施し(異教徒でさえ慈悲深い)、愛(言葉を話せない動物でさえ別れを惜しんで涙を流す)、信仰(私たちは皆、自ら信仰を生み出す)、希望(私たちは金持ちになることを願い、借りたり貸したり、種を蒔いたり泳いだりする)。ですから、ここで示したように、愛が私たちに本来備わっている美徳であり、律法の結合と成就であるならば、美徳は私たちの本性からかけ離れたものではありません。美徳を成就できないと主張する者は恥じるべきです。
68. しかし、清らかさ、怒りからの解放、謙遜、祈り、警戒、断食、そして絶え間ない悔恨といった徳は、自然を超越したものです。これらの徳の中には、人間によって教えられたものもあれば、天使によって教えられたものもあり、また、他の徳を教え与えてくださるのは、言葉である神ご自身です。
69. 悪を比較する際には、より容易な方を選ばなければなりません。例えば、私たちが祈っている時に兄弟が近づいてくることがよくあります。私たちは二つの選択肢の間で決断を迫られます。祈りを中断するか、兄弟に何も答えずに追い払うかです。後者の場合、兄弟は悲しむことになります。しかし、愛は祈りよりも偉大です。なぜなら、祈りは特定の徳であるのに対し、愛はあらゆるものを包括する徳だからです。
70. かつて私がまだ若かった頃、ある町か村を訪れた際、夕食中に、突然、貪欲と虚栄の念に襲われた。しかし、貪欲の悪しき産物を恐れ、虚栄に打ち負かされる方がましだと判断した。若い頃は、貪欲の悪魔が虚栄の悪魔に打ち勝つことが多いことを知っていたからである。そして、これは驚くべきことではない。世俗の人々にとって、あらゆる悪の根源は金銭欲であり、僧侶にとって、それは貪欲なのである。
71. 神はしばしば、特別な摂理によって、霊的な人々に最も軽い情欲を残します。それは、これらの軽くてほとんど罪のない弱さのために、彼らが自分自身を大いに責め、それによって盗まれていない謙遜の富を得るためです。
72. 初めから従順に生きていなかった者が謙遜さを身につけることは不可能である。独学で謙遜さを学んだ者は皆、自慢するからである。
73. 教父たちは、すべての活動的な生活は、断食と服従という二つの主要な徳から成ると断言している。そしてそれは正しい。なぜなら、前者は欲望を滅ぼし、後者は謙遜を通して前者の滅ぼしを確固たるものにするからである。したがって、嘆きには二重の力がある。罪を滅ぼし、謙遜を生み出すのである。
74. 求める者すべてに与えることは敬虔な者の特徴であるが、求めない者にも与えることはより敬虔であり、特に機会があるときに受け取った者から返せと要求しないことは、無情な者の特徴である。
75. 私たちは、あらゆる情欲と美徳に関して常に自分自身を吟味し、自分がどこにいるのか、つまり始まりにあるのか、途中にあるのか、終わりにあるのかを見つけ出しましょう。
76. 私たちに対する悪魔のあらゆる戦いは、欲望、傲慢、あるいは悪魔的な嫉妬という三つの原因から生じる。最後の者は幸いであり、中間の者は呪われ、最初の者は結局は無価値である。
77.忍耐という、ある種の感覚、あるいはむしろ習慣というものがある。それを備えた者は、苦しみを恐れることも、苦しみから目を背けることもない。殉教者たちの魂は、この称賛に値する感覚に満ちており、拷問を容易に軽蔑した。
78. 思考を守ることと、精神を保つことは別物である。そして、東洋が西洋から遠く離れているように、後者の行為は前者よりもはるかに高いものであるが、比較にならないほど困難である。
79. 考えに対して祈ることと、考えに反論することと、考えを軽んじ、蔑むことは別である。最初のタイプは、「神よ、私の助けに耳を傾けてください」(詩篇69篇2節)などと言った人によって証明される。2番目のタイプは、「私の言葉を非難する者たちに答えよう」(詩篇119篇42節)、つまり反論の言葉、また「あなたは私たちを隣人との争いにされた」 (詩篇79篇7節)と言った人によって証明される。3番目のタイプは、詩篇で「私は口を閉ざし、口を開かなかった」(詩篇39篇10節)と歌った人によって証明される。また、「罪人が私の前に立ち上がったとき、私は口で見張りを立てた」(詩篇39篇2節)、「高慢な者たちは律法を大きく破ったが、私はあなたの御前から姿を消さなかった」(詩篇119篇51節)ともあります。中間の者は準備不足のため、しばしば最初の方法に頼りますが、最初の者はまだこれらの敵を2番目の方法で退けることができません。そして、3番目の段階に達した者は、悪魔を完全に軽蔑します。
80. 非物質的なものが肉体によって制限されることは本質的に不可能であるが、創造主である神にとってはすべてのことが可能である。
81. 健全な嗅覚を持つ人が、たとえ密かに持っている香りであってもそれを感じ取れるように、清らかな魂は、たとえ他の人が感じ取れなくても、神から授かった香りと、完全に解放された悪臭の両方を他人の中に認識する。
82. 誰もが無感情でいられるわけではないが、誰もが救われ、神と和解することは不可能ではない。
83. 異質な考えに心を奪われてはならない。神の摂理の計り知れない運命や、人々に起こる幻を疑うような考え、そして主は偏っているという愚かな考えを密かに植え付けるような考えに心を奪われてはならない。これらの考えは傲慢の兆候であり、その明白な産物である。
84. 貪欲の悪魔は、しばしば謙遜という偽善的な姿を装います。また、虚栄心の悪魔は施しを促し、好色さの悪魔も同様です。もし私たちがこの二つの情欲から清められているならば、あらゆる場所で慈悲の行いを怠ることはないでしょう。
85. 悪魔の中には他の悪魔に抵抗するものもいると言う人もいますが、私は悪魔は皆、私たちの破滅を望んでいると確信するようになりました。
86. 目に見えるものであれ、精神的なものであれ、あらゆる霊的活動は、神の助けによって、まず本人の意図と最も熱烈な願望によって先行される。なぜなら、前者がなければ後者は起こらないからである。
87. 「天の下のすべての目的には時がある」と伝道の書は述べています(伝道の書 3章1節)。この言葉は、私たちの聖なる生活の中で起こる事柄や行いにも当てはまります。ですから、それぞれの時にふさわしいこと、適切なことを考えてみましょう。努力する者には、情欲を抑える時と情欲に打ち勝つ時があることは知られています。それは、努力する者がまだ幼いからです。涙の時があり、心が頑なになる時があります。従順な時があり、命令する時があります。断食する時があり、食べる時があります。敵である肉体と戦う時があり、火を消す時があります。霊的な嵐の時があり、心の静けさの時があります。心の痛みの時があり、霊的な喜びの時があります。教える時があり、学ぶ時があります。汚れの時、おそらくは傲慢さの時、そして謙遜さの清めの時。闘争の時、そして確固たる平和の時。沈黙の時、そして静かな活動の時。絶え間ない祈りの時、そして誠実な奉仕の時。それゆえ、高慢な熱意に惑わされて、時が来るべきものを時期尚早に求めてはなりません。冬に夏に属するものを求めたり、種まきの時に収穫に属するものを求めたりしてはなりません。労苦を蒔く時があり、言い表せない恵みの賜物を刈り取る時があるからです。さもなければ、たとえ時が来ようとも、その時にふさわしいものを受け取ることはできないでしょう。
88. 神の計り知れない摂理によって、ある者は働きを始める前に霊的な賜物を受け、ある者は働きの最中に、ある者は働きを終えた後に、そしてある者は死に際してすでに賜物を受けていた。彼らのうち誰が他の者よりも謙遜であるかを試してみる価値がある。
89. 罪の多さ、良心の呵責、耐え難い悲しみから生じる絶望がある。魂は、これらの傷の多さゆえに、その重みで絶望の淵に沈んでしまう。しかし、傲慢と高慢から生じる別の種類の絶望もある。堕落した者が、自分はこの堕落に値しないと考えるときである。よく考えてみれば、この二つの間には違いがあることがわかる。前者は怠慢にふけるのに対し、後者は絶望しながらも努力を続ける。これは前者とは正反対である。しかし、前者は自制心と希望によって癒され、後者は謙遜と他者を裁かないことによって癒される。
90. 悪事を働きながら善い言葉を語る者がいるのを見ても、私たちはそれを何か特別なことのように驚いてはならない。なぜなら、楽園で語っていたあの蛇でさえ、高慢によって栄え、滅びたからである。
91. あなたがたのあらゆる努力と生き方において、服従であろうと不服従であろうと、仕事が目に見えるものであろうと霊的なものであろうと、これを律法としなさい。すなわち、それらが本当に神のために行われているかどうかを吟味しなさい。例えば、私たちが初心者として何かを熱心に行っても、その努力によって以前に心に身につけた謙遜さが増さないならば、私たちの労働は、たとえ小さくても大きくても、神の御心にかなうものではないと私は考えます。なぜなら、私たちのような未熟な者にとって、私たちの仕事が神の御心にかなうものであることのしるしは謙遜さの進歩であり、平均的な者にとっては内なる葛藤の終息であり、完全な者にとっては神の光の増大と豊かさだからです。
92. 大きなものの中にある小さなものは、必ずしも小さくはないかもしれない。しかし、小さなものの中にある大きなものは、間違いなく不完全である。
93. 雲が晴れると、太陽はその輝きを余すところなく現します。同様に、罪と過去の習慣の赦しを与えられた魂は、疑いなく神の光を見るのです。
94. 罪は一つのことであり、怠惰は別のことであり、不注意は別のことであり、情欲は別のことであり、堕落は別のことである。主についてこのことを知ることができる者は、それを見分けよ。
95. 奇跡やその他の目に見える霊的な賜物を何よりも称賛する人もいますが、隠されていて落ちることのない優れた賜物が他にもたくさんあることを知りません。
96. 情欲から完全に清められた人は、隣人の魂さえも見ることができる。ただし、その本質そのものではなく、どのような構造を持ち、どのような性向や感情を持っているかである。しかし、成功した人は依然として肉体の行動によって魂を判断する。
97. 小さな火事はしばしば、それまでに生み出されたすべてのものを破壊し、小さな井戸は私たちのすべての労力を無駄にする。
98. 時には、私たちに敵対する肉体の休息が、肉体の熱情を生じさせることなく精神の力を目覚めさせる。また時には、逆に、肉体の疲労が不道徳な動きを引き起こすため、私たちは自分自身に頼るのではなく、何らかの未知の方法で私たちの内に宿る情欲を鎮めてくださる神に頼る。
99. もし、ある人々が主にあって私たちを愛していることがわかったなら、私たちは特に彼らの前で慎み深くあるべきです。なぜなら、自由奔放な振る舞いほど愛を破壊し、憎しみを急速に生み出すものはないからです。
100. 魂の目は鋭く美しく、非物質的な存在を除けば、あらゆる生き物の洞察力を凌駕する。ゆえに、情欲に駆られた者でさえ、他者への深い愛ゆえに、特に肉欲の汚れに染まっていない場合には、他者の魂の思いをしばしば見抜くことができる。物質的なものほど非物質的な性質に反するものはないのなら、敬虔な者は理解すべきである。
101. 世俗の人々の迷信的な信仰は、神の摂理への信仰に反する。そして、我々修道士においては、それは霊的な理性に反する。
102. 霊的に弱い者は、肉体の病気、不幸、外的な誘惑を通して、主の訪れと憐れみを認識しなければならない。しかし、完全な者は、聖霊の到来と賜物の増大を通して、神の訪れを認識する。
103. 私たちが寝床に横になるとすぐに、邪悪で不純な考えで攻撃してくる悪魔がいます。そのため、私たちは祈りによってそれらに対抗する気力がなく、汚れた考えで眠りに落ち、汚れた夢に襲われるのです。
104. 悪霊の中には、先駆者と呼ばれる悪霊がいます。それは目覚めるとすぐに現れて私たちを誘惑し、私たちの最初の思いを汚します。一日の初穂を主に捧げなさい。あなたが最初に捧げる人が、その初穂の持ち主となるからです。最も熟練した働き人の一人が、私にこの注目すべき言葉を語りました。「朝一番から、私は一日の出来事をすべて見通すのです。」
105. 敬虔に至る道は数多くあり、破滅に至る道も数多くある。そして、ある人にとって不便な道が、別の人にとっては有利になることもよくある。しかし、両方の道を歩む人々の意図は、主にとって喜ばしいものである。
106. 私たちに降りかかる誘惑の中で、悪魔は私たちが愚かなことを言ったり行ったりするように戦いを挑みます。しかし、もし悪魔が私たちに打ち勝つことができないなら、静かに近づき、密かに私たちの中に神への誇り高い感謝の念を植え付けます。
107. より高次の事柄を瞑想する者は死後、昇天し、より低次の事柄を瞑想する者は下降する。なぜなら、肉体から分離された魂にとって、第三の中間的な場所は存在しないからである。神の創造物の中で、ただ一つの魂だけが、自分自身の中にではなく、他者(肉体)の中に存在している。そして、生命を授かったものなしに、いかにして魂が存在できるのかは、驚くべきことである。
108. 敬虔な娘は敬虔な母から生まれ、母は主から生まれる。この例からすれば、反対の結論も正しく導き出せる。
モーセは、臆病者は戦いに出てはならない、むしろ神に任せよ、と命じている。そうすれば、魂の最後の欺瞞は、肉体の最初の堕落よりも悪いものにならないだろう。そして、それはまさにその通りである。
身体のあらゆる部分から発せられる光は感覚器官である目であり、神聖な徳から発せられる精神的な光は識別力である。
{{center|慎重な推論に基づいて}}
109. 喉が渇いた鹿が水を欲するように、修道士は神の善意を理解したいと願う。それだけでなく、自分の意志がそれに混じっている時と、その反対の意志だけが働いている時を知ることも願う。この点に関して、長く難しい議論が待ち受けている。すなわち、次の言葉に従って、遅滞なく行うべき行いはどれか。「それを『日ごとに』、また時折延期する者は災いだ」(シラ書 5章8節)。そして逆に、次の言葉に従って、忍耐と分別をもって行うべき行いはどれか。賢者はこう言った。「規則には戦いがある」(箴言 24章6節)。また、「すべてのことはきちんと秩序正しく行いなさい」(コリントの信徒への手紙一 14章40節)。繰り返すが、誰もがこれらの説明しにくい事例について迅速かつ賢明に推論できるわけではない。そして、聖霊を宿し、その口を通して語る神を宿した預言者は、しばしばその賜物を求めて祈り、時には「あなたの御心を行うことを教えてください。あなたは私の神ですから」(詩篇142篇10節)と叫び、またある時には「主よ、私が行くべき道を教えてください。私はこの世のすべての情欲と心配を捨てて、あなたのもとに身を捧げます」(詩篇142篇8節)と叫んだ。
110. 主の御心を知りたいと願う者は皆、まず自らの意志を滅ぼし、信仰と誠実な素朴さをもって神に祈り、謙遜な心で、何の疑いもなく父や兄弟に尋ね、たとえそれが自らの理性に反するものであっても、また尋ねられた者が霊的にあまり優れていなくても、彼らの助言を神の口から出たものとして受け入れなければならない。なぜなら、神は不公平ではなく、信仰と柔和さをもって隣人の助言と判断に謙遜に従う魂が欺かれることを許さないからである。したがって、尋ねられた者が霊的な理解力を持たないとしても、彼らを通して語る非物質的で目に見えないお方がおられる。この原則にためらうことなく従う者は、深い謙遜に満たされるのである。もし誰かが詩篇(すなわち、たとえ話の神秘的な意味)を通して自分の占いを明らかにしたのなら、言葉による知性と理性による予言は、魂のない音による予言よりもどれほど優れていると思いますか。
111. 多くの人々は、自己満足のために、私たちが述べた容易で完全な善を達成せず、自分自身で、また自分自身の中に主を喜ばせることを理解しようと試み、この問題に関して非常に多くのさまざまな意見を私たちに伝えてきました。
112. 神の意志を試していた人々の中には、自分の魂のあれこれの助言、つまり行動を促すものにも、その反対を示唆するものにも執着せず、自分の意志を剥ぎ取った心を定められた日に熱心に祈り、主に捧げた者たちがいた。そして、彼らは、非物質的な心が神秘的に彼らの心に何かを語りかけたか、あるいはこれらの思考の一つが魂から完全に消え去ったかのいずれかによって、神の意志を知るに至った。
113. また、彼らの働きに伴う悲しみや困難から、使徒の言葉にあるように、自分たちの働きは神の意志にかなっていると結論づけた者もいた。「私たちはあなたがたのところに行こうとしましたが、一度ならず二度もサタンが私たちを妨げました」(テサロニケ人への手紙第一 2章18節)。
114. 一方、他の人々は、自分たちの仕事で予期せぬ成功を収めたことで、それが神に喜ばれるものであると認識し、神は善行をしようと選ぶすべての人を助けるという御言葉を思い起こした。
115. 上からの啓蒙によって自分の中に神を得た者は、急ぐ必要のある事柄においても、急ぐ必要のない事柄においても、神の意志を確信する。ただし、2番目の方法では、特定の期間なしに101。
116. 自分の判断を疑い、二つの選択肢のうちどちらかを選ぶのに長い間ためらうのは、悟りを開いていない虚栄心の表れである。
117. 神は不公平ではなく、謙遜に扉を叩く者に対して慈悲の扉を閉ざすことはない。
118. 主は、急ぐ必要があるか、しばらく延期する必要があるかにかかわらず、私たちのすべての行いの目的を常に見ておられます。したがって、情欲や不純さがなく、他の何物のためでもなく、ただ神のために行われることはすべて、たとえ完全に善ではないとしても、私たちにとって善いものとみなされます。
119. 私たちの上に立つものによる試練は、気楽な終わりを迎えることはありません。なぜなら、私たちに対する神の裁きは理解しがたいものであり、たとえ私たちがそれを知っていたとしても、それに従わず、それによってより大きな罰を受けることになることを主は知っておられるので、しばしば摂理によってその御意志を私たちから隠されるからです。
120. 正しい心は物事の区別から解放され、善意の船に安全に浮かぶ。
121. 神への強い愛と謙遜な心から、自分の力以上のことを成し遂げようとする勇敢な魂もいる。しかし、同じようなことを敢えて行う傲慢な心を持つ者もいる。敵はしばしば、私たちが成功できずに落胆し、自分の力に見合ったことさえも放棄し、敵の笑いものになるように、わざと私たちの力以上のことをするように仕向ける。
122. 私は、多くの罪のために、心身ともに弱く、自分の力以上のことを試みたものの、それに耐えられなかった人々を見てきました。私は彼らに、神は悔い改めを、人の努力の度合いではなく、人の謙遜の度合いによって判断すると伝えました。
123. 時には生い立ちが、また時には悪しき交友関係が、極端な悪の原因となることがある。だが、それらとは別に、自分自身の魂の腐敗そのものが、破滅を招くのに十分であることも少なくない。最初の二つの悪を免れた者は、おそらく三つ目の悪をも免れているかもしれない。しかし、その三つ目の悪に支配されている者には、どこへ行こうとも、何の役にも立てる場所など存在しない。なぜなら、天国ほど安全な場所はないにもかかわらず、その天国においてさえ、悪魔はとどまることができなかったからである。
124.最初の忠告と二度目の忠告の後、自らの不敬虔さを弁護するために容易に議論を挑んでくる不信心者や異端者とは、見捨てるべきである。逆に、真理を生涯にわたって学びたいと願う者に対しては、ためらうことなくこのことを実践すべきである。しかし、いずれの場合も、我々自身の心を強くするために行動しよう。
125. 聖人の超自然的な徳を聞いて絶望する者は、実に愚かである。それどころか、彼らはあなた方に二つの有益な教えを与えてくれる。一つは、聖なる勇気によってあなた方を熱意に駆り立てることであり、もう一つは、この上なく聖なる謙遜によって、あなた方の弱さと自責の念を深く理解させることである。
126. 汚れた霊の中には、他の霊よりも狡猾な者がいます。彼らは、私たちを一人で罪に誘い込むだけでは満足せず、私たちに最もひどい苦痛を与えるために、他の人々を悪の共犯者として誘い込むのです。私は、自分の罪深い習慣を他の人に伝え、その後、正気に返って悔い改めて罪を捨てた人を見ました。しかし、彼が教えた人が罪を犯し続けたので、彼の悔い改めは真の悔い改めではありませんでした。
127. 汚れた霊の狡猾さは多岐にわたり、実に多様で、理解し難く、それを見抜く者は少ない。そして、そのわずかな者でさえ、それを完全に理解しているとは言えないと思う。例えば、なぜ私たちは、楽しみ、満足している時は警戒心を保ち、冷静でいられるのに、断食や苦難の時は、ひどく眠気に襲われるのだろうか。なぜ私たちは、静かにしていると心が乾くのに、人々と共にいる時は、良心の呵責に満たされるのだろうか。なぜ私たちは、空腹の時は眠っている間に誘惑に苦しむのに、満腹の時は誘惑から解放されるのだろうか。なぜ私たちは、貧しく禁欲している時は陰鬱で良心の呵責を感じないのに、逆に、ぶどう酒を飲むと喜び、容易に良心の呵責を感じるのだろうか。主にあってこのことを無知な者に教えることができる者がいるだろうか。私たちは知らないのだから。しかし、これらの変化は必ずしも悪魔から来るわけではなく、時には私に与えられた、この淫らで卑劣で太った肉体から来ることもあると言えるでしょう。そして、それが私とどのように繋がっているのか、私には分かりません。
128. 私たちに降りかかる、理解しがたいこれらの変化すべてについて、熱心に、そして謙遜に主に祈りましょう。祈りを捧げ、長い間祈り続けた後も、同じような影響が自分の中に感じられるなら、それは悪魔の仕業ではなく、自然の摂理によるものだと理解するでしょう。そして多くの場合、神の摂理は、たとえ正反対の出来事を通してでも、私たちに益を与えようとし、私たちの傲慢さを必ずや謙遜にさせてくださるのです。
129.神の裁きの深淵を詮索することは、破滅的な結果を招く。なぜなら、詮索好きな者は傲慢という船に乗って航海するからである。しかし、多くの人々の弱さゆえに、何かを語らなければならない。
130. ある人が、識別力を持つ者の一人に尋ねた。「神は、ある者たちの堕落を予見して、なぜ彼らに賜物と奇跡の力を授けたのですか?」彼は答えた。「第一に、彼らの模範によって他の霊的な人々を強める(警告する)ため。第二に、人間の自由意志を示すため。そして最後に、そのような賜物を受けた堕落者たちが、最後の審判で答えを求められないようにするためです。」
131. 旧律法はまだ不完全であったため、「自分自身に注意せよ」(申命記15章9節)と述べていました。しかし、全能なる主は、「もしあなたの兄弟が罪を犯したなら」などと言って、兄弟を正すよう私たちに命じておられます(マタイ18章15節)。ですから、あなたの叱責、あるいはむしろ注意喚起が純粋で謙遜であるならば、特にあなたの言葉を受け入れる人々に対しては、主のこの戒めを果たすことを拒んではなりません。もしあなたがまだこれを達成していないのであれば、少なくとも旧律法の戒めを果たしなさい。
132. あなたが叱責したために、愛する人々さえもあなたに敵意を抱くようになっても驚いてはいけません。軽薄な人々は悪霊の道具であり、特に敵(すなわち、神のしもべたち)に対して悪霊の道具となるからです。
133. 私には、私たちの中に見られる奇妙な行動に大変驚かされます。それは、徳に関しては全能の神、天使、聖人たちが助け手となるのに、罪に関しては悪魔しか助け手としないのに、なぜ私たちは徳よりも情欲や悪徳に容易に、そして速やかに傾倒してしまうのでしょうか。私はこのことを詳しく述べることはできませんし、またそうするつもりもありません。
134. もしすべての被造物が創造されたままの状態であるならば、グレゴリウス大教皇はこう述べています。「どうして私は神の似姿でありながら、この粘土と混じり合っていることができるのでしょうか。被造物のいずれかが創造された本来の姿から外れてしまったならば、それらは抗いがたく同族を欲するようになります。ですから、私たち一人ひとりは、いわばこの肉体の粘土を清め、高め、神の玉座に座らせるために、あらゆる手段を尽くさなければなりません。そして、この昇天を否定する者は誰もいてはならない。なぜなら、その道は開かれており、扉は半開きになっているからです。」
135. 霊的指導者たちの功績や美徳についての物語を聞くことは、心と魂を熱意に駆り立て、彼らの教えを聞くことは、熱心な人々を模範とするよう導きます。
136.識別力は暗闇の中の光であり、迷える者を正しい道へと導き、盲人を啓蒙する。賢明な人は病を滅ぼし、健康を取り戻す者である。
137. 些細なことに驚く人は、二つの理由からそうする。一つは極度の無知から、もう一つは謙遜の念から、隣人の行いを称賛し、褒め称えるからである。
138.悪魔を追い払うだけでなく、攻撃するように努めよう。ただ追い払うだけの者は、時に敵を打ち負かし、時に自らも敗北する。しかし、攻撃的に戦う者は必ず敵を追い払うのである。
139. 情欲を克服した者は悪魔を傷つける。かつての情欲にまだ支配されているふりをすることで、敵を欺き、攻撃を受けない。ある兄弟はかつて不名誉を受けたが、心の中で祈ったものの、心は動かなかった。それから彼は不名誉を嘆き悲しみ、偽りの情欲で無情を隠した。別の兄弟は、議長を務めることを全く望んでいなかったが、それを強く望んでいるふりをした。では、まるで罪を犯すかのように売春宿に入り、そこにいた娼婦を清らかで禁欲的な生活へと導いた男の純粋さを、どうしてあなたに伝えることができるだろうか。また、ある孤独な男に早朝にぶどうの房が届けられた。彼は、運び手が去った後、すぐにぶどうに駆け寄り、それを食べたが、悪魔の前で自分が大食漢であることを示すためだけに、味わった様子は全くなかった。別の男は、枝を数本失ったが、一日中悲しんでいるふりをした。しかし、そのような働き人は、悪魔を嘲笑おうとするあまり、逆に悪魔に嘲笑されないように、細心の注意を払う必要がある。これらの人々はまさに、使徒が「梯子のように堅固で、しかも確かなもの」(コリント第二 6章8節)と言った人々である。
140. 清い体と清い心を主に捧げたいと願う者は、怒りをなくし、禁欲を守らなければならない。なぜなら、この二つの徳がなければ、私たちのすべての努力は無駄になるからである。
141. 肉眼で見える光が多様であるように、魂の中の精神的な太陽の光もまた多様で多面的です。その光の中には、肉体の涙から来るものもあれば、霊的な涙から来るものもあります。肉眼で見るものから来るものもあれば、心で見るものから来るものもあります。喜びの中には、聞くことから来るものもあれば、自ずと湧き上がるものもあります。沈黙から来るものもあれば、従順から来るものもあります。これらすべてに加えて、さらに特別な状態があり、その状態では、恍惚状態にある者は、言い表せない、理解しがたい光の中でキリストの前に現れます。
142. 徳というものがあり、徳の母というものがある。賢者は、最も徳の母を身につけようと努める。徳の母の教師は、神ご自身が御自身の働きによっておられる。一方、徳の娘たちの教育には、多くの教師がいる。
143. 食事を楽しむ機会が少ないからといって、睡眠を過剰にとらえたり、その逆を行ったりしないように注意しなければならない。なぜなら、そうするのは愚か者のすることだからである。
144. 私は、何らかの必要性から、少しだけ食べ物を腹いっぱい食べてから、徹夜でこのみじめな体を疲れさせ、満腹感を喜んで拒むように体に教えた勇敢な労働者たちを見てきました。
145. 貪欲の悪魔は、貪欲でない人々と戦い、彼らに打ち勝つことができないときは、慈悲を装って貧しい人々を提示し、非物質的なものから再び物質的なものへと回帰するように促します。
146. 私たちの罪を嘆き、絶望に陥ったとき、主がペテロに「七十回の七倍」罪を犯した者を赦すように命じられたこと(マタイ18章22節)を決して忘れてはなりません。このような命令を他人に委ねられた主は、疑いなくそれ以上のことを成し遂げてくださるでしょう。逆に、傲慢さに襲われたときは、聖なる使徒ヤコブの次の言葉を思い出すよう努めましょう。「霊的な律法全体を守っていても、ただ一つの情欲、すなわち高慢によって罪を犯す者は、すべてにおいて罪を犯したことになる」(ヤコブ2章10節)。
147. 邪悪で嫉妬深い霊の中には、戦いで戦っている者に勝利の冠を与えないように、聖人からわざと退却する種類の霊もいる。
148. 「平和を築く者は幸いである」(マタイによる福音書 5章9節)とありますが、これに異論を唱える者は誰もいません。しかし、私は敵同士でありながら祝福された者も見てきました。二人の男が互いに不純な愛を抱いていました。最も洞察力に優れた賢者が、この悪を終わらせようと、それぞれに友人が自分の悪口を公然と言っていると告げ、二人を仲違いさせました。こうして、この賢者は人間の知恵によって、悪霊の悪意を退け、憎しみを生み出し、その忌まわしい愛を滅ぼすことに成功したのです。
149. 時には、ある戒めが別の戒めのために破られることがあります。例えば、私は神への愛の契約で結ばれた若者たちを見ました。しかし、彼らは他人を誘惑したり、良心を傷つけたりしないように、互いに合意してしばらくの間、離れ離れになりました。
150. 結婚と死が互いに相反するように、傲慢と絶望も相容れない。しかし、悪魔の狡猾さによって、これら二つの情念が一人の人間の中に現れることがある。
151. 不浄な霊の中には、私たちの霊的生活の始まりにおいて、聖書を解釈する者たちがいる。彼らは通常、虚栄心の強い者、とりわけ外的な学問を修めた者の心の中でこれを行い、彼らを少しずつ誘惑し、最終的には異端と冒涜に陥れる。このような悪魔的な神学、あるいはより正確には神学主義は、こうした解釈の際に魂に生じる混乱、不調和で不純な喜びによって見分けることができる。
152. 被造物はすべて創造主から存在の秩序と始まりを与えられ、ある者には終わりも定められています。しかし、徳の終わりは無限です。「私はあらゆる終わりの終わりを見てきました」と詩篇作者は言います。「しかし、あなたの戒めは非常に広く、終わりがありません」(詩篇119篇96節)。そして確かに、善行を行う者の中には、行動の力から洞察の力へと進む者がいます。愛が絶えることがなく、「主はあなたの恐れの入りと、 あなたの愛の出入りを守っておられる」 (詩篇120篇8節)ならば、この愛の終わりもまた無限であることは明らかです。そして私たちは、この世においても来世においても、理解から常に新しい光を受けながら、その愛において進歩し続けるでしょう。そして、私たちが今述べていることは多くの人にとって奇妙に思えるかもしれませんが、それでも、提示された証拠に基づいて、祝福された父よ、私は、天使たち、これらの非物質的な存在でさえも成功を逃すことなく、常に栄光に次ぐ栄光と理に次ぐ理を受け取っていると申し上げたいと思います。
153. 悪魔がしばしば密かに私たちの心に良い考えを植え付け、その後、それを別の考えで打ち消すことを驚いてはいけません。これらの敵は、この狡猾さによって、私たちの心の思いを知っていると私たちに信じ込ませようとしているだけなのです。
154. 言葉で偉大な徳を説く人が、自ら善行を怠っているのを見ても、厳しく非難してはならない。なぜなら、行いの不足は、そのような教えの恩恵によってしばしば補われるからである。私たちは皆、すべてを平等に身につけているわけではない。言葉に長けている人もいれば、行いが言葉よりも強い人もいる。
155. 神は悪の創造者でもなければ、悪の源でもありません。ですから、ある種の情欲は魂に自然なものであると言う者は間違っています。彼らは、私たちが自ら善のための自然な性質を情欲に変えてしまったことを理解していないのです。例えば、私たちは生まれつき生殖のための種を持っていますが、それを不法な情欲のために用いています。また、生まれつき、あの古い蛇に対する怒りを持っていますが、それを隣人に対して用いています。私たちは徳に嫉妬するように熱意を与えられていますが、悪徳に嫉妬しています。生まれつき、魂には栄光を求める欲求がありますが、それは最高の栄光に限ります。誇りを持つことは自然なことですが、それは悪魔に対してのみです。同様に、魂が喜ぶことは自然なことですが、それは主と隣人の善行に対してのみです。私たちはまた、恨みも受けていますが、それは魂の敵に対してのみです。生まれつき、私たちは食物を欲しますが、それは生命を維持するためであって、情欲のためではありません。
156. 怠惰でない魂は、悪魔を奮い立たせて自分自身と戦わせる。そして戦いが増えるにつれて、冠も増える。敵に無敵な者は冠を受けない。しかし、失敗しても意気消沈しない者は、勇敢な戦士として天使たちから称賛されるだろう。
157. キリストは地上で三晩を過ごした後、復活し、二度と死ぬことはない。三つの異なる時間に勝利する者もまた、死ぬことはない。
158. もし、神の懲罰的な摂理の取り決めによって、霊的な「太陽」が私たちの内に昇った後、「沈むことを知った」(詩篇104篇19節)ならば、当然、闇がその幕を下ろし、夜が訪れます。その夜には、以前に去っていた野のライオンや、いばらの情欲の森のすべての獣が、私たちの中に宿る救いの希望を奪い取ろうと咆哮しながらやって来て、思いや行いにおいて、神から情欲の糧を求めます。しかし、謙遜の暗い深みから、その太陽が再び私たちの上に輝くとき、これらの獣は自分たちのベッド、つまり快楽にふける者の心の中に集まり、私たちの中には来ません。その時、悪霊たちは互いにこう言うでしょう。「主は再び彼らに憐れみを示されるために、ご自身を大きく高められた」(詩篇126篇3節)。しかし、私たちは彼らにこう言おう。「主は私たちに憐れみを示そうとして、ご自身を大いに高められました。私たちは喜んでいましたが、あなたがたは追い出されました。」「見よ、主は光の雲の上に座しておられる」、つまり、地上のあらゆる欲望を超越した魂の上に座しておられる。「そして主はエジプトに来られる」、つまり、以前に暗くなった心の中に来られる。「そして手で作られた偶像は揺れ動く」、つまり、心の空しい思いが揺れ動く(イザヤ書 19章1節)。
159. 全能のキリストでさえ、ヘロデから逃れるために肉体をもってエジプトへ逃げたのだから、大胆な者は誘惑に軽率に飛び込まないように学ぶべきである。なぜなら、「あなたの足が動揺しないように。あなたを守る方は眠らない」(詩篇120篇3節)とあるからである。
160. プライドは勇気と結びついており、サルトリイバラという植物とイトスギの関係に似ています。
161. 私たちの絶え間ない課題は、何らかの善を得たと思える時に、その考えをただ信じることではなく、その善の性質を注意深く吟味し、それが実際に私たちの内にあるかどうかを見極めることである。そうすることで、私たちは自分が全く不十分であることを悟るだろう。
162. また、情欲の兆候を絶えず吟味しなさい。そうすれば、霊的な病にかかっているために、私たちの弱さや深く根付いた罪深い習慣のために、認識することさえできない情欲が、あなたの中に数多くあることがわかるでしょう。
163. 確かに、神はあらゆることにおいて私たちの意図をご覧になる。しかし、私たちの力に見合ったことにおいて、神は愛をもって私たちに行動を求められる。自分の力に見合った善行を一つも怠らない人は偉大であり、自分の力を超えた行いを謙虚に試みる人はなおさら偉大である。
164. 悪魔はしばしば、最も簡単で最も役に立つことを私たちに禁じますが、同時に、最も困難なことに取り組むよう私たちを励まします。
165. 私は、ヨセフが祝福されたのは、彼がすでに無執着の心を持っていたからではなく、罪を嫌悪したからだと理解します。私たちは、どのような罪をどれだけ嫌悪すれば、祝福に値するのかを吟味しなければなりません。なぜなら、罪の闇から背を向け、それを避けることと、清らかさの太陽に近づくこととは全く別物であり、後者の方がはるかに優れたことだからです。
166. 暗闇はつまずきの原因であり、つまずきは転倒の原因であり、転倒は霊的な死の原因である。
167. 酒に酔った者は水で正気に戻ることが多く、情欲に酔った者は涙で正気に戻る。
168. 混乱と呼ばれるもの、暗闇と呼ばれるもの、盲目と呼ばれるものがある。前者は禁欲によって癒され、後者は沈黙によって癒される。そして後者は従順によって、また、私たちのために「従順であられた」(フィリピ2章8節)神によって癒される。
169. 地上のものが浄化される二つの場所は、より高次の領域で考える人々にとって模範となる。
170. 神に従って組織された共同体は、魂からあらゆる不純物、粗野さ、醜さを取り除く霊的な洗濯場である。しかし、隠遁生活は、欲望、恨み、苛立ちを捨て去り、孤独に身を隠した人々にとっての染物場と呼べるだろう。
171. 同じ罪に陥るのは、悔い改めが足りず、以前の罪と釣り合っていないからだと言う人もいます。しかし、同じ罪に陥らない人は皆、本当に悔い改めたと言えるでしょうか。同じ罪に陥る人がいるのは、以前の罪を深く忘れてしまったから、あるいは、情欲に駆られて、神が過度に慈悲深いと愚かにも思い込んでいるから、あるいは、救いを諦めてしまったからかもしれません。習慣によって敵の支配下に置かれた彼らの中には、もはや敵を縛り付けることができなくなった者もいる、と言ったら批判されるかもしれません。
172. また、魂という非物質的な存在が、自分と同じ性質の霊が近づいてくるのを見ることができないのは、肉体に縛られているからではないか、という点も考察に値する。このことは、それらを縛り付けた方だけが知っている。
173. ある洞察力のある人が、私から学びたいとでもいうように、私に尋ねました。「教えてください。罪によって私たちの心を低くする霊と、それを高くする霊はどれですか?」しかし、私はこの質問にどう答えたらよいか分からず、誓って自分の無知を彼に伝えたので、学びたいと思っていたその人が私に教え、こう言いました。「少しばかり理性の酵母を与えましょう。残りは自分で試してみなさい。淫行の悪霊、怒りの悪霊、暴食の悪霊、落胆の悪霊、眠気の悪霊は、私たちの心の角を高くする力を持っていません。しかし、貪欲、権力欲、多弁などの悪霊は、罪の悪に傲慢の悪を付け加えることが多く、断罪の悪霊もこの点ではそれらに似ています。」
174. 僧侶が世俗の人々を訪ねたり、自分の庵に迎え入れたりした後、別れてから一時間後または一日後に、絡みつく網から解放されたことを喜ぶ代わりに悲しみの矢で傷つけられた場合、そのような僧侶は虚栄心からか、淫行の情欲から非難される。
175. まず、風がどちらの方向から吹いているかを調べて、反対方向に帆を広げないようにしましょう。
176. 霊的な闘争で体を疲れ果てた活動的な高齢者には、愛をもって慰め、休息を与えなさい。罪によって魂を苦しめている若者には、永遠の苦しみを思い起こさせ、禁欲するように説得しなさい。
177. すでに述べたように、修道生活を始めたばかりの頃は、貪欲と虚栄心から完全に解放されることは不可能です。しかし、快楽によって虚栄心に対抗してはなりません。貪欲によって虚栄心を克服しようとすると、修道生活を始めたばかりの者には新たな虚栄心が生まれるからです。断食と祈りによってこの情欲を克服する方がはるかに良いでしょう。主が虚栄心さえも私たちの足元に踏みにじる時が、今まさにそれを選ぶ者には必ず訪れるからです。
178. 若者も老人も、主にお仕えし始めると、情欲に悩まされるだけでなく、全く異なる病に苦しむことも少なくありません。それゆえ、聖なる謙遜は幸いであり、最も幸いなことです。なぜなら、それは若者にも老人にも、悔い改めにおいて堅固さと力を与えるからです。
179. 今私が語る言葉に心を乱されないでください。悪、偽善、裏切りとは無縁の、高潔で誠実な魂を持つ人は稀ですが、確かに存在します。そのような人にとって、人との交わりは全く益になりません。しかし、導きがあれば、彼らは静かな避難所から、沈黙の中から天へと昇ることができ、共同生活につきものの噂や誘惑を経験を通して学ぶ必要はありません。
180. 人は放蕩者を正すことができ、天使は悪人を正すことができ、神ご自身は高慢な者を正すことができる。愛の一形態は、隣人が私たちのところに来たときに、彼が好きなことを何でもする自由を与え、同時に喜びの表情を見せることによって表れることが多い。私たちは、善行に対する悔い改めが、悪行に対する悔い改めと同じように善行を滅ぼすのかどうか、いつ、どのように、どの程度、そしてそもそも滅ぼすのかどうかを吟味しなければならない。
181. 私たちは、情熱の対象に対して、いつ、どのような場合に、どれくらいの期間抵抗し、闘うべきか、そしていつ退却すべきかを、慎重に検討しなければなりません。なぜなら、時には弱さゆえに、霊的に死んでしまうことを恐れて、逃げることを選ぶことがあるからです。
182. よく考えて注意してみよう(おそらく時が来れば、苦い思いや恨みをなくすことができるだろう)。どの悪魔が私たちを傲慢に導き、どの悪魔が私たちを謙遜にし、どの悪魔が私たちを頑なにし、どの悪魔が私たちを慰め、どの悪魔が私たちを暗闇に導き、どの悪魔が私たちを偽善的な啓蒙で欺き、どの悪魔が私たちを鈍くし、どの悪魔が私たちを裏切り者にし、どの悪魔が私たちを喜ばせ、どの悪魔が私たちを悲しませるのだろうか。
183. 修道生活の初めに、世俗生活を送っていた頃よりも情欲に苦しめられることに、恐れを抱いてはいけません。なぜなら、あらゆる病気の原因はまず生じなければならず、それから初めて健康が訪れるからです。おそらく、これらの獣は以前から私たちの心のどこかに潜んでいたのでしょうが、私たちはそれに気づかなかっただけなのです。
184. 完璧に近い者が何らかの理由で悪魔に何か、たとえ些細なことでも敗北した場合、直ちにあらゆる手段を用いてそれを敵から百倍にして奪い取らなければならない。
185. 穏やかな天候の時の風は海面をかき混ぜるだけであるのに対し、別の時には海の深淵をかき混ぜるように、暗黒の風についても同様の結論に至らざるを得ない。なぜなら、情熱的な人々においては心の奥底をかき混ぜるが、成熟した人々においては精神の表面だけをかき混ぜるからである。したがって、後者の人々は、内面が汚れていないため、普段の平穏をより感じやすいのである。
186. 完全な者だけが、魂の中で生じる思考のうち、どれが自身の良心から生じるのか、どれが神から来るのか、どれが悪魔から来るのかを常に識別できる。なぜなら、悪魔は最初から私たちに反することを密かに植え付けるわけではないからである。したがって、この問題は非常に難解である。
身体は二つの感覚器官によって啓発され、心の目は精神的および視覚的な推論によって啓発される。
{{center|これまでの内容の要約}}
187. 確固たる信仰は世俗を捨てることの母であり、それに反する行為はそれ自体で明らかである。
188. 揺るぎない希望は公平さへの扉であり、その反対の行動は自明である。
189. 神への愛は世俗からの離脱の理由であり、その反対の行動はそれ自体で明らかである。
190.服従は自尊心と精神的な健康への願望から生まれる。
191. 禁欲は健康の母であり、禁欲の母は死への思いと、我らが主であり神である方が味わわれた苦い胆汁と酢の確固たる記憶である。
192. 貞潔の伴侶であり始まりは沈黙である。肉欲の燃え上がりを鎮めるのは断食である。汚れた不純な思いの敵は心の悔恨である。
193. 信仰と世俗からの離脱は金銭欲を滅ぼす。しかし、慈悲と愛は隣人のために自分の体さえも捨てる。
194. 熱心な祈りは絶望を滅ぼし、最後の審判の記憶は熱意を生み出す。
195. 不名誉を求める気持ちは苛立ちを治す薬であり、賛美歌、慈悲、そして無欲は悲しみを消し去るものである。
196. 感覚的なものに対する公平さは、精神的なものの認識につながる。
197. 沈黙と静けさは虚栄心の敵である。しかし、あなたが共同体の中にいるならば、不名誉に耐えなさい。
198. 目に見える傲慢さは悲惨な状況によって癒されるが、目に見えない傲慢さは永遠にして目に見えないお方によって癒される。
199. 感覚的な蛇を滅ぼすのは鹿であり、精神的な蛇を滅ぼすのは謙遜である。
200. 自然界で見られることから、私たちは霊的な生活のための明確な教訓を得ることができる。
201. 蛇が狭い穴を通り抜けなければ古い皮を脱ぎ捨てられないように、私たちも断食と不名誉の狭く窮屈な道を歩まなければ、以前の悪習や魂の衰え、老人の衣を脱ぎ捨てることはできません。
202. 太った鳥は高く飛べないように、肉欲にふける者は天国に昇ることはできない。
203. 乾いた泥は豚を引き寄せず、武勇によってしぼんだ肉はもはや悪魔に安息を与えない。
204. 木が多すぎると炎が弱まり消え、煙がたくさん出るのと同じように、悲しみが過ぎると魂が煙のように暗くなり、涙の水が枯れてしまうことがよくあります。
205. 盲人が弓の腕が未熟なように、不従順な弟子は滅びる。
206. 焼き入れされた鉄が焼き入れされていない鉄を研ぐことができるように、勤勉な兄弟はしばしば怠惰な兄弟を救う。
207. 翼の下で温められた卵が命を吹き込まれるように、霊的な父に告げられていない思いが行動へと変わる。
208. 馬が互いに競い合って走るように、良い兄弟関係では、お互いが刺激し合う。
209. 雲が太陽を覆うように、罪深い考えは心を暗くし、破壊する。
210. 死刑判決を受け、処刑に向かう者が公開処刑について語らないように、心から自分の罪を悔いる者は腹を満たすことをしない。
211. 貧しい人々が王家の宝物を見て、自分たちの貧しさをより一層自覚するように、魂は聖なる父たちの偉大な徳の物語を読むことで、より謙虚な思いを抱くようになる。
212. 鉄が磁石に引き寄せられるように、悪習に凝り固まった人は、否応なく悪習に引き寄せられる。
213. 海が油によって意図せずして鎮められるように、断食もまた肉体の意図しない燃えるような熱を鎮める。
214. 水が押しのけられると上昇するように、苦難に苦しむ魂も悔い改めによって神のもとへと上昇し、救われる。
215. 香水を身につけている人が、たとえ本人の意思に反してでもその香りで知られるように、主の霊を宿している人は、その言葉と謙遜さによって見分けられる。
216. 風が深淵をかき乱すように、怒りはあらゆる情念の中でも特に心を乱す。
217. 目が見たことのないものは、喉は噂話だけではあまり味わいたがらない。だから、肉体が清い者は、霊的な戦いにおける無知から大きな安堵を得る。
218. 王室の武器が保管されている場所には泥棒が自由に盗みに来ないように、心と祈りを一体化させた者を精神的な強盗が容易に奪うことはできない。
219. 火が雪を生み出さないように、地上の栄光を求める者は天上の栄光を得られない。
220. 一つの火花がしばしば多くの物質を燃やし尽くすように、一つの善が多くの大きな罪を消し去る。
221. 武器なしで動物を殺すことが不可能であるのと同様に、謙虚さなしに怒りから解放されることは不可能である。
222. 食物なしでは自然的に生きられないのと同様に、人生の終わりまで一瞬たりとも怠慢にふけることは不可能である。
223. 太陽の光が穴から家の中に差し込むと、家の中のすべてを照らし出し、空気中に漂う最も細かい塵さえも見えるようになる。同じように、主への畏れが心に入ると、心の中のすべての罪が明らかになる。
224. ザリガニが前にも後ろにも這うので簡単に捕まるように、時には泣き、時には笑い、時には楽しむ魂は、何の益も得られない。
225. 眠っている者が容易に盗まれるように、世俗に近いところで徳をもって歩む者もまた容易に盗まれる。
226. 獅子と戦う者が、目をそらせばすぐに滅びるように、自分の肉体と戦う者も、それを休ませればすぐに滅びる。
227. 腐った梯子を登る者が危険にさらされるように、あらゆる名誉、栄光、権力は謙遜に抵抗する。
228. 空腹の人がパンを忘れることが不可能であるように、死と最後の審判を忘れる人が救われることは不可能である。
229. 水が文字を洗い流すように、涙は罪を洗い流すことができる。
230. 水がないため文字が他の方法で消されるように、涙を奪われた魂は悲しみとため息と嘆きによって罪を清め、消し去る。
231. 不純物が多ければ虫が多くなるように、食べ物が多ければ、堕落や悪しき考え、悪夢が多くなる。
232. 足枷をつけられた者が快適に歩けないように、金銭を集める者は天に昇ることができない。
233. 新しい傷が簡単に治るように、長期間続く精神的な潰瘍は、治療を受けても治りにくいという逆のことが起こります。
234. 死にゆく人が歩くことができないのと同じように、絶望した人が救われることも不可能である。
235.正しい信仰を持っていると主張しながら罪を犯す者は、目のない人のようです。また、真の信仰を持たずに善行を行う者は、水を汲んで悪い器に注ぐ人のようです。
236. 良い舵取りのいる船が神の助けによって安全に港に入るように、魂も良い羊飼いを持つなら、たとえかつて多くの罪を犯したとしても、容易に天国に昇ることができる。
237. たとえ非常に賢い人であっても、導き手のない人は容易に道を踏み外してしまうように、たとえこの世のあらゆる知恵を知っていても、独力で修道の道を歩む者は容易に滅びてしまう。
238. もし誰かが体が弱く、多くの重大な罪を犯したならば、謙遜の道と自分にふさわしい徳を歩むべきである。なぜなら、他に救いの道はないからである。
239. 長期の病気に苦しんでいる人が一瞬にして健康を取り戻すことが不可能であるのと同様に、情欲、あるいは情欲の一つを短期間で克服することは不可能である。
240. あなたの中で、あらゆる情熱とあらゆる美徳がどれほど強く作用しているかを考えてみてください。そうすれば、あなたの成功がわかるでしょう。
241. 金と粘土を交換する人が大きな損失を被るように、物質的な利益を得るために霊的なことを宣言したり表現したりする人も、同じように大きな損失を被る。
242. 多くの人はすぐに罪の赦しを受けたが、すぐに無執着を身につけた者はいなかった。なぜなら、無執着を身につけるには長い時間、大きな熱意、多くの愛の努力、そして神の助けが必要だったからである。
243. 種まきの時期に害を及ぼす動物や鳥、草が育つ時期に害を及ぼす動物や鳥、収穫の時期に害を及ぼす動物や鳥を調べて、動物の性質に応じて捕獲手段を用いよう。
244. 熱に苦しむ人が自殺する正当な理由がないのと同様に、いかなる場合も、人は最後の息を引き取るまで絶望すべきではない。
245. 父親を埋葬した人が葬儀から帰ってすぐに結婚式に行くのは恥ずべきことであるのと同様に、自分の罪を悔い改めた人がこの世の人々から平和や名誉、栄光を求めるのは不適切である。
246. 市民の住居が有罪判決を受けた犯罪者の住居と異なるように、罪を悔い改める人々の生活様式は、罪のない人々の生活様式とは全く異なるものでなければならない。
247. 王は、戦闘中に顔に重傷を負った兵士を軍から追放するどころか、それどころか褒美を与えてさらに熱心に励ませる。このように、天の王は悪魔から多くの苦難を受けた僧侶に冠を与える。
248. 魂の感覚は魂の自然な性質です。しかし、罪とはこれらの感覚を鈍らせることです。意識は悪の終焉または減少をもたらします。意識は良心の産物であり、良心は洗礼の際に私たちに与えられた守護天使の言葉と叱責です。したがって、洗礼によって啓蒙されていない人々は、どういうわけか不明瞭ではありますが、信者ほど悪行のために魂を苦しめられていないことに気づきます。
249. 悪の減少から悪からの離脱が生まれ、悪からの離脱は悔い改めの始まりである。悔い改めの始まりは救いの始まりであり、救いの始まりは善意である。善意は労働を生み出し、労働の始まりは徳である。徳の始まりは徳の花であり、この花の始まりは行動であり、行動の果実は不変性である。絶え間ない学習の果実と誕生は習慣であり、習慣から善に根ざし、この根ざしから神への畏れが生まれ、畏れから天と地の戒めを守ることが生まれる。戒めを守ることは愛のしるしであり、愛の始まりは謙遜の豊かさである。謙遜の豊かさは無情の母である。そして、無執着の獲得は完全な愛、すなわち、無執着を通して「心の清い者」となった人々のうちに神が完全に宿ることである。彼らは神を見るであろう (マタイによる福音書 5章8節)。神に永遠に栄光あれ。アーメン。
::[[はしご (ヨハネ・クリマコス)/第26章#第26章|先頭に戻る]]
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作者:石原純
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はしご (ヨハネ・クリマコス)/第27章
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*底本: [https://azbyka.ru/otechnik/Ioann_Lestvichnik/lestvitsa-ili-skrizhali-dukhovnye/ Лествица はしご] ヨハネ・クリマコス(ロシア語)
*ウィキソースによる日本語訳
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'''はしご (ヨハネ・クリマコス)'''
== 第27章 ==
<< 魂と肉体の神聖な沈黙について >>
1. 私たちは、いわば常に不純な情欲の奴隷であり、その欺瞞、習慣、意志、狡猾さを、自らの経験からある程度知っています。しかし、聖霊の働きによって悪魔の策略をはっきりと理解し、これらの敵対者の苦しみから解放された人々もいます。健康の心地よさを病気の苦痛な感覚で判断することと、健康の安楽さを通して病気から来る悲しみを認識し、見分けることは全く別のことです。ですから、弱者である私たちは、この議論の中で沈黙の安息地について哲学的に論じることを恐れています。なぜなら、良き兄弟愛の食卓には、常にパン、すなわち魂を奪い取ろうとする犬がいて、それを口にくわえて逃げ出し、黙ってそれをむさぼり食うからです。ですから、私たちの言葉が、あの忌まわしい犬や罪悪感を求める者たち(つまり、時期尚早な沈黙への誘惑に駆られる者たち)に屈しないよう、今、戦いの最中にある我らが王の勇敢な戦士たちと平和について語るべきではないと考えます。ただ、平和と静穏の冠は、共同生活の中で勇敢に闘う者たちのために編まれるものだとだけ申し上げましょう。しかし、もしあなたが望むのであれば、少なくとも沈黙を理解するために、少しだけ沈黙について語りましょう。他の話題ばかりを取り上げ、この話題を全く触れずに通り過ぎてしまうことで、誰かを不快にさせてしまうことを避けるためです。
2. 身体の沈黙は秩序であり、道徳と身体感覚の健全な秩序である。魂の沈黙は思考の秩序であり、盗まれていない思考である。
3. 沈黙を愛する者は、心の扉に揺るぎなく立ち、入り込んでくる思考を殺し、あるいは退ける、ある種の勇敢で厳格な考えを持っている。心の感覚において沈黙を守る者は、私が言ったことを理解している。しかし、沈黙においてまだ子供のような者は、この祝福を味わっておらず、知らない。
4. 霊的に聡明なヘシカストは、言葉による指示を必要としない。なぜなら、彼は言葉ではなく行いによって啓蒙されるからである。
5. 沈黙の始まりは、心の奥底を乱すものとして、敵のあらゆる騒音を退けることにある。そして沈黙の終わりは、それらの騒音を恐れず、感じずにいることにある。肉体は独房から出ても、言葉で(会話をするために)外に出ない孤独な人は、温和で、まさに愛に満ちた家である。饒舌でない人は、動じず、怒りっぽい。その反対は明白である。
6. 沈黙の人とは、非物質的な存在を物質的な住居の範囲内に留めようと努力する人のことである。112稀で驚くべき偉業である。
7. 猫は目に見えるネズミを守る。そして、沈黙する人は目に見えないネズミを守る。この例えを否定してはならない。そうでなければ、あなたはまだ沈黙とは何かを知らないのだ。
8. 孤独な修道士は、他の修道士と共に暮らす修道士と同じように救われるわけではない。孤独な修道士には、極めて厳格な禁欲と、心を乱さないことが求められるからである。兄弟はしばしば、他の修道士と共に暮らす修道士を助けるが、孤独な修道士を助けるのは天使である。
9. 知性のある天の力は、心の静かな者に仕え、愛をもって彼と共にいるでしょう。しかし、私は反対のことについてあなた方に沈黙を守ります。
10. 教義の深さは計り知れない。そして、ヘシカストの精神は危険を冒さずにその深淵に踏み込むことはできない。
11. 服を着たまま泳ぐのは危険である。同様に、情熱を抱いている者が神学に携わることもまた、危険なことである。
12. 沈黙する者の独房には彼の肉体があり、その中に精神の神殿がある。
13. 霊的な情欲に苦しみながら沈黙しようとする者は、船から海に飛び込み、板に乗って安全に岸にたどり着けると考えているようなものである。
14. 肉体的な欲望に苦しむ人々にとって、適切な時に沈黙はふさわしい。ただし、彼らに導き手がいる場合に限る。孤独な生活には天使のような強さが必要だからだ。ここで私が言っているのは、肉体的にも精神的にも真の孤独を貫く人々のことである。
15. 沈黙者は怠惰になり、嘘をつき始め、人々が彼を説得して沈黙を破るように促すようなヒントをいくつか与え、独房を出て、自分が悪魔であることを知らずに、このことを悪魔のせいにする。
16. 私は沈黙する人々を見たが、彼らは神への燃えるような渇望を沈黙で飽くことなく満たし、火で火を、熱心さで熱心さを、情欲で情欲を生み出した。
17. ヘシカストは、愛の筆跡で祈りを怠惰と怠慢から解放した天使の地上の姿である。ヘシカストは、「神よ、私の心は準備できています」(詩篇56篇8節)と明確に叫ぶ者である。ヘシカストは、「私は眠っているが、私の心は見守っている」(雅歌5章2節)と言う者である。
18. 体への牢獄の扉を閉め、会話への唇の扉を閉め、悪霊への魂の内なる扉を閉めなさい。
19. 静寂と真昼の太陽の熱は船乗りの忍耐力を明らかにし、生活必需品の欠如は寡黙な男の忍耐力を明らかにする。前者は臆病さゆえに水浴びをし、後者は絶望感から人混みを求める。
20. 悪魔が跳ね回る音を恐れてはならない。泣き声は恐れを知らず、おびえることもないからである。
21. 心から祈ることを学んだ者は、王の耳元で祈るように、主と顔と顔を合わせて語ります。しかし、口先だけで祈る者は、まるで全会衆の前で祈るように、主の前にひれ伏します。平安のうちに祈る者は、民衆の喧騒の中で王に嘆願する者のようです。もしあなたが自らの経験を通して祈りの技を学んだなら、私の言葉はあなたに明らかでしょう。
22. もしあなたが方法を知っているなら、高い所から見張ってみなさい。そうすれば、いつ、どこから、何人、どのような盗賊があなたのぶどうを盗もうとしているのかが分かるでしょう。
23. この衛兵は疲れると立ち上がって祈り、それから再び座って勇気を持って最初の任務に取り掛かる。
24. 私が述べたことを経験したある人が、この件について微妙かつ詳細な議論をしたいと思ったが、そうすることで労働者を怠惰に導いてしまうのではないか、また、自分の言葉の響きでこの仕事を始めようと熱望している人々を怖がらせてしまうのではないかと恐れた。
25. 沈黙について詳細かつ微妙な議論に踏み込む者は、悪魔を自分自身に敵対させる武器を与えることになる。なぜなら、彼以上に悪魔の暴虐と策略をうまく説明できる者はいないからである。
26. 沈黙に達した者は、奥義の深淵を知るに至った。しかし、悪魔の風の息吹と誘惑の波の荒れ狂いをまず見て聞いていなければ、あるいはそれらに浸かっていなければ、その深淵に入ることはなかっただろう。使徒パウロは、我々が述べたことを裏付けている。なぜなら、彼が楽園、すなわち沈黙へと引き上げられなければ、言い表せない言葉を聞くことはできなかったからである。沈黙する者の耳は、神からの驚くべき啓示を受けるであろう。それゆえ、全知全能の沈黙はヨブを通してこう言う。「私の耳は、神から驚くべきことを受けないだろうか」(ヨブ記4章12節)。
27. 真のヘシカストは、神の甘美さを奪われたくないので、人々に対して憎しみを抱くことなく、他の人々が熱心に彼らに近づいてくるのと同じように、すべての人々から身を引く。
28. 「行きなさい」、そしてあなたの「所有物」を速やかに浪費し( 「売る」という言葉には時間がかかるため)、「貧しい人々に与えなさい」(マタイ19章21節)、そうすれば彼らは祈りを通してあなたが沈黙を得るのを助け、あなたの十字架を背負い、従順にそれを担い、あなたの意志を断ち切る重荷をしっかりと耐え忍ぶことができるでしょう。それから「来なさい」、そして私について来て、最も祝福された沈黙との一致を目指しなさい。そうすれば私はあなたに知的な力の目に見える働きと生活を教えましょう。彼らは創造主を賛美するだけでは決して満足しません。同様に、沈黙の天に昇った者も創造主を賛美するだけでは決して満足しません。非物質的なものは物質を気にかけません。また、非物質的なもののように肉体に生きる者も食物を気にかけません。前者は食物の必要性を感じませんが、後者は生活のために人間の助けを必要としません。前者は金銭や所有物を軽蔑し、後者は悪魔の悪意を軽蔑します。天上の者たちには目に見える創造物への欲求はありません。高みで瞑想する者たちは、感覚的なものを見たいとは望まない。天使たちは愛において前進することを決してやめず、孤独な者たちも日々彼らを模倣しようと努力することをやめない。彼らの進歩の豊かさは彼らにとって未知のものではなく、上昇への熱意もまた然りである。そして、彼らはセラフィムの至高の尊厳に達するまで努力をやめず、天使となるまで前進し続けるであろう。このような崇高な至福を享受することを望む者は幸いであり、来世においてそれにふさわしいと認められる者は最も幸いである。しかし、既にこの至福を享受している者は天使である。
{{center|沈黙の様々な種類について}}
29. あらゆる学問や芸術において、それを実践する人々の知識の程度や意図は様々であることは周知の事実である。なぜなら、勤勉さの欠如や生まれ持った力の不足のために、誰もがすべてを完璧に成し遂げられるわけではないからである。ある者は、舌の節制の欠如や悪い生活習慣のために、沈黙の港、いや、むしろこの深淵と深淵へと入っていく。またある者は、非常に短気なため、人混みの中で生活しているとそれを制御できず、砂漠へと向かう。またある者は、傲慢さゆえに、修道院長の指導の下よりも自分の自由意志で航海する方が良いと考える。またある者は、物質に囲まれていると、欲望や情欲を抑えることができず、またある者は、孤独な生活を通してより大きな熱意と勤勉さを身につけたいと願う。ある者は、密かに罪のために自分を苦しめるためであり、またある者は、孤独な生活を通して栄光を得るためにそうしたのである。また、ある者たちは(もし人の子が来られる時に地上にそのような者たちを見いだすならば)、神の愛を享受し、その甘美さに惹かれて渇望する愛を満たすために、孤独と結びついた。しかし、彼らはあらゆる絶望を捨て去るまではそうしなかった。なぜなら、孤独という観点からこの情熱と結びつくことは、姦淫とみなされるからである。
30. 私に与えられたわずかな理解力で、未熟な建築家のように、私は昇りの梯子を造りました。各自、自分がどこに立っているのかを考えてみなさい。沈黙を求めるのは、自分の意志によるものか、人間の栄光のためか、舌の弱さのためか、抑えきれない苛立ちのためか、過度の情熱のためか、罪の償いのためか、徳の功績に対する熱意を高めるためか、神への愛において火に火を注ぐためか。最後の者が先になり、最初の者が後になる。これら八種類の沈黙のうち、七種類はこの世の週を構成し、あるものは神に喜ばれ、あるものは神に喜ばれない。第八種類は疑いなく来世の印を帯びている。
31. 孤独な僧よ、いつ、どのような動物があなたのところに来るかをよく観察しなさい。さもなければ、それらの動物に適した網を仕掛けることはできないだろう。もし絶望が離婚によって完全にあなたから去ったならば、あなたは手仕事など必要としないだろう。しかし、もしそれがまだあなたを襲うならば、どうしてあなたが沈黙を保てるのか、私には分からない。
32. なぜ尊者タベンニシイテスはスケテイテスのようなランプを持っていなかったのか?これを理解できる者は理解すればよい。しかし、私はこれについて語ることはできない、いや、むしろ語りたくない。
33. 深い沈黙の中にいる人々の中には、情欲を抑える者、ほとんどの時間を賛美歌の朗読に費やす者、忍耐強く(黙想の)祈りにとどまる者、幻視を求めて努力する者がいる。これらの実践を梯子のように、つまり段階的に進めなさい。主にあってこれを受け入れることができる者は、受け入れなさい(マタイ19章12節)。
34.怠惰な者の中には、共同生活に入り込むと、そこで多くの快適さと怠惰を満たす糧を得るが、その結果、完全に破滅してしまう者もいる。しかし、共に暮らす人々の模範に触発されて、怠惰を捨てる者もいる。これは怠惰な者だけでなく、熱心な者にも起こることである。
35. 隠者の孤独についても同じことが言える。砂漠は多くの熟練者を受け入れたが、その後、彼らを未熟者として拒絶し、彼らが自らの意志で屈服した快楽への欲望を露わにした。しかし、未熟な者も受け入れたことで、彼らを勤勉で熱心な者へと変え、自らの罪の重荷に対する責任への畏怖と懸念を植え付けたのである。
36. 偽善的に怒りや傲慢、偽善や恨みに囚われている者は、たとえ微塵も沈黙を見ようとしてはならない。さもなければ、精神錯乱に陥り、それ以上の事態は起こらないだろう。しかし、これらの情欲から清められた者は、たとえ自分にはそれができないと思っても、何が有益であるかを見出すだろう。
37. 理性をもって沈黙を通り抜ける者を識別する兆候、徴候、および性質は、乱されない心、浄化された思考、主への恍惚、永遠の苦痛の表象、死の近さの記憶、飽くなき祈り、絶え間ない警戒、姦淫の抑制、情欲の無知、世俗に対する自己抑制、暴食の嫌悪、神学の始まり、理性の源、涙の交わり、多弁の破壊、および群衆の中に留まることと相容れないこれらに類似するすべてのものである。
38. それとは逆に、理解せずに沈黙を貫く者の兆候は、前述の富の極端な欠乏、怒りの増大、恨みの保持、愛の減少、傲慢の増大である。その他のことについては、私は沈黙を守る。
39. 真の孤独者と偽りの孤独者について述べたので、ここでは従順なままでいる人々の特質についても述べる必要がある。特に私の話は彼らに特に及ぶからである。
40. 神を宿す父祖たちの教えに従い、正当に、不純に、そして誠実に、美しく神にふさわしい従順さをもって結びついた人々のしるしは、次のとおりである。これらは、私たちが日々(ただその日を主に捧げるならば)霊的な成長と進歩を受けながら前進し続けるとしても、適切な時期に達成される。すなわち、謙遜さの増大、いら立ちの減少(胆汁が枯渇すれば、どうして減少しないだろうか?)、心の暗闇の貧困化、愛の燃え上がり、情欲の分離、憎しみからの解放、叱責による情欲の減少、落胆の無知、熱意の増大、慈悲の心、傲慢の回避である。これは、誰もが求めるに値する進歩であるが、それを見つける者は少ない。泉に水がなければ、もはや泉とは呼べない。そして、残りの人々、すなわち理解力のある人々は、理解するであろう。
41. 寝床を守らなかった妻は体を汚し、契約(服従の契約)を守らなかった魂は霊を汚した。前者の罪は非難、憎しみ、殴打、そして最も嘆かわしいことに離婚へと続く。後者の罪は、汚れ、死の忘却、飽くなき暴食、目の不節制、虚栄の追求、過度の睡眠、心の頑なさ、精神の混乱、不従順、矛盾、偏り、不信仰、心の不安、おしゃべり、そして最も悪い放縦な振る舞いへと続く。しかし、最も哀れなのは、良心の呵責のない心であり、それは不注意な者においては完全な無感覚、すなわち堕落の母へと導くのである。
42. 八大霊のうち、五つの悪霊は沈黙する者と戦い、三つの悪霊は服従する者と戦う。
43. 沈黙し、落胆と闘う者は、しばしば大きな損失を被る。なぜなら、彼は祈りと瞑想の時間を、この情欲との闘いにおける様々な策略に費やしてしまうからである。
44. ある時、独房に座っていると、ひどく怠惰になり、そこを出て行こうかとさえ考えた。しかし、見知らぬ人たちがやって来て、孤独な私を大いに褒め称えた。すると、怠惰の考えはたちまち消え去り、虚栄心に駆り立てられたのだ。虚栄心という狡猾な悪魔が、いかにあらゆる精神に抵抗するのか、私は驚いた。
45. あなたの心に常に付きまとうこの存在(すなわち、落胆の霊)の様々な動き、高揚、傾き、変化を毎時間観察し、これらの動きによってあなたがどのように、そしてどこへ傾くのかを観察しなさい。聖霊によって静寂を得た者は誰でも、こうした微妙な変化に気づいているはずです。
46. 静寂の予備的な作業は、祝福されたものと禁じられたものへのあらゆる心配を捨てることである。なぜなら、祝福されたものへの入り口を開いた者は、必ず禁じられたものに陥るからである。第二の作業は、怠惰のない祈り(すなわち、詩篇の歌唱)であり、第三の作業は、盗まれない心の守りである。自然の摂理によれば、文字を学んでいない者が書物を読み、研究することは不可能であり、ましてや最初のことを習得していない者が、後者の作業を理解をもって行うことはなおさら不可能である。
47. これらの業の途中、私は中程度の視力の段階にあり、より大きな啓示を渇望したとき、天使は私を啓示してくださいました。そして再び同じ段階にいたとき、私は彼に尋ねました。「主は人間の姿をとる前はどのようなお方でしたか?」しかし、天の力の君主は私にこれを教えることはできませんでした。また、彼にはそれが許されていませんでした。そこで私は彼に、主が今どのような状態にあるかを明らかにしてくださるようにお願いしました。「本来の状態であり、この状態ではない」と彼は答えました。私は再び尋ねました。「 父の右に立っておられる主はどのようなお方ですか?」彼は答えました。「この奥義の理解を耳で知ることは不可能です。」私は彼に、私の望みが導くところへ導いてくださるようにお願いしました。しかし彼は言いました。「その時はまだ来ていません。あなたの中では不朽の火はまだ小さいからです。」しかし、これらすべてが私に起こったとき、私が肉体の中にいたのか、肉体の外にいたのか、私にはわかりませんし、言うこともできません。
48. 昼寝を追い払うのは難しい、特に夏はそうだ。その時だけ手芸が許される。
49. 私は、絶望の悪魔が淫行の悪魔に先立って、その道を整え、体を深く弱らせ、眠りに陥れることで、淫行の悪魔がまるで目覚めているかのように、沈黙の中で罪を犯せるようにするのだと学びました。もしあなたがこれらの霊に勇敢に抵抗するならば、彼らは必ずあなたに激しい戦いを挑み、あなたが沈黙の闘いを全く無益なものとして放棄するように仕向けるでしょう。しかし、悪魔が私たちに仕掛ける激しい戦いほど、悪魔に対する勝利を証明するものはありません。
50. 孤独から抜け出すときには、集めたものを守りなさい。檻の扉が開いてしまえば、閉じ込められていた鳥は飛び出してしまう。そうなれば、沈黙はもはや私たちにとって何の役にも立たなくなるだろう。
51. 小さな髪の毛が目を煩わせ、少しの心配事が静寂を破る。なぜなら、静寂とは救いの業に関係のないすべての心配事を脇に置き、たとえもっともらしく思える心配事であっても、すべてを拒絶することだからである。
52. まことに、沈黙に達した者は自分の体を気にかけない。なぜなら、それを世話すると約束した方は偽りではないからである。
53. 神に清い心を捧げようとしながらも、心配事で自分を悩ませる者は、足をきつく縛って急いで歩こうとする者のようだ。
54. 世俗的な知恵を完全に習得した人は稀であり、真の沈黙という神聖な知恵を知っている人はさらに少ないと言えるでしょう。
55. まだ神を知らない者は沈黙することができず、この道で多くの苦難に遭う。沈黙は未熟な者を滅ぼす。なぜなら、彼らは神の甘美さを味わったことがないため、捕虜と略奪、落胆と絶望の中で一生を過ごすからである。
56. 祈りの甘美さを味わった者は、あたかも野生のロバのように、人との交わりを避けるようになる。というのも、祈り以外に、何が彼を、人間社会との関わりから完全に解き放たれた「野生のロバ」のような存在へと駆り立てるというのだろうか。
57. 情欲に取り憑かれた者は、砂漠で絶えず情欲を瞑想して過ごす。これは、最も尊敬すべき父よ、あなたもご存知であろう聖なる長老アルセライテのゲオルギオスが語り、教えたとおりである。かつて、彼は私の不徳な魂を諭し、沈黙へと導こうとして、こう言った。「朝には、虚栄心と肉欲の悪魔が大抵私たちのところにやって来る。正午には、落胆、悲しみ、怒りの悪魔が。そして夕方には、腹を苦しめる卑しい愛の悪魔がやって来る。」
58. 心配事に気を取られている孤独な人よりも、謙虚で従順な召使いのほうがましである。
59. 賢明にも沈黙に入ったにもかかわらず、日々の利益が見られない人は、沈黙すべきほど沈黙していないか、あるいは自惚れを失っているかのどちらかである。
60.沈黙は神への絶え間ない奉仕であり、神の御前に立つことである。
61. イエスの記憶をあなたの呼吸と一体化させなさい。そうすれば、あなたは沈黙の恩恵を知るでしょう。
62. 修道士の堕落は彼自身の意志によるものであり、沈黙する人の堕落は祈りの放棄である。
63. もしあなたが、人々があなたの独房に来ることを喜ぶなら、あなたは落胆にふけっていて、神に仕えていないことを知りなさい。
64. 福音書に記されている、ライバルに不当な扱いを受けた未亡人を祈りの模範とし、偉大で天使のような静寂主義者アルセニウスを沈黙の模範としましょう。孤独な時、この天使のような人の生涯を思い出し、彼が何度も自分を明かさずに、さらに多くの人を失わないようにして、訪ねてきた人々を追い返した様子を観察してください。
65. 私は、悪魔が愚かな放浪者に真の隠者のもとへ頻繁に出向くよう指示し、そうした訪問者を通して善行を行う者たちの妨げを少しでも減らそうとしていることを知りました。愛する者よ、そのような人々を観察し、敬虔な叱責によってこれらの怠惰な者たちを悲しませることを恐れてはなりません。おそらく、この悲しみによって彼らは放浪をやめるでしょう。しかし、そのような意図で、渇きから水を汲みにあなたのもとへ来る魂を不必要に悲しませないように注意してください。実際、あらゆることにおいて、あなたは識別の灯火を必要としているのです。
66. 静寂を実践する者、そして一般的に修道士の生活は、良心と理性によって導かれなければならない。理性をもってこの道を歩む者は、魂の思いで、あたかも主の御前にいるかのように、あらゆる努力、言葉、思考、歩み、行動、そして行うすべてのことを主のために、主を喜ばせるために行う。もし彼がこれを奪われるならば、彼はまだ徳の規則に従って生きていないことになる。
67. 「私は、自分の望みと意志を詩篇に書き記そう」とある人が言う。なぜなら、私の判断はまだ不完全だからである(詩篇48篇5節)。しかし、私は祈りの中で自分の意志を神に捧げ、神から私の宣言を待つ。
68. 信仰は祈りの翼である。この翼がなければ、私の祈りは私の胸に戻ってくるだろう。信仰は、いかなる祝福された不安にも揺るがない、魂の不滅の力である。信者とは、神にとってすべてのことが可能であると考える人ではなく、神から求めるものすべてを受け取ると信じる人である。信仰は、十字架上の賢い盗賊の例が示したように、あえて望まないものさえも受け取る。信仰の母は、勤勉と正直な心である。後者は信仰を確かなものにし、前者は信仰を築き上げる。信仰はヘシカストの母である。もし彼が信じなければ、どうしてヘシカストになれるだろうか。
69. 牢獄に閉じ込められた囚人は処刑人を恐れるが、独房で静かに暮らす者は神への畏怖を抱く。そして前者は人間の裁きを恐れるよりも、後者は永遠の裁き主の裁きを恐れる。尊き者よ、沈黙には多くの畏怖が必要である。なぜなら、それほど絶望を払いのけるものはないからだ。死刑囚は常に裁き主が牢獄に来る時を待つが、真の沈黙の実践者は避けられない死の到来を待つ。前者は悲しみの重荷に押しつぶされるが、後者の涙の泉は決して枯れることがない。
70. 忍耐の杖を手に入れれば、地獄の番犬はすぐに恥知らずにもあなたに立ち向かうことをやめるでしょう。忍耐は魂の苦痛な感情であり、祝福された必要によって決して克服されるものではありません。忍耐強い人は、たとえ失敗しても勝利を収める、決して怠らない働き手です。忍耐とは、自分自身の目的であり、日々の悲しみを予期することです。忍耐とは、言い訳と自分自身への注意を断ち切ることです。静寂を実践する人は、肉体的な食物よりも忍耐を必要とします。なぜなら、後者によって彼は冠を得るのに対し、前者によって彼はしばしば自らを破滅に陥れるからです。忍耐強い人は死ぬ前に死に、自分の独房を墓とします。忍耐は希望と悲しみから生まれます。この二つの美徳を欠く孤独な人は、絶望の奴隷です。
71. キリストの兵士は、どの敵を遠くから追い払うべきか、どの敵と戦うことを許すべきかを知らなければならない。この戦いは時に私たちに栄光をもたらすが、また時には戦いを放棄することで私たちは無力になる。しかし、これは言葉だけで学ぶことはできない。なぜなら、私たち全員が同じ能力を持っているわけではなく、またその程度も人それぞれだからである。
72. あなたが立っているときも歩いているときも、座っているときも動いているときも、食事をしているときも祈っているときも、眠っているときも、常にあなたと戦っている悪霊の狡猾さを特に注意深く観察しなさい。
73. この霊的な働きの天の小麦から焼かれたパンは、すべて同じ種類ではありません。ある人は、ダビデの次の言葉を常に心に留めています。「わたしはいつも主をわたしの前に置いている」(詩篇 16篇8節)。またある人は、「忍耐をもって自分の魂を守りなさい」(ルカ 21章19節)。またある人は、「目を覚まして祈りなさい」(マタイ 26章41節)。またある人は、「あなたの働きの結果に備えなさい」(箴言 24章27節)。またある人は、「わたしは謙遜であったが、主はわたしを救ってくださった」(詩篇 115篇6節)。ある人は、「わたしたちは今の苦しみを受けるに値しない」(ローマ 8章18節)と、将来の栄光と対比して考えます。そして最後に、ある人は、常に次の言葉を心に留めています。「主がわたしを奪い去ってしまわないように、わたしを救い出す者がいなくなることがないように」(詩篇 49篇22節)。全員が走るが、苦労せずに名誉を得るのは一人だけである。
74. 成功した者は、起きている時だけでなく、寝ている時も仕事を怠らない。そのため、ある者は眠っている間にも、自分に近づいてくる悪霊を恥じ入らせ、夢の中で見た放蕩な女たちに貞潔を教える。訪問を期待してはならないし、前もって準備してはならない。沈黙の構造は、すべてが単純で制約のないものとなるようにできているからである。
75. 沈黙の柱と独房を築こうとする者は、まず座って祈りながら、完成に必要なものを持っているかどうかを吟味せずに、このことに着手することはない。そうすれば、基礎を築いたにもかかわらず完成させることができず、敵の笑いものになったり、他の霊的修行者のつまずきの石になったりすることはないだろう。
76. その甘美さを考えてみてください。それは、苦々しい医者によって、あるいはむしろ人間の魂を陰険に殺す者たちによって毒されているのではないでしょうか。
77. 夜は、祈りに多くの時間を費やし、詩篇の朗読にはそれほど時間をかけないようにしましょう。日中は、自分の体力に合わせて再び準備をしましょう。
78. 聖書を読むことは、心を大いに啓発し、集中させる力があります。なぜなら、聖書は聖霊の言葉であり、それを読む者を啓発するからです。実践者として、教父たちの実践的な書物を読みなさい。それらを実践することによって、他の書物を読む必要はなくなります。救いの意味と働きを、書物からだけでなく、実践を通してより深く学ぶよう努めなさい。霊的な力を得る前に、正教の信仰にそぐわない書物を読まないようにしなさい。それらは闇に満ちており、弱い者の心を暗くするからです。
79. 一杯のワインがその味を明らかにするように、寡黙な人の一言は、それを理解できる者の前で、その人の内面の働きと気質をすべて明らかにする。
80. 霊的な目で傲慢さを注意深く見守りなさい。あらゆる誘惑の中で、この情欲ほど破壊的なものはないからです。
81. 孤独から抜け出すときには、舌を慎みなさい。舌は多くの努力の成果を短期間で無駄にしてしまう可能性があるからである。
82. 好奇心を持たないように努めなさい。なぜなら、好奇心ほど沈黙を汚すものはないからである。
83. 私たちのもとに来る人々には、心身ともに必要なものを与えましょう。もし彼らが知恵において私たちより優れているならば、私たちは沈黙によって知恵への愛を示しましょう。しかし、もし彼らが霊的な成熟において私たちと同等の兄弟であるならば、私たちは控えめに言葉を交わしても構いません。とはいえ、誰もが私たちより優れていると考える方が良いでしょう。
84.私は、まだ苦難の道を歩み始めたばかりの者たちのために、祈りの時間には肉体労働を完全に禁じようと思ったのですが、夜通し衣服の裾に砂を入れて歩いていた人に止められました。
85. 聖なる、創造されていない、崇拝される三位一体に関する信仰の教義が、同じ賛美される三位一体の唯一の方の受肉についての教えと対立するのと同様に、三位一体において複数形で理解されなければならないものがキリストにおいて単数形で理解され、その神において単数形のものがキリストにおいて複数形で理解されるのと同様に、ある種の教育的偉業は沈黙に適し、他の教育的偉業は共同体による服従に適する。
86. 神の使徒はこう言っています。「主の御心を知る者はだれか」(ローマ11章34節)。しかし私はこう言います。「体も心も沈黙している人の心を知る者はだれか」。
::王の力は富と臣民の多さにある。沈黙の人の力は祈りの多さにある。
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オプティナ・プスティン兄弟団訳、ヨハネ・クリマコス "Лествица" の第27章を翻訳。
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はしご (ヨハネ・クリマコス)/第28章
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村田ラジオ
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*底本: [https://azbyka.ru/otechnik/Ioann_Lestvichnik/lestvitsa-ili-skrizhali-dukhovnye/ Лествица はしご] ヨハネ・クリマコス(ロシア語)
*ウィキソースによる日本語訳
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'''はしご (ヨハネ・クリマコス)'''
== 第28章 ==
<< 徳の母、聖なる祝福された祈りについて >>
1. 祈りは、その性質において、人間と神との永遠かつ一致であり、その行為において、平和の肯定、神との和解、涙の母であり娘、罪の贖罪、誘惑を克服するための橋、悲しみからの保護の壁、戦いの粉砕、天使の働き、すべての非物質的存在の糧、未来の喜び、終わりのない活動、美徳の源、賜物の原因、目に見えない成功、魂の糧、精神の啓蒙、絶望に対する斧、希望の兆し、悲しみの破壊、修道士の富、ヘシカストの宝、怒りの鎮め、霊的成長の鏡、成功の知識、魂の状態の啓示、未来の報いの前兆、栄光のしるしである。祈りは、真に祈る者にとって、最後の審判の前にあって、裁きの場であり、審判者の玉座となる。
2. 立ち上がって、この聖なる美徳の女王が高い声で私たちに呼びかけ、「すべて重荷を負って苦労している者は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしのくびきを負いなさい。そうすれば、あなたがたは魂に安らぎを見出し、傷が癒されるでしょう。わたしのくびきは負いやすく、大きな罪を癒すからです」(マタイ11章28-30節)と言っているのを聞きましょう。
3. 王であり神である御前に出向き、御方と語り合おうとしている私たちは、準備不足のままこの旅に出発してはなりません。さもないと、遠くから私たちを見て、王の前に立つ者が必ず持っていなければならない武器や衣服を身につけていないのを見て、御しもべや召使に命じて私たちを縛り、御前から遠くへ投げ捨て、私たちの嘆願書を引き裂いて私たちの顔に投げつけるかもしれません。
4. 主の御前に立つときには、あなたの魂の衣全体が、罪の赦しという糸、いや、むしろその誓約によって織り上げられているようにしなさい。さもなければ、祈りから何の益も得られないでしょう。
5. 祈りの内容は簡潔にしなさい。徴税人と放蕩息子は、たった一言で神をなだめたのだから。
6. 祈りの方法はどれも同じように見えるが、実際には多くの違いと程度がある。ある者は神を友として、同時に主として近づき、もはや自分のためではなく隣人を守るために歌と祈りを捧げる。またある者は霊的な富、栄光、そしてより大きな大胆さを求める。またある者は神に敵から完全に救い出してくれるよう懇願する。またある者はある程度の尊厳を求める。またある者は負債の完全な赦しを嘆願する。ある者は牢獄からの解放を求め、またある者は罪の究極的な赦しを求める。
7. まず、祈りの序文で神に心からの感謝を捧げましょう。次に、罪を告白し、心から悔い改めます。その後、万物の王である神に私たちの願いを捧げましょう。この祈りの形式は、主の天使によって兄弟の一人に啓示されたように、最良のものです。
8. もしあなたが被告人として地上の裁判官の前に立ったことがあるなら、祈りの仕方を他に探す必要はありません。もしあなたが法廷に立ったことがなく、他人が拷問を受けているのを見たことがないなら、少なくとも病人が医者に体を切り刻まれたり焼かれたりする時に慈悲を乞う姿から、祈り方を学びなさい。
9. 祈りの中で難解な言葉を使ってはいけません。なぜなら、子供たちの単純で素朴な言葉遣いが、天の父に喜ばれることがよくあるからです。
10. 神と対話する際は、言葉を探すのに気を取られないよう、冗長な表現は避けましょう。徴税人のたった一言が神をなだめ、信仰に満ちたたった一言が泥棒を救いました。祈りにおける冗長さはしばしば心を散漫にさせ、夢想にふけらせますが、簡潔さは心を落ち着かせてくれます。
11. もし祈りの言葉の中に特別な甘さや優しさを感じたら、その言葉に思いを馳せてください。そうすれば、私たちの守護天使が私たちと共に祈ってくれるでしょう。
12. たとえ清らかさを得たとしても、大胆になってはならない。むしろ、最も謙遜な心で神に近づきなさい。そうすれば、神からさらに大胆さを授かるであろう。
13. たとえあなたが徳の階段をすべて登り切ったとしても、罪の赦しを祈り求めなさい。聖パウロが罪人について言っていることを聞きなさい。「私は罪人の中で一番罪深い者です」(1テモテ 1章15節)。
14. 食べ物は通常、油と塩で味付けされる。貞潔と涙は祈りを呼び覚ます。
15. もしあなたが完全な柔和さと怒りからの解放を身にまとうならば、あなたは心を束縛から解放するために苦労する必要はないでしょう。
16. 真の祈りをまだ持っていない限り、私たちは赤ちゃんに歩き方を教えているようなものです。
17. さまよう思いを常に引き戻すよう努めなさい。あるいは、もっと良いのは、祈りの言葉に留めることです。もし、幼い頃に思いが疲れて散漫になったとしても、祈りの言葉に再び導いてください。なぜなら、移り気は私たちの心に自然なことだからです。しかし、万物を確立できるお方は、私たちの心に安定を与えることもできます。この努力にたゆまず励むならば、あなたの心の海に境界を定めるお方があなたのところに来て、あなたの祈りの中でこう言われるでしょう。「ここまで来ればよい。それ以上は行かない」(ヨブ記38章11節)。霊を縛ることは不可能です。そして、この霊の創造主がおられる所では、すべては創造主に服従するのです。
18. もしあなたが太陽を見たことがあるなら、太陽と正しく話すことができるでしょう。しかし、見たことのないものに対して、あなたは真実を語ることができるでしょうか?
19. 祈りの始まりは、心に浮かぶ思いをその瞬間に追い払うことであり、祈りの中間は、私たちが唱え、考える言葉に心を没頭させることであり、祈りの完成は、主への歓喜である。
20.共同生活の中で苦悩する人のために祈ることから生まれる喜びと、静かに祈ることから生まれる喜びは別物である。前者は多少傲慢さを帯びるかもしれないが、後者は完全に謙遜に満ちている。
21. もし、心が自分から離れていかないよう絶えず訓練するならば、食事の最中でさえ、心はあなたのもとに留まるだろう。しかし、もし心を気の向くままにさまよわせておけば、決してあなたのもとに留まることはない。それゆえ、深く完全な祈りを捧げる偉大な修行者は、「私はむしろ、自分の心をもって五つの言葉を語りたい……」(コリントの信徒への手紙一 14章19節)といった言葉を残している。とはいえ、霊的な歩みにおいてまだ幼児のような段階にある者にとって、そのような修行は不可能である。したがって、私たちは不完全な存在であるがゆえに、祈りの「質」と「量」を組み合わせなければならない。なぜなら、量は質へとつながり得るからである。実際、次のように記されている。熱心に祈る者には、神は純粋な祈りを与えてくださる――たとえその祈り自体がまだ純粋でなくとも、努力を込めて捧げられている限りは。
22. 祈りを冒涜すること、祈りを破壊すること、祈りを盗むこと、そして祈りの悪徳となることは、それぞれ異なる。祈りを冒涜するとは、神の御前に立つ人が、不道徳で不純な思いにとらわれることである。祈りを破壊するとは、心が無益な心配事に囚われることである。一方、祈りを盗むとは、祈っているという思いが気づかれないうちに心に浮かぶことである。そして、祈りの悪徳とは、祈りの最中に私たちに近づいてくるあらゆる思いの攻撃のことである。
23. 祈りによる執り成しの際に一人でない場合は、内なる祈りのイメージを用いましょう。賛美の奉仕者がいない場合は、内なる祈りに嘆願の外的なイメージを加えましょう。なぜなら、不完全な状態では、心はしばしば身体に同調してしまうからです。
24. すべての人、特に天の王に近づき罪の赦しを請う人は、言い表せないほどの悔恨の念を持たなければなりません。私たちがまだ(情欲の)牢獄にいる間は、使徒ペトロに言われた御言葉(使徒行伝12章8節)に耳を傾けましょう。「従順の衣を身にまとい、自分の欲望を捨て去り、それらを捨て去った上で、ただ主の聖なる御心だけを祈り求めて主に近づきなさい。そうすれば、あなたの魂の舵を取り、あなたを安全に導いてくださる神が、あなたの内に宿るでしょう。」
25. 世俗への愛と快楽への愛から立ち上がり、心配事を捨て、思考を捨て、肉体を放棄しなさい。祈りとは、目に見える世界と目に見えない世界から離れることに他ならないからです。「天において、私は何を持っているのか?」 ―何もありません。 「地上において、私はあなたから何を望んだのか?」 ―絶え間ない祈りの中で、静かにあなたに寄り添うこと以外には何もありません。ある者は富に、ある者は栄光に、ある者は獲得物に心を奪われます。「しかし私にとって、神に寄り添い、神に望みを置くこと」が私の望みであり、 私の無執着の実りです(詩篇 72篇25節、28節)。
26. 信仰は祈りに翼を与え、信仰がなければ祈りは天に届くことはできない。
27. 情欲の強い者たちよ!主に向かって熱心に、そして粘り強く祈ろう。情欲のない者たちは皆、情欲の状態から不死を得たのだから。
28.たとえ裁き主が神を恐れないとしても、罪と堕落によって神に寡婦とされた魂が神のために働きをするので、神はその敵である肉体と、その敵である悪霊から、その魂に報復するであろう(ルカ18章2-7節)。この善き救い主は、賢明な者たちの願いを速やかに叶えることによって、彼らを愛へと引き寄せる。しかし、感謝を知らない魂を、満たされない欲望への飢えと渇きで犬のように苦しめ、祈りの中で神と共に留まるようにさせる。なぜなら、感謝を知らない犬は、パンを与えられるとすぐに与え主から離れ去るからである。
29. 長時間祈り続けても実を結ばないなら、「何も得られなかった」と言ってはならない。祈り続けること自体が既に成果であり、主にとどまり、常に主と結びついていること以上に大きな祝福があるだろうか。
30. 死刑宣告を恐れるのは、死刑囚というよりも、むしろ熱心に祈る者が祈るという行為そのものを恐れるのである。ゆえに、賢明で熟練した者は、このことを心に留めて、あらゆる苛立ちや怒り、心配、無益な関心事、悲しみや飽食、誘惑的な思いを自分から遠ざけることができる。
31. 絶えず心の中で祈り続けることによって、祈りによる執り成しの準備をしなさい。そうすれば、すぐに成功するでしょう。私は従順さに輝き、できる限り心の中で神を思い起こすことを怠らなかった人々を見てきました。彼らは祈りの場に立つと、すぐに心を落ち着かせ、涙を流しました。それは、彼らが聖なる従順さによって前もって準備されていたからです。
32. 群衆の中での賛美歌は、束縛と高揚感を伴うが、孤独の中ではそうではない。むしろ、孤独の中では落胆が襲いかかるが、孤独の中では、他者の模範から熱意が生まれる。
33. 戦士の王への愛は戦いの最中に示され、修道士の神への愛は祈りの最中や祈りを捧げている時に明らかになる。
34. 祈りはあなたの心構えを示すでしょう。なぜなら、神学者たちは祈りは修道士の鏡であると断言しているからです。
35. 祈りの時間になっても何かに没頭してそれを続ける者は、悪霊に嘲笑される。なぜなら、これらの盗賊は、私たちから次々に盗むことを企んでいるからである。
36. もし誰かがあなたに祈りを頼んだら、たとえあなたがまだ祈りの賜物を得ていないとしても、拒んではならない。祈りを求める人の信仰は、悔い改めた心で祈る人を救うことが多いからである。
37. 他の人のために祈って聞き届けられたとしても、高慢になってはならない。それは、彼らの信仰が働き、それを成し遂げたからである。
38. 子どもの教師は毎日必ず、その子に自分が学んだことすべてを報告するよう求めます。同様に、神は祈りのたびに、その心が神から受けた力をどれほど発揮しているかを示すよう求めます。ですから、注意を払わなければなりません。真剣に祈れば、すぐに怒りに駆られるでしょう。なぜなら、私たちの敵はたいていそうするからです。
39. 私たちは常にあらゆる徳行、特に祈りを深い感情を込めて行わなければなりません。そうすれば、魂は苛立ちを超越した時に、感情を込めて祈ることができるのです。
40. 多くの祈りと年月を通して得られるものは、堅固で永続的なものである。
41. 主を得た者は、もはや自分の言葉で祈ることはありません。聖霊がその人のために、またその人の中で、「言い表せないうめきをもって」祈ってくださるからです(ローマ8章26節)。
42. 祈りの最中は、精神が錯乱状態に陥らないよう、感覚的な夢を一切受け入れてはならない。
43. 私たちは祈りの中で、神に私たちの願いが聞き届けられたという確証を得ます。確証とは疑念の払拭であり、未知なるものに対する確かな宣言です。
44. 熱心に祈りを実践しながら、慈悲深くあれ。この徳によって、僧侶はこの世で百倍の報いを受け、来世では永遠の命を得るであろう。
45. 火は心に入り込み、祈りを復活させる。復活して天に昇った後、火は魂の上層部に降りてくる。
46. 祈りは死の記憶よりも良いと言う人もいるが、私は一人の人間の中に二つの存在があることを歌う。
47. 優れた馬は、走れば走るほど興奮し、より速く走る。ここで言う「走る」とは、詩篇を歌うことであり、馬は勇敢な精神の持ち主である。そのような馬は遠くから戦いを予見し、それに備えているため、完全に無敵である。
48. 喉の渇いた人の唇から水を奪うのは残酷なことである。しかし、良心の呵責を感じながら祈っている魂が、祈りを終える前に、切望するこの存在から自らを遠ざけるのは、さらに残酷なことである。
49. 祈りの炎と涙の水が神の摂理によってあなたから去ったと確信するまで、祈りを諦めてはなりません。おそらく、あなたの生涯において、罪の赦しを得るためのそのような機会は二度と訪れないでしょう。
50. 祈りを味わった者は、しばしば一言でも口にすることで心を汚してしまう。そして、祈り始めると、以前に得ていたものを得ることができなくなる。
51. 心を精神で注意深く守ることと、精神を通して心の監督者となり、上長として、また大祭司としてキリストに霊的ないけにえを捧げることとは全く別物である。神学者と呼ばれる者の一人が言うように、聖なる天の火は、前者の魂に入ると、その清めの欠如のために彼らを焼き尽くすが、後者の魂は、その完全さの度合いに応じて照らされる。なぜなら、同じ火が、焼き尽くす火と照らす光の両方と呼ばれているからである。したがって、ある者は、まるで燃え盛る炉から出てきたかのように、何らかの不純や汚れから解放されたと感じて祈りを終える。一方、ある者は、光に照らされ、謙遜と喜びの二重の衣をまとったかのように祈りを終える。これら二つの結果のどちらも経験することなく祈りを終える者がいるとすれば、その祈りは霊的なものではなく、単に肉体的なもの――あるいは、「ユダヤ的」なものとでも言うべきもの――に過ぎなかったのである。
52. ある物体が別の物体に触れることでその動作が変化するならば、無垢な手で神の体に触れる者はどうして変化しないだろうか。
53. 私たちの全知全能の王は、地上の王と同じように行動されます。地上の王は、時には自ら兵士に贈り物を配り、時には友人を通して、時には奴隷を通して、また時には何らかの知られざる方法で配ります。これらすべては、私たちの謙遜という衣にふさわしい形で起こります。
54. 地上の王が、自分の前に立って顔を背け、主君の敵と話をする者を嫌うように、主もまた、祈りの際に自分の前に立って不純な考えを受け入れる者を嫌われる。
55. 祈りという武器を持ってあなたに近づいてくるこの犬を追い払いなさい。どれほど恥知らずであろうとも、彼に屈してはならない。
56. 涙を流して求め、従順に探し、忍耐強くたたいなさい。こうして、「求める者は受け、探す者は見つけ、たたく者には開かれる」(マタイ7章8節)。
57. 女性のために無差別に祈ることは慎みなさい。さもないと、右側から何かを奪われることになるかもしれない。
58. 主に罪を告白するときは、自分の肉欲的な行いの詳細を、起こったとおりに話してはなりません。そうすれば、あなたは自分自身を中傷する者とならないからです。
59. 祈りの最中は、必要不可欠なことや霊的なことさえも考えてはならない。さもなければ、最良のものを失ってしまうだろう。
60. 祈りの杖に常に寄りかかっている者はつまずくことはない。たとえつまずいたとしても、完全に倒れることはない。祈りは神からの義務だからである(ルカ18章5節)。
61. 私たちは、教会の集会中に悪魔が作り出す障害から祈りの恩恵を認識し、その実りは敵の敗北から生まれます。「このことによって私は知るのです」と詩篇作者は言います。「あなたが私を望み、戦いの時に私の敵が私を{{r|嘲笑|あざわら}}うことがないようにしてくださったことを」(詩篇40篇12節)。また、「私は全身全霊で叫びました」(詩篇119篇145節)、つまり体と魂と霊を尽くして叫んだのです。「この二つが集まる所には、神がその中におられるからです」(マタイ18章20節)。
62. すべての人の肉体的、精神的な体質は同じではありません。ある人にとっては速い詩篇歌唱が適切であり、またある人にとっては遅い詩篇歌唱が適切です。前者は思考の囚われと闘い、後者は学問の不足と闘います。
63. もしあなたが、敵のあらゆる攻撃に対して、天の王に絶えず祈り続けるならば、あなたは大きな困難に直面することはないでしょう。なぜなら、これらの不浄な者たちは、あなたが祈りを通して彼らとの戦いで勝利を得るのを見たくないからです。さらに、祈りによって火で焼かれたように、彼らは逃げざるを得なくなるでしょう。
64. どんな状況でも勇気を持って祈りなさい。そうすれば、神ご自身があなたの祈りの教師となってくださるでしょう。視力は生まれ持った能力なので、言葉で教えることはできません。同様に、祈りの美しさも教えだけで学ぶことはできません。祈りには教師、すなわち神がおられるからです。 「神は人に理解を教え、祈る者に祈りを与え、義人の年月を祝福される」(詩篇94篇10節、サムエル記上2章9節)。
::[[はしご (ヨハネ・クリマコス)/第28章#第28章|先頭に戻る]]
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オプティナ・プスティン兄弟団訳、ヨハネ・クリマコス "Лествица" の第28章を翻訳。
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禁欲的説教 (1854年ロシア語訳)
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2026-10-20T20:56:38Z
村田ラジオ
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モスクワ神学アカデミー訳、Слова подвижнические (перевод 1854 г.) を翻訳。
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*底本: [https://azbyka.ru/otechnik/Isaak_Sirin/slova-podvizhnicheskie-1854/#0_31 Слова подвижнические (перевод 1854 г.)]
*ウィキソースによる日本語訳
}}
== 禁欲的説教 (1854年ロシア語訳) ==
*[[/説教1|説教1]] 世俗を捨てることと修道生活について
*[[/説教2|説教2]] 神への感謝について、原典の教えを簡潔に解説する
*[[/説教3|説教3]] 魂が静かにして、世俗や世俗的な心配事から離れていれば、神の知恵と神の被造物についての知識に容易に到達できる。なぜなら、そうすれば魂は自身の本質と、自身の中に隠された宝を知ることができるからである。
*[[/説教4|説教4]] 魂、情念、そして心の純粋さについて――問答形式
*[[/説教5|説教5]] 感情について、そして同時に誘惑について
*[[/説教6|説教6]] 主の慈悲について。主はそれによって、その偉大さの高みから人間の弱さへと降りて来られた。また、誘惑について。
*[[/説教7|説教7]] 罪について。自発的な罪、非自発的な罪、そして何らかの理由で犯された罪について。
*[[/説教8|説教8]] 弱く不注意な人々から身を守り、彼らと親しくなると、不注意と弱さが人を支配し、あらゆる不純な情欲に満たされること、そして、心が不純な思いで汚されないように、若者と親しくなることから身を守ることについて。
*[[/説教9|説教9]] 修練者の階級と規則、そして彼らにふさわしいことについて
*[[/説教10|説教10]] 聖人たちの物語、彼らの尊い言葉、そして驚くべき生涯。
*[[/説教11|説教11]] 古代の長老について
*[[/説教12|説教12]] 別の長老について
*[[/説教13|説教13]] ある兄弟の問題について
*[[/説教14|説教14]] 叱責された兄弟について
*[[/説教15|説教15]] 静寂の様々な区別について、心の権能について、そして様々な祈りの形態において、心が自発的に自身の動きを引き起こす力はどの程度あるのかについて。また、祈りに対して自然そのものが設けている限界について――すなわち、どこまでが祈りとして許される範囲であり、どこから先は、たとえ行っている行為が「祈り」と呼ばれ続けていたとしても、もはや祈りではなくなってしまうのか、その境界について。
*[[/説教16|説教16]] 純粋な祈りについて
*[[/説教17|説教17]] 深い観想を求め、そこに没入しようとする魂のあり方について。また、事物の記憶から生じる肉的な思考から、いかにして離脱するかについて。
*[[/説教18|説教18]] 非物質的なものの本質についての考察――問答形式
*[[/説教19|説教19]] 主日および安息日に関する考察の一例――それらの寓意的な意義について
*[[/説教20|説教20]] 独房に住み、自分自身にのみ注意を払うことを決めた者にとって、最も必要で非常に有益なことを毎日思い出すこと。
*[[/説教21|説教21]] 様々な主題について――問答形式
*[[/説教22|説教22]] 誘惑を恐れる肉体は罪の友となる
*[[/説教23|説教23]] 沈黙を愛した兄弟に宛てた手紙
*[[/説教24|説教24]] ある霊的な兄弟への手紙。その兄弟は世に住みながらイサクに会いたいと願い、手紙でイサクのところに来ることを懇願した。
*[[/説教25|説教25]] 三つの認識方法、それらの実践と理解の違い、魂の信仰、そこに隠された神秘的な豊かさ、そしてこの世の知識が信仰の単純さとどのように異なるかについて。
*[[/説教26|説教26]] 知識の第一段階について
*[[/説教27|説教27]] 知識の第二段階について
*[[/説教28|説教28]] 知識の第三段階、すなわち完全性の段階について
*[[/説教29|説教29]] その他の実施方法とその相違点の提示について
*[[/説教30|説教30]] 祈りの形式や、絶え間ない記憶に不可欠であり、読者がこれを識別力をもって保持するならば多くの点で役立つその他の事柄について。
*[[/説教31|説教31]] 隠遁生活について、また、恐れおののいて来るべきではなく、神への希望をもって心を強くし、疑うことのない信仰をもって元気づけるべきであるという事実について。なぜなら、私たちには神が守護者であり、保護者としておられるからである。
*[[/説教32|説教32]] 魂の秘められた内なる冷静さがどのようにして保たれるのか、また、魂の聖なる熱意を消し、神への努力を殺し、魂から霊的なものや天上のものへの熱意を奪う、心の眠気や冷たさがどこから来るのか。
*[[/説教33|説教33]] 祈りによって心に生じる多くの変化と誘惑について
*[[/説教34|説教34]] 神に近づき、知識の生活を送る人々について。
*[[/説教35|説教35]] 世への執着について
*[[/説教36|説教36]] 必要もないのに、自分の手に明白なしるしを欲したり求めたりしてはならないという事実について。
*[[/説教37|説教37]] 神がご自身を愛する者たちに誘惑を許される理由について
*[[/説教38|説教38]] 人の内に生じる思考によって、その人がどのような霊的段階にあるかを見極める方法について
*[[/説教39|説教39]] 霊的な人々が、肉体の衰弱に比例して、他の霊的な知識を見抜く理由、心がどのようにそれを超越できるか、そこから解放されない理由は何か、祈りの時間に心が夢を見ずにいられるのはいつ、どの程度か。
*[[/説教40|説教40]] 礼拝およびその他の事柄について
*[[/説教41|説教41]] 沈黙について
*[[/説教42|説教42]] イサクの愛弟子の一人に宛てた書簡で、彼は以下のことを説いている。a) 沈黙の神秘についての教え、そして多くの人々がこれらの神秘を知らないためにこの素晴らしい仕事を怠り、大多数が修道士の間で伝わる伝統に従って独房に留まっていること、b) 沈黙の物語に関連する事柄の短いコレクション
*[[/説教43|説教43]] さまざまな前提と、それら各々の必要性について
*[[/説教44|説教44]] 賢明な人がどのように沈黙を守るべきかについて
*[[/説教45|説教45]] 微細な識別力の程度について
*[[/説教46|説教46]] 真の知識と誘惑について。また、以下のことを明確に理解する必要性について。すなわち、身分が低く、弱く、あるいは教えを受けていない者たちだけでなく、一時的にせよ情念から解放された状態を授かり、思考の面で完成の域に達し、(世に対して)「死んだ」状態に近い純粋さにまで近づいた者たちでさえ、この世に在る限りは、依然として闘争の只中にあるということである。彼らの命は情念に傾きやすい肉体と結びついているため、神の許しのもと、彼らはその肉体ゆえに、情念が引き起こす動揺に耐えなければならない。そして、彼らが慢心に陥ってしまったがゆえに、神の憐れみによって、このことが許されているのである。
*[[/説教47|説教47]] 本章の意義、および祈りについて
*[[/説教48|説教48]] 諸徳目の区別と、道全体における完成について
*[[/説教49|説教49]] 信仰と謙遜について
*[[/説教50|説教50]] 世間から逃避することの利点について
*[[/説教51|説教51]] 人が外的な生活様式を変えることによって、内なる思考に変化をもたらす方法について。
*[[/説教52|説教52]] 夜の祈りとその様々な方法について
*[[/説教53|説教53]] 謙遜がもたらす栄誉と、その度合いがどれほど高いかについて。
*[[/説教54|説教54]] さまざまな主題について――問答形式
*[[/説教55|説教55]] 奇跡を行う尊者シメオン神父への手紙
*[[/説教56|説教56]] 神への愛、世俗からの離脱、そして神への安息について
*[[/説教57|説教57]] 世俗から離れ、心を乱すものすべてから離れることについて
*[[/説教58|説教58]] 秘跡を受け、懸命な努力によって、そこから授かった恩寵を自らの内に保ち続けている人の状態について。
*[[/説教59|説教59]] 神が魂の益のために情欲に身を委ねることを許されたこと、そして禁欲的な行いについて
*[[/説教60|説教60]] 世よりも高い狭い道を歩む者たちに対して悪魔が仕掛ける様々な戦いの方法について
*[[/説教61|説教61]] 人が心を神に近づけるために有益なこととは何か、助けを密かに引き寄せる真の理由とは何か、そして再び人を謙遜に導く理由とは何か。
*[[/説教62|説教62]] 悔い改めを促す聖書の言葉について、また、それらの言葉が人間の弱さから語られたものであり、人々が生ける神から離れ去って滅びることがないように、そして罪を犯す言い訳にされないようにするためであったという事実について。
*[[/説教63|説教63]] 修道生活の善性がどのように守られるか、また神を賛美する秩序について
*[[/説教64|説教64]] 神によって定められた沈黙の道を歩む人々に起こる変化と浮き沈みについて
*[[/説教65|説教65]] 静寂の中に生きる人々について。彼らが、自らの歩みが自分たちをどれほど果てしない海――すなわち静寂の生活――へと連れ込んできたのかを悟り始め、また、自分たちの労苦が実を結び始めているのではないかと、ある程度まで期待を抱けるようになったときのこと。
*[[/説教66|説教66]] 神の僕(しもべ)が、世俗的な意味で無一物となり、神を求めて歩み出した場合、たとえ「真理の理解に達していないのではないか」という恐れを抱いたとしても、探求をやめたり、神への愛や神の神秘を探究しようとする熱意を冷めさせてはならないということ。また、情念に根ざした記憶によって、いかにして心が乱されるかについて。
*[[/説教67|説教67]] 神への希望の種類、誰が神に希望を持つか、誰が愚かで不合理な希望を持つかについて
*[[/説教68|説教68]] 世俗を捨てることと人との自由な交流を控えることについて
*[[/説教69|説教69]] 沈黙は心配事がないことに益があり、出入りは有害である。
*[[/説教70|説教70]] 神に近づく道について――すなわち、夜間の徹夜の祈りの実践において見出される甘美さを通じて、人に明らかにされる道について。また、こうした徹夜の祈りに励む者は、その生涯の全日を通じて、蜂蜜によって養われるということについて。
*[[/説教71|説教71]] 罪による損害の力と効果、それがどのように生み出され、どのように阻止されるかについて
*[[/説教72|説教72]] 心の守りと繊細な瞑想について
*[[/説教73|説教73]] 神への愛のしるしと行いについて
*[[/説教74|説教74]] 徳の種類について
*[[/説教75|説教75]] 絶え間ない断食、一箇所にとどまって心を落ち着かせること、その結果、そして彼が識別力によって、前述のことと同様のすべてのものの正しい使い方を学んだという事実について。
*[[/説教76|説教76]] 沈黙と静寂について
*[[/説教77|説教77]] 身体の動きについて
*[[/説教78|説教78]] さまざまな種類の誘惑について。真理のために生じる、あるいは耐え忍ばれる誘惑の中に見出される甘美さについて。そして、思慮深い人が(霊的な高みへと)登っていく段階について。
*[[/説教79|説教79]] 高慢について。神の敵、すなわち高慢な者たちの誘惑。
*[[/説教80|説教80]] 徳の種類の説明と、それぞれの徳の意味と利点について
*[[/説教81|説教81]] 体、魂、心の浄化について
*[[/説教82|説教82]] 有益な事柄を含み、霊的な知恵に満ちたもの
*[[/説教83|説教83]] 悔い改めについて
*[[/説教84|説教84]] 知識の尺度と信仰の尺度の偉大さについて
*[[/説教85|説教85]] 極めて有益な助言が含まれており、彼はそれらを、耳を傾ける人々に対して愛と謙遜をもって語った。
*[[/説教86|説教86]] 魂の霊的な前進のために、神の摂理によって私たちの内に引き起こされる、天使的な動きについて
*[[/説教87|説教87]] 人間の中にある第二の活動について
*[[/説教88|説教88]] 魂の中に折々生じる光と闇の交替、および魂が右あるいは左へと傾くことについて。
*[[/説教89|説教89]] 神の熱意を装う不合理な熱意の害悪について、ならびに、柔和さやその他の道徳的徳目から得られる助けについて
*[[/説教90|説教90]] 先行する思考に対する監視を怠ったために生じる、意図せぬ、狡猾な思考について
*[[/説教91|説教91]] 神への愛ゆえの忍耐について、また、忍耐を通じていかにして助けが得られるかについて
==関連項目==
*[[シリヤの聖イサアク全書]]
*[[ニネベのイサアク神秘論文集]]
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[[Category:1854年]]
[[Category:キリスト教]]
[[Category:キリスト教神学]]
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モスクワ神学アカデミー訳、Слова подвижнические (перевод 1854 г.) を翻訳。
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道路の区域決定及び供用開始 (平成18年仙台市公告第177号)
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仙地
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ページの作成:「{{header | title = 道路の区域決定及び供用開始 | year = 2006 | month = 5 | day = 9 | notes = '''道路の区域決定及び供用開始'''(どうろのくいきけっていおよびきょうようかいし) * 平成18年仙台市公告第177号 * 公告: 2006年(平成18年)5月9日 → [[#article|本文]] * 底本: [https://warp.ndl.go.jp/web/20071217000000/http://www.city.sendai.jp/soumu/bunsyo/kouhou/h180522/h180522.html 『仙台市公…」
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'''道路の区域決定及び供用開始'''(どうろのくいきけっていおよびきょうようかいし)
* 平成18年仙台市公告第177号
* 公告: 2006年(平成18年)5月9日 → [[#article|本文]]
* 底本: [https://warp.ndl.go.jp/web/20071217000000/http://www.city.sendai.jp/soumu/bunsyo/kouhou/h180522/h180522.html 『仙台市公報』第1943号(2007年12月17日時点のアーカイブ)]
| category = 平成18年の仙台市公告
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<section begin="number" />
<div>'''仙台市公告第177号'''</div>
<section end="number" /><section begin="article" />
<div id="article">
<div style="text-indent:1em;">[[道路法 (昭和27年法律第180号)#a18_1|道路法(昭和27年法律第180号)第18条第1項]]及び[[道路法 (昭和27年法律第180号)#a18_2|同条第2項]]の規定に基づき、道路の区域を変更し、供用を開始するため、[[#a_1|次]]のとおり公衆の縦覧に供します。</div>
<div style="margin-left:2em;">平成18年5月9日</div>
<div style="text-align:right;">仙台市長 [[w:梅原克彦|梅原 克彦]]</div>
<div id="a_1" style="margin:1em 0 8px;">
<div style="margin-left:1em; text-indent:-1em;">1 道路の種類、区域決定した区間等</div>
{| border="1" style="border-spacing:0; margin-left:1em;"
|- style="text-align:center;"
| style="padding:3px;" nowrap |道路<br />の<br />種類
| style="padding:3px;" |
{| border="0" style="width:100%; border-spacing:0;"
| style="padding:0;" nowrap |路線番号
|-
| style="padding:0;" align="center" |<hr width="90%">
|-
| style="padding:0;" |路線名
|}
| style="padding:3px;" nowrap |区域変更した区間
| style="padding:3px;" colspan="2" nowrap |敷地の幅員<br />(m)
| style="padding:3px;" nowrap |延長<br />(m)
|-
| style="padding:3px;" rowspan="2" |国道
| style="padding:3px;" rowspan="2" |
{| border="0" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0;" |286
|-
| style="padding:0;" align="center" |<hr width="90%">
|-
| style="padding:0;" |286号
|}
| style="padding:3px;" rowspan="2" |
{| border="0" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0; vertical-align:top;" nowrap |仙台市
| style="padding:0; vertical-align:top;" |太白区鈎取字谷地田
| style="padding:0; vertical-align:top;" |80番地先
|-
| style="padding:0; vertical-align:top;" |
| style="padding:0; vertical-align:top;" |同
| style="padding:0; vertical-align:top;" |87番地先
|}
| style="padding:3px;" |旧
| style="padding:3px;" |43.92~44.04
| style="padding:3px;" rowspan="2" |108.2
|-
| style="padding:3px;" |新
| style="padding:3px;" |45.42~45.54
|-
| style="padding:3px;" rowspan="2" |市道
| style="padding:3px;" rowspan="2" |
{| border="0" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0;" |太白702
|-
| style="padding:0;" align="center" |<hr width="90%">
|-
| style="padding:0;" |長町諏訪東浦2号線
|}
| style="padding:3px;" rowspan="2" |
{| border="0" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0; vertical-align:top;" nowrap |仙台市
| style="padding:0; vertical-align:top;" |太白区諏訪町
| style="padding:0; vertical-align:top;" |401番45地先
|-
| style="padding:0; vertical-align:top;" |
| style="padding:0; vertical-align:top;" |同
| style="padding:0; vertical-align:top;" |401番24地先
|}
| style="padding:3px;" |旧
| style="padding:3px;" |3.42~5.21
| style="padding:3px;" rowspan="2" |171.7
|-
| style="padding:3px;" |新
| style="padding:3px;" |4.97~6.66
|-
| style="padding:3px;" rowspan="2" |市道
| style="padding:3px;" rowspan="2" |
{| border="0" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0;" |太白1115
|-
| style="padding:0;" align="center" |<hr width="90%">
|-
| style="padding:0;" |海老沢1号線
|}
| style="padding:3px;" rowspan="2" |
{| border="0" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0; vertical-align:top;" nowrap |仙台市
| style="padding:0; vertical-align:top;" |太白区西多賀二丁目
| style="padding:0; vertical-align:top;" |313番16地先
|-
| style="padding:0; vertical-align:top;" |
| style="padding:0; vertical-align:top;" |同
| style="padding:0; vertical-align:top;" |401番24地先
|}
| style="padding:3px;" |旧
| style="padding:3px;" |4.78~5.09
| style="padding:3px;" rowspan="2" |50.7
|-
| style="padding:3px;" |新
| style="padding:3px;" |5.58~5.89
|-
| style="padding:3px;" rowspan="2" |市道
| style="padding:3px;" rowspan="2" |
{| border="0" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0;" |太白1116
|-
| style="padding:0;" align="center" |<hr width="90%">
|-
| style="padding:0;" |海老沢2号線
|}
| style="padding:3px;" rowspan="2" |
{| border="0" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0; vertical-align:top;" nowrap |仙台市
| style="padding:0; vertical-align:top;" |太白区西多賀五丁目
| style="padding:0; vertical-align:top;" |14番21地先
|-
| style="padding:0; vertical-align:top;" |
| style="padding:0; vertical-align:top;" |同
| style="padding:0; vertical-align:top;" |14番21地先
|}
| style="padding:3px;" |旧
| style="padding:3px;" |5.24~7.50
| style="padding:3px;" rowspan="2" |17.2
|-
| style="padding:3px;" |新
| style="padding:3px;" |5.87~8.13
|-
| style="padding:3px;" rowspan="2" |市道
| style="padding:3px;" rowspan="2" |
{| border="0" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0;" |太白1265
|-
| style="padding:0;" align="center" |<hr width="90%">
|-
| style="padding:0;" |二大工事線
|}
| style="padding:3px;" rowspan="2" |
{| border="0" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0; vertical-align:top;" nowrap |仙台市
| style="padding:0; vertical-align:top;" |太白区鈎取本町一丁目
| style="padding:0; vertical-align:top;" |43番2地先
|-
| style="padding:0; vertical-align:top;" |
| style="padding:0; vertical-align:top;" |同
| style="padding:0; vertical-align:top;" |24番3地先
|}
| style="padding:3px;" |旧
| style="padding:3px;" |5.52~10.84
| style="padding:3px;" rowspan="2" |114.3
|-
| style="padding:3px;" |新
| style="padding:3px;" |5.53~23.60
|-
| style="padding:3px;" rowspan="2" |市道
| style="padding:3px;" rowspan="2" |
{| border="0" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0;" |太白1395
|-
| style="padding:0;" align="center" |<hr width="90%">
|-
| style="padding:0;" |山田茂庭線
|}
| style="padding:3px;" rowspan="2" |
{| border="0" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0; vertical-align:top;" nowrap |仙台市
| style="padding:0; vertical-align:top;" |太白区山田字岩崎
| style="padding:0; vertical-align:top;" |45番1地先
|-
| style="padding:0; vertical-align:top;" |
| style="padding:0; vertical-align:top;" |同
| style="padding:0; vertical-align:top;" |1番2地先
|}
| style="padding:3px;" |旧
| style="padding:3px;" |26.28~33.65
| style="padding:3px;" rowspan="2" |181.6
|-
| style="padding:3px;" |新
| style="padding:3px;" |26.52~33.65
|-
| style="padding:3px;" rowspan="2" |市道
| style="padding:3px;" rowspan="2" |
{| border="0" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0;" |太白1422
|-
| style="padding:0;" align="center" |<hr width="90%">
|-
| style="padding:0;" |山田羽黒台8号線
|}
| style="padding:3px;" rowspan="2" |
{| border="0" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0; vertical-align:top;" nowrap |仙台市
| style="padding:0; vertical-align:top;" |太白区山田北前町
| style="padding:0; vertical-align:top;" |704番35地先
|-
| style="padding:0; vertical-align:top;" |
| style="padding:0; vertical-align:top;" |同
| style="padding:0; vertical-align:top;" |704番35地先
|}
| style="padding:3px;" |旧
| style="padding:3px;" |4.64~4.79
| style="padding:3px;" rowspan="2" |11.3
|-
| style="padding:3px;" |新
| style="padding:3px;" |7.17~7.99
|-
| style="padding:3px;" rowspan="2" |市道
| style="padding:3px;" rowspan="2" |
{| border="0" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0;" |太白2080
|-
| style="padding:0;" align="center" |<hr width="90%">
|-
| style="padding:0;" |山田北前町4号線
|}
| style="padding:3px;" rowspan="2" |
{| border="0" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0; vertical-align:top;" nowrap |仙台市
| style="padding:0; vertical-align:top;" |太白区山田北前町
| style="padding:0; vertical-align:top;" |3番101地先
|-
| style="padding:0; vertical-align:top;" |
| style="padding:0; vertical-align:top;" |同
| style="padding:0; vertical-align:top;" |3番101地先
|}
| style="padding:3px;" |旧
| style="padding:3px;" |6.00~8.60
| style="padding:3px;" rowspan="2" |18.2
|-
| style="padding:3px;" |新
| style="padding:3px;" |6.40~9.00
|}
</div>
{| id="a_2" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0; vertical-align:top;" |2
| style="padding:0; vertical-align:top;" nowrap | 供用開始年月日
| style="padding:0;" | 平成18年5月9日
|}
{| id="a_3" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0; vertical-align:top;" rowspan="2" |3
| style="padding:0; vertical-align:top;" rowspan="2" nowrap | 縦覧場所
| style="padding:0;" | 仙台市青葉区国分町三丁目7番1号
|-
| style="padding:0; text-indent:1em;" |<div style="margin-left:1em;">仙台市建設局道路部道路管理課</div>
|}
{| id="a_4" style="border-spacing:0;"
| style="padding:0; vertical-align:top;" rowspan="2" |4
| style="padding:0; vertical-align:top;" rowspan="2" nowrap | 縦覧期間
| style="padding:0;" | 平成18年5月9日から平成18年5月26日まで
|-
| style="padding:0; text-indent:1em;" |(ただし、休日及び土曜日、日曜日を除く。)
|}
<div style="text-align:right; margin-top:1em;">(建設局道路部道路管理課)</div>
</div>
<section end="article" />
{{PD-JapanGov}}
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町の区域をあらたに画することについての告示 (平成16年仙台市告示第592号)
0
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2026-10-21T06:09:27Z
仙地
43004
ページの作成:「{{header | title = 住居表示の実施についての告示 | year = 2004 | month = 5 | day = 10 | notes = '''町の区域をあらたに画することについての告示'''(まちのくいきをあらたにかくすることについてのこくじ) * 平成16年仙台市告示第592号 * 告示: 2004年(平成16年)5月11日 → [[#article|本文]] * 効力発生: 2004年(平成16年)7月20日 → [[#article|本文]] * 底本: [https://web.ar…」
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wikitext
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| title = 住居表示の実施についての告示
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'''町の区域をあらたに画することについての告示'''(まちのくいきをあらたにかくすることについてのこくじ)
* 平成16年仙台市告示第592号
* 告示: 2004年(平成16年)5月11日 → [[#article|本文]]
* 効力発生: 2004年(平成16年)7月20日 → [[#article|本文]]
* 底本: [https://web.archive.org/web/20060522013617/http://www.city.sendai.jp/soumu/bunsyo/kouhou/h160601/h160601.html 『仙台市公報』第1872号(2006年5月22日時点のアーカイブ)]
* 関連告示: [[住居表示の実施についての告示 (平成16年仙台市告示第577号)|住居表示の実施についての告示]]
| category = 平成16年の仙台市告示
| category2 = 仙台市の町・字
| defaultsort = まちのくいきをあらたにかくすることについてのこくし
}}
<section begin="number" />
<div>仙台市告示第592号</div>
<section end="number" /><section begin="article" />
<div id="article">
<div style="text-indent:1em;">[[地方自治法 第二編 普通地方公共団体 第十四章 補則#a260_1|地方自治法(昭和22年法律第67号)第260条第1項]]の規定により,[[w:仙台市|仙台市]]の区域内の町の区域を次のとおり,あらたに画する旨,仙台市長から届出がありましたので,[[地方自治法 第二編 普通地方公共団体 第十四章 補則#a260_1|同条第2項]]及び[[事務処理の特例に関する条例 (平成11年宮城県条例第54号)#a2|事務処理の特例に関する条例(平成11年宮城県条例第54号)第2条]]の規定により告示します。</div>
<div style="margin-left:2em;">平成16年5月11日</div>
<div style="text-align:right; margin-right:42px;">仙台市長 [[w:藤井黎|藤井 黎]]</div>
{| style="border-spacing:0em; margin-top:1em;"
| style="padding:0;" colspan="2" |あらたに画する町名
| style="padding:0; width:1.5em;" rowspan="9" |
| style="padding:0;" colspan="2" |左の区域に包含される区域
|-
| style="padding:0; width:1em;" rowspan="8" |
| style="padding:0; vertical-align:top;" rowspan="8" |八乙女中央五丁目
| style="padding:0; width:1em;" rowspan="8" |
| style="padding:0;" |愛隣町の全部
|-
| style="padding:0;" |黒松二丁目の一部
|-
| style="padding:0;" |黒松三丁目の一部
|-
| style="padding:0;" |七北田字原の全部
|-
| style="padding:0;" |七北田字杉ノ田の一部
|-
| style="padding:0;" |七北田字真美沢の一部
|-
| style="padding:0;" |真美沢の全部
|-
| style="padding:0;" |八乙女二丁目の一部
|}
<div style="text-align:center;">
<div style="margin-top:1em;">{[[住居表示に関する法律|住居表示に関する法律(昭和37年法律第119号)]]による住居表示の実施区域}</div>
<div>なお,地番等は省略し,関係書類は仙台市市民局市民部区政課に備えおきます。</div>
<div style="text-align:right; margin-top:1em;">(市民局市民部区政課)</div>
</div>
<section end="article" />
{{PD-JapanGov}}
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